千族宝界録RA✛blue murder.
✛Cry/シリーズC2 A版③
1作が大体文庫本1冊の3部作③です。本作RAで「妹」を守りたかった少年の長い旅がようやく終わりを告げます。
update:2023.9.29 Cry/シリーズB・Atlas'版③ RA
※直観探偵シリーズの過去で異世界の話になります
シリーズ①→https://slib.net/119599
シリーズ②→https://slib.net/119849
千族化け物譚・ノベラボ正史版→https://www.novelabo.com/books/6717/chapters
※ノベラボ版のサイドストーリーには星空文庫版からカットしたものを主に合わせています
†謡.花火の夢
ココロはココロの望むまま。ワタシはワタシの望むまま。
カノジョはカノジョの望むまま。ミライという名のミチのまま。
スベテのモノが迎えるマツロ。ノゾミのままに、ワタシとカノジョはユメを燃やす。
そしてスベテが消えるまで。カノジョはそのユメを燃やしつくしていくのだろうか。
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千族宝界録 Atlas' -Cry- 前日譚
~The DayDream Fireworks~
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「ねぇねぇ、ラピちゃん。お淀の河川敷で、明日の夜、花火しに行かない?」
………。
ジパングの家から親戚の水華と、共に旅に出る直前の暑い季節だった。
突然の槶の誘いに、ラピスはとりあえず、二つのことを思った。
その一。河川敷で、明日の夜花火しに行かない? というのは、ジパング語的に少しおかしいのではないだろうか。明日の夜、河川敷に花火をしに行かない? というならわかる。もしくは河川敷で花火をしない? とするか。
元々ジパング語が母語ではないラピスにとって、こういう混ぜこぜな日常会話にはつい、ツッコミを入れたくなってしまう。
そしてその二。どうして槶は自分を誘うのだろう。おそらく他のメンバーは蒼潤に鶫、悠夜といういつもの顔ぶれなのだろうが、花火となるとそれに保護者がついてくるのが、とりあえずの決まりであると思う。
兄弟である蒼潤と悠夜、その彼らの従姉妹である鶫。親同士が親戚だという槶と彼ら。そういう、言わば身内が集まるイベントに、部外者である自分がどう入れと言うのだろう。
普通なら別に、こんなことは考えなくていいと思う。ただ自然に、友達として加えてもらえばいいのだし、自分が考え過ぎであるのは自明の理だ。蒼潤の親とも鶫の親とも、くぬぎの親とも多少なりとの面識はある。
そもそも十四歳になるかならないかの娘が、自分は邪魔にならないか、などとまで考える必要はないと思う。
ただ、その後。三つ目に思ったことは。
「でもくーちゃん。私……花火、したことないよ」
「――え?」
意外な返答に目を丸くする槶。そう言えば槶には言っていなかった。ラピスが花火の類のイベントを、どちらかと言えば避けてきたことの理由を。
が、しかし。
「ちょうどいいじゃん! だったら初めての経験だから、きっと凄く楽しいよ♪」
何故か槶にかかるとこうなってしまう。普段の槶はむしろ、悲観的、妄想的なマイナス思考に向かって暴走することが多いというのに、ラピスを相手にするとどうしてか、そういう思考力がプラス方向に反転するらしい。
「じゃあ明日の夜、戌の時にいつもの橋の下に集合だから! 待ってるからねー!」
参加不参加の返事をする前に、槶は駆けていってしまった。どうやらこれは、「行く」という約束が、いつの間にか成立してしまったようだ。
「……」
本気で断ろうと思えば、今からPHSで槶に連絡をとることもできる。しかしそこまでして断る理由を、説明するのも何だか面倒くさい。
「とりあえず、行ってみるしかないってことかぁ……」
誘いの内容がどうであれ、やはり。誘ってもらったこと自体は、嬉しかったのだから。
そうして今日も、京の街に吹く風が、ラピスの傍らを事も無く通り過ぎていく。
*
ラピス・シルファリーは、西の大陸出身の孤児だった。確か六歳の時に父が死に、母はその後を追って自殺した。
父親は一体どうしたわけか、炎の中で死んだことだけは覚えているが、何があったのか未だにさっぱりわからない。
六歳の頃のことだから無理もないが、首を吊ったらしい母の姿も、全くといっていい程思い出せなかった。
「ラピス」というのは、今の養父母が自分を引き取った時、彼女の髪がとても綺麗な瑠璃の石の色なので、つけられた名前だ。両親が亡くなって二年、村中をたらい回しにされていたラピスを見るに見かね、引き取ってくれた今の両親。多分実の両親よりずっと、人間ができているヒト達、とラピスは思う。
「……あ、待て待て。人間じゃないんだから、人間ができてる、って言うのはおかしいよね」
養父母はいずれも、人間の形をしながら人間には無い力を持つ「千族」らしい。この世界に住んでいる、千種あるとも言われる種族をまとめた呼称、それが「千族」だ。
そんな彼らを、ラピスは怖がるどころか、内心とても歓迎した記憶がある。人間ではないという彼らは、それなら――人間が持つ弱さや業からもきっと、解放されている。そんな錯覚を、何処かに見てしまったからなのだろうか。
勿論、彼らには彼らの業があり、弱さがあり強さがある。彼らと共に過ごす内、少しずつラピスにもそれがわかってきた。
今の両親に引き取られて、最初に知り合った子供が槶だ。槶は何故かは知らないが、何かと当時の自分に関わりを持とうと声をかけてきたのだ。あの頃ラピスは今より荒れていて、散々拒絶したにも関わらず、槶はへこたれなかった。
そして槶の身内と言える、性格的には硬派の蒼潤に、その弟で天才少年らしい悠夜。二人の従姉妹でしっかり者の鶫。今のところ付き合いがあるこれらの人物は、おそらく全てが「千族」だろう。彼らが自覚しているかどうかは怪しいが、純粋な人間ではない。
だから本当は、人間以上でも以下でもないラピスにとっては、住む世界が違うはずの者達……――
いつかはきっと、同じ道を歩けなくなる時が来る、と思う。同じ時間を生きられなくなるだろうと思う。
千族と人間では、寿命の長さが違うこともよくある。彼らは概して、ある一定の年齢からは歳をとらないものが多い。現に彼らの親は今も本当に若く見えるし、ラピスの養父母も実年齢を聞くと、人間では有り得ないくらいに童顔になる。
それでも今だけは。彼らとずっと、同じ所にいられるという夢を、見続けていたかった。
そして同時に。いつも心の何処かでくすぶって、それが何なのかはわからないまま、確かに存在しているもう一つの夢。二つの夢の間で揺らぎながら、何とはなしに過ごす今の生活を、ラピスは本当にかけがえの無い夢だと思っていた。
「へー。花火ってアレだよな? 火薬の塊に火をつけて、爆発させる奴」
「その解釈はどうかと思うけど……良かったらユーオンも来てみない? くーちゃん達に紹介するよ、私のお兄さんだって」
えぇー? ラピスの目前にいる金髪の少年は、困ったように首を傾げてみせた。
ユーオン・ジン。ラピスの養父母が数ヶ月前、瀕死の状態で倒れていた所を保護した精霊族の少年だ。彼には何故か、その時以前の記憶が無く、ラピスと同様拾われたことになる。名前だけははっきりしているのは、とある占い師の占い結果で、それが本当の名前なのかどうかもかなり怪しい。
ところで養父母が彼を拾う気になったのは、ある理由も大きかった。
「いや……やめとく。ラピスの兄さんなんて紹介されたら、オレが隠し子説の誤解、更に定着しちゃうかもしれないだろ」
何処に。とツッコミを入れるのは、とりあえずやめたラピスだった。大して付き合いも無い夫婦のそんな事情を気にするような人種は、槶達の中にはいないと思うからだ。
「まぁねぇ。ユーオンって本当、おとーさんにそっくりだもんね。おとーさんと違う種類の千族じゃなかったら、多分既成事実にされちゃってただろうね?」
何故かユーオンは、ラピスの養父にそっくりな顔をしていたのだ。偶然と言えば偶然なのだろうが、それでもやはり、多少なりと放っておけなくなるものだろう。元々お人好しの養父母だからこそ、余計に。
「――ラピス。花火に行くって聞いたけど、本当?」
居間の方から、洗濯物を抱えた養母がやってきた。
恐るべき若さの彼女の実年齢は、三十を越えているはずだ。見た目は全く、二十代前半にしても童顔で可憐な容姿の持ち主だ。
