千族宝界録S✛sin eater.

千族宝界録S✛sin eater.

「処刑人」である天使の人形から、人間になることができたエルフィ――猫羽。
それでも決して、彼女は自身の罪を忘れていない。できることなら周囲の誰もが幸せになってほしい。
それだけを願う猫羽の、運命への拙い働きかけが始まる。
update:2023.11.9 Cry/シリーズA版④
※直観探偵シリーズをご存知なら馴染みのメンバーが沢山います

†謡.瑠璃色の月夜

†謡.瑠璃色の月夜

 その日はまるで、夜空が瑠璃色に見えるほど、明るい満月が京都の街々を照らしていた。

「……――あれ? ラピちゃん?」

 街の要所、「花の御所」に住む友人を訪ねた帰り、深型の帽子をかぶり直した少年は、よく連絡を取り合う友達を道の先に見つけた。
 街を流れる小川にかかる小さな橋で、瑠璃色の髪で深い青の目の娘が笑って手を振っている。

「ただいま。くーちゃん」

 放浪家の両親と共に、旅がちの娘。少し前から京都より南の草原にある自宅を空けていたが、帰ってきたんだ、と少年は橋まで駆けよる。
「元気してたー? どーしたの、こんな夜に」
「うん。帰ったばかりなんだけど、またすぐ出ることになったから、急いで来たんだぁ」
「え? そーなの?」
 それはさすがに忙しない。また異国の土産話が聞けるかと思ったが、残念だった。

「それだったら、蒼ちゃん達にも会わないでいーの? 良かったら御所まで一緒に行くよ」
 娘の自宅からの道順を考えると、まだそこには行っていないはずだ。夜道を一人で歩かせるわけにはいかぬ、と明るく笑いかける。
「ううん、くーちゃんきっと、御所から出てきたばかりでしょ? 二度手間だからいいよ」
「えぇー。先に伝話くれたら、蒼ちゃん達も連れて出て来たのにー」
「それがねぇ、ひどいんだよー。ユーオンが私のPHS、壊しちゃったんだぁ」
「ええ⁉ ホントに⁉」
 娘の常々優しい義兄の、突拍子も無い行動を楽しげに口にする。
「慣れない物触るからいけないんだよねぇ。仕方ないから、こーやって直接来たんだよ」
「そーだったんだ……ビックリだねー」

 そこで娘は少しだけ残念そうな顔で、まだ驚いている少年に笑いかけた。
「でもそれで良かったかも。今度から行く所、絶対伝波入らないとこなんだ」
「えぇー。じゃあ新しいPHS、しばらくは買わないの?」
「うん。魔界のおかーさんの所で暮らすことになったから、次はいつ帰れるかわかんないし」

「へ? マ……カイ?」
 さらりと口にされた単語を、あまり理解できなかった。なのでわかる範囲で返答する。
「ラピちゃん、お母さんの所にいくの?」
「そーなの。ユーオンもだけど、ユーオンやおとーさんは、こっちにも帰ってくると思う」
 しかし娘は母の元に落ち着く、と、いつもは明るい笑顔が珍しく少し苦い。

「おかーさん、向こうの仕事が大変みたいで。どうしても帰れないって言うから、それなら私が、向こうに行こうって思ってさ」
「そっかー……ラピちゃん、お母さんのこと大好きだもんねー」
 それは仕方ないね、と笑う。この街で商売人として生き、動きようのない少年は滅多に遠出できず、会いには行けない。寂しくなるな、と思った。
「残念だなー。ラピちゃんに当分会えない上に、伝話もできないなんて」
「本当、私も、くーちゃんと話せないのが一番淋しいよ。……あ、でもね――」
 何かを思い出したように、娘が明るく顔を上げた。
「私の妹が今度、代わりにここで住むんだぁ」
「え? ラピちゃん、妹さんがいたの?」
 うん、と、とても幸せそうにそこで微笑んだ。

蒼潤(そうじゅん)君や(つぐみ)ちゃん達にもよろしくね」
「わかった、言っとくよ。でも帰った時には寄ってね、また遊ぼーね!」
「うん。ありがと――くーちゃん」
 そうしてあっさり、娘は普段と同じように、用事は終わったから、と少年に背を向けた。

「またいつでも……会えたら、遊んでね」

 その気軽さが続くことが娘の願いで――
 だから殊更、特別な別れは必要ないのだと。

 そもそも今夜も、本来会いに来れることのなかった娘は、惜し気無く場から消えていく。

「――って、一人じゃ危ないよ、送るよ?」
 くるりと少年が振り返った時、娘の姿はそこに無かった。
 代わりにあったのは――

「……あれ? 悠夜(ゆうや)君、何でここにいるの?」
「…………」
 少年がつい先程出て来た御所の、天才と名高い術師の子供がそこにいた。
 何故そこに、との問いを、大人びた術師の子供があっさりはぐらかす。
「……内緒。絶対教えないってことを条件に、降りてきてくれたから」
「?」
 それだけ言うと、フイ、と踵を返した。

 術師の子供がずっと気になっていたこと。
 ある死者との別れを、死者が望む形で終えることを、子供は手伝うことしかできなかった。

――ありがとー……悠夜くん。

 それがどれだけ大きな救いであったか――瑠璃色の夜の空だけがきっと知っている。


+++++


C3 Cry per S. -sin eating-
千族(せんぞく)宝界(ほうかい)録 Atlas' -Cry-
~罪喰い人~

✛開幕✛ Atlas' -Cry- S

✛開幕✛ Atlas' -Cry- S

「……来て、くれたんだ……」
 ある天空の島に、一人の天使が降り立った時。
 赤い天使を、その瑠璃色の髪の娘が一人で出迎えたのは、まるで運命を自ら望んで現れたかのようだった。
「わかってたよ……あなたなら、私を止めてくれるって」

 その天使は娘が一人の時を狙って、降り立っていた。
 何故なら娘は、たった一人で消えることを望んだ。

 赤い天使は処刑人の鎌を、咎人である娘に無情に突き付ける。

「……私のこと……連れていって、くれるの?」

 そのために赤い天使が現れたこと。
 そして咎人の娘をも助けたいと願っている天使に、娘は心から苦しく微笑む。

 赤い天使は、決して動かない表情――それでも暗い青の目に確かな哀しみをのせ、無力な人間の娘を見つめ返した。

「何か……言い残すことはある?」

 たった一言。
 それだけは命に刻まれた、(あがな)いの言葉を口にした。


+++++

†寂.S

 瑠璃色の髪の子供がいた山里は、(いにしえ)の結界に守られた隠れ里だった。
 鬼や(あやかし)、千種の種族など、この世界には様々な「力」を持つ化け物が潜んでいる。最も商業が発達し、力無き人間の多い「西の大陸」の奥地に、人間の里でありながら都市のようには発展せず、結界という人間ならぬ力に守られた山里があった。

 その山里で、山菜を採っていた幼い子供に話しかける、異邦の人影の暗い声。
「……あなた……名前は?」

 にこにこと明るい顔で、瑠璃色の髪を二つ括りにした子供が笑う。
「シルファだよ。おねえちゃんは、だれ?」

 話しかけた人影は、同じくにこにこと微笑みを返す。
「こう見えてもおばあちゃんなの。おばあちゃんの悪魔よ」
 どう見ても十代半ばで、尖った耳と長くまっすぐな銀色の髪の、孔雀緑の目をした人影。類稀な美形の少女がそんな風に言う。
 立ち居振る舞いが落ち着いているせいか、少女より女性という方が似合う人影が、何故か自身をおばあちゃんと名乗った。
「……アクマのおばあちゃん?」
 まだ六歳に過ぎない幼い子供は、女性の言葉を理解できず、ただ深い青の目を丸くして女性を見上げる。

「おばあちゃんは、どうしてここにきたの?」
 理解はできないながら、相手の言を尊重するしっかり者の子供。女性は軽く苦笑い、しゃがんで目線を合わせる。
「私も昔、ここに住んでいたの。もう百年以上は前だけど……だからここでの大切なお仕事を、私が頼まれたのよ」
「そっか。それならおばあちゃんも、シーたちのなかまだね」

 隠れ里たる地に住む人間は、基本的に外部との関わりを嫌う。そもそも里の者でなければ、結界の内に立ち入ることもできない。
 そのために、かつてその里にいたことで中に入れる悪魔の女性に、里の内にある古い(わざわい)を再び封印してほしいと依頼があった。よく様々な仕事をさせる死天使から頼まれて、女性はその里に来ていた。

「おしごとってなぁに? たいせつなことなの?」
「ええ。放っておくと、この里には良くないことだと思うわ」
 そっか、と子供は、それが女性の厚意と疑わない顔で微笑む。
「じゃあ、シーも、おてつだいする!」
 嬉しそうに手をとって引っ張るので、女性もあらら、と立ち上がった。子供に手をひかれつつ、どうせなら子供を自宅へ送ろうと思い立ち、そのまま山里へ立ち入ることになった。

 そうして幼い子供が、女性と関わったために両親を失い……子供も命を落とすことになると、その時は思いもよらないままで。


「……いた――……」
 泣き叫びそうな痛みで、瑠璃色の髪の幼女は目が覚めた。
「いたいよ……おかあ、さん」
 もう何度も繰り返し観た、誰かの終わりの昏く赤い夢。
 その夢ではいつも主演者となる瑠璃色の髪の幼い子供と、ほぼ同じ姿の幼女が、痛む胸を押さえながら起き上がった。

 あなたのせいよ、と。夢の最後には必ず、幼い子供の胸が鋭い刃物で貫かれる。
 その狂気に支配されているのは、封じられた(わざわい)に巻き込まれた子供の実母……禍のために夫を失い、後追い自殺を遂げた女だった。
「それは……シルファのせいじゃ、ないよ……」
 枕元にあるぬいぐるみを手に取った。黒く大きな目で灰色の猫のぬいぐるみを、胸の痛みを押さえるように強く抱きしめた。

「……エル? 大丈夫か?」
 同じ部屋に眠る少女を起こさないよう、静かな声で、戸口から幼女の様子を窺う人影があった。
「……ユオン兄さん」
 幼女が悪夢で目覚めたことを、リアルタイムで気付いた人影。幼女は顔を上げて扉の方を見る。
 ぬいぐるみを抱えて寝台から降りる。暗い部屋から出た瑠璃色の長い髪の幼女を、扉の外にいた人影が撫でた。今でも胸が痛い幼女を観て、困ったような顔付きで笑う。
「何か……温かいものでも飲むか?」

 幼女が兄と呼んだ人影は、金色の短い髪で紫の目の少年で、人間である幼女の実の兄では本来有り得ない。紫の目が特徴な精霊族の中でも、尖った耳と金色の髪という姿から、妖精の類であると周囲からみなされていた。
「うん――兄さん」

 兄の少年は、五感が及ぶ範囲の現状把握に優れる、直観という特殊な感覚を持っている。それには自身以外のことを、我が事と感じさせる性質がある。だから近くにいる幼女の夢を、おそらく同じように観ていたのだろう。
 少年もだが、我が事でない悪夢を繰り返し観る幼女も、少年と似た直観の持ち主だった。幼女が夢を観ていたことを感じて、少年が声をかけてきたのだろう、と当たり前に把握している。
 そうした暗黙の了解が当然である少年と幼女は、他に言葉を必要とせず、共に夜の台所へと向かったのだった。

 (からだ)の血は繋がっていないものの、現状把握に優れる同じ才能を持った少年と幼女は、本来は血も繋がった兄妹だった。
「……エルはどれくらい、ラピスのことは思い出せるんだ?」
 自身の呑み物を温めるため、ちょうどお湯を沸かしていたらしい少年は、慣れない手つきでお茶を炒れながら幼女に手渡す。
「わたしとラピスは、あんまり似てないから……あの赤い夢と、躰が覚えてる痛みくらいだよ」
 台所の机に向かって座る。ぬいぐるみを抱えながら、空いた手でお茶を受け取り、幼女らしからぬ落ち着きで淡々と続ける。
「ラピスの体の記憶も、シルファが死んじゃった六歳までだし。もし読めたとしても、それくらいだと思う」
「そっか……だからエルは、子供になったのか」
 あまりに言葉足らずの会話でも、少年と幼女の間ではそれで通じる。
「兄さんとレンも似てないから、レンのことはわからないでしょ」
 こくり、と少年が頷く。腕時計のように左手に巻く、蝶の羽飾りが付いた鍵を見つめて頷いていた。

「確かに、レンの体を使ってても、レンの記憶はわからないな」
「うん。わたしも、ラピスの体をもらったけど、ラピスのことはちょっとしかわからないよ」
 互いにおかしなことを口にして、それだけで頷き合う少年と幼女。実際その言葉の通り、どちらも自ら以外の他者の体を貰い受けて生を得た者で、遠い昔に己の体を失った実の兄妹だった。

 ラピスという、瑠璃色の髪の娘の体を幼女は貰い受けた。古くは黒い髪で青い目の十三歳の少女だったが、気ままな死の天使(オセロット・アーク)と呼ばれたその体はもう遠い昔に亡くした。
 ある(いにしえ)の国同士の戦いに巻き込まれ、敵対してしまった兄が重傷を負った時、助けるために敵国を訪れた少女は命を落とした。それでも生前から竜珠という秘宝に魂を囚われていたため、秘宝の宿る遺物に己が残り続けたのだ。
「竜の眼って、命は助けても、記憶は戻せないのかな」
「そうだと思う……多分わたしは、生きてる頃から竜の珠の中にいたから、そっちに記憶が残ってたんだと思うよ」

 兄はその妹を助けられるはずの、竜の眼という小さな宝を持っていた。妹はそれが、人間である自らも使えるものと知らなかったので、兄を助けるために渡していた。
 その宝を妹に返し、妹を助けるために、兄はヒトの命を貯める宝剣に魂を宿してまで長い時を待った。そしてつい先日、妹の魂が宿る秘宝と巡り合い、妹を助けることができていた。

 兄も妹も、己以外の死者の体を貰い受けて新生した形だ。兄は古い記憶をあまり思い出せないが、妹は数千年もの遠い昔を、わりとしっかり覚えている状態だった。
「レンの体もラピスの体も、竜の眼の力で助かってるから……二人共、もし戻っても、他の所に記憶がないと真っ白だと思う」
「レンは羽に記憶がありそうだけど。ラピスは……そもそも、まず戻らないだろうな」
 幼女にお茶を炒れた後、兄は酒瓶を温め、ごく小さな杯で少しずつお酒を含んでいる。彼らが今いる国、「ジパング」の主食からできたお酒だ。その顔はただ痛ましげで、戻りさえすれば、本来自らの生を繋げる娘のことを思っているようだった。
「エルがその体を使う方がいい――竜の眼もエルの命だって、ラピスは帰ってくる気はないんだ」

 俯く兄が口にする名は、養父母が連れていた養女だ。兄には実の妹と同じくらいに、大切な妹分だったのだ。
「その方がオレのためになるって……だからラピスは自分から、消える道を選んだんだ」
 淡々と無機質に言い、杯を含む少年は、元々非常に食が拙い。その養女が消えてしまった時から全く食事を摂れなくなったことを、この家にいる者は全員が知っていた。
「……ラピスを本当に追い詰めたのは、兄さんじゃないよ」
 辛うじて酒類だけを兄はエネルギー源にする。それも明朝から、養父と共にしばらく遠出する力を蓄えるため、嫌々の摂取だった。幼女は淡々と、無駄とわかった言葉を口にする。
「ラピスはシルファに戻りたかったんだよ。シルファのことを、ちゃんと……ほんとは死んでるって思い出したかったみたい」
「…………」

 十四歳だった養女は、本来は六歳の時、幼い命を実母の手で奪われている。その時、ある悪魔の女性の命を秘密裏に分け与えられた。それによって死した体を仮初めに動かされ、見かけだけ成長し、生を繋いでいた状態だった。
「シルファは命を食べるのが嫌で、でも独りで消えたくなくて、水華や兄さんに一緒にいてほしがって……だから、兄さんから記憶を奪ったり、水華を道連れにしようとした――」

 その悪魔の女性の命が尽きる局面が迫った中、養女は女性に命を返すこと選び、姿も幼く戻ることとなった。今の幼女の姿は、養女が養父母に出会った八歳頃のものだ。それまでは合意の上で体も成長するほど命を分け与えられ、自身が死者であることも養女は覚えていた。いつ死者に戻っても良い、と自暴自棄でいたから、契約の内実はどうでも良かったのだろう。
 しかし優しい養父母に出会ってから、死にたくない思いが芽生えてしまった。生きたいと思ってしまうなら、他者の命を奪うしかない自身への嫌悪が芽生えた。自身を含む周囲に、己が死者であることを隠すようになった。
 それくらい生への執着――死の孤独に苦しんでいた瑠璃色の髪の娘を、この二人の直観は深くまで感じていた。

「でもラピスは……シルファを止めてって、願ってた」
「……エル」
 最終的に、娘が消える後押しをしたのは、他ならぬこの幼女だ。己の命が宿る赤い鎧を身に着けた、処刑人の人形だった天使。
 その天使に、何故、と兄は尋ねた。その兄が明朝にいなくなる局面において、幼女はやっと答を返す気になっていた。
「ヒトの記憶を奪う神様になったシルファは、もうラピスには止められなかった。でもそれで兄さんが、消えてしまいそうになったから……だから、わたしが、ラピスを殺したよ」
「…………」

 今までわざわざ答えなかったのは、兄がとっくにわかっていたからだ。痛ましくも厳しい顔の兄は、そうした現実――娘が自らそれを望んだことを承知している。
 娘は故郷の山里に封印されていた、ヒトの記憶を奪う力を持つ「神」を宿していた。「神」に命を囚われた娘を解放するには、天使はそうするしかなかった。
 それをわかっている兄は……娘も天使も、結局は少年を助けようとしたのだと、そんな現実を呪っているのだ。
「それは兄さんのせいじゃなくて――わたしのせいだよ」
 幼女の視野より範囲が狭い分、兄は鋭い直観を持っており、そこに映る現実の方が重く感じられてしまう。細かいところを切り出せばおそらく兄の方が正しいが、全体像ではそうとは限らない、と妹は思っている。

 無表情のまま、願うように幼女は、幼女にとっての現実を口にした。
「わたしは処刑人だから。優しくないことをするヒトを殺す」
 今ここにいる幼女の前身――赤い鎧をつけた天使は古来、咎人を殺す人間だった。
「兄さんも変わってないけど、わたしも変わってないよ」
 処刑人たる天使の基準は一つ。気ままな私情だ。
 現状把握に優れた天使は、常に「今」を観てそれを決めた。

「わたしも兄さんも……誰かを殺すことがお仕事だったから」
 天使は、天使にとって優しくないものを咎人と定め、その上でそれが殺すべき相手と定まれば、躊躇(ためら)いなく命を奪った。
 どれだけ本性――過去は優しい者でも、現在、誰かのためにならない行動をとる者は、どんな理由があっても咎人と定めた。
 逆にたとえ、自己満足でも、現在誰かのための行動をとる者は、天使にとっては「優しいヒト」で生かすべき相手だった。

「ラピスを……シルファをそうさせたのは、兄さんじゃない」
「……」
 暗い夜半に、幼女が兄とこうして話すことになった理由。幼女の目を覚まさせた赤い夢を、そこで口にする。
「シルファのお母さんが、シルファを殺さなければ。兄さんも……わたしも、殺さないで済んだよ」
 その幸薄い娘を、手にかける結果となった現実。躊躇いはなくとも、良しとしたわけではない。その気持ちは伝えたかった。

 そんな幼女を未だに、兄の少年は厳しい目付きで見つめ続ける。
「……エルはもう、誰も殺すなよ」
 幼女が決して、自らヒトを傷付けたい者ではなく、そう生きるしか道が無かったこと。兄はそのことをずっと知っている。
「兄さんは……どうなの?」
 ヒト殺しの才能を持ち、多くの者の命を奪った過去を持つ兄も同じだ。淡々とその呪いを問い返す。

 しかしあくまで兄は、赤い現実に身を置き続ける。
「オレは化け物だけど、エルは人間だろ。それに……」
 彼らが誰かの命を奪った理由は、根本は違う、と兄は気が付いていた。
「ラピスはこれ以上奪いたくなくて、何か返したくて、エルに体をくれたから……エルは、ヒトの役に立ちたいだけだろ?」
 それならそのまま、躰の主の願い……幼女が本来の性質、優しく在ることを叶えれば良いと。無機質な紫の目で少年は言う。
「オレは自分のために――多分、これからもヒトを殺す」
「…………」
 この少年は、大切なものの脅威は全て滅ぼすことを、無自覚に根本としている。その脅威が観える目、ヒト殺しの才能を持ったことと、それが自己満足とわかる厳しさが何よりの不幸だった。

「兄さんは本当に……優しいから、優しくないね」
 兄と似た感覚を持ちながら、幼女は兄よりずっと自由に過ごしている。
 本当は平和で穏やかな笑顔が似合う兄を思うが、現状では兄を変えられそうにない。それなら現状ごと変えるための行動を気ままに練っていることを、兄は気付いていない。


 明朝からしばらくいない兄と、そうして話せて良かった、と思った。
 悪夢で目覚めたことにも感謝するくらいだ。至って前向きな幼女は、八歳の姿に合わない落ち着いた表情で、暗い部屋の寝台へと戻った。

 何か水分を摂ることすら不快らしい兄が、ちみちみと杯を含み続けながら、最後に言ったことを思い出した。
「ラクトと水火の言うことをきいて、エルは留守番、よろしくな」
 現在彼らがいるこの家には、非常に強固な結界が施されている。
 弱小な人間に過ぎない躰の幼女が、少年と養父の留守中に危険に合うことのないよう、安全領域である家から出るな、と兄は言っている。

 それでも幼女には、明朝から企む一つの謀り事があった。
「……せっかく、できそうなことが見つかったんだから」
 いなくなる少年と養父の他に、この家にいる二人の者の存在を感じ、ぎゅっとぬいぐるみを抱き締める。
「ラクトにも水火にも……手伝ってもらおう」
 一人は今も同じ部屋で眠る、鎖骨までの(あか)い髪で、兄より二つ年下の少女。もう一人は少年や養父と同じ部屋にいる、先日からこの家に来た客、紫苑の短い髪と目の若い男だった。

「兄さん達には内緒だけど……」
 硬くその決意を秘めていた幼女は、一人でうん、と一度だけ頷き……無機質に目を閉じ、あっさり眠りに落ちていった。

 現状把握に優れる才能を持った、その幼女と少年の直観。化け物の少年は人間と同じ五感の及ぶ範囲で、人間である幼女の方は、化け物が持つ感覚である気配探知が及ぶ範囲で直観を発揮できる。
 そんな不思議な逆転現象があるものの、基本的に共に「今」を観ることに長けている。記憶という過去や、無意識の領域を覗くことは苦手としていた。
 今夜のように誰かの夢を、我が事のように観る場合を除いて。


 そして今。温かな心持で眠りに落ちた幼女に訪れたのは――
――……ラピちゃんにいいことありますように……。
 先日までは確かに、瑠璃色の髪の娘――ラピスの傍らにあったはずの想い。
 幸薄くも微笑んでいられたラピスを支え、長く共にあってくれた誰か――その声を届けるための通信の道具。そこに取り付けられていたはずの、守り袋に込められたまっすぐな思いだった。
――つまんない物も入ってるけど、お守りになるといいな。

 しかし何故か、そのお守り袋だけが、いつの間にかPHSから消えてしまった。そこに確かにあるはずの意味を、幼女は観逃さなかった。
 そうして眠る幼女の枕元には、抱えていたぬいぐるみに壊れたPHSという、妙な付属品が架けられていたのだった。

_起:空ろの「忘我」

 「神」を決して、殺してはいけない。
 ある(おそ)れの元に定められた、この世界の不文律など、幼女の前身の赤い天使は知らなかった。けれどそれは、天使が「オセロット・アーク」だった遠い日にも出会った局面だった。

――全く……命拾いしたわね、貴方。

 天使が身に着ける赤い鎧は、鎧の本体に少女の霊を、核として填める黒い珠玉に魂と記憶を分けて宿していた。
 そんな奇跡が可能な秘宝の価値を、余さず知っていた者。不滅の聖地に宝の鎧を長く保存したのは、少女が死ぬ前に出会っていた「神」だった。

――私は、今日から貴方の上司になる者よ。

 突然現れ、秘宝である鎧を少女ごと奪おうとした「神」は、ただ秘宝収集家であるだけだった。少女の兄に重傷を負わせ、少女が命を落とすキッカケを作り、少女も兄も、殺した方が良い相手、とその脅威は初対面から感じ取っていた。

 それでもそうしなかったのは、彼らが私心で殺さない死神と処刑人であったこと。「神」もヒトも、彼らには等価な仕事相手で。


 「神」を封じるために、ラピスの故郷に派遣された悪魔の女性は、依頼者から大切な忠告をされていた。赤い天使はその女性の夢で、ラピスと「神」の縁を理解していた。

――いい? 『神』は絶対、直接殺しては駄目。もう一度封じるだけにしてほしいの。

 ヒトの記憶を奪う「神」を宿し、共存していたラピスは、命の遣り取りに乗じる「神」を殺したわけではない。ラピスに命を分けた悪魔の女性が、封印されていた「神」を宿す炎の獣を殺し、「神」に遷られたのが発端なのだ。

――『神』は命のやり取りに便乗して、宿主を自らに創り変える寄生虫。殺しても殺されても、あなたは『神』に取り込まれる……それを『神隠し』というのよ。

 分けられる悪魔の女性の命を介して、「忘却の神」はラピスに遷り来た。直接「神」に触れていないラピスを「神」に書き換えるまではできず、共存――祟った状態になる。「力」の別名である「神」はそうして、「力」の器たる「命」の遣り取りが介在しなければ顕現できない存在でもある。
 だからラピスの体を殺した赤い天使にも、「神」は遷ってきていた。そうして赤い天使を乗っ取った「神」は、赤い天使だった幼女にも「神」たる素因を一部刻んでいく。
「……水華(みずか)が殺してくれなければ、わたしも神になったのかな」

 最終的に、「神」が遷った赤い天使を滅ぼし、それで更に居場所を遷した「神」まで滅ぼしたのが、現在同じ部屋で暮らす紅い髪の少女だ。
 その時「神」と共に隠されてしまった少女を水華、その後に残った少女を水火(みずか)、と瑠璃色の髪の幼女は区別して呼んでいた。

 瑠璃色の髪の幼女は、太古から朝が弱い。幼い躰も相まって、陽が昇っても寝床から起き上がれなかった。
 対して朝からしゃっきり、鎖骨までの紅い髪の上で淑やかな微笑みをたたえる少女が、情け容赦なく幼女を起こしにかかった。
「おはよう、エルフィ。今日もいい天気みたいよ」
「……ううん――……」
 寝付いたのが遅い時間だったこともあり、ついついぐずってしまう。紅い目の少女――水火は幼女から布団を引き剥がし、窓を開けて日差しを入れる。
「今日は起こしてね、って、頼んだのはエルフィよね?」

 くすくす、と幼女の眠る寝台に腰掛け、振り返るように見つめてくる水火。既に外出用の出で立ち……頭巾のような被り物がつく上着に、短いひだひだの下衣を身にして、近代的な都市ではよく見られる少女らしい格好をしている。
烙人(ラクト)と買い物に行きたいんでしょ? と言っても、烙人もまだ寝てるけど……エルフィの意向を確認しないと起こせないわ」
「……ん……」
 些細なことでもこうして、幼女の意思を確かめる紅い少女は、基本的に主体性が無い。それもそのはず――紅い少女が水華と呼ばれていた頃には、少女が背に生やす羽に宿る魂の言いなりだった、人形の性の生き物なのだ。

 眠気に負けた。今はこうして、幼女の人形になることを楽しんでいる相手に、頼んだ前言をあっさり撤回した。
「……やっぱり……水火と二人で、行って来て……」
 あらあら、と水火は、寝床から動かない幼女から視線をずらす。
「それじゃ、『ピアス』を連れていく? 何かあればわたしを直接、『ピアス』で動かしてくれていいしね」
「うん……そうする……」
 枕元のぬいぐるみ、「ピアス」と名付けられた灰色の猫を水火が手に取る。心なしか少しだけ、小悪魔のような顔付きで笑う。
「それじゃ、ゆっくり休んでね。お休み――エルフィ」
 水火がそのぬいぐるみを手に、部屋を出て行くと同時に、幼女の意識もすぐに遠くなった。

「――ほら、烙人。もうレイアスもユーオンも、とっくに出て行っちゃったわよ」
「……あー……?」
 そして横たわる幼女の視界は、紅い少女が大切そうに抱える、灰色猫のぬいぐるみからの情報に占拠される。
「これからしばらく、烙人がわたし達の保護者なんでしょ? ちゃんと保護責任は果たしてもらわなきゃ」
「……ぁんだ、そりゃ……」
 朝方に家を出た養父が、数日前に呼んだ旧い仲間。紫苑の髪と目の、痩せた体の若い男――竜牙(たつき)烙人。
 目は覚めているのだが、常に体調不良という状態のために布団から出てこない。鋭く整った顔付きで、睨むように水火と灰色猫を見上げている。

 烙人は気怠そうに床上で体を起こしながら、水火が抱える灰色猫を不服そうに見つめた。
「またそいつ、魂だけ連れて出歩くのかよ……そういうの正直、あんまりお勧めできないけどな」
「仕方ないでしょ? エルフィ、躰は八歳の子供なんだから。すぐに疲れて眠っちゃうし、それならこの方が持ち運び自由よ」
 虚ろに微笑む紅い少女に、苦い顔をする紫苑の男。それらの様子がありありと、瑠璃色の髪の幼女まで届く。
「ピアスからエルフィまで、意識も繋がってるしね。エルフィの直観が届く範囲なら、ここから京都くらいなら、わたしの遠隔操作だってできるのよ」

 人間の感覚では考え難い内容を、水火はいかにも嬉しそうに口にする。その言葉の通り、灰色猫の内に在る黒の珠玉は幼女の魂だけを宿し、自我のアンテナを珠玉のある場まで延ばせる。水火も人形としての感受性が強い方なので、このぬいぐるみがあるだけでも支配を受けられる。
「よくその感覚で生きてられるな……正気の沙汰じゃないぜ」
 化け物でありながら、至って人間的な感覚を持つ烙人は、端整な顔立ちを強く顰めて紅い人形を見つめるのだった。

 水火はやだなぁ、と心から楽しげに微笑む。
「わたしをそう造ったのは烙人でしょ?」
 人形である少女の錬成に関わった「何でも屋」。親とも言える相手を綺麗に見返していた。

 改めて不服気に烙人が目を逸らし、冷え冷えとした寝床から怠そうに立ち上がる。
「オレは最終調整を任されただけだ。生物工学なんて畑違いだし」
「でもわたしのクレスントも、三つの心臓も烙人製じゃない。それがあるからわたしはこうなったと思うんだけど?」
 水火はクレスントと銘打つ二本の魔法杖を持っている。少し前に「神」を殺すため、「神」が遷り来た自らの心臓を貫いても蘇生できたのは、そもそも心臓が複数あったからだ。他の二つは両肩に仕込まれ、魔法杖と協調している。
 そんな不自然な生き物は、ある強い力を持つ魔族の情報を基に造られた、悪魔の子供と言える身上だった。
「それで水火に魂が宿ったなら、苦労した甲斐はあるけどな」
 本来そうした人造の「力」ある生物が、真っ当な人格を得て自律稼働できることはほとんどない。あればこの世界は人造の強い化け物だらけになっている。
 たとえ人形の性でも、紅い少女がいつしか己の心を得ていたことは、その奇跡を諦めていた烙人には一つの安堵であるようだった。

 そうした生き物の錬成に携わった紫苑の男は、旧くからある職業を生業としている。
「今度はエルフィに良い依り代を造ってあげてね。いつまでもただのぬいぐるみの中は、確かに危なっかしいものね」
 物造り系何でも屋であり、携帯型にできる高度な武器や道具を烙人は造れる。瑠璃色の髪の幼女の魂が宿る珠玉は、今は灰色猫の内にあるが、もっと良い依り代造りを幼女の養父である旧い仲間に依頼されていた。

「時間かかるぞ……やれ猫型がいいだの、空飛ぶ盾がいいだの、無茶な注文が入りまくってるから」
「あら、素敵ね。エルフィったらとても豊かな想像力ね」
「そいつの兄貴の剣みたいに、携帯型に変えるだけなら一瞬で済むけど。仮にも竜珠の殻を一から造るとなると、まず材料も吟味しなきゃだし」
 烙人と水火と幼女が本日予定していたこと。材料の買い出しを元々幼女は楽しみにしていた。
「造り切れる程、オレの体が持つかどーかだよな。はっきり言って最後の仕事になりそーだから、気合は入れるけどよ」
 しれっとそんなことを口にする烙人は、若くして悪魔の呪いに体を蝕まれた身だ。その身の崩壊は差し迫っており、呪いによる発作で度々倒れることを、水火も幼女も教えられていた。

 水火はとても穏やかに、綺麗な顔付きで微笑む。
「エルフィの依り代ができて、わたしのクレスントも注文通り改良してくれたら、いつ成仏してもいいと思うわ、烙人」
「鬼かお前は。水華のが口は悪くても思いやりがあったぜ」
 苦々しい顔をする烙人は、紅い少女の前身である水華が、人形である紅い少女の馭者に過ぎないことを知っている。それでもその失権を惜しむ者の一人だった。

「そう? それじゃ――」
 水火はまるで、男の哀惜の念に応えるかのように、
「死ぬ前にあたしのクレスント直してってよ、ラクト♪」
 これまでの虚ろさが全く嘘のように、不敵に口にする。
 前身を簡単に再現する紅い少女に、がくり、と烙人が頭を抱えた。
「レイアスと養子が落ち込むわけだ……」
 人形の性の紅い少女。その強気な声は以前と何も変わらなかった。

 そんな烙人に追い打ちをかけるように、水火は更に違った口調と顔で、明るい微笑みを浮かべる。
「あれれぇ? 私は単に、烙人の要求通りにしたつもりなんだけどなぁ?」
「……ラピスまでレパートリーに増やしたのか、お前は」
「えへへへー。正確にはちょっと違うけど、まぁラピと言って間違いではないかなぁ、これも」
 そうして、失われた様々な誰かの真似を楽しむ人形。どの相手のことも見知っている烙人は、複雑としか言えない顔で水火を見つめている。

 それでも二人を助けてほしい、と旧い仲間のたっての願いで、紫苑の男はしばらく滞在することを決めた。
 危うげに明るく、楽しげに烙人の腕を引っ張る水火について、その雑魚寝部屋を後にしたのだった。

「……――……」
 近い部屋のそうした一部始終を、魂無く横たわる瑠璃色の髪の躰は、まるで夢に観るように情報を受け取り続けた。
「水火の……ウソつき……」
 寝言のようにそれだけ……素直な哀しみを口にした。


+++++


 紅い少女と紫苑の男が、手提げ型の買い物籠に灰色猫を詰めて買い物に出る。その家がある平野の閑散とした人里から、北に位置する盛況な街「京都」に出向く。
 世界地図で中央に位置する「ジパング」という小さな島国で、京都は更に中心地にある。中でも一番大きな商店通りで、水火と烙人が思いもよらない出会いをすることになったのを、全て灰色猫から瑠璃色の髪の幼女は探知する。

「……水火、借りるね」
 一人自宅で、明るい部屋の寝台に横たわったままで。幼女が把握した現状を、遠隔地の水火を通して烙人に伝える。
「ねぇ、ラクト……あそこにいるヒト、ラピスの友達みたい」
「――は?」
 くいくいと紅い少女が、買い物籠を持っていない手で、その街に合わせた烙人の着流しの袖――洒落た黒い裾よけにかかる、薄い蒼の(たもと)を引っ張る。振り返る烙人を完全な無表情で見上げた。
「ってお前――水火じゃなくてピアスか?」
「うん。わたし、あのヒトと会ってみたい……行っていい?」
 瑠璃色の髪の幼女がそうして、灰色猫に宿った魂をメインに活動する時は、本名でなくそう呼び分けられている。
 烙人は「ピアス」の視線の先を改めて確認する。

「あれは……青の守護者の姪だろ、確か」
 何でも屋である烙人は、世界中を渡り歩いた化け物だ。この世界に隠れ潜む、ある「宝」の守り手――正式には「守護者」と呼ばれる強大な「力」を持つ者達について、様々な情報を一通り把握していた。
「危ないことはないだろうが、多分逆に、警戒されるぞ」
 視線の先には、古道具屋に立ち寄っている赤い髪の娘がいる。一般的な着物の姿で、年若い娘の気配を探り、烙人が難しい顔をする。
「水火が『魔』だって、すぐにバレるはずだ。相当強い『力』と霊感の持ち主だぞ、あの子」

 現在紅い少女を動かすのは人間の幼女の魂だ。それでも強い魔族を基に造られた紅い少女自体の不穏さは隠せない。
「うん。だから、水火も友達になれると思う」
 至って気楽に、紅い少女の操り主は淡々と所感を口にする。

 あまりに無害な発想に、烙人が一度だけ大きく息をついた。了解、というように無表情にゆっくり頷く。
「オレもちょうど、この近くにいるはずの奴に用があるから、終わったら来てくれ。先にある程度、買い物も済ませておく」
「わかった。ラクトも倒れないように、気をつけてね」
 全く無機質な表情で男を見て言う少女に、烙人は困ったように笑ってもう一度溜息をつく。紅い少女をその場に残し、いくつもの商店が連なる賑やかな界隈へと姿を消していった。

 ――で、と。買い物籠を腕に掛けて持ち直した水火は、ふふ、と微笑みながら、必要事項を独り言で確認する。
「お話するのは、わたしにしろと言うのね? エルフィ」
 烙人が行ってから、灰色猫はすぐに人形の手綱を放した。灰色猫を籠の内に収め、水火が古道具屋へ向かう。
 水火とかなり年が近く、肩にぎりぎりつく長さの真直ぐな赤い髪の、着物の娘が見ていた店にゆっくり近付いていった。

 強い「魔」の血をひく紅い気配の接近に、霊感が強いという赤い髪の娘はすぐに気が付いていた。青みがかって凛とした黒い目を、不思議そうに紅い少女へ向ける。
「こんにちは。ちょっと、お尋ねしていい?」
「――え?」
 水火が至って直球に話しかける。人間ばかりの街に突如現れた異国者、それも強い「魔」に不審げな赤い髪の娘に、虚ろに笑いかける。
「この辺りで、瑠璃色の髪の女の子を見なかった? 暗いけど珍しい髪の色だから、目立つと思うんだけど」
「……見てないけど……その女の子が、どうかしたの?」
 同じ髪の色のラピスに、心当たりがあるだろう娘。その問いは聞き流せないはず、と紅い少女は重ねて尋ねた。
「捕まえたいの。わたしからずっと逃げ回ってるの」
 言う者によっては、かなり不穏にとれる内容。にこにこと言う紅い怪異に、赤い髪の娘は当然警戒したようだった。

 しかし赤い髪の娘は、すぐにその話に興味を失ったように。不自然さすら伴う、平静な顔付きで紅い少女を見返してきた。
「ごめんね、私にはよくわからないわ」
 淡々と答える赤い髪の娘。それは全く本心の様子だった。
「貴女は……瑠璃色の髪の女の子に、何も心当たりはない?」
 微笑みながら食い下がる紅い少女に、ええ、と頷く。赤い髪の娘は、紅い少女そのものに関心を失くしたようにも観えた。
「……ありがとう。呼び止めてごめんなさい」
 それ以上は何故か食い下がれないように、水火は場を後にして、束の間の出会いをすぐに終えることになった。

 赤い髪の娘から離れてから、水火は灰色猫を取り出すと、猫の黒く大きな両目を見つめて首を傾げた。
「……どう考えても、怪しいのにね、わたし」
 「魔」である紅い少女を不審者と気付きながら、その不審さすら途中で失念したように見えた。友達であるラピスが不穏事に巻き込まれた、そんなカマかけをあっさりと流した相手。その反応は水火も灰色猫も、いくらか想定外のものだった。

「確かに最初は……ラピを知ってるあのコをわたしが知ってて、わざと声をかけたって、気付いたみたいなのにね」
 まるで途中から、その気付きそのものを消されたようだった。
 本来とても鋭いはずの娘の不自然な反応。この段階では、水火も灰色猫も、実態に思い至ることはできなかった。

 かなり不消化な事項をそのままに、商店通りに消えていった烙人を探し、水火はのんびりと歩き始めた。
「わたしが知ってる限りでは……ラピはあのコ達のこと、よく嬉しそうに水華に話してたんだけど」
 籠のない手に抱えた灰色猫に話すように、水火は無表情に続ける。
「結局わたしが水華の内は、会うことはなかったけど。ラピがレイアス達に拾われて、ジパングに住み始めてからずっと……ラピがいつも笑っていられるようになったのは、あのコ達と知り合ってからだって、アフィも言ってたわ」
 レイアスやアフィという名――ラピスの養父母は、水火には義理の兄姉にあたる。だから形だけなら、水火は年下なのにラピスの叔母となる。身内として知っていたラピスの思いを教えてくれる。
「ラピは自分も含めて、弱い人間が本当は大嫌いだったけど。だからこそ、人間とか化け物とか特に考えない、優しくて強い混血のあのコ達が大好きだったみたい」
 灰色猫もその思いは、先程赤い髪の娘を初めて目にした時にわかった。
 赤い髪の娘は、つれない見た目に反して気配が温かった。過酷な育ちのラピスの癒しが、確かにそこに在ったと感じられた。

「ユーオンはラピのこと……ラピが消えちゃったこと、あのコ達に自分から伝える気はないみたいだけど」
 くすくす、と水火が、虚ろな微笑みを浮かべる。
 ラピスには兄貴分だった少年。約一年前に拾われた金色の髪のユーオンも、ラピスの友人達と半年前に出会っているのだ。
「それってどうなのかしらね? ラピがもう何処にもいないこと……ユーオンだって仲良しのあのコ達に、ずっと隠して生きていくつもりなのかしら?」

 あまり自ら語らないユーオンの真意を、義理の親戚位置の水火は知りようがない。ユーオンの妹である灰色猫に尋ねるように、目線を手元に向ける。
「エルフィは……どう思っているの?」
 直観という特技で、周囲の思いや現状を感じる灰色猫と、特定者の人形である紅い少女の感受性は違う。水火の思いがある程度灰色猫にわかっても、灰色猫の方の思いは、水火がその躰を貸し、自我の手綱を灰色猫に渡している時にしかわからないだろう。
「それがラピの願いだから……それでいいのかな?」

 誰にも知られずに、この世から消えたい。それがラピスの願いであると、紅い少女は最期の時に知った。
 それが可能ならいいのにね、と、ただ虚ろに微笑み呟いていた。

 紫苑の男の気配を辿り、合流せんとする道中で、紅い少女は始終灰色猫に話しかけ続けた。平然としていても、話さずにはいられないように観えた。
 その脳裏に去来していたのは、紅い少女がラピスからまっすぐに晒された光景。直観の灰色猫には感じ取れていた。
 既に死した体を、悪魔に縋って生を繋いだラピス。ここにいなかったはずの死者の願いは、最初からそこにはいない、在るべき状態に戻ることで。

――私がホントは死んでるってわかったら、今までみたいに……みんな、笑って一緒にいてくれない。

 幸薄いラピスに与えられた現実。新たな優しい両親や友人。
 その温かな者達に救われていながら、彼らの前からいつか消えていくことが避けられない定め。
 彼らと長く共にいられない、残酷な出会いそのものをラピスは嘆く。せめて自身が消えゆく時に、何も禍根を残さないことを願う。

――それならずっと、誰も気付かないでいてもらうしかない……もう誰にも会えないし、何処にもいく所がないよ……。

 死者に巣食った、ヒトの記憶を奪う「神」に、ラピスが抗い切れなかった最大の理由がそこにある。それはラピスに関わった者の記憶から、ラピスの存在を消して欲しいという昏い望みだった。
 しかし「神」は、それが「ラピス」の願いに過ぎないことも知っていた。

――でも、独りっきりで死んじゃうのはやだ……!

