あ・うん

あ・うん

Il faudrait que je cessasse de vivre pour cesser de vous aimer.

君を愛するのをやめるには生きるのをやめるしかないだろう。

Marquis de Sade(2 June 1740 – 2 December 1814)

涼しさを含んだ夕暮れ時の風が、昼間とは又違った意味で賑やかになり始めた通りと言う通りを静かに吹き抜けていく中、『百花屋』にて筆頭呼出の立場として「君臨」する黒曜は、本人曰く、其の日一日が何れ程忙しくとも、そして何れだけ身体が疲れていたとしても、一片たりとも欠かした事が無いと言う時間にして凡そ一時間半に及ぶ三味線の練習を済ませ、自分で淹れた茶を啜り乍ら、今日も今日とてゆったりと暮れなずむ空をただただ黙って眺めていた。
すると廊下の方から聴き慣れた、否、聴き慣れ過ぎたと言っても良いかもしれぬ、良き意味で無遠慮な足音が黒曜の耳に響いて来た。
そして其の足音の主が、一昨日、見世に足繁く通ってくださるお客の一人を通じて知り合った腕の良い経師屋に対し、黒曜自身が身銭を切って張り替えさせたばかりだと言う部屋の襖〈ふすま〉を、スパン、と言う小気味良さすら感じさせる音を響かせ乍ら開ける迄に十秒と時間は掛からなかった。
足音の主は、『百花屋』随一の芸妓として其の名を轟かせるモクレンであった。

おい、今からちょっと出掛けるから、お前も付き合え。

普通の人間の感覚であれば、何を薮から棒にと言う不快な気持ちになるか、はたまた其れを表情に出して抗議の意を示さずには居られないが、人が「良く出来ている」事で其の名を馳せて来た黒曜は、超が付く程、売れっ子である人物からの有難い御誘いの御言葉を耳にした瞬間、茶碗に残っていた茶をサッと啜って其の場で姿勢良くすくっと立ち上がるなり、偶には月見蕎麦でも啜るとするかね、と言い乍ら手に持っていた茶碗を机の上にそっと置くと、其の昔此の部屋を与えられた初めての晩、部屋へ案内をしてくれた先輩格の人物の口から、此の鏡は代々大切に扱って来た大切な逸品、無碍〈むげ〉に扱う事はあってはなりませぬぞ、と言う言葉と共に授かった鏡の前にて、実にこなれた手付きで今一度着物の帯を結び直し、ほんじゃ、まぁ出掛けるか、と呟いた。

おや御両人、何処かへお出掛けで?。

玄関先にてやけに軽い口調で黒曜とモクレンにそう聲を掛けて来たのは、銭湯にて命の選択を済ませたばかりらしい風呂上がり姿の艶やかな柘榴であった。

あゝ、ちょっとな。

先々日、『百花屋』とは長い付き合いだと言う呉服屋『寿屋』にて、卸したばかりの下駄をモクレンに手渡し乍ら、黒曜が言った。

世間様では本日から盆休み。
何時も以上に人がごった返す事限りなしかと思われます故、道中お気をつけて。

ほう、天邪鬼が他人の心配をするのか。
明日辺り、雨が降るかもな。

黒曜の左手から自身の右手へ、まるで流れ作業の様にさり気なく手渡された下駄を受け取って履いたばかりのモクレンが、あからさまに皮肉を述べると、柘榴はたったひと言、いやはや手嚴しい、とだけ言って、邪魔者は退散と言わんばかりに、鼻唄交りに其の場をそそくさと立ち去った。

苛めてやるなよ、あんまり。

右手を使い、モクレンが潜れる様、暖簾をサッと上げたばかりの黒曜がそう述べると、すかさずモクレンは、アレが苛められている人間の態度か、と苦々しげに言ってのけた。
表に出ると、二人は下駄をカランコロン鳴らし乍ら肩で風を切る様に道をずんずん、先ずは神社の方へと歩き始めた。
丁度日々の忙しさで煤だらけになった部屋の中の空気を入れ替えでもするかの様に。
神社へと辿り着くと、祭りを仕切っているお偉方やら其の取り巻きやらに出会した。

やあやあ、御二方。
揃ってお出掛けたぁ御珍しい。

通称「若旦那」と周囲の人間たちが呼んでいる駒藏と言う男が、床屋で髭を剃ったばかりらしい自身の顔の周りに向け、朱色の団扇を使って風を当て乍ら、聲を掛けて来た。

なあに、世間様に肖って羽根を伸ばしに来ただけの事よ。

黒曜はそう言って懐から使い慣れた渋柿色の革財布を取り出すと、中から小判を三枚程取り出して、本来なら裸で渡すモンじゃねぇンだろうが、ま、受け取ってくんねぇ、と言って駒藏に手渡した。

