優子
優子
これは、うら若き女性の苦難と闘争の記録である。
私と優子は二十八も年が違うが、本局では二人とも新人という立場だった。
私は長い間地方を転々とし、ようやく本局に復帰した。すると、その年の春、初々しい新人が私の元に挨拶に来た。
「佐藤優子と言います。よろしくお願いします」
「こちらこそ。自分は二十五年ぶりの本局なんだ。君と同じ新人みたいなもんだ」
その出会いから遡ること二十五年。
大卒新人として本局に配属され、三年目を迎えた私は、血気盛んな若きキャスターだった。
社会正義の実現こそがマスメディアの使命であると信じていた私は、ある薬害事件のことで当時のチーフディレクターとぶつかった。
私は、当時「夢の新薬」と言われた抗がん剤に関する不穏な情報をつかんだ。その薬剤は、投与後三ヶ月以内に著しく腫瘍を縮小させた。しかし患者のその後をたどると、その多くが三年以内に死亡しており、その死亡率は、投与しない場合を大きく上回った。明らかな薬害である。
新米キャスターが知り得た情報など、どの局でもつかんでいるはずなのに、なぜかどこも報道していなかった。
私はチーフディレクターに、特ダネだからすぐ報道すべきと進言したが、いつまで経っても何の音沙汰もなかった。
しびれを切らした私は、ついに上層部に直談判をするという禁則を犯した。
しかし歯牙にも掛けられず、私は地方に飛ばされ、支局を転々としたあげく、二十五年ぶりに本局に復帰したというわけだ(薬害事件が黙殺された理由はここでは言えない。そこには利権に関わる深い闇があるのだ)。
優子は性格のいい今時の若者だった。
私の世代はことあるごとに「今時の若者は」と文句を言うが、現代の若者は昔の若者に劣るどころか、はるかに真面目で優秀である。
昔の私のように、上に噛みつく若者など見たことも聞いたこともない。
一抹の寂しさを感じることもあるが、正直自分のような部下だけは持ちたくないと思っている。
優子は美人で優秀なのに、お高くとまったところは微塵もなく、「優ちゃん」と呼ぶと、「はい!」と笑顔で返事をした。
徹夜明けの朝などは、私のデスクまでコーヒーを持って来てくれた。
「優ちゃん。自分でやるからいいのに」
「私も飲みたいから全然OKです」
そう言って朝から笑顔を見せてくれるのだ。
彼女は倍率が千倍を越す採用試験をトップで通過し、天気予報のキャスターとなった。
面接官も太鼓判を押していたが、一つだけ些細な欠点が指摘されていた。
『たまに噛むことがある』と付されていたのだ。
優子が担当した天気予報は一定の視聴率を獲得し、彼女は「綺麗なお天気姉さん」として人気を集めた。
面接官が指摘していた『噛む』欠点も完璧に修正されていた。
ただ私はチーフディレクターとして、ある大きな欠点に気づいていたのだ。
それは、欠点が無いこと。
優子は容姿、物腰、しゃべり、全てにおいて完璧なのだ。
他局のお天気姉さんは、地元グルメの話題の中で、お好み焼きのことを「平べったいタコ焼き」と失言し、視聴者から冷やかされて逆に好評を得ていた。「知的な女性」より、「かわいい子」の方が受けがいいのだ。
優子がキャスターになった翌年の夏、不運が彼女を襲った。
彼女はいつもの笑顔で、「明日は雲一つない快晴になるでしょう。お出掛けの際は熱中症に注意し、小まめな水分補給を心掛けてください」と言った。
しかし翌日は豪雨になり、抗議の電話やメールが殺到した。
「びしょ濡れだ馬鹿野郎! 素人の小娘が」
「洗濯全部やり直し! いい加減にして!」
「お姉さん、噛んでない? あせってんの? 笑」
天気予報に苦情はつきもので、気にしていたらやってられない。まして「お天気姉さん」に責任などあるはずがない。
ただ、優子に対するバッシングは、私も経験したことがないほど執拗なものだった。
私は分かっていた。それは予報を外したことに対する抗議ではない。優子の完璧さに対する反感なのだ。
私は優子を励ました。
「君に責任なんてないんだから気にするな」
「すみません。心配をかけて」
そう言うと彼女は目に涙を浮かべた。
やがて彼女は放送中に言葉を詰まらせるようになり、ついに又予報を外した翌日の放送中に泣き出してしまったのだ。
緊急会議が開かれ、彼女の降板が決定された。私は反対したが意見は無視された。
