闇夜のヴェールに彼方の歌を

注意:この物語は多分フィクションです。実在の人物、団体等とは一切関係がありません。また、この作品には作者の独自の感性が大量に詰め込まれているので、読みづらい可能性があります。ご了承ください。

出会ったお話

 見覚えのある空。記憶にはもう残っていないけど、どこか既視感のある景色。そんな夢をたまに見る。毎回誰かがあたしの名を呼んで、もう少し見たいと思ったところでその夢は終わってしまう。何だか虚しい。
 今回もそうだったみたいだ。最も、目が覚めたのは主に蝉の声のせいだと思うけど。まだ六月のクセにうるさいのだ。今年の蝉は気が早い。
 もうちょっと寝ていたかったが、全身汗びっしょりで気色悪かったので、結局のところ眠る気にはなれなかった。蝉の声が無くとも、この汗で起きていたかもしれない。
 昨日は雨が降った。六月という名の雨季には当然のことと言えばそうなのだが、そのくせこの年は例年より雨が降らなかった。でも窓を閉め切ってしまえば室内がムシムシしてきて、今みたいに汗びっしょりになる。本当に最近の天気はよく分からない。
 窓を開けると、朝特有の冷たい空気が風になって流れ込んできて、あたしの頬を撫でていった。そこからかすかに夏の薫りがする。もうこんな時期なのかと驚いたが、そう言えば立夏は五月だったなと思い出す。つまり、梅雨は既に夏なのだ。
「遥ー、起きてるんならご飯を食べにいらっしゃい」
 窓の外を眺めながらボーッとしていると、母の呼ぶ声が聞こえた。返事をして、急いでリビングに向かう。
「おはよー…」
「おはよう。昨日はどこまで進んだ?」
「んーと、…国語は漢文の返り点までで、あと、数学は連立方程式がちょっと終わったよ」
「ふぅん。じゃあ、今日も続き頑張ってね」
「うん」
 朝ご飯を食べながらそんな会話をする。多分、こういう時に父がいたら「朝っぱらから勉強の話か?」と困惑するのだろう。…でも、父親という存在は、この家庭にはいない。母が言うには、あたしが生まれてすぐに他の女と出ていったらしい。
 それでもあたしが父のことを分かった気になっているのは、母がよく、あの人はこうだった、と話しているからだ。そこからパズルのピースを嵌めていくように、一つ一つ繋ぎ合わせていって、“きっとこんなふう”と勝手に父の人物像を想像したのだ。だから、実際のところは父がどういった人かなんて、あたしは知らない。
「遥。お母さんね、今日は帰りが遅くなるから、自分で夕食を取ってね」
「はーい」
 あたしの返事を聞くと、母は仕事用の鞄を肩にかけ、玄関扉を開けた。
「それじゃ、行ってくるわね」
「うん、いってらっしゃい」
 パタン、と扉の閉まる音。一気に辺りに静けさが舞い込んできた。まあ、それは家の中だけで、外からは車の走る音や蝉の声が絶え間なく聞こえてくる。それらが無くても、また何か別の音が聞こえてくるのだろう。例えば、時計の秒針を刻む音とか。だから、本物の静寂を知っているのは、耳が聞こえない人だけなんじゃないだろうか。かなり適当なことを考えている自覚はあるので、はっきりと言える自信は無いが。
 朝ご飯を食べ終わると、使った皿を台所に持って行って洗剤で洗う。家事はあんまり出来ないが、食器洗いや掃除機掛けぐらいはできる。出来ないと流石に、ただの居候になってしまう。それだけは嫌だ。母には出来るだけ迷惑はかけたくない。
 そうやってお皿を洗っているうちに、ふと思い出した言葉があった。
 …誰もいなくても、いい子でいなきゃいけない。
 一体、誰の言ったことだったかなんてもう忘れたけど、それを思い出す度に少し不愉快になる。気のせいだとは分かっていても、誰かの視線を感じてしまい、それがとても嫌だった。まるで「見ているからいい子にしろよ」と言っているみたいで。
「…うるさい、見ないでよ」
 水の音が響く中、ぼそりと呟く。そして思わず誰か見ていないかキョロキョロする。今の言葉は、聞かれてしまったら頭の異常とか心配されそうだな。
 …馬鹿、誰もいるわけないだろう。
 心の中で自分に毒づいて、皿洗いに集中する。
 一人になると、よくこういうことばっかり考えてしまうからいけない。ホラー小説の読み過ぎだろうか。

 皿洗いが終わって自分の部屋に戻る。そしてそのままベッドにダイビングしてみた。あまり気持ちよくはない。シーツがちょっとゴワゴワしているし、ベッドと枕も少し硬い。でも、だからってシーツや枕を変えろだとか我儘を言うつもりは更々無い。些細なこと全てに文句なんてつけていたら、母の負担が大きい上に、それはもうジコチューだ。あたしはそんなジコチューになるぐらいに自分が大好きなわけではないし、この硬さに慣れているから、入れ替えてしまったら逆に慣れるのが大変かもしれない。
 体を起こしてしばらくボーッとしていた。そういう時間は大好きだ。頭を空っぽにすることが出来るし、何も考えずにいることで、全てから解放された気分になることが出来るから。だからあたしは、じっとその場でゆっくりと動く世界を眺めていた。

 蝉の声が聞こえる。
 小鳥のさえずりが聞こえる。
 車が道路を走る音が聞こえる。
 時計が秒針を刻む音が聞こえる。
 全てが交ざって、交ざって、…まるで日常のオーケストラ。
 「平穏」という名の曲を、皆で奏でている。
 聴衆はその音色を“当たり前”と決めつけて、誰一人足を止めないけれど、
 今日はあたしが足を止めてみる。
 木の枝の擦れる音は世界の拍手。
 はためくカーテンは音楽に合わせて踊る踊り子。
 風がそれらの評判を新聞に載せて届けてくれる。

 …ああ、なんだか温かい気持ちだ。まるで、凍ってしまった世界が溶けていくような…。

 突如、車のクラクション音であたしの思考は現実に引き戻された。
 ――視線。
 もちろん偽物だけど、誰かが見ているような気がする。そんな呑気に過ごしていないで、囚人のようにテキパキ動け、と。
「…分かってるよ…」
 舌打ち混じりに呟いて、勉強机に向かう。好きなことでも、こうやって強制されたらやりたくないけれど。でも、アレはあたしが「いい子」になるまで見ているものだって、あたし自身が知っている。だから嫌でもやるしかない。この不快な視線が続いてほしくないのなら。
 国語は、古文を勉強することに決めた。今日はとりあえず、単語を覚えよう。…将来、何に使うか知らないけど。学校では、定期テストのときや高校受験のときに使うから、その為、かな。
 コツは、声に出しながらノートか何かに書き取ることだ。何回も書いて口にしてを繰り返すことで脳がどうたら…的なことをこないだテレビでやっていたから、真似してやってみたら、あたしには効果があった。それ以来、ずっとこの方法で単語を覚えている。ちなみに、英単語も同じ方法だ。社会の単語は…あたしが苦手意識を持っているせいか、あんまり覚えられなかったので、最近は一問一答形式で勉強している。
 あまり覚えられなくなってきたところで手を止める。これ以降は、きっと覚えようとしても意味すら頭に入って来なさそうだから終わりだ。
 五分だけ休憩して、次は数学。覚える系をやったら今度は思考する系をするのが良い…と何かで読んだ。
 数学も単純。今日やろうと思ったところだけ教科書を読んで、母に買ってもらっておいた問題集をひたすら解く。問題集は答えが後ろのページに載っているのがほとんどだが、出来るだけ解答は見ずに自力で解く。そうすることで考える力がより身につくと思うし、解けたときの達成感の具合がまるで違う。自分で解いて答えもあっているときは、すごく嬉しくなる。だからそうするようにしている。
 なんだか先生のようになってしまったが、そんなことは置いといて、これも集中力が低下するまで続ける。
 そのうち、段々と手が痛くなってきたので、それと同時に勉強のやる気がプツリと途切れてしまった。頭の中が熱くなっている気がする。
 …今日はもう終了、でいいか。
 あたしは勉強道具を片付けると、大きなため息を吐いて机に突っ伏した。
「…疲れた…」
 約一分間ぐらいそのままの体勢でいたが、やがて頭を上げた。ふと、教室に一人取り残されている感覚になった。
 寂しくはない。ひとりぼっちだなんて当たり前のことだし、むしろ一人になった方が安心できる。だから寂しくはない。…寂しさなんて抱いちゃいけない。
 学校で、あたしを呼ぶ声が聞こえる。
『…遥』
 感情の分からない、恐ろしい声が聞こえる。
『遥』
 どうして笑っているのだろう。あんな地獄のような光景の中で。
『ねえ、遥』
 遥、遥、遥…――。
 優し気な、楽しそうな、子供の狂気を孕むその声に、あたしは何度心を殺されたろう。いつだって、正義の味方は数だったのに、多角的な視点なんて、どうやって育むんだろう。
 あたしを呼ぶ声が聞こえる。
 …嫌だな。
 とても不愉快な記憶を飛ばすようにかぶりを振り、しっかりと現実を見る。
 ここは自分の家で、自分の部屋。
 自分用の机があり、ベッドがあり、本があり…。
 全て他人のものじゃないのだ。
「…大丈夫。ここは学校じゃない…」
 そう自分に言い聞かせる。
 現在の時刻は午前11時半だ。

 そろそろ昼ご飯を作らなくちゃとキッチンに来たは良いものの、どうにも作る気が起きない。
「もういいや。おにぎりにしよう」
 あれこれ考えた末、一番作るのが簡単で腹持ちが良さそうなものを選んだ。そもそも料理はあんまり得意ではない。
 炊飯器からお米を茶碗一杯分掬い出し、皿に乗せる。それから手を濡らし、手に少しだけ塩を振り、お米に馴染むようにしながら握る。…うん、いつもよりかはしっかり形が出来た…と思う。それを海苔で巻いて、はい完成。めちゃくちゃ手抜きのお昼ご飯。
 かぶりついてみると、塩の濃いところと薄いところがあって、全体に均衡に塩が行き届いていなかった。やっぱり料理は苦手だ。
 そんなに美味しくないおにぎりを、沢山噛んで、噛んで、飲み込む。それを繰り返すうちに食べ切ってしまった。あまりにも味気の無い食事だったから、食べた気もしなかった。
 今度、余裕があるときに料理の練習でもしてみようか。でも、こんなふうに考えてみても、結局はやることは無いだろう。思い立ったが吉日、と言うように、あたしはそれをやりたいと思ったときにやらないと、いつまで経っても始めることは無いのだ。一度、自分の体を柔らかくしようと思ってストレッチをしようか考えたことがあったが、そのままやらないで一日が過ぎ、次の日には全く気分じゃなくなっていた。という体験談がある。
 手を洗いながら時計を見上げた。今は午後1時過ぎだ。日差しが強くなる時間帯だった。
 少し、読書でもしようか。
 あたしは自室に戻ると、読みかけで栞を挟んでおいた本を手に取った。もともとはホラー系が好きだったが、最近は推理小説にもハマってきて、今読んでいるこれも、その例に漏れない。
「お母さんは、青春系とかファンタジーとかが好きなんだっけ」
 あたしも、現実には見えないものが見えるホラーと関連して、ファンタジーはそこそこ好きだ。一番青春系が好きじゃない。現在進行形で青春してないし、あたしの青春は誰かの青春にかき消されてしまった。そんなふうに感じているから、今は青春に触れるのが怖いのだ。
 1時間ほど小説の内容に笑ったり驚いたりしながら過ごし、唐突に読むのをやめる。
 そろそろ散歩でもしようか。勉強の気分転換として日課になったのだが、今は運動目的で外に出るようにしている。学校に通っていないと、体育が無いからどうしても体力が落ちてしまう。それを出来るだけ避けようと、散歩は毎日やっていた。
 そんな訳で、お気に入りの靴を履き、傘を手に取って外に出た。一応梅雨時期なので、いつ降るか分からないから傘は備えておいた方が良いだろう。備えあって憂いなし、だ。
 扉を開けた瞬間に、照り付ける強い日差しに当てられて目を細める。やはり今はもう夏なのだろう。太陽がこんなに強いんだから。というより、昨日までの雨雲はどこへ行ったのだろう。
 家の鍵を閉め、あてもなく灰色だらけの住宅街を彷徨う。小さかった頃はもっと、灰色以外の色彩が見られた筈だが、開発され過ぎた今じゃ、そんな様々な色彩の方が少なくなってきた。もうすぐここも、“都会”と呼ばれる場所になるのだろう。
 久々の道を通ってみたら、幼い頃によく遊んでいたブランコと滑り台だけの小さな公園が取り壊されて、また灰色に侵食されていた。
 …どうして大人は、こんな直方体の縦に細長い建物が好きなのだろう。幾何学模様だったり、数学の図形だったりは、そんなに綺麗な形なのだろうか。全てを数式で表して、何が楽しいんだろうか。あたしもいつか、同じように思われる日が来るのだろうか。
 そんなことを考えたら、やるせない気持ちでいっぱいになった。自分が子供でいたいのか、大人でいたいのかが分からなくなったのもあるが、大人になったら、自分の思い出よりも利益の方に幸せを感じるのかと思うと、抵抗してみたくなったのだ。
 …思い出はこうやって、気付かぬうちに忘れ去られてしまう。

 灰色の住宅街を抜けると、少しの緑色と屋根の赤い色が増えてきた。ここはまだ思い出が残っている気がして、ちょっぴり落ち着く。
 今日は、よく行く人気の無い公園に行こう。そう考え、そこに足を運ぶと、目がチカチカしそうなほど色とりどりの花が咲いていて驚いた。改めて、もう夏なんだということを実感する。
 こういう派手な光景も、たまには良い。
 花見のつもりで木の下のベンチに座ると、ざぁっと少し冷たい風が吹いた。湿った草の匂いが鼻を刺激する。
 木々が揺れる。
 花たちも揺れる。
 揺蕩うように、滑らかに、穏やかに。
 そう空想すると、海の中心に座っているような感覚に囚われる。
 雑草として逞しく生きる花々を、波に揺られる魚たちに見立てる。
 赤・黄・青・白…とてもカラフルだ。
 そんな彼らが声を一つに、歌っている。
 とても美しい歌声。

 鈴を転がしたように甲高く、儚げに。

 そしてちょっと、物悲し気に。

「…あれ?」
 そこでようやく気付く。…この歌声は人のものだ。
 幻聴なんかじゃなく、本当に聞こえる。
 美しい声で歌う。
 これは…
「…誰、だろ…」
 声の高さから、歌っているのは女の子の可能性が高い。
 でも不思議だ。
 知らない人の声なんか、耳障りで堪らない筈なのに、その声はあたしの心を掴んで離さない。
 遥。遥、遥…――

 ――おいで。

 呼ばれている。
 そんな気がした。
 …声がするのは公園の一番奥の階段からだ。
 遠くからかすかに聞こえる、とても小さい音の筈なのに、何故かそれがはっきりと分かった。
 行かなきゃ。
 使命感が湧き上がってくる。
 気が付くと声に向かってフラフラと歩いていた。まるで、何かに吸い寄せられるみたいに…。

 階段を一歩一歩、しっかり踏みしめて上っていく。その度に、彼女の声は大きく鮮明になっていく。
 半分ほど上って気付いた。この曲には歌詞が無かったことに。声の主は、メロディだけを口ずさんでいたのだ。
 …とても、不思議だった。
 あたしはこの曲を知らない。
 だけど、この曲を知っている気がするのだ。
 風の唸る音、梢の囁き合う音、落ち葉が彷徨う音に溶け込むように奏でられるこの曲を。
 どこかで聞いた気がするのだ。

 階段を上り切った先にあったのは、小さな神社。…いや、神社だったもの、と言った方が良いのかもしれない。
 立派だったんだろう社はボロボロに朽ち果て、鳥居もくぐる為のものではなく、横切る為のものになっている。
 そして、その更に向こう側の方へ、誰かが歩いて行くのが見えた。
 メロディに合わせて、ゆらりゆらり、ときにはくるりと回るその姿に、目を奪われる。
 夏にそぐわないグレーのコートに、どこかの制服のものか、紺色の膝下まであるプリッツスカート。それから生やす手足は驚く程に白くて細かった。濡れたように黒く光るウェーブがかった髪は、肩のところで綺麗に揃えられており、身長はあたしと同じくらいか、ちょっと下か。…多分、中学二年生ぐらいなのだろう。
 声の主が彼女だと気付くのに、時間はかからなかった。

「…あのっ!」
 気が付くと、あたしは彼女を呼び止めていた。
 木々や風、彼女の歌声に水を差すように、あたしの声が響く。せっかくの美しい音たちが汚されたようで、何だか申し訳なくなった。
 歌声が途絶える。
 彼女が振り返った。
 その瞬間、言葉が出てこなくなって焦りが芽生えた。
「あの、えっと…」
 どうしよう。何と言おう。
「あたし、あの、…そ、その歌っ、…な、何て言うんですか?」
 頭の中がパニックになって、思わずそう尋ねていた。しかしすぐに、まずは自己紹介からだったと後悔した。
「…あなた、今の曲を気に入ったの?」
 彼女が訊く。歌っていなくても、鈴のような美しい声はあたしの心を揺さぶり続けた。どうしてなのかは分からない。けれど、彼女の声は聞き入る何かがあった。
「う、うん。その…さっきの歌が、すごく懐かしい気がして…」
 嘘じゃなかった。この曲を聴いて、何かを思い出せそうな、でも思い出せないような、そんな虚しい感じがずっとしていたのだ。
「で、でも、初めて聞いた筈なんだよ? だけど聞いたことある気がして、すごく不思議で…」
 言っているうちに、自分が何を言っているのか分からなくなってきて、ごにょごにょと話してしまう。
 あたふたしていると、彼女がクスリと笑った。
「それ、分かるなぁ」
「…え?」
「私もそういうことあるよ、沢山。聞いたこと無いのに、なーんか聞き覚えがある、みたいな。そういうのって、えーっと、…“デジャ・ビュ”? って言うんだよね」
 こんな長文すらも、歌っているように聞こえて、またもや聞き入ってしまう。
 傍から見れば、ボーっとしているように見えるだろうあたしに向かって、彼女は手招きをした。
「?」
 あたしは彼女に近付いていく。…すると、彼女は社よりも向こう側の方へと走っていってしまった。
 一定の距離を置いて、立ち止まって振り返る。
「来て来て!」
 その言葉に、あたしは弾かれたように走り出した。
 風が吹く。背中を押すように風が吹く。それは、背中を押したと思ったらそのまま追い越していき、彼女をも追い越していき、遠くへと行ってしまった。
 風に揺られた木々が、ざわざわと騒がしい。

 追いつけない。

 速度も歩幅もあたしと同じくらいなのに、彼女は風のように簡単に遠くへ行ってしまい、近付くことが出来なかった。ただ、あたしを先導しているだけの存在のようだった。
「…ここだよぉ!」
 社を通り過ぎて数十メートル走ったところで、突然視界が開けた。そこで彼女が立ち止まる。あたしも少し離れたところで立ち止まった。
「ここは…?」
 見たところ、周りには木々と草花以外に何も無い。建物も、遊具も見当たらなかった。
「ここは、私の秘密基地なの!」
 いつの間にか彼女が近くにやって来ていて、腕をいっぱいに広げてそう言った。その時の彼女の目は、本当にキラキラしていたと思う。
「秘密…基地…」
 正直、子供っぽいことを言う人だなと思った。何でもない普通の広場を秘密基地に見立てて、大人ぶった態度で、真面目腐った顔でくだらないことを話し合う。小さいときはなかなか楽しかったが、心身共に成長していく中で、そういうものは厨二病だ何だと笑われるようになって、やらなくなった。
 でも彼女はそんなことは無かったらしい。恥ずかしそうだというよりも、どちらかと言えば自慢気な表情をしていたような気がする。
 思わず、彼女のことをまじまじと見つめた。そんなつもりは無かったのに、あたしは彼女の容姿を注意深く観察していた。
 見れば見るほど白い肌、白い手足。前髪は眉が少し隠れるくらいの長さで、目はパッチリと大きくガラス玉のように透き通った黒色をしている。鼻は小さく、薄い唇は優しい桃色、輪郭はまだ垢が抜けずに幼さが残っている。
 ぶっちゃけ美人だ。少なくとも、あたしが見とれてしまうぐらいには。
「…あ、あたし、遥、です。西園寺 遥。そのまんま“遥か”って書く」
 彼女から目をそらし、やっと自己紹介をする。
「あっ、自己紹介まだだったね! 私は三日月 朧。朧月の朧!」
 そう言って彼女…朧は笑う。
 チラッと目をやると、女子でも惚れてしまうような可愛らしい笑顔に、ドキッとした。
「ねぇ、遥ちゃん。今の曲、名前知らないんだよね?」
 朧が尋ねた。
「う、うん。聞き覚えがあるようで無いようで…とにかく不思議な感じがしたの。でも、すごく綺麗だった」
 普通なら、もう少ししっかりとした受け答えを求められるものだったが、彼女にならそんな曖昧な回答も言える気がした。
 事実、本心からの言葉だ。他の言葉で表現しようとしても出来ないだろう。
「へぇ、そっか! それなら嬉しいなぁ! この曲ね、私が作ったんだもん!」
 朧が飛び跳ねるように言う。
「…え、朧が…?」
 一方のあたしは目を丸くして固まっていたと思う。それくらい、朧の口から出た答えは予想外だったのだ。
「うん! 私が作ったの! だから名前はまだ無いんだ、ごめんね。
 彼女は申し訳なさそうに言った。
 あたしは、彼女の発した言葉を頭の中で繰り返す。
 ――この曲ね、私が作ったんだもん! だから名前はまだ無いんだ、ごめんね。
 もしもあたしが違う人物だったら、この言葉は信じられただろうか。彼女の歌に聞き入っただろうか。そもそも声を掛けることすらしなかったかもしれない。
 …なのにどうして。どうして、あたしは彼女の言葉を、こんなにも受け入れてしまうのだろう。それは柔らかく、温かく、あたしの心を掴んで離さないのだ。
「…思い出の手招き」
 気が付くと、そんなことを呟いていた。
 朧が首をかしげる。
「曲の名前かなぁ?」
「…あ、いや、何でもない」
 たまに言ってしまう不思議な言葉。フッと湧いて来たものをそのまま口に出してしまうことが、あたしにはよくあった。そんな無意識が漏れて誰かに聞かれてしまうのはとても恥ずかしく、だから今も段々顔が火照っていくのを感じた。
 それを気にせず、朧はクスッと笑う。
「すごく似合う! 『思い出の手招き』かぁ…」
 そう言う彼女は、自分の作品が評価されたときのあたしみたいに、とても嬉しそうな、恍惚とした表情をしていた。
 同時に、あたしの言葉が否定されなかったことに驚いて、それからあたしが付けた名前も評価された気がして、嬉しくなる。
 足元の草花が、讃嘆するようにかすかに揺れた。朧も、その子にしばらく耳を傾けていた。
 この僅かな時間がどれほど幸福だったかは分からない。
 ただ一つ言えることは、ここにいる彼女に、鳥や虫や植物などの自然達に、あたしは既に魅了されてしまっていたということだ。
 あたしの目は、彼女達に釘付けだった。
 絵画の中に住む、時が止まった人々のように、あたしの体は動かなくなった。…まるで金縛りのよう。でも、そこに恐怖などが湧き上がってくるわけでもなく、穏やかな気持ちが心の中に広がっていくだけだった。

 そんな長かったような短かったような刹那が通り過ぎ、訪れた静寂に、本当に時が止まってしまったかのような錯覚に囚われた。
 ふと、朧と目が合う。その途端に金縛りのような心地の良い痺れが解け、あたしは彼女から視線をそらした。
「遥ちゃん、この場所気に入ってくれた?」
 反射的に頷く。すると、朧はふにゃりと顔を綻ばせた。
「そっかぁ、よかった。いつもはね、みんながバカだバカだって言って笑うから、見せてあげないんだけどね……遥ちゃんは特別。なんだか…なんだか、遥ちゃんなら笑わないでいてくれる気がしたの」
 不思議だね、そう言って朧は視線を下に向けた。
「…私の頭は、どこの変じゃないもん…」
 もしかしたら、学校でいじめられたのかもしれない。そう思った。こんな性格じゃ、相当浮いたのだろう。孤島のように、周りに流されずに深い根を張って存在を示し続ける朧は、押し寄せてくる波のような悪意に侵食され、段々と居場所が消えてしまった。
 孤独になって、どこにも居続けることが出来なくなって…そんな彼女にとって、この神社の奥の秘密基地は、とても大切な場所なのだろう。それを受け入れたあたしは、朧の目にどう映っただろうか。
「…あたしは、凄いと思う」
 ぼそりと呟いた。
 あたしの声は、この静かな空間に思ったよりも大きく響いたようで、それを聞いた朧が目を見開いた。
「…本当…?」
「うん。初めて朧の曲を耳にしたとき、本気で誘われていると思った。それはつまり、人の心を惹きつける力があるってことだよ。そんな曲を作れる朧は、本当に凄いと思う」
 あたしは、朧の大きな目をじっと見据えて言った。
「朧の頭は、どこもおかしくない」

 その瞬間、ザァッとひと際強い風があたし達の間を吹き抜けていった。
 …まるで、ウェストミンターの鐘が鳴ったようだった。

「…今日はもう、おしまいみたい」
 朧が不思議なことを呟く。
 …おしまい? 何が?
 それを訊くより先に、強い風に落ち葉が舞い上がって、あたしは思わず目を閉じた。
 …朧の声が遠のいていく…――
「また、お話しようね」

 ――遠くへ行ってしまう…――。

「…遥ちゃん…――」



「朧っ!」
 手を伸ばし、叫んだ。伸ばした手は空を掴み、目を開けると朧の姿はもうどこにも無かった。
「朧…?」
 辺りを見回す。人の影すら見つけられなかった。呼びかけても、何の反応も無い。
 …朧が、消えた。
 ゾクッと悪寒が走った。
 こんな広い空間なのに、あの一瞬で木の陰に隠れられるわけがない。大きな岩もあるが、ここから岩までの距離も短くはない。
 彼女は、どこへ消えたのか。
 そもそも、どこから来たのか。
 ブツブツと鳥肌が立つのを感じる。
「…幽霊?」
 呟いた途端に恐ろしさが湧き上がってきた。
 けれど、場違いなことに、優しく温かい風があたしの頬を撫でて…

 …はる…ちゃ……こわ…らな…で…

 風と共に、そんな朧の声を聞いた気がした。
 すると、不思議なことに怖気がピタリと止んだ。
 …なんだ、怖がらなくていいのか…。
 どうしてかそう思えた。朧が幽霊だったとして、それは決して悪い幽霊じゃないと。
 それは、途轍もなく大きな存在に守られているように感じたからなのか、恐ろしいナニカがいる怪しい世界に魅せられたからなのか、またはもっと別の理由なのかは分からない。
 ただ、朧の声を幻聴したその直後、あたしの中に残ったのは得体の知れない安心感だけだった。
「…朧…」
 多分だけど、彼女は幽霊で、まだここにいる。きっと姿が見えなくなってしまっただけなのだろう。
 そのことを裏付けるように、あたしが彼女の名を呼んだ瞬間、もう一度優しい風があたしの頬を撫でていった。
「…朧、また来るね」
 きっとこの空間にいるであろう朧にそう告げると、あたしはここの出口に向かって歩き出した。
 気が付いたらもう日は低くなっていて、帰らなければならなかった。
 社の横を通り過ぎ、階段を一歩一歩下りていく。上るときに聞こえた歌は今はもう聞こえていないのが、物悲しかった。
 代わりに耳をくすぐってくるのは、リリリリという虫の声、冷たい黒南風の囁き。
 あたしは振り返りたい衝動を抑え込みながら、階段を下りていく。振り返ってしまえば最後、何か取り返しがつかないモノを失ってしまいそうで、恐ろしかった。
 寂しげな遊具や、見えないナニカを座らせているふうのベンチの隙間を駆け抜けて、公園を後にする。

 ――またね。

 背中に追い風を受けながら…朧の声を聞きながら、あたしは家まで走り続けた。



 六月の夕方は蒸し暑く、汗だくになって家に辿り着いた。
 中の電気は点いていない。母はまだ、帰ってきてはいないのだろう。
 あたしにとって、それは好都合だった。なんとなく、あたしが長時間家を空けていたこと、朧という存在と出会ったことを、秘密にしておきたかったのだ。
 冷たいシャワーを浴び、着替えてベッドに寝転がる。ゴワゴワのシーツが、今は少しだけ心地良かった。
 ぼんやりと天井を眺める。普段は気にならないような天井のシミを発見し、じっとそれを凝視した。
 やがてそれは、段々と歪んで見えてくる。シミュラクラ現象…って言ったっけ。よく分からない形なのに、三つの点があれば不思議と、それは顔のように見えてくる。
 更にじっと見つめ続けていると、そっちもこちらを見つめ返してくる。
 表情の無い顔で。感情の無い瞳で。
 そのまま見つめ合っていると、視界の端々が暗く染まっていく。まるで、無表情のシミがあたしの世界を覆っていくかのように。
 あたしを見下ろす無表情が、じんわりじんわり広がって、次第に大きくなっていく。ドロドロのナニカが、あたしの顔に落ちてくる…。

 そこでようやくまばたきをした。途端にさっきまでの無表情は消え失せ、何の変哲もない元のシミに戻っていた。
 集中して機能していなかった聴覚が戻ってきて、雨の音を知覚する。窓を開け放していたことに気付き、慌てて閉めた。幸い、風は窓側に吹いてはいなかったので、室内が濡れることは無かった。
 暑くなりそうだったので、冷房をかける。
 ベッドに腰かけて、大きく息を吐いた。sのとき、あたしは公園の神社で知った朧のことについて考えていた。
 彼女は幽霊なのだろうか。本当に?
 それが、どうしても信じられなくて、頭の中で何度も何度も自問自答を繰り返した。
 どうして彼女が消えてしまったのか、あたしには理解できなかった。彼女はあたしがまばたきをした一瞬の間に、ゲシュタルト崩壊のように消えた。何の前触れも無く、幻想が掻き消えるように。
 けれど声は聞こえたのだ。怖がらないで、またねという声が。だが、本当に聞こえたかと問われたら、肯定出来るほどの自信はちょっと無い。
 なら彼女はただの幻だったのか。
 いや、本当に幽霊だったのではないだろうか。
 二つの考えが脳内であたしを板挟みにし、混乱してくる。
「…朧。あなたは何者なの?」
 しんと静まり返った室内で、あたしの声が響く。もちろん、誰もあたしの質問に答える者はいない。
 気が付くと、外はもう暗くなっている。…そういえば、今朝母が帰りが遅くなるから、自分で夕飯を作って食べてとか言っていた気がする。
 だが、もう今は何か作ろうという気になれなかったので、夕食抜きでもいいか、と思った。
 …またね。
 朧がそう言っていたのを思い出す。「また」と言う通り、朧とはきっと再び出会えるのだろう。明日、同じところに行けば、再会できるだろうか。
 結局のところ、もしも朧が幽霊でも、彼女なら怖くないと思った。だって、彼女から恨みや憎しみなんて感情を、一切感じなかったから。悪い幽霊では無いのだろう。
 じゃあどうして彼女が幽霊になったのかと少し疑問に思ったが、それもヒントが足りなさすぎて何も分からなかった。幽霊というからにはこの世に未練があることは間違い無いのだろうが、その“未練”の正体が分からない。何かをやり残したとか、誰かに会いたいとか、可能性が際限なく広がってくる。あたしが彼女に惹かれたのは、もしかしたらその未練のせいかもしれない。
 …いや、そもそもどうして、あたしは異常なまでに朧に惹かれたのだろう。
 考えが次から次に飛ぶあたしの頭の中は、混乱の真っ只中だったのかもしれない。そういうふうに、あたしは自分が惹かれた理由を考え始めた。
 あたしは彼女の容姿、声、仕草、匂い、その全てに惹かれていた。気が付いたら魔術か催眠術にでもかかったかのように、目が離せなくなっていた。
 あたしは決して女子が好きというわけではない。むしろ、男子とよく話していたぐらいだ。男子が好きというわけでもないが。
 そんなあたしが、確かに「朧」という存在には惹かれたのだ。
 恋愛感情とかそんなものではない。愛みたいなものを感じなかったと言えば嘘になるが、それはどちらかと言うと、友や仲間などに感じる愛だった。
 なぜ、初対面の筈の彼女にそんな情が湧いたのか、あたしには分からない。けれど、それは知らなければならないもののように感じた。
 勘だが、あたしが朧と出会ったのは偶然ではない気がする。
 きっとどこかで繋がっていて、いつか運命的に出会うことになっていたのだ。
「…なんて、ね」
 そんな訳無いか。
 即座にその考えを否定する。
 だって、そんなのいくらなんでも非現実的すぎる。流石にあり得ない話だった。
 頭を横に振って、あたしは別のことを考え始める。明日はどの範囲を勉強しようかとか、昨日今日の不味いおにぎりのことを考えたら、本気で料理の練習でもした方が良いかとか、思いついた詩や物語を専用のノートに書き留めなければとか、…割とどうでもいいことばっかりだ。
 けれど、そんな「どうでもいい」ことで良かった。
 その方が眠れるし、嫌なことを考えないで済む。…まあ、それ以外のことで考え事をして、眠れなくなることもあるんだけど。
 じゃあ何も考えるなとか言われそうだが、無理だ。あたしは、呆けているとき以外はいつも、何かを色々と考えてしまう癖がある。気が付いたらそうなっているのだ。いや、無意識に考え事をしているというのは変な気もするけど、実際にそうだからもう笑うしかない。このおかしな癖は、あたしにはどうしようもないのだ。
 しばらく取り留めも無いことを考えていると、段々と眠たくなってきた。
 …ああ、もうすぐ一日が終わる。
 なんでだろう、とても短かったな。
 朧と出会ったときから、今日の時間の感覚が狂ってしまった。そんな気がする。
 それだけ長い時間、彼女から目が離せなくなっていたのだろうか。心を奪われてしまったのだろうか。
 一体何がきっかけだったというのか。
 …ああそうだ、朧の歌声が聞こえたのがきっかけだった。
 ならば彼女の歌が聞こえたのは単なる偶然だったのか。
 あたしは目をつぶる。意識がどんどん離れていくのを感じる。
 もし、その全てが“必然”で表せるなら、何があたし達を引き合わせたのだろう。
 …。

 …ふと、「三日月」という朧の名字に引っかかった。
 何だ? 聞き覚えがある。月の名前としてじゃない。朧のように人の名前としてだ。
 どこだ? どこで聞いた?
 あたしはどうしてその名に引っかかった?

 しかし、いくら考えてももう少しのところで何も思い出せなかった。
 眠気に負けて思考が一定でなくなっていく。
 駄目だ、今寝てしまったら…。
 反抗しようとして、失敗した。



 あたしはそのまま、夢の中へ落ちていった。

生きているお話

 拍手のような音がする。大勢の人間が盛大に拍手をするときのような、細い、無数の音。
 ああ、雨が降っているんだな、と気が付くのに数秒かかった。それから外の明るさを感じ取る。…今は何時だろうか。
 薄目を開けて時計を確認すると、6時半ぐらいになっていた。この時刻で既に明るいのなら、もうすぐ梅雨は終わるんじゃないだろうか。
 しばらく目を閉じて雨の音を堪能していたが、ゴワゴワのシーツと全身に纏わり付く湿気がどうにも気持ち悪くて、体を起こした。
 …そういえば、冷房は夜中3時頃に停止するよう設定しておいたんだった。かけたままだと逆に寒いから。
 汗でびしょびしょになった服を着続けるのは流石に嫌なので、着替えてからリビングに向かう。母はまだ起きていなかったので、食パン一枚を口にくわえて部屋に戻った。お行儀悪いと言われるけど、誰も見ていないから別にいい。今は、あの視線もやって来ないので、本当のひとりぼっちだ。
 パン一枚を食べ終わり、小さくため息を吐く。朝、目覚めてすぐに文字の羅列を凝視するのは、目が疲れやすくなる原因になるので、勉強はする気にはなれなかった。
 何もすることが無いので、食べ終わった後はカーテンを開けて、冷房をつけて、それから外の景色をぼんやりと眺めていた。
 さっきより空が明るいのに気付く。なるほど、あたしが起きたときはまだ太陽が昇りきっていなかったのか。いや、もしかしたら雲が薄くなっただけかもしれない。それで太陽の光を通しやすくなったとか。
 雨の降る街の中、東の雲が段々白く発光していく様はなかなか綺麗だった。雲の光が反射して、雨粒一つ一つが白く見えるので、景色はほぼ白一色だが、その中に、小さな違いではあるけれど、様々な色が見え隠れしているのも好きだった。じっと見ていると、霧の中に隠れる幻想の世界に入り込んでしまったかのような錯覚に囚われる。
 椅子に腰かけ、その“幻想の世界”をもう少し詳しく想像してみる。

 そこの住人達は皆、霧のようにぼんやりとしか見えず、きっと掴もうとしても掴めない。
 手を伸ばせば掻き消えて、追いかけても追いつけず…
 まるで未来のよう。
 視界の先は、雲に隠され何が待っているのかは知らない。
 それが悲しいモノでも、楽しいモノでも、一度追いつけばもう戻れない。
 だからワクワクするような、恐ろしいような。
 何かが待っているのを考えると、不思議な気持ちになる。
 温かいようで冷たい。
 柔らかいようで硬い。
 そんな雨が降っている。

 …きっと今そこへ行ったら、すごく寒いだろうな。
 だからこの世界では、朧が作った「思い出の手招き」は似合わない。
 と、あたしは思った。
 …朧? 朧って誰だっけ。
 一瞬そんなことを考えたが、ああ、あの神社の少女だ、とすぐに思い出した。彼女はあたしが惹かれた人、たった一度会っただけで強烈に印象に残った人だ。
 寝たら記憶が一部消えるもので、あたしは彼女が突然姿を消したこと、怖くなって逃げ帰ったことまでしか覚えていなかった。寝る前に何か色々と考えていたが、その内容はさっぱり忘れてしまっていた。
 それに、「思い出の手招き」がどんな音色を奏でていたかさえも朧気だった。まるで白紙の譜面を渡されたような気分だ。
 …変だな。考えてみたら、本当にそこで朧という存在と会ったのかさえ怪しくなってきた。昨日はあんなに「会った」と確信していたのに、今ではそう言い切れる自信も無い。
 あの公園の神社の向こう側に、彼女は本当にいたのだろうか?
「朧…」
 声に出して彼女の名を呼んでみる。口によく馴染むような、初めて喋った言葉のような、不思議な感覚に囚われた。例えて言えば、国語辞典で気に入った言葉を見つけて、それを音読してみたような感じ。
 …もしかしたら、本当は出会っていないのかも。
 そんな考えが頭をもたげて、あたしは自問自答をし始める。
 いやいや、ならどうしてあたしは彼女の名を知っているんだ。
 ただの空想上の友達かもしれない。物語の登場人物の一人を友達に見立てて、それが現実に起こったことだと勘違いをしているんだ。
 いやでも、あたしには友達なんていない。これからもいないし、要らない。欲しくない。作った記憶も無いし、あたしなんかが友達なんて作っちゃいけないんだ。
 どうしてそこまで嫌がる必要があるの? 心の奥底では欲しがっているのに、どうして拒否しているんだ? 昔はいたのに。たくさん遊んだ筈なのに。
 忘れないで。友達を作って、その後どうなったのか。あたしは一生忘れられない。だから嫌だ。もう嫌なんだ――

 ふと、膨大な恐怖が脳裏をよぎって、通り過ぎていった。
 あの記憶。魂に刻み込まれた、忌々しい記憶が、頭の片隅から引っ張り出される。
 彼女たちの…アイツらの嫌らしい笑い声を思い出す。
『アンタ、自分の立場もわきまえられないの?』
『死ねよ、ゴミが。お前が生きてる価値なんかねぇよ』
『キモイから近付くな、ブス。菌がうつる』
『マジでもう学校来んな。見てるとイライラする』
 机上の大量の落書き。水を失った花が咲く花瓶。破れた教科書やノート。水の滴る着替えの服。ボロボロの靴。罵詈雑言の手紙。アンモニアの臭い。血の匂い。悲痛な叫び声。責任転嫁の言葉…。

 耳を塞ぐ。

 忘れたい。
 忘れたいのに忘れられない。
 伸ばされたあの手も。
 絶望を孕んだあの目も。
 視界いっぱいに広がった赤い色彩さえも全部。
 全部。
 きっとそうだ。
 悪いのはあたしなんだ…。

 背後に誰かの気配を感じたような気がする。あたしを恨む、誰かさんの見下ろす視線を強く感じる。
 “彼女”はそこにいる。
 そうしてあたしの首に手を掛けて、それで…

『――…遥…』

「…っ!」
 ばっと振り返ってから我に返った。
 視界の先には、もちろん誰もいない。だって、ここは学校でも外でも無いんだから。この部屋に、あたし以外の誰かがいるなんておかしいのだ。
 全身に鳥肌が立っている。心臓を貫くような冷たい針が刺さっている気がする。冷房をかけたのに汗が滲み出る。体の震えが止まらない。
「…大丈夫、だいじょうぶ…」
 深呼吸をしてそっと唱える。そうしたら、少しは恐怖が去っていってくれる気がしたから。
 しばらくそのままじっとしていたら、汗が冷えて寒くなってきた。…肌寒い冷気が辺り一面に立ち込めている。
 未だに誰かが背後にいる気がする。
 考えたくも無いような恐ろしいことを考えてしまって、ぶるっと身震いをする。去ったと思っていた恐怖がまた舞い戻ってきた。

 …ガチャリ

 振り返ることが出来ずにじっと息を殺していると、隣の部屋のドアが開く音がした。お母さん、起きたんだ。
 あたしの部屋の隣は母の部屋で、向かいが父の部屋だった。そして、階段を下りて目の前が玄関、玄関から見て左側がリビングで、その隣に物置部屋、右側が畳間、隣にトイレ、一番奥は風呂場だ。
 自分以外にも動ける人間がもう一人いる状況になって、さっきの恐怖心が嘘のように和らぎ、やがて消えてしまった。
 ホッとして全身の力が抜ける。あたしはその場にへなへなと座り込んでしまった。
 冷房が効きすぎて未だに寒い。しかし、それはさっきの粘着質な、纏わりついてくるような重たい冷気とは違って、肌を掠めていくだけの、通りすがりの人々のような何でもない冷気だった。
 寒くても冷房を消すつもりは無い。今みたいな憂鬱で沈んだ気分には、肌寒いくらいの冷たい雰囲気が心地良いからだ。
「…おはよう」
 ドアをノックする音が聞こえて、それから母の声が聞こえてきた。
「……」
「遥? 起きてる?」
「……」
 あたしは答えない。
 今はほぼ放心状態で口が利けないし、何より母に部屋のど真ん中でぼんやりと座り込んでいる姿を見てほしくなかった。
 …このまま、寝ているフリをしてやり過ごしてしまおう。
 母は、あたしが答えないので、そのまま部屋の前を通り過ぎてしまった。それでいい。もう戻って来ないでほしい。
 あたしは、しばらく呆けていたが、次第に雨の音に癒されて動けるようになった。
 それでも尚、頭の中がぼんやりしたまま、立ち上がってカーテンを閉めた。辺りが一気に暗くなる。閉じたカーテンの隙間から光が差し込んできて、地味に眩しかった。
 ベッドに腰かけて壁に掛けられた時計を眺める。
 カチ、カチ、と小気味の良い音に耳を澄ませた。まるで心臓のようなリズムを奏でるこの時計は、生きているのだと思った。生きているから動くし、時を刻むのだ、と。
 生きているものは皆そうだ。あたし達哺乳類も…もっとスケールを大きくしたら脊椎動物は、心臓がどくどくと時計のようなリズムで脈打っている。昆虫などの節足動物も、規則正しく生まれて死ぬし、軟体動物はゆっくりでもしっかりと動いている。植物だって息をしている。
 考えてみれば、不思議なことばかりだ。あたし達人間は延命が出来るのに、蝉はどう足掻いても一週間で死ぬみたいだし、カゲロウなんて一日と持たない。時計は息をしていないのに、止まってしまっても修理をすればまた動き出す。
 全てものが生きているとするならば、何が違っているというのだろう。
 延命できるものと出来ないものの違い。何回死んでも何回も生き返られるものと何回もは生き返られないものの違い。寿命があるものとほぼ永遠に生き続けられるものの違い。一体それらの何が違うというのか。
 ただ一つ確かなことと言えば、「できないもの」は「できるもの」を羨ましく思っていること。それが自分たちには無いものだから、欲しがってしまうこと。
 でも、「できるもの」からしても、「できないもの」に憧れてしまうときがあると思う。
 例えば延命できたとして、代わりに身動き一つ取れない状態になってしまう、とか。そんなことを望んでいないのなら、どうせなら死んでしまいたい、と考える人もいるかもしれない。
 そんなとき、それを「贅沢」だと捉えるか「共感」として捉えるかで「できるもの」と「できないもの」に分かれてしまうのかもしれない。
 それが悲しいことなのかそうでないのかは、あたしには分からない。きっと、同じ状況を体験しないと、その立場のもの達のことなんて理解できないだろうから。
 多分あたしは、どちらかというと「できるもの」の側だ。お金にはそんなに困っていない家庭だし、学校に行っていた頃の成績は良い方だった。そもそも勉強をすることが好きだった。
 だからあたしは、それとは真逆の立場の人の気持ちは分からないのだ。ただただ、それは「悪いこと」だという理解しかしていない。本当はそうでもない可能性もあるのだ。
「…結局、あたしはジコチューなのかもしれない」
 だって自分のことしか考えることが出来ないじゃないか。他人の為、他人の為と言いながら、いつだって自分の為に生きてきた。
 そんなあたしを「優しい」と言うクラスの人達の気が知れない。彼らは、あたしのどんなところを見てそう言っているのか、あたしには分からない。
「…いや、みんなあたしのことが分からないから、そう言っているだけか」
 分からないなら、それにはこういうものとレッテルを貼ってしまえばいい。そうすれば、表面だけなら分からないものじゃなくなるから。だから皆、良いレッテルを貼ってもらえるように、猫を被る。人間関係なんて、大体そんなものだ。

 …ふと、懐かしい面影があたしの脳裏をかすめていった。
 そうだ。なら、“彼女”はどうだったろう。
 いつも本音を言い合って笑って、たまに喧嘩して仲直りして、悲しいときは寄り添って。そのときのあたし達は、猫被りなんてしていなかった。唯一気の許せる、大切な仲間だった。
 それを、「そんなもの」として捨ててしまっても良いものか。表面だけの人間関係と一緒くたにしてしまっても良いものか。
 …ああ、あたしはなんて最低な奴なんだろう!
 悔しくなって歯を食いしばった。折れそうになるぐらいに、強く食いしばった。泣くのを堪えるためだった。
 カチ、カチ、時計が秒を刻み、時間がゆっくりと、でも確実に過ぎていく。
 こんなときに、時の流れなんて何の役にも立たない。ただ深い後悔が増していくばかりだった。
 カーテンの隙間から漏れ出てくる光の線が、段々と短くなる。昼が近くなっているのだと思った。
 …勉強、しよう。
 大きく息を吸って吐く。一番、気持ちの切り替えに最適な方法だ。
 あたしは気分屋なところがあるから、何かスイッチを作らなければ、気持ちが変わらないのだ。…一旦離れて、また戻ってくる、という方法もあるのだけれど、今は時間が惜しいので前者の方法を使う。

