往還(再掲)
2022年3月24日にアップした記事を再掲したものです。
一
韻律が定まっている俳句や短歌は、厳格な形式の内に存在するリズムの上に練られた比喩を乗せて成り立つ文学であると筆者は考える。その勝負所を喩えれば素早く切られるシャッターの如く瞬間的な単語の鋭さやパンチ力によって画角が捉える対象を向こう側に写し取り、読み手の内側に強い印象を残せるか。焦点を絞った自然の機微や生活をする上で見落とされがちな場面や心情、あるいは読み手の顔面を張り倒す程の無形な叫びのエッセンスを可能な限り言葉で掬い、敷き詰める。テーマに連なる作品を纏めた短歌が文章らしさを得たとしても、かかる勝負所は変わらない。書き手が狙いを定め、集中的に切り刻む一箇所とその付近から伝わる鈍痛を抱えて読み手が思うように腑分けできないテーマとイメージ群は短歌集の各頁に多く認められる余白を泳ぎ、大きく波打つ。
これに対して小説は語らなければ始まらない。「何処で、何時、誰に、何が起きて、何に繋がり、何を思い、どう終わるのか」。起承転結のストーリーラインはやはり物語の強固な骨格であると筆者は考える。それを追うための論理は言葉によって齎され、語られた事に対して読み手の理解と思考が駆動し、様々な感情が生まれる。したがって小説の肝は言葉ないし論理によって説明されるものとされないものの配分次第であり。この点は詩的表現に満ちる小説においても変わらないと推測する。例えば物語を進める際に用いられる比喩はその対象を論理的に説明できる表現の存在を示唆しつつ、比喩が決して直接に語りはしない「それ」を読み手自身に追い求めさせてその想像力を羽ばたかせる。その仕掛けが巧みであればある程に論理の地平から飛び立つための揚力は増すから、時にはピーターパン的な視点に立って論理的物語を自由に眺めることを可能にする。
あるいは論理的な説明を徹底することにより語られるものを限りなく現実から遠ざける形で幻想的な物語を立ち上げることも可能である。すなわち辞書が端的に示す様に、ある言葉の意味を別の言葉で説明できるという論理の循環を執拗に繰り返すことで膨大になった情報を前にして眺める「現実」は、果たしてどこまで現実と信じていいものか。凄腕の詐欺師に出会ったかの如く、終わりのない言語運動に巻き込まれて現実に抱いてしまう嘘くささは一度心中に芽生えてしまえば否定し難い根強さを見せる。論理が空回りして燃え上がり、その焼き後から立ち上がる虚構の内側から手を伸ばして触れる外界の奇妙な感触は、一度味わうと癖になる。この手法に長けているスティーブン・ミルハウザーは、論理という手持ちの道具を知り尽くした職人気質な面も含めて、だから筆者が敬愛する小説家の一人である。
最後に異論がある事を承知で記せば、言葉の表現という点で俳句に短歌、そして小説と同じ文学に含まれる詩は「俳句に短歌、そして小説」以外の表現方法という広い意味で捉えるのが妥当でないかと筆者は考える。形式で自らを縛ることも、また小説と同じく物語的に語り続けることも可能な「詩」という表現は文学に用いられる全ての言葉の使用方法に付き纏う形で裏側に潜み、眠っている。言い換えれば言葉=論理を支える使用方法をアクロバティックに裏切ることで対象と意味ないし文脈の間に亀裂を生み、それを押し広げて今までに無い「世界」を知ろうとする仮定的ないし一時的な試みであるのだから、詩はあらゆる表現に「詩」的な感触ないし雰囲気を漂わせることができる。そういう強さを詩という表現は有している。故に、詩とは作品として編まれた言葉と意味を認識して読み手に生まれる感触そのものと評価できるのでないか。このように広く捉えてみることで、詩ともっと自由に遊べたりしないだろうかと個人的な期待を抱いている。
二
