ポチ、わたしのパパ
『パパ』
玲瓏たる声は私の頭上から静かに降りてきました。
しかしながら現在、私は午睡の真っ最中。
ゆらゆらと揺らめくような夢と現実の間、虚実皮膜の時空間を漂いながら、芳醇な香りを全開で発散し続ける香草ステーキをハグハグと貪りかけたその時でしたから、ここは無視をすることに決めました。
なにせ、香草ステーキなどという高級な食べ物をしがない野良犬上がりの雑種犬が口にできるのは、この午後の微睡の夢の中だけ。ローズマリーやバジル、タイムやセージなどが繁茂したこの庭先でシエスタを嗜むのは誠に至福の一時なのです
本当に、先が短い老犬にとっては非常に貴重な時間なのでございます。
目蓋を少しだけ持ち上げて糸状に薄く視界を切り取り、周囲を確認するという行為すら惜しい。巷間若い人たちの間で流行している「タイパ」に欠けるのでございます。
ですから、ここも若者言葉でいう所の「ガン無視」を決め込みます。
『パパっ』
先程よりもやや強めの口調ですね。
それに加えてプニュプニュと柔らかな感触が私の吻、口許の周辺を襲ったのでございます。
突くでもなく、押すでもない。
何でしょうか、何かを促すような、その力加減。
その声音からすると相手が怒っているのではないことは容易に推察できます。
『パパ。こんなトコで寝てたら熱中症に罹っちゃうでしょ?』
年端も行かない子供に言い聞かせる、あやすようなその話し振り。
それに加えて件のプニュプニュ攻撃も一層激しさを増します。
何ですかねぇ…
当方と致しましては、単に甘美なステーキ・ディナーの睡夢を満喫したいだけなのでございます。それをこんな乱暴なやり方で邪魔をするとは、何と不埒な輩がこの世には存在するのですね。全く。最近は世の中も乱れに乱れを重ねて、他者のことを気遣うという古き良き礼節が廃れてきたのでしょう。
『パパ。熱中症に罹ったら即座に動物病院へ搬送だよ』その声音に僅かな鋭利さが宿ります。プニュプニュ攻撃にも変化が。こね回すようなグリグリ攻撃が加わりました。
はいはい。
仕方ありませんね。
こんな攻撃を受け続けていたらほの暗い湖底へと沈み込んでいくような眠りの深い淵へと降りていくことは到底不可能なこと。
そうです。
このまま空寝を決め込んでいても一向に埒が開きません。
声による音波攻撃と肉球による物理的攻撃を仕掛けてくる小うるさい「敵』」を視界の内に補足するために目蓋を右眼側のみ極々僅かにスッと開けたのでした。
眼を全開に見開くことを避けたのは、この傍若無人(犬?)の「敵」に対する細やかな抵抗でございます。
『うるさいですね。私は今シエスタを愉しんでいるのですよ。
少し静かにして貰えませんか?』
私が静かな低い声でそう伝えると騒音と傷害の実行犯は、まるでむずかる赤ん坊を宥めすかすかのような声音で、
『ダメだよ、パパ。
いくら夏が終わったって言ったって、今年は9月下旬でもめちゃくちゃ暑いんだから。
こんなトコで寝てたら瞬殺で熱中症だよ。
一緒にエアコンの効いたお家の中に行こう』と諭そうとするのでした。
スッと糸状に薄く切り取られた視界の中に視認できたのは…
私は頭をもたげて、ようやく実行犯と真正面から対峙することにしました。
『慧茄』
『何?』
『こういう故事成語というか古諺をご存知でしょうか?』
『?』
『暑さ寒さも彼岸まで』
彼女は端正な造作の顔を仄かに歪め『知ってる』と少々の不平不満を含んだ語気で答えました。
『暑いのも寒いのもお彼岸を過ぎたら終わる、季節が切り替わるように、ってことでしょ?』
『あなたの言う通り、正解です』
『でも、今年は異常なんだから』慧茄はスッと右眼の眉部を引き上げると次のような言葉の群れを投げ掛けてきました。『知ってる? パパ』
『何を、でしょうか?』
『今年の夏は地球の歴史上において12万年振りの暑さだったんだって』
『正確には12万5千年振りの暑さ、ですね』
『また、そういう風に混ぜっ返す。パパの悪い癖だよ。
