世界はギャルゲー(と魔法少女)でできている。

行くあてはないけど ここには居たくない
イライラしてくるぜ あの街ときたら
(BLANKEY JET CITY/小さな恋のメロディ)

世界はギャルゲーでできている。

《0》


 私たちはミステリーという畸形に包含された生き物だ。
 どれだけ足掻いてもその柔らかな粘膜を破ることはできない。
 残念だけど、これはそういう物語だ。諦めて欲しい。


《1》


 この世界じゃない。
 あいつがいなくちゃ駄目なんだ。
 そうだろう?――モニカ
 今、行くから。


《2》


 拝啓、お兄ちゃん。
 何故私はこんなところにいるのでしょうか?
 突発的な覚醒を経てからの原初じみた疑問の発露。
 巣鴨丹香子(すがも にかこ)は小首を傾ける。彼女の足元を端に広がる世界は八畳ほどの洋室である。
 何かが終わり、そして何かがはじまったのだ、と十七歳の彼女は賢しくも他所事のように思い至る。
 本人の了解もなく、
 ほとんど暴力的とも云えるはじまり。
 殺風景、と断じてしまうほど調度品に恵まれていないわけではない。
 壁紙は薄桃色で、北側には(正確な方角など判る筈がない。丹香子の真正面、という意味だが)ふかふかと顔を埋めたくなるようなセミダブルのベッドと、その脇にちょこんと角度をつけたブラウン管テレビが暗い光を放って無音を湛えていた。
 採光を招き入れる窓などの類はひとつとしてなく、大きな板チョコレートのような木製の扉が左右に一つずつある。
 どちらとも片開きで、そしてどちらとも堅く閉じられていた。
 確かめたわけではない。ドアノブを捻れば容易に開くかもしれない。扉がある以上、全く無意味な感想になるのだが――丹香子はこう思った。
 密室だ、と。
 そして私が今ここで死ねば、密室殺人になるわ、と。

 床はニス塗りの化粧板敷きで、故に丹香子はここを洋室だと捉えた。如何せん薄弱な根拠ね、と苦笑いのひとつを浮かべながら、更に思考を加速させる――加速――かそ――させ――――おや?
 丹香子は思考を中断し、上半身を僅かばかり屈めた。
 目を眇める。

 セミダブルのベッドの下でピンク色の物体が蠢いている。
 赤ん坊くらいの大きさはありそうだ。

 しかしこれが本当に赤ん坊なら飛び切りのホラー映画だろう。それもとことん悪趣味な。
 何故ならピンク色の物体は明確な意思を持ち、丹香子の方へと“にじりにじり”と這うように近づいて来たのだから。
 格闘技の心得などまるでなかったが、突然跳びつかれたら蹴り落とすくらいの覚悟はできていた。
 丹香子は腰を落として構える。

「止めたまえ、お嬢さん。そんなことをしたら僕の身体は木っ端微塵に吹っ飛んじまう」

 声の発信源は明らかにピンクの物体からで、ここまで来るとさすがに丹香子も視認しているのだが、強張る身体から緊張を解くことはできなかった。
 ホラー映画?
 確かにホラー映画だ。丹香子の認識には、そこにパニックの一語が冠として加わる。

 丹香子の足元に姿を現したのは、戦闘機のように美しい流線型のフォルム。所々角張ったピンク色の肌とのコントラストが凄まじく滑稽だ。

「やれやれ困ったな。蹴られちゃ一溜りもない。……そうだ、何時ぞやあのペンキ屋は言っていたな……女の子に警戒されたら冗句を振る舞ってあげなさいと。ではお嬢さん、彼方昔に我々の間で流行った冗句を披露しよう。鰐の冗句なんてそうそう聴けるものではないよ?」

 そう、鰐だった。
 ピンク色の鰐が人語を操っていた。
 しかし丹香子は人語を話す鰐の非常識さよりも、その少し芝居掛かった声色に酷く魅了されて、思わず涙ぐみそうになった。甘過ぎず、だからといって突き放したふうでもない。生前、丹香子が大好きでファンクラブにも入った人気男性声優の声音もこんな感じだった。
「こんにちは、お嬢さん。アロハ、ニーハオ、ボンジュール……意味は通じているかい?」
「こ、こんにちは」
「そう、こんにちは」鰐は目を細め、ゆったりと微笑む。「まあここでは時間の概念なんて水泡にも満たないがね……立ち話もなんだね、そこのベッドに腰掛けるといい」
 鰐に促され、丹香子は制服のスカートを正しながらベッドの端に座った。
「そうだな……僕もそこがいい。君の隣がいいな。すまないけれどそこまで持ち上げてくれないかい?」
 
 君の隣がいい。
 十七年という、生きているんだか死んでいるんだか永遠なんだか破滅なんだか品別けできない丹香子の人生史上を紐解いても、そんなミルフィーユの一番甘い部分を刳り貫いたような言葉が学生生活を彩ることなどただの一度もなかった。
 君の隣がいい/素敵な声。
 丹香子の全身に多幸感と充足感が一遍に襲い掛かる。ショーツの中が絶望的に濡れる。
 丹香子は値打ちの判らない陶器を扱うように恐る恐る鰐を持ち上げて隣に移動させる。
 なんとなく気まずい沈黙だった。爬虫類にまで気を遣う自分がなんだか情けない、と丹香子は暗澹たる気持ちになった。
「……あのう、この部屋は中部屋のようなものなのですか?」
「君は演繹法が好き?」
 丹香子はぎょっとする。驚きを気取られないように平静を装う。思考を先回りされたのだろうか……つまり、トレース。だとしたら随分と頭の回転が早い爬虫類だ。
「演繹にも帰納にも好き嫌いはありません。所詮は手段ですから」
「思考に飛躍が見られるようだけど」
「気のせいでしょう」
「扉は二つある。窓がない。そして何より生活臭がない。だとしたらここが、部屋と部屋との間に挟まれた空間だという考えに至っても、僕は何ら不思議ではないよ」
「……違うんですか?」
 丹香子は向かって左側の扉を指差す。
「この扉はどこに繋がっているんですか?」
「入口、あるいは出口かもしれないね」
「じゃあこっちの扉は?」
「出口、あるいは入口かもしれないね」
 見事にはぐらかされた。昨今の鰐は人をおちょくるのがお好みらしい。
「巣鴨丹香子くん――だったかな。いや、女性に“くん”は失礼か。あまりにも端的に云ってしまうけれど、君は死んだ。ついさっきのことだ。それは憶えている?」
「はい……恐らく」
 登校途中の出来事だった。青信号は絶対に安全だと妄信していた丹香子は、飛び出してきた2tトラックに右半身を攫われたのだ。
 丹香子は中空に舞い上がり、
 骨の軋む音を聴き、
 強かに血を吐き出しながら流転する世界を眺めていた。随分と長い滞空時間だった。やがて否応なしに地面に叩きつけられるが、痛みなど微塵も感じなかった。コンクリートの冷たさも。全身の感覚の、五指の末端に至るまで自由が利かなかった。
 そこから意識がない。ごっそりと削られたように、記憶がない。
 そして目を覚まし、気がつけばこの部屋にぽつりと佇んでいた、という次第だった。
「ここは、どこなんですか?」
「天国、あるいは地獄かもしれない」
「茶化さないで」
「茶化してなどいないのさ。名前なんてない。それでも強いて名を与えるなら――そう、『楽園』に向かう途中だろうね。さしずめここは入国審査場と云ったところか」
「私をどうするんですか?」
「ここはどこ、私をどうする、か。それはね、巣鴨丹香子嬢。本当は君じゃなくて、彼のほうが訊きたいことなのかもしれないぜ?」
 
……彼。
……誰?

 鰐は綿棒のように愛らしい前足をちょこちょこと振ってみせる。
 するとテレビが点灯し、突然のことに丹香子は肩を震わせて驚く。
 手品が成功してご満悦なのだろう、鰐は鼻を膨らませて得意気な顔をしてみせた。
 画面は次第に色を帯び、風景を象り、飛行機の中を映し出した。
 ズームアップを繰り返し、一人の青年の姿を画面一杯に捉える。
 ダークグレイのブレザーを着た茶髪の青年。
 頬杖をつきながら、ぼんやりと窓の外を眺めている。紙コップで飲んでいるピンク色の液体はジュースだろうか。
「では、ご覧頂こうかな」
 鰐は云った。
「愛と幸福の世界に閉じ込められた男の物語……これから彼がどうするか、僕は知らない」
 丹香子はテレビに意識を向けた。
 ショーツの中はすっかり乾いていた。


  *   *   *

 僕は覚醒する。
 濃厚なイチゴオレが覚醒へといざなう。
 空調によってほどよく涼しく保たれた機内に、口腔に拡がる頭の痛くなるような甘ったるさはかえって心地良かった。
 着陸アナウンスを頭上に聴き、東基美樹(あずま もとみき)はテーブルのイチゴオレを急いで飲み干した。
 クシャリと握り潰した紙コップを見つめながら、こいつと一緒だ、と基美樹は思った。嫌な過去とか記憶もこんなふうに簡単に握り潰してしまえたらいいのだけれど。
 過去を思い記憶を憂うが、出てくるのは握り潰したいような類ではなかった。――救いようのない学園のどたばた。
「ご気分が優れませんか?」
 よほど忌々しげな顔をしていたのだろう、フライトアテンダントが心配そうに訊ねる。
「いえ、なんでしょう……」基美樹は自分の髪を小さな束にして攫む。「そう……少し、淋しくなっただけです。何故だかよく判らないけど」
「その気持ち、よく判ります」隣に座ってフライトアテンダントが天使のように微笑む。
「本当に?」
「ええ、本当に。こうやって飛行機に繰り返し乗って旅をしていると、なんだか空港に一個ずつ落し物をしているような気分に陥るの。大事なものから瑣末なものまで、大小様々な落し物をね。だから飛行機に乗り込む前にいつも後ろを振り向いて足元を見つめるの。こう……ぐっ、と気を張り詰めさせて。でも駄目ね。知らず知らずの内に耳から零れ落ちてしまうみたい。ぽろ、って」
 彼女は自分の耳に掌を当てて小首を傾げる、掌を拡げる、指先には一枚の紙片。それを基美樹に握らせる。憎い手品だ。紙片には彼女の連絡先が書いてあった。どうやら本当の天使らしい。
「これは大事なものですか?」止せばいいものを、舞い上がって基美樹は訊ねる。
「落し物は素直に持ち主に届けるべきよ、学生さん。紅い花束も忘れずにね。――さあ、もうじき着陸よ。しっかりシートベルトを締めて。ねえ、学生さん? こんなことって手垢塗れで、酷く月次な応援になってしまうけど、もしある種の淋しさを抱えていて、それが喪失による苦悩だとしたら、貴方は血を流してでも奪って取り返さなくてはいけないわ。どうか闘うことを懼れないで。世界に屈しないで。――よい旅を。Good Luck」
 投げキスの爆弾を落として天使が去っていった。
 よい旅をも何も、と窓から地上を見下ろす。飛行機はぐんぐんと高度を下げ、ジオラマじみた風景に命が吹き込まれる。
 確かな実体と確かな色。地面にしっとりと染み込んだ花と太陽と雨の匂いまでも立ち込めてきそうだった。
 ポーン、という電子音が無事に着陸したことを報せる。滑走路を鈍重なウミガメが這うようにゆるゆるとターミナルへ進む。
 ここは僕の町だ。愛すべき、僕の町――――三聡(みさと)市。
 埼玉県南部最東端に位置するここは東京のベッドタウンだ。嘲るわけではなく、一市民としての率直な感想である。小学校の頃にも社会の授業でそう教わった。
 飛行機を降りて手荷物を受け取る。機能的意義などほとんど為していない学生鞄を肩に掛ける。教科書が入っていないから軽い。さてと。
 総人口約十三万。世帯数六万足らず。平均年齢、高齢化率……さすがにそこまでは寡聞にして知らない。が、この町の老人ホームの多さを鑑みればぼんやりと想像はつきそうだ。少なくとも煌びやかな若者の町ではない。
 売店でステーキ弁当を買って空港から脱出し、タクシープールに向かう。どうにかならないだろうか、案内板に従いながら行っても本当に自分が正しいルートを辿っているのか不安になる。新宿駅なんか最たる例だが、日本は構内をもう少しシンプルに造るべきではないか。
「あんなにいらんだろ、土産物屋の数……」
 タクシーに乗り込むとすぐさま発車した。浅黒い肌をしたアフロ頭の運転手。亡霊と見紛うほど、松田勇作に酷似していた。
「どちらまで?」
「……三聡高等学園まで」
 すちゃ、とサングラスを装備すると、松田亡霊勇作はニヒルに口元を歪めた。
「おいおい、もう昼前だぞ。だのに学徒の分際で重役出勤とは随分ハードボイルドじゃないか。ここは世界の終わりか? ワンダーランドか?」
 先生、こいつ意味判りません。
「おいおい学徒。春樹も未読とは嘆かわしいね。いつから俺たちはそうなっちまった? ピンボールに明け暮れるだけが人生か? ――『ピンボールの目的は自己表現にあるのではなく、自己変革にある。エゴの拡大にではなく、縮小にある。分析にではなく、包括にある。もしあなたが自己表現やエゴの拡大や分析を目指せば、あなたは反則(ティルト)ランプによって容赦なき報復を受けるだろう』」
「『良きゲーム《ハヴ・ア・ナイス・ゲーム》を祈る』……でしたっけ?」
 美味しいところはちゃっかり頂く。仕方ない。少々この亡霊との会話に付き合おう。
「よく云った学徒。よくぞ憶えていたな兄弟。文学少年たるもの、春樹を読まずしてその名は語れんよなあ」
「さっきの言葉は春樹のものじゃなくてモロニーの引用ですけどね」
 ピンボールの権威/レイモンド・モロニー。しかし本当に実在した人物なのだろうか? 村上春樹の小説は嘘が多過ぎる。それも若い男の一個人生を徹頭徹尾狂わせ兼ねない嘘に満ち溢れているから手に負えない。
「正直、同じ村上なら龍先生のほうが僕は好きかな。それから、ライ麦は断然野崎訳ですね」
「おや、野崎訳を推すのかい?」
「……なんだか不服そうですね。リーダビリティの問題ですか? テキストの古さは風化みたいなもんでしょう。村上訳はあまりにも村上春樹過ぎるんですよ。某国民的アイドルが何を()ってもそいつにしかならないのと似たような感じ」
 国道二九八号をひたすら北上している間、大いに会話が盛り上がり、「都知事はクソ。なんで選考委員やっちゃってんの?」とお互いの意見が見事に合致したところで学園に着いた。
 多少のチップも上乗せして運賃を払おうとすると、「恰好付けんのは大人の仕事だ」と撥ね除け云い放ち亡霊はブロロロと走り去っていった。
「……ま、いいけどさ」
 直接生徒棟に出向かず、学生食堂で弁当をレンジで温める。それから生徒棟へてくてく行くところで見知った顔を発見した。
 花壇で土いじりをする幸房音々(こうぼう ねね)だ。まだこちらには気付いていない。基美樹は後ろからそっと忍び寄り、音々のお団子頭を鷲掴みにした。
「むぎゃー!!」
 ロリっとした声が断末魔も斯くやあらむと云った具合に悲鳴を上げる。あまりにも大音声なので生徒棟の窓から「何事何事?」と顔どころか上半身まで乗り出し今にも墜落しそうな生徒までいて、自分の軽率さを戒める反面、ほとほとこいつらトラブルイベントに餓えているのだなあ……と感慨深くなった。
「よっす。どもども。悪かったな、音々。お団子があると、こう、なんつーか……攫みたくなるのが人情? みたいな」
「これはお団子じゃなくてシーニーヨーン! シニヨンだよっ!」
 本当はポカポカ殴り掛かりたいのだろう、しかし土で汚れた手が邪魔して幼い身体をバタつかせるだけに済んでいる。こういう計算が瞬時に出来てしまう優しい娘なのだ。
 シニヨン、という新しい単語を脳内辞書に登録。オーケー、次は間違えない。
「なあ、ロケット部のお前がどうして土いじりなんかしてんだよ? 黒色火薬でも栽培してんのか?」
「んにゃもん、できるわけねーですよ!」
「そりゃ尤もだ」
「フッフーン。千祭の姉御に教えてもらったですよ」
――高州千祭(たかす ちまつり)。その名を聞いて嫌な予感が冷や汗となって頬を伝い落ちる。
「教えてもらったって……何を……?」
「ちょい、ちょい、アズマ。手が汚いから、代わりにポケットを調べて欲しいー」
 やる気のない駱駝の瘤のような小さな尻を突き出す音々のスカートのポケットを弄る。情操教育上、女のスカートに手を突っ込むというのもあまり誉められた構図ではないが、初心な中学生でもあるまいし、これしき照れることでもない。
「こっち?」
「むぎゃ! どさくさに紛れて変なところ触るなー! 反対のポケットだよっ」
「へいへい……」
 不承不承、手を突っ込む。お、手応えあり。引っこ抜いた手を基美樹は見つめた。

 柿の種だった。

「…………」絶句。
「ど、どーしたアズマっ! 何をだんまり決め込んでるんだ!」
「だって、お前、これ…………」
 もう一度云う。
 柿の種だった。
 ビニールの小袋にぎっしり詰まった三日月型のあられと申し訳程度に見え隠れしているピーナッツ。酒の肴のトップアイドルと評価してもよかろうそれは、紛う方なき柿の種だった。
「い、いや、あのなっ?」と音々は狼狽えたように弁解口調で話し出す。「あたしも嘘だ嘘だって思ったよー? 柿の木なんて絶対に生らないーって言い返した! でも千祭の姉御が云うには、柿の種は臼で挽き潰した本物の『柿の種』を練り込んでるから、土に植えた場合、極稀に柿の木が生るって云ってた! 嘘じゃない! なんだか夢があって素敵な話だって……あたしは感銘を受けた!」
 オーケーオーケー。突っ込みたい気持ちは山々だが、無下に子供の夢を壊す必要もなかろうて。ここは一つ、この幼児体型にサンタクロースの存在の有無を問い質したい気に囚われたが、
「まあ……何だ、その。音々、頑張れ。立派な柿の木を育てて僕に柿サラダを食べさせてくれよ」
とだけ云っておいた。それ以上喋ったら涙が出そうだった。なんだか気の毒過ぎて。
「まっかせろー!!」
 音々は薄い胸を張って高らかに叫ぶ。
 まあいい。そろそろ行こう。弁当が冷める――と踵を返す。
「あっ、アズマ! 今日は部活に出るのかー?」
「行くよ。今日はそのためだけに来たようなもんだ」
 基美樹は口笛を吹いて昇降口を上がる。奏でるはジャズのスタンダード・ナンバー、ルイ・プリマの『シング・シング・シング』。胎教としてよっぽど聴かされていたのだろうか、その曲は基美樹の身体によく馴染んだ。今にも踊り出したい気分だ――本当に産まれる前から知っていたような気さえする。
 教室の前に立ち、地鳴りのような騒ぎに毎度のことながら呆れ返る。昼休み真っ盛りとは云え、いったい何がそんなに楽しいんだ?
 やれやれ、これじゃブーメランだ。
 基美樹は己に問い掛けずにはいられない。