「大丈夫なの? 花火って一応、小さいけど、火を沢山使ったイベントだから」
「多分、大丈夫だと思うよ。ほら、私確かに火はダメだけど、小さい火なら大丈夫だし。大きい火でも、火が出るってわかってればね」
父親が炎の中で死んだという記憶に関係するのだろう。ラピスは火が苦手だった。だから今まで、花火などの火に関係したイベントとは無縁でやってきたのだ。
「もしも気分が悪くなったらすぐ連絡してね。いつでも迎えに行くから」
「うん。有り難う、おかーさん」
……――? ラピスは自分の前で、何やら考え込んでいるユーオンに気がついた。
「……ユーオン。何考えてるの?」
「えっ?」
「私の面倒見るために、やっぱりついてった方がいいんだろうか、とか、そんなことなら遠慮するからね?」
それを聞くとユーオンは、たははは……と笑った。どうやら図星だったらしい。
「ラピスも色々大変だよな……何かオレにできることあったら、いつでも言ってくれよ」
「……うん。そうだね。ありがと、ユーオン」
「――? 何だよ、ラピスらしくない。いつもみたいに笑い飛ばして、ヒトのこと考える暇があれば、少しは精霊使う練習でもしてみれば? とか言ってくれないと」
……。珍しく素直に出てみると、返って向こうが不審に思うらしい。
「そうだね~。ユーオンってば精霊族のくせに、精霊使えないんだもんね。これって致命的な欠陥というか、最早精霊族の意味が全く無いというか。記憶が無くなる前もそうなら、きっと精霊族一の恥さらしだったんじゃない? それを手がかりにすれば案外簡単に、以前の自分の記憶が戻ってくるかもよ? 良かったねぇユーオン、とにかくわかりやすい特徴があって♪」
「ひで……誰もそこまで言えなんて、言ってない……」
始末が悪いのはラピスの場合、何の悪意も無いような笑顔で、上記の類をさらさら言ってしまえる点にある。
本人はこれでも自制しているが、それだから尚のこと怖がられている。
「さってと……そろそろ出なきゃ、時間に遅れちゃう」
簡単な荷物だけ持つと、夕暮れ時の空の下、ラピスは京都に向かって歩き出した。
お淀の川は、今ラピスが住む所と京都の、ほぼ中間の場所にある。途中でワープゲートを使わないと、本来なら徒歩で簡単に辿りつける場所ではない。
「気をつけてね、ラピス」
養母が見送りに出てくれた。一度振り返って大きく手を振ると、ラピスの姿は夕暮れに消えていった。日没の遅い夏の夕暮れなのに、ラピスの深い青の髪も簡単に飲み込まれていった。
*
「……ええっ? 子供だけで花火するの?」
目を丸くするラピスの横で、鶫が何やら地面に線をひいている。
鶫はラピスの認識から行けば、凄腕の陰陽師の娘だ。正確には陰陽師ではないらしいが、陰陽師が使うような術はほぼ全て網羅しているというので、あまり変わらないとラピスは思う。
とりあえず今は、おそらく子供だけで火遊びをしても気付かれないための、簡単な結界を作っているのだろう。知り合いに警備隊の者がいるらしく、万一見つかった場合は色々言われそうだから、ということらしい。
「こんな程度の火使うだけで大人の監督がいるなんて、バカバカしいと思わない?」
何かの文字が書かれた札を鶫が取り出すと、一振りしただけで火がついて、燃えて消えていった。そんな光景に驚きもせずに、確かに……とラピスも思う。
それでもそういう決まりがあるのは、現に事故を起こした子供が過去にいるのだろう。鶫の言う「こんな程度の火」だって、使い方を誤れば惨事に繋がるのだ。どれだけ自信があっても所詮は子供、馬鹿なことを仕出かす可能性は大人の数倍はある。だからこそ決まりというものは、少々煩いくらいで本来は丁度いいのだ。
まあ、そういう者は最初から、決まりがあっても無くても、する時には馬鹿をするのだろうが。
とはいえ、これらの認識が鶫達に当てはまるものでもない事もラピスはわかっている。何しろたとえ、間違って火が草に燃え移ったりしても、力の一つや二つを使うだけで惨事を未然に防ぐことができる。
それが千族なのだから、人間を基準とする細々とした決まりを守る必要が無いのも、十分に納得できた。
……などということを、鶫が持った札の火が消えていく間に考えているラピスは、良く言えば思慮深い。普通に言えば考え過ぎだな、と適当に感じていた。
「本当はアラス君が来てくれるはずだったんだけど、急に仕事が入ったとかで、僕達すっぽかされちゃったんだ。あ、アラス君っていうのは蒼ちゃんのお父さんの友達でね。何でも‘水代わり’ならオレが適任でしょー、とかって言ってたんだけどさ~」
槶がにこにこと説明している横で、鶫が不満そうな顔をしていた。それが少しだけ気になっていたので、ラピスはあまり、マジメに槶の話を聞いていなかった。
鶫にしてみれば、その誰かが来ていれば、結界を張るなどの手間をかけずに済んだので当然だろう。
ちなみに蒼潤の弟の悠夜も何かと忙しいらしく、今夜は参加していないようだ。
「ほらラピちゃん。こっちが手持ち、これがネズミ、あっちのが蛇花火。他にも色々あるけど、わかりやすいのはこんな感じ。そこの線香花火は最後だからさっき言った奴の中で、どれが一番やってみたい?」
「うーん……蛇、かなぁ」
花火がどんな物であるのかは、少しは調べていた。確か蛇花火というものはほとんど、火を使っている感じがしない花火だったと思うのだ。
「蛇花火? よりによって一番地味な奴選ぶんだな、お前」
蒼潤が蛇花火をラピスに手渡しつつ、少し苦い顔をする。
「花火をやったことがないって言うなら、もう少し花火らしい花火をしてみろよ」
「いいじゃん蒼ちゃん、そんなの好き好きだよー。ほらラピちゃん、火」
槶がひょい、と地面に置いた蛇花火に着火する。黒い小さな円柱型の蛇花火は、もこもこもこと体を伸ばし、うねうねとのたうちまわっていく……。
「うっわぁ……本当に地味だね~……」
「だから言っただろ。花火としてはかなりの邪道だぞ、それ」
「蒼ちゃんみたいに、手持ちに十本位一気に火つけるのも、どうかと思うけど……今度はこっちどう? ラピちゃん」
「うん。ありがと、くーちゃん」
何だかんだ言っても、少しずつ色々な物をやってみると、一つの小さな火から様々な光が生まれてくるのが面白かった。
炎というよりも、光る花を見ている感じがする。花火という名前の由来を、身をもって感じたラピスだった。
「……綺麗、だね。花火って」
「そうでしょ? 本当はこんなのまだまだ序の口で、夏の終わりの大きなお祭りで、沢山の大型花火が打ち上げられるんだ。今年は一緒に見に行こうよ」
「あ、ゴメン。多分夏の終わり頃は、おかーさんの実家に里帰りしてると思うんだ」
「そうなの? 残念……ほんとに綺麗なんだけどなー」
あ、もう消えちゃったや、と槶が新しい花火を取りにいく。そろそろ普通の花火は底をついてきたようで、花火の終わりのお約束、線香花火の出番となった。
「あーあ……線香花火って綺麗だけど。これで終わりって感じが淋しいんだよね~」
「……うん。他の派手なのと違って、儚い感じがするね」
まるで彼岸花のようなその光は、とても綺麗なのに、何故か淋しい。
でもそれは、線香花火に限ったことじゃない、とラピスは思った。
どの花火も、その命とも言える火薬を、たった数秒の光のために一時に使い果たす。
花火の命を奪う火は、それが無ければ花火を生かすこともない。
そして花火の命と共に、それ以上何をも奪うことなく、光と共に静かに消えていく。
「こういう、消えていく運命だけの炎って……綺麗、だね」
何だかそれは、花火に感動するというより、花火の在り方が気に入ってしまった。自分のことながらラピスは苦笑する。
――炎の花など、嫌と言うほど、見てきたから。
本当はそんなに覚えていないけれど。全てを奪い尽くす、炎の凄惨さ。
その美しさに比べれば、こんなに小さな手の中の火は、全く取るに足らない。
……あれ、とラピスは、ふと止まった。今、自分は、確かに炎を美しい、と思った。
本当の炎に比べたら、こんな小さな火なんて、と心から思っていた。
「……なーんだ。それじゃあ……」
「――? ラピちゃん?」
不思議な顔をする槶にも気付かず、ラピスはじっと、手元の線香花火を見つめていた。
なーんだ……私、別に、炎が苦手なんじゃなくて、ただ好きだったのかな。
思わず惹きこまれてしまうくらい、美しい炎の前では、体が動かなくなってしまうほどに。
――その一瞬の感慨は、そこで。誰かによって絶対的な否定を受けた。
違う。違う。違う。絶対に違う。お父さんを殺した炎なんかに、ワタシが惹かれるはずなんてない。