 だからこそ分けられる命を拒否できず、瑠璃色の髪の娘が生を繋いでいた現実。「神」はラピスの願いよりも現実を優先する。
 死者の娘の望み通りには、「神」は周囲の記憶を奪わなかった。むしろラピスが望まない形で、兄貴分の少年の記憶を奪った。
 それは全て、死者の娘を守らんとしていた少年に、ラピスという娘を維持させるためだ。娘の願いと現実の混乱、どちらも感じていた直観の少年も逡巡し、破綻を迎えることになる。

 そしてそれが、たった独りで消えることをラピスが本気で願う、最後の引き金となったのは間違いなかった。

――誰にも知られず消えることができれば、私は良かったの……。

 ラピスのその望みを、「神」が叶えることは結局無かった。
 しかしヒトの記憶を奪う「神」とよく似た何かが、娘の望みを叶えんと動いていたのを、やがて灰色猫は知ることとなる。


+++++


 気配を追って辿り着いた川辺で、紅い少女はやっと紫苑の男を見つけた。水火と共に、腕の中の灰色猫は静かに驚くこととなった。
「……あれれぇ? 誰かなぁ、あの女のヒトと男のコは?」
 にこやかに遠目で、水火が烙人と数人の姿を確認している。何故か態勢をラピス人形モードへと切り替えている。
 その選択の意味は、水火が相手の一人については、素性に気が付いていることを示していた。
「あの男のコは確か、ラピがPHSの待受にしてたコだけどなぁ。何か凄く、アヤシイおねーさんと一緒にいるね、ねぇエルフィ?」

 紫苑の男が険しい顔付きで、話をしている二人の相手。
 一人は水火と年恰好が近く、白金の髪と紅の目を深型の帽子で控え目にした少年。襟のある上着と繊維の荒い長い下衣という、この国らしからぬ服装をして、人の好さそうな笑顔――それでいて端整に整った顔立ちの者。
 もう一人は全体的に黒のシルエットで、長く真直ぐな黒髪を高い位置で一つに括る、剣士風の女だった。縦襟の黒の繋ぎ服で、広がる下衣を腰に下げた長剣のベルトで引き締めている、空のような青い目で営業スマイルの大人の女だった。

 水火が辿り着いたと気付いた烙人が、少しバツの悪そうな顔をしながら水火を手招きする。
「あれ? 烙人さん、知り合いですか?」
 烙人と楽しげに話していた帽子の少年は、近付いてくる紅い少女に気付き、不思議そうに眺めていた。

 少年の隣に立つ黒い女が、むすっとしている烙人に代わって楽しげに答える。
「あのコは烙人君が造った娘ですよ、(くぬぎ)君」
「ええ! 烙人さん子供いたんですか⁉」
「……誰がだ。適当なこと言うな、あんたも」

 一斉に三人の視線を受けることになった水火は、にこにこ明るく微笑みながら、灰色猫に話しかけつつ現場に向かう。
「今日は何だか、色々運命的な出会いがあるねぇ、エルフィ」
 そんなことを口にする水火は、灰色猫に宿る魂が、現在の状況に密かに動揺している気配は気付いているようだった。

 それは実際――その帽子の少年と、瑠璃色の髪の娘の縁。
 更には黒い女との縁を、灰色猫が直観したからだった。

「そうですよねー。でないと烙人さんが成人前の子供になるし、今まで放っておき過ぎですよねー。烙人さんの不健康ぶりだと無理もなくても、それにしたってヒドイですよね」
「わかってるなら薬よこしやがれ、槶。オマエならこの場で調剤することだってできるだろ?」
 恐喝するかのように大人げない烙人に、帽子の少年が、ダメです! と烙人を見返している。
「烙人さんの注文通りはホントに危ないお薬になっちゃいます! 僕まで危ない売人さんになっちゃいます! もう少し研究して体に良い物にしないと、とてもじゃないけど渡せないです!」
「ったく……槶はお節介なんだよ、ガキのくせに」
「その辺り適当過ぎるから、烙人さんは不健康なんです。もう少し体を大事にして下さい!」
 年中無休の体調不良の烙人が、この国に来た時には頼りにする若き薬剤師。意外な顔を持つ帽子の少年は、ガキ呼ばわりする烙人より余程大人びた不満げな顔で見上げていた。

 そんな帽子の少年の横で、けらけらと黒い女が笑う。
「文句があるなら、自分でお薬造ればいいのにね、烙人君も。昔はそうしてたんじゃないの?」
 物造り系何でも屋である烙人は、そもそも少年に頼んだ処方箋も、基本構成は自身で開発した薬剤だ。ただし元々、大した薬学の知識はない。
「んな余裕あれば誰が頼むか。薬なんて本来専門じゃないし、本気でそろそろ死にかけなんだオレは」
「そうみたいだね、残念だねぇ。探し人もまだ捕まえられないままなのにねぇ」
「……」
 じろり、と黒い女を睨む烙人は、とても複雑そうな顔をしている。黒い女も浅い微笑みで烙人を見返し、大人同士がしばらく無言で対峙している。

 場に到着した水火は、帽子の少年に朗らかに声をかけた。
「こんにちは、初めまして~。アナタ、烙人の知り合い?」
 にこにこと明るく尋ねる水火に、帽子の少年もうん、と明るく頷く。
「私は竜牙(たつき)水火って言うんだぁ。最近引っ越してきたんだけど、京都っていい所だねー」
「タツキさん? へー、ジパングの人っぽくないけど、何だかカッコいい名前だねー」
 完全に当て字である姓を名乗る水火は、でしょー、と嬉しげに、軽い調子で話を続ける。

「アナタは何て言うの? 名前教えてほしーな」
「僕? 僕は猪狩(いがり)槶、京都在住だよ♪」
「へ~。アナタもジパングの人っぽくないけど、何かすっごくいかつい名前してるねぇ」
 ぐはあ! と帽子の少年、槶がのけぞる。初対面の水火に身も蓋も無い指摘を受けて、ショックを受けるように胸元を掴んでいる。
「それよく言われるけど、大人しげなのに何と直球な竜牙さん! 何だろこの感じ、竜牙さん僕と何処かで会ったことない⁉」
「気のせい気のせい~。私と槶君は確実に初対面だよー」
 その紅い少女が、槶とよくPHSで連絡を取っていたラピスを真似ていると、槶は知る由もない。
 それでもおそらく、ラピスを僅かに感じただろう槶に、さらりと傍らで黒い女が落ち着いた声をかけた。
「……そうかな? 全然似てないと思いますよ、槶君」
 数瞬後には、あれ、と水火が目を丸くする程に、槶がすぐに平静な状態に戻った。だよねー、と何事もなかったように明るく笑う。

 しかしそこで、槶自身も何かの違和感を持ったらしい。
「……あれ。誰に似てないんだっけ」
 笑顔のままで首を傾げる。水火は無表情に槶を見つめる。

 それでもその感慨は、違和感を超えることはなかった。
「そうだよね、竜牙さんとは初対面だよね。ヘンなこと言ってごめんねー、竜牙さん」
「……」
 平和な顔でアハハと笑う槶に、水火は少しの間、ふむ、と考え込む素振りを見せた。

 そして紅い少女はただ、現状の片鱗に触れるために、本来の敏い性質で再びカマをかける。
(うつぎ)……瑠璃」
「――え?」
 帽子の少年が知ったはずの者。この国で届け出られている、誰かの別名を口にした。
「私、棯さんって所に居候してるんだ。京都からはもう少し、南にある人里なんだけどね」
「それって……ラピちゃんのお家じゃない?」
 驚いて息を呑んだように、槶が水火を見つめる。
 槶の知る瑠璃色の髪の娘の、普段は使われていない名前。それをしみじみ思い出して、紅い少女と共通の知人を持っていることに思い至ったようだった。

 そして槶は、水火と灰色猫を静かに驚嘆させる台詞を、その後に続けることになる。
「じゃあひょっとして、竜牙さんがラピちゃんの妹さん?」
「――え?」
「――あ?」
 ポカンとした水火の隣、黙って成り行きを見ていた烙人まで唖然とする程、槶の台詞は唐突だった。
「ラピちゃんこないだ、今度から妹さんがジパングに住むって言ってたんだ。でも竜牙さん、名字も違うし、やっぱり違う?」
「……え?」
「……な?」
 顔を見合わせる男と少女は、それもそのはず……。

「それって……いつのこと? 槶君」
「ほんとについこないだ。まだ一週間たってないけどなぁ」
 槶が言う頃には既に、ラピスは灰色猫の幼女に体を譲り、消えてしまっている。それなのに槶は話をしたという。
 不可解過ぎる事態に黙り込んでしまった水火と烙人に、槶は不思議そうに自然に笑った。
「ラピちゃん、お母さんの所に行くって言ってたし、今はもうジパングにはいないんだよね?」
「……お母さんの所?」
 水火はぴくりと眉を顰め、無表情のまま槶を見返す。
「アナタには――ラピはそう言ったんだ?」
「うん。あれ? 竜牙さんには違うの?」
 当初口にした漢字名でなく、瑠璃色の髪の娘の愛称を言った水火に、槶は微笑んだまま首を傾げた。

「…………」
 紅い少女は一しきり、無表情にまた考え込んだ。
「私はラピの妹じゃなくて、ラピの妹を預かってるんだぁ」
 にこりと明るく微笑むと、少女側の事情を、躊躇い無くそこで口にした。
「ラピも、ラピのお兄ちゃんもお父さんも留守にしてるから、ちっちゃなエルフィを守ってねって頼まれてるのー」
「そーだったんだ! うわー、大変だねぇ、竜牙さんも」
「でしょー? いくら私が、ラピの義理の叔母さんだからって、ユーオンもレイアスもヒドイよねぇ」
 そーなの⁉ と驚く槶に、えへへ、と水火は明るく笑った。

「そういやユーオン君もいないって、ラピちゃん言ってたなぁ。でもそれじゃ、今お家には女の子しかいないんじゃないの? 大丈夫、危なくないかなぁ?」
「うーん、だから烙人がいてくれてるんだけど、烙人もあんまり体調良くないからなぁ。やっぱり少し無用心だよねー、危ないよねぇ?」
 オイオイ、と紫苑の男が呆れる。強大な魔の血をひき、強い魔法剣士である紅い少女のか弱いぶりっこ。構わず水火は槶との会話をそのまま楽しんで続ける。
「でも、ラピの知り合いに会えて良かったなぁ。京都ではまだ全然、頼れるヒトがいなくて困ってたのー」
「そっか、そうだよね。竜牙さんも引っ越してきたばかりって、さっき言ってたよね」
 それなら、と槶は人の好い顔で水火の手をとり、朗らかに笑いかけた。
「良かったら今度、他の友達にも竜牙さんのこと紹介するよ。みんなラピちゃんのことも知ってるから、ラピちゃんの妹さんも一緒に連れておいでよ」
「本当? 嬉しいなぁ、槶君って優しいねー」
 淑やかでもきらきらとした目で槶を見つめる水火に、あはは、と照れ臭そうにする。
「明日はちょっと用事があるから、明後日の朝にまた、ここに来てもらっていい? みんながいる所に案内するからさ」
「うん、わかった。よろしくお願いするね、槶君」

 そうして槶と水火の話が一段落したところで、話の邪魔をしないように黙っていた黒い女が視線を向けた。
「そろそろいいですか? 槶君」
「あ、ごめんねスカイさん。まだ京都案内の途中だったよね」
「すみませんねぇ。休暇中とはいえ、営業職にはどうしても、次の仕事の足場固めが必要なもので」

 それじゃ、と黒い女は、紫苑の男にひらひら手を振って背を向けた。
「さわらぬ神にたたりなしですよ――烙人君も、水火さんも」
 槶とは顔見知りで、たまに手伝いを頼んでいるらしい。毒も害も無い仕事らしき活動のため、夕刻前の川辺を後にした女達だった。

 帽子の少年と黒い女が去った後で、紅い少女は改めて――
 まだ不服且つ複雑そうに黙る紫苑の男を、虚ろな微笑みで見つめる。
「あのヒトは誰だったのかしら? 烙人」
「……」
「何だか烙人とは親しげに見えたけど……わたしの気のせい?」

 ――けっ、と。水火を見ずに川辺に背を向け、歩き出した烙人に続く。
「オレのヨメ……によく似た、名前までほぼ同じっつー意味のわからない、多分人間の妙な女だよ」
 さらりと烙人は、顔見知りではあった黒い女を思い浮かべ、不満そうに大胆な事情を口にした。

「烙人のお嫁さん? そんなヒト、いたかしら?」
「この世界の時間軸では、十年前かな。西の大陸で告ったけど、ずっと拒否って逃げ回ってんな」
「それ、完全にストーカーじゃない? 怖いなぁ、烙人みたく一途なヒトに想われるとそんなことになるのね」
 黒い女が口にした、烙人の「探し人」という言葉。そこでやっと、水火は納得したようだった。
「まぁあのヒト、何か普通の生き物じゃない感じもするし……烙人の探し人がどんなヒトか知らないけど、あのヒトはやめておいた方がいいと思うわ」
「言ってろ。ヒトのこと言えた義理かよ、水火も」
 危うげに明るい娘口調から、すっかり虚ろな常態に戻った紅い人形に、呆れたように言う烙人だった。

 それにしても――と。烙人と水火、どちらからともなく、一番不可解であった事柄をそこで口にする。
「槶が会ったラピスっていうのは……いったい何者なんだ?」
「……そうよね。もうとっくにラピは、成仏してるとばかり、思ってたんだけど」
 ――と烙人は、怪訝そうに水火を見つめる。
「水火はそれは――ラピス本人だと確信してるのか?」
「そうじゃない? だってわざわざ、ラピを騙ってラピの友達に会いに行くなんて暇なこと、誰もしないと思うわ」
「まぁな……でもそれだと、余程霊的素因の強い人間でないと、単独で現世に干渉するのは死者には無理だぞ」

 既に消えた存在の、瑠璃色の髪の娘と会ったという帽子の少年。何の違和感も与えない姿で娘は現れたはずだった。
「そうよね……もやっとした霊体とかじゃなかったなら、凄く強い力を持ったヒトに降霊されるか、槶君が有り得ない程強い霊感を持っているかしか、思い当たらないわ」
 ラピス自身には、自らをそこまでこの世に再現する力はない。それは水火にも烙人にもわかりきったことだった。

「これは……エルフィと辻褄合わせが必要ねぇ」
 この川辺の一部始終も、灰色猫を通して観ていたはずの幼女。水火はあっさりと、事の真相について考える徒労をそこで放棄した。

 紅い少女がそうして、現状把握に優れる幼女の力を期待した通りに。
 夕方に自宅に帰り着き、灰色猫が傍らに戻ると共に、やっと目を覚まして起き上がった幼女は開口一番に、既に観えていた所見の一部を口にした。
「ラピスはもういないけど。ラピスの一部が、まだ彷徨(さまよ)ってる」
「――どういうこと? エルフィ」
 ここから活動開始とばかりに、幼女は長い髪を左側で一つに束ねた。黒く長いリボンできゅっと結び、無表情にきょろきょろと辺りを見回す。
「ラクトは……体が悪いの?」
「みたいね。帰ったらすぐ、寝床に引っ込んじゃったわ」
 そっか、と少し残念だった。戻った灰色猫をぎゅっと抱える。

 そしてそこで――それまでずっと考えていた思いを、寝台に座ったまま、初めて紅い少女に伝えた。
「……あのね、水火」
「――?」
「わたしは――ラピスに帰ってきてほしい」
「……エルフィ?」
 水火は何の情も浮かべず、ただ澄んだ紅い目で幼女を見つめる。隣に腰掛けている水火に、幼女は躊躇いを持ちながらも続ける。
「水火も手伝って。わたし一人じゃ、それはできないと思う」
 それは――と水火は、不思議そうに幼女を見つめた。
「別にいいけど。どうしてわざわざ……そうやって頼むの?」
 自身は元から、幼女の人形であると。それなのにあえて協力を要請する幼女に、紅い少女が虚ろに微笑む。

「……」
 それは言い辛いことだった。幼女は暗い青の目……ラピスの深い青より僅かに色が薄まった目で、水火の紅い目をじっと見つめ返す。
 そのまま黙り、何も答えない幼女に、紅い少女は改めて微笑む。
「よくわからないけど。とりあえずわたしは、何をするの?」
「……兄さんと父さんには、心配するから内緒にしてね」
 それは必須、と水火を無表情に見つめる。あら、と楽しげに口元を押えて、水火は笑いを堪えていた。
「二人共、魔界に行ったばかりだし、早々帰らないと思うけど」
「ラピスも、魔界にいると思う……兄さん達が助けに行った、母さんのそばに」
「――あららら?」
 そこで心底、意外とばかりに、水火が首を傾げる。

「今日のことだけで、どうしてそんなに色々わかるの? エルフィ」
「ラピスはあのヒトには……お別れを言ったんだと思う」
「あのヒトって――槶君のこと?」
 こくりと頷く。ラピスは母の元に行くと言った、と帽子の少年は屈託なく伝えた。そこから幼女が考えた推測だ。

 でもそれは、と、水火は困ったような顔で微笑む。
「ラピは、本当のお母さんと、一緒に成仏したんじゃない?」
「……うん。それもそうみたい」
 だから彷徨っているのは一部だ、と。少し前に気が付いたある事実を先に続けた。
「ラピスは悪魔と契約して、生きてきたから」
 枕元に置いてある、壊れたPHSをそこで手に取る。
「契約が終わった後はラピスの魂は……悪魔にとられちゃったはずだから」
 そのPHSに取り付けられていた守り袋。ラピスが大切にしていた物がないのだ。魂といえるほどに大切な物だったはずなのに。
 そうした魂の媒介たり得る物が消えることの意味を、正確に把握できる幼女にはある理由があった。
「……なるほどね。そう言えばエルフィ、ちょっと前までは、生粋の悪魔使いだったものね」

 赤い天使の人形のみならず、幼女は数々の悪魔の宿る人形を操っていた。紅い少女も凛とした目で幼女を見返して頷く。
「エルフィは魂だけが、今もピアスの珠玉にあるみたいに……ラピ自身は成仏しても、魂だけが何処かに残って、契約の代償に奪われたはずということね」
「うん……それでラピスが何処に行ったのかは、わたしもわからなかったけど」
 それが今日、槶との出会いで糸口が掴めた。力強い思いで水火を見上げた。
「ラピスはきっと――母さんの所に行きたかったんだよ」
 幼女は未だにその母に会えていない。それでもラピスはどれだけ、その養母を慕っていたか――
 それをたとえ、幼女は知らなかったとしても。養母の方も、何も動かず養女を手放すことはなかったのだと、この先に知ることになる。

「シルファの心は、シルファのお母さんと一緒にいっちゃったけど。ラピスの魂はきっと、母さんの所にいると思う」
「でもエルフィ……それは……」
 紅い少女は少し悲しげに、諭すような目で幼女を見つめた。
「魂はあくまで、ヒトの自我と精神を司る、一時的な表層意識の力に過ぎないわ。エルフィの魂がわたしを動かしている時も、わたしは結局、わたしであるように」
「……」
 博識な魔道の徒である水火が、幼女の胸に冷たい手を当てた。
「理性や精神、そんな脆弱で不安定な高位の自我じゃなくて。エルフィがエルフィである理由……エルフィの本当は――命と心は、こっちにあるのよ」

 だからたとえ、ラピスの魂が何処かに残っていたとしても。それは本人でなく残滓に過ぎないと、水火が現実を口にした。
「ラピは……シルファは多分、二度と戻っては来ないと思う」
 それは金色の髪の兄からも告げられた、厳然とした事実だ。安らぎを得たはずの幸薄いラピスの、切なる願いだった。

 わかってる――と。瑠璃色の髪の幼女は、水火を見返して呟いていた。
「それはわたしの我が侭だから。うまくいかなくてもいいの」
「……」
「水火も兄さんも、反対なのはわかってる。二人はもう……シルファを眠らせてあげたいんだよね」
 だから協力してくれるかを、あえて尋ねた。紅い少女は困ったような顔で笑った。
「わたしは反対というより、無理と思っているだけよ」
「…………」
「ラピ、頑固だったからなぁ。でもエルフィの気が済むなら、何をすればいいか言ってくれたら、いくらでも付き合うわ」
 普段通り笑って言う水火に、幼女もうん、と無機質に頷く。

 とりあえず、と幼女は、更に爆弾発言を続けた。
「シルファのお母さんに、会いにいきたい。連れてって、水火」
「――はい?」
 笑顔のまま紅い少女が、理解不能な内容に思考を止める。
「今日の黒いヒト、シルファのお母さんだった。だからあのヒトと楽しそうに一緒にいたんだよ」
「って……槶君といた、あの女のヒトのこと?」
「うん。黒いヒト、シルファの友達のこと、みんな好きみたい」
 ? と微笑む水火に、幼女は溜息をつく。水火はかなり敏い方なのだが、幼女の直観が導く話についてこられるのは、やはり兄くらいだろう。

「躰が痛みそうだから、あんまり会いたくないけど。あの女のヒトの躰は、シルファを殺した本当のお母さんの体だよ」
 どうしてそうなったかまでは、今は重要ではない。根拠なき事実だけを伝える幼女に、水火も疑わずに飲み込んでいく。
「それはまた……烙人は本当に、変なヒトと知り合いなのね」
「ラクトは知らないと思う。中身は多分お母さんじゃなくて、シルファに住んでた神様に近いヒト」
 ということは、と、水火がまた目を丸くする。
「もしかして……エルフィ……」
「うん。あの女のヒトにも、記憶を奪える力があるみたい」
 それが本日出会った様々な違和感の源だ。赤い髪の娘や帽子の少年から、ラピスに関する意識が消える不自然。
「水火も今日、ラピスの友達に、あんまりラピって口にしちゃいけない。みたいな、ヘンな圧力、かかってなかった?」
「へぇ……そういう形の間接介入も、ありということなのね」
 そのためにわざわざ、ラピスのことを「棯瑠璃」と無自覚に言っていた水火は、なるほど、とぽんと手を打った。

「それって、会って大丈夫かしら? わたしもエルフィも、あの神様には乗っ取られかけた身の上なのに」
「大丈夫だよ。わたし達の方が本家だから」
「ふぅん。何だか色々、ラピの置き土産が残ってるのね」
 様々な運命的出会いの日。自身で口にしておきながらも、水火は感心したように軽く息をついた。
「本当……エルフィ達の直観って、伊達じゃないわね」
 その日はそうして、当座の話は終わったのだった。


 数千年もの昔から、幼女は夜行性だった。だからというわけではないが、寝巻き姿でいることが好きだ。
 その家の誰もが眠りについた夜更けに、灰色猫を抱えながら、一人で縁側に座る。昼間に寝過ぎてしまったので、暗い夜空をしばらく見上げていた。
「……兄さんは……今頃魔界なのかな」

 瑠璃色の髪の娘の生が閉ざされた赤い夢。それを何度も観る度に、金色の髪の兄は妹を心配するように様子を窺いに来ていた。
 また同じ夢を観るのが嫌なこともあり、幼女は夜行性に拍車がかかっている。それでわかったこととしては、いつも様子を見に来る兄は、自分より眠れていない状態で顔色一つ変えずに生活しているのだった。

「どうして兄さんは、あんなに身も蓋も無いのかな……?」
 誰もそれを望んでいないと知りながら、兄はラピスを失くしたことで自身を責めている。ただ淡々と、常に自らに厳しくあった。
「ラクトは……竜とか精霊はそういうもの、って言ってたな……」
 世界の数多な化け物の中でも、自然の力を基盤とする化け物――竜や精霊。そうした生粋の自然霊は、情けでなく(ことわり)で動くという。
 必要なら一切情を殺す兄は、遥か昔から天性の死神だった。

 竜の血をひく精霊の兄を持った幼女は、自身はほぼ人間だと言える生を受けた。後に、竜の珠という秘宝に魂を囚われたが、それでも根本的な人間性は変わることがなかった。
 竜の眼という小さな宝で、新たな生を得た現在も、人間の躰に在るためか人間である感覚は変わらない。同じ直観を持っていても、兄程に追い詰められることはこれまでなかった。心身も魂も竜の秘宝に守られるが故に、人並みの寿命は生きられるだろう、と言われている。

 その分幼女は――兄とは違う痛みを、古くから一人で抱える。
「……わたしも……早く母さん、会いたいな……」
 善意にも悪意にも敏感だった昔は、溢れる悪意の中で、孤高な暮らしを余儀なくされた。その意味では孤独には強い方だ。
 今の幼い見た目と裏腹に、一度死んだ時の年齢はラピスに近い。数千年の時を超えた魂は、一般的な人間よりずっと強い芯の持ち主。だから悪魔なども使えるのだが、それは人間らしい感情の放棄を意味しなかった。

「……ここも、寒い……」

 ぎゅっと強く、灰色の猫のぬいぐるみを抱える。
 遠い昔に自分を支えた、母の愛そのものの竜の眼はもうない。兄を助ける時に手放し、新たな生を得ることと引き換えに、絶え間ない温もりは失われてしまった。
 ずっと居続ける暗い水底。竜の珠に溺れる魂は、そこにいなければ生きることができず、永遠の寒気は諦めるしかない。
 目を閉じればいつも、何処までも暗い。ぬいぐるみからは遠く見える夜空を、祈るように見上げていた。


+++++


 ねぇ――と。夕暮れ時に唐突に、瑠璃色の髪の幼女は近くの川辺を訪れた。
 京都をほぼ縦走し、南の平原にも続く川へ、瑠璃色の髪の娘のお下がりである功夫服を着ていく。
 その薄暗い川辺にいる相手とは、完全に初対面だ。それでありながら、長く果たされなかった再会のもとで、無表情に口にしていた。
「ラピスを返して。ラピスの……お母さん」
「……」
 にこにこしながら、ぽかんとした様子の黒い相手。灰色の猫のぬいぐるみを抱えて立つ幼女に、沈む陽を背に沈黙で応答する。

「……」
 沈黙には沈黙で応じた幼女。少し観念したように、黒い髪で青い目の女が、皮肉げにも見える顔で微笑んでいた。
「わざわざ酔狂だねぇ。ラピスの妹ちゃんは」
 でもね、と女は、残念そうな顔でも笑う。
「シルファはラピスに戻る気はないんだよ。シルフィ……――シルファのお母さんも、ここにはもういないし」
 普段は引きこもりの幼女が遥々(はるばる)外出してまで、黒い女の前に現れた目的。それは叶わないとの現実を口にする。

「君を助けられて、やっと安心して眠ることができたシルファを、どうしてわざわざ起こしたいの?」
 誰かの命を喰らって生きた死者。最後にやっと、その意味を見出すことができたのだと、黒い女は知っている。
「また命を喰わせれば、確かに可能だろうけど。あのコに更に責め苦を負わせるつもりかな?」
 それはただの苦行でしかない、と諭す。そんなことは幼女もわかっている。
 自らの躰の、実母の躰を使う黒い女。その呪いに負けないように、気持ちを強く持ち、まっすぐに黒い女を見据えて答える。

「ラピスはわたしに、連れていってと言った」
「……」
「わたしは兄さんとラピスに助けてもらった。今度はわたしが、兄さんとラピスの助けになりたい」
 それが自己満足に過ぎない思いでも、昔から幼女は気ままに、私情で動く性質なのだ。
「まだ何か……できることはあると思うよ」
 この場で解決することではない。それでもまずは所信表明に、自らの躰を一度殺した女の元へ現れた幼女だった。

「エルちゃんは本当、前向きだねぇ」
 幼女とその躰の関係を、黒い女は知っているようだった。
 元来持っていた強い霊的な感覚で、名乗ってもいない幼女の愛称を簡単に言い当てる。ただ遠く、幼女と同じ青の目で笑った。
 その黒い女の、中身はいったい誰であったのか。それだけはこの先も、長く明かされることはないままで。


 ゆっくり堤防の上に戻ってきた幼女を、付添いの紅い少女が出迎える。
「お帰り。お話は終わったの? エルフィ」
「……うん。水火」
「どう? ラピのこと、何か進展あった?」
 外界には基本興味の無い水火が、社交辞令に近い調子でも尋ねるのは珍しい。水火にとってもやはり、無視できない存在であることを示している。
「全然。わたしじゃやっぱり、無理みたい」
「そうなんだ。ユーオンやレイアスに内緒で来たのに、残念ね」
「兄さん達は絶対に心配するから、今後も言わないでね」
 まだまだ外出する気満々の幼女に、くすり、と水火が、虚ろでも楽しげに笑った。

「エルフィの考えることはわからないわ。何か一つでも、勝算はあるの?」
 そもそも幼女の目的は無理、と水火は諦め切っている。それでも動く気である幼女に、整い過ぎた顔で微笑む。
「エルフィはユーオンより視野が広いから。何か、観えてることはあるんだろうけど」
「…………」

 現状の把握を、五感に依存する兄とは違い、幼女は気配が感じられる範囲……頑張れば町一つカバーできる感覚を持っている。
 灰色猫を水火に持たせ、ラピスの友人達と出会った。そこで感じ続けた気配、それにしか成算はなかった。
「あのヒトが、ラピスを返してくれたら……ラピスの友達にも、手伝ってもらえると思う」
 無力な自身だけでは、目的は叶わないと知っている。だから直接黒い女を観にいき、把握できた現状を改めて説明する。
「ラピスの友達はあのヒトの力で、ラピスがいないことがわからないようにされてる。それが、ラピスの望みだったから」
「そう。それは、ラピらしいなぁ」
「でもその力の影響がなくなって、ラピスがいない、ってわかってくれたら。……帰っておいでって、友達からラピスに言ってくれたら……きいてくれる気がする」
 そうかな? と虚ろに微笑む水火に、無表情のままで頷いた。

「ラピスは……まだ、帰ってこれる」
「それは――エルフィの躰にってこと?」
 元々は幼女を助けるために、その体をくれた相手だ。命を分ける気か、と紅い少女は問いかける。
「それもできるけど。それはしないと思う」
「そうよね。それなら他に、方法はあるの?」
 そこで幼女はもう一度、力強く頷く。
「きっと……何か、できることはある」
 まだ馴染み切っていない躰のため、無表情になりがちの顔で、特に根拠はないながらも努めて笑う。

 そのまま相方である紅い人形と、黄昏の川辺を後にしたのだった。


+++++


 赤い夢とそうして、直接向き合った効果だろうか。
 その日の夜は、夜行性である瑠璃色の髪の幼女も早くに、温かな眠りにつくことができていた。

――ごめんね……私、邪魔かな?

 まだ幼女が、物言わぬ赤い天使であった頃に。
 瑠璃色の髪の娘と共に過ごした束の間……哀しくも優しい記憶が、深い青の夢として初めて訪れる。

 ラピスという瑠璃色の髪の娘。金色の髪の兄の義理の妹分は、実の妹よりも兄に似ていた。
――あなた、ユーオンの妹さんなんだよね?
 常に自責的で寄る辺なき心。だから兄とラピスは、互いに寄る辺を見出した悲哀があった。
――ユーオンは、あなただけを守れば良かったのに……。

 一度は破綻を来したユーオンが、何に苦しんでいたのか。ラピスは自身に宿る「神」から記憶をいじられながら、それでも誤魔化さずに直視していた。生きるために奪い続けた生の果てを探していた。
――私がいたことに、一つでいいから……意味があればいいのに。
 そうして大切な体をくれたラピスを、赤い天使が慕わないわけがなかった。

 金色の髪の兄も瑠璃色の髪の娘も、彼ら自身を呪われた者と見なし、心から嫌悪していた。
 そんな彼らをこそ幼女は心から慕い、今も求め続けている。


 寝付きも夢見も良かった夜の翌朝は、寝起きも良かった。とにかく朝が弱い幼女も、珍しく自分で起きられる程の快調ぶりだった。
「本当、びっくりね。エルフィってばそこまでして、(くぬぎ)君達に会いたかったんだ」
 川辺で朝に待っていて、と言った帽子の少年に無事に会うために。
 紅い少女に付添われて、川辺の堤防に座りながら眠たい目をこすっていると、異例の頑張りに水火が笑っている。
「忘れ物よ。元々はわたしのだけどね」
「……ありがと、水火」
 黒く長いリボンを取り出し、下ろしたままだった瑠璃色の髪を、左で束ねてくれた水火だった。

 程無くして、約束の相手――槶が近くの橋に現れていた。
「おはよー、竜牙さーん! 今日もいい天気だねー!」
 朝から元気一杯である帽子の少年は、ぶんぶんと橋の上から手を振り、堤防まで駆け下りてくる。

「ごめん、結構待った?」
「ううん、そんなことないわ。おはよう、猪狩君」
 え。と槶は、淑やかに微笑みながら立ち上がった水火に、何か違和感を覚えたようだった。
「どうしたの? 猪狩君」
「え、いや……竜牙さん、そんな大人しかったっけ?」
 虚ろに微笑む紅い少女は、そう言えば先日は瑠璃色モードだった、と思い出していた。
「猪狩君って呼ばれるのも、そう言えば意外に少ないかも?」
「そうね。わたしも、竜牙さんって呼ばれることは少ないわ」
 ここでまた切り替えるのも不自然だろう。このまま紅の常態でいこう、とあっさり開き直っていた。

 そしてそんな些細な違和感を、槶は――水火の傍らに立ち上がった幼女の姿に、すぐに吹き飛ばしていた。
「うわあ! ラピちゃんそっくりだあ! ホントのホントに、ひょっとしてラピちゃんの妹さん⁉」
「……」
 無表情に見上げる、灰色猫のぬいぐるみを抱えた幼女。槶は感極まった様子で、思わず突然抱き上げてきた。
「可愛いーちっちゃいー! 君、名前何て言うのー⁉」
「……――」
 幼女がぬいぐるみを抱えているように、幼女を抱えて嬉しげに頬を寄せる。
 その温かみに声も出せない程、ささやかに衝撃を受けた。それに気が付いているのは、おそらく傍らに佇む水火だけだった。

 ――ホラ。と水火が、槶のぬいぐるみと化した幼女に、助け舟を出すように肩を叩く。
「ちゃんと猪狩君に挨拶しなきゃ、エルフィ」
 しばし呆然としていた幼女は、そこでようやく我に返った。意を決したように、じっと槶の深い紅の目を見つめる。

 ん? と槶が、満面の笑顔で幼女を見つめ返す。
「……こんにちは」
 僅かに紅潮した頬で、表情は至って無機質のまま名乗る。
「ウツギ……ネコハです。ウツギルリとシグレの――妹、です」
 はにかみながら何とか言い切る。抱き上げられたままで、それが幼女には精一杯だった。

「猫羽ちゃん⁉ ジパング名も持ってるんだぁ、可愛いー!」
 きゃあーと叫ばんばかりに、更に強く抱き締めてくる。
「ラピちゃんと一緒で、ホントは人見知りの小動物な感じだ♪ 懐いてくれると嬉しいよね可愛いよね、何でもしたくなるよね!」
 最早全く反応できない、一見は八歳程の幼女だった。

 そうしてそのまま、幼女は槶に抱えられた状態で場所を移動することになった。
「…………」
 ひし、と、帽子の少年の首にぬいぐるみごとしがみつく。
 嬉しそうな槶は、どうやら兄弟がいないらしい。それどころか血縁者がいない天涯孤独なのだ。それをふと感じ取った。
 それでも持てるこの温かみ。知らず、一筋の涙が静かに頬を伝っていった。


 帽子の少年が瑠璃色の髪の幼女と紅い少女を連れて来たのは、京都の管理中心地である「花の御所」という大邸宅だった。
 元々その大邸宅が、槶の友人達の住む場所と知っていたので、それは予測していた。

 しかし友人達にでなく、先にその親に歓迎を受けることになった状態は、幼女にも紅い少女にも想定外だった。
「おお! 何とイタイケな女の童(めのわらわ)なのじゃ、本当に!」
「すげーな頼也(よりや)(つぐみ)の小さい頃を思い出すなー!」
 直衣姿の公家と、着崩した袴姿の侍。
「……初めまして。ウツギネコハです」
 先に挨拶を済ませた水火と共に、座敷に正座する。ぺこりと頭を下げる前では、二人の男が穏やかに笑いながら座っていた。

「棯殿から先日に、話は伺っておるよ。まさかこんなにすぐに、会うことになるとはのう」
 一人は翠の直衣と烏帽子を着こなす、短い黒髪と青みがかった黒い目の公家で、端整な顔立ちでも御所の管理者だ。
 もう一人は赤い髪を無造作に束ね、赤い目で浪人風の、非常に体格の良い男だった。
「別にジパング届出名で名乗らなくていーんだぜ。ユーオンもそんなの気にしてなかったしな」

 気さくさの滲み出る男達に、紅い少女が親しげに微笑む。
「わたしはどの道、水火なんです。でも猫羽は、エルフィって呼んでいただけると普段通りです」
 竜牙水火と名乗り、年若い外見に合わず落ち着いた物腰の紅い少女に、公家は少しだけ困ったように微笑んでいた。
「竜牙殿が現在、棯家の留守を任されていると伺っておるが」
「ええ。わたしはエルフィ達の義理の叔母にあたるので」
「家を空けなければいけない事情は、いくらかは棯殿からも伺った。竜牙殿も巻き込まれた騒動は一段落したと言うが……幼い子供と二人で留守を守るのは、心細くはないかのう?」

 ちょうど金色の髪の兄と養父が自宅を後にした一昨日に、彼らはこの御所に挨拶に来たという。それは兄が一時期、御所で生活させてもらったことや、それからも色々と助けを受けていたことの礼のためだったはずだ。
 公家は穏やかな顔で水火を見つつ、じっと公家を見上げる幼女に、気さくに笑いかけた。
「良ければ竜牙殿とエルフィ殿も、しばらくの間、御所に滞在されぬか?」
「……はい?」
 水火が微笑んだまま、目を丸くして公家を見返す。幼女は隣で無表情なまま、ぎゅむっと灰色猫を強く抱き締める。