『生きてて楽しいか?』

 気の利いた解答も思いつかないまま、扉を開いた。教室に入れば一個風景としてすぐに溶け込む。自分が世界の主人公だと勘違いしていた素敵な少年時代は終わったのだ。
 窓際から数えて二つ、後ろから三つ目の席に座って弁当を拡げる。矩形に寸断された黄金色のステーキが粗雑な教室に未知なる香りを漂わせる。痛いほどの視線。さすが一五〇〇円。白米一つ取ってもぎゅうぎゅうに敷き詰めたコンビニライクなものではなく、空気を含んだようにふっくら膨らみ輝きを放っている。
――十時の方向から声が飛んできた。
「野獣の園にステーキとは随分厭味ねえ、博覧強記?」
「その呼び方は止めろ――千祭」
 フフ、と千祭は妖艶に微笑み、栗色の緩くウェーブ掛かった髪を手で弄ぶ。
「ねえ、博覧強記? 人間が生み出した最大の罪って何かしら?」
「核兵器。音々ならそう答えるかもしれない」
「んもぅ、焦らすものじゃないわ。アンタの解は?」
「罪かどうかは判らないが」ステーキを咀嚼して飲み込み、云った。「女の溜め息だろうね」
 千祭の机がカタンと音を立てる。彼女は舌なめずりして立ち上がり、猛禽類も真っ青と云った速度で跳び付き基美樹に熱い抱擁を喰らわせた。
 遠慮も配慮もへったくれもない、正に“喰らわせる”という表現が最も適切だった。
「あぁんもぅっ、実に文学的(クール)ねえ。アンタのそゆとこ、大好き。童貞貰ってあげようか?」
「痛い。痛い痛い千祭。首死ぬ。そして乳押し付けんな。お前の求愛は叙情的じゃないんだよ。そこんところ少し判れ。あと音々に変なこと吹き込むな。いやだから股間触るな。い、痛い! く、首があらぬ方向に曲がりそうです!」
「お、お兄ちゃんに近づくな――――――――!」
 五時の方向から少女の声。
 教室の扉をバシンと開け放ち、褐色肌の銀髪ツインテールがつかつかと組んず解れつする基美樹と千祭に歩み寄り、仁王立ち。蒸気機関車のように鼻息荒く、怒り猛っている様子。
 彼女は東刹那(あずま せつな)。基美樹の妹である。
「あらぁ~ブラコンじゃない。元気してた?」
「お、お兄ちゃんから離れろ! この……歩く……猥褻物陳列罪め!」
「それを云うなら服を着た猥褻物陳列罪じゃなくて? 皆目意味判らないけど。それよりブラコン、二年生の学び舎の敷居を土足で跨がないで頂戴。身体も思想も汗臭いのよアンタ。見ていて忍びなくなるわ……ほら、判ったら木人相手に組体操でもやってなさいよ。ほら、行け。しっしっ。あーくっさー(笑)」
「く、く、臭くないっ! わ、私は! ふ、ふぐるぐるぐるぐる…………」目にこんもりと涙を溜めて野獣の如く唸る刹那。
 おいおい、もうその辺で止めておけって。こいつは弁が立たないんだから……などとは口が裂けても云えない基美樹だった。
 沈黙は金である――そう云えば美しく聴こえるかもしれないが刹那のそれは彼女自身にとって肥大化した劣等感の塊だ。実の兄がそれを徒に刺激しても仕方ない。猥褻物陳列罪を噛まずに云えただけでも表彰モノだ。おい、そろそろ離れろ千祭。
 刹那は言葉を組み立てるのが病的に苦手だった。酷い言い方に聞こえるだろうが、これでも随分マイルドに譲歩した評価である。
 小さい頃などほとんど喋らなかった――否、喋れなかった、と云ったほうが適当だろう。初めて言葉を発したのも四歳という尋常ならざる遅さだった。一時は言語野に障害ありとまで云われたが、本人に向けられた言葉や本に書いてある言葉は理解しているようで、医師によれば極めて軽度の運動性失語症――ということだった。極めて、というのもまたマイルドな表現だった。
 なので自然、彼女の興味は己の身体のみ向けられた。完全なる肉体と戦闘力の蓄積――つまり武道。誰よりも賢くなくていいから、せめて誰よりも強くありたい。強さが尺度、強さこそが指標。運動場の横で本人自作の木人人形(土木工作は得意)をサンドバッグ代わりにどんな運動部員よりも汗まみれになって打ち込んでいる姿は、そんな彼女の強さに拘泥する愚直な決意が読み取れるだろう。
「ねーぇー? 博覧強記ぃ、このお肉食べていい?」
 基美樹の首にぶら下がり、ほとんどお姫様抱っこのような恰好で甘え声を出す千祭。それを見て血涙を出さんばかりに一層悔しがる刹那。
「駄目。――刹那、何か用があって来たんだろう」
「う、うん……」躊躇いがちに刹那は俯く。「持ってきた、お、お弁当……お兄ちゃんに……焼肉の……。買い食い……昼休み……いつもだから……」
「作ってくれたのか?」
 こくん、こくん、と頷く刹那。その拍子に涙がぽろぽろと落ちる。
「ありがとうな。弁当が二つになって助かったよ。これじゃちょっと足りないと思ってたところだから。あーっと、それと、今日の放課後にミス研の集まりがあるんだ。刹那も来るか?」
「…………」こくり。
「アタシも行くけどねー」しれっと千祭。
 二匹の雌の視線がぶつかり合う。どうでもいいけど、マジでそろそろ弁当を食わせて貰えないだろうか?
「食事中に失礼する! 東基美樹はおるか! 大事な話をしに参った。出て来てはくれまいか!」
「ひゃっほー貰えませんでしたー!」
 今度は反対側の扉――弛んだ空気を糾すようなダイナマイトボイスが教室中に轟き、携帯電話やら漫画雑誌で昼休みの無聊を慰めていた生徒はすわ緊急事態と脊髄反射の要領でささっとそれを机の中に隠した。没収を懼れてのよく訓練された動きだった。
「モテモテだわねえ、博覧強記?」と囁く千祭は一ミリも笑っていない。「どうやらアンタの妹以上に頭の悪い奴が来たみたいよ」
「妹の件は余計だが、頭の悪い部分には同調しよう」
 昼休みの闖入者を基美樹は見留める。
『これ』と特筆すべきもない平均的な身長。意志の強さを誇示するような鋭い目つき。唇は桜色、髪は鴉の濡れ羽色。まだ穢れを知らぬような肌の白さ。未改造のスカートは膝下まで隠して遊び心など微塵もない。これが世界に誇るべき大和撫子だろうかと皮肉の一つも浮かびそうなものだが、腰に提げた木刀はどう贔屓目に見てもキャラクターが過ぎる。二の腕の腕章などなくとも、彼女の名前と役職を知らない寸足らずはこの学園にはひとりとしていないだろう。
 生徒会執行部会長――鷹野氷柱(たかの つらら)、ここに見参である。
「じゃ、あとは頑張って」と千祭は自分の席に戻り、飛び火だけは御免蒙るとばかりに完全傍観を決め込む態勢となった。
 す、と地面を擦るように会長が動く。
「其処におったか、東基美樹。逢いたかったぞ」
「女性から遭いたいだなんてまったく僕も男冥利に尽きますね。殊に会長とあらば光栄の至りです。惜しむらくはここが衆人環視であることでしょうか」
「ははっ、相変わらずの名調子だな」と肩を竦める会長。
「虫の居所が悪いと喋り続ける癖があるんですよ。そうしないと自我を保てないんです。して、ご用件は? 実は腹ごなしがまだなんですよ。手短に済ませて頂けるとめちゃくちゃ有難いんですが」
「用件、か。そんなもの、おぬしも判っておろうに。再三に渡って申してきた筈だろう」
「虫の居所悪いっつってんのに、こいつ凄いスルースキルね。お耳はあるのかしら」
「……聴こえておるぞ、高州千祭」
 氷のような冷たい視線を向けられ、オーライオーライと手を振る千祭。頭の方は更生の余地なし、と判断したらしい。
「用件はまた新聞部の勧誘ですか?」基美樹は脚を組み、こめかみを指で三回叩く。「参ったな。僕とて再三云ったでしょう。ジャーナリズムは僕の専門外ですよ。僕はテレビも見ないし新聞も取らない。政治経済芸能並びにスポーツはまったくと云っていいほど興味がない。年端のいかぬ少女が誰に犯されようが知ったこっちゃないし、政治家の汚職も都知事の馬鹿発言も食品偽造もデモ活動も僕の前では情報として等しく無価値です。サッカーの有名プレイヤーを知らないことが一体何の罪になるでしょう。そんなものを頭に詰め込むくらいなら赤提灯でくだ巻く酔っ払いのゲロ掃除でもしてたほうがよっぽど建設的でしょうね。はっ? ジャーナリズム? ディケンズが没して一世紀以上経とうってのにそれはナンセンス極まりないですよ。僕はジャーナリズムより断然アナキズムを推したいお年頃ですよ。――さて、ここまでダダッと持論を述べましたが、僕は日本人として恥ずかしい人間でしょうか? 当然の義務を放棄した非国民に見えるでしょうか? そう見えるならどうぞご自由に。事実僕は自由でありたいだけですからね。報道もまた自由であるように」
 ふぅ、と会長は嘆息を漏らす。
「長口舌御苦労……と云いたいところだが、論点が掏り替わっておるぞ。我はおぬしの人間批判をするつもりなど毛頭ない。我は買っているのだよ、おぬしの非凡な才能を」
「それは買い被りというやつです」
「東基美樹――高校生ディベート大会二連覇――破竹の三連覇も夢物語ではないと専らの噂だ――そして今年度の日本文学論文コンテスト受賞者でもある人間がどの口でそれを云う? 我の耳には厭味にしか聴こえんな」会長は吐き捨てる。
「こんな木っ端学生でも僕は謙虚に生きてるつもりなんですがね。木っ端は木っ端らしく舞台袖にいたほうが波風立たなくていいと思いますよ」
「ふんっ、厭味の次は自虐か。いいか、木っ端などと自虐するな、東基美樹。もっと誇れ。胸を張れ。流言蜚語に惑わされぬ曇りなき真実を見詰めるおぬしの眼は、現下の新聞部に必要不可欠だ。我は一石を投じたいのだよ。おぬしという石のフリした焙烙玉で、あの、じゃーなりすと気取りの与太郎どもの土手っ腹に風穴を開けてやりたいのさ。ふははっ、大層愉快であるぞ!」
 独りで勝手に盛り上がっているところ恐縮だが、やれやれこれじゃあ平行線だと基美樹は頭を痛めた。ロキソニンをビールで胃の腑に流し込みたい気分だ。

 生徒会は会長率いる執行部をピラミッドの頂点として下に三つの『支援部』を抱える。が、傘下とは名ばかりでそれらは完全に独立した組織であり、各々好き勝手やっている無法集団だ。生徒会なのに無法集団とはこれ如何に。組織同士の干渉は紳士協定的に堅く禁じられている。下手に余計な口出しをすれば奴らは武器と矜持を手にして進軍を開始するだろう。そうなれば丁々発止の大戦争である。――冗談ではなく。三聡高等学園こと三学(サンガク)は自由と自主性をウリにした校風で、今時珍しくもないだろうが生徒達にその自治が委ねられている。学園祭を取り仕切るのも修学旅行のプランを練るのも生徒任せというわけだ。従って生徒会同士の諍いも好きにしろ――というわけでは断じてない。それは学校行事の自由とはまた意味合いが違ってくる。
 やるなら学外でやれ――そういうことだ。
 話し合い/殴り合い/強請り合い――なんでもござれのストリート・デスマッチ。ルールは簡単。とにかく生徒会同士の下らない軋轢を学内に持ち込まぬこと。それだけ。レイプと殺人だけは絶対にしないこと。それだけ。
 支援部のひとつ『生徒会新聞部』は執行部を喰らうような勢いでその勢力と実績を伸ばしつつある。新聞部編集長は鷹野焔(たかの ほむら)、二年生。姓がダブっているのは偶然なんかではなく、焔は会長の腹違いの妹である。
 豆を煮るにまめがらを焚く、という中国の古い喩えがある。まるでそれを体現するかのように二人の姉妹仲は悪かった。
 以前、基美樹は二人のいる場でぽろっと云ったことがあるのだが、彼女達はどっちが豆でどっちがまめがらなのかと鼻先をくっつけんばかりに言い争った。豆もちっちゃければ喧嘩もちっっちゃい。しかし姉妹というのはそういうものなのかもしれない、と基美樹は思う。喧嘩の発端が小さければ小さいほど、その度合いは熾烈を極めるものだと。
 他校については知るべくもないので相対的な評価は難しい。しかしそれにしたって新聞部の発行する『サンガク新聞』は酷かった。読者の劣情を煽るという意味では成功しているかもしれないが。
 レイアウトの無駄遣い、と云うより他にない、一面の大見出しには『某部マネージャーの意外な素顔!? ディスカウントで愛を売る保健室の××』『アイドル女教師徹底解剖! 男子が知りたい彼女の生理周期』『三聡通り魔事件終結、犯人は××中学男子。未成年の心の闇に迫る!』などと有害コンテンツ上等という感じの記事ばかりを彼女は扱い書くのだ。しかもプライバシー保護の役割などほとんど為していない黒線入りの写真つきでやるものだから手に負えない。これではカストリ誌同然だ。
会長は新聞部の上に立つ者として――腹違いとは云えどひとりの姉として、愚かな妹の蛮行を心配しているのだ。当然、教師にだって目をつけられているし、警告訓戒説教だって一度ならずだ。鷹野焔は危険人物である。千祭の情報によれば新聞部はほとんど解散寸前で、教師達にそれを強いられている。学園における情操教育の弊害となってしまうなどというのはとんでもない建前で、ただ教師達は懼れているのだ。次は自分達が新聞部の餌食になるのではないかと。
 と、そこで会長は一計を案じる。新聞部にも干渉できず、教師達の云うことも利かないなら、刺客を送り込めばいいのだと。内部に駒を潜り込ませて盤面を引っ繰り返すような改革を起こせば新聞部は存続できる。もしかしたら妹の更生だってできるかもしれない。とても少ない可能性だけれど妹との仲だって劇的に良くなるかもしれないのだ。
 そこで迷惑な白羽の矢がぷすりと立ったのがこの僕――東基美樹である。
「それにな」と会長は咽喉の奥でくっくと笑う。「少々気になったもので、おぬしのことを調べさせてもらったよ。いやはや、実に面白いことが判った。まったく一杯喰わされた心地だよ。東基美樹――おぬしは、ぷろの小説家だったのだな」
 まずい、と基美樹は思う。この場でそれは禁句だ。
「うへぇ……調べるって、どんだけこいつのこと好きなのよ」
「誤解してもらっては困るな、高洲千祭よ。我はこの男に思慕を寄せてなどいない。才能だよ。我はこの男の才能を放っておけないのだ。ぷろの小説家であることを知り、その想いは揺るぎ無い、確固たるものとなった。東基美樹はほんものの才能を持っておる。そうだろう?――――齢十四にして芥川賞候補に選ばれたのだからな」
 云い終わるや否や、風を切る音が聴こえた。ビシンッ、という鋭利な刃物で紙束を叩きつけるような、音だ。
 いつ、移動したのか判らない。誰も判らなかった。会長でさえ判らなかっただろう、彼女は目を点にして呆気にとられていた。まさかこの場において自分が攻撃の標的になるなど、思ってもみなかっただろう。
 しばしの逡巡があり、沈黙があり、現に起きていることを認め、会長は怒り狂った。破裂せんばかりに顔を赤くさせ、双眸は憎悪の暗黒に満ちていた。叫ぶ会長の声はぶるぶると震えていた。
「どういうつもりだ――東刹那!!」
 会長の腹部、ちょうど鳩尾辺りから腕が伸びていた。
 腕を辿った先には刹那がいる。地面にしがみつくように両足を踏ん張り、腰を低く落として構えている。うら若き拳士の伸ばされた右手は掌底の形で会長の制服の表地をそっと撫でていた。俗に云う、寸止めというやつだ。
 刹那は腕をだらん、と落とし、会長を睨み上げた。
「……お兄……ちゃん、の……小説は、読み……まし、たか?」
「ああ、読んださ」だからどうしたんだという苛立ちがはっきりと会長の表情から読み取れる。
「……どう、思いまし、た、か?」
「面白くはなかった。しかし、若いのによく書けているとは思ったよ」
「……ばか……じゃないの」
「あん? なんだ、もう一遍云ってみろよ小娘。三下。愚図めが」
「おまえは、ばかだ。救いよう、が……ない。小説を、作者の若さで評価して……面白くない、だなんて、小説の本質を、何も……判って、ない」
「云いたいことはそれだけか?」
「うる、さい。死ね」
「死ぬのはお前だ」
「だまれ。死ね」
「殺してみろよ小娘」
 会長はやおら木刀を引き抜き、上段に構える。
「東刹那――訳の判らぬ木の人形を校庭脇に大量投棄しているのは貴様だったな。美化委員会も随分迷惑していると聞く。罪状はこんなところでいいだろう? これで心置きなく貴様を熨せるというものだ。――さあ、構えろ」
 云われ、刹那は一歩だけ後ろに離れる。依然、両腕は見えざる糸が切れたようにだらんと落としたままだ。
 怪訝に思い、会長は顔を顰める。
「なんだその構えは。巫山戯ているのか?」
「ふざけてない」刹那は「お前を殺すには」子供のように「これで充分」無邪気に笑っていた。

……まずい。
「まずいな、こりゃ」
 思わずそのままの感想が出てしまった。
「おい、情報屋」千祭の肩を小突く。
「あらん、その名で呼んでくれてべりべりさんくー。物知り博士さんの博覧強記が今頃何を知りたいのかしら?」
「会長の腕はどれくらいだ?」
「悪いけどスカウターなら持ってないわよ。えとね、剣道の腕前って意味なら超一流でしょうね。彼女の流派は鬼道無念流って云って、そこの門下生の中でも高弟の位にいるわ。ぽっと出のあまり聞かない流派だろうから補足しておくけど、突きは勿論のこと体当たりや足払いといった体術も組み合わせた近頃じゃそう珍しくもない喧嘩剣道ってやつよ。公式ルールもお手の物で県大会で負けたって話は全然聞かないわね。関東だけなら上から数えたほうが早いんじゃないかしら。ま、こんなとこ。情報料はツケにしとくわん」
 さすが千祭。今欲しいだけの的確な情報をしっかりくれる。将来は探偵になりたいと公言しているだけのことはある。
「あー。そりゃもっとまずい」
「会長が強すぎて?」千祭はおどけた感じで云う。
「まさか。僕の妹のほうが三百倍は強いよ。兄の欲目ではなくてね」
「……彼女の戦闘スタイルって八極拳だったわよね。名前だけなら知ってるけど、でもそれってそんなに強いわけ?」
「さあどうだろう。ショートレンジ限定なら無敵を誇ってもいいかもしれない。でもね、剣道と同じようにこっちにだって幾つも流派があるわけで、ひとえに八極拳が強いとは言い切れないさ。――ただ」
「ただ?」
「刹那が扱う沖縄八極拳は対多人数を相手に想定して編み出された立派な殺人拳法だ。これが意味するところ、判るか? 多人数が相手だと、ひとりひとりに時間を掛けることはまず許されない。故に沖縄八極拳は絶対に一撃で屠る。二撃目なんていう甘えはない。緩手は即命取り。喧嘩剣道がなんだっていうんだ? 喧嘩と殺人じゃ、その差は歴然だよ」
 話についていけないわ、というふうに千祭は首を振る。
「埼玉の隅っこのド田舎で何やってんだか。ちょっと博覧強記、アンタ止めなさいよ」
「断る」学生鞄と弁当を引っ掴む。「もう少し面白いものが見られるかと思ったけど、期待した僕が馬鹿だったよ。端から判り切った勝負なんて見たくもないし関わりたくもないさ。それにいい加減こんなどたばたにはうんざりしてるんだ。腹は減ってるし、全員殺してやりたいくらい苛々してる。じゃな、千祭。午後はフケさせてもらう」
 足早に立ち去る。「おい、待たんか! 話は終わっとらんぞ!」という会長の批難を背中に受けるが完全に黙殺する。実は少しだけ心配してしまったが勝手にやっていればいいさ。肘鉄でも喰らって内臓破裂くらいやったら少しはそのミニマム脳味噌もマシになるんじゃないか?
 机と机の合間を行く途中で、
 ふと、一番後ろの席で怯えたような表情でこちらを見詰める女生徒と視線がぶつかる。すると、彼女はぎこちなく微笑んだ。何かを云いたそうにそっと自分の唇を撫で、思案げに顔を浮かせはするが、やはり彼女はぎこちなく微笑むだけだった。
 眼鏡と三つ編みおさげがトレードマーク。
 三学ミステリー研究部部長――早稲田美帆(わせだ みほ)だ。
 近づく。
 無視するのも気が咎めたので彼女に耳打ちする。
「今は独りで静かに居たいんだ。部室にはちゃんと顔出すよ」
 彼女の生真面目な本意からすれば午後の授業もきっちり出てもらいたいと思っただろうが、どうやら望外の喜びだったらしい。彼女は妖精の羽音のような小さな声で「うん、待ってる」と笑顔で応じた。
 なんとなく勝手に気恥ずかしくなりながら教室を出て、真っ直ぐ階段を昇る。
 独りでいることは嫌いじゃなかった。むしろ好きな部類に入るかもしれない。
 最上階に着き、屋上に続く扉の鍵穴にテンションを挿入して回転圧を掛ける。ピック二本と合わせて千祭から一万円で買ったものだ(超破格)
 防犯上、この扉は普段から施錠されているが、あまり意味のない簡単なシリンダー錠だ。ピックも入れて弄繰り回す。――カチャリ。ヒット。開錠に一分も掛からなくなってきた自分が少しだけ怖い。
 弁当を掻っ込み、鞄を枕にして屋上に寝転がる。
 青空に横たわる分厚い雲が魔を祓う天蓋のように見えてきて安らかな気持ちになる。
 目を瞑り、風の匂いを嗅ぐ。夏の気配はすぐそこにあった。
「おやすみ」
 聴衆はなく、独り虚しい呟き。ふと脳裏に可笑しな疑問が過ぎる。しかし一笑に付すだけで、それを検討するほどの時間はなかった。疑問は海馬の陰に隠れ、基美樹は泥沼のような微睡の中へ沈んでいった。

 あれ。そういえば僕は、どうして飛行機に乗っていたんだ?


《3》


 テレビ画面の中で、東基美樹と呼ばれた青年が寝ている。すやすやと寝息を立て、その顔は現実にあまねく悪意とは無縁の、とても安らかなものに見えた。
 対照的に、丹香子の胸は言い知れぬ不安で充満し、顔は酷く強張っていた。
 もう何度目になるか判らない。訊ねても「まあまあ」と鰐は返答をはぐらかすだけだった。
「ねえ……これは一体、どういうことなの……?」
「そうだね。彼も寝てしまっていることだし、質問を受け付けようか」
 鰐は器用に四本の足を駆使してベッドの上をくるりと一周した。それから丹香子の方に向き直る。
「どういうことか、本当に判らないつもりでいるんじゃないだろうね? 心当たりがないとは云わせないぜ?」
 判らない筈がない。心当たりなら大いにある。
 町並み。
 学校。
 制服。
 テレビの中の風景は見慣れたものばかりだ。
 でも違うのだ。そういうことじゃない。ちゃんと質問に答えて欲しい。
「これはどういうことなの?」
「どういうこと、って」
 物分りの悪い生徒を躾けるように、鰐はゆっくりと言葉を紡いだ。

「これは死の間際に君が作り上げたもう一つの世界じゃないか」
 
 そんな――丹香子は崩れ落ちそうになる。
 そんなことが、本当にあっていいのだろうか。

 ちょっと頭の弱いロリっ娘『幸房音々』
 愛とエロスを振り撒く情報屋『高州千祭』
 銀髪褐色肌の妹/八極拳士『(東)刹那』
 傲岸不遜の生徒会長とその妹『鷹野氷柱&焔』
 ミス研部長の冴えない眼鏡っ娘『早稲田美帆』

 現実にはいるはずのない人物たち。
 当たり前だ。いるわけがない。
 彼女達はすべて、丹香子の妄想の産物なのだから。
 つまらない学校生活でも、周りにこんな娘がいて、大好きな小説の話ができて、しかも自分のことを慕ってくれたら、どんなに毎日が楽しいことだろう――そう考えたことは一度や二度だけではない。
 初めはぼんやりとした、妄想とも云えないただのイメージだった。しかし一度考え出すとイメージは再現なく膨らみ、いよいよ収拾がつかなくなると、そこに容姿と性格を分け与えた。髪型、体格、口調、読書嗜好、トラウマ……そして相応しい名前を最後に与えると、彼女達は丹香子の脳内でひっそりと息衝いた。丹香子の乏しい知識と経験という血と肉で産まれた、何ものにも代え難い愛すべき存在となった。

 数学の授業でとちると、透かさず音々は私を励ましてくれた。
「大丈夫大丈夫。そんなに凹むことじゃないんだって丹香子!」

 ショップでどっちのサンダルを買おうかと悩んでいる私に、千祭はそっとアドバイスをくれる。
「親指が派手に見えてるヤツのほうがポイント高いわよー。ほら、男って足フェチ多いし」

 刹那と会長は口を揃えていつも云う。
「もっと強くなれ」と。

 ミステリ小説で探偵が推理を披露する前に真犯人を看破した私に、美帆は惜しみない称賛の言葉を贈ってくれる。
「丹香子さん、凄いです……やはり観察眼が違うんでしょうね。私は最後の最後まで犯人が判りませんでした……私も丹香子さんみたいに、もっともっと読書しなくちゃ、ですね?」

