雨だれ
そのピアノ弾きは、何時でもいつでもおなじ音楽を弾いていたのだった、雨粒の光るような、木洩れ陽の音楽が木々のあいだを辷るような、まっしろの真空にほの青く照る水晶の耀きがきんと投げられたような、恰も自然の元より孕むしずかなうるわしい息のように奇麗な音楽を、かれは何時でもいつでも演奏していたのだった。
ひとはそれに時々聴き耽り、屡々騒音だと揶揄し、苦情だってむろんきていたのだった、なんていったってピアノ弾きは働いていなかったから、アパートメントの一室で絶えず音楽を響かせていたのは畢竟迷惑であったことだろう。
「だれが作ったんだい?」
と唯一友人らしい隣人が訊けば、
「かのひとが歌った、かのひとが歌ったんだ。ぼくはそれを聴いた、ぼくはそれを忘れない為に毎日毎日弾いているんだ。そのひとの息を想い起こすということだけが、ぼくの愛であると信じているから」
やがて戦争の火がその国に訪れた、かれの弾くエキゾチックな音楽は敵国の民族性を想像させると云って演奏を禁止されたが、ピアノ弾きは窓のそとを見はからいこっそりと演奏をする。やがて演奏にうんざりしていた隣の一軒家の男に通報されて、ピアノは没収された。かれは泣くように死にぎわに息を洩らすように時々それを歌い、引き攣ったようにこつぜんとやめて咽び泣く。以前より元気を失って、こころ優しく珍しくかれをきらわなかった隣人はそのようすを憐れんだ。
*
一面焼け野原であった。かれ等の町は空襲で吹き飛んで、ひとびとの残骸と荒野だけがひろがっていた。みんな死んだ。隣人も死んだ。かの音楽はしかし其処で響いていた、空があおあおとした胸を膨らませいきれを零すように歌っているように、其処で何時までもいつまでも響いていた。まるで燕が涙を流しながらひとびとの淋しい死骸にキスしてまわるように、町のあらゆるところを飛びまわって、果ては空へ舞い昇って消えた。それはこの町の終焉の火を水音に霧消させたように淋しい風景であった。
ピアノ弾きは瓦礫に挟まれ、頭蓋骨を砕き血を流して死んでいた。
雨だれ