 想定外の誘いを、公家が続ける。
「棯殿は正直、いつ帰るとも知れぬ出立であると申されていた。竜牙殿もまだジパングには不慣れと聞く。この土地に慣れるか、家の者が帰られるまでは、ここにおられた方が安全じゃろう。その方が棯殿もユーオン殿も、安心されると思うがのう」
「それは……願っても無いお話ですけど……」
 水火がちらりと、幼女の方に目をやる。
 思ってもみなかった公家からの提案に、人形の身としては判断に困るといった様子だ。

「……」
 瑠璃色の髪の幼女はそこでおもむろに――静かに立ち上がった。
「……エルフィ?」
 唐突ではあるが、迷いはなかった。
 不思議そうに見る水火の前、とことこと公家の元に近付き……。
「――お?」
 すとん、と、ごく自然な動作で、楽しげに微笑む公家の膝を陣取った。それを許す隙だらけの公家の、直衣をひしっと掴む。
 ひたすら目を丸くする水火の前で、公家はよしよし、と頭を撫でてくれた。赤い髪の侍も朗らかに笑いかけてくれた。
「ほら、嬢ちゃんも、ここがいいって言ってるぜ?」
「…………」

 水火はしばらく、うーん、と両腕を組んで考え込んだ。
「それでは……もし良ければ、エルフィをこちらに、預かっていただいても良いでしょうか?」
 そして出したらしい結論。公家と侍はおや、という顔付きで、水火を見つめ直していた。
「それは構わぬが、竜牙殿はどうされるのじゃ?」
「それが……今、家にはもう一人の同居人がいるんです。体が弱いヒトなので、放っておくのも心配ですし」
 淡々と言う水火に、公家の膝の上で、幼女も特に異論はなかった。咄嗟に迫られた判断の答は、水火の数少ない本当の心とわかっていた。
「エルフィが寂しがるといけないので、たまに顔を見に来ても良いでしょうか?」
「ああ、構わぬよ。竜牙殿も何か、困り事があれば、遠慮なく相談に来られると良い」
 あくまで落ち着いた様子の水火に、それ以上公家も侍も、無理に引き止める気はないようだった。

 紅い少女は整った微笑みで、有難うございます、と礼を口にする。
「いいコにしてるのよ、エルフィ。わたしもなるべく、まめに会いに来るようにするわ」
「……」
 こくりと頷くと、少し安堵したように笑っていた。一人その座敷を退出した水火を、黙って見送った幼女だった。

 あれ? と。その後呼び込まれた子供達の中で、槶が不思議そうに首を傾げた。
「竜牙さん、帰っちゃったの? まだ紹介できてないのにー」
「家に病人がいるんだとよ。蒼潤(そうじゅん)と一度闘わせてみたかったが、残念だな」
「?」
 赤い髪の侍が言うことに、入ってきた四人の子供の内、袖を千切った和服に長袴姿で、硬派そうな鳥頭の少年が首を傾げた。

幻次(げんじ)さん、そいつ、強そうだったんですか?」
「ああ。あの研ぎ澄まされた感じは、隠してはいるが、相当の腕前の剣士と見た」
 おおお、と、夕焼け色の髪に黒い目をした剣士は、無表情ながら右手を握り締める。

「これこれ。いくら剣士と言えど、年頃の少女に闘いなど仕掛けるものではない」
 剣士の父である公家が、膝に瑠璃色の髪の幼女を乗せたまま、侍と長男を軽く窘める。
 剣士の少年の隣では、袴姿の黒髪で黒い目の次男が、難しい顔で座っていた。面立ちは公家のミニチュアのようで、幼女と見た目は近い年代に見える。公家の膝を占拠する幼女を、心なしか厳しく見つめている。

「父様……それではこちらの方が、これからしばらく滞在されるんですか?」
「ああ。ユーオン殿と違ってまだ幼い故、一人は心許ないがのう」
 公家はそもそも、紅い少女と幼女を共に滞在させるつもりだったらしい。部屋に集まった子供達を見回し、悩み顔を浮かべる。
「頼也さん。良ければ私、エルフィちゃんと一緒にいます」
 公家が何か口にする前に、唯一女の子供である姪、赤い髪の娘が自分から申し出ていた。
「おお。鶫からそう言ってくれるなら、姉上に突然頼むよりは気が楽じゃのう」
「いいのか、鶫? 子供の世話は楽じゃないぞ」

 赤い髪の侍の一人娘である姪が、公家の隣にそっと座る。凛とした面立ちながら微笑ましげに、幼女の顔を覗き込んできた。
「自信は無いですけど――ラピの妹だし、頑張ります」
「鶫ちゃんなら大丈夫! 何も心配いらないよ、エルちゃん♪」
 槶が笑って太鼓判を押す。剣士の少年、その弟、槶と、対面に座る男の子供達はそれぞれ思い思いの表情を浮かべている。始終黙り込む瑠璃色の髪の幼女を、物珍しそうに見つめていた。

「……」
 瑠璃色の髪の幼女はただ――ひしっと、公家の直衣を掴む。
「大丈夫じゃよ。ユーオン殿もすぐに慣れておったからのう」
 そうして強く力を込める度に、公家は穏やかに微笑み、頭を撫でてくれる生活がしばらく続くこととなる。

_承:悪魔使い

 完全に行き当たりばったりで、花の御所への居候を決めた、瑠璃色の髪の幼女だった。
「――え? エルフィより、猫羽ちゃんって呼ぶ方がいいの?」
「……」
 ゆっくり頷く。今日から共に生活する部屋として、自身の寝所に幼女を連れて来た鶫――赤い髪の娘をじっと見つめる。
「その方が……ツグミ達と一緒みたいな気がする」
 鶫の着物の裾を掴みながら言う。無表情な幼女「猫羽」に、そう? と鶫が、無防備に微笑んでいた。

「ラピは全然ジパング名は使ってなかったし、ユーオンなんて使いもしない名前、二つも登録されちゃってるのよ」
「二つ?」
 不思議で首を傾げると、鶫が楽しげに先を続ける。
「最初は身元不明だったから、ユーオンが御所を出る少し前、時雨雲英(しぐれきら)って登録したんだけど。ラピがユーオンを迎えに来た時に、棯紫雨(しぐれ)って名前がもう登録されてるって、その時やっとわかったんだから」
「……でも、兄さんはどっちも、シグレなんだね」
「そうなの。凄い偶然だけど……まぁでも、確かにユーオン、雨が似合いそうな雰囲気だものね」

 はい、と鶫が、寝着となる小さな浴衣を差し出してきた。
「猫羽ちゃんも何となく、猫がよく似合いそうよね」
「……」
 手早く猫羽のそれまでの恰好――体術家向きの動きやすい服を脱がせると、子供用で可愛い白猫模様の入る薄赤い浴衣を、難なく着付けてくれた。
 初めて着る浴衣。一しきり、嬉しい気持ちで眺める。
「初めは……ヤイバにしようって、水火が言ったけど」
「って――つまり、猫刃(ねこは)ちゃんってこと?」
「ネコのヤイバだと、牙とか爪とかいかにも貫く感じだから、やめようって……兄さんが言ったから」
「へぇ……ユーオンはもうそんなに、漢字も覚えてたのね」
 常に片耳に翻訳機をつける兄。それでも元来の直観の効用か、言語の習得能力自体は高いようだった。

「私達とは多分、猫羽ちゃんは難なく話せるとは思うけど……御所の人はほとんど人間だから、ユーオンもそうだったけど、無理に話そうとしないでいいからね」
 鶫達のように、言語に依らず声に載る念を使う意思疎通能力は、片方にそれができれば話は通じるという。人間である猫羽はともかく、金色の髪の兄が現代の千族に普遍的なその力を持たないことを、鶫は不思議がっていた。

 着替えが終わり、座布団に座った猫羽は、落ち着いたせいかこくりこくりと睡魔に襲われ、船を漕ぎ始めていた。
「ちょっと疲れちゃった? もうお休みする?」
「んー……」
 いやいや、と、目をこすって睡魔を追い払おうとする。しかし珍しく早起きした日だったこともあり、最早敗色濃厚だった。
「ツグミともっと……お話したい……」
 言いながら既に胡乱(うろん)な声色に、赤い髪の娘が温かく笑う。子供用の布団を出そうと立ち上がっていた。

 鶫が寝床を用意しようとしてくれていると、それはすぐにわかった。
「ねぇ、ツグミ……」
「?」
「ツグミと……一緒に、寝ていい……?」
 着物の裾をもう一度掴む。眠気で潤んだ目で見上げるのは、正直なところ、普通に心細いからだった。
「いいよ? ちょっと待ってね」
 二つ返事で微笑んだ赤い髪の娘は、自身が使う寝具を出し、一緒にそこに横たわってくれた。

 知らない御所で、優しい鶫。僅かな不安はすぐに、柔らかな掛物に包まれていった。
「……あったかい」
 見守るように横向きでいる鶫の前で、安らぎがこみ上げてくる。
「でも……うたないでね……」
「?」
 むにゃむにゃと寝言のように、最後にそれだけ口にする。以前にこの娘に会った時の、その記憶だけが赤い天使の中にあった。それももう怖がることはない。
 最早天使ではない人間の幼女は、すぐに眠りに落ちていった。

 灰色の猫のぬいぐるみを抱えたまま、眠りに落ちた瑠璃色の髪の猫羽の寝顔に、赤い髪の鶫が微笑みながら息をついた。
「本当に、ラピにそっくり」
 束ねたままだった髪の黒いリボンをほどき、ひとまずぬいぐるみに巻き付けてくれる。
「ラピがジパングに来た頃も、これくらいだったかな?」
 その頃はこの、無表情でも穏やかな子供より、はっきり棘を持っていた危うげな友達。それを思い出してか、懐かしそうに微笑む。

 一時期生活を共にしたユーオンや、幼い頃からの友達が最近どうしているのか、鶫はあまり聞けていない。
「猫羽ちゃんが起きたら……」
 だから鶫も猫羽に、色々話を聞きたいと思っていたようだが、
「……起きたら、何だっけ?」
 あれ、と。不意に途切れてしまった言葉に、自身で目を丸くする。

「…………」
 そうした様子を、その寝所から中庭を挟んで対面に位置する場所で、縁側から見つめる者の姿があった。
「……大丈夫なのかな……」
 瑠璃色の髪の子供と外見は年が近い黒髪の子供。名立たる術師の公家の次男である、神童と呼ばれた術師の子供が、物憂げに佇んでいたのだった。


 思春期以降の歳の者が寝付くには早い時間のため、しばらくしてから鶫は寝床を離れた。
 夜には再び共に眠ってくれた。鶫を通し、幼い猫羽は戸惑う程に、温かな夢に連続して襲われていた。

 ラピスが現れる夢。一番近い記憶と思われたもの。京都の南、自宅近くまで続くあの川辺の、昨夏頃の出来事だった。
――……ええっ? 子供だけで花火するの?
 術師の家に生まれ、天上の血をひく赤い髪の娘は、こんな程度の火。と、「力」で軽く火種を提供する。
 そのすぐ後に、そう言えば――と、思い出したようにラピスを見つめた。
――大丈夫? 確かラピ、火の気は苦手だったでしょ?
 実父を炎の獣に殺されたラピス。それと覚えてはいなくても、火を見るのを昔から苦手としていた。
――(くぬぎ)もたまに強引なんだから。無理に合わせることないのよ?
 そうした相手の弱味を、術師の家の鶫は無意識に感じ取ることが多かった。だからこれまで、あえて声をかけていなかった恒例の火の行事。
 それにラピスを誘ったのは、有無を言わせぬ笑顔で断りを封じた槶だった。

 ラピスはううん、と嬉しそうに首を振った。
――断ろーと思ったら伝話でもできたし。こーやって誘ってもらえることの方が嬉しいもん♪
 内容は何であれ、彼らと共にいられる時間そのものを心から喜んでいる。その後に更に、気を使ってくれて有難う、と鶫にまっすぐ笑いかけた。

 瑠璃色の髪の娘は、基本的にはそうした直球な性質であり、
――……ラピは本当、いつも笑って済ますんだから。
 照れ隠しに不服気に返してしまう鶫とは対照的だ。だからこそ気の合う友達に観えた。
――そうだよねー。ラピちゃんいつも、笑っててエライよね♪
 アンタが言うか、とツッコミを受ける槶。想像力が(ほとばし)る場合を除き、常に明るい槶の笑顔を映すかのように、ラピスはずっと笑って彼らを見つめていた。

 それでも彼らは、ラピスが微笑み続ける限り、立ち入れない領域があることも何処かで感じていた。
 それもラピスらしい姿なのだと……あえて踏み込まず、そのままの在り方を受け入れて共に在った。

 それがどれだけ、己の闇を抑えて生きたラピスの救いだったか――……泣き出しそうな温かさを、瑠璃色の髪の幼女は知る。


+++++


 赤い髪の娘の居室。最初に会った公家と侍の内、侍の家に世話になることになった瑠璃色の髪の幼女、猫羽だったが。
「……何だ? またあの妹、鶫の部屋から消えたのか?」
「蒼は見てない? そっちで朝ご飯食べてるのかと思って」

 朝が弱い猫羽を、鶫は無理に起こそうとしない。そのため摂り損ねてしまう朝餉を寝所まで運ぶたび、部屋に入ると猫羽の姿が無い状況が繰り返されていた。
「今日は父上の膝にもいなかった。と言うより、父上が仕事で朝餉がご一緒できなかった」
 そして何故か公家の一家の方で、公家が残しておいてくれた食事を僅かばかり膝の上でつまむのが、図太い居候な幼女の日常化していた。

 もーっ、と心配そうに唸る鶫に、従兄である剣士の蒼潤が納得したように無表情に頷く。
「さすがはラピの妹だな。気が付けばいない所とかそっくりだ」
「ラピのは何て言うか放浪癖だけど、あのコは大体頼也さんを探してるんじゃない」
「……それ、そんなに違うものなのか?」
 気ままに行動する点で変わらないように見えるらしい従兄に、全然違うわよ、と感性の強い鶫が不服気に返す。

 そんな遣り取りを感じ取っていながらも、今日も今日とて、気ままな幼女は公家の姿を探す。
 赤い髪の娘と公家。夜は鶫と一緒にいられるので、昼間は公家に甘えに行きたい。ひたすらただ、それだけだった。
「……今は、ダメみたい」
 現状把握に優れる幼女には、穏やかで優しい公家が現在構ってくれやすい状況か、幼女がうろつく場所が客人でも立ち入って良い領域かなど、何となくわかる強味は大きい。
 自由気ままに過ごしながらも、特に問題も起こしていない。早くも適応しつつある猫羽だった。

 公家がそうして忙しそうな時は、鶫に引っ付いているのだが、
「……あれ」
 近くに無視できない気配が訪れていた。登っていた木からひょいと、着物にぬいぐるみを抱えた状態で、危なげなく御所の庭に降り立った。

 とことこ、と正門まで一人で出向く。
「おはよう、エルフィ。元気にしてた?」
 慣れ親しんだ相手の来訪に、うん、と嬉しく微笑んだ。

「――猫羽ちゃん?」
 その強い「魔」の気配を、隠そうともしていない紅い少女。
 猫羽がこの御所に来た日の、同伴者の気配を鶫は覚えていた。それで鶫も正門までやってくる。
「初めまして。竜牙水火と申します……山科鶫さん?」
 少し前に一度出会ったはずの、不審な相手の虚ろな微笑み。鶫が瞬時に警戒するのを猫羽は感じ取っていた。

 「守護者」と呼ばれ、世界で四人しかいない強大な「力」を持つ秘宝を守る者の一人が、この御所の公家であるとは猫羽は知っていた。
 対して水火は、その守護者に対抗できる、強い魔族の情報から造られた「魔」だ。鶫の警戒心も当然の話だった。

「今日はエルフィのおもちゃを持ってきたの。ピアス一つじゃ寂しいかと思って」
「……はぁ」
 しかしあまりに平和な来訪目的を口にする水火に、鶫が拍子抜けしている。
 広い庭園の休憩所の一つに腰掛け、持参したいくつかの道具を、水火がそこで広げる。

「――あれ? これ……」
 出された小さな三つの道具の二つは、鶫には見過ごせる物ではなかった。
「ラピのPHS……と、アンテナ?」
 少し前まで、友達が使っていたはずの通信道具。それが壊れて二つの道具に分離され、そこにある不思議に眉を顰めた。

 にこにこと水火は、黙って成り行きを見守る。
 予想通り、やはり鶫は、何故その道具がそこにあるのか疑問を口にせずに、関心を失くしてしまう。

「水火……これは、どう使うの?」
 PHSの本体とアンテナ。そして後一つは大きな珠玉を填める、巨大な指輪のような形状の道具を、受け取りながら首を傾げる。
「エルフィはあんまり、複雑な道具は得意じゃないのね」
 くすり、と水火は、アンテナ以外を猫羽へ手渡した。
「烙人が直して、改良してくれたから、普通のPHSとしても使えるし。わたしがこっちを持てば、エルフィの声がわたしに届くし、わたしの声や情報もエルフィに届くみたいよ」
 元は壊れ物のPHSを持つ幼女に向かい、水火はアンテナの方を手にして嬉しそうに微笑む。

「……?」
 持ったことがないものの、PHSとはそういう物だっけ? と、鶫が不思議そうに目を丸くする。
「こっちには、ピアスの中の珠を移し変えろと言っていたわ」
 残る一つの道具を水火が手に取る。幼女もその意図がわかった。
 抱えていた灰色猫のぬいぐるみの後ろ頭を、数個のボタンを外して開け、中から漆黒の珠玉を取り出す。
「本命ができ上がるまでは、しばらくこっちに入れておいて、小さくしておくといいみたいよ」
 珠玉を受け取った水火が、巨大な指輪にそれを填め込む。
 そして水火の手から僅かな光を受けた指輪は、次の瞬間淡い光を発し……まるで猫の首輪のように小型化していた。

「ほら。よく似合うわよ、エルフィ」
「……」
 そして首輪を猫羽に着けた水火に、何が起きているかわからなかった鶫は呆気にとられるしかない。幼女の魂が宿る珠玉を、これで持ち歩きやすくなった、と説明するのも微妙だった。
 巨大な指輪に元々ついていた適当な碧玉を、代わりに灰色猫の頭に戻した。水火が意味ありげな微笑みを見せた。
「ピアスもPHSも。後は、エルフィの特技にも使えばどう?」
「……」

 紅い少女が何を言わんとしているか、その場でわかったのは――その時は、現状把握に優れた幼女だけではなかった。

「……その二つの依り代を、何に使うんですか?」
 場に唐突に、幼いながら聡明そうな声色が響いた。
「随分――不穏な気の持ち主だな、あんたは」
 その声の主に付き添ってきた、常なる守り手の剣士。
「蒼に……悠夜?」
 鶫が目を丸くして、警戒の様相で現れた二人の従兄弟の方を見た。

「……」
 こうなることがわかっていたため、水火は先日も早々に御所を引き上げたはずだ。鋭い力の主達と、対峙を避けた水火がくすりと微笑む。
 強い力を持つ守護者たる公家の次男で、八歳にして大人顔負けの術師である悠夜が事情を話し始めた。
「貴女達が不穏事に踏み込まぬよう、父様の目が届かない時には、代わりに気を配るように仰せつかっています」
 場に現れた目的を、子供とは思えない理知的さで、まるで諭すように告げる。

 呆然としつつも状況を窺う鶫と、隣に座り、黙ったままの猫羽を横目に、水火は何も悪びれがなかった。
「あら。エルフィが自分を守れるようにするのは、いけない?」
 幼女を守るのが己の役目、と。術師の悠夜と背後にいる剣士を、虚ろな紅い目で見据える。
「呪術や剣は良くても、悪魔はダメ? 強そうな呪術師さん」
「道具も力も使い手次第でしょう。貴女達の動向を気にされていたのは、他ならぬ貴女達の保護者の方ですよ」
「……もう。レイアスってば、余計なことを言っていくんだから」
 少し前にこの御所で公家と話をしたはずの、基本的に慎重な義兄を思い出し、水火がつまらなさそうにする。

 そしてそこで、紅い少女は自ら、その事実を明るみに晒す。
「数多なる悪魔との契約者――人形使いの再来は、そんなにも警戒されるべきことなのかしら」
 既に公家から子供達は事実を伝えられ、そのためここに現れている。きらりと魔性の紅い目を光らせる水火に、厳しい視線を向けた。

「……猫羽ちゃん?」
「……」
 術師の子供の厳しい視線は、少しだけ身を硬くした猫羽を含めていた。
「悠夜達が言っているのは……猫羽ちゃんのこと?」
 猫羽をまっすぐ見つめ、鶫が問う。
 両手をそっと握り、怯えさせないように平静な表情を保ったままで、その先を凛と問いかけてきた。
「ユーオンがこの御所に、初めて来た時……蒼と悠夜を襲った、正体のよくわからない人形がいたの」
「…………」
「頼也さんは、人形の使い手はユーオンの知り合いで、だからユーオンが危ないと言われてたけど。それは――猫羽ちゃんのことだったの?」

 猫羽と寝食を共にして、まだ一週間に満たない状態。それでも猫羽の類稀な勘の良さと、人間の幼子らしからぬ落ち着き。そして常に抱えるぬいぐるみの内の「力」の気配に、術師の一人である鶫は気が付いていた。

 公家とその子供達に正体が知られていることを、猫羽も気が付いていた。
 まだ知らされていない鶫。その黒い目をまっすぐに見つめ返した。
「……うん。わたしは、兄さんに会いたくて……ずっと、悪魔の力を借りて……悪魔の使い方を、教えられていたよ」
 瑠璃色の髪の娘の妹。そうであるはずの猫羽が、何故姉でなく兄を求め、そのような力を持ち、悪魔の元になどいたのか。
 そもそも八年前に両親を失ったラピスに、小さな妹がいるという状況が本来有り得ない。そうした様々な、噛み合わせの妙な状況が入り乱れること。それを思い至れないようにされた者達がいる前で、幼女は己についてどう言えばいいのか不安だった。

「ユーオンに会いたくて……どうして蒼と悠夜を襲ったの?」
 鶫は、今も心配している金色の髪の少年と、同じ危うさを持つ猫羽に真摯に問いかけてくる。
 猫羽はひとまず、尋ねられたことに誠実に答える。
「兄さんを探すことを手伝ってくれた悪魔が……悪魔の仲間を探すのを手伝ってほしいって、わたしに頼んだから」
「……」
 いつかは話さなければいけないことだ。それでも、警戒されるのは辛くて、今までは何も言わずに甘えられる時間を噛みしめていた。
 金色の髪の兄から、その敵は強い力を持った相手を求めている、と鶫は注意するように促されていたらしい。ただ痛ましげな、青みがかった黒い目で猫羽を見つめた。

 傍らのその遣り取りを、術師の子供は黙って見守っている。兄の蒼潤が、代わりに現在の状況を伝えた。
「その件は決着がついたようだと、父上は言われていた。もう過ぎたことだし、悠夜も俺も、今更どうこう言う気はない」
 冷静ながら溜め息をつくように、猫羽に目を向けて言った。
「でもそいつ――ユオンの妹がまた悪魔に唆されないように、と父上は心配されてる」
「あら。その悪魔というのは、わたしのことかしら?」
 にこやかに蒼潤を見た水火に、蒼潤は一段と厳しい目線を返す。
「そこが曲者だ。父上もあんたについては、加害者になれる被害者だと、難しい顔をされていた」
「ふぅん。レイアスはいったい、わたし達についてどんな風に、何処まで貴方達のお父様に話したのかしらね」

 鋭い霊感を持った術師一族と、近いようで異なる敏さを持つ紅い少女。少女自身も一度ならず、悪魔使いの手で人形化した「魔」であり、その事変に巻き込まれた側だった。
「じゃ、わたしがエルフィから離れるか、わたしがエルフィを連れて帰れば、貴方達は満足?」
「……水火」
 少しだけ顔を顰めて水火を見た。猫羽の代わりに汚れ役を引き受けようとしている水火が、余裕そうにひらひらと手を振る。

 あくまで冷静な術師の子供は、いいえ、とあっさり回答する。
「悪魔召喚の依り代になり得るような物は、預からせて下さい。貴女達に悪意が無くても、利用される可能性もあります」
 目前の紅い少女は、聖性と「魔」のどちらも持った、純度の高い存在であること。それ故の危うさを憂慮する深い黒の目で、水火と猫羽を見つめた。

 紅い少女が黙る傍ら、かつての悪魔使いは俯くしかなかった。
「これは……おねえちゃん達の……」
 アンテナの無いPHSと、灰色の猫のぬいぐるみ。ラピスの形見も大事で、猫のぬいぐるみの方も、幼女をかつて深い水底で見つけてくれた者がくれた媒介だ。
 どちらもひし、と抱き締める。その両方が確かに、悪魔の依り代となりえる業の深い道具だった。

 手放すことを思って、あまりに寂しくなったせいだろう。その空気の心許なさに、術師の子供が少しだけ、バツが悪そうな顔付きとなった。
「それなら――……決してその依り代を悪用しないと、ここで約束して下さい」
「…………」
 父である公家から、ただその拙い幼女を守ってやってほしいと頼まれた彼らにとって、悲しませることは本意でないのだ。

 その厚意を確実に、感じ取っていながらも――
「……これが必要なことが、あるかもしれない……」
 数少ない己の能力を使わない約束はできない。誠実に答えるしかない。

 そこですっと水火が間に入り、無表情かつ無言で、完全な敵対を示すように立ちはだかった
「……」
 剣士の蒼潤も前に出て、厳しい表情で水火と睨み合う。

 そんな緊迫した空気が、その一帯を支配した直後に。
「こんにちはー! 蒼ちゃん鶫ちゃん悠夜君、おっはよー!」
 場に響いた、緊張感の欠片も無い声。思わずがくっと姿勢を崩しかけた、公家の子供二人と紅い少女だった。

 御所を訪れ、友人達のいる休憩所まですぐ辿り着いた帽子の少年は、睨み合う蒼潤と水火に不思議そうに笑った。
「あれ? 竜牙さんと蒼ちゃん、何か大事な話し合い中?」
(くぬぎ)……どう見ても真剣な闘志と殺気だから」
 呆れる鶫に、うんうん、と悠夜も強く頷く。
「兄様の闘気はともかく、こんなにあからさまな殺気に鈍いと、槶の普段の危機管理が心配だよね……」
 紅い少女への警戒態勢は解かないながら、少し気が抜けた声色で心配げに呟く術師の子供だった。

「水火……」
 幼女の譲れない意向を反映している紅い少女。その無機質な後ろ姿に、何も言うことができない。
「……幻次さんの言う通り、相当な剣気の持ち主と見た」
 雑念無き「魔」の眼光に、剣士の蒼潤は、見直したような表情で不敵に笑った。

 その剣士の高揚を、親友を自称する槶は見逃さない。
「――ダメだよ蒼ちゃん! か弱くてキレイな女の子相手に!」
 こらーっ、と睨み合う二人の間に割って入る。またも剣士二人は、がくっと集中を途切れさせる。
「こんなにキレイな竜牙さんのお肌に、万一傷でもつけたら、蒼ちゃんはこの先責任とれるの⁉ 女の子には一生問題だよ、そもそもか弱い女の子相手に喧嘩を売るなんてダメだよ!」
「って、剣士に男も女も関係ないだろ、槶……」
「か弱い、ねえ……」
 自らの武器を携帯型にした腕輪を、もう少しで取り出す所だった水火が、フウ、と息をつく。

「竜牙さんも竜牙さんだよ! 蒼ちゃんはちゃんと話ができるヒトだから、何か事情があるなら睨まずに話してあげてよ!」
「…………」
 深刻さは無いながら、真剣に言っている槶。キョトンとした様子で水火が見つめ返した。

 そうですね、と、悠夜も溜息をつくように言った。
「話し合いはまだ終わってません。荒事に訴えずに、お互いの納得のいく道を探しませんか?」
「……うーん……でもねぇ……」
 水火はそこでようやく、少し困ったように目を細める。
「説明できるなら苦労しないと言うか……わたしもエルフィも、貴方達にこれ以上言えない圧力が、ずっとあるのよね」
 瑠璃色の髪の娘について、彼らに意識させない圧力があること。その障害は直接水火達を侵していないため、そうして違和感を自覚できる。しかし一度素因を刻まれた「神」の力でもあるため、かえって払い除けられない中途半端さだった。

「……――」
 水火の言に、悠夜が何故か僅かに息を飲んでいる。
 そんな空気を物ともせずに、あっさり槶が尋ねる。
「ところで今日は何で、竜牙さんは御所に? 猫羽ちゃんに会いにきたの?」
「……」
 黙り込む水火に、ちょうどいいや、と槶が、懐から何かの包みを取り出していた。
「これ、烙人さんに良かったら渡してくれる? 頼まれてた分、でき上がりましたからって」
「……ありがとう。調子良くなさそうだから、きっと喜ぶわ」

 その遣り取りを見て、鶫が不思議そうな顔になった。
「そうよね……元は槶の友達とラピの妹を私達に紹介するって、それで二人は御所に来たのよね」
 成り行きでその内の一人が、御所に留まることになった。それは公家が水火達の保護者と、その前に話をしていたからだと鶫は思っていた。
「でもまるで……あのコと猫羽ちゃんは、目的があったみたい。ここで何か、やりたいことがあるような感じ」
「……」
「あのコは猫羽ちゃんを守りたいだけみたいだけど、それなら最初から一緒に御所にいるか……自宅を留守にできないなら二人共断るか、よね」

 公家が提案する前から、幼女はそもそも、槶やその友人達に会いたいと思っていた。それに気付くかのように、鶫が真面目な顔で、黙って見上げる猫羽を見つめ返す。
「猫羽ちゃんはどうして――ここにいようと思ったの?」
「……」
 初対面の公家にその場で懐き、この御所に滞在する結果は、あくまで後押しに過ぎなかった。
「……ツグミ達に、会いたかったの」
 本来の目的を猫羽は忘れていない。圧力がある中でどうしたものか、今も悩んでいただけのことだ。
「ラピスの友達に……ラピスに、会いたいの……」

 瑠璃色の髪の娘の不在を、その友人達に気付かせる挙動は制限されている。
 それでもそれだけは譲れない事柄を、何とか口にできた。

「……――」
 猫羽のそのまっすぐな思いに、黙って様子を見ていた術師の子供が、一人でぎゅっと両手を握り締めた。
「ラピちゃんに……会いたい……?」
 最も身近な存在。妹であるはずの猫羽の不自然な発言を、ラピスとよく連絡をとっていた槶は聞き逃さなかった。
「ラピスを探すの……手伝って、ほしいの……」
 猫羽のその声が、彼らから消されてしまう前に、
「もしかして猫羽ちゃんも――魔界に行きたいの?」
 瑠璃色の髪の娘の不在より、別の意味で無視できないこと。そのため消えない単語を、槶が口にした。

 ちょっと――と。槶の口から出された物騒な単語に、鶫が血相を変えた。
「魔界ってどういうこと? 槶」
「え? ……あれ? ラピちゃんがこないだ、お母さんの所に行くって話してたの、鶫ちゃん達に言ってなかったっけ?」
「それは妹がいるって話の時に聞いたけど……お母様が魔界に行かれたなんて、聞いてないわ」

 その養母は養女の友人と、帽子の少年を含めて顔見知りだった。
「えー。鶫ちゃんは、魔界って何処か知ってるの?」
 そもそもその単語がわからなかったらしい槶は、平和に笑いながら尋ね、蒼潤も淡々と口を挟む。
「鶫は聞いてなかったのか? ユオンは魔界に母君を迎えに行ったらしい、と父上は仰ってたぞ」
「ええ⁉ アイツこの間来た時、そんなこと何一つ言ってない!」
 金色の髪の少年が養父と公家に会いに来た時に、少年と唯一、鶫は顔を合わせていたらしい。憤慨するように気楽そうな男子陣に言ってのける。
「魔界って言えば要するに、悪魔の巣窟、所謂(いわゆる)地獄でしょ⁉ 何て所行ってるのよ、お母様もユーオンも、それにラピまで!」
「ええーっ⁉ そーなの、鶫ちゃん⁉」

 瑠璃色の髪の娘の不在が、不穏ながらも致命的な方向に決定付けられずに済んだためだろう。彼らは不自然な意識の空白に襲われずに話を続ける。
「そんなの猫羽ちゃんが心配して当たり前でしょう! だから猫羽ちゃん、悪魔の力を借りたいなんて思ってる?」
「……」
 流れに便乗して頷いた猫羽に、頭痛を抑えるように片手で頭を抱えた鶫だった。

 鶫はそして、現状に至った問題に立ち返る。
「私達が何か手伝えば、猫羽ちゃんには悪魔は必要ないの?」
 しばらく考え込んだ後に、躊躇いつつも猫羽は頷いた。
「ラピスに――……帰って来てって、言いたいの」
「そうだよね、鶫ちゃんがそれだけ言うなら、怖い所だよね」
「ユオンはともかく、ラピまで行く必要があるのかって話だな」
 まだラピスと同い年の子供達は、揃って頷いている。
「でも、何かの方法で言うにしても、ラピはそれで帰るかしら?」
「……ツグミ達と一緒なら、できそうな気がする」
 生来、幼女は言葉足らずなので、辛うじて瑠璃色の髪の娘の安否が濁される。危うい話が消されないまま綱渡りで続く。

「……どう? わたし達の方の事情は、これで良いかしら?」
「…………」
 少し遠巻きに様子を見ていた水火が、術師の子供にくすりと尋ねる。
 悠夜は僅かに目を伏せ、何処か痛ましげにしていることに水火は気が付いていた。
 そうした敏い者達の姿を、瑠璃色の髪の幼女は無表情に――最も強く意識を向けながら、感じ続けていたのだった。


+++++


 瑠璃色の髪の幼女の指示待ちという紅い少女は、それから程無くして御所を後にしていった。
 鶫や蒼潤、槶は魔界という所について調べてみる、と連れ立って書庫に行ったようだった。

「そうか……お主のことについて、子供達と、早くもそのような話をしたのか」
 朝から仕事のあった公家が、ようやく手が空いた頃を狙って押しかける。タイミングばっちりで現れた猫羽を膝に、公家は困ったような顔付きで笑いかけた。
「言い難かったじゃろう? 蒼潤と悠夜を襲ったことを、正直に認めるのは」
「…………うん」
 公家の膝に両腕を乗せ、頭を置いて引っ付いた猫羽は、目を伏せながら素直な心を口にした。
「ツグミに嫌われるかな、と思った……でも、ヨリヤお父さんもユウヤも……わたしがここに来た時から、そのことは知っていたもの」
「棯殿から既に、話は聞いておったしのう」
 先日から幼女を新たに子供にした養父は、公家の元を訪れる前にジパング滞在登録も済ませている。なるべく「猫羽」が肩身の狭い思いをしないよう取り計らってくれていた。
「ユウヤはまだ、わたしのこと、許してくれそうにないけど……ヨリヤお父さんが怒らないのは、父さんが話してくれてたから?」

 実の子供を、悪魔の憑いた人形に公家は襲われている。
 それでも使い手だった猫羽を責めずに、受け入れてくれたこと。初対面からその驚くべき現状を感じ、そのため猫羽は真っ先に公家に懐いた。
 しかしこの公家の、そうした寛容さの理由まではわからなかった。
「それもあるが……お主の姿を見れば、ただ寂しかっただけの、ユーオン殿と同じく直向きで不幸な子供であることはわかる。それはおそらく、悠夜もわかっておるよ」
 責められるべきは幼女自身ではなく、幼女をそこに追い込んだ者達だ、と痛ましげにする。

「……どうしたらユウヤは、許してくれるかな?」
 術師の子供が猫羽に向ける、子供らしからぬ丁寧な口調。それは拒絶と感じられて、悩ましげに公家を見上げる。
 ある目的で、鶫達だけでなく、その術師の子供と猫羽は一番話をしたかった。そんな思惑を知る由も無い公家は、再び困ったように微笑む。
「悠夜は、許していないのではなくて、繊細な子なんじゃよ。身内の者をとても大切に思っておる分、外来の者には、それが安全と確信できるまではなかなか心を許せないのじゃ」
 そしてその身内に、身内以上に引っ付く図々しい新参者には余計に打ち解けられない。息子の複雑な思いも察している公家は、遠慮なく甘える猫羽の頭を笑ってくしゃりと撫でた。

「それに……お主達のように重い事情を背負った者には、傍にいると心が痛んで辛いのじゃろう」
「……?」
「なまじ賢い子である分、悠夜は自身の限界もよく知っておる。それでも本当は、助けたいと願ってしまう優しい子じゃからな」
「…………」
 手を貸せる力の限界以上に、周囲の悲鳴が見えてしまう者。救われない人形達の使い手だった幼女も覚えのあることを、公家は口にする。
 それは辛い。それがわかっただけでも辛くて、俯いてしまう。

「お主の関わった此度の事変には、わしも無関係ではなかった。もう少しユーオン殿の助けになりたかったが、ユーオン殿は一人で、消えない責苦を背負ってしまったようじゃ」
 公家がこの御所に保護していた金色の髪の少年は、その事変で公家の旧い仲間と敵対した。それは幼女も知る相手で、少年の手で斬り捨てられている。その相手を害した少年が負い目を感じている、と公家は伝えられていた。
「竜牙殿のことも棯殿は心配されていてな。これまでの居場所を失った竜牙殿には、猫羽殿を守ることしか拠り所がないと――まだ、以前の自身を取り戻す程の強い自我が持てないでいると、棯殿は気付かれておったよ」
 紅い少女は本来、ジパングの南に位置する島に住む、公家の旧い仲間の姪とも言える。しかし人造の人形であることをその事変で知ったため、帰る場所を見出せないでいる。
 危うげで幸薄い者を間近で感じながら、結局は見守ることしかできないもどかしさは、公家達も同じであるようだった。

「……」
 人形であることを楽しむ紅い少女は、人形にしかなれない、と自身を諦めている。
 誰かの羽から得た知識と敏さで行動する以外、大切な者の人形になることが喜びである「魔」。それでやっと、ヒトを思う外向きの心を何とか持てた空虚な生き物。知っていた猫羽も何も言えなかった。

 公家の膝に上半身を任せながら、俯いてしまった猫羽の頭を公家が黙って撫でていた時に。
「……父様。少し――ご相談しても良いでしょうか?」
 暗い障子の外から、躊躇いがちな悠夜の声がかかった。ぴくりと猫羽は反応し、公家の膝に両手をついて、体を起こして障子の方を見た。

「おお。ちょうど、悠夜のことも話しておったのじゃよ」
 公家も嬉しそうに、声のした方向を見る。
「先客がおるが、それでも大丈夫かのう?」
「……はい。その方にも関わることだと思いますので」
 だからこそ、猫羽が父の傍にいると承知した上で訪室した悠夜は、すっと障子を開けて静かに部屋に入って来た。

「……」
 じっと、不思議な思いで術師の子供を見つめる。まさか向こうから来るとは思わなかったのだ。悠夜は不服そうながら、憂い気な視線で応える。
 何となく公家の膝から体を起こし、傍らでちょこんと座り直す。その前で悠夜は、公家の対面へ正座して落ち着く。

 悠夜は訪室の目的を、少し俯きながら切り出していた。
「兄様達が――魔界について調べておられます」
「――ほう?」
「父様はご存じないと思いますが、僕も知っている兄様達のご友人が……ユーオン君と一緒にそこにいると伺ったんです」
 悠夜から出た意外な単語に、公家は目を丸くしつつも、
「幻次から聞いたことはあるが……棯殿の最初の養女で、猫羽殿の姉君という方のことかのう」
 何故か厳しげな声色となった公家に、悠夜も目を伏せる。

「ユーオン君が魔界に行ったということは、僕も兄様も父様からお聞きしましたが……兄様達は、その方のことを心配しています」
「……」
 悠夜が俯く理由を、公家は悟っている。憂い気に俯く実子の様子を、悲しげに見つめた。

 そして公家は躊躇いがちに……それも幼女の保護者から、ちらりと聞いていた話を静かに口に出した。
「……棯殿はこの度、大切な養女を亡くされたと伺った」
 それが子供達の友人のことだと、確信した哀しみと共に。
「その件は、此度の事変に本質的に関わりは無いと言うが……ユーオン殿も竜牙殿も、それで沈み込んでしまわれていると、わしは聞いておる」
「……――」
 辛そうに口にする公家の傍らで、猫羽は衝撃を受けた。公家がこれまで、その事実に踏み込まず思いを浮かべないようにしていたので、知っていることを知らなかった。思考の止まった頭で公家を見上げる。