全てを奪って、奪い尽くして。そうして奪うことでしか、存在し続けることができない炎なんか。こうして消えていくことこそ当然の火の方が、どれだけ綺麗なのかしれない。
確かに……と。ラピスという、「真実」を意味する石の名前をもらった娘は、ぼんやり考える。
儚い命を燃やす炎。そうして消えていく光。消えない火なんて、醜いだけだから………だからこんなに、花火は綺麗なんだ。
「…………」
とっくに消えてしまった線香花火を見つめたまま。ラピスはぼーっと、周囲の音を遠くに聞いていた。
まだ残っている花火を取りにいった槶。
来年はもっと沢山用意しよう、と言っている鶫。
することがなくなったので、剣の素振りを始める蒼潤。それを危ない、と怒る鶫。
当てるわけないだろ、と言い返す蒼潤。最後の花火をラピスに渡して火をつける槶。
またぼーっと消えていく光を、黙ったままで見つめる自分。
そんな自分の隣で、同じ光を楽しそうに見つめる槶。
改めて少し離れた場所で剣を振る蒼潤。
いち早くゴミを集め出すしっかり者の鶫。
いつの間にか、当たり前にその中に混ぜてもらえた異邦人のラピス。
ただ、今、温かな時間の中で。全身で感じる穏やかな幸せに、ある白い夢を、願う――
ああ……いいなぁ、こういうのって。
ずっとこれが、続いていったらいいのになぁ。
何があっても、このままの状態で。当たり前みたいに、みんなと仲良く、いられればいいのに。
たとえば私が、今ここで。花火の光と一緒に、消えてしまったとしても。
命を燃やして消え行く花火。それこそが綺麗な花火。
そうなってこそ、その存在が輝く花火。
だからそれこそ、花火の夢。花火が見た夢。消え行くための願い。
消え行くことが当たり前で、それ以上でもそれ以下でもなくて。
喜ばれるのに、淋しくって。
けれど殊更、気にされることもなくて。
それでもどうしてか、忘れられるということもなくて……。
花火が見た夢のように、このまま消えちゃったらいいのに。
このままみんなと、一緒にいるまま、消えちゃったらいいのに。
そのまま消えても、みんなと一緒に。ここにいるままだったらいいのに。
気が付けばラピスは、槶が鶫の方へゴミを持っていった間に、ふらふらと離れた場所まで歩いてきていた。
「――? あれ? ラピちゃんは?」
ラピスの姿が無いことにすぐ気付いた槶や、
「ちょっとその辺でも散歩してるんじゃない?」
見事にその状態を言い当てる鶫に、
「その内帰ってくるだろ。よくあることだしな」
適当に放っておいてくれる蒼潤。
この三人が、いつまでもこういう風に、自分を見ていてくれればいいのに。
ある日突然、彼女が消えても、殊更に心配もせず。と言って完全に、放っておきもせずに。
いつか帰ってくるだろう、と当たり前のように……いつ帰っても受け入れてくれて。
たとえいつまでたっても、帰ってくることがない場合でも……ずっと、こういう風に思っていてくれたら。
そんな風にここから消えられたら、それはどれだけ、シアワセなことだろうか。
どうして今、こんなことを考えるのか、ラピスには全くわからなかった。
ここにいたい、と思いながら、ここから消えたい、その夢が確かに胸にあった。
その夢はどう考えても矛盾して、自分の思いながらも、本当に訳がわからなかった。
「……でも私……ずっと、こう思ってたかもしれない……」
だからどうして、こんなことを考えて――そして涙が出てくるのか、ラピスには全くわからなかった。
それはきっと、わかってはいけない気がした。
「だってどうせ。いつか私は、消えるんだもの」
それがそう、遠くない日の運命であることを――
ラピスは知らずとも、ラピスのそばにいる誰かはずっと知っている。
ユメはいつか覚めるものだから。ユメをユメと知っているなら、その運命をも知っているから。
ユメの終わりにスベテが消えて。ヒトは二度と同じユメを見ることはない。
覚めてしまえば、もう二度と。決してこのユメには、戻れなくなる。
それならさっさと目覚めてしまえ。これ以上このユメにとらわれてはいけない。
どうせ消えるなら早く消えてしまえ。これ以上このユメを好きになってはいけない。
これ以上このユメにいたいと思ってしまったら……――
これを失った時、ワタシはきっとカノジョに負けてしまう。
ワタシはきっと耐えられない。これを失えばワタシはワタシでいられなくなる。
――ラピスも色々大変だよな……何かオレにできることあったら、いつでも言ってくれよ。
それもひょっとしたら、もうとっくの昔に、手遅れかもしれない、と知ってのことなのか。
本当はそこまで陽気でないくせに、自分の前では明るい誰かの笑顔を思う。
そこに不意にラピスは、夜に溶けそうな瑠璃色の髪と青い目で、真っ白な心のままで空を見上げた。
そうして今夜は、京の街を通る風が、ラピスの傍らを唐突に吹き抜けていった。
-了-
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DREAMS DREAMS
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――アナタのヒが、わたしタチのマエからキえてしまったトキのために。
その娘が失ったものを、察していたのは僅かな者達。
自らを成す記憶を代償に、常なる哀しみを封じた空色の女性と、青い目自体を日頃は封じた、記憶のない誰かだけだった。
「……ねぇ、ラピス。花火って本当に、とてもキレイなものなんだけど……」
知ってしまっている夢に、空色の女性は誰かに想いを分けることもできずに、一人――その娘と「彼女」の闘いを思いながら、ただ哀しそうにする。
「消えてしまうから、キレイなもので……ずっと燃えていたら、ただの火なんだって……わかっているけれど」
それでも女性は願ってしまう。誰も知らないココロの奥深く、女性の知らない女性が覗き見た夢。知ってしまった本当の願い。
「消えるからこそ、キレイだけど……ずっと見ていたい、って、思ってしまうのは我が侭なのかな……?」
膝の上で眠る養女の、キレイな瑠璃色の髪を撫でる。
それは、養女をそばに置く理由とは矛盾する。空色の髪と暗い青の目を持つ女性は知っていながらも。
「ずっと……消えないでいてほしい、って思うのは……おかしいのかな……」
――どうせこの子も、わたし自身ですら。
今こんな時間があったことを、覚えてはいないのだろうけど。
それを知りながらも、女性は口にしてしまう。
「ずっと、消えないでいたいって。花火だってそう願っちゃ……いけないのかな……」
―――キレイになんか、輝かなくたっていいから。
アナタにずっとココにいてホしい、とネガってしまうわたしタチは、ワガママですか……?
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✛幕間✛ Atlas' -cry- RA
暗く重い海の底に、その青銀の剣は長く眠っていた。
その剣は、水脈を司る化け物の力を受けるために造られたもの。化け物をヒトの形とする「眼」か、命の力を核とする宝剣だった。
――オマエは……オレを殺したい?
二つある眼の内、古の少年は既に一つを失っていた。
残った眼の力も剣に渡したことで、ヒトとしての形を失った。その命をも、ある空っぽの「神」の力で剣と一つにされていた。
――アンタが殺すべき相手なら――何をしてでも、アンタを殺す。
黒い蛇のような柄の中心に填まる透明な鈴玉は、それも少年と同じ化け物の眼になる。本来はその場所には無く、少年が剣となる前に身に着けていたことで、剣の一部となった玉だった。
――下手に動けば……オマエはあっさり死ぬんじゃないのかな。
海の底のように暗い、星一つ見えない夜の空の下。
闇に染まる天空の島の周囲に、ざわざわと大量の黒い鳥が集まっていた。
――アンタは何で……ここまで来たんだ――……。
人工の灯りの無い島を、暗幕で包むように醜悪な黒い鳥の群れ。
島の中央にある建物で、黒闇の指頭に囚われていた屍が、ふっと起き上がった。
「はくや、って……誰、だっけ……――」
黒い魔の宝なしに、動けるはずのない屍が真っ暗な窓を見上げる。
黒い大きな鴉の翼が、屍の背を一瞬覆った。聴こえるはずのない天の川のささやきが、屍の全霊に確かに光をともす。
――『鴉夜』を『悪夜』にしたくなければ、私にその剣を預けてもらう方がいいと思いますよ。
悪手に汚された体で、ゆらゆらと、夢を見るような足取りで外に出ていた。
「あいつに渡せば……はくやに盗られる、って……?」
