千族化け物譚❖Cry/R. -resurgence- ver.S
人の姿をしながら人ならぬ力を持つ「千族」が、「雑種」という呼び名だった時代から長い時を越えて、「剣」として命を保つヒト殺しの少年の特殊感覚ファンタジーです。
バッドエンドに見えるかもしれませんが、Cry/シリーズがDシリーズ、ひいてはその後のインマヌエルや直観探偵シリーズに続いていくための大切な回になり、また主役自身の生きる目的はきちんと果たされます。
11万字の話を約半分に縮めたカット版です。
エブリスタのノーカット版→https://estar.jp/novels/23497423
ノベラボのノーカット版→https://www.novelabo.com/books/6718/chapters
update:2023.10.13 Cry/RシリーズC3
❖R❖
その縁は、遥か数千年の時を越えて――
今も時を止めたままの少年に、約束通り共に在る、と楽しげに空っぽな唄を歌う。
Sleep & Stray ♪ Freeze with terror…
時をも凍らせる怠惰な悪魔は、凍った心をそのまま包むことで動かす。
Sleep & Stray ♪ Freezing to death…
行くべき所がわからず少年は立ち止まり、眠り続けていることをソレは知っていた。
たとえその夢が、滅びに向かうものであっても。いつか解ける迷夢を、彼らは探し続ける。
+++++
Cry per R. -resurgence-
千族化け物譚 C3
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❖開幕❖
世界のヒトは全て、「神」の器に過ぎない、とソレは言った。
「オマエの中には、オイラがいるにょろ。オイラは『神』にょろ」
「……は、い?」
一番初めに存在したのは、世界の「力」と「原理」である「神」。
生き物でない「神」には、生も死もないが「意味」がある。「意味」毎に司る「力」が違い、「意味」に反する不秩序は禁忌となる。
「意味」の変化は即ち、「神」の連続性の途絶……傍目にからは「生死」があった。
「神は消えないにょろ。永遠に何かの形で続くにょろ」
そのため「神」は、唯一でありながら無数である矛盾を両立させるという。
「しかしオイラは中身――『力』がないから、不完全なんだにょろ」
「意味」しか持たない抜け殻だったソレは、中身により何者にでもなる。長くソレと共に在る銀色の髪の少年へ今でも微笑む。
「だからオイラの中身になるなら、オマエは神になるにょろ」
「力」とは世界に存在する「神秘」の、原材料と生成場と結果だ。
「力」本体を「神」、そして「力」の器となれる存在の内、神に似せて創ったものを「ヒト」と「神」は呼んだ。
「原理」を揺るがせる「力」など、無い世界の方が実際は平穏だ。
「神」は世界の軸となり、数多の「神秘」を流れさせているが、その「力」を顕現させられる世界はあまり多くない。
その内の三つが「天界」と「魔界」、そしてこの「宝界」。更には「力」が弱められるが使える「地界」。銀色の髪の少年の「宝界」はそれらの世界と繋がり、繋ぐのがまた軸たる「神」でもある。
「俺は結局……竜でも飛竜でも、精霊ですらないから」
その何処にも居場所を感じない、何者でもない少年は――
黒いバンダナの下、赤を熔かした青の目で、「神」の抜け殻だったソレを無機質に見つめる。
「だから神になれって――アンタは言うのか」
そんな少年を見守り続けた、緋色のソレに答を問いかけた。
緋色の残滓はただ楽しげに、その現実を少年に伝える。
「それ以外に、オマエが今この現世で、時を往く術はないにょろ」
「…………」
遥か遠い世、「神暦」の頃から少年は存在を繋いできた。
だから最早、少年の終止符は近い、とわかり切ったことを口にする。
――ユーオンは……ずっと、ここに、いてね。
消えてしまった誰かの願い。それを叶えるには、少年は――
「……冗談、キツイな」
永遠に消えない何かにならなければいけない。
その身を悩ます痛みも吐き気も……全てを永く刻まれたままで。
R1:紅い空と赤い空
激しい吐き気で目が覚めた。
「って……」
すっかり慣れ切った、胸苦しい目覚め。しかし今朝は新たな、よく思い出せない、これまでにない不快感を伴っていた。
「ゆ、め……?」
初めての土地の慣れない寝床で、見知らぬ天井が目の前にある。金色の短い髪で尖った耳の少年は、一瞬、己の紫の目が金色に光ったことに気付くわけもない。片耳に言語翻訳機である装身具を揺らし、袖が無く縦襟の黒衣の躰をゆっくりと起こす。
「目が覚めた? ユーオン――いや、紫雨君」
閑静で小さな城の一室で、城の主である貴賓が扉から声をかけてきた。
肩掛けを羽織り、くすんだ赤色で簡素な礼装の、長くまっすぐな茶色の髪の女性。生来の強気さを高貴さで落ち着かせている貴賓だ。
「気分はどうかしら。バカ息子の丸秘部屋を貸してあげたとはいえ、この世界自体、魔でない君には相性が悪いはずなんだけど」
「……マヤ?」
「やっぱり、浮かない顔ね……どれ、熱はないかしら?」
ベッドに腰掛けた女性は、鋭く端整な顔立ちながら、年の功とも言える穏やかさで少年に微笑みかける。細くて長い指の手を少年の額に当てる。
「と言っても、熱の元になるエネルギー自体、君には全く足りてなかったわね」
「……」
「精霊の助けになる自然の気は、魔界には本当に乏しいの。せめて食事で補給しないと、せっかくこんな所まで来たのに、君はずっと寝たきりで過ごすことになるわよ?」
それは少年もわかっている。難しい顔で俯く。少年は少し前から全く食事が摂れない状態であると、女性も当初から耳にしていた。
あくまで穏やかに、貴賓の女性はいたずらっぽく微笑む。
「と言っても、エネルギー源は食べ物だけじゃないわよね」
「……」
「今日はヒャクネンのコドクを出してみたわ。ストレートにする、ロックにする?」
心から嬉しげに、きらりと光るガラスの杯を後ろから出す。少年もたはは、と思わず苦笑うしかない。
「マヤはいつも、朝からお酒を呑むのか?」
「嫌ね。久しぶりに相手ができた時くらい、好きに呑ませてちょうだいな」
この城で女性と対等に話をして良い者は、客人たる少年とその養父、そしてたまに通い来る伴侶だけらしい。
女性の一人息子に姿形が似ているという少年が、唯一摂れるエネルギーを躊躇いなく勧める、文字通りの悪魔の酒豪女性だった。
十五年前まで、陽の光も差すことがなかったというこの世界は「魔界」と呼ばれる。「悪魔」という、奪い合いが性である生き物の巣窟だという。
一見は女性のように人間と大きく変わらない者もいれば、あからさまに怪物のような姿の者もいて、少年が元々住んでいた「宝界」に比べると、とても無秩序な世界に少年からは思えた。
――そりゃ違うっス、師匠! 悪魔こそ、神や天使に続く制限だらけの存在なんスよ!
それらは皆、強力であるが故に、様々な形で「概念」に縛られる高次存在であると。同じように「概念」だけの存在が諭す。
「……レンは、ここに来てから元気だな」
と言うか、何で師匠……? と尋ねてみる。滞在先の城の中庭を身一つで歩き回っている少年は、傍目には独り言で何かを話し続けていた。
――今の自分はまさに招魂、魔界の魔の気で、下手したら使い魔になりつつあるっス!
その声は手首に巻いた紐付きの鍵に付属する、蝶の羽飾りからいつも聞こえる。腕時計のように蝶の羽を眺めつつ、少年は尋ねる。
「いや……普通に、妖精に戻らないのか?」
――自分はこのまま、剣の一部がいいっスよ! 師匠は剣になれたなんて幸運過ぎっス!
「……それで師匠なのか、レンにしたら」
羽飾りから響く軽い口調は心底羨ましげに、己が嗜好を本来の口調で語り始めた。
――ぱねーっすよ師匠、剣として生きる生活! オレをここに置いてくれればこの剣は最強の切れ味を保障するぜ!
その蝶の羽飾りは、元は「刃の妖精」という、物を何でも鋭くする力を持った妖精だ。金色の髪で尖った耳、紫の目――容姿は典型的妖精である今の少年の、躰の本当の持ち主だった。
――霖の谷間生活も超快適だったけど、もう剣まじやべー。オレ本当、生きてて良かった、まじサンクス師匠!
「いや……リンに殺されてそうなったんだろ、レンは……」
今や元妖精は、羽飾りを依り代に自我を発揮している。浮気な性格から恋人に殺され、妖精たる自我の拠り所の羽を切り落とされた結果、そうなっていた。
羽を失い抜け殻となった妖精の体を使うのが、今この少年だ。少年は宝剣収集家だった妖精が最後に買った剣に宿っていた古来の魂で、現在も剣を本体とし、妖精の代わりに躰を動かしている。
「羽さえくっつければ、まだレンはこの体、元のレンに戻せるはずなんだけど……」
――んな殺生な、オレから剣を取り上げないで師匠! オレをここにいさせてくれっす!
「いや……躰、返さなくていいのか、本当……」
妖精の体を奪ったのは、剣である少年にとって本意ではない。切り落とされた羽を取り戻し、妖精を元の姿に戻すつもりだった。
しかし何事も楽しむ性の妖精という生き物は、羽を見つけた時には既に、現状に適応し切っていたのだった。
今でも少年は、ペンダントとなった羽飾りが望むなら、すぐにも躰を返す所存なのだが、
――師匠こそ遠慮なくオレの体を使うっスよ! 剣の寿命、カツカツじゃないスか師匠!?
「……多分、レンの命はレンのものだから、オレのものにはできないよ」
魂の在処は剣である少年は、妖精の体を完全に乗っ取ることもできない。剣が蓄えられる力だけが命の源であり、剣を遠くへ手放すとすぐに無力化し、意識を保つこともできないのが現状になる。
「記憶の管理も力の制御も、剣がしてるから、オレにはできないことも沢山あるし」
剣に宿った魂の少年は、声無き声を発する羽飾りの意識を直接感じ取っている。他の者にその声は聞こえていない。
それはこの少年特有の、五感が及ぶ範囲の現状を汲み取れる直観という知覚で、それで少年は常に多くを感じながら動いていた。
――そっスね。キラ師匠は剣になる前のことも覚えてるぽいっスけど、師匠は今もその辺、曖昧なままなんすスよね。
「この躰と今の制御方法じゃ、読める記憶はこれが限界みたいだ。剣の力を多く使えば、オレもキラに戻れるけど……」
普段は金色の髪と紫の目でユーオンと名乗る少年は、時により銀色の髪と青い目でキラと名乗る姿に変貌することがある。省エネで弱小な金色の髪の少年に比べると、銀色の方はかなり強い力を使えるが、それは剣に大きな負担を強いて命を削る状態だった。
――どーせその状態なら、都合の悪いことは全部読み込めなければいーっスのにねー。最近の絶食師匠、痛々しくて見てられないスよ?
「……」
元々非常な小食の少年は、先日に義理の妹と呼べる存在を失った。それから全く食事が摂れなくなっていたのは周知の事実だった。
約一年前に、少年は羽飾りの妖精の体を使い始めた。瀕死状態で目覚めた少年を保護した養父母が、元々連れていた人間の養女がその妹分で――常に危うげに、明るく笑う瑠璃色の髪の娘だった。
絶えない微笑みの裏に、妹分は昏い呪いを抱えていた。少年はそれを直観で気付いていたが、最終的に妹分を追い詰めたのは、それを隠したかった妹分の闇に気が付いた自分だった。
――んなこと常に考えてたら師匠、まじ死にたくなんねースか? オレには真似できねっス!
「……別に、考えたいわけじゃないんだけど」
少年の直観の基盤である五感は、付近のことも我が事と感じる故障品と言える。誰かの痛みや嘆きを映すのは、少年には長く当たり前だった。
――師匠の直観、無いと不便だけど、あっても相当諸刃の剣っスよねー。ああでも、無いとオレとお話もしてもらえないっスね~。
「無いのは困るよ。たまに何も観えない時もあって、どうしたらいいかわからなくなる」
あまりに多くを感じ、自身と他者の境界が曖昧な少年は、未だに直観以外の判断基準が持てない状態だった。
そうした様々な枷の中、それでも必死に少年が生きてきたのは、ある一つの願いのためだった。
「でもレンとは、エルも話はできるだろ?」
その少女は少年の実の妹だ。少年と同様、遥か昔に、本来の体は亡くしている。
けれど少年は、本当はその妹を助けられたはずの小さな宝を持っていた。その宝を妹に返すために、妹の魂が宿る秘宝を探せるまで長い時を待った。
――そっすね、エルりんマジ可愛いスよねー。生き返らせてあげれて良かったっスよね~。
「それもラピスのおかげだけど……ラピスがオレとエルを助けたいって思わなきゃ、今のオレ達はいなかったんだ」
少年達のことを知った義理の妹分は、昏い呪いの中で最後に消えることを願った。その望みは少年の助けになること。それを感じていた少年は、実の妹がこの現在で生を得る依り代に、妹分の体を使う結果となった。
「オレが拾われなければ……ラピスは多分、消えない道を選ぶことだってできたんだ」
実の妹を助けるためだけに長い時を越えてきた少年は、結局、妹分を利用したも同じだ。
消えることを願いつつ――常に危うげに、明るく笑う瑠璃色の髪の娘だった。
一通り中庭を探索した後、カフェテラスが設えられた場所に腰掛けた。暗く澱む夕焼けのような空を、無表情に見上げる。
「魔界って……もっと暗いのかと思ってた」
その空を作る毒々しい紅い太陽は、魔の海と言われる世界には本来無かったものであるらしい。
――魔王さんぱねーっすよ。このせいで魔界の魔物も悪魔もかなり減ったらしいっすよ。
世界の軸をねじ曲げて、そんな太陽を出現させた魔王は今は滅んだという。
それからは非常に不安定な情勢という魔界へ、ある者のために、少年はここに来ることになった。
「……オレに本当に、できることはあるのかな」
少年を伴ってこの世界に来た養父の目的を、ある程度は理解している。
それでもこれから彼らを待ち受けている試練を、おぼろげに予感していた。思うのはただ、紅い空の下に来る前に見た、温かな赤い空だった。
+++++
貴賓の女性のこの城は、荒野の一角、魔界では小さい方の砦になる。
少年の養父母と縁戚関係の悪魔の隠居先で、少年が本来いた世界によくある建物、教会という建物を大きくしたような城だった。
少年を魔界まで連れて来た養父は、それより先に「花の御所」という場所に立ち寄った。彼らが元いた世界「宝界」において、現在は世界地図の中心にある島国「ジパング」の、更に中心地である「京都」という街の中だ。
「……え。オレは、外で待ってるのか?」
「ああ。青の守護者とは二人で話させてくれ」
「花の御所」は風雅で多くの貴賓が住まっている。京都の管理者の一人である公家の男を訪ねて、暗い青系の珍しい和装で、養父は少年と連れ立って御所の門を叩いていた。
「時間も遅いし、話をややこしくしたくない」
人目を忍ぶように、薄暗い黄昏時に公家を訪ねる約束を申し入れていた。
ジパングでは異国者になる養父――彩の無い灰色の眼と、前髪の一部が黒く染まる灰色の短い髪の男は、少年に難しい顔で言い含めていた。
「ユーオンが世話になった礼だけじゃなく、人形事件の顛末や、行方不明の黒の守護者のことも話しておかないといけないしな」
昨秋からこの仲春まで、養父母が仕事で不在の間、少年は偶然この御所に身柄を引き受けられた。少年が御所から出た後にも、感謝と謝罪に上がる余裕も無い事変に、養父も少年もこれまで巻き込まれていた。
「ユーオンは、黒の守護者は自分が殺したと、青の守護者に言うつもりだろう」
「……」
青の守護者と呼ばれている公家。先日敵対した黒の守護者が関わっていた事変と無関係ではなかった。
「厳密には黒の守護者も死んでないわけだし、そもそも巻き込まれたのはユーオンの方だ。青の守護者の仲間を斬ったとはいえ、その負い目をユーオンが持つ必要はない」
「……いいのかな、そんなんで」
「守護者」という、ある筋には名の知れた肩書の公家の仲間、「黒の守護者」。その関係で少年は御所と縁を持つことにもなった。
「話した方がユーオンの気は済むだろうから、俺から事の次第は話しておく」
「…………」
養父は慣れない服装――旧いジパング礼装に近い、前開きの上衣を帯で締める通称「漢服」で、上衣の裾を押さえて少し屈んだ。
「子供のことは、親が責任持って当たり前だろ」
日頃は無愛想でも、養子の少年やその妹には穏やかな顔を見せる。俯く少年に、養父はそうしてただ苦く笑いかけたのだった。
それから程無くして、御所の内へ少年と養父は迎え入れられた。
正装のようでいて旧く、袖を捲り上げたり、いかにもチグハグな異国人の養父が、少年を一時保護してくれた公家と話をしている間に。
勝手知ったる場所とばかりに、少年は一人でふらりと姿を消していた。
「……やっぱり袴で来た方が、御所の色に合ってたな」
袖の無い黒衣が基本の少年は、この御所で生活した時から、黒でシンプルな長い下衣の上に、日中は紫の袴を身に着けるようになった。
魂である剣を手放せないので、その方が帯剣に便利でそうしていた。しかしその必要はつい最近、養父の旧い仲間の助力で無くなっていた。
一応正装の養父とは対照的に、いかにも異国人の身なりで御所を訪れた少年だった。
上腕に留めて、背中を覆うシンプルな白い外套と、膝丈まである白い腰巻を今は身に着けている。他には左耳の黒い装具と左腕の黒いバンダナに、左手に腕時計のように巻いた羽飾りと紐付きの鍵がある程度だ。
そうした身軽な恰好で、不遜にも少年は、養父を待つ間に御所の瓦の屋根に上がった。ちょうど赤く焼け始めていた夕空をしばらく、一人でぼけっと座って眺めていた。
身動きせずに夕焼けを眺めて、座り込んでいた少年。
そこへ物音一つ立てずに、その赤い髪の娘は自然に現れていた。
「……剣はどうしたのよ? ユーオン」
「……――」
まるでそれは、空から降り立った小鳥のように。
「……ツグミ」
少年はただ、懐かしい相手の名前を呟く。
鶫と呼ばれ、夕焼けより赤い髪の娘は、肩にぎりぎり着くかどうかの髪をさらりとかき上げた。気の強さと気品を備える大きな黒い目を不服そうに細めている。