「その養女殿が、何故魔界にいるという話になったか。悠夜には心当たりがあるのかのう?」
「……はい。けれどそれを……僕は兄様達に、何もお伝えすることができないんです」
 日中に、水火はこれ以上は事情を説明できない、と口にした。しかし鋭過ぎる霊的な感覚を持つ術師の子供には、それと別の強い制約があることをふと感じ取る。
「神隠しと同位の霊障が、その方自身の願いで……兄様達からその方を消そうとしています」
「……?」
「その方に何かあったということや、今その方がどうしているか、そうした話が兄様達とできなくなりました。それは人の記憶を奪う神の力を流用する何かが、その方とその方の母上の霊の影響で、そう動いた結果だと思います」
 既にそこまで、事の真相を掴んでいる鋭さ。神童と呼ばれる術師が俯いてしまう。

「それは……養女殿は何故、そのようなことを願ったのじゃ?」
 そうした一部の意識を失うほどの霊障が、ここにいる子供達だけに起きている怪異。公家が厳しい顔で尋ねる。
「突然に死した者に、そこまで昏い願いを持つ余裕があるとは思えぬ。忘我の神通を持つという化生も、わざわざ動く道理はなかろう」
「……」
 その言及が避けられないことも、悠夜はわかっていた。
「その方は……猫羽さんと同じくらいの頃に、既に亡くなられていたんです」
 そうして、兄の友人と初めて会った時から気付いていた秘密を、ようやく人に打ち明ける。
「それを、その方自身も含めて隠し通すために――僕も細部はわかりませんが、神や悪魔、様々な力が働いていたみたいでした」

「…………」
 悠夜がそうした真相に気付いていること自体は、猫羽は最初から感じていた。だから話をしたかったのだ。
 今は黙り込んだまま、公家とその子供の相談を見守る。
「僕はその方のことについて、兄様達とどう接していいかわからないんです」
「……ずっと一人で抱えておったのか、悠夜は」
 公家一人しか、その養女が死んでいることを知らない。誰にも相談できずにいた我が子を思うように、公家は哀しげな目をした。
「気付けたのは悠夜だけとなると……鶫をも侵せる霊障であれば、相当強い力を持った化生の仕業じゃろうな」
 それがどれだけ大きい事態か、公家は既に悟っている。
「悪魔も関わったことであれば、養女殿の魂が魔界に囚われた可能性も無くはなかろう」
「……はい」
 友人の死を思い至れずとも、友人を心配する子供達の思いも妥当だった。真実を知る身として、どうしたものか、と悩ましげに親子が頭を垂れる。

 そこで不意に――
「でも……」
 ずっと黙り、公家の傍らにいた猫羽はようやく割り込めていた。
「でもユウヤは……ラピスを助けてくれたよね?」
「……――」
 感じ取っていた大きな一つの救い。それを手伝ってくれたはずの術師の子供に、まっすぐ口にする。

 それができるような霊感。そして真相を知るのは一人しかいなかった。
「ラピスは――ユウヤのおかげで、クウにお別れを言えてる」
 たとえ瑠璃色の髪の娘が長く不在であっても、それを説明できる自然な理由を、ラピスは言い残したかったのだ。母親の元にいるから、と、無理にラピスの存在を消さなくて良い別れ。
「ユウヤがラピスを、呼び戻してくれたんだよね……?」
 一度だけ、秘密裏にラピスの降霊をしたのは、真相を知る悠夜しか考えられない。
 その助けに対して、最大の感謝を猫羽はじっと伝える。

「……」
 しかしその降霊と引き換えに――術師の子供は、ラピスとある約束を交わすことになった。
「本当のことは絶対に言わない……ユウヤは、ラピスからそうお願いされた?」
「…………」
 類稀な強い力を持つ術師が、水火や猫羽と同様に、真相の片鱗を口にできないでいること。それは神隠しに影響された彼女達とは違う理由だと、直観の幼女は看破する。

「猫羽殿……猫羽殿には、姉君を消そうとしている者が誰か、心当たりはあるのかのう?」
 金色の髪の少年と似た、鋭い現状把握能力を持つ幼女。少年の鋭さも知っていた公家が憂い気に尋ねる。
「あのヒトは……霊とかじゃなくて、ただの抜け殻だと思う」
 少し前に直接対峙した相手のことを、猫羽も憂鬱な思いで話す。
「ラピスの願いを叶える抜け殻……ラピスのお母さんの霊がずっと傍にいたから、霊みたいな抜け殻になってると思う」
「それなら、それはあくまで、養女殿の願いだと言うのか」
「うん……あのヒトはそれを、叶えようとしてるだけ。ラピスは、自分のことを忘れてもらうか、消えたのを気付かれないことを願ってる」

 いつか消えゆくことを無意識に知っていた死者。だから持ち続けていた昏い願い。
 同じ年頃の子供を持つ公家は、ただ沈痛を浮かべる。

「ユーオン殿や棯殿は、それには気付かれておるのか?」
「……キラ兄さんは、多分わかってる。父さんは……ラピスを無理に呼び戻そうとしたら、本当に消えちゃうと思ってる」
 本来、その養女を呼び戻すことは不可能ではなかった。こうして養女の体が修復された竜の眼の力なら、養女自身を目覚めさせることもできた。その養父の無念さを彼女は知っていた。

「キラ兄さんも水火も、ラピスの望みを叶えたいと思ってる。でもわたしは……」
 金色の髪の兄の別名を口にしながら、猫羽は昼間にも伝えた思いを改めて表明する。
「悪魔になったラピスでいいから、ラピスに戻ってきてほしい」
 それが唯一、悪魔使いたる幼女に観えていた道だ。生きるために悪魔と契約したラピスを呼び戻せる、たった一つの方法だった。

 真摯に公家達を見つめ、本当の思いを口にした猫羽に、誰もがしばらく黙っていた。
「…………」
 公家はしばらく、痛ましげな顔付きで幼女をまっすぐに見つめる。そして哀しげに、静かにかぶりを振った。
「猫羽殿……死者を呼び戻すのは本来叶わぬことであり……その摂理に逆らうなら、相応の歪みが再び死者を苦しめることとなる」
「……」
「生きる力を持ちながら、身体を失った生者も稀に存在するが……猫羽殿の姉君に関しては、残念ながらそうとは思えぬ」
 その娘の願いは、行き過ぎてはいるが間違ってはいない。あくまで死者本人の苦しみを思い、公家はその先を続ける。
「たとえそれが誰かのためでも……良くない行いは、基本的にしてはいけないのじゃよ、猫羽殿」
「…………」
 まっすぐにこちらを見て諭す公家に、猫羽はぐっと口を引き結ぶ。

「その時はそれで良くとも、物事とはそれで終わりではない。そこまで苦しまれた姉君を、猫羽殿がその先、ずっと支えることなどできぬ」
 それは猫羽自身のためにもならない、と。公家の深い黒の目には、守る側の痛みが湛えられて余りあった。
「猫羽殿もユーオン殿も、あまりに『今』が観え過ぎるため、どうしてもその点は後回しになってしまうようじゃが……」
 そのために、できることは何でもすると、死神や処刑人となる道を辿った危うき古い命。それに可能な限り歯止めをかけるような公家の声だった。

 公家は改めて、実子の方を見つめた。
「不審な化生による霊障は、確かに解除する方法を考えた方が良いが。わしに何か手伝えることはあるか? 悠夜」
「……父様……」
「蒼潤や鶫が、友人を失ったことに向き合えないようにされている方が残酷じゃろう。誰にとっても……出会いがある限り、別れは避けられぬのじゃからな」

 最早実子が、その解除に関われない状態であるなら、代わりに自身が動く。明らかにそう示している敏腕な公家に、悠夜はそれは……と、再び辛そうに目を伏せた。

「……ねぇ」
 神妙に話を聞いていた猫羽は、話題を変えるように、不意にその問いを口にした。
「ヨリヤお父さんも、ずっと言わないでいることがあるのに……ラピスのことは、言った方がいいの?」
「……――」
 それはあくまで糾弾ではなく、ただ不思議な思いで猫羽は尋ねる。

 つい最近、幼女が関わっていた事変の中で、公家の子供達を可愛がっていた旧い仲間が公家に背を向けた。仲間は金色の髪の兄に敗れ、最後は行方不明となったと教えられている公家は、それを子供達に話していない。
「……そうした方が、あやつも帰ってきやすいじゃろう」
 どちらかと言えば、自身や自身の子供達のためにではなく、旧い仲間のためである沈黙。帰りたいだろう仲間に、躊躇いがちに答えた公家だった。
「…………」
 なるほど、と――公家の厚意自体には気付いていた猫羽は、納得して頷いた。

 そうした話を、ただ複雑そうに、公家の実子は見守っていた。


+++++


 不審な化生についての問題は、もう少し考えます。と言って、術師の子供が父たる公家の居場所を退出した後のことだった。
「……え?」
「…………」
 既に夕闇が訪れた暗い廊下を、きびきびと歩く小さな人影の後ろを、幼女はとことこと必死についていった。

「……どうして、ついて来るんですか?」
「……」
 相談していた公家の隣に始終座り、それでなくとも公家の手が空いている時は、常にべったりと甘えている猫羽。立ち止まった悠夜が難しい顔で振り返った。

「……」
 悠夜の不可解そうな表情に、気持ちが少し挫けそうになったが、
「……これ」
 昼間に、没収されかけたPHSとぬいぐるみを、猫羽はそっと差し出す。

 術師の子供は、無表情な猫羽を困ったような顔で見返してきた。
「……大切な物じゃないんですか?」
「うん……でも、あると多分、使っちゃうから」
 公家に諭されたことが痛く響いていた。諦めるわけではないが、もっと何か、良い方法を考えなくてはいけないと思った。
 力無く悪魔という手段を差し出す猫羽に、尚更困ったような表情を悠夜が浮かべる。
「普通の使い方も、わたしはわからないし……ユウヤの言うこと、正しかったと思うから……」

 ぬいぐるみはともかく、PHSのような近代の複雑道具は最早お手上げでもある。
 項垂れる猫羽に、はあ……と悠夜が、頭痛を抑えるように片手で頭を抱えながら溜息をついた。
「貴女は確かに……ユーオン君の妹さんですね」
「――?」
 くるりと悠夜は、そこで踵を返すと、
「……ちょっと来て下さい。こんな物の使い方は、貴女なら一度説明があれば大丈夫です」
 様々な意味を含めて言った相手。猫羽は一瞬目を丸くして、さっさと歩いていく悠夜を、またとことこと必死に追いかけることになった。

 悠夜が足を向けたのは、少し前には金色の髪の少年が貸し与えられていた、飾り気も家具もほとんどない畳の一室だった。
「……兄さんの匂いがする」
「好きな時に使って下さい。ここはずっと空き部屋ですから」
 淡々と言う悠夜の意図に、あれ。と、猫羽はやはり目を丸くする。
「ここでなら……悪魔、呼んでいいの?」
「ごく低級で父様達に気付かれない範囲なら。その二つの依り代には、それで充分でしょうし」

 悠夜は部屋の灯りの近くに座した後で、灰色の猫のぬいぐるみとPHSの内、まずはぬいぐるみを手にとった。
「こちらの依り代はまさに、使い魔向きだと思います。自力で動けそうだから、簡単なお使いなら可能でしょうし、見たもの、聞いたものの情報を主人に送ることもできると思います」
「――……」
「PHSは少し特殊ですね。伝波系の悪魔を探した方が良いと思います。上手くいけば、アンテナを持った人や主人である貴女の声をPHSから発信させて、預けた人に伝えることもできそうですし。アンテナからの情報や、貴女が見たものを画面に映すことできるかもしれません。普通にPHSとして、槶とか、他にPHSを持つ人とお話もできると思います」
「……――……」
 猫羽はまさに、ぽかーん……としていた。個々の道具の特性を考え、使い道と操作法まで教えてくれる悠夜をまじまじと見つめる。

「…………」
 ただひたすら、尊敬。きらきらした目で悠夜を見つめていると、何故か不服気にそっぽを向かれてしまった。
「……だから、道具も力も、使いようなんです」
 憧れを満面に浮かべる猫羽に、ぬいぐるみとPHSを返しながら、冷静に言う術師の子供だった。

「でも何で……悪魔、呼んでいいの?」
 根本的な疑問に立ち返った猫羽に、悠夜は少しバツが悪そうにする。
「どうせ呼ぶなら、害の少ないものにしてもらいたいですし。思っていたより貴女は、理非の判断もできそうですし……貴女に何かあれば、ユーオン君が悲しむと思いますから」
 悪用さえしないなら、自衛の手段を持つにこしたことはない。聞分けの良い猫羽の姿に、悠夜は少し見方を変えたようだった。

 そして――と。
 悠夜が物憂げな顔で、対面に座る猫羽を改めて見た。指輪のような形の首輪をつけた自身の着物姿が、悠夜の黒い目に映る。
「貴女がユーオン君と同じような、直観の持ち主なら……あの、兄様達の記憶を奪うヒトへの対抗策はわかりませんか?」
「……――」
「貴女はあのヒトのことを、抜け殻だと言いましたが……本当に、あのヒトが何者なのか、僕にもさっぱりわからないんです」

 その空ろな相手は、本質そのものが無いのだと――
 無意識の領域、対象の本質。心霊を見ることを主とする霊的な感覚の持ち主には天敵に近い相手、と猫羽は何となく納得する。

「そんな状態で父様の手を煩わせれば、父様にまで何か害があってもおかしくありません。少なくとも父様に、相当大きな負担になることは間違いないですし……」
 それならなるべく、先に策を練っておきたい、と悠夜は考えたのだ。父親がそれを決して放置しないとわかるために、なりふりかまわず情報を集める気になったようだった。

 優しい公家に、あまり負担をかけたくない思いは猫羽も同じだった。
「あのヒトは多分……記憶を奪う神様の一部だったヒトで……」
 真剣に考え込みつつ、イメージを伝える言葉を必死に探す。
「神様から追い出されて、生きてないから、死ぬこともなくて……殺すこともできないと思う」
「――殺さないと霊障の解除はできないんですか?」
 う。という顔で反応した悠夜に、ううん? とあっさり首を横に振る。
「ラピスが願いを変えるか、あのヒトの気が変われば、すぐに何もなくなると思うけど……あのヒト自体を消しちゃうのが、多分一番簡単だと思う」

 その化生が使う躰は、弱小な人間の女に過ぎない。
 化生自体を滅ぼすことはできずとも、霊障を引き起こす媒体の躰を抹消することはできる。旧き処刑人は淡々と口にする。
「あのヒトは剣でしか戦えないし、それも人間の力で、受身が基本だと思うから……力があるヒトなら、すぐに消せると思う」
「それはあくまで、最悪の手段ですけど。あのヒトは――人間なんですか?」
「あのヒトの躰は、ラピスのお母さんのだよ。だからずっと、お母さんの霊が一緒にいたんだよ」

 ……と。無情なことを言う猫羽の理由に、そこで思い至ったように、悠夜は厳しい表情を少し柔らかくしていた。
「それじゃ、抜け殻というのは……命無き死体が、どうしてか動き回ってるということですか?」
「あ、そっか……そう言えば良かったんだ」
 いわゆるゾンビやキョンシーの類ですか、と、猫羽には理解不能な単語を悠夜が口にしていた。

「魂魄の魄が不自然に残り、死鬼化した者。魔性の者に殺されたか、自ら命を絶ったヒトなんですね」
「うん。ラピスのお母さんは、ラピスを殺して、その後自分で死んじゃった気がする」
 ……と。その悲愴で痛ましい事実に、悠夜が再び表情を険しくしていた。
「……色んな霊は見てきましたけど……霊として実害はないのに、そんな酷いことをして亡くなったヒトもいるんですね」
 その心霊に、本質的に悪意は見られなかったのだ。だから以前から視えていても、悠夜は無理に祓わなかった。
「ラピスのためだと思って、そうしたんだと思うよ」
 意外そうな相手に、さらりと狂気を伝える猫羽だった。

「それじゃ……死鬼化した死体を乗っ取ったのが、記憶を奪う神の力を使える、謎のヒトってことですよね」
「中のヒトも命はないから、ユウヤ達の目でも、どんなヒトかはわからないと思う。魂だけ、に近いのかな……?」
 すっかり作戦会議の様相を呈してきた状況。そこではっと、悠夜は大事なことに気が付く。
「そう言えばどうして貴女は……ユーオン君と同じ、そこまで色々わかる直観を持ってるんですか?」
 瑠璃色の髪の幼女は本来、瑠璃色の髪の娘と生き写しの妹のはず。ただの人間であるのに、と思い至ってしまったらしい。

「ユーオン君とラピさんは、血は繋がってないですよね?」
 そもそもからして、ラピスの母、と姉達のことを他人事で語り、同じ直観の兄とは人間と化け物の違いのある者。怪訝な顔で猫羽を悠夜が見つめ直す。
「まさか貴女は……ラピさんの……」
「……うん。わたしの躰は……ラピスがわたしにくれた体だよ」
 その鋭い術師の子供には、隠し通せることではない。
 この相手に対しては、何の制限も存在しない。一番言いたくなかったことだが、まっすぐに悠夜を見つめて伝えた。
「兄さんがわたしを見つけてくれて――ラピスが消えちゃって。だからラピスの体を、わたしがもらうことになったよ」
「…………」

 それは決して、祝福を受けるべき誕生ではない。むしろ誰もが、呪われた生と思う類のものだろう。でもこの猫羽だけは、自らにその呪いを認めない。
「ラピスはわたしを助けてくれたから……わたしもラピスの助けになりたい」
 これを否定してしまえば、ラピスの願いも否定される。
 だから体をもらった幼女は、そうしてくれた娘の幸薄さだけが辛かった。

 既にかなり込み入っていた事情を、改めて知った悠夜は、複雑さを持て余す表情になった。その後、かなり長い間考え込むこととなった。
 そして悠夜が再び、顔を上げた時には――
 ある決意と共に、凛とした力強さを深い黒の目に湛えていた。
「ラピさんがもし、思い直してくれたら……あのヒトの霊障も、解決できることなんですよね?」
「……?」
「もしかしたら――魔界からラピさんを呼べるかもしれません」

 術師の子供が持つ呪いの力。呪術的な知識と、悪魔の使役に長ける幼女の力を合わせれば、悪魔に魂を奪われた相手に働きかけることができる。
 それを確かに、その深い黒の目は訴えかけてきていた。

 その思いをまるごと受け止めた猫羽は、時間が止まったように、呼吸すらも忘れて尋ねた。
「ラピスに……会えるの?」
 悠夜の目をじっと見つめながら、息を飲んで尋ねる。
「確証はないですけど……試してみる価値はあります」
 そして真剣な顔の術師は何故か、場所を変えましょう、と。猫羽を連れて、その空虚な和室を後にしたのだった。


 術師の子供と瑠璃色の髪の幼女が、かなり苦労して辿り着いた場所は、何故か御所の一角の屋根の上だった。
「……寒い……」
 ぶるりと、着物の袖に両手を隠して呟く猫羽に、
「使って下さい。屋根が寒いのはわかりきってますから」
 行き道のいったい何処で入手したのか、羽織れる物をあっさり手渡す行き届いた悠夜。猫羽はまたも、ぽかーん、と尊敬の眼差しを向ける。

 そしてもう一枚、かなり大きな薄布を、悠夜が袖の中から取り出して広げた。
「これに、貴女が知ってる悪魔召喚の方陣は描けますか?」
「……うん、多分」
 悠夜から墨と筆を手渡される。何処まで用意がいいのか、猫羽はただただ感服する。
「ちょっとゴツゴツしてるから、時間かかると思うよ……」
 瓦の屋根に布を敷き、地面に落書きをするように、円陣に近い模様を描き始めた。
「僕も皆に気付かれない結界を考えますから、慌ててもらわないで大丈夫です」
「……それ、ユウヤがすると、しんどいと思うよ」
「?」
 地面に向かいつつ、猫羽は悠夜をちらりと見上げる。
「気付かれないようにするの……多分、わたしもできる」
「え?」
「それより、こっちの魔方陣……ユウヤが使ってくれた方が、いいと思う。ユウヤは人間の血が沢山あるから、できると思う」

 その屋根に来た目的を、猫羽は行く道で説明されていた。
魂呼(たまよび)っていうのと、悪魔召喚、一緒にするんだよね?」
 どちらも魔道ではある、呪術と魔術の合わせ技。それを提案してきた悠夜に、心強い思いで尋ねる。
「ええ。貴女が元はラピさんなら、それ程強い縁のある媒介はありません。魂呼に加えて、魂鎮(たましずめ)の対象としても適用できます」
「それ……二人でしたら、わたしは一つでも、違うものがくるかも……」

 いずれの媒介としても、幼女の躰を同時に使い、二つの魔道を起動する。そうして強い縁を持つ相手を呼ぶという案だ。
「それは確かに、僕が両方するのが理には適いますけど……」
 基本的に体力に乏しい悠夜は、それでは本当にそれしかできなくなる、と不服気な顔をする。
「結界もしんどいよ……わたし、ヨリヤお父さんには絶対に、気付かれないようにできるから」
「……?」
 髪を束ねる黒いリボンを触りながら、確信を持って言う。幼女が一時期、「忘却」に触れ、「神」の素因を書き写された結果がここにある。
 周囲に気付かれないかを一番懸念していた悠夜は、不服気でありながらも渋々頷いてくれた。
 二つ以上の魔道。しかも未経験の別分野の術を、同時起動することも十分に可能な、優れ過ぎた天才術師の子供だった。

 魔方陣の準備が整うと、その中心に猫羽をしかと立たせ、悠夜が最終確認に入った。
「それでは――そちらの気配隠しも、大丈夫ですか?」
「……うん。誰ももう、多分覚えられない」
 え。と、聞き捨てならないことを口にする猫羽を、悠夜が怪訝な目で見つめる。幼女の直観――気配探知が及ぶ範囲で、黒いリボンが持つ「力」の介入を始める。手段を選ばない非道であることを、猫羽もわかっている。
「ラピスに会えて、話ができたら……わたしも、どうするのか決められると思う」
 公家にしみじみと温かく諭されたことで、猫羽も迷いを持ち始めている。
 だから顔は浮かなかった。それ以上悠夜も糾弾できないようだった。

 そして――
 死者の蘇生を願い魂を呼ぶ呪いの術と、人間にのみ可能な、縁の強い魔を呼び出す秘儀を、一同に介する。
 何一つ隙もなく、確実にその術師――
 一部では魔王と囁かれる程、神童である子供により、二つの魔道が同時に起動される。

「……え?」
「……あ」

 魔方陣から激しく強い、紅い光が一瞬放たれた後。
 一部では魔王と囁かれる程の、強い「魔」がそこに顕れていた。

 大変なものを()び出していた。
 猫羽の頭上に浮かんだ黒ずくめの人影が、抱える膝を少しずつ解きながら、妖艶な微笑みを浮かべる。
「あら、誰かしら……私を喚べる程の人間がいるなんて……」
 呆気にとられる子供二人の頭上で、黒のタイトな礼装に身を包み、空のように青い真直ぐな長い髪の女。喚び出したはずの相手が、色の無い鋭い目をゆっくりと開く。
「我が真名を……聖魔アスタロトと知っての狼藉かしら……?」

 薄い琥珀色の、毛皮の襟巻を纏う以外、まさに黒一色の礼装の悪魔。微笑みながら殺意を秘めた、紅い眼光が夜にきらめく。
 想定外過ぎる術の結果に、唖然とした悠夜が無言な中、
「……母、さん?」
 同じように唖然としながら、猫羽も呟く。
 その「魔」の正体。あまりに高位過ぎて、喚び出すなんて発想は持てなかった相手。
 それでも悪魔に気付いた瑠璃色の髪の幼女に、あらら……? と、悪魔がゆっくり首を傾げた。
 そして……。
「あれーっ! よく見たら烏丸頼也君の次男君だぁーっ!」
 悠夜が更に唖然とする固有名詞を、次に出したのだった。

 きゃあきゃあ、と、それまでの怜悧な(おごそ)かさは何処へやら。喚び出された悪魔は楽しげにふわふわと、自身の膝に頬杖をつき、子供二人を無防備な笑顔で見下ろしてきた。
「そっかー君かぁ、悠夜君かぁー♪ そりゃあたしのことだって喚べるよねぇ、噂のプチ魔王・悠夜君なら♪」
「え……――え?」

 様々に聞き捨てならない悪魔の台詞に、悠夜は少し理性を取り戻したらしい。あまりに様相の変わり果てた、顔見知りだった悪魔をようやく思い出した。
「貴方は……まさか――」
「そうそう、可愛いラピちゃんの育てのおかーさんでーっす♪ 正確には今は聖魔アスタロト・流惟(るい)(うつぎ)、しかしそれは世を忍ぶ仮の姿、実際は魔竜の巫女という何とも悲運、ティアリス・アースフィーユ・ナーガちゃんなのでっす!」
 魔方陣の内にいる間は、悪魔は召喚者の問いに正直に回答しなくてはならない。そのため必要以上の情報を楽しげに口にする。

「うわー花の御所だぁ、頼也君と幻次君、会いたいなぁ♪ でもさすがに十五年前の謎の偽少女ナギなんて、もー二人とも覚えてないだろーなぁ~」
「……父様達と、知り合いなんですか?」
 ラピスによく同伴してきて、ラピスの友人とは顔見知りだった養母。親同士の面識は今回、養父と公家が会ったのが最初なのだ。
「うんうん、あたしが真面目に天使してた頃はねー。でもま、天使として会ったことはほとんどないし、結局見知らぬ他人って言うしかないかなぁ?」
 そもそもその養母は決して、ここまでテンションが高くなかった。本来なら穏やかで静かな微笑の似合う女性の変貌ぶりに、悠夜はそれ以上言葉が見つからないようだった。

 代わりに、ようやく衝撃を受け止めた猫羽が問いを発する。
「……あなたが、わたしの母さん?」
「お? そんな君は、ティアリスの見も知らぬ新たな娘ちゃん?」
 楽しげに猫羽を見下ろし、悪魔がふんふん、と様子を窺う。
「この(からだ)は確かに、その躰の育てのおかーさんのだけどねぇ。ちょっとワケありで、今はあたしが使ってて、君の母さんには眠ってもらってるよ」
「…………」

 猫羽はまじまじと、毛皮の襟巻が目立つ悪魔の全身を眺めた。
「……ラピスを連れてったのは、あなた?」
 兄と父が助けにいかなければいけないはずの養母。それを縛る真実を――全貌ではないが、ある程度を感じ取った。

 悪魔はふふふ、と、勘の良過ぎる幼女に楽しげに微笑む。
「ラピちゃんに命をあげたのは、あたしの部下の悪魔なのね。だから魂はあたしに献上してもらいました、わかる?」
「母さんは……ラピスを助けたくて、あなたの言うことをきくの?」
「最初のキッカケはその通りかな。天使の情けでラピちゃんは成仏させてあげたけど、残滓でいいから傍にいてほしいって、ティアリスは言うから」
 そしてそれを、ラピスも受け入れたのだ、と悪魔は伝える。

 それなら、と、猫羽は心を決めた目で悪魔を見上げた。
「ラピスを返して、母さん。兄さんと父さんはどうしてるの?」
「あー。ユーオン君は引き取ったけど、レイアス君は立入禁止。だってあたし、余所にダンナがいる身なんだもーん」
「兄さんは――母さん達のこと、どう思ってるの?」
 その質問に、悪魔が少し考えてから、答を返そうとした瞬間。

「――悠夜⁉ それに……ラピのお母様⁉」
 瓦の屋根の上に、絶大な異変を唯一感じ取れた赤い髪の娘が、すたっと降り立っていた。
「鶫ちゃん⁉ 何で……⁉」
 類稀な術師の父達ですら、この異変には気付いていない。それなのに現れた従姉に、悠夜が血相を変える。

「あららん。あんまりゆっくり、お話はできないみたいだねぇ」
 二人の子供を守るように間に入った鶫に、悪魔は首元の襟巻を触りながらくすり、と呟いた。
「新しい娘ちゃん。ラピちゃんを返せと言うなら――君は何を、代わりにあたしに差し出すのかな?」
「……」
「猫羽ちゃん⁉」
 悪魔のその言葉だけで、鶫はある程度状況を悟ったらしい。ダメ! と猫羽を抱き上げていた。
「そのヒトは――猫羽ちゃんやラピのお母さんじゃない!」
「ツグミ……」
 強過ぎる「魔」の気配を感じ、全身に緊張を走らせながらも、猫羽を守ろうとする鶫。猫羽は思わず、その細い首にしがみついた。

 そして改めて、鶫の腕の中で悪魔を見上げ、猫羽は口にする。
「わたしは……あなたには何も差し出さない」
「――お?」
 契約という概念に縛られる悪魔召喚の儀式。その中で本来在ってはいけない身勝手。
「プレゼント。わたしが生まれたお祝い、母さんからもらうの」
 自らの存在そのものを礎とした契約。そんな強請を幼女は伝える。
「それはラピスのおかげだし……だから母さんは、ラピスにお礼をしていいの」

 鶫が現れたことで、言える言葉に制限がかかってしまった。その中で何とか口にした取引に、悠夜が唖然としていた。
「それって……猫羽さんがいて嬉しければ、言うことをきけって内容ですか?」
 見も知らぬ娘、と悪魔は一度口にしている。それにも関わらず、幼女の存在は嬉しいはず、そう信じて疑わない図太さがそこにあった。

 猫羽は確かに、それを信じていることもあったが。
「……わたしが何か差し出したら、ラピスは傷付く」
 だからそれは譲れない、と、まっすぐに悪魔を見つめて言った。

「…………」
 悪魔は全ての表情を消して、冷徹な視線で瑠璃色の髪の幼女を見下ろす。

 やれやれ――と。
 長い髪をかき上げながら、悪魔が空中で立ち上がった。
「新たな娘ちゃんと、昔馴染の頼也君、幻次君の子供ちゃんに免じて。契約なき徒労の召喚には目をつぶってあげましょう」
 これまでと一転した真面目な口調で、警戒する子供達の目線に、くすりと妖艶な笑みを返す。

「私を母と呼ぶなら、いつでもうちまで遊びにいらっしゃい。ただし――命を落としても知らないけどね?」
 幼女の願いは聞かないが、代わりのプレゼント、と言うように、何かの鍵をぽん、と悪魔が放った。
「……?」
 それをキャッチして、猫羽は首を傾げる。その前で、悪魔の姿は少しずつ薄まり始めた。

「――待って、流惟さん……!」
 事情が全くわからないまま、鶫がただその相手――友人がとても慕った養母を咄嗟に引き留める。鶫達の前にはよく着物姿で、穏やかな笑顔で現れていた女性が、今では見る影もなかった。
「……またね、鶫ちゃん?」
 露出の多い黒の礼装に、確実に際立って目立つアクセントの襟巻。薄い琥珀色の尻尾をひらりとなびかせる。
 そうして有り得ない程、高級な魔の召喚に成功した契約の儀を閉じ、その魔は夜の闇に還っていたのだった。

 悪魔の姿が完全に消えて、しばらくして。
 悠夜が不服気に、鶫が抱える猫羽を見上げていた。
「……どうして鶫ちゃんにだけ、ばれちゃったんですか?」
「――ちょっと。悠夜も猫羽ちゃんも、何をする気だったの?」
 鶫も茫然としつつも、捨て置けない現状を先に尋ねる。ひとまず理性を取り戻し、二人の小さな子供を見つめる。

 猫羽は正直に、口に出せる範囲で事情を説明する。
「ラピスとお話したかったけど……母さんが出てきちゃった」
「……あのヒトは、本当に流惟さんなの?」
 鶫もそれを感じていながら、あまりに変貌していた相手に、納得いかなげにする。

「だからユーオン君達、助けに行ったんだと思うよ、鶫ちゃん」
「……本当、不穏事ばかりなんだから、ユーオンの周りは」
 ようやく一つの事変が決着したらしいことも束の間。なかなか平穏に身を置けない少年に、鶫が大きな溜め息をついた。

「悠夜も猫羽ちゃんも、無茶なことはしちゃダメよ。私達に何か、できることがあれば手伝うから……」
 心配そうに言う鶫に、子供二人はちらりと顔を見合わせる。
 じゃあ、と真っ先に猫羽は、遠慮なくそれを口にした。
「ヨリヤお父さんには……言わないでね?」
 そして幼女は、握り締める何かの鍵の、驚くべき力を語る――

_転:魔界への鍵

 高度過ぎる初の悪魔召喚で、酷く体力を消耗していた悠夜と、それからまともに話せたのは数日後だった。
「で……兄様達は、やる気満々みたいです」
「……うん。ツグミも、わたしとソウとクウが行きたいなら、ついて行かなきゃって諦めたみたい」
 川辺を南下し、前を行く兄と従姉、そして帽子の少年の姿に、術師の子供が大きな溜め息をつく。

 数日前に猫羽が入手した謎の鍵は、「母さんの部屋の鍵」と名付けられた。
「これで開けた扉は、何処からでも魔界の……多分あのヒトの居城に繋がる魔法具だと思います」
 大事をとりながらも、悠夜は鍵を預かり、猫羽が漠然と感じていた特性を詳しく調べてくれたようだった。
「御所には、このタイプの鍵を使うのは正門か、倉庫の南京錠くらいで、直接鍵をさせる扉じゃないと転位口にはなりません。ジパングには元々、あまりそういう扉は少ないんですが……」
「うちにはあるよ。みんなで行くなら……うちの方がいいかも」
 さすがに御所の正門を魔界の入り口にすることは、悠夜も躊躇っていた。猫羽の提案に黙って頷いたのだった。

「それにしても……どうしてこんなことに……」
 後ろを気にしながら前を歩き、猫羽の実家に向かう兄達の姿に、悠夜が難しい顔で項垂れている。

 鍵を入手した直後、猫羽はその鍵があれば魔界に行ける、と話した。どうしても行きたいと言った後、鶫が蒼潤と(くぬぎ)に相談したのが、現在の状況の始まりだった。

「ソウは、強い奴が沢山いるのか⁉ って楽しそうだし……クウは、わたしと一緒に、ラピスが元気か見たいって言うし」
「鶫ちゃんに見つかったのが、やっぱり致命的です。どうして鶫ちゃんだけは僕達に気付けたんですか?」
 何かの謎の方法で、悪魔召喚の際、見事に他の術師の感知を遮断していたはずの猫羽に、納得いかなげに尋ねる。

「多分……ツグミはもうずっとあの黒いヒトの介入を受けてるから、わたしが更に介入するのは無理みたい」
「ということは……やっぱりそれは……」
「わたしと水火がラピスから受け取った――記憶を奪う神様の力。都合の悪いことは全部、気付かれた時に忘れてもらうの」
 それは御所一帯くらいであれば、自在に展開できた。あくまで媒介の黒いリボンがあって、それを「神」の素因を持つ者が使うなら、の話だ。

「最悪ですね……貴女の直観なら、誰が何を気付いたかすぐにわかって、その場で全部抹消ですか?」
 だからこそ悪魔召喚の儀を、並み居る術師から隠せた恐るべき幼女。真っ当な感想を悠夜が思わず呟いている。
「そんなに細かいことはわからないよ……それにユウヤみたいな、神様みたいに強いヒトは、多分ユウヤだけ狙って頑張らないと効いてくれないし」
「それ……僕の記憶も消せるって言ってますよね……」
 ますます警戒を強める悠夜に、何と返すべきかと悩む。それでなくても距離があるのに、これ以上呆れられたくない。
「ラピスの中にいた神様は、できたと思うけど。わたしは、水火と兄さん以外から記憶をもらったのは、昨日が初めてだよ」
 この力はそもそも普段は使わない、と猫羽側の事情を説明する。

「あんまりこれやると……わたしも神様になっちゃいそうだし」
「……でもユーオン君達からは、記憶を奪うんですか?」
「だって――二人共すぐに、怖いこと考えるから」
 ……と、少し俯いた猫羽に、悠夜が首を傾げた。
「考える心は変わらないけど、考えてる時間は少なくしたいよ」
「それもあまり、褒められたことじゃありませんけど……何だか、切実そうですね」
 猫羽の兄の苛烈さや、紅い少女の不穏さを思い出したのか、少し納得したように頷く悠夜だった。

「でも結局……悪魔召喚は成功したけど、魂呼は不発でしたね」
 ぽつりと、残念そうに口にした悠夜に、
「ううん? ラピスも一緒に、あの時いたよ?」
 そう返すと、え? と、悠夜が思わず、立ち止まりかけた時だった。

「君達――揃いも揃って、何処へ行くんですか?」
 京都の南の平原に続く川。元はラピスと友人達が、何度となく遊んだ広い川原で。
 その抜け殻という黒い女は、気配の一つすら感じさせず、一行の行く手に立ち塞がっていた。
「イタイケな子供があまり危ないことをすると、大人としては、止めざるを得なくなっちゃうんですけどね?」
「って……スカイさん、ですか?」
 鶫が驚いたように発した声に、他の子供も頷く。
 そこにいる相手は、この一行の誰もが見知った存在だった。

「あいつ――この前来た旅芸人一座の、営業の奴か?」
「あー。今休暇中だから、ジパングでまた良い公演先が無いか探すって言ってたよー」
 先日にその、黒い女を案内していた槶が、思い出したように手を打った。

 そもそも、彼らの制限の元凶たる黒い女の影響を何とかするためにも、猫羽と悠夜は動いていた。
「……!」
「……」
 そのためここで現れた黒い女に、並んで表情を強張らせていく。

「ダメですよー、イタイケな子供さん達。こんな京都の外まで、子供さん達だけで外出しちゃ。悪いこと言いませんので、禍事が起こらない内にお家に帰りましょ?」
「……あんたが一番、禍々しく見えるのは気のせいか?」
「って蒼ちゃん⁉ 年頃の女のヒトに何てことを!」
 あはははー、と黒い女が営業スマイルで笑う。
「年頃と言っても、この髪が黒くなる前は子持ちでしたけどねぇ。まぁ子供っぽいっちゃ子供っぽいので、否定はできませんが」
 以前と現在の姿は違うとほのめかす女の躰は、瑠璃色の髪の娘の母とはいえ、姿は似ても似つかない。誰も女がラピスの血縁とは思いもよらないようだった。

 今までこっそりと記憶に介入していたはずの黒い女は、改めてそこにいる目的を口にした。
「君達、今から、日帰り魔界探検とか行く気なんでしょ?」
「――⁉」
 猫羽のために黙って出てきた鶫達の目的。それを何故知っているのか、鶫は警戒の顔をするが、
「ダメですよーそういうの、本気で死んじゃいかねませんよ? 君達に何かあったら、親御さんとか悲しむと思いますよ」
 知られている不可解はともかく、忠告は真っ当な黒い女。元々お目付け役として迷いつつ同伴した鶫は言い返せない。
「ラピやユーオンもいる所だろ? 何とかなるだろ」
「うんうん。どんな所でも、そこなりの良さがきっとあるよねー」
 至って気楽な男子陣に、少しだけ鶫も頭を抱える。

 追い付いた年長組の、背中に隠れるようにいた悠夜が、くいくいと兄の袖の無い着物を引っ張った。
「注意して下さい、兄様……あのヒトは危ないヒトです」
「悠夜?」
 硬い顔付きの弟の警告が正しいと示すように、そこで黒い女は――腰に据えた飾り気のない長剣を抜き放った。
「言ってきかないコ達は、力ずくで止めるしかありませんか?」
 にこり、と、あくまで笑いながら、先頭にいた剣士にその切っ先を突きつけた。

「……」
 ひゃああ、と隣で槶が驚く中で、蒼潤は至って冷静に自身の刀に手をかける。
「俺にはあんたは、邪気持ちに見えるし……悠夜まであんたを敵認定してるなら、遠慮はいらないな」
「そうこなくては。剣士ならお互い、剣で語りましょうよ」
 にやりと不敵に微笑んだ女を前に、剣士の少年は背後の者達に、下がれ、と一言だけ――僅かに笑いながら口にした。

「兄様――」
「ソウ……」
 それは、蒼潤を置いていくわけがない一行への足止めだ。
 黒い女は彼らを傷付ける気はないと、子供組はわかったものの……これ以上どうしようもなく、立ち止まるしかなかった。


+++++


 その黒い女と蒼潤の、互いの剣一つによる攻防は――
 小躯のヒトの身ではまさに、最上のものといって良かった。
「凄いな、蒼潤君てば。私が今まで戦った中では、最年少かつ最上級の剣士で間違いないですね」
「……!」
 無駄な言葉を発する分だけ、黒い女には余裕があった。
 それもそのはず、黒い女の細身の剣は受け流しと捌きを基本とし、まるで剣を防具のように扱っている。縦横無尽に挑み来る蒼潤に、最低限の動きで応じられている。

「すみませんねぇ、大人はキタナイんです。私の目的は、君と戦えれば果たせてますしね?」
「この――!」
 決着を全くつけようとせず、隙も無い不真面目な達人。腹立たしげに蒼潤が一度距離をとる。
「何がしたいんだ、あんたは」
「だから言ってるでしょ? 危ない子供を止めたいだけだって」
「それはただの過保護だろ。大体何で俺達があんたに、そんな世話を受けなきゃいけないんだ?」
 再び斬りかかってくる蒼潤に、黒い女が平和に微笑む。
「ご尤もです。蒼潤君はとても真っ当ですねぇ」
 無責任なままの声と太刀筋で、女はその刀をただ受け流す。

「蒼ちゃん凄―い、かっこいいー! でもスカイさんも凄―い!」
「槶……何でそんなに楽しそうなのよ……」
 すっかりその剣士達に見とれる槶に、子供組をかばうように立ちながら、鶫が溜め息をついた。
「援護しようにも、蒼は邪魔するなって怒りそうだし……」
「あの間合いだと、どの道援護も難しいよ、鶫ちゃん」
 持久戦に持ち込んだ黒い女は、巧みに蒼潤と距離を詰めたままでいる。周囲が援護しにくい状況にも持ち込む周到さだった。
「でも何か、雨も降りそうだし……あまり遅くなれば、今日は諦めるしかないわね」

 気が付けば周囲には、川辺だけを中心に暗雲が立ち込めていた。
「凄いや蒼ちゃん! 雷雲を背に戦うなんて、これぞ勇者のカガミだよね!」
 いつの間に剣士から勇者になったのか、まさにどす黒い雷雲といった空の翳り方に、尚更槶のテンションが上がる。

 黒い女と蒼潤は共に、その黒い空を背にして戦う。
「残念ですが――本気じゃない蒼潤君には負けないですよ?」
「……!」
 一対一の剣戟であっても、女に特技を出し惜しみする気はなかった。

 そして一筋の稲光が、場を眩く照らした瞬間――
 剣士の少年の前から、黒い女の姿は消え去っていた。

「……え?」
「――あれ」
 その青い光が、川辺を包んだ半瞬後だった。
「あれ、ここ何処? 猫羽ちゃん、他のみんなは何処?」
「……クウとわたししか、ここにはいないよ」
 突然、夜に近い夕方のように川辺が暗くなった。何故か槶と猫羽しか姿がなかった。

「とりあえずこっちに来て――手を離さないでね、猫羽ちゃん」
 こくりと頷く猫羽を守るように、槶の顔に緊張が入る。それも無理のない状況がそこにあった。
 穏やかながら力強い流れだった川が、それまでと一転して、寂しげな拙い流れに変わっている。暗い空には稲妻が走り、川辺に落ちることはないが、場の不穏さを引き立てて余りあった。

「……あれ? ヒトがいる……?」

 そんな不穏で、何処か物悲しい暗がりの中で――
 川辺をゆっくり、ひたひたと歩く、裸足の人影があった。

「――……!」
 その姿に一瞬で、瑠璃色の髪の幼女の全身に痛みが走る。

 クスクス、と――……夕闇の中では黒髪にしか見えない、肩までのふわふわとした髪の女は、節穴のような暗い黒の目で宙を見ている。
 槶の視線に気が付き、ゆっくりと振り返った。手に何かを持っている女は、ただ、幸せそうな顔で笑いかけた。
「……え……?」
 その童顔の女の、危うげに明るい笑顔は――槶には覚えがあるはずだった。
「クウ――……見ない方が、いい――……」
 ぎゅっと繋いだ手を握り締める、猫羽の声も届いてくれない。

――アナタ……シルファの、お友達……?