常人なら禁制の地である聖なる島に、難無く大きな黒い鳥が侵入してきた。屍はまだ朦朧としたまま、空の拾い物を静かに受け取る。
「……天国へようこそ。『剣の精霊』君」
まじまじと宝の剣を眺める屍と、剣に宿る少年には後生の縁故があること。
この邂逅の時にはまだ、気が付くことはないままで――
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C2新約 Cry/R. -re_route- 下編
千族宝界録 Atlas' -Cry-/RA. -red ablution-
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†寂.RA
――全く、と。
ある空に浮かぶ島に急遽呼び出されるという、常識では考え難い事態。
金色の髪で尖った耳と紫の目を持つ妖精の魔女は、呼び出した旧い仲間の男を不機嫌そうに見返していた。
「私は妖精は嫌いとあれほど言ってるでしょう、レイアス。よりによって、ヒトをこんな所まで呼び付ける理由がそれとはね」
「すまない。ナナハ以外には相談できそうな奴が思い浮かばなくて」
彼らのいる方形の石室では、中央の石の台に金色の髪の少年が横たわっている。男――少年の養父は灰色の眼を悩ましげに細める。
それを前に、町娘のような姿の魔女は、冷静ながら大きな溜め息をついた。
「致命的な外傷は無し、精霊たる力も残ったまま、生命活動だけが停止している状態……おそらくは、常備していた宝剣が無くなった影響とみて間違いないでしょうね」
夕闇が訪れる前に、薄暗い空へ剣を手放した後、少年はその状態になった。養父が駆け付けた時には手遅れだった。
「今までこの子、剣を離すことはなかったんでしょ? この羽の代わりに、剣を自我の拠り所としていた可能性が高いわ」
言いつつ蝶型のペンダントを手に取り、魔女が眉を顰める。
「私が会った頃には、この羽は無かったはずだけど……あればすぐに、この子が妖精と断言できたはずだし」
過去に少年と面識のある魔女の言に、養父も難しい顔で頷いていた。
「俺も最近気が付いた。ここの所ユーオン、精霊の力を使えるようになってきてたからな……多分この羽を手に入れた影響だったんだろう」
少年は時により、金色の髪が銀色に変わる。金色の髪の時には体の激しい動きや「力」の制御が上手く行えず、化け物としてかなり弱小な部類にあった。
「そもそも普段のこの子が精霊そのものだったのよ。だからこの子が生きて動くこと自体、精霊が制御されてるということ……この剣に宿った誰か――『銀色』が傍にある限り、精霊を制御していたんでしょうね」
だからその弱小さは、制御の一貫だったのだと。銀色の髪の時は少年が大きな力を発揮することを知っていた魔女が納得げに呟く。
「……でもユーオンは、『銀色』の時のことをはっきり覚えてなかったのは?」
「この体は羽の無い妖精――精霊そのものだけど、精霊は魂が無いから、宿主無しには記憶を保つことができないの。羽の無い妖精は命だけ……無意識の存在なのよ」
自身も本来妖精たる魔女は、そこで一層悩ましげに顔を歪めた。
「だから『銀色』は、宿主でない存在なんでしょう。宿主なら共に在る間は全ての記憶を共有するはずだし、でもこの体――精霊を制御できて、不完全でも記憶を維持できたということは、精霊と似た霊気……自然を基盤とする化け物のはず」
ということは――と、養父は躊躇いがちに、その事実を確認した。
「ユーオンは、何かの事情で羽から剣に自我を遷した妖精でもなく……ただ剣に宿った、違う化け物だったということか?」
「ええ。この羽をもがれた妖精を操る、他人だったんでしょう」
自ら以外の体を乗っ取るという、呪われた在り方の化生。養父はただ、痛ましげな顔をする。
「……ここに羽があるなら、それならこの子は……元通りの、妖精としてなら目を覚ませるのか?」
おそらくはそれを考え、少年は剣に取りつけていたペンダントを外し、身につけてから剣を捨てた。その哀しい真意に養父は思い至っていた。
「この体をあくまで助けるためなら、それが一番でしょうね。精霊としての命を動かさなければ、このまま行けば近い内には、妖精としても本当の死をこの子は迎える」
元々少年の体はかなり力を消耗し、命が空に近い状態、と魔女は見ていた。
「今までこの体を動かした剣の力は、そもそも限界に近いはず」
いくら宝剣といえど、物に宿る程度の力はたかが知れている。しかし精霊としての命は残る、と魔女は語る。それはつまり――妖精たる体の主は十分再起できるが、剣である少年は寿命が近いということでもあった。
けれど、と魔女は、腕を組みながら呆れたように首を横に振った。
「ここまで固定化してる羽は初めて見たわ。これをこのまま元通りにつけるのは至難の業よ」
蝶型のペンダント。そうできる程小さく硬くなっている羽は、原形を留めていれば再接合は本来難しくないと言う。
「自分の意志でこうなったとしか思えないくらいに強固だわ。これを熔かそうとするなら、『黄輝の宝珠』レベルの力が必要でしょうね」
彼らがいる「火の島」は、世界の五大聖地の一つと呼ばれている。
中央の石柱に囲まれた本尊の石室以外は、島に来るワープゲートの泉しかない寂しい場所だが、「宝珠」の祭壇である「地」に行くにはこうした聖地を経由する必要があった。
「『地』の軌道はほぼ海の上だし。陸地に気流で運ばれても、この高度から落ちたなら、剣の方も無事とは思えないわ」
「…………」
「今頃は海の底か、地上で粉々になっているか。最悪、誰かにぶち当たって巻き込んでる可能性もあるんじゃない?」
皮肉げな顔で見る魔女に、養父はひたすら苦い顔をする。
「諦めた方がいいんじゃない? 剣も羽も戻せないなら、もうこの子はどんな形でも目を覚ますことはない。それとも今から、『黄輝の宝珠』獲りのリベンジにでもいく?」
「いや、水華を回復させる時間が必要だ。宝珠の継承の方法も今はわからないし、色々あってラピスも疲れ切ってる」
「そう。せっかく敵も打撃を受けたでしょうに、難儀なことね」
現在連れの二人の少女は、少年の体を診るから、と神殿の外で携帯用テントに待機させられていた。
「あれだけ敵に損害を与えれば、偵察としては充分以上だ」
彼らが日中に訪れた「地」で起きた戦闘により、誰もが消耗していた。そのさなかで養父も大きな負荷を受けたが、代わりに様々な重大情報を得ていたようだった。
魔女は、これまで養父がある国の女王から頼まれていたことを話題に上らせる。
「それにしても、本当に……パルシィ・ディレス・ディアルスが『地』にいたというの?」
養父が仕事で探していた人間の子。幼い頃に攫われ、今も行方不明の王子。
魔女がこの呼び出しに応じたのも、そもそもその名を聴いたからだ。王子を探して長く旅に出ている女王達の代わりに、魔女は「ディアルス」という国の留守を現在預かっている。
「ああ。外見は子供のまま成長が止まったようで……顔付きも違ったから、一見はわからないだろうが。確かにあの子の色は、ディアルス王家に伝わるものと同質だった」
養父はヒトの姿をしながらヒトならぬ力を持つ者――「千族」であり、それに自国の戸籍を与えた女王とは長い付き合いだった。千族と人間が共生するディアルスでは、王家が「力」を司る国宝を受け継ぐことで、人間でありながら王族は魔法の使用を可能としている。だからディアルス王家の血を持つ者は、「力」を見る特殊な眼を持つ養父からは同じような色に視えるのだ。
「貴方の『心眼』なら、それは確かでしょうけど……それならいったいどういうことなの?」
「わからない。人間は人間の体でも、別の『力』もあるようで……しかも見た目は男の子の、でも女の子だった」
はい? と魔女が、あからさまに怪訝な顔をする。
「色もあの子一つのものだけじゃなかった。けれどそれが――水華やユーオンを脅かした人形使いだ」
王子と同じ色を持つ幼子――人形使い。それは数々の悪魔と契約することで、悪魔が宿った天使のような人形を動かし、攻撃手段とする者と彼らは戦っていた。
「この件はまだ調査が必要だ。俺はしばらくここに留まる……詳しいことがわかるまで、誰にも話さないでくれ」
「そう。その状態でわざわざヒトを呼び出して、協力しろなんて虫の良いことを言うわけね」
「俺だって一刻も早く終わらせたいんだ。あの子供が王子なら、お互い心配事が片付くだろう」
養父が魔女を呼び出したのは、心置きなく調査を継続するためでもある。
「一緒に戦えとまでは言わない。ここに俺達が籠城できるよう、結界を張ってほしいのと、ユーオンの体の維持をしてほしい」