良いじゃん、別に。
5千年分くらい負けてくれても』ついに慧茄が呆れた声を上げ始めます。
『物事の正確性を追求するのは非常に大切なことですよ、慧茄』
「フンっ」と小さく鼻を鳴らした後、独白にも聴こえる態で慧茄は尋ねてきました。
『でも、何でそんな事が解るのかなぁ?』
『炭素14年代測定法を基盤技術とした樹木の年輪や氷床コアの解析によって、有史以前の気温の推移を推測できるのです。
現在までに得られたデータによると、少なくとも12万5千年まえの間氷期以来、今夏ほど地球が暖かい時期は存在しなかった事が推察できるのです』
『パパ』
『何です?』
『頼むから私に理解できる言語で、ちゃんと解るように説明して』
『十分噛み砕いた表現をしたつもりなのですがね』
大体、間氷期って何だよ? と誰に聞かすでもない微かな呟きを彼女が吐きました。
『間氷期とは氷期、平たく言うと氷河期のことですが、その氷期と次の氷期との間に出現する比較的気候が温暖な時期のことです』今現在、この時期がそれに当たるのですよ、と私は答えました。
綺麗なカッパー(赤みのある暗い黄茶色)の右側、流麗な翡翠色の左側、各々の瞳たちに隠し切れない苛立ちを浮かべながら慧茄が言葉を投げ掛けてきます。
『勝手に独り言まで捉えて、こっちが訊いてもないことを答えるのは、パパの悪い癖』
『そうでしょうか?』
『そうです』
「ふんっ」と鼻を鳴らしながら慧茄はプイッと顔を横に向けました。
怒らせてしまったかもしれませんね。
いや、彼女の内心を推察するに、十中八九いつもの通りに呆れているだけでしょう。
やれやれ。
可能な限り身体の各部に負担を掛けぬよう、用心に用心を重ねつつ、私はもっさりと身体を起こしました。傍から見たら何とも不格好な身のこなしでしょうが、私は人間でいうと後期高齢者に分類される老犬ですから、関節や腱、骨や筋肉に過度の負荷を掛けるという危険な行為は出来るだけ避けるのが正道というものでございます。障害を負う非常事態を彼方遠くに追いやるためには、見た目が如何に無様であろうとも我慢なのでございます。
万が一でもアキレス腱断裂などの負傷をしたらお世話になっているご家族にとんでもないご迷惑を掛けてしまいますから。ここは慎重に行動するのみです。
ま、生物でも機械でも起動時が一番障害を起こしやすいものですしね。
起き上がってから身じろぎを何度かし、お尻を二度三度とモゾモゾ動かし座り心地がしっくり来るポジションを探り当てます。
丁度良いポイントを得ると、ゆっくりとした動作で実行犯と真艫に向き合うのでした。
おっと、いけない。
大変なご無礼を働いてしまいました。
久々の再会のご挨拶が遅れまして申し訳ございません。
私、ポチでございます。
ミヤウチ家にお世話になっております、しがない雑種の老犬でございます。
そうですね、あなたにお逢いするのは約1年振りになるのでしょうか。
前回お逢いしたのは去年の、ちょうど今時分でございました。
いや、もう少し季節が進んだ、小春の頃でしたね。そう記憶しております。
ご主人のアキヒコさんと奥様のサチエさんと新潟の実家へと参った折でございました。
お久しゅうございます。
相変わらずお元気そうなご様子と見受けまして、本当に喜ばしい事でございます。
私も、何でしょうか、お恥ずかしながら1つ齢を重ねまして。
掛かり付けの獣医さんによると人間の年齢に換算すると80代後半になるとか。
しかしながら年齢の割に身体は至って健康そのものでして、嗅覚も聴覚も機能は良好。
健脚は衰える所を知らず、身体を覆う被毛に白い物が増えたくらい、それくらいが眼に付く寄る年波の影響というものでございます。
白内障の嫌いは懸念事項ではございますが、奥様のサチエさんが毎日注して下さる点眼薬のお陰なのでしょう、進行の度合いは遅く、以前と比べても重篤度は増してはおりません。
え?
健康を吹聴する割に先程は不必要なくらい過度にのっさりと起き上がった、ですと?