 稲光が走った瞬間、照らされて色のわかった瑠璃色の髪。そして藍色の目。
 その女は間違うことなく、似た色の髪と目を持つ娘に生き写しの実の母だった。

「ラピ……ちゃん?」
「……――」
 そこにあるのはただの映像に過ぎない、と猫羽はわかっている。
 それでも胸があまりに痛かった。赤い夢がまさに今、じかに再生されているからだ。
 言葉を発することができない猫羽の横で、槶もしばらく、呆然と立ち尽くしていた。

 本来の川辺では、蒼潤に突然女の姿が見え難くなるという異状が起こっていた。それが記憶に介入された不正手段だと、知る由もない蒼潤が苦戦する一方で。

――……かわいい……お友達、みんな、かわいい……。

「あなたは……ラピちゃんの、ご家族ですか?」
 裸足でクスクスと拙い足取りの、尋常でない様子の女に、猫羽の手をひきながら恐る恐る槶が声をかけた。
「おかしいな……僕には、悠夜君達みたいな霊感はないのにな」
「……」
 それは霊ではなく、ただ黒い女の内に迷い込んだ、残像だけの世界であると猫羽にはわかっていた。

――シルファのお友達、かわいいから……守ってあげたい……。

「えーと……シルファって確か、ラピちゃんの本名ですよね?」
 声をかけた槶に、とても幸せそうに微笑んだ女は、声が聞こえているように見えなくはなかった。
「どうしよ、猫羽ちゃん。何か凄いホラーな感じだよね」
 あえて冗談っぽく言う槶は、全身の強張った猫羽を少しでも落ち着かせてやりたいようだった。

 それでも女の、次の声は――
――シルファのせいで……。
「――え?」
――シルファが心配で……私は、あの人の所にいけないの……。
「……え?」
 その昏く歪んだ想いの声は、槶は聞き逃すことができなかった。

――一人にするのは心配だから……一人は可哀想だから……。
「……お母、さん?」
 その手に持った真っ赤な刃物。誰の血を吸った凶器であるのか、胸が痛む猫羽には声にできない。

――あなた(シルファ)の、せいよ…………。

 その声には悲しみと、狂おしいほどの心配だけが満ちていた。
 誰にも知られず、消えることを願った誰かを待っていた女は、
――……ねぇ。お願いが、あるんだけど……。
 誰かそのものを消してしまうことが、救いであると迷わず結論する。
――あの子のこと――……忘れてほしいの……。

 開き切った藍の瞳が、誰かの消えない望みを告げた。
「って……そんなの、おかしいよ――……⁉」
 槶はただ、そこにある絶望に叫ぶ。
 取り返しのつかない大きな間違い。その救いを受け取ってしまった者へ。
「忘れるなんて――そんなの、できるわけが……!」

 誰かによく似た女の願いは、誰かを確かに導くものでも……それは似て異なる藍と深い青色。互いの遠さを示すだけの目。
 決して交わることのない心を映す、孤高な空の青い光と、暗がりの空虚な川辺だった。

 それがあまりに鋭い痛みで、無情な現実であったためか。
 温かな所で生きてきた者達に、その重さを気取られないことを誰かは願った。ただ、その闇を決して映されないことを。

「……あいたたた」
「――⁉」
 蒼潤から不意に距離をとり、黒い女が厳しげな顔で立ち止まった。真剣な剣士が怪訝な視線を向ける。
「参りましたね……入り込んだつもりが、入り込まれてました」
「――は?」

 他者の深奥。その境となる記憶の一部を、天つ空の下に開く黒い女の夢は、自然感覚の強いものには気取られ得ること。
「忘れてはもらいますが……下手したら少々、トラウマですね」
 それは黒い女の本意ではない。女が自らの特技を振るったことで、巻き込まれて誰かの痛みを垣間見た者を思い、物憂げに呟く。

 黒い女と蒼潤の攻防を、ずっと見守っていた側では、
「槶……ちょっと、槶⁉」
「――……あれ?」
 ふっと我に返った槶の前で、悠夜が必死に、上着を引っ張って呼びかけていた。
「悠夜君……あれ、猫羽ちゃん、どうしたの?」
「ヒトの心配してる場合じゃないよ! 今まで何処か、変な所に引っ張られてたんじゃない⁉」
 しばらく意識の飛んでいた槶。隣では鶫が(うずくま)る猫羽の横で膝をついて、心配そうに介抱している。その方が槶は気になったようだった。

 そしてその状況は、術師の子供だけでなく――
 幼女を守りたい者にも、許容範囲を超えた瞬間だった。

「……――ソウ、危ない……!」
「――⁉」
 痛む胸を押さえながら必死に顔を上げて叫んだ。同時に悠夜も鶫も、場を襲った異変に気付くこととなった。
「……!!」

 咄嗟に大きく退いた蒼潤と、黒い女がいた場所へ――
「……あらら……」
「――蒼⁉ 蒼⁉」
 どちらの剣士の姿も隠す土煙を上げる程、極太い氷柱のような真っ白い氷の刃が、いくつも川辺に降り注いだ。
「必死にしぼっても……これくらいか……」
 くすりと、その紅い「魔」は、氷を呼んだ腕輪を腕に戻したのだった。

 黒い女と戦っていた蒼潤だけでなく、下手をすれば場の者を全て巻き込みかねない、突然の強い氷の力。
「兄様、大丈夫ですか⁉ お怪我は⁉」
「別に無事だが……あの女は、いなくなったな」
 飛来した氷も斬れる兄程の達人でなければ、確実に回避不可能な力が放たれていた。兄の無事を確認した後で、悠夜が厳しい目線を向けた。
「危ないじゃないですか! せめて声くらいかけて下さい!」
「やだなぁ。烏丸君なら大丈夫って、信じてたんだけど」
 堤防から川原に下りてきた紅い少女は、悪びれもなく平和に微笑む。

「エルフィから、うちに来るって聞いてた皆さんが遅いから、迎えに来たんだけど。エルフィを苛めるヒトがいたから……残念だけどわたし、魔法は巧くないの」
「威張れることじゃないでしょ。力の大きさに振り回されてたら、いつか自分の身だって危うくするわ」
 淡々と厳しい目で見る鶫に、水火はただ整った微笑みを返す。
「とりあえず――邪魔者はいなくなったでしょ?」
 場から黒い女が姿を消していることを、改めて確認する。
 その弱小な相手の排除には「力」が早い、と猫羽から聞き知っていた水火には当然の行動だった。

「卑怯な大人と正々堂々と戦うと、しんどくない? 烏丸君」
「余計なお世話だ。だからってヒトの戦いに手を出すな」
「ごめんね。わたしには烏丸君より、エルフィが優先だから」

 そして水火は、何故かずっと黙っている槶に気が付いていた。
「猪狩君? 流れダマでも当たった?」
「え?」
 我に返った槶は、
「あ、いや……うん、手助けしてくれてありがとー、竜牙さん」
 あははと呑気に笑った槶に、そこでブーイングが起こった。
「手助けってレベルじゃないよこれ、槶!」
「責めろとは言わないけど、褒めるのもどうかと思うわ」
「え? でもこれでラピちゃんちに行けるし、結果良ければ良しとしよーよ?」

 なかなかソリの合わない、水火と友人達。その間でも、槶は気楽そうに平和に笑った。
「ねぇ、猫羽ちゃん。竜牙さんが迎えに来てくれて嬉しいよね?」
「…………」
 その紅い少女の迎えで、不穏さもありつつ、猫羽は確かに心強かった。
 赤い夢に捕らわれ、心がかなり落ちかけていたが、元気が出てきた。それに対して、とても安心したような声で口にした、いつになく穏やかな笑顔の槶だった。


+++++


 黒い女が心配した通りに。普通であれば、魔界に日帰りで行こうなどと考える輩は、余程の猛者でなければ有り得ない話だ。
「本当……猫羽ちゃんの結界? 全然気付かれないのね、これ」
 その幼女の力があれば、どんな悪魔の目もかいくぐり、一行は秘密裏に魔界に足を踏み入れることができる。それが魔界行きの決まった一番大きな土台だった。
「あらら。烙人は凄く鋭い方なのに、全然起きないわ」
 物は試し、とまずは猫羽の家人に気付かれないかどうか、力を使いつつ実家に足を踏み入れた一行だった。
「調子悪そうだし、休ませてあげようよ。烙人さんは体弱いし」
「そう? これでも猪狩君のお薬のおかげで、最近は随分と調子良いのよ」
 居間でうたた寝をしていた烙人をそっと素通りし、水火と猫羽の居室に招き入れられた友人達だった。

「外見はジパング風なのに……中に入ると、何か凄いな」
 内装は西の大陸風の屋内に、蒼潤が素直な感想をもらす。
「わたし達の部屋の扉を使うなら、わたしがその後、皆さんが帰るまで、扉が閉まらないよう見張ればいいのね?」
 魔界に行くための入り口を作れるという鍵。それでできた入り口は、扉を閉じれば消える上に、魔界側からは鍵を使えない。要は帰り道を作れない一方通行の欠点がある、と一通り試したらしい悠夜が難しい顔で説明した。
「何があってもこの扉は死守して下さい。それは貴女が多分、一番適任だと思います」
 皮肉気にも聞こえる台詞に、水火がくすり、と頷く。

「……水火に鍵も預けるし、閉まったらもう一度、水火が扉を開けるのはダメなの?」
 不思議に思って尋ねると、いいえ、と聡明な悠夜が頭を横に振る。
「開け直した場合、最初に繋がった所と、次は違う所に繋がる可能性が高いです。向こうの僕達にはその扉が何処にあるか、わからなくなるかもしれません」
「そうよね。別の地点に扉ができても、うまく探し出せるとは限らないわ」

 何気無くも切実な命綱。それを一行が相談しているような中で。
 普段なら、こうした時には、
「それってまさにスリルとサスペンスだね! っていうかもし本気で扉が消えちゃったらどうする⁉ 僕達魔界暮らし⁉ 魔界ってお水とか空気とか大丈夫かな⁉」
 などと、想像力がひた走る槶。しかし今は始終淡々と、覇気の無い様子で水火と猫羽――元はラピスの居室をぼけっと見回していた。
「……クウ、大丈夫?」
「え? あ、ごめんね、大丈夫だよ猫羽ちゃん」
 あはは、と笑う相手に、猫羽もまた胸の痛みを思い出していた。

 その様子を横目に悠夜が、異大陸仕様の室内を珍しそうに見て回る兄達の後ろで手招きしていた。
「さっき、あの川辺で、二人共何処へ引っ張られたんですか?」
 槶の様子が変わったのはそこからだ。悠夜は当然の如く気が付いている。
「うん……黒いヒトと、ラピスのお母さんがごっちゃの、ヘンな所だと思う……もうお母さんはいないけど、記憶だけは残ってる」
「貴女はともかく、どうして槶まで?」
「あのヒト、クウのこと、気に入ってる」
 読んで字の如く、それで女の気が満ちる所に入り込めたのだと伝える。

「槶は何があったかは覚えてないみたいだけど……それでも、あんなに凹んじゃうなら……」
 いつも通りに笑っている槶。しかし確実に何か大きな衝撃を受け、記憶を消されても無意識から消せ切れないでいる。それを察している悠夜が、痛ましげに槶を見つめる。
「魔界でラピさんがいないってわかったら……大丈夫なのかな」
「……悪いことになるとは、限らないよ」
 突然魔界などに行く目的。そこにいる者に会いたい猫羽に、付き添う兄達の後ろ姿に、悠夜は項垂れている。

 猫羽は傍目からは、気楽そうに見えるのだろう。碧い目の灰色の猫のぬいぐるみを抱えながら、強い意思で思いを口にした。
「近くに行ければ――絶対わたしはラピスを見つける」
「……」
「ラピスがどうするかはわからない。記憶も無いかもしれない……でも、ラピスの魂は確かに母さんの所にいる」
 先日の召喚の際、それだけは確信を持てた猫羽だった。

「ラピスの魂が帰ってきたら……心を呼び戻すこと、ユウヤならできる?」
「……それは……」
 父である公家の憂い気な顔を思い出せば、悠夜には頷き難いはずだ。それでもはっきりと、拒絶することもできないようだった。
「……その時があれば、考えればいいことでしょう」

 基本的に、いつでも感覚で動いている猫羽は、その答が何故か嬉しかった。
「ユウヤは――えらいね」
 そもそもここまで付き添う必要も、悠夜には本当はない。
「自分のこともみんなのことも、ちゃんと考えてるね、ユウヤは」
「……?」
「わたしはわたしのことしか考えてなかった。ユウヤを見習えば、わたしにできることも、もっと見つかるのかな?」
 事情を全て知った上で、悠夜は迷いながら力を貸してくれている。
 この願いは猫羽の身勝手な我が侭で、何処まで進んでいいのか自分でもわかっていない。それを共に考えてくれる者がいるのは、とても心強かった。
「……貴女は自分のために、ヒトのことを十分考えてると思いますよ」
 その兄にも思ったらしいことを、嘆息しつつ口にした悠夜だった。

 何の変哲もない小さな黒い鍵が、部屋の外の廊下から、紅い少女の手で鍵穴に差し込まれる。
 差し込むことは、強い「力」の持ち主にのみ可能な制限がある。それでも差し込んだ後の開閉は誰にでもできるようだった。
「とにかく誰もいない所に繋がるようですが……実際に何処に入るかは、猫羽さんが決めて下さい」
「……うん。もうちょっとやってみたい」
 扉を開け閉めする度、扉の先には、広い建造物の一角らしき光景が入れ替わり立ち代わり現れていく。
「凄いな。どうなってるんだ、これ」
「考えても仕方ないでしょ。言っとくけど、西の大陸風の扉は全部こうなるなんて思っちゃダメよ、蒼」
 当たり前だろ。と応酬するような友人達を横目に、槶は相変わらず何処か、物静かにしていた。

「広いお城だな……」
 危険が少なそうな場所を探し、何回も扉を開け閉めすることにそろそろ疲れてきた。溜め息混じりに再び扉を開けた後だった。
「――あ」
「……いい所、あった? エルフィ」
 こくりと頷く。扉の先に広がったのは、暖炉と煙突のある、おそらく上方の階の何処かの一室だった。

 それじゃ、と水火は、猫羽に代わってドアノブを持った。
「行ってらっしゃい、皆さん。くれぐれも、身も心もご注意を」
 心配など欠片も窺えない虚ろな微笑みで、蒼潤を先頭に、扉に入っていく一行を見送る。

「さてさて……どれくらいの時間、持つかしら?」
 廊下と扉の間に敷いた座布団に座り、自らの体で扉の閉鎖を防ぐ。おもむろに、愛用の武器らしき白い三日月型の柄の片手剣の、手入れを始める水火だった。

 扉に入ると、何故かすぐ見えていた場所に出るのでなく、暗い道を少し歩いた。向こう側に出てみれば、元いた場所は全く入った先からは見えなかった。
「今回の出口は、この柱時計の下の棚のドアみたいね」
「えらく小さい所から出てきたな。帰りこれ、入れるのか?」
「体の一部さえ入れば、後は通れてしまうと思います、兄様」

 ジパングとはかけ離れた建築様式の、冷たい石の床。褐色のシンプルな模様の絨毯がひかれ、大きな木製の古い柱時計や、薪のない暖炉、数人がかけられる長椅子がその部屋にはあった。
「いわゆる客間なのかしら? それとも私室?」
「そんなに広くないし、個人用のものだと思うよ、鶫ちゃん」
 窓はないが、暖炉から覗ける煙突の先に、四角く切り取られた紅い空がある。
 どう考えてもそこが、これまで一行のいた青い空の下とは違う、異世界であることを示していた。

 「宝界」と「魔界」。一行がいた宝界という世界は、様々な世界に通じる中継地点として、強い「力」を持つ化け物にのみ世界間の移動が可能とされている。
「ホントに来ちゃったのね……魔界……」
「何だ、鶫。怖気づいたのか?」
「って、蒼ちゃんは全然怖くないの? 僕達、ジパングからもほとんど出たことないんだよ?」
 それが突然、異世界に――それも特に性質の良くないと噂の、危険な化け物の巣窟に足を踏み入れることなった少年少女達。その理由となった猫羽を改めてまじまじと見つめる。

「猫羽ちゃん、これから何処行こう? ここってラピちゃんのお母さんのお城なんだよね?」
「うん……でも、気配が多過ぎて、母さんが紛れちゃってる」
 広大な城中に、早速猫羽は気配探知のアンテナを伸ばしてみたが、悪魔などの力の主が集まるのが主に下層とわかっただけだ。一つ一つの気配を、普通より情報多く感じてしまう性質のため、かえって許容量を超えてしまった。
「ここに長くいたら、見つかる心配はないですか?」
「ここは上の方だけど、元々あんまり、ヒトはいないみたい。ラピスみたいな気配と、いくつか悪魔と、悪魔じゃないヒトの気配が近くにする……」
 え。と、あまりに早々の目標の気配に、全員が目を丸くする。

「ラピちゃん近くにいるの? 猫羽ちゃん」
「……似てるけど。違うかもしれない……」
 その感想には様々な意味があった。以前通りの瑠璃色の髪の娘はいない。世界を超えてすら続く制限に、猫羽はそれ以上口にできない。
「ヒトが少ないなら、今の内に早く行かない? それがずっと続くとは限らないでしょ」
「悪魔の一人や二人、会ってみたいけどな」
「兄様……ジパングにも悪魔はいると思うので、それはまた、次の機会に」

 そして一行は、ゆっくり歩き出した猫羽を囲むように、数歩だけ遅れて後に続く。
「そう言えば――」
 声は小さく潜めながらも、思い出したように鶫が、猫羽の後ろ姿を見つめた。
「ユーオンはここにはいないの? 猫羽ちゃん」
「……わからない。いるとしたら……下の方なのかな」
 その気配は元々弱い上、やはり紛れてしまっている。ちらりと振り返り、猫羽自身も残念な心で答える。そう、とだけ、鶫も軽く息をついていた。
 先日召喚した悪魔の養母が、確かに引き取ったと言っていた金色の髪の兄。猫羽もラピスの次に気になり、探していたものだった。

 その私室の扉を開けて、出た先は中空で方形の回廊だった。
「うわ、開けっぴろげですね……下の方から見えないように、気をつけて通らないと」
「でも誰も、気付かないようになってるんだろ?」
「そうですけど……気をつけるにこしたことはないと思って」
 あくまで豪胆な剣士の兄に、慎重な悠夜は少し苦笑う。

「階段上るから……誰かは多分気付くけど、すぐに忘れるよ」
「?」
 身を隠すため、猫羽はこの城一帯に忘失の暗幕を張り巡らせている。それを悠夜以外は知る由もなかったが、
「悪魔の城にあからさまに侵入して、全然気付かれないって、本当に信じられない」
 呆れながらも、ひたすら感心したような鶫だった。

 回廊の一角に設置された階段に、事もなく到達した一行は、一応足音を潜めて長い階段を上る。
「…………」
「……クウ?」
 前を蒼潤、後ろを鶫と悠夜が行く中、槶に手を引かれる猫羽は、もう一度声をかけた。
「クウ……ずっと、元気ない」
「え? 僕?」
 半分上の空だった槶が、ごめんね、と苦く笑う。たはは、と幼い猫羽の方を見つめ返した。
「そうなんだよね……何だか僕、自分でもよくわからないけど、さっきから不思議なくらいに元気が出なくて」
「……」

 一応自覚はあったらしい。連れ立って歩きながら、猫羽はぎゅっと、思わず槶の手を強く握る。
「ラピちゃんにこんな顔見せたら、心配するかも。どうしよう……ひょっとして僕、原因不明のウツとかになったのかな」
 うぐぐ、と槶は、それは困ると空いた方の手を掲げて握り締める。
「ナントカの不養生ってどころの話じゃないよね、でも全然、理由がわからないから対策もわからないよ。それって正直一番困るパターンかも……いや、ウツって限ったわけじゃないけど、とにかくよくわからないのが怖いよね」

「……理由はちゃんとあるよ……クウ……」
 ただ、それがわからなくされてしまった。あははと苦笑いを続ける帽子の少年に、瑠璃色の髪の幼女は一瞬、青い目が潤んでしまった。

 それでもそれ以上は、制限された言葉を続けることができない。
 それからしばらく槶は、何処か物憂げな微笑みを、猫羽の手を引きながら浮かべ続ける。
 その最上階に続く階段の先。広大な城の主たる女の、貴賓としては慎ましい造りの寝所に辿り着くまでは。

 天蓋付きの広い寝台と、壁にかけられた大きな鏡。ほかには小さな机に、長椅子と箪笥だけが設えられたその寝所で。
「……――」
 周囲の様子を見たい、と蒼潤は階段に残った。それを後ろに、東西に存在する二つの扉の内、一つから一行は中に立ち入った。

 猫羽は一番に部屋の内に入った。気配で感じていた通り、目的としていたものを確かに確認し、地味に衝撃を受けてしまった。落ち着くためにひと呼吸、息を飲んで立ち止まって吸う。
 その猫羽の隣では、槶が次に「それ」に気が付いていた。
「あれ? 枕の上で何かが眠ってる?」
 猫羽の視線の先では、広い寝台の一角に、その薄い琥珀色のもの。細い体躯で、さも毛皮といったふわふわで大きな尻尾を持つ何かを、槶が視界に捉えた。

「――……!」
 突然その聖域に立ち入ってきた複数の侵入者に、槶の声で気が付いたらしい化生が、びくりと顔を上げた。
「え? 小さな――……子供の狐?」
「……――……!」

 猫羽の手を引く槶の姿に、その薄い琥珀色の何かは瞬時に総毛を逆立てていた。ともすれば襟巻にも見えそうな細身の仔狐がいる。
 全く言葉を発せなくなった猫羽の目には、それは明らかに先日、召喚した悪魔が肩に乗せていた襟巻と同一だとわかった。

「――あ! 待って!」
「――!」
 仔狐は侵入者に怯えるように、素早く身を起こしてもう一方の扉側に走り逃げた。後から入ってきた鶫が目を丸くする。
「槶? どうしたのよ?」
「――鶫ちゃん、あっち! 行こう、追いかけよう!」
 何故か、はい! と猫羽を鶫に渡し、槶は満面の笑顔で、仔狐が逃げていった扉の方に走り出した。
「槶、何処行くのさ⁉」
 慌てて外にいる兄を呼ぶ悠夜に、槶は一度だけ。何故かとてつもなくきらきらした顔で、同行者に振り返った。

「可愛いもふもふがいたよ! 捕まえよう!」

 ――え⁉ と……猫羽以外の誰もが、呆然とする程に。
 それまでの覇気の無さが嘘のように、そしてここが悪魔の城と忘れ去った明るさで、槶は扉から駆け出していった。

「ちょっと――……待ちなさい、槶……!」
 一行が万一別行動になっても、城全体をカバーできる暗幕は施してあるため、大きく慌てることはなかったものの。
 突然のことにそれなりに衝撃を受けて、慌てて槶を追った友人達だった。

「もう、何考えてんの、槶の奴⁉」
「凄い速さだな……下手したら本気ではぐれるぞ、これ」
 槶があまりに全速力で走って行ったため、猫羽を鶫が、悠夜を蒼潤が背負い、一行は槶を追いかける。

「猫羽さん……一瞬しか見えなかったけど、さっきのって……」
「……うん。あれ……ラピスだと思う」
 背中の上同士、細かい話はできないながら、悠夜とひそひそと顔を見合わせる。
「何でまたそんな――確かにあの時、襟巻みたいにあのヒトが一緒に連れてましたけど……」
 魂呼も成功していた、という猫羽の言葉。それを今更のように悠夜は納得している。
「わからないけど……あれ、多分、ラピスのお父さんを殺した火の狐の抜け殻だと思う……」
 何度となく観た昏く赤い夢の中で、確かに知っていた炎の獣。しかしそれよりずっと弱小で火の力も無い化生に、猫羽も首を傾げる。
「炎は――……お父さんが、持っていったのかな?」

 「神」を封じられていた炎の獣。それがある人間の男を殺し、悪魔の女性の手で獣も殺された。獣がその後どうなったかは、猫羽は知らない領域だった。
「神様はラピスの中に来たけど……お父さんは狐の中に行って、今度はラピスが狐を食べたのかな……?」
「……すみません。正直、わけがわかりません……」
 獣に封じられていた「神」は、最終的に瑠璃色の髪の娘に遷った。「神」が消えたその後の獣には、獣が殺した娘の父の命が残った。
 炎の適性を持っていたその男が、新たな炎の獣として記憶の無いまま、この城の主の支配下にあったこと。その獣の体が瑠璃色の髪の娘に渡されたこと。
「ラピスのお父さんも……あのヒトと一緒にいたのかな?」
 その城主、先日召喚した悪魔こそ、遠い日に炎の獣を使役し、獣の内に「神」を封じた者であること。だからこそ封印が解けるタイミングに悪魔の女性を派遣できたことまでは、現状把握に優れた幼女もさすがに探知できなかった。

「ラピスは……お父さんの代わりに、狐になったみたい……」
 炎の獣から、もう人間の男は解放されている。残った獣の抜け殻に男の娘、ラピスの魂が納められたことを、おぼろげに説明する。
「よくわかりませんけど……」
 悠夜は痛ましげな顔で――最も大切なことだけを尋ねた。
「あの仔には……ラピさんの記憶や意識はあるんですか?」
 それはたとえどちらでも、哀しいことだと慮る(おもんばか)ように。

 その仔狐が、自らの友人の変わり果てた姿、と槶は知るはずもない。逃げる仔狐をしばらく追いかけた後に、ある部屋の近くに来ていた。
「ここ、元来た部屋と同じ階の回廊かしら?」
「そうだな、似たような景色ばかりだけどな」
 階段を降りることをやめ、ひたすら回廊を逃げる仔狐は、この階層と元いた最上階が安息の領域であることを示していた。

「待って、もふもふちゃん! ちょっとでいいから触らせて!」
 いつになく強引に、槶は仔狐を追いかけ続ける。その更に後を追いかけていた友人達は、諦めたように一度立ち止まった。
「最初来た方に帰れば、挟み打ちにできるんじゃないか」
「そうよね……これ以上無駄に、体力も消耗できないし」
 背負っていた子供二人を地面に降ろし、回廊を逆向きに向かう。まだ一週はしていない槶と仔狐が、回り戻ってくるのを待つ方針に切り替える。

「これだけ騒いでて、本当に気付かれないのかしら……」
 心配そうに鶫が、広い回廊をぐるりと見回した姿に、まるで呼応するように――
 回廊から繋がる数々の扉の一つが、不意に開いた。
 鶫達とはちょうど一番遠く離れた方向で、その扉はゆっくりと開いていた。

「……――え?」
 ほとんどヒトがいないその階層で、数少ない一人が、その扉から出てきた姿。それに最初に気が付いたのは、ある強い呪いの気配に、大きく首を傾げた悠夜だった。
「まずい、誰かいるわよ……⁉」
 七時の方向にいる鶫達と、零時の位置にある扉から出てきた人影。すぐに鉢合わせすることはないが、鶫達とちょうど対側……三時の方向の回廊を走る仔狐と槶が、零時の人影とぶつかるのは時間の問題だった。

「さすがに鉢合わせしたらまずいんじゃないの⁉」
「……気付かないはずだけど……でも………」
 焦る鶫の足元で、猫羽も大きく首を傾げる。
「あのヒトには……見つかる気がする……」
 胸騒ぎがしていた。そもそも、侵入者の鶫達の存在に気付いたからこそ、その人影は出てきたのだと気が付くように。

 しかしその人影が何者であるか、猫羽には全くわからなかった。
「あのヒト……誰?」
「あれ……誰だっけ?」
 本来ならわかるはずの相手。そう思ったのに、わからないと感覚が訴える強い違和感。同じことを感じたらしく、悠夜も呆然としている。

 その視線の先にやがて、黒翼を背に、銀色の髪で赤い目の死神が冷然と顕現する――


+++++


「待って、もふもふちゃん! ちょっとでいいから触らせて!」
「……――……!」
 逃げ回る仔狐をしつこく追いかけ回す帽子の少年。ともすればただの、いじめっ子と見えてもおかしくない状態だった。
「どうして逃げるの⁉ 僕達、怖くないよ⁉」
 扉から出た赤い目の死神は、その仔狐を決して、この城主以外の誰にも触れさせないと決めていた。たとえ帽子の少年が悪人ではなくとも、仔狐が怯えていることだけが重要だった。

 仔狐の悲鳴で目覚めた死神は、同時に謎の者達に気が付いていた。
「……何だ……こいつら……」
 気付いた傍から、相手が誰かわからなくなる。その不可解に、眠りの世界から抜けきらない死神は眉をひそめる。
 袖の無いシンプルな黒衣の躰を鞭打って起こす。現在城にいる、どんな悪魔も気が付いていない、謎の侵入者達の元へと足を向ける。
「……侵入者なんて、どうでもいいけど……」

 冷え切った声と躰を、着けたままの黒いバンダナで赤く温める。
 ただヒト殺しが得意なだけの、悪魔に比べて大した力を持たない死神。それでもそうして、不可解な侵入者に唯一気付ける現状把握の能力を以て、その回廊に出向いたのは……たった一つの理由だった。

「――……え?」
 重厚な扉から出てきた死神の、暗い澱みを纏う怜悧な眼光に、そこでようやく、帽子の少年は足を止めて立ちすくんだ。
 追いかけていた仔狐は死神の背後にさっと逃れると、死神が出てきた扉の奥へと消えてしまった。
「……狐魄(こはく)に、近付くな」

 仔狐を庇うように、黒い羽を持つ死神が扉の前に立ち塞がる。
 誰かもわからない相手を、ただその――赤く染まる目で睨む。

「……槶⁉」
 そして死神は、腰の短刀をきらりと抜き放った。少し離れた場所にいる赤い髪の娘……それも誰かわからない相手の声を横目に、帽子の少年に容赦なく短刀を突きつけた。

「アンタ達……この城の者じゃないな」
 銀色の短い髪を黒いバンダナで包み、バンダナで半ば隠された暗く赤い目に映る者達。
 映った傍から意識が消されていくが、それは元々自らが曖昧な死神にとって、ここ最近の不安定で、記憶を保てない己が原因だと捉えている。

 短刀を突きつけた相手の同伴者が、反撃に出れば面倒だ。死神はそう感じたようだった。
「……さっさと消えろ。侵入者には……俺は興味ない」
「……え?」
 あくまで死神の目的は、帽子の少年が追いかけていた仔狐の保護だけ。
「次に現れたら、その時は――……殺す」
 それを再び侵すのであれば、決して容赦はしない。
 帽子の少年だけでなく、他の同伴者にもその後一度だけ、怜悧な赤い眼差しが向けられていた。


「――槶! 大丈夫⁉」
 パタンと、出てきた扉の奥へと銀色の人影が消えた数瞬後に、鶫が駆けつけていた。
 手にしていたその武器……遠隔での攻撃も可能な銃を、槶に何かあればすぐに使うべく、駆けてくる傍から構えていた。
「鶫ちゃん、槶、とりあえず退こう! こっちに戻って来て!」
 槶の無事を確認し、武器を収めた鶫の姿も確認し、悠夜が最初に入ってきた部屋の扉を開けて叫んだ。
「槶、動けるかい⁉」
「……大丈夫だよ、悠夜君!」
 鶫に手を引っ張られ、少しの間だけ呆けながらも、すぐに我に返ったように槶が応える。

「一旦退却だな。これ以上深追いすると、さっきの奴と本気で戦闘になる」
 悠夜と猫羽を守るべく留まっていた蒼潤は、あくまで冷静に状況を見て口にした。
「多分勝てない相手じゃないが――あの仔狐を守るためなら、アイツ、命がけで俺達を殺しに来るぞ」
「兄様……」
「…………」
 それだけ真っ直ぐな剣気を持つ敵がそこにいる。事も無げに見切った蒼潤の言葉に、子供二人は顔を見合わせた。

「……まさか、さっきのヒトって……」
「…………」

 半ば確信を持って、悠夜は猫羽を怪訝そうに見ている。
 猫羽もうむむ、と……その違和感にひとしきり頭を悩ませる。
「……あ、そっか」
 忘れてた、と。そこでやっと、ある呪いの存在を思い出した。
「うん……あれ、ユオン兄さんだ」
 ちょうど、鶫と槶が帰り着いたその時に、悠夜以外が驚愕する事実をあっさり口にしたのだった。


+++++


 最初に入った部屋の柱時計から、難無く魔界を脱出した一行に、手入れした片手剣を片付けたばかりの水火が微笑みながら首を傾げた。
「あらら? ……まだ一時間、たってないけど?」
 お帰りなさい、と、全員の姿を確認した上で、魔界の扉を閉めた水火だった。

 水火と猫羽の部屋で、自身の寝台に座る二人と、床に座る男子陣、寝台に座らせた鶫がようやく呼吸を落ち着かせる。
「どう? ラピには会えたの、エルフィ?」
「……ダメだった。……兄さんに、邪魔されちゃった」
 あらら? と目を丸くする水火の前で、
「本当にあれ、ユーオンだったの? 猫羽ちゃん」
 まだ緊張の残る、納得いかないという表情で、鶫が猫羽を見つめた。
「気配も顔も全然違うし。何か、羽まで生えてたし……」
「忘れてた……兄さん、バンダナすると、ヒトが変わるの……」
 はい⁉ と目を見張る鶫に、悠夜が補足に入る。
「凄く強い呪いのアイテム、持ってたみたいだよ、鶫ちゃん。気配も姿も別人にするような……羽については、僕にもあまりよくわからないけど」
 何それ? とひたすら、鶫が不服げにする。

「確かにあの剣気は――ユオンって言われたら、納得できるな」
 蒼潤は唯一、楽しげな顔であぐらをかいていた。
「それも『銀色』の方だろ。魔界暮らしでいっそう、剣気にも磨きがかかったんじゃないか?」
 時により金色の髪が銀色に変わり、その時は何の流血も厭わぬ死神となる少年。そんな知り合いを、改めて場の者に思い出させる。

「でもどうして、ユーオン君が僕達に剣を向けるのさ?」
「あらら。そんなにヒドイ目にあったの? 猪狩君」
 うん、と気楽に頷く槶に、水火も気楽に笑いかける。
 そうした者達を前に、猫羽は難しい顔付きになる。
「兄さん、わたし達が観えてたけど気付いてはなかった……でも凄い無理して、あそこに出てきてた……」
 現在「銀色」が外に出るのが、どれ程負担が大きいか。あの一瞬でも感じ取り、僅かに声が震えてしまう。

「それだけあの、謎の仔狐を守りたかったんだろ」
「……仔狐?」
 何故そこまでして、その化生を「銀色」が守ろうとするか。
 その意味は気付けなくとも、あっさり状況を見切った蒼潤の言葉に、水火が怪訝そうに表情を消した。

 それでも――と鶫は、その不服を追及する。
「ちょっと小動物追いかけただけで、普通短刀まで抜く?」
「……うん。兄さん、変わったと思う」
 うんうん、と納得する猫羽。しかしそれは――
「いつもの剣も抜かなくて……一番初めの時に殺さないなんて、キラ兄さんらしくない」
「って、猫羽ちゃん……それは……」
「キラ兄さんは敵なら、わたしだって殺そうとしたよ……でも、今は違うんだね、兄さん」
 密かに感動してしまっていた。そんな猫羽に、大きく肩を落とした鶫だった。

 まぁ、と水火が口を挟む。
「何を守ろうとしたかは知らないけど、次は本気で来るでしょうね、ユーオンならね」
 いいの? と、水火は猫羽を見つめる。
「ユーオンだけ結界から除くことはできないの? 猫羽ちゃん」
「そうだよね。僕達だってわかったら、抜刀はないよね?」
「…………」
 現在彼らの侵入に気付いたのはその相手だけだ。当然の提案なのだが、猫羽の顔は曇る。
「できるけど……わかったら帰れって、凄く怒ると思う……」
 やっぱりね、と、くすりと水火が笑った。
「そうよね。どちらにしても、命がけで追い返すわね」
「でも、事情を説明したら、ユーオンだってわかるでしょ?」
 ラピに会いたいだけなんだから、と憮然と言う鶫に、
「簡単に会える所にいないなら、多分止められるよ、鶫ちゃん」
 尚更困って黙り込む猫羽に、悠夜が助け舟を出した。

「そうですよね? 猫羽さん」
「……うん。兄さんを止めて……あの仔を捕まえないと……ラピスには会えないと思う」
 一つ一つ、口にできることを探すせいか、一見脈絡のない内容になる。
「あ、やっぱり⁉ 何だかあの仔、捕まえてって訴えかける何かがあるんだよね!」
 生き生きと槶が、猫羽には考えもつかない方向で後押しをする。
「ダンジョンのお約束だよね! 次の場所に進むには何らかの試練かアイテムが必須っていう!」
「そういうモンなのか?」
「そんなんで小動物怖がらせたわけ? 槶」
「だって可愛いよ、ちっちゃいよ、もふもふだよ! みんなは抱っこしたくならないの⁉」

 すっかり調子を取り戻した槶に、悠夜が苦笑しつつ話題を戻した。
「どうしますか? これ以上……深追いするべきでしょうか?」
 その場合には、相応の危険が伴うと示すことも、真面目な声色で諭しながら。

「…………」
 兄はラピスが消えたことを彼らに告げていない。会わせて、といっても必ず拒否する。
「ユーオンも山科さん達も、危険な目に合わせる可能性が高いわね、エルフィ」
 さらりと水火が、最も苦悩する現実を代弁する。
「これ以上は……無理じゃないかしら?」
「……水火……」
 あくまでこの状況は、ラピスに会いたい猫羽の我が侭。引き際の判断を促すように水火は告げる。

