○【TL】花狩り移紅し

パラレル/オムニバス/毎話視点主別/一人称視点/死亡END/自害END/妊娠END/近親相姦/年下女性優位/年上男性受け

桜霞


 人里離れたところに、春には見事な花をつける桜並木の土手があります。それはそれは、立派な桜で、わたしが初めてそれを見たとき、感動に打ち震えたのを覚えています。


 わたしはお遣いを頼まれて、この土手を通らなければなりませんでした。すでに桜はぽつぽつと蕾をつけ、早いものでは花が開いていました。見頃まではもうすぐといったところでした。
 すぐ傍を流れる川の|(せせらぎ)や小鳥たちの声を聞き、テントウムシが可愛らしく緑の中を散歩しているのを眺め、黄色に輝くたんぽぽとすれ違いながら、わたしは土手を進んでいきます。
 |長閑(のどか)な|日和(ひより)でございました。

 
 土手を半ばほど進んでいくと、中でも特に花を開かせた桜の木の下で、凭れるように人が倒れていました。たいそう立派な|身形(みなり)の若い殿方で、白い|(おもて)に、それそこ桜の色を帯びた白髪は|人非人(にんぴにん)のようでありました。小さな頃、ばあやから聞いた鬼……いいえ、白天狗……
 わたしは恐怖しました。しかし人のようであります。ですが関わってはならない人……|()ノ者であったとき、わたしは家族に|(わざわい)が降り掛かることを恐れました。
 だのにわたしは、すぐにそこを立ち去ることができなかったのです。
 わたしはこの珍奇な殿方から目が離せませんでした。みるみるうちにこの方を覆うようにあった桜は蕾をつけ、あるいは花を開き、色付きはじめます。そのおかしな光景はまるで視界が霞むようでありました。桜色が溢れかえり、わたしは怖くなりました。けれども我に帰ると、わたしの行く手は伸びた桜の枝に塞がれていたのです。桜を無下に扱ってはならないと、わたしは昔から教わっていました。わたしはまた少し、怖くなってしまいました。先程までは|(まばら)だった桜の花が、土手の向こうまで満開に咲き誇っているのが見えてしまったのです。
「娘」
 わたしはあまりの驚きに声も出ませんでした。首が引き攣るように、あの珍奇な殿方のほうを向くのがやっとでございました。
 その人は、殿方でありはすれども、話に聞く雪女のようにどこも白い御仁でありました。長い髪はやはり周りの桜の色を被っているのか淡い赤みを帯びて、目はネコや月のような銀色ともいえない色をしていました。わたしはこの方を鬼のように思いました。村の|春若(はるわか)より……いいえ、|白梅千花(しろうめちか)お兄様と同じくらい背丈があって、美しいのです。わたしははしたなく見惚れてしまいました。けれども家族を禍に巻き込むことはできません。この方の素性が分からぬかぎり、わたしから話しかけることなど赦されないのです。
「娘。|我主(わぬし)が今年の|桜供物(さくもつ)かい」
 その声は咲いたばかりの花に触れたような、しっとりとしたものでありました。わたしはまたもやはしたなく、聞き惚れていたのです。
 殿方は立派な着物に身を包んだ腕を伸ばし、わたしを抱き寄せました。頭でははしたなく思っていましたが、抗いきることができませんでした。その方の|(かいな)の中は、冬から春にかけての布団のようでありました。
「|()い娘だ」
 わたしはその小春日和のような殿方の掌に頬を包まれて、これ以上ない幸せを感じました。この者が|()の者であったら、わたしは、わたしの家族は……けれどこの御方が|()の者であるはずはないのです。まず着る物が違います。それから手が違います。皮剥包丁を持つ手でも、鋤鍬を持つ手でもありませんでした。
「私と契らぬか」
 殿方の温かな手が頬の後は髪に触れました。わたしはこのまま、「はい」と答えてしまいそうになりました。
「想い人がいるな」
 わたしはぎくりとしました。わたしには許されぬ恋の相手がいます。けれど結ばれることはないのです。この気持ちには蓋をしておけばいいのです。やがて腐るでしょう。そしてわたしと共に土に還るでしょう。
「構いません」
 わたしは風病を患ったみたいに足の裏が地面に着いていないような心地がしました。
「いいのか、娘。|我主(わぬし)を食ってしまうぞ」
 この人は今日初めて会った人です。わたしはいずれ、機が来れば|櫻雲(よううん)という歳の離れた男の元へ嫁がされる身であります。顔も知らず、悪い噂の耐えない御方です。わたしは毎日、|日毎(ひごと)、怯えていたのであります。
 わたしはこの珍奇な殿方の|(かいな)におさまった途端、何も怖くなくなってしまったのです。
「はい。わたしを……」
「私は|桜霞(おうか)。我主の名は?」
 ここで名を名乗れば、わたしとこの殿方は他人でなくなる。そうなればわたしはもう引き返せなくなると思いました。けれど……
「八重と申します」
「|()い名だ、八重。私の名を呼べ」
「桜霞さま……」
 名を口にするだけで、わたしは寒い日にひとり、春の木漏れ日を浴びるような贅沢な気分になりました。
「愛い娘だ」
 桜霞さまはわたしの両の頬に接吻をくださいました。唇に何度も触れ、|(やが)て舌がわたしの口腔に入り込みます。甘く、身体が溶けてしまうような心地がします。
「は………っん」
 わたしは前か後ろかへ倒れてしまいそうですございました。どこを掴んでいいのか分からず、指を閉じたり開いたりしていました。
「私に縋りなさい」
 一瞬だけ桜霞さまは唇を離してくださいました。昔少しだけ舐めたことのある水飴のような糸が、桜霞さまとわたしの間に紡がれ、|(たわ)んで消えていきました。はしたなく思い、同時にこのはしたなさにわたしは自ら飛び込んでいきたくなっておりました。
 わたしの長年の恋心はもう叶うことはないのです。わたしももう叶えるつもりがないのです。叶えたいとも思わなくなりました。戸惑いがないことはないのです。そこに強い躊躇いのない、あまりの呆気なさに驚き、それでも甘美な思い出が甦ると、自分でもどうしたいのかすら分からなくなりました。ただその訳の分からなさにわたしは涙を溢しました。
「良からぬことを考えるな、八重。私に身を任せろ。我主の名のとおり、八重咲くのだ」
 桜霞さまはふたたび唇を離してくださいました。そしてわたしの肩を掴むと、立場を換えて、わたしの背を桜の木に預けました。桜霞さまの唇と舌を受け入れ、喉奥まで|(まさぐ)られてしまうと、以前うっかり飲んでしまった酒の幻に取り憑かれたときのようでした。
「ん………っ、ぁ………は、」
 わたしは帯が傷むのも厭わず、桜の木に背中を擦り付けて、尻餅をつきそうになりました。足の裏は消えてしまったような不思議な心地がして、膝に力が入らなかったのです。ですが、あとは地に崩れていくだけのわたしを、桜霞さまは支えてくださいました。
「鼻で息をしなくては」
 桜霞さまは唇を艶やかに光らせ、麗らかに笑います。そしてわたしの首筋に顔を埋め、肌を吸いました。
「私の背に腕を回してくれ。そのほうが嬉しい」
 殿方をわたしから求めるのははしたないことです。けれど、わたしも応えないわけにはいきません。
「し、失礼します……」
 桜霞さまはまた微笑みをくださいました。わたしの周りに男の人はいるのです。けれど、このように近付き、触れ合ったりすることはありません。
「私は八重、我主のものになったのだ。遠慮せずともよい。私に身を委ね、私に甘えよ」
 わたしの身体は震え上がるような喜びを覚えました。頑健で屈強な殿方のものになる。これが女の至上の喜びだと教わりました。それが、今、わたしの身に起きているのかもしれないのです。頑健で屈強。|()り手のような丸太のような腕に切株のような腰の殿方を想像していたけれど、しかし、わたしは今、少し怖いくらいの|喜悦(しあわせ)の中にいるのです。
 わたしは桜霞さまのお身体に触れました。布の奥にある殿方の硬い肉感が伝わります。
「偉いぞ、八重。私も嬉しい」
 わたしの首筋から桜霞さまはわたしを見上げました。臍で茶を沸かすなんて|(ことわざ)がありますけれど、わたしは胸の辺りで湯が沸きそうでした。普段は見上げてばかりの殿方を見下ろせることに、異様な安堵を覚えました。わたしはおそるおそる、世にも珍しい若くして白いお|(ぐし)に触れてみました。すると桜霞さまは、霜柱みたいな睫毛を伏せました。陽だまりで眠るような猫のようでした。わたしの中に愛しさが込み上げ、もう少し大胆に触れてみました。桜霞さまのように赤みはないけれど、ばあややじいやも白髪でした。ですが桜霞さまの髪は、ばあややじいやよりも柔らかく、一度、二度だけ触れたことのある絹のような触り心地でありました。
「八重」
 桜霞さまはわたしの唇を吸いながら、帯びを|(ほど)きにかかりました。
「あ………っ」
 口付けるたびに、唇が溶けそうなのです。けれど怖くはないのです。むしろ溶けてしまったさらに先に、何かあるような気がしてしまうのです。緩んだ帯から、わたしは|双肌(もろはだ)脱ぎになりました。
「珠のような肌だ」
 わたしは露わになった胸を隠しました。はしたない。けれどはしたないわたしを観てほしいのです。桜の色味を借りて、わたしの肌はいつになく白く、ですがほんのりと赤く染まって見えました。ああ、自分の中でも満足なときに、この方にお逢いできてよかった……
「よく見せろ」
 けれども桜霞さまは無理強いはしませんでした。わたしが胸から手を剥がすまで、桜霞さまはわたしの首元や肩を吸いました。この御方にすべてを晒したい……
 わたしは胸から手を退けました。桜霞さまの霜柱のような睫毛の奥の、季節外れの満月みたいな眼が、わたしの乳房を凝らします。恥ずかしくなりました。眼差しで触れられているようです。
「ここは、桜の蕾と見紛う」
 桜霞さまの掌が、わたしの乳房を包み、その先にある乳頭を舌で突つきました。
「ああ……ん」
 ここはわたしの恥ずかしいところです。わたしは時折、訳の分からない切なさを夜に覚えると、布団の中でここを虐めるのです。腹の奥が熱くなって、余計に切なくなるというのにわたしはこの悪癖をやめられませんでした。夢でさえ必ず逢えるとは限らない人を、そのときばかりは思い描くことができるものですから……
「愛い。八重。可憐だ。本当に、私のものになるか……?」
「はい………」
 わたしが虐めていたところを、桜霞さまは労わるように舐めてくださいました。そして吸われながら突つかれると、わたしの指ごときでは味わえなかった、火照りが腹の中で疼くのでした。
「あ……あんっ………」
 左右を同時に、わたしの意ではなく突つかれ、舐められ、吸われ、わたしは自分に手加減していたことを知りました。
「ん、あっ………桜霞さま………桜霞さま…………」
 目蓋を開いても閉じても桜霞さまがいらっしゃいました。
「愛いな、八重。こんな小さなところで、こんなに乱れて……」
 わたしの浅ましいところを、桜霞さまは丹念に舐め|(ねぶ)りました。昔、村の一番大きなお屋敷で見せてもらった|象牙(きさのき)の飾り物みたいな桜霞さまの指も、わたしのはしたなく|(しこ)ったものを捏ねました。一向に柔らかくならないのが恥ずかしくて堪らないのに、わたしは腰の中にたくさんのお湯を溜め込んだような不思議な気持ちになりました。
「桜霞さま……お赦しください、お赦しください………」
 わたしはわたしの恥ずべき、はしたなく浅ましい、卑しい行いをすべて打ち明けたくなってしまったのです。
「どうした、八重。愛い顔をして。気をやりそうか」
 桜霞さまは、わたしのだらしなく膨れ上がった乳頭から顔を離しました。代わりに指がやってきました。両の手が同じ動きをして、自分では知ることのなかった虐め方をするのです。
「あ………あっ、!ああ………桜霞さま……!」
「八重。我主は生娘だ。だのに、ここがこんなに感じるのは何故だ?」
「あ、あっあっあっ、やぁんっ」
 桜霞さまの指がわたしの卑しい乳頭を指先で爪を立てることもなく掻くのです。乳房に小さな塊を埋め込んでも、わたしの浅ましいところはまた強情に桜霞さまを求めてしまうのです。
 わたしの膝は震え続けました。口を閉じるのも忘れて、だらしなく胸へと口水が滴り落ちていきました。
「八重。答えろ」
「あんっ、ひとりで………ひとりで、虐めていたのです………!あんっ、あっああ!」
 桜霞の美しい|(おやゆび)が、わたしの図々しいところを捏ね回しました。同時に臍の奥が掻き回されているようでした。
「いけないな、八重。私がそんなことはせぬよう躾けてやる」
 拇だけでなく、人差し指が加わって、わたしの乳頭は擂られ、|()られてしまいました。腰が、わたしの意に反して前後に動きました。膝も内側に向かって戦慄きます。
「桜霞さま………桜霞さま、わたし、わたし………ぁっあ、あっああああっ」
 乳頭の先を何度もすばやく弾かれると堪らなくなりました。わたしの夜の密かな悪事は、まったく|矮小(わいしょう)であったことをしりました。
 臍の裏からわたしの頭の中を、光が駆け抜けました。腰が砕けて、もう歩けないのではないかと思うほどの不思議な力が働いていたのに痛みも恐怖もありません。
「八重」
 わたしはわたしの身体をどうすることもできませんでした。桜霞さまに抱き締められていなければ、おかしくなった膝と、前後に動く腰によって、どこかに走り去っていきそうでした。
「桜霞さま………」
 わたしは恐ろしくなって桜霞さまを見上げました。
「妻として不足のない、できた娘だ」
 桜霞さまは優しくわたしを見下ろして、接吻してくださいました。
「ん…………ゃ、あ…………ッ、ふ………」
 舌と舌が絡まりました。縺れ合ってしまって、どちらがわたしのものなのか分からなくってしまいそうでした。
 桜霞さまはわたしの舌を構いながら、わたしの着物の裾を割り開きました。そして肌を露わにすると、桜霞さまと接吻が終わりました。桜霞さまはわたしの脚と脚の間に頭を埋めようとしました。
「汚のうございます……」
「大丈夫だ、八重。私に身を任せなさい。片脚を上げて」
 わたしはぼんやりしていました。言われるがまま、片脚をあげます。すると桜霞さまは、さらに頭を近付けました。わたしの口の中を舐めても、わたしの卑しい乳頭を吸っても気高い桜霞さまの舌が、わたしの|陰所(ほと)に入っていきました。熱く湿った桜霞さまの舌が、だらしなく揺れるわたしの小鐘を|()くのです。
「ああッ!」
 そこからは鋭い感覚が閃いていきます。桜霞さまはわたしの内腿が震えたり、桜霞さまの頭を挟んでしまうのも厭わず、わたしの恥ずかしい小鐘を撞きました。
「桜霞さま………汚のうございますから……」
 そこを舐められ続けるのが恐ろしくなりました。そこから裏返しに身体を捲られてしまいそうな、上に昇っていく恐ろしさ。しかし本当に恐れているかといえば、分かりませんでした。痛くもつらくも、苦しくも、悲しくもないのです。むしろ、その先、さらにその奥を想像できない恐ろしさでした。
「あ、あんっ、ああ……」
「八重。我主の口水同様に、ここもたくさん潤っている。乳頭を折檻している間、ここは触ったのか?」
「いいえ、いいえ……わたしは………わたしは乳頭だけです……!」
 わたしは泣きそうになって答えました。つびを自分で弄る|(おなご)は苦獄に堕ちると、昔身体を洗われながらばあやに言われたのでした。ばあやに指を入れられて洗われるのがとても痛かったのです。
「そうか、八重……いい子だ」
 桜霞さまは柔らかく微笑み、そして帯を解きました。わたしは殿方が衣を脱ぐ様を、はしたなくも眺めてしまったのです。見惚れていました。桜霞さまはあまりにもお美しくって……
「八重。これが我主の中に入るんだ」
 桜霞さまが下の肌を晒したとき、カエルのように跳ねるものがありました。それは何度か揺れ動き、やっと止まっても、お臍に向かって反り返るほどの緊迫がありました。わたしはお美しい殿方の脚と脚の間に、このような大きな大きな|(おぞ)ましい赤龍蟲みたいなものを飼っているだなんて思いもよりませんでした。けれど桜霞さまの肉体の一部となると意外にもそう薄気味悪いものと思えなくなったのです。
「桜霞さま……」
「ひとつになろう。いいかい?八重。我主を咲かせよう。|永久(とこしえ)に」
 わたしは桜霞さまの為すがままになりました。桜の木に片肘までつき、横を向いて、片脚も上げました。桜霞さまがその脚を上げるのを手伝ってくださいました。そして、わたしの中へとやってきます。
「八重……怖くはないか」
「はい。桜霞さま……」
 木についたほうの腕に、桜霞さまは手を重ねてくださいました。わたしは反対に、わたしの腿を支えてくださっている手に自分の手を重ねました。
 桜霞さまが腰を進め、胴体が下から二つに裂かれるような圧迫感がやってきました。
「あ………あっ、ああ………」
「息を深く吸え。八重……八重…………」
 まだわずかにも入っていないのではないでしょうか。触れてそのまま押しているだけの状況のように思いました。ですがそれだけで、桜霞さまはわたしを愛しそうに呼んでくださいました。痛みはあります。けれどそれ以上に、桜霞さまをわたしの中に迎え入れてしまいたくなりました。
「桜霞さま……来てください、桜霞さま………来て………あああ!」
 つびが壊れてしまいそうでした。
「八重。脚を持っていろ」
 桜霞さまのつらそうなお声がわたしの背筋を甘く撫で、|弓形(ゆみなり)に反らせました。桜霞さまの手が下から抜けていきましたが、わたしは言われたとおりに自分の片脚を持ち上げました。
 桜霞さまの手は、わたしの小鐘に触りました。突き抜けるような快美なものが起こりました。
「あんっ」
「挿れるぞ、八重」
 桜霞さまはわたしの玉豆を乳頭同様に捏ねながら腰を突き入れました。痛みはありました。けれども桜霞さまに対するお慕いの情と、確かな肉の悦びに比べれば些細なことでした。
「八重……」
 わたしは泣いていました。殿方のものになる……それがこんなに幸せなことだなんて思わなかったのです。
「泣くな、八重」
「違うのです。嬉しいのです。桜霞さま……嬉しいのです。わたしの中に、桜霞さ、ま……っ、あっあっあっあっ!」
 桜霞さまが後ろで歯軋りをしたのが短く聞こえました。その直後、わたしは前後不覚に陥るほど、激しい揺さぶられました。わたしのつびに、桜霞さまの逞しいものが擦れているのを感じます。桜霞さまの強壮なものが、わたしの肉門の奥底を叩いているのが分かります。
「あ、あ、あ、っあっあんっ」
「八重………八重………ああ………八重!」
 父上と母上が、弟の|吉野(よしの)を仕込んだときと、同じ音がしていました。わたしはあのときの母上と同じ声を出し、桜霞さまもあのときの父上と似た呻めき声を出していました。
「桜霞さま、桜霞さま………あ、あ、あ、気が狂いそうです!」
「ああ、狂え。狂ってしまえ。私の妻よ」
 わたしのつびは言うことをききませんでした。一際強く、出入りする桜霞さまを掴もうとするのです。そうすると桜霞さまも、一回一回、強く深く、相手をしてくださいました。
「あんっ、!あんっ、!あっ、ああ!」
「八重……愛いぞ、八重………!気をやって、はやく咲け」
 桜霞さまの声音にはもう余裕などありませんでした。それがまたわたしの肉門をおかしくさせます。
「あ、あ、あんっ桜霞さま………もう、あ、あ!なんだか………変です、!あんッ」
「逝くと言え。逝け、八重。先に天に昇れ!」
「逝きます、桜霞さま………逝く、逝く逝きます―!」
 わたしはもう目の前のことも分かりませんでした。妖しい桜の天井の奥に見えた日輪がわたしの目を灼くようでありました。
「八重!―っ……!」
 わたしはメザシにでもなった心地で、桜霞さまの全身で食われるようでした。わたしの腹の中では、大雨の日の川辺のような濁流が起こってしました。|(おさ)まるまで、わたしは桜霞さまに力強く抱き締められていました。
「八重。私の妻……さ、帰ろう。私の故郷には美味い馳走も、絢爛な着物もある」
 わたしは桜霞さまの|(かいな)の中で、少しの間、心地よい春の暖かさに誘われて眠ることにしました。