 今日は、ちょっとよく分からないところもあったので、復習も混ぜながら勉強を進めた。社会科の一年で習ったような内容は、ほとんどと言っていいほど覚えていなかった。
「これからは、ちょくちょく復習もしていかなきゃ…」
 来年はあたしも受験生だ。推薦で行かないなら、筆記試験は必須だろう。そのときに、三年生の内容ばかり覚えて一年生の内容を忘れてしまっていたら、間違いなく不利になる。
「…まあ、筆記試験が上手くいっても、面接が駄目なら合格できないけどね…」
 あたしは、自分で言うのも変だけど、いわゆる「不登校」だ。授業に参加していない分、成績は引かれているのだろう。それを、行きたい高校に知られてしまうんだから、かなり厳しいものになる。それを分かっていても、あたしは「不登校になる」ことを選んだ。どうしても、学校に拒否反応が出てしまうから。母もそれを分かって、「しっかり勉強もう運動もするのなら」という条件付きで許してくれた。
 正直、これも一種の「甘え」だと思っているので、あたし的には早く自立しないといけないと、心のどこかでは思っている。
 「あなたは気張り過ぎよ」と笑って母は言うが、そうでもしないとあの視線が鬱陶しくて仕方ないのだ。あたしが怠けたりしたときに現れるから、気を抜くことが出来ないのだ。そういう義務みたいなもの。
 …それがきっと、あたしへの罰だから。
 いつか視線が消えるまで、あたしは一生罪を背負って生きていかないと駄目なのだ。
「うるさい。分かってるから、見ないでよ」
 あたしを刺すような、冷たい視線。聞こえるわけでは無いけれど、それはあたしを責めている。
 耳を塞ごう、聞こえないように。感じないように、目を閉じよう。
 そうすればいい。もう傷付かない。傷つけない。鳴き声も悲鳴も分からない。
 誰も彼も、干渉してこない。
 寂しさも孤独も、要らないんだ。
 全部、要らないんだ…――

 気付けばあたしは、傘を差して家を飛び出していた。もう片方の手には、なぜかノートとペンを持っていた。
 どうやら、無意識のうちにそれらを手に取って、いつもの散歩コースを歩いていたみたいだ。
 傘に当たる雨の振動が、手に伝わってくる。水をはじく音が耳に心地良い。案外、靴も撥水機能を持っていたみたいで、濡れる気色悪さを感じることが無いまま歩けるのも良かった。
 雨はさっきより収まっている。水溜まりもあちこちに見えたので、踏まないように注意はしないといけない。
 帰る気にはなれなかったので、住宅街をフラフラしていると、昔よくあったような見た目の空き地が、「工事中」とされて立ち入り禁止になっていた。何だろうと思って看板を見ると、ホテルを建てると書かれていた。
「…最近この町で出来上がるのは、ホテルばっかり。公園でも作ってくれればいいのに…」
 町が永く続くよう、お金を集めるのに必死なのは分かるけど、思い出の場所が消えていってしまうと考えると、悲しいような、悔しいような、やるせない気持ちでいっぱいになる。
 昨日も感じたが、いつか、朧がいたあの公園まで取り壊されてしまうのではないだろうか。そうしていったら、遊び盛りの子供たちはどこで遊べばいいのだろう。
 ジャングルジムなどの遊具も保護者が「危険だから」と言って、撤去されることが増えているそうだが、本当に保護者だけの意見で決めてしまっても良いのだろうか。危険だと言われている遊具は、本来なら、それで遊んで危機感を知ってもらいたい、上手な体の動かし方を覚えてもらいたいという理由で作られたものじゃないんだろうか。
 あたしは不思議でならない。
 どうして大人が正しいのか。どうして子供が、大人の言うことを聞かなくてはいけないのか。
 …ああでも、きっとあたしが大人になったら、同じことをするのだろうなぁ。大人だって、いつの日かは子供だ。子供から大人になったんだ。あたしも他と同じで、世間と同じ人生を歩んでいくんだろう。
 それに気付いて、怖くなった。
 …嫌だ。大人になりたくない…!
 看板から目をそらして、走り出した。未来に追いつかれないように。あたしが成長しないように。

 走って、どこまでも走って、最終的に立ち止まった場所は、例の公園の前だった。
 …暑い。流れる汗が非常に不快だ。纏わりつく湿気も邪魔で仕方ない。
 息を整え、胸元をパタパタさせながら公園に足を踏み入れる。…雨は、いつの間にか止んでいたみたいだ。
 花壇の花たちに目を向けると、雨粒でキラキラ光って綺麗だった。けれど、雨の勢いに耐えきれずに項垂れてしまっている花もあって、同時に悲しいとも思った。
 いまのあたしは、項垂れた花と同じなのだろうか。
 なんとなく考えた。
 雨は世間であって、膨らんだ期待でもある。それらがあたしを打ちのめして、今あたしの心は折れているんじゃないだろうか。
 そうなら、あたしはいつ立ち直れるんだろう。そもそも立ち直れる日はやってくるんだろうか。
 考えていたら、惨めな気分になり泣きたくなった。
 こんなネガティブな自分じゃ、気持ちに押し潰されて自ら首を絞め続ける一方だろう。直るものも直らない。
 文字通りに項垂れると、少し気が楽になった。この姿が今のあたしにはお似合いなのだろう。

「…?」
 どこからか、声が聞こえた。それは風に乗ってやって来た。
「…思い出の手招き…?」
 昨日あの子が口ずさんでいたメロディ。あたしが『思い出の手招き』と名付けた曲。
 眠って起きたらどんな曲だったかを忘れてしまって、確実にというわけではないけれど、聞いてみれば、確かにそんな音だった気がする。
 …呼んでいる。
 思考が単純化して、もうそれ以外考えられなくなった。
 足が声のする方へ、吸い寄せられる。
 手招きで迎えられているんだから、行かないと。
 あたしを呼ぶ、誰かが待っている。
 誰が待っていたっけ?
 ああそうだ、朧だ。朧があたしを呼んでいる。
 彼女に呼ばれたら、行かなきゃいけない。
 そんな気がするのだ。

 あたしはこの感覚を知っている。
 昨日と全く一緒だ。誰かがあたしを操っているようで、本当は自分の意志で動いている、不思議な感覚。
 自分が行きたい方向へと、思うがままに進んでいく。
 夢の中にいるような思考の中で、ふと懐かしい記憶が掠めていった。けれど、掴み損ねて何も分からなくなった。
 …いや、違和感だけが残った。
 覚えている。このメロディを昔、どこかで聞いたんだ。
 いつのことかは分からないし、本当にそのメロディだったかも分かっていないけど、聞いたことは確かだった。
 あたしは、何かを忘れている。
 何かを…――
「…遥ちゃん?」
 鈴のような、甲高い声。
 振り返ると朧が立っていた。
「えへへ、また来てくれたんだね。嬉しいなぁ」
 間延びした言葉ではにかむ少女を見ると、なんだか気が抜けて、さっきの考えもどこかに飛んで行ってしまった。
「…うん。他に同世代で話したい相手もいないし…」
 上手く目を合わせられずに下を向いて話す。朧はそれを注意したりしないので、居心地が良かった。
「お友達はいないの?」
 朧が首をかしげて尋ねる。
 …友達、か。
「前はいたんだけど、今はもういないし、作る気も無いかな」
 なんだかんだ言って、孤独の方があたしには似合うのだ。似合うというか、それ以外に道が見えない。だから今、その道を歩いている。
「そっかぁ。私とお友達になってほしかったのになぁ…」
 あたしが正直に答えると、「作る気も無い」という言葉に反応して、朧がしょんぼりしてしまった。
「…だ、大丈夫だよ。あたしは自分から作る気が無いだけで、友達になってほしいって言われたらなるよ。だから落ち込まないで! ね?」
 あたしのせいで彼女が傷付いたと思い、慌てて慰める。
 また前みたいになってしまうのは嫌だ。もう誰かが悲しむ姿は見たくない。
「…本当? 私とお友達になってくれる?」
「うん」
「やったぁ!」
 花が咲くような笑顔とはこのことを言うのだろう。朧は飛び跳ねて、全身で喜びを表現した。やっぱり、幼い性格をしているようだ。
 けれど、不思議と嫌な気はしなかった。あたしは小さい子が苦手なのに、なぜか朧は許せるのだ。
「あのね、あのね、私ずっとお友達がいなかったの! みんなおかしな子と遊びたくないんだって! でもね、それも今日までだよ! 遥ちゃんが私のお友達になってくれたから、もう寂しくないんだよ!」
 そう言いながらぴょこぴょこ跳ねる朧は、小動物を連想させた。まるで草原を駆け回る野兎みたいだ。
「えっと、えっとね…。あ、お友達の印を持っててほしいの!」
「…お友達の、印?」
「うん、そう!」
 そう言いながら目を輝かせる朧は、着ている服のポケットをまさぐった。そして渡してきたものを見て、あたしは小さく首をかしげた。
「…石?」
 朧があたしにくれたもの。それは確かに丸い石だった。川の下流辺りで普通に取れるようなもの。ただし、少し星の形になっているようにも見えた。
「お星様の石! 私ね、お星様が大好きなんだ! 小さいときに遊びに行った川でね、この石を拾ったんだよ。一つしかないけど、遥ちゃんはお友達だからあげる。大事にしてね!」
 どうやら、星型の石という認識で当たっていたみたいだ。一つしかないと言われて、しっかりと手に持つと、あたしはしげしげとその石を眺めた。
 …すると突然、懐かしさが込み上げてきた。幼い頃にしか感じられなかったような、夕焼けを背景にして友達を見送るような、今ではもう二度と会えないような、そんな寂しい懐かしさ。

 ――…私、いつか大人になって、…に…――。

 懐かしさと一緒に、何かを思い出せそうになったけど、やっぱり何も掴めずにその記憶は通り過ぎていってしまった。
 …何だろう、すごく大事なことの気がする。忘れたくなかった、忘れてはいけなかったことを、あたしは忘れてしまっている気がする。
 だから、今の記憶を掴み取ろうとしたんじゃないだろうか。そしてこれからも掴もうとしてしまうのではないだろうか。
「…遥ちゃん? どうしたの?」
 気が付くと、朧があたしの顔を覗き込んでいた。
「…ごめん、考え事してた。本当に良いの? この石貰っちゃって」
「うん! でも、これは私の宝物だから、本当に本当に、大事にしてね!」
「分かった」
 あたしはそう答えながら、無意識に星型の石を握りしめていることに気付いた。なぜか、これは手放してはいけないという強い念に駆られたのだ。
 風が吹いて、自然が音を立てる。それは今朝聞いた拍手のようにも、車の通り過ぎる音のようにも聞こえた。
「…遥ちゃんは、お星様は好き?」
 唐突に朧が尋ねた。
「うーん…。嫌いじゃない…かな」
 でも、母が星にちなんだと言っていた、あたしの名前は嫌いだ。だって、“遥か”なんて、とても遠くて手の届かない存在ってことじゃないか。それは、私が誰にも近付けずに孤独であるということ。今のあたしにお似合いな言葉。
 孤独を選んだのはあたし自身だけど、この名前も原因だと思う。この名前があたしの性格を作ったのだ。
 本当はそんな筈無いけれど、今はどうしても何かのせいにしたかった。
「私は大好きだよ。だって、キラキラしててとっても綺麗なんだもん!」
 朧は無邪気な笑顔でそう言った。
「それにね、流れ星が流れている間に、願い事を三回唱えたら、願いが叶うんだって! それって、とっても凄いことじゃない?」
「流れ星が見えるのは一瞬だから、そこまで現実的じゃないと思うけどね」
「でも、本当に叶ったら、素敵じゃない?」
 朧は本当に純粋だ。子供騙しの迷信を本気で信じ、不思議な秘密基地を作り、こんな石ころを大切な宝物にし、…まるで自分も幼い頃に戻ってきたような気分になる。
 だからだろうか。さっきから幼い頃のことを思い出せそうな気になるのは…。
「遥ちゃん、そのノートは何?」
 突然、朧が小首をかしげて訊いた。
 …そういえばあたし、家を出るときにノートとペンを持ち出してたんだっけ。戻るのが嫌でそのまま持っているけど、今のところ使う予定は無い。
「あ、これは…」
 あたしの創作用のノート、と言おうとして、その言葉は喉に引っかかった。
 あたしはよく考えるから、その分想像力も豊かだ。そのときに想像したもので、どうしても残しておきたいと思ったら、言葉や絵にしてこのノートに書き記していくのだ。
 けれどこれは、未だに誰にも見せたことが無い。恥ずかしいから、という単純な理由も脳の隅っこに準備されているけど、それよりも、自分だけの世界を誰にも邪魔されたくなかった。もっと極端に言ってしまえば、あたしが想像して愛した世界を人に決めつけられたり、否定されたりするのが怖かった。
 だからあたしは、このノートを誰にも見せなかった。
 だからあたしは、朧の疑問に声が詰まった。
 自分の創作用のノート。たった一言、簡単な言葉の筈なのに、どうしてかそれが言い出せないでいる。
『…遥ってさ、ホントに自分を表に出せないよね』
 懐かしい声が頭の中で再生される。もう聞くことの出来ないあの声が、妙にあたしの心を締め付ける。
 あの時、何て返したっけな。
『うん、ごめんね』
 回想したら、その言葉がポロリと口から溢れた。
「…ごめんね」
「…え? どうして遥ちゃんが謝るの?」
 当然、朧は何が何だか分からない様子で訊き返した。あたしが突然謝ったからか、彼女は自分が何かしたかと、必死で記憶を辿っているようだった。
「あ、な、なんでもない。ごめんねって言ったのは、えっと…事故! ちょっとした頭の中の事故だから!」
 流石に可哀そうなので、慌てて弁解する。あたしがただ謝罪の言葉を口にしただけで、この目の前にいる純粋な少女は何も悪くないのだ。
「…そうなの?」
「うん。…あ、えっと、それで、このノートはね…」
 このまま勢いで言えるかと思ったのに、やっぱり直前で口が動かなくなってしまった。心が拒絶する。
「…このノートはね、あたしの…。うーん、色々…そう色々! いろいろなことを書くノート! 気に入った言葉とか、…を書いてるんだ」
 自分で考えた詩なども書く、とは結局言えなかった。
 知っている。朧は多分、あたしの思想を否定しない。かといって、こういうものと決め付けもしない。へぇ、そうなんだ。君はそう考えてるんだ。で、多分終わる。彼女が優しいということは、昨日今日しか会っていないあたしでも分かるから。
 でもやっぱり、自分のことを話すのが怖かった。もし「うわ、何それキモッ!」とか「アンタ厨二病でも患ってんの?」とか言われたらどうしようと思う。
 …本当は、ちゃんと言いたかったのにな。
 満足に話せず、心には靄が残った。これが“後悔”というやつだ。
 そんなあたしに気付かず、朧はキラキラと目を輝かせた。
「そうなの? どんな言葉が書かれてるの?」
 興味津々で尋ねてくる。こんな様子を見てたら、別に見せても良いのではと、少し思った。覚悟を決めて、言葉を紡ぐ。
「…べ、別に、言葉だけが書いてあるわけじゃ…」
「言葉だけじゃないの?」
「う、うん。正確に言うとね、…あ、気に入った言葉も書いてあったりはするんだけど、それよりもあたしが想像したものを書いてる方が多いんだよ」
 出来るだけ一気に喋ってから、あたしは胸を撫で下ろすような、緊張するような、変な感覚に囚われた。やっと言えたという安心感、それとどんな反応をされるんだろうという不安感、それらに挟まれて、目を回す。正直、朧の反応を待った約1秒間…いや、本当はもっと長い1分、1時間かもしれない…とにかく、その時間が、とても恐ろしかった。
 けれど、そのびくびくした時間の末に返ってきた反応は、案の定と言うべきか、意外にというべきか、とても予想したものとは違っていた。
「すっごーい! 遥ちゃんって、物語が作れるんだね! 私は昨日も言ったけどね、音楽が作れるんだよ! 凄いでしょ?」
 フフン、とでも聞こえてきそうなほどに胸を張る。それからすぐに、あたしを真っ直ぐと見据えて続けた。
「でもね、でもね! 物語が作れる方が、もっと凄いんだよ! 言葉をたくさん知ってるからね! いっぱい考えて、それを言葉だけで綺麗な音楽みたいにできるの!」
 朧が、いいなーと笑う。そこに嫉妬の感情は見当たらなかった。見つかる筈なんて無いのに、どうして疑うんだと、心の中で自分を叱った。
 それから、そんな朧が羨ましくなった。音楽の才能があって、それを相手より凄いんだと威張らずに、むしろ相手の方が凄いと純粋に褒めてくれる。そんな彼女の無垢な温もりが、羨ましかった。
「朧だって凄いよ。音楽って、作ろうと思っても作れない人が多いのに、朧は一から『思い出の手招き』を作ったんでしょ? その才能は誇るべきだと思う」
 褒められたお返しに、あたしも朧を持ち上げてみる。
 高い景色を見せられた彼女は、そこから美しい絶景を発見できたときのように、嬉しそうに笑った。
「えへへ、そうかなぁ…」
 あたしは、目の前のはにかんだ少女をじっと眺めた。少女の、今にも雪の如く溶けてしまいそうな真っ白い肌を眺めた。シミ一つ無く、とても美しく、触れば本当に冷たくて柔らかいのだと思った。
 無意識に、朧のくれた石を握りしめる。あたしの利き手で、ギュッと握り締めている。その手が凍えて、白くなった。白くなった手は、雪となって溶けていく。どろどろ、どろどろと、まるで血のように…――

 ハッと息を呑んで我に返った。虫の焦がすような声が辺りに響いている。ムッとする熱気があたしの体を付き纏っている。空は急かすように赤い。
「朧…?」
 見回したが、誰もいなかった。さっきまで見つめていた筈の、あの白い肌の少女は見当たらなかった。
 昨日も似たようなシチュエーションだったと思い出す。怖くなって逃げ帰ったんだっけ。けれど今日は、友達に一人取り残されたような、寂しい気持ちがした。
「朧」
 もう一度彼女の名を呼ぶ。当たり前だが、返事は無かった。ここにあたし以外誰もいないんだから、無言を貫かれるのは少しも不思議じゃないんだろう。
 昨日はあの子を幽霊だと強く認識していたのに、今日は彼女を幻だと思った。あたしは白昼夢を見たのかもしれない。
 しかし、あたしの左手には、依然として星型の石があった。川の下流に転がっているような、丸みを帯びてよく磨かれたつるつるの石。鈍色と白でうっすらと縞模様を描いていて、今は夕日に照らされて赤く輝いていた。
 しばらくそれを見つめた。朧はやはりここにいたのだろうか。彼女は突然消えてしまったというのに、それを当然の出来事として受け入れている自分に驚いた。こうなった昨日と今日の違いは何だろう。
 生温かい湿った風が吹く。思い出したように額から汗が一筋流れた。それを拭いもせずに走り出した。なぜか突如として帰りたくなった。
 …またね、朧。
 やる気を失った生気のない遊具を素早く横切って、絵の具を垂らしたみたいな色をしている水溜まりを避けて、…それでもやはり、今日も振り返りはしなかった。目の前の少女が消えたときは何とも無かったというのに、後ろを向く…それだけは途轍もなく恐ろしかった。
 灰と橙がごっちゃになった世界を駆ける。頭上には、黒々とした雲が流れ着いて来たらしい。風は稀に冷たかった。
 今、何時だろう。

 途中で疲れて歩いていたら、雨が降り出した。傘を差して1分もしないうちに、土砂降りになった。ばらばらと激しい音がする。ノートと石を濡らさないように胸元まで持ち上げて、大切に抱えた。
 空は完全に雨雲で覆われてしまったのか、目の前はなんだか薄暗い。ところどころで街灯が地面を照らしている。この様子を見るに、恐らく今は6時半から7時くらいだと推測した。
 日の入りは案外あっという間だ。多分すぐに闇が迫ってくるだろう。それまでに帰らなければならないと思うが、今歩いている地点から家まではあと十数分はかかる。
 雨の中、あたしのように無意味に歩き回る人なんていないから、誰とも会わずに一人寂しく歩く。
 いくら靴が撥水機能を持っていても、水は靴の隙間から流れ込んできて、内側をびしょ濡れにする。気持ち悪さとともに、胸の内に冷たく凍るような風が吹き抜けていくのを感じた。心臓がズキズキと痛む。
 何なんだろう、この痛みは。まるで血管が凍ってしまったみたいだ。
 …「何なんだろう」?
 あたしは知っている筈だ、この痛みを。
 今まで幾度となく感じ続けた、この痛みを。
 これは「孤独」だ。
 それが暗く輝く炎となって、あたしの体の内側を焼いているのだ。
 でも、どうして?
 もう慣れた筈なのに。
 もう気付かない筈なのに。
 どうして今更、この感情に苛まれているのだろう。

 血が流れている。
 あたしはまだ、囚われたままでいる。
 目の前に広がった汚れていく赤色を、忘れられないでいる。
 雨は止まない。
 腹が立つほど降り続けた。
 止むのかどうか、分からないと思った。

 やっとの思いで玄関に辿り着いた。靴を脱ぐのと一緒に、靴下も脱ぐ。足がスースーとして涼しかった。
 家の中は異常な程暗い。鍵も閉まったままだったし、この様子なら母はまだ帰宅していないのだろう。無意識に外に出たとはいえ、習慣として合鍵を持っていてよかったと思った。
 パチッと廊下の電気をつける。目の前が突如明るくなって、クラッとした。
「…ただいまー…」
 なんとなくそうしたかったので、そう言った。ふと「すべてものには魂が宿っている」という迷信を思い出して、信じてみたくなったのだ。
 …まあ、誰もいない筈なのに返事なんてされたら、それこそ大問題なんだけどね。
 靴下を洗濯カゴに入れ、二階に上がる。椅子に座ってだらりと脱力した。疲れた。もう動きたくない。
 目を閉じて、雨の音に耳を澄ます。相変わらず拍手のようで、鳴り続けているということは、何かのアンコールを待っているってことなんだろうかと考えてみる。だとしたら虚しいな。こんなに待っていても、拍手は鳴りやまない…答えられるものはきっと来ないのだ。
 けれど、これは一体何へのアンコールだろう。雨…だから、天気について? この雨は晴れを待っている? だって、晴れるまで、雨は拍手を止めない。どんなに間が空いても、再び晴れるまで拍手を続ければ、それはアンコールに応えてくれたことになるのでは?
 そうだと、いいな。
 なんだか楽しくなった。あたしは例のノートを開くと、鉛筆を手に取った。

 雨のアンコールに耳を澄ませよう
 鳴り止まないアンコールを覚えていよう
 彼らは晴れるまで拍手喝采を忘れない
 大空が応えてくれるまで手を叩き続ける
 必死に手を叩き続ける
 だからいつかは晴れるのだ
 必死な彼らの努力を無駄にしない為に
 ああ 空はなんて優しいんだろう
 私もそんなふうに なれたらなぁ

 そこまで書いて、一階から「ただいま」と聞こえた。母が帰ってきたのだ。
「おかえりー」
 自室から顔を覗かせて、大きな声で返答する。何も反応が無いけど、多分相手には聞こえたと思うから、ドアをバタンと閉めてまた引き籠った。
 そういえば蒸し暑くないなと思ったら、どうやら雨で気温が下がったようだ。過ごしやすくて、とてもありがたい。
 着替えもせずにベッドにゴロンと寝転がる。天井のシミが視界に映った。ああ、幼い頃にこういうのを瞬きもしないで見つめ続け、ゲシュタルト崩壊を起こすって一人遊び、やってたなぁ、と思い出す。お母さんやその他の大人から「ドライアイになるよ」と言われてからよく分からないままにやめてしまったが、こうして大きくなった今でも、昨日みたいにたまにやっている。
 朧もこういうことやりそうだなぁ、とふと思った。
 純粋な好奇心から知識を求める女の子。あたしも、昔はそうだった。知らないことを何でも知りたがったし、図鑑を眺めるのが何よりの楽しみだった。思えば、その頃からあたしの勉強好きは始まったのだろう。そして、自分の知らない世界が広がる物語に憧れて、自分の世界を自分なりの言葉で表現するようになった。
 あの頃のあたしには、この世界の全てが美しく見えたのだ。何もかもが愛おしくて堪らなかったのだ。
 そう、昔のあたしは、朧にそっくりだったんだ…。
 起き上がって、机の上に置いた石を見た。
「友達…」
 そう彼女は言った。あたしを友達として見てくれた。けれど、あたしはどうだろう、彼女を友達として見ていただろうか。流れで承諾してしまったけど、あたしは心の底から「良いよ」と言っていただろうか。
 ズキッと胸が痛む。
 …ああ、これだ。これだ、帰り道にあたしを焼いていた痛みは。あたしはずっと、「友達」という単語に引っかかっていたんだ。
 “あの日”以降、友達は作らないと決めていたのに、あたしはそれを破ったから。だからあの痛みの炎は、あたしを罰したんだ。
 視線を感じる。
 嗤っているような、嫌らしい視線が棘みたいに突き刺さってくる。
 痛い。
 痛い。
 痛い。
 いいよ、笑えばいい。“あの日”みたいに、笑って首を絞めにくればいいよ。逃げてもどうせ、追いついて来るんでしょ?
 なら、ただ耐えるしかないんだ。
 あたしが、…あたしが全部、悪いんだ…。
 泣きたくなったけど、歯を食いしばって我慢した。泣いたって、どうにもならない。失ったものが返ってくるわけでもないし、時間なんて戻らない。そもそも、一体何が悲しいというのだ。
 様々な理由を並べ立てて、涙が出てこないよう必死に抑えた。それでも視界が滲みそうだったので、上を向いて目をぱちぱちと瞬かせた。
 しばらくして冷静になると、先程どうしてあんなにも傷心してしまったのか、不思議になった。なぜ傷心に至ったかは覚えているのに、それだけで悲しくなったことに対しての理解が出来なかった。
 …自分のことの筈なのに、変だな。
 これが「情緒不安定」というやつなのかもしれない。自分でもよく分からないままに感情が突如変動する。それは自分自身のコントロールが出来ないということ、自分の思い通りに動けないのは、少し怖いなと思った。
「遥ー? あなた靴を濡らしたなら、新聞を入れるかどこかに干すかくらいしときなさい。臭くなるわよ」
 一階から声が聞こえた。
 そういえば、帰ってきた後すぐに自室に引き籠ったんだっけ?靴がびしょ濡れになったのに、それに対処することをすっかり忘れていた。
「ごめーん! 今やるからー!」
 扉を開けて顔を覗かせて、大声を出す。これで母にも声は聞こえただろう。
 あたしはノートやら筆記用具やらを片付けると、一階に急いで向かった。リビングの隅に積み重なっている、もう要らない新聞の山から二枚引っこ抜くと、ぐしゃぐしゃに丸めて玄関に向かった。玄関にはあたしのより少し大きい靴が綺麗に揃えられて置いてあった。母のものだろう。その隣の自分の靴に丸めた新聞紙を詰めると、手を洗いに再びリビングに向かった。同じ仕切りにキッチンもあり、そこで手を洗う。
「…あ、お母さん。靴に新聞詰めといたよ」
 帰って来て早速何か料理していたので、とりあえず報告をする。
「あら、早いのね。ご飯はあと30分くらいで出来るから、それまでは自由に過ごしといて良いわよ」
「はーい」
 30分か。
 やりたいことが無かったので、軽くシャワーを浴びて着替えた。それだけで15分は経つので、良い暇潰しになるだろう。
 あとは読みかけの本を読んで時間を潰した。
 30分経つと、リビングに向かう。料理はもうテーブルの上に並べられていた。今日の夕飯は色々と手抜きのスパゲッティらしい。ちゃんと茹でなかったのか、たまに硬い部分があったけど、それはそれで噛み応えがあってあたしは好きだ。ソースはベースとしてトマトケチャップなんだそうな。跳ねたら服にシミが出来るから気を付けなければいけない。
「遥、今日は雨なのに散歩をしたの? ちゃんと傘は持った?」
 静かな食卓の中で、母が口を開いた。あたしは答える。
「うん。でも、昼間は雨の勢いが弱かったから、濡れないんじゃないかと思ったの。…靴は無理だったけど」
「明日も外に出るの?」
「分かんない」
「何それ」
「明日のあたしの気分次第」
 それ以上会話は続かなかった。しばらく見つめ合っていたが、段々気まずくなり、そこから逃げ出すように再び麺をすすり始めた。その沈黙の中に、「夕飯が冷めるから早く食べよう」という意図があるような気がした。

 スパゲッティを食べ終わり、皿を洗おうとすると、母が「やってあげるから戻ってなさい」と言ってくれたので、何もせずに自室に引き上げた。
 椅子に座り、脱力するように四肢を投げ出してみた。ただ歩いただけだというのに、疲れが押し寄せてくる。このまま眠りたい気持ちに駆られた。けれど、体は疲れているのになぜか意識はハッキリとしていた。目を閉じても眠気は一向にやって来ない。
 そこで、そもそも食後に眠れるわけがないと気持ちを切り替えて、今度は背筋をピンと伸ばして座り直してみた。疲れが足元に落ちていく感じがする。…そのまま、勉強でもやってしまおうか。
 ゆっくりとした動きで勉強用のノートを広げる。筆箱から鉛筆と消しゴムを取り出して、本棚からは社会の問題集を一冊適当に抜き出した。歴史だった。
 並べたそれらを眺めていると、ふと学校ではどんな授業をやっているのだろうという疑問が頭に浮かんだ。あたしはちゃんと追いついているだろうか。もしかしたらあたしがやっている所よりももっと先の方をやっているのかもしれない。
 前者が現実になっている方が嬉しい。だけど、不登校とは不便なもので、学校内で起こっているニュースについては疎い。あそこでの息の仕方について、あたしは初心者だ。だから、どの教科がそれぞれどこまで進んでいるのか、それは全くの未知な領域だった。
「…まあ、あたしには関係無いか」
 いくら考えたって、分かる訳が無い。たまにある定期テストは毎回こっそりとだが受けに行っているから、そこで今あたしがどの位置にいるか分かるだろう。それまでいつも通り勉強を続けていれば良い。
 今はもう夜なので新しいところを覚えようとしてもまたすぐに忘れるかもしれない。そう思い、一年のときの復習をすることにした。

『…ね、遥! 徳川家って何時代の人?』
『えっと…江戸、じゃなかったかな?』
『うっそ、なんで分かるの!? これ習うの中学三年生だよ!?』
『その情報はだいぶ有名な方だと思うんだけど…。というか、そっちこそ、どうして知ってるの?』
『ふっふっふ。勉強したからね。私は、歴史王に、なる!』
『…ああ、そう。頑張ってね?』
『反応薄ーい! もっと張り切って応援とかしてくれないの?』
『だって毎回似たようなこと言って、三日坊主で終わるじゃん』
『ぐう…正論』

 これは、いつの記憶? あたしがいて、“彼女”がいて、楽しそうに話している。あたしは“彼女”をいつも言い負かして、それでも“彼女”は笑っている。何があってもへこたれないのが“彼女”の強み…だった。
 …そうだ、これは中学一年生のまだ最初のときの記憶。あたしがまだ世界を美しく思っていた頃の記憶。人と話すのは当時も苦手だったけど、“彼女”と話すときだけは特別楽しかった。楽しかったんだ…。
 けれど、もう“彼女”はいない。もう二度と会えなくなってしまった。だから、いずれあたしの記憶から消えてしまうのだろう。あの、鮮烈な赤色とともに…。
 多分、あたしはそれを望んでいる。
 なんて最低なあたし。
 消えてしまえばいいのに。
 “彼女”みたいに醜く歪んで、いなくなってしまえばいいのに。

消えてしまったお話

「…ん…」
 気が付くと、外が明るい。だが雨は小降りらしく、窓の向こうに白い線がちらちらと見える。
 寝違えたのか、首が痛い。右頬はやけに涼しいし、全身の骨が軋んで動きづらい。
 どうやら、あたしは勉強しながらそのまま眠ってしまったらしい。
 大きく伸びをして時計を見る。午前7時の1分前を示していた。
 トイレを済ませてリビングに行く。母はもう既に起きており、朝食を作っていた。
「おはよう」
 声を掛けると、母は振り向いて「おはよう」と返し、また朝ご飯作りに意識を向けた。チラリと覗くと、ほうれん草を炒めていたので、それを使って何か作るのだろう。
「遥、今日はお母さん、仕事休みだから、ゆっくり寝てるね」
「うん」
 盛り付けている最中にそんなことを言ってきたので、とりあえず返事だけはしておいた。母は女手一つであたしを育ててくれていて、それがどれだけ大変なのかも分かっているつもりだから、休めるときはしっかり休んでほしい、というのが本音だった。そんなことは恥ずかしくて言えないけど、いつかそれをきっちりと伝えたい。
 朝食をよく噛んで食べると、皿洗いをして自分の部屋に戻った。勉強をしよう。今日は何の教科をやろうか。国語? 数学? 英語? 社会? 理科? または実技の教科でも良い。技術とか家庭科は特に重要だ。機械化の時代だからコンピュータのプログラミング等には慣れておかないといけないし、一生健康でいたいなら食生活も気にしないと駄目だ。体育は…散歩でなんとなっているし他のものをやるにしても道具が無いし、出来ない、が正しいか。そうじゃなくても筆記テストがあるから、しっかり勉強しなくちゃいけない。
 やることがてんこ盛りだ。
 悩んでいると、視界の隅に朧がくれた石が映った。まだ片付けていない社会科用の勉強道具一式からはみ出し者にされ、ポツンと寂しげに置かれている。
「…星」
 そういえば、理科の先生が中学三年生になったら天体についての勉強をすると言っていた。完全に二年生には関係の無い内容だけど、…どうしてだろう、星についての勉強がしたいという気持ちが徐々に膨れ上がってきて、しまいには抑えきれなくなった。
 気が付くと、母が買ってくれていた三年生の理科の問題集を手に取って、解答と照らし合わせながら天体の範囲の問題を解いていた。
 …大丈夫、これは予習だ。決して悪いことじゃない、と心の中で言い聞かせながら、背中に視線が刺さっているようで恐ろしかった。それは一人だけ皆と違うことをしているときに感じるような後ろめたさと似ていた。それでも知識欲だけは止まらないのが不思議だった。
 太陽の日周運動、季節の変化と地球の公転との関係、…なぜか今までに無いほどワクワクする。未知の世界とはこんなにも面白いのだ。よく知らないからこそ知りたいと思ってしまう。星が無数にある世界…すなわち宇宙は、あたしにそんな欲をくれる。他の教科でもこのワクワク感は存在する。歴史なら、昔流行っていた思想はどういうものだろう、と想像するときとかは堪らなく楽しい。だが、宇宙についての世界はそれ以上の喜びと興奮を感じた。
 …こんなの、初めてだ!
 小学生の頃、大雑把に夜空に触れていた授業があった筈だが、そのときはこんなにワクワクしなかった。だから、この心地良い興奮の中で、かなり不思議になった。どうして今更になって宇宙に興味なんか出てきたのかと。
 手が疲れて休憩している間に考える。
 あたしは朧から貰った星の形をした石に触発されて、天体の勉強を始めた。つまり、この石にはあたしの好奇心を膨らませる作用があるのだ。おかしなことに、あたしはそう信じる気になっている。
「…変なの」
 そういえば、朧はよく星の話をしていた。星が大好きだとも言っていた。あの子もあたしと同じように、宇宙に憧れたんだ。朧の「お星様」のお話を聞いて、気付かぬうちにあたしも「お星様」に惹かれたんだ。
 …でも、どうして? あたしと朧は全く関係の無い人間同士だったのに、どうしてこんなにも感覚が引っ張られるんだろう。天体の好奇心に対する疑問を持つのと同時に、これは必然だと納得している自分がいる。必然だからこの気持ちに興味を持ってはいけない、と。そしてこの疑問を解き明かしてしまえば最後、何かを失ってしまうのではないか、と。
 これは心の警告だった。“彼女”を裏切りそうになった時に何度か現れた、恐ろしい警告だった。
 それを知覚した瞬間、あたしは朧とどこかで繋がっているのだと信じた。彼女はあたしにとって何らかの大切な存在なのだと思った。だからあたしは朧に魅せられたのだ。きっと、そうだ。
 そう思うと、あたしは座っていられなくなり、ガタッと椅子を倒して立ち上がった。
 朧…朧に会いたい。会って話がしたい。そんな恋しい気持ちが湧いた。この気持ちに名前を付けるのならば、きっと“愛”だ。どんな種類の愛なのかは、まだあたしには分からない。

 それから気が付くと、あたしは靴の新聞紙を取り出してごみ箱に捨て、まだ湿っているにも関わらずに靴を履き、雨の中を一人で走っていた。行き先は自分でもよく分からなかったが、多分公園に向かっているのだろう。
 走ることで、どんどん景色が流れていく。水溜まりを気にせずに足を突っ込み、靴が昨日の状態に戻った。肩で風を切り、あの灰色の工事現場も雨に濡れて落ち込んでいるようだったが、視界の外に去ってしまった。
 久しぶりに全力で走った気がする。こんなに爽快で楽しいことをしばらく忘れていたようだ。顔が見えなくても、自分は今ニヤニヤするほどには笑っているのだろうか。
 足が止まれば、そこはやはり公園の前だった。走るのをやめた瞬間に疲れが襲い掛かってきて、あたしは思い出したようにゼェゼェと息をした。いきなり持久走のようなことをしたのだから、苦しくない訳が無かった。
 今のあたしは全身びしょ濡れで、走って噴き出た汗もあり、服が肌にべた付いて気色悪かった。無意識だったとはいえ、外に出るときに傘でも持ってくるべきだったと反省した。
 もう濡れるも何も無いので、水溜まりを作っているベンチに休憩のために腰を下ろす。雨はまだ止まず、ときどき視界が歪んだ。何回か拭っていたが、段々面倒になって目を閉じた。鼓膜に雨の音が響いた。相変わらずなひっきりなしの拍手。それがあまりにも身近に聞こえるものだから、なんだか、自分が舞台の上で何かを披露して称賛されているように感じた。
 …そういえば最近、ピアノを弾いてないや。
 ふとそう思った。小さい頃は、ピアノの発表会で色んな人から凄いねと拍手を貰っていたことを思い出したのだ。緊張しながら、何度も間違えながら弾いた拙い曲を、大人は優しい笑顔で見守った。それはまるで、我が子以外の子供の成長すらも喜んでいるようだった。それを、あたしはとても温かいなと思っていた。
 結局、去年に習い事を全部辞めちゃって、もうあの気持ちは戻って来ないんだけど。
 一応、畳間にアップライトピアノがあるんだけど、“あの日”以降ずっと手付かずのままになっている。帰ったら弾いてみようかとちょっと思った。もしかしたら今なら触れるかもしれない。
 息が整って、再び目を開ける。一瞬、目の前が眩しくて目がくらんだ。今日は、紫外線が強い日だったみたいだ。慣れるまで何度か目をぱちぱちさせる。…こうやって見ると、昨日も見ていた筈の景色が、今は全く違って見えて驚いた。
 あんなに鮮やかだった草花の色素が雨のせいか褪せて見え、まっすぐ前を向いていた花が昨日以上に項垂れている。土は水溜まりを至る所に作り、鈍色の空を映し出している。遊具がやる気を失ってしまっているようで、子供の笑い声や道具の軋む音が聞こえないのはきっとそのせいだろうと思った。
 …そろそろ、朧のところに行こう。
 あたしは立ち上がると、公園奥の階段に向かった。滑らないように一歩一歩、慎重に上る。神社を通り過ぎて、あの子の“秘密基地”へ…。

 しかし、そこに朧はいなかった。

 そこに何の温かみも感じられず、いつもの死んでしまった住宅街みたいだった。
「朧…?」
 どうして? どうして彼女はここにいないんだ。あたしは彼女に会いに来たのに。彼女と話がしたいのに。どうして。どうして。
 虚しい気持ちに襲われた。雨が冷たい。
 そうだ、朧だって必ずここにいるわけじゃない。ここに来たって絶対に朧と出会えるわけじゃないんだ。どうしてあたしはここが朧の場所だと思い込んでいたんだろう。そんな保証なんて、どこにも無かったのに…!
 雨に濡れ、湿った風が世界を揺らした。あたしはブルッと身震いする。なぜか、ひどく寒かった。いや、湿気に纏わりつかれて蒸し暑いとも感じる。けれど、体の芯の部分だけ凍えている気がした。
 …こんなところに来るからだ。
 唐突に、そんな考えがあたしの脳内をよぎった。
 こんなところに来るから、寒気がするのだ。朧と初めて対面し、彼女がいきなり消えてしまったときに感じた怖気は間違いではなかったのだ。
 あの子は…朧は、幽霊なんだ。その中の悪いモノ、悪霊というモノ。彼女はきっと、美しさであたし達生者を惑わし、狂わせてしまう悪霊なんだ。
 そう思うと、途端にこの場所が恐ろしくなった。一刻も早く、逃げなければ。そうしないと、彼女に憑き殺されてしまう。
 あたしは踵を返して走り出した。廃れた神社を横切り、出来るだけ丁寧に、けれど出来るだけ素早く階段を降り、公園を後にする。
 死んでしまいそうなほど吐き気がして、震えも止まらなかった。走っているうちに涙が溢れだして、何度か「うっ、うっ」という嗚咽が漏れた。本当に、一秒でも早く家に帰りたかった。そして温かい毛布に身を包んでしまいたかった。この寒さからあたしを守ってほしかった。それを望みながら家路を走る。絶対に振り向かなかった。

 やっとの思いで玄関の扉を開けたあたしは、未だ部屋で眠っている母に気付かれないように、サッと風呂を済ませると、新しい服に着替えて自室に籠った。鏡を見るとあたしの顔は真っ青だった。死人のような表情をしていて、唇は青を通り越して紫が混じっていた。その姿を見てあたしは口を押さえてトイレに駆け込むと、胃の中のものを吐き出した。全てを出し切るように何度も何度も嘔吐した。とても最悪な気分だった。
 吐き気が治まり、トイレットペーパーで口を拭くと、それごと水を流した。フラフラと台所に行き、口をゆすぐとあたしは自室に戻ってベッドに倒れ込んだ。
 ボロボロと涙が溢れた。拭う気は無く、ただ涙を流し続けた。
 …頭が痛い。内側から誰かが脳をがんがんと叩いているみたいだ。それから鼻をすすると、頭で血が渋滞しているような気がした。
 目の前が暗い。水面を覗き込んだように揺れている。もう既にびしょ濡れみたいで、ただひたすら寒かった。
 そうだ、多分あたしは風邪を引いたのだ。そして高熱なのだ。だから、こんなにも熱くて寒いのだ。
 そっと目を閉じる。雨の音に混じってクラスの騒めきが聞こえてくる気がした。彼らは笑っている。嘲って、揶揄って、ありもしない事柄を並べ立てて笑っている。
 天の川。そう、これは天の川だ。三等星が集団になり、一等星をも吞みこんでいく。浮いた奴からどんどん排斥して、しまいには殺してしまう集団のシステム。それが怖くて、あたしは抗えなかったんだ。
 何も聞こえない。見えないフリをした。周りを見回す。誰も彼もが死んだ目をして目と耳を塞いでいた。なんだ、あたしも他と変わらないじゃないか。最底辺に落っこちてしまったゴミだ。
 そう、それでいいんだ。皆と一緒で良いんだ。皆と一緒に焼却処分されるのを待ちながら、埋もれればいいんだ。そうすれば安心・安全、結局自分が一番可愛いから。自分の身を守るために心を閉ざすのだ。
 ああなんて…なんて醜い星団だろう! いつの間にあたしはこんなところまで成り下がってしまったのだろう! もっと小さかった頃…とても幼かった頃はまだ、美しく輝いていた筈なのに!
 考えているうちに惨めな気分になり、下唇を噛む。泣き止みかけていた目が再び泣き出した。けれど、それは先程と同じような苦しみや恐怖からの涙では無いことが、心地良かった。だから案外、心は落ち着いていて、ずっとこうしていたいと思った。
 …さっきはどうしてあんなに取り乱していたんだろう。
 冷静になった頭で考える。あんなふうに混乱したことなんて、今まで一度だって無かったと思う。いつもなら家に帰って来たら、心はすぐに落ち着いていた。けれど今日は、帰ってきたとしても恐怖や気持ち悪さが付き纏って、冷静になるのに時間がかかった。なんでこんなに違いが出たんだろう。やっぱり、熱を出していたことによって頭が上手く回らなかったんだろうか。気持ちの処理もしっかりとこなせなくなって、感情が渋滞して、その結果頭が混乱してしまったのではないだろうか。十分にありうる話だろう。
 けれど、本当はそうじゃないのだとも感じる。理性が示した解答を、感性が違うと強く否定する。本当は、後者の意見が正しいのだろう。この幻のような日常に、直感というものは必要と感じたから。
 …そう、朧が全部、悪いんだ。
 漠然とした思考を、言葉に表してみる。そうだ、朧があそこにいなかったのが悪いんだ。朧があたしに愛を感じさせたのが悪いんだ。朧が…あたしの心を揺すって惹きつけたのが悪いんだ。そんなことが無かったら、あたしはこんなに苦しまなかったのだから。
 そもそもなぜ、あたしは朧のことで必ず心が搔き乱されるんだろう。朧の存在はなぜ、あたしの心を搔き乱すのだろう。公園に行く前、あたしは自分と彼女がどこかで繋がっていると信じていた。けれどそんな確証はどこにも無いのだ。むしろ「ある日、いきなり出会った」という感じなので、繋がっていると考える方がおかしい。それでも信じたいという気になったのは、一体どうしてなのか。
 考えれば考えるほど、何も分からなくなっていく。朧が幻なのか、優しい幽霊なのか、悪霊なのかも分からない。あたしと何の関係があるのか、それとも全くの無関係なのかも分からない。
 本当に、あたしには分からないことばっかりだった。
 …いつか、あたしも分かる日が来るのだろうか。来ると良いな。そう思った。このまま、何も分からないでいるのは嫌だ。この苦しみを一生抱き続けるのも嫌だ。あたしは何を忘れてしまっているのか、朧への愛が何を表すのかも、あたしはまだ知らない。そう、知らないのだ。
 相変わらず雨は地面を叩き続ける。誰かたちの騒めきのように、閉幕した舞台の後の拍手のように。この雨に打たれて、あたし達は段々と大きくなっていく。成長して記憶を失っていく。
 けれど、この雨が降る前まで、あたし達は小さな子供だったのだ。それを今思い出した。
 …そうだ、知らないのなら、探せばいいんだ。
 答えが見つかるまで、考え続けるのだ。
 あたしなら出来る。
 信じるんだ。
 そう思えば、雨の音が少し小さくなった気がした。
 今ならあの視線もどうだっていい。そう思った。

消せないお話

 熱が下がったのは、それから二日後だった。母には、「今日は休日だから」という口実で一日中寝てダラダラしているように見せ、あたしが病気だったことを悟らせなかった。どうしても知られたくなかったのだ。母にこれ以上迷惑を掛けたくない、と。本当は、病気だと教えない方が迷惑だと分かっていても。どうしても。
 その次の日は、母が仕事で家にいなかったので、バレずに済んだ。
 あたしも、熱が下がらない間は大人しく寝ていたので、平穏になった今、だいぶ気分が良くなっていた。これで一安心だろう。…もちろん、ぶり返す可能性もゼロじゃないのだが。
 念には念を出、今日も礼の公園には行かないことにした。本当は、先日の恐怖がまだ焼き付いていて、行くのを躊躇っているだけだということに、気が付いていた。そして、しっかりこの目で見ないで時間が経つほどに、恐ろしい想像が膨れて、尚更勇気を失ってしまうのも分かっていた。だから多分、この決断をした現在もかなり焦っているのだろう。今は自分の心の中ですらも分からない自分がもどかしくなった。
 とりあえず、日課の勉強を始める。昨日までは中断していたけど、この体調ならしっかり集中できるだろう。
 いつものように勉強道具を机に広げて、鉛筆を手に持つ。今日は、国語の文法をしようかな。
 ノートの上を滑る鉛筆の手触りは、なんだか心地良かった。二日間空いたことでこんなにも新鮮に感じるのは不思議でもあった。筆を持ち過ぎたことで出来たマメがチクリと痛むのも、おかしいと思ってしまう。
 …やっぱり、勉強は楽しいな。
 誰がどう言おうとあたしは勉強が好きだ。いや、「知る」ことそのものが好きだ。その気持ちは今も変わらない。幼い頃の心情を思い出したことで、それには拍車が掛かったように感じる。
 あたしの友達だった“彼女”には、勉強全体に対してそんな熱意は無かったみたいだけど、それでも好きなことに関してはいつも無我夢中だった。“彼女”は「それが私の個性!」と胸を張っていたし、あたしもそれが良いところだと思っていた。
 だからどうしてあんなことになってしまったんだろうと、今でもふとした時に考えてしまう。
 それは深い悲しみと後悔の記憶として。一生忘れないような絶望の記憶として。あたしに生涯消えないような傷跡を残して、ずっとあたしを焼き続けているのだ…。



 耳障りな怒鳴り声が響いて、辺りがしんと静まり返る。誰もが呆れを隠して、黙ってその光景を見ている。
 …またか。
 皆、そんな目で見ている。あたしも同じで、込み上げた溜め息をそっと飲み込んだ。
 視線が集まったその先に、彼女達はいる。片や自分の席で小さくなって体を震わせ、片やそんな彼女を暗い怒りの表情で睨みつけている。
「アンタさぁ聞いてんの? もう学校来んなって言ったでしょ、なんで来てるワケ?」
 そう言って、小さくなった彼女を取り囲んだうちの一人が、机の脚を蹴る。ガンと悲鳴を上げて、机はまた無言に戻った。どれだけ落書きをされても怒らないこの無機物が、今だけは羨ましい。そんな場違いな感想が頭をもたげる程に、あたしの感覚は狂っているのだろうか。
「…」
 少女は答えない。いや、答えられない、が正しいか。答えれば最後、待っているのは激しい罵詈と数の暴力。泣いても許されない偽りの罪が暴かれ、断罪される。
「……チッ、マジ死ねよ」
 主犯格が少女の座る椅子を力いっぱい蹴り、椅子は倒れる。少女も共に地面に打ち付けられた。「うっ」と呻き声を漏らし体を起こせば、周囲はクスクスと笑い、彼女を足蹴にする。笑い声は更に大きくなる。彼らの心はどこに捨てられてしまったのか。実はもう既に焼却処分されていて、帰ってくることは無いのだろうか。
 あたしは少女をじっと見る。足が顔に当たって鼻血を垂らしている、自分の友達を見つめる。すると彼女もあたしの視線に気付き、見つめ返す。主犯格とは違った暗さを湛えた瞳が、あたしを睨んでいる。…いや、睨んでいるように見えるだけだ。あたしがそう思っているからそう見えているだけで、彼女は別にどんな感情も、救いを求める気も無いと分かっている。
 …佳奈。
 心の中で、彼女の名を呼んでみる。佳奈。あたしは今、どんな顔をしてる? 心配した顔、イライラしている顔、泣きそうな顔。それとも、どんな感情も感じない真顔? ねぇ佳奈、教えて。あたしはあたしが分からない。分からなくて怖い。とても怖い。
「あ~、クサいわぁ~! なぁんかボロ雑巾みたいなニオイがするなぁ? 誰のニオイかなぁ~?」
 主犯格が大声を張り上げて言う。
「ねぇ、ハナ、それコイツじゃない? だってこんなボロッボロなの、人じゃなくて雑巾と変わらないでしょ? だからニオイの原因はコイツだよ」
「アハハ~、それ最高!」
 腹を抱えて笑う彼女達が理解できない。彼女はちゃんと人間だし、そこまでボロボロな見た目ではない。何より生きている。それのどこをどう見て雑巾だなんていうのか、あたしには全く分からなかった。
 彼女達は更に自分勝手に話を続ける。
「こんなにクサいんだから、もう使用済みなんだよ。汚いからちゃんと洗おう。ね? 誰か水持ってきてくんない?」
「あ、めっちゃクサいから、もう既に水汲んじゃって来てたわ~!」
「お~、気が利くじゃん!」
 見ると、傍観者だと思っていた人の一人が、笑顔でバケツを持って入り口付近に立っていた。中にはなみなみと注がれた大量の水。…こんなもの、どんなふうに使うかなんて、誰かが言わなくても分かっている。
「んじゃ、いっくよ~!」
 見事にいじめっ子の仲間入りをした彼女は、バケツを手に体をグッとひねると、スイングして中身をぶちまけた。狙いは当然、佳奈だ。
 バシャン
「キャハハ! すっごい! 泡立ってる、何入れたの?」
「ただ水をかけただけじゃニオイは取れないと思ったからぁ、粉石鹼入れたの。どう?」
「めっちゃ良いじゃん、それ! アンタ最っ高だわぁ~!」
 びしょびしょになり、そのうえ泡だらけになった少女を見て、主犯格どもは笑う。それに合わせて傍観者も引き攣った笑みを披露するが、誰も見ていないことに、彼らは気付いているだろうか。
「…痛い…目に入った…痛い…」
「あ? そんなの我慢しろよ。あんまりにもニオイが酷いまま登校してきたアンタの為に、あたし達はこんなことしてんのにさぁ、何、文句? オイ」
「キャッ!」
 石鹸水が目に入って痛がっている佳奈を、主犯格は何の躊躇いも無しに蹴り上げる。顎に当たり、佳奈は後ろにひっくり返った。それから主犯格は、そんな彼女の髪を鷲摑みにし、乱暴に引き摺り回した。
「痛いっ、やめてぇっ!!」
「痛いっ、やめてぇっ…だって! あはは、ばっかじゃねぇの?」
「ギャッ!」
 佳奈は後頭部を力強く地面に叩きつけられ、悲鳴を上げた。脳震盪ってやつかもしれない。彼女は呻き声を出すが、起き上がれなくなってしまった。
 いつまでも仰向けな彼女のお腹を、取り巻きの一人が踏みつける。
「グエッ」
「ギャハハハハハ! グエッ、だってさ、蛙みたい!」
「…ちょっとミヨ。マジでそれ言ってるの?」
「え? …うわっ、コイツ吐いてんじゃん! きったね!」
 佳奈は口から黄色い液体を吐いていた。胃液だろう。それを見た取り巻きは、今度は脇腹を蹴った。佳奈は悲鳴を上げなかったが、口からまた胃液を吐き出した。
「うっわ=、マジキモイ。梨野、それ自分で片付けてよ」
 主犯格は鼻をつまんでそう言い、佳奈から離れていく。それを見た取り巻きも、仰向けに倒れたびしょ濡れの少女から離れていった。それはまるで、急に獲物への興味を無くしてしまった子猫のように感じられた。
 …佳奈の虚ろな瞳から、涙が一筋流れた。

「…ごめんね、佳奈。いつも助けられなくて」
 帰り道、佳奈と肩を並べながらあたしは謝る。
「ううん、気にしないで。私のせいで遥がいじめられるのは嫌だから。そのまんまで良いよ」
 彼女は笑って言った。その笑顔を見るたびに胸がギュッと締め付けられる感覚がする。もっと泣いたって良いのに、ずっと見捨て続けているあたしを怒ってくれても良いのに、彼女はそれをしない。されたってあたしはやり返さないのに。だってそれが事実だから。あたしは、自分可愛さに逃げ続けている、卑怯な小心者だから。怒られたって文句は無い。
「ねえ、親にちゃんと話したら?」
「心配かけたくないの。それに、教師たちはきっとみんな私のことを見放してるから、今更、親がいじめのことを知って校長に訴えても、多分誰も何の対処もしないよ」
 それはそうかもしれない。でも、もしかしたら何か変化があるのかもしれない。だから相談してみたら? そう言おうとして、声が出せなかった。口も動いてくれなくて、聞こえてくるのは無言と言う名の環境音だった。
「…それにしても酷いよね」
 佳奈は続けた。
「こないだ、ようやくいじめの原因を突き止めたけど、それがまさかの『存在がウザい』だよ? 最低じゃん」
「…」
「私がイキってるとか何とかって桃山ちゃんが言ってた。…何それ、そんなことでいじめないでほしいよね」
「…」
 あたしは黙って下を向く。頷いたり「うん」と肯定したりすると、どこからかあたしがそう言ったことが漏れてしまうんじゃないかとか、「そんなことない」と否定すると、佳奈が裏切られたように感じるんじゃないかとか、嫌なことばかり想像して、何も行動できない。全てが怖い。そんな臆病な自分に、嫌気が差す。
「そろそろ分かれ道だね。…バイバイ、また明日」
「…うん」
 あたしは、佳奈と別れると、途端に早歩きになり、急いで家に帰った。これといった理由は無いが、外にいるとクラスの連中が見ているようで落ち着かなかった。

 次の日、登校したら佳奈の机の中に大量の埃が詰められているのが分かった。ご丁寧に水で濡らしてベタベタにしてあり、机の上には文字が重なり過ぎて、もはや何の意味も為さない言葉の羅列が、油性ペンで書き殴られていた。
 それを横目に自分の席に着く。数分後にいじめのターゲットはやって来た。それと同時に、皆視線を下に向ける。
 彼女は、今日は自分の机と椅子が消えていないことに安堵しながら席に着こうとし、机の中身を見て顔を強張らせた。が、無視を決め込んでいるようだ。その様子に、主犯格はチッと小さく舌打ちをした。それを見たあたしは、佳奈が少しでも反抗出来たことに嬉しくなった。…残念だったね、こんなことじゃあたしの友達は屈しないみたいだよ。
 しかし、それが火に油を注ぐ結果となったのは明らかだろう。それを証明するように、その日の嫌がらせ、暴力はいつもより酷いものになった。
 例えば体育の時間。外でサッカーをやっていたのだが、ボールを顔面にぶつけたり、足を引っかけて転ばせたり、ゴール近くでそれをやってゴールの鉄骨の部分に頭を打ち付けさせたり。佳奈は見る見るうちにボロボロになっていた。授業後半は保健室で休むことになった。
 例えば給食準備時間。「足が滑った」と言いながら、熱いスープや出来立てのおかずを乗せたプレートを佳奈の真上でひっくり返した。佳奈が悲鳴を上げて席を立つと、プレートをひっくり返した人がゲラゲラ笑いながら彼女を押して転ばせた。口を切ったのか、給食まみれの彼女は唇から血を滴らせていた。そこですかさず主犯格が彼女の口に落ちた給食の具材を押し込み、無理矢理咀嚼させて呑み込ませていた。
 その他、色々な嫌がらせを行い、たった一日で、佳奈は少しだけ保っていた元気さを、完全に失っていった。
 そしてあたしも、心境に大きな変化が生まれ、戸惑っていた。
 それは“焦燥感”だった。その感情が、あたしに何度も何度も危険信号を送ってくるのだ。このままでは佳奈は死んでしまうのではないか、という心配。どうしてこうなっても、誰にも言わないのかという苛立ち。この二つが、あたしの中に何とも言えないような焦りや恐怖を引き起こしているのだ。
「…遥、あのね」
 帰り道に誰もいないのを確認して、佳奈が言う。その言葉にすら耳を塞いでいるあたしが居る。いや、耳を塞いでいるというよりも、何も聞こえないのだ。自分の中で芽生えた感情を必死で抑えようとして、そしてその感情が爆発して佳奈を傷つけてしまいそうで、とても恐ろしかった。
 だから本当は、一人で帰ろうとしたのだ。だが、佳奈に引き止められて、あたしは今、彼女と共に歩いている。
「遥、私達、友達だよね?」
 佳奈は泣きそうな声で尋ねる。あたしは答えられない。
「私、どうしよう…もう無理かもしれない…」
「…それなら、やっぱり…」
「お父さんとお母さんには言えない。もちろんご近所さんにも言えない。だって、迷惑掛けたくない」
 …何それ。
 自分でも驚く程に、冷たい感情が渦巻き始めた。
 このままだと死んじゃうのに? この期に及んでまだ迷惑を掛けたくないと言うの? どうして? そんな毒のような言葉が、あたしの心をつついている。早く言え、言って終わらせてしまえと苛立ちを連れてくる。
 それらの感情を押し殺して、尋ねた。
「……じゃあ、どうしたらいいの?」
「分かんない。分かんないから遥に聞いてるんだよ。ねぇ、どうしよう。もう頼れる相手が遥しかいないよ…」
 懇願する、声。その声の相手を見ることが出来ない。…ねぇ、あたしは今、どんな顔をしてる?
「遥、お願い」
 イライラする。その声を聞くと、なぜか本能的にイライラする。
「助けて」
 やめて。もうやめて。本当にその声はうんざりなんだ。私は聖人でも万能でもない。もう纏わり付いて来ないで。
「ねぇ遥、どうして黙ってるの? 返事してよ」
 うるさい。
「ねぇ、遥」
 うるさい。
「遥」
 うるさい。
「遥…」

 遥、遥、遥…。

 もう限界だった。
 それから、何を言ったのかは分からない。声を荒らげたような気もするし、耳が痛くなるような罵詈雑言も吐いた気もする。どちらにせよ、あたしは彼女を傷つけた。絶望した瞳が、それを物語っていた。
 言いたいことだけ言って、あたしは家へ帰った。
 焦燥感を催したものの正体は、本当は自分も巻き込まれるかもしれない、という焦りだったと気付いた。
 …もう全部、遅かった。

 次の日、佳奈は学校に来なかった。嫌な予感を押さえつつ、もしかしたら保健室に居るかもしれないと寄ってみたが、居なかった。
 …出来ることなら、昨日のことを謝りたい。
 だが、その願いはあっさりと霧散することになった。
 その日は男子の体育の先生が休みで、男女混合で体育を行った。場所は運動場だ。丸々一時間、自由時間になったので皆喜んでいたが、あたしはどうしても喜べず、気分も悪くなってしまい、休むことにした。
 保健室で休んでいたが抜け出し、なんとなく教室に行ってみた。すると、佳奈の席に一枚の紙切れが置いてあるのが目に入った。
「…さっきまでは無かったのに」
 それを手に取って書かれている文字を読む。そこにはたったの二行。

『ごめんんさい。
     さようなら。』

 呼んだ瞬間には、弾かれたように走り出していた。例の紙切れも持って。
 …一体どこへ向かっているのだろう。
 分からない。
 あたしはどこに行きたいんだ?
 そのとき、キャアア! という女子の悲鳴が聞こえた。足がそこへ向かい始めた。何が起こったのかは、もう気が付いていた。
 着いたのは運動場。さっきまでグラウンドで遊び回っていた人はどこにも見当たらず、全員が校舎の近くのところで人だかりを作っていた。
「ねぇ、ヤバいんじゃない?」
「どうすんだよ、これ…」
「何が起こって…」
 一人一人の声が聞こえる。中には嘔吐している者も居る。皆、ひどく狼狽しているようだった。あたしはその群れの隙間から、中心となっているモノを垣間見た。…チラリと、赤い色が見えた。
「…佳奈?」
 彼女の名が、口をついて出た。嫌な汗が噴き出す。心臓が破裂しそうなほど、早鐘を打っている。そんな。まさか…。
 フラフラとその中心へ向かう。分かっている筈なのに、現実を認められない。
 割とすんなり、彼女の元へ行くことが出来た。
「…佳…奈……?」
 息が苦しい。いやだ。イヤダ。やめて。佳奈、嘘だと言って。これは、夢だと言って。
 足の力が抜けた。赤い水で濡れるのにも関わらず、そこに座り込む。立ち上がれるような気力はもう無かった。
「…佳奈」
 虚ろな瞳。空を反射させているが、その美しい青色を、もう見ることは出来ない。
「…佳奈」
 ピクリとも動かない手足。皮膚は熟れたトマトみたいにぐじゅぐじゅだ。骨は粉々に砕けたのだろう。
「…佳奈」
 四方八方に飛び散る赤いしぶき。その形はまるで、無数の棘を持つ薔薇のようだ。
「…あ…ああ…」
 視界がぐにゃりと歪んだ。前が見えない。何も見えない。真っ暗だ。
 息が出来ない。上手く空気が吸えない。
 あたしのせいだ。
 あたしのせいだ。
 あたしが佳奈を裏切ったからだ。
 友達なら、ちゃんと寄り添っているべきだったのに。
 自分可愛さに裏切ったのだ。
 あたしが彼女を追い詰めたのだ。
 本当に、最低だ。
 あたしは、彼女の友達失格だ。名前を呼ぶ権利すら無い。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
 今更謝ったって意味はない。彼女はもう、帰って来ない。
 周囲の視線を感じる。きっとあたしを非難しているのだ。間接的とは言え、人を殺したあたしを責めているのだ。
 そうだ、これが罰だ。
 あたしは罪を一生背負うことになったのだ。
 頬を生暖かい涙が一筋、伝っていった。あたしは静かに目を閉じた。

 それからのことはぼんやりと覚えている。警察が来て、事情聴取が行われて、その後すぐに帰された。大人たちの反応から見るに、いじめによる自殺だとすぐにバレたらしかった。
 家に帰ったら母が心配そうに何かを言っていたが、音がくぐもっていて聞き取れなかった。頭の中はずっと靄がかかっていて、自分が何をしているのか全く分からない。口もろくに利けず、ご飯も喉を通らなかった。
 この状態が一週間続き、学校どころではなかった。
 あの赤い色が忘れられない。絶望に染まったあの目が未だ、脳裏に焼き付いている。クラスの皆の笑い声が耳の奥で聞こえ続けている。
 …あたしを責める無数の視線がずっと刺さったままだ。
 なんで死ぬのがあたしじゃなかったんだろう。潰れるのがあたしで、それを悲しめる彼女が生きていたら、どんなに良かっただろう。
 そんなことを幾度となく、グルグルと考え続けた。それが終わらない呪いだった。
 それから日が経つと意識がハッキリして、日常生活がまともに出来るようになった。しばらく手付かずだった勉強をやるようになり、ちょうど中学二年生になった頃辺りからは少しずつ会話も出来るようになった。



 そして現在に至る。きっと生涯の中で忘れることは無いだろう。中一の夏に起きたあの悲劇を。焼き尽くすような罪罰の末生まれた傷跡を。
 例の視線が見ているのは、いつだってあたしが“いい子”にしていないときだ。悪い子なあたしを、彼らは絶対に許さないだろう。だからあたしを矯正するために、視線はあたしを責めるのだ。

 昼になって勉強する手を止めた。朝食を取った後からずっと書き続けているので、もうだいぶ疲れてしまった。
 大きくため息を吐いて、伸びをする。同じ姿勢で固定していたから、体が軋んでいるようだった。
 …ああそうだ、そろそろ昼ご飯の時間だ。それもあって集中が切れてしまったのかもしれない。
「…遥ー? お昼出来てるわよー!」
 下から母の声がした。そういえば今日は、母の仕事は休みなんだっけ。家にいることを完全に忘れていた。多分、勉強に集中しすぎてそれ以外のことが頭に入らなかったのだ。こういう時はたまにあって、不登校になり始めが一番頻度が高かった。
「はーい!」
 返事をして勉強道具を片付ける。それから急いでリビングへ向かった。人を待たせるのは悪い子の証。例の視線がいつ現れるかと、少し怖かった。
「…遥、今日はどこまで進んだ?」
「国語の文法。格助詞とか、助動詞とか…そんな感じ」
「へぇ? 他に進んだのはある?」
「今日はそれ以上やってない。結構見分けるのが難しくて、時間かかっちゃった」
「あら、遥が難しいって言うなら、お母さんはきっと解けないわよ」
「やめてよ。あたしは別に、天才でも何でもないよ」
「そうかしら? “勉強が好き”っていうのは、随分と強みになる才能よ。多分もう、勉強面ではクラスのどの子達よりも相当進んでいると思うわ」
「冗談ばっかり」
「冗談じゃないの」
 そんなふうに会話をしながら、いつもと違う母の様子に気が付いた。普段はただ笑顔を貼り付けているみたいだったけど、今日はそんなんじゃない…何というか、本当に嬉しいことがあったかのような表情だ。
「…お母さん、良い事あったの?」
 試しに訊いてみた。母が目を丸くする。
「…分かる?」
「いつもより心のある笑顔」
「何それ」
「…明日も今日みたいな表情が良い」
 思わず悪口のような言葉が出てしまったので、慌ててフォローする。どうしてだろう、悪気は無かった筈なのに、ものすごく悪いことをした気分になった。どうやらあたしは、相手の気分を害することを自分で考えている以上に恐れているようだ。これもきっと、“あの日”の後遺症というやつなのだろう。
 …ああ嫌だ、考えたらなんだか視線が刺さっている気がしてきた。
 そんなとき、母が言った。驚きで暗い気持ちが吹き飛んだのは初めてかもしれない。

「夏休みに、少しだけ旅行をしましょう」


「三日月 霞さんっていう人が女将さんの旅館に、一週間泊まるの。遥が幼い頃にも一回来たことあるんだけど、覚えてる?」

覚えているお話

 梅雨が明けた。六月が終わって、七月になった。七月が終わって、八月になった。日課の勉強も一日一回散歩に行くことも変わらなかったけど、結局、あの公園には寄らなかった。いや、一度だけ寄ってみたけど、やっぱり朧の姿は無くて、それからは行かなくなった。
「荷物は全部入れた?」
「うん」
 母が仕事の友人から借りたという車の、後部座席とトランクに大量の荷物を詰めて、あたしは助手席に乗り込む。嗅ぎ慣れない車内の匂いに一瞬だけ戸惑った。フロントガラスから覗き込む世界の一部は、いつも見ていた筈なのに別の場所みたいで、ここは異世界なんだと錯覚する。
「緊張してるの?」
「…変な感覚がする」
「ふふっ」
 母が笑う。この些細なことへの笑顔が、本当の母の姿なのだと思った。
「それじゃあ、出発するわよ」
 車が動くと、ぐんと後ろ向きに体が流れた。車窓を覗くと、周囲の景色も流れている。砂みたいに全てがサラサラに見えた。
「わぁ…」
 凄い。母が昔も一回あったと言っていたから、多分乗ったことはあったんだろうけど、もうほとんど記憶が無い。だからこれが初めての乗車体験だと言っても良いのだろう。
「窓開けても良い?」
 全てが一瞬で通り過ぎる、本物の刹那の世界は、どんな匂いだろうか。どんな音だろうか。
「良いわよ」
 窓を全開にする。ブワッと風が入ってきて、排気ガスの匂いがした。普段はそれほど気にしないけど、あたしの住む町はこんな匂いだったのかと、改めて知る。ゴウゴウという風が耳を擦る音。その隙間には、どこかの家のピアノの音や工事現場の重機の音など、それらが一つ一つ絡み合って、不思議な合奏が生まれていた。
「…あ、月だ」
 ふと空を見ると、絵の具で塗り潰されたような一面の青。その下の方に薄い月が見えた。
「あら、本当ね」
 赤信号で停車し、母も外を見る。
「たまにあるよね、昼の月」
「不思議よねぇ…」
 青信号。車が発進する。まだまだ揺られる。

 しばらくしたら、家より自然の方が多くなった。いかにも田舎というイメージだった。母は「三日月さんのところに行ったら、もっと緑が増えるわよ」と言っていた。
 いつの間にか、草いきれの薫りが鼻腔をくすぐって、一回くしゃみをした。母には「犬みたい」と笑われた。あたしもそう思ったから何も言い返さなかった。
「そろそろ、完全に森に入るんじゃないかしら」
 外の景色を眺めながら約10分。唐突に母が言った。
「…もうだいぶ家が珍しくなってきたんだけど…」
「森林っていうのは、そんなものよ」
 蒸し返った草の匂いは更に濃くなって、蝉の騒ぐ声も特段大きくなった。まさしく生命力の強さを表した、映画のような迫力だった。
 もう死んだ灰色は見えない。映されるのは、深い緑と天色の空、ときどき怒りっぽい入道雲。燦々と輝く太陽に照らされて、木々は嬉しそうに揺れている。
 …そうだ、あたしの生きる世界は、こんなにも多種多様な営みによって回っているのだ。
 今更ながらに、自然の偉大さに気付き震える。ずっとここに居たいと思い、帰るべき場所を思い出し踏みとどまる。
「…お母さん、綺麗だね」
「ええ、そうね」
 涙が零れそうなのをグッと堪えた。それはきっと、目の前の世界に感極まったからだけじゃないのだろう。
 車に揺られて約30分。緑と天色以外に何もない空間に飽きてきた頃、ちょうど前方に大きな旅館が見えた。あそこが三日月さんの旅館なのだと直感的に理解した。
「もうすぐ着くから準備しときなさい」
「うん」
 そうやってやっとたどり着いた場所は、想像以上に美しく、そして寂れていた。和洋折衷になっている木造の家は軋みそうなぐらいボロボロに見えたし、看板も年月が経ち風化して掠れてしまっていた。
 だが、その旅館は自然とうまい具合に調和していたし、色とりどりの花だけは、寂れずに力強く咲き誇っていた。
 わずかに、花の甘い香りがする。嗅いだ覚えがあるような気がするのは幼い頃に一回来たことがあるからだろうか。
「デジャ・ビュ」
 そう言えば朧はそう言っていた。何だかその感覚に馴染みがある…それを、“デジャ・ビュ”と呼ぶのだと……

 ――遥ちゃん。私、いつか大人になって、必ず宇宙に行くんだよ。

 …ふと、そんなことを誰かに言われたのだと思い出す。いつの日かこの場所で、誰かがそう言った…この記憶は、一体何を表すのだろう。確かに分かることは、あたしが昔、この場所にちゃんと立っていたということだ。
 この思い出が脳裏に再生された途端、哀愁のような懐旧のような、何とも満たされない感情が心の中に沈んだ。朧の口ずさんでいた曲が、耳の奥で響いている。ぽっかり空いた穴を埋めるように、癒すように…。
「遥、行くよ」
 母の声で、遠のいた意識が覚醒した。あたしはこれから旅館に行くんだったと思い出す。
「…うん」
 やっとの思いで返事をして、先を行く母の背中を追いかける。朧のように、どんなに走っても追いつかなかったらどうしようと無意識に不安になったが、全然そんなことは無くてホッと安堵する。
「ようこそお越しくださいました」
 旅館の前で職員さんらしき人物が深くお辞儀をしながら言った。母が何か言っていたけど思い出せない。あたしはそのとき、別のものに意識が奪われていた。視界も音声も匂いも感情も、その一点に全てが集中していた。
「…遥、……よ…」
 母に手を引かれて、あたし達の泊まる部屋に案内される。それでも頭はぼんやりして、何もかもモノクロに見えた。くぐもって聞こえた。無臭だった。無感情だった。自分でも、玄関にそれらを忘れてきてしまったのかと感じた。
「こちら…なり…す」
 部屋に到着して、この屋敷の当主…三日月 霞さんが来たときになり、ようやく意識が戻ってきたようだった。
「お久しぶりですね、西園寺さん」
「こちらこそです」
 母と霞さんが軽く挨拶をする。あたしは霞さんをじっと見た。
 雪のように白い肌、細い手足。長いであろう真っ黒な髪は頭の後ろでお団子にしており、艶があった。大きな目は透き通るような黒色。小さな鼻、口紅により赤くなった唇。…見れば見るほど、朧と似ている。違うところがあるとすれば、口の周りにほうれい線があり、少し老けているように見える。朧が大人だったら、こんなふうになっているんだろうか。
「遥ちゃんも大きくなりましたね」
「ええ、まあ…」
「それと、母に似て、美人に育っていますね」
「あら、嬉しいわ。そういう霞さんのお子さんも、随分と美人さんだったけれどね」
「うふふ、お互い様ですよ」
 久しぶりに会うからか、二人の会話はとてもぎこちなかった。話題が見つからずに、そのまま沈黙が下りる、
「…ねえ、お母さん」
 気まずさに耐えられないで、あたしは訊いた。
「ここ、色々と見てきてもいい?」
 ぎくしゃくするのはあたしが居るからかもしれない。そういう考えもあって、あたしはこの場を離れたいと申し出た。
「…まあ、いいわよ。あんまり危険なところには行かないようにね」
「うん」
 返事をしてから、早足に玄関へ戻る。
「あら、あなたは西園寺さんの…。どうしたの?」
 あたし達を迎えてくれた職員さん? があたしに気付き声を掛ける。
「玄関の写真が気になって…」
「ああ、三日月さんの娘さんね」
「娘…」
 靄が少し晴れた気がした。
 玄関にひっそりと飾られていた写真。あたしはそれに意識を奪われたのだ。なぜなら、そこに写っていたのは…
「名前は、何て言うんですか?」

「気になるの? 名前は“朧”よ」

 そう、そこに写っていたのは、あたしが探し求めていた、あの純真無垢な少女…朧だったから。
「あの、ありがとうございます」
「どういたしまして」
 その人はにっこりと笑んだ。優しい笑みだと思った。
「では、私は忙しいので」
 一礼をして去っていった20代くらいの女性を見送って、吸い寄せられるように写真に近付く。
「三日月、朧…」
 写真の中の彼女は笑っていた。体育祭のときにでも撮ったのだろうか、体育着姿で白いハチマキを巻き、カメラ目線でピースをしている。チラリと覗く白い歯が可愛らしかった。
「…朧」
 もう一度、声に出して呼んだ。
 写真の中の彼女は美しかった。見ていたら、涙が溢れてきて、下へ下へと流れていった。
 とても不思議だった。彼女が存在していたという事実がとても、不思議だった。あたしがこれまで追い求めた答えに、いざ辿り着いてみれば信じられなくて、あたしが存在しているのかさえ怪しく思えた。
「朧」
 彼女は、ここにいた。ここの当主の娘だった。あたしの幻じゃなかった。
 正体の分からない涙が頬を伝い続ける。視界が歪んでいき、写真は見えなくなった。どうしてか、ひどく悲しいのだ。彼女がこの世に存在していたことが、とても悲しい。
 もう会えないのだろうか?
 ふとそんな考えが頭をよぎった。この閑静な旅館の姿から、飾られた写真から、なんとなく感じ取ってはいた。朧は、もうこの世にはいない。
 彼女は幽霊となって、あたしの前に現れたのだ。触れれば消えてしまう靄のような、カゲロウのような、流れ星のような、儚い幽霊。追いかけたって、追いつける筈もない。そんな影みたいな幽霊。朧はそれになったのだ。
 …風が泣いている。あたしと一緒に、寄り添うように、誘うように泣いている。そんなことをしたって、彼女はもういないんだよ。
 構わず風は泣き続ける。懐かしい花の香りがする。
 耳の奥に優しく焼き付いたあのメロディが、あたしの手を引いている。
 どうして? あなたを怖がったあたしを、もう一度呼ぶの?
 きっとあたしは、再びあなたから逃げるよ。
 そうやってまた、友達を泣かせてしまうんだ。
 あなたを泣かせてしまうんだ。
 風が泣いているのは、その為なんでしょう?
 あなたはきっと、泣いているんでしょう?
「…もういいよ、朧」
 あたしは誰かを裏切ることを恐れている。
 大好きだった親友を殺してしまったことから、ずっと逃げ続けている。
 そんな臆病者に、あなたを愛する資格は無い。
 だからこれ以上、ついて来ないで…。

 走って母のもとへ戻る。霞さんはもう既にいなくなっていた。
「…あら遥、おかえり」
 ただいまと言いかけて、顔を背ける。母を見ていたら、涙が零れてしまいそうな気がしたからだ。
「……遥? 顔色が悪いわよ、大丈夫?」
「大丈夫」
 そう、大丈夫なんだ。だから放っといてほしい。
 黙って宿泊部屋に入る。母が何か言っていた気がしたけど、あたしには何も聞こえなかった。さっきから心の中がモヤモヤとしていて、それどころではなかった。
 畳間の座布団の上に腰を下ろし、じっと壁の掛け軸を眺めた。妖怪みたいな顔をした虎の絵が描かれていた。虎の周囲には雲らしき模様があって、どこか神々しく思えた。
 それを眺めながら、全く別のことを考える。
 まず、「どうして逃げてしまったんだろう」と思った。あんなに会いたがっていた存在だったのに。誘いに身を委ねていたら、また会えたかもしれないのに。あたしは意気地なしだと思った。
 それから悲しかった理由に気付いた。朧の死に泣いていた自分に気付いたからだ。きっと、存在していたものがもう存在していないことを認めたくなかったんだと思う。あたしはいつだって、現実逃避ばっかりだから。
 目を閉じて、視覚以外の五感を感じ取る。
 窓から吹く風は少し冷たく、いつの間にか汗をかいていた肌に当たって気持ち良い。鴉の声や鈴虫の音が鼓膜を震わせ、夜が近付いていることを知らせていた。室内の畳の匂い、木の匂い。それらは苦いとも甘ったるいとも、何とも言えない味をあたしに幻覚させ、ひどく陰鬱だった気持ちを、ほんのりと拭ってくれる。なんだかホッとした。
 目を開けて、再び虎の掛け軸を視認する。虎や雲が動き出しはしないかと少し期待したけど、やっぱり絵だった。虎は相変わらず妖怪じみた顔をしているし、雲は中心の生物を神々しく包んでいる。何の変化も無い。
 でもそれで良かった。虎と違ってあたしは満足に動けることに感謝した。何に感謝したのかは分からないけど、とにかくありがたかった。
 こうやって比べて安心するのは、きっといけないことなんだろう。でも今だけはそうしていたいのだ。
 ずっと死と触れ続けて、あたしが生きていることを忘れてしまわないように、今だけは自分の生を噛みしめたい。そうすれば、あの視線がやって来ても、気が楽になるから。

 夜になり、夕食の時間になった。料理は食堂で食べるとかじゃなくて、宿泊部屋に直接持って来られるという仕組みになっていた。ただ、一応食堂自体はあるみたいで、そこで食べたいと職員に進言してくれれば、食堂でも料理を食べられるらしい。今のところ、あたしはそこで食べようとは思わないが。
 何の料理かは知らないけど、サンマを焼いたものや、母とは違う味付けの味噌汁、卵焼きなど、色々なものが出された。家ではいつも少量しか食べないから、この量を食べ切る自信が無かった。
「…遥、ここの風景はどう?」
 母が尋ねた。
「綺麗だよ。ここに居ると、なんか落ち着く」
「そっか」
 それ以上会話は続かなかった。再び静かな食卓に戻り、あたしはただ咀嚼するだけだった。時折、闇夜の世界の方からコウモリの鳴く声や鈴虫の奏でる音色が聞こえてきて、あたしはそれに耳を傾けていた。
「遥、大丈夫?」
 突然そう訊かれて、何のことかと首をひねった。
「それ、食べ切れるの? あなたいつも小食でしょ?」
「分からない。でも、せっかく作ってくれたんだから、出された分食べる」
 答えると、母は困ったような笑みを浮かべた。あたしにはその表情の表す意味が分からなくて少し不安になった。何かいけない回答をしてしまったのだろうか。
「食べ物を残さないのは良い事だけど、あんまり無理をするものでは無いわ」
「もったいない精神って、結局そういうものじゃないの?」
 美味しくないものでも、もったいないから食べる。要らない道具でも、もったいないから使う。量が多くても、もったいないから食べる。あんまり変わらないじゃないか、とよく思う。
 もしかしたら、これがいわゆる「捨てられない人」の心理状況なのかもしれない。だからあたしは、「捨てられない人」になってしまうのではないかと考えた。これも少しは危惧した方が良いのだろうか。
「吐く前に教えてね。お母さんが残った分を食べてあげるから」
「うん」
 結局、半分ちょっとを残してギブアップした。小食なのもあったけど、朧のことで気が滅入って箸が進まなかった。ときどき泣きそうになりながら夕食を取っていたので、母には少し気を遣われているらしかった。そんなことしなくていいのに、と本気で思う。でも、母には“そんなこと”ではないのかもしれない。心配をかけている自分にやり切れず腹が立った。

 ここでの入浴は大浴場でだった。あたしの家は大体シャワーで風呂を済ませるので、湯船に浸かるのはとても新鮮だった。
 他の旅行者もそこには居て、母子二人で入ってきたあたし達を見て軽く会釈をし、それからは何の関心も示さなかった。
「遥、お母さんがいないときは食事抜かしてたでしょ? こんなに細くなっちゃって」
「…勉強に集中してたら忘れちゃうの。別に、標準体重じゃないわけでないんでしょ?」
 一つ忠告しておくが、あたしは拒食症ではない。母にはああ言ったけど、本当は食欲が無いから食べないだけで、むしろ断食は逆に太るとかも聞いたことがあるから、ダイエットをするなら別の方法を考える。それに、あのいじめが起こる前は、友人と一緒によく食べた方だった。
「そうだけど、ちょっと心配だわ。規則正しい生活のバランスが崩れてしまったら、病気になりやすくなるのよ」
「…気を付ける」
 短く返事をして目をそらす。
 あたしに、健康になる資格はあるのか? と疑問に思った。友達を裏切り、殺してしまったあたしに、本当に元気でいる資格があるのか。この食欲不振もあたしへの罰だとするならば、不健康であるのは当然の報いではないのか。
 グルグルと悔しさに似た言い表せない感情が渦巻く。
 そうだ、あたしは最低な人間だ。自分の為ならどんな犠牲もいとわない、とんだクズだ。きっとそうだ。その身勝手で、“彼女”は死んだのだ。もっと愛され、生きるべきだったあたしの友人は死んだのだ。
 あたしのせいで、あたしのせいで、“彼女”は…!
 今にも叫び出しそうだったが、なんとか堪えた。周りの迷惑だし、何より母に心配されることが最も恐ろしかった。何の価値も無いようなあたしを生んだことで苦労している母に、これ以上負担をかけるのが怖かった。
 何度かこの葛藤から逃げたい、死んで楽になりたいと思ったことはある。でも、死の直前の苦痛を考えて恐ろしくなり、結局今の今まで死に損なっている。あたしはなんて臆病なんだろうと罵っても、死への恐怖は拭えなかった。生と死の板挟みになり、もがいたせいで身動きが取れなくなるなんて笑えない。あたしはとんでもなく頭が悪いのだ。
「どうしたの?」
 暗い表情にでもなっていたのかもしれない。母が不安を滲ませた声で尋ねた。
「…なんでもない」
 あたしは答えて母を見つめた。大丈夫だから放っといてほしい。そう言いたかったのに、言葉が出なかった。

 早めに風呂を済ませて一人で部屋に入ると、寂しさなのか悲しみなのか区別がつかない感情が、むくむくとせり上がってきた。目頭が熱くなって、ひとりでに泣いた。どうして泣いているのかは、あたし自身分からなかった。中学二年生に昇級して、あたしはどれくらい泣いただろう。友達を失って枯れたと思っていた涙の木は、未だに栄えている。いや、一時は枯れていたのかもしれない。朧に出会って再び芽を出したのだ。あたしの涙の木に、あの子が水をかけたのだ。だからあたしは泣いている。
 窓を開けた。暗い世界を眺めて少しすると、気持ちが収まって涙が止まった。夜風が当たって、湿った頬が冷たく感じる。もしかしたら、この夜の冷気に、熱を持った頭が冷やされたのかもしれない。
 夜の森は昼と違って黒一色だ。…そう思っていたけど、案外そうでもない。木々の色と土の色で、黒の種類が微妙に違う。月の光に照らされているから、もともとの色が少し混ざっているのだろう、と考察する。耳を澄ませば食事中にも聞こえた、あの鈴虫の声。それと、蝉のような声もそこかしこから響いていた。風の音も、その風に揺られた梢の囁きもあった。案外この世界には音が溢れている。どんな音楽も指揮者によって現れる特徴が変わる。いつの日か聞き入った“日常のオーケストラ”も、ここではまるで別物のようだ。
 ふと、仄かな花の香りが鼻腔をくすぐった。やはりそれには懐かしさがあって、あたしの心にわびしさを募らせた。
 …あたしはどこで、この匂いを知ったんだろう。やけに既視感のようなものが心の中でチラつくのだ。最近もどこかで嗅いだような気がする。どうして思い出せないんだ。本当に、大事なことの筈なのに…。
 そのとき、母が大浴場から帰ってきた。
「お待たせ、遥。何してるの?」
「…森を眺めてたの」
 そっけなく答えてから、再び窓の外に向き直る。遠くの方でコウモリが飛んでいくのが見えた。
「何か見えた?」
「コウモリ」
 今見たものを、正直にそのまま話す。
「あとは月が見えるぐらいかな」
「そう言えば五日後の夜は、満月なんだって。さっき三日月さんが言ってたわ。その日に祭りがあるとも。行ってみたい?」
「うーん?」
 祭り、か…。このど田舎には子供も多く住んでいて、旅館から10分ほど歩いたところに村と学校がある。そこでのイベントとして夏祭りがあるらしい。ちゃんと花火も打ち上げて、かなり観光客も増えるので、大規模な祭りになるのだとか。
「まあ、まだ時間はあるし、当日までには行くか行かないか決めておいてね」
「うん」
 そうは言ったものの、行かない確率の方が高い。だってあたしは引き籠りな上に人付き合いが苦手だ。そもそも人が苦手だ。もしかしたら、群衆に酔ってしまうかもしれない。だから、「行かない」というより「行けない」のだ。
 母も分かっているのか、無理に連れて行こうとはしない。それはすごくありがたかった。
「そろそろ寝ようか?」
 部屋の隅に敷布団を広げて電気を消す。明るさに慣れた目は、少しの間だけ何も映さなくなった。聴覚がやけに敏感になって、様々な音が混ざって耳鳴りのようになった。…これじゃ、ただの雑な演奏会だ。
「…遥、そろそろお母さんに教えてくれてもいいじゃない? ねえ、去年何があったの?」
 母が尋ねる。あたしは黙って寝返りを打った。母とは反対の方を向いた。
 なんとんくでも、察しはついているだろう。あたしの不登校の原因が、“彼女”の死だけではないと。“彼女”の死とあたしは、何か関係があると。
 言った方が良いんだろうな。でも言えない。あたしは意気地なしだ。どうしようもない馬鹿だ。こうやって苦しい秘密を作って、さらに自分の首を絞めてしまうのだ。
「お母さんね、怒らないわよ。遥が何を言っても、怒らないわ。本当に遥は、良い子だもの」
 …良い子。
 その言葉があたしの心を抉る。
 良い子、あたしは良い子? 違う、あたしは良い子じゃない。良い子になれない。あたしは悪い子だ。母は何も知らない、だからそんなことを言うのだ。もしあたしが、友達を殺したのだと知ったら、母はどんな顔をするのだろうか。きっと悲しそうな顔をする。絶対に自分を責める。そして一生後悔するに違いない。自分の教育の仕方が悪かったのだろうと。あたしは、それが怖い。死ぬほど怖い。もうずっと前から、それに怯えている。
「…おやすみ」
 質問には答えずに、それだけ言って目を閉じる。
 母がもう一度、あたしを呼んだ気がした。やっぱりあたしは、何も答えなかった。

死んだお話

 夢を見た。小さい頃の夢だった。
 あたしは細長いあぜ道を、知らない少女に手を引かれながら走っていた。
 後ろ姿しか見えないが、あたしより少し身長が高かった。艶やかな真っ黒い髪は肩まであって、少しウェーブがかっている。繋がれている手は白くて細い。
『…おぼろ?』
 あたしは尋ねた。
『なぁに?』
 と少女は答えた。
『これからどこにいくの?』
『えへへ、おぼろのヒミツキチだよ! はるかちゃんはおぼろのトモダチだからね!』
『“ひみつきち”ってなぁに?』
『えっとね、みんなにはナイショのおうちのことだよ!』
『へえ! おもしろそう!』
 それからいつの間にか、あたしは一人で森の中に居た。辺りは薄暗くなっていて、周囲に人は居なかった。
『おかあさーん! おかあさーん! …うぇぇん…』
 泣きじゃくっていると、遠くからあたしを呼ぶ声が聞こえた。甲高くて、大人じゃ出せないような子供の声だった。
『…はるかちゃん?』
『…! おぼろ、おぼろ!』
 声の方に走った。すると、森の迷路から抜け出して、小道に出ることが出来た。
『あっ、はるかちゃん! ねえ、おかあさんたちがさがしてたよ! はやくいこ…』
『うわぁぁぁん!』
 安堵して、あたしは大声で泣き出した。少女は困惑して母を呼びに行った。あたしは再び一人になりそうだったので、『まって、おいていかないで!』と彼女の後を必死で追った。
 そういえばそうだったな、あたしは小さい頃はとても泣き虫で、人見知りだった。同い年の子にあまり心を開かず、何でもかんでも怖がって、大人たちによく呆れられていた。
 ふと、今いる旅館の裏の方で、あたしと例の少女は色々とお喋りをしていることに気が付いた。旅館の外装は、現在よりも古びていない。…やっぱりこれは、昔の記憶?
『ねぇみて! これ、さっきのかわのところでみつけたの!』
『わあ! すごい、おほしさまのかたちだぁ!』
 あたしが手に持っていた石を少女に見せると、少女はパァと顔を輝かせて笑った。
『これあげる!』
『え、いいの? やったぁ!』
 嬉しそうに飛び跳ねてから、少女は何かを差し出した。
『じゃあ、おぼろはこれあげる!』
『…? これなぁに?』
『これはね……――

 そこでふと目が覚めた。小さい頃のあたしが「おぼろ」と呼んだ少女の笑顔、それがまだ鮮明に目に焼き付いている。あの子はあたしの知る朧なのだろうと思った。あの美しい少女は、やはりこの土地にいたのだ。そして未だに彼女は、あたしの中で延々と生き続けている。幼い頃…そして、幽霊の姿のままで、それ以外は知らずに。
 隣で寝息が聞こえるので、母はまだ眠っているんだろう。視線だけ動かしてカーテンを見たが、外が明るいような気配は全く感じ取れなかった。今は、多分夜だ。それなのにあたしの目はパッチリと覚めてしまった。目を閉じても、あの懐かしい記憶が蘇って意識を現実に繋ぎ止める。あの子が…朧が呼んでいる。
 物音を立てないように起き上がって、そっと部屋を抜け出した。宵頃かすかに残っていた蒸し暑い空気は、今はもう微塵も感じられない。もう真夜中は過ぎているのだろう。
 …あたしは、なんで抜け出したんだろうか? 分からない。分からないけど、体は目的地を持っているようだった。そこに向かって、何か得体の知れない力に導かれて。でも、その目的地も、もう分かっている気がした。頭の隅っこで、脳の奥底で、あたしの行きたい場所はちゃんと理解していた。
 もう何度耳の奥で響いていたか、分からない。聞き慣れたあのメロディは、あたしを夢見心地にさせるのに十分だったのだ。
 朧が…朧が呼んでいる。
 あたしが迷子にならないように、しっかりと手を繋いで。
 その手に引かれて、あたしは歩く。
 迷わない。だって朧が導いてくれるから。
 …ねえ、これからどこに行くの?
 …そっか、朧の秘密基地だ。ここにもあったんだ。
 小さい頃は、果てしなく大きく見えた、お城のような旅館。
 その裏側に、ブーゲンビレアの花が咲いている。
 情熱的な赤紫色の、ブーゲンビレアの花畑。
 それらに隠れて転がる丸太。
 腰かけて、あたし達はいつまでも喋っていた。
 小さい頃のお話。
 楽しかった筈の記憶を、どうして忘れてしまっていたんだろう。
 忘れたくなかったのに。
 置いていきたくなかったのに…――

 鈴虫が一匹、虚し気に鳴いている。『思い出の手招き』に合わせて歌っているように感じた。
「…朧」
 思ったよりも掠れた声が出た。ガサガサとした声は全く響かず、歌っている彼女には届かなかった。だが、それでいい。朧の奏でる美しい音色を、ずっと聞いていられるから。それに、彼女のいる景色は言い表せないほどの美しさに溢れている。まだ満ち足りない月も、色彩の欠けた夜闇の木々も、朧がいれば全て完璧に見える…だけだ。
 曲が終わった。朧の声は止んでしまった。再び、鈴虫だけが歌い手になった。
 朧はもう一度歌うことをしない。目を閉じて、丸太に座って、ただじっとしている。柔らかく吹く風に髪はなびかず、置物のようにそこに存在している。
 このまま溶けて消えてしまうのだと思った。手に触れると一瞬にして無くなる霜みたいに。でも結果としてそうはならなかった。朧はあたしが呼んでくれるのを待っているように、ピクリとも動くことは無かった。
「ねえ」
 とあたしは言った。朧が聞いているかどうかは分からなかった。
「ねえ、朧。朧はあたしを覚えていてくれたの?」
 少し間が空いて、儚い少女は目を開けた。花が咲いたような笑みを浮かべた。その表情はどこか大人びていて、霞さんの面影を見出した。
「…私はね、遥ちゃん」
 少女は言う。
「何も覚えてないの。何も覚えてなくて、でも、私が朧って名前で、頭のおかしな子だって、みんなから言われてたことだけ、ずっと分かってたんだよ」
 あたしは朧に手を伸ばす。遠くにいるから、何も掴めずに空をかいた。
「頭の中に、音楽が流れてきたの。私が作った、名前の知らない音楽。この曲がすごく大好きになって、ずっと、ずっと口ずさんでてね…」
 ゆっくりと、目の前の少女に歩み寄った。自分の目頭が熱くなったことに気付く。
「そしたらね、遥ちゃんが来てくれてね、『思い出の手招き』って、お名前を付けてくれてね。…私、すっごく嬉しかったんだよ」
 目の奥から湧き出る熱いものを、あたしは必死で堪えた。
「そのあと、なんだか眠くなっちゃって、もうお別れなんだなぁって思ったの。変だね、また明日、逢えるのにね」
 苦しさの中で、朧の肩に手を伸ばした。
「それでね。遥ちゃんに、私の宝物をあげたらね、えっと、…一つ、思い出したの」
 あたしの手は空を掴んだ。彼女はそこに居なかったのだ。
「私ね、遥ちゃんと…」

 気が付くと、あたしは丸太の前で泣いていた。しゃがみ込んで、声を押し殺して、さめざめと。
 ただ純粋に悲しかった。朧がもうこの世にいないことを、今はハッキリと悟っていた。だから悲しかった。
「朧、朧、朧…」
 何度も彼女の名を呼んだ。誰も応えてはくれなかった。
 …ねえ、朧。あなたは最後に、何を言いかけたの? ずっと昔に結ばれた関係を、あなたはどこまで覚えているの? 答えて、答えてよ…。
 …もう一度、あたしの手を握ってよ。
 しかし、いくら願っても、涙を流しても、彼女は再び姿を現すことは無く、目が薄い雲に覆われてぼんやりと揺れるだけだった。あの闇夜のヴェールの向こう側に、あの子は行ってしまったのだ。もし、それが永遠のものだったとしたら、あたしは耐えられない。きっと虚無の中へ沈んでしまうだろう。
 静かに、風が吹く。そのまんま、風化して散ってしまえばいいのに。そんな、消えたい衝動に駆られた。これが絶望というものなのかもしれない。
 そうだ、あたしは今絶望しているのだ。
 心の声が答えた。希望も何も無いのに、のうのうと生きていて、その上に突きつけられた現実が、あたしを絶望させているのだ。多分泣いているのも少なからずそのせいで、本当は純粋な悲しみではないのかもしれない。
 ああ、あたしは嘘を吐いたんだ。自分で自分に嘘を吐いて、悲劇の主人公を気取って泣いて…。惨めな気持ちになれば幾分かは救われるから、ただそれだけなんだ。
 同じ体勢で嘆いていたら、段々と足が痛くなり立ち上がる。そうしたら、不思議と涙はスッと引っ込んだ。あまりのあっさりさに、激しい苛立ちが込み上げてきた。
「…もう嫌だ」
 ポツリと呟いてその場から逃げ出した。これは唐突な衝動からの行為で、本当はそれにブレーキをかけなきゃいけないと分かっていたが、むしゃくしゃして仕方なかった。どうしてもこの場所に居たくなくて、悲しみが示す記憶が忌々しくて、それから逃げたくて、だからあたしは走った・
 もう絶望がどうでもよくて、前も後ろも分からなくなって、自分でも、あたしが今どうなっているのかは見当もつかなかった。多分旅館の敷地を飛び出して、真っ暗な田舎道を走っている。それぐらいしか分からない。
 死にたい。
 死んでしまいたい。
 死ねない。
 思考が極端になり、すべて投げうとうとし、恐怖によってそれは引き止められる。あたしは弱虫だ。最低だ。最悪だ。
 泣きながら彷徨った。拭っても涙は止まらずに、苛立ちが募る一方だった。
「うわあああ!!」
 叫んだ。意味も無く、ただ叫びたいから叫んだ。
 視線が刺さる。
 これは人のものか?
 あたしの幻覚か?
 どっちだっていい、もう見るな。
 見るな。
 見るんじゃない。
 これ以上あたしを苦しめるな。
 現実なんて、クソくらえ。
 もう全部が嫌だ。
 地面の凸凹につまずく。転んであちこちを引き摺った。体中が痛くて、それよりも心が痛かった。けれど、この痛みがあたしの意識を薄く取り戻してくれた。
 …空が明るい。もう日は昇っているのだ。
 それから、あたしが走っているのは田舎道だと思っていたけど、実際にはどこかも分からないような獣道だった。
 …で? と心の声は尋ねた。それで、だから何だって言うの?
 あたしが獣道にいたって、なんら不思議じゃない。むしろその方があたしにはお似合いだ。人の道なんて、とっくに外してるんだ。今更そのくらい何だ。
 起き上がって膝や腕に擦り傷が出来ているのを見た。下手したら、顔にも傷があるのだろうと思った。
 …今頃、旅館の方ではあたしが居ないことで騒いでいるかな。
 そうであれと考えている自分が疎ましかった。このまま…彷徨ったままで餓死してしまいたかったのだ。
 小鳥のさえずりが聞こえる。あたしの心情とは対照的に、平和な歌声で、自分でも驚くくらいそれが憎らしかった。
 あたしはどうかしてしまったのだ、とようやく気付く。
「…朧と同じで、頭がおかしい子になっちゃった」
 半ば自嘲的に呟いて、近くの木にもたれた。目を閉じると、夜明け前に見た朧の大人っぽい笑みがまざまざと蘇った。それはどんなものにも負けず劣らず、美しくあたしの脳裏に焼き付いていたのだ。
 …ねぇ、朧。朧もこういうふうにして死んだの?
 目の前の幻に問いかける。
 あたしみたいに絶望して、泣いて彷徨って迷子になって、それで帰れないまま一人きり孤独の中で死んでいったんだ。あなたは、そうだったの?
 体育座りになって、膝に顔を埋めた。肉体はひどく疲れていて、まともに動くことが出来ないから、もう既に虫の息なんだと錯覚する。
 あたしは、死ぬんだ。覚悟も無いのに勝手にそんなことを考えた。自分で自分に、心の底から呆れた。あたしは、死ぬんだ。
 涙が滲んだ目をそっと開ける。真っ暗だ。これが今のあたしの心。何も見えない闇の中だから、どこへ進めばいいか、どこへ向かっているか分からない。ただ、そのまま無重力に弾き出されて、フワフワ漂って、無色な景色を目の当たりにしながら死んでいくだけ。それだけを望んだ。それだけで十分だ。
 …朧。あたしもそっちに行けるかな。あなたが行ってしまった、宇宙の向こう側へ連れて行ってくれるかな。一緒に、あたしを。ねぇ?
 でも、無理かもね。あたし達は結局、お互いに何も知らないんだ。いつか結んだかもしれない縁を、あたし達はどこかで切ってしまったから。あたしはあなたが今、どこに居るのか分からない。一緒に、行けない。
 酷いなぁ、本当に酷い、この世界は。どこかへ行きたい命を、重力で押さえ付けてしまうんだから。酷くないわけが無い。
 零れ落ちる涙を拭わずに考える。
 あたしは独りぼっちだ。今までも、これからも。でもそれでいい。孤独のままで、あたしの犯した罪の意識に閉じこもって、一生を終えればいい。そうすればあたしはもう誰かを傷つけることも無いし、誰かに傷つけられる心配もない。安心安全、いつまでも怯えないでいられる。
 そもそも、誰もあたしを必要としていないんだから、いつどこで消えようが誰も文句は言わないだろう。

 急に意識が遠くなる。強い眠気がやって来たのだ。
 …なんでだろう、とても温かい。
 誰かが包み込んでくれるような、優しい温もり。
 いらないのに。
 あたしなんかに、そんなもの必要無いのに…。

 夢の中に沈んでいく感覚。どんどん深い方へと落ちていく、浮遊感にも似た。それは無数の色彩を閉じ込め、生まれる前に見た遥か彼方の景色を、今もどこかに隠しているのだろう。
『ねえ、大きくなったら何になりたい?』
 知らないようで知っている。この声をあたしは知っている。だが思い出せない。この声は、記憶は、誰のもの?
 落ちるあたしは、段々とその声から遠ざかって、聞き取れないようになっていく。
 …あたしは小説家になりたかった。
 絞り出した言葉がこの空間内を反響する。それはあたしの頭をグワングワンと揺らして、内側から殴りつけた。
『おおきくなったら、なにになりたい?』
 甲高く澄んだ、幼い声。もう覚えていない、それでいて懐かしい声。
『はるかちゃん。わたし、…』
 答える声は、遠くへ行ってしまう。遠くへ、遠くへ…。
 完全に聞こえなくなる寸前、背中に衝撃を感じ、再び暗い世界へ引き上げられていく。それはものすごいスピードで。星と星を移動する光よりも速く。
 その刹那に様々なイメージが浮かんでは消えた。まるで流れ星のように、刹那よりも短い瞬間を、それらは生きていた。
 …学校、夜空、繋がれた手、落書きされた机、流れ星、小川、満月、人差し指、彗星、怒声、嘲笑、ブーゲンビレア、階段、鼻歌、床に広がる血、赤い糸、風に揺れるコスモス、石、水溜まり、太陽、笑顔、陰口、森、優しいタッチの色、満天の星、落下、風、涙、蝉、透明…。
 違う。
 これはあたしの記憶じゃない。
 あたしの知ってる景色じゃ…。

 ――はるかちゃん。わたし、…

 脳を焼くイメージが鮮明になる。
 階段。
 背中の衝撃。
 浮遊感。

 ――遥ちゃん。私、…

 嫌だ。いやだ。行かないで。
 落ちる。
 床。
 広がっていく血…。

 あたしが知らなくて、知るべきだった光景は今、目の前にある。
 忘れてはいけない光景が、今。


 泣いている。
 朧が泣いているんだ。
 ずっとひとりぼっちで。
 声も届かないくらい遠くで、ずっと。

 あたしは手を伸ばした。
 届け。
 届け。
 あと少し。
 あと少しなんだ。
 届け。
 しっかり掴まなくちゃ…!

 手と手が触れ合えるのはあと数ミリ。
 でも、それだけだった。
 あたしの手は、どんどん離れていく。
 伸ばしても、伸ばしても、届かずに、彼女は行ってしまう。
 嫌だ。
 朧。

 ――遥ちゃん。私、大人になれなかったよ。

      必ず宇宙に行くんだって、言ったのに…。

    ご
      め
     ん
        ね
         。


 ハッと目を覚ます。蝉の鳴き声がまばらに聞こえ始めていた。
 …あたしは、夢を見ていたみたいだ。未だにフワフワとした感覚が残っているし、夢で見た世界の詳細もはっきりと覚えている。
 やっぱり、彼女は…。
 改めてそう悟ったが、涙を流すことは無かった。そうだ、悲しんではいけない。悔やんではいけない。泣いているのは朧の方なのだから。
 それに、今ならあの子が幽霊になった理由がなんとなく分かる。その為にも、あたしは行かなきゃいけない。朧のもとへ。あの、透明になった少女のもとへ。
 徐に立ち上がる。そしてじっと耳を澄ました。蝉の声、風の音。木々の擦れ合う音、小鳥のさえずり、その全てに耳を澄ました。かすかに朧の歌声が聞こえて、その方向を見据える。
 …大丈夫。今は暗くても、道はよく見える。
 あたしは走り出した。
 朧が泣いている。
 今度こそ、友達を助けるために。
 急がなくちゃ。
 何度も転んだ。その度に傷を作った。それでも歯を食いしばって立ち上がり、走り続けた。ただがむしゃらに、声のする方へ。それが正解だと思ったから、あたしを刺す視線も、どうでもよく思えた。
 歌は頭の中で流れている。まるで小川がさらさらと流れるように、どこまでも続いている。走っても追いつけない、幽霊と初めて出会ったときとそっくりだった。でもいつかは追いつける気がして、必死に走った。
 思えば、あたしの中の記憶はいつだってあたしを呼んでいたのだろう。ふと懐かしさを湧き起こさせる風景、色彩、香り、音楽は、どこにでも存在していた。あたしの意識は覚えていなくても、意識の外ではちゃんと覚えていた。だからあんなにも懐かしいのだ。そして、寂しいのは戻って来ないからじゃない。未だにそこでの糸を、断ち切っていないからだ。
 あたしは覚えていた。朧のことを、ちゃんと覚えていた。だからまだ、結んだ縁は切れていない。辿ればきっと、彼女は見つけられる…!
 必死に走った。太陽が真上に昇るにつれて上がる気温を無視して、あたしを責め立てる視線を無視して、歌のようにもすすり泣きのようにも聞こえる小さな音に向かって。もう何も考えなかった。考えても、意味の無いことだと思った。
 だから無心だった。それで、どこまでも行けた。…そう、行けると思っていたのだ。
「…あ…」
 突き出た木の根につまずき、その場に倒れて、…立てなくなった。
 どうして? とまず考えた。
 起き上がろうにも、身体が異常な程に重くて言うことを聞かなかった。そして、走り過ぎたことによる酸欠も大きな原因だった。目の前が激しく揺れているように見えて、焦点が合わない。それどころか、頭がひどく痛んで、強い眠気が襲ってきた。思考が全く覚束ない。
 …ああ、喉が渇いた。
 喉が…焼け付くように痛い。
 痛い。
 頭も痛い。
 足が動かない。
 どうしよう。
 どうしよう…。
 汗が噴き出して、犬のようにハッハッと短く呼吸して、とても苦しかった。体の芯は熱いような寒いようなおかしな感覚で、死ぬのかもしれないと急に怖くなる。ジワリと涙が滲んだ。
 …ごめん朧。あたし、もう無理なのかも。
 優しく吹いた風があたしの汗ばんだ肌を撫でていき、とても涼しかった。暑さで、蝉の声はもう聞こえることは無かった。
 …もう、諦めた方が良いのかな。
 ポツンと心に落ちた弱音は、シミのようにじわりじわりとあたしを蝕んでいく。それは赤い血の色で、洗っても綺麗にはならないだろう。
 そうだ。もう諦めよう。諦めて楽になろう。
 救われようとしないあたしが、誰かを救うことなんて出来やしないんだ。
 なんであたしばっかり。
 このまま死んでも、きっと誰も何も思わないよ。
 もうどうでもいい。全てがどうでもいい。
 考えだしたらきりが無くて、このどうしようもない感情は大粒の涙となって溢れ出した。…泣いちゃ、いけないのに…。
 それらと一緒に、一種の悔しさがあたしを支配した。
 …ああ、あたしはまた友達を裏切ろうとしている。また友達を泣かせているんだ。
 今度こそと思ったのに、結局何も出来なかった。
 最低だ。
 もう、矯正が出来ないほどの大馬鹿者だ。
「…ああ…」
 ごめんなさい。
 ごめんなさい、朧。あなたはあたしじゃ、救えなかったみたい。
 きっとまだこの世でやりたいことが、沢山あったんだよね。残したくない何かがあったんだよね。その願いを成就するためにあなたは、あたしを選んだんだよね。
 なのに、あたしはその伸ばした手を振り払ったんだ。こんな最低なことって無い。
 ねぇ、朧?
 どうかあたしを恨んで。
 呪い殺すぐらいの勢いで、あたしを憎んで。
 そして地獄へ連れて行って。
 ねぇ、あたしにピッタリでしょ?
 この最低なあたしに。
 馬鹿なあたしに。
 どうか途方も無いぐらいの罰をちょうだい。
 “遥”なんて大層な名前に帳を下ろしてちょうだい。
 そうすればきっと、みんな幸せになれる。
 あたしみたいな罪人なんて、いらないんだから…。
 目を閉じれば、すぐに意識はあたしの手から離れていった。目頭は熱いままで、泣いた死体がうつぶせの状態で見つかったとしたら、どんなに面白いニュースになるだろうと考えたのが最後だった。

 再び落ちる感覚に襲われた。夢の中に落ちる感覚だ。
 もし、この感覚が“堕落”を表しているのなら、そろそろ底に着くんじゃないだろうか。堕ちることろまで堕ちて、あたしは最底辺に居るのではないだろうか。ふと、そんな考えに至る。
 ぼんやりとした脳みそで、あたしに出来ることと言ったら、ただこの落下風景を眺めることぐらいだろうか。そして底に着いたとき、ぐちゃりと潰れてしまったらどんなに良いか、想像してみることだ。それしかあたしには出来ない。
 身動きは取れない。金縛りのように、あたしは力無く落ち続けるだけ。考えることは出来ても、行動に移せないこの感覚は、いつかどこかで感じたことのある無力感にそっくりだった。
 …ああ、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、朧。ごめんなさい、佳奈。ごめんなさい、お母さん。
 あたし、何も出来なかったよ。
 視線が依然として刺さっている。あたしを見下すような、軽蔑するような、全てを狂わせるような、それら全部をひっくるめてが忌々しい、無数の視線がずっと刺さっている。あたしを罪人だと嘲笑っている。
 …ねえ、もういいよ。
 そうなんだ、あたしは罪人だ。それはあたしが一番よく分かっている。だからもう見ないでよ。そんな針のような鋭い視線をこっちに向けないでよ。ちゃんと分かっているから。ねぇ、あたしは罪人だから、だから、だから、…――

 グチャリ

 ――…あたしは、消えた方が良いんだ。そう意識するのが先か後か、あたしは先程望んだ通りの姿を象った、死体になった。
 トマト。そう、潰れたトマト。それは佳奈の末路とそっくりだった。歪んだ、赤い薔薇。佳奈は死ぬ前、あたしと同じように全てを落っことしてしまいたかったんだろうか。自分の幸せもろとも、重力のある世界から消し去ってしまいたかったとでもいうのだろうか。
 …ああ、佳奈。
 逆さまになった世界を、彼女はちゃんと見ていただろうか。全てを失った世界で、彼女の目に映るものはあっただろうか。
 …ごめんなさい。
 もう今更だ。今更なのに、脳内では謝罪の言葉ばかり繰り返す。本当にどうしようもない奴だ、と声を出して笑いたくなった。
 全部あたしの所為なのに、あたかも自分が被害者のように家に引き籠って、自分の人生の悲劇性に嘆き、馬鹿みたいに謝り続けることしかしない。それだけで、たった一度もその場から離れようともしない。なんてどうしようもない奴だろう、心からそう思う。
 …佳奈、こんな最低な友達でごめんね。
 ほら、また謝った。そんなことを彼女はきっと望んでいないのに、また。
 分かっているのに、この言葉は呪いのようにあたしに纏わり続ける。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 …ああ、うるさい。うるさい、もうたくさんだ!
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 それでもこの「ごめんね」は続く。あたしがどれだけ聞きたくなくても、あたしを嘲笑って雨あられと呪いの言葉は押し寄せてくる。
 ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。ごめんね。
 うるさい、うるさい。
 ねえ許して。もう許してよ…。
 こんな拷問、もう耐えられない。
 ねえ、佳奈。佳奈。佳奈。佳奈。
 もしかして、これが地獄だとでも言うの? あたしが願った途方も無いくらいの罰。これが、そうなの? やっぱり佳奈は、あたしを恨んでるの?
 ぐちゃぐちゃなあたしの体がどろどろと溶けていく。まるで血が流れていくみたいに、それは醜く、グロテスクに崩れていく。きっとそれは、既に原形を留めていないだろう。落ちて潰れて、そのうえ溶けてしまえば、形なんて何も残らない。重力には逆らえないから、どんどん下に流れて更に降下して、マントルに到達して蒸発する。それで一巻の終わり。あたしがそうした方が良いと考えたように、焼却炉へポイッという状態だ。消えて居なくなる。
 …ああ、あたしは死んだんだろうな。ここは死後の世界。永遠にこの「ごめんね」の檻に囚われたまま落下し、永遠を失う頃には綺麗さっぱり消失しているんだろう。そして再び目を覚ますことも無く、あたしはこの世から忘れられていく…。
 ねぇ佳奈。どうしてこんな孤独な少女と友達になんかなったの? こんな寂しがり屋なくせに孤独を愛する矛盾だらけのあたしなんかと。他にも色んな人がいたんでしょ、なのにどうしてあたしだったの? あたしをこんな気持ちにさせるぐらいなら、いっそ友達にならなきゃよかった。そう思わない? ねぇ。
 答えてよ、佳奈。
 あたしは下に進み続ける。形があるなら涙を流していただろう。ただただ泣きじゃくって、幼い子供みたいにもう嫌だと駄々をこねる。それが出来たら、どんなに良かっただろうか。絶望してもその沼から引き揚げてくれるヒーローがいたなら、もっと良かった。今はもう、「助けて」と叫ぶことすら出来ないけれど、それすらも掬い取ってくれただろうか。
 様々な想いが浮かんでは消える。考えたってどうにもならないのに、次から次へとあたしを通り過ぎていく。まるで流れ星のようだった。残念ながら、この光景はそこまで美しいとも思えないけれど。
 どうにもできない。それはとても虚しいことだった。何をするにも、全てが遅すぎた。あたしの人生は、後悔で塗れていた。だから虚しい。体のどこかに隙間があるような感覚が拭えない。虚しい。
 そして人は、ぽっかり空いた「虚しさ」という穴を、涙で埋めようとする。
 あたしは気付くと泣いていて、自分が人の形を成していたことに気付いた。潰れてぐちゃぐちゃになったのも、溶けてドロドロになったのも、動けないからこそ起こった、ただの勘違いだった。…なんだ、生きてるじゃん。
 ふらりと立ち上がる。聞き慣れた旋律が聞こえた。…あの子が呼んでいる。
 それは、天国からの誘いか、地獄からの誘惑か、はたまた別の目的があるのか、どうでもよかった。だから迷いなく招かれた方へと足を進めた。あの子が望むなら、あたしも望もう。
 …もう、全てがどうでもいい。
 もう、楽になりたい。
 近付くと、歌が二重になっているのに気付いた。一人はメロディを、もう一人はハモリパートを。優しく、美しく、儚く、それでいて力強く、歌っていた。
 …朧と佳奈だ。
 ふと、そう直感した。あたしの友達が歌っているのだ。
 二人の奏でる音色は、相も変わらず美しい。あたしの感受性に寄り添って、気付かないうちにひっそりと心を満たしていく。いつ聴いてみても、感動で震えてしまいそうだ。
 声の発信源に辿り着く。しかし、そこに二人の姿は見当たらなかった。どこに行ったのだろう? と辺りをキョロキョロしても、どこにも彼女達はいなかった。ただ、素晴らしく色鮮やかな歌声が聞こえるだけ。暗いのか明るいのかよく分からない空白のような光景が見えるだけ。ひどく痛む胸を引っ搔き回されるような感覚を覚えるだけだった。
 …そうだ。私はまだ生きているから、二人のもとへは行けないんだ。
 そう思った。朧も佳奈もあの世に居て、あたしはこの世に居る…つまり、存在する世界が違うから、姿が見えないのだ、と。
 ねぇ、あたしもそっちに行って良いかな。
 一人じゃ寂しい。
 すごく、寂しんだ。
 僅かな平常心で祈って、それから「いや、違う」と思い直した。
 だって、あたしは人を殺したんだ。自分の友達を。何の罪も無い人間を。だから、あたしは死んでしまったら地獄に行くのだ。佳奈はあたしのことを恨んでいる筈だから、天国に行ったって居場所は無いだろう。多分、追い出される。
 ああ、どうすればいいんだろう。
 友達のもとへ行きたい気持ちと、人殺しの罪に苛まれる苦しみ。それら二つに板挟みにされて、首を絞められるような気分になった。息が出来ない。
 一体、どうすればいいんだろう。
 泣きそうになって、上を向いた。これ以上の泣き虫になるのなんて、ごめんだと思ったから。涙を落とさないように、上空を睨んだ。
 すると、涙は目の奥に沈み込んでいって、鼻、口と流れていき、最終的に喉を通り過ぎて消えた。胃に到達した涙は、感情もろとも消化されていく気がした。
 目を閉じる。前を向いて再び目を開けると、視界は森の中に切り替わっていて、足元に小川がちょろちょろと流れていた。傷だらけの裸の足を片方小川に突っ込むと、ひんやりとした水に触れる感覚が確かにあった。
 触れられるのは、生きていることの証。
 ならばここで、死んでしまおうか?
 耳障りな言葉が、全身を駆け巡って、すぐにでも小川を辿って深い場所に身を投げ出したい衝動に駆られた。
 今更、罪を償っても意味が無いのなら。生きている理由が何も無いのなら。死んだほうがマシではないか。
 思考回路に、うっすらと靄がかかったような気がする。見えている世界がぼんやりとしている気がする。
 あたしは…あたしは、このまま死んだ方が…皆の為に…佳奈の為に…そうすれば全部が丸く収まる…そうすれば…そうすれば…。
 無意識に体は動き出す。川の流れに沿って、深くなっている所を探すように。
 歌が遠ざかっていく。
 視線も呆れたように遠ざかっていく。…これで罪からも、逃げられるのかな。
 あたしは自由だ。
 このまま死んでしまえ。
 全てが歪んでいるように思えて、少ししてからそれは泣いているからだと気付いた。何も考えないことはこんなにも楽なのかと、涙の中心で思う。多分あたしは、物事を全て深く考えすぎたんだと思う。だからこんなにも解放された心地に浸っているのだ。
 水の音がうるさい。腹が立って川を蹴ったが、音は消えなかった。当たり前の話なのだが、それに気付かない程度には、頭がおかしくなっていたのだった。
 …ねぇ朧、佳奈。もう行くよ。今すぐ行くよ。だから待ってて。あたしを待ってて。そうしてくれたら、今度こそ裏切らないように頑張れるから。ただの軽い口約束じゃないよ。本当の本気で、心から、そう思っているんだ。
 ほら、底が深い場所を見つけたよ。そこに飛び込もうね。あたし、言う通りにするからね。ね、もうちょっと待っててね。もうちょっと。あと少し。あと少し…――

 ぐいっと手を引っ張られた気がして、振り返った。けれど、そこには誰も居なかった。…気のせい、だったのだろうか。
 川に向き直って、一歩を踏み出そうとする…と、もう一度引っ張られる感覚がした。
 気のせいじゃない。
 誰かが、引っ張っている…?
「…ねえ、誰?」
 ひどく掠れた声を出した。それは、辺りの静けさに吞み込まれて消えて行ってしまうようだった。
「誰なの?」
 もう一度尋ねた。答える者はいなかった。
 お願い、誰だか知らないけど、あたしの自殺の邪魔をしないで。あたしはもう、楽になりたいんだ。死んで全てから逃げてしまいたいんだ。
 祈るように心の中で唱えると、それに呼応するように風が吹いた。あたしの頬を撫でるように優しく、ホッとするような温かさで。

 ――遥、ちゃんと見て。

 風に乗って、そんな声が聞こえた気がした。気がした…ではなく、それは確かに聞こえていた。そっちの方が正しいだろう。そしてその声は、あたしが殺してしまった友人と同じに聞こえた。
 …ちゃんと見て? 何を、言っているの…?
 今更、何を見ろと言うの?
 何も見なくたって分かるでしょ、あたしは…あたしはとんでもなくクズな人間だ。外道な人間なんだ。
 ねえ、分かるでしょ? あたしに殺されたあなたなら。最後の最後に突き放されたあなたなら。言われなくても分かっている筈でしょう?
 もう一度、風が吹いた。

 ――遥、ちゃんと見て。

 やはり声は確かに聞こえてくる。あたしのかつての友達、唯一の永遠の友達、ちょっぴりドジだけど失敗さえも笑って流せた友達。もう会えないあの声が、優しく響いている。
「…だから、今更何を見ればいいの?」
 その声にすら苛立ちを覚えて、必死に反論する。もう止めなくていいんだよ。お願いだから、あたしの好きなようにさせて。これ以上あたしの決心を揺らさないで。
 言いたいことは山のようにあったのに、その言葉は喉に引っかかって出てこない。グラグラと心の中の何かが揺れて、それが壊れないように支えることで精一杯だった。
 そんな反抗を試みている間にも風は幾度となく吹いて、その度に決心の揺れ幅が大きくなっていく感覚がした。やめて。もうやめて。今の終わり方で良いから、そんな意地悪をしないで。動き出す気力なんて、ずっと前から既に失くしてしまったんだ。
 耳を塞ぐ。最も、そんなのに意味なんて無いと最初から分かっていたけれども、耳を塞がずにはいられなかったのだ。

 ――遥、ちゃんと見て。

 うるさい、うるさい!

 ――遥、ちゃんと見て。

 うるさい、うるさいんだよ!

 ――遥…

 うるさい!
 どうして…どうしてあたしばっかり!

 ――遥…

 あたしに、一体どうしてほしいの?
 何もかも、やること為すことが罪にしかならないのに。

 ――遥、ちゃんと見てよ。

 ずっとそればっかり。
 ちゃんと見てって、ねぇ、何を見てほしいの?

 ――ねえ、見て。

 うるさい。
 もう何も見たくない。

 ――見てよ、遥。

 あたしは、あたしは…

 ――遥、私を見てよ。

 なんで?
 どうして?

 ――遥、私誰も恨んでないよ。

 ――誰も、恨んでないんだよ。

 違う。そんな筈ない。

 ――誰も恨んでないんだよ。

 だって、だって…
 あなたはあたしの所為で…

 ――誰も恨んでないんだよ。

 あたしの所為で…

 ――恨んでないよ。

 ――ねえ遥、ちゃんと私を見てよ。

 ――私を見てよ。


 ――わたし
      を…
         。

それだけだったお話

 別れなんて嫌いだ。いつも突然にやって来て、あたしの大好きな何かを攫ってしまう。必死にしがみついたって、嘲笑うように手の隙間をすり抜けていく。別れなんて大嫌いだ。死ぬほど嫌いだ。クソくらえ。
 だけどどんなに忌み嫌って、別れを遠ざけようとしたって、やって来る時はやって来てしまうものだ。あたしの友達もそれに連れていかれてしまった。「あたしの所為で」そう思った。
 でも、それ以上に佳奈を失ったことを認めたくなかった。放してやるもんか、行かせて堪るか。段々と声を忘れていく現実から目をそらし続け、忘れたくなくてあたしの罪とした。

 分かっていた。
 あの責めるような鋭さの視線は、ただの幻覚だ。あたしの罪の証として存在し続け、本当は怒りではなく憐憫を孕んだ視線だったことを、あたしは知っている。
 こうすれば忘れない。一生消えないだろう。
 実際そうだった。あの視線は存分にあたしを苦しめ、悪い子になったあたしにいつまでも佳奈の足跡を示し続けた。ただ、それだけだった。
 でもそれでいい。これ以上過ちを犯さない為にも、その重しは十分だった。
 ただし、忘れない代償として、あたしは悲劇の主人公になった。肯定を失い、惨めな自尊心を背負い込み、自分が特別な罪人なのだと勘違いをしていた。それで自分の存在意義を確かめられると思ったから。自己否定を認められると思い込んだから。
「…なんだ、ただ苦しいだけじゃないか」
 そんなこと、すぐに気づけた筈だ。でもあたしはそれを無視した。この絶望感が案外心地良くて、放したくなかった。そして知っていた。この絶望の名前を“自堕落”と言うのだと。そこに長く居れば居るほど、底なし沼みたくどんどん深みに嵌ってしまうことも、分かった上で全てから逃げ続けた。
 …あたしは、弱い。
 今更、深く心に刺さる弱さ。あたしは、弱いんだ。臆病者で自己中心的で弱虫で…情けない人間だ。そんなあたしに、出来るのだろうか? 誰かを救うことが? 本当に?
「無理に決まってる」
 そうやって最初から決めつけた。救いたいと願っておきながら、あたしは簡単にそれを諦めた。馬鹿みたいにびくびくしておきながら、可能性が潰えた瞬間には悔しがった。こんなことって、間違っている。本当に頭が悪いのだ、あたしは。
 じゃあどうすればいいのだろうか。そういうことを考えなかったために、今、こうして一人孤独に打ちひしがれている。…あたしは、一体何をしていたんだろう。今になって、恥辱の念に駆られた。情けない、ウジ虫になりかけているのだ。成虫になれば、汚物を食らっていただろう、そんな惨めな人生は恥そのものだった。
「そんなの、嫌だ」
 そう、嫌なのだ。きっといつか叩き潰されるような下らない存在になるのは、多分あたしじゃなくても、誰でも望んではいないのだ。
 だから考えなければいけない。あたしに何が出来るのか、その為にどんな変化が訪れるのか、そしてそれが何を生み出すのか、もう一度考えなければいけない。
 …出来る? あたしに? 本当に?
 いやいや、端からそんな問題じゃなかった。「やらなきゃいけない」んだ。必ずやって、友達をまともに見ることが出来ない自分を変える必要がある。そうでしょ、佳奈。あなたが言いたかったことは、そういうことだったんでしょ? ねぇ佳奈。
 あたしはもう、逃げたくない。あたしはいつまでも臆病かもしれないけど、それでも逃げたくはないんだ。後悔したくないんだ。
 だから、生きたい。まだ生きたい。
 死にたくない。
 ねぇ。

 佳奈、まだそっちには行かないよ。


 泣き声が聞こえる。その声は酷く憂鬱で、悲哀に暮れていて、痛々しく、どこか苛立っている、そんな様々な感情をごちゃ混ぜにして存在している。
 もう迷わない。あたしはこの声の正体を知っている。
 …泣いているのはあたしだ。
 朧でも佳奈でもない。“あの日”以降時間が止まったままのあたしだ。何もかも信じられなくて、殻に閉じこもったあたしが、孤独の中でずっと泣いているのだ。あたしはそれを見て見ぬふりして、首を絞め続けてきた。毎日酸欠の脳みそで生活を停滞させてきた。
 でも、そんなことはもう、これで終わりにしよう。自堕落とは、一度足を踏み入れたらどこまでも沈んで身動きを不可能にしてしまう底無し沼のようなもの。でも、必ずどこかに足場はあって、ゆっくりでも地上へ這い上がることは出来る筈だ。きっと何かが手を貸してくれたら、もっと簡単に、戻って来られる。
 だからあたしは手を伸ばす。傷付いてボロボロになり、それでも死にきれないもう一人のあたしを、掬うために。もう大丈夫だよと、言うために。
 伸ばした手が空を切る。届かない。それでも諦めない。今度こそ掴むんだ。しっかり掴んで引っ張ってやらないと、あたしはずっと落ち続ける。それが分かっているから、あたしは無我夢中で、泣き虫の自分へと手を伸ばした。
 涙を拭い続ける手…その手を遂に捕まえる。
 濡れた瞳が、こちらを向いて、目が合った。
 あたしは叫んだ。

 …遥!

 もう帰ろう!

戻ってきたお話

 はっと気が付くと、あたしは旅館の玄関前で呆然と突っ立っていた。辺りは暗い。朝か夕方かは分からなかったが、今は確かに暗いことだけが、あたしが現実に居るのだと知らせる証拠だった。
「…遥?」
 母の声がした。それはひどく震えていて、だいぶ年老いているように感じた。
 振り返って、母の姿を見据える。母は、安堵と心配が半々になったような表情をしており、髪はぼさぼさで、疲れ切った様子だった。
「お母さん…」
 そう呼ぶと、母はあたしのもとへ駆け寄った。
 咄嗟に目を瞑る。叩かれると思ったからだ。しかし母は、そんなことは一切せずに、あたしをギュッと力強く抱きしめた。すると、あたしの中に安堵感がじわりじわりと広がり、体中が温かくなった。それまで張り詰めていた緊張感がフッと消え去り、堰を切ったように涙が溢れだした。
「どこに行ってたのよ!」
 母が言った。その声から察するに、母も泣いているのだろうと思った。
「ごめんなさい。ごめんなさい…」
 あたしは問いかけには答えず、ただひたすらに謝った。母に迷惑を掛けたのが分かっているから、その言葉しか口から出せなかった。
 …ああ、あたしは今、本当の悪い子だ。真夜中に勝手に旅館を抜け出して、森の中を彷徨い、傷だらけになって帰ってきた。誰にも気配りが出来なかったあたしは、母の言う通りの「良い子」ではない。
 そう感じたからこそ、大声で泣くに泣けない。佳奈が死んだ時とは違った罪悪感に、胸が締め付けられた。
「…お母さん。あたし、悪い子?」
「悪い子、悪い子よ! こんなにお母さんを心配させて、何を考えているの!」
「…ごめんなさい」
 母はあたしの代わりに大声で泣いた。大人が感情任せに泣くのを見るのは、これが初めてだった。大人でもこんなことがあるんだと、あたしの冷静な頭は驚いていた。
「でも…」
 母は続ける。
「それでも遥は、お母さんの自慢の娘なんだから! お母さんは遥が大好きなんだからね!」
 忘れないでよ、と言う母は、間違いなく真実を伝えていた。嘘の言葉なんて一つも無く、全てが心の底で育まれてきた感情なんだと手に取るように分かった。
 だからこそ、あたしもあたしの感情を伝えるべきなのだろう。
「お母さん…あたしね…」
 嗚咽の隙間から、言葉を紡いでいく。
「あたし…ずっと、自分が悪い子だと思ってたの…佳奈が自殺して…あたしが、殺しちゃったんだって、思って…人殺しなら、死んで償わないとって…でも、怖くて死ねなくて…」
「遥…」
 あたしの話を黙って聞いていた母が、優しく言った。
「お母さんが知らないときに、遥はそうやってずっと苦しんできたのね…。でも大丈夫よ。ねえ、遥、あなたが不登校になった次の日に、梨野ちゃんのご両親が来てくださったの、覚えてる? そのときにね、二人が言っていたわ。娘の日記を見つけたって。最後のページに、最期まで味方で居てくれた遥への、感謝の言葉が綴られていたんだって。だけど死ぬ前に、遥と喧嘩したことを謝りたいんだって」
 母の話に耳を傾けながら、あたしはそのときのことを思い出していた。
 佳奈の両親は帰る直前、あたしに「佳奈からの手紙だ」と一枚の折り畳まれた紙を渡して言った。「早く元気になってね」と。けれどあたしは、その言葉を真っ直ぐに受け止められず、全然信じなかった。そして自室へ入って手紙を読むと、すぐにそれを破り捨ててしまった。


私の大好きな遥へ

 こうなったのは遥の所為じゃないよ。まずそれを伝えたくて、この手紙を書きました。
 多分、遥も疲れてたんだよね。私が毎日愚痴ってばかりいたから、遥も鬱憤が溜まっちゃってたんだよね。喧嘩になったのはそういうことだよ、きっと。遥は悪くない。
 だから、これは「どっちもどっち」ってことで!
 そういうことで、私、誰も恨んでないよ。
 でも、どうして自殺するのかって言うとね、えーっと…特に理由は無し!
 遥、私も疲れちゃってたんだよ。もうイジメが辛過ぎて辛過ぎて…逃げたいから自殺するの。
 だから落ち込まないでよね。
 遥は肯定感が低いから、すーぐ「自分の所為で…」ってなっちゃうもん。
 もう一度言うけど、私は誰も…もちろん遥も! 恨んでなんかないんだからね! 絶対に、私の後を追ってこないでよね!

