海へ/エメラルド・ポートレート
海へ (5/18)
目が覚めたら先ず彼をなぞる。
隣で仰向けに横たわっている。触れると、少しひんやりする。私は、産み付けられた卵から次々とうじが孵って蠢いているような生命の気配を、ほのかに予感した。(もちろんこれは思い過ごしだ)
幾度目かの不安に、私はまたもや脂汗を滲ませた。
彼のさらりとしたおでこにそっと掌を乗せて、胸の、心臓の辺りに耳をあてる。
さらさらと耳に流れ込んでくる波の音。再び眠りに落ちてしまいそうな心地良い音。私はそのままの姿勢で、彼の顎や睫毛をぼんやりと見つめていた。
私は今、彼の上を歩いている。
彼に溶けた砂粒たちに私の足は沈んで、ぐにゃりと指の間に入り込んでくるその感触を確かめていた。――ああ、冷たい。寄せては返す彼の温度は、極めて優しく私を包み、そして刺した。
「ん…」
思わず息を漏らす。聞こえてしまっただろうか。彼に。彼はいつだって聞いていたのではないだろうか。まるで、激しくなったり弱まったりを繰り返しながらしつこく降り注ぐ、真夜中の雨のような呼吸音を。
もしそうならそれは何よりも恥ずかしいことかもしれない。
脚が感覚を失ってゆく。――私が、彼の中へ入ってゆく。もうこの足は私のものではない。
身を震わせる。限界まで濡れたスカートが、もはや痛みを知覚することすらままならない冷え切った脚に絡みつく。それでも私は何かに操られるように、突き動かされるように、歩みを進めた。
彼は脚から腹へ侵食し、胸全体を痛みで締め付け、無垢な、その白鍵のような指でゆるゆると私の首を撫で上げ、口を覆った。既に線香から立ちのぼる煙のようにか細かった私の息は、完全に行き場を失った。
目を見開いて、きつく閉じる。そして何度も彼を飲んだ。――彼が私の中へ入ってゆく。徐々に頭が痺れだす。前にもこんなことがあった。何度も、何度も、彼とこんなことをした。
もう一度目を覚ましたなら、私は力いっぱい泣き叫ぶだろう。それはそれは、うまれたての赤ん坊のように。
エメラルド・ポートレート (5/21)
「ではお願いします」
言うと、彼女はぐっしょり濡れたワンピースを浴室の床に脱ぎ捨てた。元は初夏の色をしていたそのワンピースは、水を吸ったせいでまるで黒板のような濃緑色に変わっている。
彼女は全く羞恥を滲ませない。短い黒髪と澄み切ったブラウンアイは、磨り硝子越しの午後の陽も相俟って、ビニールプールに入る前のこどもみたいだ、と僕は思う。
露わになった彼女の小さな胸は重苦しさから解放されて、どこか嬉しそうに白く光っていた。
「もう一度入ってください」
彼女は小さく頷くと浴槽の縁を跨ぎ、静かにその身をぬるま湯の中に沈めた。
「やっぱり気持ちいい」
はにかみながらひとりごちる。乳白色の小さい歯。
彼女はすっと表情を消すと(僕はそれと同時に首から下げているカメラを構えた)、腕を脱力させ、浴槽の底にぴったりくっ付いた内腿の間にだらしなく置いた。そして縁に頭を乗せ、こちらを向くと、素晴らしく物憂げな顔をして見せた。
息を呑んだ。まさに蛹が蝶になるその瞬間を見てしまったかのようで。
僕はつとめて冷静にシャッターを切った。そいつは次々と眼前の光景を飲み込んでいった。枝垂れた髪からのぞく瞳。酷く緩慢な瞼の開閉、奥まった二重幅が見え隠れする…。そいつは彼女の刹那的な煌めきを、一つ残らず食べ尽くした。
「あの」
それは僕の声である。カメラを顔から離し、直接彼女を見ながら続けて言った。
「手の指に、風呂栓のチェーンを巻いてみてはくれませんか」
「チェーン?」
彼女が繰り返す。そして、少女の長い髪を一房拾い上げるかのようにそれに触れた。
「薬指に…左手の。軽くで構いませんので」
少々うつろな眼で彼女はチェーンを弄んでいる。僕に言われたとおり、左手の薬指に巻こうとして、ふと顔を上げ、
「神山くんがやって?」
と言った。僕は一瞬呆けた。しかしすぐに「ああ、その方がいいですね」と返した。僕はカメラをエメラルド色の小さなバスチェアに避難させてから浴槽に寄り、彼女と同化した液体の中に両腕を入れた。
脚が尾ひれに変わり、人魚になってしまったなら、彼女はずっとここに居てくれるのではないだろうか――。彼女の、ふやけた指の凹凸。サークルを辞めた後も、大学を卒業した後も、僕はその感触を忘れることができないのだと思う。
海へ/エメラルド・ポートレート