「当たり前よ。私はディアルスを預かっているんだから」
責任感の強い真面目な魔女。本来は遊び心を主とする妖精とは思えない表情で、魔道に長けた女への依頼を了承していた。
そして魔女が振り返った先には、壁際に無言で立ち、石台の少年をただ見つめている人影があった。
「ところでその結界は……アレは含めるの?」
「ああ。羽の無いあのコはもう無害だ。ユーオンを心配してるから、きっと守ってくれるだろうし」
「本当に? 元々敵方の切り札の人形でしょう? しかも……」
その人影は赤い鎧――珠玉を填める窪みのある胸当てに始まる装具を着け、真直ぐな長い黒髪を左で束ねる、青い目の無表情な少女の人形だった。敵側の切り札であり、日中には男が命がけで戦った相手でもある。
「命――力は感じるけど、魂は無いわよ、あの人形。またその黒い羽……幽鬼に憑かれればすぐに敵になるはず」
そんな者を本当に、自陣営内に置いて良いのか。魔女は男の判断を疑う目で見つめる。
養父も迷いの果てに、その行動を選択していた。
「それでも……ユーオンには、妹みたいだからな」
その脅威の人形の羽を斬り落とし、何とか連れて帰ることができたのは奇跡にも近かった。そこまで粘った養父は赤い天使と少年にも、確かな「力」の繋がりを見ていた。
「元々ユーオンは、アフィと何処か近い色を持っていた。あの人形はそれが更に濃い……ユーオンと同じ『竜』の色だ」
金色の髪の少年は昨春、瀕死の状態で発見された。それまでの記憶が無い少年を養子としていた男は、当初からある疑問――男の連れ合いに近い色が視える少年に不思議な縁を感じていた。
「確実に精霊なのに、竜にも見えるユーオンは、おかしいとは思っていたが……竜が精霊を操ったとも言える状態なのか」
「まぁ、どっちも自然の系統だしね。前例も聞いたことがあるし、そうでなければあの人形の鎧の強固さも説明できないわ」
世界の数々の化け物の中で、最強と言われた自然の脅威の化身「竜」。それは随分以前に滅びた種族でもある。
「剣があの子の本体なら、まだ竜がこの世界にいた頃に、剣に封じられた竜かもしれない。最も竜としてはそう濃い血統じゃなさそうだけど……人形の方はその同系、かなり血の濃い竜の力を渡されてるんじゃない?」
「そうだと思う。その力の在処を探して取り戻せば、あの人形の魂も戻るかもしれない」
その赤い天使は本来、表情も自在に動かせる程、高度な人形だろうと魔女は言った。それでもずっと無表情な赤い天使を見て、養父は沈痛を浮かべた。
「早い所、『黄輝の宝珠』の継承を終わらせて、王子も祖国へ戻して……ユーオンを助ける方法を探してやらないと」
硬く目を閉じた少年。赤い天使以外の誰の記憶にもいない孤高な存在に――養父はただ、その人形を会わせてやりたいようだった。
ところで――と。男の連れ合いの名前が出たのを機に、魔女はある懸念を思い出したようだった。
「アースフィーユ、魔界でついに消えてしまったときいたけど。貴方はそもそも、こんな所で油を売ってていいわけ?」
「……」
常に共に行動していたはずの夫婦。連れ合いを置いて逃げて来たと言える男に、養母の幼馴染である魔女が顔をしかめる。
養父は悩ましげに目を伏せながら、声の力は失わないまま言った。
「今の俺じゃ魔界の奴らには対抗できない。飛竜がせめて、俺と共に全力で戦えるくらいにならないと」
養父は最近、もう一つの体「飛竜」をあえて酷使している。本来養父が意識を集中して戦っている間は、複雑なことができない霊獣をかなり自在に、単独行動させられるまでに。
「ラピス達には黙っておいてくれ。それでなくてもユーオンや水華を狙う敵のことで、ラピスは大分追い詰められてる」
「そうね。アースフィーユはあのコの心の芯だったもの」
頷く魔女も、本来笑顔を絶やさない養女の消沈ぶりは見ていた。
養女は人間という弱小な生き物で、気付かれない程の拙い気配しか持っていない。そもそもある理由で自らの気配に乏しい養女が石室の近くで、少年を心配して聞き耳をたてていたことには、彼らは気付かないままだった。
「それにしてもどうして、このイタイケな子達は、そんな酷い目にあってるのかしら?」
「『黄輝の宝珠』を狙う魔王の残党に巻き込まれた。十五年前に宝珠の守護者達が魔王を倒した時に、魔王が奪った『黄輝の宝珠』は『地』に戻された……その後もずっと守護者不在のままできてる弊害だ」
「そんなこと言っても、『黄輝の宝珠』程の大きな力の守護者、そう簡単になり手が見つかるわけがないでしょう」
この世界には、世界の五大要素・五行元素を司る宝、五つの「宝珠」が古くから存在している。世界に隣接する魔の海「魔界」に不定期に「魔王」が現れる度、魔王と魔王に従う四人の強い魔――「四天王」が、宝珠を巡って守護者と争いを繰り返していた。
「黄の宝珠が司る五大要素の『空』も五行の『土』も、その因子の持ち主は魔王レベルの稀少さよ。敵側に魔王の力を継げる者がいたとしても、何故あの子達が巻き込まれるの?」
「水華は『空』の因子が宿る羽を持つ、黄の守護者の正統な『資格者』だ。敵方にも三人、『空』を持った奴らがいた」
説明しながら養父も、難しい顔をして首を傾げる。
「メインは『水』のはずの奴らが、どうしてか『空』の因子も持ってる。飛竜の眼で視たことだが、間違いはなかった」
「じゃあ合わせて四人、『資格者』がいるということ?」
「ああ。水華はそれで狙われてる。困ったことに敵方にはユーオンの妹と、ラピスの親の仇がいるようで――ユーオンはその状態で敵方に誘われて、板挟みだったんだろう」
少年は男の養子となった後、元々の養女であるラピスを本当の妹のように守ろうとしていた。
しかし今回、自らの記憶の無い少年に本当の妹という者が現れ、それだけでも少年は大きな迷いを持ったはずだった。
「でもそれで、自分の命まで空に捨てるわけ?」
「元々危うい子だったんだ。とても優しい子なのに、ラピスを守るためならその優しさをあっさりと殺す……ヒトより早く、その危機も解決の方法も観えてしまうから、自分の感情なんてそっちのけでいつもすぐに動くんだ」
現状把握に優れた勘の良さを持つ少年にとっては、観えている問題だけが重要だった。それが何とかなるのなら、それ以外は全てを切り捨てるのだと、養父は早くから悟っていた。
「……それも結局、自己満足でしょう」
「そうだな。だから、自分の都合でラピスに背を向けることが、自分で許せなかったんだろう」
大切なものが一つである内は良かったとしても。
二つ以上の大切が現れた時、破綻した少年――
自らを含め、何をも犠牲に大切と定めたものの力になることを望む在り方。その果てが冷たい石の台に横たわる姿だった。
養父はただ少年に、無情な灰色の眼を向けるしかできなかった。
_起:怨念たち
自然の化身たる精霊に、古の宝剣はなりかかっていた。
剣という人工物は、本来自然界には有り得ないものだ。せいぜいが刃のように鋭い自然構造物までが限度であり、「剣の精霊」など、精霊としてはそもそも存在しないものだった。
天空島の石室に横たわる妖精の躰は、それも特殊な精霊族の「刃の妖精」だった。だから「剣の精霊」は、刃の精が単身で動く妖と相性が良かった。
石室内に在る「刃の精」は行方不明の「剣の霊」へ、精霊周囲の情報を断続的に送り続けている。そのことを知る由もなく、夜更けにラピスと水華が石室へ戻ってきた。
「……私のせいかなぁ? 水華」
「――は?」
第一声から景気の悪い相手に、水華は同情心の欠片も無い口調で返す。
「あんたがそう思いたいなら、思ってれば? ラピ」
それでも水華の言は、ラピスを一応フォローしていた。
「コイツ元々ずっとテンパってたでしょ。遅かれ早かれいつかこーなったわよ」
「…………」
枕元に立ちながら言葉を続ける水華に、ラピスは暗い顔だ。
「それが今ってのはホントに大迷惑だけど。まぁでも――……仕方ないっちゃ仕方ないかな」
水華はそこで、両腕を組んでうんうん頷いていた。
「コイツの妹ごと、敵を全滅させよーとしたあたしも悪かった。うん」
「……水華……あの時のこと、覚えてるの?」
ラピスが深い青の目を歪める。
水華が魔法の氷刃をまとめて向けた相手の中には、水華の前世での兄と名乗る者と、母たる吸血鬼もいたはずだった。
水華は普段、透明な羽を背に持っている。しかし実際は人造の生き物であり、そこにいた吸血鬼はその基となった一人だという。
しかしそんな事情は意に介さずに、自陣営の者達すら巻き込み、殺戮の天使のような清らかさで、その凶刃は放たれていた。
――言っておくけど……皆殺しになるけど?