気前が良いねぇ、相変わらず。

小判を受け取るや否や、勝四郎と言う自身の弟分に其れを手渡した駒藏がニヤッと笑みを浮かべると、今夜は祭りだ、派手にしたからと言って罰が当たる訳でもあるめぇ、と言って財布を懐に仕舞うと、モクレンと共に再び歩き始めた。

顔が広いんだな、相変わらず。

モクレンが言った。

駒藏にゃ色々貸し借りがあるんでな、昔っから。

奇特な奴も居たモンだ、山犬みたいなお前と貸し借りの関係を持とうなんぞ。

言いたいことを言いやがる。

そんな会話を交わしているうちに列はどんどん進み、気が付けば黒曜とモクレンの二人も賽銭箱の前へとやって来ていた。
黒曜とモクレンは粗同じ間で一朱金を賽銭箱に投げ込むと、商売繁盛と互いの健康長寿を祈ったのだが、黒曜はモクレンが何不自由無く幸せに過ごせる事を密かに祈り、モクレンはモクレンで隣に居る此のオトコの視線を自身が独り占め出来る様、密かに祈った。
する事を済ませ、今一度カランコロンと下駄を鳴らし乍ら歩いていると、自分達よりも軽い足取りで且つ歳の若い揃いの着物を羽織った男女とすれ違った。
若い女の方はお出掛けだからと化粧を施したのか、化粧の香りを爽やかな夜風に靡かせていた。

健気だな。

モクレンが呟く様に言った。

拵〈こさ〉えるか、俺達も。

黒曜はそう言い乍ら腰に差した扇子を右手でそっと引き抜くなり、ぱちり、と鳴らした。

二人だけのをか?。

本気か、お前と言わんばかりの聲色をモクレンが発すると、あゝ、他の連中のは其の後でも構わんだろ、と黒曜は淡々とした口調で述べた。
商品としてぶら下げられた色とりどりの風鈴が風に煽られて勢いよく鳴り響く中、毎度の事乍ら感服するよ、お前の思い切りの良さには、と言ったモクレンは、風鈴の音色に負けない位の笑い聲を響かせつゝ、再び肩で風を切る様に歩き始めた。
黒曜は其の笑い聲を聴き乍らモクレンから三歩下がった状態で、忘れねぇでくれよ、蕎麦を喰いに行くの、と聲を掛けた。
そして先程登って来たばかりの長い石段の前へとやって来るなり、手に持っていた扇子をグッと帯に差し込むと、黙ってモクレンの右手をそっと握った。

純情を絵に描いたようとは正に此の事か。

こゝろの奥底でそんな風な事を呟いたモクレンは、差し出された左手をぎゅっと握り締めると、お前の「おままごと」に付き合ってやると言わんばかりの表情を浮かべ乍ら、黒曜の手をぎゅっと握り返した。
普段から御稽古だの力仕事だのを通して身体を鍛えている黒曜の手は、山肌から其のまゝ削り出た岩の様にゴツゴツこそしてはいるものの、そもそも黒曜自身、体温が高い事もあると同時に、常日頃から力加減を弁えて日々の生活を営んでいる事も相俟ってか、モクレン個人の感覚では迚も触り心地が良く、同時に握り易かった。

此の手で頭を撫でられたり、はたまた手を握られればどんなお澄まし顔もコロッと堕ちる事限りなし、か。

黒曜は客の御見送りをする際、必ずと言って良い程、又来いよ、だとか、元気そうで何よりだ、と言った様な内容の言葉を優しげな表情と聲色を添えつゝ、客の手を握ったり或いは頭を撫でるのが所謂「御約束」なのであるが、大概の客はまるで菓子を頬張りでもしたかの様に蕩けた表情を浮かべたり、或いは頬を果実の様に紅く染め上げたりするのが常であった。
無論、モクレンが見聞きをした限りでは、ではの話ではあるけれど。
そんな事を考えたりして最後の一段を降り終えると、お前の為に簪〈かんざし〉と櫛も買いてぇな、どうせ高けぇ買い物をするンだったらよ、と黒曜がモクレンの顔を澄んだ瞳でじっと見据え乍ら言った。

魔除けか?。
其れとも虫除け?。

両方だな。
時々居るだろ、変なのが。

其の昔、素盞嗚尊〈スサノオノミコト〉が八岐大蛇〈ヤマタノオロチ〉を退治する際、奇稲田姫〈クシナダヒメ〉を櫛に姿を変えさせ戦いに挑んだと言うが、其れと似たようなモノだな。
今度のお前の申し出は。