 そんな――そんな妄想だった。
 誰にも理解されない恥ずかしい妄想。
 そんな妄想という世界の檻に、東基美樹という青年は幽閉されているのか。
 駄目だ。嘘だ。やっぱりそんなこと、信じられない。信じろというほうが無理な話なのだ。
「別にね、これ自体はそう珍しいことじゃないんだ」
 鰐は大きく欠伸して、胡乱げに説明する。
「これまでに超空間チャンネルを開いた人間は九十八人いる。ああ、丹香子嬢を含めれば九十九人か」
「……ちょ、ちょっと待って」
「なんだい。話の腰を折らないで欲しいな」ギロリ。
「……超空間チャンネルって、何なのよ?」
「君は死の間際、『死にたくない』って強く思っただろう? 『こんなところで一生を終えたくない』『もっと違う環境で、もっと違う生き方をしたかった』きっとそんなふうに思ったに違いない。あるいはそれは思いではなく、純粋で本能的な願いだ。【生きたい】という願望は大気を震わせ、空間に捩れを起こさせる。――それが超空間チャンネルだよ。その空間の亀裂の先には開いたものが望む世界が創造される。テレビの中の光景が、そのまま君が望んだ世界だ。僕が最初に楽園と称したのは、そういうことだね。――かくしてキミは超空間チャンネルに呑み込まれた。たまたまその場の近くにいた東基美樹も一緒にね」
 そんな話、本当に信じろというのか、この爬虫類は。
 丹香子は記憶を手繰り寄せる。トラックに跳ね飛ばされ、地面に叩きつけられた。それから…………それから。
 駄目だ、思い出せない。
「二人も呑み込まれるというケースは異状でね、本来ならこの場で僕がカウンセリングを受け持つ手順になっていた」
「カウンセリングって、あのカウンセリングのこと?」
 云われてみれば、この部屋の調度品の少なさや清潔感、淡い暖色系の壁紙は、心療を目的としたカウンセリングルームを彷彿とさせる。あとはBGMにクラシックがあれば完璧だろう。
「そうだよ。こんな形でも僕はちょっとしたカウンセラーなんだよ。尤も、僕がやるべき仕事っていったら大したことじゃないんだ。ここに送られてきた人間に、二つの選択肢を与えて、ほんの少しアドバイスをする。それだけさ。口先だけの医者と大差ないね」
「選択肢?」
「とても簡単さ。【現実世界に戻る】か【新しい世界の主人公となる】か、だね」
 とても簡単とは思えなかった。そこに丹香子は大きな矛盾を見出す。
「現実世界に戻る、って。もう死んでるのに、戻ったって意味ないじゃない……」
「それが、そうでもないんだ」
「まさか生き返れるとか云うんじゃないでしょうね?」
「ははは。そんなに旨い話はないよ。しかし、うん、そうだね。少しは希望のある話だろう――――実は丹香子嬢、厳密に云えば、君はまだ完全には死んでいない」
「生きてるってこと?」
「判らない」
「いい加減にしないとぶつわよ」丹香子は拳を振り上げる。
「うーん、判らないかな。君はね、君の身にある【死】という現象を、心と身体が誤解している可能性があるんだ。実際は【死ぬかもしれない】程度の怪我なのに、それを履き違えて【死んでしまった】と誤解する。よくある話だ。そうやってチャンネルを開いた人間は少なくない。僕は死の間際だなんて云ったけど、実のところはよく判らないんだ。だって、あっちの世界はほとんど止まっているようなものだから」
「止まっているような、もの?」
「実際には動いてるよ。でもその時間の流れは、ここに比べたら凪いだ河のように恐ろしいほど緩やかだ。止まっているのとほぼ同義だね。あるいはこうとも云える。ここの時間の流れが早すぎるんだ」
「つまり、どういうことなの?」
「【死】というものを誤解して君がチャンネルを開いてやって来たのだとしたら、君は生きている可能性がある。現実に戻れば君は冷たいコンクリートの上に投げ出されたままいるだろう。時間なんてほとんど動いていないからね。やがて救急車が来て、病院に運ばれ、然るべき治療を受ける。キミはまだ若い。快復する可能性は充分にある。しかし可能性の問題を論じているだけであって、実際のところは戻ってみないと判り得ないことだ。どうだい? 理解してくれたかな?」
 よっぽど丹香子はこのとぼけたカウンセラーを濡れ雑巾のように絞ってやろうかと考えた。
「死んだって云ったのに、とんでもない嘘吐きだわ……」
「おいおい嘘吐き呼ばわりは止してくれ。丹香子嬢も自分の死には同意したはずだぜ? だからといって『君は生きてるからどうぞ安心して元の世界にお戻りなさい』なんて無責任を云えるわけないだろう? 僕個人の率直な意見だけど、若さを考慮しても生きるか死ぬかは半々ってところだね。ただし運良く生きても後遺症の危険性は捨て切れないだろう」
 厳しい意見だ。しかしその通りだと納得できる部分のほうが遥かに大きい。
 トラックに跳ねられて五体満足でいられるわけがないのだ。
 ただ……後遺症の不便というものが、障害とは無縁の人生を送ってきた丹香子には上手く想像できなかった。
 故に、
(どっちがいいんだろう……?)
 元いた【現実世界】と、丹香子を手放しで歓迎してくれる【新しい世界】
(私の幸せは、どっちにあるんだろう……)

「ねえ、ワニさん」
「うん?」
「東……も、基美樹さんもここに来たんでしょう?」
「来てないよ」
「……はっ? え?」
「彼はそのまま【新しい世界】にすっ飛ばされて主人公にされた。本人の有無もなくね。君達が二人揃って呑み込まれなんかしたから、あっちと――こっちを繋ぐトンネルがめちゃくちゃになったんだ」鰐は憤然と云う。「さっきも云ったろう? チャンネルを開くこと、それ自体は珍しいことじゃない。だけどね、二人で呑まれるなんてのは初めてのことだ。僕も少し戸惑っているのさ。果たしてこいつらどうしたもんか、ってね」
「そ、そんなの無責任よ!」
「おいおい僕が悪者かい?」むふぅ、と溜め息混じりに鼻を鳴らす。「まあそう捉えられても仕方ないんだろうけど……しかしまあ、手は講じているんだよ。既にあっちの世界にヘルパーをひっそりと送り込んだんだ。奴はどこの世界にも隷属せず、唯一、世界間を行き来できる存在だ。この人間もまた、僕と同じく名前を持たない」
「名前がないなんて不便じゃないの?」
「まったくその通りだと思う。だけど孤独であるためには自由でなくてはならない。自由であるためには名前を捨てなければならない。真に孤独を愛すなら、こればっかりはしょうがないことなんだ。ただ一応、呼び名はあるんだがね。僕は奴のことを便宜上こう呼ぶ――『ペンキ屋』とね」
「なんでペンキ屋なのよ?」
「僕の身体をピンクに塗ってくれたのが奴だったからさ」
 どうにも話が枝道に逸れている気がして、丹香子は軌道修正を試みる。今一番訊きたいことをストレートに訊くべきだ。
「ねえ、どうしたら基美樹さんはこっちに帰ってこられるの?」
「それはいい質問だ」
「質問に良し悪しなんてないと思うけど」
「なかなか手厳しいね。――彼がこちらに帰ってくるためには、今いる世界の巨大な矛盾を看破しなければならない。つまり、見破るんだ。世界の齟齬や欺瞞だけじゃ駄目だ。ぼんやりと思うだけじゃ駄目なんだ。矛盾をきっちりと矛盾だと認識しなければ、再び彼が目を覚ますことはないだろう」
「矛盾、って――」丹香子は感情を抑え切れずにベッドを叩く。「あんなの、矛盾だらけじゃない!」
「そうさ」鰐はすんなりと認める。「だけどね、楽しい夢の中で『ああ、これは夢なんだ』と気付ける人間がどれくらいいる?周りは可愛い女の子だらけで、そのどいつもが彼のことを慕い一目置いているときたもんだ。些細な矛盾など思考の妨げにもならないさ」
「じゃあ……もう帰って来られないの?」
 丹香子の肩に見えない重石がぐいぐいと喰い込む。不可抗力とは云え責任を感じずにはいられなかった。
「僕個人としては、彼はちゃんと気付くと思うがね」
「本当に?」
「うん、まあねえ……」鰐は曖昧に表情を変える。子供の下手糞な手品を見守るような、そんな微笑ましさに溢れた顔だった。「でも矛盾を見破ったとしても、問題はその後だろう。彼が帰りたいと願うかは、彼のみぞ知ると云ったところだ」

 ……と、テレビに変化が起きた。
 授業の終わりを報せるチャイムが鳴り、程なくして屋上の扉から誰かがやって来た。
 硬いコンクリートの上で熟睡する基美樹の許に近寄る。栗色のふわっとしたお姫様のような髪が風に棚引いた。
 高州千祭が彼を起こしに来たのだ。

「なあ、丹香子嬢?」
 鰐はテレビを眺めながら問い掛ける。
「どうする? 今、ここでは彼が主人公だから、この世界に君を送ることはできないけれど、現実のほうに帰りたいなら、すぐに送ることはできるよ?」
 丹香子に逡巡はなかった。
「いえ、まだいいです。私にももうちょっと、彼のことを見守らせてください」
 虫がいい話だ。でも、それがせめてもの罪滅ぼしになればいいなと、丹香子は心からそう思ったのだ。
「そうかい……ねえ、君はさ」
「……?」

「三聡市という町が嫌いだったのかい?」

 不意打ちのような問いにも関わらず、滑らかに口が動く。丹香子は間髪を容れずに答えた。あまりにも淀みなく言葉が滑り出たので、自分でも驚いたほどだった。
「ええ――――あんな町、大っ嫌い」
 人も、何もかも、全部。

 丹香子は青春と呼ばれる期間のほとんどを三聡で過ごした。これからもその予定である。
 六月の霧雨が湖を暗く煙らせるような、どこに行くこともできない灰色の青春。
 高校卒業まで残り約一年半。そんな先の見えない青春があと五百四十五日続く……五百四十五日? そんなのどう考えても地獄だ。
 早く都内の学校に進学したい。都内に行けばなんでもある。紀伊国屋書店、ゲームセンター、CDショップ、メイドカフェ、同人誌のオンリーイベント……声優のトークショーだって見放題だ。
 それに引き換え三聡……嗚呼、唾棄すべき三聡。
 何でもあるのに、何もない。
 完膚無きまでに何もないというのなら別にいい。寒村ならそれで構わない。何もない、というのも一つの情緒なのだ。
 三聡は違う。全然潔くない。何もかもが虚飾に満ちている。つまらない連中がなんとなく暇を潰すだけのものしかこの町は有していない。
 つまらない町!
 つまらない連中!
 本当にうんざりだ。何が楽しいんだ。何が面白いんだ。何をへらへら笑っていられるんだ。そんなに三聡が楽しいか? カラオケにドリンクバーが導入されただけでお祭り騒ぎしやがって。こっちは本屋になかなか講談社ノベルスの新刊が置かれなくて怒鳴り散らしたい気分だっていうのに。
 その癖「三聡って田舎だよねー」なんてほざきやがる。三聡を喜色満面で満喫してる恥知らずはどこのどいつだ嗚呼クソッお前だよサーティーワンのアイスクリームを幸せそうに頬張りながら歩きやがってどうしようもないほど虫唾が走るお前らに矜持はないのかそれとも虚飾の町を嘘と見破れず簡単に受け入れてしまえるほど頭が弱いのかそうだ多分どっちもそうだきっとそうなのだ。

 丹香子は思い出す。

 ……バスに揺られながら、丹香子は窓から三聡の風景を見るともなく眺めていた。
 恥ずかしげもなく建ち並ぶラブホテル。けばけばしいネオンサインを放つパチンコ屋。繁盛してなさそうな中華料理屋。白煙を立ち昇らせる工場の群。コンビニの前で煙草を吹かして屯する高校生。黒く澱んだ川。鳥の屍骸。ホームレス。星の視えない空。
 そんなものばかりを見ていると、『ああ、私はここから一生出ることはできないんだ』という無力感に襲われる。三聡という密室の匣の中で、私の心の根っこは徐々に腐っていくのだと。


   *   *   *


 僕は覚醒する。

 瞼を開くと、抜けるような青空を背景に千祭が立っていて、スカートの中の白いショーツがばっちり見えている。仄かに透けて見えるのは……いや、気のせいだ。だからだろうか? 千祭はぎょっとした様子で基美樹を見下ろしていた。
「なんれ驚いてんだよ?」起き立てでまだ呂律が回らない。
「んー? 私が起こそうと思ったのに、アンタいきなり目ぇ覚ますだもん」
 ショーツの件は不問にしてくれたらしい。
 基美樹は立ち上がり、背中の粉塵をぱっぱと払い落とした。
「今何時?」
「二時三十五分。授業終わったわよ。――ねえ、博覧強記? なんか寝言で女の名前ぶつぶつ云ってたけど、……えと、アンタって、彼女なんかいたっけ?」
 顔を赤らめ、そっぽを向く千祭。
「うーん? 身に覚えがあり過ぎてよく判らないな」
「……はいはい。童貞の妄想お疲れ、様っ」
 ゲシゲシゲシリ。脛を蹴られた。三ヒット。
 そのまま千祭は屋上を出ようとするので後を追う。
(……あいつ、何怒ってんだ?)
 屋上に出入りしていることを教師に知られたくないので外側のドアノブのツマミを横にして、硬く施錠したことを確認する。
 この扉に限っては基美樹は一分足らずだが、千祭はその半分、三十秒も掛けずに開錠することができる。「私の前に開けられない扉はないの」とは彼女の談だ。ある意味アンチ密室殺人的存在と云える。ほとほと恐ろしい女だ。
「何見てんのよ?」
「いや、別に。美人だなって思っただけだ」
「ちょっと博覧強記、しっかりしてよ。私に対して美人なんて気軽過ぎない? それ、安っぽく聴こえるわよ」
 そう云いつつも焦ったように手櫛で髪を弄っているところを見ると、どうやら満更でもなさそうだ。
 千祭は軽やかな足取りで階段を下り、「ねぇ」といつになくシリアスな表情で踊り場から基美樹を見上げた。
「アンタって、小説家だったんだね」
「別に隠すつもりはなかったんだ。いずれ話そうと思ってた。本当だよ」
「嘘吐き。ミス研メンバーが活動を開始してもう一年以上経つのよ? 話す機会は幾らでもあったはずだわ」
 なるほど、と基美樹は思った。臍を曲げている理由はそれか。
「会長の言葉でアンタが小説家だってことを知った時は、別になんとも思わなかったわよ。当たり前かもね、くらいにしか。でもさ、アンタが太平楽に屋上でぐうぐう寝ている間、私は授業を受けながら段々と腹が立ってきたのよ。お判り?」
 判らない、と応えたら平手打ちが飛んで来るだろうから基美樹は何も云わない。しかし打たれるくらいの準備はできていた。踊り場に下りて千祭と相対する。
「水臭い、って云いたいのよ。何を遠慮してるんだか知らないけど、私達は仲間じゃない。もっと信頼してくれてもいいんじゃない?」
「すまなかった」
「他に何か云うことは?」
 お姉サン口調で問われ、基美樹は素直に観念した。
「……三学に入って、やっぱり僕は誰かと小説の話をしたかったんだよ。でも文学部といったらミス研くらいしかなかったし、いざ入ってみたら美帆がいただろ? あいつは誰よりもミステリーが好きで、将来は新本格の旗手になりたいって照れ臭そうに話してくれた。そしたら……なんだろう、何も云えなくなった。実は小説家だなんて告白したら、きっと何を云っても厭味に取られる。そうじゃなければただ『うんうん、そうですね』って追従されるだけで、自由な小説の話ができなくなる。自分の居場所を狭めることになると思ったんだ」
「部長はそんな娘じゃないわ」
「判ってる」
「じゃあちゃんと話してあげて。あの娘もそれを望んでいるだろうから」
 千祭は右手を差し出し、小指を突き立てた。基美樹はそれに自分の小指を絡め、指きりげんまんをした。
 千祭はぷっと吹き出す。
 基美樹も釣られて微笑んだ。
 下駄箱で靴に履き替え、部室棟までの道則にある青々としたイチョウ並木を二人で歩く。この光景を遠くからカンバスに描いたらちょっとした絵になりそうだ。タイトルは『青春』だろうか。しかしどうにもそれでは陳腐だ。
「そういえばアンタの妹、何であんなに怒ってたの?」
至極尤もな疑問である。上手く説明できるだろうか、と基美樹は悩みに悩んで言葉を選んだ。
「刹那は僕の小説の一番のファンなんだよ。ファンクラブなら会員番号〇〇一ってところか。芥川賞候補に喰い込んだけどあっさり僕が落選したもんだから、あいつは芥川賞を憎んでるんだ」
「何それ?」
本当に『何それ?』だと思う。これでは端折り過ぎだ。
「あー……っと、そうだな」
基美樹も言葉を組み立てるのは得意ではない。小説ばかり読んでいるからどうしても日常会話が書き言葉になってしまって、それに留意しているとほとんど何も喋れなくなったり要点から要点へいきなりすっ飛んだりする。物書きの哀しい性だった。
「芥川賞そのものというより……都知事を憎んでいると云ったほうが正鵠かな。ほら、選考委員やってるだろ、あいつ」
「うん。純文学には明るくないけど、それくらいなら私でも知ってる。その人に何か書かれたのね?」
「そう」基美樹は小さくジャンプして、イチョウの葉に触れる。「酷評だったよ。そうじゃなければただの殺害予告だ。『稚拙な文章』『気取った台詞』『人間が書けておらず、』『はっきりとした主題が見えてこない』誰にでも云えることさ。つまり作家に死にやがれってことだ」
「アンタはどう思ったの?」
「死ぬほどではないにしろ、それなりに腹が立ったし悔しかったよ。だけどそれ以上に虚しかった。文章が下手糞なのはよく判ってた。台詞もまあ褒められたもんじゃないし、人間が書けていない、という部分にも同調するよ。ただ……主題が見えてこないってのが、僕にはいまいち判らなかった。『愛』とか『家族』とか、はっきり目に見えるものが良かったんだろうか? しかしそんなもの古今東西津々浦々に有り触れてるじゃないか。別に、愛とか家族とかを憎んでいるわけでも軽んじているわけでもない。だけどだったら『愛のようでいて愛ではないかもしれないもの』『家族のようでいて家族ではないかもしれないもの』そういう明確な線引きのできない、曖昧模糊としたもののほうが、小説の主題としては完璧だと思う。簡単に言葉にできるようなものが主題じゃ駄目なんだ。今でも僕はそう思ってるし、実際僕はそれを書いた。だけど都知事には何一つ伝わらなかったらしい。伝えたいものがあるのに何も伝わらないってのは虚しいよ」
「ねえ、博覧強記。こっち向いて」
「ん」振り向く。
 千祭は背伸びして、基美樹に口付けした。
 瞬く間のできごとだった。
 真綿のようなそれが唇から離れると、夏の気配を滲ませた強い風が二人の間をすり抜け、木々の梢が騒がしく揺れた。
 千祭は「えへへ」とはにかむ。
「大人には伝わらなくても、アタシには伝わってるから、そんな哀しい顔しないで」
「今もそんな顔してるか?」
「ううん。いい男の顔。私の超タイプ」
 やばい。顔が熱くなってきた。
「……お前、ほんっっといいキャラしてるよな」
 恥ずかしさを気取られないように顔を隠してさっさと歩く。背後からは勝ち誇ったような笑い声。
 ええと、どこまで話しただろうか、言葉のジグソーパズルは銃乱射を受けたように見るも無残だった。
 頭の中で必死にバラバラになったピースを掻き集める。しかし話すようなことはほとんど残されていなかった。
「……そう。都知事は一つだけ褒めてくれたんだ。『筆者の若さを考慮すれば上出来の部類だろう』ってね」
 小説を評価するのに、作者の歳の若さを引き合いに出すなど暴論も甚だしい。それでは百戦錬磨の選考委員たるものが自分の読解力の無さを暗に認めているようなものだ。
 変に甘言を云うくらいなら「つまらない」の一言で斬り捨ててくれたほうがよっぽど救いがあった。
「なるん。会長も同じようなこと云ってたわね。道理でアンタのファン一号も怒髪なわけだ」
「剣道有段者の会長ってのが特に拙かったんだ。深層心理……刹那は無意識にあいつと闘える理由を欲してたんだよ。理由は本当に何でも良かった。会長に摺り足で近づかれて、その時に八極拳士としてのスイッチが入っちゃったんだろう」
「ちょ、あまりにも血に餓え過ぎでしょ! ちゃんと教育しとかないと、あのままじゃ将来は立派な暗殺者よ。鉄山靠で人が吹っ飛ぶところなんて格ゲー以外で初めて見たっての」
 基美樹は目を細めて虚空を見詰める。
(ああ……会長、ものの見事に吹っ飛ばされたのか……)
 
 外壁をクリーム色に塗られた部室棟一階の奥から三番目、そこが妖しくも輝かしきミス研の根城である。片側に柵があるだけの廊下の途中に演劇部の書割が倒れている。邪魔を通り越して妨害レベルだったが、踏んづけて壊しでもしたら後が怖い。部員総出でヴァイキングの真似事でもしながら模擬刀片手に襲い掛かってくる姿を想像して基美樹は身震いした。足元に気をつけて慎重に進む。
 到着。
 部室の扉は開いていた。
「失礼するわよー」
 一応断りを入れて、部室に入る。
 教室机を六つ合体させて千鳥模様のクロースを布いただけの大テーブルに、美帆がノートパソコンで書き物をしていた。公募用のミステリ小説を執筆中なのだろう。顔を上げ、ずれた眼鏡を直して二人に微笑んだ。
「いらっしゃい。コーヒー淹れるね」
 健気に立ち上がろうとするのを千祭は手で制す。
「いいのいいの。アタシ達がやるから部長は作業続けてて頂戴な」
「そう……じゃ、お言葉に甘えるね」
 アルフォンス・ミュシャの『黄道十二宮』が描かれた美帆のマグカップをちらと見遣る。
「千祭。美帆のマグが空だ」
「おっけー。じゃ、とりあえず三人分ね」
 基美樹はミニの冷蔵庫からミネラルウォーターのペットボトルを取り出し、薬缶に水を注ぐ。冷蔵庫の上に設置されたカセットコンロで湯を沸かしている間、千祭は手際良くコーヒーの用意をする。
「音々はまだ来てないんだな」
「あーっと。そうそう。なんかロケットの最終チェックがしたいんだって。噴射板が推力ベクトルがってぶつぶつよく判らんこと云ってたけど、どうせすぐ来るわよ。本人は明るい内に飛ばしたいみたいだし」
「へー……本当に今日飛ばすんだな。なんかの冗談かと思ってたけど」

