高架下から見た星
僕が喋れなくなってから、半年が過ぎた。
その間、僕は誰かに助けを求めたり、病院に行くことも、手話を覚えることもしなかった。
最初は言葉が出なくなって驚いたけど、それだけだった。
喋れなくなっても僕の生活には何の影響もなかった。
何一つ、困らなかったのだ。
僕の仕事は物書きで、仕事の用件は全てパソコンのメールで済ますことが出来たし、僕は直接、人と会って打ち合わせをすること等は、一切していなかった。
ご飯を買いにコンビニに行っても、口を開くことなく買物を終えることが出来る便利な世の中だ。それに、僕に電話を掛けてくる友人知人もいないし、僕が電話を掛けたくなる友人知人もいなかった。たまに、思い出したように母が電話を掛けてくることがあるが、最近は留守電に残っている、心配そうな声を聞くだけだった。
テレビもほとんど見ないし、テレビのニュースに思わず声を洩らすこともなかった。
僕はとにかく人間が嫌いだった。他人と接することが、どうしようもなく苦手だった。苦手という域は、とっくに超えている。変わっている、と自分でも思うが、今の自分をどうにかしようという気にもならなかつた。
だから僕が喋れなくなったことに気付く人なんて、誰一人としていなかった。
僕だけがこの事実に気付いていた。
一体、いつから僕はこんなに人間嫌いになってしまったのだろうか。
小さな理由は色々あった。だけど、大きな理由が見当たらない。
他人といると苦しくて、一人でいると楽だった。
そんな生活がもう何年も続いている。
社会に出るまでは、集団生活を余儀なくされたが、社会に出てしまうと、僕のような生活を送ることは案外、簡単だった。
作家には人間嫌いがたくさんいると言われていたし、でもだからと言って作家の道を選んだわけじゃない。僕にだって普通に社会に出て働き、人間関係や仕事のストレスに悩んだ時期もあったのだ。
僕なりに苦難に道を乗り越えて、本当に自分にあった生活を手に入れた。
実際、小さな頃から本を読むのが好きだったし、文章を書くことも好きで、小学校の頃に書いた作文が新聞に掲載されたこともあった。
人に自分の気持ちを伝えるのは、どうしようもなく不得意だったが、それを文章でなら、ある程度は伝えられた。
だから、そんな生き方しか出来なかった僕に、この道が見えた時は本当に嬉しかった。これから先、生きていく希望のようなものが見つかった気がした。
大変なことは山ほどあるが、それなりに楽しく過ごしていた。
だけど喋れなくなった。
何日も口を開かなかったので、声が出なくなった正確な日付は分からない。ある日、目が覚めて、窓を開けたら雨が降っていた。そして一言、「今日は雨か」と呟こうとした時にはもう喋れなくなっていた。
その時、テレビドラマのような、すざまじい衝撃を受けることはなかった。あ、もしかして、僕は声が出なくなってしまったのだろうかと思ったぐらいだった。軽い音のない溜息を一つついて、それからしばらく、ぼんやりと窓の外を見ていた。だけど、さすがにその日は仕事をする気にはなれなかった。
どうして喋れなくなったのか考えることもなく、病院に行こうともせず、そのまま半年が過ぎてしまったのだ。
今では、別に声が出なくても僕は生きていけるのだと思うまでになっていた。
ピンポン。
ドアのチャイムが鳴った。僕はそれには応えなかった。
もう一度鳴った。
一呼吸置いてから僕は立ち上がり、玄関モニターに目を向けた。
そこには一人の女が立っていた。
肩に付くぐらいの長い黒髪の、小柄な女だった。
女は口元に少し微笑みを見せて、ドアの前に立っている。胸に茶封筒を抱くようにして持ち、足を上下に動かし、おつかいに来た子供のように体を揺らしていた。
帰る気配が全くなかった。彼女は今、この部屋の中に僕がいるこを確信し、僕が扉を開けるのを待っているようだった。いつまでも、いつまでも。
僕は頭を振り、溜息を付くと、諦めて鍵を外し、ドアを開けた。
