御髪/傾ける(再掲)

『御髪』については、2021年6月7日にアップした記事を加筆修正したものです。他方で『傾ける』については2016年11月30日に「小説」としてアップした記事を、「自由詩」として大幅に加筆修正したものです。

御髪



私が髪を綺麗というとき
私は見た目を褒めている。
私が見た目を褒めているとき
私は私の髪を貶している
又は、私より綺麗と思っている。
私の髪も綺麗だけど、
あの子の髪はもっと綺麗だ、と。



私の髪も綺麗、というとき
誰かの髪と比較している。
私より綺麗じゃない、
見たこともない、
誰かの髪が綺麗じゃない。
そう思っている。
けれど、誰かの髪が綺麗じゃない、
と思える私は、髪が綺麗じゃない、
そういう時を知っている。
私の髪がそうだったり、
あの子の髪がそうだったとき。
髪が綺麗じゃない。
それを知っている私は
髪を綺麗にしたい、そう願った。
努力した。
だから私の髪は綺麗になった。
私の髪は綺麗だ。



私の髪は綺麗だ、そういうとき、
私の髪が綺麗かどうか。
それを判断できると私は思っている。
艶めいた髪に見惚れたり、
触った髪が柔らかかったり、
絹のような細さが束ねられたり、
あらゆるアレンジに応じる、素直な髪だったり。
一つでも、これに当てはまる髪は綺麗だ。
私はそう言う。
私はそう思う。



髪を綺麗だという私の綺麗、は
どこまでも通用する、のかどうか。
私は悩む。
私は自信を失くす。
「綺麗」に込められる私の綺麗は
どこかの誰かの綺麗になって、
どこかの誰かの綺麗に届かない。
そこで話し合われる綺麗は、
私の綺麗を広げたり、
私の綺麗を頑なにする。



綺麗を誰かと話し合った。
綺麗を誰かと共有した。
綺麗を誰かのものとぶつけ合って
綺麗だと思うものを誰かと撮ってみた、書いてみた。
私が髪を綺麗だと言ったとき、
嬉しそうにありがとう、と髪が綺麗なあの子が言った。
ううん、と私が照れて答えた。
その子は私が綺麗だ、とは言わなかった。
けど、手櫛で梳く髪は靡かれた。
それは私の髪?
残念ながら覚えていない。
けれど、今でも、
私は綺麗を、綺麗と思う。
でも、
どんな理由で?
どんな理由で綺麗と思う?
艶めいているから、
柔らかいから、
絹のようにまとまっているから、
アレンジが決まるから、
だから、何故?
私の綺麗は、どこに繋がっている?
どこに綺麗を置きたい?
綺麗をどこに、置いてみたい?



休火山の斜面の灰色が作る目の前の景色。それを眺められるパーキングエリアの小石を踏んだスニーカーが鳴らす音。私とあの子の足跡の違い。分からない、分からないけど大声で、綺麗に口を動かして。



高らかに宣言する。



「この目に写るものの、全てがいい。」 
いつの間にか隣に立っていたあの子がそう言って、強風に靡かれてばかりになった髪。その姿を見つけて、その目を眩ませる誰かが仮に現れて、一生の思い出を抱える事となった時にはその嬉しさを聞かせて貰えたらと、そう心から願っている。




傾ける




 小さい花が踊るように散りばめられたティーポットを前にして祖母が私にしてくれるその昔話は、主に学生時代を中心にして繰り広げられた祖母の心を射止めるための殿方たちの涙ぐましい努力の思い出であり、それに出来る限り応えてきた祖母の羨ましい恋の始まりと、切なくも悲しい終わりを迎えてしまった過去の涙が素敵な笑顔の思い出によって締められるのがいつもだった。
 その頃の写真も見せてもらったが、若い祖母は確かに綺麗で、好奇心によって磨かれた左右の瞳が今にも話し掛けてきそうな勢いを感じさせるものだった。感情と直結する頬の動きが表す笑顔も、こちらに向かって指をさす元気な印象も祖母の魅力を物語るのに十分過ぎるぐらいの輝きを放っていた。
 多分にそれを苦手とする人もいただろうけど、しかしながらハマる人にはどハマりする。そんな祖母が体験してきた恋愛なのだからドラマチックになって当然。事実、私はそんじゃそこらの恋愛ドラマじゃ満足しないぐらいの刺激的な追体験を楽しんだ。当の本人にとっては実に当たり前の日常だったという肌実感に基づく淡々とした口調がそのエンターテイメント性に拍車をかけていて、祖母の前で愛を誓った相手に対する独善的な分析はいちいち私を納得させた。美辞麗句と罵詈雑言との間を行ったり来たりする祖母の主観的な心情表現も、ときに言い過ぎる面を注意しながら、手に取る舵の気の向くままに舳先を向けて思い出の海を遡っていった。