 |花ヶ住(かがすみ)村から少し離れた|花狩(かがり)川の土手には立派な桜並木がある。隣の街に繋がる道でもあった。
 今年もこの並木道は満開の薄紅色が雲のように広がり、霞のように咲き、花ヶ住村の催事によって華やいだ。
 この数日前から花ヶ住村では姿を消した娘が一人あるけれど、些末なことである。
 

徒桜の章

徒桜の章

 |花ヶ住(かがすみ)村は、|花狩(かがり)川の桜並木で連日催される祭で得た収入で成り立っている。そのためには桜を咲かせなくてはならなくて、では桜を咲かせるにはどうするか?
 生贄だ。それなりの品性を身に付けた容姿端麗な生娘を桜ノ|()に捧げる。|零花(あまりか)部落に住まう者たちでもなく、花ヶ住村から出す。それなりの品性を身につけるのはとにかく、容姿端麗とまで制限されては、どうしようもない。
 そこで考えのだろう。容姿端麗な胤を村に住まわせ、次々と村の女に孕ませる。
 早い話が種芋だ。そしてその1つでよかった種芋が|二子(ふたご)であったなら?ヒトは一度に1人しか産まないのが常。一度に2人も3人も産むのは狗畜生だというわけで、二子のうちの一人として産まれ堕ちた私の人生というものは狗畜生同然であるはずだった。たまたま自分たちの容姿が端麗であり、容姿端麗な胤を欲しがる稀有な村があった。それだけで野良狗になるはずだった私たちは突然、貴族よろしく扱われるのだから人生とは三日乞食の一夜天下も存在し得る。
 容姿端麗な胤を欲しがる稀有な村……

 私は弟である。二子にも腹から出た順で兄弟の差がある。家督は兄の|紅梅千花(あかうめちか)が継いだ。
 つまり私は村の女と一切交わらないことを条件にあとは遊民暮らしというわけだ。
 村の女は、自分の夫か、紅梅千花の子を産むことになる。そしていずれは、濃い血の交わりが起きるのだろう。そしてそれが諸々の方法で"明らか"になったとき、哀れな子の行先はすでにある。零花部落だ。よくできている。私はあくまで叔父であり、大叔父でしかない。割り切っている。だが父であり祖父になる紅梅千花の心境は如何に。訊いてみたことはない。

 村の女と交わるな。その約束を破るつもりはないけれど、私の気質として女は嫌いではなかった。時折街に行っては女と遊ぶ。私の胤が身を結び、紅梅千花の胤やその胤の胤と身を結んでしまうことも無いとはいえない。家庭という枠組みを作らないとそうなるが、後のことは知らない。そして花ヶ住村にはその対策を零花部落が兼ねているのだから、私たち花ヶ住村の人間は易々と楽界に逝けるなんて思ったらいけない。

 
 村の女と交わらない。ひいては関わらない。つまり村の男との関わりは特に制限がないわけだ。
 村には|吉野(よしの)といういじけた子供がいる。祖父母両親とはすでに死別して、今は姉と2人で暮らしているらしい。
 このいじけっ子が、私は可愛くて仕方がなかった。要は野良猫だ。気付けば屋敷の庭に忍び込んでいる。それを見つけると、餌付けをしたくなって菓子をくれる。するといじけっ子は姉に持ち帰ろうとするから、いじらしくて仕方がなかった。村の女と関わるな。私はこのいじけっ子の姉を、弟という監視があるのをいいことに部屋に寄せた。八重というしっかり者の可憐な娘だ。
 私はこの村に何の頓着もない。機会があれば出て行ってしまってもいいくらいだった。二子の兄にも大した関心がなく、それはおそらく他人というにはあらゆるものが同じ過ぎたからだろう。離れる離れないという認識もない。ただ、私はこの|姉弟(きょうだい)が好きだった。

 そんなこんで桜の季節が来た。また花ヶ住村から一人、生贄が出る。


 一人、生贄が……



 私の手には簪がある。呆然とそれを凝らしていた。街に行ったとき、買ってきたものだ。村の女と|(まじ)わるな……か。私は自嘲した。しかし自嘲している場合ではないのは、膝を突き合わせて座るいじけっ子だ。
「姉ちゃん、帰ってこなくて……俺………俺…………」
 この簪が花狩川の土手で見つかったという。私は屋敷の者を呼びつけて、吉野を世話を頼んだ。
「|白梅千花(しろうめちか)!」
 小生意気ないじけっ子はまだ泣き止まずに、席を立った私を睨む。
「村の取り決めだよ。嫌なら出て行くしかない。この村に生まれたからには生き方はぜんぶで3つ。|桜供物(さくもつ)になるか、|紅梅(こうばい)と契るか、男なら紅梅の娘を育てるか。姉のことは忘れて、君も一人前の男になって早く妻を迎えなさい。紅梅との子を育てるかも知れないが、耐えることだね。この村に生まれたからには」
 私は吉野を置いて屋敷を出た。すでに外は暗かった。普段の素行からいって、何も言われることはなかろう。酒か女か賭博か。私に村の生活は合わなかった。ただもし叶うなら……
 吉野の姉のことは予想外だった。いいや、しかし冷静に考えてみれば、品性のある若く可憐な年頃の娘といえば、彼女しかいなかった。私は不都合から目を逸らして浮かれていた。彼女には弟以外に身寄りがない。身寄りがないというのはつまり彼女の|為人(ひととなり)|如何(いかん)にかかわらず、まず対象外になるとすら甘いことを考えていた。村には父もあり母もある、あれくらいの娘ならば数人いる。縹緻の程は知らないが。

 花狩川に着いた途端に|(せせらぎ)が聞こえ、歓迎されてはいるようだ。桜並木は妖怪みたいに枝を伸ばし、神だの妖怪だのも結局は人を滅ぼせず共存をしようというのだからご寛大なことだった。人が消えれば畏怖の念も崇拝の念も消えて、人が真に畏れるのは|(なゐ)揺れと雷、焼亡といったところか。けれどもこれもまた神だの妖怪だのを創り上げるには十分な恐怖だった。善良な心がそんなものを生み出す。
 私は物騒な桜並木の傍を歩いた。半ばまで来る頃には月は煌々として、完全に夜としか言いようがなかった。それでもここの桜は血腥い肥料のために不気味に闇の中を輝いているようだ。
 桜が嫌いだ。咲いたら咲いたで呆気なく散り、その様を美しいと褒め称えられたところで、消えることもなく醜く腐り、土へと還る。醜態だ。
 私は1本の桜の木の前で立ち止まる。後ろからは暢気に潺が聞こえる。図々しく伸びた枝木に守られるようにして、女が立っているけれど、それは八重ではなかった。
「|花刻(はなどき)
 呼んではみたものの、彼女の顔は桜の花と枝で隠されていた。肉が腐敗し削げ落ち、或いは干涸びて張り付いた指先の尖った白骨だけが見える。地面を差して動かない。
 私の20年以上も前に散らした恋である。私の6つは上だったか。生きていれば、夫を持ち、子を産み、或いは紅梅の胤を受ける村の女だっただろう。
「新しくここに来た娘を……探しているのだけれど」
 顔は知らない。見たとしてもあるのは腐り落ちた肉と|髑髏(しゃれこうべ)であろう。彼女は花刻ではないかもしれないし、花刻かもしれない。私の呼べる女の亡霊の名はこれしか無かった。
 私はふと哀しいような、やるせない気持ちに襲われた。簪を差し出す。異様な変化は、却って猜疑心となる。私が誘われている。
 屍肉の指は相変わらず地面を向いている。それが答えだ。
「ありがとう。それから、貴方を助けられなくてすまなかったね」
 私は桜の枝を潜る。村でも目立つほど背が高い。暮らしも食べているものも、村人たちとは違うからだろう。彼女よ指差すところに膝をつき、そのまま首を横へと向ければ、その顔を見られないこともなかった。けれど私は見なかった。死後なおもここに繫ぎ留められて、いつの間にか私のほうが歳を喰い、うら若い娘のまま醜く腐り落ちていく姿を晒している。この意味を無視できる人間ならよかったのだけれど、生憎、私はそうではない。

 私は簪を地面に突き刺した。そして土を掘った。簪は途中で折れけれど、手で掘れないこともない。 
 桜の枝が私のほうへ伸び、不気味な花が頬を掠める。
 一人ひとり娘がここへ差し出されるたびに、私はこうして土を掘り返すのだろうか。
 それは私の問いであったけれど、私の中に生まれたものではなかった。
 枝は私の頬を刺し、邪魔をする。
 すでに済んだ問いだ。私は傍観者でいると決めたのだ。村に生かされた私に傍観以外、何の役目があるというのだろう。紅梅千花もそれで納得している。おそらく。自分の胤の行先が桜ノ怪物の贄であろうと、間引きであろうと。

 私は土を掘り続け、やっと八重が埋まっているのを発見した。彼女を土から取り上げて、抱き抱えてはみるけれど村には帰れない。私はそのまま街へ出ることにした。幸い、花ヶ住村の風習はおそらく外には漏れていない。訪問してみれば察するかもしれないけれど。私たち二子に顔立ちのそっくりな女の子が何人かいる。男の子はいない。何故か?私たちに似た男児は不要だからだ。胤として村で生きるには不都合も起こす。

 私は八重と夜の道を歩いた。
 間引きに似ている。私が生かすべき命か、捨てても構わない命か選んでいる。花刻は見殺した。八重はこうして連れ帰っている。
 私は土手を歩き、何度か背後への好奇心に惹かれている。後ろにある|跫音(あしおと)に算勘が働かない。生きた人間ではないのは分かっている。桜ノ怪に喰われた娘たち、それから、そのために私が間引いた子供たち。私たちが|(おのこ)になってすぐに村の女を孕ませたから、そろそろ私も大叔父になる頃だ。同じ胤が交じわれば血が濃くなる。私の役目が増える頃合いに、私は何をやっているのだろう。
 桜並木で百鬼夜行。私も妖物と大差ない。純潔に生きるには明らかに、手を汚し過ぎている。


 私は八重を、街に借りた長屋に置いた。
「……―さま」
 彼女は目を覚ました。覚ましたけれど、曇った眼を見た途端、私はこの娘がすでに桜ノ怪に喰われ、気が|()れてしまっていることを知る。
「……―さま」
 土で汚れた白い手が私の頬に触れて接吻をねだる。罅割れた唇、動かない眉、鏡のような瞳……八重は廃人になってしまったのだ。
「いけない、八重」
 しかし私は拒まなかった。なるようになってしまっても構わなかった。私はこの娘を……
 しかし誰が、止めもせず、抗いもせず、案じもせずにこの娘を壊したのか。
 迫る唇を断るのが私の償いではなかろうか。私は彼女の手足を縛り、柱へ括り付けた。
「八重……すまないね。君の弟を迎えにいってくるから、いい子にしていて」
 自由を奪われた娘の姿から目を逸らしたい。だが逸らしてはならない。これが私たちが狗畜生の生まれを捨てて代わりに得た現状だ。
 私は不都合から目を逸らしていた。八重が|桜供物(さくもつ)に選ばれるだなんて思っていなかった?どの口が言うのだろう。
 零花部落の青年が、罪も恐れせず私に言いに来たではないか。八重が候補に挙がっている。八重が次の供物になるかもしれない、と。

 私は花ヶ住村へと帰った。私の朝帰りに文句を言う者などいない。目的の人物は座敷牢にいた。屋敷の者を噛んだらしい。折檻の痕がある。私はこのいじけっ子の耳を掴んで歩かせた。
「火種の|(おそれ)ありとして、ボクが始末しておくから」
 このやり取りを見た屋敷の人間にはこう告げた。吉野は暴れたけれど、力で敵うはずもない。私は彼を引き摺っていって、|櫻雲(よううん)という偏屈爺のところに預けていった。子供嫌いだが、悪人ではない。廃人の姉と、この弟でどう暮らせるというのか……そして彼女は生きていると思われてはならない。この子供も、生きていることが知られてはならない。
 吉野は最後に私の腕に噛みついた。私のすべきことは彼を突き離すことだ。あの村にさえ生まれなければ……
 所詮、村に生かされた私と相容れる存在ではなかった。
 折れた簪を返し、偏屈屋の爺さんには当分の|銀子(ぎんす)を渡し、あの子供の世話を頼んだ。
「使用人に年頃の娘がいるんだろう?小僧旦那にしてしまっても構わないよ」
 そのときの偏屈爺の侮蔑に満ちた顔。彼は銀子を私に投げつけて扉を閉めてしまった。子供の売買を最も嫌う。真っ当な爺だから私はこの男を頼った。

 私は長屋へと帰った。八重は|(いましめ)を解いても自分から動こうとせず、誰かの名を呼んでいるようであったが、私が腕の傷の処置をしていると、眠ったまま歩くような足取りでふらふら傍へ寄ってきた。弟の付けた傷が分かるのだろうか。
「吉野は死んだよ。死んだんだ。だからもう村に帰ってはいけないよ。探してはいけない。悲しいことだけれど……」
 八重は訳が分かっていなげであった。
「吉野はボクが殺したんだ。一揆を起こされては困るからね。君を探されては困るからね。これが形見だよ。大事に持っておきなさい」
 私は途中で捨ててきた彼の着物の端切れを見せた。八重は相変わらず暗い眼であったけれど、徐々にその目は涙を溜めた。弟のことは分かるのであろう。
「ボクが憎かったら殺しなさい。君にはそうするだけの資格がある。けれど村に帰ってはいけないよ。絶対に。ボクを殺すのなら、絶対に村へは帰るな。その資格は、君にはない」
 彼女は嗚咽することもなく、ただ静かに涙を溢した。彼女を抱き寄せる能が、私にはなかった。
 彼女の身を清め、飯を食わせるのが私の体力の限界だった。二子揃って、身体があまり強くはない。紅梅千花は命を削るように胤を搾り出し、そのために私は悠々と生きてきた。だが私は暫く歩き続け、疲れてしまった。まるで使用人みたいに畏まる廃人の八重を前にして眠った。
 彼女は私に寄り添った。私の薄い身体で暖を取るように胸元に頭を寄せた。昔猫を拾ったときに似ている。
「寒いかい?」
 反応はなかった。ただ、私が動こうとするとしがみついてくる。恐ろしい思いをしたのだろう。私は彼女の好きなようにした。
 夜が明け、朝が来る。私は彼女を連れて街を出た。村とは反対の方角へ進んだ。彼女は嫌がる素振りもなく、私に従う。身の落ち着くところさえ見つかれば、私は算盤塾でも筆学所でも開いて金を稼ごう。偏屈屋の爺さんから突き返された銀子もあるから当分暮らしは持つだろう。
 私たちは牛車を使い、山を越え、漁港近くの町に身を落ち着けた。
 八重は相変わらず廃人だった。私は町で算盤塾と筆学所を開いて日銭を稼いだ。依頼があれば漁港などで買い付けも行った。八重は廃人ではあったけれど、言葉は通じるようで、|(ふみ)の代筆業などをして私たちは夫婦として世を忍んだ。夫婦……歳の近い男1人、女1人が一つ屋根の下で暮らしていたら、自然と周りの評価はそうなってしまう。私も私たちのこの生活を俯瞰してみれば、夫婦だと思うだろう。兄妹だと先回りしておくべきだった。しかし……
 夫婦……私が花ヶ住村にいた頃、密かに憧れ、思い描いていたことだ。私はそこにしがみついていた。私にその資格はないのに、夫婦と間違われるあいだばかり、夢をみていたようだ。夢を……