座り込んで空を見上げる金色の髪の少年と、少し離れた所で佇みながら尋ねてきた。
「せっかく来てるのに、誰にも顔も見せずに帰るつもり?」
「……」
一人で夕焼けを眺めている少年に、薄情者と言わんばかりだ。この赤い髪の娘は、少年が滞在した頃に剣を習っていた師の娘で、また兄弟子の従妹でもある。
公家や剣の師のみならず、仲良し子供組と言えた娘、兄弟子とその弟に挨拶一つない少年を、複雑そうな目でじっと見つめる。
少年は無言で、穏やかな無表情の紫の目で、夕陽を背にする娘を眩しく見上げた。
少年がそうして無言なので、娘の方から不機嫌そうに口を開いた。
「びっくりしたわ。ユーオンのお父様、本当にユーオンそっくりなのね」
「……」
「ラピからそっくりとは聞いていたけど……でも、血は繋がってないのよね?」
本来この赤い髪の娘と従兄弟の二人に、後一人仲良し組の友人が、少年の義理の妹分と幼い頃から友達関係だった。しかしその養父には、娘達は会ったことがないようだった。
だからこの娘達と顔を合わせれば、消えてしまった妹分の名前が出るのは避けられないことだ。
「…………」
そのため一人、誰にも会わずに屋根の上に逃げていた少年は、穏やかに苦笑いながらようやく言葉を濁して返した。
「ラピスもオレも、レイアスやアフィとは、全然違う生き物だと思う」
まずもって、基本ただの人間だった妹分と、かなり強い化け物である養父母と、化け物としては普段は弱小そのものの少年は誰もが違う。
ヒトの姿をしながらヒトならぬ力を持つ、千種を超える化け物がいるこの世界で、それぞれ違う様相の生き物だった。
覇気なく答えた少年に、赤い髪の娘が要領を得ない顔で両腕を組む。
「それは何となくわかるけど……でも、あのそっくり具合じゃ、ユーオンを新しく養子にされたのは無理ない気がするわね」
「……」
養父母は六年前に人間の妹分を養子とした後、昨春に瀕死の少年に出会うまで、新たな養子を持つ気は無かったはずだ。それは少年も重々感じていた。
「ユーオンも他人の気、しないんじゃない?」
少年がそこまで養父に生き写しであることを、常々妹分は、隠し子説を持ち出して少年をからかうほどだった。
「……うん。正直、ホントの親な気がする」
それは化け物の養父母と何一つ、目に見える共通点のない人間の妹分には、羨ましくもあったことなのだろう。
隠し子だろうとからかわれる度、焦って否定してきた少年は無意識に、妹分の深い孤独を感じ取っていた。
ずっと苦笑うだけの少年に、首を傾げる娘からはいつしか、不機嫌さは跡形もなくなっていた。
「ユーオンがそう言うなら、多分そうなのね」
普段の金色の髪の少年は記憶喪失で、拾われる以前のことを覚えていない。それが「ホントの親」と口にするのは余程であると、納得したように娘が頷いていた。
現状把握に優れる勘の良さを持つ少年を、呪術師である赤い髪の娘は、少年がこの御所にいた頃からおそらく一番実態を掴んでいた。少年とは少し違う方向性の、強い感受性を持つ娘だった。
「ユーオン……本当に、元気無くない?」
「……」
金色の髪の少年は、元々そう喋る方ではない。よくわからないので少年は、夕暮れの中で力無く笑う。
「……オレ、そんなに何か変わった?」
この御所に居候し、近くで生活していた頃と違い、娘は困ったように少年を見ている。
「変わったって言うか、元気無い」
「ツグミはいつも、ヒトの心配ばかりだ」
「何でよ。私そんなにいい人じゃないし」
アンタが危なっかしいだけでしょ、と、目を逸らして怒った風な娘だった。
「……」
どうやら反応を待っているようなので、素直な思いを少年は口にする。
「誰にも、会う気はなかったけど……でも、ツグミに会いたかった」
だから嬉しい。と、平和な気持ちで微笑むと、
「――って、そういうことじゃなくって!」
何故か娘は赤面して更に戸惑ってしまった。話を逸らすための勢いで質問してくる。
「ずっと留守にしてたけど、人形事件とかの問題は解決したの? もう剣はいらないの?」
そうしてあまりに近況を語らない少年に、訊きたかったらしいことを口にした。
「…………」
娘が今までそれを訊かなかったのは、訊いてほしくない少年を無意識に感じていたのだろう。少年は少し目を伏せて、話せることだけ話し始める。
「剣は、レイアスの仲間に小さくしてもらった」
ほら、と、左手に巻く羽飾りの付いた鍵を見せる。娘が目を丸くして黒い視線を向けた。
「特殊な力で、道具を携帯型にするやり方があるのは知ってるけど……見事なものね……」
最早装飾品にしか見えない仕様の剣に、大きく感心しているようだった。
「解決って言うと――オレが誰なのか、もう探さなくても良くなった」
「え?」
「オレの宿題は終わったってさ。後は、採点できる奴を迎えにいくだけだ」
実の妹を少年はこの世に還すことができた。そのためだけに長い時を待ち……残った問題は一つ、彼らの母たる人物が、「魔界」という所から帰れない状況らしいことだった。
「それならまた、何処かに出かけるの?」
「うん。いつ帰るかは、今はわからない」
養母である者にも、実の母たる縁を少年は感じていた。だから実の妹にもその相手が必要だと、養母を助けたい養父への同伴を迷いなく決めた。
つまらなさそうに一つ、赤い髪の娘が息をついた。
「じゃあ、今度帰った時には……ユーオンが誰なのか、訊いてもいいの?」
赤い空を背に尋ねる。少年はただ、黙って頷いた。
それから程無くして、公家と話を終えた養父と合流し、娘以外の誰にも顔を見せずに花の御所を後にした。
後に金色の髪の少年は、自身でありながら得られない記憶を持つ銀色の髪の少年のことの一端を、紅い空の下で羽飾りから聴く。
――キラ師匠曰く、師匠パパは遠―い前世で、エルりんにぶち殺されたらしーっスよ?
「……そんな相手を、レイアスは助けたのか」
少年の実の妹がこの現世に還れたのは、体をくれた妹分だけではなく、養父の存在が不可欠だった経緯があった。
――師匠パパも師匠達のこと、子供だろーなって、わかってんじゃないスかね。記憶は無くても、師匠パパも何か妙な眼持ってるっぽいスし。
養父の仲間に言わせれば、養父は「心眼」という、「力」を視て「力」に介入することができる特技を持つらしい。それこそが少年の持つ小さな宝の力を引き出し、実の妹を助けてくれた養父の特殊性で……力の繋がりがあるのならば、見知らぬ相手の縁を判別できる彩のない眼でもあった。
既に暗くなってしまった空の下で、京都を出るために連れ立って歩きながら、灰色の眼の養父が僅かに俯く。
「すまないな……ラピスがいなくなってから、ユーオン自身差し迫ってる状態なのに。その解決策も見つからない内に、魔界なんて所に連れていくことになって」
「……それは、ラピスのこととは関係ないだろ」
そうか? と養父が、小さく顔を顰める。
「オレは、凄く昔から生きてる剣なんだから。とっくに寿命が尽きてておかしくないのに、ここにいることの方が奇跡なんだ」
養父も今では、少年の正体をある程度把握している。だからその身の窮状を少年は素直に伝える。
「忘れっぽくなったのも本当は……ラピスの影響じゃなくて、オレ自身の限界なんだし」
「……」
妹分は「忘却」という「神」を宿した人間だった。その妹分が消える前も、消えた後も様々な記憶の支障を来たしている少年に、養父は強く眉を顰めていた。
R2:悪魔というもの
花の御所に挨拶に行った直後に、少年と養父は、養父の旧来の仲間が造った異世界へ渡れる不思議な装置を使い、魔界という紅い空の下に来ていた。
「紫雨君? 何か質問あるかしら?」
「――え?」
大きな教会のような小さな城の主。義理の祖母という悪魔の女性の元を、まず養父は少年を連れて訪ねていた。
「ここから先、火撩君とは別行動になるけど、紫雨君は一人で大丈夫なの?」
悪魔の女性から最新の情報を得た養父は、その後は単独行動をとると少年も聞いていた。それで悪魔の女性と共に、養父の出立を見送りに出た。
「くれぐれも、ユーオンのバックアップを頼む、マヤさん」
「ふふふふふ。その代わりちゃんと、うちのバカ旦那とバカ息子探してね、火撩君」
後、ちゃんと真名以外で今後は呼びなさい、と、悪魔の女性が養父にも少年にも言いつける。それ故女性は、少年と養父をジパング名で呼ぶ。
「くれぐれも紫雨君も、悪魔や天使、神とかそういう相手には簡単に名乗っちゃだめ。弱みを捉まれる可能性があるだけで、いいことなんて無いんだから」
「ふーん……」
「ユーオンや俺には特に、真名に意味なんて無いけどな。それでもか?」
「無いように見えてあるかもしれないでしょ。それに人間の世界ですら、魔道を学ぶ者には常識のことよ、これって」
「……じゃあ、マヤのことは何て呼ぶんだ?」
首を傾げる少年に、悪魔の女性は綺麗に微笑むと、
「私はいいのよ。私程の上級悪魔になると、誇示した方が自分の力を示すことになるから」
その余裕が持てる程でなければ、名は隠せ、と改めて説明する女性だった。
そうしたわけで少年と養父は、滞在登録をしているジパングの登録名――養父は「棯火撩」、少年は「棯紫雨」を仮の呼称として、しばらく使うことにした次第だった。
「『銀色』君は、『時雨雲英』で良いのよね? まだ会ってないけど、会えるのが楽しみだわ」
一時期は身元不明で「花の御所」に保護されており、それで登録名が二つある少年は、二つの意識をそれで呼び分けようと決められていた。
紅い空の下では、昼夜の空の変化がない。悪魔の女性の城における、最上階の広いバルコニーで、養父は大きな飛び蜥蜴といった獣を横に、女性と今後の相談を続ける。
「この後は紫雨君を、私からの使者として、西のアスタロト城に送ればいいんでしょ?」
「ああ。マヤさんの関係者ともなれば、そうそう危害を加えられることはないと思うが……」
「改めて確認するけど――アナタ達の目的は、聖魔アスタロトとして悪魔化させられ、今はアスタロト城を守る『棯流惟』……真名はティアリス・アースフィーユ・ナーガを元に戻して、宝界に連れ帰ることでいいのね?」
真面目な顔で取引内容を言う女性に、養父が頷く。
「飛竜」と銘打たれる、養父の力。もう一つの体だという灰色の巨獣は、少年の方をずっと心配げに見つめ続けていた。
それじゃあ、と――灰色の眼の養父は飛竜で飛立つ直前に、少年に改めて同じことを伝えた。
「アフィのことはすまないが、ユーオンに頼む。俺は外堀を埋めるために、代わりのアスタロトを探してくるから」
「……わかってる。自信はないけど頑張る」
養母がそもそも「魔」と化してしまった時、養父は単身、できる限りを尽くしたようだが、その眼を以てしても引き戻せなかった相手。一度魔界を引き上げた養父は、現状把握に優れた少年の直観を必要とし、人形事件が終わった後にここまで連れて来たのだった。
飛竜の背から養父はただ、きつく顰めた表情と硬い声色で口にする。
「アフィがまだ戻れるかどうか、戻れるならどうすればいいか、それだけ近くで観てくれればいい……くれぐれも無理はするな」
今やその連れ合いに近付くことも許されず、守るべき養子に危険を冒させるしかない養父の苦悩は、少年が思うよりずっと大きいようだった。
もう半年は会っていない、一年以上前に少年を拾ってくれた養母。
少年が覚えている姿は、無愛想な養父とは対照的に、常に温かく微笑んでいる。いつもそっと養父の傍らに在った、鋭い美貌ながら童顔の女性だ。
「…………」
元よりその連れ合いは、「魔竜」という資質を潜在させていた。だからこそ「魔」に囚われ易い適格者であることを、養父はずっと知っていた。
少年の脳裏には、ただ少年に笑いかける、空のような青い髪と目の養母の声が響く。
――ラピスと仲良くしていてね、ユーオン。
今思えば、養母は一度も――
妹分を守れとは、少年には言わなかった。
「いいか。ユーオンは必ず、自分の身を守れ」
「……」
紅い空に飛び立ち、段々と遠ざかる養父を、見えなくなるまで少年は黙って見送っていた。
無茶言うわねぇ、と。
灰色の眼の男の姿が完全に見えなくなったところで、悪魔の女性が嘆息しながら言った。
「こんなボロボロの子を魔界に連れて来て、自分で生き残れなんて無責任過ぎるわよね? ちょっとは怒ってもいいのよ、紫雨君」
「……何でマヤが怒るんだ?」
バルコニーから城の内へ戻りながら、少年は不思議だった。戻った客間で長椅子に気楽に座り、向かいに座る女性を見つめた。
ふう、と女性は呆れたように笑う。大理石の机で氷に漬した酒瓶を取り、酒杯に波々と中身を注いで少年に手渡してきた。
ところで――と。翌朝には西に起つ少年は、女性の酌が進んだ所で、朝から気になっていたことを口に出した。
「中庭で女に会ったんだ。黒い髪で黒い服の……緋い色の蛇を連れた、鳥っぽい奴に」
それは本当に、不意に過ぎた出会いで――
少年は今も、その状況をどう扱っていいかわからないでいた。
「ああ。橘ん所の鴉夜ちゃんね」
来てたのね、と女性は、侵入者を咎める様子もなく酒杯を空にする。
「うちのバカ息子が引っ掛けた神様かぶれよ。バカ息子が失踪する直前まで一緒にいたコで、橘があのコを養子にしてくれてるおかげで、許嫁にするまでこぎつけたんだけどねぇ」
悪魔の女性の言葉には様々な含みがあったが、その内実までは少年はわからない。
――あれはカラスさんっス、師匠! 本来悪魔は勝手に嫁とか決めるなってことが多いんスが、この家は概念の裏をかきまくってるっス!
「……マヤの名字も、タチバナだよな?」
単純に不思議なことについて、少年は、マヤ・橘・フルーレティと名乗る女性に問い返す。
「私は橘家に嫁入りしたと思って。橘は元々『バール』の地界お遊び用の名で、私の旦那は前『バール』と『アスタロト』の嫡子で、でもどっちも継がずに名前だけ橘を名乗るようになったのよ」
そして「棯」はアスタロトの家に当たるらしい。ぺらぺらと口が軽くなった女性は確実に悪酔いしていた。
「ま、旦那がどっちかを継いでたら、私も旦那の嫁にはなれなかったけど。お互い、家を継がなかったから自由なわけで」
――『バール』の嫁は『アスタロト』と昔から決まってるっス。だから師匠ママも今は、『バール』の嫁にされてるはずっス。
「鴉夜ちゃんは新しい世襲外の『バール』の養女で、だからうちの息子と鴉夜ちゃんは、男女逆の『バール』と『アスタロト』なわけ。全くもう、あんな可愛い許婚をほっといて、何処ほっつき歩いてるのよバカ息子は!」
「……何て言うか……」
そこはどうでもいいんだけど……と、少年はすっかり酔っ払った相手を前に酒杯を空けていくことしかできない。
「じゃあアフィと、その新しいタチバナは夫婦扱いなのか?」
「そーなの、だから火撩君は出入り禁止なの。私情はどうあれ、そういうことにしないと駄目なの」
――ほらね、悪魔も色々大変なんスよ、師匠。
「…………」
この手の話が大好きらしい羽飾りは、実に楽しそうだったものの、少年が思うのはひたすら、その黒い鳥との突然の再会への衝撃だった。
――炯!? と。
悪魔の女性の小さな城で、中庭をふらふらしていた少年の前に、突然その黒い少女は降り立っていた。
「……え?」
「あ――……」
金色の髪の少年を真正面から見た黒い少女は、探し相手とは顔が違うことにすぐに気が付いていた。
「……ごめんなさい。姿と気配が、探し人に少し似てたから」
一瞬、少女の背後に大きな黒い翼が見えた。黒い少女は左上で一部を結った黒い髪を鎖骨の上で僅かに震わせ、鋭い黒の目を拙く伏せていた。
襟口が広く高い襟に短い袖の上衣と、短い下衣は全て暗い色の出で立ちの少女は、黒い少女としか言いようがなかった。
「ここは探し人の実家だから、早とちりしてしまって。驚かせて悪かったわ」
ポカンとしたままの少年に、凛とした顔でも申し訳なさそうに呟く。黒い少女自身、大きく動揺していたことが少年にも伝わる。
負けず劣らず、少年もかなり動揺していた。
――……オレ、は……。
俯く少女を黙って見つめる。少年の髪は、今にも銀色に染まりそうな勢いだった。
――こいつのこと……絶対に、俺は知ってる。
その内実までは、金色の髪の少年にはまるでわからなかった。けれど「銀色」にはわかっているだろう、とそれだけ感じていた。
「……アナタは全く、悪魔には見えないけど。どうしてこの『フルーレティ』の城に?」
「……」
その黒い少女に羽飾りには、心当たりがあるようだった。
――おおお! 何故にカラスさんがこのような所に!?
後で訊いたところによると、以前に旅芸人の護衛をしていた羽飾りが属した一座の、臨時の花形ということらしい。
「オレは……ここの主人の義理の曾孫だけど」
「そうなの? ということは、春日家のヒト?」
いや……と否定する。不意に目線を厳しくした黒い少女に、戸惑うように言葉を返す。
「ウツギの家の、新しい養子。一年くらい前から世話になってる」
「なるほど……確かに、初めて見る顔だわ」
春日というのは、養母の実家の姓だ。棯は養父がジパングに登録したが、春日家から指示された姓でもある。
「棯家のヒトは、ほとんど会ったことがなくて。でも……春日家程に無頼漢ではなさそうね」
難しい顔の黒い少女は、今後親戚になり得るそれらの筋とは、良い付き合いではないらしい。
この城の主の親戚ときいてか、少年を探るように見てくる。その黒い少女の背から、突然するりと緋い蛇が現れていた。
「――!」
黒い少女は、こら! と言わんばかりに、隠れていたらしい蛇をすぐに取り押さえた。
「呼び止めて悪かったわ。あたしのことは全部忘れて」
ぶっきらぼうにそれだけ言うと、すぐにまたその場から飛び立つように消えてしまった。束の間の出会いはそうして幕を閉じていた。
「……――」
少年はしばらく、少女が消えていった方角を見つめることしかできなかった。
「……話さなくて、良かったのか?」
何故かそんなことを、自らに問いかけるように一言だけ呟く。
その時から絶え間ない胸騒ぎだけが、常に何処かに残っている状態だった。
「……何だろう、な」
――? 師匠、どーしたっスか?