家々の灯りを頼りに、蕎麦屋の方へと歩みを進め乍ら、モクレンがそう述べると、えらく時代が飛んだが、まぁ、そんな所さ、と黒曜は言った。
廓で働く人間たちにとっても馴染みの蕎麦屋である『ときわ』の使い古された黄褐色の暖簾を潜ると、席と言う席は皆、お詣りに行った人間、或いは此れから行こうと言う気の人間で一杯だったが、黒曜とモクレンは顔馴染みと言う事もあり、旧くから此の店で働くお六婆さんの案内で、本来なら倍の料金を支払って初めて座る事が叶う通称「川座敷」と呼ばれる其の名の通り、川の流れを見つめ乍ら出来立ての蕎麦を手繰ると言う中々に風流且つ贅沢な趣向の席であった。

偶の休みもお詣りですか。
いやはや実に信心深い事で。

黒柿色の机に置いたばかりの「ときわ」の湯呑み茶碗に、お六曰く、越前国からやって来た商人のツテを利用して手に入れたらしい亜麻色の急須で御茶を注ぎ乍ら、白髪頭で今年の春に五十歳になったばかりのお六が、履いていた下駄を脱ぎ、ゆったりと本紫色の座布団に腰掛けたばかりの二人に対しそう述べると、まるで将棋の駒、或いは碁石を動かしでもするかの様に、お六が御茶を注ぎ終えたばかりの湯呑み茶碗をモクレンの方へと移動させ乍らすかさず黒曜が、アンタだって何かと言えば亭主と一緒に寺へ出向いちゃあ、念佛唱えているじゃねぇか、と微笑い乍ら茶々を入れた。

しょうがないでしょう、悪い病にとっ憑かれて食いっ逸れた浪人者を父に持つ娘と、界隈でも評判の職人の小倅が一緒になるって言う話が持ち上がった時、止した方がいいんじゃないかだの何処の馬の骨とも解らん女に家の敷居を跨がせる気がだのさんざっぱら言われていたのを、死んだ御住職様にまぁまぁと収めていただいたと言う「ご縁」ってえモノのが私達夫婦にゃあるのですから。

其の理屈で言えば、今こうして俺達とアンタが話しているのも、「ご縁」だって事になるな。

妙な言い草ですけれど、確かにそうかもしれないですねぇ。
生憎とウチは子供を作らずに今日迄来たモンだから、お前さん達二人が実の子供の様に思えて仕方ないよ。
って、しんみりさせる様な事を言っても仕方がないか。
蕎麦、直ぐにお持ちいたしますからね。

お六婆さんはそう言って額に浮かんだ汗を懐から取り出した柳色した手拭いで軽くサッと拭うと、懐へ今一度手拭いを捻じ込み、海老色のお盆片手に奥へと引き上げて行った。

実の子供・・・か。
長い付き合いになるが、そんな風に思われていたなんて聴くのは今夜が初めてだな。

川のせせらぎに耳を傾けていたモクレンはそう述べると、時が経ち程良い温度になった茶をズズッと啜った。

現在〈いま〉でこそあゝして気丈に振る舞っているが、寺の坊主共が言うにゃ、住職の前で刃物を持ち出して死ぬの生きるのと騒いだクチなんだと。
ま、好きにさせるが吉だろうよ。
其れに・・・。

そう言い乍ら黒曜はスルリと懐紙を一枚取り出し、右手を使って御茶を飲み干したばかりのモクレンに懐紙を手渡した。

其れに?。

可愛がられンのも商いのうちだろ、俺達みてぇな奴等にゃよ。

有り難い勅〈みことのり〉をどうも。

モクレンは黒曜から手渡された懐紙を使って艶っぽく照り輝く口の周りを綺麗に且つ拭き終えると、そんな事を言い乍ら懐紙をぐしゃぐしゃに丸めるなり、其れを『ときわ』の主人の故郷である小田原城下にて、去年の丁度今頃土産序でに購入をした竹細工で出来た屑箱の中へ左手を使いサッと放り込んだ。

ンな大袈裟な。

そう言い乍ら黒曜は迚も快活な笑い聲を二人きりの空間に響かせた。
そして川辺の方へと流し目気味に視線を向けると、色とりどりの着物を羽織った近所の子供達が、其の子供達を見守る役目を担っているのであろう大人達と共に、お祭りの鳴り物を彷彿とさせるはしゃぎ聲を奏で乍ら、仄かな灯りを放つ灯籠をせっせと川に流している姿が其処にはあった。