彼女に降板を伝えると、「すみません」と言い涙をこぼした。
彼女はしばらく雑用をこなしていたが、やがて心を病んで休職することになり、私は自分の責任を痛感した。
しかし優子が降板した後も、事態は好転しなかった。
彼女の後輩である立花美咲も、しばらくは無難に仕事をこなしていたが、プレッシャーからか喋りがぎこちなく、些細なミスをすることがあった。
しかし、その些細なミスを、優子を降板させたと得意げにつぶやくネット民が見逃すはずがなかった。
やがて美咲をからかう動画や投稿がネット上にあふれ、ついに彼女も憔悴しきってしまった。
また会議を開き、美咲の後任を検討していると携帯に着信があった。それは優子からのメールだった。
「美咲ちゃんは大丈夫ですか?」
療養中の彼女に心配をかけるべきではないと思いつつも、「少し疲れている。心配を掛けてすまない」と返信してしまった。
すると意外な返信が来たのだ。
「後輩に無理をさせないで下さい。私はもう大丈夫です。復帰させて下さい」
翌日の午後に駅裏のコーヒーショップで待ち合わせをした。
その店はいつも若者でにぎわっており、平日の昼間にサラリーマンが立ち寄るような場所ではなかった。
コーヒーショップのカウンター席に彼女は座っていた。
「優ちゃん。久しぶり。体調はどう?」
「御心配を掛けました。もう大丈夫です。医者も復帰に問題はないと言っています」
「慌てなくてもいいよ。ゆっくり静養すればいいんだ」
「ありがとうございます。でも失敗の原因が分かったら、気持ちも体も、すっかり良くなったんです」
「失敗の原因?」
「はい。これを見ていたら分かったんです」
優子のノートパソコンには、彼女を誹謗中傷する動画が映っていた。その動画の投稿主は、彼女が噛む様子を誇張して悪ふざけをしていた。
『はは晴れときどき、どど土砂降りになるでしょう』
わざわざ女装したその男の動画は、下品極まりない代物だった。
優子は「まだ沢山あります」と言って、後輩の美咲をからかう動画も見せてくれた。
「優ちゃん。そんなもの見ない方がいいよ」
「この人たちのおかげで失敗の原因が分かりました。お願いします。復帰させて下さい」
優子が土曜の夕方の放送から復帰することに決まり、私はひとまず安心した。
しかし、またもや不運が彼女を襲ったのだ。
彼女が復帰する前日の予報が、また外れてしまったのだ。
金曜日の夕方、後輩の美咲は言葉を詰まらせながら、「明日土曜は朝から雨になるでしょう」と言った。
しかし土曜は絶好の行楽日和になった。
朝から苦情の電話が鳴り響き、セクハラまがいの投稿がネット上にあふれた。
「馬鹿野郎! キャンセル料を返せ」
「あいつも降板させろ」
「あの小娘に予報士はムリ! AV女優にでもなれ!」
優子は放送直前まで美咲を誹謗する投稿を見ていた。
「優ちゃん。大丈夫?」
「問題ありません。失敗の原因は分かっていますから」
その冷静な態度に、私は心なしか不穏なものを感じた。
ついに放送開始の時刻が来た。
私は祈るような気持ちで腕を上げ、順番に指を立てた。
「1、2、3、キュー!」
なんと……
優子はカメラを見つめたまま一言もしゃべらない。
その姿は、聴衆の前に立つヒトラーを彷彿とさせた。
スタジオがざわめき、若いスタッフが私に指示を求めた。
「チーフ、どうしますか?」
「いいからカメラを回せ」
私は記録に残すべき瞬間であると直感した。
優子は大きく肩で息をすると、静かに闘争を開始したのだ。
「視聴者の皆様。雨との予報が外れてしまい、申し訳ありません。でもご安心ください。今から嵐が吹き荒れるので。私も後輩も予報士の資格を持っています。でも神様じゃないんだから、必ず当たるわけがありません。必ず当たる予報がお望みなら、見てもらわなくて結構です」
そのとき若いスタッフがスタジオに飛び込んできた。
「チーフ! カメラを止めろと上から指示が!」
優子が私を見ていた。
「いいからカメラを回せ。責任は俺がとる」
優子は再び話し始めた。
「見えないところで誹謗中傷をする輩に言います。言いたいことがあるなら、私の前に来て言いなさい。天気を気にする前に、自分の心を綺麗にしなさい。そうすれば、いつも晴れやかな気持ちでいられるのです。最後に、私の後輩をいじめるクズどもに言います」
そのとき、お偉いさんたちが血相を変えてスタジオに飛び込んで来た。