悪魔の女性との飲み会がお開きとなり、ようやく与えられた客間に戻った少年は、ふらついて倒れ込むように寝台に寝転がった。
「朝のあいつ……何か、ツグミに似てる」
――ほほう? それは例の、師匠の剣の師匠の娘さんですな、師匠よ。
酒豪の女性に付き合う内に、これまでにない酒量を達成してしまった。朦朧とした意識で呟く言葉を、羽飾りはとても楽しげに、普段とは違う口調で訊き返してきた。
――つまり師匠のタイプってことですな。さすが師匠、カラスさんを見初めるとは目が高い。
「……?」
――まーたまた! 確かに師匠師匠の娘さんもカラスさんも、才色兼備なツンデレっぽくて非常にポイント高いっスよ師匠!
「ああ……ツグミもあいつも、いい奴だな」
少年の頭には最早、羽飾りの師匠という言葉ばかりがぐるぐる回り、内容については全く理解できていないまま答えた。
「オレを助けてくれた奴っぽいんだけど……お礼でも言えば良かったかな、せめて……」
今更だな、と自嘲気味に笑う。黒い少女がそんな遥かな、遠い縁は覚えていないだろう、と当然わかっていた。
――そうっスね、次にもし会えることがあれば、今度は連絡先をきくっス師匠! オレは玉砕したけど、師匠は可能性ありと見た!
「……また、会うのかな?」
――それを願うっス! 何せ師匠師匠の娘さんとは、魔界じゃ会えないっスからね!
そっか……と少年は、朦朧としながら眠気はない妙な意識の中で、
「覚えて……いられたらいいけど……」
一見特におかしな所はない少年の、確実な窮状を、静かに口にした。
現状把握に優れた直観を持つ少年は、常に相手を感じながら遣り取りをするため、相手の意図や記憶と大きく外れない会話ができる。
それでも翌朝、少年と連れ立って居城を出た悪魔の女性の問いには、すぐは答えられなかった。
「やっぱり……君、昨日の話はほとんど覚えてないでしょ」
「?」
女性は金色の髪の少年に、約束のことは覚えているかと尋ねた。
「同じことを訊けば同じ答を返すだろう新しい事柄は……もう君は、一時記憶以上に覚えないようにやり繰りしてるのね」
「……ごめん。マヤと大事な話をしたのはわかるけど、内容は覚えてない」
「結論が出ていれば――約束をしていれば、多分覚えてくれたんでしょうけど」
一見、酒の上での話は覚えていないと、それだけの事柄に思えるものの。
「覚えることと覚えないことを分けているのも、『銀色』君なのかしら?」
「……多分、そうだと思う」
少年の養父から情報を得ていた女性は、その少年がここ最近は、とにかく新しいことをあまり覚えられないこと。それを持ち前の直観でカバーしながら日常生活を続けていると、不思議な窮状を知っていた。
宝界でも方々に存在する、旅の距離を縮めるワープゲートを目指し、少年と女性は紅い空の下、荒野で砂埃を上げながら歩みを進める。
「君が覚えなかったことも、『銀色』君なら覚えているの?」
「前はそうだったけど……最近は違う」
羽飾りの説明でわかったことだ。今では余程必要なことでなければ、銀色の髪の少年も覚えないのだという。
「覚えなきゃいけないことは、銀がレンに言っておいて。銀が忘れてたらレンが教えてくれるか、オレが覚えろってレンが言うよ」
「ということは――紫雨君の方がまだ、覚えられるの?」
こくりと少年は、本来少年より多くの記憶を持つ「銀色」との逆転に頷く。
「銀が覚えてなくても、オレが覚えてることは……レンは、少しずつ増えてるって言ってる」
「……便利な招魂が近くにいて良かったわね。要するに君は、躰や心ではなく、魂の寿命が近いということかしら」
それは通常の老化でなく、精神の維持――魂の力が必要な「記憶」に、少年は支障があるという。
「元々、躰や心も拙い命でしょうに」
「それはオレの場合、少ないけど補給できるから、空っぽにならなければ大丈夫らしい」
なるほどね、と、悪魔の女性が大きく溜め息をついた。
「それは自然の化生の君の利点でしょうけど。この世界では……それすら危ういわね」
ワープゲートを駆使し、二時間もしない内に目的の場所に辿り着いた。
不精と怠惰を司るという悪魔、アスタロト。魔界の三本柱という有力者ながら、畏敬の念には遠い概念の者の城に踏み入る前に、別派閥の上級悪魔の女性は少年に助言した。
「私からの派遣者は、剣の精霊の『紫雨』と、部下の『雲英』の二人と申し入れるわ。アナタはだから、人目がある所では『銀色』君には変わっちゃダメよ」
「……わざわざ自分が、別人のフリをするのか?」
「せっかく二つの気配と姿を持つ君だもの。その方が身動きがとりやすいはずよ」
少年は、左腕に巻く黒いバンダナを頭に着けると、銀色の髪で赤い目の、顔に加えて気配まで変わる呪いを持っている。
「バンダナを着けた雲英君は、危ない橋でも好きに渡っちゃいなさい。代わりに普段の紫雨君は、いつも優等生にしてるの」
「……?」
「何かあれば雲英君の責任にして、送還するということで決着をつければいい。それまではやりたいことがあれば雲英君の姿で、君は好き放題にすればいいの」
「……昨日の内にそんな策まで立てるなんて、真夜は本当にいい奴だな」
ポカンとする銀色の髪の少年に、ふふと女性は楽しげに笑った。
「こういう荒事――じゃなかった、お仕事大好き。血が騒ぐのよねー」
更に懐から、一つの小さな銃を取り出すと、何故か少年にはい、と握らせてくる。
「昨夜の急拵えだけど、君なら私の銃の引き金もひけるでしょう。私の派遣者である証明と、最悪の場合はここに込めた力くらい好きに使って。ただし、月の有無で効果が変わるから注意しなさい」
懐に隠せる素朴で小さな銃は、あまり脅威は少年にはわからなかったが、
「……いいのか? 本当に」
「私のお酒に付き合ったご褒美よ。短い間だけど、楽しかったわ」
それが女性の厚意であることは、まっすぐに感じ取った少年だった。
「リクエストに応えて『銀色』君も最後に、こうしてちゃんと出てきてくれたしね」
「……真夜もつくづく、ヘンな奴だな」
城門の近くで立ち話を始めた女性は、少年に「銀色」化することを望んだ。聞き入れて今まで話していた銀色の髪の少年だった。
「紫雨君の方がうちの息子には似てるけど、君ともまた是非呑んでみたいわ」
「……俺は酒、呑めないけど」
キョトンと戸惑う銀色の髪の少年は、これまでのように、死神の異名を持つ苛烈さは見る影も無い。ただ目前の女性の穏やかさを映していた。
本来なら一瞬で空間を渡る術を持つ女性が、わざわざ少年と二人で短い旅路を楽しんだ、束の間の安らぎをも無自覚にのせて。
これまでいた女性の城とは違う大陸にある、構えも大きく四方を塀に囲まれた重厚な城。見た目はやはり荒野に佇む巨大な教会といった、魔界の西方を支配する悪魔の城にて、少年は想定外の事態に直面する。
「……――……え……?」
同伴する女性の顔の力で、すぐにも城主に謁見できる大広間に通された。
そうしてアスタロトの城を訪れた少年を、残酷に待ち受けていたのは……――
「何――で……」
激しい嘔吐きを抑えて体を強張らせる。口元を塞いで黙り込んだ少年の横で、少年をここまで連れて来た女性が城主に対峙した。
あらあら――と。
広い聖堂のような謁見の間で、祭壇の中心、簡素ながら荘厳に設えられた大きな玉座上に城主はいる。軽く膝を抱えて高い背にもたれ、子供のようにだらりとしている、黒ずくめの養母の姿があった。
「これはこれは。随分お久しぶりですこと、フルーレティのお婆様」
空のような青の長い髪の養母は、無造作に髪を下ろし、目の色が少年の知らない青白色に染まっている。額と頬には黒い蛇のような刻印を施され、以前の養母からは考えられない不敵な顔で微笑んでいる。
「貴方にお婆様と呼ばれる筋合いはないわね。貴方が本物のティアリスならともかく」
「あら、それはどういう意味かしら?」
「さぁねえ? 私にわかるのは、貴方はただティアリスと同じアースフィーユという者で、『竜の墓場』を拠点とする古の種、ナーガの名を冠することだけだし」
多くの衛兵に囲まれながら、全く落ち着きを失わない女性には、少年の背中をぽんぽんと叩いてくれる余裕すらあった。
しかし少年が衝撃を受けたのは、そうした養母の変貌ぶりではなく――
ところで、と、女性が玉座の城主の膝に目をやった。
「それは新しいペットかしら? 貴方が身に纏うべきは、アスタロトたる蛇でなければまずいんじゃない?」
城主の恰好は露出が多く、体にぴったりとした黒い礼装で、足のスリットから妖艶な生肌が覗いている。その膝の中に、薄い琥珀色をした小さな狐らしき何かが、丸まって寝ていた。
……少年は、ただ、何故――と。
薄い琥珀色のそれを凝視しながら、震える声で……有り得ない現実を拙く声にした。
「ラ……ピ、ス……?」
玉座の城主は、可愛いでしょう? と、何一つ悪びれもせずに、膝の上に眠る琥珀色の仔狐を撫でながら無邪気に微笑んだ。
「この仔は親戚が最近手放した召喚獣なの。私が預かっているけど、今は飼い主募集中よ」
「あらそう。私はてっきり、貴方自身の力、生まれたての招魂かと思ったわ」
「嫌ね、お婆様。確かにこの仔にはほとんど力はないけど、れっきとした獣でしょう? ちゃんと由緒ある存在なのよ」
……と、連れの女性は呆れたように、玉座の城主を見下ろしていた。
「親戚の召喚獣ねえ……よく言うわよ」
ずっとわけのわからない少年を置いたまま、二人の女が応酬を続ける。
「お婆様はご隠居の身なのに、余計なことに関わられない方が良いのではなくて?」
「そう? 何が余計なことか、貴方とサシで話をつけたっていいのよ。お互い聖火を宿す身だし、遠慮はいらないわ」
まさか、と玉座の城主がくすりと笑う。
「お婆様の目的は何かしら? 別にわざわざ喧嘩をするために来たわけじゃないでしょう?」
「……」
隠居中の悪魔の女性も、そこで戯れは終了にしたようだった。
「貴方が本当にアスタロトに相応しいかを、しばらく観察させてもらうわ。私自身はもう隠居の身だから――私の腹心を、貴方の下に派遣することにしたの」
女性がぽん、と少年の肩を軽く叩く。俯く少年の髪は銀色に変わりかけていたのが、何とかおし留まった。
「これはフルーレティでなく、アスタロトの祖母としての意志よ。お解り?」
「なるほど。我が城の行く末を懸念なさって、ということでよろしいのね」
それなら断る筋はない、と素直に玉座の城主は頷いていた。
「……――」
その後はただ、金色の髪の少年に綺麗に笑いかけた玉座の城主を、少年は睨むことしかできなかった。
R3:「招魂」
フルーレティという悪魔の派遣者として、少年は一人で城に残った。客人棟だという上層階の一角に迎え入れられた。
「もうひとかたの部屋はどうされますか? 別に用意致しますか?」
「……キラはオレの招魂だから、一緒でいい」
「招魂」というのは、少年の剣と共に在る羽飾りもそうだ。悪魔の女性曰く、「魂魄のみ」の存在をそう言うらしい。
――師匠のバンダナもオレと同じ、招魂……の媒介と、確かに言えないこともないっスね。
少年の気配と顔を別人に塗り替える呪いは、そこに昔日の呪いの主の残滓があるからだという。招魂という身分を偽装する、銀色の髪で黒い羽を生やす少年は、バンダナで半ば隠れた目に赤い光をたたえる「キラ」だ。
世界の化け物の力の中には、特に大きな力の一つとして召喚獣という、「力」だけが大いなる獣の形で使役される神秘がある。その正体こそ、元は強い力を持った化け物の魂だけが残り、何らかの媒介の魄を得て現界可能となった、滅びた化け物の招魂ということだった。
剣の羽飾りにある刃の妖精の魂たる羽を得て、少年が刃の精霊として力を使えるようになったのも、同じ理由であるようだった。
――ま、言わばオレは、師匠に使役される妖精。獣の由緒はないから召喚獣でなく招魂っす!
魔に染まれば使い魔っス! と羽飾りは笑う。
そんな話を、客間から出て階段を上る少年が必死に己に刻み付けるのは――
その先にある少年の目指すものが、まさに招魂という存在だからだった。
「何で……あいつが……――」
目標に近付く程に強まる、否定しようのない確信の直観。バンダナの下で赤に染まる青の目を少年は歪ませる。
「何でラピスが――……ここに、いるんだ――」
最上層に辿り着くと、部屋は一つしか存在しなかった。
おそらく最も賓客を迎えるための客間の前に、少年は黙って立ち尽くした。
現状把握に優れ過ぎた少年は、鍵はおろか、罠の一つも扉には無いことをあっさり看破する。躊躇わずに扉を静かに開け放った。
――……あら、あらら。
部屋に立ち入り、わかっていたはずなのに呆然としてしまった。
――ラピ子ちゃんが……ラピ狐ちゃんに?
同じように当惑はしながらも、何処か不敵な楽しさすら窺わせるように、羽飾りが呟く。
「……――……」
声を呑んで寝台を見つめる。そこにいる化生が不思議そうに、黒いバンダナを着ける銀色の髪の少年を見返してきた。
「……?」
広過ぎない寝所の広い寝台で、薄い琥珀色の獣の耳を生やす者が座っている。肩までの白い髪で紅い目の娘が、ポカンと少年の方を見ていた。
警戒はしても抵抗はしない。白い娘は、少年に近寄られても身動きしない。
「何で……こんなこと、するんだ」
少年は省エネの金色の髪に戻ると、第三者へとようやく言葉を発していた。
あらら――と。
少年からの声かけに、ただ状況を見ていた誰かが、笑み混じりの嘆息と共に姿を現した。
「久しぶりに会うおかーさんへの、第一声がそれ? 可愛い息子ちゃん」
気が付けば、養母の姿をした誰かが、寝台の内でごろりと肘をついて寝そべっていた。
「……オレは、あんたのことは知らない」
にべもなく金色の髪の少年は言う。現れた城主は、相変わらず悪魔の笑顔で少年を見上げた。
「くすくす。それはどーいう意味なのかなぁ、ユーオン君」
「……」
「気にしないで、率直に喋ってくれていいよ? この部屋の結界は特別仕様だからネ」
少年をここに連れて来た悪魔の女性と対峙した時の、妖艶さとはまた違う。子供っぽい口調と表情の養母がそこにいた。
「ここはラピちゃんのためだけのお部屋なの。あたしもよく、てかラピちゃんが来てからは毎日一緒に寝泊りしてるけど、ユーオン君もここでは気を抜いて過ごしていーからね」
「…………」
養母は少年を君付けで、また養女を略した名前で呼ぶことはまず無かった。それはやはり、養母の姿をする誰かとしか、少年は形容することができない。
誰か曰く、鍵はあるが掛けていないこの客間は、誰かの結界に常に守られた状態ということだった。
「ラピちゃん――……今は狐魄って呼んでるけど、狐魄はこの鍵も開けられない赤ちゃんだと思ってちょーだい。だから鍵を閉めるわけにいかなくってね」
その声には予想外に、養母とはまた違った、誰かなりの優しさが一見あった。
少年は振り返らず、肩越しに誰かを見ないままで言う。
「……あんたは、オレやラピス、レイアスの知ってるアフィじゃない」
「ふんふん?」
「そっくりだけど違う。アフィとは全然……本当は関係無い誰かだ」
誰かはその養母の体を、内なる力まで完全に再現している。それ程養母に近いはずの存在ではある。「力」だけを視る養父には、同一人物としか見えなかっただろうことも少年にはわかった。
「アフィと同じ力を持ってるだけの――あんたは誰なんだ?」
「……」
「アフィの体を奪って、ラピスをこんな形で残して……あんたは、何がしたいんだ」
ようやく振り向く覚悟が決まり、少年は厳しくも泣き出しそうな顔で、誰かに必死に対峙した。
「あたしが……誰か、って?」
くすくすと、あくまで楽しげで幼げな誰か。
「あたしは何か――ユーオン君には親近感あるけどねぇ」
寝そべっていた寝台で、片膝だけ立てる形で座り直し、青白く鋭い目で少年を見貫く。
まるでそれは、己以外の誰かの躰を使う、呪われた同志であると言いたいかのように。
無表情に佇む白い娘を横に、少年は呆然と、養母だった誰かの冷ややかな微笑みを受け止める。
「ラピちゃんを生かし続けた悪魔が、最近は弱っていたことをあたしは知ってた」
「――……」
「このコとあたしに同じ力……縁があるのは君が言った通り。だからあたしは、このコに会いに来て伝えたのよ……ラピちゃんをまだこの世に留めたければ、言うことをきけって」
誰かは嘘を言っていない。それがわかる少年は、黙り込むしかない。
瑠璃色の髪の娘の昏い呪いが招いた事態は、少年達だけに留まらなかった現実を知る。
「君の問いへの答は、大体それだけど」
くすりと誰かはそうして、惜しげなく核心を口にしていた。
「付け加えるなら……『私』のことは、魔竜と理解してもらうと早いかな」
「……!?」
言葉の意味はわからないまま、少年は何とか気力を取り戻す。
「何で……オレにそんなことを話すんだ?」
あまりに手放しに真実を教える相手。警戒する少年に、心なしか少し幼さが抜けた誰かは端整に微笑んだ。
「それもこのコの望みだから」
「……アフィの?」
「君達は……このコの怖さをわかっていない」
声色だけは優しげに、誰かは憐れむように、少年と白い娘を並んで見つめた。
「『魔』とはね。望みを叶えるためには、どんな酷いことでもする者が成る末路なの」
「……?」
「狐魄はただの抜け殻で、留める意味なんて本当はない……なのに何故、このコ――『私』は、それを望んだと思う?」
……やめろ、と、思わず少年は反射的に呟いていた。
「君と狐魄はどうやら、相性が抜群みたいね。狐魄にはね、少しでも脅威だと感じるものが近付けば、逃げるように教育していたのよ」
常に目前の相手を、少年は我が身のように感じる。だからその時、養母の姿をする者の変容と、その内の厳しい意図が既に伝わっていた。
今までの幼げな「誰か」とすら、この相手は違う。言わば「魔」としか表せない謎の相手だった。
「君達程に魂の性質が近ければ、何の問題もなく、溶け合ってしまえるでしょうね?」
子供っぽい今までの誰かから、聖魔と名乗る相手に変わった者は、本当に綺麗に、冷然と微笑んでいた。
少年はただ、悟る。
この高次生物という相手には、魂の寿命が近い少年の事情など、とっくに知られていたのだと。
だからその、「魔」という相手は、
「君が狐魄を――食べてしまえば?」
「……やめろ――」
その「魔」の囁きを、養母の躰で叶えようとしている。
「君の妹が、ラピスの躰をもらって……この世に戻ってきたように」
「――やめろ!!」
次は少年を助けるために、娘の魂を利用すればいい。この「魔」はおそらく、そう言っている。
寝台から降りて立ち上がった相手は、少年を見下げるように悠然と佇んでいた。
「その方がラピスも君の力になれて……君の中で生き続けられて幸せだと思うけど?」
悪魔と呼ぶのに相応しい、容赦なき微笑み。少年の横でずっと、無表情に立ち続けていた白い娘の頭をよしよしと撫でてから、その「魔」はくるりと背を向けていた。
「今は私が力をあげれば、狐魄はこうして、ヒトの姿をとることができる」
そのため現在、白い娘の仮の主である「魔」。白い娘がそれを変わらず無表情に見つめ続ける。
「君が狐魄の主になれば同じことが可能で……君が望むなら、狐魄の記憶も還してあげるわ?」
最早答えることもできずに、少年は座り込んでいた。それ以上は何も言わずに、養母だった「魔」は、その養子達を残して去ったのだった。
その城主――アスタロトと名乗る悪魔には、三つの内なる者が在ると、銀色の髪の少年はその時点でわかっていた。
――わたしは、二人のおかーさんだもの。
少年の知る、穏やかな微笑みがよく似合う青い髪と目の母は、ここでは未だ見えることができていない。
――あたしは、ユーオン君には親近感あるけどねぇ。
軽い口調で少年と関わり、仔狐をその姿にした誰かが、主な躰の支配者だった。
しかし少年が、最も警戒すべきは、
――私は聖魔アスタロト……天使たる悪魔。
仔狐をここに留め、虚ろな魂を少年の糧とせんと勧めた「魔」。自ら聖魔を名乗る相手だった。
――え? 師匠ママはそんなにも、中には別人だらけなんスか師匠?