 音々がロケットを飛ばす。
 初めて聞いた時は何かの冗談かと思ったし、今でも現実味が湧いてこない。しかしどうやら本人は至って真面目にそれを遂行する気でいるようだ。
 だからこうして基美樹たちは集まった。音々が汗水垂らして作り上げたロケットのローンチを皆で見守るために。
 ミス研部員は五人いる。現在二人ほど足りていないが、ここにいる面子に音々と刹那が加わってフルメンバーだ。
 音々はロケット部との掛け持ち。刹那は幽霊部員。畢竟、部室に来るのは基美樹と千祭と美帆だけということになる。
 コーヒーを啜り一息つく。パソコンと格闘している美帆の邪魔をするのも気が引けたので、静かに千祭と一局指していようか、と将棋盤を目で探す。
「そうそう、ちーちゃんの書いた小説読んだよ」
 千祭のことを『ちーちゃん』と呼ぶのは美帆だけだ。
 部室にいるのに会話がないのを自分のせいだと思い込んだらしく、たおやかに微笑みながら千祭に話題を振る。こちらが気を遣ったつもりが、逆に気を遣わせてしまったようだ。
「あらん。べりべりさんくー。部長の忌憚無き意見を聴きたいところね」
「基美樹くんはちーちゃんの小説読んだ?」
「いや……読んでないよ」本棚から将棋盤を取り出そうと浮かせた腰を戻す。
「そっかあ……じゃあ感想云ったらネタバレになっちゃうね」
「ああ、そういうの、別に僕は気にしないよ。だから思う存分話してくれ」
「判ってないわねえ」と呆れ顔の千祭。「真摯なミステリ読みは絶対にネタバレはしないものよ。たとえ相手がミステリーに興味がなくとも、未読のそれのトリックの根幹や真犯人に関わることは口が裂けても話せないの」
「そういうもんなのか?」
「そういうもんなのよ」
「なんだか……」美帆はじっと凝視する。「基美樹くん、今日初めてミス研に来たみたいな感じ」
「……え?」

 何故だろう、急に、
 自分の足場が消え失せてしまったような錯覚に陥った。

「あ、ごめん。なんか私、変なこと云っちゃってるね。ただ……基美樹くんってこんなにミステリーに対する関心が薄かったかなあ、って思っちゃって」
「……もとからだろ? 僕がこういうスタンスなのは」
「う、うん。そうだね、そんな気がする」
「部長、彼を許してあげて。博覧強記は何でも持ってるから執着するってことを知らないのよ。あー、きっと女に対する関心も薄いんだわ……はっ! さてはアンタ、男が好きなのねっ?」
「うわーお前の思考パターンすげえな」
「あわよくばミス研を乗っ取って、行く行くはここを女子禁制の『ボーイズラ部』にする気ね? み、見損なったわ博覧強記……あ、アンタの性根は腐ってるわ! どうしようもないほどに!」
「お前だよ! どうしようもないよ! 腐ってんのはお前だよ!」
「あ、でも、よく見ると基美樹くんって受けっぽい顔してるね」
「ひゃ、ひゃっほー! 美帆まで話に喰いついてきやがった! もう面倒臭いからお前らがボーイズラ部立ち上げろよ!」
「お願い博覧強記! 勃ち上げるなんて下品なこと云わないで!」
「し、死ね! 死んでしまえ!」
「も、基美樹くん、落ち着いて……」
 ぜえぜえと息を吐き、すっかり温くなったコーヒーを煽る。
「もう……ちょっと、大人しく二人で小説の話でもしててくれ……」
「軟弱ねえ。ツッコミとしての体力が無さ過ぎるわよ」
「まあまあ……ね? ちーちゃん、私と話そ?」
「そうね。で、どうだった? 私の渾身の一作『マクドナルド殺人事件』は?」
 もう突っ込む体力も気力もなかった。

 トリックと真犯人に関する言及を極限まで避けた『マクドナルド殺人事件』の感想会が一頻り終着したところで、「ちょっといいかな」と基美樹は控えめに訊ねた。
「私の原稿なら部長が持ってるわよ」
「誰が読むかそんなの」
「まあ、失礼ね! これでもファーストフードシリーズと銘打って三部作にする予定なんだから。既にタイトルも決まってる。次は『モスバーガー殺人事件』よ!」
 どうしよう、少しも読書欲を喚起されないのだが。
「モスのハンバーガーの食べ辛さに怒り狂った客が殺人を起こすって話じゃないだろうな?」
 千祭は落雷に打たれたような顔をする。
「フフ……参ったわ。どうやら話を一から練り直す必要がありそうね……」
「ビンゴかよ! もうファーストフードシリーズ止めとけよ! いつか苦情来るぞ! いや……そうじゃなくてさ。千祭も美帆も、純粋にすごいな、って思ったんだ。ミステリーに血道を上げるのもすごいけど、それ以上にミステリーを書けてしまうってのが途轍もなく羨ましい」
 きょとん、と千祭。
「はい? 羨ましいならアンタもミステリー書けばいいじゃない」
「さらりと残酷なこと云うね。ぶっちゃけた話、ミステリーを書こうと思えば書けるんだろう。でもさ、僕はその本質をきっちり見定めないと、どうしても足踏みしちゃう人間なんだ。そこで訊きたい。そもそもミステリーってのは何なんだ?」
 まことに可笑しな質問である。
 ミス研部員なのに自分はミステリーが判らない馬鹿野郎だ、と告白しているのだ。
 しかし千祭は嘲るふうでもなく、新しい玩具を見つけた猫のようにキラキラと目を輝かせた。こいつと僕は似ているのだ。刹那が強い相手を求めるように、僕達もまたどこかで衒学できる場を求めているのだ。
 それはいい。
 問題は美帆だ。
 何故だ。
 何故、美帆はそんな不安そうな瞳で僕を見るんだ?

「そもそもミステリーとは何か、って随分ざっくりしてるわね。もう少し焦点を絞ることはできる?」
「そうだな」と考える素振りをしながら美帆を窺う。ミュシャのマグを両手で大事そうに覆い、ほやほやとした面持ちで基美樹の次なる言葉を待っている。
 さっきのは何かの見間違えだったのだろうか?
 基美樹はコーヒーで口腔を湿らせてから話し出した。
「……小説がミステリーになるための条件が知りたい。つまり、これさえあればミステリーになる、という最低限絶対的な要素だ」
「そんなの簡単よ」と千祭は順々に指を三つ立てていく。「探偵、殺人トリック、謎解き。この三つがあればミステリーとしては完璧よ」
「駄目だよ、ちーちゃん。その三つじゃ完璧じゃない。本格ミステリーの要素としては、そこまで間違ってないけど、新本格はその限りじゃないし、殺人が起きないミステリーだってあるんだから。基美樹くんが聞きたいのはもっと根源的な話でしょう?」
「その通り」と基美樹は美帆の意見を支持する。「ミステリーには『日常の謎』派っていう、人が死なないミステリーがある。立派な一ジャンルだぜ? そこには探偵が登場しないことだってある」
「もち、知識としては知ってるわよ。でも密室狂いの私としては、それって面白いの? という感じがするわね。あまり興味のない分野だわー」
 うふふ……と美帆は陰った笑いを漏らす。ちょっと怖かった。
「そんなふうに侮ってたら、こてんぱんにやられちゃうよ? 今度ちーちゃんに貸してあげる。日常の謎もすっごいんだから」
「お手柔らかに頼むわ……それにしても探偵不在で、殺人が起きなくてもミステリーとして成立するんだったら、残るは謎解きの要素こそがミステリーをミステリーたらしめるのかしらね?」
「それがそうでもないの」と美帆は複雑な顔をしてみせる。「近頃じゃ作家さんも意地悪になってきて、謎解きがそのまま真相解明に繋がらないようにしてある作品もあるんだよ。謎解きすらしないで終わっちゃうこともあるし」
「謎解きは読者自身がやってくださいってタイプのこと? そういうミステリーだったら幾つか読んだことあるけど」
 ふるふる、と美帆は首を振る。
「ノックスの十戒とヴァン・ダインの二十則は知ってるよね。そういう先人達が磨き上げてきたミステリーの常識/規則を否定もしくは逆手に取るタイプの作品をアンチ・ミステリって云って、そこをとことんまで突き詰めていくと『謎解きなんていらん!』ってなっちゃうみたい。云ってしまえば卓袱台返しかな。でも、そこに至るまでにひたすら緻密に論理を積み上げて綺麗に整合化しちゃうから、読んでるほうも『うんうんなるほどミステリーに謎解きなんていらないよねー』って不思議と納得しちゃって、そんな納得してしまう自分に驚いちゃうの。個人的にはミステリーを蔑ろにしてるみたいでこっちのほうが好きになれないかなぁ」
「あー……もしかしてあの作家のこと? 最初に『ま』がついて最後に『か』のつく、あの作家」
「そうそう! さっすがちーちゃん、話が判るなぁ」
「他には缶ジュースの名前みたいなあの作家も最初の頃はそういう作風だったわよね。一応ミステリーの教養のつもりで読んだけど、ちょっと付き合ってらんなかったわね」
「うんうん。あの分厚さだからね……もっと枚数減らしてスマートに魅せてくれたらまた違った評価になるのに……」
 なんだか二人で盛り上がっているようだが、ネタバレをこんなに忌避されるとダイナミックな女の陰口を目の当たりにしてしまったような居心地の悪さを感じる。基美樹は黙ってコーヒーを飲み干した。
『サンガクゥッ!』『ファイッ/オッ!/ファイッ/オッ!』――運動部の暑苦しい掛け声に紛れるように、部室の外からピアノの練習曲が流れ込んでくる。誰かが音楽室で弾いているのだ。
 これはドビュッシーの『月の光』だ。基美樹はこの感情の緩やかな働きを齎してくれるクラシックピアノが好きだった。静かで、人の心を労わるような旋律なのに、聴いていると頭が冴え冴えしてくる。真っ青な夜の湖畔にぽっかりと顔だけ出して漂っているような、そんな自由で寂しい気持ちにもさせられる。
「おーい、基美樹くーん。起きてる?」
「ん……起きてるよ」
「ごめんね、私ばっかり話して。きっと退屈しちゃったよね」
「いや、大丈夫…………話したいことの整理がようやくできたよ。二人とも、ちょっと僕が話したいんだけど、いいかな?」
 互いに顔を見つめ合い、二人は無言で肯いた。
「探偵不在でもミステリーは成立する、殺人が起こらなくともミステリーは成立する、そして謎解きがなくてもなんとなくミステリーは成立してしまう……一体ミステリーとは何なのか、を問うたはずなのに、ますます霞掛かって訳が判らなくなってしまった。――じゃあこうしよう。今度は逆に考えるんだ。つまり、絶対にミステリーになることができない小説的ガジェットとは何だろう?」
 自分の云わんとしていることが、果たして二人に伝わっているだろうかと心細さにも似た動揺が基美樹を苛む。しかしこうなったら二人には行くところまで付き合ってもらおう、と心に決めた。
 美帆は自分のスマートフォンを取り出し、慌てたように操作し始める。恐らく国語辞典のアプリを開いて『ガジェット』を検索しているのだろう、彼女の未知の言葉に対する物書きとしての真剣さを垣間見たような気がした。
「確かガジェットって、小道具とかそんな意味だったわよね」
むきゅぅ、と美帆は小動物のような鳴き声を上げた。千祭に先を越されて悔しかったのだろう。
「そう、小道具だけど、別に小ささに限定することはない。物質でも概念でも形而上学的なサムシングでも何でもいい。どうだろう? 千祭、何かあるか?」
 そうねー、と千祭は人差し指を唇に当てて考える。さっきキスをしたばかりなのに、今ではその唇が触れたくても触れられないほど遠くに感じられた。
「それじゃあ『ロボット』なんてのはどうかしら。あ、介護用ロボットとかASIMOとかじゃないわよ。それよりも遥かに大きな戦闘用のロボット。男のアニメオタクが好きそうなそれだったらミステリーの邪魔になるんじゃない?」
「そう思うか?」
「断言はできないけど、ミステリーとの親和は薄いんじゃないか、とは思うわね」
 回れ頭、と基美樹はてきぱきと頭の中で言葉のサーキットを組み立てる。
「ロボットってことはSFの範疇か……いや、トンデモ科学か。確かにトリック型のような現代物理を以って良しとするミステリーとの相性は悪いだろうな。しかしどうだろう? 例えばの話、『密室と化した格納庫の中で、ロボットの頭部だけが忽然と無くなっていた』こうなったら途端にSFがお前好みの密室ミステリーに早替わりしないか?」
「少々論旨が強引だけど……」と千祭は腑に落ちない様子である。「それならファンタジーはどう?」
「ファンタジーとミステリーの合せ技のほうが今じゃよっぽど珍しくないだろ」
「私の云いたいファンタジーは剣と魔法の世界のことよ。魔法なんていう超自然の存在はミステリーという硝子の城に石を投げ込むようなものだわ。とてもミステリーなんて成立しないと思うのだけれど、そこらへんはどう考えるの?」
「ふう、まったく意地が悪いね、千祭の姉御は。まあ試されるようなことを云ったのはこっちだから仕方ないか。そうだな、僕が魔法のある世界でミステリーを書くとしたら、こんな感じになる。センテンスはほんの三つでいい。『ある人物が魔法によって殺された』『その世界で魔法を使える人物は独りしかいない』『しかしその人物には鉄壁のアリバイがあった』」
 聞いて損したとばかりに千祭は鼻白む。これが漫画なら顔にいくつもの縦線が入るに違いない。
「ねえ、ほんとにセンテンス三つで足りてる? 鉄壁のアリバイって何よ、鉄壁って。装甲が二倍になるの?」
「残念だけどディティールには応じられない。何せ急ごしらえなものなんでね。まあ時間的なアリバイでいいだろ。気に喰わなかったら魔法に制限をつければいい。一度使ったら魔力を失って死んでしまう、とかね。魔法は奇跡なんだ。そう易々と使えていいものではないさ」
「なんだかいい加減な話ねえ。そんなんじゃ博覧強記の名が廃るわよ? せいぜいアンタの渾名が舌先三寸にランクダウンしないことを祈りなさい」
 無視。
「なあ、美帆。今の話はミステリーになっていないと思うか?」
「そんなことないよ。私は立派なミステリーだと思うな。ただ……基美樹くんの設定を借りるなら、私はもっとシンプルに書きたいな、って思っちゃう。一回きりの魔法を使わせて、その魔法使いには冒頭で死んでもらうの。そうすれば、後には『どうしてその人物は死んでまで魔法を使わざるを得なかったのか?』というシンプルで力強い謎が残るでしょ」にっこり。
 口では物騒なのに、美帆の微笑みは天真爛漫と云うより他になかった。
「大賛成ね。私は部長の小説のほうが読んでみたい」
「ふむ。僕も同意見だ」基美樹は鹿爪顔で首肯する。「しかしこれで魔法とミステリーは共生可能であると立証されたんじゃないか? まだまだ議論の余地はありそうだが、ここいらで僕が感じたことを述べて議論を締め括りたいと思う。幕を下ろすのは言いだしっぺの責任だからね。それでいいかな?」
 ご自由に、と千祭は恭しく応える。美帆は居住まいを正すように背筋を伸ばした。
「いいかい? 今から云うことは酷く抽象的で、どうしようもないほど自己完結的になると思う。故にただの独り言になってしまう恐れもある。ミステリーの文壇からしてみれば爆笑必至のエンタテイメントだろう。でも僕は云いたい。無知の戯言だと笑われたって構わない。風車を敵と見誤って突撃するドン・キホーテのようだと馬鹿にされたって構わない。何故なら、あらゆる世界に云えることだが、世界を変えるのはいつだって金も力もない若者の仕事だからだ。問い続けることは決して無駄ではない」
 深呼吸。
「……ミステリーという複雑怪奇な代物は、あまりにもあらゆるものを包含し過ぎなんだと、僕は思う。SFやファンタジーという、云ってしまえばミステリーとは正反対の、極北の位置にあるそれさえもミステリーはすっぽりと呑み込んでしまう。ミステリーは自由闊達なんだと云われればそれまでだが、しかしミステリーの武器である殺人トリック/探偵/謎解きを取り上げられてもなおミステリーになってしまうというのはどういうことなのか。僕には頭をもぎ取られても活動を止めることをしない昆虫のように思えて気味が悪い。実はミステリーというのは自由闊達ではなく、もっとぬめぬめとした底知れぬ闇を抱えたグロテスクな存在なんじゃないだろうか。しかし、その闇の深さを測り知ることはできない。少なくとも、僕にはできない。何故なら僕という存在もまたミステリーに包含されてしまっているかもしれないからだ。――そもそもミステリーとは何なのか? 僕が最初に云った言葉だけど、どうやらそれを知るためにはとりあえずミステリーというグロテスクな怪物の腹から飛び出さないといけないようだ。卵を割らなければオムレツが作れないように、そうしなければ僕はミステリーを一生書くことができないままだ。人に頼って訊いた僕が愚かだった。それだけさ。でも、それが判っただけでも、僕には大きな収穫だったよ。二人ともありがとう――以上だ」
 基美樹は深々と頭を垂れる。
 その行為には謝罪の意味も込められていた。――察しの良い千祭にはお見通しのようだが。
「まったく一杯喰わされたわね。アンタの筋書き通り、あるべき解があるべき場所に収まったってだけの議論じゃない。自己完結が結論になるってのは、既に自分の中に解が定められていた証拠だわ」
「その通り……と云いたいとこだが、それだと僕が二人のことを自分の掌の上で踊らせていたあくどい黒幕みたいじゃないか。正直な話、結論は出ていなかったんだ。ただ、幾ら議論しても答えは出ないだろうな、とは予感していた。でも議論ってのは元来そういうものだろ? 答えがないものを問い続けてこその議論じゃないか」
 ハン、と千祭は一笑する。
「博覧強記、アンタはごちゃごちゃ考え過ぎなのよ。書きなさい! とにかく書くの! 書いてもいないのに真理に触れようだなんて虫のいい話だと思わない? こんなのセックスと一緒よ。抱かないと判らないのよ、女って生き物は。ミステリーだってそう。書いてみなくちゃ判らない! ねー、部長?」
 とんでもない暴論のアッパーカットだ。美帆の顔が見る見る内に羞恥の赤に染まり、眼鏡がずり落ちるほど慌てふためいた。
 おいこらセクハラ女、と基美樹はテンション三割増しの千祭を嗜める。
「書け書けって云うけどね、一体僕は何を書いたらいいんだよ?」
 あれ。
 今、僕は、容易く千祭に答えを委ねたのか。
 どうしてだろう?
 ミステリーの知識はふんだんにあるのに、
 なんで僕はこんなにミステリーに対して冷めているのだろう?
「そんなの簡単よ」と千祭は器用に片目を瞑り、ニヒルに口の端を吊り上げた。「アンタは『ミステリーのようでいてミステリーではないかもしれないもの』を書けばいいのよ」
 不思議そうに首を傾げる美帆に、すかさず千祭は付言する。
「これ、コイツの小説の主題なのよ。ファジー文学とでも云うのかしら。小説を書く時は簡単に言語化できる主題を扱ってはいけないんだって」
 それだと語弊がないだろうか? 基美樹は懊悩の末、補足くらいはしておくべきかと口を挟んだ。
「少なくとも、僕はそう思ってるってだけだし、そういう小説しか僕は書きたくないんだ。別に余人が万人に理解できる王道的な主題で小説を書いたからって馬鹿になんかしないよ」
 話し終えたところで、部室の外から音が聞こえた。木の板が真っ二つに割れるようなクリスピーな音だ。というかどう聞いても廊下の書割を踏ん付けた音に違いない。続けざま「にゃんてこったー!」という脱力系の悲鳴が聴こえ、どたどたと足音が迫り、部室の扉が豪い勢いで開け放たれた。
 ようやくお出まし、幸房音々だった。
 ジャージの上に羽織った白衣を着流しのようにだぶつかせ、「まずいことになった!」と高らかに主張した。
「オーケー、判ったから扉閉めろ。静かにな」
「う、うんっ」
 音々はそろそろと扉を閉め、基美樹の隣に着席すると溜め息を吐いた。
「書割、踏んじゃったのか?」
「うん……ロケットが完成して、嬉しくて走ってきたら、つい……」
「ま、大丈夫でしょ。書割より向こうには部室が三つあるんだし、私達だけが怪しまれるってことはないわよ」
「本当にそうかな」美帆の眼鏡がきらっと輝いたように見えた。「ネネちゃんの上履きのサイズって幾つ?」
「うー……一六・五」
「ちっさ!」千祭は目を丸くする。
 女子にしては高身長の千祭には、やはり羨ましく聞こえる数字なのだろうか。いや、一六・五? 小学校低学年くらいの足の大きさじゃないか?
「私、この学園でネネちゃんよりちっちゃい女の子なんて下の学年でも見たことない。きっと足のサイズも一番小さい気がするの。つまり書割に残った足跡を照合されたら、ネネちゃんが犯人だってすぐに判明しないかな?」
 淡々と話す美帆のそれは論理的考察ではなく、完全にミステリーに毒されたミステリ的考察だった。
「幾らなんでも足跡から犯人探しなんてしないだろ。あんまり音々を怖がらせないでやってくれ」
「そーよ、部長。そこのロリコンの云う通りだわ」
「僕の肩持つフリして、さらっと攻撃すんの止めような?」
 基美樹は鼻をひくつかせる。
 よく見れば音々の顔は煤だらけで、白衣のあちこちも黒く汚れている。幼い身体からはむわっとした重油の臭いを迸らせている。本当にこの小さな娘がロケットという雄々しい装置を作ったのだと思うと、愛おしさのような感情が込み上げて来る。
 危ない。
 本当にロリコンになるところだったぜ!
 基美樹はティッシュで音々の顔を丹念に拭った。
「うー。あじゅま、ありがとー」
「なあ、音々。訊いてもいいか?」
「うゆ? なーに?」
 真正面から見詰められ、ビー玉のような瞳が逃げ場を失ったようにきょろきょろと動く。
「ミステリーって何だと思う?」
「なんだそりゃー。アズマは変なこと訊くんだなー。えーとな、ミステリーって『ルールを引っ繰り返す』ことだろー?」
 さも当たり前みたいに云われたので、意味を咀嚼する間もなく、基美樹の思考は一拍だけ停止した。
 千祭と美帆は「ほう」と同時に感嘆した。
「あれ? なんでみんなしてマジ顔してるのさー。あたし変なこと云ったかー?」
「……いや、みんな感心してるんだよ」まさか音々から尤もらしい答えが返ってくるとは。「でも、僕にはその意味がちょっと掴み切れないから、もう少し詳しい解説を頼みたい」
「えー。めんどくさー。早くロケット上げたいのにー」ぶー、と音々は拗ねたように唇を尖らせる。甚く真剣な基美樹に根負けする(かたち)で、渋々と話し出した。「んーとな、ミステリーと読者って、たぶん無意識のところで条約とゆーか約束事とゆーか……とにかくルールみたいなものを結ぶんだよー。んで、その無意識下のルールで読者は推理するんだけど、でもそのルールって実は読者の勝手な思い込みで、ミステリーの方はルールなんか結んでなくって、当たり前だけどミステリーは人間じゃないんだもん。ルールなんか結べっこない。でも、ミステリーの向こう側には神である作者がいる。神だから大体なーんでも知ってる。読者の勝手な思い込みのルールの中にある綻びなんかお見通しで、その針の穴のような小さなアキレス腱を突いてルールを引っ繰り返すんだよ。ルールを引っ繰り返すって言い方が判りにくければ、『不可能を可能に逆転させる』でもいいかな。だってどんでん返しはミステリーの基本中の基本でしょー? ね、アズマ、ミステリーを定義したいならきっとミステリーだけを考えてちゃ駄目なんだよ。ミステリーの向こう側には神様でも一応人間がいるんだから。人間を定義するにはそれ相応の覚悟がいるよ? 人間に値段をつけるってことなんだからね。あと、ミステリーで解決パートより先に謎を見抜きたいんだったら、そこに書かれてあることを額面通り受け取っちゃ絶対ダメ。そん時もやっぱりミステリーの向こうにいる作者のことを考えるのさ。作者が我々凡百の読者をどういうふうに驚かせたいのか、どういうふうに騙したいのか、そこに留意してれば大抵のミステリーは解けるよ。あたし、あんまり騙されたことないもん。犯人だってすぐ判っちゃうし。ちょっとメタっぽい読み方だけどねー。うー……話し過ぎて疲れた。アズマ、ちゃんと理解したかー?」
 なるほど。
 悪いけどあんまりよく判らん。


《4》


 つくづく不思議な光景だと、丹香子は思う。
 丹香子は読書が趣味で、少々雑食の気がある。読書に食わず嫌いはあまりない。SFもファンタジーも純文学も私小説も等しく好むが、それに輪を掛けて好んで読むのがミステリーだった。
 そんじょそこらの好きではない。本来ならば恋に受験に青春を捧げるはずの女子高生がミステリーという、ファッションにもメリットにもならない酸鼻極まる血生臭い読み物が好きだというのだ。それは愛に匹敵するほどの意味を持つ。丹香子にとってミステリーとは、損得勘定を度外視した本物の『好き』なのだ。
 暇さえあればミステリーのことばかり考え、しかし思索に没頭するあまり、丹香子は基美樹と同じ穴に落ちた。

『ミステリーとは何か?』という穴だ。

 およそ理路整然とした解答など絶対に見つかることのない、茫漠とした疑問である。
 無論、自分を納得させるだけの答えなら幾つでも見つかった。しかしそのどれもが正しく、そしてそのどれもが根本から間違っている気がした。未だに丹香子がミステリーを書けないでいるのがその証拠だ。
 そんな丹香子の思考にフィードバックするようにテレビの中の登場人物達がミステリーについて論じているのを見ると、まるで自分が高次的な存在になったような気がする。
 物語の向こう側にいる神。
 それは恐らく、私のことなのだ。少なくとも、この場では。

「おうい、丹香子嬢」
 先程からむっつりと黙り込んでいる丹香子を見兼ねてか、ピンクのカウンセラーは砕けた調子で名前を呼ぶ。
「なんですか」
「お、反応があって良かった。さっきから部室のシーンばかり続いているから、すっかり退屈してしまったかな」
 退屈。
 これが?
 最初こそ訳が判らず混乱して取り乱したが、ひとたび落ち着いて見ればどうということはない。むしろテレビ嫌いの丹香子でも、こんなに面白いテレビ番組があるならずっと眺めていたいと切望するほど熱中していた。
 私は神なのだ。
 物語の神。
 なるほど、物語を生み出すとはこんなに愉悦溢れるものなのか。目から鱗が落ちるとはまさにこのことだ。
「君はこういう世界が好きなのかい?」
 鰐はジェット機のように尖った下顎でテレビをしゃくる。
「こういう世界……」ギャルゲーのようだ、と云いたいのだろう。「可愛い女の子ばかり出てくる世界を女が夢見ちゃ可笑しいですか?」
「いいや、そんなことはないさ。でも……そうだな。そういうのは精神的に未熟な男の領分という気がするよ」
「私、普通の女の子が惹かれるものにあんまり興味が持てないんです」
 嘘偽りない事実だった。ロケットや八極拳というマイナー格闘技は小説家の兄による影響も少なからずあるが、殊にギャルゲーに関しては誰の手も借りず自発的に跳びついた感がある。小学校の卒業祝いに与えられたパソコンでまず何をやったかと云えば、ブログを開設して駄文を綴るでも太陽系の如き広大なウィキペディアを片っ端から読み漁るでもなく、徹夜でギャルゲーに勤しむことだった。
 丹香子の趣味には厳然としたヒエラルキーが存在する。もっとも単なる優先順位の問題でしかない。一座には当然ミステリーが君臨し、そこに比肩するほど近くにギャルゲーが続く。
 ギャルゲーに一座を譲れない理由は、丹香子があまりにもそれを清く正しく消費し過ぎているせいだ、と分析している。
「しかしこれは随分と歪な世界を創造したものだね」
 つまり、純粋な娯楽として楽しんでいるだけなのだ。
『ギャルゲーとは何か?』と自問したことは一度もない。それがミステリーとの大きな違いだろう。
 うん?
「……ん。ワニさん、今何か云いました?」
 鰐は緩慢に左右へ尻尾を振り、肩を竦めるように云った。
「いいや、気にしないでくれ。ただの爬虫類の独り言さ」


   *   *   *


 裏門に面したコンクリートのだだっ広い教員用駐車場に荷台が停まっていた。落ち葉拾いでよく使われるような古めかしい一輪車タイプの荷台だ。
 その傍らで刹那がスクワットをしていた。腕を頭に回し、肩幅ほどまで脚を拡げ、爪先立ちで上下運動。膝は完璧に曲げず、寸止めの要領でそれを繰り返すので下半身への負担は並大抵のものではないに違いない。見るからに辛そうだが本人は団扇で扇がれているかの如く涼しい顔である。
「せつなーお待たせー。留守番ごくろー!」
 ぴしっ、と敬礼する音々。物言わず肯くだけの刹那。
 せいぜい十分程度の時間も無駄にせず肉体改造に励むのは大いに結構だが、スカートでスクワットは止めてくれ、我が妹よ。
 基美樹たちはぞろぞろと荷台を囲んで覗き込む。
 ぱりっとした茶色い油紙のようなものに包まれた物体が荷台の上で無造作に寝転がされていた。
 これがロケットか? と指差すと、音々は「いぇーす! いぐざぐとりぃー!」と青空に向かって元気にダブルピースした。
 正確な大きさは判らないが、それでも直径二十センチ、全長一メートルほどはあるだろうか。荷台に収まりきらず、先端が少しだけ外にはみ出している。
「ロンチパッドはどうしたんだ?」基美樹は素朴な疑問を口にする。
「おおー! ほんとアズマは物知りだなー」白衣バタバタ。
「当たり前よ。博覧強記ですもの」
「あのぅ、ロンチパッドって何ですか?」美帆がずいと前へ出る。
「ロンチパッドってのは、ロケットの発射台のことだ。これくらいのモデルロケットだから、鉄の丸棒と円盤を櫓のように組み立てれば事足りるんだろうが……」
 見たところ、積荷はロケットが丸腰ひとつである。
「ロンチパッドはもう移動してあるから心配ごむよー! ほら、もう行こっ。こんなに天気がいいんだから歩きながら話そうよー」
「まあ……そりゃそうだな」
 荷台を引っ張り裏門から出ようとする刹那に続こうとして、肩をぐいと掴まれた。
「ちょっとアンタ、なに妹に荷物持ちやらせてんのよ」
 千祭はじとーっと基美樹を見る。強烈な軽蔑の眼差しだ。マゾなら涎を垂らして悦ぶに違いない。
「……千祭、適材適所って言葉、憶えておいたほうがいいぜ」
 そう嘯くも、やはり刹那だって女は女だ。馬車馬をやらせるのも忍びなく感じ、それとなく代わろうかという旨を伝えると、
「いい。行き先は私が知ってるし。これは平衡感覚を養う訓練でもあるから。ありがとう」
 と、刹那はいじらしく微笑んだ。
「その代わり、私がバランス崩して、ロケット落としたら、一回私のことぶって、お兄ちゃん」
 嗜虐心をそそるような目だった。サドなら涎を垂らして悦ぶに違いない。
「……誰がお前のことぶつかよ。いいから辛くなったら云ってくれ。いつでも僕が代わるから」
 バス通りの狭い遊歩道を通行人の邪魔にならないように整列して歩く。どこで摘んできたのか、音々はまだ若い濃緑の猫じゃらし片手に今にも踊りそうなほどはしゃいでいる。通行人にじろじろ見られて当然だろう、どうやら荷台を引っ張って歩いていることが我々をクリーン作戦に乗り出した学生ボランティアだと勘違いする者も少なくなかった。ご丁寧に缶ゴミを差し出してくる老人に向かって「違うんですよー」と青筋を立てる千祭が可笑しくて、みんなで笑い合った。
「ネネちゃん、このロケットってどれくらいまで飛ぶの?」
「んゆ。正しくは『モデルロケット』なー」
「あ……それ、基美樹くんも云ってた。二つにはちゃんと違いがあるのね」
「そうだよーん」と応えはしたものの、川縁で日向ぼっこしている野良猫を発見し、音々の意識は完全にそっちに持っていかれてしまった。
 まったくお子様ねえ、と千祭はオーバーに手を拡げ上げた。
 どうやら答えるのは基美樹の仕事のようだ。
「……ロケットにはペイロードという空間があって、そこの積載物によって名称が変わるんだ」
 一言一句聞き漏らすまいとする美帆には悪いが、正直自信はない。が、そこまで間違った説明はしていないはずだ、とすぐに思い直した。
「核弾頭を積めばミサイルになるし、人を乗せればロケットになる。何も積まないでただ飛ばすだけならモデルロケット……まあ、ざっくりと、こんな感じかな。ミサイルもロケットも本質、構造は変わらないんだよ――おい、音々」
 お団子……否、シニヨンをぎゅっと握る。
「むぎゃ!」
「ちょうど僕も美帆と同じことを訊きたいと思ってたんだ。このロケット、どんくらい飛ばす気なんだ?」
「はっ? そういやアズマが東に向かってるな! なんかちょー面白いな!」
「おい千祭、こいつを血祭りにしろ」
 音々は首を巡らせ、昔日に思いを馳せるように空を仰いだ。そして猫じゃらしで天を突き刺す。
「んっと、低軌道上くらいは飛ぶんじゃないかなー」
「底軌道かよ!?」
 基美樹は思わず足を止め、素っ頓狂な声を上げた。
「おいおい……大きく出たもんだな。人工衛星がごろごろ転び回ってる場所にアマチュアのロケット打ち込むって正気の沙汰じゃないぞ」
 地球の大気は球状層である。対流圏を越え、成層圏をやり過ごし、中間圏をぶっち切れば、そこから先は宇宙の領域である。低軌道に乗り上げるには中間圏から最低でも三〇〇キロは飛ばさねばならないだろう。
 故に、
「本当にできんのか……?」
 非常に訝しかった。
「なにー、音々様の三段式ロケットを甘くみてもらっちゃー困るぜぃ! 液体燃料をコンポジット推進剤でサンドイッチしたウルトラグレートスペシャルハイブリッド仕様なんだぞー!」
 えっへん、と音々は絶望的に貧しい胸を張る。
 それを聞いて、基美樹の『ひょっとしたらこのロケット飛ばないんじゃないか説』はいよいよ確信的になってきた。
 恐らく低軌道上までとにかく高く飛ばすには燃料との勝負になる。燃料が尽きたらそこで負けは確定なのだ。従って燃料を積むことは大正解。しかしそれにしたって三段式、つまり燃料タンクを三つに分けるというのは素人の基美樹でも明らかな設計ミスだと判る。どう考えても積み過ぎ、どう考えても無駄が多過ぎる。
 だが、
 どんな草花よりも生きる力の瑞々しさに溢れ、『これから世界はもっと面白くなっていくんだ!』というような音々の笑顔を見ていると、正論を云うことが途端に馬鹿らしくなってしまった。

 さて。
『三聡とはどんな町か?』と問われたら、基美樹は迷わず、あそこの、野菜BOXを例に挙げるだろう。
 三学から出発し、寄り道もせず、ただひたすら真っ直ぐ進んできた結果、基美樹たちは畦道を歩く破目になった。刹那曰く、目的地へのショートカットらしい。
 左右には長閑な田畑が拡がり、土くれの濃い臭いがそんなに不快でもない。やや前方一体には奇妙に拗けた防砂林の群がラグビーのスクラムを組むように立ちはだかっている。
 田園地帯に突入してからこれまで、基美樹は野菜BOXを二つ発見した。少し先に見えるあれは三つ目の野菜BOXだろう。 正式名称ではないかもしれないが、とにかく基美樹の認識では野菜BOXとして名前が登録されている。
 腰ほどの高さの簡素な棚に、トマトや胡瓜などの野菜が剥き出しのまま置かれている。供物として置かれているのではない。こんなのでも一応売り物なのだ。購入するには脇に針金で括りつけられた空の缶詰に小銭を落として好きな野菜を持っていけばよい。当然、見張りや店番は立っておらず、完全に買い手の善意に委ねられた販売システムになっている。
 恐らく、そんなに珍しいものでもないだろう。どこかぶらっと旅に出れば、そこここで散見できるものに違いない。
 しかし三聡はそれに、監視カメラが取りつけてある。本物である訳がない。お菓子のオマケみたいにちゃちなダミーカメラだ。
 これである。なんというか、ローテクにハイテクっぽさを紛れ込ませるこういうところが三聡なのだ。どこかズレてて、どこかスベってる感じ。
 要するに、この町は中途半端なのだ。

 防砂林を抜けた基美樹たちは海に出た。突堤を転げ落ちるように砂浜へ下りていく皆を他所に、基美樹は波の音に静かに耳を傾けながら海の青と空の青の水平線上を舐めるように見廻した。
 右斜めに真っ白い灯台が辺りを睥睨するように屹立し、海上には遊覧船がひとつ浮かんでいるだけで他には何もない。
 砂浜を少し歩いたところに小屋が建っている。皆はそこに集まって基美樹が来るのを待っている。
 近づく。
 なんじゃこりゃ、と基美樹は見上げる。打ちっ放しのコンクリート壁にトタン屋根を被せた、なんともお粗末な小屋だった。
「なんか、学校の体育用具室がそのまま移動してきた感じだな」
「用具室ってのは大正解だよ。あたしが自治体に懸け合ってバーベキューセットや救命胴衣とかと一緒にロンチパッドも置いてもらったのさー…………って、あれ?」
 白衣とジャージのポケットに片っ端から手を突っ込んでいく音々の顔がどんどん青褪めていく。
 なるほど。オチが読めた。
「うー、あじゅまー、鍵落としたかもぉー……」
 やっぱりか。いや、そんなこと僕に云われましてもね。
「みんなで手分けして鍵を探しましょうよ」
 努めて明るく提案する美帆の横を千祭が通り過ぎ、ふむふむと合点するように呟きながら小屋の扉を仔細に観察している。
 そして、
「……これ、簡単に開けられるわよ」
「ほ、ほんとかー?」一縷の望みに音々が縋る。
「ええ。安物の南京錠だから思いっ切り回転圧掛ければこんなの一発で破れるわよ。ただし南京錠は使い物にならなくなるけど。本当なら蝶番を外したいところだけどスエージング型……ほら、両羽根が側柱とドアの側面に固定されてるでしょう? これ、難しいのよね。私なら外せないこともないけど、変に扉を傷つけるからやりたくないってのが正直なところだわ」
 すごい。すごいぜ千祭の姉御。
 美帆はおろか刹那までドン引きしている。
「えー……でもでも、南京錠壊しちゃうんだろー」
「扉を蹴飛ばすよりかよっぽどスマートなやり方だと思うけど?」
「僕も同感だね。千祭に開けてもらえよ、音々。南京錠ならあとで僕が一緒に買いに行ってやるさ」
「そーよそーよ、そこのロリコン先生の云う通りだわ」
「うー……じゃあ、千祭の姉御、よろしくお願いします」ぺこり。
 なんだろう。
 音々に甘くすると千祭の機嫌が少しだけ悪くなるのは気のせいだろうか。
 ともあれ、鍵の件はクリアである。
「あっ、ミホ! ルーズリーフ持ってるかー?」
 これのこと? と美帆は学生鞄からバインダーを取り出した。
「そうそれー。悪いけど、ルーズリーフを短冊状に切って欲しいのさー」
「別にいいけど……短冊をどうするの?」
 そう云いながらも既に美帆の手はルーズリーフを細かく折り始めている。
 おっほん、とわざとらしく咳払いをし、音々は皆のほうに向き直った。視線を一身に集めると、満足したように口の端に笑みを作った。
「みんな、短冊に願い事を書いて欲しいんだ」
 七夕にはまだ早いだろ、と基美樹は小さく零す。
「知ってるよー。笹に飾るんじゃないもん。……あたしはみんなの願い事を、ペイロードに積んで飛ばしたいんだ」
 賛成! と真っ先に声を上げたのはハサミでちょきちょきやっている美帆だ。
 悪くないわね、と千祭は少し照れ臭そうにしている。刹那は無言で肯く。
「『核弾頭を積めばミサイルになるし、人を乗せればロケットになる。何も積まないでただ飛ばすだけならモデルロケット』さっき、アズマが云ってたね」
「遊んでたのによく憶えてるじゃないか」
「ねー、アズマ。人を乗せなくったって、モデルロケットはロケットになるんだよ? 人の意志とか、願いとか、祈りとかを乗せたら、それはやっぱりロケットなんだよ。……あたしはさ、ロケットを飛ばしたいんだ。あそこで寝てるのはまだ完成してなくて、みんなの願いを乗せてやっと一人前のロケットになるんだ。だから、みんな、あたしに力を貸してください」
 音々は深々と頭を下げる。その姿は普段の彼女からは想像もできないほど大人びて見えた。
 当たり前かもしれない。
 彼女はロケットを通じ、一段階大人になるべくして皆の願いをその小さな身体で背負う覚悟でいるのだ。
 まるで正反対だ。基美樹は自分の卑小さを思い知る。僕も一段階大人にならなければならない。十七歳とはそういうことを考えるのに遅くはない年齢だ。しかし基美樹にはその手段が、願いが、どうしても思いつかなかった。
 だから、短冊を配られ、美帆から一本のサインペンが渡ってきた時、基美樹は自身が慄くようなことを書いた。一体何だと云うのだ? 自分には願いなどないのに、その言葉はすらすらと短冊の上を黒く舐め回していった。まるでもう一人の自分が乗り移ったかのように。

 短冊にはたった一言、

『帰りたい』

 それだけだった。
 短いだけ余計に痛切さがあった。
 短冊を凝視し、その言葉の意味を反芻する。
 
 帰りたい。
 帰りたい?

 どこに。

 カエリタイ。
 カエリタイ?

 帰れ。
 帰る。
 帰る?

 どこに?

 どこに、
 どこに、
 どこに、

 あ。

「あー……」

 そんなの自明じゃないか。

 手掛かりは揃ったのだ。

――美帆の不安そうな視線。

 異分子【いぶんし】 同質集団の中にあって、他の多数のものと種類や性質・傾向を異にするもの 「―を排除する」

 密室【みっしつ】①中から鍵をかけなどして、密閉状態の、外から入れない部屋 「―殺人事件」 ②秘密にして人に知らせない部屋

 世界【せかい】①衆生が住む時間・空間。宇宙の中の一区域――――

「――――はっ」

 呼気が熱くのたうつ。
 我慢できなくて、基美樹は哄笑を上げる。

 逸早く異変を察知した美帆が足早に駆け寄る。
 異変?
 冗談はヤメロ。
 狂ってるのはお前らのほうだろ?

