桜が池
「私」が観察する叶わなかった恋の行方。
「桜が池」
初子さんに出会ったのは一年前、「ハートピア桜が池」の窓から、薄紅色の花がふんわり咲き揃うのが見える頃だった。
初子さんは八十歳、二十人いる利用者の中で最高齢だ。言動におかしなところはなく、身の周りのことも自分で出来た。昔はこういった患者さんも病院に閉じ込めていたらしい。
彼女の指定席は桜が池を望む二階の大きなテラスの上だった。施設にいる昼の時間のほぼ全てを編み物に費やす彼女は、怖しく手が器用だった。最初の日から、私は彼女に棒針編みを教えてもらった。
「学校で意地悪されたんだって?」
私は答えなかった。初子さんは青いビーズ飾りのついた眼鏡をついと直した。真っ白い髪が桜の花房のように陽に明るく輝いていた。
「きっとあなたに必要なのは恋だと思うわ。あたしもあなたぐらいのときにはボーイフレンドがいたものよ。あたしが編んだ青いハンチングを被って、銀の自転車で待ち合わせ場所に駆けて来てくれたわ。この桜が池の畔の、ちょうど下のバス停の辺りでお花見デートしたの。いい思い出は人生の燃料、辛いことがあっても挫けないでいられるようになる」
「どうして結婚しなかったんですか」
私は棘のある言葉を発した。初子さんは窓の外、桜が儚い宴に舞う遠い一点を見つめた。
「あの日もここで逢うはずだった。ちょうど花が綺麗な頃でねえ。でも声が聞こえたの。その声は私に手首を切るように命じたの。正気に戻るまで十年もかかっちゃった」
初子さんは舌を出した。
それから一年間、私は初子さんから編み物を教わった。彼女は指を動かしながらそれをずっと待ち望んでいた。窓の外に映る春夏秋冬の桜。時を糧にゆっくりと膨らみゆく花催い。教わって指を動かしながら、私はじっと観察していた。
四月の霞立つ青空の下、今年も桜がわっと咲く。光より鈍く水より温もりある花は、まるで女の肌のようだ。ぽうっと紅潮した花びらは決して報われない何かに焦がれるのか。
その日バスを降りて施設に向かうとき、桜並木の下で、手編みの青い帽子の青年が戸惑って見回しているのを見かけた。銀の自転車を押し、折り目正しい古臭いスラックスを履いている。糊の利いた白シャツの肩に一片の花びら。何故私がその言葉を発したのか今でも分からない。
「小山内初子さんをお探しですか?」
彼は振り向いて爽やかに笑った。
「はい」
「そっちです。その坂を上った大きな緑の屋根の家の二階のテラスにいます」
「ありがとうございます」
彼は帽子をとって会釈した。私は彼を見送って、その日は施設には行かずに池の畔のベンチにいた。霞む陽に照らし出される花の宴を見ていた。
次の日、祖父の葬式以来の制服を着て、私は火葬場にいた。白い煙は青い空に淡くたなびき、初子さんの髪のように白い花びらがひとひらふたひら、ふうわりふわりと舞っていた。
桜の恋は通じたのである。
了
桜が池