彼女はモニターに映っていた姿と寸分のズレもなく、そこに立っていた。無表情の僕と目が合うと、彼女は口元の微笑みを笑顔に変えて、
「こんにちは」
と言った。
僕は少しだけ頭を下に動かし、それに答えた。
「突然すみません。何度もお電話したんですが・・・」
そういえば今朝から、二十回くらい電話が鳴っていた気がする。僕は喋れないので、掛ってきた電話は全て留守番電話に切り替わるようになっている。だけど僕はその留守番電話に残された伝言を、気が向いた時でないと聞こうとはしていなかった。今日はその日ではない。相手が伝言を残す時の声が、部屋に響くのが嫌だったので、音も最少に設定していたのだ。
当然、彼女からであろう電話も完全に無視していた。どうせたいした用事ではないのだから。
彼女は僕の醒めきった表情にもめげず、笑顔をさらに広げると、少し首を傾げ、僕の姿を足元から一瞬で見て、
「お仕事中でしたか。邪魔しちゃってすみません」
そう言ってペコリと頭を下げた。そして僕の返事を待つ間もなく、頭を上げたと同時に、さっきまでの表情が嘘のように沈み、落ち込み切った声で、
「・・・じつは、先生の担当だった小林が病気のため、急きょ入院をしなければいけなくなったので、私、西川がその間、代わりを務めさせていただくことになりました」
と言って、すかさず名刺を差し出した。
僕は死んだ目で頷くと、片手で名刺を見ずに受け取った。
「小林も、ぜひ先生に一言、挨拶をしたいと申していたのですが、手術の日程などが慌ただしく決まってしまったもので・・・」
僕は人間が嫌いだが、相手の心情を察知するのが上手かった。今、彼女は嘘を言った。
「先生、私はまだまだ未熟者ですが、昔から大ファンだった先生の担当に就かせていただくからには、精一杯頑張って行きたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします」
と彼女は、お決まりの言葉を昼間の玄関先で、快晴の空に負けないように元気な声で言ったのだった。
やれやれ、またやっかいな人間と関わらなくてはいけなくなってしまった。
僕はうんざりした気持ちで、彼女の手もとの封筒に目をやった。彼女はすぐさま僕の視線に気付き、これまたお決まりの、目を見開いた驚きで、
「あっ」
と軽く声を上げてから、封筒をやっと僕に差し出した。
「これは先生からお預かりしていた原稿です。初稿が済んだので、お持ちしました」
僕はそれを受け取った。彼女は笑顔を崩さないまま、我慢強く僕を見上げている。
きっと後悔していることだろう。私は何でこんな訳の分からない奴の担当になってしまったのだろうと。もしかしたら自分は上司に嫌われているのかもしれないと。
僕は多少、憐れむような思いで、彼女を見返した。さすがに限界が来たのだろう。彼女はそわそわしだし、ついに、
「それでは今日はこの辺で・・・」
と言い残し、そそくさと帰って行った。
彼女は僕が喋れないことには、全く気付かなかった。
そうか、小林は入院したのか。本当に何の連絡もなかったな。あの気持ち悪いほどに、几帳面な男にしては珍しい。
もしかしたら小林は重い病気を患ってしまったのかもしれない。それか、僕の担当から逃げ出したくなって行方をくらましてしまったのかもしれない。とにかく、理由は何にしても、彼女の様子からして小林はもう会社にはいないのだろうと思った。
ということは、これからは彼女が僕の担当になるのか。どっと疲れが出てきた。いつもあの調子で来られるとたまらない。
とにかく、極力、関わらないようにしよう。面倒くさい。
僕は西川から受け取った封筒を、そのままテーブルに放り投げ、ベッドに倒れこむと少し眠った。今日は仕事が進みそうにない。
次の日も、ほぼ同時刻に西川は僕の部屋のベルを鳴らした。
一瞬、無視しようかとも思ったが、それが通じる相手ではない。僕は寝起姿と部屋着のスエットを着て、彼女の前に立った。