 基美樹は睨みつける。
 美帆の足がストップ。

「うんこ」
「――へっ?」と目を丸くして美帆。
「うんこしてくる」

 それだけ言い残して基美樹は脱兎の如く駆け出した。
 そしてすぐに気付く。
 砂と革靴じゃ相性が悪い。
 もう知らん――走りながら革靴を脱ぎ捨てる。
 裸足で突堤の階段をばばっと駆け上がって道路に躍り出る。
 何という僥倖。
 右からタクシー。
「お願いします! すぐにここから離れてください!」
 躁っぽい剣幕でタクシーに乗り込む基美樹を、面倒臭そうに運転手が振り返る。
 あ。
「松田勇作!」
「なんだ、兄弟じゃねえか」浅黒い肌に白い歯がきらりと輝く。
「ちょ、もう、すぐに発進してください! 早く! ゴー!」
「おいおい。落ち着けよ」運転手はサングラスの奥で目を眇める。「お前に何があった?」
 
 やっと覚醒したんだ、と基美樹は答えない。


《5》


「さあ、いよいよ物語が動き出した」
 鰐は云った。
「クライマックスだ」


   *   *   *


 カーラジオからブランキー・ジェット・シティの『小さな恋のメロディ』の緩やかなオルタナ・サウンドが流れ出す。
「俺はブランキーの大ファンでね。先日もライブに行ったんだが、やっぱりボーカルのベンジーってやつぁ天才だな。ロックの中に文学性を取り込めるのは彼くらいなものだろう。それにしても――」
 この曲は、まるでお前みたいじゃないか、と松田運転手は笑う。

“行くあてはないけど ここには居たくない”
“イライラしてくるぜ あの街ときたら”

 勢いに任せてタクシーに乗ったものの、基美樹には行くあてなどなかった。ただ遠くに離れたいという一心と財布だけしか持ち合わせていなかった。
 そのことを正直に打ち明けると、
「なら、空港に戻ればいいじゃないか」
 と、勝手に進路を決められてしまった。
「空港に戻って、どうすればいいんですかね」
「そんなことは知らんよ。詳しくは後ろの奴にでも訊いてくれ」
「……後ろ?」
 肩を起こしてリアガラスを振り返る基美樹を、「あんまりじろじろ見るなよ」と松田運転手が注意する。
 シルバーメタリックのマジェスタの、人を小馬鹿にしたような平べったい顔がこちらを向いて追いかけてくる。
「さっきから微妙な車間距離を保って、こっちをぴったりとマークしてやがる。窓をスモーク仕様にしてるってことは、完全なる尾行だ。目当てはお前だろ? 一体何を考えてやがんだ」
 勘違いじゃないですか、と云い掛けて基美樹は口を噤む。

 基美樹には判る。直感的に、あのマジェスタは自分を追いかけているのだと。
 では、それは誰なのだろう。まさかミス研のメンバーが運転しているわけじゃあるまい、と一瞬思いはしたが、アマチュアロケットを低軌道まで飛ばそうとするテロリスト紛いの馬鹿がいるのだ。それにピッキングのプロがいて、人を吹っ飛ばすほどの鉄山靠を繰り出せる八極拳士がいるのだ。誰がどんなチート性能を持っているかなんて判らない。車の運転くらい御茶の子さいさいだろう。
「空港ってのはな、誰かにとっては始まりの場所なんだ」
「いきなり何の話ですか」
「そして、誰かにとって終わりの場所でもある」
「始まりと終わり?」
「そうさ。空港ってのは絶えず人がいる。何百何千といる。これから飛行機に乗る者、降りる者。始まりと終わりだよ。お前が何に悩んでいるか知らんが、後ろの奴と決着をつけたいんだったら、空港ほどそれに相応しい場所はないさ――着いたぞ」
 ほんのりと緋に染まった駐車場で、基美樹は礼を云う。空港の向こうには夕陽が見える。見続けていたら自然と涙が滲んできそうだった。一日で最も美しい時間の訪れが始まろうとしているのだ。
 タクシーを出ようと腰を浮かせると、松田運転手はこちらを振り向き、サングラスを外した。目はつぶらで、照れ臭そうに微笑む顔は少年のあどけなさそのものだった。
「なんだろうな。お前とはもうここで二度と会えないさよならって気がするんだが、どうせまたいつかどこかで再会するんだろうな」
「なんですかそれ。矛盾してますよ」
「……ほら、世の中には自分にそっくりな人間が三人いるっていうだろ?」
「ドッペルゲンガーみたいなものですか」
「まあ、そんな感じだ。恐らくそのドッペルさんがお前と会うことになるんだろう。その時は、そいつとも仲良くしてやってくれよな」
 軽く握手を交わして、今度こそ基美樹はタクシーを出た。
「あ……料金」
 払い忘れたと気付いた時には遅かった。もうタクシーの姿はない。
 なんか格好つかないな、と基美樹は歩く。前を睨みつける。
 向こうから人が歩いてくる。
 音々でも千祭でもない。背は低く、痩躯だが、肩の出っ張りや歩く所作などから男のシルエットだと判る。
 互い二メートルほどの距離まで詰めたところで、基美樹は足を止めた。すると鏡映しのように、相手もぴたりと足を止めた。
「あんた誰だよ」
 基美樹は言葉の飛礫を打つ。とても初対面の人間に対する第一声ではなかった。どうやら今の自分は礼儀まで持ち合わせていないらしい。
 だが、基美樹が無作法になるのも無理はなかった。
 目の前にはぞっとするほど美しい少年が佇んでいて、その手にはビデオカメラのようなものがこちらに向けて構えられている。
 基美樹が置かれている現状の不可解さは、ここに来て頂点に達したと云ってよかった。
「ふう、どうやら目が覚めたようだね、東基美樹。ようやく俺のことが見えるようになって嬉しいよ」
 基美樹の問い掛けは黙殺され、少年は歌うように呟く。俺のことが見えるだって? まるで頓珍漢だった。毎日パスタ食ってそうな顔しやがって。朝とか絶対セロリ齧ってそうだ。
「お前は自分が透明人間だとでも云いたいのか?」
「その問いはイエスでもあり、ノーでもあるね」
 駄目だこれは。こいつは基美樹を困らせるプログラムだけを施されて生まれてきたロボットに違いない。
「俺はずっと君の傍にいたんだよ。飛行機でフライトアテンダントさんといい感じになってる時も、空港でステーキ弁当を買っている時も、タクシーで散々都知事の悪口を云っている時も、学校の教室でハーレムごっこしている時も、屋上で昼寝している時も、千祭とかいうビッチとキスしている時も、ああ、そうそう、部室での君たちの会話、あれはなんだい? まったく稚拙極まりなかったぜ。恥ずかしくて赤面頻りさ。とにかく俺はいたんだよ。君の横にぴったりずっとね」
「こそこそ隠れて覗き見してたってわけか」
 基美樹は、しかし不思議と怒る気にはなれなかった。怒ろうが怒るまいがこの超然と振る舞う少年には何の効果もないだろうと思われたからだ。
「隠れて覗き見? いやいや、覗き見の部分は訂正しないけど、俺は隠れてなかったんだって。ただ君は……いや、君たちは、俺のことが見えていなかっただけなんだ」
 考える/判らない。基美樹は思考を放棄した。
「どんなトリックを使えば、それが可能になる?」
「『この世界に主人公は二人いらない』これが透明人間トリックの根幹だよ」
 何を云っているのかは依然として判らないままだが、基美樹はやはり、と思った。『この世界』と云うことは、ここは基美樹が普段暮らしているような世界ではないのだ。
「透明人間云々の前に、どうやら俺から補足しておく必要がありそうだな。既にお気づきだろうが、ここは君が知っている『三聡市』じゃない」
「だろうね。ところで、そのカメラどうにかならないか? 気が散って仕方ないんだけど」
 見た目はごく普通のハンディカムだ。レンズの横で赤いランプが点滅しているのは撮影中を意味しているのだろう。
 不自然な点がひとつある。ハンディカムから、昔のラジカセにあるような銀色のアンテナがぴょんと高く立っているのだ。普通、ビデオカメラにアンテナはいらない、と、思う。家電に疎いので断言はできないが。
「それ、撮影した映像をリアルタイムでどっかに送れたりできるわけ?」だとしたら悪趣味だ。
「うん、そうだよ」あっけらかんと少年は肯定し、うっとりと微笑む。「完全生中継だぜ。ああ、云っとくけど、ドッキリじゃないからね。そこを勘違いするなよ」
 だろうね、と短く応じる。当たり前だ。たかがドッキリ如きで、あんなことができては堪らない。
「さぞかしいいドキュメンタリー映画が撮れたろう。ブルーリボン総嘗め間違いなしだな。もしそれが駄目でも東基美樹賞をくれてやるよ」自嘲的な笑いを滲ませた基美樹の声が、がらりと敵意に変わる。「んで、高みの見物してやがるその馬鹿は誰だ?」
「この世界の創造者さ」気障っぽく、少年は人差し指で前髪を弾く。
 基美樹に驚きはなかった。しかし泰然というよりは、諦観の向きのほうが強い。
「つまり……なんだ」音を失くしたように静まり返った駐車場で、語気までもが勢いを失いそうだった。「そいつがこの世界を作って――閉じ込めたのか」
「その通り。大方合ってるよ。しかしもっと驚くかと思ったのに、随分と物分りがいいじゃないか」
 基美樹は曖昧な表情を作って見せてやり過ごす。だろうね、と心の隅っこで溜め息を吐く。
 たぶん、基美樹にとってこの体験は初めてではない。いつ/どこで/どんな――仔細には思い出せないが、前にもこんなことがあったはずなのだと、心の中核の部分がしっかりと憶えている。ただ、仕舞われた記憶があまりにも深過ぎる上に、幾層にもプロテクトが張り巡らされているようで、どうしても思い出すことができない。
 少年は続ける。
「君はこの世界の主人公に抜擢された。そして俺は君を監視するために降り立った。しかし俺の存在はメタだからね。誰からも求められず、世界からも求められない。この世界の真相を把捉している俺の存在は邪魔ってわけだ。故に、超至近距離にいながら誰も俺を見ることはできなかった。いや、認識できなかった、と云っておいたほうが判り易いのかな」
「余計に判り辛いっての。……マジで、お前何者なんだよ」
「云ったろ? 俺はメタなんだ。メタの意味が判らなければ辞書を引けよ、お若いの。それでも判らないなら仕方ない、もう少し噛み砕いてやると……なんつうの? 東基美樹、君は思わないか。最近、あまりにも神って奴が簡単に氾濫していると」
 基美樹は眉間を摘まむ。いい加減、眩暈がしてきた。「思う思う」と同調するとでも思っているのか、こいつは。
「神曲、神ゲー、神アニメ……神も安くなったもんだよな。怪力乱神の奇跡には『神』というラベルをつければ万事OK。こんなに薄っぺらな神はなかなかないぜ。コンドームじゃねえんだからさ、これ以上薄くしてどうすんだよ、って話だ。しかしまあ、俺もその中のひとつさ。中学生大好きなワンオブゼム、やっすいやっすい神様がこの俺さ。自由を求め過ぎたが故に名前を持たぬが、相棒からは親しみを込めて『ペンキ屋』だなんて呼ばれてる。まあ好きに呼べよ。メタでも神でもペンキ屋でも好きなのを選んだらいい」
 
 無視。

「それが本当だとして、なんで今、お前のことが見えてるんだ?」
「お前が俺という答えを心から求め、そして俺が必要であるときちんと認めたからさ。答え合わせがしたいんだろう? ならやってやる――では訊こうか。東基美樹、お前が看破したこの世界の矛盾を俺に話してくれ」
 さあ、と少年はいざなうように手を差し出す。
 ちかちかとした外灯の瞬きで基美樹の影がダンスする。
 夜気が笑うかのように一陣の風が吹き荒れた。

 深呼吸。
 鼓動が痛い。
 自分は元の世界に戻れるのだろうか?

「簡単だよ」
 基美樹は口の端を吊り上げ、無理にでも不敵に笑ってみせた。
「音々は云った。『アズマは東に向かった』とね」

 そう……あの時、学園から出発した基美樹たちは寄り道もせず、ただ愚直に東へ歩いたのだ。精々小一時間、といったところか。
 バス通りを歩き、田園地帯と防砂林の悪路を越え、そして、辿り着いた先は茫漠と拡がる海だった。
 するとどうなるか?

――どうなるもこうなるもない。
 ここに、とんでもなく大きな矛盾が生じてしまうのである。

「いいか? 三聡市は埼玉県南部の最東端にあるんだ」
 東京のベッドタウン、三聡市。
「そこから東に歩き続けたら、当然――――」
 誰だって知っている。だから自明なんだ。
 でも基美樹は見てしまった。気付いてしまった。
「恐ろしい矛盾だぜ、これは」

 さあ。
 さあ、埼玉県民の皆様、ご一緒にどうぞ。
 そして埼玉県民ではない皆様、大いに笑って、大いに怒ってくれ。

 基美樹は自棄っぱちに叫んだ。

「千葉県がごっそり消えて無くなってんだよ! 内陸じゃねーか三聡市っつーかそもそも海なんか埼玉にはね――――――んだよ!! あと空港! 三聡からこんな近くにねーよ! 常識だボケ!!」

 埼玉県の東隣は千葉県。それは一般教養にも値しないほどの常識であり、覆しようのない自明だ。殊に最東端の三聡とあれば、千葉なぞは江戸川を挟んだ目と鼻の先である。しかし、と基美樹は叫んだ後で考える。あの時、短冊の『帰りたい』という、自分の中に存在する『何者』かの訴えがなければ、もしかしたら自分はこのあからさま過ぎる矛盾に気付くこともできなかったじゃないかと、満ち満ちた自信は鳴りを潜め、ただ忸怩たる思いが胸に去来するのだった。
 一頻り聞いた後で、少年は鼻で笑った。彫刻じみた鼻梁を誇示するように。
「大正解だよ、東基美樹。しかし、ま、こいつぁ、ちょっと判り易過ぎたかもな」
「おい。この世界の創造者ってのは、なんだ? 千葉にどんだけ怨みがあんだよ。ごっそり消すとか頭おかしいだろ。あんなもん平和で愉快な落花生王国だぞ」
「それは違うね」と少年はビデオカメラ片手にずいと接近し、基美樹の唇に人差し指を添えた。「彼女は千葉を怨んでなどいない。逆だよ。この、三聡という町を心底憎悪していたのさ。海も空港も存在しない、窮屈で閉塞的な――密室とでも云うべきこの町をね」
 蝿でも落とすように、少年の指を叩いて振り払う。
 何人の侵入をも許さない、内側から施錠された空間。どこにも行けず、どこにも開かない。当然、狭義の意味としては当て嵌まらないだろう。だが、密室という表現はなかなか云い得て妙だった。
 海は外の世界に通じている。空港だってそうだ。モチーフとしての在り方なら、この二つはよく似ている。
 海も空港もない三聡を一種の密室と捉え、それを打開する手段として、海と空港を配置することは、それほど狂ったことではないと基美樹は思う。少々乱暴だが、空と海の向こうに大いなる可能性の世界を夢想しない者は恐らくいないのだから。
 が、そのために千葉を消滅させるのは、さすがにやり過ぎである。
 この世界を創った奴の心の病の根、これは相当に深そうだと思いを巡らすだけで基美樹のこめかみは鈍く疼いた。
「大正解なら、もう帰れるんだろ? 早く帰してくれないか」
「お、そんなに早く帰りたい?」少年は破顔する。ニヤニヤと。
「帰りたい。帰らせろ」
「マジ?」
「マジでマジで」
「遣り残したことあんじゃねーの? ん? ここでならレイプだってし放題だぜ」
「マジ?」
「マジでマジで。人も殺し放題。どうせみんな死んでるようなもんだし」
「マジかぁー」基美樹は大袈裟に頭を抱える。「でもいいや。嫌がる女を無理に犯したって仕方ないし。殺人もフィクションの中で充分だわ」
 故に、
「もういいから帰らせてくれ」
「マジ?」
「マジでマジで」
「じゃあ」と少年はどこから取り出したのか、右手に握り込んだ黒い塊を基美樹に突きつけた。
 グロック17/自動拳銃。
「今、ここで死ね、東基美樹」
「――は?」
 唖然/ぱんっ。
 思いの他、間抜けな発砲音。
 右足に衝撃。基美樹は弾かれたように宙を舞い、すぐさまコンクリートの地面に落下した。
 右の脹脛から出血。痛みはない。ただ熱い。焼ける、と思った。
 撃たれた。
 立てない。
 右足に力が入らない。
 現状を再認識すると、黙りかねた痛みが暴動を起こしたように基美樹を襲う。痛覚復活。あまりの痛みに頭と首の付け根がびりびりと痺れ、貧血を起こしそうになる。
「ふ……はっ……」荒々しく息を吐き出しながら、地面に突っ伏す。
 基美樹は地面に顎を擦り付けるようにして、顔を持ち上げた。
 銃口はこちらを向いていない。少年は無感動な表情で、ビデオカメラを回し続けていた。
「痛いだろ?」それだけ云った。
「ふっ……っ……」言葉にならない。
「死ぬってのは、そのんんー倍くらいは痛いぜ?」
 脂汗をびっしり浮かべた基美樹の顔が、くしゃりと歪む。笑おうとしても、苦悶の表情にしかならない。
 呼吸を整える。痛みは鮮烈だが、撃たれたショックは徐々に和らぎつつあった。僅かに、基美樹は余裕を取り戻す。
「うー……痛ぇ…………必然性とか、文脈とか、無視してんじゃねえよ……意味わかんねえ……なんで撃たれなきゃなんねーんだよ」
「その痛みを前にしても、死ぬ覚悟あんのかなー、って」
「ある」即答。「死んで帰れるならな……だけどよ、死ぬ意味が、全っ然、わからん」
 死ねば夢から醒めるという、そういう単純な話なら判るが。
「えー、そこらへん説明しなきゃダメ?」きゃぴっ、と少年は小首を傾げる。
「……ダメだろうな、絶対に」
「仕方ないね。説明してやるよ。ラップ調で」
「……普通にやってくれ」
「落語調のほうがいい?」
「……普通に頼む」
 乏しい知識をフル動員させて基美樹は仰向けに転がり、右足をふるふると持ち上げる。傷口が心臓より高い場所にあれば止血になるんじゃなかったか。ああ。多分、意味ない。だけどそれでいい。気が紛れるだけで幾分楽だ。
 身振りを交え、少年が滔々と語る言葉を、基美樹は仰臥したペリカンのポーズで聴き取る。途中、笑い飛ばしてやりたくなる場面に出くわしたが、相槌も打たず、黙したまま基美樹はすべてを聴き終えた。

 要するに、
 基美樹は超空間チャンネルという掃除機のノズルみたいな裂け目に無理矢理呑み込まれてここにやって来た(嘘だろ?)超空間チャンネルとは人の死の間際、『生きたい』という願望が生み出す神秘の力(はい、ここ笑うところ)脱出するには、この特性を利用する他にないのだと云う。
 要するに……、
「こっちから超空間チャンネルを抉じ開けて、元の世界にトンネルを繋げ、ってことか」
「そう」少年は肯き返す。
「そのために死ねと?」
「申し訳ないけど、そういうことだね」
「あー……」
 脱力感を溜め息で表すつもりが、ゾンビの呻き声なってしまった。
 仮に超空間チャンネルの原理/存在云々を認めるとすれば、それは確かに理屈上正しい手段かもしれない。世界間を行き来するには、超空間チャンネルを逆利用するしかないのだから。
 にしてもだ、
「おい、何か他に方法あんだろ。ある。絶対にある。今決めた。絶対にあるに決まってる」
 玩具を買ってもらえない子供よろしく、基美樹は駄々を捏ねるように右足以外の全身をばたつかせる。
 それを見、「うーん、困ったな」と全然困ってなさそうな感じで少年が零す。
「まあ、無理強いはしないよ。嫌ならこの世界に留まってりゃいいさ」
「あ!!」基美樹の脳天に天啓の矢がぶすりと突き刺さる。「おい、お前はどうすんだよ。どうやってここから出るつもりなんだよ。二人仲良く拳銃で頭を吹っ飛ばすか? そんなわけないよな。お前、実は抜け道とか知ってるんじゃないか?」
「俺はメタだからね」
「またそれか。本当に神なら免許証見せろよ」
「……俺のことなら心配いらないよ。俺は自分の手で超空間チャンネルを開けるから」
「ほら! あー、やっぱりだ! やっぱり抜け道あるんじゃねーか!」
 やれやれ、と少年はかぶりを振る。
「例えチャンネルを開いても、お前を連れ出すことはできない。超空間チャンネルってのは基本的に一人乗りなんだよ。だから 面倒臭いことが起きる。お前と巣鴨丹香子みたいにね」
「……巣鴨丹香子?」
 誰だそれは。知らない名だ。
「この世界の創造者さ。生きて帰れたらそいつの墓にでも文句を云え。――さあ、腹は決まったか?」

 決まっている。そんなものは。

「グロック貸せ。やってやるよ」

 少年は不快そうに双眸を細め、基美樹の額に銃口を押し付けた。
「おい。東基美樹。お前は何を隠してる?」
「……さてね」
 負けじと少年を睨み返す。
 別に隠し事でも何でもない。ほんの些細な、自分にしか知りようがない夢の切れ端のようなものを基美樹は握り締めているだけなのだ。話しても支障はないだろうが、そんな気は更々無い。
 このメタとか神様などとほざく餓鬼がただ気に入らない。だから話したくない。それだけだ。
 基美樹は奪い取るように少年の手からグロックを取り上げる。
「なあ。ちょっと教えて欲しいんだがよ」
「ギャラリーが飽き始めるから手短にね」
「あー。とりあえずさ、『生きたい! 絶対元の世界に返ってやる!』って思いながら引き金を引けばいいんだよな?」
「思うだけじゃ駄目だ。念じるだけでも駄目だし、祈るだけでも駄目だ。こればっかりは心構えでどうにかなる問題じゃない」
「……OK。理解した。じゃあ、変に力んで考えんの止めるわ」
 スライド→グリップを握り込む。基美樹はだらん、と寝そべり、夜空を仰いで、こめかみに銃口を当てた。
 ふと疑問が過ぎる。気前良く啖呵を切った手前、往生際が悪いかもしれないが、基美樹は訊かずにはいられなかった。
「……さっき撃った一発目はパフォーマンスで、実はもう弾は入ってませんってオチじゃねえだろうな?」
「ほう……。頭は悪くないみたいだね」
 おかげさまでね、と基美樹は思う。これ、自分の思考じゃないけど。
「しかし、残念でした。そう云われることを見越して、弾はばっちり入れておいたよ」
「お前、本っ当むかつくな……」

 基美樹は東の空に一筋の航跡雲を発見する。槍のように細く、鋭く尖ったそれはぐんぐんと伸びて天を衝く。
「あれは……」
 飛行機じゃない。音々のロケットだ。
「良かった。ちゃんと、飛んだんだな」
 もっと高く、
 もっと速く、
 もっと遠くへ。
 自分の人生も、あのロケットのようにあって欲しいものだと基美樹は最後に願った。
 そして引き金。
 銃声。

――ブラックアウト。


《6》


「チャンネルは開かれなかった」
 鰐は淡々と、事実のみを述べた。
「もう一度云うよ」
 テレビの向こうで、東基美樹が大の字で事切れていた。頭から鮮血を滴らせ、濁った瞳はどこも見ていない。
「東基美樹は死んだ。チャンネルは開かれなかったんだ」
 丹香子はふらりと立ち上がり、夢遊病患者のような足取りで左の扉の前に近づく。鰐を背後に立ち尽くし、肩を震わせて言葉を搾り出した。
「……元の世界に、私を返して」
 丹香子は俯く。どれだけ嫌だ嫌だと思っても、涙の滴は独りでに落ちていく。
「元の世界に戻る。本当に、それでいいんだね?」
 鰐は穏やかな口調で念を押す。
「はい」と丹香子は肯いた。
「そうかい。なら、そこの扉を開けて進みたまえ。少し長く歩くだろうけど、とにかく進めば問題ない」
 丹香子は扉を開ける。
「向こうの世界で、君が生きていることを、僕は切に願うよ――じゃあね。もう逢うこともないだろうけど」
 丹香子は一歩踏み出し、顔を持ち上げる。

