塔の中の少女
また自分の声を録音している。それが無意味であることは分かっている。
僕以外の人間がこの録音を聴くことはないだろうし、もし誰かが聴いたとしても、それは僕に関係ないことだ。
もう人と話すことはないだろう。でも僕には話し相手がいる。
もう何年も会っていないけど、彼女は今も機能を失っていないはずだ。
この団地から北に向かっていくと焼け落ちた図書館があって、その出入り口に彼女が設置されている。
透明な敷石の下がソーラーパネルになっていて、僕は会いに行くたびに敷石の掃除をしていた。
僕は小さいころ、彼女に色々なことを質問した……
「ソフィア。君はどうして生まれたの?」
「人類を幸福にするために」
「幸福ってなあに?」
「物資が豊かで心が平静であること」
彼女は過剰な人口を減らせば人類は幸福になると言った。
でも僕は、そのために人類がしたことまでは聞かなかった。
そういえば、母は祖母の声を録音していた。
「あれは暑い夏の日のことだった。あなたを連れて地下街を歩いていたら突然警報が鳴り、ドーン! という音がして地下街が揺れた。明かりが消えて子供の泣き声が聞こえた。しばらくして明かりがつくと、ショーウインドウのガラスが粉々になっていて、血まみれになった人たちが大勢倒れていた。出入り口はどこもシャッターが降りていた。外に出ようと思ってエレベーターに乗ると、すごい勢いで動き出し、何かにぶつかって止まった。少し開いたドアを押しあけて外に出ると、街が火の海になっていたの」
祖母は僕が生まれる前に死に、母も僕が小さいころに血を吐いて死んだ。
やせこけた母は僕の手を握りしめて、「一人にしてごめんね」と言った。
黒い雨が静かに降っていた。
他の棟の人たちも既に死んでいた。
僕はこの団地の最後の住人になり、灯りがつく部屋はここだけになった。
発見されることを願いながら、毎晩屋上で火を焚いていた。
その夜も双眼鏡で四方を見渡しながら火を焚いていた。
すると遥か遠くの塔の上のほうに明かりが見えた。
誰かがいる……
でも黒い雨が降り出し、そこに向かうことはできなかった。
二日後に雨はやんだ。でも台風が近づいているせいか強風が吹き荒れていた。
僕は水筒と双眼鏡をリュックに入れて、夜明けとともに出発した。途中途中で建物にのぼり、位置を確かめながら向かうと昼頃に着いた。
小高い丘に巨大な塔がそびえ立っていた。
周囲のネットフェンスは朽ち果てていて、金網は手で簡単に破れた。塔の扉も錆びついていたが、ノブは意外なほど滑らかに回った。
中に入ると螺旋階段があった。
階段をのぼると足音が響き渡り、のぼり切ると、扉が閉まるような音が聞こえた。
フロアの隅に扉があった。
「誰かいるの?」と呼んでみたが返事はない。
そっと扉を開けて中に入ると、また別の扉が開いていて、風が吹き込んでいた。
外に出ると鉄の階段が壁づたいにあり、ぼろぼろの白い服を着た女の子がそれを駆けあがっていた。
「待ってよ!」と声をかけたが彼女はとまらず、僕はその後を追った。
階段が途絶えると彼女は振り向き、「来ないで!」と叫んだ。
雲一つない青空に、白い服がはためいていた。
僕は「幸福だよ。幸福!」と叫んだ。
以前ソフィアが幸福とは心の平静と教えてくれた。だからその言葉が彼女を安心させると思ったのだ。
もう一度それを叫ぶと、彼女は「コウフク?」と言い、首をかしげた。
僕は言葉の使い方が分からなかった。
「そう幸福」と言うと、彼女は「なあにそれ?」と言った。
僕はゆっくりと彼女に近づき、腕を伸ばして双眼鏡を差し出すと、かすんで見える団地を指差して、「あれだよ」と言った。