 俯く猫羽を気遣うように、静まった場の空気に、
「……無理じゃないだろ」
 不服そうに口を開いたのは、蒼潤だった。
「危険なんて承知の上だし、付いてきたのは俺達の自己責任だ。たまたま最初の敵が、ユオンだったってだけの話だし」
「兄様……」
「あの仔狐が必要なら、俺がユオンの相手をするから、その間に誰かが捕まえればいい。俺も一度、本気のアイツと闘ってみたかったからな」
「ちょっと、蒼――」
 無表情でもあくまで不敵な従兄に、鶫が顔を顰める。
「蒼かユーオンに何かあったら、どっちにしても最悪じゃない」
 そうして至って、真っ当な判断を口にする。
「俺は負けないし、アイツに俺を殺させたりしない」
 その相手の兄弟子でもある剣士の少年は、真面目くさった顔でそう宣言した。

「その間に悠夜達が手薄になる方が心配だ。仔狐を捕まえれば、事はすぐに済むのか?」
「……わからない……でも、ラピスとお話はできると思う」
 やっと顔を上げた猫羽に、僅かに蒼潤が笑った。
「まさに試練だね……僕も何だか、ドキドキしてきたよ」
「槶……何でアンタ、そんなに気楽なのよ……」
 蒼潤がいない間は、鶫が一行の護衛役を引受けなければいけない。そんな責任感を持っている術師の一人が頭を抱える。

「でもまぁ……私も、ラピには会いたいし」
「……鶫ちゃん」
「蒼も槶も、結局はそうよね。猫羽ちゃんのためというよりは……何だか、そうしなきゃいけない気がするの」
「……ツグミ……」
「…………」
 詰まりそうな胸で鶫を見る。その猫羽を無機質に水火がまっすぐに見つめる。
「私達が危険だって、行くのを躊躇う所に、ラピがいるなら……やっぱり、大丈夫なのかどうか、会っておきたい」
 たとえその友人の現状をわからなくされた状態でも。それは当たり前のこと、と、消えない思いを鶫がそこで口にした。


+++++


 本日潜入した城の回廊と最上階を、構造を図に起こして作戦を考えると言い、少年少女達は猫羽の家に泊まることになった。
「……限界かもしれないですね、結局は」
「…………」
 台所を占拠し、色々と話し合う年長組を横目に、縁側に座って話す猫羽と悠夜だった。
「ラピさんに関する何かが、覆い隠されてること自体に、兄様や鶫ちゃんも無意識に違和感を持ってる……槶は槶で、あの仔がラピさんだって、何処かで気付いてるのかもしれません」
「……みんな……ホントのことを知りたがってる?」
「知りたいと言うより……誤魔化せないんだと思います」

 兄達の姿の、これまでにない熱心さに、悠夜がため息をつく。
「みんな、ヒトのことが気になるヒトばかりですから……」
 うん……と、猫羽も同意だった。ゆっくり頷くと同時に、ぽて、と、抱えていたぬいぐるみを突然取り落とした。
「――って、眠たいんですか、猫羽さん」
「あ……ごめん……」
 胡乱な目を擦り、ぬいぐるみを拾おうと庭に降りた瞬間――
 猫羽の周囲が、一瞬の青い光と共に闇に包まれていた。

 ……あれ、と。暗闇で逆に意識のはっきりした猫羽は、ぐるりと辺りを見回す。
「……わたしに……まだ、用があるの?」
「…………」
 猫羽をこの暗闇に呼び込んだ者。すぐ気付いた猫羽は、闇に溶け込む黒い人影に淡々と語りかけた。
「ここは……あなたの夢の中?」
「……そうですね。そう捉えてもらうのが、一番近いでしょうね」
 営業口調ながら人影は、凛とした本来の、剣士たる面持ちでそこに在った。
「夢は意識と無意識の狭間にある、忘我の世界ですから。私は元々、そこから奥を覗くのが得意だったんです」

 だからこそ、一時期同居した「忘却の神」も、ヒトの夢を覗く力を得た。黒い女も代わりに「忘却」の力を流用できるようになった。そうして、忘我のカギを得た相手になら、年中無休で介入できるのだ。
「夢はいつでも――何処でも、そのヒトの傍にありますからね」
 それはこの幼女も例外では無い、と伝えるように笑う。

「どうして……わたし達の邪魔をするの?」
 猫羽はそこで、気になっていたことを口にする。
「邪魔をしても、止まらないって……わかってるよね?」
 剣士の少年に剣を向け、一行を足止めした黒い相手。本当はそれで、彼らを止められないとわかっているはずだ。
 わざわざ酔狂に彼らに関わる黒い女に、その真意を尋ねる。

「そうでしょうね。私が何をしたところで、蒼潤君や鶫さん、槶君のことは止められないでしょう」
「……」
「私はただ――貴女に困ってほしいんですよ、猫羽さん」
 だからこうして現れること。飾らず真意を観せる女に、
「あなたは……誰……?」
 心から不思議で、猫羽が首を傾げたその時に。

「――猫羽さん! 大丈夫ですか⁉」
 庭で倒れかけた猫羽に、必死に呼びかける悠夜の声で我に返った。
「……あれ」
 目をこする猫羽を、ひょいっと、縁側に来た水火が細腕で抱き上げる。
「……エルフィ、どうしたの?」
 強固な結界の内でも起きたその異状。水火の表情が硬い。
「攫われちゃってた。でも……問題ないと思う」
 既に相手の真意を感じていた猫羽は、あっさりそう返したものの、水火には何か思うところがあるようだった。
「あのヒト……何処にいるかわかる? エルフィ」
 にこりと綺麗に微笑み、自らそれを尋ねた紅い人形だった。

 翌朝から、魔界の城のリベンジを目論んでいた少年少女達に、その残念な知らせは伝えられた。
「え? 竜牙さんと烙人さん、明日は朝から出かけるの?」
「ごめんなさい。そういうわけで扉の番は、明日はできないわ」
 一度目は魔界行きの扉を見張ってくれた水火。作戦会議中の一行にそれだけ言うと、台所を後にしていった。
「それじゃ、誰がこっちに残るかよね……」
「誰か一人はさすがに、見張ってないとまずいな」
 結界の強固な家内とはいえ、不意に扉が閉まる事態が、決してないとは言えない。一行は頭を悩ませる。

 それなら、と悠夜が真っ先に手を上げた。
「体力的には、僕は足手まといになりそうですし。猫羽さんは案内と結界に必要ですし、僕が残って扉を守ります、兄様」
「いいのか? 悠夜」
「悠夜君がいないならいないで、何かちょっと心細いよね」
 うんうん、と鶫と猫羽が同時に頷く。

「元々、別行動が主体の作戦ですし。僕は猫羽さんからこれを借りて、ここから猫羽さんや槶と連絡をとるようにします」
 そう言ってPHSを掲げる悠夜に、槶が首を傾げる。
「あれ? 魔界って伝波届くの? 悠夜君」
「本来は届かないけど、このPHSだけは特別だよ、槶」
 にこりと笑い、アンテナのないPHSを悠夜がしまう。

「兄様は『ピアス』を連れて、ユーオン君が出てきたら足止めをして下さい。猫羽さんの用事が終わればピアスにそれは伝わるので、ピアスが動き出したら一緒に戻って下さいね」
 蒼潤には灰色の猫のぬいぐるみが渡され、少し不服気にそれを受け取る。
「闘いの途中でも、相手に背を向けるのか?」
「猫羽さん達に何かあった時も、ピアスが兄様に助けを求めるはずですから……動いた時にはとにかく注意してほしいんです」
 それは仕方ないか、と、蒼潤も納得してくれたようだった。

「一番いいのは、蒼がユーオンを屋上に誘い出して、その間に私と槶が最上階に入ることよね」
「そこにまた、あの仔狐がいるならな」
 最上階で階段を調べていた蒼潤は、屋上に繋がる階段があることにも気が付いていた。
「そう上手くいくとは限らないし――素早い仔狐をどうやって捕まえるかだしな」
「でも今度は、あの仔にも気付かれないようにするんだよね?」
 前回はラピスを忘失の暗幕の対象外にしていた。その意味がないと仔狐を観てわかったので、猫羽は改めて頷く。
「いざとなったら私も力を使うし、こっちのことは心配しないで、蒼はとにかく、気を付けてね」
「わかってる。ユオンはともかく、『銀色』なら本気で殺しに来るしな」

「ホントに危なくなれば、兄さんも気付くようにするよ、ソウ」
 そのためぬいぐるみを蒼潤に渡したのは、様子を観れるようにしたい猫羽の意向でもあった。
「そうなったら今度はユオンが気に病むだろ。俺も情けないし、そんなことはないようにする」
 あくまで相手のことを考えて言う剣士。思わず青い目が潤む猫羽の頭を、ぽんぽんと撫で叩いて余裕を見せた。

 そうした作戦会議の模様を、面白げに遠目で見守る紅い少女と紫苑の男だったが。
「何て言うか……血は争えないお人好しっぷりだな、アイツら」
「……あら。青の守護者達を知っているの? 烙人」
「青だけじゃなくて、黒、赤、白、みんな会ったけど。子供世代は青の奴らが初めてだな」

 何故かそこで、ちらりと水火を烙人が見る。
「水華は赤の奴らと仲良かったんだろ。会いに行かないのか?」
「…………」
 赤の守護者の姪とも言える水火に、苦笑しつつ尋ねていた。

「エルフィが安全になって、猫を被り切れる余裕が持てればね」
 淡々と答えた水火に、今の態度の方が普通は猫だろ、と、呆れつつ返した烙人だった。

_結:本当のこと

 兄と養父、今は烙人の寝ている部屋に、蒼潤と悠夜、(くぬぎ)が狭苦しく休む。
 鶫は水火と猫羽の部屋で一緒に休んだ。翌朝水火が家を出た後で、不思議そうに猫羽に尋ねていた。
「竜牙さんとは一緒には寝ないの? 猫羽ちゃん」
「……水火は怖い夢見るの。兄さんもそうだけど」

 すっかり寝心地の良い相手を得た猫羽は、これまでよりは良い寝起きで目覚める。昨日までの街着とは違う、瑠璃色の髪の娘のお下がり武闘服に着替え、慣れ親しんだ寝床を後にする。
 鶫も夜の間借りていた異国の寝巻から、元通り動きやすい鴇色の小袖姿へと戻る。

「それでは――くれぐれも、気を付けて下さいね」
 黒い鍵を水火との自室の扉に差し、ドアノブを持つ悠夜がもう片手にPHSを持ちつつ、これから出かける兄達を憂い気に見つめた。
「ごめんね悠夜君、一人でこっちにいてもらうなんて」
「……何かあったら伝話してよ、槶。何とかして駆けつけるようにするからさ」
 大丈夫だよー、と笑う槶に、悠夜が溜息をつく。

 先に扉に入った年長者達に続き、最後に魔界の扉に入る前に、猫羽はじっと、悠夜を無表情に見つめた。
「……? 行かないんですか?」
「……うん。そう言えばわたし……ユウヤに言い忘れてた」
 はい? と首を傾げる相手に、改めて微笑む。
「ユウヤ、色々と沢山助けてくれたのに。まだありがとうって言ってなかった、わたし」
「……そんな、もう帰って来ないみたいな不吉な台詞、ここで口にしないで下さい」
 苦労性なのか、悠夜が更にため息をつく。猫羽は最早ぬいぐるみも持たず、身軽な両手で後ろ手を組み、精一杯の感謝で笑った。

「ここから先は……兄様達と貴女と、ラピさんの問題ですし」
「うん。そうだよね」
「大体、貴女とは三元中継になるんですから、今からしっかり喋って下さいよ」
 PHSを持たされた術師の子供、ぬいぐるみを持たされたその兄。全ての情報の集積地点となるはずの幼女に、心せよと難しい顔付きをしている。
 その不安に応えるように、悠夜が手にしたPHSから、
「大丈夫。多分わたしに何かあっても、ここでは喋れるよ」
 まるで腹話術のように、口を閉じたまま声を届けた、PHSに宿る悪魔を使う幼女だった。

 柱時計から出て来た前回とは違い、今回の出口は、階は同じ何処かの客室にある洋服箪笥の開き戸だった。
「女物ばっかりだな。しかも子供服か?」
「部屋もメルヘンな感じだね。どんなヒトが使ってるのかな?」
「ヒトじゃなくて悪魔でしょ、普通に考えたら」
 まだ二度目にも関わらず、すっかり慣れた様子で少年少女達は行動を始める。

 回廊に続く扉を開けると、まず辺りの様子を一行は窺った。
「ここは……ユーオンが出てきた側とは、ちょうど逆ね」
「さすが猫羽ちゃん、だから今回はここなんだね」
 目指す最上階に続く階段は南北にある。北側の零時の部屋には、先日の死神がいる可能性が高い。南の階段が間近の六時の部屋は、絶好の位置取りだった。

「それじゃ、俺は北に行けばいいな」
「気を付けてね、蒼。くれぐれも無理はしないで」
 灰色猫をおんぶ紐で背に括りつつ、ひらひらと後ろ姿で手を振る剣士。不安げに鶫が見送りつつ、槶と猫羽を連れて南の階段に入る。

「――……あれ」
 そこで不意に、幼女の直観は――
「水、火……――」
 本当は四元中継のもう一つの情報源から、思っていたよりも早く強い、その映像を受け取ることになった。

「――猫羽ちゃん?」
 階段で突然立ち止まった猫羽に、前後を囲む鶫と槶が、不思議そうに足を止める。

 そのアンテナを持ち歩く者の、戦闘開始の情報。
 アンテナが元々付いていたPHSに届く光景が、PHSに宿らされた伝波系の悪魔から、(あるじ)である猫羽に届く。

「……君が私の相手をするの? 竜牙――水火」
「…………」

 アンテナを始終持ち歩く紅い少女が、何処とも知れぬ川辺の一角で、腰の長剣を抜き放った黒い女と対峙していた。
 そして自らの意思でアンテナに力を与え、情報を伝えんとしていることを猫羽も感じ取った。
「やっぱり、水火……」
 そのために昨夜、水火は黒い女の居所を尋ねた。そのまま朝早くから剣を手に家を空けたことを確信する。

 紅い少女は、力を使うための黒の魔法杖でなく、あえて白の片手剣を握りしめる。元は魔法杖だった武器を、製作者直々に造り直してもらった剣を静かに抜き出していた。

 無表情に剣を構えた水火に、黒い女は楽しげにする。
「わざわざ剣で来るの? 力を使った方が有利なのに」
「……エルフィは、貴女を殺すことを望んでいないから」
 「力」を使えばその結末は必然。無表情に水火は黒い女と向き合う。
「貴女がエルフィ達に気を向ける余裕が無くなるくらい……わたしが貴女を痛めつければいいだけだもの」
「怖いね。剣でも殺す気で来るんでしょ、君は」
「貴女がエルフィに手を出すからよ。貴女の目的は、いったい何なの?」

 そこで紅い少女は、あえてあるモードの人形となった。
「ばかラピの置き土産にしては、エルフィばかり狙ってない? もうあいついないんでしょ――エルフィがどう動こうが、あんたに関係なくない?」
「そうだねぇ。最終的にはシルファが決めることだしねぇ」
 瑠璃色の髪の娘が戻ることを望む幼女の目的。それは別に、黒い女が無理に止める必要はない。既に娘の実母から解放されている黒い女も納得して頷く。

「でもエルちゃんで遊べば、こうして君が出て来てくれるでしょ」
「……やっぱり……要するにあたしを挑発してたってわけか、あんたは」
 にこりと笑う黒い女に、敏い少女は嫌そうな顔付きをする。
「ばかラピの考えそうなことだわ。あんた今は、あいつを主人に見立てて、その空っぽな魂を動かしてるわけ?」
「そうだねぇ。私は元々、誰かを守るために存在する誰かだし……ラピスちゃんの唯一の心残りが、君――水華だったからね」
 かつて、ラピスを「神」から解放するために失われた少女。それを再現する紅い人形に、黒い女は憐れむように微笑みかける。

「君は何者なのか、これから君がどうして行くか。ラピスちゃんは心配してたよ」
「……余計なお世話だし。あたしは、エルフィが望み通り生きていけるならそれでいいし」
「そうだろうね。君はあくまで誰かを糧に、誰かの望みを叶えるためにいる、何にでもなれる生粋の『魔』だから」

 その黒い女が言う通り、現在失われた少女を再現する紅い人形は、女の望みを再現している。
 「魔」として造られた躯体に宿った心霊は、純粋な「魔」。それを猫羽も改めて悟る。

「でもさ。何になるかくらい――君が決めていいんじゃない?」
「……?」
「その答は……君はもう、知ってるはずなんだけど」

 そして黒い女は、その先は剣で語らんとばかりに、紅い少女に容赦なく斬りかかった。

「猫羽さん⁉ 大丈夫ですか⁉」
「……――あ」
 アンテナ以上に強く届くPHSからの声に、猫羽はそこでやっと、魔界の城の階段へと戻ってきた。
「水火さんのことは僕が様子を見ますから、猫羽さんはそっちに集中して下さい!」
「うん――ごめんね、ユウヤ」
「猫羽ちゃん? 気が付いたの⁉」
 悠夜の声は聞こえていない鶫が、背負う猫羽が意識を戻したことに気が付いていた。
「蒼とユーオンの闘い、もう始まったの?」
「ううん……それはちょうど、これからみたい」

 既に最上階に辿り着き、部屋の東西の扉に向かうべく、南側に鶫と槶は待機していた。
「でも――母さん、今、部屋にいるね」
「そうなの。困ったことになっちゃった……流惟さんの目の前でちょろちょろしたら、さすがに気付かれるかと思って」
 その最上階の寝所には、仔狐と共に城の主がいた。外からも明らかに感じられる強い気配に、鶫が身を竦めている。

 そうして部屋の外の回廊で、南側に待機する一行をよそに。
 下の階でも、剣士の少年と銀色の死神の対峙が始まる。

 蒼潤が零時の方向にある部屋の扉に辿り着く前から、銀色の死神は気怠そうに扉を出てきていた。
「……結局、また来たのか、アンタ達は」
 今度は文句無く、蒼潤も見覚えのある、黒い柄の宝剣を手にしている。青く光る刃を横に、死神は侵入者を暗赤の目で冷たく見据える。
「狐魄に手を出して……何がしたいんだ、アンタ達」
 守れなかった義理の妹の代わりに、その獣を守るしかない死神。揺ぎ無き殺気が目前の蒼潤に向けられる。

 蒼潤は一つだけ死神に、気になっていたことを静かに尋ねた。
「オマエはここで――この城でいったい、何をしているんだ?」
「……?」
「仔狐を守るために来たわけじゃないだろ。オマエの目的は、ここでは果たせそうなのか?」
 真摯に尋ねる蒼潤に、さぁな、と。死神は正直な所を答える。
「俺は――……殺すのは得意だけど、助けるのは苦手だ」
「…………」
 古くから続く、行き場無きヒト殺しの呪い。それを淡々と口にする死神に、
「……自分でそう思ってるだけだろ、オマエは」
 その「銀色」と、初めてまともに会話をした兄弟子は嘆息する。
 それだけ呟いた後に、冷たい目で問答無用に斬りかかってくる死神に、自身の刀を抜き放った。

「……え? 蒼ちゃん達は、屋上には向かわなさそう?」
 最上階でひたすら待機する槶達と、人界に留まる悠夜に同時に、猫羽は観たままを伝える。
「兄さん、自分が不利ってわかってるから……ソウとマトモに闘わずに、狭い場所にいたいみたい」
 純粋に剣技のみで対峙する広い場所は、つまり避けたいらしい。
「アイツ……ほんっとーに、闘いとなると見境ないのね」
「でも仕方ないよね。ユーオン君、体弱いもんね」
 真っ当に対峙すれば長くは闘えない。消耗の大きい死神を詳しく知らない槶も、慮るように呟いていた。

「ユーオン君、かなり無理してるんでしょ? 猫羽ちゃん」
「うん……兄さんは、あの仔を守りたいだけだから」
 そのためであれば、どんなことでもするという死神に、槶が困ったように笑った。
「わかってくれるといいな。僕達は別に、あの仔を傷付けたいわけじゃないって」
「……クウの言う通りだね」
 たとえそれが、仔狐の願いに反することでも――ただ温かな思いでここまで来た者達を、何の暗幕も無しに今の兄が観たら、どんな思いを抱くだろう。それだけが猫羽は気になっていた。

 そんな猫羽を、PHSを通じて悠夜が現状に引き戻す。
「部屋の内の様子はわかりますか? 猫羽さん」
「何となくは……母さん、仕事があるけど何か探してて……あの仔はずっと、枕で眠ってる」
「それならその内、流惟さんは部屋を出られるかしら?」
「蒼ちゃんに時間を稼いでもらうしかないのかな。ごめんね蒼ちゃん、ユーオン君」

 律儀に謝る槶に、その音声が届いている悠夜は、呆れたように大きく溜め息をついた。
「危険なのは槶達も同じなんだから、油断しちゃ駄目だよ」
 PHSの画面には、アンテナから水火の戦局が届いている。水火が押されている、と伝える。

「…………」
 最上階の己の寝所で何かを探す悪魔は、昨日何者かの侵入があったことは、銀色の死神から伝えられているようだった。
「……わたし達だって、母さん、多分わかってる」
 元はその悪魔から与えられた鍵に、猫羽は真意を測りかねた。
 悪魔が探しているものすら感じ取った中、首を傾げるしかない。

 しばらくして、ようやく悪魔が部屋を後に、下に降りていった中で。
 物騒な闘いを起こしている者達に気付かないよう、猫羽はより強く暗幕を張り巡らせた。

 悪魔の城主が出て行ったことを確認した後、すぐに東西二つの扉から別々に侵入した少年少女は、どちらの扉の鍵も固く閉め切る。
「悪いけどこれで、逃げられないわよね」
 獣には開けられるはずのない、鍵のかかった扉。その後にそっと、鶫と槶が静かに、寝台の方へと近付く。

「……」
 猫羽は悪魔が探していたものの方が気になり、眠る仔狐は年長者に任せ、小さな机の方へと向かった。
「……あ」
 そこに放置されていたもの。それはまさに、この城を訪れた発端だった。
 悪魔使いである幼女に、瑠璃色の髪の娘がまだ在るはず、と気付かせた媒介(たからもの)
 だからこそ悪魔もこの時に探した。先日までは確かに、瑠璃色の髪の娘が持っていた大切な物。
「やっぱり、母さん……――」
 それをわざわざ置いていく母。母に宿る悪魔の望みも、幼女と同じだったのだと気付く。

 望んでしまえば、苦しめてしまうことを悪魔は知っていた。そうして瑠璃色の髪の娘自身に、この先を選ばせることしかできなかったのだ。

 小さな机の上にある、守り袋の巾着を猫羽は手に取る。
「……あ……」
 手に取るだけで自然と、涙がこぼれた。頬をどんどん温かいものが伝う。
「やっぱり……ここに、あるんだ……」
 小さな巾着を広げてみる。奪われた魂の真の依り代を、感じるだけでなく確かめるために、全てを明るみに晒す。

――つまんない物も入ってるけど、お守りになるといいな。

 今まさに、広い寝台の方では、仔狐を捕獲しようと二人が呼吸を合わせている中で。
 幸薄くも常に微笑んでいられた、瑠璃色の髪の娘を確かに支えてくれたもの。誰かが込めてくれた温かな思いがそこに在った。

――ラピちゃんにいいことありますように。

 その守り袋の中には、上質の天然の琥珀石から造られた、小さな狐の形の厄除けが入っている。
 そこに共に、詰められていた想い。小さく折り畳まれた紙に書かれている文字。薄い針金で綴じられ、開かれた形跡がないので、瑠璃色の髪の娘はおそらく、最後まで気が付かなかった言伝。

――ラピちゃんとずっと、仲良く一緒にいられますように。

 捕まえた! と、槶が歓声をあげた横で――
 瑠璃色の髪の娘はただ、開けた紙を握り締めながら立ち尽くした。


 全く感知できない謎の侵入者に、突然全身の自由を奪われた仔狐は、しばらくじたばたと力の限りに暴れ回っていた。
「ごめんね、怖くないよ! 大人しくしてね!」
「猫羽ちゃん! 捕まえたけどこの仔、どうすればいいの⁉」
 仔狐をなるべく傷付けないために、薄布にくるむ形で捕まえた二人は、寝台の足側にいる猫羽の後ろ姿を必死に見つめる。

「…………」
 鶫達に背を向けたまま、幼女は呆然と立ち尽くしている。
 辛うじて、巾着の中身を元に戻し、決して失くさないように腕に引っ掛けていた。そんな理性だけはそこで取り戻していた。

 そして更に、言葉を話すための意識までもが戻る。
「……離して……」
 ――え? と。かすれてしまった拙い声が、鶫と槶には聞き取れなかったらしい。
 その時不意に、薄布の内の仔狐が、くたっと動かなくなった。それにも気付き、二人は仔狐と幼女を交互に見つめる。

 瑠璃色の髪の幼女は、(うめ)く――ただ、全身を襲う衝撃を堪える。
 体は涙していることも、本来の自身が望んだ心もわからなかった。
 ここに在る記憶が、願い続けたこと。それだけを呪うように、小さくなった声で口にする。

「離して……鶫、ちゃん」
「……え?」
「ちょっと――……猫羽、ちゃん?」
 ゆっくりと、赤い髪の娘と帽子の少年の方に振り返った、瑠璃色の髪の幼女は……。

「私に……これ以上、近付かないで……」
 ただひたすらに、消えない願い。
 切なる己への怒りと、哀しみを湛えた顔で彼らを見つめる。

「……ラピ?」
「……ラピちゃん?」

 仔狐を捕まえれば、瑠璃色の髪の娘に会える、と猫羽は口にしていた。その直観の本当の意味。
 黒い女の介入が弱り、最早誰にも消しようのない(うつつ)。悲しい真実と向き合う時が、鶫と槶に訪れる。


+++++


 ずっと音声を拾っていた、魔界の城の最上階の異変。
 聡明な悠夜は、その変化にすぐに気が付いていた。
「猫羽さん⁉ もしかして、貴女――!」
「うん。ラピスに体、取り返されちゃった」
 PHSから響く呑気な声色の彼女に、悠夜は強く頭を抱える。

「ラピスの記憶の媒介が見つかったから、思わず触っちゃったら……コハクも捕まったから、ラピス、こっちにやって来たみたい」
「それなら今の貴女は、ラピさんの意識があるってことですか⁉」
「うん。もう止まっちゃった時間だけど……今、わたしの躰で喋ったのは確かに、ラピスの最後の心だよ」

 そこにあるのは魂だけで、ラピス本人ではないとも言える。
 それでも訴えられる心は確かに、ラピスのもの、と彼女は伝える。

 鶫と槶に、己が誰であるかを看破されたラピスは、突然脇目もふらずに、扉の鍵を開けて部屋から飛び出していった。
「――何処行くの⁉ 猫羽――いや、ラピちゃん⁉」
「槶はその仔をお願い! ここから動いちゃダメよ⁉」
 わけがわからないながら、何処からか友人がその幼女に憑依した。術師である鶫は悟り、必死に追いかけ始める。
 しかし拙い人間の気配――それも気配を作る心霊の無い相手は、鋭い霊感を持つ赤い髪の娘でも位置を探ることができなかった。
 とにかくがむしゃらに階段を下りていった鶫を、まだ回廊に隠れていたラピスは黙って見送る。

「ツグミ、行っちゃった……まだわたし、上にいるのに」
「槶に伝話します! すみません猫羽さん、しばらくPHSは空けて下さい!」
 それなら同じ階にいる槶に連絡をとる方が良い。世界を隔てた位置にいながら、的確な援助の手を出す悠夜に、彼女はまたも尊敬の嘆息を洩らす。

 悠夜が槶に伝話する間、彼女の意識は、灰色猫とアンテナから伝わる両方の情報を改めて観ていた。
「……狐魄に何をした、アンタ達」
 届き始めた誰かの悲鳴に、銀色の死神は尚更険しく、自らを守る力の制限を解き放った。
「馬鹿、卑怯者、力なんて使うな! 剣士なら剣で闘え!」
 それが死神自身にとても良くない状態であると、多少なりと焦った兄弟子が、あえて罵倒するように声を荒げる。

「あれま。エルちゃん達も随分、苦戦してる模様だねぇ」
「――⁉」
 ざっと大きく、黒い女から距離をとった紅い少女は、息を強く切らしながら黒い女を睨む。
「ラピスちゃん、ちょっとばかり帰ってきたみたいだけど? 水華は話したくはないのかな?」
「うっさいな……今そんなこと言っても、どーしよーもないでしょーが」
 紅い少女にできることは、こうして黒い女の相手をし続け、黒い女による介入を僅かにでも軽減すること。ラピスの友人達が、ラピスに関わりやすくすること、と剣を構える。

「ええ⁉ ラピちゃんまだ、この階にいるの⁉」
 PHSから連絡を受けた槶は、薄布にくるんだ仔狐を大事そうに抱えながら、部屋を取り囲む回廊へと出た。
 そんな帽子の少年を、まるで待ち受けていたかのように――
 方形の回廊の角に隠れていた瑠璃色の髪の幼女が、がばっと槶に襲いかかった。
「――ラピちゃん⁉」
「返して! 狐魄は私のだから、返して!!」
 仔狐を包んだ薄布を掴み、槶から取り返そうとする。瑠璃色の髪の幼女の必死さに、PHSも取り落とした槶が慌てて抵抗する。

 普通であれば、幼い子供の腕力など問題にもならないが、
「ラピちゃん、どうしたの⁉ どうして猫羽ちゃんと一緒にラピちゃんがいるの⁉」
 火事場の馬鹿力に混乱する槶は、何度も仔狐を抱える腕を解かれかける。この相手に手荒な抵抗をできるわけがなかった。
「違う――……こんなの私じゃない!! お願いだから返して、ここから帰って、誰も近付かないで――!!」
「でもそのお守り、ラピちゃんのでしょ!?」
 必死に仔狐を奪わんとする、嘆く幼女の腕で揺れる小さな巾着。贈り主の少年は気が付いていた。
「大事にしててくれたんでしょ!? だからここまで、持って来てくれたんじゃないの!?」

 その媒介をラピスが身辺に置いていたのは短い時間だ。それでも魂と記憶を宿す程に、強い想い入れを受けた依り代。そんなことは露知らずとも、槶はラピスの想いだけを受け取る。

「僕達、ラピちゃんに会いに来たんだよ! 僕も鶫ちゃんも、蒼ちゃんも猫羽ちゃんも!」
「……!!」
 瑠璃色の髪の幼女の片腕を掴み、深い青の目をまっすぐ見て叫ぶ。真摯な少年に娘は双眸を(みは)って声を詰まらせる。

 突然PHSから応答が途絶えた悠夜は、何度も槶に呼びかけていた。
「槶!? 槶ってば! もう――どうしたっていうのさ!」
 仕方ないので通信を切り、PHSの主に呼びかける。
「今、どうなってるんですか、猫羽さん!?」
「……ラピスがクウから、コハクを取り戻そうとしてる」
「槶は無事なんですか!?」
「うん。兄さんはソウが止めてくれてるし、ラピスにクウを傷付ける気はないもの」
 そこではた、と悠夜は大切なことに気が付く。
「鶫ちゃんはどうしたんですか!? まだ戻ってない!?」
「わからない……ツグミだけは、何も持ってないから……」

 現在体を使えない彼女には、目前の状況以外、アンテナやPHS、灰色猫に憑く悪魔から届く情報しか把握できなかった。
「じゃあラピさんは狐に戻れなければそのままで、猫羽さんは外に出られないままですか!?」
「そうかもしれない。困ったね、ツグミを探せないね」
 あっけらかんと答えるPHSに、それだけじゃないです! と怒ったように悠夜が応答する。
「狐を渡せばラピさんはまたいなくなっちゃうし、でも渡さないと猫羽さんが消えちゃうじゃないですか!」
「……何で? わたしは悪魔を使えば違う依り代で動けるし……ラピスがそうしたいならそれでいいよ」

 その躰に彼女が在る以上は、存在を保つことはできる。ただ活動媒体が変わるだけ、と悪魔使いは達観したものだった。
「何か違いますそれ! ラピさんも猫羽さんも幸せじゃない気がします!」
「そうなのかな……うーん……」
「それにみんな哀しみますよ! とにかくまず今のラピさんを止めないと!」

 思わず悠夜は、魔界の扉に入るために、自分の代わりに扉を守る仮初めの使い魔――式神を創ろうとしたが、
「……って、着信!?」
 槶の改めての連絡に、慌ててPHSを本来の機能に切り替えていた。

「悠夜君!? 僕だけど、ラピちゃんが上に逃げちゃったから追いかけるね! 鶫ちゃんや蒼ちゃんには心配しないでって伝えて!」
「上……ってまさか!?」
 その上は屋上とすぐ思い至った悠夜は、逃げた者の意図を考えて血相を変える。
「大丈夫だから二人で話させて! ラピちゃんは猫羽ちゃんを傷付けるようなことは絶対しないよ!」
 それは確信を持って伝えると、槶は通信を切った。瑠璃色の髪の娘の後を追ったらしい槶に、悠夜は魔界入りを思い止まったのだった。



 その長い階段を、幼い体で必死に駆け上がる、瑠璃色の髪の娘の息苦しい胸には――
 ただ一つの、最後の心が、繰り返し娘を追い立てていた。

――私なんか……。
 魂だけが映す心は、その記憶と理性にのみ支配される。
――私なんか、消していいから……。
 独りきりで消えることを、本当は拒んでいた心。最早掬うことはできなかった。

――誰にも知られずに……消えることができれば……。
 ただそれで、娘は良かったのだと――
 娘自身、最後まで気付けなかった、ある間違いを願い続ける。

「……でも、ラピス……」
 娘の内に潜む彼女は、その間違いを間違いと知らなかった。
「死んだら……ずっと、独りだよ……」
 消えた相手の、真の望みだけを汲み上げて言う。確かに彼女が味わってきた、救い無き暗闇の世界をぽつりと呟く。

 目を覚まさない仔狐を大切に抱え、槶が紅い空の下へと辿り着いた。
「……ラピ、ちゃん?」
「…………」
 四方を柵の無い縁に囲まれる屋上。端側に俯きながら立った、瑠璃色の髪の娘。
「……もう……ここには来ないって約束して……くーちゃん」
 その幼い体に舞い戻ってから、初めて少年の愛称を口にする。
 顔は全く上げないままで、槶のそれ以上の動きを、次に続く言葉で封じた。
「これ以上近付いたら……私は、このコのことを殺す」
 それを口にする程、娘が追い詰められている現実。
 槶はただ、悲しげに立ち止まり、じっと瑠璃色の髪の娘を見つめる。

「このまま帰れば、くーちゃん達は……元通りだから」
「……え?」
「私のこと――……みんなには、忘れてほしいの……」
「……そんなの、おかしいよ――……ラピちゃん!?」

 槶はただ叫ぶ。そこにある取り返しのつかない大きな間違い。その救いを受け取ってしまった者の名を、全ての制限を振り切って呼ぶ。

「忘れることなんてできないよ! ラピちゃんは確かにずっとここに――僕達と一緒にいたのに!」
「でも私はそうしたい――……私は、ここから消えたいの……」
「どうして!? 何でそんなこと言うの、ラピちゃん!?」

 顔を伏せて口を引き結ぶ瑠璃色の髪の娘。
 それを尋ねる槶の顔を見られず、俯くしかないように震え続ける。

「私は……くーちゃん達に、おかしいって思われたくない」
「……ラピちゃん……?」
「くーちゃんみたいに笑っていたい……くーちゃんにもずっと、笑っててほしい……」
 それが娘を、長く支え続けた心。娘と同じく血縁が無く、それでも明るく強く――優しく生きる少年への想いだった。

「私はただの人間だから……みんなの足手まといだから……」
 たとえ自らが死者であると、思い出せなかった忘却の日々にも、
「いつか……くーちゃん達とは、一緒にいられなくなるから」
 その思いは常に、優しい混血達に囲まれる娘は忘れられなかった。

「いつか消えるなら……私が消えたって、くーちゃん達には、ずっと気が付かないでいてほしい……」
 優しい彼らが何一つ、気に負うことが存在しない。そんな別れを娘は願う。
「またいつでも……会えたら笑ってほしかったの……」
 その気軽さが続くことが、たった一つの望みだった。

 君にはわかるでしょ? と。
 空ろな黒い女は、肩で息をする紅い少女に悲しげに笑う。
「君があえて、失われた水華を再現するのは……水華がもうここにいないって、知られたくないヒト達がいるからだよね?」
「……」
「そのヒト達と共に在る間だけでも、人形になり切れれば。君の望みも叶うし、そのヒト達の悲しい顔も見ないで済むしね」

 何を意固地になっているのか、と、その兄弟子は静かに尋ねた。
「オマエが守るべきものは、別にあるだろ? ここで倒れて俺を止められたところで、それが何になるんだ?」
「……」
 ぎり、と。動ける限界はとっくに過ぎていた銀色の死神は、それでも鳴り止まない悲鳴に耳を塞げなかった。
 それなら自らの命に換えても、悲鳴の主の望みを叶えることが、とっくに一度破綻した死神の末路だった。

 ……そこで新たな、誰かの悲鳴。
 時間の止まりかけた銀色の死神に、小さな鳥の声が届くことがなければ。

 馬鹿馬鹿しい――と。
 紅い少女はあっさり、黒い女の感傷を否定するように言った。
「別に、水華はずっとここにいるし……本人が外に出られなくなっただけだし」
 既に光を失った羽。しかしそれをずっと、紅い少女は留めていた。
「あたしは正直、このあたしをやるのが一番楽しいけど。でもそれだと――キャラが被るでしょ?」
 普通は視えない透明な羽をはためかせつつ、黒い女をつまらなさげに見返す。

「あたしと水華が別人なのは変えられないし。最初に生まれたあたしは今の水火だったし……それなら別に、状況に応じて使い分ければいいだけじゃない」
「……使い分けれてるかな? 君は無意識に、水華であるな、と自分を抑えてるんじゃない?」
「……」
 だから、周囲が真に望む時にしかその姿を現さない。
 紅い少女が自らに課す制限を、とっくに知っていた黒い女が笑う。

「別人であることを示さないと……水華が消えると思ってるから」
 その二人の少女の差異が、一見あまりに大きいために、
「水華の力も使いこなせない自分が、水華だと思いたくないんだよね」
 それは別のものである、と、互いを残したい願いを叶えるために。

 でもね、と。鋭い霊的な感覚を持つ女は、既に気が付いていたある真実を口にした。
「君のその羽は……確かに君のものなんだよ、水火」
「……?」
「命の無いその体に、君の羽が植えつけられて……それで体に心が生まれたのは、羽がその体に合ってたからだよ」

 そうでもなければ、羽が光を失った後も活動を続けることはできない。人造の生き物である少女に宿った、確かな命の在り処を伝える。
「君は羽に操られていた人形であると同時に――その羽の主の、生まれ変わりなんだよ」
「……――」
「魔である体を守るため、新たに生まれた魔の心が君なだけで。君達は同じものだから……別に、キャラが被っていいんだよ?」

 だからただ、羽が光を失ったのは、以前の記憶を失っただけ。
 必要であればその「力」も、紅い少女は再び受け継げるはずだと、楽しげに黒い女が微笑んだところで。
「……バカバカしいったら」
 同じくらい楽しげに、不敵に微笑んだ紅い少女が、ずっと構える白い三日月の柄の剣に限界の近い力を込める。
 ちょうど同じ頃、馬鹿馬鹿しい、と――全く同じ台詞を、同じ剣士である蒼潤が口にしたことを、知る由もないまま。

「やめだ、やめ。余所が気になってばかりの奴と、真面目に闘うのは時間の無駄だ」
「……」
 何が起きたのか、銀色の死神は明らかに集中力の低下を来たした。蒼潤が肩を竦めて刀を仕舞う。
「……」
 銀色の死神自身、何故その、見知らぬ相手の小さな悲鳴――何処かのトラップに引っかかった誰かが、そんなにも気になるのかがわからず、不服げながらも剣を収める。

「……アンタ達は、これからどうするんだ」
「――?」
 悲鳴のした部屋に向かうため、蒼潤に背を向けた死神は、最後にそれだけを静かに尋ねた。
「狐魄を……連れていくのか」
「さぁな? その辺りは俺にはさっぱりわからない」
「…………」
 この後はただ、同伴者と合流する予定の剣士に、死神は暗く澱む赤い目を僅かに揺るがせる。

「……早く……仲間を連れて、ここから帰れ」
 既に感じ取り始めていた末路。仔狐の昏い願いの行き先に小さく息をつき、その場を後にしていた。


 ……終わったよ、と。
 今もはらはらと、中継を続ける悠夜に、不意にその終止符は告げられていた。
「……ソウが勝って……兄さんが、ツグミを探しにいったよ」
「――本当ですか!?」
「水火も頑張ったよ……なるべく時間、引き延ばしてくれた」
 そのために彼らが十分に話をできたこと。ただ、感謝する声で呟く。

