夕映えの中で
2023年9月30日の土曜日の夕方、クレセント製薬萌原研究所の研究員、長尾聡は、その週の業務の疲れから、図書館で借りてきた発達障害の生き方に関する本を読みながら、ベッドで眠ってしまった。白いシス猫が、本と聡の間に体を長く伸ばして寝ていた。
そこへノックの音がした。
聡はなぜかパッと目が覚めた。夏の間につけられたベッド脇の人型はすっかり消えていた。
覗き穴を見ると、夏以来顔も見ていない、上司の潮見がそこにいた。
反射的にドアを開けると、シスが訪問者の靴のにおいをかぎに出た。
「忙しいのはお互いさまだけど」
潮見さんは言って聡の背に両腕を回した。
長いこと顔も見られずにさみしかった、と上司は言った。
「君はさびしくなかったの? どうやら新しい友達ができたようだ」
聡は潮見さんの腕を感じていたかったので、ちょっと下を見て、
「シスっていう女の子です、やせてるんで肥育中です」
と紹介した。
「今日は何の日か覚えてる?」
と潮見は聡に聞いた。
さあなんだっけ、9月になっても暑い日が続いたので聡は少しぼおっとして、見当がつかなかった。
「試用期間の終わり」
潮見は言った。ああ、と聡はちょっとだけ口角を上げて嬉しそうにした。
「潮見さん、改めてよろしくお願いします」
聡は身体を動かさずに言って頭だけ少し下げた。
シスがニャアと鳴いた。聡にかまって欲しいらしい。抱き上げて、潮見の前に持ち上げた。
「こちらが僕の上司で大事な人、潮見さんだよ。シス覚えてね」
香子を抱き慣れている潮見は、猫の抱き方も上手だった。抱えながら、背中をさすると、シスは気持ちよさそうな喉声を出した。
折しも夕焼けが、萌原山を赤く染めるところだった。
聡が夕焼け、と言うと、白いシスを抱いたまま、潮見がそちらへ顔を向けた。秋の虫がたくさん、静かに音楽をやっていた。人の気配も車の音もなかった。潮見さんとシスもやがて赤い夕焼けに染め上げられた。雲の中にきらめく紅が聡の小さな住まいに射し入っていた。
嘆いたり、恐れたりすることがあろうか?
あなたや私に迷いがあり得ようか?
聡が突然このドイツ歌曲を低く、しかしはっきりと歌った。こんなに美しい夕映えの中で、大事な人と、小さな猫もいて、何か間違うことなどあるはずがない、そういう確信が若い研究員の胸にあふれた。
「ええと…シューベルトだね? 夕映えの中で。詩はカール・ラッペ…学生時代にちょっとハマったんだ」
潮見さんが静かに言った。
聡は黙ってうなずいた。
夕焼けが終わり、空が紫色になる頃、聡はシスに晩ごはんを用意して留守番を頼み、お互い忙しいから泊まりはやめて、電車とバスで近所のドイツ料理店に行き、バイエルンから来た大工が仕上げたという花や模様が美しく塗られた木の部屋の中、仕事のことも、プライベートのたわいないことも、ゆっくりと語り合いながら、ソーセージやビールを味わった。
夕映えの中で