うふふ…
既に申し上げました通りに、生物でも機械でも起動時、つまり動き始めが一番故障を誘発し易いのでございますよ。逢魔を除けるため気を付けるのに越したことはありません。
さて、件の実行犯と対峙することにしましょうか。
ここはミヤウチ家の庭です。
タイムやセージ、ローズマリーなどの香草が一杯植え付けられています。
そして小さなハーブ類を見守るように青々とした葉を盛大に蓄えた木々たちが盛んに枝を四方八方へと伸ばしております。そんな一角を吹き渡る風が清涼感をもたらしてくれます。
正面から相対してチョコンと座っている彼女は私の顔を見上げていました。
緩やかなクサビ型の小さな頭部は、丸い額が特徴的で、そして力強さを感じさせる発達した顎もまた丸いので全体としては丸顔の印象を受けます。
広い根許からシュッと伸びた耳介の先端もまた丸いのです。
短めの鼻梁に大きな眼。
無駄が無い滑らかさを印象づける美しく均整の取れた筋肉質のほっそりとした肢体は、ジェットブラックと呼ばれるエナメル質の光沢を放つ艶やかな黒い色をした短い被毛に覆われています。ウネウネと別の生物のように蠢いている尻尾は体長とバランスの塩梅が丁度良い具合で、ここもまた黒い被毛。一瞥すると華奢に見える伸びやかな四肢もみっしりとした筋肉を備えています。そして手脚も当然の如く、黒色です。密度高く生え揃った被毛はまるでサテンのような輝きを放っております。
実を言いますと彼女、身体や頭部・尻尾ばかりか短い鼻先や肉球・口腔内すら黒いのです。
その斯界で形容される通り、まさに「小さな黒ヒョウ」
真の黒猫と言っても過言ではないでしょう。
彼女の名前は慧茄(えな)と言います。
私の娘です。
『慧茄』
『何?』
彼女は私が構音する次の言葉を待つかのようにクルッと小首をかしげました。
『確かにあなたの言う通り、今年の暑さは異常です。』
慧茄はコクンと軽く首肯しました。
『当たり前のように35℃を超え、その暑さが継続する期間も長過ぎます。
例年ならば夏という季節は終わりを告げ、とっくに山粧(よそお)う季節へと移行していたはず』
まただよ、と慧茄は軽めの悪態を吐きました。
彼女のそのような言動を見逃す事ができず、私は「コホン」と咳払いを1つ漏らすと
『慧茄。そのような物言いをするモノではありません』と告げました。
『はーい』分かりました、と慧茄。
絶対に納得していない態が丸分かりですよ。
『何か、自分の知らないことや分からないことがあるのでしたら、そう仰しゃい』
しぶしぶという態度の定義とするのに最適な振る舞いを見せながら慧茄は尋ねてきます。
『山粧う、って何?』
『紅葉に彩られた山景のことです。敷衍して秋という季節のことも表すことがあります』
彼女は「ふぅ」と吐息を漏らし、口を開きかけましたが言い淀んで、言葉を飲み込むと黙り、私が話を再開するのを待つことに決めた、ように見えました。
『そう、立秋を過ぎた今、暦の上ではもう既に秋なのですが、あなたの言う通り連日猛暑』
コクンと頷く彼女。
『30℃超えの茹だるような熱気の中、カンカン照りの日向に放置されたら、1時間も経たない内に熱中症に罹ることは自明の理です』
我が意を得たり、とばかりに慧茄の顔が輝きを放ち始めました。
ピー缶の蒼穹の許で惰眠を貪るような愚行を働く私を改心させられそうとの期待に胸を膨らませたのでしょう。
『しかしながら、慧茄』
『?』
『感じるのです』
『何を?』
『周囲を見渡してごらんなさい』
慧茄は「?」と大きな疑問符を頭の上に浮かべながらもキョロキョロと彼女の周りを見渡します。『何も…特別なことは…無いけど…?』
『タイムやローズマリーなどのハーブたちが放出する清冽で爽快な香り』
『?』
『そのハーブ類を守るように枝葉をぐるりと周囲に伸ばしている、月桂樹やオリーブ、樫などの樹木たち。浩大に繁茂した葉々の間隙を通り抜けた風を感じるのです』
『?』
私の伝えたいことを把握しあぐねているようで、慧茄は道に迷ってしまったようです。
仕方有りませんね。彼女が自分自身単独で気付いて欲しかったのですが…
『あの慈悲深いサチエさんが、ヤル気満載の太陽が放射する直射日光が渦巻く灼熱の日向にこの哀れな老犬を放置するような愚行をなさると思いますか?
慧茄、ここは木陰です。
お昼を回れば午後一杯、ここは終日木陰なのです。
どんなに暑い日であってもこの場所の気温は25℃を優に下回るでしょう』
慧茄は辺りを見回し、自分と私が座っている所が爽快を運んでいる冷涼な風がそよ吹く木陰であることを確認すると、不満げに「ふんっ」と小さく鼻を鳴らすのでした。
『それに今日は我がミヤウチ家で何かの催し、というかお集まりがあるようですからね』
『集まり…?』
『そうです。多くの方々がお集まりになられる家の玄関先にドデーンと老犬が横臥していたら邪魔そのものでしょうから。ここは遠慮をしたのですよ』
『でも…』
『サチエさんは私にエアコンの効いた室内に留まるように引き留めたのですよ、勿論。
熱中症を心配してのことですね。
しかし、今日の予想最高気温は30℃を下回っておりましたし。
そういう天気状況なれば、須くこの木陰は涼しく過ごしやすい事この上ない、極上の寝床になる事は間違いない所ですからね。
ですから、私自らが率先して無理矢理に外へと出たのですよ』
『集まり…』慧茄の小さな灰色の脳細胞ネットワーク内に電閃が印加されたのでしょう、彼女の顔に明かりが灯りました。
『あぁ…、それで朝からお家の前の通りをたくさんの人がウロチョロしてるんだね』
沢山の人達が我がミヤウチ家の前の生活道路を徘徊している?