                          遥の友達 佳奈より


 どうしてもこの手紙を信用できなかったのだ。おふざけで書いたような軽々しい筆跡に、ポツポツと飛び散るしずくの跡。佳奈が泣きながら完成させたのは言うまでも無かったが、あたしにとってはこの優しさが、却って恐ろしかったのだ。いつも通りの佳奈がそこに居たから、そのいつも通りに何か隠れているのではと怯えた。
 ――遥、私誰も恨んでないよ。
 結局のところ、この言葉に嘘は無かったのだろう。佳奈は本当に、一人残されたあたしを案じてあんなことを書き遺したのだ。
 …ごめんね、佳奈。
 心の中で謝った。ああ、彼女ならきっと「良いって良いって!」と笑って流してくれるのだろうな。あたしのことを許してくれるのだろうな。優しい彼女ならきっと…。
 そう考えたら、心が軽くなった気がした。
「お母さん」
 母が「なぁに?」と柔らかな声で尋ねる。
「ありがとう。あたしのことを心配してくれて」
 本当は他にも伝えたい言葉が沢山あったのだけど、再び嗚咽が込み上げてきて、それは言葉にはならなかった。
「…ええ。どういたしまして」
 母は笑って、あたしの頭を撫でた。
「さ、中に入りましょう、遥。あちこち泥だらけじゃないの」

 その後、風呂に入ったあたしは、母と一緒に娘の捜索を手伝ってくれたらしい旅館の方々にこっぴどく叱られ、その後に許してもらった。もし帰って来るのがあと少し遅くなっていたら、警察を呼ぶところだったらしい。皆に迷惑を掛けたと申し訳ない気持ちもあるが、一番は死なずに帰ってこられたという安心感があたしの心の大半を占めていた。
「全く、どこに行ったら全身傷だらけになるのよ! 綺麗な顔が台無しじゃないの」
 盛大に叱られた後、傷の手当てをしながら母は泣き笑いの表情を浮かべて言った。…本当に迷惑を掛けたと思う。しかし、森での出来事は話したくなかったので、場所を聞かれても答えは言わなかった。
「何回も転んだの」
「遥は普段、あまり転ばないでしょ。転びやすいところに行ったの?」
「…さあね」
 この質問に答えたら、森へのヒントになる。そう思ったからイエスもノーも言わなかった。まぁ、そもそも傷だらけな時点で、ある程度はバレているとは思うが、あたしが肯定しない限り確信は持てないだろう。
「そう。やっぱり遥は頭が良いわね。将来有望よ、きっと」
 あたしの意図を汲み取ったのか、母は苦笑いをしながら冗談のようにも本気のようにも取れる言葉を口にした。不登校なのに、将来が明るい訳が無いだろう、と思いかけて、軽く首を振る。…自己否定なんて、もうしなくても良いのだ。あたしは自由。最初から自由だ。だから今後はあたし次第なのだ。
「ほら、消毒したわよ。絆創膏は…遥はあまり使わないわよね。…じゃあ、夕食を食べに行きましょうか。朝から何も食べてないでしょ?」
 母に言われてようやくお腹が空いていることに気付く。真夜中に飛び出して、日が昇って、沈んで、月が出るまでの約1日、何も口にしていない。家でもよく食事を抜かしていたので、そんなことは気にも留めなかったが、今は違う。だいぶ長い間歩き回ったし、何より罪の意識により失せていた食欲は、罪を振り払ったことで回復してきていた。
「うん」
 断る理由は何も無かったので、言葉に甘え母について行く。ただ、怒られたばかりなのに職員の人達と顔を合わせるのは少し気まずかった。僅かな不安を心の奥に押しとどめ、今は全てを信じてみようと思った。そうじゃないと、また沼の底に落っこちてしまいそうに感じたからだ。
 現在の時刻は午後9時。色々とあったせいで時間が大幅に取られてしまって、食事の時間は既に過ぎていた。もし時間外に何か食べたいのなら、係の人に注文しに行かないといけない。それから、自分たちが待っているテーブルか宿泊部屋に料理が運び込まれてくるのだ。
「遥、食欲はある?」
「うん」
「そう。でも無理して食べないでね」
「うん」
 頼んだ料理がやって来るまでの間、少し母と会話をした。そうやって長い間話が続くことは久々で、母もそう思ったのかどこか嬉しそうだった。
 話す量が多かったのはもちろん母の方で、仕事の上司に関する愚痴や友達のこと、お給料についてやそろそろ再婚した方が良いのかなど、様々なことを語って聞かせてくれた。あたしも相槌を打ったり、ときどき自分の意見を短く述べたりして、一応話せていた。この進歩が内心では驚きでもあり、嬉しくもあって、珍しく生き生きとしていたかもしれない。
 料理が運ばれてきて、二人揃って「いただきます」と言った後に箸を持つ。料理には全く精通していないあたしにとって、この旅館の全ての料理が未知で、新鮮に感じた。でも、なんとなく魚料理はよく出てくるなということは分かった。
「美味しいわね」
「うん」
 母の言葉に短く返す。今のところ、「うん」「ううん」というような簡潔な言葉でしか返事をしていないが、それでも母が話を続けてくれるので、かろうじて会話は続けられていた。
「…そうだ。遥、三日後の夏祭りには参加するの? お母さんはね、行ってみようと思うのよ。だって、祭りなんて自宅近くでは全くやらないじゃない。いい機会だと思ってね」
「……まだ考えてる」
「そう」
 今日一日は罪罰のことで頭がいっぱいだったから、本当は考えていない。自殺をしようとした話は旅館の職員さんたちにも、もちろん母にもしてあるので、それは分かっているんだろう。だからこそ深く聞かなかったことはとてもありがたかった。
「遥は、この場所は気に入ったかしら?」
「うん」
 母の問いに頷くと、母は軽く目を見開いた。何度も言うが、あたしはこの土地で自殺しようとしたのだ。もしかしたらこの場所のイメージは悪く思っている、そう考えたのかもしれない。
 でもあたしはこの場所が好きだ。
「どうして?」
「自然が多いから」
 迷わずにそう答えたが、他にも理由はあったので、それを並べてみる。
「あと、生き物も多いし、空気が澄んでるの。いつどんな時に見ても景色は綺麗だし、ここに居ると何だか懐かしい気分になるの。それに…」
 そこまで言いかけて、あっと思った。
 …それに、ここは朧と出会った場所だから。忘れたくないのだ。彼女を。彼女といたこの景色を。それがほんの少しの時間でも、もう二度と見つけられない存在でも、あたしにとって朧は大切な友達だから。この土地での記憶を再び忘れてしまいたくはない。大事な、とても大事な居場所なのだ。
「…遥?」
 母が訝し気にあたしを見る。
「…あ、いや、何でもない。ちょっと考えたくなっただけだから」
 あたしは慌てて誤魔化した。でも、そこでふと考え直した。あたしが幼い頃にここに来たのを知っているんだから、母も朧のことは知っているだろう、と。それに、霞さんとの会話でも、それぞれの娘の話をしていたのだし、しちゃいけない話でも無い筈だ。
 だからこそ不思議だった。
「お母さんは、朧のこと、覚えてる?」
 そう尋ねたとき、母が一瞬だけ目を泳がせたのを、あたしは見逃さなかった。その表情は明らかな動揺で、母はその話題を恐れている気がした。
「…ええ、覚えてるわ。霞さんの娘さんのことよね」
 平静を装っているが、やはり興奮を抑えきれていないその声色。それは、何か隠しごとがあるのを示唆していた。
「お母さん…?」
「あの子、小さい頃からとても美人で人懐っこくて、それはもう、ママ友の間では大人気だったわよね。もちろん、遥の方が可愛いと思うけれど」
 母はあたしの懐疑心に気付いているのかいないのか、朧について、まくし立てるように話し出した。それは、何かに触れてほしくないから、そこから必死で遠ざけようとしているふうに感じられた。
「歌が大好きで、即興曲なんかを作ったりしていたそうだわ。音楽の面で、将来有望だと言われていたみたいね」
 母は、あたしの疑いが深まっていくのに気付かずに、どこで手に入れたのか分からない情報をペラペラと喋っている。その姿が段々と恐ろしくなってきて、あたしはわずかに距離を取った。さっきまで安心の象徴だった母が、今では嘘のように怖かった。…一体、どうしてしまったというのだろうか。やっぱり、朧のことは話さなかった方が良かったのだろうか。そんな不安感が押し寄せてくる。
「けれど、美人薄命って言うのは本当なのかしらね、あの子、去年の冬頃に亡くなってしまったらしいわ。階段から足を踏み外して」
 …母がこの情報を口にしたとき、あたしの頭の中に強い恐怖が生まれた。
 母は、本当にどこからこの情報を仕入れたんだろう。実の母である霞さんがそんなことを正直に話すなんて想像できない。本当に愛しているのなら、自分の娘の死を、軽々しく口外出来ない筈だから。なら母は、どうしてそんなことを知っているのか。あたしの知らない間に、何かあったのか。そう考えると、目の前にいる自分の親が、誰か別の人物に見えてならなかった。
「…お母さん、朧が死んだの、知ってるんだ?」
 勇気を振り絞ってそう尋ねる。すると、母はピタッと口を閉ざしてあたしを見た。その目の奥に、小さく怒りが宿っていることに気付いて、見ないふりをした。
「か、霞さんに聞いたのよ」
「実の親が、そんな簡単に口を割るものなの? お母さんは、あたしが死んだら、そのことをペラペラと喋るの?」
「…。遥、許して…」
 母は震える声で、ほとんど呟くように言った。この言葉は、本心からのものだと感じた。これ以上母を疑いたくなかったからそう信じた。
「…うん」
 そう答えて、「ごちそうさま」と言った。朧のことについて考えていたら、食欲も消え失せて満腹になってしまったからだ。
「遥…」
 母が申し訳ないというふうにあたしを見ていたが、あたしは気にせず部屋を出た。ひどく気が立っていて、あたしでもそれの制御をしようが無かった。
 …ああ、あたしも悪かった筈なのになぁ。母をあそこまで追い詰める意思は無かったにせよ、あたしの今の行為は母を傷つけていることに変わりはない。それがイライラを際限無く加速させていった。あたしがこんなにわがままだったことを今更思い知らされて、再び自己嫌悪に陥ってしまいそうだ。
「あら、あなたは…また脱走するの?」
 下を向いていたら誰かにぶつかって、見ると昨日朧のことを教えてくれた職員さんだった。
「もうしません。でも…すみません、迷惑を掛けて。本当にごめんなさい」
 多分この人もあたしのことを探してくれていたと思ったら、罪悪感が募って何度も謝罪をした。自分でも異常だと分かるぐらいに何度も、何度も。
「…ちょ、ちょっと。大丈夫よ、みんなもうあなたを許していると思うから。顔を上げてちょうだい」
 流石に見兼ねた職員さんがなだめる。あたしでも抑えられなかったこの発作を止めてくれて、内心ありがたかった。
「で、今度はどうしたの?」
「…母と喧嘩をして…」
 あたしはそう呟いて、黙り込んだ。さっきの一件があるから、朧の話をしていいのかが分からなかった。でも、職員さんが朧の話を振ってきて、少し驚いたのだった。
「…そうなの? でも気にしなくていいのよ。思春期ってのは、そういうものなんだから。霞さんの娘さん…朧ちゃんもね、時々喧嘩してここから脱走したものよ。その度に散々探し回って、見つかった後に叱られて、仲直りして…たくさん迷惑を掛けられたわ。だから、…ふふっ、今日あなたが失踪した事件が起こったときに、なんだか懐かしかったのよ。ちゃんと思春期なんだなぁってね。ねぇ、遥さん。だから気にしなくていいのよ。むしろもっと迷惑を掛けるべきよ。あなたはまだ子供なんだから、もっと褒められたり、叱られたりして成長しなさい」
 ここまで話して、職員さんはニコリと笑った。
 …もっと、迷惑を掛けるべき…。あたしは、まだわがままでも良いのだろうか。まだ自由気ままに日々を過ごして、大人の顔色を窺わずにいても良いのだろうか。まだ、子供のままで…。
「あら、そういえばあなた、朧ちゃんと少し顔つきが似ている気がするわ。きっと笑ったら、朧ちゃんみたいに美人に拍車が掛かるわよ。ほら、そんな仏頂面しないの!」
 あたしを励ます為なのか、それとも本気なのか、そう言いながら職員さんは笑みを更に深めた。つられて、あたしもかすかに口角を上げた。これで笑えているのだろうか。
「そうそう、その調子よ。大丈夫、かわいいわ。何しろ、基が美人だものね」
 職員さんは少し羨ましそうに言う。
「…あ、ありがとうございます」
 そう応えて、あたしは職員さんから目をそらす。嘘か本当かはともかく、ここまで褒めてくれたことが何だか照れ臭くて、それでいてとても嬉しかった。
「うんうん、ちょっと明るい表情になったわね。よかった」
 職員さんも嬉しそうに頷いて、それから仕事に戻ると言って去っていった。
「…朧と似ている? あたしが…?」
 一人残されたあたしは、職員さんが何気なく口にした言葉に疑問を覚えた。
「顔も性格も、似ているだけ? それとも…」
 それとも、何か別の関係が? そう考えたが、その“関係”というのが、一体何なのかが分からなかった。あたしと朧の間に、何かあっただろうか。必死で思い出そうとして、結局何一つ思い出せない。それがとても歯痒かった。…どうしてだろう、もう少しで分かりそうな気がするのに。
 もう一度、朧について一から思い返してみる。
 きっかけは、散歩中に立ち寄った公園での邂逅だった。朧が作ったという曲に誘われて彼女の存在に気付き、そして運命的なものを感じた。あたしは出会ったときから、彼女のことが大好きだった。…何故? 何故あたしは朧との邂逅に運命性を感じたのか。何故あたしは初めから彼女を好きでいたのか。帰ってからそのことばかり考えていたような気がする。そしてそれは、今となっては「昔に一度、会ったことがあるから」という理由で片付けられるのだ。
 そして次の日、あたしは朧ともう一度友達になった。あたしにとっては大きな出来事で、また裏切ってしまうのではという恐怖が常に付き纏った。あの時にもらった星型の石は…実はこの旅館に来る前に鞄に入れて持ってきてはいるのだ。取り出していないだけで、それはとても捨て難いものとなっていた。
 三日目。あたしは朧と同じく「星」に強く興味を示した。不思議なくらいワクワクして、朧もこんなふうに感じていたのかと今になって思う。ちなみに、星…天体についての勉強は、今でも定期的にやっている。唐突に関心が強まって、とにかく知りたい衝動に駆られるのだ。…そして、その日も例の公園に行って、朧の姿を視認できなかった。それだけであたしの脳内には混乱が訪れて、翌日に熱が出た。しばらく公園には行かなかった。
 それからこの旅館に来て朧が存在していたことを確認、幼い頃のことを少しだけ思い出して、安堵し、恐怖し、朧が死んだこと…友達が二度も死んだことに絶望し、逃げ出した。そこでの記憶が確かなら、そしてアレが正しいものなら、朧が死んだ原因は母の言った通りではない。あれは、「事故」ではなく「事件」だった。それを誰かが揉み消したのだ。直感的に、この記憶が一番真相に近い気がするが、だからと言って自分と朧との関係が分かる訳では無かった。この直感も「そんな気がするだけ」で終わってしまうのだ。
 やっぱり何か関係があると感じただけで、ただの気の所為だったのだろうか。あたしの勘違いだったのだろうか。そんなことをぼんやりと考え始める。物語を書く上で必要な空想力が働いて、おかしな世界を作り出しているだけなんじゃないだろうか、と。
 だから、この違和感について今は考えるのをやめよう。あの職員さんは「もっと迷惑を掛けるべきだ」と言ったが、この空想癖には付き合わせられない。だって、人を深い訳も無いのに疑うのは流石に良くないだろう。それに、想像力の豊かさに付き合ってくれるのは、まだ小さい子供だからで、それなりに成長した学生がそんなことをしたら精神の病を疑われるかもしれない。あたしはそんな事態を望んでいない。だからもう、この時点でやめるべきだ。
 決意して、母のいる部屋に踵を返す。戻ったらまず自分勝手に出ていったことを謝ろう。それから、仲直りだ。朧もそんなふうにして霞さんと上手くやってきたんだから、性質が似ているあたしも多分出来る。馬鹿かもしれないけど、そう信じよう。
 部屋のふすまを開けようと、取っ手に手をかける。が、中から話声が聞こえてそのままの姿勢で固まった。
 中で話しているのは、母と霞さんの二人らしかった。何を話しているのかと耳を澄ます。すると、こんな会話が聞こえた。
「あの子は気付いているのかしら…信司さんのこと」
「あなたの話を聞く限り、遥ちゃんは頭が良いのでしょう? だとしたら、気付いているかもしれませんね」
「そんな…」
 一体何の話をしているんだろう。そう思って、更に耳を澄ませようとしたその時だった。
 ガッシャーン、と受付の方から音がした。思わず「ひゃっ」と声が出る。部屋の二人の会話も止まってしまって、どんな話をしていたのかは分からずじまいだった。そう考えると、落っこちた何かが恨めしくも感じられた。
 
「…今日はもうやめましょうか。私は今の音の根源を見に行くので、また明日、話しましょう」
 霞さんがふすまに近付いてくる気配がする。あたしは無意識に近くの物陰に隠れた。自分でも分からないが、何故か霞さんに見つかってはいけない気がしたのだ。隙間からその場の様子を窺う。
「三日月さん!」
「どうかしたんですか?」
 霞さんが部屋を出ると、受付の人が慌てて駆け寄ってくるのが見えた。その人はまだ二十代かそこらの若い男性で、少し背が高かった。顔は良く見えないが、この様子だと、表情も焦りの一色なのだろう。
「すみません、あの…花瓶の水の入れ替えをするときに、手が滑ってしまって…」
「割ったのですね?」
「はい…その、すみません…」
 男性はすっかり狼狽してしまっているが、霞さんが怒っているようには見えない。そんな雰囲気すら無い。だから落ち着いて話さないかなと思うが、男性はそれには気付かないらしい。部屋の前で会話をされているから、通れもしないので早くどいてほしいのだが、これじゃ無理だろう。終わるまで待っている他無い。
「すみません…本当にすみません!」
「謝られても、手が滑ってしまったものは仕方ないでしょう。それよりあなたは大丈夫ですか。怪我はありませんか」
「な…無いです!」
「それなら早く片付けに行きましょう。割れたまま放置していたら危険ですからね」
「は、はい!」
 いつになったら終わるかなと考えていたら、霞さんは簡単に男性をなだめて一緒に行ってしまった。年の功というやつなのだろうか、相手の心を動かす力が強い霞さんは、なんだか格好よく見えた。
 そろそろ移動しても良いだろう。あたしは素早く部屋のふすまに手を掛けると、サッと横へスライドさせた。中であたしを待っていた母が、びっくりしたようにあたしを見る。
「遥…!」
「お母さん、ごめんなさい!」
 頭の中で練習した通り、あたしはまず先に頭を下げて謝罪する。それから何のことか分かっていない母に、自分がわがままなことを話して更に謝罪した。すると母は、ぽろぽろと涙を流し始めた。
「あの…お母さん…?」
「遥、ごめんね…ごめんね…」
 話しかけてみるが、母は何かに取り憑かれたように、「ごめんね」と繰り返した。
「お母さん?」
 一体、どうしたというのだろう。何かが変だ。まるで、佳奈を恐れたときのあたしみたいだ。森で一人、佳奈に呪われたと勘違いをして、ひたすらに謝り続けたあたしと同じ、何かに苦しめられている。
 一瞬、あたしが呪いをうつしてしまったのではと怖くなる。あたしの所為で? そうだったらどうしろと言うんだ。あたしは非力で、何も出来ない。…誰も助けられない? また二の舞を演じるのか。
 ああ、どうしてあたしはこうも出来損ないなんだ。
 どうして。
 どうして。
 一体どうして。
 …ええい! そんなこと、今はどうだっていい。あたしはやるんだ。今度こそ、大切な人を。いざというときに迷ってどうする!
「お母さん!」
 ほとんどやけになって叫ぶ。その声は、我ながら可愛げが無く、怒っているみたいだと笑いたくなった。だが、その本気さのおかげか、母がピタリと口をつぐんで驚いたようにあたしを見つめる。
 実際、あたしは腹が立っていた。母に対して? 自分に対して? それがどうかは分からないが、ただひたすらにイライラした。それが叫ぶ原動力だった。
「あのね、そうやって謝っても何にもならないの! そもそもお母さんは何も悪くないし、謝る必要なんて無いの! あたしも、自分が悪かったと思ったから謝っただけで、お母さんが悪くないと思ったらそれで良いの! 全部あたしの自己満足なの! 分かった!?」
 母がきょとんとした顔で固まる。あたしも、頭が真っ白になって沈黙した。
 勢いで話してしまったが、これらの言葉は全て本心だった。心の底から湧き出た言葉で、心の底から溢れた叫びだった。だからこれがあたしの本心だった。
 しばらく、お互いに気まずい静寂が漂って、言葉の意味を理解した母が先に口を開いた。
「…ふふ、そうね。遥の言う通りだわ。お母さん、何か勘違いしてたみたい。あなたが悪くないと思ったら、そう信じればいいだけよね」
 母がおかしそうにクスクス笑う。こんな子供っぽい表情を見るのは、久しぶりな気がした。
 あたしもつられて笑う。
「…なんだか、スッキリしたなぁ。あたし、ストレスが溜まってただけなのかも。叫んだら満足しちゃった。あはは」
 そうやって、二人揃って久々に笑う。…ああ、こうやって笑い合ったのはいつが最後だったか。今まで地面ばっかり見て、身近な幸せに気付けなかった。ずっとウジウジして笑顔を忘れていた自分が馬鹿みたいだ。ああ、本当、馬鹿らしい…。
 ひとしきり笑って満足したら、もう既に、そこにあった筈の分厚い壁はさっぱり消えて無くなっていた。境界線はあるが、それだけだ。あたし達はずっと前のような、「親子」という関係を取り戻せたような気がした。
「それじゃあ、そろそろ寝ようかしらね」
 そう言って母が寝る準備を始める。あたしもそれを手伝って、寝床を整えたら電気を消し、布団の上に寝転がる。すると、今日一日の疲れがどっと押し寄せてきて、途端に睡魔に襲われた。
「遥、明日はこの旅館の近くを散歩してみましょう」
「…」
「遥?」
 あたしは、溜まり過ぎた疲労で動けなくなっていた。ただ眠たくて、意識も波のように行ったり来たりを繰り返しているので、今母の言ったことを次の日に覚えているかは謎だ。
 母も、あたしに返事する力が残っていないことを悟ると、小さく笑って言った。

「おやすみ」

繋がるお話

 久しぶりに夢を見なかったかもしれない。レム睡眠とノンレム睡眠を繰り返しているらしいので、専門的には夢を見ていると思うが、本当に見たという記憶が無いから、別に気にしなくてもいいだろう。むしろぐっすりと眠れたという証拠だ。喜ぶべきかもしれない。
 目を開けると、窓から差し込んでくる陽光で少し眩しかった。空は真っ青で、小鳥のさえずりがあちこちから聞こえる。実に気持ちの良い朝だった。
「遥ー? おはよう、今日は散歩日和ね」
 先に起きて部屋の外に出ていた母が戻ってきて言った。
「うん。おはよう」
 あたしは応えてから、大きなあくびをした。心地の良いこの天気に、再び意識が連れていかれそうになるが、何とか持ちこたえる。流石にもう起きよう。疲れていないのに寝てしまったら、余計に疲れるだけだ。
「朝までぐっすりだったわね。昨日の疲れが響いたのかしら?」
「多分」
「今日は元気?」
「うん」

 普段はあまりしないけど顔を洗い、食事に行く。それから歯磨きをして、一日が始まった。
「昨夜、お母さんが言ってたこと、聞こえてた?」
「うん。『一緒に散歩しよう』でしょ?」
「正解。でも、別に強制する気は無いから、遥の好きなように答えて。行くか、行かないか」
 やっぱり少しは昨日のことを引き摺っているのだろう、母は無理にあたしを連れ出そうとはしない。優しいけど、ここはもっと強く出てもあたしは文句を言わない。思春期の子を持つ親は、少し強引で、たくさん喧嘩をする方が子供とより仲良くなれる。そんなふうに書いていた本が、確かあった筈だ。
「今日は何も予定は無いし、いいよ」
 脱走という名の散歩を昨日やったけど、落ち着いて風景を見渡すことは出来なかったから、今日はそれを達成したい。そういう思いで承諾した。
「うふふふ。ありがとう」
 動きやすい服装に着替えてから旅館を出る。既に時刻は午前十時で、日もだいぶ高いところまで昇っていた。空は見渡す限り青天が続き、まばらになりかけている蝉の声がどこまでも響いていく。そんな青と緑がぶつかり、爽やかな色彩を放つ。風は清々しいほどに透明で、色彩にわずかな薫りを飾り付けてくれる。
 あたしが足繁く通ったあの公園とはまた違った情緒がここにはあり、案外この世界には美しいものが溢れているんだと思ってしまった。
「遥、行くわよ」
 ボーッと風景に見とれていたら、母が言った。
「はーい」
 返事をして、先を歩く母の背中を追う。…ふと、朧の後ろ姿と重なって立ち止まる。母まで、追いつけない人になってしまったら、どうしよう。そんな不安が一瞬だけ脳裏をよぎる。
 …大丈夫。
 かぶりを振って、そう思い直す。大丈夫。母はまだ大丈夫。きっとこれ以上悪いことは起こらない。と、強く信じてみた。それで安心できるような気がしたから。
「…遥? どうしたの?」
 追いかけてこないあたしに気付いたのか、母は振り返って尋ねた。
「…ううん、何でもない」
 答えて、あたしは母に駆け寄った。縁起の悪い考えから抜け出すように、少し身を低くして。それを母が指摘しないだけありがたいと思った。

 この地域は随分と過疎化が進んでいるらしく、すれ違う人の中で一番多いのは70歳以上の高齢者、そして次に中年のおじさん・おばさん、子供に至っては今のところ出会ったことは無い。少し寂しい村だなと思った。
「あ、遥! おにぎりが売ってあるわよ。食べる?」
「いらない」
 食欲が湧かなかったので、断った。確かにおにぎりは好きだが、今日は気が乗らない。また次の機会に頼もうか。
 母が苦笑する。
「欲しいものがあったら何でも言ってね。お母さん、少し奮発して買っちゃうんだから」
「…考えとく」
 ここで厚意を跳ね返してしまうのは失礼な気がして、曖昧にごまかす。…ああ、結局大人の顔色を窺ってるな、と微妙に思ったけど、すぐに変わることなんて無理だと思い直す。少しづつで良い、一歩一歩確実に進んでいこう。
「まいど~」
 店員さんの声を背に店を出る。母が、美味しそうだからとツナマヨおにぎりを二つ購入して、他には何も買わなかった。「マヨネーズは太るよ」と冗談を言うと、「大丈夫、ちゃんと運動してるから!」と笑って返された。
「次はどこに行く?」
「どこでもいい」
「じゃあ、お母さんの行きたいところに行っても良いかしら? もうすぐ正午だから、お弁当を買いたいのよ」
「いいよ」
 少し村の中をほっつき歩いて、見つけた弁当屋の中を覗いてみた。
「定番の三色弁当、アジフライ弁当、…あ、カレーなんかもあるわよ?」
「見てたらお腹空いてきた」
 たまらず腹の虫が鳴く。その音を聞いて、あたしと母は顔を見合わせ笑った。
「さあ、育ち盛りなんだから、肉を食べなさい! メンチカツ入り弁当にするわよ!」
「いや、食べ切れないって…」
「大丈夫、遥が残したものは、お母さんが食べてあげるから」
「それ、お母さんがただただ食べたかっただけなんじゃ…」
 最終的に根負けしたあたしは、母と揃ってメンチカツ弁当を買った。レジのおじさんが、「仲が良いねぇ」と少し寂しそうに言ったのが印象的だった。
 近くの公園のベンチに座って、誰も使わない道具を眺めながら食事をする。真昼ということもあり、蝉の鳴き声も聞こえないが、ときどき通る車や吹き抜ける風の音が時間の流れを感じさせてくれる。
「おいしいわね、遥」
「うん」
 環境音をBGMに二人で弁当を食べる。歩き回っていることで流れた汗が、風で冷やされて気持ちよかった。
「いつぶりかしらね、こうやって一緒に食べるのは」
「確か三年前の、地域ボランティアのときじゃない?」
「ああ…どんなボランティアに参加したっけ」
「ゴミ拾い」
「ゴミ拾い…あ、思い出したわ! あのとき、ゴミが全然見つからなくて、この町は綺麗だって話になったわよね。覚えてる?」
「うん」
「それから参加者全員で記念撮影をして、主催者側が注文してくれた弁当を食べたのよね。他の人達ともたくさん話せて、楽しかったわよね」
「うん」
 そんなふうに会話をしながら、メンチカツ弁当を食べた。やっぱりあたしは途中で満腹になり、残りは母に食べてもらった。
「遥は食が細いわね」
「段々増やしてみるよ」
「そう。でも、無理はしないでね」
「うん」
 少しだけ、ベンチに座って五感を集中させてみる。太陽に照らされた遊具達は、人っ子一人見つからず、遊び相手を失くしている。そんな寂しさを攫うように優しい風が吹いて、落ち葉がカサカサと揺れ動く。草いきれが苦しそうな薫りを連れてきて、鼻の奥をくすぐった。
「…くしゅんっ!」
 くしゃみを一つ。この薫りは好きだが、年に一度嗅ぐくらいで良いなと思った。
「あら、風邪?」
「草の匂いがツンと来て…」
「?」
 母は理解出来ずに首をかしげる。やっぱり母とは感性が合わないのかもしれない。そんなに、あたしが好きな推理小説やホラー小説は母は好きではないし、逆に母が好きな恋愛や家族愛系の小説は、あたしは好きじゃない。趣味がまるっきり合わないので、ときどき自分が父方の趣味を持っているのかもしれないと考えたりする。でもそれは少し嫌だ。あたしは父みたいに好きな相手を簡単に変えられるような移り気人間になりたくないし、そもそも父の記憶が無いせいで、父が赤の他人のように感じられることもある。そんな赤の他人と一緒にされたくない。だから何回か、あたしは自分の感性の豊かさが、嫌になったことがあった。
「そういえば、この前中間テストを受けに行ったでしょ? どうだった?」
 考え事をしていると、思い出したように母が訊いた。
 あたしは不登校になった今でも、テストのときだけ保健室登校をして、そこの先生の監督下でテストを実施していたので、後日テストを受けに来てほしいというような手紙やらメールやらは届いたことが無い。あたしの学校では、学校に登校していない子でも、テストは必ず受けると言う決まりごとがあるそうで、そういう人達だけでテストを実施する日があり、その日だけは結局集団行動をしなければいけない。あたしはそれが嫌で、その当日にクラスの人と同じ時間にやってしまおうということになったのだ。
「…範囲は前から出されていたから…まあまあ出来た」
「そう。その日、なんだか調子悪そうだったから、何かあったのかなと思ってね」
「んー…そうだっけ?」
 首をかしげてとぼけてみる。本当は、今回の中間テストの日の前に、朧との一件があったので、かなりモチベーションが下がっていただけだが、昨日のお母さんの反応を見ているので、朧の名は出したくなかった。それに、言っても信じてくれるとは到底思えないし。
「多分、気分が悪かったんだと思う」
「そうなの?」
「うん。…テストの日のことは、もう覚えてないけど、多分そう」
「ふふ。遥は、自分にとって興味のない事柄はすぐ忘れちゃうわねぇ」
「…ごめん」
「いやいや、責めてるわけじゃないわ。でも、人付き合いが上手になりたいと思ったのなら、少しは興味の無いことでも覚えるようにしなくちゃね」
「…うん」
 次は自然の中を散歩しようと立ち上がったとき、目の端にチラリと、動く何かが見えた。そこを向くと、水玉模様のワンピースを着た髪の長い少女が、民家の陰に隠れてしまうところだった。少女は、走る勢いを止めずに右へ曲がり、見えなくなった。…この地域に住む女の子だろうか。
「遥?」
 母の心配そうな声に、ハッと振り返る。母は二、三歩離れていて、その一からあたしの顔を覗き込んでいた。
「…何でもない。虫が飛んでいるのが見えただけだよ」
 適当に弁明して母の後を追う。母は「そう?」と困ったように笑ってまた歩き出した。
「さあ、雲が太陽を隠している今のうちに行きましょう」
「うん」

 自然を散歩と言っても、森にしっかり整備された道があるので、その道を辿るだけだが、それでも色んな生物が見られた。
 大きなアゲハチョウ、木の葉に擬態しているコノハチョウ、木にとまっているクマゼミ、路上で干からびているミミズ…。虫は割と平気なので、色んな世界を見られたあたしは大満足だった。ただ、母は虫が少し苦手で、たまに悲鳴を上げながら道を進んでいた。
「…遥。よく平気ね?」
「蝶とかは綺麗だと思わない?」
「それは分かるけど、…お母さんはもう触れないわね」
「そっかぁ…」
 そういえば佳奈にも、平気で蛾を捕まえたら、戻してきなさいって怒られたなぁ…。と、一人懐かしみながら昆虫たちを観察していたら、道の向こうから犬を連れた若い男性が歩いて来た。母もあたしも気にせずに虫の話をしていると、その男性は「こんにちは」と話しかけてきた。
「…こんにちは」
「こんにちは。犬のお散歩ですか?」
 尋ねたのは母。男性は愛想よく笑いながら頷いて言った。
「そうですよ。真昼だというのに、この子が外に出たがりましてね…」
 男性が犬の方を見る。明るい茶の毛をした中くらいの大きさの犬は、舌を出してハッハッと荒い息を漏らしながら、あたし達を見て尻尾を振っていた。家では犬は飼っていないので、なんだか新鮮な感じがした。
「良ければ、この子のお名前をお聞きしても?」
 と母。男性は答えた。
「リトと言います。可愛い奴でしょう? でもオスなんですよ、コイツ」
「ええ、そうですね。とても可愛いです」
「撫でても大丈夫ですよ。噛みませんので」
「あら本当? 遥、リト君撫でても良いらしいわよ」
 そう言われたあたしは、そっとリトに触れる。犬と一度も触れ合ったことが無いので、これが初めて触った経験になる。手触りはフワフワしていて、ほんのりとリトの温もりが伝わってきた。
「リトは耳の辺りを掻くと喜びますよ」
 男性の言った通りに耳の後ろを掻いてやると、ぺろりと手をなめられて少しびくっとした。
「…ざらざらしてない」
 猫になめられたときと比較して、思わず心の声を漏らす。母と男性はきょとんとして、それから同時にプッと吹き出した。
「遥、犬と猫じゃ舌の構造が違うのよ」
「知ってるけど…」
 本でそういうことが書いてあったのを覚えているけど、やっぱり聞くと体験するとじゃ大違いだ。聞いたことがそのままスッと頭の中で理解できる。体験することは、やっぱり大事だなと思った。
 その後、母もリトを触って癒されてから、それぞれ元の方向へ歩いて行った。
「リト君、可愛かったねぇ」
「うん」
 母が楽しそうに笑う。あたしもつられて、表情が少しだけ緩んだ。
「遥もちょっと元気になったし、やっぱり動物の力って偉大ね」
「? うん」
 動物の力が何なのかは分からないが、母はなんだか嬉しそうなので、頷いておいた。そういえば、動物と触れ合うと、幸せホルモンがどうとか聞いたことがある。母が言っているのは、そういうことなのだろうか。もしかしたら、あたしの鬱病的な気分も、猫なり犬なりを飼っていたら既に癒されていたのだろうか。
 そう考えていると、母があたしの手を引いて言った。
「遥。この林道も、そろそろ終わりみたいよ」
「…ん」
 首を縦に振りながら、母が子供みたいだなと考えた。あたしよりもはしゃいでいて、無邪気に笑う。家では無かったことだ。そのうちあたしも、そんな姿をさらけ出せる日が来るだろうか。それとも、今のまま、変わらずに死んでしまうのだろうか。先のことなんてどうやったって分からないが、後者みたいになることは無いだろうと直感した。あたしもいつか、そうなりたいという憧れがあるから、停滞した状態で未来に進むことは無い。そんなふうに感じるのだ。
「もう疲れたし、旅館に戻る? …って、遥はほとんど毎日散歩してるから、疲れてないか」
「ううん。疲れたから戻ろう」
 別に母の気を遣ったわけじゃないけど、どうしてか疲れたような気がするのだ。いつもと違う道を歩いていたから、気疲れでも起こしたか。
「…そっか。じゃあ、戻ろうかな」
「うん」
 そう答えて、ふと視線を感じて振り返る。すると、先程見たときと同じ模様のワンピースを着た、髪の長い少女が、木々の陰に隠れる様子が見えた。朧なのかと思ったけどその子の肌は黒く日焼けしているし、髪の長さは明らかに朧よりも長かった。おまけにストレート。遠目に見ただけだけど、彼女は朧ではないというのが、あたしの出した答えだった。
「遥? さっきからよそ見ばかりしているけど、一体どうしたの?」
 後ろを向いているあたしを心配したのか、母が声を掛ける。
「んー…誰かがあたしを見ているような気がしただけ。気のせいだったみたい」
 母に向き直って答える。少女があたしの幻覚でなければ、本当は気のせいではない。が、そう伝えておくことで、母が安心できると考えたのだ。
「そう? 何かあったらお母さんに言うのよ?」
「うん」
 果たして自分の思い通りに安心させることが出来たが、やはり少女の視線だけは消えなかった。林道を抜けた後もついて来て、旅館に入ってからようやく気配が消えた。
 …彼女は一体何なのだろう。
「遥、さっきからやたらと後ろを向くけど、何かいるの?」
「…あ、いや。何でもない」
 気が抜けると、すぐに振り返ってしまう。これ以上は怪しまれるので、あたしは急いで旅館の中へ戻った。母がいなくなってからもう一度外を確認したが、誰も居なかった。

 日中は長く感じるのに、案外日の入りは一瞬だ。ちょっと目を離した隙に日があと半分になるなんてしょっちゅうだし、ボーっとしていたら辺りは暗くなることもある。あたしが大人に近付いたから時間の流れが早く感じるのかもしれないが、とにかく、夕方というのはあたしにとって、その一秒一秒が大切な刹那の世界だった。
 少し早めに風呂に入って宿泊部屋に戻り、窓を開けると生暖かい夏特有の風が入ってくる。昼間よりは冷たい風になっているらしいが、それを感じ分けるのは至難の業だ。どっちも同じくらいに蒸し暑い。
 日は既に、山と山の間、その向こうへと消えてしまった。それでも窓枠にもたれかかって薄暗い森を眺め続ける。あたしは、この夕方と夜の間の時間が好きだった。黄昏時…いや、逢魔が時というのだろうか。さっきまで、まだ明るいと思っていたのに、気が付いたら遠い景色が黒く染まって見えなくなる。そんな不穏な雰囲気に心がざわざわして、まるで自分が獣になったかのように錯覚するという、不思議な感覚が好きだった。そうでなくても、この薄暗い時間はなんとなく落ち着くのだ。
 やがて完全な夜になり、夜行性の虫や動物の声が鼓膜を揺らしだす。あたしもその世界に飛び出してみたい衝動に駆られた。
「睡眠が必要無い体質だったらなぁ…」
 母はまだ風呂に入っていて、今は自分一人ということが分かっているから、そうやって喋る感覚で呟いてみる。余計に外に出たくなっただけだった。
 昨日も夜のうちにここを抜け出したが、走っているうちに夜が明けたのか暗い時間のことを思い出せない。とにかく何かから逃げたくて必死だったから、今のような心の余裕は無かった。今度は平静のまま夜の大自然へ飛び出してみたいものだ。
「…自然界は厳しいって言うし、やっぱり無理かな…」
 諦めの言葉を口にするが、まだ夜への憧れは消えていない。
 あたしが大人になって一人立ちしたら、ぼっちキャンプでもしてみようかな。
 そんなことを考えながら空を見上げる。東の空に月があって、今昇ってきたところなんだろうなと思った。形はもう少しで真ん丸になりそうでそうでない、微妙な形。そういえば明後日、満月になるんだっけ。それに合わせて祭りが開催される。人が沢山来るそうなので、まだまだ人嫌いなあたしはあまり乗り気じゃないんだけど。
 そこでふと、日中に見たワンピースの少女のことを思い出す。彼女も、祭りに参加するんだろうか。というより、彼女は一体誰なんだろう。この地域の住民なのか、旅行客なのかも分からないし、あたしを付けてきた理由も分からない。母は気付いていなかったから、本当にあたしだけが彼女に目を付けられているのだ。
 どうしてかは分からない。あたしは彼女に何かした記憶も無いし、そもそも見覚えすら無い。自分の二学年のクラスはどうかは知らないが、少なくとも一学年のクラスメイトの中に、似たような姿形は無かった筈だ。だから分からない。どうしてあの少女は、あたしのことだけを見ていたのだろう。無意識に恨まれる行動でも取っていたのか? もしかしたら何か伝えたいことが? 考えたらきりが無いので、かぶりを振って一旦思考を止める。
 …こんなときは、少し気晴らしになることでもしよう。

 あたしにとっての気晴らしとは、もちろん歩くことで、歩いている間だけは思考をごまかすことができる。多分、前方に注意していないと何かにぶつかってしまうから、そこに意識が持って行かれているだけなのだが、それでも考えることが多いあたしにとってはありがたいことだった。
 あの少女を思い出して、外に出ようとは思わないので、旅館を散策してみる。中は、とてもといったら過言かもしれないが、広くて綺麗なので、気晴らしには丁度良い。この壁は味があって良いなとか、この生け花可愛いなとか、様々なことに目が行って、興味が尽きなかった。
 しばらく歩き回っていると、昨日あたしを励ましてくれた職員さんと再び出くわした。
「あ。あなたは…よく出会うわね。こんばんは」
「こんばんは」
「お母さんとは仲直りできた?」
「うん」
「今日はどうしたの?」
「旅館内の探検です」
「あらあら。お年頃ねぇ…」
 今日は特別隠したい理由も無かったので素直に答えると、その人は微笑ましそうにそう言った。なんだか馬鹿にされた気がしてムッとしたが、もしも馬鹿にしていなかったらと考えると怖くなって、何も言わなかった。毎日の癖は、やはり一日では直らないらしい。
「朧ちゃんもそうやって、家の中を探索して勝手に秘密基地を作るなんてこと、あったわねぇ…」
 職員さんは思い出を懐かしむように、頷きながら呟いた。
「秘密基地って…旅館の裏側の、ブーゲンビレアのところですか?」
 夢の中でも現実でも、朧が存在していたあの場所を思い出し、懐古に耽る職員さんに尋ねてみた。彼女はハッとしてから返す。
「そうね、あの子はよくそこに居たわ。…でも、不思議ね。ブーゲンビレアの手入れをしていたのは朧ちゃんだったから、今はもうブーゲンビレアなんて見れない筈だけど…」
 そんな職員さんの言葉にぎくりとする。…そういえばあのとき、朧だけに目を奪われて周囲の景色は気にも留めなかった。もしかしたら、既にあの頃のようなブーゲンビレアは咲いていなかったのかもしれない。表現を間違えたな…。
「…実は幼い頃、ここに来たことがあるんです。そのときに朧に秘密基地を紹介してもらって、そのお礼にあたしは、これを渡しました…」
 そう言いながら、ずっとポケットに入れていた星型の石を取り出して見せた。職員さんは見覚えがあるのか、軽く目を見開いた。
「それって朧ちゃんの…」
「『お星様の石』です。さっき久しぶりに秘密基地に行ったら、導かれるようにこの石に出会いました」
 幽霊のことを言っても信じてくれないと思うので、思いきり嘘をでっちあげる。
 …そう、夢の中で思い出したことがある。それはこの石が、あたしから朧へ渡した、プレゼントだったこと。あたしがこの石を、この土地の河原で見つけたということだ。そして朧はきっと、この石をずっと宝物として持ち続けていたのだろう。だから幽霊の朧は、あたしに出会ったときも「宝物」と言っていたのだ。絶対に失くして良い筈が無い。
「…そういえば、母から聞いてしまったんですけど、朧って今はもう…」
「…ええ。去年の冬頃に階段から足を滑らせて…」
「そうですか…」
 彼女が本当に死んだのかがやはり信じられなくて、尋ねてみたが、帰ってきた答えは母と同じ。何度聞いても胸が痛む。朧は…本来ならもう会えないのだと実感する。
「死ぬ前も、彼女は元気な子だったんですか?」
 このまま暗い気持ちではいけないと思い、話題の視点を変えてみる。
「そうね、元気だったわ。…ただ、とても夢見がちな子だったから、学校じゃかなり浮いてたみたい。本来なら、あの年頃は世の中のことが見えてくる時期だもの。排他の対象だわ」
 職員さんが悲しそうに言った。それはまるで、朧の死を惜しがっているように見えて、当たり前だけど、あたし以外にも彼女を愛している人がいるんだと知った。大人になれば再び見つけられる純粋さというのは、中高生または思春期の世代に一度見失ってしまうことが多い。それを失わなかった朧は、純粋に飢えた彼らにはさぞ美味しそうに映ったに違いない。だから結果的に全部奪われた。朧は、学校の皆が謳歌する「青春」の糧となったのだ。そんな家畜のように殺された朧は、確かに可哀そうだと感じた。
「…ちなみに、朧っていくつだったんですか? あたしと同い年くらいだと思っていたんですけど、もしかしたら違うのかなって疑問に思いました」
 ふと気になって訊く。場合によっては朧“さん”と呼ぶことになりかねない。
「14歳よ。…いえ、今生きていたら、もう15歳ね。朧ちゃんの誕生日は確か、6月中旬ぐらいだった筈だから」
「……」
 本当に反応に困った。考えていたことが的中したのだ。これがいわゆるフラグ回収というやつだ。ファンタジーのライトノベルでよく見るからどこか他人事のように見ていたが、まさか実際に自分で体験するなんて思いもしなかった。だから、言葉を失っても仕方が無いだろう。
「どうしたの?」
「…いえ、何でもないです。朧“さん”と呼ぶべきか迷っていただけですから」
 あたしが困惑していることに気付かれて、慌ててごまかす。ポーカーフェイスは得意なので、相手からは焦っているようには見えないだろう。
「ふふっ。大丈夫よ。あの子はそんなことを気にする子じゃないわ。だから今のままで良いわよ」
 ごまかし方が変だったのか、ポーカーフェイスが出来ていなかったのか、職員さんは悪戯っ子のような笑みを浮かべて言った。何故か悔しくなった。
「そうでしょうか…?」
「絶対そうよ。金子みすゞ並みに優しい子なんだから」
 冗談なのか本気なのか、職員さんは笑ってなだめる。
 金子みすゞ…か。確かに、朧はそんな歴史的詩人と似ているような気はする。目の付け所とかは特に、また、純粋な表現方法とかも。
「朧は好きだったんですかね。金子みすゞ」
「『わたしと小鳥と鈴と』…だっけ? それが一番のお気に入りだったみたいだけど…そうね、その他にも色んな作品を読んでいたから、好きだったんでしょうね」
 みんな違ってみんな良い。確かに、朧は好きそうだ。けれど大人になっていくにつれて、その言葉と現実との間に大きな隔たりが存在することに気付くのだ。そして、その言葉はたいして重要ではなくなっていく。あたしはそうだった。
 だから正直羨ましい。何にも気付けないでいる、そんな“無知”を生きた朧が…いや、もしかしたら気付いていたのかもしれないけど、それでも信じ続けた、その心が羨ましかった。
「いいな…」
「本当ね。それにしてもいつも思うけど、朧ちゃんみたいな純粋な子は、どうして早死にしちゃうのかしらねぇ…」
 職員さんが残念そうに言う。
「確かに、金子みすゞも20歳? くらいで亡くなっていましたよね」
 合わせるように、あたしは返した。
「そうそう。よく知ってるわね」
「国語の時間に習いました」
「あら。今の学校ではそこまで教えてくれるのね」
「学ぶことが昔よりも増えたのは確かですね」
 ただ、その分「勉強は面倒くさいもの」という概念が強まっている。あたしにとってはそんなことは無いのだが、他の人はそうでもないのだろう。勉強という単語を聞いただけで顔をしかめる人もいる。それだけでも勉強への否定が窺える。大人は悲しがるけれど、勉強を嫌がるなんて当たり前だ。だって、子供は自由を求める生き物なんだから。自分のやりたいようにやって、その経験から学ぶ方が断然楽しいんだ。ずっと机に座って、やりたくも無い計算やら読み書きやらをさせられるのは、それが嫌いな人には苦痛だろう。そして出来ないことばかり駄目だしされて、しまいには勉強が苦手になる。悪循環だ。もしかしたら、教育者側の教育方法が間違っているのだろうか。
「あなたは国語が得意なの?」
「得意…。まあ、得意ですね。でも、大体は何でも同じくらいの成績です」
 得意かそうでないかは自分じゃ分からなかったので、平均点は採れますよ、というふうなアピールをする。知らない相手なのに、嫌われたくなかったのだ。
「ふふ。畏まっちゃって…。可愛いわね。大丈夫よ、あなたはきっと頭が良いわ。そういう雰囲気があるもの」
 職員さんが笑って言った言葉に困惑する。
「…そういう、雰囲気?」
「インテリ系の人って、なんだかどこか落ち着いた感じがするのよね。それにあなた、自殺しようとしたって話じゃない? よく考える人ほど自殺しがちって聞いたことあるわ。だからきっと、あなたも沢山考える子なんだと思うの。違うかしら?」
 だいぶ主観的な考えに、ますます何と返せばいいか分からなくなる。直感というのは生きる中で必要な要素ではあるだろう。案外馬鹿に出来ないものでもあるから、根拠も無しにと否定が出来なかった。
「…多分、そうなんだと思います」
 自分が他の人と比べてよく考えているかなんて、他の人の頭の中が見えないので分からない。自分ではそう思っているけど、相手は違うと思っているかもしれないし…。だから、結局まともに答えることを諦めて無難に返した。
「多分だなんて、随分と謙虚ね。ねぇ、あなた利き手を見せてくれないかしら?」
「…? こうですか?」
 頭が良いのかという話から唐突なお願いへと切り替わりの速い職員さんに、ひたすら戸惑いながら言われた通りに左の手を見せる。
「あらあなた、左利きなのね! 左利きは天才が多いらしいわよ」
「そうなんですか?」
「ええ、そうよ。…それに、鉛筆を握り過ぎて皮膚の形が少し変形しちゃって…やっぱり、よく勉強するのね」
「え、ええと…」
 女性の推理力の高さに少し驚きながら、小さく頷く。学校に行っていないから、置いていかれないように。そのつもりでやっていたけど、いつの間にか楽しくなって、それがあたしの日課になった。宿題とかも無く割と気楽にできるから、やっぱり勉強は強制じゃなくて自主的にやる方が効果が上がるのかな、と少しだけ思った。
「あなたは勉強が好き?」
「は、はい。どちらかというと、ですが…」
 段々と尋問を受けているような気がしてきて、自信を失っていく。…この職員さんはどうしてここまであたしのことを知りたがるんだろう。そもそも、若そうに見えるけど、結構朧のことを知っているし、もう新米と言うべきような存在でもないのでは。
 考えると怪しさが増してきて、軽く女性のことを睨む。そしてその後に、かなり失礼なことをしたと気付いたが、それでも怪しいことに変わりはないので睨み続けた。
 職員さんはそれに気付いて、若干慌てたように言った。
「…ご、ごめんね。あなたを不審に思わせる気は無かったの。わたしばかりが訊いちゃって、悪かったわ」
「じゃあ、どうしてあたしに朧の話を教えてくれるんですか。女将さんの娘さんのことは、そう簡単に他人に喋って良い筈が無いでしょう」
 そう指摘すると、職員さんは「あっ」というような表情をした。
「…そうね、倫理とかを気にするべきだったわ。私としたことが、また失敗しちゃったわね…」
 あたしのことを気にせずに何事かを呟いた後、職員さんは苦笑いしながら続けた。
「ごめんなさいね、あなたが、あまりにも趣味や特徴が朧ちゃんとそっくりだったから、話しても良いような気がして…ごめんなさいね」
 その言葉に、あたしの頭の中で何かが引っ掛かった。
「…あたしが、朧と似ている? それ、昨日も言ってましたよね。顔つきがどうのこうのって…」
「え? ああ、そうね。あなたのお母さんと霞さんの方は別に似ていないのだけれど、あなただけは…何故か、朧ちゃんと似ているところが多くあるの。…やっぱり不思議ね。私、無意識にそのことを知ろうとしていたのかもしれないわ」
 偶然かもしれないのにね、と笑う職員さんの言葉を、あたしはどうしても上手く呑み込めなかった。本来なら赤の他人であった筈の朧とあたしが、よく朧を見てきたらしい職員さんですら似ていると断言するほどに、共通点が多いこと。それには理由がある気がしてならなかった。
「…あれ? まさか…」
 突然、職員さんがそう呟くのが聞こえた。考え込んでいた為に下に向けていた視線を職員さんに戻すと、彼女の目とパッチリ合う。その目には、何か窺うような気配が感じ取れた。
「…西園寺…娘さん…遥ちゃん…母子家庭…手紙…」
 あたしの目をじっと見つめたままブツブツと呟く。次に何を言われるのか少し怖くなった。職員さんは、何に気付いたというんだろう。
 いつの間にか、先程の疑念は消え失せて、職員さんが普通の人に見えていた。
「…日宮信司」
 ふと、職員さんが呟いた。その名前を聞いた瞬間、あたしはドキッとした。
「…どうしてそれを…」
 思わずそんな言葉が口から洩れる。
 母はいつも、あたしが父の名を訊いたら「日宮信司」と答えていた。だから忘れる筈が無い。日宮信司とは、あたしの父の名前だ。父の写真は母と離婚した時に全て捨ててしまったのか、もう残っていないので顔は分からないが、名前だけはしっかり思い出せる。日宮信司。
 あたしの声を聞いて、職員さんは考え事から戻ってきた。それからあたしの肩をがっしり掴んだ。
「遥ちゃん! あなた、西園寺遥ちゃんよね?」
 驚いたあたしは、「はあ…」と間の抜けた返事しかできなかった。一体職員さんは、何に気付いたというのだろう。
「でも、なんで…。あたしの名前は宿泊者の名簿に載っているだろうから、まあ分かるんですが…お父さんの名前は…」
 そう言いながら、何かよからぬ不穏な予感が胸の内に渦巻くのを感じた。これ以上聞けば、もう引き返せない。そんな不穏な予感が。
「そうね…ちょっと長いけど、聞いてくれるかしら?」
 あたしは黙って頷く。段々と緊張してきて、手のひらが湿っている。背中を冷たい汗が流れ落ち、更にあたしの鼓動は早くなっていく。
 あたしの緊張をよそに、職員さんも手を震わせながらあたしの肩を放した。若干強張った顔をしていて、これからとても真面目な話をするんだということが窺える。
 そうして、職員さんは短い話を始めた。