城主との対面後に客間に戻り、倒れるようベッドに沈んだ少年は、バンダナを取ってもまだ銀色の髪のままでいた。
「多分、軽いあいつは狐の化け物で、だから狐魄を作れた誰かで……あの妖狐が、魔竜っていう聖魔を抑えてる。でも抑え切れずに、ある程度は好きに泳がせてる感じだ」
――ははあ……見た目全然違いわからないのに、さすがっスねぇ、キラ師匠は。
「本当は、悪魔でもないんだ、魔竜は……でもその形にする方が、まだマシだったんだ」
最早少年は疲労で目を開けることもできず、枕にうつ伏せに顔を押し付ける。しかし眠りに落ちて記憶を失う前に、羽飾りに情報を覚えてもらわないといけない。
「でも――……ヘン、でさ……」
――?
「夢の中でしか、会ったことないけど……誰も、母さんに……似てないんだ……」
そこまで言うと、少年の意識は、深い闇の中に包まれてしまう。
一時的な記憶を全て闇に還す、意識の途絶。夢という忘我の世界が、また少年を襲う。
今や少年には、その通り現在の己を失う、避けては通れない毎夜の洗礼だった。
――アナタ……誰?
今の己を失う代わりに、遥かな遠い記憶に出会うことが増えた。それは確かに、少年が出会った実の母の声……古い真実だった。
――お願い。このままだとユオンが危険なの。
その黒い髪と青い目の実母は、何故常に悲しそうなのかと問われる程、微笑みを浮かべることは滅多に無かった。それでも強く在った。
最後まで幼い子供達を守ろうとした実の母。それを全く覚えていなかった少年は、夢で知ったある心を決して消さずにここまで残した。
――わたし達のエルフィを……返して!
竜の血をひく実母は、少年を連れ合いに預け、娘を助けるために一人で残った。
しかし思いを遂げることができずに殺された。思えば少年はその記憶に触れて、妹への強い思いを魂の何処かに刻まれた状態だった。
――俺……エルを助けたい……!
そうして長過ぎる時を越えて、何とか妹を助けることができた。
少年も妹も共にその直観で、記憶の中の母と今の養母が、似ていなくとも同じ存在と確信していた。
けれど、魔竜の存在を顕す冷たくて鋭い微笑みが、少年の青い目に再び突き刺さってくる。
――君達は……このコの怖さをわかっていない。
「魔」とは、どんな酷いことをしても望みを叶える者の末路、とその妖狐は言った。
――このコはどんな形でも、ラピちゃんをここに留めることを願ったの。
その声に何故か、温かな養母の声が、不吉な「魔」の声と共に重なる。
――ラピスと仲良くしていてね、ユーオン。
――君が狐魄を――食べてしまえば?
思えばどうして、遥かに時の流れたこの時代で、少年が縁ある養父母にすぐに出会うことができたのだろう。
――君の妹が、ラピスの躰をもらって……この世に戻ってきたようにね。
その上まるで、その養女の存在は――
少年の妹を助けるために用意されていた、と言わんばかりの都合の良さで。
+++++
それからは色々と、多様なトラブルが城内であった。
意識のない内に往診までされたらしい休息の後に、少年が数日後に取りかかったのは、慣れない小さな通信道具――PHSを手に取ることだった。
全く同じPHSを持っていた過日の妹分が、どのようにそれを使ったか思い出しながら打ち込んだ伝話番号は、彼らの養父に繋がるはずのものだ。
「――ユーオンか?」
すぐに応答した若い声。物静かながら強い意思を窺わせる声は、間違いなく養父のものだった。
「うん。レイアス……今は喋れるのか?」
「ああ、大丈夫だ。無事か? ユーオン」
まずとにかく少年の安否を確認する養父に、ううん、と少年は気楽に回答する。
「レイアスよりは大変じゃないけど、色々とピンチだとは思う」
PHSの向こうの、声を聴いただけで、養父の疲れ具合もわかった。養父が何か言葉を返す前にすぐに本題を切り出した。
「アフィのPHSが手に入ったから、オレが今わかってることを言うよ」
こうしてまともに話せる内に、それだけは伝えておかなければいけない。知らず少年は困ったように笑い、無意識にPHSを掴む手に力を込める。
少年は元々、説明が苦手な方だ。それでも自身の思いが誤解なく伝わっているかどうかはある程度わかるため、焦らずにじっくりと現状を伝える。
養母には今、三人の内なる者が存在すること。
養母自身はほとんど浮上せず、自称堕天使――本当は狐魄の親玉である妖狐が一応主導権を握っていること。妖狐に普段は抑えられる魔竜――「魔」である者がいることについて、全てありのままを口にした。
養父は重く考え込みながら、やっと納得がいったように、深く息をついていた。
「妖狐に魔竜か……俺が手こずったのは多分、妖狐の方だな」
「そうだと思う。魔竜の方は最近強くなってきたって、カイムって悪魔が言ってた」
「それでそいつらは、アフィとはどういう関係なのかわかるか?」
何故そもそも、そのような同居人を養母が身の内に置くことになったのか。それも当然、説明しなくてはいけない事柄だが、少年には一番気が重い話題でもあった。
「……妖狐は、アフィと同じ力があるけど、多分アフィとは別人だ。同じだからアフィを選んで、躰を借りてるんじゃないかな」
「……アフィは何故、体を使わせてるんだ?」
養父の当然の問いに、少年は軽く息を吸い、冷静に神妙に答えた。
「そいつ、ラピスの件に関わった堕天使とも言ってた。ラピスはもうすぐいなくなるから、嫌なら体を貸せってアフィに言ったみたいで」
PHSの向こうで、養父が息を呑む気配が、確かに少年に伝わってくる。
「……でも魔竜は多分、ラピスが消えて、アフィが妖狐になってから表に出て来たから。魔竜の方も、アフィが出ないのと何か関係があるんだと思う」
その養女を失ったことを養父は痛み、養母にもどう告げたものかと悩んでいた。
しかしむしろ、男の連れ合いこそ一人で苦しんでいたと――それを知った衝撃で、養父は息を殺して呑み込んでいる。しばらくの沈黙に少年は目を伏せ、黙って待つことしかできなかった。
養父は存外に早く気を取り直し、話を再開していた。
「よくわかったよ、ユーオン。それなら全て、話の筋が通る」
「え?」
「ただ、後一つだけ。それならアフィは……ラピスが消えた今、何のために妖狐を残して、魔竜でも居続けるんだ?」
「……――……」
あまりに理解の早い養父は、少年も知らない何かを掴んでいるようだった。
有無を言わせぬ問いかけに、少年はやっと、少年の苦い現状を養父に告げた。
「……多分……オレのせい、かもしれない」
「……?」
「アフィは――魔竜は、ラピスの抜け殻をまだ留めてるんだ。あいつはオレのことも……そうやって何かの方法で、残そうとしてる」
この城には今、薄い琥珀色の仔狐がいること。それが瑠璃色の髪の娘の残骸だと、包み隠さず伝える。
養父は悲しげにフっと息をつき、少しの間黙り込んでしまったものの。
「ユーオンは――どうしたいんだ?」
「……え?」
さすがに少年は、「魔」が妹分の魂を少年に与えんとしている可能性までは、口にはできなかった。
けれどまるで、その昏い意思に気付いているような養父の問いかけに言葉に詰まる。
「何か方法があるのなら、俺もアフィも……何をしたって、ユーオンを助ける」
「……」
「ラピスのことだって同じだ。でもそれが一番、ラピスを苦しめたのかもしれない……俺は、同じことは繰り返したくない」
だから養父は、少年自身の希みを訊きたい、と言うように静かに尋ねる。
「でもアフィは……違うのかもしれないな」
そしてそれが、男の連れ合いが何も言わず、一人で抱え込んだ因だと知るように口にした。
少年自身は、この先どうしたいのか。
養父は無理に答を求めず、その後は養父の現状と把握事を伝えられて終わった。
「情報はこれだけで十分だ。ユーオンはもう無理はせずに――帰れそうなら、すぐにでも引き上げて休んだ方がいい」
最後にそう言われたものの、今の状況に少年は納得していない。たはは、と現状維持するしか今の所はなかった。
何かあればいつでも連絡しろ、と煩い程に言い含められた。それなのでPHSに紐を通し、腰のケープにぶら下げることにした。
――今度カラスさんに襲われたら、師匠パパの助け呼びましょーや、師匠。
「そうだな。いきなりで驚きそうだけどな」
少年は先日の休息後に、突然城内に現れた黒い少女に、不秩序な「神」として討伐されかける目に合っていた。城主の手回しで何とか助けられたが、話せば養父は無理をしても、この城に来てしまうかもしれない。城にいる間は大丈夫と言っても、養父が悩むのは確実だった。
「多分あいつも……オレが大人しくしてれば、悪いようにはしなさそうだし」
色々と不穏ではあれど、城主がどんな形でも少年を守ろうとしていることも、黒い少女の一件からわかった。
不安要素はただ、何処まで少年は動けるのか……その限界がわからないことだけだった。
再びくたり、と寝台に大の字になる。城主の采配であからさまな監視の目もなく、少年は銀色の髪へと変わる。
――あー。キラ師匠、出て大丈夫なんスか?
「……きついけど。これで動けるくらいまで、回復しなきゃ駄目だろ」
金色の髪のままではその限度もわからない、と無表情に呟く。
「まず、回復できるのかどうかだけど……今はとにかく、凄く――眠い」
ずっと着けたままのバンダナは、すぐさま少年の目を赤く染め上げる。
そこには最早、以前までのような烈しさはほとんど見られなかった。
「できないならできないで……仕方ないし」
そうして銀色の髪のまま目を閉じた少年は、羽飾りが思わず次の目覚めがあるか心配になる程、安らかな顔をするのだった。
R4:「忘失」
その眠りはまるで、少年が約一年前、今の躰で目覚める前のような暗い夢心地だった。
実の妹に小さな宝を返すために、剣になってまで待ち続けた少年は、長い時のほとんどを深い海の底で過ごした。
自らの意識はほぼ皆無だったが、それでも剣は、暗いだけの外界を感じ続けていた。
――要するに君は、魂の寿命ということかしら。
眠り続けた時は、長く数千年に及ぶ。
一つ一つの時間は、死と大差ない程の拙い情報量だ。それでも常に情報を汲み上げる感覚を持つ少年には、その全てが蓄積され続けた。
だから既に、記憶という情報容量に限りのある魂の力は、目覚めた時から困窮していた。
――もっと沢山……私にくれる忘れたい心を、思い出して……。
あまりに過多な情報の中で、曖昧な自らを少年が拾い上げられたのは、「忘却」という「力」が少年と巡り会い、過多な情報を一時取り払った影響も大きい。少年の大切な記憶を奪い、少年を破綻させた「力」であっても、それは必要なことだったのかもしれない。
「それならラピスは、俺を……助けてくれたのに」
「忘却」を宿した娘は、少年の記憶を奪ったことで、無意識に自身を責め続けていた。それが最も大きな娘の咎だった。
そして少年からこれ以上奪うよりも、自身が消えることを願ったのだ。そんな妹分に少年は、その嘔吐きを永遠に刻み込まれたも同じだった。
白い娘の悲鳴が聞こえた気がした。
銀色の髪の少年は暗闇の中、舞い戻る吐き気と痛みに顔を歪め、夢と現の区別もつかずに無闇に動いた。
死に物狂いで己を掴む。壊れかけている意識を再び浮かび上がらせる。
ふらふらと暗闇を彷徨う少年に、羽飾りが何か言っていた気がする。これが夢か現実かもわからない少年は、全て聞き流して、ただ動いていた。
「……狐魄に、近付くな」
白い娘を脅かすものが、そこにはあった。
中空の四角い回廊の縁で、それが何かよくわからない脅威が、白い娘を追い詰めている。
これ以上、近付かないで、と――白い娘は初めて、自らの意志を呼び覚ましていた。
それは少年が、白い娘に触れるのを拒んだ時と同じ。救いを怖れる悲鳴でもあった。
狐魄が怯えているその脅威は、白い娘を迎えに来たと、暗闇の中で少年は悟る。
届き続ける娘の悲鳴。少年はこの城に来て初めて、自身の拠り所たる宝剣を抜いて脅威に対峙する。
しかし少年は、勝ち目がないことなど、一番初めからわかっていた。
「アンタ達は……狐魄を……」
ここで滅んでも構わなかった。闇の中で少年は、狐魄の脅威に向かって剣を振るう。
「狐魄を……連れていくのか」
それはただ、白い娘がそれを受け入れられるまで。どれだけ間違った怖れであれど、少年だけは……怖れる娘を受け入れる者であるために。
それらは少年に、少年はここで何をしているのか、と痛ましげに尋ねた。
そして、白い娘の存在は少年にとって、いったい何であったのかと。
長く少年を包む暗闇とは対照的に。
その夢はやがて、白い娘の拙い安らぎを届け始めた。
「……狐魄……?」
銀色の髪の少年はきょろきょろと、闇の中を見回してみるが、そこには最早白い娘は見つからなかった。
代わりにそこで、ふっと何か、別の悲鳴が少年に届く。
その悲鳴が何故か酷く気になってしまった。動かない躰に、少年の隠し持つ武器……花の御所の術師からもらった、「水」の気の護符を使う。それで切り札がまた一つ減っても、体力だけを回復させてまで、悲鳴の発生源を追いかけてみた。
白い娘の悲鳴が消えたせいだろうか。不思議と、階段を駆け降りる少年の心持ちも軽かった。
降りた分だけ上がる徒労が後に待つことも、その時は考えずに進んでいられた。
「……私に何の用があるの?」
悲鳴の発生源では、相手の姿もわからない脅威の一人が、怪訝そうに銀色の髪の少年を見つめた。
「さあ? 俺にもわからない」
目の前の相手を覚える、一時的な記憶すら怪しい自身。さすがにこれはまずいな、と少年は一人で笑った。
本格的に、少年に限界が訪れているのか。そうでなければこんなあやふやな「忘失」の世界は、説明がつかない、と首を傾げる。
それでも別に、今の状態は夢だと思っている少年は、何でもいいや、と好きに振舞う。
「最上階まで送るから、さっさと帰れ」
その相手が上の方から来たのだと、何故かそれは把握していた。
無表情に伝えると、相手はずっと不機嫌にしている。少年も内心の気楽さとは裏腹に、いつも通りの無表情を続ける。
……それでも少年は、段々笑顔を隠せなくなった。
――狐魄がきっと、楽しいんだ。
白い娘の脅威だったはずの者達。その一人を連れながら、最上階に近付く程に確信が強くなった。
それは、「楽しい」、と。自らが曖昧な少年でも自覚できる程、白い娘から良い感情が届き続ける。
わざわざ白い娘をここまで迎えにやってきた者達。不機嫌さも優しさである相手とその仲間。彼らと白い娘の間にはそんな心が主であり、もう心配ない、と少年はすっかり安心できた。
「ありがとう――……狐魄を、助けてくれて」
微笑んで言う少年に、相手は不服気に応える。
「……待ってるから。狐魄と、一緒に」
どうして待たれるのか少年は不思議だった。しかしそれは難しい、とわかっていた。
だからひとまず、それとは違う答を伝える。
「俺はあんたのこと……好きなんだと思う」
ただその目前の相手から伝わったもの。少年も同じ心を映した、素直な想いだけを口にした。
夢か現か。いったい何の時間だったのか、よくわからない長い眠りから、やっと銀色の髪の少年ははっきりと目覚めた。
――キラ師匠、大変っス! 何か知らない間に、もう数日たってるっスよ、オレ達!