「こんにちは」
笑顔で彼女が言う。僕は何も返さず彼女を見返した。彼女は少しひるんだ表情を見せたが、すぐに立て直し、周囲に目を向け、取って付けたような朗らかさで、
「今日はだいぶ温かいですね。春がもうそこまで来てる感じ」
僕は無言で頷く。
「先生は気分転換に外を散歩されたりなさるんですか」
僕は首を左右に一回づつ動かした。
「・・・じゃあ、お洗濯をする時はどうです? 風が気持ちいいでしょ」
僕はもう一度、首を横に振った。洗濯は乾燥まで全て洗濯機がやってくれている。太陽の力は借りていない。
「・・・」
いつもの沈黙だ。
僕と関わろうとする人間との間には必ず、この重たい沈黙が訪れるのだ。
彼女は今までの友好的な人間と同じように、少しでも僕との距離を縮めようと努力している。でも僕の心なんて、誰も理解できないし、開けやしないのだ。たとえそれが僕自身であったとしても。
「今日は、昨日メールでもお知らせした通り、原稿を受け取りに来ました」
僕は原稿の入った茶封筒を差し出した。彼女はそれを両手で受け取ると、胸元で大事そうに持ち、深々と礼をすると、早々に帰って行った。
僕は玄関の鍵を閉めると、扉に背を向けて部屋の中を見回した。何もない部屋。仕事にに必要な机と、食事を取るのに必要なテーブル。後は最低限必要な電化製品。とても三年以上、住み続けている部屋とは思えない。特に欲しい物もなかったし、季節や気分に合わせて、部屋を飾ったりする意味が僕には分からない。洋服も着れなくなったら捨てて、新しい物を買い足す程度だ。流行など追いかけたことは一度もない。その流行がいったいどこで流行っているのか全く分からなかった。僕はそういう場に無縁な人間なのだろう。
こんな僕の生活を、誰かが知ったら思わず、「寂しい」と呟くのかもしれない。「かわいそう」と嘆くのだろうか。ボランティアに関心のある人間だったら、僕の手を取って外に連れ出そうとするかもしれない。だけど、僕自身は寂しいとも思わないし、憐れみ、自分を慰めたりもしない。そんな事を考え出したらきりがない。誰だってそんなものなんじゃないのだろうか。
朝起きて、顔を洗って朝食を済ますと仕事を始め、夕方には近くのスーパーやコンビニに買い出しに行って夕食を食べる。そして、夜はきちんと睡眠をとる。作家の人は夜に仕事をする人が多いと聞いたことがあるけど、僕は昼の内に仕事をやってしまって、夜は眠るようにしている。その方が仕事がはかどるからだ。
出来上がった原稿は担当にメールで知らせ、担当が僕の部屋に取りに来る。担当から僕に用事がある時は、原稿を取りに来た時や、メールで知らせてくれる。僕がまともに接していた人間と言えば、その担当の小林ぐらいだった。その小林とは、もう三年くらいの付き合いだが、僕は彼のことを全く知らなかった。興味がなかったし、向こうも、そんな僕に気を使って、用件だけを伝えると、そそくさと僕の部屋を後にしてくれていた。
彼は今、どうしているのだろうかと、ふと思った。だけど、それ以上は彼のことを思えなかった。
次に小林の代わりで来た、西川という女について思う。前の小林とは明らかに違って、用件だけを伝えて、すぐに部屋を後にするという業務的な訪問が、彼女には、どう考えても出来そうにない。僕は心底うんざりした。これからも彼女が僕の部屋にやって来ては、どうでもいい世間話しをして、僕に気を使ってくれるのだろう。たとえ、僕が今日のような態度をとり続けても、彼女は僕の真意には気付いてくれないだろう。全く、めんどうな女だ。
「編集部の西川です。すみません。仕事が立て込んでいまして、どうしても先生の元へ伺えなくなってしまいました。ですが、どうしても今日中に作品を受け取らないと間に合わなくて・・・大変失礼なことをお願いしているとは思うのですが、昼までに出版社まで原稿を持って来てはもらえないでしょうか」