さて話題を小説に絞って考えれば、小説を読む時に覚える不思議な感覚はさきに述べた論理を出処とする。すなわち、小説を読むとは作者という他人が書いた論理を物語として頭の中で追うことである。その際に物語を語る視点や会話、思いに予感は作中に現れる登場人物のものであったり、神の如き視点に立った名も無き第三者のそれであったりするが、ここに違和感は生じていい。なぜなら、語り口が見事であればある程に「小説を読」んでいる最中は他人が頭の中に入り込んでべらべらと喋り出す異常が起きていると見ることができるから。かかる異常を大いに拒み、詰まらないと放り投げてすやすやと眠る安全装置を起動させるのは心身の反応として合理的だと考えられるし、漫画大好きな少年時代の筆者は正にそうだった。目の前に現れた見知らぬ人が自分に興味がない話を唐突に始め、それを終わりまで聞かされるのと全く同じで、小説を読むことは退屈極まりない。読書は日々の娯楽の一つであるという事実をここに加味すれば「小説なんて無理に読むものではないよなぁ」と、七つの球と神龍を追いかける日々を送っていたあの頃の記憶を大切に仕舞いながら素直に思う。
と同時に直ちに翻って、読書の面白さがここにあるのでないかと筆者は当たりを付けてみる。その切り口として問いたいのは一冊を構成する様々な他人の言葉=論理を能動的に目で追い、その意味内容を意識で理解するという過程を想定するときに小説を読んでいる主体は一体誰なのか、というものである。
読んでいる私?
勿論そうだ。
いや、この物語を生み出した作者に成り切っているんじゃないか?かかる作者のつもりになって物語のテーマ性を探ろうとしているのでは?または作者の精神分析を試みているとか。
確かにその可能性もある。
いやいや、成り切っているんだとすれば物語の中で生きる主役を始めとした登場人物だろう。間主観的な視点を想定できる人の脳内における情報処理を前提にすれば小説に夢中になっている間、読者は登場人物になっていて一喜一憂していると言える。
成る程。
いや、そもそもこれらの視点が排他的関係にあると解する必要はあるのか?かかる視点の複数性は結局、小説を読むという行為によって生じる内的活動の多面性を考え得る視点に立って語っているに過ぎないのでは?つまり物語を読んでいる時にこそ人は異なる位相を漂い、私でありながら私でないという奇妙な在り方でいられる。それがある種の儀式性を獲得し、読後感と共に人格的変容を果たせるのでないか。そう考える方が生産的でないか。
と、色々な立場から語れはするけれども「正解はない」というままが一番良いというのが読書好きになった後に考えた筆者個人の意見である。
すなわち物語なんて嘘っぱちという心持ちで読み始める人も読んでいくに連れ頭の中で世界が立ち上がるのを止められない説得力を、作者が言葉で表現する。それが論理を用いる文学表現たる小説の凄さだと評しても過言ではないというのが最初にある。
次にかかる小説世界は言葉ないし論理によって説明されるものだけじゃない、言葉ないし論理によって説明されていないものによっても構成される。つまり誰かが、何時か、何処かで語るであろうものとして不存在の存在が物語を機能させる。かかる機能が「目で文字を追う」という時間とセットになって有機的に働くことで、意味に溢れる文学表現といえる小説世界に読み手は入り込んでいける。その時の読み手は何処にでも行けるし、誰にでもなれる、どうにでもなれる。これが正解と断言できないぐらいに許された言葉がその世界には存在しているからである。文字通りに夢中になれるひと時。
かかる表現世界を読み終えた後で必ず戻って来る現実の「私」という観測地点に立って覚える読後感のあちこちに偏ったものを見つけられるのがまた有難いお土産で、それは私のものなのか、はたまた読み終えた物語に生きる登場人物又は限りなく薄められた物語の作者の元に留保された所有物なのか、判然としない。