 その顔は、醜く笑い崩れていた。


《エピローグ『世界はギャルゲーでできていた』》


 結論から先に云ってしまえば、私――巣鴨丹香子は生きていた。
 結論も何も、生きているからこそこうして語ることを許されているわけだが。
 どうやら私は昏睡状態のままICUに三日ほどぶち込まれ、その間にオペを八回、心停止を六回ほどやらかしたらしい。医者からはタフだと褒められ、家族からは虚弱だと怒られた。
 虚弱も何も、まんべんなく全身を骨折してぐにゃぐにゃのゴム人間みたいになったらそりゃ心臓の六回くらい停まるでしょ、と駁したかったのだが、安堵と憔悴が入り混じった弱々しい両親の顔を見ていたら、とてもそんなことは云えなくなった。
 私の身体はあちこち骨と骨とを繋ぐボルトだらけで、鎖骨や肘からは小さな瘤のようなものがぼっこりと浮き出ている。時間が経てばボルトを抜く手術もできるらしいから、そんなに悲観的になることもなかった。
 トラックに弾かれた衝撃で折れた肋骨が肺を突き破ったらしい。字面を見るだけでも痛々しい。しかし、これについても今ではきちんと元通りである。肋骨はあるべき場所に戻り、肺の穴は辛うじて塞がっている。頭部に関しても異状なし。顔も綺麗なままだ。
 タフガール巣鴨丹香子。意外に私の身体はしぶとく出来ている。
……と云うと、まるで私が五体満足で死の淵から生還を遂げた奇跡の人ということになってしまうが、とんでもない。
 好むと好まざるとに関わらず、私は問答無用で神様に生きるための対価を支払わされたのだ。
 右足麻痺。
 私の右足は、もうほとんど動かない。
 被膜が剥けた電気ケーブルのように、神経をずたずたにやられてしまったのだ。
 少ない可能性に賭けて、胸の筋肉から神経を借りて、それを右足に移植してみましょう。手術は早いほうがいい――と医者は勧めるのだが、私は乗り気ではない。
 とりあえず今はこれ以上身体を切り開かれたくなかった。切り開かれた上で無駄骨に終わったりなんかしたら、ちょっと私は立ち直るのに時間が掛かると思う。手術は私個人の問題ではないのだ。家族の期待も漏れなく付き纏う。その少ない可能性とやらに縋りつくお父さん・お母さん・お兄ちゃんの姿を、できれば私は見たくない。手術が無駄に終わって、落胆する姿なんかもっと見たくない。
 それに、私は別にこれでいいのだ。右足が動かなくてラッキー、くらいに思ってるのだ、実際のところ。

 退院直前に警察が私の許を訪れた。病院食なんて決して期待するほど美味しいものではなかったが、さあ昼食だという時に来たので、ミステリ小説同様、警察って本当にデリカシーがないんだな、と呆れてしまった。
 用件は私を轢いたトラックの運転手のことだった。
 なにやら、行方が掴めないらしい。トラックをそのまま事故現場に残して姿を晦ましたのだと云う。
 犯人は埼玉を拠点にする新興宗教――クドロシエル神を崇め奉るギョロロイチマン教の敬虔な信者だと云う。おい教祖、もう少し真面目に名前考えろよと吹き出しそうになるが、警察が大真面目な顔つきで「ギョロロイチマン教が犯人を匿っているかもしれない」なんて噛まずに云うのでついに私は吹き出してしまった。

 さて。
 八月の今日、私は退院し、二ヶ月振りの我が家に戻った。子供たちは夏休みを謳歌し、大人たちはそれを憧憬の眼差しで見ながら道端に唾を吐く。
 松葉杖を放り出し、ベッドに寝転がる。慣れない松葉杖のせいで浅く息を吐きながら、自室をぐるりと見渡した。
 天井から吊り下げられたV2ロケットの模型。パソコンデスクの脇に雑然と積み重ねられたパソコンゲーム(勿論18禁)の山。大好きな男性声優のポスター。国外問わず本棚にぎっしりとコレクションしたミステリ小説。私が私であるための、原動力とでも云うべき仲間達に、私はこっそりと「ただいま」と呟いた。
 荒っぽいノックの音と共に「勝手に入るぞー」という声。お兄ちゃんが部屋にやって来た。
「ほれ、頼まれたもん買ってきたぞ」と買い物袋を掲げる。
「イチゴオレあった?」
「あったあった。最高級ブランドの明治だぞ」
 やった、と私は握りこぶしを口元にあてて小さく喜ぶ。こんなにも自分を可愛らしく演じられるのは、お兄ちゃんに対してだけ。私はお兄ちゃんが好きだ。言葉を尽くさなくても、ちゃんと私の大好きな明治のイチゴオレを選んでくれる大好きなお兄ちゃん。
 お兄ちゃん=巣鴨蝶太郎(すがも ちょうたろう)は新進気鋭のかなり名の知れた小説家だ。
 中学二年生で文壇デビュー。その年には芥川賞の候補にも選ばれた。翌年、芥川賞落選の恨みを晴らすべくして都知事の悪口を散々書き綴った『おまえの地獄を抱えて生きろ』という中編小説で見事三島由紀夫賞を勝ち取った。
 今は大学に通いつつ、連載の仕事を抱えながらも年に必ず一冊は本を出している。今度台湾で翻訳版も出るそうだ。いったい幾ら稼いでいるのだろう? 入院中に「私もお兄ちゃんみたく執筆したい」とオネガイしたらシルクハットから鳩を出すようにぽんとノートパソコンを買い与えてくれた。ダイナブックのハイスタンダードニューモデル。この人にとって十万二十万の出費は痛くも痒くもないのだ。さすが三島賞作家。
「あー、そうだ」と部屋を出て行こうとするお兄ちゃんが突然振り返る。「お前、チャンネル遊びって知ってるか?」

 時間が、
 止まったかと思った。

 私の全身が仄かに粟立つ。絶対に聞き漏らせない単語だった。
「……ううん、知らない。何、それ?」
「話が少し遡るけど――俺の大学の後輩の妹が自殺したんだ。んだけど、遺書がない。もともとその娘は厭世的っつーか欝っぽいところがあったから、世を儚んでの自殺ってことで処理されたらしい。ただ、やっぱり遺書がないのは妙だから、ってわけで俺が出張って調査したわけよ。そしたらその娘の高校ではチャンネル遊びってのが流行ってて、なんつうんだろうな……すごく馬鹿馬鹿しいんだが、自殺すると死後の世界に行けるんだと。こりゃ臭いと思って聞き込みしまくったらビンゴ、とんでもない遊びだってことが判った。どうやら、死後の世界に行くには死ぬ必要なんてないらしい。死ぬギリギリまで自分を追い込めばいいってだけで、適当な量の睡眠薬を酒と一緒に飲んだり当たり屋よろしく車に轢かれてみたり手首をザクザク切ってみたり、って奴がわんさかいたんだわ。で、俺の後輩の妹だけど、この娘って学校の二階から飛び降りたんだわ。おかしいだろ? 自殺の蓋然性を考えるなら絶対に二階からなんか飛び降りない。確実に死にに行くならもっと高いところからじゃないとおかしい。つまり、この娘もチャンネル遊びをしていた可能性が大ってことが判った。マジで阿呆。死んだら遊びもクソもない。高校生なんてのは基本的に阿呆の集まりだから仕方ないけど、死後の世界なんて行けるわけねーだろって。あんなもん、ただちょっと長い走馬灯を見れるくらいだってのにな。……っつか、今かなりホットな話題なんだけど、お前新聞とかニュースとか見てないの?」
「……見てないよ」
 搾り出すように、私はそれだけ云うのがやっとだった。
「まあ俺も全然見ないけど少しは世事に目を光らせとけよ。絶対見たくないってんなら理論武装はしっかりやっとけ。ただ漫然と見ないってのは一番よくない。こういうのは生き方の問題で、俺の真似をしたって仕方ないんだから」
「……はい」やっぱりばれてたか。
「じゃ、説教お終い。お前の周りでチャンネル遊びしそうな奴がいたら全力で止めてくれ。駄目そうならそいつ首に縄括りつけて無理矢理でも俺んとこ連れて来い。あんなもん意味ねーってことちゃんと教えてやるから」
 
 お兄ちゃんが出て行った後で、やっぱりお兄ちゃんは優しいな、としみじみ思う。お兄ちゃんが新聞やニュースを見ないのは、若い子の痛ましい理不尽の死を自分から遠ざけておきたいからだ。
 でも、少なくとも自分の手の届く範囲にいる人のことはきっちりと守る。身近に困っている人がいたら助ける。
 大学の後輩の妹なんてほとんど他人みたいなものだけど、きっとその娘を救えなくてお兄ちゃんは悔しかっただろうと想像する。既に自殺してしまった人なんて救えなくて当然だし、死を遠ざけておきながら身近の死には一目散に飛びつくなんて撞着の極みだろうけど、それがお兄ちゃんの頑として譲れない生き方なのだ。

 ねえ、お兄ちゃんって正義の味方になりたいの?――そんなことを、いつだったか訊いたことがある。
 正義の味方? やめてくれよ。そんな立派なヒロイズムは持ち合わせてないさ。
 私の記憶の中のまだ中学生だったお兄ちゃんは虚で何かを口遊んだ。

「『とにかくね、僕にはね、広いライ麦の畑やなんかがあってさ、そこで小さな子供たちが、みんなでなんかのゲームをしているとこが目に見えるんだよ。何千っていう子供たちがいるんだ。そしてあたりには誰もいない――誰持って大人はだよ――僕のほかにはね』」
 
 いきなりどうしたの? と私は訊く。ライ麦の一文だよ、とお兄ちゃんは応える。本がなくてもお兄ちゃんの頭にはライ麦の本がすっぽりそのまま入ってるみたいだった。

「『で、僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ――つまり、子供たちは走ってるときにどこを通ってるかなんて見やしないだろう。そんなときに僕は、どっからか、さっととび出して行って、その子をつかまえてやらなきゃならないんだ。一日ぢゅう、それだけをやればいいんだな。ライ麦畑のつかまえ役、そういったものに僕はなりたいんだよ。』」

 埼玉のホールデン・コールフィールド、巣鴨蝶太郎。
 私が落ちそうになった時も、ちゃんとキャッチしてよね、お兄ちゃん。

 思考を切り替える。
 私が考えることは――ピンクの鰐と一緒にテレビを眺めていたあの時間、あの体験は、お兄ちゃんが云うような、ちょっと長い走馬灯に過ぎなかったのだろうか。白昼夢や幻覚といったものと同列に並べられるような、確証なんて何一つない、あやふやとした己が生み出すトリックに嵌っていただけなのだろうか。
 しかし走馬灯とは、死の間際に思い出や記憶が途轍もない速度でフラッシュバックすることじゃなかったか?
 断言するが、私は過去にあんな珍妙な色をした鰐を動物園で見たことはない。あんな部屋も入ったことがないし、あんなテレビ番組見たこともない。
 私はあれを死後の世界だと信じて疑わなかったが、お兄ちゃんの発言のせいで、その自信がちょっと、いやかなり揺らいでしまった。
 死後の世界だとどうして云い切れるだろう?
 物証なんて何もない。
 だとしたら、あれが走馬灯だと云い切ることだって出来ないんじゃないか?
 だって物証がないんだから。
「判らない……」
 私はばふん、と頭から毛布に包まる。
 枕元で振動音が聴こえた。私のスマートフォンが呼んでいる。
「……誰?」
 名前が表示されていない。登録されていない電話番号だった。
 警察だろうか? そういえば、警察に私の番号を教えた記憶がある。捜査が進捗したのかもしれない。その報せだろうか。
 電話を無視することも考えた。しかし、あまりにも長く執拗にコールし続けるので、段々と向こうの相手に悪い気がしてきた。仕方ない。根負けする容で、渋々と電話に出た。
「……もしもし」
『わっ! やーっと出たぁ。もしもしっ? 三聡高等学園二年生のー、巣鴨丹香子さんですかー?』
 警察じゃない。
 女の声。少女の声。嫌な声だ。舌足らずで、誰彼構わずべっとりと媚を売るような、世界で一番わたしが可愛いとでも勘違いしているような……。
「…………」
『えっ、ちょっ、ダンマリはなしですよぅ。ニカちゃんだよね? ねっ? へいへいっ、恥ずかしがらずに答えてぷりーず! おーなーまーえーはっ? へいへーいって、ちょっとわたしすげーなテンション……わらわらじんせいおわた』
 なんだこいつ。死ねよ。本当に人生終わらせてやろうか。
「…………っち」
『わ、わー! 出た! 舌打ち! こわっ、ニカちゃん怒んないでよ~。わらわら。あっ? 番号? そうだよねー、いきなりだからビックリしちゃうよね。あせあせ。んとねー、テツヤとタカシに頼んでーって、テツヤとタカシってわたしのフレンドでー、今わたしの横にいんだけど、テツヤは喧嘩ちょー強い。あとちんちんすげーでかい。早漏だけど。わらわらわらわらわらわらわらわら。あ、テツヤ怒ってる。わらわら。んでー、タカシはロリコンなの。小学五年生くらいが食べ頃とかいつも云ってる。変なアニメいっぱい見てるし。やばいでしょー? あ、そーいやタカシのちんちん見たことないや。おーいタカシー、ちんちん見せて! え? だめ? いいじゃんちんちんくらい! ちんちん! ちーんーちーんー!』
「…………」
『うはっ! ニカちゃん放置ぷれーしてたっ! ごめんねー。えとね、テツヤとタカシに頼んでニカちゃんの番号内緒でゲトってもらったの。わたしニカちゃんに恩返ししたくてさー。犯人つかまえたらそっこーでサプライズ電話したかったの! どやー。もういっちょ! どやぁー……。あ、テツヤ、そいつてきとーにボコしといて。んで、なんでニカちゃん轢いたか吐かせてね。吐かなかったら指一本ずつ折っていいから。わらわら』
 ちょっと待て。全然思考が追いつかない。
 犯人を捕まえた?
 いや、そもそも……、
「あなた、誰なの?」
 
 沈黙が、一拍。

 電話の向こうで、んふふー、と少女が笑う。
『わたしはね――』
 男の悲鳴が聴こえた。殴られる音。蹴られる音。吐瀉物を撒き散らす音。

 少女は、云った。


『――東基美樹だよん。わらわら』


《2》


 オブジェクション開始。
 私はカードを二枚持っている。反論材料という名の、東基美樹の存在を根底から否定するためのカードだ。
 だが、私の手は半ば中空で静止し、どちらのカードも場に切れずにいた。
 相手の真意が読み取れない以上、迂闊な手出しはできない。私から有りっ丈の情報を吐き出せるだけ吐き出させてハイお終い、で店仕舞いされては困るのだ。
「恩返し、って云ったわよね」私は慎重に言葉を選ぶ。「私は、あなたに恩を返されるようなことなんて、何もしていないと思うんだけど」
 東基美樹と名乗る少女――早計だが、恐らく話し方からして女子高生だろう――は、ひひっ、と笑った。
『用心深いねー、ニカちゃんってば』
 ぎり、と私は奥歯を噛む。冗談じゃない。こんな低俗な女に思考を先回りされたというのか?
『そりゃさー、恩を返すのは当たり前じゃん。だって、ニカちゃんのおかげでわたしの思考がふたつになったんだもん』
「――は?」
 ちょっと待てちょっと待てちょっと待て。
「……思考がふたつ?」
『そそ。あ、でも思考って云い方おかしいかな。頭脳? 考える頭がふたつになったってこと。回転とかマジやばいよ? 暗算とかすげー早いもん。トルクチューンモーターとレブチューンモーター同時搭載って感じ。ってそれ重くなっただけじゃーん! わらわら……あ、面白くない? ニカちゃんみたいなミステリ読みには真賀田四季って云ったほうが判り易い? もしくはハンニバル・レクター? あせあせ。ま、一番感謝したいのは単純に知識量が増えたってことかなー。わたし、すっげー頭悪かったんだよね。因数分解できなかったし、英語もbe動詞が限界だったし国語的な読解力もないっていう無知の三色同順っすよ。めそめそ。このままじゃ留年するーってか夏休みが補習地獄になるーって悩んでた時に奥さん! 今回ご紹介するのはこれ、『超空間チャンネル』。ここでちょっと過ごすだけであら不思議、戻って来た時にはふたつの頭脳を有してるって寸法よ。気になるお値段は運次第! いやーニカちゃんが、わりと勉強のできる人で良かったよー。おかげで補習は回避できたし、マジ絶望的だった大学進学も余裕でパスできそうだし。テスト見せたらお母さんガチで嬉し泣きしてたよー。しばらくは遊んで暮らせるわ。まあもともと遊んで暮らしてたけどね。びばっ、薔薇色の高校生活っ! いぇいいぇい!』
 私はしばし無言の後、
「……信じられない」
 いや、信じたくない、というのが本音だった。
『なにぃー? 因数分解もできないなんて信じられないってぇ?』
「そういうことじゃない!」
 私は怒鳴り散らす。
『ニカちゃん怒らないでよ~。ネタにマジレス禁止だよ? あせあせ。私もねー、実はあんまりよく判ってないの。今ここにメタ様でもいれば話は早いんだろうけど。でも、この超自然的な――超自然だって。すごいっしょ? 今までこんな語彙なかったよわたし。『語彙』っていう語彙だってなかった――現象に、それっぽい説明をつけることならできるよ』
 私は口腔で粘りつく唾液をゆっくりと嚥下する。
「……聞かせて」
『オッケー任せて。しゃきーん。三聡という実在する町が土台にあったにせよ、基本的に、あの世界はニカちゃんの願望や経験や知識に基づいて創られていた。でしょ? いやーびっくりしたよ。まさか二〇〇〇年に解散したはずのブランキーが活動してたなんて。ニカちゃん、ブランキー好きでしょ? わたしはねー、ブランキーならダンデライオンが好きっ。やっぱダンデライオンはバンプじゃなくてブランキーだよねっ?」
 問われ、私はCDラックを見遣り、そういえば、と頭をもたげる。ブランキーの『幸せの鐘が鳴り響き僕はただ悲しいふりをする』というアルバムをお兄ちゃんから借りたままだった。身体中に刺青を彫り、いかにも柄の悪そうなメンバー三人が下着同然の恰好で女装しているCDジャケットは、初めて見た私をぎょっとさせた。でも、注意深く見ているとボーカルのベンジーには毅然とした娼婦のような佇まいがあって、この人はなかなか綺麗かもしれない、と思うようにもなった。
 解散して尚、お兄ちゃんは狂ったようにブランキーを偏愛しているけれど、私はそこまで、という評価だった。私が好きというよりは、お兄ちゃんが好きだから私も好き、という評価のほうが実は正しい。
 あの世界は、私だけでなく、私というフィルターを通したお兄ちゃんの好きなものも多分に反映されている。
 無言を肯定と受け取ったのか、『まあブランキーはいいや』と基美樹は取り直した。
『あの世界の登場人物たちも、やっぱりニカちゃんの願望から生み出されたんじゃなーいー?』
「……でしょうね」
 頭の悪い小娘に看破されたようで口惜しいが、本当にそうと認めるしかない。それは願望じゃなくて、私の妄想なのよ、と訂正したところで事実は少しも曲がらない。
『うんうんうんっ。なら、話は早いよ。あの世界の主人公――東基美樹もまた、ニカちゃんの願望によって創られた。いや……これは願望じゃないかな。仏造って魂入れず、って云ったら誤用になるからおかしいけど、ニカちゃんには“主人公は斯くもこうあるべき”という理想像があって、そしてその通りの人間の姿をした形骸が出来上がった。身体があって、知能がある。しかしそこには魂がない。超空間チャンネルを媒とし、わたしという魂が入り込むことによって、ニカちゃんの理想である主人公の知能/頭脳/思考と私の知能/頭脳/思考が攪拌され、時間を掛けて整合化され、そしてわたしがこの世界に帰った頃にはふたつの思考を有するようになった――まあ、ざっとこんなとこかな……うわっ、テツヤとタカシがすげー変な目でわたしを見てるよ。まあ傍から聞いたら完全に電波だよね、この会話。しょぼーん……』
 基美樹はオノマトペに溜め息を乗せる。彼女の考察を耳にしながら、既に私は違うことを考えていた。
 二枚ある内、一枚のカードは、これで完全に排除された。一点の曇りなく疑問が詳らかになったわけではないが、
「私、東基美樹は男だと思ってた。だからあなたがその名を語った時、偽者だと疑ったのだけど……あの世界の東基美樹、あれは着包みのようなものだったのね?」
『そーだよん。形骸、器、仮初、擬態……色々呼び方あるけど、要するにすんげーよく出来た男の着包みだね。んーじゃ、なんで女じゃ駄目で、男が主人公でなくちゃいけなかったのか。着包みなんつーものを用意してまで、あの世界で男でいなくちゃいけない《必然性》とは何なのか――』

 見くびるな。そこまで話を導いてくれるなら、さすがに私にだって判る。私のことは私が一番判っている。
 噛んで含めるように、私はわざと言葉をゆっくりと発した。

「――世界はギャルゲーでできていた。そういうことね?」


《3》

 
 ひぎいいいいいいいー……。
 ひぎいいいいいいいいいいいいい……。

 電話の向こうで悲鳴が聴こえる。咽喉から血を掻き出すような、地中から腕を出して助けを求めるような、耳を覆いたくなる絶望的な悲鳴だ。
「指一本ずつ折っていいから」と基美樹は容易く云ってのけたが、事実、その通りのことが行われているのだろう。
 ポキ、ポキ、ポキ……。
 私のことを轢き逃げした男に同情なんて一欠けらも寄越さないけれど、あらぬ方向に捩れ曲がった五指を想像し、私は陰鬱な気持ちになった。
『わたしあんまりその畑には詳しくねーからニカちゃんの知識を拝借させてもらうけど、原則的に、ぎゃるげーってのは男が主人公なんだよね? 勿論、ニッチとして女が主人公の、ぎゃるげーだってあるだろうけど、とりあえず原則として、の話ね。ニカちゃん、女の子なのにあーいうゲーム好きなの?』
 基美樹の邪気のない質問に、好きで悪かったな、と心の隅で思いはしたものの、そこに怒りや焦慮はなく、基美樹に対して私の頭の中が丸裸になった今、段々と諦めの境地のような、開き直りの精神が芽吹いてきた。
「女がギャルゲーで遊ぶ正当性は、今ここで絶対に主張しなければならないこと?」
『ううん、別にー。男だって少女漫画くらい読むしね。わたしは人の趣味嗜好にいちいちケチつけるような底の浅い女でもないし。あせあせ』
「じゃあ、話を戻しましょう。――あなたの正体が女であることは認めます。ギャルゲーの世界で男にされてしまったこと、これについても認めます。何故なら、ギャルゲーの主人公は男であるべき、という既成概念が自分の中になかったとは、とても云い切れないから」
 私は自分に少しだけ失望する。マイノリティを愛しておきながらマジョリティ的な概念に取り憑かれていたなんて私もまだまだ凡百のオタクということか。
 しかし私はそれを許そうと思う。ギャルゲーが好きな自分という存在が、やっぱり私は大好きだからだ。
 私の愛は深く、重いのだ。それこそ一個の世界を創り上げてしまうほどに。
「――それでも、あなたが東基美樹であることを疑う余地はまだ残されているわ」
 
