クズ

 隣人のアラームの音で目が覚める。ワンルームアパートの壁は薄い。毎日壁の向こう側から男女の笑い声を聞かされるたび、イライラが募っていた。それなのに。騒がしい音はいまだ止む気配がない。随分おつかれなのであろう隣人たちのために、壁を思いきり一発ぶん殴る。ようやく音が止む。寝起きさえ知らない誰かに左右されるのか。頭を掻きむしる。こうしてサラリーマンの一日が始まる。
 30分ほどかけてベットから起き上がる。低血圧症は朝が天敵である。簡単に髭剃りと歯磨きだけを済ませ、就活の時から5年ほど使っているシワシワののコートをスーツの上に羽織って家を出る。扉を開けると隣人も家を出るところだった。扉の前でもイチャイチャと笑い合っていた。男が鍵を閉めるのを、女が荷物を持って待っている。私に気付いた女性が怪訝な顔で男にヒソヒソ話しだした。今朝の壁ドンのことだろうか。嫌なら自分たちで起きやがれ。私は心の底から無視をして、鍵を締めて駅へ向かう。
 通勤ラッシュの電車では遠慮してはいけない。人間の山にプレスを掛けながら乗車する。前のやつを押しのけてベストポジションを確保する。中年の腹が背中に当たる。じっとりとした感触がある。腹は呼吸に伴って、膨らんではしぼんでを繰り返している。朝から見ず知らずのおっさんの鼓動を感じさせられる。うざい。身体の向きを60度ほどズラす。今度は細身らしい。後ろのやつに体重を預けて楽な姿勢をキープする。外の乾いた冷気はどこへやら。蒸し風呂のような車内は不快で充満していた。会社につくまでの間、ほんのたまに座席が空くと一目散に着席する。電車を降りるまで、目を閉じて心のシャッターを下ろす。満員電車なんてものは人の所業ではない。少しでも人の心をのぞかせたら、乗り切れない。
 降りる駅に着いたら人を押しのける。扉が開く少し前から、力を込めて人の山を押し込む。扉が開くと同時に人がすごい勢いで飛び出ていく。できるだけ早く降りるためのコツである。

 私の性格が悪いことは自覚している。私の性格が悪いことで困るのは、私以外の人間たちなのだからどうでもいい。というか私以外の人間も大概である。私なんて可愛いものである。
 会社には噂話と陰口が蔓延している。これはうちの社風である。信じて裏切られるより、怯えて信じるより、誰も信じないと決めるのが一番いい。みんなあえてこうしているのだ。大企業のグループ会社。その下請け。誰もこんな仕事やりたくてやっていない。やりたくもない仕事は、人を信じていていてはやっていけない。
 始業のギリギリに出社する。当然である。賃金が発生しないのに会社にいるやつはバカだ。仕事はそれなりにやるが、頑張りはしない。人生とは結局そういうものなのだ。それなりにしていれば間違いはないし、過度に期待してもいけない。欲をかかず、慎ましく生きていくのが人生の真理だと、なんか偉い人が言っていたような気がする。
 隣は後輩のデスクで、彼が作成した書類が乱雑に置いてあった。データを使いまわしたのだろう。作成日が去年のままだった。別に教える気はない。私はアイツの上司じゃないし、どうせ上司に確認するだろうし。別に彼のことが嫌いなわけではない。誰に対しても礼節を忘れない、よくできた後輩だと思う。でもそれがなんだ。どうせ他人だ。きっと彼は勝手に出世していくし、そのうち関わることもなくなるのだから。そう思いながらメールの受信トレイを確認する。
「佐々木さん、すみません。この資料っていつのものかわかりますか?」
 後方から私を呼ぶ、後輩の声がした。面倒くさい気持ちを見せつけるように眉をひそめ、振り返る。彼の伸びた背筋も張った胸も、私を見つめる真っ直ぐな目も、見ていられない。
「ちょっとわからないや、他の人に聞いてみて」
 私は知っていても教える気がなかったので、彼が持ってきた書類をろくに見ずに言った。そんないい加減な態度にも、彼は屈しなかった。
「わかりました。すみません、お忙しいところ」
 彼のあっさりとした気持ちのいい挨拶に、私の心は淀むのだった。