「……俺だけならともかく、レンまで一緒に、眠りこけてたのか?」
バンダナを着けたままの少年は、どちらかと言えばその方が不思議な事態だった。
――大変なのはそれだけじゃないっスよ!? オレ達が惚けてる間に、何とラピ狐ちゃん、何処かに貰われちゃったらしいっスよ!
「……え?」
それは本来――仔狐の処遇を心配していた少年には、見過ごせないはずの状況だったが。
「そっか……狐魄は、もういないんだな」
あまりに落ち着いている少年に、羽飾りが拍子抜けしたように黙り込んだ。
「……大丈夫だよ。きっと狐魄は、いい所に行ったはずだから」
――そ、そーなんスか……? 何か師匠、妙に確信あり過ぎて不思議っスよ?
いい夢を見たんだ――と。少年は羽飾りに、穏やかに笑いながら答えた。
「内容はよく覚えてないけど。狐魄も多分、楽しそうだったから……」
金色の髪の少年ならともかく、銀色の髪の少年がここまで平和な顔で笑うのは珍しい、と羽飾りがやはり不思議そうにする。
「凄く好きな…………優しい、いい夢」
少年はとても大切に、そう繰り返した。
「温かいんだ――……そいつらの所は」
そうして少年の穏やかさは、しばらくの間続くことになる。
少しだけ体調が持ち上がった頃、そろそろ活動再開、とばかりに城主の元を訪ねて――その膝の上にいた、またも有り得ない存在を目にするまでは。
+++++
その青い目の幼女。瑠璃色の長い髪をサラリと下ろし、姿は八歳前後の幼い姿が、玉座に座る城主の膝を占拠していた時の衝撃。
銀色の髪に黒いバンダナを着け、赤い目の少年はただただ、絶句するしかなかった。
「あら、どうしたのかしら、雲英君? 何か私におかしい所でも?」
「……――」
傍らには大きな烏と、側近の悪魔が背後に控える中で。悪びれのない城主と、膝の上の幼女……碧眼の灰色の猫のぬいぐるみを抱え、無袖の功夫服といった恰好の子供が、城主にべたりと甘えながら口を開いた。
「どうしたの……キラ兄さん?」
それも呆れる程、悪びれのない物静かさで、幼女にしては落ち着いた声で。
何で――と少年は、厳しいだけの声色を、強張った顔の奥から絞り出した。
「何でエルが……あんたの所にいるんだ?」
そこにいるのは紛れも無く、少年が長い時を越えてまでこの世に戻した、かつての実の妹。瑠璃色の髪の娘の躰を貰い受けて新生した幼女だ。
瑠璃色の髪の妹は、城主の礼装の、余裕の無い腰回りの裾をひしっと掴む。
「母さんの部屋の、鍵をもらったんだよ……わたしもずっと、母さんに会いたかったから」
無表情ながら心から嬉しそうに、実の妹は母と呼ぶ相手の膝の上を満喫している。
「キラ兄さんにも、会いたかったの」
わけがわからず、黙り込むしかない少年に、城主の膝の上で座り直しながら言う妹だった。
城主を母と呼ぶ幼女が、いつからそうして現れたのかはわからないが。
それは当然、城内にスキャンダルとして浸透し、少年と城主も一応親子関係にあるとあっさり知られてしまった状態だった。
「……あんたは何を、考えてるんだ?」
幸せげな妹にはひとまず何も言えず、城主を睨むように尋ねる。
「そうね。私も、自分の願いを叶えたいの。これはその、大切な一つ……」
膝の上の幼女を撫でながら、妖しい微笑みを浮かべる相手は……ついに妖狐から主導権を奪った「魔」であると、少年は悟る。
そこで唐突に、少年の脳裏に――
先日に見たよくわからない長い夢の、ごく片隅に現れていた誰かの声が響いた。
――あいつのことは、甘く見ないで正解だぜ?
それが誰の声かも、今は全くわからなかった。
――は? 多分それは、オレは言ってないし、それを言った奴も見てないっス、キラ師匠。
とりあえず城主と妹は放置し、居室に向かって階段を昇る銀色の髪の少年は、真っ先にその謎の声のことを羽飾りに尋ねた。
「レンが見てないってことは、やっぱり夢か? ……でもそれにしては、はっきり覚えてて」
長い夢の何処か一部で、少年はその誰かに出会った。
大切な事柄とは思ったものの、夢の他の要素……楽しいという稀な気持ちが大き過ぎて、今まで放置していたのだった。
――後は何て言われたんっスか? キラ師匠が覚えようとしたくらいなら、相当重要な事項だったはずっス。
「何だったかな……アフィは、運命を変えるために現れた『魔』だとか、レイアスと同じことを言ってた気がする」
先日養父から伝話で聞いた事柄を、それも重要、と必死に少年は覚えていた。それらの話を合わせて頭を悩ませながら、ゆっくり階段を昇る。
「『魔』っていうのは、巡る命の何処かで強い未練や無念を持って。願いを叶えるには何でもするって狂気が魂に宿った……そんな存在だって、レイアスは言ったよな」
養父は「悪魔」という存在を、「魔」でも特に、概念の力を借りることができる程明確な方向性を持った化生だと口にしていた。
――師匠ママが悪魔でいるのは、願いを叶えるためだって言ってましたもんね。それならその謎の声の言葉を合わせると、師匠ママの願いは、運命を変えるってことっスか?
「そうなるよな……でもそれにしたって、意味がさっぱりだ」
それが嘘でないことは少年にはわかったので、問題はその真意だろう。
「後は……俺を、ソイツにくれとか。そんなことを言われた気がする」
――はい!? どーいう意味っスかソレ!?
そこで羽飾りに、妙なスイッチが入ったようだった。
――師匠それ、男っスか、女っスか!?
「……女、だったような。でも、男のような」
――そこ大事っス師匠! どう考えてもソレ、求愛の言葉ではないっスか!?
羽飾りの勢いに、違う気がする、と首を傾げるが、何故そんな夢を見たのかは本当にさっぱりわからなかった。
脳裏には、大きな烏と話す誰かが浮かぶ。
――よーやく出会えた……オレに相応しそうな奴なんだけどな。
また会おう、とその人影は言い残した。それを覚えている内に、必死に残した言葉以外の情報は全て消えてしまった。
「……――」
よくわからない話が終わった少年は、ふっと階段の途中で立ち止まった。
――師匠? どーしたんスか?
踊り場を見上げ、連絡通路の方に目を向ける少年に、羽飾りが不思議そうにする。
「……そこで何やってるんだ? あんた」
「……!」
少年に気付かれるとは思わなかったらしい。観察者の動揺の空気が伝わる。
連絡通路に潜んでいた観察者は、観念して踊り場の方へと出て来た。
――おおお! またもやカラスさん!
「……」
バンダナを着けた少年を見下ろす相手は、紛れも無く先日少年を襲った黒い少女だった。
「……調子、悪そうね」
険しい顔付きで言う相手に、少年は、ああ、と……この相手が少年を見ていた理由を悟った。
「別にこれは、あんたとやり合ったせいじゃない」
「!?」
目を見張る黒い少女に、少年は密かに笑いを噛み殺す。
「俺の不調は今に始まったことじゃない。あんたが気にすることは何もない」
「――別に、気にしてなんかいないわ」
黒い少女は不服そうに、俯きながら言い返してくる。
「カイが、アナタの不秩序はまだ見逃してもいいレベルだって言うから……自分の目で見極めにきただけよ」
「?」
「アナタはまだ、『神』じゃないって。でもそれは……あたしにはわからないわ」
だからこれは徒労だった、と言わんばかりにくるりと踵を返した黒い少女に、
「……あんた自身、自分が『神』かどうか、あやふやなんだな」
少年はあっさりと、その所感を口にした。
「……!?」
黒い少女は再び動揺し、図星の空気と共に振り返る。
「『神』って何なのか、俺はわからないけど……あんたの探し物にそれは――今の役目は必要なのか?」
「……アナタ、真夜さんに何か聞いたの?」
今やとてつもなく不機嫌な様相の黒い少女に、別に、と軽く頭を振った。黒い少女は更に難しい顔付きとなる。
「あんたをほっぽって、真夜の子供がずっと行方不明だとは聞いたけど。ソイツも悪魔だし、何であんたは『神』の秩序に関わるんだ?」
「…………」
黙り込む黒い少女は、どうやらこれまで、こうした話をあまりしたことがないらしい。
勘の良過ぎる少年を不審に感じつつも、何か思う所があったのか――
「……ちょっと、ついてきて」
ある部屋へと少年を誘い、またくるりと踵を返したのだった。
少年がいた城の西棟ではなく、中央の上層……本来なら重要な近臣以外は立ち入れない場所に、その部屋はあった。
「ここって――」
「炯の部屋よ。アスタロトの血縁だもの」
フルーレティの悪魔の城で、少年が滞在した部屋と確かによく似た雰囲気。近代的だという家具が程良く配置され、黒い少女曰くパソコンやテレビゲームという謎の道具まで設えられた部屋で、ふかふかとした長椅子に並んで座る。
「何で俺をここに?」
「……深い意味はないわ。話しやすい場所がここだっただけ」
少年の隣、黒い少女は少年を見ることもなく、俯きながらその話を始めた。
「炯がいなくなったのは……東の大陸なの」
「――?」
「魔界じゃなくて宝界の方。アナタは、東の大陸の海底遺跡から発掘された剣だって聞いたから」
なるほど。と頷きつつも、話の関連が少年にはさっぱりわかっていない。
「その発掘隊は多分、あたしと炯が少しの間、混じらせてもらった所と同じなの。あたしがいた時には、同じ東の大陸でも湖底の遺跡……『テルス・エイラ』という聖地から、色んな宝物を掘り出しているところだった」
そこでズキン、と、銀色の髪の少年に頭痛が走る。
「あたしはそこで発掘された『神』の宝と戦って、勝って今の『力』を手に入れて……でもその時、巻き込まれた炯は姿を消してしまった」
そして少年は――ある悪魔の声を思い出す。
浮かぶのは、ただ少年が、心を決めた時のある声だった。
――それとも――オマエが望むなら……。
――少年。オマエを……オレにくれないか♪
「『神』も『悪魔』も、ヒトの運命を変える。あたしの運命は多分……良くも悪くも、炯に変えられてしまったと思う」
それから黒い少女は、悪魔である許嫁を探しているという。「神」の使徒として働けば「神界」を使え、遠方への移動が速くヒトを探しやすいのだ。何故「神」の秩序に拘るのか、少年の問いへの答として、自らの事情の一部を口にした。
「……ありがとう」
え? と振り返った少年に、黒い少女は少し不服気に赤くなりながら礼を口にした。
「どうしてかわからないけど……アナタには、とても話しやすくて」
黒い少女にとってこれは愚痴に当たり、滅多に話せないことらしかった。
黒い少女の素直な謝辞に、少年はポカンとする。
少し考えてから苦笑いを浮かべると、その思いの一部を告げた。
「……多分、ソイツ。あんたに会える方法を、ソイツもずっと探してる」
「――」
立ち入ったことを直球に伝える少年に、黒い少女が軽く息を呑んで少年を見つめる。
その言葉が妥当な根拠はない。それを言った理由すらあやふやな少年に対し、黒い少女はしばらく、硬い顔で少年を見つめていた。
「…………」
何でかしら――と。少女自身が不思議に思うように、不意に黒い目を潤ませていた。
「アナタがそう言うと……本当に、そうなる気がする」
その真実を、全て伝えることは少年にはできない。
「……会えるよ。ソイツは多分――あんたの近くにいる」
そのまま去りゆく黒い少女を、銀色の髪の少年は黙って見送っていた。
+++++
かつて少年は、殺すことしかできない、と自らを定めた天性の死神だった。
同じく殺すことを特技と自覚し、処刑人となった過去を持つ妹の元へ、少し休んでから足を向けていた。
「……何で? キラ兄さん」
「何でじゃない。俺がそう言うって、エルもわかってて来ただろ」
以前は仔狐がいた最上階の客室で、悠々と一人くつろいでいた妹に、苦いだけの顔で銀色の髪の少年は言い含める。
「今すぐ帰れ。母さんのことは、俺達に任せると約束したはずだ」
「うん、任せてるよ。わたしはただ、遊びに来ただけだもの」
「危険過ぎる。遊びに来るような場所じゃない」
「ここか母さんの所にいれば、大丈夫だよ」
その部屋にはずっと、仔狐がいた頃から妖狐が施した結界があるのは少年も知っていた。
「母さんも安全とは限らない。エルを守れない時だってあるはずだ」
まずこの魔界という所が、とにかく危険だ。少年はカケラも妹の滞在を認める気はなかった。
「……そうかな。わたしがいた方が母さん、安全になる気がするけど」
少年と近い現状把握の力を持つ妹は、少年と違う切り口での観方を得意としている。
「わたしといると、母さん、優しいよ。でも兄さんといると、怖くなるよ」
「それはどっちでもいい。問題はエルが安全かどうかだ」
あくまで頑なな兄に、妹は不満そうな表情を惜しげも無く浮かべた。
気ままな妹は、遠慮なく我が侭を言う。
「……兄さんと一緒なら、帰るよ」
「どうやってだ。……そもそも、どうやってここに来たんだ」
母さんの部屋の鍵をもらった。などと言っていたが、異世界間の移動など、非力な少年や妹には本来叶うべくもない奇跡だ。
「帰れるよ、来た時の道を通れば。その後も、また道を作ることもできるよ」
「……?」
実態はさっぱりわからないが、そもそも妹がここにいる事実が、それは可能であると示している。
しかし銀色の髪の少年は、まだ苦い顔を変えなかった。
「俺は……今はこの城を出られない」
「ちょっとくらい、大丈夫だよ。戻れる方法、ちゃんと渡すって約束するよ」
とにかく少年の同伴を求める妹に、確かに無事に帰ったかを見届けるのは必要だ、と少年も改めて思った。
少年の体力や気力上、今すぐには難しく、翌日にということで話はついたのだった。
そうして長椅子で不貞寝する少年を囲む中へ。
穏やかな空気を引き締めるはずの「魔」すら、和やかな雰囲気で現れた時には、少年はただ絶句するしかなかった。
「……楽しそうね? エルフィも、ユオンも」
城主は少年のことをユーオン君と呼び、「魔」の時には養母と同じように呼び捨てだった。それが何故か、少年と妹の本名を自然に呼ぶことに、少年は思わず息を呑む。
「母さん。今日は、一緒にいられるの?」
最上階の客室にやってきた城主に、まさに飛びつくように妹が尋ねた。
城主はええ、と微笑む。いつもの黒い礼装ではなく、そのまま休めるような寝着に近い、鉛色の礼装で現れていた。
妹を膝に乗せて寝台に座った城主は、腕を枕に長椅子に陣取る無言の少年に、妖艶でも親しげな微笑みを浮かべる。
城主の方を見もしない少年と、じっと己を見つめる幼女の頭を撫でてから、そこで――
驚く程に優しい顔で、素直な声で少年に笑いかけた。
「……一番初めに、辛いことを言ってゴメンね、ユオン」
「……――え?」
その微笑みは何処か悲しく、声色もひたすら物静かだった。
長椅子から僅かに顔を寝台の方へ向けた少年に、城主はまるで、本来の養母が帰ってきたような顔で苦笑している。
「ユオンはそうしないって、私は知っていた。だから何も言わずに、ラピスの運命を待つこともできたけど……」
しかし養母であれば、少年をユーオンと呼ぶだろう。内容はともかく、現状がわからず、少年は黙り込む。
妹分の魂を、少年のために利用しろと言い……それも本心であったはずの、この「魔」はいったい何者なのか。
代わりに妹が、事情など何も知らなくても、大部分を察したように話し始めた。
「でも……他の悪魔に付け込まれないように。だから母さん、厳しいことを言ったんだよね?」
妹は灰色の猫のぬいぐるみをぎゅっと抱え、暗い青の目で城主の青白の目を見据えた。
「悪魔はみんな、弱い所につけこむもの……兄さんは特に、簡単に利用されそうだし」
それなら初めに、少年の最も危うい部分に切り込んでおくことが、苛烈な魔界という地で少年を守る布石だった。妹はそう言いたいように観えた。
「母さんはどうして、父さんと話さないの?」
少年も気になっていたことをまさに直球に、妹はその「魔」と心から向き合う。
「父さん、ずっと心配してるし……母さんも今も、父さんのこと、大好きだよね?」
「……」
「魔」は穏やかに妹を見つめる。少年も何となく躰を起こし、ぐらりとしつつ、妹が母と呼ぶ相手をそっと見つめる。
そうね……と。
やがて「魔」は、微笑みながら悲しげな声で、少年も妹も見ずに視線を落として呟いていた。
「ここにあのヒトがいたら、もっと幸せだったのにね」
その声色はあまりに沈痛で、少年も妹も、咄嗟に反応できずに悪魔を見つめる。
悪魔は膝の上の妹を、そっと抱き締めると、少年を見て困ったように微笑みかけた。
「あのヒトが悪いわけじゃないわ……でも、今はもう、傍にいるのが辛いの」
「……」
それはこれ以上は、語られぬ領域。少年も妹も、勘良く察することしかできない。
城主と妹は寝台で、少年は長椅子で。そのまま同じ部屋で一夜を明かした。
翌朝、妹を家まで送ってくるという少年に、城主は何故か全く笑わずに少年を見つめていた。
「……すぐに帰る。勝手を言って悪いけど」
「……」
青白の目には、これまで見たことのない静けさが宿っている。怒っているのか、それとも……悲しげとしか言えない顔に、少年は後ろ髪をひかれる。
「……兄さん。昨日は何か……夢、見た?」
妹が通って来たらしい、何処かの部屋の謎の扉に入ると、少年と妹は暗いとしか言えない空間をしばらく歩いていた。
「いいや、特には。エルは、何か見たか?」