私は状況を確認するためにミヤウチ家の庭と道路とを隔てているブルーベリー等の灌木(かんぼく)の向こう側に視線を投げ掛けました。
おやおや、結構な多さの人の群れですね。
まるで除夜の鐘が打ち鳴らされる大晦日の如く、でございます。
ま、10月31日の夜の渋谷のほどではありませんが。
『この現象とミヤウチ家の集まりとの間に直接的な関係はありません』
『じゃ、あのウロチョロしてる人間たちは何?
何の目的を持ってゾロゾロ歩いてるの?』
『あなたはこのミヤウチ家の敷地内から外へ出た事が無いから知らないと思いますが』
『だって、お父さんもお母さんも「外は危ない」って、出してくれないし』
そりゃ、そうです。
あなたのことを猫っ可愛がりしているあのお二方(慧茄が「お父さん」とよぶのはご主人であるアキヒコさんで「お母さん」がサチエさんのことです)が外出を許すなど、そんな蛮行をされる訳がないじゃありませんか。
『ま、そのカーフュー(外出禁止令)状況自体に関して今は横に一旦措くとしましょう』
その提案に不承不承頷いた慧茄を眼の端で確認すると私は話を続けました。
『我がミヤウチ家に隣接する生活道路上の喧騒の根本原因ですが、お彼岸です』
『お彼岸って、何?』
おやおや、今度は馬鹿に素直に訊いてきましたね。何かの反動なのでしょうか?
『お彼岸とは、3月下旬の春分の日、そして9月下旬の秋分の日をお中日(ちゅうにち)とする各7日間のことを言います。
またこのお彼岸の7日間に営まれる仏事、つまり仏教における祭事、これは亡くなられた方のご冥福を祈る法要などのことですが、そういったこの期間に執り行われる行事のことも意味します。これは別称として「彼岸会」とも呼ばれます』
『それと』慧茄は首を振って鼻先で家前の往来の賑わいを指摘し『この乱痴気騒ぎと何の関係があるの?』と尋ねてきました。
『彼岸参りといって、人間たち、いや厳密に言うと多くの日本人たちにはお彼岸の期間中に懇意にしているお寺さんや、自分の先祖のお墓に参る習慣があるのですよ。
日本、というか仏教が伝来し受容した時以来、長い時間をかけて大和民族独自の習俗と仏教文化とが結び付いた帰結の1つなのでしょうね』
『だから、その彼岸マイローとかとこのお祭り騒ぎと一体何の関係があるの?』
『彼岸参り、です。マイローではありません。
我がミヤウチ家のご近所に親しみを込めて「観音さん」と呼ばれている寺院が一寺あります。この彼岸会の期間中、件の観音さんの境内には的屋と呼ばれる人々が様々な露店を出します。サーカス等の興行であったり、食べ物やお面などの物売りのお店であったり。
ま、昔はともかく、今はもうサーカスなどの大掛かりな興行は廃れてしまいましたが。
種々の娯楽が溢れ返る現在と違って、ほんの一昔までは遊興の機会が少なかったですからね。そう遠くない過去において人々は先を争ってこのお祭り騒ぎに身を投じたのでしょう。
この群衆現象はその名残なのではありませんか』
慧茄は納得のいかない様子を見せ『でもパパが言った通り、今は凄く一杯あるじゃん、他に楽しいこと。何が楽しくて彼岸マイローするの?』
『彼岸参り、です。マイローではありません。
ま、晴れと褻(け)。
非日常的で表立って華やかなこと、それに対して普段の生活、日常。
毎日繰り返される日常から切り離された一種の晴れがましい状況に身を置くのはワクワクドキドキと胸が弾むものです。
どんなに文明が進んで娯楽対象の数・種類が増えようとも、非日常の晴れの舞台に臨んだ時に得られる高揚感には敵わない。それは何物にも代え難い希少な経験を参加者にもたらしてくれるからなのです。
非日常の催事に参加した時の、人々が抱く胸踊り血が湧く興奮。
もしかしたら大和民族のDNAに深く刻み込まれている情動の源泉の1つなのかも知れませんね』
慧茄は訝しげな表情を浮かべ『後半は、ちょっと何を言ってるか、理解できなかったんだけど。まぁ、何となくパパの言いたいことは分かった』と言いました。
一番最初の記憶ってみんな持ってると思う。
わたしも持ってる。
でもそれはシッカリした形では全然なくて、お空に浮かぶ雲のようにフワフワとして曖昧なものだ。産まれたばかりでとっても小っちゃかったから仕方ないけど。
思い出せるのは2つだけ。
その出来事がわたしに物凄く強い印象を残したから覚えてるんだと思う。
今、思い返すと、それはとっても寒かったこと、そしてとってもお腹が空いてたこと。
今はこうして生きてるから思えるんだけど、あのままだったら、わたしは確実に死んじゃってただろうなぁ、って思う。
あ、思い起こせることがもう1つあった。
それは、クンクンとわたしの匂いを嗅いでいる何者かの息づかい。
そしてクンクンしてるその何かが発している匂い。
産まれたばかりだったから、そんなことを感じちゃうのは全然おかしいと思うんだけど、初めての匂いなのに、なぜか「懐かしい」って感じたことも覚えてる。