 右斜め前のデスクで、先輩たちが話をしていた。
「アイツ本当に信じられないよな」
 誰の話だろうか。私の話だろうか。仕事もせずにコーヒーを飲みながら話している。
「びっくりしたよ。普通ありえないだろ、今までいないよあんなの」
 こんな会話はどこにでもある。何の話なのかはわからない。何もわからない。それでもやってくるこの嫌悪感はなんだろうか。大嫌い。うちの会社は中途社員がほとんどである。それが要因の1つのような気もするが、まとまりがなく、それぞれがバラバラな方を向いていて、それをまとめるのは社内のゴシップや誰かの悪口なのである。残念なことに、それしか共通の話題がないのだ。残念なのはその事実ではなく、そんな彼ら自身のことである。
 話を聞いていると、その会話の全貌が見えてきた。どうやら新しく入ってきた年上の中途社員がタメ口をきいたらしい。どうでもよかった。大嫌い。
 後輩は相変わらず忙しそうだった。いつの間にかデスクは片付いていた。パソコンも書類もなくなっていて、外回りに出ているようだった。なんでそんなに頑張るのだろう。頑張って生きて、何が嬉しいのだろう。彼はいつも定時ギリギリに会社へ戻ってきて、パソコンを触り始める。君は仕事ができるからと、いろんな仕事を振られることも多い。毎日遅くまで仕事をして、それを見た弊社の素晴らしい人間たちは、「大丈夫?」「無理するなよ」そんな無責任な心配を軽率に突き刺して、夜の飲み屋街へ消えていく。それを意にも介さずに、むしろ「楽しんでください」なんて満面の笑みでお見送りをして、彼は遅くまでパソコンを叩く。彼にはなにか目標があるのだろうか。何か守りたいものがあるんだろうか。そういえば彼女と結婚したとかなんとか言っていた気がする。将来への貯金でも頑張っているのだろうか。
「おい佐々木」
 その声は思考をぶった切った。声のした方を見ると、陰湿ヤクザが立っていた。いや、もちろん実際にはヤクザではなくて、私のつけたアダ名である。大柄で目付きの悪い、しかめっ面の先輩。いかつい見た目ではあるが、陰湿な性格。上司には愛想が良いが、後輩が相手になると大きな体を更に大きくさせて命令する。こいつはこの会社の社長かなとよく思う。後輩の作った資料を無断で借用したり、雑用を後輩に押し付けて憂さ晴らしをするのは日常茶飯事だった。そんな人間のくせに、礼儀だとか上下関係だとかには会社の誰よりも厳しいのだ。
「はい」
 めんどくさい気持ちでいっぱいだが、それを出してはいけない。バレてしまったらネチネチと面倒くさい雑用を押し付けられて、「後輩なんだからやって当然だ」なんて意見で抑え込まれる。陰湿ヤクザの悪評はもちろん上司にも届いているが、毎度おなじみ弊社の素晴らしい上司たちは「まあ、人間関係も仕事のうちだから」と意味不明な理論で見て見ぬ振りをする。後輩たちは呆れ返って、中には陰湿ヤクザを軽く無視したり相手にしない人もいた。私は比較的相手をする方であるのか、結構な頻度で絡まれてしまうのだった。
「これシュレッダーかけといて」
 ざっと見て500枚。時間でざっと15分くらいか。見ると陰湿ヤクザが過去に使った古い資料らしかった。どうせ、こまめに処分するのを面倒くさがって置いていたのだろう。ふざけんじゃねえ。さすがに業務妨害だ。大した仕事もしてないくせに、なに偉そうに指図してんだよ。
「すみません、ちょっと今手が離せなくて。あとでも良ければやっておきます」
「おう」
 当然だとでも言うように陰湿ヤクザは満足げに自分の席へ戻っていった。くそったれ。めんどくせえ。