 そしてまた、あの季節がやってきた。桜の季節が……
 私たちの住む近くにも、桜が蕾をつけた。所々咲いてはいるけれど、花狩川に咲くものとは違う。
 たまの休みを利用して、私は八重の手を引いて桜並木の下を歩いた。
 海の見える散歩道で、空と海、2つの青と、昔見慣れた桜より少し濃い淡紅色。生活は安らいできたとは思う。私というのは狭量な人間だ。これだけで、私は彼女の弟のことを告げる気が起きてしまった。廃人なりに、桜と二青の美しさに感じ入るところがあるのだろう。考えが甘い。詰めも甘い。私の選択はほとんど誤っているのかもしれない。
 八重の元に、最近よくやってくる青年がいる。私よりは少し下で、彼女とは同じ年頃ではないだろうか。見目の爽やかな、人の好さそうな風貌だ。発話や言葉遣いからして育ちも良い。彼女に構う彼の姿を見たとき、私は理解してしまった。そして私は考えた。だから私は、その話をするために彼女をここへ連れてきた。
 私たちは夫婦ではないんだよ。あの青年にそれを言ったとき、私は笑えていただろうか。
 私の切り出した声は冷たく湿った風が吹いて攫われた。私は八重の前に立った。八重は私の腕に身を寄せて、私は堪らなくなったけれど、しかし私は抱き締めたい衝動をどうにか抑えた。
「身体を冷やす。帰ろうか」
 気が変わってしまったのだ。私はくだらない人間なのだ。

 私が住まいに帰ったあと、八重は私にしがみついた。そして押し倒されてしまった。私は身体は弱いけれど、背丈はあるし、骨と皮だけというわけでもない。ただ、彼女に抵抗する理由が私にはない。
 八重は私の着ているものを|(はだ)けさせた。肌が露出して、彼女はそこに頬を寄せた。私は戸惑った。けれど私から彼女に触れるのが怖かった。彼女は脚と脚の間を撫で摩る。私は慄然とした。暫くそのような行為はしていないし、八重と共に逃げてきてからは一人で処理をするのにも躊躇いがあった。
 私は彼女にだけは、この反応を見せたくなかった。彼女に男体に対する恐怖心というものを植え付けたくなかった。私は建前でも彼女の兄でありたかったというのに、本音はそうではなかったから。
 私のものは簡単に変化を遂げた。だらしなく彼女の目と鼻の先で勃ち上がった。
「八重……恥ずかしいものを見せてすまないね。向こうに行っていておくれ。すぐに、」
 私は慌てた。これでは八重は、警戒心を持って私と暮らさねばならなくなる。私の元を出たいあまり、おかしな男に頼り、不幸な目に遭ってしまうかも知れない。
 八重は顔色ひとつ変えず、やはり廃人のような昏い目をして、私の恥部を舐めた。私は驚いてしまった。そして肉体が味わう久々の甘美な刺激に、私の薄弱な意志は傾きつつあった。彼女は私のものを舐め、口に含み、頭を動かした。私は本気を出せば八重を拒むことはできたはずなのにそれをしなかった。私は後見人も失格だ。彼女から汚いものを離させることもしないで私は床に爪を立てていた。今動けば、彼女の小さな喉を突き上げてしまいそうだった。
「いけないよ……八重…………いけない。君には、結婚だって……八重、嫁入り前の君が……、こんなんじゃ………」
 けれども八重は私の不浄を舐め続け、私はそろそろ達してしまいそうになった。
「八重………口を離して!八重………いけない!ああ……ッ!」
 私も口ばかり。彼女を離させるなど簡単なのだ。けれど私はそれをしなかった。守らなければならない娘の口に私は恥ずかしい膨張を自ら突き入れて、そこで種を放った。久々の射精に私はうっとりして、それは肉体的なものだけではなかったからなお、その後すぐに押し寄せる悔いは大きかった。
 八重は最近になって一人で自分の身を清められるようになった。それまでは私が洗っていたということだ。眠るときも、彼女は私に寄り添わなければ寝なかった。私の気持ちは掻き乱される。しかし私は八重の伴侶に相応しい人間ではない。私は垢にまみれた、薄志弱行の、狭量な人間なのだ。一度は夢見た相手との、夢見た夫婦生活。選び取るのが怖かった。
 だから私は八重を早いところ、嫁に出してしまいたかったのに……そしてその相手を見つけて、あとは彼女にそのことを相談するだけだったのに……私というろくでなしはあろうことか命を賭けても守らなければならない娘に欲情しているのだ。肉欲に身体を火照らせている。
 八重は着物の裾を割り開いて、まだ強欲に天を衝く私の醜態に跨った。何故私は止めなかったのだろう。何故私は止めない?私は獣だった。村の在り方を非難できるような高尚高潔、義心の徒ではなかった。
 吉野に済まなく思いながら、私は私に跨る八重を突き上げた。苦しそうだったのに……痛がっているようだったのに、私は止まらず、肉体のもどかしさに辛抱せず、私より小さく私より細い、守らなければならない相手を貫いた。
「すまない、すまない、八重………赦しておくれ…………赦しておくれ」
 赦されるはずはないのに、私は腰を止めずに八重を突き上げ、彼女との|交合(まぐわ)いの喜びと背徳感、罪悪感にすっかり酔ってしまった。すべてが糖蜜に酒を混ぜたみたいだった。
 八重は私に養われ、私が彼女の生活を維持している。対等でない彼女が気を遣ったに違いはなくて、私はそれをよろしくないと思いながら甘受している。最低だ!
 |(やが)て私は彼女の中にも種を吐き出した。私の情動は止まらなかった。彼女を床に引き倒し、娼婦にしたように、街娘にしたように、顔を擦り合わせて抱きたくなった。けれども私は捨て放題に投げ捨てた理性を|払底(ふってい)させることはできなかった。
「こんなことはいけないんだ、八重。君は嫁入り前で、君を想ってくれている人もいる……縹緻もいいし、人当たりもいい。育ちも悪くはないのだろう……八重、いいね、こんなことは………」
 けれども八重は、私の唇を塞ぎにかかった。
 いけない。こんなことは………



 一日の|(わざ)を終え、2人きりになる。すると八重は私を抱き、私も八重を拒まなかった。拒むべきところで、拒まない。そんな生活を続けた。八重が私に櫛を渡した。土で汚れ、金箔の剥がれたそれを私は知っていた。そして直感したのだ。
 予想通り、八重の腹が膨らんだ。当たり前だ。私たちはほぼ毎日のように身体を重ねた。
 私の子が、産まれる。桜の咲く季節に。私はその子供が男児だと思った。私が細い首を捻ってきたのは、圧倒的に男児。花ヶ住村の|(しがらみ)は、きっと私たちを解き放ちはしないだろう。
「幸せになろう。君の弟にもこのことを告げるよ。君には嘘を言ったけれど、弟は生きているんだ。君の弟は、今、都で……」
 私は涙が止まらなかった。そんな私を八重は抱き締めてくれた。
 吉野を預けた偏屈な爺さんへ手紙を宛て、叔父になることを知らせた。

 それから私は、彼からの返事によって、"ある狂者"によって花ヶ住村の村民は全滅し廃村したこと、同時に私の兄・紅梅千花も病没していたことを知った。他にも零花部落が解体されたこと、自分は|甥姪(せいてつ)に会う資格のないことが記され、くれぐれも姉とその子供を頼むと重ねて書き添えられていた。

【完】

夢見草の章 

夢見草の章


 わたしはお使いを頼まれ、桜並木のある土手を歩いていました。視界の端、桜の木の|(ふもと)に何か映ったものがあって、気を取られ、立ち止まろうとしました。
「八重ちゃん!」
 胸に響くような声で呼ばれて振り返ると、そこには|春若(はるわか)がいました。彼は同い年で、同い年で……
「気安く話しかけないで」
 わたしは困ってしまいました。春若は|()の者です。|零花(あまりか)部落という被差別部落の生まれです。こんなところで話しかけられて、言葉を交わしているところを見られたら、わたしだけでなく弟の|吉野(よしの)まで石をぶつけられてしまいます。
 春若は相変わらず、情けない顔をするものと思いました。人の往来のあるところでは、言葉を交わしてはいけないのです。けれど違いました。春若は見たことのないくらい|(こわ)い顔をしていました。わたしは周りを見て、誰が他に人がいないことを確認しました。
「春若……?」
 いつもは情けなく優しい春若が怕いのです。たんぽぽのような春若が、急に怕いのです。わたしは狼狽え、たじろぎました。それから人目も気になりました。
「逃げよう。ここにいちゃ、ダメだ。|()だも行くから……俺だも………」
 春若は詰め寄って、戸惑うわたしの手を取りました。今まで、どんなことがあっても春若からわたしに触れてきたことはありません。ときには豚や鶏、馬を殺し、或いは解体し、ときには死んだ人たちの身を清め、その手は穢れているのだそうです。春若はわたしが触れるのを嫌がり、しかしわたしは春若の遠慮を疎みました。そういう関係でしたから、春若からわたしに触れたということは余程のことです。わたしは春若の見た目にそぐわない硬い掌の感触を知る隙もなく、驚きに目を見開きました。
「ここにいちゃ、行けないんだ。キミの弟だって……」
 わたしは人が来たような気がして、春若の腕を引くと、川べりの斜面に彼と隠れました。緑が少しずつ生い茂ってはいるけれど、まだ人を隠せるほど伸びきってはいません。
「なぁに?どういうこと?」
 わたしは春若と緑の中に伏せました。手は握ったままでした。
「村長が話してるのを聞いたんだ。キミを|桜供物(さくもつ)にするって……弟くんも、」
 わたしはすぐにそれと理解することができませんでした。しかしわたしのことはいいのです。彼は弟についても何か話そうというのでした。わたしは確かに、この村の風習のことを知っています。恐ろしい風習があることを。
「それで……それで、|吉野(よしの)が……?吉野が何だというの……?」
「吉野くんを、第二の|紅梅千花(あかうめちか)様のようにする気なんだ、きっと……だって………」
 紅梅千花様……その方は花ヶ住村になくてはならない御方でした。あまり会ったことはないけれど、その|二子(ふたご)の|同胞(はらから)の|白梅千花(しらうめちか)お兄様とは、弟の吉野を通じて幾度もお世話になったことがございました。
「紅梅千花様の、ように……?でもそれなら、吉野は不便をしなくて済むんじゃなくて?」
 わたしの言葉に春若は哀しそうな顔をしました。
 紅梅千花様はたいへん裕福な暮らしをしているように思いました。わたしは白梅千花お兄様から|象牙(きさのき)や絹というものを見せていただいたのですから。実際、村で採れたものはまずあのお屋敷に行くのです。
「八重ちゃん……紅梅千花様はご病気だ。どこからもらってきたのか分からないけど、あの御方の赤痣。あれはご病気の証なんだ。きっと長くは保たないよ。そうしたらお次は、きっとご|血脈(けちみゃく)の近過ぎる白梅千花様じゃないと思う。そのときは、そのときこそは……」
 彼は言葉を濁しました。春若が春若ではないみたいでした。いつもははっきりと言うのです。溌剌として、嫌味がなく。零花部落の出であれば|()の者だと人は言うけれど、わたしは春若から穢れを感じたことなど一度もありませんでした。わたしは春若ではなくなってしまったような春若が、怖くなりました。
「紅梅千花様の赤痣は、きっと……」
 優しくて素直な春若は、わたしの不安げな顔に気付いたようでした。そしてふと目を逸らして、川のほうを見ました。
「あ、花筏」
 わたしも彼に気を取られて、その目が見ている先を追いました。そこには川の流れに従って揺蕩う桜の花びらたちがありました。まだ水面をすべて覆うほどではありませんでしたが、散った花びらが群衆のようになって通り過ぎていきます。そして川の流れに従って、二手に分かれるのです。わたしは春若の少し幼さの残る横顔を眺めていました。彼はいつの間にかわたしから手を放していて、わたしもそのことに気付かずにいました。わたしは春若の手を取りました。春若はぎょっとしました。わたしたちが2人で共に居ることは難しいことです。許されることではないのです。わたしが零花部落に嫁げば、弟の吉野はどうなるでしょう。後ろ指を差されます。そして花ヶ住村と零花部落の境が断崖絶壁ではなく斜面であるという構造に納得されないでしょう。そして花ヶ住村でのうのうと過ごしてきたわたしを、零花部落の民は歓迎しないでしょう。
「八重ちゃん……逃げよう。もうキミも俺だも、村には戻れない……ね……?行こ、俺だ、キミとなら……」
 わたしはまだ理解が追いついていないのです。わたしはお使いを頼まれたのです。桜供物というのは、二親の揃った品のある、容姿端麗なお嬢さんがなるものと聞きました。娘が産まれたなら、片方の指を切り落としたり、顔に傷を付けたり、泥を塗り続けたり、娘可愛さに片方の親が首を吊るなんてことも聞いたことがありました。わたしにはすでに祖父母も父母もありませんし、そうなるとおそらくわたしに品性と教養を培う機会はなかったということになりますし、容赦について言及されたことはありませんでした。
「春若の、勘違いじゃないじゃなくって?きっと、間違いよ……」
 情けない、自信のない顔をしている春若に、わたしは少しずつ、彼が零花部落が嫌になって誰かと逃げ出したくなっているのだと考えました。零花部落の生活ははたからみてもつらく厳しく貧しいものでした。逃げ出したくなるのは当然でした。
「桜供物になる女の子は、この時期にお使いにやられるんだよ。本当にここに来たか、見届けるのも俺だたちの仕事だから……」
 わたしは俯く春若を睨んでしまいました。
「来なかったら……?」
「察して逃げた子もいるよ。そのときはね……そのときは………俺だたちはたくさん牛馬を屠ってきたから……女の子なんて………それも、俺だたちを蔑んできた村の子じゃ…………そういうことだよ」
 春若は脅すような言葉選びのなかで、怯えているように感じました。何故春若がわたしに触れるのを嫌がるのか、それが分かったような気がするのです。ただ家畜の皮を剥ぎ、腑分けし、肉を断つ|(わざ)に後ろめたさがあったわけではないのです。骸を清め、或いは、縫い、形作ることに負い目があっただけではないのです。
「逃げよう、八重ちゃん。俺だが守るから……俺だが守るから、弟も一緒に……」
 わたしは首を振りました。後ろに退きました。わたし一人ならどうしていたか分かりません。しかし弟には安泰の道を歩んでほしいのです。わたしは紅梅千花様を存じておりませんでした。二子同胞というからにはそれはそれは白梅千花お兄様に瓜二つというお話でしたが、どのような御方なのかはまったく知りもしないのです。ですから紅梅千花様のご病状とやらに思うところがあまりないのでした。むしろ、吉野があの座に就けたならば食うにも着るにも困らないだろうと思いました。そういう喜ばしい話が吉野にいこうとしているときに、何故、わたしは足を引っ張るような真似をするのでしょう。
「春若……あなたとはもう会えません。吉野の好い話を、棒に振るわけにはいかないのです」
 彼は胸元を殴られたような、そんな顔をしました。わたしもじわりじわりと苦しくなりました。
「春若………今日一日だけ。これきりにしましょう」
 春若は忙しなく眼を揺らしていました。
「八重ちゃんは、どうするの……?」
 これは難題でした。わたしは桜供物になっていたらしいのです。村には帰れないのです。いいえ、踵を返せば村には帰れるのでしょう。けれど、吉野はどうなるのでしょうか。役目を果たせなかった女の弟。あの子が安寧の暮らしを得られるかもしれないお話が無くなってしまったら……
「わたしはこのまま、並木道を行って……何事もなければ……」
 そもそも、わたしは本当に桜供物に選ばれたのでありましょうか。弟のことを想えば、何事も無いときのほうが恐ろしく感じられたのです。わたしは土手上の桜並木を見上げました。疎らに蕾を付け、花は白梅千花お兄様のもとでいただいた霰菓子のようでした。
「そのときに考えます」
 春若の顔は晴れませんでした。わたしも彼を見ていることができませんでした。
「部落の外れに廃屋があるから、どうして行き場がないときは……そこで」
 春若の声は低く、素直な彼の気性のとおり、そこにはありありと落胆がありました。
「ありがとう、春若」 
「|今生(こんじょう)のお別れになるかもしれないから、あの、言うね。俺だ……」
 わたしは彼の気持ちを知っていました。わたしの気持ちも彼の気持ちと同じ方向にありました。淡い期待を抱いて生きていました。けれど……
「言わないで。わたしとあなたの立場を考えて。侮辱だわ。|()の者から気持ちを打ち明けられるだなんて、女にとって、最大の侮辱なのだわ」
 川はちろちろ音を立てて、花びらを泳がせていました。他に何も聞こえないような気さえしました。
 わたしは春若の恋心を弄んだのです。わたしには春若より大事なものがあるのです。悪怯れることはしません。若い男と若い女。春若は他の女を知らないのです。わたしも春若以外に歳の近い男を知りません。
「さようなら、春若」
 わたしは彼を置いていきました。桜並木を離れ、そのまま川べりを歩きました。ちろちろと|(せせらぎ)は花びらを運びます。わたしには何の実感もないのです。桜供物に選ばれたという実感も、もう春若と逢うことはできないという実感も、吉野が紅梅千花様の後釜に座るかも知れないという実感も。まるでわたしが春若と|夫婦(めおと)になれると思い描いたように、何ひとつ受け止めきれていないのです。
 わたしは何から考えていいのか、何からはじめていいのか分からないまま歩を進めました。ただ、わたしの願いはひとつなのです。吉野のこれからです。母が命に換えて産んだ大切な弟です。紅梅千花様に対する多少の後ろめたさがないわけではありません。ですがこんな機会は他にはないでしょう。そして、わたしを桜供物に出すことで、一気に片を付けようというのでしょう。
 少しずつ、現状が見え始めてきました。わたしはそこから土手に上がりました。疎らながらに花を咲かせた桜の木や枝が、わたしを呼んでいるような気がしたのです。
 手招きをするような桜の木のひとつに、わたしは吸い寄せられていきました。



―……わたしは気が付くと、桜の木ので眠り|()けていました。甘美な夢を見ていたのです。けれど悲鳴によって目が覚めてしまったのです。肩を揺り起こされ、そこには恐ろしく表情のない白梅千花お兄様が立っていました。
「やってくれたね」
 白梅千花お兄様はいつものようにわたしに微笑んでくれる、ということはありませんでした。そこにいたのは白梅千花お兄様だけではありません。村長と、村の|()り手、零花部落の|(おさ)がわたしを囲んでいました。
 村長はわたしを罵倒しました。そして白梅千花お兄様に何かを命じ、わたしの膝を大きく開かせました。女のわたしに抗う|(すべ)はなく、早くに祖父母両親を亡くしたわたしは村長やその守り手の者たちに支えられて育ったのです。わたしが何か悪いことをしたに違いありませんでした。弟の安泰は彼等に委ねられているも同然なのです。
 白梅千花お兄様のお膝の上であられもないところを晒し、零花部落の長がわたしの|陰所(ほと)に指を挿れました。そこは濡れ、指に絡んだ白濁の液体を見せました。わたしは驚いてしまいました。わたしのそこからそんなものが……
「貴様、|()の者と番いおったな!長年手塩にかけて育ててやったのに、この恥知らず!」
 村長は顔を真っ赤に、わたしの頬を張り倒すと、唾を飛ばして怒声を浴びせました。わたしは何のことだかさっぱり分かりませんでした。白梅千花お兄様は苦しそうにわたしから目を逸らしました。
「わたしは……」
「立派な桜供物にしてやろうと、あたし等はお前に読み書きも金勘定も習わせ、安くはない着物も着せてやった!それをなんだ!それを裏切りおって!貴様は!貴様は!」
 村長はわたしに馬乗りになって頬を叩きました。
「|村長(むらおさ)。顔に傷をつけては、値が下がります」
 白梅千花お兄様は村長をわたしから遠去けましたが、ですがわたしのほうを一瞥もしませんでした。優しかった白梅千花お兄様。父のように慕えと言った村長。わたしが何か粗相をしたに決まっています。
「零花部落で世話をせい。穢れが移ってはたまらん」
「吉野は……吉野はどうなります」
 帰ろうとする村長に、わたしは縋りつく思いでした。守り手がわたしの腕を叩き落とします。
「この期に及んで何を言う!貴様と|穢人(ヱじん)の不埒な逢瀬を告げた来たのはあの小僧だぞ。普通ならば共に零花堕ちさせてやりたがったがな……紅梅千花様の養子として跡を継がせてやる。貴様は何も心配するな。」
「弟をどうか、よしなに……よしなに………」
 わたしは地面に伏しました。両手をついて、額を擦り付けました。
「二度と、村人のような口を利くな!」
 わたしは涙で前が見えなくなりました。
 村長たちがお帰りになるとわたしは部落の長に連れられ、零花部落へ行きました。花ヶ住村に育ったわたしが好く思われるはずはありませんでした。草臥れた|茣蓙(ござ)を敷かれ、腕と脚を縛られたわたしは見せしめとして部落に曝されました。わたしは一体、どんな罪を犯してしまったのでしょう。おそらく春若と会っていたことでしょう。わたしの考えが甘かったのでした。彼とは言葉を交わし、時には手を繋ぐだけでした。それだけでした。肌を合わせたことなど一度もありません。何かの間違いなのです。ですがわたしは、吉野の話が無くなるかも知れないことを恐れました。そして吉野が助けてくれるとすらどこかで考えてしまったのです。けれどわたしたちについて村長に告げたのは吉野だというから……いいえ、今となっては詮のないこと。わたしは村の掟を破り、穢の者と想いを寄せていた悪い姉なのです。わたしと春若について知った時、弟は肝を潰したことでしょう。
 わたしの噂は|(たちま)ち部落に広がりました。わたしは見せ物になりました。嘲笑、怨嗟、或いは同情の的になりました。時折り白梅千花お兄様の面影のある子供もわたしを見に来ました。紅梅千花様の胤かもしれません。  
 部落には様々な人がいました。そして様々な人たちがわたしを見に来ました。ですが春若はわたしのもとには現れませんでした。春若はわたしを守ると言ったのに、わたしのところへ来ることはありませんでした。春若はわたしを守る気などなかったのです。情けない、頼りない彼が人を守れるはずがなかったのです。
 雨の日も風の日もわたしは野晒しになりました。石をぶつけられることもありました。手籠にされかけたこともありました。そのときは|(おさ)が止めに入ってくださいました。それだけではありません。時折、部落の人が不憫がって、軒下を貸してくださることもありました。食べ物をくださることもありました。桜の花びらの一枚がわたしのところまで風に運ばれてくる様をみて、曲がりなりにも桜供物に選ばれた姫様だからと、好くしてくれることもありました。半月はまだ経っていない頃でしょうか。花ヶ住村から白梅千花お兄様がやってきました。その頃になると、わたしはもう一人で立っていられませんでした。茣蓙の上で横になり、樹皮のようになった身体を探られました。
「紅梅千花が亡くなったよ。これで君の弟が跡を継ぐ。これでは身籠っていてもダメなようだ。村に帰ろう」
 わたしはそう言って、白梅千花お兄様に抱き上げられました。そして村へと帰りましたが、弟と会うことはできませんでした。身を清められ、飯を食わせてもらうと、新しい着物に身を包みました。ですが元の生活に戻れないことをわたしは知っていました。わたしと吉野の住んでいた家はあらゆる物が分配され、屋根と戸があるだけの空家になっていたのです。
「わたしはこれから、どうなるのでしょう」
 白梅千花お兄様は答えに窮していました。
「君はその身で償わなければならないんだ。ボクが言えるのはそれだけ……」
 夜になるとわたしは白梅千花お兄様のお部屋でお世話になっておりました。白梅千花お兄様は泣いているようでした。ご実兄を亡くされたばかりなのだから、当然のようでした。
「八重。ボクは君を妹のように思っているし、君たち|姉弟(きょうだい)のことが大好きだったよ。紅梅千花がいなくなった今、ボクには何の後ろ盾もない。そろそろお払い箱になる。君は遠方の娼館に売られるんだ。それは紅梅千花を見ていて男の身でも厳しかったようだから、女の身にはとてもつらく厳しかろう。吉野のことはここにいれば食うにも着るにも困らない。君も身一つならば逃げられるだろう。ボクもこの村からは出ていくよ。でもその前に、これを」
 そのときになって、白梅千花お兄様は徐ろに近くの箪笥から箱を取り出して、こちらを向きました。中には箱に似合わない、擦り切れて草臥れた帯が入っていました。その色味と破れ具合に覚えがありました。わたしはそれを拾い上げて、突然の涙を堪えることができませんでした。
「持っていくといい。ボクが持っていても、ここに置いていっても、仕方のないものだから」
「春若は……どうなったのです、春若は………」
「処されたよ。桜供物を台無しにした罪でね。新しい桜供物の娘に首を持たせて、それでこの話は無しになった」
 わたしは畳に伏せて泣き咽びました。一度でも春若を恨んだ自分が恥ずかしくなったのです。そしてそんな理不尽な目に遭った春若が哀れで仕方がありませんでした。わたしは吼えるように泣きました。
「わたしはあの日、春若と番ってなどいないのです……わたしは桜の木の下で、うたた寝をしていただけなのです。わたしの身体はきっと病気で、あんな……春若とは何もなかったのです。わたしは吉野の話が流れてしまうのが、怖かったのです!」
 今更、それも何の決定権もない白梅千花お兄様に訴えても仕方のないことでした。ですが言わずにはいられませんでした。わたしは額を畳に擦り付けて、春若に謝り続けました。
「知っていたよ。村長も知っていただろう。けれど君と彼が逢い引きしていたことは本当だった……あの場に彼もいたんだからね。村長の立場としても、桜供物に据えた娘にそんなことがあって桜の開花に差し支えがあっては困る。|()してや相手が|()業の者。そして君と彼が番っていなかった確証がなかった。吉野もそこまでは見ていなかったから。けれど何者かと番った証拠はあった……桜ノ|()の仕業だと説明したところで、彼とのものとも説明できてしまう」
 白梅千花お兄様は静かに語ってくれました。そこに潜む悔しさ、悲しさ、行き場のない怒り。
「吉野もこんなふうになるとは思わなかっただろうさ。穢の者から姉を遠去けたい。その一心だったんだろうね。君は吉野の中では、良家へ嫁いだことになっている。けれどもきっかけは悪意のないあの一報。気に入らなければ己で|(しがらみ)を果たしなさい。この村の今後のことなんてボクには関係ないからね。彼は最期まで君に詫びて、おとなしく処された。それをする資格は君に十分、あると思う」
 白梅千花お兄様はもうひとつ、わたしの指先から肘まであろうかという長さの短刀を差し出しました。
「いいえ……誰も悪くありません。わたしの浅慮が招いた結果です。白梅千花お兄様、たいへんお世話になりました」
 そのときの白梅千花お兄様の悪辣な微笑み。今まで見たことがありませんでした。わたしは恐ろしくなりました。
「君はもしかしたらすでに桜ノ嫁になっている。ボクは怖いんだよ。罪から逃れようとしているんだ。彼を処した時のことが頭から離れなくてね」
 白梅千花お兄様は目を伏せました。そしてただ指で差し、わたしに逃げ道を示しました。わたしは春若の帯を持ち、花狩川に行きました。そして橋の下に帯を括りつけ、首を吊りました。
 首が締まりますと、川べりに春若が立ってわたしを見上げているような気がしました。わたしはぼやける意識の中で手を伸ばしました。謝ろうにも声が出ないのです。掌から桜の花びらの山が溢れ出して、散っていきます。わたしの身体は重みを失いました。



 わたしは見事な桜の咲いた並木の下に立っていました。けれどそこは花狩川ではありませんでした。呆然と佇むわたしは手を取られました。春の木漏れ日のような体温でした。隣を見ると、そこには春若がいたのです。彼は人懐こく笑って川を指差しました。|(せせらぎ)とともに水面を覆う花びらたちが泳いでいきます。
「守れなくて、ごめん。八重ちゃん……」
「いいのです。わたしこそ、ごめんなさい。大好きよ、春若」
 わたしは彼の肩に頭を寄せ、少しの間目を閉じました。わたしたちはそのまま溶け合うようでした。川の流れに乗って、遠くへと旅をしました。



 歩くのもやっとといった青年が腰の曲がった体勢で土手を降りていった。川辺に1本、土手上の群れを外れて、植えた覚えのない桜が根を生やした。のたくった大蛇のように幹を伸ばし、川を横断している。
 花狩川の桜はその1本を除き、すべて腐り朽ち果ててしまった。だが悲しむ者はいない。最寄りの村の者たちは赤痣を患い死滅していったのだから。
 青年は這いつくばるように1本生き残った桜の下で掌を合わせると、そのまま動かなり、やがて崩れ落ちた。放り出された手には桜の花びらを押し当てたような奇妙な形の赤痕が散っていた。


 零花部落の者たちはこの赤痣を「花筏病」と呼び、若者を埋めた川辺の龍桜を鎮魂の樹として後世まで崇め祀った。

催花雨の巻

催花雨の巻

 今年も誰か、村から女が消えるんだろう。俺はそれを恐れた。姉ちゃんだったらどうしよう?姉ちゃんだったら……姉ちゃんだったら、俺はこれからどう生きていけばいい?
 俺は姉が好きだった。姉であり、母であり、けれどどこか心のうちで一線引かれたような関係は、姉を一人の他人の女と思わせるに十分で。

 姉が好き。どういう意味でも好きだった。恋い慕い、愛してしまった。俺は姉の傍に居られるだけでよかった。|同胞(はらから)だ。結ばれたいだなんて思わない。雨の日、風の日、何かを憂う姉を見れば、想い人がいることなんてすぐに分かる。屋敷の|紅梅(こうばい)サマとかいうのが、とてもいい男だというから、そいつかも知れない。
 俺も大きくなれば、ものの|(ことわり)というものを知っていく。桜の季節に村から消える女の条件というものを、俺は教わったのか自ら、男の勘というもので当ててしまったのか、それは分からない。腕のある者が手の挙げ方を、足のある者が走り方を知るのと同じように、いつのまにか知れていた。村の定めた女の清らかさと、男の|(きたな)さ。女の穢れは、男が移すものなのだそう。……とすれば、清らかな姉も、いずれは。
 村長の干渉からいって、姉はまだ清らかな身であって、そして桜の季節にいなくなる側の女であることも俺は察さざるを得なかった。俺は同胞。姉とは結ばれない。結ばれようだなんざ、考えるのは|(ばち)当たりだ。けれど、姉と離れたくない。姉は紅梅サマの手に掛かって子を成しながら、村の男と契りさえすれば、俺も俺で村の女を娶り、同胞としてこの暮らしを続けてゆける……はずだ。
 俺は紅梅サマの屋敷に忍び込んだ。紅梅サマに姉を会わせる。姉は綺麗だ。紅梅サマも惚れるに決まっている。子を孕ませるに決まっている。俺は紅梅サマに会うつもりだったが、そこで会ったのは紅梅サマの二子同胞だとかいう|白梅千花(しろうめちか)で、容姿はそっくりそのままだというから紅梅サマも相当の色男なのだろう。俺は様子を窺い、どう取り入るかを考え、たびたび屋敷に侵入しては白梅千花に捕まっていた。村の男たちは知ることを嫌うが白梅千花はそうではなかった。容姿も然ることながら、物の道理の分かる、面倒見のいい男だった。姉と契るのは別に、紅梅サマでなくても……
 けれど、姉の想い人が、|零花(あまりか)部落の|()の者かもしれないなどと、俺が考えられるわけもなかった。女の清らかさは男によって奪われる。痛感するには十分な事実を目の当たりにしたのは俺がどこかへ出掛ける姉を見たときだった。村長は口酸っぱく、俺に姉を見ているように言った。そしてそれは間違いではなかった。姉は穢されてしまったのか?俺は恐ろしくなった。往く道はもうひとつ。姉をひとり、狗畜生の|(つみ)に突き堕とすか、俺も姉と共に狗畜生になるのか。
 寝ている姉の布団を引き剥がし、その身体に|()し掛かることに躊躇いはない。零花の|穢人(ヱじん)と獣になるくらいなら俺と堕ちて欲しい。姉無しでは生きていけない身だった。時間の問題だ。もう姉の身体は穢れているのだろうか?その腹に穢れを宿しているのだろうか?
 胤はもうどうでもいい。生まれた後に俺が斬り捨てる。いずれにしろ、膨らんでいく人の目を欺かなければならない。 
 俺は激しく抵抗する姉を押さえつけ、跨り、そして手籠にした。姉は清らかだった。それが分かってもやめられない。俺の身体は姉と番うことを求めていた。激しく求めて、嫌がる姉の声をさらに望んでいた。女を穢すのは男。本当にそうかもしれない。俺は姉の身体を汚した。手垢をつけ、唾を塗りたくり、樹液みたいな子種を注いだ。姉の中の熱さ。姉の中の湿度。優しくおおらかな姉の圧迫感。俺は止まれなかった。|蜾蠃《すがる》の腰を打ち据えて、俺は経験も無しに男の肉の在り方を知っていた。何度も何度も、姉の啜り泣く声が消えるまで、放すことができなかった。幸せになれるとは到底思えないのに幸せだった。姉の冷えて湿った身体を抱き締めて俺はまだ止まらなかった。姉を犯す悦び。
 俺はその後も何食わぬ顔で白梅千花に会いにいき、どうにかして紅梅サマに取り入ろうとした。姉の腹に宿ったものがあるのなら、どうにか紅梅サマの子にできないか……
 俺は姉を手籠にした夜から、その後も毎晩姉を抱いた。目的なんて忘れて、ただ俺の慕情のまま。姉は少しずつ、姉にとっては苦獄のようなこの時間に適応していったみたいだった。そのうち声を高くして、|(やが)て言葉や手仕草とは裏腹に俺を内部へ強く求めるようになる。
 俺はそれが姉の気持ちだとは思わない。けれど言いようのない、特に理由の見当たらない悦びに泣き濡れてしまった。姉は俺に触れて、この人にとって俺はひとりの男でも、乱暴者でもなく、あくまで弟でしかないと奥深くまで響いて閃いていく理解は、俺を正気に戻した。姉と弟は契ってはいけないのだと……

 日が昇ると、村長にすべて打ち明けにいった。悔いはない。狗畜生の契りだ。零花送りも姉となら怖くない。姉は俺が守っていく。清らかでなくなった姉が、桜の季節、桜に攫われることはない。
 その場にあった|(なた)が俺の首に突き付けられたのをよく覚えている。俺は大分痛め付けられたけれども、命があるだけ無事だったというほかなかった。村長に連れられて、紅梅サマの屋敷に今度こそは玄関から入ることができた。実際に目にした|紅梅千花(あかうめちか)とかいう人は本当に白梅千花とまったく同じ顔をしていたけれども、細面の白梅千花よりもさらに顔の肉が削げてて疲れているような感じがあった。白梅千花も細いけど、もっと病気みたいな痩せ方だった。紅梅サマは俺の怪我を見て唖然としていたけれど、村長は紅梅サマが俺に触ることを厭った。
 この村で一番大きな屋敷には使用人がいる。女のほうは肥っているのとは別に腹が膨れていたし、男のほうは若くて俺より年上の感じはしたけれど、俺と同じかそれより小柄なように思えた。
 村長は俺と姉について、まず自分がいかに俺たちに期待していたか、そして俺が同胞相手に何をしたか、最後に俺の処遇をどうするべきか、紅梅サマに相談していた。
 紅梅サマは白梅千花と同じ顔をしていたけれども、その目は白梅千花よりも優しかった。額に少しだけ火傷の痕みたいな赤痣があって、それが少し痛々しかった。
「このとおり、素行に問題はあれど|縹緻(きりょう)はいい。あーしはこの坊主を、紅梅様のお世継ぎにするつもりだったんですがね……」
「悪くない。ぼくもそろそろ身体の限界を、感じていて……」
「|白梅(はくばい)様では|血脈(けちみゃく)の妙というものがござんしょう」
「分かっているよ。彼をぼくの後継ぎにして、その姉の世話はぼくがするというのだね。だからつまり、ぼくが彼の姉を娶れば……」
 それが一番丸く収まる話だ。姉は零花の穢人と契らずに済み、村から消されることもない。なのに、俺は焦った。望みのとおりになった。なのに、俺の気持ちは晴れない。
「君がこれからこの村を担う。身ひとつですぐに出て行けとは言うまいな。弟にも屋敷を空けるよう言わなくてはならないし」
 紅梅サマはそれから俺は意味ありげに見た。村長だけが帰されて俺は紅梅千花に屋敷を案内された。それから小瓶を預かった。
「"|気付(きつ)け"に使うといい。言えば仕入れてもらえるよ。君には早いかも知れないけれど。それからくよくよしないことだ。失敗もあるが仕方がない。そういう日もある。人の身体だもの」
 紅梅千花は何の未練もないふうに見えた。よく見ると、手の甲や腕にも、額にあったような赤痣が散っていた。鱗みたいで、白梅千花の部屋から見える池の鯉みたいだ。
 俺はただ呆然と紅梅千花の話を聞いていた。大半は聞いていなかったかも知れないけれど。姉がこの男のものになる……
「姉とは、」
「二度と会えなかろう。けれど|桜供物(さくもつ)にならず生きていける。君の容姿が端麗でなければ姉弟共々斬り捨てられていただろうね。それが君にとって良いことか悪いことかは分からないけれど。自害は止すことだ。この身に不自由はないけれど、自由もない」
 紅梅千花は急に天井の辺りを見回した。
「孕ませるたびに食い、孕ませるために身を清め、孕ませるために着飾る。でなければ|(おなご)は孕む支度をしない。身の内のものは要らないよ。身体があればいい。孕ませるには多少の工夫が要るけれど、それはなぞり芸では仕方がないから」
 俺は大それたことをしたと思った。でもいずれはこうせざるを得なかったのだと思う。姉を差し出すくらいなら。両親祖父母に申し訳ないと思わないわけではないけれど……
 この戸惑いを察してか、紅梅千花は木の皮みたいな骨の感触だけの手を俺の肩に置く。そこに白梅千花が来て、話が早いな、と他人事のように思っていた。あいつは俺を見てから痩せ細り具合に多少の違いがあるだけの二子同胞を見遣った。何を言おうか、白梅千花も戸惑っている。それはそうだ。今までの生活が終わるんだから。食って寝るだけの生活が。誰もが憧れ羨む止ん事無い暮らしが。
「乗っ取る真似してごめんな」
 白梅千花に恨まれるかもしれない。なんだか寂しいと思った。姉かこいつか。村の人とは合わなかったから、俺の気持ちの行き場がどちらかになる。姉には言えないこともこいつにはあった。嫌われるな、と思った。でも白梅千花は急に俺を抱き締めて、顔を見せたと思ったら眉根を歪ませて、目には涙を溜めていた。やってはいけないことをやった、感じが強くした。兄というものを知らないし、父親にしては若いけれど、俺はこの人に甘えていたんだな。姉を託そうだなんて一度は思った相手なのだし。
「君はいいんだね?これで後悔しないね?」
 俺に後は継がないと言って欲しいのかも知れない。そうすれば豊かな生活を続けられるものな……なんて捻くれていないと、重くのしかかってきているものから急に逃げたくなって、でも逃げ方を知らずに直面もできなかった。
「お姉さんのことはボクたちに任せなさい。姉が恋しいこともあるだろうけれど……」
 その後のこの二子は俺に優しかった。もう後戻りは本当にできない。後悔はしようがない。いずれにしろ俺に、姉と居られる選択はなかった。あるにはあったけれど、白梅千花は姉に惚れてはくれなかったし、紅梅千花は姉を孕ませてはくれなかった。俺がやるしかなかった。後悔できる点がない。俺が弟として生まれ堕ちたのがそもそもの間違いとしか。
「姉ちゃんはどうなるの」
 姉はどこに行くのだろう。ほかに寄る辺なんかないだろうに。
「ボクが連れていく」
 姉を娶るのは紅梅千花のはずなのに、答えたのは白梅千花だった。
「紅梅千花が娶るんじゃないのか」
「紅梅千花には他に好きな人がいるんだ。彼には自由になってもらいたい。だから君のお姉さんはボクがもらう。いいね」
 背の高い二子は、俺と話すときに目線を合わせて屈む。俺は初めて子供になったみたいになる。気を張って生きてきたのだと思う。両親祖父母の姿はもう思い出せない。姉は村長に連れられて他の女たちと筆学所に通ったし、俺は大人たちに囲まれて、すぐに働かなければならなかったから。
「なんだよそれ」
 俺は子供になったし、それを認めなければならなかった。言うな、言うなと思っても止まらない。思うようにいかないことなんてこの世にはごまんとあって、だからこの世は皆苦なのに。だから人々は口遊み、酒を飲んで、花なんか見上げて喜ぶしかないのに。
「それなら早く姉ちゃんを貰ってくれればよかったんだ。アンタが早く、姉ちゃんを貰ってくれれば、こんなことにはならなかった。好きでもないのに、貰ってくれるなら……」
 この人たちは他人だ。俺の兄貴ではないし父親でもない。ただ処遇に困った姉を引き取ると言ってくれる優しい人たちだ。なのに俺は通り過ぎた他の選択にまだ縋り付いている。
 俺は実際、白梅千花の袖にしがみついて泣いていた。怖かった。不安だった。村長の助けもあったけれど、自分と姉を食わせていくのが精一杯で、姉もそれを負い目に感じ、俺を拒めないことは知っていた。自分の身に潜む男という穢らしい|(さが)が恐ろしかった。けれど穢された女の弱さを守っていく自信もなかったし、女に生まれることを望んでみたところで、それを食い潰す男の穢れに怯えたことだろう。
 こんな話を一体村の誰に訴えられるのだろう。村長の贔屓がある、男が弱音を吐くな、|父親(てておや)がいないからだ、と叱咤されるのは目に見えている。暗い話で目が曇る。向き合わない。そうするしかない。
「君のお姉さんについては、憎からず思っているよ。回りくどい言い方はよそう。本当のところでは惚れている。けれどボクはそれを君の前でもお姉さんの前でも……いいや、誰の前でも口にできる立場ではなかった。安心しておくれ。惚れたうえは、仕合わせにする」
 白梅千花は俺を子供にしてくれた。俺が泣き咽ぶのを赦してくれた。
「なんだよ、それ!なんだよそれ!アンタが、早く……、それを言ってくれたら俺は!」
「すまなかった。赦してくれとは言えないね。すまなかった。謝るほかない。君の姉を仕合わせにする。それを君への償いとさせてほしい」


 俺はその日そのまま屋敷に入った。|身重(みおも)の女中が動き回っているのが怖かった。ここに来た時に見た、背の低い若い男は姿を現さなかったし、女中に聞いてもこれという答えはなかった。
 姉は村長が迎えにいって、今は白梅千花と一緒にいるらしいが会うことは禁じられた。紅梅千花のほうは座敷牢に好いた女を投じていた。この人は紅梅千花よりも幾分年上に見えたけれども気が|()れていて、それでも紅梅千花はその人に懸想しているらしい。姉と同じ宿命を辿る人だったのかもしれない。気が狂れて髪は艶がなくなってはいるけれど美人であったし、着崩れたところもない。ただ、外に出せば零花送りにされるのだろう。いいや、零花送りになる前に、労働力にならなければ斬り捨てられる。足があれば土|蹈鞴(たたら)を踏める。手があれば傘を貼れる。けれども動けなければ……この美人はそうならないようひっそりとここに閉じ込められていたのだろう。紅梅千花はその女を座敷牢から出した途端に疲れた顔がやっと和らいだ感じがした。
 俺は多分、そう長くは保たないだろうこの夫婦みたいなのを玄関で見送った。この屋敷から外へは出てはいけないらしかった。白梅千花は出てこなかったし、紅梅千花のほうも二子同胞を待つふうでもなかった。彼等は|今生(こんじょう)の別れというわけではないし、或いはどこかで落ち合うのかもしれない。俺はそれよりも、姉のことで頭がいっぱいだった。身重の女中は俺を憐れんでくれたけれど、俺はこの屋敷の主になってしまった以上、使用人に弱いところを見せるわけにはいかなかった。何にせよ相手も身重だ。

 白梅千花の話で、俺は姉が病で臥せっていることを聞いた。同じ屋根の下に居ながら、会うことを禁じられている。けれど会わなければいいのだ。俺は襖を一枚隔てたところに突っ立って、姉のいる白梅千花の部屋の様子を窺っていた。中から来ると、この部屋の隅ぶりに驚いた。俺は外から侵入してばかりいたが、玄関からは遠く、日当たりは悪く、もしかすると白梅千花も俺の思うようないい暮らしはしていなかったのかもしれない。思えば部屋も、俺と姉の住んでいた家の半分もなかった。襖も煤けて汚れている。
 姉は俺が襖一枚隔てたところにいることは知らないし、白梅千花も別に知らせなかった。俺の真上には多分、あの小柄な若い男の使用人がいて掟を破り次第いつでも首を刎ねられるのだろう。そのときは誰がこの屋敷の主人になるのだろう。村から拾えればいいのだろうけれど、俺のみたところ、紅梅千花に匹敵する美男子がこの|花ヶ住(かがすみ)村にいるとは思えない。俺がここにいるのも不思議なくらいだった。
 俺は姉の病を、本当は喜んでいるのかもしれなかった。まだ姉と居られるのだと。粗い土壁に凭れ掛かりながらそんなことを考える。
 姉と行きたい。姉と白梅千花と行きたい。けれどそれは俺の仕出かしたことからして許されないことで、俺の真上には今、やはり多分、刃が構えられているのだと思う。姉は白梅千花と仕合わせになれば良い。好きな女と出て行った紅梅千花も、同様に仕合わせになれば良い。俺はここで俺の生き方、この村で男に生まれた意義を探るのが平坦な仕合わせというものなのだろう。皆を仕合わせになんてのはできないのだ。桜の季節、必ず誰かは、必ずどこかの家は、離別の不幸に見舞われて、その後はどうなるのだろう。廻り来る季節は幸か不幸か。
 
 夜のことだった。俺は姉の様子が気になって白梅千花の部屋に行こうとしたのだと思う。玄関に灯りが点いていて、そこにはあの小柄な男の使用人がいた。|草鞋(わらじ)を脱いでいるところで丸めた背中が見えた。惜しいことをしたのかもしれない。姉に会える機を逃していたのかも分からない。
 使用人はすぐに俺を振り返って頭を下げた。愛想のない顔だが、少し目元が腫れて見えた。
「泣いてるのか」
「いいえ」
「初めて話すよな。知ってるとは思うけど、俺は吉野。これから……」
「僭越ながら申し上げますが、一国一城の主人がそう易々と下男に対し自ら名乗るべきではありません」
 ここの主人は俺だ。けれどもそのやり方は、どうしても女中やこの使用人のほうが詳しい。俺は黙った。
「|青饅(あおぬた)と申します。有事の際はご用命いただければ幸いです」
 紅梅千花に匹敵するような容姿端麗な男はこの村にもういない。そう思いはしたけれど、一人、いる。歳の頃は声からいっても少し上な感じがしたが、この使用人が使用人でいるのは、生まれのためか、その機能を失っているか、女子と見紛う背丈のためか……
「先を急いでおりますので、失礼いたします」
 足音もなく青饅とかいう使用人は行ってしまった。
 俺は姉の居る部屋に行くはずだった爪先の向きを変えた。ただ一目、見ることは許されないのなら、一息だけでも、衣擦れのひとつでもいいから聞きたかった。姉が恋しい。一人の女としても、けれど今は、唯一の家族として。布団の中で繭になり、俺は眠ろうとした。家族としての姉との思い出が浮かんでは消え、浮かんでは消え、俺は泣く。楽しかったことばかり浮かんでは、過ぎた日々の温かさが、これから訪れる俺を苦しくさせた。このまま蛾となって飛び立てはしないだろうか。どうにか、こうにか……

 外の騒ぎは家を越え、布団を越え、干涸びた感じのする夢を越え、俺は目が覚めた。青白い部屋は夜を通り過ぎて、けれどまだ朝にもなっていない頃合いか。それでも外は昼間の威勢。否、昼間でもこうはならない。
「青饅」
 有事というほどではないけれど、試しに俺は呼んでみた。天井の板が一枚開き、そこからあの小柄な使用人が降りてくる。着地の音もない。それが異様な感じを与えた。布団の横で|(ひざまず)くのが、俺にはまだ慣れそうにない。
「外、何かあったのか……?」
 青饅の目は俺を鋭く捉えて、俺はびっくりして布団から飛び出した。足が縺れて畳の上を滑る。青饅は俺に刀を向けている。言葉をかける間もない。ただ明確な殺意がそこにあるだけだった。相手は慣れている。俺の脹脛を刺し、足を駄目にさせることは容易だった。俺は痛みに喘ぎ、呻き、悶えた。けれど青饅は俺に|(とど)めを刺さない。俺が膝を抱えて動けないことを見て取ると、そのまま部屋を出て行ってしまった。痛みで汗が吹き出し、真夏の暑さと真冬の寒さが同時にやってくるのだから俺は気が狂いそうになった。けれど俺は、まだこの屋敷にいる姉と白梅千花のことを思い出すと急に痛みを失って、これは本当に気が狂ったと思ってしまった。俺はまた飛び起きて、床を汚すことも厭わず、或いは自分の血に滑って転び、姉の居る部屋に急いだ。そこでまた知る羽目になる。あの二子は二子同胞でありながら、対極的な部屋にいたのだと。急に悲しくなった。紅梅千花のことも、白梅千花のことも。俺のことも、姉のことも。この村のことも、今まで消えていった女のことも、村長のことも、なんでこんなすべてがすべて悲しいのだろう。
 身重の女も目を覚ましたみたいで、俺は途中で部屋から出てきたところに鉢合わせた。腹の子に響いたら事だ。男にしろ女にしろ、この村で生まれては仕合わせにはならない。
「部屋に居なさい。出てきてはいけない」
 俺は紅梅千花のようには振る舞えない。紅梅千花みたいにすべてを諦めて受け入れられる度量を持ち合わせていなかった。 
 身重の女中は俺の足を見て驚いていたけれど、俺が強めに言うと部屋へ戻ってしまった。
 俺は引き裂かれた二子同胞のあとをなぞるみたいに、いやに遠い部屋へ足を引き摺った。姉と白梅千花が危ないのではないか。青饅の目的が分からない。外の騒動は何なのか。
 俺は急いだ。そして白梅千花の部屋の襖を開けた。白梅千花が振り返って、俺は「逃げろ」と言いいかけた。けれど遅かった。白梅千花の陰には青饅が相変わらずの無表情で、白梅千花の背中からは尖ったものが突き出て真っ赤に染まっていた。それが引き抜かれて、白梅千花は畳に叩きつけられた。俺は息を思い出して、熱さで喉が灼けるようだった。言葉も出ない。けれど青饅の次の狙いが姉だと分かると、俺は次に気付いたときには姉の傍にいた。痩せ細って、髪は艶を失い、その姿は紅梅千花の連れていった女に似ていた。久々に触れた姉の硬さに寒気がして、今度は目の前から|(にじ)り寄る青饅に震える。白梅千花を貫いた刃物からは血が滴り落ちて、今にも俺たちを斬ろうとしている。
「どうして……」
 俺は独りごちた。姉だけは斬らないでほしい。俺だけは助けてほしい。俺は恐ろしさのあまり声が出なかった。
「吉野様。その折檻のお怪我が治られた際のお屋号は|駒込(こまごめ)様となるはずでした。何故?|(わたくし)が狂気に走ったとお思いですか。違います。私は正気です。私の生まれは零花部落。貴方がた花ヶ住村のご不浄の行き着くところでございます。貴方がたに足蹴にされ、踏み躙られる蟻んこ同然の存在でございます」
 淡々とした話しぶりはどう見ても正気の沙汰とは思えなかった。俺は姉を摩り、自分の寒さを誤魔化した。
「零花部落の生まれでは、どのような忠烈な旨であろうとも、上様にご注進し申し上げますとそれだけで不敬の罪に問われ、腹切りを|(たまわ)る穢れた身でございます」
 冷ややかな目が俺たちを見据えた。刀が振り上げられたそのときに、白梅千花が青饅を後ろから押さえにかかった。
「お逃げなさい。早く。早く、お逃げなさい」
 俺はぎくりとして、それから姉の腕を取った。外は塀に覆われ、忍び込んだ穴を2人で通り抜けることはできない。白梅千花が身を挺して青饅を投げ捨てたのを機に、俺は姉を引っ張った。外まで逃げればどうにかなる。俺は姉の手を引いた。後ろから聞こえた鈍い物音がどっちのものなのか、確かめる間もなかった。喉が|(つか)えてせぐり上げる。でも泣いている暇はない。姉を安全なところへ送り届ける。玄関が見えたところで、しかし玄関横の円窓から転がり込んできたのは血を浴びた青饅だった。
「紅梅様の跡を継いだ貴方は知るべきです。|(わたくし)は狂気ではありません。貴方でなくとも構わない。この因習を知る、八重様、貴方でも。貴方こそ知るべきだ」
 真っ赤な刀が俺を向く。振り上げられて、視界が翳る。俺は後ろから手を引かれて、目の前が暗くなった。懐かしい匂いと柔らかいのに少し硬い感触。
「貴方こそ知るべきだ!貴方こそ知るべきだ!貴方こそ生きて知るべきなんだ!」
 俺は震えた。姉の腕の中で震えることしかできなかった。耳を閉じて、目を閉じて、姉に守られることしかできなかった。姉が次々と降り注ぐ刀を浴びていることに気付きながら。
「|春若(はるわか)は貴方を救いたかった!なのに貴方は!なのに貴方は!」
 姉は頻りに誰かに謝っていた。俺は熱く濡れていく中で、蒸されていくようだった。
「姉ちゃん……」
 姉は俺を突き離した。それから身を翻して、青饅に勇みかかるのを、やっぱり俺は見ているばかりで止められなかった。髪から|(きっさき)が突き出たのを見て、俺は吐いた。もう立てないし歩けない。吐き気は治まらなくて、視界は滲んで、早く殺して欲しかった。青饅は姉をゴミみたいに斬り捨てて、なのに俺のほうに来ようとはしない。
「貴方は殺しません。死ぬことを赦しません。この村の醜く腐敗したところは、貴方が背負うべきなのです。|蔽虧(へいき)することはもうできないのです。それが私にとっての友への弔いです。貴方にとっての村への弔いです。桜を愛でるのはお好きですか。まるで生臭さを知らぬ桜の散り際のようでしたね。しぶとい花狩り桜のようではなくて……」
 青饅は顔色ひとつ変えず言い終えると、俺を刺し、白梅千花を貫き、姉を斬り苛んだ刀でその首を刎ねてしまった。



