リヴァイアサンの瞳
『いつわりびと空』二次創作作品。9巻87話あたりのネタで薬馬×空を空視点から。ほぼラブポエム()なので許容して下さる心の広い方向け。
初めて会った時、その若さに驚いた。
ついで見た事も無い澄んだ瞳の色にハッとした。
深く沈んだその蒼は。
透き通っているのに空の青でなく。
せせらぐ川の青、静かに佇む湖沼の青でなく。
彼が誘うこの国の縁で、それを見た。
空を映す。果てのない空を、同じだけ果てのない海の蒼が映し返す。
「お前ら、海は初めてか……?」
(違うんや。凄いのは海だけやない)
この先に『日本ではない国』があることや。広い。この世界はほんまに広いんや。
今、隣にこの海を越え、そして戻って来た男が居る。
「オイ、人魚どこや。人魚」
ふざけた問いには、知るかとそっけなく帰って来たが。
出会った頃より僅かに剣の取れた声が続ける。お前なら見分けられるだろうと。
「ここら辺は遠浅だって聞いてるが、ああいう淀みはいきなり深い。気をつけろよ」
今は明るく見えてるが。あの辺りまで行きゃもう人の足はつかねぇ。
「そして、その向う」
目的の島すら超えた、海鳥すら飛ばぬ沖。あの辺は、本当に、深い。
照り返す陽光に、硝子をぶちまけたように輝く海面からちらちらと覗く、凄みを帯びた群青。
数千尋の、深みから汲み上げた蒼。異国へ行って帰るまでの途方も無い距離を渡るうちに、きっとその蒼がこの男の瞳を染めたのだ。そう思った。
遠く、広く、深く。
視ることを許された瞳の持ち主は、ただ、頭の中だけが世の理と常識に固く捕われていて、己に与えられた自由を知らぬ。
「お前はほんま残念やのう……」
「努力してる人間に向かっていきなりなんだー!?」
簡単に『造る』と言い出した、波を渡る為のその船の形も技術も山育ちの空は知らない。
凄いことなのに。
知る事を行く事を許されるのは、この小さな島国では本当に恵まれた事なのに。
知っていることを知らないこの男に対するチリチリした胸の痛みは。
嫉妬だったろうか。
憐れみだったろうか。
愛しさだったろうか。
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新しい仲間も加わった空一行だったが、肝心の空が両脚を負傷し、動けぬ体故、しばらく旅籠に逗留することになった。
しかし、普段から我が侭三昧の空が、布団の上で大人しくなど到底無理な相談だ。
足以外はぴんぴんしているせいで、我が侭当社比1.25倍どころの騒ぎではない。
放っておけば5分おきに暇だ、腹が空いたと騒ぎ立て、あれを持ってこい、これを寄越せの殿様っぷりである。
気に入らなければ薄気味悪い程のコントロールで何かしらが顔面を急襲してくる。
しかもその『何かしら』は高確率で他の宿泊客から巻き上げた金品であるから質が悪い。
取り上げた薬馬が返しに行って平謝りすることすら想定内だから更に質が悪い。
大仰に痛みを訴えることはないが、むしろ怪我をしているのだから素直に痛みの程度は教えとけ、とも思う。
閨や岩清の女性陣にはそこまで無体を言うこともなく、要領のいい弐猫はとっとと行方をくらまして空の機嫌のいい時にしか顔を見せない。
ぽちに至っては大甘の空が機嫌の悪い顔を見せることすらあり得ない。
勢い、空の我が侭放題の被害は薬馬が一人で引き受ける事になる。
「腫れも引いて来たし熱もねぇから大丈夫とは思うが……痛みの具合はどうだ?」
「足は痛くないんやけどな〜。トゲ刺してもーたみたいで指先が痛いねん」
「お前、寝たまんまでどこでトゲなんか刺すんだよ! ま、いい。見てやるよ、どの指だ」
「これ、人差し指なんやけど。ここ、ここ」
「別に赤くもなってねえし……」
「っていうのはウソやー!」
「ギャアアアア!!!」
ズビシー!