「別にい。ちょっと無理に黒の杖使ったから、力が暴走しちゃったけど」
「…………」
聖魔である水華は、白い三日月を先端に設える白い魔法杖と、先端が黒い三日月の二本の魔法杖を使う。その使い分けで、自身に併存する聖の気と魔の気を別に制御する魔法使いなのだ。
「ここも『地』も、筋金入りの聖地だもの。魔の気を使うならそれぐらいしないと、通用しないしさー」
「……ほんとにそれだけなの? 水華……」
そうして黒い魔法杖を使った時に、水華が現在の姿からかけ離れた者。淑やかな紅い目の少女となったことを、今の水華がどれだけ自覚があるのだろう。ラピスの顔が曇る。
「ユーオンは……『銀色』さんがいることは知ってたけど……」
「紅の天使」と異名をとった、水華のもう一つの顔。ただの人間であるラピスは、不安げに目を伏せてユーオンの方に視線を戻した。
「水華もユーオンも……私が知らない所へ行っちゃうのかな」
「?」
そしてラピスは、自らの咎にも言及する。
「……ごめんね、水華。水華のお母さんかもしれないヒトを、私……殺そうとして」
石の台の側方に座り、ラピスはユーオンにも枕元の水華にも背を向ける形で、小さく呟くように言った。
敵方の吸血鬼の女性は、ラピスにとって父の仇。そう言って護身用の銃をその吸血姫に向けた。
それでも結局撃つことはできなかった。その後新たな敵が現れた時に、水華は黒の魔法杖を手に取り、「紅の天使」に変容したのだ。
「別に? あたしはアレ、親だとは思わないし。あの吸血鬼に武器を向けたのはあたしも同じなわけだし」
それに、と。水華は台の右上の角に斜めに腰かけ、振り返る形でラピスを見つめながら言った。
「復讐上等、あんたが前に出たタイミングはバッチリだったわ。むしろ……気にしないで撃てば良かったのに」
「…………」
聖魔の混在した強い化け物である水華には、吸血姫という敵は弱小な虫けらに過ぎない。しかし人間の娘がそれを討てる機会はそうそう無いと冷静に伝える。
「あたしが狙うのは『黄輝の宝珠』だけ。あんたやコイツが、その横でどーしようが、あたしの知ったことじゃないし」
ある天上の鳥の羽を受けた人造の化け物、それが水華だという。それは羽の持ち主の未練――「黄輝の宝珠」を求める人形に過ぎないのだと。
羽の持ち主の兄と名乗った、敵側の神父の言葉を思い出して、ラピスは再び目を伏せる。
それでも常に、現実を確かめたいことがラピスの信条だった。
「水華はどうして……『黄輝の宝珠』がそんなにほしいの?」
その必要性が生じる前から、既にそれを目的としていた水華。核心となる問いを投げかける。
「そりゃ、あのバカ守護者? ユーオンが結局退治したけど、あれに対抗しよーと思ったら、宝珠の一つや二ついるでしょ」
「でも翼槞君が敵ってなる前から、水華は宝珠をほしがってなかった?」
「だってクアンも赤の守護者になりそうだしさ。バカ守護者ともクアンとも元は大きく変わらないのに、あたしだけ下ランクになるって悔しいし」
水華が以前から対抗心を燃やす、赤の守護者の子供。それを引き合いに出されると理解はできた。
「でも……」
それでもラピスは、納得がいかない様子で俯く。
「ずっと水華――……何処か、手加減してるよね?」
それだけ「宝珠」に拘っている水華。しかし昨日はあっさり撤退し、一番その感情、やる気らしきものを見せたのは別の場面だった。
「紅の天使」となってまで、敵を殲滅させようとしたこと。その時の感情こそがこの少女の最大値に他ならなかった。
普段の我が侭さすら理性的な少女に、ラピスは今更気が付いていた。
そこで、はい? と水華は首を傾げる。
「無駄な力を使ってなかっただけよ。特にあの天使――無敵のバカ人形がいたおかげでさ」
赤い天使。今もそれは石室で、ユーオンの足元でじっと石の台にもたれて座り込んでいる。一日前は敵だったはずの赤い鎧の人形を見て不服げな水華だった。
「……本当に大丈夫なのかな。あのヒト、ここにいても」
物言わぬ赤い天使は、表情も全く動かすことがない。
その人形の鎧には、銃撃以外はどんな攻撃も力も通用しない。水華や養父が最も苦戦する相手だということはラピスも知っていた。
「危ないならとっくに、ユーオンを連れて帰ってるんじゃない? レイアスも言ってたけど、今のあいつは本当に人形らしいわよ。あたし達の命令でも、少し念を乗せて言えばきくってさ」
ただし、ユーオンから離れろという指示だけは受け付けないらしい。呆れたように水華が口にする。
「……」
「だからレイアスも、あたし達をここに残して早速潜入なんて行くんでしょ。まぁいいけどさ――情報が入り次第、あたしも今度こそ宝珠リベンジだし」
そこまで呟くと水華は、つまらなさげに立ち上がっていた。
「あたしもう、向こうの聖堂で寝るから。早い所、力蓄えたいし」
そして水華が、石室を出て行ってしまうと。
「……」
「……」
物言わず少年に付き添い続ける人形が動きを見せていた。二人が来た時には顔も上げなかったのが、何故か足側で石台に両肘を置き、膝立ちした状態でじっとラピスを見つめてきていた。
「……私、邪魔かな?」
人形は身動き一つせずに、ただ青い目でラピスを見つめる。
ラピスはアハハ、と――その人形から目を逸らし、自嘲するように笑った。
「ごめんね――何処行っても邪魔者だね、私って本当に」
「……」
「あなた、ユーオンの妹さんなんだよね? ごめんね……私のせいで、ユーオンをこんな風にしちゃって」
「…………」
「ユーオンはホントは、あなただけを守れば良かったのに……私なんかのために、こんなに無理すること、本当に無かったのに」
人形の顔を見れず、ラピスは背を向けながら石台の端に座る。
それでも常にそうして、何事も直視する人間だった。
「私があなたから……ユーオンを盗っちゃったんだよね」
「…………」
「あなたは私のこと……恨まないの……?」
ただじっと人形は、青い目をラピスに向ける。
ずっと付き添うユーオンに対するのと同じように……人形が心配した相手だけを見つめているようだった。
そんな人形の澄んだ青い目を受ける、深い青の目の娘は――
「……いらないなぁ……」
澱んだ自身の目を笑うように、体を折って両肩を抱えた。
「私、ほんっと、いらないなぁ……迷惑、足手まとい……」
本当はとても拙い娘の深い弱音。誰にも見せたことのない想いをつい口にした。
「私がここにいたことに、たった一つでいいから……何か意味があればいいのに……」
それはおそらく――その人形が相手であったからこそ。
その赤い鎧の人形には、命はあるが魂は無い、と魔女は言った。
正確には心だけがあり、それを目印に力が違う所から流れてきている。それは養父も、横たわるユーオンもわかっていた。
それは、青銀の宝剣とは似て異なる状態でもあった。
魂とは広義には、命そのものを指す概念だ。対して狭義の魂魄は、命の核たる心霊と生き物の体を繋ぐ媒介のことで、心霊とは繋がっているが別のものになる。
体を支えるエネルギーが魄で、魂は存在の意識――精神や記憶を司るエネルギーになる。精霊には魂が無いと魔女が言ったのも自我がない実態を指す。
夜には何度となく、青白い光を仄かに放つ剣。そこには魂も命も存在している。
だから夢を観ることができる。その光を零すのは、いつも剣が夢を観ている時のことだった。
「やっぱり……君はとっても美味しいなぁ? ……キラ君?」
くすくす、と悪意の欠片もない白い笑い声が、剣を直接侵すように響く。
その剣が観る夢はいくつもあった。
一時期関わった海の竜の夢。長い旅を続けた陽炎の旧い夢。誰かの嘆きと誰かの憎悪の昏く赤い夢。
その赤い夢に相反する有り得ない世界の夢。そして剣自身の、身勝手で呪われた青白い夢。
――なんて……――ヤツ……。
吐き気を感じる躰を捨てた剣は、その衝動を光に還すことしかできず、命たる光を吐き出し続ける。
「いいよ……もっとあのコを追い詰めて、本当のところを晒してあげて」
その白い誰かは、自らを「守る者」と位置づけている。
失われた剣のために痛む娘を、むしろ悦んで見守っていた。
「そんなに痛かったかなぁ。誰もあのコを責めてないのにね」
――私、ほんっと、いらないなぁ……。
「大丈夫だよ、私がいるよ……もっと沢山――私を求めて?」
白い誰かが決して、娘を根本的には救わないことを知りながら。
それでも娘が望むなら、剣は娘の敵を殺すはずだった。
――ごめん……俺には、無理だったみたいだ。
「そんなに痛かった? キラ君……もう本当に、可愛いなぁ」
白い誰かは、剣の本来の心を奪った。長い時を待ち続けた剣の破綻を招いた。
その目的は、奪うための痛みをあえて与えることでもあった。
「もっと沢山……私にくれる忘れたい心を、思い出して……」
夢という現を、白い誰かは覗き見ている。だから他者の夢まで我が事と観る少年は大層のご馳走だった。
そうして旧くから続いた白の氾濫で、黒い柄の剣を侵し続ける。
+++++
怪我をした魔王一派。実に怪しげな者達が真に驚く程に、その剣はすぐに、彼らの手に渡った。
青銀の刃と黒い柄の剣は、相性の合う者が剣を手にしないと外界の光景がわからない。それが届くようになったのは、空に還った翌朝のことだった。