その後の記憶は、記憶の切れっ端がポロポロと続いてるだけ。
何か暖かなモノで拾い上げられたとか、
多分、コレはお父さんが両手でわたしをすくい上げたことだと思う。
あと覚えてることは、なにか暗い場所に容れられたこと。
コレは多分、お父さんがお散歩バッグの中に拾い上げたわたしを容れたことなんだと思う。
それと「ボーッ」っていう大きな音がしてたこと。
これ、多分わたしを診てもらうためにお父さんとお母さんが2人で動物病院へクルマで向かってる時のこと、じゃないかな?
まぶしいくらいの明るいライトとか、白くて硬い台とか、わたしの身体の上をはい回るように動く指とか、これみんな動物病院とか獣医さんのことだよね、きっと。
でも、これはホントの記憶じゃないかも知れない。
なぜかっていうと、わたしが少し大きくなってから、お父さんとかお母さんが教えてくれたからだ。
わたしをドコで見付けたか、とか。
どうやって家まで連れて帰った、とか。
動物病院で診てもらったんだよ、とか。
そして一番最初にわたしを見付けたのが、パパだった、とか。
でも、記憶ってすぐエラーを起こすらしい。
記憶を作る時、記憶を持ってる時、そして記憶を呼び覚ます時。
この3つの内、どのステージでもエラーが起き得るのです、ってパパが教えてくれた。
だからお父さんとかお母さんが教えてくれたことを、まるでホントの記憶みたいに勘違いしてるだけかも知れない。
でも、パパに関することはホントの記憶。
ホントに覚えてること。
パパがわたしを見付けてくれた時の匂い。
なんでか知らないけど、懐かしいって想っちゃった、匂い。
動物病院から新潟のお家に戻った後、お父さんとお母さんはわたしを元気にするために一生懸命お世話をしてくれた。
ミルクを飲ませてくれたり、飲んだ後で背中をさすってゲップさせてくれたり、ご飯の後ウンチが出やすくなるようにお尻を濡れたティッシュで拭いてくれたり、硬くて食べづらいキャットフードをお湯でふやかしてくれたり、ホントに色々してくれた、みたい。
これも多分、ホントの記憶じゃないかも、だけど。
記憶自体はホントじゃなくても、お父さんとお母さんには感謝しかない。
感謝の思いはあるんだよ、ホントに。
でも、あの匂いの傍に行きたくて、お家の中をフラフラとうろついて、うろうろとよちよち歩きを続けて、ようやく匂いの持ち主の傍にたどり着けた。
その匂いの持ち主がパパだった。
なんでその匂いの持ち主の傍に行きたかったか、その理由ははっきりと分かってる。
わたしにとって世界で一番安全な場所だと思ったからだ。
そして、この思いは今も変わっていない。
お父さんとお母さんの2人は、わたしがお家の外に出ることを許さない。
お外は危ないから、って。
でも、パパがお庭で寝転がってる時、その時だけはお庭に出ても良いって言われる。
2人は知ってるからだ。
わたしがパパの傍を絶対に離れないことを。
もう分かってると思うけど、わたしとパパはホントの親子じゃない。
わたしは森の中の道端に捨てられてたネコ。
そしてパパはイヌ。
違う種類の動物なんだよ。
そのことに気付いたのは、わたしがミヤウチ家の一員になってから3ヶ月位過ぎた頃だった。
パパが玄関に置かれたダンボール箱の寝床でお昼寝してたから、わたしもパパの横で同じ様にお昼寝してた。ふと何気なく靴箱の横を見ると知らない何か、真っ黒な生き物がいた。
わたしは驚いて「フーッ!」って威嚇の声を上げた。
そうしたら、その見知らぬ真っ黒な生き物も牙をむき出しにしてうなり始めた。
「フーッ!」
「フーッ!」
そうやってわたしと真っ黒な生き物とが威嚇し合ってると『うるさいですね。何事ですか?』って、パパが起きちゃった。
『パパ、知らない生き物がいるっ!』
『知らない…生き物…?』
パパはわたしの視線の先をたどって行くと『あぁ』と何かを発見し、何事が起きたのかを理解したようだった。
『慧茄。あれは姿見、つまり鏡です』
『鏡…って、何?』
『鏡とは自分の姿を映す道具です。あの中に何かがいる訳ではありません』
『じゃ、あの真っ黒い生き物は何?』
『あれはあなた。鏡に映っている、あなた、なのですよ』
わたしはホントにびっくりした。
だって、それまでわたしはパパと同じ格好をしてるとばっかり思ってたからだ。
鏡とかに映った「わたし」の格好はパパと全然違ってた。
毛皮が黒ってことだけは一緒だったけど、耳の形も、お口の形も、身体も、手脚も、形も長さも太さも全然同じじゃなかった。尻尾なんか丸っきり違ってた。
『わたしって…わたしの姿って…パパと全然違う…』
パパは優しい笑みを口の端っこに浮かべながら『それはそうです。私はイヌという種の動物で、あなたはネコという種の動物。つまり違う種類の動物なのですよ』と言った。
違う…種類…?