気持ちよく目覚めて、うっかり押してしまった留守番電話のメッセージボタン。僕は死ぬほど後悔した。彼女が僕に連絡を入れたのは夜中の一時だ。それから一五分置きに同じような切実なメッセージが残されていた。ということは、この用件は今日ということになる。彼女は昼までと言っていた。時計の針は午前八時を間違いなく指している。僕の住んでいるアパートから出版社までは歩いても、せいぜい三十分程度しか掛からない。十分間に合うじゃないか。それより、西川はその時間さえないぐらいに、忙しいのだろうか。
言葉が喋れなくなってから、スーパーとコンビニ以外の場所に行ったことがない。ましてや出版社にはデビュー前に一度しか行ったことがないのだ。
嫌だった。本当に。何とか行かなくても良い方法を考えたが、どれも言葉を発することの出来ない僕にとっては巨大なリスクを伴うものばかりだった。多分、西川は僕が気付くまで、何度でも電話を掛けてくるだろう。仕方がない。行くしかないのだ。
僕は彼女に「今から向かいます」と短いメールを送った。すぐに彼女から返信があった。「ありがとうございます。迷惑を掛けてしまって、本当にすみません」
僕はもう一度、大きなため息をついた。重たい体をゆっくりと動かしながら、出掛ける支度を始める。顔を洗って歯を磨く。食欲は恐ろしいほどにない。クローゼットを開き、目に付いた白のカッターシャツとベージュのパンツを取り出した。スウェットを脱ぎ、着替える。そして、食器棚の前を通り過ぎ時に、ガラスに一瞬映った自分の姿を確かめた。頭が少し乱れていた気がしたので、玄関に向かいながら手ぐしで直した。財布をズボンのポケットに入れ、原稿の入った封筒を諦めたように持った。玄関に行くと、しゃがみ込んで黒いスニーカーを履いた。そして座ったまま、しばらくじっとする。何を考えるわけでもなく一点を見つめ、ゆっくりと瞬きをした。
朝から外に出るのは久しぶりだった。まだ春になりきれていない冷たい風が頬に当たる。もう一枚、上着を羽織ってくればよかったと、後悔したが、もう後戻りは出来なかった。今、戻ってしまうと、今日は二度と外へは出れないような気がした。
子供たちが、道路を占領して、お祭り騒ぎで学校へ向かっている。時折、駅へ向かうスーツに身を包んだ大人たちとすれ違った。何も感じなかった。焦りや苦しみや妬みも。ましてや憧れや羨む気持ちは皆無。何だか彼らが、少しだけ哀れな生き物に見えた。しかし、彼らの目からは、僕がそういう風に映っているのかもしれない。そんな人々も、風のように僕の視界を流れて行った。
いつも利用しているコンビニの前を通り過ぎて、出版社までの道を、早く遅くもない速度で歩き続けた。このままだと予想していた通り、三十分程度で出版社に着くはずだ。
僕はふと立ち止まった。ここへ来て、大きな問題が思い浮かんだ。どうやって彼女を探せばいいのだ? 僕は携帯を持っていないし、彼女の携帯の番号が書いてある名刺も、家に置いて来てしまった。今から取りに戻るか? いいや、それは無理だ。それに、電話を掛けたところで声が出ないと、いたずら電話と間違えられてしまう。声を出そうと息を出してたら、変態が電話を掛けてきたと思って切られてしまうかもしれない。困ったな。
とにかく、彼女のいる編集部まで行ってみよう。運が悪くなければ、彼女はそこにいるに違いない。僕は横に建っているビルのガラスに映った自分の姿を確かめた。怪しい人間ではなさそうに見える。だが、声を掛けられたらアウトだ。身振り手振りで説明しようとすればするほど、不審者になってしまうだろう。軽く深呼吸して決意を固める。とにかく行ってみよう。後は成るように成る。僕はただ、原稿を届けにきただけじゃないか。現行の入った封筒もちゃんと持っているし、僕はこの出版社の作家なのだ。訳の分からない理由だったが、それは僕に勇気をくれた。