青を限りなく暗く、濃くした黒――青闇の短い硬質の髪。蒼い目で端整な顔立ちの青年がその剣を手にした直後から、剣にはすぐにも意識が戻っていた。
「いやはや、びっくりしたの何の。ふと目が覚めてみれば、まさかその隣に、オレを殺した剣がいるなんてね?」
青闇の髪の青年。包帯に包まれる右手の肘から先がない黒の守護者が、そんなことを軽く口にした。
「……君は、今までの翼槞君とは随分違いますね?」
青年と共に大きく負傷した神父が訝しがる。神父より早く目覚めた青年が、回復魔法のために喚んだ「力」で神父の傷は癒されたものの、青年自身の傷は癒せないらしい。そもそも斬られた時には幼い姿であったはずが、今では自然に青年と化してた。
無い手では扱えない三日月型の得物から、黒の宝珠が取り出されて胸の内に埋め込まれた。青年が意識を戻せたのはその緊急処置故だが、左手で剣を掲げながら、青年自身も不思議そうにしていた。
「うん、おかしいよね。オレは確かに殺されて、今も宝珠を心臓代わりにしてるんだけど……まずどうやって、屍状態でそれをしたのやら?」
彼らの現在の本拠、「地」の中央にある大きな建物。傷の治療が一通り終わった夕刻に、総計五人の面々で、宝の剣を取り巻くように冷たい石の床に座る。
「そうですね、胸の傷も、見た目が塞がっているだけで治っていませんね。翼槞君が最後の力で頑張ったんじゃないんですか?」
「あー。翼槞っちはクビかな。アイツの時に殺されたからかなり存在弱まっちゃって、もうオレが取り込むしかなさげ」
事も無げに青闇の髪の青年は、何事も嘲るような顔で笑った。
「オレはそーだなぁ。シア君とでも呼んでもらえばいい?」
剣の持ち主に青年は、確実に息の根を止められたはずだった。それが再び目覚めた時の名は、青年の本来の名とも違う、全く新しい誰かだった。
「……だから、髪の色が違うの?」
青年の右隣に座る幼子が、灰色の猫のぬいぐるみを抱えながら無表情に尋ねる。
「そうそう。オレは昔は、この色だったはずなんだよね?」
にやりと楽しげな青闇の髪の青年。美形の顔立ちでなければ、醜悪と見えそうな程にあくどい顔付きをする。青年の正面に座る陽炎に向き直すと、不意に問いかけていた。
「陽炎サンはオレのこと知らない? ってオレがいたはずの頃は、もう地上に降りちゃってるかな?」
「そうね。赤ちゃんの頃は何度か会ったけど、アナタの記録はもう何処にも残ってないわ――シアレイシア・ソウル」
青年が名乗った名前から、陽炎はあっさりとその固有名詞を引き出したようだった。
「アナタが『資格者』たる所以だけど。最後の黄の守護者……アレクシス・ソウルの血をひく唯一の男の子。でも『魔』によって消滅させられたはずの、アナタの前身かしら」
陽炎の左横で無表情に黙る吸血姫が、え。という風に体を硬直させた。
「らしいねー。見事な消滅で前世とすら言えない状態だから、単にシア君に似せて造られただけのオレなんだけど」
それでも親たる者の「力」を渡されることで、青年は前身へ近くなったらしい。しかし人造の吸血鬼は歪んだ顔で笑う。
「それでも何とか本物に近かったけど。だからアイツは元々、シア君が死んだ十三歳までの心しかないからね?」
そもそもそれで、吸血鬼の躯体の本来の主は最近弱まっていた。悪魔使いたる黒髪の幼子に囚われた因もそれだった。
「ずっとサボってた残り物のオレは、早い話――消滅させられたシア君の怨念みたいなもんだと、思ってもらうといいよ」
「ということは君は……翼槞君とは違う望みを持っていると?」
「当たりー。それはソールっちとオレだけの秘密だけど、まー、アンタ達の目的と大きく反しないと思うよ?」
「……」
そうして、それまでと同様に彼らの協力をすると言う。それに無機質な目を向ける黒髪の幼子だった。
「ところで――」
青年はきょろきょろと、不思議そうに辺りを見回す。
「『ピアス』ちゃんの姿、見えなくない? せっかくこの剣、ここにあるのに?」
「……ずっと呼んでるのに、帰ってこない。あのヒトに羽を落とされてから、ぼくの言うことをきいてくれない」
これまでで一番不快げにする幼子に、なるほど、と青年は意地の悪い顔つきで笑った。
「へー。さすが、本体は向こうなだけのことはある」
そんな青年をものともせずに、幼子は青年の持つ剣を見つめて呟いていた。
「兄さんがここに来たから、さっきやっと声が届いたけど……帰ってきても、あまり言うことをきかないかもしれない」
「おやおや。それは大きな痛手ですねぇ」
「呑気なことを言わないで、ルシウ。それでなくともこの件は、私達だけで片付けるように言われているのに」
人手不足を悩む体の陽炎に、青年がまた嫌味っぽく笑いかける。
「でも水華の杖も無効化して、ユーオン君の剣もこっちにあるわけだろ? ピアスちゃんが直接敵にならなければ、機はオレ達にあると思うけどね」
最早、この天空島に近い「火の島」に立てこもる敵の中で、脅威と見なすべきは二人だけだと笑う。
「飛竜の兄ちゃんと水華と……それも水華は、杖無しで下手に戦えば無力化するはずだし。オレとルシウの兄ちゃんだけで、たためる相手だと思うけどね」
「よく言うわ。聖の気に当てられて大分弱体化してるくせに」
「いやいや、それは生粋の魔の翼槞っちだけ。オレはむしろ、聖の気は力になるくらいだし」
それは彼の前身を考えれば当然のことだ。知ったはずの陽炎を嘲る。
「それより、ルシウの兄ちゃんはどーさ? いい加減その躰、ガタでもきそーなんじゃないの?」
そこで青年は、白銀の髪の神父の本体にも言及を始めた。
「蓮華もボロボロの年寄りのくせして、よくやってるけどさー。あいつの変身能力もそろそろ、やばいんじゃない?」
青年が口にした名の主。それは誰かの魂を身体に受けることで、気配ごとその魂の主を再現できる変化能力を持った鬼女だった。
「どーしても顔と羽は、ジェレス・クエルを完全再現できないみたいだし。力を使えるってことは、ちゃんと魂は入ってるのにね」
「そうね……Jはもっと、優しくて穏やかなヒトだもの。ルシフージュは再現できても、Jは還ってこれないんだわ。可哀相なJ……」
自身について言及されながら何も言わずに微笑む神父に、陽炎は忌々しげにする。
「きっとまだ、『黄輝の宝珠』に半分封印されたままなんだわ。封印者のアレクシスは十五年前の戦いで、魔王が消えた後に、宝珠の中にいた彼も消えたけど……」
最後の黄の守護者は、天の民でありながら天空の島に悪魔を呼び込んだ実の弟を、長く自らの宝珠に封じ込めた。その時に守護者も身体を失い、宝珠の中に在り続けることで封印を守っていたという。
「……」
傍目からわかる程憎悪をたたえる陽炎に、隣の吸血姫が無表情のまま、居心地悪そうにする。
「たとえ陽炎という悪魔の囁きであっても……Jをここに呼び戻すためなら、宝珠は私達が手に入れる」
「――あれ? 陽炎サンは、あんたの方が悪魔って言ってた気がするけど?」
にやにやと頬杖をつく青年にも、陽炎は不快気な視線を返す。
「私は確かにここで暮らしていた天の民よ。陽炎に体の自由を奪われてからは、ずっと依り代に潜んでいたけど……」
その依り代たるペンダントを、陽炎はずっと身に着けていた。しかしそれは少し前に、青年が持つ剣に胸ごと斬られ、破壊されていた。
「Jがもう一度、私の本当の名前を呼んでくれるまで、私は悪魔にだって協力すると決めたの」
破壊の前後で、同じ体でも口調の変わった乙女達は、どちらも嘘はついていない。今の剣にはそれだけがわかった。
「…………」
そんな陽炎を黒髪の幼子は無表情に見つめる。こうした話の時にはあまり口を開かない神父のことも黙って見つめる。
まあ――と。青闇の青年は、自分で始めた話をまとめにかかった。
「近い内に火の島のアイツら、ここにまた来ると思うよ。その時に、利用するならする、倒すなら倒すで、各々の好きにすれば?」
ちょうどその時、ばさりと。
青年の後ろに降り立った、黒い羽の憑いた者があった。
「……お帰り、ピアスちゃん」
そこで歪んだ微笑みをたたえた青年は――青銀の剣をそのまま、躊躇なく、赤い天使に手渡したのだった。
――……!
その剣を赤い天使が手にした瞬間。
元々外部の魂に敏感な依童、しかもかなり高度に造られた天使人形が持ったためか、青銀の剣に思考ができる意識が戻った。
そして赤い天使が、少年と同系統の現状把握能力を持つためか、ある者の潜入がわかる程に剣の感覚も研ぎ澄まされた。
――……レイアス……ここに、いる……?
その真円の白い天空島は、継ぎ目のない不思議な石の構造物だ。散在する人家や道々の他は森ばかりであり、戦禍で崩れた家も多く、荒廃した空気が漂う廃墟が「地」だった。
その島に単身、ある男の力、「霊獣」――「もう一つの自分」である飛竜を、かなり小さくした密偵が紛れ込んでいた。
――あいつもそれ……気付いてる、のに。
最早気配の探知では気付かれない程、飛竜は偵察だけを目的に弱められている。しかし黒髪の幼子なら気が付くはず、と赤い天使と同じ現状把握が可能な相手に剣は戸惑う。
――何であいつ……何も言わないんだ?