 職員さんはもともと、朧のお世話係として約四年前に雇われたのだそう。そしてそんな長い月日が経つうちに職員さんと朧はとても仲良くなったのだ。
 そんなある日。
『ねえ、かくれんぼしよう!』
 当時12歳だった朧は突然、職員さんにそう提案したのだ。ルールは旅館内だけ隠れられるということにしておき、職員さんが鬼としてかくれんぼは始まった。
 職員さんが見つけたら朧は鬼になり、朧が見つけたら職員さんが鬼になりと何回も繰り返しているうちに隠れられる場所が減ってきて、職員さんが鬼になったときに、朧は普段立ち入りが禁止されている、霞さん…つまり朧の母の書斎に忍び込んだ。
 その場所で彼女は、“とあるもの”を発見したのだという。職員さんが見つけたときには、朧は発見した“それ”を見つめて立ち尽くしていた。
『どうしたの?』
 そのただならぬ雰囲気を感じ取った職員さんは、そう朧に尋ねた。すると、朧は職員さんを振り返り、そのまま泣き出してしまった。
『私、いらない子なの? いらない子なの?』
 と繰り返し尋ね、不審に思った職員さんは、朧が見つけたものを確認してみた。
 それは一通の手紙だった。その手紙には、霞さんの字で、不倫してしまったことを謝ることや、日宮信司に騙されて、こちらも被害者だったのだという旨が綴られていた。

「…ちょ、ちょっと待ってください! それって…」
 あたしが言いかけた言葉を職員さんは遮る。
「そうよ、分かっているわ。だから、最後まで聞いてちょうだい」
 あたしは続けて何か言おうとしたが、衝撃のあまり言いたいことが喉に突っかかって、何か言うのをやめた。
 職員さんは話を続けた。

 見つけた手紙の途中、職員さんはこんな一文を見つけた。
『信司さんに会わなければ、私は自分の罪…朧を産まなかったのに』
 朧という存在は罪。当の本人はそこの箇所を読んで、自分がいらない子だと考えてしまったのだろう。だから今ここで泣き出してしまったのだ。そう考えた職員さんは、この手紙を書いた霞さんに見つからないように、朧を必死でなだめた。ここで雇い主にバレてしまうと、何か良からぬことが起こりそうな気がしてならなかったのだ。
 朧を泣き止ませた後、職員さんはもう一度手紙を読み返してみた。どうしても気になったのだという。職員さんは他の人からの噂で女将さんが不倫に巻き込まれたという話は知っていたので、それが本当だったことに驚きつつ、事の真相を知りたいという野次馬的な衝動に駆られたのだ。
 そこで、職員さんは日宮信司の結婚相手が西園寺春奈ということ、彼女の子供は西園寺遥であることを知った。それは本当に偶然の出来事だった。たまたま、手紙に二人の名前が載っていて、宛先が西園寺という名字のところだったというだけ。意図して見つけたものではなかった。
 でも職員さんは、勝手に秘密を見てしまったことへの背徳感が募って、今まで誰にも言い出せなかったのだという。

「その後、無事に霞さんに気付かれること無く書斎を抜け出せたのだけどね、朧ちゃんは直接、霞さんに聞きに行って、それで結局、怒られたのよね。解雇されることにならなくて、本当に良かったわ」
 職員さんは肩をすくめてみせた。
「…それで、なんとなく察しはついたかしら?」
 相変わらず声が出なくて、あたしは仕方なく頷くしかなかった。
「噂で知ったのだけれど、日宮信司の不倫がバレたきっかけは、双方に子供が出来たことらしいのよ。先に不倫相手…つまり霞さんが身ごもって、このままじゃ不倫がバレると思い、霞さんに子供をおろせと迫ったらしいわ。そうやって関係にひびが入って、修復不可能なまでになってしまったときに、西園寺さんがあなたを身ごもった。それをうっかり霞さんに匂わせてしまい、それが原因で不倫が発覚した…」
 これ以上は聞いていられなかった。この真実が何を示すのかが確信になり、それを嚙み砕くので精一杯だった。
 半ば混沌とした頭の中で、職員さんの話の内容が反芻され始める。
 日宮信司…つまり、あたしの父は母と不倫相手その両方に子供を作ったことがきっかけで、不倫がバレた…それを理由に、父と母は離婚したのだろう。母の話によれば、父は「他の女と出て行った」としか聞いていなかった。が、多分本当は「出て行った」というよりも「追い出した」のだろう。そして職員さんの話から、不倫相手であった霞さんもあたしの母のことを知らなくて、事件が明るみに出たときに自分が不倫していたことを知り、怒って追い出したのだ。だからあたしの家にも、この旅館にも、父の姿は無いのだ。父がいたとしたら、お互い気まずくなるので、絶対に母と霞さんが会おうとすることは無い筈だ。そして、…母も霞さんも、自分が孕んだ子供を産むことにした。母の子供はあたし、西園寺遥。霞さんの子供は、三日月朧。
「…あたしは、朧の妹…?」
 無意識にそのことを口にする。職員さんはいつの間にか、あたしの傍から姿を消していた。誰も居ない廊下にあたしの声がわずかに木霊する。
 どんな感情も湧かないのに、何故か目頭が熱くなった。それと同時に、昨日あたしが逃げ出す前、朧が言いかけたことを思い出す。
『私ね、遥ちゃんと…』
 彼女が思い出したことは何か。何を言いかけたのか。あの時はどんな感情で、何を思っていたのか。分かる筈か無いのに、その全てが分かる気がした。あのとき、朧はこう言いたかったのだ。
『私ね、遥ちゃんと同じ星から生まれたんだよ』
 あたし…西園寺遥が自分の腹違いの妹だということ。そして、そんな妹にはもう会えないということ。溢れる愛情と悲しみ、両方に板挟みになって、泣きたかったのは朧の方だった。あたしが絶望していたのと同じように、彼女もまた絶望していたのだ。それでも泣かずにいられたのは、落ち着いていられたのは、彼女が姉としての自覚を持っていたからだ。朧は、まだ未来のあるあたしを守りたかったのだ。
 一瞬でそんな考えが体中を駆け抜け、その電撃は涙となってあたしを貫いた。その衝撃はとても優しく、脳を揺さぶった。意図しなかった言葉が心の底からせり上がってくる。
「…お姉…ちゃん…」
 朧。あたしのお姉ちゃん。あたしが彼女を始めて見たときに抱いた愛情は、確かに存在していた。あたしは本能的に、彼女を自分の姉として愛したのだ。たとえ罪として生まれていたとしても、朧は一人の人間だから。あたしにとっていらない存在ではなかった。
 気が付くと、玄関の方へ足が向いている。どこへ行こうかなんて、最初から決まっていた。
 靴を履き、屋外に出る。さっきの職員さんが玄関先で掃き掃除をしていて、あたしは彼女に見つからないように旅館の裏側へ回った。
 …ブーゲンビレアは咲いていなかった。枯れた植物たちが両端で立ちすくんでおり、それらの中心に丸太が横たわっている。だいぶ腐敗が進んでおり、あたしが座ったら崩れてしまうだろうことが察せられた。
 …朧はいない。
 そんなことで、もう取り乱したりはしなかった。彼女は死んでしまったのだから、不思議がる必要は無い。今は素直に“死”を受け入れよう。
「…朧、お姉ちゃん…」
 誰も居ない空間に、語りかける。多分、彼女は聞いてくれるだろうと予想して。
「朧、あたし…あなたのことは忘れないよ。絶対に」
 ヒュウと低く唸るような風が吹いた。…冷たい、雨を降らせるような風。彼女は泣いている。
「あなたは、罪の証として生まれてきたって、そう聞いたよ。でも…」
 言いかけて息を呑む。目の前の丸太に、朧が顔を覆いながら座っていた。気が付くとそこに居て、彼女はしゃくり上げながら泣いているのだ。その姿に胸が締め付けられるような痛みが走った。
「…あたし、そうは思わないよ」
 慰めるような、温かい声で。優しい優しい、包み込むような声で。目の前の絶望した少女に歩み寄る。これ以上苦しんでほしくなくて、とても放っておくことなんて出来なかった。
「あたしは朧のこと、大好きだよ。だから…」
 昨日の暗い朝のように、彼女に手を伸ばす。しかし、その手はやはり虚空を掴んだ。
「だから…」
 泣かないで。
 いらない子だなんて、思わないで。
 あなたはヴェールに包まれた月のように、美しい。
 他には無い、唯一の人間なんだ。
 そんな悲しい顔、しないでよ。
「…」
 これ以上言葉が続かなかった。死んでも死にきれずに苦しむ、目の前の少女が痛ましくて、目を背けたい衝動に駆られた。
「遥ちゃん、私ね…」
 蚊の鳴くような、か細い声が、彼女の手の隙間を零れてあたしの耳に届いた。それだけで心臓を鷲掴みにされたように息苦しくて、泣き出したくなった。
「…全部、思い出したんだよ…」
 昨日と同じセリフを彼女は口にする。ループしたように、それは声色も声量も同じように聞こえた。相変わらずしゃくり上げて泣いているのに、と徐々に混濁していく頭で、不思議に思う。
 彼女の声を聞いていると、不安と安心が混ざって、奇妙な感覚に陥った。
「全部、ぜんぶ、おもいだしたんだよ…」
 なんだか頭がぼんやりして、声が二重、三重と重なって聞こえてくる。彼女の声は、まるで子守唄みたいだ。優しい姉が妹を寝かしつけるように、とても温かだった。
 …妹? あたしに姉なんかいたっけ?
「わたし、私、ワタシ…」
 段々と眠気が強くなっていく。流石に何かがおかしいと、どこかでは分かっている。けれど抗えない大きな力が、あたしを呑み込んでいく。…ああ、朧。どうしてしまったの? あなたは…優しいあなたはどこへ行ってしまったの? これじゃあ、悪霊じゃないか。絶望に染まり、全てが壊れてしまった悪霊みたいじゃないか…!
「…朧…」
 あなたは誰?
 一体、誰なの?
 ふと、自分の手に何かが握られていることに気付いた。誰から貰ったのかは知らないが、離してはならないもののように感じ、しっかりと握り締めると、涙が溢れた。目の前の少女が、綺麗だ。真っ赤な血の涙を流し、顔がぐちゃぐちゃになって、それでも綺麗だ。美しいのは、愛しているから。
 あなたは、それすらも奪ってしまうの? この、断ち切ってはいけない、愛情すらも?
「…朧!」
 あたしが何か叫んだようだ。何を言ったのかは分からない。けれどそれは愛しい誰かの名前、それだけは理解できた。忘れてはいけない。忘れたくない。この感情を。人知を超えた、この繋がりを。
「…はルかちゃんハ、知らナクていいの。全部、ぜんブ、忘レてしまエば…」
「いや!」
 必死で少女に手を伸ばした。彼女が消えてしまう、本気でそう思った。キラキラと星のように輝く夢も、蝉のようにうるさかった雑言も、何もかも背負って消えてしまうのだと。見えない粒子になって、宇宙のどこか遠くへと消えてしまうのだと。
「行かないで!」
 忘れたくない。どうしてそう思うのかは分からない。ただ本能的にそう思う。彼女を忘れたくない。あの子をまだ、愛していたい。絶望の中で死んだなんて、言わせたくない。絶対に忘れない。
 そう思うのに、あたしの視界はどんどん狭くなっていく。
 嫌だ。ああ、嫌だなぁ…。
「…お姉ちゃん!」


 何かを叫んで、意識を失った。

忘れたお話

 悪夢を見たときのような、恐怖や不安が侵入してくる感じ。それと共に、あたしは目を覚ました。心臓が早鐘を打っていて、ズキズキと痛む気がするほどだ。何かものすごく恐ろしい夢を見たのだ。
 そう考えながら起き上がる。窓から差し込む眩しい陽光に目を細めた。…何かを忘れてしまった。なんだか、そんなふうな喪失感が纏わりついているような気がする。でも、じゃあ何を忘れたのかと考えてみても、答えは出ない。思い出せない。
 …結局、奪われたんだ。
 何故かそう思った。心は空になったように冷たくて、不思議な重力が、あたしに重くのしかかった。
「最悪な朝だ…」
 小さく呟き、周囲を見回す。未だに慣れない畳、木製の大きな柱や窓枠…ああそうだ、あたしは母と一緒に旅館に来ていたんだったと思い出す。多分、不登校なあたしを少しでも元気付けるためだと思う。佳奈の自殺の件以降、塞ぎ込んでしまったあたしを、母はとても心配していたと気付いているから。
 …でも、変なのだ。佳奈があたしの所為で死んだとずっと思っていたのに、この旅館に来てからは、そうじゃないと否定できるようになっているのだ。それに関しては心がスッキリして、「もういいや」という気持ちでいる。ここに来てから今日までの間に、何かあっただろうか。
 思い出せない。これは一体、どういうことなんだ?
 あたしが記憶と格闘していると、ふすまが開いて母が入ってきた。
「…ああ、遥、おはよう。今日は昨日よりも早いのね」
 かすかに笑みを浮かべて言う母に、あたしも出来るだけ自然に返した。
「う、うん。おはよう。えっと…うん」
 「おはよう」の後に何か付け加えようとしたが失敗し、間抜けな返答になってしまった。それを母はどう捉えたかは分からないが、クスリと少し笑い、もう一度「おはよう」と言った。
「…おはよう」
 あたしもぎこちなく返す。母はそれを聞くと、すぐに話題を変えた。
「明日はこの地域で一番大きなお祭りね」
「うん」
「それでなんだけど、…やっぱり遥は一緒に行かない?」
「…」
 視線を地面にずらして考える。正直、興味はある。屋台や舞台での出し物とかではなく、最後に打ち上げられる花火が見てみたい。けれど、花火ならこの辺りでも綺麗に見られるというから、花火だけが見たいあたしにとっては、祭りに行く需要はあまり無いかもしれない。そこまで考えて、あたしは母を見て答えた。
「行かない」
 母は、あたしがそう答えることを予期していたのか、やっぱり残念そうではあるけど「そう」と言ったきり、しつこく誘うことは無かった。その姿がとても寂しそうで、やっぱり承諾した方が良かったかなと申し訳なく思う。でも、「うん」と頷ける勇気も無いので、黙ったままでいた。この意気地なし、と心の中で罵ってみるが、効果は無い。
「それじゃ、今日はどうしましょ?」
 母が話から逃げるように尋ねる。
「…散歩」
 何かを思いつこうとして出来ずに、結局普段と変わらない回答になってしまった。そんなあたしに、流石の母も苦笑する。
「遥らしいわね。でも、ごめんね。お母さん、今日は霞さんとお話ししようと思ってて、ずっとここにいる予定なの。だから遥、今日の散歩は一人でお願いしても良いかしら?」
 それなら、今日の予定なんて聞かなきゃいいのに、と思いながら頷く。勉強道具は一応持ってきてはいるけど、ここに来てからは勉強しようなんて気は微塵も湧き上がらなかった。創作意欲も湧かないし、この場所では無欲になったと言える。そのくせ、頭の中ではずっと音楽が鳴り響いているのだ。聞き覚えがあるようで無い、懐かしいメロディ。ノスタルジックで泣き出したくなる、温かいメロディ。それが耳の奥で、ずっとこびりついて、離れない。それは、あたしが今まで求めていた誰かを呼んでいるみたいだった。今までずっと、探していた、…あの美しい…誰か…。
 …ああ、誰なんだ?
 ズキッと頭が痛む。あたしは誰を探しているんだろう。この世に存在していないような、美しい“あの人”とは誰だ? あたしは、あたしは何を忘れているんだろう…。
「…遥?」
 首をかしげていると、母があたしの意識を呼び戻した。心配そうにあたしの顔を覗き込んでいる。
「…え? あ…ううん、何でもないよ」
 ハッと気が付き、慌ててごまかした。
「遥。困ったことがあったら、お母さんに言うのよ? 絶対に力になってあげるからね」
 母は真剣な目で、あたしを真っ直ぐに見つめながら言う。そこからは、自分の子供を心の底から心配する、親の姿を見ることが出来た。…ああ、母はあたしを愛しているんだな。と、改めて確認する。
「…うん。分かった」
 そんな気は全く無いのに、反射的に頷く。心の底に、母に心配されたくないという反抗心があるのかもしれない。
「…」
 その承諾が偽りのものだと分かっているのかいないのか、母は困ったような安堵したような何とも言えない表情を作った。それからわざとらしく時計を見やって、言うのだった。
「…あ、もうそろそろ朝食の時間よ。遥、今日は食堂で食べようと思うの。いいかしら?」
「うん」
「良かった。…それじゃ、行きましょうか」
 そして部屋を出ていく母の後ろ姿を見送って、あたしは立ち上がった。すると、ズボンのポケットに何かごつごつしたものが入っているのに気付き、取り出してみる。
「…何これ」
 それは、手のひらくらいの大きさの石だった。心なしか星のような形をしていて、見覚えがある。
 …いつの間にこんなものを持っていたんだろう。そうは思うが、嫌という気はしなかった。むしろ絶対に手放してはいけないもののような気がして、大切にしまっておきたいと思った。
 少し考えてから、再びズボンのポケットに入れた。それから母の後を追った。

「…」
 特に話すことも無く、無言のまま朝食の時間が過ぎていく。白米を口に運ぶと味がするのに、あたしの舌は味をうまく感知することが出来なかった。代わりに、しょっぱさが口内に充満していく。噛むたびに、なんだか泣きたくなってしまうのだ。胃の中は満たされていくのに、心は変わらず空白を包み、その虚しさが行き場の無い悲しみとして溢れそうになる。それを必死で堪えながら、あたしは自分の頭がどうかしてしまったんだろうかと考えた。
 やっぱりあの悪夢に、何かを奪われたのだ。よく分からないが、そんな気がする。今朝見た悪夢の中で、あたしは大事な何かを盗られて、その分の空白が心に隙間風を流し込んでいるのだ。きっとそうだ。だからあたしは、自分の大切な何かを盗んだ悪党を見つけ出して、そして取り返さなくちゃならない。そうしないと、あたしはずっと凍えたままだ。
 静かに決心する。すると、再び何かを思い出せそうな気がした。けれどやっぱり、掴みかけたところで、指と指の隙間をすり抜けて消えてしまった。
 …そうか。あたしが奪われたものは“記憶”なんだ。このときはっきりと、それを意識した。あたしは、何か大事なことを忘れているのだ。心を満たしてくれる、大事な大事な記憶を。だからどこかが寂しいのだ。
「…遥、一昨日の夜の話、覚えてる? ほら、朧ちゃんの話」
 ふと思い出したように、母が食卓の静けさを破る。
「おぼろ…?」
 あたしは首をかしげた。
 おぼろ…おぼろとは誰だろう。あたしはそんな名前の人を、聞いたことが無い。
「…」
 なのに何故か、既視感を覚える。あたしは“おぼろ”という人物と出会ったことがあって、実際に話したことがある。そんな気がするのだ。
「…ごめん、忘れちゃった。どんな話だっけ?」
「いえ、覚えていないならいいのよ。ごめんね、変な話をしちゃって」
 少しでも“彼女”について情報を得たくて、訊いてみたが、さらっと流されそれ以降は何も言わなかった。なんだか怪しい。でも今、口を割らない相手に根掘り葉掘り訊くのも野暮なので、あたしは無言で頷いただけだった。
「…ごちそうさま」
 お腹がいっぱいになって、席を立つ。最近、拒食気味だったからか、胃が小さくなってしまったみたいだ。比較的少ない量の朝ごはんでも、あたしにとっては多いと感じてしまう。
「これから、散歩に行くの?」
「着替えてからね」
「そう。いってらっしゃい」
「うん」
 母に手を振られたので、あたしも振り返して、部屋に戻った。歩くたびに、左ポケットがごつごつすると思ったら、そういえば例の“謎の石”をそこに入れていたんだったと気付いた。
 着替える前にそれを取り出して眺める。微妙に星の形をした、触り心地の良い石だ。不思議と手に馴染み、持っているだけで安心した。
「…結局、何なんだろう」
 石の全てを舐め回すように、まじまじと見つめる。何の変哲もないただの石だ。あたしはどうして、こんなのを持っているんだろう。持ってて何の意味があるんだろう。というか、いつの間に手に入れていたのかも分からない。考えれば考えるだけ、不気味な石だった。だから手放してみれば、むしろ不安が更に膨らんで、もう一度手に取ると、それは急速に縮む。とんでもなく不気味なくせに捨てられないことが、なんだか悔しくも怖くもあった。
「本当に何なの…?」
 呪われたような不快感に身を包まれ、体が震えそうになる。何度も深呼吸をして、なんとか抑え込んだが、不快感自体はあたしの背後に付き纏い、離れてくれなかった。
 …どうしてこうなったんだろう。やっぱり佳奈の死の原因は、あたしにあったということなの? それとも、あたしは自分でも気づかないうちに悪霊の怒りでも買ってしまったのだろうか。どちらにせよ恐ろしいことだが、前者は無いだろうと思った。何故か今のあたしは佳奈を深く信頼していて、彼女があたしを裏切ることは無いと強く信じているのだ。どうしてかと聞かれても、答えられないけれど、本当にそうなのだ。あたしは佳奈に呪われているのではない。
 なら、一体何だというのだろう。まさか、本当に悪霊の怒りを買ったのだろうか。あたしが気付いていないだけで、してはいけないことをしでかしてしまったのだろうか。あたしは本当に、呪われて…
 …ふと、少女の後ろ姿を思い出す。日に焼けた肌、長いストレートの黒髪、水玉模様のワンピース。
 そういえば彼女、昨日はずっとあたしのことを追いかけていたっけ。姿は見えずとも視線だけはずっとついて来て、今思えばあたしに用があるのだろうということは明白だった。
「…彼女が、あたしのことを…?」
 あの少女はこの地域に住んでいる子供。そう思っていたけど、違うのかもしれない。もしかしたら、彼女は幽霊で、あたしが何か悪いことをしてしまったから呪われたのかもしれない。
 そう考えて、首を振る。あまりに子供っぽい考えな気がして、馬鹿らしくなってきたからだ。
 …そうだ、これはあたしのただの妄想だ。昨日、不思議な子に出会って、きっとまだ、その感覚が残っているだけなのだ。そう、だからこの不安感も、杞憂か何かなのだ。
 そうやって思い込んで、着替えを終える。褪せたような青緑色のTシャツに、紺のジーンズ。ファッションに興味がなく、それに関しての勉強もしない為、その分野に対しての知識は皆無だ。知っているとしても、誰かのヒソヒソ話を小耳に挟んだ、くらい。「男の娘だなぁ」とよく佳奈に言われたっけ。星の石は結局ポケットに再びしまって、持ち歩くことにした。
 玄関辺りに来ると、「いってらっしゃい」と昨日の職員さんに言われた。…あれ? 昨日、この人ととても大事な話をしたような…。と思ったけど、その人はいってらっしゃいを言った後すぐに旅館の奥に引っ込んでしまったので、話しかけることが出来なかった。
「…いってきます」
 小さく呟いて、蝉時雨の打ち付ける小道に飛び込んだ。

 朝の歩道は、日が頂点に達していないからか、比較的涼しい。服を皮膚に貼り付けるような気持ち悪い汗も流れないので、とても心地よかった。…といっても、それは今だけで、しばらく歩き続けていれば自然と体は熱を帯びてくる。きっとすぐ、昼間と同じような状態に戻ってしまうのだろう。
 旅館を出て100メートルほど離れたところで足を止める。特に理由は無い。…多分、この清々しい青空のせいだ。いや、もしかしたら少し湿った夏の朝風のせいかもしれない。理由が無いときは、こうやって何か美しいと感じるものに、気を取られているのだ。
 立ち止まったその場所で目を閉じる。蝉の声が、少しだけ大きくなった気がした。それから、朝の涼しい空気を肌に感じる。周囲に茂る、深緑の薫りと、野花の香り、そしてちょっと排気ガスの臭いも。
 視覚が無くなった分、その他の器官が様々なことを感じ取るのだ。それが本物であっても、ただの幻想であっても、構わない。どちらでも、あたしにとっては「美しい世界」だから。
 …美しい、か。
 ふと、今朝の不思議な心境を思い出す。あたしが忘れてしまったと思ったものは何だったのか、それを考えると、そこに「美しい」という概念が含まれていたような気がした。美しかった何かを忘れ、あたしはその空白にやるせなさを感じているのだ。埋めたいのに埋まらない、掴みたいのに掴めない、それはまるで水のようだった。それは決してあたしを潤してはくれず、むしろ考えるたびに渇きを催す。
 思い出せない。どうしてだろう、あたしはこんなにも望んでいるのに…。
 悲しさが込み上げてきて、泣き出してしまう前に目を開けた。急に明るくなった視界がくらっとする。それから太陽が眩しくて、目を細めた。
 …大丈夫。前はちゃんと見えている。佳奈を幻覚していたときみたいな暗闇は、もうどこにも無い。あたしは、きっと大丈夫。
 そんな根拠の無い言葉で、沈みかけた言葉を慰めながら再び足を動かす。さっきよりも、足取りは重く感じた。それをあえて無視した。

 しばらく歩いて、昨日母と一緒に来た小さな村にやってきた。昨日は母と話しながら歩いたせいで、周りがよく見えていなかったが、今日改めて見回してみると、ボロボロな木製の老舗が多いなとか、舗装されていない道路が多いなとか、色んな情報が舞い込んでくる。ここは水はけが悪い土地なのか、田んぼが多い。道路から分かれてあぜ道が木の枝のように無数に伸びているのを見て、あたしは田舎に来たんだと実感が湧いてきた。
「…こういう田舎道って、やっぱり夕日が似合うよね…」
 誰かに話しかけるように、一人呟く。その声は、響く蝉時雨にかき消されて、どこにも届くことは無かった。
 想像してみる。幼い子供二人が、お別れだねと手を振り合う。場所はもちろん、このあぜ道だ。明日も会う筈なのに何故か寂しくって、もう一生会えない気がして、離れたくなくって…そんな情景を頭の中で思い描く。この感情は、「ロマンティック」ではなく、「ノスタルジック」が近いのだろう。あたしもあったなぁ。佳奈と遊んだ帰り道、まだ全然遊び足りないねと言い合って、二人で家出の計画を立て合ったりして。結局、実行したことは一度も無かったけど、そんなもの寂しさの隣にはいつも、幸せがあった。…そう、あの頃のあたしは間違いなく幸福だった。
 …だった、のにな。
 今じゃ、幼い記憶を共にしたかつての仲間は、もうここにはいない。いないのに彼女の幻影を見出して、気付けばそこに縛られていた。変わっていく現実や感情に取り残され、それらに追いつけないまま他人を傷つける。小さかったあたしは、未だにここにいた。体だけ成長して、心は大人になりきれていないから。自分の純粋さを、忘れたくなかったんだ。
『――また、会おうね!』
 そう言ったのは、誰だったっけ。わずか二、三日の間でも友情を育んだ…いや、それ以上の愛情を教えてくれた、子供のままの「彼女」。きっと、あたしが今まで求めていた人物。大人と子供の狭間で揺れ続けるあたしが、忘れてしまった人物。
 泣きたくなった。子供の頃を思い出せない、幸福だったあの頃を忘れてしまう…それが「大人になること」なんだなぁと、考えてしまったから。もしそうであれば、大人になんてなりたくないと、思ってしまったから。小さかった頃に見上げた憧れが、今は怖くて堪らなかったから。
 段々と虚しさが心の空白に溜まっていく。それは、止めようもなくあたしを侵食し続ける。時の流れに無力感を覚える。…もし、ずっと子供でいられたらな。絶望にも似た願いがふと頭をもたげた。けれど、それは机上の空論。実現する筈が無かった。
 蝉の声がうるさい。滴る汗が気色悪い。頂点近くの日光が、針みたいに痛い。
 泣きたい。
 「もう嫌だ」って、喚きたい。
 でも、なんだかそれは憚られた。この感覚に覚えがあって、それをすると「二回目」になる気がしたからだ。もう繰り返してはいけない。
 あたしは、暗くなった気持ちを押し殺して、あぜ道を通り過ぎた。
 …誰かの視線を感じたが、気のせいだと思うことにした。

 もう食後は過ぎただろうか。あたしは昨日お弁当を食べた公園にいた。みんなお昼の時間だからか、人の気配は無く、誰も遊具で遊んでいなかった。ただ、砂場には山が出来ていたり、足跡が残っていたりしたから、誰かがここで遊んだということは理解できた。
「懐かしいなぁ…」
 佳奈と二人、砂場に色んなものを埋めて「宝物探し」をやった記憶を思い出した。あのとき、最初は掘って隠した場所だけ水分やら何やらで色が変わるから、すぐに見つかって、それで最後にあたしの靴を隠して、見つけたら今日はもう帰ろうということになったんだっけ。だけどその前に色んな所を掘り返していたから、場所が分からなくなって、あちこち探しまわった挙げ句、やっぱり見つからなくって、最終的に親を呼んで、他の大人も呼んで…かなりの大騒ぎになった。一時間ぐらい、近所の大人たちが総出で探してようやく見つかり、その後に大目玉を食らったのだ。少し落ち着いて考えればそうなることくらい気付けたのに、当時のあたしはヤンチャ過ぎて、あるいはお馬鹿過ぎて、気付けなかったみたいだ。ちなみに、このことを教訓に、「宝物探し」はもうやらなかった。
 小さい頃はあんなに阿呆で、無邪気で笑顔良いっぱいだったのに、今じゃそんな自分をどこに置いてきてしまったんだというぐらいに、自分を抑え込んでいる。皮肉だな。当時はあんなにワクワクしていた「大人になる」という過程が、今や自分を縛る枷になっているだなんて。本当、笑えない。
 そうやって、過去の自分と今の自分を比較して嘆いていると、ふと、誰かの視線に気付いた。
 …見ている。
 家で感じていたような、あたしを非難するような刺刺しい視線じゃない。あれは何故か、ここに来てからは感じなくなっているからだ。今感じている視線は…興味を向けられている、というような、好奇心から来るしつこい視線だった。…あたしとしては、どっちにしろ気持ちの良い視線じゃない。自分が見世物にされている気がして、怖くなるのだ。
 視線が飛んでくる方向に目を向ける。サッと何かが木陰に身を隠すところだけが見えた。長いストレートの黒髪がチラッと見え、その瞬間に昨日見かけた少女を思い出した。
 …昨日からずっと、あたしに何の用なんだろう。
 今の隠れる動きは、ホラー小説あるあるの「誘うような動き」というより、純粋に慌てて身を隠した、というような動きだったから、彼女は幽霊ではないような気がする。でも、生身の人間だからと言って、少女のことが怪しいのに変わりはなかった。
 …彼女は一体…。
 しばらく見つめていると、チラッと木陰から、少女が顔を覗かせた。その途端に目が合い、少女は「あっ」というような、口を半開きにした状態で数秒固まった。それから観念したように木陰からそっと歩み出た。
 丸っこくて広いおでこ、吊り目とも垂れ目とも言えない平凡な目つき、小さな鼻、薄ピンクの唇。昨日のような水玉のワンピースではなく、水色のTシャツとヒラヒラの白いズボンに変わっていたので、やっぱり彼女が幽霊の類ではないと確信した。一日ごとに着替えるお化けなんて聞いたこと無い。
「えっと…」
 声変わりの途中のような声で少女は言う。
「ご、ごめん…」
 突然謝ったことに対して、あたしはたいして驚かなかった。きっと尾行した件について何か言うだろうと思っていたからだ。そして、あたしは別に怒っていなかったので、尾行されたことに関しては許そうと思っていた。
「えっと…本当に、ごめん。アンタがあたしの友達と似ていてさ、…尾行するつもりは無かったんだけど、いつの間にかついてきちゃってた」
 弁明するように言う少女。あたしが何も答えずにいたから、怒っていると勘違いしているようだ。
「それって、ただの人違いってこと?」
 少女は首を横に振った。
「いや、違う。最初から違う人だってのは気付いてたんだ。ただ、似てるなぁと思ってただけ。でも、その『似てるなぁ』でずっと気になって、自分でも分からないけど、追いかけようってなった。昨日の話だよ。…今日は、偶然見かけて…それだけなんだ」
 信じてほしい、というような目であたしを見る。あたしも、別に彼女が嘘を吐いているようには見えなかった。明らかに不審なことしか話していなかったのに、どうしてか「そんなこともあるよね」という気持ちの方が大きかった。
「…そうだ。ねえ、アンタはどこから来たの? この村の人じゃないでしょ」
 少女が尋ねる。こんな言い方をするってことは、やっぱり少女はこの村に住んでいる人なのかな、なんとなく思った。
「お母さんが言うには、この村の隣町の端っこみたい。車で一日もかからずに来れるから、ここを選んだって」
「いつまでいるの?」
「一週間って言ってたから…今日も合わせて後4日、かな」
「そう」
 それから少女はちょっとだけ考えるそぶりを見せた後あたしの手を引いて言った。
「じゃあとりあえず、今日はあたしに付き合ってよ。大丈夫、カツアゲとかじゃないから」
「えっ」
 そしてそのまま断り切れずに、あたしは名前も知らない少女と散歩をすることになった。相手もあたしの名前や性格はよく知らない筈だから、多分ふとした思い付きで手を引いちゃっただけなんだろうなぁと、ぼんやりと考えた。
「ねえ、小腹空かない?」
 公園を出たところで少女が尋ねた。
「え、いや、そんなには…」
「いや、返事はいいや。あたしが食べたいだけだし」
 そう言って、さっさと歩いていく少女。案外歩くのが速くて、あたしは慌てて彼女の後を追った。
 着いたところは、昨日あたしと母が寄った弁当屋だった。
「ここ、あたし的に一番美味しいお店。アンタの分も買ったげるから、何か選んでよ」
 言いたいことを言うと、少女は間髪入れずに店の中へと入っていった。この状況でも断れずに、あたしは出来るだけ小さいおにぎりを選んだ。実際、お腹は空いていなかった。
「おっちゃん、いつもの」
「あいよ」
 少女がいつものと言って出してもらったものは、メンチカツ弁当だった。こんなに同じことってあるのかと少し驚いた。また、「小腹が空いた」と言いながら、こんな重たそうな弁当を買うところに、「もしかして食いしん坊なのかなぁ」と心の中で苦笑した。そういえば、佳奈もそんなふうに沢山食べていたっけ。さっきの強引さもそうだけど、この少女は佳奈と少し似ている気がする。と、勝手に親近感を覚えた。
「代金は?」
「568円だよ。…お前さん、いつも言っとるが、昼になったら家に戻らんと駄目じゃないか。親御さんが心配すっぞ」
「ふん、余計なお世話だよ。アイツらは何も分かってない。本当はあたしのことなんて心配してないんだ」
「そんなこと言わずに。仲直りしてやりな、きっと喜ぶよ」
「…」
 少女はムスッとしたまま代金568円を渡す。今の会話で、この子が親と不仲だということは分かったが、それには手を出しちゃいけないと思い、あたしは口を挟まずに黙っていた。
「…ん? 嬢ちゃん、昨日母と一緒に来ていた子かい?」
 困ったような表情をしていたおじさんが、あたしに気付き声を掛ける。
「はい…それがどうかしましたか?」
「ああ、丁度良かった。昨日お前さん達が帰っていってしまった後、これが落ちていたことに気が付いてな、お前さんか母親のどっちかが落としちまったのかと」
 そう言っておじさんが見せたのは、小さな星型が付いたキーホルダーだった。これには見覚えがある。確か、母が一回だけあたしに見せてくれたことがあって、これが自分のお守り代わりなのだと言った。母が神を信じるタイプではないと知っているから、とても不思議だったのを覚えている。
「母のものです」
 昨日お弁当を買ったときの母を思い浮かべながら答える。…あのとき、一体どこでこれを落としたんだろう。というより、そもそもどこにこのキーホルダーを付けていたのかをあたしは知らない。少なくとも、周りから見えるところには付けていなかった。だって、あたしがこれを見たのは例の一度きりだし、母がいつも使っている仕事用鞄に着けているところは見たことが無い。というより、キーホルダーがどこかに付けられていたのなら、相当強い力が無いと、千切れたり外れたりして落ちることも無いような気がする。おじさんが拾ってくれたキーホルダーは、見たところ何の損傷も無い。だから、結論…というより、推理としてはこういうことになる。まず、キーホルダーはいつもどこにも付けられずに鞄の奥底にしまわれており、誰にも見られないところにある。そして、昨日支払いをするために財布を出したそのとき、財布と一緒にキーホルダーも引っこ抜いてしまい、そのまま落としたことに気付けなかった。一応、筋が通る話だ。
「やっぱりかい。昨日はお前さんたち親子とそこの嬢ちゃんしか来てないもんだからねぇ、誰が落としたか考えるのは簡単なことだよ」
「え…あんなに美味しい弁当なのに、あんまり人が来ないんですか?」
 深く考えずに尋ねる。
「はは、痛いところを突かれちまったねぇ。…残念なことに、去年の冬頃にとある事故が起きて、それ以来客足が遠のいちまったんだよ。風評被害ってやつが一番大きかったかねぇ」
 思いの外、内容が重くて申し訳ないと思っていると、おじさんは笑って許してくれた。何とも器の大きい人だなと安心した。
「おっちゃん、この話はもういいでしょ。ほら、アンタも行こう」
 話が一区切りしたところで少女が口を挟み、あたしの手を引く。かなり強引で、それでいて冷たい手だった。別に氷のような冷たさというわけでは無いけれど。
「…お前さんがそんなんじゃ、きっとあの子も逝くに逝けないよ…」
 店を出る直前に、おじさんがそう言っているのが聞こえた。気のせいだろうか。

 少女はあたしを無理矢理導いて、再び公園へ連れてきた。もう既に蝉の声は聞こえなくなっており、ギラギラと照りつける太陽もあたし達の水分をどんどん奪っていく。風は生暖かいし、もうずっと草いきれの匂いがツンと鼻を突き刺し続けている。天色の空の端には大きな入道雲がそびえていた。あれが近付いて来たら、雷鳴が聞こえるんだろうか。そして真上に来れば、きっと土砂降りになる。だからその前には戻らなければならない。
「ふぅ、あっつい! 今何時かな?」
 胸元をパタパタさせながら少女は尋ねる。あたしは、公園に設置されている時計を見て答えた。
「一時半」
「そう。この時間帯は嫌だよね。だって日差しが一番キツイもん。ね、あそこに座ろう」
「うん」
 あたし達は、丁度木陰の下にあるベンチに座った。
 少女が先程買ってくれたおにぎりをビニール袋から取り出して、あたしに渡す。それから少女は自分のものを出して、弁当箱の蓋を開けた。フワッと様々な具の香りがした。おにぎりはラップに包まれていて、あたしはそれを剝がしてから少しだけ齧った。噛むたびに口の中で唾液が広がっていく。美味しいと思った。
「そういえば、よく知らないで買っちゃったけど、それの中身何なの?」
 少女は、弁当を買ったときに付いた割り箸で、カツをつつきながら訊いた。
「シャケ」
「ふぅん? そういえば、あたしの友達はシャケおにぎりが好きだったような気がする」
「気がするって…よく知らないの?」
「…ううん、昨日いきなり分からなくなったの。友達がいたこととか、その子の好きなものとかは思い出せるのに。…不思議でしょ?」
「…うん」
 なんだか、あたしも同じだと言える自信が持てず、それだけを返した。
「…アンタも、シャケが好き?」
 流すように話を戻す少女。あたしの様子から、何か感じ取ったのかもしれない。だから、あたしもそれに乗った。
「うん。典型的な具だけど、すごく美味しいよ」
「そうなんだ? あたしは梅派。おにぎりなら具は梅がいい」
 彼女の話を聞いて、確かに梅おにぎりも美味しいよね、と考える。梅の強い酸っぱさをお米で殺さない程度に抑えてあり、あれはあれでまた違った旨味になる…と思う。
「でもぶっちゃけ、おにぎりなら具材が何であっても、美味しいと思うんだ」
「あ、確かに」
「ポークと卵を挟んだものとかさ、ああいうのを食べてると、お米は何にでも合うから、むしろ組み合わせて不味いものの方を探してみたいとか思うんだよ、たまに。アンタはそうは思わない?」
「うーん…料理が苦手だから、特には…」
「あはは、そっか。すごいね、そんなトコまで似てるんだ、アンタ」
「それは…あなたの友達に?」
「そうそう。名前は…昨夜から全く思い出せないんだけど、性格とかはなんとなく覚えてるところがあるんだ。それも完全じゃないけどね。えっと、例えば…そう! 音楽が好きとか、さっき言ったみたいに、料理が苦手とか」
 そう言って、少女はニカッと白い歯を覗かせながら笑った。佳奈もあたしも、子供の頃は同じような笑みを浮かべていたことを思い出して、懐かしいような寂しいような気持ちになった。
「…ねぇ」
「うん?」
「こっそり後を付けてきたときもたまに思ったけどさ、アンタってときどき、今みたいな悲しそうな目をしてるよね。何かあったの?」
「…」
 ドキッとして少女を見る。彼女は、興味を持っているだけのような、でも心配もしているような、そんな真っ直ぐな目であたしを見ていた。なんとなくでも、彼女は気付いていたのだろう。何かを失ったときのような物悲しい雰囲気に。あたしが何を失ったのかは知らなくとも、何かを失ったことには気付いた。だから、そんな複雑な表情になるのだろう。
 あたしが何も答えないでいると、少女はあたしから目をそらして、じっと自分の影を見つめた。それから少し小さな声で言った。
「…あたしはこの世界が嫌い。だって、あたしから色んなものを奪っていくんだもん」
「…」
「目指したかった夢は全部、お父さんとお母さんに捨てさせられたんだよ。これはお前の為にはならない。あなたの為に言っているのよ…って。アイツら、あたしのこと何も分かってない」
「…」
「あたしはもっと自由に生きたい。自分で自分の人生を歩みたいのに、アイツらはそうさせてくれない。きっと辛い目に遭うからダメって、否定してばかり。辛いことがどうして駄目なのか、あたしには分かんない。だって、辛いことは成長の糧にもなるって、教えてくれたのはアイツらだから」
「…」
「…さっきから友達の話ばっかりしてたけれど、実はあの子ももういないんだよ。誰よりも子供っぽくて、誰よりも優しくて、可愛くって…本当、天使みたいな子だったのに、周りの人はみんなあの子を、気持ち悪がった」
「…」
「あたしの友達は、あたしの知らないところでボロボロになって、ひとりぼっちになって、最後は殺されたんだ」
「…殺された?」
「そうだよ。みんな、ただの事故だって言うんだ。でもあたしは違うと思う。誰かがあの子を、事故に見せかけて殺したんだ。それで知ってる奴らが全部を隠蔽した。あの子は最期まで、味方がいなかった…敵に、何もかも奪われたんだっ…」
 少女も、友達の死に際を見たのかもしれない。最後あたりは声がとても震えていて、深く悲しんでいることが窺えた。
「…ごめん、暗い話をしちゃったね。あたしとアンタ、お互いのことを知らないから、よく知らない相手になら心の内が吐き出せるんじゃないかと思ったんだ。そしたら、つい…」
 あたしは少女を否定しなかった。彼女の心からの主張には共感するものがあったし、二つ目の“奪われた話”に佳奈と通じるものを感じたからだ。それに、今だって…。
 だからこそ、あたしは彼女に自分のことを話す気になれたのかもしれない。…ああ、佳奈を裏切ったあの日みたいに、感情が止められない。少女を慰めるつもりが、また傷つけてしまうかもしれない。そんな可能性に脳内を支配されたが、魂が体を動かすと言われているように、あたしは自分のことをコントロールできなくなっていた。
 あたしは、魂の働きかけに抵抗できず、少女に佳奈のことを話した。そのときの自分の心情、未だに許せていない醜さをぶちまけた。どうしてこんなことを言ってしまったのかは分からない。ただ、誰かに話したかった。母にも旅館の職員さんにも話せなかった、あの失意と絶望の時間を。今までさんざん苦しめられてきた、あたしを突き刺す視線を。全部を吐き出して、もう楽になってしまいたかったのかもしれない。少女がさっき、あたしに話して聞かせたように。あたし一人で背負うには、あまりにも重すぎたのだ。
 少女は、あたしの懺悔の話を、相槌を打って聞いてくれた。普通じゃ信じてくれないことも、真剣な表情で受け止めてくれた。多分、彼女もまた、あたしと同じ立場にいたからだろう。
 だから、彼女は…名前も知らない目の前の少女は、あたしの初めての共犯者になった。親友の死にゆく姿を眺め続けた…そんな“傍観者”という罪を背負う、共犯者になった。あたし達はお互いのことを知らないのに、心は通じ合っているような気がした。
 …そうだ。これは最初で最後。あたしもあなたも、今日で終わりにしよう。そして違う道を生きていく。それで傍観の罪はおしまい。あたし達の“共犯”もおしまい。これから先、一度別れればもう二度と出会うことは無いだろう。
 あたしは泣いた。声を押し殺して静かに泣いた。ただ、悲しかった。そこには絶望なんて無かったし、きっともう涙になって流れてしまったのだろう。後悔も、苛立ちも、全てを受け入れて…ようやく、ようやく全てを受け入れて、心には純粋な悲しみだけが残った。やっと、佳奈を忘れられた。
 少女も泣いた。あたしと同じように、声は出さずに黙って涙を流した。そこにどんな感情があったかは知らない。別に知らなくても良いのだ。きっといつかは忘れてしまう、彼女だけの理由だから。
 ひとしきり泣いて、双方の気持ちが鎮まった頃、あたし達は互いに顔を見合わせて笑った。少女は、何か吹っ切れたような顔をしていた。多分、あたしも同じような顔をしていたんだろう。
「あたし達って、似たもの同士だね」
「うん、そうだね」
「そろそろ行こうか。雨が降って来ちゃう」
「…うん」
 そうしてあたし達は、人気の無い公園を後にした。二人でここに戻ってくることはもう無い…そう直感しながら。