出版社は三年前と変わらず、そこに建っていた。僕が初めてここへ来た時の記憶が、徐々に蘇ってきた。そういえば、入口は少し古ぼけた自動ドアだったなとか、妙に細長いビルだったなとか。ただ、白かった壁が少しくすんでしまったような気がする。僕は今、緊張していて、しれくらいしか目に入って来ない。腰にロープを巻いて、タイヤを運んでいるくらい体が前に出なかった。これから数分後のことを、頭が勝手に想像して、僕を深い谷底に突き落として行く。
僕はここまで落ちてしまっていたのか。ごく普通の人間ならなんてことないのだろうに。どうして僕はこんなにも物事を深く重く考えてしまうのだろうか。暗い奴だ。
自動ドアが僕を除外するような音を立てて開いた。僕はなんともない冷静さを装ってビルの中へ入った。ビル自体は小さく縦長いので、一回のロビーには必要な物しかない。トイレと入口を入ると、目の前にあるエレベーターくらいだ。
まだ午前中なので人影は全くない。出版社は普通の会社と違って朝が遅い。こんな時間に会社にいるのは徹夜組で、昨日から残っている者ばかりだろう。
僕はエレベーターに乗り、案内板に従って、編集部のある三階のボタンを押した。エレベーターもビルに合わせて小さいので、五人も乗れば息苦しくなるくらいだ。その真ん中に僕は一人で、棒のように突っ立っている。
ふと思った。なんで僕はこんなところにいるのだろうと。なぜだか分からないが、階の表示から目が離せなかった。エレベーターが上がるにつれ、僕の心拍数も上がっていく。これ以上、上がると逆に心臓が止まってしまうんじゃないかと思えるところで、エレベーターの方が先に三階に止まった。その間がずいぶん長いものに感じられた。僕があまりにも出ようとしないので、待ち切れずにエレベーターのドアが閉まりかけた。僕は慌てて、「開」のボタンを押して、外に飛び出した。やはりこのフロアにも人の姿は見当たらなかった。
静かな廊下に僕のスニーカーの音がやけに大きく響いた。心を絞めるような残酷な音だ。この短い廊下の先には、西川のいる編集部の扉が見えている。ものすごく心配していたが、案外簡単にここまで辿り着くことができた。編集部のドアに近づくにつれ、電話のベルと共に、微かな人の気配が感じられる。
僕は迷うことなく扉を開け、頭から中に入った。
社内には数人の社員たちが慌ただしく働いていた。営業スマイルで朝から電話を掛けている男に、パソコンの画面を鬼のような形相で睨みつけている中年の男。三年前は下の狭いロビーで小林と話しただけで、編集部までは行かなかった。フロアも狭く、雑然としていた。机の上には天まで届くくらいに本や書類が積まれている。その中に僕の原稿も埋もれているのだろうか。もしも誰かが、その山にぶつかってしまったら、すべての山が崩れて、編集部は本や書類に埋まってしまうかもしれない。
だけど、そんなことはどうでもよかった。それくらいの様子は安易に想像できた。僕が違うと感じたのは、社内の様子ではなく、空気のようなものだった。今、僕の目の前で働いている人々は皆、徹夜明けで死にそうな顔をしていた。そんな彼らを陽光が容赦なく照らしつけている。そのせいで疲労感がより一層、際立って見えた。だけど、僕にはそれが、それこそが頭に思い浮かべていた情景とは大きく違っていたのだ。ここにいる人間にとっては辛いとしか言いようのない光景。僕が今まで馬鹿馬鹿しいと思っていた光景。
だけど、なんと言えばいいのだろうか。この言葉に出来ない感情を。焦燥感にも似たまばゆさを。決して太陽の光のせいではない輝きがそこにはあった。僕の中の何かが、激しく外へ飛び出そうとしているのが分かった。走ってもないのに息が切れた。僕は彼らに釘づけになった。目が反らせない。頭は考えることを止めている。ただ、そこにあるものを僕は見続けていた。
どれくらいの間、そうしていたのかは分からない。だけど多分、数分ぐらいだろう。一番奥のデスクで本の山に隠れていた西川が僕に気付き、慌てて走り寄って来た。
「先生すみません。わざわざ会社にまで来ていただきまして・・・」