的確に眼球を狙われた。
「お前がよけへんせいで、ほんまに指先が痛いわあ!」
理不尽な理由で腹にワンパンも喰らった。ごろごろと床を転げ回る薬馬の脳内を駆け巡る走馬灯ならぬ薬馬灯。
「さすが妾の旦那様ん。嘘から出た真は許さない……これが偽り人の矜持ですのねん。勉強になりますわん」
「まさかの全肯定!? ダメですわよ、姫様。そんなものメモしちゃめっ! ですわ!」
「ね……閨……岩清より、空を先に叱れ……」
それより先に、あまりの騒がしさに旅籠の人に叱られた。が、息も絶え絶えな薬馬の様子に条件付きでかろうじて許してもらった。
「次に暴れたら出て行けだなんて……恥ずかしいですわ……」
いつもの買い出し。自分達がついていながら、と“自称”常識人の閨と薬馬は、しょんぼり項垂れながら道を行く。
「大丈夫、対策はバッチリとったから空がこれ以上暴れる事はないはずだ」
食材のほとんどを閨に持たせていた薬馬だが、手ぶらという訳ではない。むしろ担いだ荷物の重さで若干息が上がっている。
「空が大人しいのは飯を食ってる時とぽちを構ってる時。それから本を読んでいる時、だ」
今までも与えていなかった訳ではないのだが、何せ読み終えるのが早い上、一度読んだものは丸暗記できるらしく、二度は手をつけない。
空のペースで新しい本を与えていたらきりがない、と控え目にしていたのが敗因だ。
だったら読み切れない程与えればいいと、薬馬は力強く断言した。
「それでこの量の本ですのね……どんな内容なのかしら……」
両手にも背中にも持てるだけの本や巻物を担いでおり、行商人と間違えられて声をかけられたのも一度や二度ではない。
「手に持ってる方は判らないな。新刊棚にある娯楽本を端から端まで買い占めた」
(その資金あれば、旅籠変えるのなんて余裕じゃありませんの!?)
薬馬の金だから、どう使おうが自由だが。
「背中の分は?」
「俺があっちで使ってた専門書を取り寄せた。辞書を調べながらになるからな、いくら空でもこっちは相当手こずるはずだぞ」
「専門って……まさか医学の!?」
「あいつは、内服とか漢方専門みたいだが、独学であれだけの知識を蓄えてる奴はお目にかかった事が無い。これで、きちんと系統立てた勉強をしてみろ、どれだけ凄いことになるか……!」
その内服専門は、平気で身近な人間で人体実験することを判っているのだろうか。
万が一の時には外科の助手だって任せられる様になるぞ、と嬉しそうに理想を語る薬馬には悪いが。
(薬馬さんって頭がいいはずなのに、どうして鬼に金棒を与えている事に気づかないのかしら……)
自分の懐が痛んだ訳ではないので、閨は生温く微笑んでその意見を心にしまった。
人体実験第1号はどうせ薬馬本人だし。
もちろん、薬馬の読み通りに動く程、容易い相手だったら最初から苦労していない。
翌日は雨。
ライバルとは言え、同世代の女子同士、なんだかんだと打ち解けた閨と岩清が、朝食の盆を手にきゃっきゃと騒ぎながら男子部屋へ向かった時だ。
顔面に分厚い本を食い込ませた薬馬が、凄い勢いで襖ごと廊下に吹っ飛ばされている場面に遭遇してしまった。
「もう、空さんったら何やってるんですの!? これで、宿変更、決定ですわ……」
薬馬の心配より先に、雨の中引っ越すの嫌ですわ、と現実的なことを考える閨はすでに大変残念な方向で訓練されきっていた。
「このど阿呆がワシに余計なもんよこすから、寝つけへんかったやないかー!」
「あらん、空様、睡眠不足は美容の大敵よん。まっ、綺麗なお肌に隈が!」
「くまっ! くま、こわいですー」
あっと青筋を立てる暇もなく岩清が空を抱きしめる様に駆け寄り、白魚の指で、空の頬を撫で撫でした。
子狸が何か勘違いして、キャーと悲鳴をあげるので割り込むチャンスを失った閨は、「違うんですのよ」と優しく抱き上げてやりながら空の顔を見やる。
確かに、普段は飄々として真意を窺わせない彼の表情に僅かな憔悴と、やつれが浮いている。
「ここまで医者くんの心配する人間、ゼロ!?」
ニヤニヤしながら空の隣でごろついていた弐猫が、ぶはっと吹いた。
それら全てが、空にとってはふわふわとあったかくてくすぐったい。
かつて。
二度与えられていて、そして二度とも失ってしまったもの。
甘えているのを知っている。甘やかされているのも判っている。その中核を、今は顔面を抑えて再起不能寸前の男が為しているのが、なんだか悔しい。
夜中にそっと額に触れる、薬液でかさついた指先とか。
力を入れ過ぎるから、体を拭われるのは痛いこととか。
ふと目をあければ枕元で座ったまま船を漕いでいる姿とか。
細身に見えて、空を軽々と背負う背中の意外な広さとか。
栄養偏重で作られた粥のまずさとか。