 PHSの小さな画面の中では、音声までは拾えないものの、紅い少女が座り込んでいる。それに代わるように、紫苑の髪と目をした男が、黒い女に両端に鎌がつく武器を突きつけていた。
「……いい年して、子供、苛めんな」
「失礼な。剣士相手に長物を取り出す鬼に言われたくないです」
 元の他称は、戦う武器職人だった男。体の不調を押しつつ自らの武器を久々に取り出し、さすがに疲れが来ていた黒い女を、そのまま牽制し続ける。

「全く……烙人の助けが入るようじゃ、あたしもまだまだだわ」
 くすり、と全身から力が抜けた顔で、哀しく微笑む紅い少女だった。

 様々な場所で、小さな闘いが終わっていく中で。
 屋上で俯く瑠璃色の髪の娘に、槶はどう声をかけて良いかわからないように、ただ素直な想いを口にしていた。
「……ねぇ。僕達と一緒に……ジパングに帰ろう、ラピちゃん」
「…………」

 それができれば、苦労はしない。死者の娘は俯く。
「……もう、くーちゃん達の知ってる私は、ここにはいない」
 僅かにだけ顔を上げ、槶が抱える仔狐をじっと見つめた。

 それでもあくまで、魂だけの娘は事の次第を口にしない。
「くーちゃん達とは、ずっと一緒にはいられないから……」
 既に時の止まった心は変えられず、同じ願いだけを言う。
「そんな私なんか――……もう、消えちゃえばいいの……」
 何よりも、消え残るこの無様な姿を忘れてほしい。ここに躰が残る限り、それは叶わないのか、とゆらりと地上を見下ろしてしまう。

 けれど槶は再び――どうして? と。
 困ったような儚さで、俯く娘に笑いかけた。
「それって……僕達とずっと、一緒にいたいってことだよね?」
 取り返しのつかない、娘の間違い。今も気付くことができていない娘。
 だから槶にとっての真実を、泣き出しそうな笑顔で伝える。

「僕達の知ってるラピちゃんが、もういないって………だから僕達に、忘れてほしいって言うなら……」
 いつか必ず、消える身であるなら。せめて、消えたことに気付かないでほしいという望み。
「それならラピちゃんがいないことを……無かったことにしたいんでしょ?」
 その結果は、消えたいという願いとは真逆。空ろでも生を(のぞ)む心のはずだ。
 有り得なかった夢が続くことが、娘の本当の望みなのだと。

 俯いたままの娘は、廻り続ける願いを不意に停止させる。
「そんなの僕にはとっくに、無かったことだから……」
 ある昏く赤い夢を忘れ、今もそこに立ち続ける少年が笑う。
「どんなラピちゃんだって……帰れるなら、一緒に帰ろうよ」
 それでも今の、仮初めの娘が消える真実は無意識に悟った。腕の中の仔狐を、大切に守るようにぎゅっと抱き締める。

 止まってしまった願いの隙間。そこにするりと、素直な希みが入り込んだ。
「ずっと一緒がいいって、ラピちゃんが思ってくれるなら――」
「……――」
「それなら僕と……ずっと一緒にいてくれる?」
 心からの笑顔で、少年はそう朗らかに口にした。
 その顔を娘は見てしまった。安らかでとても幸せそうな者を。

 ずっと、一緒に。
 そこでぼふっと、娘が全身で赤面する。

「……何だ? 熱でもあるのか、猫羽?」
 灰色猫に連れられ、屋上まできた蒼潤の前で、真っ赤なまま突然倒れ込んだ瑠璃色の髪の幼女だった。


+++++


 それから、最上階の寝所に待機していた一行の元へ鶫が帰ったのは、かなり時間がたってからだった。
「……どーなってるの、コレ?」
 鶫が絶句した通り、そこでは異様な光景が鶫を待ち受けていた。

「良かった。ツグミ、ケガはない?」
「猫羽ちゃん……体は大丈夫なの?」
 うん、と頷く猫羽は、灰色の猫のぬいぐるみを抱え、すっかり元通りだった。
「ラピスも帰ってきたよ――ツグミ」
 喜んでいる視線の先には、寝台に座る槶の隣に、無表情でぴたりと首に手を回してくっついている白い娘。薄い琥珀色の狐の耳と尻尾を生やす、謎の着物の人影があった。

「……やっぱり、あれ、ラピなの?」
 唖然としている鶫を、無表情にキョトン、と白い娘が見返す。友人と生き写しで髪が白、目が紅と、色合いが全然違う姿。狐魄と呼ばれる狐娘に、鶫が何とか現状を受け入れる。

「全くだ。魔界なんて行くから、ラピもラピ狐になるんだろ」
 長椅子にどん、と座る蒼潤は、蒼潤なりの解釈を既に適用している。槶も苦笑しながら、知るだけの状況を伝える。
「コハクちゃんだけだと、ラピちゃんの記憶はないみたい……それは帰った後に悠夜君と相談してみなさい、ってラピちゃんのお母さんが教えてくれたよ」
「……そうね。多分今のこのコ、真っ白な使い魔みたいな感じ。その分色々、正直になってるみたいだけど……」

 ぴったりと槶にくっつき、無表情でも満足そうな狐娘に、鶫は良くも悪くも気が抜けていた。
「何かでも……幸せそうね、ラピ」
「うん。思い出したら辛いだろうって、母さんは言ってた」
 心無きままの魂には重過ぎる、とあえて離された記憶。その在り処の小さな巾着を腕にかけながら、猫羽は呟いていた。
「でも……思い出した方が幸せなことも、一杯あると思う」
「そうだね。僕もできれば思い出してほしいな。ラピちゃんとまた話したいし、みんなで遊びたいしさ」
 ……と、鶫が痛ましげにするのに対して、槶は苦しくも楽しそうに微笑む。

「魔界を出たら、コハクちゃんも狐に戻るんだって」
 (あるじ)となった槶に、その魔を普通の場所で人型に保ち、使役することは難しいという。
「それなら常時もふもふだね。肩乗りで毛皮だよ、温かいよ♪」
 心から嬉しそうな槶に安堵しつつ、苦笑った鶫だった。


 やがて、一行が連れて戻って来た仔狐に、大体の事情はわかりながら、悠夜がしばらく難しい顔をして考え込んだ。
「ラピさんの心を……この仔に戻すかどうかってことだよね?」
 瑠璃色の髪の娘だったものはここにいる。仔狐となってしまった友人を、一行は戸惑いながらも真剣に囲む。

 昨日のように、紅い少女の部屋に集まった一行は、ベッドで寝ている水火を起こさないように小声で相談する。
「大丈夫だよ。水火は起きても怒らないし、一度眠れば、いつも全然起きないし」
 猫羽は黒いリボンを外して髪を下ろした。小さな巾着の飾り紐になるように取り付けながら、同室者に対して遠慮のないことをあっさり口にする。

 襟巻のような薄い琥珀色の仔狐を、槶が肩に乗せている。「ずっと一緒にいる」、そう約束して、城主から仔狐をもらい受けてきたのだ。
 待っていた悠夜は躊躇いがちに、考えていたことを口にする。
「戻るか、戻らないか。それはラピさん自身に、選んでもらえばいいと思う」
「――と言うと? 悠夜君」
「槶にラピさんがいる所を教えるから。それで、直接きいてくるのはどうかな」
「悠夜……それって……」
 仔狐が現状に至った理由の詳細はわからない。それでもその中身が、この世界にないことを確信している鶫が眉を顰める。
「それがいいだろ。結局ラピ狐の問題だしな」
 それでも淡々と言う蒼潤に、確かにそれ以上は難しい、と項垂れる。

 少年少女達を覆い続けた違和感は、今は在っても無くても問題ない状態となっていた。たった一つの内容――瑠璃色の髪の幼女の正体以外に制限は受けず、一行は相談を続ける。
「僕もそれでいいよ。ラピちゃんが嫌がることはしたくないし」
 肩の襟巻をさわさわ撫でながら、槶は笑って言う。
「ラピちゃんの『嫌』は当てになんないから、難しいけどさー」
 それはおそらく、娘自身もわかっていないこと。だから出たところの勝負にしかならないだろう、と。

「……多分、今度会うラピさんは、何も嘘はつけないと思うよ」
 そこに在るのは、何にも飾られない心そのもの。降霊術をこなす術師の子供はそんな特性をよく知っていた。
「良くも悪くも……本当の気持ちを教えてくれるよ」
 それがどちらに転ぶことになるか。確かに安らぎを得たはずの相手に、面持ちを少し硬くする。

「……クウ。これ」
 猫羽はベッドから降り、くいくいと床に座る槶の服を引っ張った。
「え? これ、どうするの、猫羽ちゃん?」
 そのまま渡した守り袋。黒いリボン付きでペンダント化した小さな巾着を、不思議そうに槶が見つめる。
「……受け取ってくれそうなら……ラピスに返して」
 「神」の残滓を宿し、幼い子供に「忘失」の「力」を与えた黒いリボン。そして仔狐の記憶を宿す琥珀石を、惜しげなく手放した猫羽だった。

✛終幕✛

 夜が遅くなってしまったものの、二度も泊まるには着替え等の問題もある。
 暗い川辺で、少年少女達は帰路についた。
 花の御所に滞在する目的は果たしたものの、挨拶も何もしていない猫羽も、鶫に優しく手をひかれて御所へと向かう。青白い月夜に、髪を結ぶ黒いリボンがなくなったので、長い瑠璃色の髪がさらさらと風に揺れていた。

「ねぇ……ツグミはずっと、何処をさまよってたの?」
「さぁね。結局アイツ、最後まで私に気付かなかったし」
 魔界の城で一時期はぐれ、一番後で戻って来た鶫。
 連れ戻してくれた死神のことを、思い出す度に不服気に息をついているのだった。
「ごめんね……兄さん、知ったら絶対怒るから……」
 その死神の暗幕を解除しなかった猫羽は、謝ることしかできなかった。

 しかし鶫も、そこで困ったように笑った。
「無理もないわよね。色んな心配事や辛いことがあり過ぎるから……これ以上負担かけるのも、今はきついだろうし」
 猫羽の判断は正解、と返す。鶫が誰かわからないことで、かえって気楽に話していた死神を思い出して苦笑っている。

「ラピのこと……アイツ、落ち込んだんじゃない? 猫羽ちゃん」
「…………」
 前を行く少年達の後ろ姿を見ながら、鶫もぽつりと呟いていた。
「私は正直――どう受け止めていいのか、今もわからなくて」
「……」
「何があったかもわからないし……このまま、今までのラピにもう会えなくなったら……何かを後悔する気がする」
 その相手が、現状に至った理由。直接手を下した者のことも含め、それだけは口にできない状態が維持されていた。

「槶に任せるしかないけど。何もできない、言えないって嫌ね」
「……もう、それは届いてると思う、ツグミ」
 鶫達のその温かな心で、どれだけ相手が救われていたか、猫羽は知っている。
「何かやろうとしたら……わたしや兄さんみたいになるから……」
 だからそれはお勧めしない、と無機質に口にする。

「猫羽ちゃんやユーオンは……これで良かったの?」
 これ以上を望むのか。それを含めて、真摯な目で赤い髪の娘が尋ねてきた。
「兄さんは――わたしやラピスが幸せなら、元気になると思う」
 だから現状ごと変えたかった幼女は、どんな形でも良い、と笑う。
「兄さんのことは、変えられないけど……ラピスも同じ思いでわたしを助けてくれたから。だからわたしも、ラピスに会いたかった」

 その我が侭に、ここまで付き合ってくれた温かな者達。
 自ら咎人を手にかけた後、その罪を引き受けた彼女はまっすぐに見上げる。

「ありがと、ツグミ。ツグミ達のおかげで、諦めずに済んだよ」

 幼女の兄とよく似た、何処か儚い顔で微笑む彼女に――
 赤い髪の娘は青白い月光を背に、私こそ、と静かに笑った。


+++++


C3 Cry per S. -sin eating-
千族宝界録 Atlas' -Cry-
~罪喰い人~

初稿:2015.7.1
修正:2020.2.24

-at that time-

 ある天上の水辺に、一人の少年が降り立った時。
「……来て、くれたんだ……」
 少年を、一人きりを選んだ娘が出迎えたのは、まるで運命の時を待っていたかのようだった。

 何人も留まることのない、一人きりの白い此岸。そこに降り立った少年が笑う。
「ここでずっと……待っててくれたの? ラピちゃん」

 それがどれだけ、長い時となったとしても。一目でいいから、と望んだ娘。
 人ならぬ深い青の瞳の中で、薄い琥珀色の襟巻を着ける少年が儚く笑う。

 どこにもいけることのなかった娘は、泣き出しそうな顔で微笑んでいた。
「……連れていって、くれるの?」
 そのためにこの少年が現れたこと。
 そして咎人の娘と、共に在りたい、と願ってくれる少年が手を差し伸べてくる。


 少年は、娘の大切だったものを、娘に返すことで受け取る。
 その後に一つ、命に刻まれる言葉を口にした。

「ずっと、一緒にいてくれる?」

 娘はただ、嘘偽りの無い心で、それに応える。

「……くーちゃん……大好き……」

 何よりも求めていたもの。少年の笑顔を映し続けていく。


The End of Atlas' -Cry-.
Many thanks for your visit.

†余話:strayer

†余話:strayer

 八歳の頃からの友達が、「魔界」に行ったという話を聞いた時から、呪術師である鶫は嫌な予感を隠せなかった。
 神童と言われる従弟程ではないが、強い霊感が鶫にはある。呪術という魔道を修める上で、ヒトの業を知識だけでも嫌という程学び、そして感じてきた。

「離して……鶫、ちゃん」
「……え?」

 友達が元気であるか、ただそれを確かめるため、魔界という異郷に足を踏み入れた。
 そこで目にした瑠璃色の髪の友達は、おそらく最も悪い予感に近い姿だった。

「……これ以上、近付かないで……」
「……ラピ?」

 初めて出会った頃に近い顔で、昔と似た言葉を口にする。
 切なる怒り――哀しみを湛えた顔で見つめる。

――私なんかと……仲良くしない方が、いいよ。

 その当時はもっと、トゲトゲと拒絶された気がする。
 幼い鶫と従兄、街の少年への彼女の態度はそれだけ訴えたかったのだと、彼らは無意識にわかっていた。


+++++


 鶫の家である「花の御所」の、人の出入りの少ない書庫で。ある本を最初に見つけた剣士の従兄が、難しい顔で真っ先に口にしていた。
「ふむ。魔界に行くと、誰でも悪魔になるって書いてあるな」
「それ! 貸してその本、(そう)!」
 過去にそうした知識も、一通り鶫は教えられた。それ以上の解読を諦めた蒼潤から本を受け取る。

「悪魔になっちゃうってどーいうこと、蒼ちゃん!?」
「鬼やら魔物やら妖獣やら……カタチは色々あるみたいだが、そいつらしい姿になるみたいだ。そうなる奴ばかりじゃないが、なる確率の方が高いみたいだな」
「じゃあラピちゃん、ひょっとして悪魔さんになっちゃうの!? どーなんだろ、鶫ちゃん!?」
 書庫までついてきた街の友人、帽子の似合う白金の髪の槶が蒼潤にしがみつく。鶫は冷静に、手にした本の内容を確かめていく。

「……」
 努めて冷静に、古書の内容を目だけで追う。読んでいて良い記憶はなかった(まじな)いの本。
 呪術は本来、攻撃性の低い霊能を無理に戦闘向きにした魔道と言える。念の強さを糧とする術は、「魔」と非常に近縁にあると記されていた。
 誰もが見下げ、蔑む存在である「魔」。その本質は、ヒトの望みを叶えるために存在するものであり……それなら何故蔑まれるのかが、そこには書いてあった。

「『魔はヒトを糧とし、ヒトの形に留まらず、ありとあらゆる手段を以て、ヒトの望みを叶えるものである』……要するに、願いを叶えるためにどんな怪物にもなるし、どんなことでもするイキモノになります、って書いてある」
 そうした本性を顕わにする世界が魔界であると、難しい顔をしながら言う鶫に、一応一般人の槶は震え上がった。
「じゃあ下手したら、ラピちゃん今頃怪物さん!? どうしよ、会った時にわからなくて無視しちゃったら傷付くよね!?」
「落ち着けよ。そいつらしい姿になるなら、ラピならそんなに酷いことにはならないだろ」
 自然に冷静な夕陽色の鳥頭の従兄は、意思の力が己の姿、在り方を左右すると実感があるようだった。また己の周囲の者についても、簡単に自らの形を失ったりしない、と信頼しているのだ。

「逆にユオンの方が心配だ。アイツすぐ、周りに影響されるし」
 同じ剣の師につく弟子であり、瑠璃色の髪の友達の兄貴分について口にする蒼潤に、鶫も全く同意で強く頷いていた。
「ラピはああ見えて頑固だしね。ユーオンなんかは……悪魔になったらなったで、別にいいや、って割り切っちゃいそう」
 蒼潤と槶は、確かに、とそこで揃って頷く。

 ただし鶫は、その瑠璃色の髪の友達の、昔からの弱点も知っている。唯一それだけは、ずっと気にかかっていた。
「……人間やめたいとか、ラピなら言っちゃいそうだけど」
 弱いものを疎む心。それ故に、時に自らを拒む哀しい相手を。

――私なんか――……消えちゃえばいいの……。

 友達がどうしてそんな風に思うようになったのか。
 出会った時からそうだった、としか、鶫には言えなかった。

「ラピ……! 待って、何処――!?」
 目指す者がもしや、多少の「魔」になっているかもしれない。彼らも少しは覚悟して魔界を訪れていた。
 それでも一緒に連れて来た友達の妹に憑依するという、予想を遥かに超えた現れ方には正直動揺した。瑠璃色の髪の友達は逃げるように、その城の最上階から駆け出て行ってしまった。

「ここで見失ったら、もう――」
 とにかく追いかけて出たものの、茫然としている鶫は普段の冷静な思考ができない。気配もわからないまま当てずっぽうに階段を駆け下りる。
「もう――……何だか、会えない気がする……!」

 相手が幸薄い生い立ちであることは、ずっと感じていた。
 それを覆す程、現在は優しい環境に恵まれており、特に鶫も顔見知りの養母は養女を大切にし、こんな親バカなら素敵だと思う母親だった。
「ユーオンも流惟(るい)さんもラピも、みんなどうなったの……!?」
 最初に来た回廊まで降りた鶫は、すっかり友人を見失ったと認めるしかなく、気を取り直して一旦立ち止まった。

 鶫がいる南の回廊とは対極の、北側で激しい剣戟の音が響いている。
「あのバカ。もう既にボロボロじゃないの」
 そこで闘っているはずの、銀色の髪の少年。若くして達人の域に達する剣士の従兄に、大きく苦戦しているのを感じ取る。

 この城で友達と会うために、捕まえることが必要と言われた仔狐を、銀色の髪の少年は守ろうとしているらしい。普段は金色の髪をしており、余程のことがない限りは、命を削る銀色の髪にはならない。それだけ少年は本気で闘っている。
「でも……蒼に任せておけば、大丈夫そうかな」
 だから今、銀色の髪の少年が消耗しているのは、蒼潤と闘っているからだろう。そう判断した鶫に余計な心配をかけずに済んだのは、銀色の髪の少年には幸いなことだった。

 どうして銀色の髪の少年が闘うか、鶫は今もわかっていない。
 何故瑠璃色の髪の友達が現れ逃げたのかも、何もわからなかった。
「これ以上……追いかけた方がいいのか、どうか……」
 どうすれば彼らの力になれるか、ただ、混乱していた。

「……一度、悠夜に相談してから、上に戻った方が良さそうね」
 この城に来た転位の扉が近くにあった。その扉――ある客間の洋服箪笥を目指し、鶫は部屋の一つに入った。

 入ってきた時にも思ったことだが。その客間は非常に明るく、花付きの紐で可愛く飾り立てられ、とても悪魔の城の一室とは思えなかった。
「えーっと……どの箪笥だっけ?」
 クローゼットも全部で三つあり、蔦のような桃色のバラの花の飾りがあしらわれ、似たり寄ったりの様相をしている。
「これだっけ?」
 まさかそのような所に、可愛いものが大好きでお洒落な部屋の主の、趣味の罠が仕掛けられているとは。まだ混乱が残る鶫は、警戒することもできなかった。

 両開きの扉を開けた瞬間、まるで扉から手が生えるように、引き込むような強風と黒い光が鶫を捕えるように出現した。
「……え!?」
 それと同時に、底抜けに明るい幼げな声が場に響く。

「禁断の扉にようこそ! 此処こそはリリトちゃん屈指の秘境、無限の可能性を秘めたコスプレ王国なのです!」
「えええええ!?」
「イタイケで可愛いお嬢様、一名様ご案内~!」
 嘘!? としか、叫ぶ間もなかった。何が何やらわからない内に、鶫の意識は突然遠くなってしまい――

 後には、ぱたん、と扉を閉じた、クローゼットが残るのみだった。


+++++


 居候をしていた金色の髪の少年に出会ったのは、約半年前だった。
 その頃の鶫は、瑠璃色の髪の友達と金色の髪の少年が、養子の兄妹ということは知らなかった。

――オレはどこかで……ツグミに会ったことがある気がする。

 今思えば、現状把握に優れた勘を持つ少年が、そんなことを口にしたのは――瑠璃色の髪の娘という、同じ知り合いの存在を感じていたのかもしれない。夢現にふと思い出していた。

――オレはツグミと一緒の方がいい。
 金色の髪の少年はそんな、真意のわかりにくいことを度々口にする。これまで鶫は振り回されつつ、話半分に流すのが常だった。
 その反面、滅多に喋ることのない銀色の髪の少年は、何かを話す時には実に率直だった。
――殺さなくちゃいけない奴がいるんだ。
 それでも率直なわりに言葉足らずで、結局理解に難渋する。
――殺さないと、あいつは連れていかれる。
 それが誰のことだったのか。今の鶫には少しわかる気がした。

 謎のヒト喰いクローゼットに取り込まれ、意識を失っていた鶫が目を覚ましたのは、それからわりとすぐだった。
「――あれぇ? もうお気が付きぃ? 謎のお嬢さん♪」
「……へ?」
 真っ暗な部屋の中で、唯一寝台の灯りだけが妙に明るい。枕元に大量のバラの造花がまかれ、柔らかくて広い寝台に鶫は横たえられていた。
「って……!?」
 隣で寝転んで肘をつき、覗き込むようにしていた幼げな誰か。鶫には見知った相手が笑う。
「誰か全然わかんないけど可愛いーっ! 絶対あなた、可愛いヒト間違いなしだぁー!」
 がばっと幼げな誰かが抱き着いてくる。鶫がそれ以上言葉を口にするのを物理的に封じ込めてしまう。

 この悪魔の城に潜入するにあたり、鶫達は、存在に気付かれるそばから忘れられ、気にされなくなるという、特殊な結界に守られている状態だ。それについて一応、目前の誰かは感じ取っているらしい。
「この、弱小ながら超上級悪魔たるリリトちゃんすら誤魔化す力なんてぇ♪ でもとりあえず可愛いっぽいから許すぅー!」
――こ、このヒト、まさか……!?
 誰かは鶫がそこにいることは辛うじてわかるが、それが顔見知り、とまでは思い至れないようだった。

「写真とったらさすがに残るかなぁ、誰かわかんないけど一番可愛いの着せたげたいなぁ♪ さぁさぁ、言うことをきくのだー!」
「ちょ、ちょっと……!」
 腕の中でジタバタと暴れる鶫を、身長が低く見た目も年下そうな幼げな相手は、いともあっさり組み伏せている。そのまま鶫の着物の細帯をひらりと解いてしまった。
「リリトちゃんの別荘に侵入して、秘蔵箪笥を覗いた罰だぁ! あなたは今から、リリトちゃんの着せ替え人形なのォ♪」
「えええええ!?」

 暗い部屋の明るい寝台で、爛々と目を光らせる部屋の主は、鶫が一時加わらせてもらった旅芸人一座の一人。ふわふわな髪で人形のような可憐さの幼い花形だった。
――何で――(るん)さんがここに!?
 今まさに間着(あいぎ)の襟を開き、鶫から着物を脱がさんとする力は並々ならず、さすがに心底の危機感が生まれる。
「や、やめっ……!」
「やめなーいっ! 抵抗するなら眠ってもらっちゃうぞ♪」
 相手の縄張りであるためか、呪術師である鶫の力も使えなかった。他に身を守る術としては、殺傷能力の高いものしか持たない鶫が、知人を相手にその使用の判断を迫られた……強い葛藤の直後だった。

 バタン、と大きな音をたてて、鍵のかかった扉が蹴り開けられた。
「……そいつに触るな……淪」
 扉の外の明かりを背に、何故か、従兄と闘っていたはずの銀色の髪の少年がそこに立っていた。

 ぴたりと――……鶫を押さえつける力を和らげ、部屋の主の花形は開かれた扉の方へ振り返った。
「きゃぁぁ、今日は時雨ちゃん出てるんだ、レアキャラだぁ♪ どーしたのぉ、ついにるんと遊んでくれる気になったぁ?」
 あまりにあっさり鶫を解放し、ベッドからぴょこんと飛び降りる。暗い中でも足一つ踏み外すことなく、銀色の髪の少年の元へと駆けていった。

「……あんたは元々、レンの彼女だろ」
 とても嬉しげな花形に対し、少年は無表情に、冷たい青の目で抜き身の剣すら手にしている。
「やぁーん、そんな冷たい時雨ちゃんがやっぱり超好みぃー! せっかく時雨ちゃん出てるなら寄ってってよ、休暇中だけでもいいから遊んでよう♪」
 寝台に残された鶫が慌てて着衣を直している間に、今度は銀色の髪の少年にくっついているらしき花形だった。

「…………」
 少年は無言で、くっつく相手を引きはがしたらしい。暗い中で寝台の方に近付く少年の後ろ姿に、ちぃっ、と声がかかる。
「時雨ちゃん絶対押したら落ちるし! 今度こそ見てろぉ!」
 少年を止める気のなさそうな相手は、捕らえた娯楽を失ってでも、少年に悪印象を与えたくないようだった。

「……」
 寝台の脇まで来た少年は、回廊で蒼潤と闘っていた時には身に着けていた黒いバンダナをしていない。思わずほっとした鶫が知るままの、冷徹な銀色の髪の少年だった。
「……やっぱり……さっきの奴らの仲間か」
 しかし少年から鶫は、結界の存在のために、いるのはわかっても知り合いとはわからないようだった。

 それなら何故……と。鶫は寝台に座り込んだまま、銀色の髪の少年を不機嫌な気分で睨む。
「……私に何の用があるの?」
 鶫が誰かわからないなら、従兄と闘っていた少年がどうして、ここまで来てくれたのかがわからない。助けてくれた、と思っていいのか混乱してしまう。しかもそれは少年も同じようで、さぁ? と無表情のまま、無責任に首を傾げていた。

 そうした無自覚で、危うい相手と知ってはいたが、元々言葉数の少ない少年は不意に、鶫の手をフっと掴んだ。
「最上階まで送るから、さっさと帰れ」
「え!?」
 強引に鶫を引き起こすと、ぶうぶう言っている花形の前を通って部屋を出た。
 突然手をひかれてわたわたとしてしまい、鶫は何も言えない。
「あんたの仲間はそこにいる……狐魄もそこにいる」
 そこまでの動きは全く自然で、抗う余地も隙もなかった。

 そこはどうやら、城内ではかなり下の階層であるらしい。
 部屋を出てからは、鶫の動揺を感じたのか少年はすぐに手を離し、ついてくるよう黙って背中で促して歩き出した。
「……どうして?」
 今度は鶫は、はっきり言葉に出して尋ねた。
「私達は侵入者なのに……助けるの?」
「……」
 少年は立ち止まると、ちらりと鶫の方に振り返る。

 それでも無言のままでいる少年に、鶫は続けざるを得ない。
「アナタは、あの仔……狐魄を守りたいんじゃなかったの?」
 そもそも少年が従兄と闘う理由となった謎の仔狐について、そこで尋ねずにはいられなかった。

 振り返った状態から、少年はまっすぐに鶫を観ている。
「…………」
 鶫が本当に尋ねたかったこと。瑠璃色の髪の友達と会うためには、どうして仔狐が必要なのか。
 それを感じたらしい勘の良い少年は、淡々と、何処か遠くを見つめるように口にするのだった。
「あんた達は……狐魄が何なのか、知らなかったのか」

「……」
 黙り込みながら、鶫にはある回答が喉元まで来ている。けれどそれは、一番認めたくない現実だった。
 その葛藤すら感じたように、青い目を伏せながら少年が曖昧に言った。
「……狐魄は……俺の知り合いの、抜け殻だ」

 その後は少年は、有無を言わさず背中を向けて歩き出した。
 鶫が意識を失う少し前には、ボロボロに感じられた気配は、何かの力を使って持ち直している。無言で長い階段を上がる後ろ姿には、体力的に危なげな様子はあまり見られなかった。

「…………」
 少年が持ち直した力が、鶫が以前に渡した水の護符の賜物とは気付いていない。
「……もう、意味、わからない」
 それでも少年の姿が危うげに見える。それがどうしてなのかもわからず、胸に棘がささったような気分だった。

 何から何まで、わからないことだらけ。
 恨めしげに少年の背を見つめていた時だった。
「……――え?」
「……」
 じーっと……踊り場で立ち止まった少年が、自然な無表情で何故か鶫を見返してきていた。

「あんた達は何で……ここに来たんだ?」
「――?」
「狐魄はあんた達と行きたいみたいだから、それはいい。でも……あんた達の目的は、それで良かったのか?」
 その時の少年はおそらく、最大に優しげな無表情だった。

 少年のその顔に後を押されるように、鶫は思わず、あるがままの葛藤を口にしてしまった。
「私達は……友達に会いに来たんだけど。でもそれは、迷惑なことだったのかもしれなくて」
「……」
 これ以上近付かないで、と――悲鳴のような声だけが、今も耳には残っている。
 狐魄に近付くな、と命を削って闘った少年のことも、直視することができずに目を伏せる。

 しかし少年はあっさりと、無表情のまま首を傾げた。
「……何で?」
 銀色なのに、まるで金色の髪の少年の時のような、平和な声色で口にする。
「何であんたは……そう思うんだ?」
「……――」
 少年より二段下で立ち止まった鶫は、改めて少年を見上げる。

 心から不思議そうな無表情の少年に、躊躇いを忘れて話を続けた。
「友達の気持ちがわからないの。……ううん……今まで何も訊かなかったから……わかるはずなんてないよね」
 それが何よりの気持ちの棘だった。口にして初めて気が付いていた。
「もっと色々、話しておけば良かったって。もしかしたらもう……話すことも、できなくなっちゃったかもしれない」

「……」
 まだその事実を鶫は認めていない。それでも敏腕術師として冷静に、事態を悟りつつあった。少なくとも鶫は、これまでと同じ姿の友達に会うことはできない、と。
 じわりと視界が滲んだ。もしもそうであるなら、友達を妹として大切にしていたこの少年は、どんな思いでいるのだろうか。

 推測を推測に留めるための如く、少年は黙り続けている。少年自身の痛みなど全く出さずに、まっすぐ鶫の黒い目を見ながら静かに言った。
「あんたが訊かなかったなら。それは必要なかったんだろ」
「……?」
「訊いてほしくないって、あんたならわかるんじゃないのか。それなら……それで良かったんだ」
 無意識に相手の心を感じ取る、鋭い感性を持つ鶫達に――それこそが仔狐の救いだった、とまるで伝えるように。

「でも……それでも、話さなきゃいけない時だってあるわ」
「……」
「話せないんじゃなくて、話したくない子が相手なら、尚更……私達から、無理に訊いても良かったのかもしれない」
 目先の望みに添うだけで、果たして良かったのか。
 そうかな、と少年は何故か、僅かに綻んだ口元で頷いていた。

 そこから歩みを再開したものの、黙って階段を上るのが気づまりで、そのまま話を続けることにした。
「昔からそういう子だったの。傍目には凄く直球なんだけど、本心の裏に、もっと大事な本心がある感じ」
「……」
 鶫の住む街、京都の南に引っ越してきた頃。幼い友達は京都にジパング語を習いに来ていた。
――私は、みんなと遊びたくなんかないもの。
 蒼潤、槶と鶫が街を出歩き、相手を見つけて声をかける度に、そんな風にトゲトゲと返す。不機嫌そうな顔を隠しもしない深い青の目だった。

 そんな返答は紛れも無く、幼い友達の本心だとわかった。
――どーしてー? 何で僕達と遊びたくないの?
 それなのに怖いもの知らずに尋ね返す槶に、その先の本心を友達が口にするのは、思えば何度かあったことだった。
――だって…………私といたら、みんなも……。

 その頃の友達は、ジパングの隣人とは言葉も通じず、珍しい瑠璃色の髪をしているせいか、悪魔憑きなどと呼ばれることがあった。
 鶫達をそこに関わらせたくない、拒絶こそが親愛表現だった。苦笑いしながら語る。
「その子の兄貴も似たような奴なの。兄貴と違って、その子は段々、違うやり方を覚えて丸くなっていったけど」
「……」

 何度となく街で出会い、時には友達に酷いことを言う者達を撃退し、それ以外は当り障りない付き合いを続けていた。
 その内に明らかに、幼い友達の態度は徐々に軟化していた。
――……みんなは今日は、どこに行くの?
 しかしそれを、自分でブレーキをかけようとする意固地な姿。ますます鶫達は相手を構いたくなる関係となっていた。

――お淀で鬼ごっこするんだよー。ラピちゃんも来る?
――何で。別に面白くないよ、そんなことしたって。
 相変わらずつれない言葉を翻訳すると、身体能力が彼らほど高くない自分がいても話にならない、と幼くも冷静な見立てで遠慮する友達だった。

 もしも友達が、彼らの声掛けをただ待つだけの子供だったら、鶫達はその内関心をなくしていただろう。
 しかし梃子でも動きたくないらしい相手を動かすことは、とても面白く……一度動けば、その後の瓦解は速かった。
――……鶫ちゃんって、呼んでいい?
 その程度のことをはにかみながら尋ねてきた友達の姿を、今でも鶫は、何故か忘れられなかった。

 養父母と共に様々な地域を旅する友達は、旅先の土産話や特産物を、よく養母と共に持ってくるようになった。
「話してみれば本当に、色々なことを知ってる子でね。私達が純粋な人間じゃないって初めからわかってたみたいで……でも全然怖がったりしなかったし」
「……あんた達は、化け物の力を持ってることは隠すのか?」
「怖がられたらいけないもの。大っぴらにはできないわ」

 鶫達は、術師として名の通った家系だ。それも弱小な人間からは、迫害や糾弾の材料にされることがある。身を守るため以上の業が呪術にはある。
「普段は意識してないけど……はっとするような時はあるの。私のことというよりは、私の周りのことの方が多いけど」
 特に強い力を持つ身内――同じ子供である従兄弟達は、決して平坦なばかりの道程ではなかったことを思う。持ちたくて持った力でなくても、その役目は果たさなければいけない運命。
「アナタは、隠さないの?」
 普段は金色の髪をしている少年と、目前の銀色の髪の少年は、あまりそうしたことに気を使うようには見えなかった。
「隠しても――すぐにばれる」
 無表情のまま、つまらなさそうに呟く。思わず鶫は、初めて現れた頃の少年を思い出して口元を綻ばせた。
「それは、そうでしょうね」
 全身を厚い外套で覆うくらいしか、自身の異形さを隠す方途を知らない少年。尖った耳や珍しい目の色からも、化け物であることを悟られないのは無理な話だった。

「……」
 再び黙って階段を上り始めた少年の後ろ姿に、鶫は改めて違和感をはっきりと認識する。
――何だか……随分……。
 青白い月夜に、初めて話をした時に比べて、銀色の髪の少年は――
――銀なのに……穏やかな感じ。

 以前には、居候先で流血沙汰を起こすような苛烈さしか見せなかった。表情の冷たさこそ変わらないが、雰囲気は明らかに丸くなっている。
「――まずい……」
 突然また階上で立ち止まり、振り返らずに両手を組んで悩んでいる姿など、これまでにない力の抜け方に見えた。

 表情のないまま首を強く傾けている少年に、後ろから声をかける。
「どうしたの? 気分が悪いんじゃない?」
 心なしか少年は顔色も白っぽく、血の気がひいて見えていた。
「……この道は、これ以上はまずい」
 しかし少年が悩んでいるのは、全く違うことのようだった。

「違う道がいるけど……今は、思い出せない」
「ここから先は、通れないってこと?」
 鶫達が上がってきた方形の螺旋階段は、まるで巨大な角柱の外壁を斜めに登るような構造で、踊り場につくたびに柱の内の部屋を通って次の階段に抜ける。今まではほとんど無人で、難無く中を通って来れた。
「もう少し先の部屋には、誰かいるの?」
 言葉足らずの少年を促して尋ねる。察しのいい鶫に少年は小さく頷いていた。
「それなら確かに……ここから出る道を探さないとだけど」
 上層までずっと中空の城の芯である階段からは、城内に繋がる連絡通路は今までたまにしか現れていない。
「しばらく無さそうだから、一度戻らない?」
「……」
 これまで上ってきた時にあった連絡通路までは、かなり後退を強いられる。それが少年は気に食わないようだった。

 少年は何故か、眠たげにも見える様相で顔を僅かに顰めた。
「……繋がってる所は、一階ごとにあるはずなのに」
「――見えてないだけってこと?」
 現状把握に極めて優れた少年には、鶫が気付けない隠された通路も本来はわかっていたはずらしい。
「これ以上……思い出せない」
 俯きながらぽつりと……今の少年にできる限界がそれだと、鶫を見ずに少年は呟いていた。

 その少年の様子がとても拙く見えて、不意に不安になった。
「やっぱり気分が悪いんでしょ。少し休まない?」
「…………」
 顔を上げた少年は、以前通りなら不服そうな顔をすると予想する。
「少し待てば、この道も安全になるかもしれないし……そんな悪い顔色じゃ、いい案だって浮かばないでしょ」
「……」
 鶫の言葉を黙って待つ少年は、無表情ながら妙に素直そうな面持ちだった。

 そのため逆に、鶫が少し呆気にとられる。
「……それで、いい?」
 そうした様子の少年の真意がわからず、一応確認する。少年はあっさり、コクンと頷いていた。

 そのまま少年は階段に座り、相も変わらず表情のない顔で、小さく息だけをついていた。
「さっき闘ったばかりなんだし――疲れてるんじゃない?」
 下段で立ったままだと、丁度少年と視線が合う。ひたすら無表情の少年に、何故か気持ちが重くなりながら尋ねる。
「いい勝負だったみたいだし。自分以外のことであれだけ闘えるヒト、そんなにいないと思うわ」
 剣士の従兄がどれだけ腕が立つか。それを知っている鶫にとっては賛辞だった。
「まさか。最初から最後まで、俺だけがずっと負けてた」
 淡々と少年は、暗い青の目で鶫を僅かに見上げて呟いていた。
「俺は、殺す気だったのに……向こうには全く、俺を殺す気はなかったんだから」

 それは紛れも無く、根本的に苛烈な少年の真情であり――
 だからこそ少年は、そこで初めて、僅かな微笑みを浮かべた。

「あんたも……あんたの仲間も、強いな」
「……――」
 微笑むという、有り得ない顔の少年のまっすぐな目線。完全に不意をつかれて思わず口を引き結ぶ。
「俺は殺さないと勝てないけど……あんた達は、殺さないでも勝てるんだ。……そのやり方を探して頑張れるんだ」
 今度は儚いどころではなく、完全に笑っている。鶫がよく知る金色の髪の少年以上の、穏やかな純粋さに満ちていた。
――……!!?

 思わず唖然とし、少年をポカンと見つめてしまう。
「?」
 不思議そうに少年は、今も誰かわからないはずの相手の鶫を、優しげな笑顔で見つめ返す。
――有り得ない……!
 殺し合いを厭わず、呪いの力で封印まで必要だった「銀色」。その安らかな視線に、鶫は思わず目を見開いてしまった。
 そう言えばそうだった。この少年は、ヒトを呪う鶫達の「力」を、温かいなんて言ったこともあるのだ。

 鶫の従兄に負けたことが、少年は心から嬉しいらしい。
 だからこれだけ素直に微笑んでいる。鋭い霊感を持つ鶫には重々伝わったのだが……。
――こんな無防備っぷり、有り得ないしコイツ……!