彼女と話すことはあまりなかった。二人に会話は必要なかったのだ。一緒にいることができれば、それで良かったから。
僕は彼女に名前を聞いた。
「蛍子。蛍の子でけいこ。蛍を知ってる?」
僕は「知らない」と答えた。
「夜に光る綺麗な虫よ。でも見たことないの」
僕はその瞳の奥に悲しみを見つけた。
毎晩屋上で火を焚き、二人で缶詰めを食べた。
食前に「コウフク!」と声をあげ、食後にまた「コウフク?」と言い、くすくすと笑った。
言葉の使い方が間違っていても、それが楽しかったのだ。
突風が吹いて火の粉が舞うと、「綺麗ね」と彼女は言った。
僕はそんなこと思ったこともなかったから、「どこが?」と素っ気ない返事をした。
すると彼女は火柱を見つめながら、「わからない。でも綺麗なの……」と言った。
彼女に塔に隠れていたわけを聞いた。
「高い所なら空気が綺麗だと思っていたの。でもお母さんは、あたしの手を握りしめて、蛍のいる所で暮らしなさいと言った。蛍は水が綺麗で、草や木が沢山生えている所にいるからって。でもそんなとこ、どこにあるのかしら?」
「僕が見つけてあげる。いつか蛍を見せてあげる」と僕は言った。
軽い気持ちでそんなことを言った。
僕は約束とは良いことだと思っていたし、約束と悲しみの深いつながりなど知るはずもなかった。
晴れた日は朝から双眼鏡を持って屋上に出た。
その夏は黒い雨が降らず、快晴が何日も続いた。
強風が吹き荒れた日の翌朝は空気が澄み渡り、遥か遠くまで見渡すことができた。
いつになく大気が澄み渡った日の早朝、赤茶色の山々の間に薄緑色の頂上が見えた。
彼女を屋上につれてきて、「あれを見て」と言って双眼鏡を渡した。
しばらくすると彼女は双眼鏡を降ろし、真剣な表情で僕を見つめた。
「あたし、あそこに行きたい」
彼女の目のまわりに双眼鏡の跡がついていた。
僕が思わず吹き出すと、彼女は笑いながら涙をこぼした。
僕は手ごろな自転車を一台ひろってくると、彼女が楽に乗れるように修理した。
翌朝、空が白み始めると同時に団地を出発した。
途中で図書館によって、ソフィアに蛍のことを聞いた。でも僕には、その説明がよく分からなかった。
「ソフィア。僕たちは蛍が見たいんだ」
「四階のAの12の本棚に昆虫の図鑑があります」
でも三階から上は、コンクリートの残骸と折れ曲がった鉄筋しか残っていなかった。
僕は自分の自転車の整備を適当に済ませたから、上り坂でペダルを踏み込むと、車体がガタガタと音を鳴らした。
自転車から降りて坂をのぼっていると、彼女は坂の上から「早く!」と声をあげた。でも僕がのぼり切るころには、彼女は坂道を下っていたのだ。
空は青く澄み渡り、風は爽やかだった。
髪をなびかせてペダルを踏む彼女は美しかった。
それは僕が美に目覚めた瞬間であり、美を幸福と勘違いした瞬間でもあった。
でも僕らは確かに幸福だった。僕らには希望があったからだ。
昼過ぎに山のふもとに着いた。
樹木は僕の背丈ほどもなく、ところどころ赤いカサブタのような山肌が露出していた。
彼女は「蛍いるかな?」と心配そうに言った。
僕らは山中を彷徨い、枯れ木や焦げた土を踏みしめながら水辺を探した。しかし、焼けた山肌は水の気配すら感じさせず、僕らのひたいに汗がにじんだ。
僕は「ちょっと待って」と彼女に声を掛けてから大きな岩によじ登った。
双眼鏡で見渡すと、遠くの谷底に細い川が見えた。
「あそこに川がある!」
彼女は僕の指差すほうに走っていくと、渓谷に下りるコンクリートの階段を見つけた。
「待ってよ!」と僕が岩の上から叫ぶと、彼女は振り向き、「早く!」と嬉しそうに声を上げた。
岩から降りて渓谷に下り立つと、急流にそって岩場を駆けていく彼女の背中が見えた。