そう言って、彼女は申し訳なさそうに俯き、小さく微笑んだ。彼女の顔にも同じように疲労が浮かんでいた。多分、昨夜は一睡もしていないのだろう。僕は胸の前で、気にすることないと手を振って見せた。そして彼女に原稿の入った封筒を差し出した。彼女はそれをいつものように両手で丁寧に受け取ると、胸に抱いて、いつもより深々と頭を下げた。
頭を上げた彼女に軽く一礼すると、僕は編集部から出た。すぐ後ろで彼女が礼を言っているのが聞こえたが、振り返らなかった。とにかく早くこの場から立ち去りたかった。西川以外の人間は僕に気付いているのかいないのか、一度も顔を僕に向けることはなかった。
エレベーターの扉が僕の前で開いても、僕は足を動かせずにいた。放心状態のまま、エレベーターの扉が閉まるのを見たような気がする。背後から来た若い女が、そんな僕の姿に軽蔑の眼を向け、わざとらしく僕を避けてエレベーターに乗り込んだ。非難の眼は扉が閉まる、その時まで浴びせられていた。エレベーターの階表示が一階で止まったまま、動かなくなった。僕は思いついたようにボタンを押す。そして、僕の目の前で二度目の扉が開いた。それでも、なかなか一歩が出て来ず、扉が閉まるぎりぎりになって、慌てて飛び乗った。
下がる表示を見ながら、僕は何をやっているんだろうと思った。いや、何をやって来たんだろうか。それなりに人生を歩んできたつもりだった。確かに、人に尊敬されるような生き方はしていない。喋れなくなって半年間、何もしなかった人間だ。普通じゃないということぐらいは分かってる。こんな僕の生き両親が知ったら、泣きながら「まず精神科に行け」と言われる確率だって高い。だけど僕は「それで」生きて来たんだ。仕事だって、それなりに認められて、裕福ではないが自分の望む物くらいなら手に入る生活ができるようになった。だけど納得はしているけど、満足はしていなかった? そんなこと呆れるくらいに認め、受け入れて分かっているはずだったのに。
僕自身もどこかで自分のことを、おかしいと思っていた。普通じゃないと。じゃあ、普通とは何なのか。そんなもの分からないのだけれど。
帰り道、すれ違う人々の気配が妙に大きかった。しっかりと足を踏みしめて歩かないと、しゃがみ込んで地面に倒れこんでしまいそうだった。そして、僕が異常者であることをみんなに知ってもらいたかった。そして、そんな僕を認めてもらいたかった。受け入れてもらいたかった。誰でもいい。子供でも老人でも、ホームレスでも犯罪者でも。ただ、僕の心を理解してくれて、「そんなこともあるよね」と軽く笑いながら手を差し出してもらいたかった。そしたら僕は泣きながら訴えるだろう。自分という自分を。
僕が今まで頑なに拒み続けてきた人との関わりが、今になって僕に問いを投げ掛けてきていた。家に帰る気がしなかった。その行先は選択肢の中に入っていなかった。 だけど僕にはこんな時に行く場所も、訪ねて行ける友人や知人は一人もいなかった。どこにも行けない想いが、僕をどんどん追い込んでいった。
流れるように過ぎていく毎日を、足で踏んで止めてしまいたくなった。何の希望持たず、時間が過ぎていくのに耐えられなくなった。動けず、ただ落ちていくしかない自分が、世界で一番無駄なものに思えた。
気が付くと夜になっていた。僕は飲まず食わず、立ち止まらずで宛てもなく街を彷徨っていた。体は何の変化も訴えてこない。空腹だろうに、疲れているだろうに。こんなに行動するのは何年ぶりだろう。体を動かし、リフレッシュすることは体にとても良いことだと言うけれど、数年ぶりに、突然こんなに歩くことは、体にどんな影響を及ぼすのか、皆目見当がつかない。
もしかしたら、僕はこのまま死んでしまうのではないだろうかと思った。宛てもなく歩いているのではなく、死に場所を探しながら、死に向かって歩いているのではないだろうか。それくらい、今は何をどうしたらいいのか分からなかった。
