松喰い虫
小人の家になってしまった男の物語
「松喰い虫」
松平山キャンプ場は赤松林の真ん中にある。
昼時の今は正に、バーベキューのハイライト。炭を燃やす煙と肉の焦げた臭いが、森閑とした林の中に、雲のように充満している。
「パパ―お肉ふうふう」
そっちこっちで子供たちが歓声を上げる。盗み見れば諒太と同年代の父親が目立つ。肉を口まで運んだり、その口を拭いてやったり。
「ねえ諒ちゃん、子連れでキャンプっていうのも楽しそうだよね」
香菜の無理に明るく作った声を聞くと、美味いと思っていたビールが不味くなった。
「子供ならいらないからな」
アルコールで潤んだ目をしかめ、諒太は吐き捨てた。
諒太は子育てを嫌っていた。自分が自分だけのものでないことに、違和感を覚えるのだ。
「子供を抱えた父親なんて、システム、いわば、『家』に過ぎない」
それが諒太の持論だった。
「俺は『家』なんかになるもんか」
午後になり、ギラギラだった陽がいい塩梅に熱を鎮める。山から爽やかな風が降りてきた。
折り畳み椅子に沈み込んで、諒太は鼾をかいた。
*******************
ひょこり、目の前の赤松の小さな穴から、諒太の拳ほどの大きさの小人が現れた。
お揃いの緑の洋服に、胸の前に付いた茶色のボタン。
お父さん、お母さん、幼い姉弟の、どうやら四人家族のようだ。
一家は松ぼっくりを割り、中の種を炊いて食事の支度を始めた。下の男の子がしゃがみこんで、それをじいっと眺めていた。
トコトコトコトコ、退屈した男の子が諒太のサンダルに近寄って来た。すると、
ポコリ。
落ちていた松の種を、ラグビーボールのように蹴り上げた。
それはきれいな放物線を描いて、諒太の鼻に吸いこまれた。
*******************
「諒ちゃん、帰るよ」
香菜が揺り起こした。
「変な夢を見た…」
諒太は頭を振って立ち上がった。
一か月後。
「ねえ、諒ちゃん、髪染めた?」
黒かった髪が黒緑色に染まり始めた。
更にひと月もすると、皮膚が赤茶に変色し、がさがさにひび割れだした。
「ああ喉が渇いた」
そう言いながら帰宅して、向かったのは風呂場だ。靴下を脱いで、足を桶に浸した。
「諒ちゃん!」
香菜が悲鳴を上げた。
足指から細い根が生えて、風呂の湯を吸い上げていた。
諒太はそのままふらふらと家を出た。仲間を求めるように、街外れの赤松林に根を下ろした。ひと月もすれば、もう他の木と見分けがつかない。自分の名前も忘れ果てた。
すぐに小人の一家が居を構えた。お父さん、お母さん、三人の娘たち。
お父さんは玩具のような釣り竿でヌマエビを漁りに行く。お転婆の末の娘がそれにくっついて、諒太の鼻の孔からのぞいているお母さんに手を振るのだ。
お母さんは洗濯物を干し始める。諒太の小枝にぴんと張ったテグスの糸に、お揃いの緑の洋服が並んで揺れる。しっかり者のお姉さんが、何度も下から洗った衣服を運んでくる。
その間、真ん中の子が諒太の根の股に座り、夢見る瞳で歌をうたうのだった。
諒太はことさらこの娘を愛した。丸い顎と鼻は、人間だった頃の諒太に似ていた。そして、夢想をたたえた杏型の目は、香菜によく似ていた。
雨が降れば、木の根方で雫の歌をうたうこの娘のために、松葉を寄り集めて濡れないようにしてあげた。
大風が吹く晩には、この娘の部屋の周りの樹肉に、ことさら硬く力を込めた。
小人の一家の生活は平穏に過ぎていった。春夏秋冬、永遠に続くかのような営み。
だがそれも緩やかに変化してゆく。
三人の娘たちはそれぞれ、小人の青年の許へ嫁いでいった。
諒太は目の孔から沢山松ヤニを流して見送った。
残された夫婦に待っていたのは、晩秋の良く晴れた日々のような暮らしだった。
新婚以来の二人きりの生活。互いの物忘れにケチつけ、老眼を笑い合う。
二人してキッチンに並び、趣味の料理の研究に余念がない。そうしてこしらえたキノコ料理に、サルナシのお酒で乾杯するのだ。歳月を経てそっくりになったその笑顔。
諒太と香菜も、週末になると二人で餃子を包んだものだった。焼きあがった大量の餃子を前に、ビールで乾杯するのが常だった。
諒太の感情は、地下を流れる川のようなものだ。樹皮の下の喜びや悲しみは、決して声にも言葉にもならない。
だがそれは音も無く、脈々と流れ続けていたのだ…。
*******************
四十年後、諒太は裸の七十男となった己を発見した。
周囲の赤松は皆立ち枯れていた。
全国的に被害をもたらしている松喰い虫が、この地でも猛威を振るったのだ。
がさがさに硬くなった足の裏に、降り積もった松葉が突き刺すように触れた。諒太は身震いした。すでに秋が深まっていた。
枯れた松の丘からは、すっかり見知らぬ街に変貌した故郷が、燃える夕陽に照らされて、闇に沈もうとしていた。
(了)
松喰い虫