誰に聴いたかすっかり忘れちまったが、そもそも此の灯籠流しの始まりは、流行り病だなんだで両方の親はたまた片親を亡くした餓鬼達に供養の機会を与えようと言う計らいから始まったンだそうな。

川の流れに沿って静かに流れて行く灯籠と其の灯籠が放つ淡い輝きが水面を照らす様を見つめ乍ら、黒曜がそんな事をモクレンに語ってのけると、混ざった事がありそうな口振りだな、とモクレンが言ったので、文字通り遠くの方を見つめる様な表情を浮かべつゝ黒曜は、たったいっぺん、周りの人間に唆される様にしてな、とだけ答えた。
そうこうしているうちにお六婆さんよりもうんと歳の若いお蝶と言う其の名の通り、両腕に蝶の刺青を彫った嘗ては巾着切りだった過去を持つ女が出来立ての蕎麦を運んで来た。

あら黒さん、此処ん所浮いた噂を聴かないけれど、大丈夫なの身体の方は。

お蝶が箸を手渡し乍ら揶揄い気味に言った。

おいおい、ついひと月前〈め〉ぇに輿入れしたオンナが亭主以外のオトコに向かって猫撫で聲でそんな事を聴くなんざ、お前ン所の亭主の手綱捌きも大した事はねぇな。

おっと、見損なっちゃあ困るね。
手綱を握ってンのは吉っつあんの方じゃなくってアタイの方さ。

此奴ぁ悪かった。
そもそもお蝶、お前ン所の亭主は近所でも大評判の馬面だ、馬が手綱を握るなんてあべこべなハナシがあっちゃあ、御釈迦サマでもたまらねぇよなぁ。

ったく、洒落臭いったらありゃしない。
モクレンさん、こんなオトコと良く連んでいられますねぇ。

枕でも抱き抱える様にしてお盆を持ったお蝶がモクレンに話を振ると、モクレンは箸を片手に、連んでいるんじゃない、顎で使ってやっているんだ、と邪悪な笑みを浮かべた。
其れからいただきます、と言ったのち、麺が伸びては損だと言わんばかりにズズズと蕎麦を啜り始めた。

だってよ、黒さん。

如何ってコトねぇよ。
顎で使われるのも手綱を握られるのも慣れてっから。

流石筆頭呼出、人間が良く出来ていらっしゃる。

ちぇっ、妙な所で褒めるない。

そう言い乍ら黒曜は革財布から取り出した二分金をお蝶に手渡し、此れで亭主と一緒に美味いモンでも喰え、とお蝶を追い払う素振りを見せた。

へへ、毎度あり。
ではごゆっくり。

態とらしい科白と悪意がありありと込められた笑みと共にお蝶が飛び立つと、革財布を懐に納め乍ら黒曜は、ったく、此れだから常日頃から商賣ッ気の多い人間は、とボヤき乍らモクレン同様、勢いよく蕎麦を啜った。

くたばる迄治りそうもないな、お前の其のやられたらやり返したくなる癖は。

あゝ、かもな。

其れから黒曜とモクレンは、黒曜が三杯、モクレンが六杯の蕎麦を啜り、互いに満足をした所で店を出た。
街の盛り上がりが絶頂を極め、空の上では団子を彷彿とさせるまん丸としたカタチの月が明るくも冷たい光を放つ中、二人は寄り道をする事も無く、廓へと戻る道を歩いた。

又明日っから忙しくなるな。

こなれた足取りで人混みを避け乍ら、黒曜が言った。

客足が絶えたら最後、死んだも同然の世界に生きているんだからな、暇〈いとま〉ばかりでは其れこそ闇だ。

涼しい顔でモクレンがそう言うと、黒曜はひと言、あゝ、と返事をし、今一度モクレンの手をそっと握り締め、帰ったら菓子でも喰うか、貰い物だが饅頭があるんだ、と言った。
手を握り返しつゝ其の言葉を聞いたモクレンは、黒曜同様、あゝ、と返事をすると、揃いの浴衣姿の自分をほんの一瞬だけ夢想するのだった。〈終〉

あ・うん

あ・うん

淡々と流れる時間軸の中、さり気ない優しさと愛が美しげに且つ物憂げに交差をする『吉原花影草子〜君灯し月映え〜』の世界線の黒モク。 題名は向田邦子唯一の同名長篇小説より引用。 ※ 本作品は『ブラックスター -Theater Starless-』の二次創作物になります。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-20

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