 これが、最後のカード。
 私からの最後の攻撃だ。

「――あなたは、確かに死んだはずだわ。あの名も知らぬ空港の駐車場で、自分の頭を拳銃で撃ち貫いた。あなたはチャンネルを開くことはできなかった。――さあ、答えて。どうしてあなたはこの世界に戻ることができたのか? ちゃんと答えられない限り、私はあなたを東基美樹と認めることはできないわ」

 ひぎいいいいいいいー……。
 ひぎいいいいいいいいいいいいい……。

 断末魔を背後に、それまでの浮薄の仮面を剥ぎ捨てるように基美樹は艶然と笑む。くすり、と。
『ニカちゃん、それはね、ルールが引っ繰り返ったんだよ』
「ルールが……」
 引っ繰り返る?
 音々が部室で猿述したその言葉が、まさか今ここに出てくるとは……。
『この現実とも呼ばれる世界の常識で考えないで。そんなんじゃ解き明かせないから。いやー、ぎゃるげーの世界の創造者、神であられるニカちゃんもお手上げみたいですにゃー。にやにや』
 ぷつん、と自分の血管が切れる音を、私は確かに聴いた。私の中の怒りの焔が轟々とまろんで回る。しかし、それを理性の什器でなんとか押し留める。
「……つまらない御託は結構よ。さっさと話して」
『うーん、話すにしてもさー、ニカちゃんって、わたしの活躍をどこまで見てたの?』
 活躍ってほど活躍していないじゃない、と私は思いつつも、
「どこまで……って、あなたが死ぬところまで見届けたわよ」
『んで……帰っちゃったの?』
 基美樹は落胆と批難が綯い交ぜになったような声で問い掛ける。
「そ、そうよ」たじろぐ私。
『ふーん。やっぱそこまでかー……じゃ、判んないのも道理ですかなー……あそこからまだ続きがあったのになー……あいつも気付いてんだろーに、意地悪な困ったさんだなー……』
 基美樹はぶつくさと漏らす。
 続き?
 あいつ?
 瞬間、私の眉間に静電気が走る。
――あの爬虫類め。私に隠し事をしていたのか。
『ねーぇー、ニカちゃんさ』
「……なに?」
『文脈無視して問題でーす。ぎゃるげーで主人公が死んだらどーなっちゃうでしょーか?』
 基美樹の問いに、私の知識が瞬時にして蜂起する。ほとんどノータイムで私は答える。
「例外はあるかもしれないけど学園型に代表されるようなシュミレーションゲームなら主人公が死ぬということは先ず起こらないでしょうね。でも、昨今に横溢するテキスト型のギャルゲーであれば、主人公が死ぬという事態はしばしば起こり得る。そうなればニューゲーム、もしくはコンティニューになるでしょう」
『ね? もう判ったでしょ?』
 顔も見たことがないのに、電話の向こうの基美樹が悪戯っぽくウインクしたような気がした。
「ええ……もう、よく判り過ぎて、逆に頭が痛くなってきたわ」
 つまり、

「あなた――ループしていたのね?」

 なるほど、それならこの世界の常識を尽くしても到底解けないわけだ。
 こちら側では死は終わりなのだ。絶対的で決定的な事実であり、人は死んだら葬儀屋の金にしかならない。
 しかちあちら側の死は不可逆ではない。
 何度でも再生を繰り返す――そう、
 ルールが引っ繰り返る。
 不可能が可能に逆転する。
 正しく、
 あの世界はギャルゲーでできていたのだ。
 まるでよくできた文学小説のような、
 雑じり気のない、純粋で綺麗で歪な世界。
 創造したのは私――巣鴨丹香子。
 嗚呼――快哉を叫びたくなる。やっぱり私は、ほんものだ。お兄ちゃんにだって負けていない。
 これなら凄いのが書ける。私の直感は正しかった。この世界に帰る選択は間違っていなかった。
 恍惚が私の背中の稜線を撫で、艶かしく這いずる。
 ああ――すごくエッチな気分だ。
 今すぐショーツに指を招き入れて慰めてあげたいくらいだ。
『るーぷ……あー、えとえと、SF用語のことだね。そうそう、るーぷるーぷ。死んだら飛行機乗ってるところからやり直しだったよ。ニューゲームって奴だね』
「記憶はちゃんと引継いでリスタートした?」
『んにゃ? それってそんなに大事? んーとね、記憶の引継ぎはなかったけど、それを思い出すスパンは徐々に短くなっていったかなあ。最終的にはそっこー思い出してカメラ構えてるメタ様からグロック借りて飛行機ん中で死んでやったさ! いやー、わたしすっげー迷惑だねっ!』
「スパンが短くなる……。あなた、いったい何回ループしたの?」
『よくぞ訊いてくださいました。どやぁ。なんとわたし、五十六回もループしましたっ! わらわら。……いや、笑えねーわ。チャンネルが開くまで五十五回も無駄死にっすよ。ロックマンだってそんなに死なないのにまじで心折れるかと思ったっつーの……。メタ様、すっげーヤな顔してたなあ……『えっ、まだやんの?』みたいな。あ、ニカちゃんちょいタイム。…………なに? どったのタカシ?』
 電話の向こうで不穏な空気が流れる。途切れ途切れに物騒な会話が聴こえ、私はこの東基美樹という少女がいよいよ判らなくなってしまった。
 折れ/折った/腕拉ぎは?/試した/歯も全部ボロボロに/俺の拳が壊れる/髪の毛/毟り取った/じゃあ刺していいよ/無茶言うな/死なない程度なら平気/平気じゃねーから/うだうだうるせーさっさと吐かせろって/どうすんだよ/どうするってだから刺すんだって/ブスッて?/そう/無理/お前らほんと使えねー/
『タカシ、ナイフ貸して』
 基美樹の嫌に冷めた声。
『おっさん、これ判る? そうナイフ。今宵の虎徹は血に餓えておるわ……きしし、なーんちって。ね、おっさんさ、なんでニカちゃん轢いたわけ? 事故? 車だけほっぽいて行方晦まして過失とか言い張るつもりないよ……ねっ! あはっ、すっげー血出てる。わらわら。ねえ、ナイフなんて脅しだと思ったでしょ? ただの飾りだと侮ったでしょ? でもさ、おっさんやっぱり勘違いしてるよ。太腿刺されても、やっぱりこの目の前にいる美少女は自分を殺すはずなんてないと思ってる。確信してる。ねえ、その確信を粉々にしてあげるよ。はーい……二回、めっ! はい行くよーダブルアクセルだよー。ぐりぐりぐりぐりぐりぐりぐり……。あ、失神した。起きろ起きろー。げしげし。オッケー起きた? ズボン血塗れだねー可哀想だねーせちゅないねー、じゃ、ぬぎぬぎしちゃおっか? はーい、ほら、テツヤとタカシも手伝え手伝えー。身包み剥いじゃえ! …………うわっ、きったねーちんちん! 皮すげー被ってる。きししっ、びよーんびよーん。な、なんだこの伸縮性! NASAの新技術よりすごいぜーって何おっきくしてんだよこの状況下で盛るとか頭オカシイの? そんな悪いおちんちんにはお仕置きが必要だよね? はーいびよーん……えいっ、はい、皮取れたよ。よかったでちゅねー一つ上の男になりまちたねーんじゃ食えほら食えって勿体無いだろこんだけ血出してんだから動物性蛋白質は補給しといたほうがいいよほら口開いてあーんほらあーん……あーめんどくせっ。えいっ。ひっ、ひっ、ひひひひひひひひひひひひひっ! ホッペ切るの気持ちいー! っつーかお前口裂け女みてー! 見たことねーけど! はーい食べ食べしようねーしっかり噛んで食べてねーもぐもぐ美味しいでちゅかーそんなに泣くほど美味しいでちゅかー……ってあれなんでタカシちょっとゲロってんのお前マジ引くわーくせーからちゃんと掃除しとけよったく。あ、おっさん次どこ食べたい? 竿? きんたま? おっさんくらいになるとやっぱ欲しいっしょ性欲? 睾丸にはテストステロンっていう男性ホルモンがいーっぱい入ってるんだって。食べると元気出るよ? 一つ上の男から宦官にクラスダウンするけど、はい、んじゃ金玉切り裂きまー、』
 
“――――――――――ッ!”

 男が嗚咽雑じりに叫んだ。命の残り滓を掻き集め、蝋燭の最後で一際大きく炎が揺らいで消えるような、そんな叫び。
 聴こえた。
 確かに聴こえた。
 でも、判らない。
 どういう意味なのだ?

「超空間チャンネルの……実験?」

 確かに男は、そんな類のことを口にした。
 超空間チャンネルの実験のために、轢いたと。
『あー…………』
 基美樹は合点したような調子で溜め息を漏らす。
「ねえ! ちょ、ちょっとどういう……」
 意味なの? と喰いつく言葉を基美樹は遮り、

『おっさん、ほんとはニカちゃんじゃなくて――わたしを轢きたかったんだね?』

「何を云って――――!」
『ニカちゃんごめん。ちょっともうマジでこの人死にそうだからわたしたちドロンさせてもらうナリ。テツヤ! ダッシュ救急車! 公衆電話から掛けろよ!』
「か、勝手に終わらせないで! 何よ、超空間チャンネルの実験って。私じゃなくて、なんであなたが轢かれなければならなかったのよ?」
『また電話する。だから次までにニカちゃんに宿題を出しとくよ。ちゃんとやっておくようにね』
「……あなた馬鹿なの?」
 これ以上私を混乱させてどうするというのだ、一体。
 しかし基美樹は斟酌する気などさらさらないらしい。
『“クドロシエル神”“ギョロロイチマン教”……ここに隠されたメッセージが潜んでる。大丈夫、ニカちゃんなら解けるよ。わたしだってニカちゃんの知識があったから解けたようなもんだし』
「……ヒントは?」
『アナグラムと漢字パズル。ちょー大ヒントだね』
「最後に訊いていい?」
『んにゃ?』
「――モニカって、誰のことなの?」
 学校の屋上。
 基美樹の寝言。
 巣鴨丹香子――“すが『モニカ』こ”
 モニカとは、私のことじゃないのか?
 基美樹は私のことをずっと前から知っていたんじゃないのか?
 つまり、どこかで私達は既に接触していたんじゃないだろうか?
『ニカちゃん……モニカ知ってるの?』
「単なるあなたの寝言よ」
『ああ……あーあー! 屋上か! そーいや、千祭ちゃんが何か云ってたね。いやー、あの、申し訳ないけど、そんな深い意味とかなくって、実はモニカってわたしが愛用してる楽器の名前なんだよねえ』
「が、楽器?」
 着弾点が外れたような肩透かしを喰らった。
『モニカについて知りたかったらわたしの名前と一緒にYOUTUBEで検索してみ。ニコ動にも上がってるから見てみるといいよ。っつーか見て! わたしに対する認識を改めるねっ、うんうん』
 余程焦っているのか、基美樹は早口で捲し立てる。
「……また電話して。必ずよ。あんまり待たせたら私から掛けてやるからね」
『オッケー了解。それじゃ。のし!』
 慌しく電話が切れた。
 そして静寂。嘘みたいな静寂の訪れだ。
 東基美樹というキャラクターの濃さと胸糞が悪くなるような残酷実況で現実感は希薄だった。頭がくらくらする。どっと疲れが襲う。

 私はスマートフォンでYOUTUBEのページを開き、『あずまもとみき/モニカ』と検索した。

 ユーザー名:motomikimiki

 たぶんこれのことだろう、『ハーモニカで【シング・シング・シング】を吹いてみた』
「モニカって、ハーモニカの名前のことだったのね……」
 再生回数は二万ちょっと。凄いのか凄くないのか判らない。所謂『~やってみた』系の動画なのだが、私はその手の情報に疎い。ニコ動だってあんまり好きじゃないから使用するのも最低限のレベルに留めている。
 それにしてもルイ・プリマ……なかなか渋い選択曲である。ジャズの他にもアニソンや初音ミクの曲もやっていて、その中にはブランキーの『ダンデライオン』もあった。動画の数は全部で三十ほどある。
 どれ、東基美樹の顔でも見てやるかと動画を再生させたが、そこでハーモニカを吹き鳴らしていたのはスクール水着にルチャリブレのマスクを被った変態の姿だった。
 あほくさ、と私はスマホを放り投げた。次だ、次。早速宿題に取り掛かる。
「クドロシエル神……ギョロロイチマン教…………」
 二分ほど考え、すぐに答えは出た。クドロシエル神はクリア。本当に単純なアナグラムだった。
 厄介なのはギョロロイチマン教の方だろうかと思惟を巡らす。漢字パズル……そもそも漢字パズルとは何なのだ。いや、難しく考えることはない。漢字に変換させればいいのだと気付いたら解答を弾き出すのに一分も掛からなかった。
 私はそっと胸を撫で下ろす。ちゃんと解けて良かった。東基美樹に解けて私に解けずお兄ちゃんの知恵まで借りに行ったら私の矜持は粉微塵に吹っ飛んでいたに違いない。
 にしてもこの答え――もう訳が判らない。現状、手持ちの情報があまりにも断片的過ぎてどうにも脳内でサーキットが完成しない。私は混乱するのにもすっかり疲れ果ててしまった。

 クドロシエル→CDOROCIEL→CROCODILE→鰐

 ギョロロイチマン→魚+ロ+ロ+一+万→鰐

 鰐――当然思い浮かぶのはあの紳士然としたピンク色のカウンセラーである。
 鰐を信仰する宗教。
 超空間チャンネルの実験。
 基美樹の言葉が脳裏で木霊する。

“――わたしを轢きたかったんだね?”

 何かが起こる。
 これから何かが起こる。
 いや、もう既に起こってしまっている最中なのかもしれない。
 そして私はその起きていることに恐ろしく無自覚なのかもしれない。
 でも、
「はは……どうしろってのよ、私に」
 私はどこにも行けない。
 どこにも行かない。
 今日からこの八畳一間が私の世界。
 私は十七歳。
 お兄ちゃんは十七歳で三島賞作家。努力に努力を重ね、その地歩を薪をくべるようにしっかりと築き上げていたのだ。
 ぐずぐずなんてしていられない。
 私は書くのだ。
 私だって書けるのだ。
 あの歪で美しく完成されたギャルゲーの世界のような小説を。
 物語は私のことを未来永劫裏切らない。
 一蓮托生、物語にはその価値がある。
 物語と生きて、物語と死ぬのだ。
 さあ、書け。
 書かない奴を呪ってやる。
 書いている者を笑う奴を呪ってやる。
 才能のない奴を呪ってやる。
 小説も読めない文盲を呪ってやる。
 さあ掛かって来い。
 さあ叩け。
 人間が書けていないと。
 知識が出鱈目だと。
 糞みたいだと。
 そんな糞を笑うお前らを文学で呪い殺してやる。
「ああ…………でも、さ」
 何で私は今、こんなに可笑しくて苦しくて寂しいのだろう?


《4》


 その次の日、
 窓を開けると、

 私たちの世界は終わっていた。



《ダイアローグ『世界は××××でできていた』》


 美しい少年が座っている。
 調度品などほとんど存在しない、在る物と云えば部屋面積の三分の一程度を占領するセミダブルのベッドに、少年は座っている。
 蟷螂のような華奢な足を悠揚と組み、背を丸め、膝で頬杖を突くその面差しは憮然としていた。しかしそれで少年の美しさが損なわれたわけではなく、迂闊に近寄れば怪我をしてしまいそうな険しさは少年の美しさを一段高みへ上げることに成功している。――残酷で神聖的な美しさ。
 彼は神の業を操る。
 世界と世界の間を自由に行き来できる、人ならざる業だ。
 だが、神の業を自由自在に操れる、それが神である証明にはならない。
 彼は人に過ぎない。平均的な人に過ぎない。ただ神の業が操れる、それだけに過ぎない。
「――お勤めご苦労だったね、ペンキ屋。しかし随分と不機嫌そうじゃないか」
 ペンキ屋と呼ばれた少年はついと視線を下げる。
 甘いピンク色の鰐がベッドの下からひょっこりと顔を覗かせていた。
「解せん」突き返すように少年は云った。
「何がだい?」
「どーにも解せんのだよ、相棒。あの東基美樹って餓鬼――ありゃあ、一体全体何者なんだ?」
 少年の表情に剣呑の色が浮かび上がる
「五十云回もグロックで自分の頭吹っ飛ばすって正気じゃねえぞ。まるで狂気の沙汰だ。死んでも何回だってやり直せるからっつっても痛覚だけは本物だ。頭を撃ち抜きゃ、そりゃ痛い。怖くないわけがないんだ。なのに、あいつは分が悪いギャンブルでも愉しむように自分を殺し続けた。そこまでして帰らなくちゃいけないほどあんな世界に価値なんてものがあるとは思えねーぞ」
 少年は一息で言葉を吐き出し、ふんと鼻を鳴らした。
「君の疑問は至極尤もだろう」
 いつ取り出したのか、鰐は斜に煙草を咥え、鼻から細い紫煙をゆるゆると立ち昇らせた。
「神にだって判らないことはある」
「君は神じゃない。人だ」
「……止めようぜ。喧嘩になるだけだ」
 ふと、少年は思い出す。
 童貞が夢見る馬鹿みたいな世界の登場人物。
 美帆、という名前だっただろうか。
『どうしてその人物は死んでまで魔法を使わざるを得なかったのか?』そんなことを宣っていた。
 超空間チャンネルという奇跡――これを魔法と呼んでも差し支えはないだろう。
 一回死ねば謎。
 しかし五十云回も死んだって、やっぱり謎は謎なのだ。数が多いだけに、偏執的な気味の悪さまで感じてしまう。
 然りとて少年は馬鹿ではない。薄々と勘付いてはいたのだ。だからこれから鰐が語る話は、彼をそこまで驚かせなかった。非常に信じ難い話ではあったが。
「そんなに気になるかい? なら教えるよ。君は僕の友達だ。彼――いや、彼女――東基美樹が、現実世界の創造者だとしたらどうだろう?」
「……おい、そりゃねーだろ」
「いいや、事実さ。彼女が創造者なら、元の世界に帰りたがるのも肯けるだろう?」
 少年は鰐から煙草を取り上げて、一口燻らせる。そして煙草を鰐に返した。
「いじめがあって、殺人があって、差別があって、迫害があって、戦争がある――そんな世界をたかが餓鬼風情が創造したとでも? そんな奴がどこにいんだよ」
「君は勘違いしている」
「神だって勘違いくらいするぜ」
 やれやれ――取り合わず、鰐は話を続ける。
「東基美樹はいじめと殺人と差別と迫害と戦争がある世界を創り出したわけじゃない――この世から魔法少女のいない世界を彼女は創ったのさ。元々僕らの世界は魔法少女でできていた」
「魔法少女の世界? なんだそりゃ。そんなとこ見たことも行ったことねーぞ」
「だろうね。現在、魔法少女の世界は活動を停止している。仮死状態のようなものさ。だから君は認識できなかった。認識できない世界には行き来できないからね。東基美樹は最後の力で魔法少女の世界の時間を止め、そして超空間チャンネルを開き、世界を創造した。そこが今、彼女や巣鴨丹香子嬢たちが暮らす、現実とも呼ばれる世界だ」
「にわかには信じ難いがー……なんだ、東基美樹ってのは、まほーしょーじょだったのかよ?」
 そして俺は――何だ?
 俺は、世界の一部という俺は、あの餓鬼の妄想から生まれたってことなのか?
「そうさ。君は友達だ。隠し事はできるだけしたくないから教えるけれど、東基美樹は僕の契約者だったんだよ。名前なんて疾うの昔に捨て去ってしまったのに……彼女はその名で僕を呼んでくれたんだ。重畳さ。無駄に歳を取ってみるものだね」
「あの餓鬼、ここに来たんだよな。二人で何を話したんだよ?」
 鰐は器用に片目を瞑る。
「昔話を少々。助言をひとつまみ、と云ったところかな」
「友達に隠し事か?」
 少年は鰐の背中をぐりぐりと揉む。
「おや、嫉妬なんてまだまだ可愛いね。君は友達だよ。その主張は何があっても譲らない所存だ」
 まったく、と少年は口元を綻ばせる。上手い具合にはぐらかされたものだ。
 少しの沈黙の後で、鰐は云った。
「なあ、ペンキ屋。自由とは何なのだろうね。それを獲得するために一つの世界の殻を突破してみても、そこにはまた大きな世界が広がっている。そこを突破しても、大気の層のようにまた一回り大きな世界があるだけだ。出口はどこにある? もしかしたら自由というのは外側に向かって走っても永遠にないのかもしれないぜ」
「何が云いたい?」
「下を向いて歩くことも必要、ということさ」
 鰐はくるりと踵を返す。
 少年は鰐の言葉を頭で反芻し、次に己の存在について思考し、居ても立っても居られず、地べたに這いつき、もぞもぞとベッドの下に潜り込んで行く相棒の背中に声を掛けた。
 ベッドの奥には木製の戸がある。ロバート・アンスン・ハインラインの『夏への扉』のような、猫にでも通れる小さな戸だ。
「おーい。ずっと気になってたんだがよ、そこはどこに繋がってんだ?」
 暗がりの中で鰐はぴくりと鼻を持ち上げ、少年を振り返る。
 呆れているような、
 笑っているような、
 疲れているような、
 そんな顔で、相棒は云った。
「自由だよ」

【To be continued in
"The world is made out of magic girls."】

世界は魔法少女でできている。

《0》


愛する者を失った悲しみを癒すことなどできないし、
幸福なんて再生しない。
それでも、これは出口を見つけ出す物語だ。


第二部 完結編
只今鋭意執筆中



世界が終わり、

蝶太郎、動き出す。

世界はギャルゲー(と魔法少女)でできている。

世界はギャルゲー(と魔法少女)でできている。

とことん世界を挑発する、馬鹿にする。とことん小説を愛する。そんで書けた。

  • 小説
  • 中編
  • ミステリー
  • 青年向け
更新日
登録日
2013-01-11

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 世界はギャルゲーでできている。
  2. 世界は魔法少女でできている。