 冷たい風が吹き始めた3時頃のあぜ道を、肩を並べて歩く。雷の音は、すぐそこに迫っていた。けれどあたしも少女も焦らない。焦ったところで、この距離では走っても旅館に辿り着けずに降られることには、気付いていた。少女も、家はここからじゃ遠いよと言って笑った。つまり、どちらも濡れ鼠になる覚悟はとっくに出来ていたのだ。
「…ね、公園で、少し思い出したことがあるんだ。聞いてくれる?」
「うん」
「あたしの友達は、階段から落ちて死んじゃったんだけど…あたし、そのときにあの子が誰かに突き落とされたの、見たんだ」
 そう言うと、少女はあたしの背後に素早く回って、力いっぱいあたしの背中を押した。あまりの突然さに対応できず、軽く前によろける。何とか踏ん張って、転ぶのは避けることが出来た。
「…今みたいに、立てる場所があればよかったんだけど…生憎、そこは階段。踏みしめるための地面が無くて、そのまま転がり落ちたんだ」
 少女は「押してごめんね」と謝って、再びあたしの横に並ぶ。
「あの子のお母さん、悲しんでたのかな…。葬式に出たとき、むしろ肩の荷が下りたときのような…そう、ホッとした表情をしていた気がするんだ。どちらかといえば、あの子とよく一緒に居てくれた若そうな女の人の方が、ずっと悲しそうに見えたよ。だからあたしは、…あの子のお母さんのこと、少し嫌いかな。娘のこと、愛していなかったんだろうって、思うとね」
 最低だよね、と少女は泣き顔を無理矢理歪めたような笑顔で言った。あたしはただ黙って頷いて、笑えばいいのか同情の言葉を掛ければいいのか、何も分からなかった。
「ごめんね、あたしばかり喋って」
 しばらく間が空いて、少女が言った。
「アンタも、何か話したいことは無い? 辛くて誰にも話せないことなら、言わなくてもいいけど」
 あたしは首を横に振った。
「そんな。あなただけが秘密を喋って、あたしだけが喋らないのは悪い気がするから、あたしも何か話すよ」
 そこでようやく、あたしは少女に、自分も昨夜から記憶が一部抜け落ちていることを告げた。少女は「アンタも!?」と驚いていたが、その後笑って言った。
「ああ、でも…らしい気がする。もしかしたらあたし、アンタも同じ状況にあるって、無意識に見抜いていたのかもね。だからついてきちゃったのかも」
「そ、それは無いんじゃ…」
「じゃ、アンタは不思議とは思わないの? こんなに“偶然”、似ている相手が出会って、しかも同じ状況で、…出来過ぎてるって、あたしは思うよ。なんだか、会うべくして会ったみたい」
「確かにそうだけど…」
 苦笑いしながら、否定できないことに気付いた。心のどこかでは、あたしも何かがおかしいと感じているのかもしれない。
 そうやって会話をしながら、あたしはふと村を囲む大きい怪物のような、青々とした森を見た。
「…あ」
 突如、一昨日の記憶が蘇ってきた。
「どうしたの?」
「…ここでのこと、ちょっとだけ思い出した」
 ここに来て二日目に、何が原因かまでは思い出せないが、自殺をしようとしたことを話した。どうしてかその時のあたしは深く絶望していて、頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。けれどなんとか立ち直り、今こうしてあなたと話せているんだと、あたしは言った。立ち直るときに佳奈が最期の手紙で「私は遥のことを恨んでいない」と記していたことを思い出して、それが生きる原動力に繋がったことも話した。
「アンタの友達は凄いね」
「あたしもそう思うよ。佳奈は…あたしが裏切ったこと、全然恨んでなかった。小さい頃みたいに、そんなときもあるって、手紙で許してくれた。…それの真偽も、死んだ理由も、…もう分からないけど、少なくとも、あたしはあの言葉に嘘は無かったって思うよ」
「ふぅん」
 少女は興味があるような無いような表情で相槌を打った。その直後に、腕に水滴が落ちてきた気がした。見ると、右腕にポツリと雫が当たった跡に気付いた。無意識に空を仰ぐ。薄暗い曇天。今にも落ちてきそうな鈍色だった。
「不思議だなぁ。ここらの上空以外は全部、晴天なのに…」
 ふと呟いた。その声に反応した少女はあたしを見て、それから視線を追って空を見上げた。黒く日焼けした肌は、この曖昧な色の風景には似合わないな、となんとなく思った。
「本当だ。ここだけ傘を差したみたい」
「差したら濡れる傘って、需要あるのかな…」
「あるんじゃない? 農作物とか育てる人は、天候とか結構気にするでしょ」
「あー…日照りのときに、逆さのてるてる坊主を吊るす的な?」
「そうそう。雨を降らしたいときに降らせる、降らせたくないときには降らせない。そんな降水量の調整が出来れば、農家にとってはすっごいありがたい話だと思わない?」
「…まぁ、確かに」
 そんなおかしな話をしていると、どこかで雷が鳴った。光は感じなかったから、まだ遠い場所…もしくは雲の中で発生したのかもしれない。
「木の近くにいると危ないんだっけ?」
「あぜ道みたいな高いものが無いところもだよ。さっさとここを離れよう」
 少女はあたしの手を取ると、突然走り出した。上半身だけが持っていかれて転ばないように、あたしも走り出した。追い風が吹いているからか、少しだけ早く走れているような気がした。
「どこに行くの?」
「分かんない。とりあえず雨宿りできるところを探そう。そこなら雷が落ちても安心だと思うから」
 それから二人とも無言で走った。聞こえてくるのは、互いの荒い息遣いと、風の音、木々の囁き、時折轟く雷の音。当たる空気は随分と冷たくなっていて、少し肌寒かった。こんなに風が吹くんじゃ、傘を持っていてもあまり意味が無かったかな。
 雨が降り出す。最初はまばらだったが、段々と強くなり、最終的には滝のようになる。言わずもがな、あたし達は一瞬でびしょ濡れになった。走っていると、体中が熱を帯びてきて、全身を伝う雫が雨粒か汗か分からなくなった。多分雨粒だ。…雨粒だと思う。
 なんとなくで、空を見上げる。その途端に雨が目に入って前が見えづらくなったので、すぐにやめた。考えればそうなることぐらいすぐ分かる筈なのに、何を血迷ったんだろうか。
 しばらく走って、それから、結局あたし達は歩くことにした。疲れた、ということもあるが、なんだか面倒くさくなった、諦めたくなった、というのもまた事実ではある。
 あたしは、再び少女と肩を並べて歩き出した。雨音に負けない大きな声で、少女は話しかける。
「すっごい雨! これがただの通り雨って信じられる?」
「んー…ちょっと無理かな…」
「だよね! でも今から2、3分経ったら、止んじゃうんだよ! いっつもそう! いきなりどばって降って、いきなり何事も無かったように晴れる。まるでおっきなバケツをひっくり返されたみたい!」
「うん、そうだね」
 どうしてそんな現象が起こるのか、原理は分かる。教科書に載っていたから。でも、相手もあたしと同じ年ぐらいだし、そっちも分かっているみたいなので、説明はしなかった。それに、今そんなことを話したって、だから何だ、となるだけだろう。絶対に気まずい。
 少し経って、段々と雨が弱くなってくる。あ、止んできたなと思った頃には、大きな入道雲は既に去ってしまっていた。二人で顔を見合わせて笑う。
「あなたの言う通り、すぐに止んだね」
「でしょ? ここの夏は、こんな日がよくあるんだよ…って、アンタびしょ濡れだね!」
「そっちもだよ」
「前髪ぴったり張り付いちゃってる。アンタの髪って、短いと思ってたけど、案外長いんだね」
「いつもはピンで留めてるんだけど、こっちに来るときに忘れた」
「おっちょこちょい!」
 何気ない会話で笑い合う。なんだか久しぶりだな、なんて考えていた。佳奈が死んで、自分で掛けた呪いに怯えていたちょっと前までの自分が、まるで嘘みたいだ。
「あたし達、完全に濡れ鼠だけど…どうするの?」
「うーん…もう帰ろっか。このままじゃ、風邪引くこと間違いなしだよ」
「…そっか」
 自分で訊いたくせに、とてつもない寂しさに襲われる。それは、一度別れればもう会えないという直感からのものかもしれないし、単純に罪を分かち合った友と離れるのが嫌なだけかもしれない。だが、どっちにしろ、あたしがこの少女ともっと居たいと感じていることに変わりはなかった。
「なんか…不思議だな」
 ふと、少女が呟いた。
「何が?」
「…いや、何でもない。ただのひとり言だよ」
 そう言って、少女はそっぽを向く。もしかしたら、あたしと同じ心境にでもなったのかもしれない。
「ほら、行こう。もう3時頃だから、これからは冷えてく一方だと思うよ」
「うん」
 それ以来、あたし達は何の話もしないで、少しくねくねした蛇のような小道を歩いた。あぜ道はとっくに抜けていたが、泥水の匂いはまだ鼻の奥に染み付いていた。

 二人で下を向いて、ぬかるみに気を付けながら前を進む。びしょびしょの靴はもう気にならなくなってきたけど、明日外に出るときはどうしよう。花火を見るときは流石に外に出ようと考えているから、あたしの唯一の履物であるこの靴が使えないのは困る。
 斜めってきた日差しは針みたいに鋭くなってきた。蒸発した水があたし達を茹でるように揺れているし、全然冷えていく一方では無いなと思った。むしろ逆…あたし達は今、地球に調理されてでもいるのかもしれない。とにかく、差してくる斜陽や水蒸気が、あたしの肌には痛かった。
「そろそろ旅館だよね…」
「うん」
 雨の後の攻撃的な自然現象の所為で、だいぶ疲弊していたあたし達は、力の無い声で短く言葉を交わす。今朝歩いた道が、なんだか懐かしい気がした。
「今日は、ありがとね。あたしのワガママに付き合ってくれて」
「ううん。あたしも、楽しかった。ありがとう」
 遊んだ後の子供みたいな表情で、少女もあたしも礼を言う。知り合ったきっかけがどうであれ、あたし達は大切な仲間だった。
「…それじゃ、あたしも帰ろうかな。じゃあね」
「うん。バイバイ」
 軽く手を振って、少女は踵を返した。あたしはその姿をじっと見ていた。彼女の姿が見えなくなるまで、ずっと…。

 ――またね!

 …誰かの、懐かしい声を思い出した。少女の姿が、その“懐かしい思い出”と重なって見えて、思わず叫んだ。
「…また、いつか!」
 それから見ていられなくて、回れ右をすると走って旅館まで向かった。
 少女は振り返っただろうか。あたしに何と返しただろうか。手を振っていただろうか。何も分からなかったけれど、それでいいと思った。全てを見届けていれば、その場で泣きじゃくってしまいそうだったから。
 だからあたしは、振り返らずに旅館まで走り続けた。

 中に入ると、最初に職員さんに驚かれ、すぐさまタオルを渡された。それを使って少しでも水気を吸い取り、それから風呂場に直行させられた。着替えは母が持ってきてくれるとのことだ。
 しっかりシャンプーで顔を洗い、石鹸で体中の汚れを落とし、それから湯船につかった。家では、いつもシャワーだけだったので、あたしにとってお湯につかることはとても新鮮だった。
「また困らせちゃったな…」
 ボソッと呟いた声が、誰も居ない浴室に木霊する。それは、小さく芽生えた罪悪感を更に大きくした。誰かに謝りたい気分だ。
 深く長いため息を吐く。暗い気分を体内から全て捨て去るように、体中の酸素を出し切るように、深く深く息を吐く。駄目だ、こんな自己否定ばかりじゃいけない。もう少し自信をもって、気楽に生きるんだ。そうしないと、先日みたいに潰れそうになってしまう。少なくとも、あの絶望感は二度とごめんだ。あんなに恐ろしいのなら、叱られた方がよっぽどマシだ。
 胸の奥が冷たくなっていくような錯覚に囚われかけ、そう思い直す。
 そうだ。今は叱られたって、困らせたって良いんだ。あたしだってまだ子供。あの職員さんも、「あなたはもっと、迷惑を掛けるべき」だと言ってくれた。だから、ちょっと自分を肯定してみよう。
 何度も深呼吸する。
 きっとあたしは、簡単に絶望しすぎなんだ。「絶望」というものは、全てを諦めて、背負ったものを捨てることが出来る…恐ろしくも、案外心地が良いもの。一度それを知ってしまったら、麻薬や煙草みたいにとても魅力的に意識されるようになるのだろう。でも、それじゃ駄目なんだ。前を向くなら、“絶望”なんかより“希望”を見据える方が、きっと良い。だからあたしは、絶望しちゃいけない…いや、絶望したくないんだ。
「大丈夫…あたしは大丈夫」
 気持ちを和らげるために、小さく唱える。そうすれば、本当に自分が大丈夫でいられるような気がして。そんなに効果は無かったけど、言霊というものがあるくらいだから、声に出し続けていれば、それが実現したりしないだろうか。そんな期待も、少しはしてもいいだろう。
 そのうち、気分も良くなってきたので、風呂から出ることにした。言われた通り、着替えは母が持ってきたのか、既に用意されていた。バスタオルで体を拭いた後、服を着て部屋に戻った。
 廊下の窓から覗く外はもう日が沈み、辺りは薄暗くなっていた。鈴虫の声が聞こえて、かと思ったらコウモリのキィキィという声にかき消された。夜が来るのは早いな、なんて思った。
 部屋では母が待っていた。母は、あたしを見ると「熱っぽいとか、体調が悪いとかは無い?」と尋ねた。
「ううん、大丈夫」
 答えながら俯く。
「心配かけてごめんなさい」
「いいのよ、遥が無事なら」
 母はそう言って笑った。
「夕食にはまだ早いから、少しお話をして時間を潰しましょう」
「うん、いいよ」
 あたしは、近くにあった座布団の上にあぐらをかいて座った。話すなら、相手と同じ目線になった方がこちらとしても話しやすい。
「今日はどこに行っていたの?」
「昨日と同じところかな。公園に行って…昨日の弁当屋に行ってきた。あ、そういえばそこで、お母さんが前に見せてくれたキーホルダー、店の人から渡されたんだった」
 ふと思い出してポケットをまさぐろうとする。が、濡れた服の方に入れていたことを思い出して、動きを止めた。それを見て、母がフフッと笑う。
「職員さんが遥の今日の服と靴、洗ってくれるらしいわ。でも、その前にポケットの中身を出さないといけないらしいから、実はもうお母さんに戻って来てるのよ。…でも、どうしてその店にあったのかしら。鞄の奥底に沈んでいたような気がするんだけど…」
「多分、財布と一緒に引っ張り出しちゃったんじゃない? そのまま気付かずに落としてっちゃったのかも」
 あたしが答えると、母は「そうかもね」と苦笑した。自分のおっちょこちょい具合に、自分で呆れてしまったのかもしれない。その遺伝子を受け継いだか、あたしもよくドジをする。小さな段差に気付かずコケることもしょっちゅうで、佳奈には「遥ってほら、よくボーっとしてるから!」と笑われた。確かにあたしは空想しながら歩くこともあるので、ボーっとしている、というのは否定できなかった。
「あと、遥の服のポケットからこんなのも出てきたらしいんだけど、見覚えある?」
 母は、キーホルダーの他に、一つの石を手渡した。
 …星型の、例の石だ。
「お星様の石」
 ふと、頭の中に浮かんだ言葉を口にする。意識していないうちに一度、言ったことがあるのか、その言葉は驚く程口に馴染んだ。
「お星様の、石?」
 母が首をかしげながらオウム返しにする。そりゃあそうだろう、この言葉はあたしの記憶にすら残っていないから、母からすると初耳も同然だ。
「えっと…星型に、見えるから」
 とりあえず、自分がこの石を見て最初に抱いたイメージを、理由にして話した。多分それで名前の由来は当たっているという変な確信があるし、あたしとしてもふと湧いたこの名前には納得していた。だから、そのままで良かったのだ。
「確かにそうね。でも、遥はこの石をどこで拾って来たの? 石って色んなものが宿りやすいって言われているんだから、勝手に持ってきて祟りがあったら怖いじゃない?」
「そういえば、そんな話は聞いたことがあるけど…多分、大丈夫だと思う。拾った場所は覚えてないけど、この石はお守りみたいな感じがするから」
 持ってて安心するんだ、とあたしは言った。そう? と母は困ったように笑った。
「呪われないように気を付けてね」
「気を付けようが無い」
「それもそっか。呪いだもの、目に見えないと分からないわよね」
「うん」
 真面目な顔で頷いたら、母がクスリと笑った。何かがおかしかったのかもしれないけど、面倒くさいので何も聞かなかった。…そういえば、佳奈に「遥は変なことを信じてるよね」と笑われたことがある。母も、同じことを思ったのだろうか。
 その他にも色々なことを話した。あたしが小さい頃の佳奈との思い出話だったり、帰ったらその後はどう過ごそうという予定話だったり、今日出会った気が合う友達の話だったり(お互いの罪のことを打ち明け合ったことは言わなかった)、本当に色々だ。普段ひとり言以外には使わない声帯を、今日はたくさん使ったため、いつの間にか喉が枯れてしまっていた。明日にはガサガサになったこの声も、治っていると良いな。
「遥は変わったね」
 話し疲れて喋らなくなったあたしに、母がそう投げかける。
「そう?」
「ええ。ここに来てからは、随分と明るくというか、前向きになったわ」
「…そんなつもりは、無かったんだけど…」
「そうね。でも、お母さんから見たらそんなふうに感じられるの。“あの日”以来ずっと塞ぎ込んでいた遥が、この場所に来て段々と心を開いていって、素直になって、今こうして話す言葉も、一言だけの方が少なくなってきた…お母さんは、それが嬉しいの」
「…」
 言われてみて、この場所でのことを思い返してみる。
 佳奈が自殺してから、自分を責め続けていたあたしは、いつの間にか人との関わりを、極力避けるようになっていた。でも確かに、旅館に来てから何かが変わった。絶望に身を任せ、死を選ぼうとしたこともあったが、不思議と最終的には前向きに考えられるようになった。あたしはこのままでいい、まだ生きて良いんだと自分を肯定する場面が増えた。それが何によるのかは知らない。このまま、知らなくていいのだろう。だって、“彼女”がそう言ってくれたから――

 ――遥ちゃんは、知らなくていいの。全部、全部、忘れてしまえば…――

 …ズキリ、と心臓が痛んだ気がした。あれ? あたしはなんで、そんなことを思っているんだろう。そもそも、“彼女”って誰だ? 今頭に浮かんだ文章は何? あの声は誰のもの?
 今朝感じた喪失感が、再び胸の内に蘇ってきた。そして、これをそのままにしておくのは、何故だかいけない気がした。放置していたら、それこそ恐ろしいことが起こりそうで。
「…遥?」
 下を向いて黙り込んでしまったあたしを心配して、母が声を掛ける。
「あ、大丈夫。…うん、ちょっと、そうだったかなって、思い返してただけ」
 出来るだけ滑らかに答えた。そうすれば、自然な受け答えになると思ったのだ。
「そう? 遥は不思議な行動が多いわね」
「え…そ、そんなつもりは無かったけど…」
「ふふ。まあ別に、誰かに迷惑を掛けてるわけじゃないから、良いんじゃないかしら。それも遥の個性よ、きっと」
「そう、なのかなぁ…」
 そうやって会話を続けている間にも、先程の言葉が脳裏から剝がれなかった。
 …あたしは、何も知らなくていい? 「全部、忘れてしまえば」と彼女が願ったから、あたしは今、何かを忘れている? だとしたら彼女は、あたしの記憶を奪った悪党その人ということになる。でもどうしてだろう、その声に意図した悪意は無く、むしろ悲痛で、絶望感のこもった…苦しみもがく、自分の声にそっくりだった。
 彼女は、本当に悪人なのか?
 記憶を消されたことで、彼女を悪党呼ばわりなんてしていたけど、それで良いのだろうか。思い出したことにより見えてきた現状。きっとあたしは、彼女を救わなくてはいけない。そうしないと、全てを取り戻せないような気がする。いや、これは言い切っても良い。彼女を救わないと、全てを取り戻せないのだ。
 ――遥ちゃんは、知らなくていいの。
 違う。違うよ。あたしは知るべきなんだ。あなた一人で背負ってしまうなんて駄目なんだ。あたしが佳奈を見殺しにした罪を背負ったときのように、きっとあなたも潰れてしまうよ。
 ――全部、全部、忘れてしまえば…。
 そんなことしなくていい。記憶を奪ったって、相手はその喪失感に苦しむだけだから。善意だとしても、それは間違ってる。
 だから、決めたよ。
 あたしは絶対に、記憶を取り戻す。そして元通りにするんだ。あなたが歪めてしまった運命を。あなた自身を。
 歪んだままではいずれ綻びが生まれてしまうから。そうやって完全に壊れて再起不能になるぐらいなら、まだ修理できる今の時点で、修理してやりたい。
 あたしは、あなたを救うんだ。
 義務感のようなものを糧として、気力が膨れ上がってくる。それを放すまいとするように、あたしは星型の石をギュッときつく握りしめた。
「…さて、そろそろ夕飯ね。遥、行こうか」
「うん」
 頷いて、あたしは母と共に食堂へ向かったのだった。

「ごちそうさま。あたし、少し散歩してくるね」
「屋敷内だけにしときなさいね?」
「うん」
 夕食を終えたあたしは、早々と席を立つと、何か情報を集めるため色んな場所を探索してみることにした。
 記憶を取り戻す。“彼女”を救う。そう決めたはいいものの、具体的には何をすればいいのか分からなかったので、とりあえずウロウロしておこう、というのが本音だ。まず何かを知ろうにも、“彼女”がそもそもどこにいる存在なのかも分からないので、この館の探索に意味があるのかは全くの謎だけど。それでも何か行動に移さないと駄目だと思うのだ。
「…本当に、あたしに出来るかなぁ…」
 弱音を漏らす。まだちゃんと状況を掴めていない、何の手掛かりも無い。そんな最悪な条件なのに、あたしは全てを取り戻せるのか? そう、段々と不安になってくる。
「ああもう、簡単に諦めるな、あたし」
 小声でそっと喝を入れる。そうだ、あたしは記憶を取り戻すと決めたんだ。こんな弱気な自分じゃ、見つかるものも見つからなくなるだろう。
 そうやって、何度も弱気になって自分を奮い立たせてを繰り返しているうちに、霞さんの書斎だという部屋の扉の前にやってきた。
「…霞さんに、聞いてみようかな…」
 この屋敷についての話は、この屋敷の持ち主から聞くに限る。それが一番手っ取り早いし、重要な情報を得られるだろう。ただ心配すべきなのは、もしそれが霞さんの隠したいような秘密だったら、ということだ。その場合、霞さんは何も話してくれないだろうし、嘘を吐いて混乱させられる可能性もある。でも、それは無いだろうと思った。だって霞さんはあたしの母の知り合いらしいから、母の子供であるあたしになら警戒せず話してくれると考えたのだ。それに、悪いことをしている訳でも無いから。あたしは単に、記憶を取り戻したいだけ。
「…よし、それじゃあ…」
 頭の中でシナリオを考え、それからノックする。あたしは、返事が来るのを待った。「誰ですか?」だったり、「何か御用ですか?」だったり、入るのを受け入れてくれる回答を期待した。
 …しかし、もう一度ノックをしても、中からの反応は無い。
「あの、霞さんいますか?」
 仕方なく、自分から声を掛けてみたが、やっぱり無反応だった。
「誰も居ないのかな。…開けますよー?」
 とりあえず、声を掛けてから扉を開ける。
 パッと目に入ったのは、中央にある大きな机と椅子、それからその左側にある小さな本棚だった。他には何も無い、と言い切れるくらいに殺風景な部屋だった。そしてやはり、誰も居なかった。
 どこに行ったのだろうか、と部屋を覗きながら考えていると、突然背後から声を掛けられた。
「今、霞さんは仕事で忙しいみたいだから、しばらく戻って来ないわよ」
 振り返ると、見覚えのある女性の職員さんが立っていた。…けど、「見覚えがある」というだけで、この人をどこで見たのか、あたしは覚えていなかった。これも、あたしが失った記憶の一つなのだろうか。
「…えっと、じゃあもう戻ります。また明日来ます」
「あら、霞さんに用だったの?」
「はい」
 それだけ話して踵を返そうとすると、職員さんが「ちょっと待って」と呼び止めた。
「えっと…何ですか?」
「さっき廊下でこの紙切れを拾ったんだけど、これ、あなたの?」
 女性は、あたしに一枚の折り畳まれた紙を見せた。開くと、「ずっとだいすきだよ おぼろより」という子供っぽい字に、小さい子が描くような二人の人っぽい絵が目に映った。一人は小さいので、この手紙を書いた本人のことだろうと推測できる。もう一人は大きいので、女の子のお母さんかその他の大切な人なのだろう。
 …そして、「おぼろ」という名にどこか引っ掛かるものを覚えた。
 おぼろ…おぼろ…それは誰の名前だっけ? 思い出せないけど、この名前の持ち主こそ、あたしがずっと求めていた、とても大切で大好きな誰か…だったような…。
「どうしたの? …あ、もしかしてこれ、本当にあなたの!?」
 職員さんが驚いたような声を出す。
「あ…い、いや、違います…」
「あら、そう…私の早とちりだったみたいね」
「いえ、こちらこそ、勘違いさせるような反応をして、…すみません」
 何だか申し訳なくなって、謝ってしまう。職員さんが慌てて首を振った。
「あなたが謝る必要は無いわよ。それに、そんなに重要なものでもないし、別に気にしなくても良いわ」
「…はい」
「にしても不思議ねぇ…。あなたを見たら、この紙を絶対にあなたに見せなきゃいけないような気がしてね。そうだ、あなた昨日のこと覚えてる? 私はこれまでのこと、色々と覚えてなくて。でも、他の人の話を聞いていると、うちの職員みんな、昨日のことしか忘れていないみたいなのよ」
 少し驚いた。あたしと今日出会った少女以外にも、記憶を失った人がいたなんて、想像もしていなかったからだ。
「あ、あたしも…です。昨日のことと…あと、小さい頃の記憶とかが、ちょっとだけ欠けてるんです。特定の思い出だけ抜け出して、辻褄が合うように覚えてしまった、みたいな、…そんな感じ、ですっ」
 思わず、勢いのまま喋ってしまう。それでも、職員さんは同意するように頷いていたので、多分同じような感じだったのだろう。
「そうなのよ。私も、大事な何かを忘れてしまったみたいで…私以外にも、同じ人がいたのね」
「記憶は昨日無くなった、と思います。それだけは、どうしてか覚えてるんです」
「そうね、私も昨日忘れたことだけは、第六感みたいなもので分かってはいたわ。…でも、どうして忘れてしまったのかは分からないのよ」
 職員さんはそう言うと、「あなたは分かる?」と尋ねた。
「知らないです」
「そうね、やっぱりそうよね。なんとなく、あなたは知らないような気がしたの。…ああ、別に分からないことを責めているわけじゃないから、落ち込まないでね。私が気になっただけよ」
「…はい」
 あたしの顔色を読んでか、謝る前にフォローされた。あたしはそんなに分かりやすいだろうか、と少し思った。あんまりそんなことを言われたことが無いから、気付かなかったけど。
「そうだ、霞さんなら分かるかしら。思い立ったら動かなきゃね! さっきから突然で悪いけど、私、もう行くわね。それじゃ」
「あ、はい…」
 そうして一人納得して、職員さんは行ってしまった。なんというか、嵐みたいな人だったな。
 …それにしても、「おぼろ」か…。
 どうしてこの名前が、こんなに心をモヤモヤさせるのだろう。知らない名前と認識すると、激しい違和感を覚えるのだ。まるで、あたしが実は「おぼろ」という名を最初から知っていたみたいに…。
 いや、本当に知っていたのかもしれない。あたしが失った記憶のどこかに、彼女の存在があって…
「…“彼女”?」
 そういえば、あたしは無意識に「おぼろ」を女の子だと決めつけていた。本当に無意識だったけど、改めて考えてみたら不思議だ。だって、「おぼろ」という名前は珍しいし、男の子の方にもこの名前を付けることだって可能だ。それなのにあたしは、先程の手紙を見る前から「おぼろ」を女の子だと思っているのだ。
 …やっぱりあたしは、彼女を…「おぼろ」を知っている…?
「どこで知ったんだろう」
 そもそも、いつ知ったんだろう。それは昔のことのような気もしたが、最近のことのような気もして、少し気持ち悪い。まあ、記憶を失った時点で、気持ち悪さはあったのだが、それでもこのモヤモヤとした感じは別の気持ち悪さがあった。そう、それはなんだか、ユラユラと揺れる幽霊が、近付いて来たり遠のいていったりする気味悪さのような…じわじわと襲ってくる怖さのような…表現はたくさんあるが、要はとても不気味だった。
 寒くはないが、体をぶるりと震わせる。体中を凍えてしまいそうな冷気が駆け巡っていったような気がしたのだ。そしてそれは、あたしをすり抜けて背後へと流れていく。
 後ろに誰か居そうで、ばっと振り返った。誰も居なかった。やっぱり気のせいだったみたいだ。
 そう安心したのも束の間、ふと物音がしたような気がした。…誰? そっちを見ても、何も居ない。誰かのすすり泣く声も聞いた気がしたが、やはり何も居ない。そうやってキョロキョロと辺りを見回しているうちに怖くなって、目を覆いたくなった。
 …幽霊? あたしに悪戯をしているの? ただの気のせい? ひとりぼっちの薄暗い廊下の中で、幽霊のことなんか考えてしまったから。
「…大丈夫。だいじょうぶ。…うん、今日はもうこれくらいにして、部屋に戻ろう」
 気を紛らわすために声に出して言う。でも、その間も自分の背後や物陰やドアの隙間など、余計なところに目が行って、結局は落ち着かなかった。…ああ、背後を振り向いたら、誰か居るんじゃないか、とか、ドアの隙間から今に目が覗くんじゃないか、とか。とにかくびくびくしていた。
「大丈夫、怖くない。怖くない…」
 怖くないぞと自分に言い聞かせて、ギシギシと音の鳴る廊下を歩く。すぐ近くにある筈の自室が、数万光年も遠く感じられた。

「ただいま」
「おかえり遥…って、顔真っ青じゃない! どうしたの?」
 部屋に戻ると母があたしの顔を見て言った。あたしは「何でもない」と答えて、窓を開けに行った。それっきり話さなかった。中学生にもなって「暗い廊下が怖くなった」なんて馬鹿らしいし、まして「幽霊に出会った」なんていくら母でも信じてくれない。だから多分、さっきのことは口をつぐんでいた方が良いのだ。
 そんな急に無口になった自分の娘を、母は心配したようだった。
「どうしたの、遥。大丈夫? お母さん、話聞いてあげようか?」
「…」
 黙って窓の外を見る。空気は少しひんやりしていて、紺色のヴェールがかかったような空にぽっかり浮かんだ月は、いつもより攻撃的に映った。相変わらず虫の音が聞こえる。心なしか、昨日よりもうるさかった。
「ねえ、お母さん悪いことした? もしそうだったら言って? 直せることだったら直すから」
「…お母さんのせいじゃない」
 それだけ言って、再び口を閉ざす。
 母はあたしが登校を拒否するようになって以来、よく自分を責めるようになった。自分の教育が駄目だったから遥かは引き籠ったのかとか、どこかで遥を傷つけてしまってはいないかとか、色々と…そう、本当にあたしよりも色々と悩んだ。だからあたしは、いつか母までもが自殺してしまうんじゃないかと怖くなり、一時期は学校に行こうと頑張っていた。だが、校舎への道のりが、教室への道のりが、異様に長く感じて、足も震えて、瞼の裏で赤い光景がチラついて、…何度挑戦してみても同じだった。教室に人は居ない、と明確に分かるときじゃないと、頭が真っ白になった。結局、学校へ行くことは諦めた。母の、自分で自分の首を絞める癖は治らなかった。
 そして、今の母もまた、自分を責めていた。だから、少しでもその気持ちを慰めてやらなければならない。相手の意思がどうであれ、きっかけを作ったのは他でもないあたしだから。
「…ねえお母さん、星がすっごく綺麗だよ。見て」
 さっきの廊下よりも暗い顔をしている母に、外を指さして言う。こういうときは、気分転換でもさせてあげよう。それが、迷惑を掛け続けたあたしの唯一の親孝行だと思うから。
「それに、家よりもずっと静か。なんだか落ち着くね」
 窓枠に手を掛けて夜の森を見る。風の音、夜の蝉に紛れて鳴く虫の音、遠くの森がわさわさと響かせる音…ここからなら、どんな音も聞き取れそう。
 目を閉じて、耳を澄ませる。隣で、母も同じように目を閉じたような気配がした。
「…そうね、静かだわ。ここ、車の音がしないのね」
「うん。流石田舎って感じがするよね」
「お母さん達の家は、いつでも車の音が絶えなかったものね。…遥の言う通り、なんだか落ち着くわ」
「でしょ?」
 母がフフッっと笑った。多分、もう表情に影は差していないのだろう。見なくても分かる。だって、さっきよりも空気が張り詰めてはいないから。どうやら、うまく母の心を慰めることが出来たようだ。
「…そろそろ寝よっか?」
「うん」
 窓に背を向けて、敷布団の準備をしに行く。
 …そのとき、ひと際強く、風が吹いた。
 外の雨と月で冷やされた空気が室内に入り込み、窓をがたがたと揺らし、生け花の花弁をちぎって、そしてあたし達へと辿り着き、…――

 ――遥ちゃん、もういいんだよ――

 ――…あたしの頬を優しく撫で、通り過ぎて行った。それはとても冷たくて、一瞬だけ体中の血管が凍り付いてしまったような、そんな気持ちにさせる風だった。
 どうしてか、この感覚に激しい感情が刺激されて、勢いよく振り返る。窓は大きく開け放されて、その向こうには黒々とした木々が見えるだけ。一体何が原因だったのかは分からない。ただ、頭の中では「ずっとだいすきだよ おぼろより」という、あの小さな手紙の内容が、いつまでもグルグルと渦巻いている。くどいほどに「だいすき」「おぼろ」を繰り返して、少しだけ混乱した。何だろう、一体。あたしはどうして今、この拙い文章を思い出したんだ。花が散ってしまったなとか、ものすごく冷たい風だったなとか、他にも考えることはあった筈なのに、どうして。
「…遥?」
「大丈夫。ほら、用意できたしもう寝よう」
 困惑、驚き、懐かしさ、安心…様々な感情があたしの中を走り回っているのに、どうしても不安や恐怖は見つからなかった。
 …あたしは、怖くない。
 思い込みからではなく、本心からの言葉。こんな不可思議なことが起こっているのに、なんだか変だった。気持ちは段々と安定していくのだから。
 自分達で敷いた布団に寝転がって、目を閉じる。
「おやすみ、遥」
「おやすみ」
 今なら、ぐっすりと眠れそうだ。

 どんどん、意識が遠ざかっていく。

 あたしは今、誰かに守られて夢の中へ沈んでいる。
 だから、安心できるのだ。
 ぼんやりと、そう思った。

探していたお話

 相変わらずうるさい蝉の音に、あたしの意識は覚醒させられた。昨日の夜と打って変わって蒸し暑く、服の下ではじっとりと汗が滲み出ている。地面と接していた部分が濡れていて、起き上がった瞬間に、そこだけ涼しく感じた。敷布団もちょっぴり湿っているように感じて、干さないとなと思いながら窓の外を見る。空は思ったよりも薄暗かった。多分、雨が降るのだろう。今日は祭りがあった筈だけど、満月が見えなくても予定通り開催されるんだろうか。
 隣ではまだ母が眠っている。昨日は疲れるようなことがあったのかもしれない。起こしちゃマズいかなと思って、そっとしておくことにした。
 とりあえず、服がそのままなのは気持ち悪いので、着替えようと立ち上がった。…ふと、ポケットに少し重みのあるごつごつとした何かが入っていることに気が付き、何だろうと取り出してみた。
「…お星様の、石」
 急に頭の中が鮮明になって、それと同時にそんな言葉を口にしていた。心臓の音がうるさい。頭をがんがんと叩かれている気がする。それはまるで、殻に籠っていたものが、外へ飛び出そうともがいているような、そんな衝撃。一瞬、熱でも出したのかと額に触れてみたが、熱いと感じたり、また悪寒が体中を駆け巡ったりはしなかった。
 雨のせいで偏頭痛でも引き起こしたのだろうか。でも、おかしいな。これまで一度だって偏頭痛になったことは無かった。そもそも、頭の片方だけ痛い、というような感じではない。それに、…不安と喜びがない交ぜになったようなこの感情は、一体何なんだろう。
 なんだか居ても立ってもいられなくなって、あたしは素早く着替えると部屋を出た。もちろん、石は手放さなかった。いや、“手放せなかった”というのが正しいかもしれない。置いていこうとすると、昨日と同じように得体の知れない不安感に襲われるから。
 勢いで飛び出したは良いものの、行くあても無く屋敷の中をウロウロする。何も得られるものは無かったが、それでも少し安心した。
「お星様の石」
 しばらく経って気持ちが落ち着くと、不意に湧いて出た石の名前をもう一度口に出す。そうすることで、何か起きることを心の奥底で期待していたが、残念ながら何も起こることは無かった。
 ただ、「お星様の石」と呟くと、同じように空気に振動を伝えたくなる言葉が、もう一つ浮かんでいた。これは一回目に言ったときもそうだった。でもどうしてか、この言葉を口にすることは憚られた。理由は分からなかったが、どうしても言いたくはなかった。
「お星様の石」
 また声に出した。急に悲しくなって、それ以降は口をつぐんだ。

 しばらくウロウロしていたら起きてきた母に捕まり、朝食やら歯磨きやら朝の支度を色々とさせられた。話を聞くと、母は10時頃に起きて、あたしが居ないことに気付き30分程度捜し回っていたらしい。ちょっと申し訳なかったが、母が少し嬉しそうな顔をしていたので、まあ良いかという気になってしまった。
「…遥、やっぱり祭りには行かない?」
「うん。花火だけで良い」
「そっか」
「…ごめん。やっぱり行く?」
「ううん。遥が嫌なら行かなくていいわ」
「…分かった」
 今日もあたしは一人で散歩に行くことにした。母からは、今日は祭りが終わるまで外に居ても良いよとの許可が下りた。正直、それは母に心配をかけることになりそうなので、夜までには戻ってこようと思っていた。空模様のせいで雨が降る可能性も捨てきれないから、尚更だ。
「それじゃ、いってきます」
「ええ、いってらっしゃい。気を付けてね」
「うん」
 びしょ濡れになった靴は、昨日あたしが帰ってきた直後に職員さんが、すぐさま脱水にかけて干してくれたので、もうすっかり乾いていた。とてもありがたいことだ。あたしは、そんな素晴らしい人間になれるだろうか。
 屋敷を出て、昨日と同じ道を辿りながら考える。
 ただ漠然と、「将来は小説家に」だなんて考えてきたけれど、そろそろそれを本気で検討してみるべきかもしれない。周りはあたしの作品に対して「いい話だね」と言うけれど、流石にただのお世辞に近い言葉だということも、分かりたくはなかったが薄々気付いていた。もしかしたら、あたしの夢に全く期待していないのかもしれない。
 実際、「小説家」という仕事は想像するよりももっとシビアな世界だ。書いたお話の内容が面白くなければ収入は限りなくゼロに近付くし、現在テレビなどでスポットライトを浴びているのは、面白い話を書ける人の中でも一部だけだ。その中にあたしが入れるかと言ったら、可能性はとても低いだろう。理由は他にもあるが、だからこそ考えなければいけない。あたしは将来、何になるべきかを。有名な小説家なんて言う狭き門よりも…未来がどうなるか分からない職業よりも、公務員や会社員など、安定した未来を築ける職業の方が良いのではないか。
 …夢なんて、もう諦めた方が…。
 そう後ろ向きに考えている自分に気付いて、首を振る。そんな簡単に夢を捨てちゃ駄目だ。あたしの夢は、本業じゃなくたって叶えられるじゃないか。売れなくとも、自分の本が誰か一人に評価されてくれれば、それで十分。副業や趣味で本を出したっていい。幸い、今の時代はネットに“電子書籍”という形で自分の作りたい物語を載せられるんだし。
 …うん、大丈夫。それでいい。
 気が付くと下を向いていた顔を前に向ける。今日は、青と緑のコントラストは見られないが、緑が少し霞んで、最終的に灰と似た色になるのも、そこまで悪くはない。蝉はまばらに鳴いていて、纏わり付く空気がちょっとウザったいが、ひんやりとした風のおかげでそこまで気にならなかった。
 ――遥ちゃんは、知らなくていいの。全部、全部、忘れてしまえば…――
 また誰か知らない人のことを思い出す。顔も何も相手のことを知らないのに、何故か彼女が泣いていることだけ分かっていて、胸が苦しくなった。
「…あたしが、知らなくていいこと。あたしに、忘れてほしかったこと…?」
 初めて思い出したときは反論してばかりいたけど、その言葉の真意は何なんだろう。あたしが知らなくていい、それはつまり、知られたら不都合なことでもあるのか? 忘れてほしいと言っても、何を忘れてほしかったんだろう。考えれば考えるほど疑問が浮かび上がってきて、きりが無い。いきなり脳内を駆け巡ったあの声は、…“彼女”は、何が言いたかったんだろう。
 一人悶々と考えていると、そこから引き剝がそうとでもするように強い風が吹いた。思わず、この場所にはあたしの心を読む力でもあるのだろうかと疑ってしまった。そんな訳無いけれど。
「…昨日と同じ景色」
 ふと気が付くと、昨日も歩いたあぜ道の上に立っている。考え事をしているときの“無意識”はよくあるのでそこまで不思議とも思わないが、でも少し怖くなってしまう。周りが見えなくなって、車道に飛び出したりはしないだろうか。そうでなくても、交通事故などに気付けなくて、巻き込まれたりはしないだろうか。
「馬鹿。心配性の悪い癖だなぁ…」
 余計な不安を連れてきた、未来に起こりうるか分からない考えを笑い飛ばそうとしてみる。あまり効果は無かったけど、それでも幾分かは気分がマシになった。言霊ってのは案外あるものだから、あまり悪い想像を信じてはいけない。自分が不利な状況に追い込まれるだけだ。
 何の気も無しに立ち止まって、新鮮な空気を吸い込んだ。むせそうなほどに濃い草いきれの匂いと、樹液の甘い薫りが鼻腔をくすぐった。これ以上吸えなくなったところで、息を吐き出す。夏の薫りでいっぱいになった肺が、ぎゅっと縮んだ感覚がした。息を吸い込み過ぎたときは、別の意味で咳き込みそうになる。なんとか抑えたが、心はとても穏やかだった。喉が少しひんやりしていて、なんだかすっきりした気がする。多分、これが深呼吸というものの力だ。
 いつの間にか、あたしの頬は熱くなっていた。口元に手を当てると両端が少し上がっていて、自分が笑っていることに気が付いた。「あはは」と声を出すと、本当に腹の底から笑っているような感じがした。…いや、実際そうなのだろう。綺麗に並んだ緑を蓄える田んぼを見ていると、気分が高揚して、楽しさを覚えるのだ。こんなことは初めてだったが、嫌な感じはしなかった。ずっとそのままでいたいと思った。あたしは今、幸せ…そう、とっても幸せだから。
「…綺麗、だなぁ」
 目の前の田んぼと、ぽつぽつと建っている家。それ以外には何も無いけど、そう思う。もしかしたら、灰色に光る空のせいかもしれない。それか、真夏の暑い空気に頭がやられただけなのかもしれない。まあ、理由はどうであれ、そこまで深く考える気は起らなかった。綺麗なものは、綺麗なままでいい。そこに理由なんていらないのだ。
「…今日はもう、いいか」
 あたしなりの絶景を目に焼き付けたことで、進みたいという意欲が大人しくなる。今日はもう満足してしまったのだ。こういう感覚はたまにあって、別に散歩は強制ではないので、そういうときは自分の心の赴くままに動く。つまり、帰りたいと思ったら帰るのだ。
 それに従って、今日はもう旅館に戻ることにした。
 蝉の声は、かなり小さくなっていた。

「おかえり、遥。今日は早いわね?」
「うん。なんかもう、満足しちゃった」
「そう。楽しかったのならいいわ」
 帰って来て母と少しだけ言葉を交わすと、自分達の部屋に戻る。母は用事があると言って霞さんの部屋へ行ってしまったので、今はあたし以外に誰も居ない。これといってやりたいことも無かったから、窓を開けてしばらくボーッとしておくことにした。
 この時間のこの部屋では、何も動かない。この時だけは、あたしも和室の風景に溶け込んで、だから本当に誰も居ない空間が出来上がるのだ。あたしはこの部屋の一部。それ以上でも以下でもない。蝉の声も届かなくなったこの場所で、ただ存在し、生き続ける。誰がどう思おうが、あたしはここに居る。ぼんやりと、そんなことを考えた。
 窓から生暖かい風が吹く。室内の気温は上がってしまったような気がするが、風に当たっている間は涼しいと感じた。不意に汗が頬を伝って涙のような跡を残した。今は全く悲しくないのに。
 目を閉じると気分が良くなったので、でたらめに鼻歌を歌った。
 初めて口ずさんだ筈なのに、それはどこか聞き覚えのある…どうしてだろう?

