身近な神様
いつも、そこに
18時を過ぎた音楽室には淡いオレンジの陽光が差し込んでいて、窓のフレームが影になって正確な線を描いていた。
二、三枚の窓が開いていて、風に靡くカーテンが影と一緒に踊っていた。
「来てくれたんだね」
教室の中にいる神様が言った。
「無事、完成しましたから」
光の反射でよく見えない神様の顔を見ながら言った。
高校一年の夏休み。午前で終わったクラブ活動の居残りをしているときに、私は神様と出会った。
「やけに丁寧な演奏だね。ピアノが怖いのかい?」
神様が言った。全く知らない男の人の声だったけど、特に驚くことはなかった。説明はできないけど、この人が神様だということがわかったからだ。
「いえ、練習して間もないだけです」
「そうか。仕上がりが楽しみだ」
神様は教室の前の椅子に腰かけた。
「あなた、神様ですか?」
「如何にも。私が神だ」
「お前だったのか」
「…ん?なんだそれは」
「あ、すいません」
神様は全知全能ではないらしい。
それから私は神様といろんな話をした。
クラスのこと。
友達のこと。
先生のこと。
悩んでいること。
それら全てに対して神様は
「大丈夫だよ。ゆっくりでいいんだ」と
言った。なんの説得力もない言葉だけど、私の心にはその言葉がじんわりと響いていた。
私はピアノが好きだ。
生まれてからずっとピアノを弾いてる。
正確には2歳の頃から弾いている。
得意分野の欄はいつもピアノと書く。
それ以外に得意なことはない。
学校でもそうだ。
適当な人間関係を学ぶ。
それ相応な恋をする。
業務的に勉強をする。
ぴったり平均値で事を済ます私は、どこに居てもそれなりの“位置”にいた。絶対安全空間とでも言うのか。1年が経つ頃には今立っている場所以外をくり抜かれても、落ちないぐらいの安定感を得た。
「それってつまらない事じゃないか?」
神様が言う。
「どうして?」
「それだと…何も変わらない。変化がないじゃないか」
「変化がないのはつまらない事なんですか?」
「世の中の大半の人はそう思っているに違いない」
神様は両腕を前で組んでウンウンと頷く。
「その大半に属していないんです。私は」
「なぜだ」
「だって、変化ってめんどくさいんですよ。安定した今が一番なんです」
「変わった奴だな」
「私はそうは思いません」
本当に思っていなかった。
あの日までは。
「付き合ってください」
ずっと同じクラスの男の子に告白されたのは、高校二年の夏だった。
「付き合ってみたらどうだ?君を変えてくれる人かもしれないよ」
「それはきっとないです。私は変わりません」
「では答えを教えてやろう。特別に」
「いえ、必要ありません。私は変化を望みません」
「返事はまだ…?」
来る日も来る日も彼は答えを求めに来た。私も私で保留し続けた。
「まだ答えが出なくて…」
「そっか…」
気まずい空気が流れる。吸い込まないようにと必死に息を止めた。
「じゃあ…もういいや。君の事、諦めるよ。ありがとね」
「え、あ…うん」
男子は部活があるからと足早に消えた。
「…ん?どうした。普段とは比べものにならないほど音に感情がこもってないぞ」
「本当ですか?」
「あぁ」
「そうですか…」
「何かあったのか?」
「ありました」
「話してごらん」
「その…この前の男の子の事で」
「おぉ。どうなったんだ?」
「保留にし続けたらもういいと言われました。恋とはそういうものですか?」
「うーん」神様は考える。
「君は答えが出ない問題をずっと解き続けられるかい?」
「…途中でやめます」
「それと同じさ」
「なるほどですね」
さて、話は最初に戻ります。
私は今日、ピアノを弾きに音楽室に来たのです。
「そろそろ聞きたいと思っていたところだ。もうすぐ完成だろ?あの時の曲が」
「えぇ。もうすでに完成しています」
「聴かせてくれるね?」
「そのつもりで来ました」
「ほう」
神様は上機嫌な声を出しました。顔が見えないのが残念です。
練習して練習して弾けるようになった曲。
いろんなものを手放したからこその質。
ピアノ以外に時間を割かなかった努力。
その結晶が今の時間を作った。
「素晴らしい演奏だった。…ただ、いろんな変化を手放し過ぎたな」
「そうでもしないとここまで出来ないです」
「確かにそうだ。君らしい」
「ありがとうございます」
変化のない日常が好き。
スケジュールに沿った1日は素敵。
やることが決まっているだけで生きていくのはここまで楽になる。
ただその代わり、空っぽになる。
「大丈夫。ゆっくりでいいんだ」
いつものように神様が言う。
「ただ、これから先はそうはいかないよ」
いつもの言葉に一文足された。
それっきり、私に神様が見えることはなくなった。
身近な神様