この直観の兄妹にとって、夢とは近くで眠る者の記憶を垣間見るための一つの手段だ。
共に「魔」の傍で眠った者同士、何か新たな情報がないか、確かめる会話だったが。
「何も見てないよ。多分、母さん……眠ってないんだと思う」
「…………」
それは少年も、浅い眠りの中で薄々感じていた。
最近の少年が目覚めた時には、まず何故、妹と城主とそこで眠っていたのか、羽飾りに教えられることから始まる。
それでも幼い妹を細い腕で抱くように、ずっとその寝顔を眺めていた城主の心は、一晩中感じ続けていた少年だった。
「……あのね、兄さん」
だからその腕の、あまりの温かさに――
「母さん、多分……わたし達のこと、わかってる」
「…………」
妹も少年も、夢など見ずとも、同じ答に辿り着いていた。
「父さんは何も覚えてないけど……母さんは、わたしと兄さんがホントの子供だって……きっと、わかってる」
……それをあえて、「覚えてる」と言わず、「わかってる」と言った妹の真意。
――アスタロトは確か、過去とか未来が視える力を持った悪魔っスから。下手すれば前世の縁とかも、わかっちゃうかもですね。
「……それならレイアスも、俺達との縁は、多分わかってる」
妹の手をひきながら、俯いて口にした少年に、羽飾りが「?」と不思議印を浮かべる。
「……あれは、母さんと同じだけど。でも……もう、母さんじゃないんだ」
拙くそれだけ、何とか続ける。妹も黙ったまま、納得するように頷いていた。
「生まれ変わりって……何なのかな、兄さん」
「さあな……それらしい奴には沢山会ったけど……多分そこには、意味は無いんだ」
その母の姿に少年は改めて、同じ答を観つめる。唯一理解できるだろう妹と共に、暗闇を進むしかなかった。
R5:旅立ちの時
謎の暗い道のりは、長くは続かなかった。
着いた先で出会ったドアを開けた時には、見知った光景がすぐにも広がっていた。
「……オイ。ちょっと待てよ――水火」
「だから。何度も言うけど……イ・ヤ」
ジパングの自宅の妹の部屋から、何故かアスタロト城に出られた奇跡の秘訣。それは何と、城主を悪魔として召喚した妹が城主から直々に渡された、そのまま「鍵」の効果らしい。どの扉でもいいので、その鍵を差せばあの城に繋がるというのだ。
「これ差すの、結構疲れるの。エルフィ達が帰るまで、閉まらないよう見張ってるのも大変だったのよ」
少年が留守の間、妹を守ってもらっている同居人。鎖骨までの紅い髪と端整で鋭い紅い目の美少女を、金色の髪の少年は恨めし気に睨む。
にこにこと、水火と呼ばれた紅い少女は、小さな鍵を持ちながら虚ろに微笑んだ。
「ハイ、あげる。後はユーオンに渡すように、エルフィには言われてるから」
家に戻ってすぐバンダナを外し、金色の髪に戻った少年は、疲労感の濃い顔で今度は妹をじっと睨む。
「……エル。わざとだな」
「?」
「最初から、オレを帰さないつもりだったろ」
「わたしは何も……嘘はついてないよ」
魔界に戻る方法はちゃんと渡す、と言った妹は、言葉の通りに鍵を渡した。自室の寝台で座り、ぬいぐるみを置いて膝を抱えている。
その鍵は、強い力を持った者でなければ、まず鍵穴に差すことができない。
「水火以外、これ使える奴はうちにいないし。それじゃどうやって、オレに魔界に帰れと言うんだ?」
「……それは大変だね。帰れないね、兄さん」
同居人の紅い少女は、とても強い力を持つ聖魔だ。その相手に断られてしまう以上、少年がその鍵を使うことはとても難しい。
「兄さん、調子悪そうだから。しばらくは、家で休んでく方がいいと思う」
「……やっぱり、わざとだな」
「?」
紅い少女は人形の性を持つ聖魔で、本来あまりヒトの頼みに反発しない。それがはっきりNOと言うのは、紅い少女の主人と言える妹の差し金だと一瞬で悟る。
それだけ妹が心配し、強引な手段を使う程、少年の状態が差し迫っていることには目を向けない。約束通り渡された鍵を恨めし気に見て、どうしたものかと頭を悩ませるしかなかった。
夜もふけてきた頃に、金色の髪の少年は、他の住人が寝静まっているのを確かめてからその家を静かに後にした。
「……ごめんな、エル」
少年をここに留めようとする、妹の気持ちはわかっていた。幼い躰で精一杯遅くまで起きていたが、さすがに眠りに落ちた。
「眠ったら忘れるし……レンが元気ないと、オレも色々困るんだ」
そのために魔界に戻ろうと思えば、今のまま鍵を使う方法を探すしかなかった。
少年のその答そのものが、今後の行く末を暗示する――運命の訪れだとは何も知らずに。
無防備に一人で出歩いたりすれば、先日の黒い少女に襲われる危険性もわかっていた。
「最悪の場合は、無理矢理使うしかないかな」
鍵を壊すつもりで力を解放すれば、一度だけ魔界に行けるはず、と少年は見定めている。
それでも他の方法で、壊さず鍵を使うため、少年はある者を訪ねてみることにした。
「ディアルスなら何とか、一人で行けるしな」
ジパングの暗い夜道を、一度ならず行ったことのある平原を歩き、北の海港に近付けるワープゲートへ向かう。
体力も気力も拙かったが、黒いバンダナを着けると幾分はマシになった。金色の髪のままバンダナをすると、黒い羽だけが出て何故か気分が良くなる。
不秩序な羽は闇夜に融けて、月の光から力を受けるようにも観えた。
少年自身、正直な所、一人でここまでする気になるとは思っていなかった。
この状態なら、家で大人しくしている方が良いこと。養父も帰れるなら帰れと言っていた、と羽飾りからも聞いていた。
「……そうだよな。きっとコレは……オレの我が侭だ」
「銀色」なら多分、ここまではしないだろう。自らが曖昧な「銀色」は、差し迫るまで己の願いに気付かず、あまり自発的には動かないからだ。
「でもオレは……忘れたくない」
彼らの願いは同じ。ただ、自覚できるかどうか、その一点だけでも彼らはずれていく。
そして「銀色」程に現状が観えない少年は、「銀色」が一人で決めたことには気付けず、あくまで己の願いのために、暗い月の道を一心に目的地を目指す。
「初めから――そのつもりだったんだから」
その道の果てを思い、少年はふっと、顔を綻ばせていた。
旅慣れた養父母が知った近道のおかげで、朝方には少年は小さな海港に辿り着いた。
ジパングからは北西に当たり、そう遠くない半島「ディアルス」。西の大陸の北東端にある大国に向かう船へ乗り込めていた。
小規模な船だが、ワープゲートを通る利点があり、昼過ぎには王都に最も近い港へ着けた。
大人数を運ぶ公共の馬車に乗れば、王都もすぐで、養父母にここで戸籍を作られている少年には何の問題もなかった。
「……細かい場所は、誰かに聞くしかないか」
何かのメモを片手に、少年は王都をさまよう。
そして夕暮れ時に、早くも目的地に着いた少年は、トントン、とある小さな集合住宅の扉を叩く。
石造りの建築物が多いこの国では、珍しく鉄骨の家。王都の端で人家は少なく、綺麗に整備された石の国道の裏路地に、そのメモの主の家はあった。
ノック後は黙って待っていた少年を、扉を開けて迎えた住人が目を丸くする。
「……――って、え? 君――」
「……あれ」
出てきた者の姿の意外さに、少年もそこで目を丸くしていた。
「リン……だよな?」
「ユーオン君、よね?」
少年が覚えている姿は、踊り子のような露出の多い服装で、首元で髪を結わえた黒髪の女性だ。羽飾りが護衛をしていた旅芸人一座の、花形の一人を訪ねて少年はそこまで来たのだが……。
「それ――メガネ?」
「ユーオン君こそ、バンダナなんてするのね」
黒髪の花形は、襟のある上衣に足首まで包む下衣と、艶とは無縁の服装に眼鏡をしている。互いに互いの意外な恰好に、しばしポカンとしていたのだった。
黒髪の花形は快く、少年を迎え入れてくれた。
「びっくりしたわ。もうすぐ休暇も終わるし、本当に良いタイミングね」
「……良かった。まだレストに帰ってなくて」
この花形と、護衛だった羽飾りの妖精は秘密の恋仲だった。浮気心を出した妖精を、ショックで暴走した力で殺してしまったのだ。
上手くいけばそれを助けられる、と少年は言った。だから何かあれば訪ねてほしい、と黒髪の花形は自身の住処を書いたメモを渡した経緯がある。
「お茶飲む? それともユーオン君は、お酒の方が良かったっけ?」
ふふふと嬉しそうな花形に、じゃあお酒で、と遠慮なく頼む金色の髪の少年だった。
「ところで、ユーオン君はどうしたのかしら? 一人でジパングからここまで来たの?」
「……」
こくりと頷く少年に、花形は眼鏡の中の目を不思議そうに開き、少年を見つめる。
少年も少し、先程の花形のように躊躇いながら思いを伝える。
「レンがずっと、頑固だから。あんたなら説得できるかな、って思って」
「レンって――イーレンのこと?」
腕を掲げて羽飾りを見せる。元はその羽飾りをペンダントにしていた花形は、困り顔で首を傾げる。殺してしまった妖精の恋人から、形見欲しさにもぎ取った羽がペンダントの大きさに縮み、まだそのままであることに苦笑う。
「この羽が元の形に戻れば、レンはまだ目を覚ませるのに。この形になってるのは、レン自身の意志だってナナハは言ってた」
「ナナハ様が? ということは、ナナハ様程のヒトでもこれは戻せないの?」
黒髪の花形の上司であり、希代の魔女である相手の見立てに、花形も驚いたようだった。
「でも、説得って?」
「うん。声はずっと、聞こえてるんだ、コレ」
羽飾りを横目で見て言う少年に、花形はえ。と、一気に青ざめた顔付きとなった。
「とにかく、レンはこのままでいたいって言ってるんだけど。元に戻れるのに、オレはそれ、どうなのかなって思って」
「――?」
黒髪の花形が半ば涙目で、頭を抱えつつ顔を上げる。
少年は慎重に、その妖精の現状を花形へと説明する。
「レンは今、オレの剣の一部みたいな感じで……剣でいる方が楽しいから、もう妖精には戻らなくていいって言うんだ」
花形はそれを聞き、あー……と、納得したような顔付きとなった。
「イーレン、剣マニアだったものね……元々刃の妖精だし、言いそう、それ」
「でもそれじゃ、オレとか限られた相手以外、話すこともできないままだ。リンみたいにレンがいないことを悲しむ奴だっているのに、このままじゃいけないと思って」
「…………」
難しい顔で話す少年に、黒髪の花形はしばらく、両腕を組んで考え込んだ。
次に顔を上げた時には、何とも形容し難い爽やかな苦笑を見せる。花形は少年を見つめて、深く息をつくように口にした。
「……イーレンがそれでいいなら、それでもいいんじゃない?」
「――え?」
「私は、殺したのは自分なんだから、我が侭を言える立場じゃないし。たとえイーレンが戻ってきても、よりを戻すかって言われると、それも微妙だし……」
それは花形が、少年に気を使って言っている言葉だと、少年はすぐに感じ取る。
「このまま一人ぼっちでいることが、私への罰なんじゃないかしら。きっとイーレンも、もう私のことなんて忘れて、剣の生活を謳歌してるんだと思うわ」
どちらかと言えば、これが花形の本心。そして羽飾りも戻ったとしても、この花形だけを大切にするような性質でもない。
うむむ、と少年は悩ましく黙り込む。
ゴメンね。と花形は、悩ましげな少年に、肩をぽんぽんと撫で叩きながら侘びを口にした。
「君には関係ないことなのに、悩ませちゃってゴメンね。私とイーレンの問題なのにね」
「……」
「私も、どうしたらいいかわからなくて……あれからずっと、時間が止まったみたいなの。こんな私に、新しい誰かを好きになる資格もないし、イーレンの笑顔にまた会いたいけど……私だけを見てなんて、都合のいい願いが叶うはずはないもの」
「…………」
羽飾り付きの鍵を巻く、少年の腕を愛しげに両手で花形は包む。
「そういう相手って、初めから知ってたんだもの。変わってほしいだなんて、私の我が侭だし……」
気が付けば、窓の外は大雨が降りしきり、夕暮れとは思えない闇が訪れていた。
泊まっていけばいい、という誘いをあっさり断った少年に、黒髪の花形は心から残念そうにしていた。
「本当に、こんな時間なのに行っちゃうの? ユーオン君」
「ああ。リンも無理そうなら、後はナナハを訪ねるしかないし」
魔界に繋がる例の鍵を、化け物の一人である花形にも使えるか尋ねてみたが、予想通りに力が足りないという答だった。
「……何やってるんだろ、オレ」
すっかり雨は止み、濡れた石が月の光を拙く反射していた。そんな夜道に出てみれば、目的は何一つも達成されていないことに少年は気が付いた。
「さすがに眠いな……これ、ナナハの所まで持つかな?」
一応羽飾りに、覚えてほしい事柄は言ってはある。だからとにかく、魔界に行くことが優先だと諦めるしかなかったが。
あまり長くうろうろすると、妹やら何やらが少年を見つけてしまうかもしれない、と一人苦笑した時のことだった。
「――今晩は。こんな所で……夜のお散歩?」
ぴたりと立ち止まる。向かっていた道の先には、冷たい石の建物にもたれかかり、妖艶な雰囲気の黒い少女が不敵に微笑んでいた。
「……」
少年は瞬時に表情を消し、目前の黒い少女……今まで会った時と違い、鎖骨までの髪を首元で一つに束ねる相手を黙って観る。
「……どうしたの? 自分を狙う相手のことも、もうアナタは忘れちゃった?」
にこにこと尋ねる黒い少女は、これまでの基本は凛とした雰囲気は影形もない。
少年はすぐさま、その違和感を尋ねる。
「アンタ……誰だ?」
建物から離れ、少年にまっすぐに対峙した黒い少女は、その後は気の抜けた緩い口調で話し出した。
「うーん。やっぱりオレにはこういうの、合わないなぁん」
これまでの違和感は演出であったらしい。しかし今の口調も、少年が何度か会った黒い少女のものとは程遠い状態だった。
金色の髪の少年は無表情のまま、見たことのない相手に不可解なことを尋ねた。
「アンタ――オレと、何処かで会った?」
少年は相手を知らないが、相手は少年を知っている。何かの目的で現れている、そう感じた金色の髪の少年に、黒い少女の姿をした者は悪びれなくまた笑った。
「会ったぜ? オマエをオレにくれって、その時お願いしたんだけどな」
それが夢だと思っていた少年に、シビアな現実を伝えるように。
おそらく黒い少女の躰を借り受けている何者かは、新たな寄生先を見つけた、と言わんばかりだ。現状把握に優れた少年はすぐに感じ取った。
「……全然、覚えてないけど」
近日の記憶がとにかくあやふやな少年は、相手が何者なのかは結局わからなかった。
「でもそれは――オレにはできない」
それでも確かに答えた少年に、相手は、お? と意外そうな笑顔を向けてきた。
少年は来るべき事態に備えて、懐からその切り札を取り出す。
「この躰は、レンのものだ。オレが勝手に、アンタにあげていいものじゃない」
「なるほどねぇ……でもそれってさ、もしもそれがオマエのものなら、オレにくれるって言ってる?」
あくまで不敵に言う相手に、少年はこれ以上問答を続ける気はなかった。
そのまま無言で、白く光る月を背に水平に短銃を構える。相手は心から楽しげに、あくどい顔付きで笑った。
「……いいぜ。あがいてみろよ、少年」
少年が何故、その武器を選んだのか。
それすら知るような、悪魔の微笑みと共に。
+++++
金色の髪の少年がバンダナを着けている時、黒い羽の出納はわりと自由にできていた。
人目があったので納めていた羽を解放した少年に、黒い相手はへぇ、と楽しげに、半歩程ふわりと後退しながら呟いていた。
「やっぱりヘンだよな、それ」
元々人気のない、王都の端の広い国道で。羽を背に銃を構える少年と、銃を向けられた丸腰の黒い相手では、傍目には完全に少年の方が有利だった。
「どう見てもオマエの羽じゃないのに、何で使えるんだ? オマエ」
余裕しかない表情で少年を見る黒い相手に、少年には返答する余裕一つない。
元々、省エネ型である金色の髪の少年は、化け物と渡り合える力は無いに等しい。
「その銃もそうだけどなぁ。羽なんて更に、複数の気配を感じるしなー……でもそれを、全部ひっくるめてオマエは使ってるな」
少年自身の力はあまりに弱小で、戦う道を選べはしない。
それでも、自ら以外の力を我が物として使う少年の特技は、目前の相手とギリギリ渡り合える。その現状把握能力はそう告げていた。
「……」
黒い相手は少年の銃と、羽に注目している。
残った手に少年は、もう一つの切り札を、腰元から自然に取り出して握る。
「それじゃー、お手並み拝見といこっかな?」
にこりと笑った黒い相手の周囲から、半瞬後、鋭さと速さを併せ持つ熱風が舞い上がった。
「……!!」
まっすぐに少年を目掛けて襲い掛かる熱風に少年は銃を下ろし、もう片方の手の切り札を咄嗟に振り上げる。
「――お?」
その手にあった短刀で両断された熱風は、それだけで何故か全ての攻撃性を失った。その「力」の無効化に、黒い相手が目を丸くする。
「何だそりゃ。その短刀……凄くイヤぁな、反則の予感がするな?」
再び相手は、今度は激しい炎を出現させた。身の回りを取り囲んだ炎を、それすら少年は短刀のみで斬って捨ててしまった。
「……むむむむむ」