「おい! カメラを止めろと言ってるのが分からんか!」
「チーフディレクターはどこだ!」
「黙れ! カメラは絶対に止めん!」
そのやり取りが全て茶の間に流れた。
優子は再び話し始めた。
「後輩をいじめる卑怯者に言います。馬鹿野郎!」
そこで放送は止められ、三十分ほど後にベテランのニュースキャスターが深々と頭を下げた。
そして翌日、局長以下のお偉いさんたちが、汗をふきながら謝罪会見を開いた。
「昨日放送された番組において、極めて不適切な発言があり、視聴者の皆様に大変不快な思いを~」
優子は謹慎処分となったが、自ら退職を申し出た。
かたや私は処分を受け入れて再び地方を転々とし、最終的に日本海側のとある地方の支局に配属された。
その左遷から三年目の冬、一本のメールが届いた。
「チーフ。お久しぶりです。美咲です。実は優子さん、ある港町で小料理屋をしているそうです。良ければ行ってあげて下さい」
「美咲ちゃん。久しぶり。もうベテランの風格だね。そっか。優ちゃんが店をね。でも、合わせる顔がないんだ。自分がカメラを止めていれば、彼女は辞めなくて済んだんだから」
「優子さんも、きっとチーフに会いたいと思っていますよ」
「そうかな……」
「店の情報を送るので、後はよろしく!」
迷っているうちに年末になってしまい、ついに私は大晦日の午後に行くことにした。店が閉まっていたと、美咲に言い訳できると思ったからだ。
大晦日は午後から吹雪となり、列車から見える日本海には高い白波が立っていた。
改札を出て、寒風が吹きすさぶ港町を歩いていると、吹雪の中に赤ちょうちんが見えた。
その小料理屋は、うら寂しい漁港の隅にぽつんと建っていた。
ほかに店らしい建物はなく、赤ちょうちんの『浜屋』という文字がひときわ目立っていた。
少し離れたところから、店の様子を伺っていると、酔っ払いの声が店の中から聞こえた。
「えー! もーおしまい? まだ五時だよ」
「優ちゃん。もうちょっと飲ませてよ」
「ビールもう一本!」
「だーめ。大晦日くらい、あたしもゆっくりしたいのよ。早くツケを払って帰ってください」
「そなせっしょうな!」
「皆さん、良いお年を」
しばらくすると引き戸が開き、赤ら顔をした男達と一緒に、藍染の着物をきた優子が出てきた。
「優ちゃん。大漁でも祈っといて」
「来年は優ちゃんにハンドバックを買ってやるから、もーわしの女にならんか?」
「そーですか。どんなのを買ってくれるんですか?」
「イブサンローンだ!」
「馬鹿たれ! イブサンローランだろ!」
「お前、これ以上ローン増やしてどーすんだ!」
優子が笑っていた。その笑顔は、キャスターだったころの「完璧な笑顔」ではなく、本当に幸せそうな笑顔だった。
「それじゃ皆さん。良いお年を」
「おおー、優ちゃんもな」
優子は漁師たちに手を振っていた。
私は漁師たちがいなくなったことを確かめると、赤ちょうちんの灯を消そうとしている優子に声をかけた。
「優ちゃん。久しぶり」
「どなたですか?」
私はコートのフードをとった。
「チーフ!」
「中々いい店だね」
「どうしてここが?」
「美咲ちゃんから聞いたんだ」
「そうですか」
「少し飲んでもいいかな?」
「もちろんです」
優子は木のカウンター越しにビールをついでくれた。
「チーフ。おでんでいいですか?」
「うん。ありがとう」
彼女は、大根、厚揚げ、こんにゃくを皿にのせ、その端に黄色いカラシをつけてくれた。
「どうぞ」
「ありがとう。優ちゃんも飲んでよ」
彼女は私がついだビールを飲み干すと、「ああ美味しい」と声をもらした。
「お酒、強くなったね」
「チーフ。熱かんにしませんか?」
そう言うと彼女は白いおちょこをカウンターに二つおいた。
私は酔いが回ると、胸にしまいこんでいた思いを明かした。
「君に謝らなきゃと、ずっと思っていたんだ」
「謝る? どうしてですか?」
「自分がカメラを止めていれば、君は今もキャスターをしていたはずだ」
「迷惑をかけたのは私の方です」
「それは違う。私は監督者としての責任より、自分の思いを優先したんだ」
すると彼女は真剣な眼差しで私を見つめた。
「あたし、嬉しかった。チーフが最後までカメラを回してくれて、本当に嬉しかった」
そう言うと、彼女は私に酒をついでくれた。
おわり
優子