しかしながら、この心情における中途半端な共有状態が何故か豊かに感じられるから面白い。このお土産の正体はこれでないか、あれでないかと思うままに綴り、主観と客観を両端に置いて広がる私の「世界」の何処まで行けるのかという冒険を試みれる。その後で再び読み始める小説がまた面白い。掴みどころの無さを増した物語が其処彼処にある。堅物にしか見えなかった論理の見え方がどんどんと変わり、言葉との付き合い方が楽しくなる、という所までは経験的事実に即して可能な限り客観的に伝えられる小説の魅力でないか、そう思っている。
三
物語の印象的な場面を具体化し、読み手の気持ちを膨らませて次の場面へと連絡する効果を果たすのが小説などに載せられる挿絵の意義だとすれば、挿絵作家の経歴を持つ鏑木清方の作品を見て頻りに抱いた「読ませる画家だ」という筆者の感想もそれほど的外れではないのかもしれない。
東京国立近代美術館で開催中の『鏑木清方展』の後半で見れる「朝夕安居」を例に取れば誰しもが経験し又は経験できると思える日常が自然と共に平易に描かれる。しかしながら日中の屋台で売られる無数の風鈴の、風に吹かれるそれぞれの鳴りが風鈴の先に付けられた短冊の愛らしい捲れ具合で伝えられる。見れば見るほど程に情緒が掻き立てられるその場面は「分かる、分かる」と心から同意してしまう理想そのものとなっている。
それでいて広告に促されて商品を購入した時の様な「ああ、まんまと乗せられた」と自省する瞬間が訪れることが全くないのは「朝夕安居」を鑑賞中、さきの屋台の描写に向けられた誰よりも強い視線を感じる。振り向いてその出所を探れば、正しく「朝夕安居」を描いた画家本人の姿を見つける。鑑賞するこちら側に立って「こういうの、いいよね」と述べてから、その姿はどんどんと絵に近付いていく。その勢いを追って画家の肩越しに覗き込む再度の鑑賞によっても、鑑賞者は飽きることなく理想的な日常に惚れ惚れとする。こちらに顔を向ける想像上の画家と頷き合って生まれる主体的な「私」たちの欲は、こうしてすくすくと育っていく。
鏑木清方が描く、それぞれの暮らしぶりに認められる差異を捨象した概ねの日常を基礎にして成り立つ懐古は、その時代を知る筈がない未来の私たちにも伝染するから不思議だ。伝統ないし文化の固有性が形作る顔つきと抵抗なくそれを受け入れてしまえる、いつの間にか自身の内側に出来ていた「私」たちの鋳型の相性を恐れることなく見つめれば、連綿と続く日々の有難さを関東大震災、そして太平洋戦争を経験した画家が作品を通して物語っているのを知る。強調される悲劇も罪もそこにはない。ただただ壊したくない、失いたくないと切に願う温かさに溢れた過去の情景として在り続ける。不特定又は多数人として感化され過ぎるのは決して良いことではない。けれど日々の有り様に触れてどこまでも冷静にならざるを得ない機会が現実には溢れている。なら、その眼差しに保たれた色味を努めて覚え、それを瞬く「今」に重ねて生きるのもまた一興だろう。変に猫背になるのでもなく、また真っ直ぐに背筋を伸ばし過ぎるのでもない。語るより先に行う「らしさ」をもって名乗る私の「世界」が、鏑木清方という画家の手によって彩られる。
五
同じ美人画の名手でも上村松園の美人画と比べれば、鏑木清方の美人画は受け入れ易い。恐らくは場面描写が丁寧で、想像できる前後と合わせて主役となる女性の心中の表れとなる振舞いを端的に日常の延長線上に置くからだろう。何気なく己が理解を投影できる親しみある美しさは、極力背景を描かずに瞬時の美を捉えることに専心する上村松園の高みを目指す視線と好対照を描くと筆者は感じた。
描いたものが概ねの人々の心に届く。表現者としては最高とも思えるその幸せを、しかしある種の苦しみとして画家本人が受け止めていた。その水準を鏑木清方が脱しようと模索した表現の歩みも『鏑木清方展』にて窺える。
量も質も素晴らしい『MOMATコレクション』と共に、本展を鑑賞する機会を得ることをお勧めしたい。
往還(再掲)