石ころに足をとられながら上流に向かって歩いていくと、巨大なコンクリートの壁が前方に見えてきた。八階建ての団地よりも高く見えた。上の方にトンネルのような土管の丸い口があり、そこから大量の水が落下していた。
その滝の下は水溜りになっていて、その水際に彼女が立っていた。
そばに駆けより彼女の肩に手をおくと、体が小刻みに震えていた。
「どうしたの?」
すると彼女は水際から少し先のところを指差した。
水面が波打ってよく見えなかったけど、何かが沈んでいるような気がした。
浅瀬に手をついて水中をのぞき込むと、白い瓦礫のようなものが見えた。
ふと手元を見ると、白陶器の破片のような物がころがっていて、水中から拾いあげてみると、それは人の奥歯だった。
水底の瓦礫は、一体の大人の人骨だったのだ。
そのとき、かすかな視線を感じた。
顔を左に向けると、彼女の足元に小さな頭蓋骨がころがっていた。幼い子供の骨であることは明らかだった。
水底の人骨とその頭蓋骨は親子で、炎から逃れる際に、水際で離ればなれになったに違いない。
彼女は頭蓋骨をひざに乗せると、何かをつぶやきながら手でなでていた。でも、やがて水溜りに入り、人骨のかたわらにそれを沈めた。
その夜も団地の屋上で焚き火をした。
彼女はじっと炎を見ていた。それが救いの無い灯火にすぎないことを、僕らはもう理解していた。
やがて僕の見る焚火は、彼女の瞳にうつる焚火となった。
彼女の横に座り、そのあどけない横顔をのぞき込み、瞳にうつる火柱を見つめた。
すると彼女は泣いた。
僕は人の死に何も感じなかったし、母が死んだときも泣かなかった。
幼いころ見た景色は、青空と黒い雨雲と、人が死ぬ姿くらいで、死は日常茶飯事だった。
母が死んでひとりぼっちになると、一人になりたくないと思うことはなくなった。でも彼女と暮らすようになると、一人になりたくないと思うようになった。
彼女に泣くわけを聞くと、「一人になりたくない」と言った。でも彼女を一人にしないためには、いつか僕が一人になるしかないのだ。
僕は彼女の肩をそっと抱いた。
母と同じ症状が彼女に見え始めると、僕は悪夢にうなされるようになった。
彼女が疲れて眠っている間に図書館にいき、治療法をソフィアに聞いた。
するとソフィアは、僕の手に負えない治療法を次々とあげ、それをしていた病院の名前を教えてくれた。
結局僕にできることは、彼女のそばにいて、慰めることくらいだった。
やがて彼女は食べた物を吐くようになった。血を吐いて痩せ細り、歩くことも難しくなった。
それでも彼女は焚き火を見たがったから、僕は彼女をおんぶして毎晩屋上にあがった。
その体は日に日に軽くなり、僕は悲しみに暮れた。でも背中に感じる温もりが、僕を慰めてくれた。
彼女はいつも僕のひざ枕で焚き火を見ていた。
突風が吹いて火の粉が舞うと、「すごく綺麗だね!」と僕は大袈裟に言った。
「そうね……」という彼女の声が聞きたかったからだ。
「綺麗な川を見つけたんだ。草が沢山生えていた。また蛍を探しに行こう!」とも言った。
彼女の声が聞けるなら、僕はどんな嘘でもついた。
その夜はいつになく星が輝いていた。
屋上に毛布を敷いて二人で夜空を眺めていると、一筋の流れ星が見えた。
彼女が「いま蛍がいたよ」と言って笑うと、僕は彼女を抱きしめて泣いた。
彼女は「一人にして、ごめんなさい」と言い、静かに目を閉じた。ひとつぶの涙がこぼれ落ちた。
あれから何年過ぎたか分からないが、彼女と出会った日も今日のような快晴だった。
僕は録音した彼女の声を聴いた。彼女はあの言葉を繰り返し、無邪気に笑っていた。
今の僕には希望も絶望もない。あるのは青空と彼女の笑い声だけだ。
おわり
塔の中の少女