時々、何か言いた気に、空を見つめる瞳の蒼が恐ろしく澄んでいることとか。
いいところも悪いところも全てひっくるめて、甘やかされていると気づく度、頭の芯が何だかふわふわくすぐったい。
阿呆のような一心不乱の献身は、しかし己だけではなく病める全ての人に等しく与えられるものだという事実にイライラする。
信じられない。
独占したいと思う己のブザマさが信じられなくてムカムカする。
結局、またも甘やかす様に与えられた大量の書物を、質より量やろと突っ返してやろうとしたら、きちんと質も確保されていたのが悔しい。
日本では滅多にお目にかからない皮の装丁。金箔を押された異国の文字。
初めての知識。薬馬の見て来た世界の一部。
面白かった。
インクの匂いも紙の手触りも、日本のものとはまるで違う細分化され系統付けられた内容も、何もかも。
辛抱強く単語の発音を教えてくれる薬馬の胸に背中を預け、辞書と首っ引きで貪るように熟読してしまった。鼓動が重なるような親密過ぎる距離感に、安心しきって身を委ねていたのに気づいたのは朝を迎えてから。
夜食も忘れる程没頭していたので燃費の悪い空の体は空腹も限界値だ。なのに、無闇に完徹してしまったせいで食べるのも億劫なほど眠い。
それもこれもあれも、全部薬馬が悪い。
以上が空サイドによる我が侭勝手な言い分だったのだが。
「寝不足まで薬馬さんの責任にするなんていけませんわ!」
「あ……ああ、いいんだ。今回のは確かに俺も悪かった」
弐猫に指摘された後では『取り繕う』もいいところだったが、コホッとわざとらしく咳をした閨は、ようやく起き上がってきた薬馬の手元に転がっていた本を拾い上げた。
「……そんなに面白いなんて一体……きゃあ!?」
が、垣間見えたその内容に思わず悲鳴をあげて取り落とした。
鮮やかな図録で示される血と肉の色のそれは何ページにも渡る人体解剖図。これはうなされる。というか閨は今夜確実にうなされる自信がある。
「さすがに身動き取れないような怪我人に見せるような内容じゃなかった。こんなの見せられれば眠れなくなるのは当然だ……」
実をいうとな、俺もこれ見た時は何日も眠れなかったんだ、と苦笑しながら薬馬は白状する。
「あ……あの、でも薬馬さんは良かれと思ってしたことですし」
「誰でもこんなの見たら、即実行したくなっちまうもんな! 判るぞ、空!」
(判ってねーよ! このマッド!!)
とその場にいた全員が内心で突っ込んだ。
「あー、俺も久しぶりに丸ごと一体解体したくなってきたなー。お前等怪我ばっかりするから心配だけど、やっぱり外傷縫うだけじゃ腕が鈍りそうで……」
たまには内臓を直に見たいんだよなーとサラッと血腥い事を口にする。
「そうだ、空、死体安置所から一人買って来てやるよ! 中庭借りれば、お前も見れるだろ?」
酒を一杯飲みに行く程度の気軽さで何か言い出した。
「やめて、薬馬さん! 私達、すでに追い出される寸前! ……いえ、その前にそんな、ご遺体を玩ぶみたいな……」
「最初に本音出た!?」
爆笑し過ぎて、ついに弐猫が腹を抱えてびくん、びくん、となっているが、それどころじゃない。
「閨」
間に入っておろおろする閨の肩をぽん、と叩いて薬馬は菩薩の微笑みを浮かべた。
「誰でも動物を殺して肉を食う。この場合感謝しながら食う事が供養だろ? 残酷に見えても、明日の医療への礎となってくれたことに感謝しつつ、大事に解体するのも供養のうちなんだぞ?」
(うわあ、輝いてるぅ……!)
ドン引きする一行に向かって道を説く医者の蒼い異国色した瞳は、空が出会ってから今までの中で一番、一点の曇りも無く澄んでいたという。
終
蛇足
その後。
同じ買うならマグロ一本買ってきて解体せえ! という空が投げつけた弐猫キャノンにより薬馬は『説得』された。
一行が珍しく空の我が侭に心から感謝したことはいうまでもない。
急遽、旅籠内でマグロ解体ショーが行われることになり、一行はなんとか追い出されることは免れた。
細身に見合わぬ腕力と板前真っ青の包丁さばきで鮮やかに刺身が出来上がって行く……が、その後縫い目も判らない程の再現率で綺麗に縫合し直された為、非常に不評だった、という。
どっと払い。
補足
徹夜…弐猫は空と薬馬の徹夜中も、ずっと隣に居ました。空気とかゆっちゃだめ!
弐猫キャノン…手近な弐猫を両腕で持ち上げ目標に向かって投擲する大技。連投できないのがネック。元ネタは犬ハサ。
マグロ…後でスタッフが責任を持っておいしく頂きました。
リヴァイアサンの瞳
初投稿です!訳も判らず編集してみました…少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。