 それはとても、色々な意味で――
 剣も呪いも、ほとんどヒトを傷付けるだけのものだろう。なのに鶫達は違う、負けて良い相手、と信じている。
 あまりの変貌に、思わず涙が滲みそうになった。そんな顔は見せたくなくて、慌ててそっぽを向くしかない。

 苛烈な形ではあれ、少年は仔狐を守ろうとしただけ。それを鶫は悪く思えず、だからさっきの言葉が口に出た。
 返答はどうあれ、そんな想いを無遠慮に受け取り、映す笑顔が目の前にある。
 思えばここまでの少年の無表情も、悪魔の城という地にあり、警戒心に満ちた鶫を映したものだったと思い至る。

 金色の髪の少年も、そうした所はあった。それ以上に、自らと他者の境界が曖昧である銀色の髪の少年を改めて感じた。
――時雨ちゃん絶対押したら落ちるし!
 それは本当のことだ。この少年なら己の内面に関わらずに、強い好意を向けられたら映し返すだろう。何の因果かここで誰かの台詞を思い出し、少年に振り返った。

「どうして――そんなに素直なの?」
「?」
 少年はキョトンとした平和な顔で、鶫を不思議そうに見つめる。
「……私が誰かもわからないのに。少しは警戒しなさいよ」
 少年のそうした曖昧さは、別に悪いこととは思わない。それでもさすがに、もう少し線を引け、と、理由もわからず、感情的に言いたくなってしまった。

「何で?」
 少年はそこでもう一度微笑むと、穏やかな様子で首を傾げた。
「あんたみたいな奴が、俺は多分一番――……」
 ……一番、何だっけ、と。表情を消し、少年の声はそこで止まった。

 鶫を常に覆う、正体を隠す忘失の暗幕には関わりが無い。常に多くの情報を得過ぎて自らが曖昧な少年が、記憶容量にも限界を来たしつつあったことは僅かな者しか知らない。

「い、一番、何よ!?」
「さぁ……わからない」
 観ようとする優先的な情報以外には、強い想いから拾う少年の許容量はもう余裕がない。今は鶫を無事に送り返すことだけが精一杯で、少年自身の想いであっても、多くがわからない程差し迫っている状態だった。

 少年はこれまでの笑顔を消すと、無表情に戻って俯いてしまう。
「……凄く、言いたかったことの気がするけど」
 残念そうな声色で、小さく呟いた後に立ち上がった。
「行こう。このままここにいるのも、良くなくなってきた」
「え? もう進んでも大丈夫なの?」
「進んでも止まっても良くない。上がりながら違う道を探す」
 さりげなく不穏事を伝え、少年自身の緊張感を無表情さに湛える。そこで何故か少年は、腕に巻いていた黒いバンダナを解くと、再びぎゅっと目の半分を隠すような形で額に巻いていた。

「――……」
 バンダナが巻かれると同時に、少年の青い目が赤く染まる。どちらかと言えばあっさりした顔立ちが、一見は人懐っこくも鋭さと暗影を内包する、端整な別人のものへと変貌する。
「……アナタは、ここではずっとその姿なの?」
 気配までが変わり、背にも謎の黒い翼を生やす少年は、まるで悪魔の城で悪魔と化したような印象だった。
「この方が――ここでは動きやすい」
 淡々と答えた声の調子は、元々の青い目の少年と何ら変わらない。それでも再び、警戒心が起こるのは避けられない。
 再び階段を上り出した少年に、鶫も黙って続いた。

 またしばらく、沈黙の時間が始まるのかと思いきや、
「誰かに会えば、あんたは一人で上に行け」
「え?」
 鶫に振り返らずに、少年は冷たい声で言った。
「この階段だけで最上階は行けないが、今の状態のあんたなら、うろついても多分誰も見咎めない」
「それって――」

「俺がいない方がこの先は、安全に行ける」
 はっきり要点を口にする少年に、咄嗟にムっとしてしまった。
「ここは流惟さんの城なのに、アナタは安全じゃないの?」
 これまではあえて抑えていた、少年側の事情を知る言葉を言ってしまう。
 考えてみればこの状況で、最早正体を隠す必要もないと思ったのだが、
「あいつを城主にしたい奴全員が……俺の敵だ」
 その違和感も鶫を包む暗幕が忘失させてしまう。だから少年は、尋ねられたことへの答だけを口にしている。

 埒が明かず、鶫はそこではっきり言った。
「嫌だし。アナタを囮にするみたいなやり方、気に入らない」
 事情はよくわからないまま、わかった部分への反論を口にした。
「別に違うだろ。絡まれる可能性があるのが元々俺だけだ」
「でも私に関わってこの下の方まで来ちゃったから、アナタも危険なんじゃないの?」
「……――」
「アナタが元々いた所は、そんなに危険そうには見えなかった。流惟さんがアナタや狐魄を、危険な所に置くとは思えないし、それならこれは……やっぱり私のせいだわ」

 もしも何かの危機が現在、少年達に迫っているのだとすれば、それは鶫も戦うべき時だ。
 従弟ほど強い「力」を鶫は持たない。武技では従兄にかなわない。街の少年ほどの生活力もない。苦手なことはないが、特技もないのが長い悩みだった。
 だから非力な人間としての戦う力を磨いた鶫に、かつて金色の髪の少年は、「はしたないのは良くない」などと言った。鶫に戦わせまいとする相手を、まっすぐに見上げる。

 バンダナの少年は少しだけ、何処か辛そうにそこで目を伏せた。
「あいつは……狐魄を心配、してたのかな……」
 ぽつりと、そんなことを呟いている。
「どうして? 心配してなければ、あの仔を近くに置いたり、アナタに狐魄を守らせたりしないでしょ」
「……」
「流惟さんはとても優しいヒトだと思う。たとえ悪魔みたいになっても……きっとその理由は、悲しいことなんじゃない?」
 今の鶫にとっては、何故友人の養母が変貌したかも、納得ができる状態だった。

――もしもラピに、何か悪いことがあったとしたら……。
 「魔はヒトを糧とし、ヒトの形に留まらず、ありとあらゆる手段を以て、ヒトの望みを叶えるものである」……一言一句、思い出せる文章を反芻する。
――流惟さんは絶対、とても悲しんで……止めようとしたはず。
 願いを叶えるためにどんな怪物にもなり、どんなことでもするモノが「魔」ならば、友人の優しい養母がそこに陥った契機はそれ以外には考えられなかった。

「……もしも、あいつが……初めから悪魔だったとしても?」
 少年はそこで、詳しい事情は口にしないまま、
「狐魄も最初から、利用するために傍に置いたのかもしれない」
 躊躇いがちに尋ねてくるので、何故か強気に言い返すことになった。
「私が知ってる流惟さんは絶対、悪魔なんかじゃなかった……悪魔の資質を持ってたとしても、悪魔である自分を起こされる何かがあったはずよ。元々そんな、手段を選ばないようなヒトじゃないわ」
「……」

 まだ俯いたままの少年は、その相手に対する不信に、少年自身が苦しんでいるように見えた。
「万一今の流惟さんが、狐魄を利用するようなヒトだとしても……それも、狐魄の幸せに繋がることなんじゃないかしら」
 どんな形に見えたとしても、その根底は決して揺らがない。霊感という、ヒトの深い部分への感性を持つ鶫は淡々と口にした。

 俯く少年が、そこで何かを口にする前に。
 少年はふっと赤く鋭い目に警戒を乗せて、少し前方の踊り場を全身の緊張と共に見上げた。
「……そーだなぁ、少年」
 そこには何故か――涼やかで清雅な女性のものながら、まるで男のような口調の声が響く。
「あいつのことは多分……甘く見ないで正解だぜ?」
 階段と階段の間の連絡部屋の扉から、まさに踊り場へ出てきた、黒い人影があった。

「……?」
 立ち止まった少年の前に、にこにこと、緩くも不敵な同年代の人影。鶫はポカンとしてしまう。
「女の子……?」
 人影は鎖骨までの黒い髪を、耳を隠す髪が残るくらい雑に一つに束ね、高い襟の上衣と短いひだの下衣を身に着けている。何故か、どこか黒い鳥の影が浮かぶ出で立ちだった。
――……キレイなヒト……。
 白い肌を引き立てる黒。鋭く整った黒い目の顔立ちは、緩い表情でも言葉にできない威厳を伴っている。そのためなのかはわからないが、鶫も少年も共に黙り込み、階上の相手を見上げることになった。

 人影の横では、妙に大きい烏がしわがれた声で、突然人語で人影に語りかけていた。
「……!?」
 しかしその内容は、人影以外に伝わらないように偽装されているらしく、ふんふん、と烏を相手に納得する人影に、鶫は大きく警戒心を強める。
「……気にするな。あんたにはアイツら、気付いてないから」
 それだけ伝えてきた少年には、人影と烏の会話が、現状把握の特技からいくらかわかったようだった。
「アンタ――……アンタがこの城の、本来の主か?」
 人影に向かってそんなことを尋ね、それに人影はどうやら大きく驚いているようだった。

「ががーん。ナっちゃんと話しただけでそこまで言われるとは、オレもどうやら年貢の納め時?」
 どうやらナっちゃんと呼んでいるらしい烏を下がらせ、人影は相変わらず、男のような口調で少年に対峙する。
「ていうかナっちゃんは、普通にアヤの眷属だとも言えるのに……少年、オマエ、いったい何者なんよ?」
 この期に及んで、にまー、と形容するしかないような緩い笑顔を浮かべる。バンダナの少年は何故か不敵に微笑んでいた。
「そのスパイ以外の奴に、アンタの存在を知られたくなければ。さっさとその道を、俺に譲れ」
 立ちはだかるかのような人影に、それだけが要求だ、と少年はあっさり言ってのけた。

 ふぅん、と人影は、改めて面白そうな顔付きで少年を見返す。
「オレの弱味を微妙に握っといて、それだけでいいん?」
「違う時に出会えば、アンタを家に帰したかったかもな。でもそれも……どうせ俺にはどうしようもない」
 ほえ? とそこで、大きく首を傾げる人影に少年は言う。
「俺にアンタを捕まえる力はないし……アンタ達のことは、俺は邪魔したくない」
 その時の少年の真の表情は、バンダナに隠されてわからなかった。
 何故か少年はとても気軽に、緊張感の中でも状況を楽しんでいる様子だった。

 ふんふん、と人影も、よくわからない様子のままで一通り頷く。
「さすがは……あいつが養子にするだけはあるってこと?」
 そして人影は、鶫が唖然とすることをあっさり口にした。
「ところで少年。オマエを……オレにくれないか♪」
 それはまるで、男前な口調の綺麗な相手から少年への求愛で、
「……今は、それはきけない」
 少年はポカンとしながら、咄嗟にそんな返答を口にする。

「今はって何よ、今後ならいーわけ!?」
 思わず叫んでツッコミを入れてしまった。人影が一瞬不思議そうに首を傾げたが、鶫には気付いていない。
「よーやく出会えた……オレに相応しそうな奴なんだけどな」
 ただ、不吉とも言える不穏な顔で、にやりと微笑んでいた。

 突然過ぎるこの状況に、鶫は混乱を隠せなかったが、
――何、あのヒト……流惟さんの知り合い……!?
 それだけ何とか把握する。人影は本来の城主という少年の言葉も、冷静に考え直す。
――それならあのヒトは、悪魔? でも……。
 鶫の霊的な感覚はそれを否定する。どちらかと言えばその人影は、人間に近いとも感じて余計に戸惑う。

「アンタは……ここの城主のことを知ってるのか?」
 少年は改めて人影に、最初に抱くべき疑問を尋ねた。
「ただの親戚ってだけじゃなくて……それ以上を――」
 この道を譲る話の他に、それだけは聞いておきたい、とまっすぐ人影を見上げる。

「そーだなぁ。ホントならただの親戚で、それもあんまり深い付き合いにはならなさそーだったけどな」
 人影はそこで、不思議なくらいに優しげな顔で微笑んだ。
「ホントにホントなら、あいつは妹か従妹……だったかも、な?」
 心からの親愛を込めた声で、そう少年に告げる。少年はそれを訳はわからないまま、嘘ではないと受け止めたようだった。
「あいつはね、運命を変えるために現れた魔性の者なんよ――オマエの運命も、何か変えてくれるといいな、少年」
 気安いながら何故か、宣戦布告のような響き。人影は再び綺麗に微笑んでいた。

 その微笑みには、不吉なものしか感じなかった。
 二度感じたその予感は、決して気のせいではない。無意識に少年の背の外套を、黒い羽の間からひしっと掴んだ。
「……?」
 少年は不思議そうに、ちらりとだけ鶫を振り返る。
「……話は終わりだ、そこをどけ」
 鶫を最上階まで送る、その本分に立ち返ったように、冷たい声色で人影に言い放った。

「仕方ないなー。この城ではオレも、ちょいと動きにくいしな」
 くくく、と人影が、心から楽しげに少年を見て笑う。
「また会おうぜ、少年。今度はもーちっと、広い場所でさ?」
 少年がそれに答える隙間もなく、ばさりと、傍らの大きな烏が翼を広げた瞬間に隠れるように消え去る。場ではその後、烏すらもすぐに飛び去り、静寂が戻ったのだった。


「…………」
 くるりと辺りを見回しながら、少年は安全を確認したのか、再び階段を上がり始めようとした。
「ま――待って!」
 外套を掴んだまま、思わず叫んでしまった。
「……?」
 少年は相変わらず素直に、鶫の声にすぐに従い、足を止める。

「……まだ何か、心配なのか?」
 鶫を安心させたいかのように、バンダナをわざわざ外す。
 元の顔に戻った少年に確かにほっとしつつ、それでも先程から続く不吉な予感は拭えなかった。
「……さっきのヒト……アナタの知り合いなの?」
 その嫌な感じの正体がわからない。ただ不安で尋ねるしかできない。
「いや……向こうは俺を知らないし、俺もよくはわかってない」

 少年はそこで、驚く程に安らかな顔で儚く微笑む。
「でも――……俺が力になりたかった、知り合いだと思う」
 その遠い笑顔に余計に、鶫の不安は煽られていた。

 オマエをオレにくれ、と――そこにある本当の意味。それをこの少年が受け入れてしまいそうな、根源的な不安。

「あのヒトは……アナタを何処かに連れていく気がする」
「――?」
「これ以上、関わらない方がいい――そんな気がするの」
 そうかな? と少年は、不思議そうな無害な目で笑った。
「アイツは多分、俺に悪いようなことはしないよ」
 鶫からは不自然に感じる程の、強い信頼と共に言い切る。これまでで一番危うげに見える少年の姿だった。

 その黒い鳥に巣食う緋い蛇が、自らの依り代を求めていること。そして鳥と蛇の両方に少年が持つ縁を、鶫は知らない。
 それでもある運命の訪れを、騒ぐ胸はずっと感じていた。

 連絡通路をいくつか通過し、やっと客人棟に入ったと少年が息をついた。
「ここからは多分、今までよりずっと安全だ。後はもう、この階段を最後まで昇ればいい」
 少年は鶫が思う以上に気を張っていたようで、少年にすれば初対面のはずの鶫にそこまで肩入れするのも、つくづく危なげな相手だった。

「……ねぇ」
「?」
 最上階に徐々に近付き、鶫から緊張が解けてきたことを見事に映し、少年の雰囲気が和らいでいる。それを感じつつ――更にもう一つ現れた変化、目まぐるしい少年に思わず声をかける。
「どうしてそんなに、楽しそうなの?」
 今や年齢相応の、大人しげな笑顔を湛えている少年。「?」と首を傾げつつ、鶫から自身がそう見えるらしい理由を適当に応える。
「狐魄の悲鳴が消えたから。あいつがきっと、楽しいんだ」
 その顔がまたあまりに、安らいで見えた。思わず、ふと浮かんだ思いをそのまま尋ねていた。
「アナタにとって――狐魄って何だったの?」
「――……」

 それはおそらく、少年がその無表情な顔に、殺せない痛みを最大に浮かべた瞬間だった。
「大切な奴だった……多分、この世界で一番」
「――え?」
 曖昧なこの少年にしては、珍しく言い切る。何故かちくりと、胸の何処かをさされた気がした。
「あいつの所には、俺の居場所があったから……でも、それはもう無くなったんだ」
 少年の声には、義理でも妹に対する強い思い。それだけでは説明し切れない感情が宿るように思えた。
「アナタは、それじゃ……そこにいたかったの?」
 何故か少年を直視できずに尋ねる。少年は苦しげに笑い、ああ。とあっさりそこで答えた。

「……」
 黙り込んだ鶫の思いは、鶫自身すら理解できない。それを少年が理解できるわけもない。
「……それなら本当に、狐魄を手放していいの?」
 難しい顔で尋ねると、それにもああ、と穏やかに答えた。
「俺にもあいつの居場所が無くなったから。だからあいつは、帰ってきたがらなかったんだ」

 もしも少年のその想いに、名前をつけるとすれば。
 少年が遠い日に見失った心。少年の代わりにその想いをくれた義理の妹は、似た者同士だから同じ心を見出したことを、鶫が知るはずもない。
「そんなの――……それで、納得できるものなの?」
 それを自己愛と呼べば、確かに世界で一番大切な相手だった。

 鶫が思い返すのは、約一年前に、突然義理の兄ができた、と嬉しそうに笑って話した友達の姿だ。
――何かねぇ、弱々の引きこもりなわりに、強くならなきゃ、って必死な所がカワイイんだぁ。私もあんな感じだったのかな?
 あの頃はゴメンね、とそこで鶫に言うので、何が? と尋ねると、友達は珍しく苦く笑った。
――だって私、鶫ちゃん達に甘えてばっかりなんだもん。
 ……何処が? と鶫は、心底不思議な気持ちでまた尋ねていた。

 何故なら鶫は、その友達を尊敬していた。
――ラピって、しっかりしてるよね。
 幼い頃に実の両親を失いながら、いつも笑顔を絶やさずにいる相手。トゲトゲとしていた頃ですら、運命を恨むような姿は一度も見せなかった。
――……そんなにしっかりしなくたって、いいのに。
 友達が恨んだとすれば、一人。その運命を招いたものと考えている、友達自身だけで。

 せっかくお兄さんができたなら、甘えられるといいのに。
 養父母の愛を独占できなくなった状態にも関わらず、とても嬉しそうにしている友達に、鶫は心からそう願った。

 だから鶫は、それを少年に伝える。
「……狐魄は、アナタに会えて良かったんだと思う」
「――?」
 少年はぴたりと立ち止まると、数段先から鶫に振り返った。

 少年は表情の隅に、また痛みを浮かべている。
「俺がいなければ、狐魄はいなかった気がするけど?」
「それなら狐魄がいるのは、アナタのおかげじゃない」
「…………」
 失われてしまった誰かの代わりに、そこにいる誰かの抜け殻。それもそのまま鶫は受け入れる。悲しくはあるが、悪いことだけではないはずなのだ。
 それを受け入れて良いかわからず、少年は痛みを抱え続けている。精一杯の心を伝える鶫を、しばらく苦い眼差しで見つめてくる。

 そんな少年に、鶫はあえて軽い口調で言った。
「何か凄く、残念な顔してる」
「え?」
 無意識に少しでも、少年が背負ったものを軽くしたい、そんな心がそのまま通じたのかどうか。
「そっか……そうだな」
 残念なのか。と少年は、自身を占める想いに形を得たように、儚げに笑った。

「俺はあんた達のことも、あんた達が狐魄を連れて行くことも――多分、忘れるから」
「……――」
「それは確かに……残念だな」
 忘失の暗幕に包まれ続ける少年。鶫は少し目を伏せる。
 この先、これで良かったのだと思えたとしても、痛みの方は残り続ける。残すしかない無念だと感じているように。

 ほら、と少年は、鶫が最初に来た階層についたことを、階段の踊り場から横目で示した。
「ここまで来れば、後はもう行けるだろ」
「……」
 そこは少年の居室もある階で、これ以上は昇る気のない少年を不服な思いで見つめる。
「どうして……ここまでなの?」
「?」
「狐魄の顔、見ていかないの?」
「……」

 心配なんでしょ? と咎めるように聞くと、
「俺は、あんた達とは違うから」
 無機質にその断絶を返す少年。ここまでの穏やかな姿で、鶫が忘れかけた少年の定めをあっさりと告げた。
 従兄である剣士を、ともすれば殺すことも辞さなかった天性の死神。その冷然とした青い目に戻りながら。

「違うって……何が、違うの?」
 ……それを尋ねてはいけない。尋ねてしまってから鶫は、少年より上に昇った足を止めて、目を伏せる少年の姿にすぐに後悔した。
 この自らが曖昧である勘の良い少年は、感じ過ぎてしまう多くの情報を、己と共に曖昧にしておくことが最後の砦なのだ。
 それを声に出させてしまえば、強調された情報は少年を縛る。
「…………」
 少年自身、鶫達と少年は違うと言葉にした時に、そこには壁が存在すると自らに感じていた。それでも問われたことには誠実に答える少年が、躊躇うような沈黙を訪れさせていた。

 つい先程までの表情であれば、目の前の銀色の髪の少年は、記憶喪失だった金色の髪の少年とは髪と目の色が違うだけだ。ここに来て本当に中身は同じに見えつつあった。
――オレは別に、違う誰かになってるわけじゃない。
 それを伝えられた時には鶫は、彼らは別人だと感じていた。
 その理由もおそらくは……少年が今感じている答と同じで。

 銀色の髪の少年はやがて、冷たく無機質な顔のまま俯き、声を絞り出した。
「……俺は、狐魄が望むなら、またあんた達を殺しに行くから」
 それが少年には、可能な限りの優しい現実。
 少年は金色の髪の少年とは違い、鶫達に仇なし得る存在。だから自分に関わるなという、誰かとよく似た心を告げた。

 けれど鶫には不思議な確信があった。
 少年が従兄に敵わなかったのは、実力や体力事情だけではなかった。
「それは……アナタがそう思ってるだけだと思うわ」
 敵わないことそのものが、この苛烈な少年の希みだったはず。迷いだらけの少年を従兄と同様に看破していた。

 そもそも少年が口にしたもしもの状況は、到底有り得ない、と少年も鶫もわかっている。
 少年が守りたいものが、鶫達の排除を本心から望むはずはない。それなら少年が鶫達を排除する未来などない。

 それでも自身が有害であると、あえて口にする少年は、本当に感じていた冷酷な現実の代わりにそう言うしかなかったのだ。それを鶫は、全て察したわけではなかったが。


 鶫によぎるのは、少し前に、金色の髪の少年が旅立つ直前に話した時の言葉だった。

――オレが誰なのか、もう探さなくても良くなった。

 鶫達と住んでいた頃には、記憶のない金色の髪の少年はずっと、自身が何を求めているのかを探していた。銀色の髪の少年はその答を何処まで覚えて――知っていたのか。そして金色の髪の少年は何を得て、あの時そう口にしたのか、鶫はあれからずっと気になっていた。

――じゃあ、今度帰った時には、訊いてもいいの?

 そこで苦しげに微笑み、頷いた少年はいったい何者なのか。その時どうして少年は、鶫達を避けるように一人でいたのか。
 少年と鶫達は何が違うのか、と先程尋ねてしまった鶫。それはあの日の、少年は誰なのか、という問いかけと本質的には同じだった。
 だから今、少年が答えてくれるなら、あの時の続きをここできける。

 ……自分は、鶫達とは違うものであると。
 だから最早、自ら鶫達に会おうとしなかった少年の答。

「俺は……――――から」
 ぽつりと口にした少年の声を、鶫が聞き取れなかったのは、それも少年の希みだったのか――

――俺は……ヒト殺しだから。

 鶫にはそう、聞こえた気がした。
 しかしそれを答にすれば、鶫達と同じ世界に住めなくなるのは、少年一人だけではない。
 少年の近しい者。今この忘失の暗幕を張り、鶫達と行動を共にしている幼い誰か……処刑人の過去を持つ者も、鶫達と線がひかれることになる。
 それに気付くわけではなくても、少年のあまりの声の拙さに胸を衝かれた。戦いたくて、「力」を鍛えてきたわけではない鶫達。それを良しとできる少年は、本当は誰より戦いたくないものだったはずだ。

 鶫達の正体がわからない少年が躊躇った理由は、無意識のレベルであったとしても――
「あんた達の前では……俺は殺したくない」
 呟き、剣を小さな装飾具に戻して腕に引っ掛けると、少年はくるりと背を向けていた。
「ありがとう――……狐魄を、助けてくれて」
 ずっとその悲鳴に気付きながら、自身は何もできなかった、と。
 僅かに俯き、ゆっくり去っていく少年に鶫は息を呑む。

 どんな言葉をかけたとしても、それは覆らない。
 少年はもう振り向かない。悟った鶫の中で、何かが堰を切って溢れ出した。
「でも、私は……」
 伝えておかなければ、その青い目には二度と巡り会えない。不思議な確信だけが鶫を後押しした。
「私はアナタのこと――嫌いじゃない」

 ……ぴたりと。
 去っていく少年の足音が、時間が止まったように凍りついた。

 鶫は自分でも理由のわからないまま、震える声で続ける。
「……待ってるから。狐魄と、一緒に」
 少年は、鶫達の正体には気が付けない。気が付くそばから忘れさせられていると知りつつ、それでも……。
「……――……」
 背を向けて立ち止まり、俯いたまま黙り込んでしまった少年は、その忘失を込みで鶫が観えているはず。本当は最初からわかっていた。

 一瞬の気付きと、直後に襲う暗幕の最中にあっても。そんな刹那の心だけで、少年は鶫を助けに来たのだ。
「…………」
 その僅かな心で十分な程に、鶫を助けたいと思っている。それは既に、呪術師である鶫には伝わっていた。この少年はずっとそうして、心をまっすぐ向けてくるから鶫は振り回される。
「アナタは――アナタだって、帰ってきていいんだから」

 その少年が、少年自身の言う通り、危険な存在であることはわかっている。
 最初からそうだったのだ。少年はここにいてはいけない――いるはずのない、本来なら出会うことはできなかった誰か。
 鶫に馴染みの深い世界の言葉を使うなら、心霊……彷徨える死者に近い者なのだと。

 けれど鶫も、鶫の周囲の者達も、その現実をあえて無視した。
 在るべき世界に戻れ、というのは、この少年にはあまりに酷だ。それなら気付かないでおくことが唯一の、鶫が少年に渡せる想いだった。少年は誰かと尋ね、知りたいと願いながら、踏み込まずにいないと消えてしまいそうで怖かった。

 そうして少年のことを追求しないでいた鶫や、ひいてはその周囲を想うように、少年は背を向けたまま顔を上げた。
「……誰にも、会う気はなかったけど」
 そのまま、去りゆく自身の意志とは矛盾する、拙い希みを口にしていた。
「……でも、あんた達に会いたかった」

 それは、ヒトの深い所を感じ取る鶫には紛れも無く――
 帰りたい、と。そう望んでいるとわかる、少年の無自覚な本心。

「俺はあんたのこと……――だと思う」

 その時少年は、自然に安らかに笑っていた。
 少年の背後で赤くなって俯く鶫に、直接見えたわけではないが。


 最後に少年が言った言葉を、鶫は確かには聞き取れずにいた。
 少年もそれを忘れてしまうが、その想いを声にしたことが、少年にとってはどれだけ大きい意味を持つか――
 ふっと、鶫の背後に差した暗影が、その一部始終を感じたかのように、困ったように端整に微笑んでいた。
「――!」
 少年の姿が見えなくなった後に、最上階へ振り返った鶫の上方に、またも黒っぽい暗影が綺麗に笑って佇んでいた。

「あ……――」
 その暗影には見覚えがあった。暗影の方も、忘失の暗幕で隠されているはずの鶫に気が付いている。
「流惟――……さん……」
「久しぶりね。鶫ちゃん」
 にこにこと、体の線がぴったりと出る黒い礼装を纏う悪魔。青く流れる無造作な長い髪をかきあげながら、蒼白な鋭い目で鶫を見下ろしていた。

「……――」
 友達の養母であるその女性。悪魔になってしまったらしき相手を、警戒すべきかどうか、鶫は一瞬悩んだものの。
「会えて良かったわ。上にいるコ達にも話はしてきたんだけど、やっぱり鶫ちゃんが一番しっかりしてそうだもの」
 鶫の思った通り、悪魔に鶫が認識できている理由は、上で鶫を待つ忘失の結界の主が悪魔を安全と認めたことに他ならない。話をしてきた、という悪魔の言もそれを裏付けている。
 それなら鶫も悪魔と話をしたい、と階下で立ち止まった。

 まず鶫は、一応城主である悪魔に常識的な対応をする。
「……すみません。流惟さんのお城に勝手に入ってしまって」
「――どうして? 招いたのは私よ、鶫ちゃん。私はずっと、貴女達を待っていたの」
「……え?」
 悪魔はそこで、真意の掴めない妖しげな微笑みを浮かべる。友達の養母である女性に対する少年の戸惑いの理由が、鶫にも少し共感できるほどに。

 しかしその後に続いた言葉は、妖しいというより胡散臭かった。
狐魄(こはく)の、取扱い説明書」
「――は?」
「鶫ちゃんなら、口伝えで大丈夫よね。狐魄のこと、よろしくお願いね……有り難う、狐魄を迎えに来てくれて」
「……じゃあ、やっぱりあの仔は……」
「ええ。私の可愛いラピスの――新しい姿なの」
 いったいどうして、友達がその形になったかは、悪魔は語らない。そしてさらさら悪魔は、その養女のこと――今や式神や使い魔と変わらない存在になったらしい友達について、大切なこととして、存在の維持方法を特に強調して色々と説明する。

(あるじ)は鶫ちゃんじゃないけど、主のコへの寄生だけじゃ、狐魄は多分ヒトには成れないわ。獣でいる時間が長い程に、魂まで獣寄りになってしまうから、鶫ちゃん達さえ良ければ、まめに力を貸してヒト型にしてあげてほしいの」
「……わかりました」
 悪魔の言う意味はなかなかに重い。呑み込んだ鶫はすぐに頷いていた。

 言ってみれば友人は、妖狐に憑依した状態だ。既に心は失われている……記憶と魂だけが残るものの、それでは容易く妖狐に取り込まれる可能性があった。

「心が戻れば、主のコの成長後には、ずっとヒト型もとれるかもしれない。けれどそれは、ラピス次第だから」
「……じゃあ、ラピがもしも望むなら……」
「そうなの。本当に狐さんになっちゃうかもしれないけど……それでもまだ、あの子と仲良くしてくれる?」
「……」
 こくりと頷く鶫に、悪魔はとても安心したように儚げに微笑みを見せた。

「ありがとう……これでまた、わたしの心残りが消えた……」
「――え?」
 その時の声の緩み方は、紛れも無く鶫が知った友達の養母と同質だった。
「後一つ叶えば――……私も、消えられる」
「流惟さん……!」
 ともすれば、これまでの友達以上に危うく見えた。その女性に鶫は思わず、数歩距離を詰めて見上げた。

「……帰って来て下さい。ユーオンと一緒に、ジパングに」
「…………」

 元々女性は、友達によく同伴し、鶫達とも顔見知りだった。実年齢とかけ離れた若い外見もあり、大人にしてはとても気安く喋れた相手に、鶫は直球に対峙する。
「私は何も、事情を知りません……でも、これ以上流惟さんが無理をして何かあったら、悲しむ人が沢山いるはずです」
 差し出がましいことかもしれない。それでも引き止めなければいけない。鶫はこの最上階に戻るまでに出会った、あの不思議な黒い人影の言葉を脳裏によぎらせていた。

――あいつはね、運命を変えるために現れた魔性の者なんよ。

 そう口にした人影は、きっとこのこと。養女を妖狐としてまで留めた悪魔の女性を指している、と感じ取る。

 そして後一つ、人影の言を思い出すなら、女性はまだ何かを叶えたいと願っている。
――オマエの運命も、何か変えてくれるといいな、少年。
 養子である少年に関わるかもしれないこと。それなら、と鶫は、決意を込めて女性をまっすぐに見つめた。
「ユーオンにもしも何かあるなら――私達も手伝いますから」
 だからもう、女性一人で運命と闘うことはない。そんな想いを伝えるように。

 女性はしばらく、そんな鶫に、穏やかな微笑みだけを無言で向けていた。
「…………」
 真意の見えない、諦観にも見える顔。しかし鶫には何故か、とても悲しげに見えた。
 やがて女性は、ふっと軽く息をつく。
「……もう十分、手伝ってくれているのよ、鶫ちゃん」
「……え?」
「ごめんなさい。私はそのためにずっと……ラピスを貴女達に近付けていた」
 あくまで穏やかに――そして悲しげに微笑みながら。
 女性は階段を降りて鶫の頬に軽く手を当てると、元の青を失った蒼白な目で視線を合わせた。

「流惟さん……?」
 本当ならその目は、少年と同じ光を持っていたのが……確かに何かが、変わってしまった悪魔がそこに在った。
「でもね……わたしも迷ってしまったから。ラピスとユーオン、ラピスがいると、ユーオンが消えるのはわかっていたのに……わたしは、ユーオンを選ばなければいけなかったのに」

 もう、悲しげな顔にしか見えなくなっていた女性に、鶫は少年の言葉を思い出した。

――あいつは……狐魄を心配、してたのかな……。

「ユーオンのためのはずだった……それがわたしの希みなのに。だから私は、その埋め合わせをしないといけないの」
「……それは、どういうことですか?」
 くすり、と女性は、悲しげなままで魔性の妖艶な笑みを湛えた。
「鶫ちゃん……狐魄とユーオン、どちらか一人しか、貴女達の元へ行けないとしたら」
「――」
「貴女はどちらを連れて行きたい? と言っても……もう道は定まってしまったのだけど」

――ありがとう――……狐魄を、助けてくれて。

 最上階まで送る、と言いながら、鶫に背を向けた少年の声がそこで不意に響いた。
 自分は行けない、と振り向かなかった少年。まるでそれと知って選んだような言葉に、しばらく声が出せなかった。

 それでも鶫は、改めてまっすぐに女性を見返した。
「どちらかだけなんて……流惟さんも選べなかったはずです」
 大切なものは何一つ、(おろそ)かにできないのが、器用貧乏と言われる鶫の性でもあった。
「絶対諦めません。ラピもユーオンも、両方連れて行きたい」
 言い切った鶫に、女性は改めて悲しげに微笑む。

「私に何か、できることはありますか?」
 鶫は何一つ事情をわかっていない。本来ならばその確認が先にあるべきだろうが――それを語ってもらえるとは思えなかった。
「ラピだけじゃなくて、ユーオンの力になれること……もしもあるなら、教えて下さい、流惟さん」
 魔性の女性はきっと、願いを叶える手立てを全て打っている。その上で話されていない事柄は、語られない意味があるはずなのだ。

 そうした形で、無理には事情を尋ねない鶫に、悪魔は少しの間微笑みを消した。
「……そうね、鶫ちゃん」
 声には柔らかさが残っているが、冷然とした色がそこに加わる。
「鶫ちゃんは――ユーオンがどうして記憶喪失なんだと思う?」
「――え?」
 そして悪魔は、その養女と養子の現実を口にする。

「ユーオンの記憶を奪っていたのは、ラピスと言ってもいいの。今この結界と同じ源の、ヒトの記憶に関わる力で」
「……――」
「でもそれは必要なことだったの。記憶が無い間のユーオンは、それでようやく、普通に過ごせる余裕ができた状態だった……けれどもう、その力は無くなってしまった」

 それはまるで、友達がいなくなることで少年には記憶が戻ったこと。しかしその記憶が少年を追い詰めているという話で、鶫は痛ましい気持ちで女性を見つめ返した。

「そんなに、辛い記憶なんですか? ユーオンの過去って……」
 いっそ忘れたままの方が、少年は幸せだったのか。
 しかしそれは、あの勘の良い少年なら、どの道その歪みにも気付いてしまうだろう。知らず顔が曇った。

「……」
 悪魔はその問いには、あえて答を告げなかった。
 代わりに鶫に、謎かけを行うように、
「そんな記憶なら、鶫ちゃんは無い方がいいと思う?」
 再びにこりと微笑む。鶫はしばらく言葉に詰まった。
「それは……」
 胸元で手を握り締め、少しだけ俯いて答える。

「それは私じゃなくて……ユーオンが決めることですよね」
 その答は、たとえ少年がどの状態を望んでも、それを鶫は受け入れる――今まで通りの在り方だった。

 女性はそれを聞くと、穏やかな顔で少しだけ首を横に傾ける。
「そうね………」
 正解も誤答もそこには無い。困ったように微笑んでいた。
「だから私も、悩んでいるの……あのコ、本当にバカだから」
 むしろ女性こそ、正解を欲していると言うかのように。

 ありがとう、と――悪魔はそこで歩みを再開し、鶫の横を通り過ぎながら口にした。
「あのコが決めるのを、待っていてあげてくれる? 鶫ちゃん」
「――……」
 階段を降り、今度は下の方から振り返るように立ち止まった悪魔を、鶫は戸惑いながら見つめる。

 悪魔は不意に、一見はあまり関係の無さそうな事柄を唐突に口にした。
「ラピスとあのコはね、本当にそっくりな子達なんだけど」
「え?」
「そこだけは大きく違っているの。ラピスはね、欲しいものがあっても言い出せない子なんだけど、ユーオンは欲しいものがわからないコなの」
「…………」

 それはつまり、自覚の有無だけではあるとは言うが。
「だからラピスには、与えることができたけど――ユーオンにはどうしてあげればいいのか、私にはわからなくて」
 悪魔にとって、悲鳴を上げ、救いを掴む機会を得た養女に比べ、まず声が出せない養子は本当に扱い難いようだった。

「でもユーオンが求めるものはきっと、貴女達の所にある……ラピスと同じように」
「……え?」
 それをつい先刻、少年が残した言葉から女性は悟っていた。
「あまりいつまでも待たせるようなら、怒ってあげて。きっと……それが一番、あのコに届くから」
「……――……」
 わけがわからず黙り込む鶫に、それだけを言い残す。
 そして少年と同じように、振り返らずに去っていった女性だった。

 そうして、悪魔と少年が共に降りて行った階段に、鶫はしばらく立ち尽くすしかできなかった。
 この階段を駆け下りた数刻前の焦燥を、苦い気持ちで思い出した。

――ここで見失ったら、もう――……会えない気がする……。

「……そんなことない。狐魄……ラピだってきっと、帰ってくる」
 己に言い聞かせるように呟きながら、最上階への歩みを再開した。
「確かに二人共……意地っ張りなところとか、そっくりだもの」
 その友人も少年も、自ら助けを求めることはほとんどない。
 それが何処か歯がゆかった鶫は、吹っ切れたように笑った。

「迷子なら、誰かが――手をひいてあげなきゃね」

 そして鶫は最上階で、仲間達に保護された友達と再会する。


+++++



 最初は唖然としてしまったものの。
 鶫を待っていたのは、予想外に幸せそうな友達の姿だった。

――狐魄の悲鳴が消えたから。あいつがきっと、楽しいんだ。

 それを少年が口にした時の、以前からは考えられない表情も、少年を待つと決めた鶫を改めて後押しする。

 その後に彼らが魔界の城を出て、あるべき場所へ戻った後に、少年と闘った従兄が鶫に尋ねてきていた。
「結局ユオンには会えたのか? 鶫」
「え?」
 同じ邸宅に住む蒼潤は、自室に帰る前に鶫を呼び止めていた。
「探しに行ってたんじゃないのか? ずっといなかっただろ」
 鶫がなかなか戻らなかった理由を、無骨でも鋭い蒼潤はそう思って尋ねてきたようだった。

 人喰いクローゼットに捕まり、さまよう羽目になった経緯を話すのも、さすがに気恥ずかしかった。
「会えたけど。でもアイツ、まだ当分迷子だと思うわ」
 それだけ言うと、蒼潤が納得したように頷く。
「そうか。それならまた、探しに行こう」
 当然のように言う従兄に、鶫も笑い、鴇色の背中を向けたのだった。


Atlas' -Cry- 了.

千族宝界録S✛sin eater.

ここまでご覧下さり本当に有り難うございました。これにてAtlas' -Cry-シリーズは終了です。
この話は星空文庫にUP済みの、直観探偵シリーズの過去話です。
パブー掲載『迷探偵猫羽の乙女事件簿』のパラレル世界では、この話がないため猫羽と悠夜の距離が縮まっていません。
同様にパブーの橘診療所シリーズ『雀の涙』も、ラピスがジパングにそもそも現れない状態での御所話になります。

12月中旬からCry/シリーズの大元、C零の掲載を始めようか検討しています。
暗めの物語にはなりますが、どの話も未来につながっています。良ければ覗いて下さると嬉しいです。
初稿:2015.7.1 Atlas' -Cry-
▼『迷探偵猫羽の乙女事件簿・序』:https://puboo.jp/book/134653
 ※乙女事件簿の本編はパラレル探偵シリーズ『よろず事件簿』に掲載;https://puboo.jp/book/134686
▼『雀の涙』:https://puboo.jp/book/134399

千族宝界録S✛sin eater.

†Cry/シリーズ・A版④† 悪魔使いの力を持って新生した幼女猫羽は、自分を助けてくれたラピスを助けるために「花の御所」の門を叩く。直観探偵シリーズよりも昔の異世界で、猫羽と烏丸悠夜がなんだかんだと協力していく邂逅編。一応単独で読めます。 image song:本当の音 by KOKIA

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-11-09

CC BY-ND
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CC BY-ND
  1. †謡.瑠璃色の月夜
  2. ✛開幕✛ Atlas' -Cry- S
  3. †寂.S
  4. _起:空ろの「忘我」
  5. _承:悪魔使い
  6. _転:魔界への鍵
  7. _結:本当のこと
  8. ✛終幕✛
  9. -at that time-
  10. †余話:strayer