火曜日のお豆腐屋さん
ぼけてしまったひいおばあさんと、女の子の物語。掌編小説です。
「火曜日のお豆腐屋さん」
「すっかり遅くなっちゃったな。」
悠菜は足をすたすたと速める。もうかすんだお月さんは中空に昇っている。
いつも家にいるはずの火曜日。今日は塾の試験があった。息切らし、桜の花房の下を帰り着くと、玄関で「ミッちゃん」が頬杖をついて待ち構えていた。
「けえって来たのが―、(お帰りなさい)アネエ。(お姉ちゃん)」
ミッちゃんは本当はひいお祖母ちゃんだ。だが、ぼんやりし始めて十年、今や五歳の女の子、「ミッちゃん」である。
「アネエ、豆腐屋来たったよ。」
ミッちゃんは本当に小さかったころ、アネエと行くお豆腐屋さんの屋台を、とりわけ楽しみにしていたという。喘息持ちだったミッっちゃんが外出許されたのはその時だけだった。ミッちゃんと豆腐の縁は続く。結核になったアネエに精を付けさせようと、毎日お豆腐を買い、連正寺の豆腐買地蔵さんにお参りをした。またアネエとお豆腐を買いに行ける日を願った。
「また買いさ連れてってけろなー。」
悠菜は十九歳で亡くなったアネエとそっくりの太い眉を寄せた。今どきお豆腐屋さんの屋台なんて見たことないぞう。ミッちゃんますますおかしくなっちゃったのかしら?
次の火曜日。春の重たい雲がぼつぼつと空からぶら下がっている。悠菜は中学受験の事でお母さんと喧嘩した。試験結果も思わしくなかった。ミッちゃんがデイケアから帰ってくる。
「アネエ、お豆腐屋、来るべか。」
帰るなりミッちゃんはまとわりついて来る。悠菜には急に、それが重たく、うとましく感じられた。
「そんなの来るはずないもん!」
言ってしまってから悠菜の唇は震えた。ミッちゃんの目は捨てられた犬みたい。花散らしの冷たい風が、ミシリ窓を揺らして吹いた。
と、ぱーふー、聞きなれない音。悠菜は目をぱちぱちさせた。ぱーふー、夢かうつつか確かに近づいて来る。とーふー。その掛け声にミッちゃんは叫んだ。
「お豆腐屋、来たよ、買いさ行ごう。」
ミッちゃんの熱に押され、悠菜はお財布を取ってまっしぐらに飛び出した。
「申っすー!待ってけろー!」
白いワゴン車がすっと止まった。勢いよく空いたドアから出てきたのは青いツナギを着たお兄さんだった。
「豆腐一丁けでけろや!(下さいな)」
お金を払う間、ミッちゃんは座り込んで歌っていた。濁った眼は春の低い雲を映して、輝いて見えた。
「あのう……、何時も来てましたか?」
百円玉を探りながら悠菜は目をまん丸くしてお兄さんを見た。
「先週から親方が火曜日にここの地区もまわれって。何でも、豆腐買地蔵さんのお告げだそうで。またどうぞ、ごひいきに!」
再び走り出した車を見送って、悠菜もミッちゃんと一緒に「夕焼け小焼け」を歌った。空は西端から、ほんのり薔薇色に染まってゆくのだった。
(了)
火曜日のお豆腐屋さん