 日当たりがいい祖母の家では踊る様に風に吹かれるカーテンレースがいつも楽しそうで、夢みたいな光景の中に身を置くことを強く意識させた。テーブルの上にある焼き菓子はいつも山盛り、温かいお茶に添えられたティースプーンの小ささを私はずっと愛していた。そこに顔を写したり、むやみやたらにペロっと舐めたりして、目の前に座る祖母にこらっ!と叱られるのを期待して、その顔をずっと見ていた。しょがない子ね、なんて言葉にする前に伝えているその笑顔に会いたくて、週末の朝を私は祖母の家で迎え続けた。「よく飽きないね」と言ってくる母に向かって私は、「そんな言葉よく口にできるね、私のお母さんだとは思えない」と口答えをし、「うわぁ、生意気!」と運転する母の呆れさせては「似るもんだねぇ」と独りごちながらハンドルを切る母の姿を横目で見て、ふふん!と得意げな顔をした。いつもの住宅街から景色を変える世界のど真ん中を突き進んでいる気分だった。



 イサムノグチの彫刻が好きだった祖母は小さい頃の私にはちっとも理解できない抽象的な作品を、数点ながらも丁寧に棚に並べて、私と話さない時間を掬い取る様にきらきらと輝く目をそちらに向けていた。
 そんな時にする祖母の癖はあって、すっかり細くなった指に収まる誓いの指輪を時間が生んだ隙間の分だけ親指でクルクルと回す、もう一度回す、そこでしばらく止めてから半周分だけ元に戻す。そのルーティーンを私が呼びかけるまで続けるのだった。
「ピッタリ合うサイズにすればいいのに。」
 私がそう言うと祖母は決まってこう返した。
「そうね、それがいいのかもしれないけれど、あの人がくれたものをね。そのままにしたいの。変わる私が悪いんだわってね。意地を張りたいのよ。」
 感情とか記憶とか、そういう人が扱える情報を目の前にある「もの」がどれだけ保てるのか、私には少しも分からないけれど、その時の祖母の答えに込められた気持ちだけは私の記憶として、今も大切に飾ることができる。思うに、あの声音はきっと遠い過去から流れてくる鎮魂歌で、陰る部屋の片隅に置いて行かれた様な寂しさに負けないために、自分を奮い立たせるためにやっと口にできたもの。あの頃の祖母から見て、未来の塊みたいな存在であった私が小さな闖入者として踏み込んだ二人の思い出の中で、精一杯に行った反撃。
 私には全く見えなかった、祖母の内側で沸き起こったその衝動に一番驚いたのはきっと祖母自身だったと思う。紅潮した頬を不自然に緩めて見せるぎこちない笑顔に、あの時の私は「?変なの。」ぐらいに思わなかったけれど、あれは思い出として語られる彼女ではなく、ずっと恋をして、愛を学び続けている祖母のリアルだった。きっと。だから私も前に進めている。彼女の背中を追ってずっと、ずっと。




 理屈なんて要らない。よく見える眼鏡なんて湯気に曇らせてしまえばいい。ふふん、と鼻で歌って口をつけた先から火傷して。痛い思いに涙を流しても、私のことを愛してくれるから。ソーサーをひっくり返した朝の死に、瞼を捧げて、愛を語ろう。

御髪/傾ける(再掲)

御髪/傾ける(再掲)

  • 自由詩
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-10-07

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted