『見るまえに跳べ』展
一
20世紀最大の詩人と評されるW.H.オーデンの詩である『見る前に跳べ』は「だが、跳ばねばならない」というワンフレーズが読み手の背中を押すまでに積み重ねる言葉に込められた注意と意識の力強さに惹かれる。危機感に基づく観察が慎重の度合いを超えて臆病にならない様に、あるいは世間の評価に慣れ親しんだ見栄が疎かにする行為の価値に誰よりも「あなた」が気付ける様に、詩人は手塩にかけたリズムと表現をもって肯定と否定の狭間にある弦を引く。キリキリと鳴るその時の音が高める緊張感の分だけ「あなた」はずっと高く、遠くまで跳べると詩人が信じている。その信頼度は「あなた」が想像するよりも遥かに大きい。その最後には圧死してしまうぐらいの深い孤独と愛をたっぷりと歌い、どうなるかも分からない不安を「あなた」にしっかりと抱き抱えさせる程だ。詩人はそうして読み手を喧騒に塗れた地上の地獄に舞い戻らせる。
けれど逃げ出す前と何も変わらない地獄の現実を根本から塗り替えるイメージが生まれるなら、頭が真っ白になるその時を置いて他にない。あとはそこで見えるものをどう表現するか、落下中において行使できるその自由のあり方に貪欲な神さまの関心は寄せられる。
同じ詩人ならきっと言葉をもってそれをするだろう。では、カメラを手にする写真家は?記録行為を生業とする彼や彼女ならその地獄をどう形にするのだろう。
東京都写真美術館で開催中の『見るまえに跳べ』展の見所を筆者はこの点に見出す。
二
「美しくもあり、また醜くもある人間にしか僕は興味がないから。」
この言葉は、写真家である淵上裕太さんがプロになった後も行なっているポートレート撮影の現場として足繁く通っている上野公園で出会った画家のものである。
自画像を描くその画家は顔が判別できないぐらいに幾重にも絵具を塗り固めていたらしく、醜悪な表現となっていたその一枚に淵上さんは釘付けになった。
なぜそんな描き方を、しかもこんなに色んな人が行き交う上野公園内で行うのか。誰もが抱くであろうその疑問に対する画家の答えが冒頭の要約には込められている。それがそのまま淵上さんの写真表現に通じていたのだから、画家の絵に惹かれたのも当然だった。
淵上さんのポートレートは癖のある印象を見る側に与える人がとにかく多い。見た目や服装、身に纏う雰囲気、直ちに読み解けない関係性といった情報群が季節の変化に正しく従う上野公園内の自然の様子と相まって形容し難い異和を生み出す。それらの作品表現をひと目見て覚えてしまう抵抗感を、だから筆者は否定しない。と同時に、結局は変わり種を狙った安易な写真表現でないかという結論にはしっかりと意を唱える。展示会場を訪ればよく分かることだが、淵上さんの表現の狙いは展示する写真そのものというより、写真を撮り続けることを可能にした出会いと別れそのものにあると確信するからだ。
幼少期に人とのコミュニケーションに悩んだ淵上さんは、将来を共にしたいと願った最愛の女性が理由も告げずに去っていった事で再び訪れた孤独と向き合い、湧き上がってくる疑問に突き動かされて勤めていた会社を辞め、写真の専門学校に入学する。その在学中に初めての被写体としてホームレスを撮った写真は撮影中のやり取りを含めて写真家に普通とは違う感覚を覚えさせただけでなく、現像した一枚の写真として宿す美しさをもって誰かと繋がる意味を体感させるものとなった。
それが大きな理由となって淵上さんはプロになった後も忙しい日々の合間を縫ってポートレート撮影を行い続け、前述した画家との出会いを果たす事になったのだが、二人が共に抱き続けた関心は人間という存在に特化したものであり、また自分自身の内面的葛藤を投影できる矛盾ないし混沌に近しいものであったのは確かだろう。その証拠に、淵上さんの展示コーナーで目に付くのは個々の作品以上の点数とサイズで壁面を埋め尽くす記録の断片であり、その量を背景にして鑑賞するべき個々の作品表現であった。そのお陰でどの作品から見始めても必ず辿り着く愛を覚えられる寂しさ、それが空間全体において表現される。淵上さんの写真を前にすれば常時、その何とも言えない温度に触れる事になるのだから、忘れられない鑑賞体験になって当然だ。
行き交う人への関心という点では、同じく『見るまえに跳べ』展で鑑賞できる星玄人さんの作品表現も淵上さんのそれと並べて鑑賞できる。しかしながら星さんの写真表現には時代を含めた記録行為という狙いがあり、そんな星さんの写真表現と比べれば淵上さんの写真には撮影者が被写体に投げかける淡い距離感がしっかりと残っていて、瞬間美に対する判断としてはロマンチックにも思えた。
そういう意味で二人の作品表現が最も近付くのは、お母さんが経営する喫茶店に立ち退きの話が出た時に来店者を撮ろうと星さんがシャッターを切った写真たちと見比べた時かもしれない。
立ち退きの話が出たのは星さんのお母さんの病気が発覚した時期でもあった。お母さんの負担軽減のために星さんは喫茶店の手伝いを始めていて、母の命と喫茶店の喪失、そのどちらに対しても実感を抱けずにいた。そんな状態の星さんが撮り続けた記録が上記した来店者の写真だった。
他人にとってはどうでもいい主観的な動機で撮ったと星さんが評される写真は、けれど被写体にしたいお客様と撮影に同意してくれる幸運に恵まれたものとして不思議な優しさに包まれて見えた。固定された場所に流れるものを真摯に掬い取るとする意識がすべての写真に貫かれていて、心の襞をくすぐるに値するものとなっていた。歌舞伎町などを訪れて撮っていたスナップ写真も良かったけれど、ポートレートに近しくなった写真表現の方に筆者は感銘を受けた。
客観性なんていうものは写真撮影を可能とするカメラの機構が必ず成立させる。誰が撮っても上手い写真になるよう、その性能が規格化されているのはその証左だ。にも関わらず作品表現として行う写真に生まれる差異があるのは、そのカメラを手にする人間の主観的な違いにきっと由来する。誰がどう思うかは関係ない。先ずは私が思うままにやってしまおうと遠ざける客観性との距離の分だけ作品の凄みは増すのでないか。表面に満ちるロマンの程度に差はあっても、淵上さんが上野公園で行う撮影にも通底すると思えて止まないこのポイントが作品表現に与える決定的な要因としてこの目に写って仕方なかった。
三
作品の凄みという判断でいえば、本展に展示されているものの中でもうつゆみこさんと山上新平さんの作品表現が群を抜く。
視覚的快楽というフィルターを通して幼少期を振り返るうつゆみこさんは祖父から譲り受けたカメラのレンズに向こう側に一気に魅入られてしまい、その快感を再び覚えようと写真の世界にその身を投じていく事になった。
その作品表現の特徴を端的に述べるなら、奇想という言葉以上に相応しいものはない。被写体に選ばれるものの機能性は完全に無視され、物理的に成り立っている色や形、あるいは質感といった一般的なものにまで純化される。うつゆみこ的な世界の再構築はそこから始まるのだが、その内実を正直に述べればかなりグロテスクであり、けれど色彩的には極めて豊かで、またとんでもないユーモアに満ちているから抱く気持ちと用いる言葉にとても困る羽目に陥る。なんいうか、それこそ理屈にならない面白さとして目で見て楽しみ、総毛立つぐらいにその場で感じる他ない。自分の思い描くものにどこまで正直になれるかという点でうつゆみこさんは誰よりも勝負しており、その汗のかき方に心底羨ましくなった。必見に値する写真家の一人だと筆者はここに明記する。
他方で情報システムとしての人間の限界に挑戦し、作品の向こう側に幽玄なイメージを写し取ることに成功していると思ったのが山上新平さんの写真表現である。
被写体のあり様をじっと見つめ、可能な限り慎重にフォーカスしてその詳細を余す所なく写し取ろうとする集中力の塊みたいな作品群は「何を撮ったか」ではなく「そこに何があるか」というテーマを鑑賞者に突きつけてくる。しかしながら圧倒的に明度が足りない空間で伝播する緊張感にも助けられて困難に思えるその課題に挑んだが最後、その面白さに病みつきになって離れられなくなるのは必至だ。なんせ、そこには実在のあり方がしっかりと残っている。意味認識の網の目を掻い潜った密度の高い情報が視神経に触れる度に覚える快感に満ちている。筆者が趣味で書いたりする詩作品で実現したい事の一端が形になり、この現実に表れていた。それが最高に嬉しく、堪らなくなってずっと在室したくなるぐらいに感情は高まった。写真ってここまでできるのか!と驚嘆し、改めて写真表現が好きになった。
本展のベストを挙げるなら筆者は迷う事なく山上さんの写真作品を選ぶ。その飛躍の仕方は他の追随を許さない、そう確信するからだ。
四
展示構成の順番は前後してしまうが、うつゆみこさんや山上新平さんが追求する作品表現の凄みを考慮して振り返ると夢無子の映像作品、「戦争だから、結婚しよう!」は政治と表現の難しい関係性の中で行えるものの可能性を示唆するものとして言及すべき作品である。
本作品はロシアによるウクライナ侵攻を受けて入国するまでの過程と入国後の暮らし、心身ともに疲弊して一度は出国したにも関わらず再びその地に入国するまでの日々を文字と映像で綴りつつ、記録した写真を合間に挟さむ内容の二部構成となっており、ヘッドフォンを着用して鑑賞するものであったがナイーブに表現される言葉とは裏腹に悪化していく戦況に対して覚える無力感はルポルタージュとしてとても正直で、自分の愚かさにも焦点を当てる誠実な態度がかなり好印象だった。
じゃあ、何でそんな事したんだよと意地悪く突っ込む理性的な判断が鑑賞していて全く思い浮かばなかったとは言わない。けれど、そんな頭でっかちな態度をどうしても改められる機会として夢無子さんがシャッターを切り続けた写真表現の素晴らしさがあった。それらはみな不謹慎とも思えるぐらいに美しく、画角に収まる人たちが強く脈打つものを表す姿が見る者の心を打っては戦争の傷跡に痛みを覚えて思うように開かない口に、ぐるぐると胸の内に渦巻く感情たちを持て余す。何かを成し遂げた報告では決してない、寧ろ失敗の限りを尽くしたといえるその内容にこそ無類の価値はあった。そんな危うい作品バランスを表現の水準の高さが支えていたと筆者は考える。思想的に優れている訳でもない。政治的に意味があった訳でも勿論ない。「それでも、」と打てるこの読点に込められる力を夢無子さんは一人の写真家として成し遂げた。こう評価する筆者は、だからかかる写真家の活動を今後も追っていきたいと素直に思えた。この見えない繋がりも、余所者としてそこに飛び込む無謀を犯さなければ生まれはしなかったのだ。
文字通りの体現。詩人の笑みが浮かんで見えたのも気のせいではない。
五
こうして記しても本当に得るものが多かったなぁと実感する『見るまえに跳べ』展は年明けの1月21日まで開催中である。お勧めの展示なので興味がある方は是非、会場に足を運んで欲しい。
『見るまえに跳べ』展