………俺はぼんやりそこに佇んでいることしかできなかった。そのうちに玄関から人が入ってきた。姉の遺骸を連れていかれそうになって、俺はやっと動くことができた。それでも開いていた目蓋を閉じてやることがやっと。俺は何も救えなかったし守ることもできなかった。

 紅梅千花も一緒に行った女も、出ていったその夜に首を落とされて村に曝されていたのだとは後から聞いた話だった。紅梅千花は悪くないけれど、恨みや羨望の的になったのは理解に難くない。やっと授かった子が男なら間引かれ、見目麗しい女ならゆくゆくは桜供物になる。村の男は自分の胤ではないかもしれない娘を育てる。そして季節になれば別れるのだから。
 紅梅千花がお払い箱になった後、村長に何人かの嘆願者がいたのだから青饅はそれに従った。これは生き残った、否、俺同様に生き残らされたり村長の言だった。他の村人は……
……花狩川の花見事といえば上様を招いての大きな祭だ。そのための桜供物。けれど人身御供のある祭だと明るみに出た時、またそんな祭に上様が喜びをお示しになって参加していたのだと知られたら。おそらく側近の判断だとは後々に聞かされたことだった。けれど証人として屋敷の者たちを始末する予定はなかったと……
 村長は処断。屋敷にいた身重の女中については紅梅千花の胤ではないことを誓わせ、俺が赦しを求めた結果、俺は都で軟禁生活を送ることになった。
 花ヶ住村は地図上からいってももう存在しない。けれど遺したくなるのが人の業だ。俺は密かに書物にまとめていた。あの村でのことは口外しない代わりに零花部落の解放を条件にして、そのあとは上様側近の令嬢を娶って娘を3人もうけた。
 娘の遊ぶ屋敷の窓から桜の花が見え、今年もあの季節が来たのだと身構えてしまう。書物を記す手を止めて、青饅もまた悪ではないことを思い、けれど彼を悪としなければ、俺はきっと気が狂ってしまうのだろう。
 妻と娘……俺は忘れなければならない。すべて忘れなければならない。吉野を捨て、|染井(ぜんせい)として、すべて。俺は書いていた雑記帳を破り捨てた。

【完】

桜伐梅不伐の巻

桜伐梅不伐の巻

 何人もの|(おなご)を孕ませて、|(みごも)っていることに気配で感じることができてしまった。連れて来られた女は|八重(やえ)という娘で、時折り弟が彼女のことについて話している。弟は村の女と交わっては、ひいては関わってはならないけれど、彼女の弟というまだ子供みたいなのを挟んでは特に私としても言うことはなかった。けれども弟が|(ねんご)ろにしている娘で、おそらく懐胎しているとなると、私もすぐに行為へとは移れなかった。それが彼女にも伝わってしまったらしい。
「|紅梅(こうばい)さま」
「意中の人がいるね」
 私は努めて穏やかに訊ねた。根が素直なのだろう。彼女はすばやく瞬きをして、私から目を逸らした。
「恥ずかしいことではない。この年頃ならよくあることだ」
「……ごめんなさい」
 私の仕事は村の女に胤を植え付けることだけれど、女が孕むには身の内の|(つか)えも関わってくる。だからたまには種付けもせず話し合うだけということも起こる。
「謝ることはないよ。相手も言わなくていい。私を好きになる必要はないし、この行為に慕情は要らない」
 ただ、孕んでいる女と事を行って、無駄に疲弊するつもりはない。そのことを打ち明けてしまったら、彼女は泣いてしまうのだろうか。第一、私の勘は勘でしかなくて確証がない。
「君は私の弟と、よろしくやっているようだね」
「わたくしの、弟の吉野が、お世話になっているようですから……」
 彼女は私の目を見なかった。そういう性質であるのか、私に後ろめたいことでもあるのか。相手が弟だとは思わない。|(あれ)は意外に臆病だから。
「わたくしのほうこそ、|白梅千花(しろうめちか)お兄様にお世話になっていて……」
「私が兄で、あれは弟だ」
「ああ、申し訳ございません。わたしは白梅千花さまをそうお呼びしていたもので」
 この娘に懐かれては弟もさぞ楽しかろう。ただこの|縹緻(きりょう)の娘が孕まされて産む側にされているのはおかしい。
「|村長(むらおさ)にここへ行けと言われたのかい?」
 彼女は顔を白くして俯いた。
「他の人と……その、契って……しまって……」
「それを村長に話したのだね?」
 小さな声と共に彼女は首肯する。
「相手は……いいや、訊かないのだった」
 私は彼女を緊張しているからという名目で帰してしまった。他の男の胤は別の男の胤で洗い流せと、村長はそうお考えのようだ。
 彼女を帰して少ししてから、村長は弟の遊び相手になってくれている小僧っ子を連れてきた。歳の頃は2桁いって少しであろうか。12か13か……14には差し掛かっていないように思う。八重という娘の弟で、唯一の肉親だそう。そして―
 村長の話す内容はつまり、姉弟でありながら男女の契りを交わしてしまっているとのことらしい。村長も気が動転していたし、私もすぐに言葉の理解はできても内容を受け入れるのは難しかった。
「あーしゃ、この吉野が大人の男になったあかつきには、そろそろこやつに、紅梅様の跡を継がせてもいいんじゃないかと思っておりますんで……」
 村長は、私の身体を気にしているふうだった。つまりは私の胤の潔癖性を。私の身体に赤痣が現れたからだろう。|伝染病(うつりやまい)の|流行病(はやりやまい)にしては使用人たちにも食事をともにする弟にも|感染(うつ)った気配がない。
「なるほど。それで、姉については」
 頭を下げる村長も、なかなか厄介な立場だと思う。あらゆる恨みと怒りと蔑みを買い、そこにあるのは私欲ではないのだから、私はこの村長が嫌いではなかったし、ある種、弟よりも私に近いところにある。
「紅梅様のお好きなようになさってくだせぇ。父もなく母もなく、弟はこのとおり、屋敷に入れる身。あの娘はいずれにしろ|桜供物(さくもつ)として台無しですから……しかし腹の子に関してはどうにも……」
「|結実(けつじつ)しているかは、腹の膨らまないことには分からないだろう」
「それが、月障りが無いそうで……」
 私は思わず彼女の弟のほうを見てしまった。それが判明するほど前から姉弟の縁で男女の契りを交わしていたということだ。彼はまだ幼い。そんな子供が……
「隠し事で身の内に痞えがあれば、そういう遅れもあるのでは」
「|二月(ふたつき)、|三月(みつき)も……となると……」
 私の勘は当たっているのかも知れないけれど、やはり勘は勘。
「吉野。少し外へ出ておれ」
 彼女の弟はすべてのものが憎そうに部屋を去っていった。村長はいくらか慎重になって私へ膝を擦り寄らせる。
「不都合があれば斬り捨てることも」
「誰が斬り捨てるんだい。赤子を間引くのとは違うんだよ」
「|零花(あまりか)送りでも……元はそういうところでせうが」
「ぼくが了承しても、花ヶ住村はそれでいいのかな。種芋役の姉が零花部落に住んでいるだなんて。穢れはどうしたのかな。穢れは身内から移るという話だったね。止したほうがいい」
 私たちの生まれはここではないから、花ヶ住村と零花部落の関係を深くは知らないし、また知ろうとも思わない。私はここで種芋の任を全うするだけ。私の胤が女児になり間引かれず暮らしているということを聞けば、何も思わないでもないけれど。酷い父親だ。胤さえ仕込めば親になれる。干渉せずに突き放すべきだ。何もできないのなら。
「ぼくも子が欲しかったから娶ろう。できればぼくの胤ではない子が。ぼくにください。けれど村長は。貴方はいいんですか。手塩にかけたなら、子は間引いて、養女にしてしまっても」
 この人も村長になったからには、と追加で一人娘を桜供物にしている。そのあと妻は首を吊った。後戻りできなくなったからこの人は花狩り桜にこだわるのか、|将又(はたまた)、そのことを恐れて躍起になっているのか。
「この歳でまた死別なんぞしたら、心の臓がもう保たん。ゆえに二度と人には入れ込まないと決めておるんでさぁ」
「じゃあ決まりだ。支度をしたら出ていくよ」
 私はすぐにあの娘を部屋に呼び寄せた。経緯を話すと、泣き出して、それが哀れに思えた。彼女は弟に手籠にされたが、それでも弟を憎めないこと、激しい羞悪に悩まされていたことを私に話してくれた。懐胎しているかもしれないと彼女は言って私は二度、三度、覚悟を問われる。
「ぼくもまともな人間では無くってねぇ……子供は道具に過ぎないんだ。申し訳ないけれど。場合が場合だから、間引いてもぼくは何も言わない。間引けなければぼくがやる」
 私の子が男児なら、弟が間引いて臍の緒を持ってくる。分からなければ保留。女児でも目に見えて分かる片輪なら弟が間引いて臍の緒を持ってくる。育ってから分かれば零花部落に送る。そういことを繰り返しているうちに、否、私の中でこだわりや決め事や指針が決まる前からそうだったから、そうなるしかなかったのだろう。鶏が卵を産むのと何が違うのか。産めよ、殖やせよ。けれども私たちみたいな畜生腹はいけない。人の世は大変で、獣の世の哀れで、蟲の世の儚い。
「どうしていいのか分からないのです。わたくしはこの子を愛せるか否か……恥ずかしい関係でできた子です。わたくしはこの子を見るたびに、自身の穢れを見ることになりそうで……」
「ものを慈しむ情は自ずと湧くだけのものではないよ。慈しむ情を持とうとする苦しみもまた情さ。これはつらくて厳しいけれどね。その道を往くのが親だと思う。我欲が付き纏うけれど。君にはその覚悟を見定める間もなかった。堕ろしてしまうのもいいだろう。人の業は深い。母親も子も」
 啜り泣く彼女を私は撫で摩る。この子が産まれるのなら私も人の親になる。その実感がない。私の胤ではないからか。
「わたくしは穢れた女です。他の人を好いているのです。だのに弟の子を孕んで、紅梅様のお世話になろうとして……」
「他に懸想する人がいたのかい。それはつらく厳しかろう。ぼくですまないね」
 彼女は首を振る。私は強く抱き締め、しばらく摩っていた。
「紅梅様……わたくしはどうしたらいいのか分からないのです」
「私と|夫婦(めおと)になろう。子のことはまだ考えなくていい」
 彼女は私の妻になる娘として屋敷に引き留めることになった。けれど彼女の弟もこの屋敷に留め置かれているから、私は奥の部屋を貸した。|青饅(あおぬた)という隠密に見張らせ、私は弟へ会いにいった。私が|日向(ひなた)なら彼は木陰。時折り兄であることをすまなく思う。私の生まれた土地では、|兄姉(うえ)は|弟妹(した)を足蹴にして産まれ堕ちてきたという言い伝えがあったけれど、外ではそうではないらしい。この村も、夫と第一子、第二子をもうけてから私と契る。夫と子をもうけられず私と第一子をもうかる女もいるけれど、往く道は知れている。そこに思い遣りを回す余地はない。村長と私、弟、零花部落の長の会議で決まる。
 弟の部屋に着き、襖を叩く。彼は中へと私を入れた。この部屋だけが持つ庭を作らせて、孤独な弟は十分それで気が紛れるらしい。|甥姪(せいてつ)の間引きは彼が務め、零花部落との連絡も彼が担っているから間引ききれなかった私の子と会うのは彼なのだ。時折りどこの女との間にできたどの娘がどうなっていたのか聞くことがあるけれど、私の娘という実感がない。目で見て耳で聞くのは弟だ。つらいのは彼のほうであろう。
「痣が増えたね」 
「そうか……」
「お払い箱かい」
 二子で、容貌が酷似しているからといって目と耳、身の内まで同じではない。私の疑問に弟は笑っている。
「|紅梅千花(あかうめちか)が自らここに来るっていうのはそういうことだろう」
 私は両手をついて頭を下げた。弟がたじろぐ。
「すまない」
「なんで紅梅千花が謝るの」
「ぼくの衰えを村長も気付いていたのだろうね。あとは吉野に任せることになった。君の小さな友人だ」
 それはこの弟も察していたのかもしれない。けれど多少の狼狽は否めない。
「それから、その姉の八重をぼくが娶ることになった。理由は聞かないでほしい」
 これには畳に額を擦り付けなければならなかった。恐ろしい静寂。池の鯉が尾で水を叩いている。産卵の季節か。まだ早いように感じたけれど。
「|花刻(はなどき)は、どうするの」
「……八重は身籠っている」
 私は私の核心を突く一言に答えられなかった。私には好いた女がいる。気が|()れているけれど。桜供物になり損ねた女だ。すべてを察し、桜ノ|()に食われる前に首を吊った。零花部落の花見張りがすぐに助け出しはしたけれど、元のようにはならなかった。私の前の代のこの屋敷の当主が決めたこと。当時の私は大人の男ではなく見習いで、どこかへ行くというその娘へ無邪気に櫛を贈ったのだ。
「相手は訊くな。ぼくではないよ。八重のことについて詳しく訊くのはいけない。ぼくはその答えを持っていないんだ」
 弟は動揺、惑乱。私はこの忠実に働いてくれた弟に対して手酷い仕打ちをしている。彼の|初戀(はつこい)の相手も、今懸想している娘も、私が取り上げてしまうのだから。
「分かったよ。ボクがのらりくらりと不自由なく暮らしてこられたのは紅梅千花、君のおかげだからね。何も言うまい。けれどそれなら、ボクはもう花刻姉さんに触れてもいいんだね」
 私はこの問いにも答えられなかった。2人の女を愛せるはずはない。片や身重。片や気狂い。だがここで選べるはずもない。しかし弟がすでに道を示している。
「分かった」
「じゃあ、花刻姉さんの頃合いをみて、ボクはすぐに発つよ」
 弟は立ち上がって行ってしまった。向かう先は座敷牢だろう。私は白梅の樹が1本植えられている庭を呆然と眺めていた。それから少しして我に帰る。早くあの娘のところに戻ってやらねばならない。
 戻ると八重は小さく淑やかに控えていた。
「脚を崩しなさい。つらかろう」
「いいえ……」
 彼女は首を振る。話しておくべきだろう。君は妻になるけれど、私の最愛の人にはなれないということを……いいや、話すべきではない。話してどうなるというのだ。彼女にはどうにもできないこと。私が八重を侮蔑してそうなったのではないのだから尚のこと、彼女にどうこうできたことではない。
「これから|夫婦(めおと)者だ。屋敷を出たらぼくも一介の男。君よりいくつか歳は上だけれど、立場としてはそう変わらなくなる。明日は歩くから、楽にしていなさいな」
 私はすぐ生活に必要なものを纏めた。高価な物も持っておけば|金子(きんす)|銀子(ぎんす)に換えられるだろう。
 
 私はその夜、夢を見た。第一感は夢だと思ったが、現実だったのかも定かではなくて。隣で眠る八重の枕元に誰か立っているのだ。彼女の布団には桜の花弁が舞い散っているのだから、夢だろう。この部屋に木はない。盆栽すらも置いていない。私は無遠慮に枕元のそれを見た。人が立っているのだ。若い男に見えた。歳の頃は私よりもいくらか下。八重と同じくらいだろうか。老女のような白髪だが真っ白というわけでなく、薄紅を帯びたような。
 私は青饅を呼びつけようとしたが声が出なかった。身体も動かない。謎の男は八重を見下ろしていたけれど、|(やが)て私のほうへ首を向けた。寒気のするほどの美貌。出自さえ分かれば、吉野のようなまだ幼い子供ではなくて、この男に屋敷の主人を任せるべきである。
「この娘を、くれないか」
 謎の男は確かに私にそう言った。姿は初めてみたけれど、私はこの者の正体を知ってしまった。夢の中に桜の樹が現れて、その下に娘が立つ。その夢によって時期と桜供物が選ばれ、私が推薦し、四者で相談するのである。
「その娘はいけない」
「この娘がいい」
「いけない」
「ならば、あの|(おなご)……」
 桜ノ|()は顔に似合わない樹皮を覆ったような手と長い爪で誰もいないところを指す。
「あの女が、欲しい。元は手に入っていたもの。返せ……!さすれば、もう何も要らん。罪深い|我主(わぬし)等の女……」
 私は首を振った。
「どちらも桜供物としての女ではない」
「この娘も、あの女も、|我桜(わおう)ぬもぬ……」
「やらん!」
 私のほうを向いた美貌が歪んでいく。顔の半分が引き攣り、拉げ、玉質の肌は樹皮同然に硬く皺を帯びて縮んでいく。人の顔から樹が生えている。
「次の桜供物は、」
 夢はそこまでだったように思う。私は心臓の疼くのを感じて目が覚めた。身を起こし、捻った身体が波打つと、一度大きく|(しわぶ)いた。それは体液を伴い、みるみるうちに畳が赤く染まっていった。口元を押さえる前に目にした手の赤さにも私は驚いた。血を退けても、そこにあるのはまだ赤。私の肌は鱗を散らしたような赤痣に覆われている。
 私は八重の目覚める前に、畳の血を片付けた。青饅がすぐさまやってきて手伝ってくれた。彼に私の今し方の様子を訊いてみたが、私は寝ている時にいきなり起きて吐血をしたのだというから、あれは悪い夢で、私は病人ということだ。