え、じゃあ、じゃあ、え?
わたしはパパの娘じゃないの?
もちろん拾われたんだから、血がつながってないことは知ってたけど。
違う種類の動物って、それじゃパパとわたしって、どういう関係なの?
怖かったけど、ホントに怖かったけど、真実を知らない方が余計に怖いことだと思ったので、勇気を振り絞ってパパに尋ねてみた。
『パパ』
『何でしょう?』
『わたしはパパの娘…じゃないの?』
パパはわたしを見下ろし、眼を真っ直ぐ見詰めながら柔らかな声音で、言った。
『あなたは、私の娘です』
パパの声には真実が満ち溢れていた。
鏡のことがあってから少し経った頃、教えてくれた。
パパもノライヌだった頃に拾われたんだ、って。
『サナコさんとカナコさん、私が子犬の頃、お二方に近くの公園で拾って頂いたのですよ』って遠くの方を眺めるように少し背伸びをしながら、パパは嬉しそうに笑った。
『あなたと私がミヤウチ家の一員となった経緯はほぼ一緒です。つまり出自が同じと言ってもよろしいかと思われます。ですから、あなたはわたしの娘なのです』
『出自って?』
『出処(でどころ)。言い換えれば、どういう風にミヤウチ家の一員となったのか、その流れです』
そっか。
パパもノライヌだったんだ。
わたしもノラネコ。
同じ様にミヤウチ家に拾われたんだ。
毛皮も同じ黒色。
そして同じように、雑種。
同じだ。
全部、何から何まで同じ。
わたしもパパも、同じ。
種とかが違ってても全然だいじょうぶ。
まったく同じなんだから。
いつも思ってることがある。
わたしは大声で世界中に言いふらしたい。
パパの娘はわたし。
わたしが、パパの娘なんだから、って。
涼風が心地よい木陰にいるせいなのか、慧茄はすっかりリラックスしたようで香箱座りという座位を取り始めました。これは前脚を胸の下側にしまった格好の座り方です。
瞬時に前脚を使えない、つまりネコが「前脚を使えなくても良いや」と思うくらい、相当にリラックスをし、警戒を解いた時にしか見せないポーズです。
非常に良い兆候だと思われます。
このまま寝てくれるとうるさい小言を言われなくて済むのですがね。
この娘が我がミヤウチ家の一員として迎えられてから約1年が経ちました。人間の年齢に換算すると彼女は16〜17歳くらいになるのでしょうか、身体の大きさや体重は成猫(せいびょう)並に成長したものの、あちらこちらに未だ消えぬ稚さが見え隠れしています。
しかし、こんなに美しいネコを捨てるなど、全く考えられないことでございます。
しかも帰巣本能を頼りにしても絶対に戻って来られないような山奥の森林深くに置き去りにするとは。悪鬼羅刹のなせる所業とは正にこのこと。人間の風上にも置けない、真の不逞の輩たちの仕業なのでございましょう。
この娘を捨て去る理由として考えられるのは唯一つ。
それは眼の色でございます。
さきほど申し上げました通りに彼女の眼の色は右側がカッパー(赤みのある暗い黄茶色)そして左側が翡翠色、つまり医学用語で言う所の「Heterochromia iridis」日本語では「虹彩異色症」というものです。
通常ならばネコにしばしば顕れるこの特徴は珍重こそすれ、忌み嫌われるものではないのですが、彼女の場合はその猫種(びょうしゅ)が問題となったのです。
慧茄は自分自身が雑種であると信じ切っておりますが、彼女は歴としたボンベイという猫種のネコ、正真正銘の純血種でございます。
ボンベイに関して、虹彩(眼)の色は金銅色(ゴールド)・アンバー(琥珀色)・カッパー(銅色)の3種類のみとされ、慧茄の左側の眼に宿っているような翡翠色(青緑色)つまりグリーンの場合、血統書の審査において失格となるのだそうです。キトン・ブルーの最盛時期が過ぎてメラニン色素の沈着が進行し、彼女の眼がグリーンであることが判明した時に捨ててしまうという決断を誰かが、恐らくブリーダーでしょうが、下したのだと推量できます。全く訳が判りません。血統書の審査に通らないから捨てる?