両腕を組んで不服気な顔をする相手は、その短刀に込められた力……養父から渡された、養父の右前腕の骨から作られたという短刀を凝視する。そこには「力」に介入できる力が、高密度に詰まっていることは知るべくもない。
「力」に介入できる養父の強みとは、気の及ぶ範囲で「力」を「無意味」に改竄できることだ。
何かあればこれで身を守れ、と自らに最も相性良き短刀を手放してまで、養父は少年を案じて護身の術を与えていた。
銃も短刀も、少年自身が激しく動けずとも、十分に効果を発揮する使い道を有している。
黒い羽と雨上がりの大気も、少年に力を与えた。そもそも少年は込められた力を細切れに、しかも大きく爆発させて使える特性を持ち、短刀の力も当分は尽きそうになかった。
――攻撃は……何とか防げそうだ。
黒い相手を再び銃で牽制しながら、少年は襲い来る眠気を必死に堪える。
――後はどうやって、視界を奪うか……。
勝てるとは思っていない。前に襲われた時には使わなかった短刀まで出した目的は、手持ちの隠術の護符を使い、魔界に帰る鍵の力を解放する隙を作ることだけだ。養父を呼ぼうにもPHSは魔界までは繋がらない。
「銀色」がこの場に出れば、返って消耗が激しく、逃げることが難しくなる。
まずもって「銀色」の特技は殺すことで、古い縁を感じる黒い少女の躰を使う者を、傷付ける気は彼らにはない。
だから「銀色」は現れないのだろう、と少年は自らの役割を認識していた。
「……――」
それでも何故か、妙な悪寒が胸中を走る。
胸騒ぎを振り払うように、金色の髪の少年は朧な月を背に、銃を握る手に力を込めた。
――これなら多分……できるはずだ。
天上の聖火を宿す身だと、銃を貸してくれた悪魔の女性は言った。
その言葉の意味を知らない少年ではあるが、聖なる天の火というと、思い浮かぶのは一つしかない。
月の有無で効果が変わるといった女性の言葉も、それを後押しする。
「……お?」
自身にずっと銃を向ける少年を見ながら、黒い相手は少年がそれを使う気だと悟ったらしい。
「そう――来なくちゃな」
その銃を防ぐ手立ては乏しい。しかしすぐに撃たない少年の隙に、身代わりの黒い鳥達を、相手が呼び寄せるのを少年は確認し――
黒い相手の身代わりをあえて待った少年は、暗い空と白い月を背に、重い引金を容赦なく引いた。
そして起こった「力」は、少年にも予想を遥かに超えた規模だった。
「……!!」
少年達が向かい合う、広い石の国道の道幅を大きく超えて、道沿いに散在する家や林を巻き込んだだけではなかった。
黒い相手を中心とし、道の幅以上の直径の真円内に、天空からまさに無数の白矢としか言えない光が降り注いでいた。
合わさった光の柱に完全に飲み込まれた相手を、残光が煌めく中、結果を確認せずに少年は場を離脱する。
「これ、ヤバ過ぎるだろ、マヤ……!」
少年の特性もあいまって、まだ何度も使えそうな銃を焦り顔で懐に仕舞う。
相手がどうにかなったとは思わなかったが、この規模の「力」を黒い少女に向けた嫌悪感を、苦い顔で噛み締めて少年は走った。
そんな少年に、するりと何か――
緋く長い影が、陰に隠れるように追い迫る。
少し離れた路地裏に入ると、少年はすぐに、隠術の「力」を秘めている札――花の御所の術師からもらった内の一つを使った。
「少し様子を観ないと……」
魔界に繋がる鍵の力を解放しようと思えば、かなりの集中力と体力が必要になる。それが確実にできる状況か、見極めなければいけなかった。
石の家に囲まれた袋小路で、少年はふう、と疲労を吐き出しながら壁を背に座り込む。
「これで見つかれば、チェックメイトだ」
隠れた先が行き止まりで、人目も全くない。そんな状況に一人苦笑する。
この国の石は光を反射するのか、先程の光柱で、道や人家に被害は無かった。
黒い少女を守る黒い鳥達が幾羽も光柱の直撃を受けたが、それも不思議と致命傷ではないことを、逃げながら感じていた。
「……何か耐性があるのかな、あいつら」
そもそも先程の光が何であるのか、それも少年には詳細がわかっていない。
それは少し前まで、聖魔を名乗った同居人、紅い少女の背にあった羽の光に似ている。それだけその特性を把握する。
「……太陽や聖地で、元気になるんだよな、確かあれ」
強まった眠気を堪え、息をひそめる。しばらくの間大人しく待ったが、黒い相手が追ってくる気配は微塵も感じない。
それなら、と必死に、疲労の強い躰に喝を入れ――
吐き気と共に立ち上がった、その時だった。
「……―え?」
少年はただ、その緋色の影に愕然とする。
「なん……で……」
立ち上がって顔を上げた刹那に、ようやく気付いたある追跡者。
黒い少女が以前にかいま見せていた緋い蛇。それが少年のすぐ足下で、かま首を擡げていた。
「……銀……?」
現状把握に優れる勘の良さを持つ少年が、その追跡に気付けなかったこと。
直観の知覚も程々に抑えられた金色の髪の少年はともかく、その内の「銀色」までが、反応せずに訪れていたこの事態。
金色の髪の少年からすれば、有り得ないこと。
目前の危機を確実に探知し、そう断言する。
緋い蛇は寸分の容赦もなく、爬虫類特有の無機質な鋭い目で少年を見据えた。
人間のみならず、化け物でも反応の難しい速さで瞬時に蛇が跳び上がった。
「がッ――……!!」
少年の足下から、顎に激突するように蛇は首に喰らいついた。四つの毒牙が顎の付け根に激痛を伴って喰い込む。
「っぁ――あああああ……!!!」
毒牙を通して注入された何かは、緋い蛇が今日まで秘密裏に守り通したものだ。
目的を遂げて離れた蛇の前、血を噛んで喉を押え、躰を折って倒れた少年は事態を悟る。
その傷口からある「力」が、この少年にだからこそ、全身を侵して広がっていた。
「ぁぐ――、あ、あッ……!」
その絶え間ない侵蝕――躰が崩れるような悪寒が、少年の視界を霞ませていく。
「っ……そういう、コトか――……」
このまま、雨上がりの石畳に熔けていく。
己が形を失う危機を、止められるとすればただ一つ……「銀色」が得意とする、全ての「力」に通じる白光だけだったが。
「わざと、だな……銀――……」
どんどんと意識が遠くなっていく。それでも現れようとしない「銀色」と少年のずれ。
「銀色」の行動や言動、声に出されなかった事柄を把握できない金色の髪の少年は、その隠された願いをようやく自覚する。
暗闇で喉を押え、のた打ち回る力も消えた少年の元へ、やがてソレはやってきていた。
――悪いな、と。開口一番に、あっさりソレは言った。
「オレ、その銃の効力は知ってるんよ。何せ……うちのオフクロの秘蔵だしな」
横向きに倒れ、喉を掴む少年の傍で、黒い相手は緋い蛇を肩の上へ迎える。
「オレは囮で、本体はこっち。銃を使った後は逃げるだろーと思ってたし……太陽の眷属のアヤに、あの聖火はほとんど無効だからな」
ぴくりとも動かず、硬く目を閉じた少年の横で、黒い相手は屈んで全身の状態を確かめ始めた。
「……驚いたな。同じ自然の化生……相性がいいはずの精霊とはいえ……オマエ、竜の因子、持ってたりするのか?」
緩い声が段々と、影を潜めて鋭くなっていく。
「ティアリスが……養子にするわけだ」
何故かそして、少年の養母の真名を険しく呟いていた。
僅かに顔を歪めた少年に気付いてか、黒い相手は自らについて話し出した。
「オレは元々アスタロト……蛇の悪魔だけど、ワケあって神様に殺されてさ?」
それは養母の義理の祖母である、悪魔の女性の息子のことで。
養母からは叔父と言える相手は、養母より幼げな声調で先を続ける。
「色々あって、『竜の墓場』に迷い込んで。どうやらオレは、神の素因がある蛇――『龍神』でもあるとティアリスに言われて。そこで『逆鱗』を手に入れたおかげで、この世に戻れたんだけどな」
膝をつく黒い相手の肩から、緋い蛇が再び少年の喉元に近寄ってきた。
「コイツにはその『逆鱗』――今のオレの依り代を預けててな。ソレをオマエに遷させてもらったわけだが……」
少年の手の下では、顎から首にかけて、養母の額に刻まれた蛇と似た形の紋様――青白い光の「逆鱗」が浮かび上がりつつあった。
そして更に、少年の髪は銀色へ変わっていく。
「馴染むのが早過ぎるな。本当にオマエ、全く抵抗してなくないか」
黒い相手がやれやれ、と両肩をすくめる。少年をそうしたのは己でありながら、何故か溜息をついていた。
「ティアリスが悲しむぜ? と言っても……こうなることを、あいつはわかってたはずだけど」
頭痛を抑えるようにソレは片手で頭を抱え、険しい顔付きで少年を見下ろしていた。
「だから、ティアリスのことは甘く見るなって、忠告したんだけどな」
もう片方の手が少年の頭に当てられる。その手が触れた場所から、徐々に少年の髪の銀色が、緋みを帯びた金へと変わり始めた。
「それじゃ……望み通り、オマエをもらうぜ」
冷然とそれだけ、告げた直後に。黒い少女は意識を失い、少年の横に倒れ込んでいた。
その少年達の願いは――本質は同じでも、結果としては大きく違ってしまっていた。
自らの意志で躰を動かすための魂の力が、残り少ない己をどう扱うのか。どちらの少年も、少年自身が動き続けることには、そこまで興味を持っていなかった。
自らの力で、己の回転を保てないのであれば、自ら以外にその躰を渡せばいい。
そもそもは妹をこの世に還し、羽飾りを元に戻したかった少年自身の願いは、もう既に終わっていた。
しかしそこで、誰にその躰を明け渡すのか。
金色の髪の少年と銀色の髪の少年の願いが、ずれていたことを「銀色」は隠した。
――あたしの運命は、炯に変えられてしまった。
その黒い鳥の嘆きは、古い縁を覚えていた銀色の髪の少年には、聞き逃せることではなかったのだ。
――会えるよ。ソイツはあんたの近くにいる。
それが根本的な解決策ではないとしても。銀色の髪の少年にできることは、ただ一つだけだった。
冷たい石の上に、しばらく横たわっていた少年は、やがてゆっくり……月の光を緋みの鬱金、柑子色の髪に映しながら起き上った。
「…………」
倒れていた時に緩まった黒いバンダナが、はらりと石の地面に落ちた上で。胡乱な目は少しずつ、紅い覇気を宿すと共に青白色に染まっていく。
その養母とほぼ同じ目の色となった、柑子色の髪の少年。起き上がり、隣に倒れた黒い少女に気付くと……フ――と、困ったような穏やかな顔で、苦く微笑んでいた。
「……アヤ……」
座ったままで黒い少女を抱き起こし、その狭い肩にしっかりと両腕を回す。
待ち望んだ時を、大切に噛み締めるように……気を失ったままの少女を、愛しげに目を瞑り、強く強く少年は抱き締めていた。
何よりも長く感じられた、その束の間の一時に。
その後、黒い少女を石の壁にもたれさせると、緋い蛇を肩に乗せて立ち上がった少年は、月光の下で不敵に微笑んでいた。
「さてさて。まずは何から、始めたもんかな」
少年が大切にしていたバンダナを、首の傷を覆うようにしっかり巻くと、今の柑子色の髪の少年はうーん、と全身を大きく伸ばした。
「とりあえずどっかで、服でも買うかな……コイツそういや、金持ってんのかなぁ?」
不敵な表情はやがて、雲に隠れた月明りを失って見えなくなっていく。暗闇で柑子色の髪の少年は、懐から慣れ親しんだ玩具を取り出す。
「う……ん――……」
その時ちょうど、壁にもたれさせられた黒い少女が、眉間に皺をよせながら、うっすらと黒い目を開けた。
「……――って、え!?」
黒い少女に向かい、小さな銃を向けている謎の少年に気付き、黒い少女は焦って立ち上がった。
「……――!」
それを見越していたのか、柑子色の髪の少年は遠慮なく、その銃の引き金をひく。
月の有無で効果が変わる銃。天上の聖火、陽の光を貯めこんだ月という後援がない時の「力」。
闇に閉ざされた真の夜には、大気の熱を奪う仕組みとなっている「力」が、いかんなくその真髄を発揮していた。
「なっ……!!?」
少年と少女を隔てるように降ってきた巨大な雹に、少女はその路地裏の袋小路に、しばし閉じ込められることとなった。
「これは、フルーレティの氷……!?」
そんな檻は本来、少女には意味を持たないが、そうした足止めを仕掛けられたことそのものに、わけがわからず愕然としている。
「何のつもり……? アイツ――」
現在その攻撃ができるのは、先日から様子を見ている不秩序な「神」疑いの少年だけだ。何故攻撃をされたのだろうと、端整な顔を険しくさせる。
黒い少女が力任せに巨大な雹を溶かした後、柑子色の髪の少年の姿は影形もなくなっていた。
「……――あれ?」
そして黒い少女は、自身に訪れた変化にも気付く。
「何処に行ったの?」
それに縁のある悪魔を探す傍ら、常に首元に収まっていた緋い蛇の不在。蛇の正体もわかっていなかった少女には、それが消えた意味もわからないだろう。
キョロキョロと、ここまで共に旅を続けた相手を慌てて探す黒い少女を、近くの建物の屋上から柑子色の髪の少年は見下ろしていた。
「もっと他のこと心配しろよな、あいつ」
覚えのない場所で意識が戻り、突然強い氷の力を放たれた状況の相手に、その少年は苦く笑う。
名残を強く惜しみつつも……ある義理のため、そのまま闇に消えていった少年だった。
❖終幕❖
魔界のアスタロト城では、ほどなく大きな波乱が訪れることとなった。
「おー。これはまた、骨のある役者が上手く出揃ったもんだなぁ?」
不敵な微笑みと共に、妹を送り終わった、と帰ってきた柑子色の髪で青白の目の少年。フルーレティの使者で、かつアスタロトの養子と言う、これまでとは違う風体の少年を、城主が険しい無表情で出迎えていた。
ちょうどそこに、飛竜という強大な獣を駆る化け物も居合わせていた。
「貴様……何者だ?」
柑子色の髪の少年が帰る直前に、押しかけるよう訪れていた灰色の眼の男が、瞬時に厳しく強張った声を出す。城主、少年が揃った謁見の間で、少年を一目視て厳しい顔で問いかけていた。
柑子色の髪の少年は、その飛竜の男――少年の変容をすぐに見切る眼を持つ相手に、やはり不敵に笑う。
「なるほどねぇ。アイツが多分、無効化の短刀の主かな」
少し前にも飛竜の男は、城に強引に留まり地下階層に幽閉された経緯があった。だから城の悪魔達が警戒するのは当然だった。
その飛竜の男の傍らで、身を隠すように全身を外套で隠しながら、ゴツゴツとした輪郭を隠せていない巨体の者がいる。その存在感に、城中の悪魔の激震が走る。
城主は少年と、飛竜の男、傍らの者を全て一瞥した後で――
「……ついに……来たのね」
今までと顔は全く同じでも、あまりに表情や口調が違う柑子色の髪の少年だけを、「魔」が無機質に睨み据えた。
城主のあまりの殺気に、謁見の間の空気が凍り付いた。その凄まじい気迫に飛竜の男と傍らの巨体が一瞬顔を見合わせる。
少年は至って呑気に、何故か妙に緩い笑顔を見せる。
「そんなに怖い顔すんなよぅ? せっかくの再会なのになぁ、みんなさぁ」
「……」
「こーなるのはわかってて、それでもオレを戻したのは……お前だろ、ティア?」
その声には皮肉より、親愛の情がこもっている。城主はただ、そんな少年に冷たい目を向ける。
「……どういうことだ?」
視線をぶつけ合う両者に、飛竜の男が数歩踏み寄る。
「ユーオンをどうした、貴様」
ここでは紫雨と名乗る少年の事情を忘れる程、飛竜の男は内心の激情を抑えて尋ねる。その灰色の眼――本来の少年の養父に、柑子色の髪の少年は笑った。
柑子色の髪の少年は首に黒いバンダナを巻き、縦襟と短い袖で、短い丈の洒落た上着を纏っている。
場の全員――城主と飛竜の男、傍らのやや巨体の者に対し、己が目的の宣言を始める。
「そーだな。先に名乗るとすれば……オレは『氷雨』。紫雨の代わりの、フルーレティの使者だと思ってくれればいい」
「な……!」
飛竜の男はそこで、ある疑惑が確信に変わったように、驚愕の顔で少年を見つめる。
「紫雨の招魂、雲英がアスタロトの養子だってバレたしな? 今代のアスタロトの監察は、引き続きオレがする。何やら早速……面白い事態になってるみたいだな、この城は」
あまりに混沌とした状況を、蛇の少年は改めて内心で整理する。
情報源は城主の傍に侍る大きな烏だ。少年が借り受けている躰を、先日まで使った者の記憶は剣の内にあり、蛇の少年には見ることができない。
「アスタロトを名乗れる悪魔が、爺ぃと孫、二人ここにいて? 爺ぃを連れて来たのは、孫の間男ときたか」
アスタロトと化した城主を連れ戻したい飛竜の男。それが別のアスタロトの適性者、金属悪魔を連れてきた事態。
元々家を継ぐことを拒否した金属悪魔が、アスタロトと化するのを了承したとは思えなかった。
大きな烏に追い立てさせて、有象無象の悪魔達を下がらせた。柑子色の髪の少年はやや巨体の者へと目を向けた。
そしてその巨体の正体をあっさり白日に晒す。
「まさか、城を乗っ取りにでも来たのかい? 前代のアスタロトの嫡男さんよ」
にまにまと相手を見つめる少年に、相手はついに観念したのか、大きな外套を静かに脱ぎ捨てていた。
「……嘆かわしい」
二重にこもる不思議な声と、溜め息と共に、中から現れた異形の姿。
頭と肩に角らしき構造のある、金属製の絡繰り人形と言うべき、全身が角ばるやや巨体の謎の悪魔。少年はたまらず、大笑いを始めた。
「何だソレ、またカッコ良過ぎだろ! どう探せばこの魔界でそんなキカイ手に入るんだよ、オヤジ!」