 私は寝付けず、縁側で外を眺めていた。 徐々に濃紺が薄らいでいく頃に八重がするすると布団から這い出てきた。彼女は腹を押さえていた。
「八重……どうしたんだい」
「紅梅千花さま………紅梅千花さま………どうなさいましょう、どうなさいましょう………」
 彼女はまだ明け方だというのに焦った様子で私に縋りついてきた。
「落ち着いて。お腹が痛いのかい?」
「わたくし、本当に懐胎したと思っていたんです。わたくし……でも、月のものが……」
 私はぎくりとした。八重が嘘を吐いているとは思わなかったし、村長の言っていたことが偽りだとも思わない。
「本当に月のものかい……?どこか身体を悪くしているんじゃ……いい。とりあえず女中を呼ぼう」
 私は八重の手を引いて、寝ている使用人を起こしにいった。女の身に触れているからといって、私の不可知なこと。女のことは女に任せるのがいい。
 彼女のことを使用人に任せ、私はまた明けていく空を見ていた。
「紅梅さま」
 青饅が珍しく自分から姿を現した。手には湯呑があった。
「薬を煎じました」
「すまないね」
 私は甘苦い薬茶を啜りながら暇潰しに夢で見た話をそのまま語って聞かせる。夢は夢だ。私の不調がそのまま夢として出てきたに過ぎない。長年の任を解かれるのだ。それなりの変化があれば身体も身の内も疲れるというもの。
 八重は気付かなかったようだし、青饅も無駄なことは口にしない。私の腕には赤い痣が広がっていて、それは夢に関係のある気がする。もしかしたら彼女の月のものにだって……
 私が薬茶を飲んでいる間、青饅は傍に控えていたが、気紛れを起こしたネコみたいに暗い廊下へ消えていってしまった。すると彼の行ったほうとは反対側から人の気配があった。弟か、彼女の弟か……だが違った。ぼんやりと光ったように浮かび上がるのは、好いた女だった。なんだか様子がおかしい。
「花刻。白梅千花のところにいなきゃいけない」
 けれど彼女は揺蕩うように私のほうへ歩いてくる。
「花刻」
 彼女は柱に凭れ、座っている私の胸に縋り付く。長年想い続け、格子の奥で逢瀬を重ねたきた相手だ。私は彼女に触れることをよしとしなかった。桜供物になった彼女に、のちの桜供物を殖やす側の私が何故、躊躇いもなく触れられる?恥を知るべきだ。私は彼女の重み、冷たさ、肉感と軽さに眩暈がした。異国の人形のような昏い目は私を映さないのに、私の肺病の兆しがある胸を登ってくる。血反吐をぶち撒けてそう長くない私の唇を彼女は吸った。窺うように吸って、そして舌を入れてきた。絡まる。弟にすまなく思い、夫婦者になる八重にすまなく思う。だのに私はやっと、桜供物を殖やす任から解き放たれた気になって、けれどもそんなことで私の罪も業も咎も消えはしない。しかし目の前の甘美な肉感に私は抗えなかった。懸想し憧れた女。手の届かぬうちに穢れきった身体……
 私はそこが縁側で、床は硬いことも忘れ、弟に預けたはずの女を抱いた。気の狂れた女の肉体を揺さぶり、執拗に突いた。私の交合いだった。胤を注ぎ、子を孕ませるためだけの種芋の務めではなく。
 これもまた、甘やかな夢だったのかもしれない。目蓋の奥の眩しさに目が覚めると、私の身体には布団だけでなくさらには八重に貸した寝間着の上衣が掛けられていた。甘やかな夢であり、そして八重への裏切りだった。けれどどこからが夢だったのか……
 私はまた咳き込んだ。腕を見ればまだ赤痣はそこにある。あれは夢ではなかった。掌を手に透かしていると、騒がしく|跫音(あしおと)が近付いてきた。
「紅梅千花!」
 弟だった。私にしがみつき、いつも落ち着いていて、剽軽なくらいの弟の酷い慌てように私はぎょっとした。
「なんだい。一体何が……」
「姉さんが!姉さんが死んでしまった!花刻が死んでしまった!」
 弟は叫んだ。彼は大声を出すとこうなるのかと他人事のように考えているうちに、私の足は気付くと、弟と彼女の眠る部屋に辿り着いていた。
「あのあと正気に戻ったんだ。花刻姉さんは正気に戻って、目を離したときには……」
 彼女は喉を一突きして死んでいた。亡骸は腹が膨れ、私は息苦しさに襲われる。
「花刻は、懐妊していたかい……?」
「していなかったと思う」
 そそけ立った弟を見るのは胸が痛んだ。嗚咽しながら懸命に答える。もうすぐ産まれそうなほど花刻の腹は膨らんでいた。
「じゃあ……これは、」
 弟は首を振る。私も|夜毎(よごと)花刻には逢っていたけれど、確かに彼女の腹はこんな分娩間近になるほど膨れてはいなかった。大体、父親は誰だ………………―………私かも知れない。
「|湯灌(ゆかん)と|(ひつぎ)の用意をする」
 弟は哀しみに打ち拉がれている。私がしっかりしなくてはならなかった。
「悲しくないのか。新しい妻ができたから?花刻の代わりがいるから?」
 部屋を出ようとする私に弟は飛びかかり、鷲掴む。鬱憤を晴らす相手が私しかいないのだから仕方がない。この怒り、悲しみ、悔しさ、それ等を受け止める以外の意思疎通を私は知らなかった。
「人の命の重みなど、|()うの昔に忘れたよ」
 この村はそういう村だ。弟は私を突き飛ばした。私は部屋を出て、八重を探しにいった。彼女は私の部屋の隣の部屋で針子をしていた。
「八重」
「おはようございます、紅梅千花さま。昨晩はどうもすみませんでした……」
「その話は後でしよう。少し立て込んでいてね。出ていくのもまだかかるかもしれない。君はよく食べて、ゆっくり休みなさい。いずれにしろ君はぼくと夫婦者になる。身体は大切にすることだ」
 恐ろしい夢の中で桜ノ怪はこの娘を求めた。花刻は死んだ。心配にもなる。
「青饅」
 私が呼ぶと、隠密はすぐやって来る。
「はい」
「最後の仕事かもしれないけれど、彼女を見張っていてほしい。頼むよ」
 そう言った途端―……青饅は私の目の前で、八重を斬った。そして私の胸元にも、彼に持たせた忍刀が突き立った。
「青饅………何故、」
 彼に表情はない。
「零花部落にはこういう言葉があります。花狩り桜の枝折るな。折って|()るなら追い回せ……花狩り桜の枝は折ってはいけないのです。折った人間が生きているなら、地の底まで追い回し、仕留めなければならない……」
 息をするたび、吹き損じた篠笛の音色のような音が首から漏れ、赤い|(あぶく)を作る。
「花刻を、殺したのは……」
「|(わたくし)です。腹の子は知りません。妙な夢を見たのなら、桜ノ怪の子でしょう。死産が常です。花狩り桜の礎としてあの|(おなご)の亡骸共々、私が弔います」
 私はかろうじて息を繋ぎ止めながら、襤褸雑巾のように斬られ、投げ出された八重の手を握った。けれど彼女の呟いたのは私の名ではなかった。
「自分を手籠にした弟など捨てて、零花部落に堕ちてくればよかったのです……そうすれば好い人と結ばれたのかもしれません」
 彼はその名の主を知っているようであった。惜しむように逸らされた顔は、狂気ではなかったからつらくなる。正気なのだ。彼は理性を以って事を行っているのだ。
「八重に、何か飲ませたね」
「堕胎薬を。片輪が産まれたならどう生きるのか、貴方たちは零花送りと言ってそれで終わる。そこにひとりの生きねばならない道があることも忘れて。臭いものに蓋をしてきた貴方たちのやってきたことです。誹りを受ける謂れはありますが、貴方からではない」
 私はもう天井の木理を見詰めていることしかできなかった。
「言い残すことはございますか」
「弟を殺さないでくれ」
「あの女の遺体を易々と手放してくださるのなら」
 私の願いは聞き入れられない。弟は手放さないだろう。そうして殺人術に長けた彼に殺されるのだろう。
「兄弟共々、梅の木の下に埋めて差し上げます」
「吉野は、どうしている……」
「眠らせました」
 私は濡れていく畳の上で腕を這わせ、八重の手を握った。
「君は、どうする」
「目的を果たしたら散ります」
「君を弔う手はあるのかい」
「零花に生まれては、まず先に諦めることでございます」
 天井に翳した腕から赤痣が消えていくけれど、もう掲げていることもできなくなった。



 花狩り川沿いの有名な桜並木は消え失せてしまった。
 近くの零花部落で解放運動が起こり、桜並木は伐採され、根絶やしにされ、土手ごと燃やされてしまった。所有権を有していた花ヶ住村はこれに対抗したが、やがて鎮圧され、その内情が曝露されると廃村となった。
 
 この解放運動の主導者は処刑直前、その動機を恋人に対する償いと、友人への手向けであると述べた。

 現在、花ヶ住村跡地では2本の見事な紅白梅を観賞することができる。

青桜の項 

青桜の項

 |花ヶ住(かがすみ)村はもう終わりかもしれない。上様がお気に召していらせられる桜並木のために人身御供を立てていた。このことは都を怒らせ、上様のご尊名、ご名誉すらも|(こぼ)しかねなかった。
 |(わたくし)は長年仕えた|(やしき)の主人、|紅梅千花(あかうめちか)様と村長が打首になるのを遠巻きに見ていた花ヶ住村の人々も|桜供物(さくもつ)の在り方に対して思うところがあったのか、|怒張声(どっちょうごえ)や罵詈雑言が飛ぶ。私は見ていられなかった。紅梅千花様と村長は、確かに責任者である。ゆえに矛先を受ける立場にある。しかし悪罵や誹りを受けるほど、彼等は私利私欲のみに走っただろうか?利己的であっただろうか。後ろめたさが皆無と言えただろうか。彼等の最期を見届けるのも仕えた身の務めと思った。だが耐えられない。この愚かさに。
 私は生まれの部落へ帰ろうとした。けれども視線を感じて立ち止まる。暗い顔をした娘は、八重とかいった。時折り屋敷で見掛けた。|白梅千花(しろうめちか)様には珍しい女の客人だ。あの方は兄の紅梅千花様との|血脈(けちみゃく)がどこかで混ざるのを忌避して、村の女と関わってはならなかった。けれど彼女の弟が間に入ることによって、彼女だけは白梅千花様と親交があったようだけれど、当の白梅千花様は、紅梅千花様に命ぜられ、気の|()れた女を連れて逃げたのだ。そして八重とかいう娘の弟も、紅梅千花様の後継者として都へ引かれていってしまった。つまり彼女は今、ひとりだった。ひとり……
 私には零花生まれの友人がいる。彼はこの|(ひと)を好いていた。この女を庇うために上様に義烈なご注進を申し上げ奉り、帰ってくることはなかった。私は止めた。けれど彼は聞きかなかった。|穢人(ヱびと)が声をかけることは大罪だ。たとえ謀叛の報せであろうと。彼は処されたのだろう。蟲の知らせというものがある。彼の家の周りには見事な白い紗椿があって、まだ瑞々しく開いていたそれがひとつ頭から落ちたとき、私は彼が処されたと思った。こうして彼の注進を耳に入れて、ここまでお見えになっておきながら、彼は帰ってこない。
 私は悔しく思った。花ヶ住生まれの男と零花生まれの女との間に生まれた兄妹の子。近親相姦児。それが私だ。祖父母の代から行き場がなく、親の代から呪われている忌み|()の私にも親しくしてくれた人なのだ。零花に生まれながら、零花でも蔑まれ疎まれてきた私に優しくしてくれた人なのだ。楽土楽界天とは彼のことだ。
 彼女は私の生い立ちも、彼の終始も知らないのだろう。結果、この村の|桜供物(さくもつ)は廃止され、花狩り桜も根絶されるというのに。私は彼女を見ていられなかった。そして部落に帰ると、彼の処断を告げた椿を拾った。彼女が何も知らず、のうのうと暮らしていくのが赦せなかった。
 斃死が宿命付けられていた私を拾ったのは、|櫻雲(よううん)というここよりさらに|(ひな)びた場所に住む老爺だった。私を隠密として仕込み、屋敷に遣った。隠密になるためには身を大きくしてはならないために私は|壺中(こちゅう)で暮らさなければならなかったが、屋根のあるところに住め、飯が出るのだから悪くない待遇だった。それを|金子(きんす)|銀子(ぎんす)のためではなくやってのけたのだからあの人はすごい。
 私はひとつ残されたこの身軽さを使って、彼女の住まう窓辺に彼の形見にもなれない椿を置いた。散りどきを知る花は美しいらしい。私はそうは思わない。けれど人の業。終わりが見えなければ価値に鈍する。
 本当に行き場を無くしていた頃、流浪の民になるしかないところに一報があった。零花部落の解放だった。上様の御触れであるけれど急だった。|生粋(きっすい)の零花部落生まれならばまずは喜びがあるかも知れない。どう生きるのか戸惑いはその後のことだろう。けれど私の身には危険なことであった。私は亡き友が想いを寄せた女の家に急いだ。私も当然、解放された側の身であるから、花ヶ住村の無断の来訪も罪ではない。彼女は私を見るなり怯えていた。それも無理からぬこと。頬被りも口当てもなく、山着姿の私に会うのは初めてだろう。
「逃げませんか」
 花ヶ住村の、|天下(てんげ)の人々は認めてこなかったことでも、零花部落も|人間(ひと)の集まり。怨み、嫉み、憎しみもあって然る。
 紅梅千花様はすべてを悟ったときに、私の身の上を心配していくらか|銀子(ぎんす)と|銅子(どうす)を渡してくださった。見た目の麗しさによってこの村に来たという話だけれど聡明な御方だったから、こうなることも、もしかしたら予見していたのかも知れない。
 だからとりあえずこの地から逃げるだけの金はある。その後の生計はその後に考えればいい。
「私は|青饅(あおぬた)です。屋敷にいた……」
 私は彼女に手を差し出し続ける。彼女は怯えてばかりで応えてはくれない。私が許されない血筋の人間だからか……
「ここにいても仕方がないのです。乗っ取りが起こるのは目に見えています。行きましょう。私が―……」
 私は自分で口にしておきながら、悲しくなってしまった。そのとき目蓋の裏に閃いたものが友人だったから。
「守ります」
 つまりこの|(ひと)を守らなければ、彼の本懐は遂げられない。顔面から落ちた白椿の姿が私を苦しくした。
「どうして、ですか」
 彼女は慄きながら訊ねた。そうだろう。そう思うだろう。
「貴方が恩人の、大切な人だからです」
「恩人……?」
 言ってしまってから、誤解を生む表現だと思った。彼女は私を屋敷の使用人だとしか知らない。紅梅千花様も私によくしてくださった人に違いはない。けれど|生業(なりわい)による|(しがらみ)だ。
「私は零花の生まれ。それだけです」
 彼女は目を見開いて、涙に濡らしました。これを私が言った意味。ここに本人が現れない意味。それ等が伝わったのでしょう。
「あの人は……」
「私は|確答(こたえ)を持っておりません」
 いくらか彼女は前のめりになった。淑やかな娘ではあるけれど、村の決まりを越えて零花部落の男と逢うような強かさを持っているのだから油断はできない。
「零花部落が解放されました。ここにいては、いずれは……」
 何の騒ぎか、近隣は慌ただしい。それが彼女を急かしたらしい。冷たい手が私に触れた。母の温もりの知らぬ私が、初めて触れた|(おなご)の肌のように思った。女の業というのか、紅梅千花様と村の女が|交合(まぐわ)うとき、場合によっては私は素顔を晒し、隅に侍っていた。こうすることで女の身体はさらに胤を欲するのだそうだ。つまり、傍に他の男がいることで……だから女の肌は何度も目にしたことがある。だが触れたことはなかった。特に、このように冷たく、咲きたての花のような肌には……屋敷にあった漆の箱の滑らかさにも似ている。
 私は掌が溶けそうなのを感じたが、すぐに引き戻される。彼女を連れて逃げなければ、友の本懐は遂げられない。彼は何も村の解体や部落の解放、花狩り桜の根絶やしを念頭に散っていったのではない。彼女こそを救いたいがために散ったのだ。
 引き上げるけれど、女の軽さというものを知らない私は力任せだった。彼女は私の胸に吸い寄せられる。あまりの軽さ、柔らかさに私は本当に守りきれるのか不安を覚えずにいられなかった。何よりも香とは違う甘い匂いがする。
 私は立ち眩みがして、重苦しい息が出た。
「裏口があります」
 彼女のほうが私の腕を掴み、これではどちらがどちらを連れて逃げようとしているのか|傍目(はため)からは分からないだろう。少し離れたところから私たちは元来た道を振り返った。村の正面には紅梅千花様と村長を処断したときのような|人集(ひとだか)りができていた。昼間だというのに松明を持ち、田畑ではないのに鋤鍬鎌鉈を手にした見知った顔触れ。乱奪りがはじまるのかもしれない。この小さな村で戦が起きる。それは清算か、ただの暴力であるのか、真っ当な駆け引きであるのか。
 彼女は立ち止まって、村の有様を見ていた。
「行きましょう」
 私は先を促す。
「わたしだけ、逃げてしまっても……」
「貴方が逃げるのは、貴方のためではありません。ご自分のためだと思うな」
 私はまだ立ち止まる彼女の手を引いた。女の軽さ、柔らかさ。力加減がまだ分からない。
 途中で花狩り川の近くを通った。桜の樹々は少しずつ伐採されている。枝を折った者は殺さねばならないという言い伝えも、また実行しなければならない決まりも、上様の|御諚(ごじょう)とあらば風の前の塵に等しい。何故なら、もう桜は要らないのだ。腐らして枯らしてしまっても構わないし、その方が伐り倒すのも楽であろう。
 私はこの|(ひと)に、すべてを話さなかった。野暮な気がした。或いは却って友の面に泥を塗りたくるような気さえした。
「これから……どうするんですか」
「まずは住む場所を……探しましょう」
 私は彼女と|流離(さすら)った。野宿の日もあれば、宿に泊まることもあった。私一人なら外でよかったけれど、女には堪えるだろう。私は彼女をひとり置いて外で寝泊まりしていた。このままどこか、彼女の落ち着く場所を探して、そこに置いたら、私はどこかで花狩り桜よろしく散ることにしよう。誰も何も知らない場所に彼女を置いて。友の願いはそれで叶うだろう。生き続ける彼女はこの先違う男と契るのかも知れないが、私の友に報いるためにできることはそれで限界だ。そう考えていた。しかし宿の前の道を通る人買いを目にした途端に考えを改めた。|女衒(ぜげん)であろう。|年端(としは)もいかない幼い娘が2人、連れていかれる。これも|(あきな)い。人の生きていく|(すべ)。同情の目を浴びながら通り過ぎていく。
 花ヶ住村も金に困ったときは零花部落の娘を見繕い、ほんの少しの間は村の女として扱って人買いに売り渡すことがあった。両脚のない片輪の娘と白痴の娘は特に高く売れたそうな。あの中に何人、紅梅千花様の胤がいたか。
 女一人では生きてゆかれない。
 私は泣き喚く女児の声が通り過ぎるのを聞いていた。幸い、あの娘は|縹緻(きりょう)が良い。品もある。淑やかだ。この|(ひと)に男を宛てがうまで、私は人生の清算もできないというわけだ。生まれ堕ちてくるべきでなかった命でも、生まれ堕ちれば業も|(しがらみ)も生まれ出づる。それに苦しむことになる。悲嘆することになる。生まれたときに為すべきことを引き摺ってきてしまった。為すべきを忘れて。私は成り行きに抗わず斃死すればよかったのだ。
 宿の脇の軒下に|(うずくま)っていると、あの娘が宿から出てきた。私を見つける。逃げ出そうとしていたのか。それならそれでも構わない。思い直して村へ帰ろうとしたのでも。
「青饅さん」
 娘は私の姿を見つけ、諦めでもしたのか傍へやって来る。
「お夕餉の時間ですって……」
「お一人分しか頼んでおりません」
「今追加で作ってもらっています」
 私は何かが気に入らなかった。立ち上がって、急にこの娘を威嚇したくなった。
「何故怒るのです。いただきましょう」
 村を出てから、いいや、もっと前から彼女の顔付きは研いだようになってしまった。針のようになってしまった。温容は薄れ、あらゆるものがそそけ立っているように思う。
 私は顔に苛立ちが表れていたのか、怒っていた肩を鎮めた。
「余計なことをなさるな」
 彼女は眉を顰めたのみで言い返すことはしなかった。あとは知らぬとばかりに宿へ戻り、私は苛立ちが募って中には戻らなかった。私は暗闇でよい。私は路傍の石ころでよい。彼女が私を認めているのが憎い。そう生きてきた。
「戻ってきなさい!」
 私の真上の階にある窓が開き、隣の家にその声が跳ね返る。あの娘の声だった。私は腹が無性に腹が立った。理由はない。私は二つ返事で動く奴隷ではないのだ。私は……
 私は宿の中へ戻った。彼女は飯を食っていた。傍にもうひとつ膳があり、雑炊が置かれている。彼女は何も言わなかった。凛として座り、飯を食い続ける。私を見ることもない。
「余計なことを、なさるな……」
「あの人のご友人だというから、私はあの人に恥じたくないだけです」
 彼女は私に目もくれなかった。友のことを出されては弱い。私は膳の前に腰を下ろした。腹は空いていない。けれど雑炊を一口、口に入れた途端、目頭が熱くなった。冷えた雑炊だというのに。
 様々なことが思い起こされた。零花部落と花ヶ住村しか知らない私が、まったく知らない土地で、よく知らない|(おなご)と共にいる。不安だ。これからどうなるのだろう。私は何をしたら。生まれ堕ちてしまった咎を|(すす)げるのだろう?