生命を何だと思っているのでしょうか?
フザケたことをするんじゃないっ!
今、眼の前に慧茄を捨てた人間がいたらバッラバラに引き裂いてやります。
え?
慧茄に本当のこと、つまり彼女がボンベイという猫種の純血種であることを伝えなくても良いのか、って?
何時か伝える日が来るでしょう。
彼女がこの悲劇とも言い得る状況を受け止められる日がくれば、の話ですが。
それにボンベイも混血と言えますしね。
バーミーズと黒毛のアメリカン・ショートヘアとの交配から生まれたのがボンベイなのですから。
広義で言えば、これもまた「雑種」のひとつでしょう。
香箱座りをし、眼を閉じて眠りの深い淵へと降りていこうとしている慧茄の顔を見ながら、そんなことを考えていました。
しかし、ネコというのはよく眠る生き物ですねぇ。
放っておけば1日12〜16時間は余裕で寝ていますし。
ま、ネコの別称は「寝子(ねこ)」
まさに文字通り、なのです。
かく言うわたしも1日12時間くらい平気で寝ていますけど。
ん?
クルマがやって来ますね。
結構な出力を連想させる排気音がします。
ポルシェ911のフラット・シックスではないようですな。
近付いてくるクルマの排気音に重くなっていた目蓋を持ち上げられた慧茄が言いました。
『何? あの排気音は? 綺麗だけど、ちょっとウルサイなぁ』
『あれは直列6気筒ですね。アキヒコさんのGT-Rと同じRB26でしょう』
慧茄が右耳をピクッと震わせ『もう1台来たみたい』と言いました。
『ほう、これはV型6気筒ですね。ヒロさんでしょうか?』
『ヒロさん? じゃ、サナコさんも来たのかな?』慧茄が期待で語気を震わせながら呟きました。慧茄は、快活で陽気な性格のサナコさんと非常に気が合っていて、とても懐いています。ま、慧茄自身もアメリカン・ショートヘア譲りの快活な性格をしていてコミュニケーション能力が高く、非常に社交的ですからサナコさんも彼女をとても可愛がってくれています。この慧茄とサナコさんの良好な関係は私にとって大いに喜ばしい状況と言えるでしょう。本当に有り難いことでございます。
『サナコさんも来るとサチエさんが仰ってましたよ』
『集まりって、この事?』
『そうです。GT-Rライダーの集まりだとか』
『だから玄関から退避したんだ』
『そうです』
『まったく気ぃ遣い屋なんだから。もう少し図々しくしてても良いのに』ミヤウチ家で一番の高齢者なんだから、と慧茄がクスクス笑いと共に漏らしました。
『良いのですよ、これで』
慧茄の微かな邪気を含んだ笑顔を見ていると自然とこちらも笑顔になって来ます。
こういう所にバーミーズ由来の愛情深く優しい性格が散見されるのです。
先程、私の午睡を邪魔したのも、ただ構って欲しかっただけだったのかも知れませんね。そういえば、彼女が小さい頃には私の注意を引くためだけに、様々な悪戯を仕掛けてきたものです。今となっては、それらはとても懐かしい出来事です。
もしかしたら手持ち無沙汰な私の話し相手になろうとしてくれたのかも。
彼女、私の心模様くらいは簡単に推察できます。
なにせ私の娘は本当に賢いですから。
サナコさんの登場を待ちわびる慧茄の横顔を見下ろしながら、私はサナコさんではなくパートナーのヒロさんのことを考えていました。
ヒロさんは最近R35 GT-R Nismo 2020を下取りに出し新たにR35 GT-R Nismo 2024を購入したとか。
2915万円もするお値段もスーパーなクルマをポンと購入できるとは…
ヒロさんとは、一体何者なのでしょうか?