 定時を過ぎ、19時になっても帰ることはできなかった。陰湿ヤクザから任された雑用は、まだ手をつけていない。やつの雑用をするため?そんな理由で残業しているのでは、断じて、ない。仕事をしていて、夕方に仕事を振られることは結構ある。それは単に、上司が定時で帰りたいからというクソみたいな理由である。だから、基本的には毅然とした態度で定時退社を順守している。上司の命令より会社のルールの方を順守するべきであることは、考えるまでもなく当然だ。そんな私が残業をするのは、自分がやらなければ進まない仕事が残っているときで、今がその時である。会社に残っているのは私と、もうひとり。定時すぎに帰ってきた後輩である。彼からは昼間の慌ただしさがすっかり消えて、今は静かに落ち着いてパソコンを叩いていた。シンとした社内に、2人のパソコンを弾く音だけが広がる。人の少ない社内は落ち着く。騒がしい噂話や陰口もない。各々が、仕事をするという1つの目的のためだけにこの空間にいる。昼間の社内にはそれがないのだ。不純な感情が渦巻いていて、皆がバラバラのことを考えている。この時間だけは、喋らなくても同じ目的で同じ空間を共有しているというだけで、仕事仲間をほんとうの意味で仲間だと思える。
「どう?何時頃帰るの?」
 もう帰りたかった。自分の仕事は終わったが、後輩のデスクにはまだ書類が積まれていて、彼が仕事を終える気配はなかった。
「あと数分ほどやろうと思います。佐々木さん、終わりですか?」
「ああ、うん。こいつをシュレッダーかけたら終わりだな」
 唐突に陰湿ヤクザの雑用をやってあげようと思った。今ならやってあげてもいい。会社が心地良い今のうちにやっておくべきだという思いが湧いたのだ。
『ウーン、ザザザザザ』
 心地よいシュレッダーの音が響く。どうやら後輩もパソコンを弾く作業は終わったらしく、シュレッダー以外の音は聞こえなかった。
「それ、佐々木さんの仕事じゃないですよね」
「え?」
 会話が終わった気でいたので、聞く体制を解いてしまっていた。
「それ、利根山さんに振られたんですか」
 利根山とは陰湿ヤクザのことである。ご名答。やっぱりこういうことをするのは陰湿ヤクザくらいだと、そういう印象は誰でももっているみたいだ。
「そうだね」
「利根山さんのこと、嫌いじゃないですか?」
 彼はこちらを見ていた。私の答えに興味があるようだった。
「うーん…好きではないけどね」
「はは……僕もです」
 意外だった。彼は刀根山のだる絡みにも不快な顔ひとつせず、かと言って近づきすぎることもなく、誰とでも上手な距離感を保っていた。彼が誰かを間接的にでも『好きではない』というのは初めて聞いた。
「意外と腹の中では色々思っているタイプ?」
 私は半笑いで聞いた。フザてた感じで彼の本音を聞いてみたいと思った。
「誰にでも思うわけじゃないですよ。この会社の人、いい人多いですし」
 いい人。一体この会社のどこの誰のことを指しているのだろうか。
「うそだね、私の悪口とか陰で言ってない?」
 おどけて言う。本気で聞いていると思われないように。
「そんなことないですよ。佐々木さんは後輩から評判いいですよ。一番真面目に仕事に向き合っているのは佐々木さんだって。残業も結構してるでしょう?」
 あまりに想像の外から言葉が飛んできたので面食らった。評判がいい?真面目?誰のこと?私のこと?残業はたまにしているけれど、そこまで多くないつもりでいた。時間をかけて言われた言葉を受け止めると、徐々に自分の心が弾んでくる。自分でも浮かれていることが目に見えてわかったので、それを悟られないように都合のいいところだけシュレッダーの音で遮られ聞こえないふりをした。
「ごめんよく聞こえなかった。残業?あれは自分の仕事をやってるだけだよ」
「その自分の仕事っていうのが佐々木さんは多いんですよ?責任感があるっていうか。噂話や陰口も言わないし、後輩からすれば一番信用できるんですよ」
 舞い上がってしまいそうなのをこらえる。
 自分が何者なのか。主観と客観が違いすぎて混乱してくる。
「刀根山さんもきっと、佐々木さんが受け止めてくれるから言っちゃうんですよ」
 そうだとしたら、たまったもんじゃない。
「そうなのかな。まあ、刀根山さんも悪い人ではないと思うよ」
 大人なセリフ。性格がいい立派な人間だと認めてもらうためのセリフ。こう言っておけば印象は悪くならない。表情には出さず、なんでもないようにシュレッダーに紙を投入し続ける。
『ウーン、ザザザザザ』
 会話が、少し止まった。なにかしくじっただろうか。ヘマをしただろうか。不安になって彼を横目で見ると、彼は書類にペンを走らせながら言った。
「たしかに」
 今までとは声のトーンが違っていた。
「え?」
 想定外の真面目なトーンに、対応しきれずに思わず聞いてしまった。
「きっと弱い人ってだけなんですよね」
 どきりとする。彼が話しているのは自分のことではなく利根山のことだと気付くのに、少し時間が必要だった。
「前の職場がブラックだったんですけど、あの頃の僕は刀根山さんのような人間でした」
 そうだ、彼も中途社員だったと思い出す。彼はペンを動かす手を止めた。
「心が弱い人は周りがみんな敵に見えます。心が弱っている人は自分の心を守るために攻撃的になります」
 自分の心からみるみる余裕がなくなっていくのがわかる。彼のこと、利根山のこと、そして自分。彼の言葉が3人を絡み合わせて混合させる。頭が忙しい。誰の話だっけ。
「弱さを見せまいとしているだけで、問題なのは弱さを見せられない環境の方ですよ」
 これは利根山の話だと自分の脳に言い聞かせる。混乱は収まらない。焦りは止まらない。
「もちろん、迷惑な行為は罪でしかないです。でも、だからといってその人が『性格の悪い人』だとは言えないんじゃないですかね。今、ここで、悪い心が出ているだけで」
 一言一言に安心したり緊張したりしながら彼の言葉を聞いてるのは、これが自分へ向かう言葉だと捉えているからだ。自分の話を、彼はしている。
『ウーン、ザザザザザ』
 シュレッダーに投入する手は止められなかった。静寂の中で彼の言葉を受け止める自信がなかった。彼はなにかをバラバラにしようとしている。よくない。私がシュレッダーを止めないのを見て、再び彼のペンを持つ手が動き出す。
「受け入れるべきだとかそういう話ではなくて。ただ、利根山さんのこと弱いんだなとしか思わないです」
 その言葉は私の心の核に刺さったまま、でも貫いてはくれなかった。毎日の中で私がせっせと固めたガチガチの心は、見事にバラバラにされてしまった。もう彼の方は見ることができなかった。
「ねえ。今は性格悪くなりそうなとき、ないの?」
 私は最後の望みをかけて問いかけた。精一杯ひねくれた気持ちで聞いてやった。
「私ですか?ええ。職場も変わったし結婚してからは妻が支えてくれているし。今は心もずいぶん強くなりました」
 ああ。望みは消えた。心の核に刺さったままの彼の言葉は、身体中を反響していた。