「あまり一人にしないでください」
 彼女は外へ行こうとする私を引き留めた。布団の中で、あとは寝るだけ。明かりもない部屋で、寝衣は白く浮かんで見えた。
 私は開けてしまった襖を閉め、彼女から離れた部屋の隅に|(うずくま)る。屋敷の屋根裏に潜んでいた仕事が恋しく思う。
「これから、どうするのですか」
「早くお休みになってくださいまし」
「何故、一人分しか、食事も布団も取らないのです。お金なら……」
「私に構うな」
 彼女はそれきり口を開かず、小さな衣擦れをさせて横になった。
 私こそ訊きたい。けれど誰が答えられる。この娘を預けられる良家の息子。だが良家の息子が禁じられた村の生まれのこの娘を娶ろうはずもない。使用人以下の扱いをされ、女衒に渡されるのが目に見えている。これからどうするのか、私にも分からない。ただ相手は女。ずっと流離っていられるわけもない。友の好いた女を仕合わせな道に行かせるのがあまりにも難しく、私には重い。
 私は不安に押し潰される。失くしていたと思っていた。
 ひたひたと微かな|跫音(あしおと)がして、気が付くと目の前には彼女が立っていた。私は自分の感覚が容易く鈍っていくのを感じていた。
 彼女の羽織っていた寝衣の上着が私の目を覆ってしまう。
「私に、」
「寒いと弱気になるものです」
 彼女は布団へ戻っていった。
「弱気になど、なっておりません」
 言葉を発したとき、私は喉が熱く、締め上げられているような感じがあった。一度は引いた目頭の熱はふたたび現れたが最後、今度は眼玉を覆い尽くす。
「……そう」
 私は傍で観ているだけの人間。これからもそうで、そう在るべきなのだ。友に報いたい。けれどこの選択は間違っていたのか……
 


 夜を重ね、辿り着いた都は言葉遣いもわずかに違っていた。ここならば、と私は思った。残った|銀子(ぎんす)でさっそく長屋のひとつを借りた。出ていく私を彼女は引き留める。ここに来る途中の宿では勝手に飯を用意したり、共に部屋で過ごすということは無くなっていたから彼女のこの行動にたじろいだ。慣れはしない。女の肌というのは恐ろしく柔らかい。
「八重さま……」
 私は初めて彼女の名を口にした気がした。
「ここに住むの?」
「ここが一番かと思われます」
「じゃあ、仕事を探して、色々と買い揃えなきゃね」
 私は返事に困った。私は貴方をここに落ち着かせたら、早く散ってしまいたいのだ。そう言えるはずもない。知らぬ土地に女は一人で生きてゆかれない。私が次に為すことは、彼女に良人を宛てがうことだ。散りにいくのは、友に報いたその後だ。彼は私を人間にしたのだ。野良狗ほどの力も知恵も活気もない私を、彼が人間にしたのだ。
「私は薬草と|推拿(すいな)の心得がありますから、それで店でもやります」
 良人が見つかるまで、私はこの娘を養わねばならないだろう。逃げ出すときに守ると言った。それが彼女を連れ出す約束だった。それまではまだ散れない。友に報いたい。今、私が生きる理由はそれしない。
 そうして暮らしているうちに、|(やが)て彼女もどこからか仕事を見つけてきて、長屋で文を書いたり、算盤を弾いたり、書に朱筆を入れたりしては日銭を稼ぐようになった。
「そんな暮らしでは、身体を壊します」
 或る日、彼女は私に布団を買ってきた。私が部屋の隅で座って寝るのが気に入らないらしい。
「私の生まれをご存知ないのですね」
 零花部落の生まれだとは察しはつくだろう。けれど事実は零花生まれよりも酷いのだ。それを知らないから布団を並べて寝ようなどと、椀を並べて飯を食おうなどと言えるのだ。この|(ひと)を辱めてはならない。この人は生まれこそ恵まれなかったが、鶴のような男が愛した|(おなご)なのだ。
「生まれなんて、もう過去のことではありませんか」
 彼女の言っていることはどう捉えても間違いはない。部落は解放されたのだ。そして逃げ出してきて、ここはまったく別の土地で、そこで暮らそうとしているのだ。
「私を知らないからそうおっしゃれる」
「知りたいと言えば、知らせてくれるのですか」
 彼女は人が変わってしまったように思う。こんなに気の強い娘であったろうか。淑やかなのには違いはないが、可憐さは失われた。そうだろう。可憐ではやっていけない。他の者ならば、彼女をそのままここに連れてくることができたのだろうか。
「私を知ろうとなさるな。私に構わないでくださいまし。いいのです、私は座って寝るのが常でした」
「お屋敷でもですか」
「私がそうしたいのです!」
 私はそうしてきた。私の身の上を知る者は私を哀れむ。同時に私の穢らわしい身の上話は相手を汚涜する。そして私はそのことに直面できない。私が私を認めることを拒んでいる。
「青饅さん。それでもわたしは、あなたに対して、ここに連れてきてもらったご恩があるのです。ご恩があれば報いたいと思うもの。そうでしょう」
「貴方が私に感じる恩などありません。何ひとつ無いのです。私に構うな!私に構うな!私に構わないでいただきたい!」
 私は恐ろしくなった。涙が溢れ出て止まらなくなってしまう。感情など捨てたはずだ。あるだけ虚しくなるだけだ。
「独りになったわたしを救っておいてですか。孤独なわたしを救っておいて、私に構うな?」
 彼女が私に触れた。彼女の冷たい手は震えていて、私は女の柔らかさに慄いた。
「わたしのやり方が気に入らなかったのなら、それはわたしの落ち度です。けれどわたしも憐れな|(おんな)。他にやり口が見つかりません」
 彼女の柔らかな手が私の手を拾い、女の胸の膨らみへと押し当てた。恐ろしかった。私の手は水銀中毒のように震えが治まらなかった。彼女の手も震えていた。
「私に構うな……!私に構うな、私に………」
 女の身体が恐ろしいのだ。何故禁忌と知りながら契るのか。何故、夫ではない紅梅様と契れたのか。理解のできない恐ろしい生き物。私は震えて、立っていられなくなった。
「青饅さん。孤独なわたしには、もうあなたしかいないのです。構わないことなどできるはずもない」
 私は壺中で育ち背が低い。いいや、隠密を目指さずとも、幼い日の思い出の中が暗闇と桶の中だったことを思うと背は伸びなかったのだろう。この娘とそう背丈が変わらないのは対峙したときからよく分かっていた。けれどあまりにも、今の彼女は大きく見えた。尻をついて泣き喚く私を、水のように恐ろしいほどの柔らかさで包み込むのだ。私は怖かった。身の預け方を知らない。私の肩は怒り、肘は強張るのだ。
「私はいやらしい人間なのです。おやめください。赦してください。怖いのです、怖いのです、嫌だ……」
 私は彼女を突き飛ばした。彼女は後ろへよろめいて、尻餅をつく。私は自分の金切り声が耳にこびりついたまま、気付くと長屋を飛び出していた。
 私は町からも出て、少し歩くと小さいながらも深く掘られた川を見つけた。短い橋が架かり、見下ろしてみると水嵩は低いのが月明かりに照らされて見えた。私は恩人の大切な女に酷いことをしてしまった。死ななくてはならないだろう。彼女は一人で生きてゆかれるだろう。私の案じることではないだろう。私が布団を並べていいはずない。共に膳を並べて飯を食っていいはずがない。私は|不見児(みえずご)なのだ。だのに何故、彼女は私を抱き締めたのだ。
 数えるほどの桜の花弁が川を下っていく。季節が移ろうのだ。友の家の椿もそろそろ花を落とし切った頃だろう。
 私は激しく浮沈する胸が落ち着くの待って、まだ長屋に戻った。燈は消されて、彼女は寝ている。その横に新しい布団が敷いてあるのをみると、私はまた胸が苦しくなるのだった。
「おかえりなさい」
 彼女は起きて、静かに私の姿を見つける。私は腹が立って、彼女に背を向けてしまった。
「外で眠るのはやめて。中が泥だらけになるでしょう」
 私は土間へと降りる板敷に腰を掛けた。
「どうしたらあなたは、安らげるのでしょう。安らげる日は、来るのでしょう」
 夜に冷まされた、彼女の甘い匂いがする。若い女は甘い匂いがするものなのだと、前に紅梅千花様が話していた。あの御方は背丈があって、病弱であるようだったけれど|膂力(りょりょく)は私よりあったように思う。どうやって女の柔らかく軽い身体を扱っていたのだろう。
「私が安らぐ必要はないのです」
「何故ですか」
「人がひとり安らぎを得るには並大抵の努力が要るでしょう。私は人には成りきれなかった。安らぎを得るにはつらく厳しい道を往くでしょう。その覚悟はないのです」
 私は草鞋の裏で土間を擦った。その音に紛れて、彼女の接近に気付かずにいた。水みたいな柔らかさが背中を覆って、私はまた恐ろしくなる。
「何のお戯れですか」
「人が怖いのね」
「人が怖いのではありません。女が怖いのです」
 首根っこを噛まれた猫みたいに私は動けなかった。また彼女を突き飛ばしてしまうかもしれない。女が怖い。柔らかすぎる。私はよく壊さずにここまで連れて来られたものだと感心した。
「そう。明日も早いから、わたしは先に寝ます。風病はたいへんですから、身体は冷やさないように」
 彼女の甘い匂いの残る上着が私の肩に掛けられた。軈て寝息が聞こえて、これが人の云う人並みの安らぎのように思えた。だとしたら呆気ない。私には恐ろしいものだ。


 大雨が降って本格的に季節が変わっていく感じがした。働いている按摩堂がそのために早く切り上げられて私は長屋へと戻った。彼女は主にこの部屋で日銭を稼いでいるから特に心配するところはなかった。
「おかえりなさい」
 書き物をしていた彼女は手を止めて、手拭いを用意したが、私はどうしていいのか分からなかった。彼女は泥を嫌がっていたが、私の足はすでに泥まみれなのだ。
「どうしました」
「いいえ、何も」
 彼女の無事が見えたのならいいのだ。私は寄る辺なく外へ出ようとした。
「またお仕事ですか」
「はい」
「大雨です。傘を持っていったら」
「お構いなく」
 私は空が晴れるまで帰れないだろう。それが常だが、一人でないのは居心地が悪かった。彼女の反応は居心地が悪い。帰りたくない。けれど帰らなければ、女は一人で生きてゆかれない。一刻も彼女に相応しい良人を早く探したいところだけれども、生憎、そういった相手は数が少なく、居たとしてもすでに妻がある。
 二晩は雨が降った。私は民家の軒先で雨を凌ぎ、晴れると川で泥を濯いだ。雨風の凌げる場所を見つける勘はまだ鈍ってはいなかった。仕事場では濡れた私に着る物を貸してくれた。ここでは本当に、私のことを知る者はいない。けれど何事もなく暮らすにはもう遅い。私の往く道はもう決めている。あとは彼女に良人を見つけ、それまで食い扶持を稼ぐだけの命なのだ。友の恩に報いて、石ころになりたい。
 私が家に帰ると、彼女は書き物をする手を止めて、ふいと顔を逸らした。
「おかえりなさい」
 私は返事することができず、無言のまままた長屋を出て、その軒下に蹲っていた。真横の戸が開いて、彼女も出掛けるところらしかった。
「そんなに家に帰りたくないのなら、わたしが出て行きます。わたしが出て行きますから、あなたはおうちにいたら」
 彼女の声はいつになく刺々しかった。私は何が彼女をそうさせたのか分からなかった。
「お待ちください。お待ちください。何を言って……」
 私は彼女を追うけれど、彼女は私に構いはしなかった。
「八重さま」
「あなたが選んだ土地で、あなたが見繕った長屋です。わたしが出ていくのが筋でしょう。お世話になりました」
 私が触れようとした手は弾かれて、女の柔らかさのなかには硬い芯があることを知る。
「八重さん。お待ちください、お待ちください」
 私は彼女の腕を鷲掴み、長屋のほうへ引き戻した。
「わたしが居るからあなたが安らげないのでしょう。過去を断ち切れないのでしょう。生まれは嘆いても変えられません。けれどこれからどう生きるかを変える機を、あなたはわたしに与えておいて、あなたはしがみついたままではありませんか。それはわたしがいるからです。あなたを知るわたしがいるからです」
「貴方は私のことを知りません。貴方は私のことなど、露ひとつも知らないのです」
 彼女を逃がすことはできない。彼女を仕合わせにする男に引き渡すまで、私は彼女を逃すことはできない。
「だから出て行くのです。あなたの|内懐(うちぶところ)を見ようとは思いません。けれどそれがある限り、わたしたちは上手くいかないのです」
「上手くいかなくていいのです。上手くいく必要はないのです。私のことも知らなくていいのです。友に報いるために、貴方には仕合わせになってもらいたい。それだけです。それだけが本心なのです。そのためにここまでやってきました」
「あなたがわたしの仕合わせを語るのですか」
 彼女は私の手を振り解こうとする。けれど振り解いたら彼女は逃げるのだろう。
「女は一人で生きてゆかれない。それは今の世の|(ことわり)。そうでございましょう?貴方に立派な殿方を見つける。私が友のためにできるのはそれだけなのです。私の生きている価値はそれにのみ尽きるのです!」
 彼女は私を突き飛ばした。
「立派な殿方……?何を言っているのですか。わたしは………わたしは、今まで、わたしは………あなたと|夫婦(めおと)者のつもりでいたのですよ。わたしは………」
 私は彼女の目が潤んでいくのを見た。殴られたような感覚が、実際は殴られていないのに、そんな衝撃があった。
「………は?」
「孤独の身になったとき、守ると言って連れ出してくださったなら、勘違いもします。あの人に代わって、わたしを娶るつもりなのだと………わたしはそのつもりで……けれど、あなたにそんな気はなかったのですね。はしたないところの端々をお見せしました。勘違いでしたけれど、諦めた生活でしたから、わたし、楽しかった」
 私を包んだ柔らかな感触、私を気遣う温もり、私を迎える優しい声……
「私は汚いんだ!私は汚いんだ!私は許されないんだ!私は!」
 私は泣き喚いた。恐ろしくなった。恐ろしいことを言われているから、私も恐ろしい身の上を語って聞かせた。私は泣き叫んで、怖くなった。何故父と母は兄妹の身で契ったか、理解したら私は気が狂ってしまう。
「私は散るしかないんだ。私は終わるしかないんだ!私は生まれ変わったら、石ころになりたい……」
「あなたがわたしを仕合わせにしてください。あなたの手で、あの人に報いてください。でなければきっと、わたしの中のあの人も、笑ってはくれないから」
 私の背中を摩り、私を抱き締める手は柔らかいのに逞しかった。

○【TL】花狩り移紅し

○【TL】花狩り移紅し

桜の季節のたびに若い娘を捧げる村の末路。パラレル・オムニバス形式。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 成人向け
  • 強い暴力的表現
  • 強い性的表現
  • 強い反社会的表現
  • 強い言語・思想的表現
更新日
登録日
2023-11-13

Copyrighted
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Copyrighted
  1. 桜霞
  2. 徒桜の章
  3. 夢見草の章 
  4. 催花雨の巻
  5. 桜伐梅不伐の巻
  6. 青桜の項