しかし、その様な経済的余裕があるのならばネコ達が陥る苦境から救い出すための薬剤開発に寄付をお願いしたいものでございます。
ネコの死亡原因の第1位はガン。
そして第2位は腎臓疾患です。
しかし直接死因はガンであったとしても、ネコは先天的に腎臓病を罹患しやすいので、ほとんどのネコが腎臓を患っているとか。
その罹患率はほぼ100%!
このことがネコで最も多い病気は腎臓病と言われる所以です。
何故、ネコが先天的に腎臓疾患を罹患しやすいのか?
その鍵を握っているのが人や動物の血中に存在しているAIMというタンパク質です。
動物の生命活動に付随して産生される老廃物、つまりゴミが生み出されるのですが、このゴミを廃棄処理するのに必要なのがAIMなのです。
AIMの役割はゴミの目印になること。
血中には身体の老廃物を貪食する(文字通りに食べる)免疫細胞のマクロファージが存在しています。しかし目印が付いていなければ、マクロファージはゴミを判別できません。
AIMは通常の場合、抗体の一種のIgMと結合しています。
身体の中に老廃物が蓄積してくるとAIMはIgMから離脱し、自らゴミと結合、目印となって「ここにゴミがあるぞ」とマクロファージに伝えるのです。
するとゴミを判別できるようになったマクロファージがAIMもろともゴミを貪食し、身体から排除するのです。
しかしネコは先天的にAIMがIgMから離脱しにくいメカニズムになっていて、その結果上手く老廃物を排除できず、蓄積し続けてしまうのです。
腎臓は老廃物をろ過し、尿として排出する器官なので、ゴミが増えて目詰まりを起こすと腎臓としての本来の働きを行えなくなってしまうのだそうです。
これがネコが腎臓疾患を罹患しやすい原因なのです。
今、開発途中のネコの腎臓疾患治療薬は、このAIMを活用するものです。
新宿区のAIM医学研究所という研究機関で開発真っ最中なのです。
ヒロさん、少しでも良いからこの研究機関へ寄付を…
といっても、私の言葉は彼には通じないのでございます。
この状況は本当に、歯痒い。
慧茄が歳を取る前に、このAIM薬剤が完成すれば…
ネコの寿命は15〜20年と言われますが、この薬剤があれば30年に延ばすことも可能だとか。
ですから、是が非でもヒロさんには寄付をお願いしたいのでございます。
あぁ、誰か、私のこの想いをヒロさんに伝えてくだされば…
?
誰かが近付いてきます。
『サナコさん?』高まる期待にその顔を輝かせながら慧茄が音がなる方向に首を向けました。彼女に釣られるように私も同じ方向へと顔を回します。
違いました。
見知らぬ少女でした。
歳の頃でいえば15歳くらいでしょうか。
身長は160cmに少し足りないくらい。
手脚がスラッと伸びやかで、その歩き方には重力の影響を一切感じさせません。
小さな頭部の造作は、サナコさんやカナコさんたちとは、そのベクトルは異なるものの、
神様が全力でタクトを振るった結果と形容できる、玲瓏たるもの。
神様は一体何人に対してタクトを振るって全力指揮したのでしょうか?
そこそこの疑問ですなぁ…
この少女の全体的な印象を一言で表現するならば「妖精」でしょうか。
まるでこの世の存在とは思えない程なのでございます。
「こんにちわ。イヌさん。それからネコさん」少女が口を開きました。
『こんにちわ、お嬢さん。勿論、私の言葉は通じないでしょうけども』
「通じてるよ、イヌさん。お名前は?」
!?!
『私の言葉が分かるのですか?』
「いやだなぁ。通じてるって言ったじゃん」
『どーゆーこと?』慧茄も驚きを隠せません。
「なんかね、昔っから動物とかクルマとかとお話ができるんだよ、私。
でも、ケンゴにそれを話したら『ボクや咲耶さんとかにはソレ話しても良いけど、他の人には言わない方が良いなぁ』って言われちゃった」
ケンゴさん?
すると、この少女は荒川自動車の関係者なのでしょうか?
『何故、ケンゴさんとやらはそのようなこと仰ったのでしょうか?』
「他の人に言うと、その人達が困っちゃうからだって」何か変だよね、少女がフフッと笑みを浮かべました。正にそれは天使の笑顔でした。
そして、この少女が私と慧茄にとって真の天使とも成り得ることに気付いたのです。
神様、この天佑、有り難く承ります。
「ね、イヌさん。ネコさん。訊きたいことがあるの」
『何でございましょう?』
「さっきケンゴとRさん、うーんとクルマで来る途中でケンゴがさ『秋の日は釣瓶落とし』って言ってたんだけど、この『つるべ』ってTVによく出てる笑福亭鶴瓶のことかなぁ?」
!
<了>
ポチ、わたしのパパ