 木々が揺れる。
 花たちも揺れる。
 揺蕩うように、滑らかに、穏やかに。

 …そうだ、きっとあたしは海の中心に、立っている。
 揺れる彼らは逞しい魚だ。
 そして、赤や黄色、青や白と…とってもカラフルで…
 そんな彼らが、声を一つに、歌って――

 ――歌っているのは、あたしだっただろうか?

 鈴を転がしたような、甲高くて大好きなあの声を聞いた気がした。
 とても美しい音色をしていた。


 再び頬を雫が伝う。今度こそ、目の下は濡れているだろう。
 風が吹くと、濡れた部分は冷たく感じて、気持ちよかった。
 静かに目を開ける。さっきと同じような景色が広がっていた。ただ、さっきとは違って、この世界が色とりどりに輝いているように見えた。木の花も蝶も…風ですらも、全て。それはとても眩しくて、とても綺麗な世界だった。あたしは、こんな綺麗な世界で生きているのだ。
 先程口ずさんだあの曲が、未だに頭の中で繰り返し流れている。少しだけ、思い出した。この曲は絶対にどこかで聞いたことがあるのだ。あたしは、この曲を遠い昔から知っているのだ、と。近い過去でも聞いた、あたしが忘れてしまったあの子の…唯一の歌。生きていることへの讃美歌。
「…“思い出の手招き”…」
 ふと込み上げた言葉を吐き出す。あたしが名付けたんだ。あたしが、…あたしだけが、知っているんだ。あたししか知らない、曲名。頭の中で鳴り響く美しいハーモニーは、「思い出の手招き」という名前を持つ、正真正銘の音楽だ。それだけは、忘れちゃいけない。忘れちゃいけないんだけど…。
「誰だったっけ?」
 あたしの大好きなこの曲を作ったのは、あたしの記憶を盗んで去ったのは、誰だったっけ? どうしても、それだけが思い出せない。手放してしまったヘリウム風船みたいに、高く遠いところに留まったままでいる。思い出せない。忘れたくないのに。
「行かないでよ…」
 寂しさで詰まりそうになった喉から、辛うじて声を絞り出した。一瞬、息が出来なくなってその場にしゃがみ込む。さっきのが最後の水分だったみたいに、涙はもう出なかった。
 「思い出の手招き」。大丈夫、それは覚えている。今しっかりと思い出したことなんだから。でもまだ、大切なことを忘れている。あたしは、思い出さなきゃならないことがまだ残っている。そう感じる。感じるから、動かなきゃいけないのだ。あたしの知らない“誰か”を救うために。あたしが知っている“誰か”を見つけるために。
 居ても立ってもいられなくて、部屋を飛び出した。ほとんどがただの勢いからだったが、わずかに残る冷静さでそれを止めるつもりは無かった。あたしはまだ子供。知識を追い求める興味の塊だ。
 でも、もちろんただ部屋を飛び出しただけだったから、次の行動を考えることになった。考え無しで飛び込むあたしはなんて馬鹿なんだろうと思ったが、きっと今はそれでいいのだろう。
 …霞さんの部屋に行こう。今度こそ、話を聞かなくちゃ。
 それを思い出し、進む方向に身を翻し、廊下を駆ける。職員さんに見つかって叱られたら、その時はその時だということにしておこう。
 昨日、幽霊がいると怯えた例の場所に来た。けれど、今は明るい時間帯だし、気分も高揚していたので、ぶっちゃけそんなことはどうでもよかった。
 ナニカの気配がしそうで、隙間から目が覗きそうなドアがあって、…でも、それだけだ。怖くない。今は、本当に怖くない。気持ちが高ぶっているときは、負の感情なんて薄れてしまうものだ。だからむしろ、ワクワクとしてくる。
 幽霊の廊下を横切って、霞さんの部屋に辿り着く。あたしは、無意識にグッと拳を握り締めた。
 ノックをしよう。そうして返事をして入っても良いよと言われたら扉を開けて、…まずは何を話そう。あたしの知らないことをどう伝えよう。どうやって話を切り出そう。そういえばの話、こういったことについて全く考えていなかった。あたし達の部屋からここに着くまでの間、考える時間はたくさんあった筈なのに、ただただ「思い出したい」と念じたり、「怖くない」と笑ったり、あたしは本当に頭が悪いなぁ、なんて思った。
 …ええい、もうどうにでもなれ。
 考えるのをやめて、とりあえず霞さんを呼ぼうと拳を胸の位置に持って来たところで、扉の向こうから話し声がすることに気付いた。二人いる。一人は霞さん、もう一人は…母だ。それが分かった瞬間、あたしは無意識に息を潜め、耳を澄ましていた。何を話しているのか気になったのもあるが、今はドアを開けてはいけないような気がした。
「それで、隠蔽したの?」
 母の声が聞こえた。いつになく堅い声だった。
「はい。日宮さんが、血でも調べられたら俺の仕事に支障が出る、階段から足を踏み外したということにしておけ、と…」
 今度は霞さんの声だ。その声はひどく震えていて、まるで怒りを抑えている、もしくは涙を堪えているようだった。霞さんはその後、小さな声で何かを呟いたようだったが、あたしの耳には届かなかった。何か喋ったな、ぐらいだ。
「私は、あの子を…自分の娘として、愛していました…それは今でも変わりません。…たとえ罪の証だろうと、ちゃんと育てていくって、決めていたのに…」
 それを裏切ってしまったんです、とまだ震える声で言った。
 霞さんは後悔している。全てを聞いた訳では無いけれど、言葉の端々から届く感情は、それを物語っていた。全く関係無い筈なのに、心臓がギュッと鷲掴みにされたようで苦しくなった。
「霞さんは悪くないわ」
「……ええ、そうかもしれません。ですが、私は私を許せないのです。あの男に指示されていたとはいえ、それを実行すると決めたのは私ですから。…それに、私はまだ、あの男のことを愛しているんです。どれだけ憎くても、殺したいぐらい恨んでいても、結局私は、あの男を嫌いきれないんですよ…。最低ですね」
 霞さんは母の言葉を力無く否定した。
 ――私、いらない子なの?
 再び、誰かが泣いていることを思い出す。あたしは首を振った。ううん、あなたはいらない子じゃない。ちゃんと、愛されていたよ。そんな言葉に、「多分」というような曖昧なものはいらない。これは確信を持って言えることだから。何故かは分からないけど。
 その後も、話は続いた。
「…あの子が逝って、もう半年が経ちますね」
「一周忌の日は、遥を連れて墓参りに来ようかしら」
「きっと何が何だか分かりませんよ。それに、この地域では八月の満月になる夜に、一年で亡くなった人たちの魂が輪廻へと戻っていく、という言い伝えがあるんですよ。だから本当のお別れは今日です」
「あら、じゃあ今夜のお祭りって、その為のもの?」
「ええ、そうです。ちなみに、魂が輪廻に帰るのは、午後7時…丁度、祭りの締めである花火が終わった頃ですね」
「なら、花火はきちんと見なきゃね」
「私も、そうするつもりです」
 こんな話をしている頃には、もう暗い雰囲気は消え去っていた。それでもまだ、ドアは開けられない。せっかく仲良く話している二人の間に、割って入るのは良くない気がした。
 今は何も聞かないでおこう。
 あたしは、そっとその場を離れた。

「結局、何も聞けなかった…」
 書斎から少し離れると、廊下の端の方に移動ししゃがみ込んだ。昨夜からずっと何か行動しようと意気込んでいる割には、まだ何も出来ていない、そんな罪悪感に苛まれる。結局あたしは口だけの人間ということなんだろうか。思い立って動いたは良いものの勇気が無くて、それでやっぱりやめてしまって気力まで失ってしまう。それでいいわけ無いのに。
「…意気地なし。あたしって本当に、意気地なしなんだなぁ…」
 声に出して言ったら、気分が更に沈んでしまった。言わなきゃよかった。そんなふうに落ち込んでいるうち、あたしは自問自答を始めた。
 …でも、そうやってウジウジしているわけにもいかない。ちゃんと前を見て生きるって、あたしが自分で決めたんでしょ?
 そうだけど、でも、やっぱり自信が無いや。あたしに、名前も知らない誰かを救うなんて、本当は無理なじゃないか、そう思ってしまう。
 もちろん、自分が正義のヒーローだなんて思っていない。けど、あたしはその“誰か”を絶対に助けたいんだ。たとえ彼女があたしと関係が無い人物でも、とんでもない極悪人でも。あたしは子供だから、今は感情のままに動きたい。勇気が無いならそのときは諦めて、また勇気が湧いて来たときに動けばいい。そうでしょ? 急ぐ必要なんて無いよ。
「…そうかもね」
 自問自答をしていると、気が紛れて少しだけ落ち着いた。
 …でも、今はどうしてか急がなきゃいけない気がするのも確かだった。妙な胸騒ぎがして、今日中にこの問題は解かなきゃいけないと思った。
『八月の満月になる夜に、一年間で亡くなった人たちの魂が輪廻へと戻っていく…――』
 霞さんが母に話していたことを思い出した。
 …幽霊だなんて、まさか、ね。
 あたしのこの不安が、杞憂で済めばいいんだけど。

 その後も色んな場所をウロウロしていたが、最終的に自分達の部屋に戻って来ていた。それでも気分が抑えられないので、仕方なしに窓の外を眺める。相変わらずキラキラと光って綺麗だが、先程のように色とりどりだとは思えなかった。気分で見える世界は一変するんだな、と何気なしに考えた。
 風が吹き込んでくる。今はそんなに暑くなかったが、皮膚が冷やされて爽やかだった。
 “思い出の手招き”を口ずさんでみる。あたしの声は風に溶け込んでいき、無音になって消化されてしまった。けど、それでいい。この歌は自然から生まれたものだから、帰るべきは生みの親である自然なのだ。
「遥ちゃん、いますか?」
 幸せだな、なんて思っていると霞さんの声がした。あたしは歌うのをやめると「いますよ」と返事をした。それから数秒経って、霞さんが部屋に入ってきた。相変わらず綺麗な顔立ちで、…少し、誰かに似ていると思った。きっと大きくなれていたら、この人みたいな美貌を持つ人物に…って、変だな。「大きくなれていたら」なんて、もうそれが故人だと思っているみたいじゃないか。死んだ人に未来なんて求めても、悲しくなるだけなのに。
「…大きくなりましたね、遥ちゃん」
 あたしを懐かしそうに眺めながら、霞さんは言った。それはまるで、あたしじゃなくその向こうにいる誰かに向けて発している言葉のようだった。さっきあたしが霞さんを別の人と重ね合わせたように、またそちらもあたしを別の誰かと見立てているのだろうと思った。
「小さい頃に、一度だけ来たことがあったんでしたっけ? あたしはもう覚えてないけど、母から聞きました」
「そりゃあもう、あなたが五、六歳ぐらいのときでしたからね。物心がついていたとしても、もうすっかり忘れているのは当たり前ですよ」
「そうですね」
 あたしが返事をすると、霞さんは少しの間、口をつぐんで再びあたしを眺めた。どうかしたのかと尋ねたかったが、あまりにも愛おしそうに、そしてとても寂しそうにあたしを見つめるので、こちらも口を利けなくなってしまった。…霞さんには、何が見えているんだろう。
 互いに見つめ合い続けて、約1分、いやもしかしたら1時間、それ以上経ったような気がする。でも、実際は1分も経っていないことを、分かっている。ただの勘違いだ。静かな夏の空気の中で見つめ合うことへの既視感が、こんな勘違いを引き起こしたのだ。
 …やっぱり似ている。
 誰に?
 分からない。けれど、誰かに似ているんだ。絶対に。
 「既視感」から「確信」へ変わっていく中、ふと鈴を転がしたような甲高い声を聞いたような気がした。あたしの記憶から蘇ってきた声か、ただの幻聴か。それでも、その声の言葉はしっかりと聞き取れた。
 ――デジャ・ビュ…
 デジャ・ビュ。もしくはデジャヴ。見たこと無いのに見たことがあるような気がする、聞いたこと無いのに聞いたことがあるような気がする、そんなモヤモヤを表す言葉。つまるところ、「既視感」という語をカタカナ語にしただけだ。どうして今になってこの言葉が思い浮かんだのかは分からないが、まさに「デジャ・ビュ」を具現化したようなその声は、はっきりと「デジャ・ビュ」と発音した。それは、不思議とあたしの心を掴み、揺さぶってくる。まるで眠ってしまった子を起こそうとする母親のように、しつこく、優しく。起きて、起きてと急かしている。…あたしは、眠っているのだろうか。本当はずっと横になっていて、夢を見ているだけなんじゃないか。少しだけそんなことを考えた。けど、そんなことは無い筈だった。今が夢の中なら、こんなに意識がハッキリしていることは無いだろうし、第一寝てしまった記憶が無い。今は現実だと理性が突き付けていた。
「…やっぱり、覚えていないですよね、朧のことなんて」
 長い沈黙の後、霞さんはぼそりと呟いた。
「おぼろ…?」
 誰のことだろうと、首をかしげる。しかし、霞さんはかぶりを振って何も答えることは無かった。
「遥ちゃんには関係の無いことですよ。忘れてくださいな」
 あまりにも悲しそうに笑うので、あたしはそれ以上聞けない。多分、聞いちゃいけないことなのだと思った。だから、「ふぅん…」と口から間抜けな息が漏れて、それ以上言葉を紡げなかった。
 それを悟ったか、霞さんは慌てたように話題をそらした。
「そういえば、そろそろお昼ですね。お母さんの方が待ってますから、食堂に行きましょうか」
「…はい」

 食堂に行くと、母がもう既に座って待っていたので、その隣に腰を下ろした。最初から作っていたというように、すぐに料理が出されたが、あたしは考え込んでいて、料理の内容どころか出されたことにも気付かなかった。
「…“おぼろ”…」
 霞さんが口にした字名を、もう一度声に出してみる。何か聞き覚えのあるような…あ、そうだ、昨夜職員さんがあたしに見せてくれた手紙…それに書かれていた名前が“おぼろ”だったんだ。声には出さなかったけれど、その言葉自体は覚えていたから聞き覚えがあったのだ。…けれど、どうしてだろう。まだ何かが引っ掛かる。この名前に、あたしはどうしても惹きつけられてしまう。あたしにとっての“おぼろ”は、とても大事なものだったように思うのだ。
 まあ、そうは言っても何も思い出すことは無いけれど。ひょっとしたら、ただ“朧”という言葉が気に入っただけかもしれない。正直、この言葉は綺麗だと思うし。だから、別に深入りしなくても良いのかもしれない。
 けれど、今度は別の疑問が頭の中に浮上した。
 …そういえば、どうして霞さんは部屋にやってきたのだろう。ただ話しに来ただけ? いや、あたしを何回も眺めていたし、顔を見に来たのかな? でもなぜ? 母が言うには昔に一度、来たことがあるだけらしいから、あたしと霞さんとの関係はそんなに深くないんだと思うけど。…あれ、でも“一度しか会ってない”のに、どうしてあたし達は霞さんに覚えられているんだろう。あたしが知らないだけで、霞さんと母は友達関係にあるのだろうか。さっき盗み聞きしてしまったけど、かなり深刻そうな話をしていたし、それを思うと、親密な関係にあるのだろうとは思う。
『私は、あの子を…自分の娘として、愛していました…』
 霞さんの言ったことを思い出す。
「…“自分の娘”…」
 霞さんの子供? この屋敷にそれらしき人物は見かけなかったけど、でも、「愛していた」という過去形な言い方から察するに、彼女はもう亡くなっているということだろう。病気だったのか事故だったのか、もしくは何らかの事件に巻き込まれたのか。事件だなんて、考えたくないけど…
『日宮さんが、……階段から足を踏み外したということにしておけ、と』
 そんな声が頭をかすめて、離れてくれない。
『誰かがあの子を、事故に見せかけて殺したんだ』
 昨日限りの、名前も知らない友達のことを思い出した。少女は自分の友達は殺されたんだと言っていた。階段から突き落とされて、それで…
『それで、隠蔽したの?』
 母の言葉。少女に突き飛ばされたときに感じたあの一瞬の浮遊感。恐怖よりも危機感が襲ってきて、少しだけ死を覚悟してしまう、空を飛ぶ感覚。あの感覚を、あたしはまだ覚えている。忘れられないから。あたしと同じ…それ以上のものを味わった人がいるんだと知ってしまったから。
「遥? 食べないの?」
「…あ、ううん、食べるよ。ちょっと考え事してただけ…」
 そう答えて、ようやく箸を持つ。そうやって口を動かしている間にもずっと考え続けていたから、ろくに味もしなかった。
 少女が目撃した殺人事件。
 霞さんの娘の死。
 もし、その二つが繋がっているんだとしたら。更に言えば、霞さんがあたしを見つめていた理由も、関係があるのなら。その真相を知ったとき、あたしは何か、思い出せるんだろうか。あたしが求めている“誰か”を救うことが出来るのだろうか。
 少しだけ、前に進めたような気がした。大丈夫、あたしはちゃんと踏み進められている。それが分かって、ちょっと口角が上がってしまった。
「あら、今度はどうしたの、遥?」
「…何でもないよ」

 昼食を終えて、部屋に戻る。そして、久しぶりにノートを広げて、思いついた詩や小説のネタを書き込んでいた。ここに来てから感じたこと、思い出したこと、考えたこと、そんな非日常な一週間をどうしてか残しておきたくなったのだ。あたしは忘れたくない。きっとこれからも思い出すだろう大切な誰かのこと。そして、あたしを成長させてくれたこの土地のこと。その何もかもが懐かしくて、愛おしくて、切なかった。泣きじゃくってもこのノスタルジーには敵わないから、だからあたしはこの時間や空間、感情をノートに閉じ込める。
 書きながら、「思い出の手招き」を歌った。虚しくなって涙が出たが、周りには誰も居なかったから気にしなかった。ページの所々に水滴の跡があるのは、そのためだ。
 それから、帰ったらもう一度、学校に行けるように頑張ってみようと思った。心の傷はまだ完全には癒えきっていないから、何日かかるかは分からない。それでも、佳奈と過ごしたあの場所を、こんなことで忘れてはいけないと考えた。弱くてもいい、ちょっとずつ進めればいいんだ。
 あとは、ただ妄想しているだけじゃなくて、文字に起こして「物語」にしよう。“あの日”以来ずっと溜め込んできたあたしの「物語」だって、他と見劣りするかもしれないけど、十分なメロディを奏でられる筈だ。それに、前を向いている今なら、あたしなりの傑作が創れるような気がするのだ。
「…って、それじゃあ駄目か。みんなが読んでくれるような物語を作れなきゃ、それはもう“駄作”だもんね」
 でも、正直それでもいいと思っている自分もいる。あたしはあたしの読みたい物語を書きたい。その思いはいつだって同じだし、いつかあたしと似たような感性の人が、あたしの本を手に取ってくれたらなんて思っている。だから、あたしが小説家として売れなくても、共感してくれる人がいればそれでいいのだ。
「そう考えたら、将来はなんだか明るく見えてくるかも」
 呟きつつ、ノートに今考えたことを書き溜める。意味が無いかもしれないけど、今のあたしにとってのノートは、自分がやったこと、考えたこと、想像したことなどを記録するいわば“日記”のようなものになっていた。今日一日だけの日記だから、多分これ以上は日付も続かないだろう。
「…それにしても、もう4時なんだなぁ…」
 ふと時計を見やって、大きく伸びをする。母や佳奈にはよく、あたしが集中した時の続く長さが凄いと言われたが、本当にその通りだなと思った。昼食が終わった時刻が2時より少し前だったから、もう2時間近くはノートと向き合い続けていたことになる。あたしって、こんなに長時間集中することが出来るんだ驚いた。家では毎日のように書いていたのに、この5日間は色々とあって何も書いていなかったから、それまでの創作意欲が今書き始めたことによって、溢れ出してきたのかもしれない、と考察してみる。変なの、と一人で声に出して笑った。ありえないことでは無いけれど、馬鹿らしいや。
「うん、そろそろやめよう」
 頭が疲れたというよりも、指が痛くなってしまったので、あたしの大事な利き手を壊さない為にも筆記用具は片付けた。
 手持ち無沙汰になってしまったので歩き慣れてしまった屋敷内での放浪を再開する。職員さん達に「またなの?」と笑われたが、そんなことは構わなかった。
 これからお別れするみたいに、もしくは隠れている子供を探すみたいに、一つずつ部屋を通り過ぎていく。あたしたち以外の旅行客が泊まっている部屋に、何かの式場にでもなりそうな大きな部屋。温泉を思わせるほどの巨大な風呂に、女将さんの書斎、職員さん達の休憩所、そして玄関。そこから外に出て屋敷の裏側に回れば、かつてはブーゲンビレアが咲いていた、誰かの秘密基地に辿り着けることを、あたしは知っている。そこが、あたしにとって、そしてその“誰か”にとって、大事な場所であることも分かっている。…でも、どうして大事なのか、どうしてブーゲンビレアが咲いていたことを知っているのか、それがどうしてもあたしには分からない。
「…今は、朽ちた丸太があるだけなのにね」
 あたしはその枯れた花園の中心でポツンと佇みながら、小さく呟いた。それに呼応するように、風が強く吹いた。耳を横切る音がする。それはまるで、誰かが泣いているような、とても切ない音だった。なんだかあたしまで泣きたくなってくる。
 …どうしてここは、こんなにも悲しいんだろう。
 ふとそんなことを考えてしまった。…ここは悲しい。切ない。でも、今までで一番心地良く感じる場所だ。どうしてかそう思った。この場所にはあたしの心を惹く何かがある。そして、…きっと、あたしが求めているものも、ここにはあるのだろう。
 ハッとした途端に直感が穿つように心を叩き、あたしの心臓は段々と早鐘を打っていく。…そうだ、大事だった筈の思い出はきっとここにある。それは未だあたしを待っているんだ。
 探さないといけない、と思った。けれど、自分の部屋よりも広い花園だから、どこをどう探したらいいかさえ分からない。おまけにしばらくの間手つかずだったのか、ブーゲンビレアが咲いていたという面影も残っていないくらい荒れ放題だ。奥の方なんてあたしの腰くらいの高さまで雑草が伸びていた。ごり押しで探すにしても、もうすぐ暗くなる時間帯だし、今から探すのは困難だろう。
「…明日、探してみよう」
 もしかしたらってだけで確信は無いから、今日は諦めようと踵を返した。明日になって気分が変わっていないと良いけど。
 ようやく進めそうだったのに引き返して、モヤモヤしたまま玄関に戻る。…そしてふと、そこに飾られている写真に目をやって、思わずあっと声を出した。
 そこには一人の少女が写っていた。体育着姿で白いハチマキを巻き、白い歯を覗かせながらピースをしている。白い肌、細い手。眉が少し見えるくらいで切り揃えられた前髪、後ろの髪は長いのかポニーテールになっている。笑って薄目になっているけど、ちゃんと開いたら大きいんだろうなと思う透き通った瞳。小さな鼻、薄桃色の唇。運動後なのか、頬が仄かに赤らんでいる。霞さんと似た顔立ちで、まだ幼い輪郭だが息を呑むような美しさがあった。
『ああ、三日月さんの娘さんね』
 そういえばここで、写真を見ていたら職員さんにそんなことを言われたっけ。でもいつのこと? あたしは5日前にここに来たから、その間だと思うけど、思い出せない。
 けど、あと少し。あと少しなんだ。今までに無いほど記憶があたしに近くて、もう少し、手を伸ばせられれば、きっと…
『気になるの? 名前は…――』
 ようやく欠片を一つ掴み取った。名前。名前は…
「…おぼろ…朧………朧だ…!」
 声に出すと、それから連鎖するように、記憶が次から次へと流れ込んできた。心臓の音がうるさい。ああそうか。そうだったんだ…。
 その場から弾かれたように走り出した。ブーゲンビレアの花園へ。あの朽ちた丸太のある庭へ。行かなきゃいけない。あたしはそこから逃げてはいけない。

 全て思い出したんだ。
 あたしがこれまで“本当の意味で”忘れていたこと。

 そして“あの子”のこと…全てに絶望しながら消えてゆく少女のことを。

忘れなかったお話

『ねぇみて! これ、さっきのかわのところでみつけたの!』
『わあ! すごい、おほしさまのかたちだぁ!』
 あたしが手に持っていた石を少女に見せると、少女はパァっと顔を輝かせて笑った。
『これあげる!』
『え、いいの? やったぁ!』
 嬉しそうに飛び跳ねてから少女は何かを差し出した。
『じゃあ、おぼろはこれあげる!』
『…? これなぁに?』
『これはね、“ぶれすれっと”っていうんだよ! おかあさんがおぼろのおたんじょうびのときにね、くれたの!』
 少女はありきたりなビーズを通したブレスレットを、あたしに渡した。少し大きくて、あたしの手首ではすぐ抜けそうだった。
『わあ、きれいだね! ありがとう!』
『えへへ、どういたしまして! …あ、でも、たべちゃダメって、おかあさんがいってたよ!』
『え~、こんなにおっきいのに、たべられないよー』
『それもそっかー!』
 二人で笑う。すると突然、少女が「そうだ!」とあたしに手招きをした。あたしは首をかしげながら彼女の後をついて行く。
『ここ! ここに、たからものをかくすのはどう? おぼろと、はるかちゃんのひみつ!』
『わあ、それすっごくいいね! じゃあ、はるかは“ぶれすれっと”? をかくすね! だってたからものだもん! ひみつだよ?』
『うん! あ、でも、わすれちゃだめだよ? かえるときにもっていくの! やくそく!』
『わかった! やくそくだよ!』

 花園の両側には、合わせて三本の木が植えられていて、入り口から向かって左側、手前の方には木が植えられていなかった。代わりに、そこには一つの大きな花瓶が置かれていた。しかもひっくり返された状態で、誰が見ても使っていないと分かるような。
 それが今も残ったままなら…。
「あった」
 あたしが想像した通り、逆さまの花瓶はそのままだった。それを持ち上げてどかす。幼い頃の感覚と一緒で、それは見た目よりも随分と軽かった。
 花瓶の下には案の定、あたしが隠したブレスレットが残っていた。そしてその隣に、何かが書かれた紙切れが、真空パックに入れられて添えてあった。こんなことをしそうな人で、加えてこの秘密を知っている人物は、一人しか思いつかない。これはきっと…。
 手に取って、中身を取り出して見てみる。そこには、霞さんへの手紙と同じで、たった一行だけ文があった。
『遥ちゃんへ。次はぜったいに持ってってね』
 一瞬、泣きそうになった。こんなものを遺すぐらいあたしのことを待っていたのに、あたしは朧のことをすっかり忘れてしまっていたんだと思うと、とても申し訳なかった。だからこそ、なんとしてでも朧に、あたしがブレスレットを持っていることを、伝えなきゃならないと思った。
 けど、今はそんなことを考えている時間は無い。この地の言い伝えが正しければ、朧に残されたタイムリミットはもう少しで終わりを迎えるからだ。今夜じゃなければ、もう救えない。
「…でも、一体どこに…」
 必死で問題の、朧の居場所を考える。
 ブーゲンビレアの花園にはいなかった。じゃあ朧が使っていた部屋? でも、この旅館の中にはいない気がする。じゃあ公園とか? 母との散歩コースに使ったあの森の道? 地縛霊みたいな感じで、学校の階段とかどうだろう?
 しかし、どれもしっくり来ず、ひたすら時間だけが過ぎていく。日はもう山の向こうに隠れかけていて、それが尚更焦りを加速させていく。
 どうしよう。早く、早くしないといけないのに…。
 必死で考える。
 朧にとっての大事な場所って、どこだったんだろう。ずっと母には裏切られたと考え続けていたのだとしたら、きっと旅館ではない。どちらかというと、一人でいられる場所…
「…あっ!」
 そうだ、“秘密基地”だ! けれど、それはここではない。今あたしが居るのに、何も無いのがその確固たる証拠だ。
 思い出す。忘れてしまったあたしと“初めて”出会ったところは、神社だった。でも、あの神社に朧が来たことはきっと無かった筈だ。ならどうして神社だったのか。それは…。
 ハッとして駆け出す。玄関に戻ると、あの職員さんが掃き掃除をしていたので、捕まえて尋ねた。
「この地域に、神社ってありますか?」
「え? ええ、あるわよ…」
「そこへの行き方を、教えてほしいんです!」
「いいけれど、…今行ってももう6時過ぎになるし、暗いわよ」
「それでもお願いします!」
 職員さんから神社への道を訊き、礼を言った後に全速力でそこへと向かう。
 朧と“初めて”出会った場所が、どうして神社だったのか。それは、「神社」という空間が、彼女にとって最も思い入れのある場所だったからではないか。かなり無理矢理な考察ではあるという自覚があるけれど、他に答えが見つからない以上、信じることにした。ここの神社も、もしあたしのところと同じように廃れているのなら、「一人きりになれる貴重なスペース」ということになる。どちらも“同じ”だったから、朧はあたしのところにも現れたのではないか。そう思った。
 祭りの開催場に近付くと、人のひしめき合う声と、太鼓の音が聞こえた。どうやら既に祭りは始まっているようだ。終わってしまえばもう手遅れになる。確か、打ち上げ花火が終わりの合図なんだっけ。その前には、どうか間に合わせないと…!
 祭りの会場を横切って、ひた走る。あたしにはそれしか出来ない。それで、ようやく見つけたら、ちゃんと伝えるんだ。朧にも味方がいたってこと。たくさんたくさん慰めて、それからまたくだらなくて幸せな話をし合って、それで…。
 …朧が、居なくなってしまうまで…ずっと…。
 涙がじわっと滲む。息も苦しくて足を止めそうになったけど、太宰治が描いたメロスみたいに、諦めてはいけないと思った。
 …それでもあたしは、あなたに幸せになって逝ってほしいから…。
 こぼれそうになった涙を、拭いながら走る。神社までもう少しだ。

 息を切らしながら、やっとのことで神社の直前まで辿り着く。少し長い階段を一段一段上り始める。でも、これじゃあ駄目だと気が急いて、途中で一段飛ばしで上ったから、階段を上り切った頃には、息も絶え絶えという状態だった。
 苦しさと涙でぼやけた目の前に、あたしが探していた神社の全体像が映り込む。それを見て、本当に息が止まりそうになった。
「あ…同じ、だ…」
 何も考えずに呟く。ボロボロの社。崩れた鳥居。それは、あたしの記憶にあるものと、“そっくりそのまま”だった。だからこそ、心の底から驚いた。
 でも、どうして? …そう思った後に、首を振る。今はそんなことを考える暇は無い。進まないと。この先にはきっと、朧がいるから。最期だけでも、会って話をしないと…。
 疲れ切ってもつれそうになった足を無理に動かし、社を横切る。朧を追いかけたあの道を辿る。大丈夫、今度は追いつける。裏切りもしない。怖がったりもしない。あなたはあなただ、他の誰一人と居ないと言いに行く。
 道を抜けて開けた場所に、朧は居なかった。それでも今回は逃げない。彼女は…朧は、この場所に居る。きっと泣いているのだと思う。さっきから悲し気に音を立てる風が、木々が、草花が、あたしの心に刺さって痛いから。
「…朧?」
 虚しい空間に呼びかける。返事は無い。
「ねえ、居るんでしょ? 朧」
 構わない。再び虚空に話しかける。泣いている。朧が? あたしが? もう分からないけど、きっとどちらも泣けていなくて、本心はどちらも泣いている。嫌だ、そのまま逝かないで…!
「朧…!」
 悲鳴に似た声を上げる。あの子も同じような声を上げているのだろうか。ここに、居るんだろうか?
 夕日が沈んで迫ってくる影が、あたしの影も丸ごと呑み込んで、暗い感情のように渦を成す。獣のような声で絶叫したが、それはとても悲しそうで、寂しそうで、まるで一人置いていかれた子供のようで。
 叫んでいるのはあたし? いや違う。目の前に佇むこの影が叫んでいるのだ。口や目がどこにあるのかも知らないけど、それは血を流して、その痛みに泣いているだけだ。全然、怖くなんかない。
「…ねえ、朧。久しぶりに会えたね」
 頬が涼しい気がするけど、気にせずに話しかけた。
「一昨日? ぐらいにも会ったけど、あの時はちゃんと話せなかったからね。それはノーカウントで」
 出来るだけ明るく言う。でも、うまく笑えている気はしなかった。
 風が吹きつける。あたしを拒んでいるんだろう。
「…もう誰も信じないの? あたしのことも? そうだったら残念だけど、本当はそうじゃないって、あたし分かってるよ」
 影が揺れる。再び絶叫する。鼓膜が張り裂けそうで、それでも何を言っているのかは聞き取れた。
 ――もう放っといてよ!
「…。朧、あなたは裏切られたんだよね。あたしにも、霞さんにも。あたしは簡単にあなたのことを忘れちゃって、霞さんは朧のこと、いらない存在だと思ってるって。朧はずっとひとりぼっち」
 違うとでも言うように、影は激しく揺れる。風の泣き声が大きくなった。
「でも、本当にそうかな? 朧はずっと一人だった? 一人は、お友達がいたんでしょ? あなたの手を引いてくれる友達が。それに、…もう遅かったけどさ、あたしもちゃんと朧のことを思い出せたよ。小さい頃に一緒に遊んだことも、迷子になったあたしを捜しに来てくれたことも、今じゃ全部覚えてるよ。だから、ほら…」
 あたしは影に、“お星様の石”を差し出した。その瞬間、影がぼやけたのに気が付いた。そこだけ色が付いて、影が…朧が潤んだ瞳でこっちを見ていた。
「これは、あたしが朧に渡したものでしょ? なら朧が持っていた方が良いよ。あたしの分は大丈夫。ブレスレットと交換したもんね」
 これまで持っていた、ビーズのブレスレットを取り出して見せる。それからもう一度、“お星様の石”を差し出すと、相手も手を伸ばして受け取った。彼女に纏わり付いていた影はすっかり消え、いつの間にか美しい少女が佇んでいるだけになっていた。
「ほントに…イいの?」
「うん。だってもともとは朧のものなんだよ? 駄目なんて言わないよ」
「…」
 朧は石を胸の前でギュッと握り締めた。それからうっすらとあたしに向かって微笑んだ。けれど、それは全てが報われた笑顔じゃないことを知っている…。
「あと、霞さんが言ってたよ。私は朧を、自分の娘として愛していましたって」
 そう言うと、朧は驚いたような、怒ったような表情になった。
「そんなのウソだよ! だって、お母さんは私のこと“自分の罪”だって…っ! 私のこと嫌いなんだよ! 私はお母さんの子じゃないんだよ!」
「…朧は、霞さんに愛されたくなかったの?」
 あたしの言葉に朧は目を丸くしたが、首をブンブンと横に振って答えた。
「ニセモノなんていらない! 本当は嫌いなのに、ウソで“大好き”って言われたくない!」
「じゃあ、嫌いってはっきり言われた方が良い?」
「…い、いやだ! そんなの悲しいもん!」
 駄々っ子のように泣き喚く朧は、一人閉じこもっていたあたしにそっくりだと思った。誰かを信じたいのに誰も信じられなくて、周りへかける迷惑がとんでもなく怖くて…。今目の前にいる少女も同じだとしたら、どういうふうに声を掛けるべきだろう。彼女は、何を望んでいるだろう。
「あのね、朧。霞さんは、あなたがそんなふうに傷つくのを見たくないと思ったから、“大好き”って言ったんだと思うよ。それはきっと本心だろうし、本当に嫌いだったら、しっかりと育ててくれたりもしなかった筈だよ」
 朧は何かに気付いたように、あたしの顔を見る。
「悪いことをして叱られたのなら、それは朧にしっかりとした人生を送ってほしかったから。運動会の写真を撮って飾っているのは、この愛しい瞬間を残しておきたかったから。あたしはそうなんだろうって思ってる。朧はどういうふうに信じたい?」
「…わ、私は…」
 流石にもう分かっているのだろう。朧には、味方がいつも近くにいたということを。霞さんが心から朧を愛していたということを。けれど、彼女はそれでも言い淀む。例え見せられた光が“希望”でも、これまで信じてきた自分だけの世界を否定されたくないのだ。否定して壊れた世界から手を放すことが怖くて、何より掴んだ光が本当は“希望”じゃなかったらということが怖い。それまでの世界から落っこちるのも怖いし、光を掴み損ねることも怖い。信じたものを否定するのは、怖いことだらけだ。だから“絶望”の世界でも、ずっとその場に留まっていたくなる。
 そんな気持ちを、あたしも知っている。あたしも信じた世界を否定するために、散々な恐怖を味わった。力尽きそうになった。諦めそうになった。それでも佳奈が居てくれたから、そして、朧が居てくれたから今、ここに立っている。だから…
「あたしね、朧に助けられたんだよ。…佳奈が死んで、自分を責めて。でも、ぐずぐずしちゃいけないって、朧が教えてくれたの。だから、恩返しがしたい」
 言葉を区切って、息を吸い込む。朧が見ている。
 あたしは、彼女に向かって一つ、言い放った。
「あたしはあなたを、助けに来たんだ」
 音に空白がよぎって、悲しみを拭い去っていく気がした。
 目の前の少女は泣いている。
 涙は宙に溶けていき、地面が濡れることは無い。
 あたしには分かっていた。その涙は、悲しいからじゃない。憎しみからじゃない。心が痛いからでも、あたしを非難したいからでもない。
「…ありがとう、遥ちゃん」
 少女は、初めての笑顔を見せながら、そう言った。
「どういたしまして!」
 あたしは明るく笑みを返して言う。あなたはもう、大丈夫。

 それから、二人で色んなことを話した。
 この世の話、あの世の話、過去の話、今の話、未来の話、あたしの話、朧の話、友達の話、個性の話、模倣の話、悲しい話、楽しい話、面白い話、つまらない話…。
 どれもこれも、真剣な顔でくだらなく話し合って、泣いて、笑った。
 どんなに中身が無くても、あたし達は幸せで、“終わり”が近付いてもたくさんのことを話した。
 …まだ、話し足りないや。

「ねえ、綺麗な花火だね」
「うん! …! お星様の形だ!」
「あ、本当だ」
「お願い事しなくちゃ…えっと、遥ちゃんがこれからも元気でいられますように!」
「あはは、ありがとう。…お姉ちゃん」
「? 何か言った?」
「いや、何でも!」
「そっかー。…ね、手を繋ご! もう最後なんだもん」
「最期…。うん、いいよ」
「ありがとう!」



















「…ねえ、綺麗な花火だったね」

生きていくお話

 放課後の始まりを告げる鐘が鳴って、クラスメイト達は各々部活やら家へやら、自分の行きたいところへと別れていく。
「ばいばーい」
「また明日」
 そんな言葉が飛び交って、久しぶりのクラスに緊張した時間が過ぎていく。人の波はあっという間に引いていき、あたしは後ろの席でポツンと一人になった。
 誰も居ない教室で、ホッと安堵の息を漏らす。
 夏休み明けに登校した学校は、驚く程平穏だった。一学年上がってクラス替えが行われたからというのもあるだろうが、それでもよく見知った顔もいるから、授業中は何度も息を止めそうになるぐらい怖かった。
「…けど、意外と大丈夫だったな」
 椅子の背にもたれながら呟き、ぼんやりと窓の外を眺める。
 二年生の教室は三階にある。だからか、背の高い木や少し赤らんだ空がなんとなく新鮮に見えた。微妙に開きっぱなしの窓の隙間から、グラウンドで活動する運動部の声が聞こえる。
 部活…そういえば、音楽室って今空いてるっけ。吹奏楽部がいつも使ってるけど、変わっていなければ、毎週木曜日は休みだった筈だ。
 ふと思い立って鞄を背負うと、あたしは音楽室へ向かってみた。
 近くに来たが、人の話し声やトランペットの音はしない。やっぱり今日は休みなんだと思った。
「…開く、かな」
 防音の重たいドアを引く。すると、何の抵抗も無く開いた。内心ちょっと喜びながらも中に入ると、懐かしい気持ちに囚われた。…そういえば、小学校の頃によく佳奈と二人で、音楽室に遊びに行ったな。あたしがピアノを弾いて、佳奈が指揮者のフリをして、他には誰も居ないけどヴァイオリンやシンバルなどの音も想像したりして。「オーケストラごっこ」って呼んでたっけ。
 そんなことを考えていると、胸の奥から感情が込み上げてくるような気がして、無意識に涙を拭う仕草をした。ふと気付いて、それをごまかすためにピアノの蓋を開ける。人差し指で真ん中のドの鍵盤を押すと、ポーンと音が鳴った。
 椅子に座り、昨日まで練習していた曲を弾き始める。薄暗くなっていく夕空、開け放された窓から聞こえる、ボールをバットで打つ音、風の音、カラスの声、木々の囁き…ピアノの歌。それらがすべて調和すれば、あたしが足を止める“日常のオーケストラ”。
 ピアノの音は全て記憶から手繰り寄せて一つ一つ探し出したものだが、旋律だけでは物足りなかったので、手探りで左手の伴奏も作った。それすらもうまく馴染んでいるから、この頑張りは成功と言えるだろう。
 …忘れないようにって練習しただけなのに、…ここまで形になるなんてね。
「…お姉ちゃん、喜んでいるかなぁ…」
 曲を奏で続けながらポツリと呟く。
 答えは聞かずとも既に分かっている気がした。だって、あんなにも純粋で複雑な少女が、自分の妹の成功談を聞いて喜ばない筈が無い。飛び跳ねるように喜ぶ姿を想像して、フフフと笑ってしまった。
「…お、何だ、楽しそうだな」
 曲を奏で始めて少しして、音楽準備室の方から男の先生が出てきた。
「あ、先生。はい、楽しいです」
 ピアノを弾く手を止めて返事をすると、その先生は「そうか」と言って笑った。
「思ったより元気そうじゃないか。梨野の事件から、その…色々気に病んでたって、お前の元担任からは聞いていたからな」
「最近になって吹っ切れました。…佳奈は死んだって、やっと受け入れられた感じです」
 鍵盤に目を落として言うと、先生がちょっとだけ気まずそうな声を出した。
「…あー西園寺? そういえば、今の曲は何て名前なんだ? 先生、音楽教師なのに、全然名前を思いつけなくてなぁ!」
 もう歳かな! と笑う先生だったが、確かこの人はまだ30代後半ぐらいだったと思う。まだボケやすくなる年代でもないし、明らかな冗談だろう。
「…『思い出の手招き』って言います。あたしが作ったんだし、知らなくても当然の名前だと思います」
「作ったって…え、お前音楽家にでもなるのか?」
 そう言われて今の言葉には語弊があるなと、言い直す。
「題名と、伴奏を考えただけです。メロディは別の人ですよ。あと、あたしの夢は小説家です」
「…そ、そうか。でも良いな、今の曲。もっかい弾いてくれ!」
「あ、はい。分かりました」
 先生に言われて再び『思い出の手招き』を弾き始める。この曲のメロディを作った人のことを聞かない先生が、優しいなと思った。
「そういや、西園寺。お前小説家を目指してるって言ったっけ?」
「…はい」
「何か書き上げたら、先生に読ませてくれよ。音楽もだけど、小説も好きなんだよな」
「…いいですよ、今ちょうど書き始めてますし、完成したら持ってきますね」
「おっ! …ちなみに、どんな題名にするんだ?」
 そういえば、この人は好奇心旺盛な先生だったな、と笑いながら、あたしは答えた。



「…小説の名前は…」

闇夜のヴェールに彼方の歌を

 『闇夜のヴェールに彼方の歌を』
 最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

「綺麗な物語が書きたい」
 漠然とそんなイメージで書き始めたのがこの作品です。実は書き始めた頃、作者の私は病み期真っ最中。ということで、主人公の遥が、変わっていく自分の町を練り歩きながら、この早すぎる変化を嘆くだけの構想、それが初期案でした。
 そして書いている途中で難しさのあまり放置し、別の作品を先に書き上げ、病み期を脱した後に再びこの作品と対峙して「こりゃ駄目だ、つまらな過ぎる!」と悟った私。一から書き直しました。
 しかし、主人公を出来るだけ私自身と重ね合わせるように書きたかったので、最初の「社会に反感を持つ遥」も、「冒頭の私」ということで残っています。
 そうやって何やかんやあった後、そこでようやく朧ちゃんが誕生し(その前にも原型っぽい存在はいたけど、ほぼ神様のような存在だったし、どうしても子供っぽくならなかったのでボツになりました)、彼女を複雑な感性の遥と対比させるために、単純明快なキャラとました。
 …そこまでは良かったんです。不思議なキャラが書きたかったというのもあって、朧は絶対に外せない存在になりました。ただ、そのときはまだ二人は赤の他人同士で、遥は朧と触れ合っていく中でだんだんと成長していく…という設定だったんですが、とにかく謎な点が増えすぎたんです。朧の死因、遥だけに朧が見える理由、そもそもどうして遥と朧が出会ったのか…等々。それを明かしながら進めていった結果、やっと現在の構想が生まれました。長かった…。
 そんなふうにして出来上がったのがこの作品です。気分次第でゆる~く執筆していたのですが、途中、本気で「美しいって何だろう」「生きるって何だろう」「純粋って何だろう」とか考えたりしながら、シリアスと向き合っていた場面もあります。皆さんも、この作品を読んで同じようなことを考えていただけていたのなら、とても幸いです。

 最後に(ここまで読んでいる人は居ないんじゃないかとひっそり思いながら)
 曖昧な表現が多すぎる、漢字変換が自由過ぎる、展開が早すぎる、誤字脱字がある、…など、色々と拙い点がありますが、ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。非常に理解しづらい内容だった筈なのに読み切ってくれたら、それだけでもう幸せです。作者冥利に尽きます。なので、どうか感じただけでも良いので、「綺麗だった」と言ってください。
 それでは、あとがきはここまでとさせて頂きます。

闇夜のヴェールに彼方の歌を

「幼い頃のこと。あたしとあの子は、きっとどこかで繋がっていた」 多感な少女が出会った、幽霊のお話です。

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • ホラー
  • 青年向け
更新日
登録日
2023-10-01

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

CC BY-NC-ND
  1. 出会ったお話
  2. 生きているお話
  3. 消えてしまったお話
  4. 消せないお話
  5. 覚えているお話
  6. 死んだお話
  7. それだけだったお話
  8. 戻ってきたお話
  9. 繋がるお話
  10. 忘れたお話
  11. 探していたお話
  12. 忘れなかったお話
  13. 生きていくお話