 帰り道、1人で駅前の焼肉店から出てくる利根山を見かけた。そういえば今日は給料日だった。ほろ酔いの彼は私に気づかずに歩き出し、地下鉄への階段の手前で立ち止まった。早く帰れと思った。さっさと帰ってこの傷を癒やしたかった。利根山は空を見上げると安らかに微笑み、空にスマホを向けた。彼は満月を撮っていた。見上げるとたしかに月はいつもより大きかった。歩く人達は首を縮めて、そそくさと地下鉄の階段を降りていく。利根山と私だけが月を見ていた。彼のいつも細いつり上がった目尻は、少し垂れている気がした。雲ひとつない澄んだ空。冷え切った空気は心も体も縮込めてしまって固くするけれど。大きな月の鮮やかさは、閉じ込めていたものを開放させた。童心に帰ったようだった。無防備な利根山。ああ。身体の中に残っていた言葉を反芻する。(問題なのは弱さを見せられない環境の方ですよ)(弱いんだなとしか思わないです)きっと同じだ。私と利根山は同じだ。怖いのだ。怯えているのだ。悪口を言われること、陰でコソコソ話をされること。弱いと知ってしまうより、性格が悪いと思うほうが楽だった。陰口を言われても、性格の悪い自分なら開き直れる気がした。私はずっと目を背けてきた。弱いということから目を背けるために最低な方法で強がって、そうやって、弱い心がこれ以上傷つかないようにメッキで固めた。利根山は、ほんとうはずっと繊細で純粋な人間で。大きな満月に嬉しくなって、きれいな満月に癒やされるただの人間で。当たり前だけど、純粋な悪などそうそうないのだ。弱さから逃げるのは悪いことだけれども、彼にだって救われる瞬間があっていい。心を許す瞬間があって当然で、彼にもそして私にも、自分の弱さを愛する権利がある。
 後輩よ、私の負けだよ。私はただの弱い人間だ。おいおい泣きながら、帰った。

クズ

クズ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-09

Copyrighted
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