「……オマエのその姿こそ、我は問いたい」
「いやまー、それは、オレは氷雨ってコトにしといてくれよ? この二人以外にオレの真名、決して口にしちゃやーよ?」
あまりに気安い会話を交わす、少年と金属悪魔はそれもそのはず、蛇の少年にとっては実の父になる。
フルーレティの家の悪魔の女性が、飛竜の男に探すように依頼した伴侶。アスタロトの血をひきながら家を継がずに放浪に出ていた者を、見事に飛竜の男は見つけ出した。
そして連れて来たのが、奇怪な金属人形の悪魔。それはアスタロトの血をもひく蛇を宿す少年には、まぎれもなく実父の成れの果てだ。
自身はただの使者の「氷雨」だと、正体は一応隠しながら、蛇の少年は金属悪魔と城主をまとめて見据えた。
「せっかくの孫とじーちゃんの再会なんだ、もっと嬉しげにしたらどーよ? アスタロト」
「……」
今の城主は、アスタロトとフルーレティの縁戚であるとは、当初からの触れ込みのはずだ。
実際その金属悪魔と血の繋がる城主は、ただ冷厳と蛇の少年だけを睨む。
「んで、どーするん? 今から覇権抗争でもおっぱじめるん?」
父たる金属悪魔の妙な義理堅さを知る息子は、ここに来たということは、飛竜の男に何か助力するつもりだろうとは踏んでいた。
飛竜の男は、蛇の少年と「魔」の城主――変容した少年と、それをひたすら睨む連れ合いという想定外の事態に、出方を悩んでいた。
金属悪魔はその傍らで、角ばった頭部の眼裂と思われる部位で動く、瞳孔らしき光を少年へ向ける。相変わらず二重にくぐもった声で応える。
「……抗争には及ばん。火撩殿と我は、現アスタロトを攫いに来た」
「――へぇ?」
「……孫を教育するは、祖父が役目」
「――わりぃ。全っ然、意味わかんねぇや」
けらけらと笑う蛇の少年に、飛竜の男と金属悪魔はそれ以上何も語らない。
「だってよ? どうする――アスタロト?」
にやりと城主を見て、今度は皮肉を込めた微笑みを浮かべる。
「…………」
城主はただ、冷ややかな沈黙を続ける。
ス――と。
城主が無表情に、無言で細い手を掲げた時、蛇の少年は深刻な事態の到来を悟る。咄嗟に傍に連れた緋い蛇に何かを指示し、そのまま蛇は少年の肩から下りて姿を消す。
「――アフィ……!」
同様に事態に気付いていた飛竜の男が、制止のために駆け寄る暇も無かった。
城主は額と頬に刻まれた蛇のような紋様を、額のものだけ青白く――際やかに光らせる。
「……邪魔なヒトは……みんな、消えて」
無色の大気が突然罅割れた。
そうとしか言えない黒い亀裂が、謁見の間の全空間に走った。
少年が先刻、城の悪魔達を下がらせていなければ、場の全員を塵一つも残さず切り裂く力が迸っていた。
「やべーやべー。魔竜ちゃん、ぱねぇなぁ、相変わらずなぁ?」
「…………」
空間ごと斬られるような暴虐な「力」の後で、場に残ったのは蛇の少年と城主だけだった。緋い蛇の手引きで飛竜の男と金属悪魔は、邪魔のできない所へ行ったはずだ。
「やっぱりお前、アスタロト化したのは逆鱗の方の人格か。魔竜に悪魔を上乗せして理性付けるなんて、大した工夫だよ、ホントになぁ」
悪魔じみた顔で笑う蛇の少年。その首のバンダナの下にも、城主とよく似て青白く光る、蛇の如き紋様が浮かび上がっていた。
「オレもそうだけど、逆鱗……『力』の人格なんて、『魔』の人格と紙一重だもんな?」
大き過ぎる「力」を制御し、「力」の主を守るための心。それは主の望みを叶える「魔」の心と大差ない、と、変容してまで命を繋ぐ少年は嗤う。
「……」
城主はまるで言葉を忘れたように、今も揺らめく大気を纏いながら蛇の少年を見据える。
それが魔竜の暴走であるなら、少年だけをこうして外す「力」の使い方は有り得ていない。
激情に呑まれてその「力」を喚び出しながら、明らかに少年を傷付けまいと、自らの望みで己が暴走と闘う悪魔がそこにあった。
それでも少年は、目前の悪魔の限界を知識として知っている。
これまでと一転し、青白の目に厳しい眼光をたたえる。
「悪いことは言わない。この少年は諦めろよ」
「……――」
「願えば願う程、お前は『魔』寄りになる。それはコイツの望みじゃない――お前だけの、血塗られた妄執だ」
悪魔がそこまで激情に呑まれている理由。沢山の犠牲を踏み越えてまで悪魔はそこにいる。どれだけ己を呪ったかも知れない。
今この時のために、運命を変えんと願っていた「魔」に、蛇の少年は冷たい目でまっすぐに対峙する。
悪魔はただ、消え残る理性で言葉を紡ぐ。
「……ユオン、を……かえ、して」
その少年の存在を奪った者は、冷然と答える。
「ならまず、お前が帰って来いよ」
紫雨としての目的は失った少年が、あえてこの城に訪れた目的。飛竜の男達にいられると困る理由だ。
他ならぬ目の前の相手と交わした約束――義理のために、少年に宿る蛇は、姪にあたる相手を厳しい顔で見貫く。
「オレに『逆鱗』……龍としてのオレの器を教えてくれる代わり、お前は、自分が魔竜になった時は殺せ。そう言ったよな?」
それは彼らが、ある黄昏の地で話していたこと。
龍の因子を持つが故に、「竜の墓場」に迷い込んだ蛇の悪魔と、未練のためにその墓場に留まり続けた魔竜の、遠い日の出会いだった。
「……みんな、心配してるぜ、ティアリス」
「――……」
蛇の少年は何故か、自ら「逆鱗」と呼んだ相手を、真名の方で呼びかけ続ける。
天井が高く、傷だらけの柱が立ち並んだ、二人だけの謁見の間で。不思議な程に、蛇の少年の声が優しげとなった。
ずっと揺らめく大気を纏う、黒い礼装で空のような青い髪の魔竜は、無造作な長い髪を微かに揺らして俯く。
「……違う……」
両手を握り締める魔竜は、かすかであっても呪詛のような、震えるばかりの声を振り絞る。
「わたしは…………」
目前の蛇が誰であるか。遠い日に確かに会った蛇の龍を、覚えていたその魔竜は、
「私は……ティアリスじゃ、ない」
相手と出会った地、「竜の墓場」で知ってしまったこと。留め続けた旧い自らの、願いと真の名を口にする。
「私、は…………ミリ、ア……」
我が子を助けたい。叶わないと知っていた願いと共に、封じられるしかなかった名前がそこにはあった。
しかし蛇の少年は、にべもなく相手の揺らぎを斬って捨てる。
「違う。お前はティアリスだよ、ずっと」
最早、蛇本来の緩い口調は跡形もなかった。
「それは『魔』だ。もうその名前の主ですらない、変わってしまった何かなんだよ」
――わたし、自分の名前がないの。
――……あれは、母さんと同じだけど。でも、もう母さんじゃないんだ。
今の蛇に躰を譲る前に、銀色の髪の少年が気が付いていたこと。それを蛇も知っていたと……少年は魔竜を真っ向から無機質に見た。
「『魔』を殺せ。オレにそう言ったお前が、本当のティアリスで――アースフィーユだ」
そして少年は、ばさりと黒い羽を広げる。
その切り札、自らの母の武器で、蛇の少年の力も上乗せできる短銃を取り出して構える。
「お前は自分が消えないように、『魔』になる自分を最初から逆鱗に分けた。そうでなきゃ、今までのお前が嘘になる。その『魔』が本質化するなんて、お前もゴメンだろ?」
「……――……」
自身にその銃を向けた少年に、魔竜はまるで放心したように顔を上げる。
やがて、とても安堵したような、泣き出しそうな微笑みを見せた。
その魔竜に少年は、唯一つの救いとして。
魔竜の望み通り、迷いなく引き金を引き……。
その魔竜の巫女の望みは、実際の所、「神」と「竜」の素因を持つ少年に殺されることにあった。竜の巫女とは本来そうして、まだ形のない「竜」を降ろし、誰かに渡して消えることが常なる定めなのだ。
「竜」という「力」たる己を、魂の途切れかけた我が子へ渡す。そしてその命となることを望んだのが、消えない「魔」の望みだった。少年の実の妹が、竜の命たる珠玉の力で、この世に留まっているのと同じように。
だから魔竜は、それを知れば止めるだろう連れ合いと、距離を置くことしかできなかった。
「……世話の焼ける奴らだなぁん、本当に」
本気で魔竜を撃ち抜く気で、蛇の少年は聖銃の引き金をひいた。しかしそれは、少年に躰を渡した者には、許せない行動だったらしい。
すんでの所で照準をずらされ、魔竜の周囲の熱だけが奪われて凍結する。
「ここまでしなきゃ、オマエは反発しないん? ユオン君」
凍りついた空気の中心で、暴徒と化していた城主が、気を失って倒れていた。それを抱き起こしながら、蛇の少年はぼやく。
「ティアリスの望み、オレは叶えてやりたいけどな。そうすればオマエは多分、生粋の竜として独立できるはずだし」
そうなればこの躰も、晴れて自分のものだと、本気で蛇の少年は残念そうにする。
それでも蛇の逆鱗に取り込まれつつあった者が、自己を取り戻したらしいことには安堵していた。
「誰かを守ろうとするのに、守られることは拒むのか。そんな、自分を追い詰める方向でやっと自分に戻るって、どーなんよオマエは」
その相手が自己を取り戻せた理由が、己の救いを否定する矛盾。それにはさすがの悪魔も笑うしかない。
「オマエには、周囲がオマエを大切に思う心は……オマエ自身の自己愛扱いなのかねぇ」
座り込んで城主を抱え、様子を確認しながら、内なる誰かへ蛇の悪魔は語り続けた。
その、己と周囲の区別が曖昧な者へと。
「だからそれはオマエには重要じゃなくて。あくまでオマエ以外を助ける方向じゃなきゃ、オマエは動かない。ティアリスのやり方も大概だけど……子を思う心としては、そっちはまだ理解できるんだけどな」
逆鱗に取り込まれることは避けられたが、元の少年は全く浮上してこない。やれやれ、と蛇の悪魔が肩を竦めた。
「まー……そーいうバカ、嫌いじゃないぜ?」
魔竜たる悪魔の時を凍らせた、同じ怠惰な悪魔の適性を持つ蛇は――
内なる誰かの凍った心を、そのまま受け入れる。
そこで蛇の悪魔は、城に再び、飛竜の男達が踏み入ってきた気配に気が付いていた。
「んじゃ……後は、任せるとすっかね?」
名残惜しそうに、城主を静かに床に降ろす。
そのまま一人、姿を消した蛇の悪魔だった。
了
そうして面倒事は全て、父の世代に任せた。魔界の城を後にして、蛇の悪魔は気ままに宝界へと戻る。
その先では瑠璃色の髪の幼女が険しい顔付きで、紅い少女と共に待ち受けていた。
「……兄さんから、出ていって。蛇のヒト」
少年がいる場所をどう見つけ出したのか、紅い少女に頼んで連れて来てもらったらしい。灰色の猫のぬいぐるみを抱える幼女が、純粋な殺気と共に睨んできた。
何処ぞの近代的な建物の屋上の柵に座り、暗い夜景に浮かぶ町々の灯りを背に、蛇の悪魔は不敵に微笑みを返す。
「そう言われても――当の兄さんにその気、ないみたいだけどなぁ?」
心から意地悪く笑った悪魔に、幼女は痛く不服気に眉を顰めた。
「わたし……アナタのこと、嫌い」
「そっか。そりゃ、残念だなぁん」
紅い少女はにこにこと、黙って横で見守っている。幼女は柵上の少年を見上げ、その首元の黒いバンダナを見て更に顔を険しくする。
「……それがあれば、兄さん、大丈夫なのに」
「――お?」
「兄さんの大切なヒトと、わたしが好きな兄さん達がそこにいるのに。兄さん達なら、きっと……兄さんを助けてくれるのに」
それはおそらく、一部の黒い「神」と、この幼女だけが気が付いていた。少年と関わっていた、ある者達の残滓がそこに在る真実だ。
省エネ型の金色の髪の少年は、バンダナを着けていた時に確かに状態を持ち直していた。そのままの少年に「力」になり得る何かがそこにはあった。
なるほどね、と、蛇の悪魔はその黒いバンダナの謎を考える。様々な呪いや「力」を抱えた媒介を、改めて下目に見つめた。
「そりゃまー……それはさすがに、不秩序で反則業っぽいしなぁ?」
秩序の守り手である黒い少女が、その媒介を取り上げる役目を負うことも知る蛇は、少しだけ困ったように微笑む。
「そもそも、兄さんが望んでないこと、無理にさせても仕方なくないか?」
「…………」
そして問題をそこに戻す蛇に、幼女は再び酷く不服気となった。
その後は何も言わなかった幼女達を置いて、蛇の悪魔は夜の町明りの中へと消えた。
「兄さんの――バカ」
柵越しに町の灯を見下ろしながら、幼女はそれだけ、噛み締めるように呟いていた。
色んな相手から、バカバカと言われるその少年は、表向きの少年……龍神でもある蛇の悪魔が、好きに動く現状を受け入れてしまっていた。
しかし蛇は逆に不服そうにしている。名前も知らない都会に流れる川で、木造の橋に腰かけながら、独り言のように少年に話しかけた。
「なー。オマエは本っ当に、これでいいん? オマエさえ望むなら、抜け道はある気がするんだけどなぁ」
夜の川は町の灯を所々反射している。表通りから遠い川辺にひと気は少なく、暗い川面に少年の影だけが僅かに重なる。
「オマエが独立してくれた方が、オレは凄く助かるんだけどなぁ? さすがにオレも、別のオトコが中にいるのに、アヤに手出す気にはなれないんよね」
その後しばらく沈黙が訪れたのは、そこまで責任持てない。そんな反応があったようだった。
それなら今も腕にかかった、内なる少年の依り代である羽飾り付きの鍵――携帯型の剣を捨てればいい、と少年は蛇に答えたらしい。
「んなこと、隣の妖魔がさせるわけねーし。ヒドイ呪いだぜ? シャワー浴びる時すら、この鍵外せないんだからなぁ」
この蛇からは度々、こうして謎の単語が口に出される。蛇は少年が思いもしない、様々な場所へと飛び回っていた。
一度死した後、蛇の悪魔は「竜の墓場」という神域で「逆鱗」を手に入れた。それで龍神と化した気配は、生前とは変容しているという。
だからこれまで、黒い少女に気付かれずに潜むことができた。そのまま蛇は、黒い少女に見つからずに活動したいという。
「オレもオマエ以外の器を探すけど、簡単に見つかるとも思えねーし。無ければずっと、容赦なくこのままでいくからな?」
わざわざそれを、こうして尋ねる蛇のヒトの好さ。それは少年が初めから、感じ取っていたものでもあった。
「シグレが復活したいか、または成仏するか。身の振り方を決めねー限りは、オレも放浪の旅かなぁ」
金色と銀色の髪の少年を、まとめてシグレ、と蛇は呼ぶ。軽口を叩くように少年の所存を尋ねはするものの、何か指示をすることはなく、ただ答を待つ、と当たり前に受け入れていた。
「まー……どーせ、時間はあるしな?」
悪魔であり「神」である蛇に、寿命など時間の観念はないにも等しい。
何の道も選べず、時間を止め続ける少年に付き合う。少年の躰を完全に奪いも諦めもしない蛇の緩いこたえ。
結論を出せば、少年は自身を捨てるだけだとわかっていた。
何も決めずに迷い続けることそのものが、少年を生かし続ける拙い方途だった。
少年が今後、再起の叫びをあげるとすれば、紅い同胞と剣を取る時と知ってか知らずか。
「ここから何を希むのかは、シグレが決めるしかない。たとえそれが――ヒト殺しでもな」
そうした赤まみれの望みだけを持つ、少年を救うことはできない現実も告げる。
――…………ありがとう。
やっと少年は、それを「声」にできたのだった。
少年のこれからを希む全てに――
+++++
Cry per R. -resurgence-
千族化け物譚 C3 -了-
初稿:2015.7.1
カット版:2023.10.13
❖残夢❖
もう、と。その二つの人影は、昏い所に留まり続ける少年の前に突然降り立っていた。
「ホントに良かったなぁ? エルフィちゃんがその記憶、『忘失』させてくれてて」
ある夢のような現に迷い込んだ時、少年から失われていた、束の間の邂逅の記憶。
別の場所に保存されたことで、少年の不調で消える末路をそれは免れた。
ただ温かな記憶を、狐の耳を生やす白い娘が、危うげに微笑みながら届ける。
「でも、私が見つけなきゃどうなってたことか。これ以上鶫ちゃんに心配かけたら、さすがの私も怒るからね?」
白い娘の後ろ、温かな赤がちらりと見える。誰かはそっと、一番大切な約束だけを伝えた。
「待ってるから……狐魄と一緒に」
少年はその誰かに、困ったように笑う。
「……誰にも、会う気はなかったけど」
そして自身の意志と矛盾する、拙い希みを口にした。
「でも……あんたに会いたかった」
不服げな誰かへ、少年の答探しが始まる。
千族化け物譚❖Cry/R. -resurgence- ver.S
ここまで読んで下さりありがとうございました。これにて千族化け物譚Cry/シリーズは終了となります。
ここからは本来ドラゴンなDシリーズのD3に繋がりますが、Dシリーズはほぼ未執筆のため、Dシリーズダイジェストに近い『青炎』が続編となります→https://slib.net/117044
『青炎』の後、『インマヌエル -天-』に続き、直観探偵シリーズになると思っていただければ……。
初稿:2015.1-6 C3 Cry/R.
※11月初めにはC3外伝と言えるAtlas' -Cry-シリーズ最終話、④の「sin eater」を掲載予定です
※ノベラボにてCry/シリーズの総括になる『Cry/Eyes』も11月の同時期に掲載予定です
→https://www.novelabo.com/books/6720/chapters