一体、今僕はどんな顔をしているのか、少し興味が湧いたが、顔を横に向けるのが面倒くさかった。頭が痛くなってきた。雨の日や泣き明かした時に来る、あの独特な頭痛だった。本当に駄目かもしれないと思った時に、僕の足が止まった。
街外れの高架下に僕はいた。人通りは全くない。地球の位置を確かめるように、僕は空を仰ぎ見た。鉄橋半分、夜空半分だった。それが今の僕の立ち人生の立ち位置を表しているようだった。全くの一人になりきれない自分と、社会に戻っていけない自分。痛かった。体の全てが僕に最終警告を発しているようだった。だけど、それでもまだ今の世界を壊せず、守ろうとしている僕がいた。このままで何が悪い。僕だって全身全霊で生きているんだ。
その時、真っ暗だった夜空の切れ間に星が見えて、僕ははっとした。ただのもみの木がクリスマスツリー変化するように、無地の僕が、その微かな明りに照らされて装飾されていくような気がした。それは誰かがどうしようもなく好きで、限りなく愛しいと思えた僕だったり、仕事が楽しくて、寝る間も惜しんで働いていた時の僕だったり。
夜空に寂しく浮かんだ一つの星は、今の僕とシンクロして、泣けるほどに美しかった。僕はどうしようもなく一人だった。そんなもの一人で見たって意味がない。意味がないのだ。
命あるものは、たった一人で生まれて、たった一人でこの世を去っていくそ事実は決して変わらない。変わらないのだけれど。
こんな自分じゃいけないと自覚していながらも前に進めず、抜け出す術や、頼る術を知らない。だけど、誰かに一歩踏み出すきっかけを作ってもらいたいと、いつも願っていたのかもしれない。だけど、そんな奴は一人もいない。僕は社会に見放されたのではなく、僕が僕自身を見放したのだ。今、僕の中に生まれた、この切ないほどに苦しい痛みで死ねるとしたら、今までの罪や足枷は全て消え、僕は天国へ行けるだろうか。
いや、違う。僕が死んで天国に行きたいのではない。死にたいのは僕の心だ。長い間、僕によって見捨てられ続けてきた、僕の心だ。もういいかげんに開放してあげよう。何も望んで僕を閉じ込めてきたわけじゃないんだ。だったら自由にしてあげよう。今がその時なんじゃないのか。もう十分だ。僕は十分、自分を追い込み、苦しんできた。
僕は軽く両手を広げ、大きく息を吸い込み、長い時間を掛けてゆっくりと吐き出した。今までの淀んだ空気が全て外に吐き出されていく。そうして何度か深呼吸を繰り返し、新しい空気を僕の体に送り込んであげた。なんだ、ちゃんとやれるじゃないか。
家に帰る途中、僕はいつものコンビニに立ち寄り、時間を掛けて夕食を選んだ。どれも美味しそうに見えたのだ。こんなことは本当に久しぶりだった。いつも生きるために仕方なく食事を取っていた。ビールも二本買った。レジに並ぶと高校生くらいの「研修生」と書かれた名札を付けた女の子が店員として立っていた。いつも見掛ける、胡散臭い年齢不詳の男はいなかった。そうやって毎日は少しずつ変わっていくのだろう。
「温めますか」
「お箸は何膳お付けしますか」
緊張し、少し高い声で強張った笑顔の女の子が僕に問いかける。僕は手を振って「必要ない」という仕草を二度した。さすがに笑顔を返すことまでは出来なかったけど。変わっていく。僕も少しずつ
部屋に帰ると、床に雑然と置かれた本や書類が気になった。買い物袋をテーブルの上に置いて、ビールを冷蔵庫に入れると、床にひざまずいて本や書類を集めだした。それらが片付くと、別の場所も気になりだす。必要な物だけを置いていたつもりだったが、いらない物や、隅々に少しずつ溜まっていた汚れがあることに気付く。とうとう僕はゴミ袋片手に大掃除を初めてしまった。なんだか楽しくて、僕は思いつくままにメロディを口ずさむ。
「?」
もう一度、口ずさむ。
生きるって素晴らしいことなのかもしれない。
その時、僕を呼び出す電話が鳴った。
完
高架下から見た星