剣にそうして、意識が戻った頃に――
ちょうど少年の躰の方で、飛竜の本体の養父が、水華とラピスを前に現状を説明していた。
「ユーオンの剣が見つかった。何とか無事だったみたいだが、どうした訳かわからないが、『地』の奴らの手に渡ったようだ」
「――へっ?」
「……嘘……」
日が沈んだ頃、突然赤い天使が羽を生やして去ったことを、二人は不思議に思っていた。納得したように顔を見合わせる。
「だから……あのコ、帰っちゃったんだ……」
「まずいわねー。それだとコイツを無力化したまま、コイツの剣はあの無敵人形に利用されるって寸法?」
「その可能性も無くは無い。あのコがこの先どう出るつもりか、それによって戦局は大きく変わるな」
ふう、と溜息をつきつつ、養父は横たわるユーオンの傍らに立った。
知らずラピスは、養父のケープの裾を掴んでいた。
「…………」
養父は苦く笑いながら、養女の頭を優しく撫でる。
「昼間に……奴らがごたごたしている内に、少しだけ人形使いを探ることができた」
「……え?」
日中には青闇の青年が目を覚まし、神父の治療のためにヒトが出入りしていた。その間に小さくした飛竜で、養父は偵察を存分に行えていた。
「あの子供は、俺とアフィがずっと探していた、ディアルスの王子かもしれないんだ。けどそれにしては幼過ぎるし――まずあの子自体、女の子だし」
「……確かに。見た目は男の子っぽいけど、あいつ、女だった」
一時期に水華は、黒髪の幼子に姉人形として操られていた。黒歴史を思い出した、とばかりに苦い顔をする。
「あの子は俺の潜入に気付いているのに、誰にも言わずに自分から俺の近くまできて……『ピアス』を返して、って直接俺に言ってきたんだ」
「……え?」
「いっそ、その場で攫おうかとも思ったんだが……どうやら洗脳の類の力をあの子は持っていて、迂闊に近付くのも危険だった。あの青く光る緑の目も、元は魔族のものだったはずが……今のあの子は、人間になった魔族、まるでそんな感じで」
男はその時、人形使い――黒髪の幼子の正体に気が付いていた。
それを全て口にするのは憚られ、簡潔に要点だけを伝える。
「人形使い。それは洗脳の力と、ユーオンみたいな勘の良さで、悪魔と一方的な契約を交わす力を持った子供だと思えばいい」
「ふーん。珍しい嫌な力をダブルで持った、やな子供ってわけ」
「ああ。更に怖いのは――普通、悪魔と人間の契約は、人間の魂を代償に、人間の望みを悪魔が叶える形なんだが」
それこそが黒髪の幼子、人形使いの脅威、逆転契約であると、養父は灰色の眼をきつく顰める。
「あの子は悪魔の望みを、悪魔の魂を代償に叶えようとしてる。だから悪魔を使役できるんだ……数々の悪魔の望みを全て把握して」
「それって……結局どうなるの? おとーさん」
「悪魔の望みを叶えるために、あの子が悪魔に指示するんだ。あの子が望みを叶えようと動く内は、悪魔はあの子に魂を渡す。けれどあの子がやめようと思えば、いつでも悪魔の魂を返し、その契約を破棄することができる」
それは一見、どちらにもメリットのある方法で、だから悪魔も従うのだろう、と養父は言う。
「詐欺じゃないの。望みが必ず叶えられるとは限らないのに、叶えようとしてる内は言うこときかされるんでしょ、悪魔は」
「水華の言う通りだ。だからあの黒の守護者も……何か願いがあるなら、あの子の人形でいるままだろう」
「…………」
元は優しい知り合いだった黒の守護者。それを思い浮かべ、ラピスは一人、目を伏せていた。
「それじゃあさ。剣の中のユーオンを洗脳して、今後は言うこと聞かせるのかな、あいつ」
「どうだろうな。あの子はただ……優しい兄さんやお姉さんがほしいだけだって、俺に訴えてきたよ」
「優しい兄さんや、お姉さん……?」
以前に水華を人形とした、黒髪のその幼子。
それはラピスのことも害意なく見つめていた、とラピスが思い返す。
「悪魔の望みを叶えたいのも、あの子には本心みたいで……だから悪魔――あの子が操る人形の大半は、あの子を心から慕っている」
「あー。それは確かに、そんな感じだった」
うんうん。と水華が納得したように頷く。
「あの天使人形――あいつの分身みたいな『ピアス』が、悪魔憑きの人形達の中ではカリスマなのよ。悪魔は純粋な人間が大好物って言うしね……何にせよまじで、そりゃ性質が悪いわ」
で――と、冷静な見解を持ったまま、水華が養父をまっすぐに見返す。
「それが本当に、ディアルスの王子なわけ?」
「ああ。王子以外の奴も中にいて、それであの状態だけど」
「じゃあおとーさんは、あの子を連れ戻さないといけないの?」
「……可能ならばな。でも俺は、それよりもまず――剣の方を取り戻したい」
先程ラピスの頭を撫でたのと同じように、眠るユーオンの金色の頭に養父は手を当てた。
「明日は梅さんがここに着くようだ。それで『黄輝の宝珠』についても検討して、俺達の身の振り方を決めよう」
「……忘れてた。そんな占い師もいたわね、そういや」
「……ヒドイね水華。仮にも水華の、前世の育てのお母さんに」
普段より覇気はないが、その老婆はラピスがすぱっとつっこんだ通りの存在だ。水華が持つ羽――魔である少女に聖の力を与える羽の本来の主の、乳母を自称していた。
これで今夜の相談は終わりだ、と養父が苦くも微笑んだ。水華がテントのある聖堂の方へと戻った後で、ラピスはユーオンの傍らに立ったまま、心許なげに尋ねる。
「おとーさん……ユーオンは、剣が戻れば助かるのかな?」
「……そうであってほしいけどな、俺も」
育ての父が手放しにそれを保証しない理由を、ラピスもよく理解していた。
「早くみんな……心配事が、なくなるといいよね」
しかしラピスは、自身の拙い弱音を育ての両親に向けることは滅多になかった。
「ユーオンが元気無いと、鶫ちゃん達も心配しちゃうよ」
それは育ての両親にだけではなく、遠くに在っても何度となく連絡をとるような、仲の良い者達に対しても同じだった。
「……ラピスもあまり心配しないでいい。とりあえず休め」
そのため周囲は常に、それ以上踏み込むことができないでいた。
せめて、現在どうにもできない凶報は伝えないことが、一人で抱え込む娘を守る唯一の方法だった。
しかしそれすらも。彼らの気遣い方を知っていた娘は――
「……嘘吐き……」
誰にも聴こえないようそれだけ呟き、独り微笑んだのだった。
心配しないでいい。
間が悪くもその言葉は、ラピスの実父が死ぬ前、娘にかけていった言葉だった。
養父が見張りのため神殿の外に出ていった後で、ラピスは石室に残った。石台にもたれて膝を抱えて座りながら、とりとめもなく話しかける。
「ねぇ、ユーオン。ピアスちゃん、本当にいいコだね」
ユーオンの元を離れなかった人形が、突然いなくなったわけ。それはやはり少年に関係することだった、とラピスは納得していた。
「ピアスちゃんなら、どんな形でも、ユーオンを助けてくれる気がする。私とは……大違いだなぁ」
その人形は、ラピスにとっては鬼門だった。有り得なかった幻の世界では、ラピスの大事な相手――もう思い出すこともできなくなった赤い目の誰かを、赤い天使が殺したのだから。
それでも常に核心を探す娘の深い青の目には、赤い天使が自らその悪行をとるわけではないことが既に映っていた。
「ああいう優しそうなコを、それを利用するヒト達って本当に腹が立つね……でも私もユーオンに、同じことさせちゃったね」
言い切る少年を思い出す娘も、少年の行動は自己満足のものだと知っていた。
――ラピスのせいじゃない。オレが勝手にそうしたいって思ったことなんだから。
ただ少年の自己満足は、自ら以外に焦点が合っている。利用する側に都合の良い困った優しさに基づくものなのだ。
それを知っていて少年に甘えてしまったラピスは、歪んだ微笑みをそこで浮かべる。
「お父さんとちょっと似てるな……お父さんはいつも、これは償いだからなんて、ヒトのことばっかり考えてたしなぁ」
ラピスの実の父は、山賊行動をした罪で追われ、西の大陸山奥の村に逃げて来た若者だったという。その兄弟を匿ったのが母の家だった。
「でもそれも、病弱な叔父さんのためだったって、お母さんは言ってたな……」
そして隠れ里たる山奥の村に、その貧しい兄弟を連れていったのが――
「……本当は、お父さんを助けてくれたのが、あのヒトだって……お父さんも言ってたのに……」
父が死んだ理由。水華によく似た吸血鬼の女性。
敵側の銀色の髪で赤い目の吸血鬼は、かつてラピスと実父の前に現れた女性だ。銀色の髪で緑の眼の、尖った耳を持つ類稀な美少女……後で知ったことには、吸血鬼である女性だった。
吸血鬼の女性から見て父は、女性の知人と似ていたらしい。おそらく知人に似ているからという気まぐれで、吸血鬼の女性は山賊行為をしていた若い父を救ったのだ。
「私達の村で仕事があるってあのヒトは言ったから。私が村を案内して……お父さんに会わせなければ良かったんだ……」
今もそれだけを悔やむラピスは――
父が恩人である女性を手伝おうとして巻き込まれ、業火の中で死んだ記憶を、詳細は思い出せないが刻み込まれていた。
「……でもそれも……お父さん自身の責任だよね?」
まるで少年に、目覚めてその答を教えてほしい、とばかりに、拙い声色でラピスは自らの咎を問う。
「それなのにどうして……私はあのヒト、殺したいのかな……」
ラピスは自身の昏く赤い夢を覚えていない。ただ殺意だけを長く残されてきた。その「仇討ち」も、旅を続ける言い訳になりつつあった己を、ここに来て確実に持て余していた。
「何か大切なことを忘れてるって……忘れてるってことだけは、前は覚えてたんだよ……」
その弱音はかつて、育ての母には話したことがあった。
「おかーさんは、思い出したいなら止めないけど、できれば思い出さないでいてほしいって言ってた。私、その時……よくわからないけど、ホントに安心したんだ」
そう望まれたなら、そうして良いのだと。育ての母の空のような青い目は、ラピスが昏く赤い夢に呑まれないことだけを望んでいた。
でも……と。ラピスはそこで、膝の間に頭を沈めて俯く。
「おかーさんは、自分はいつか消えるって、言ってた……」
――魔界でついに消えてしまったときいたけど。
「それなら私……何処に行けばいいのかな、ユーオン……」
今でもその母の帰りを、最も切望していた瑠璃色の髪の娘は……。
ラピスが吸血鬼の女性を思い出していたように、吸血鬼の女性側も、その幼い娘を夢に見ていたようだった。
――……あなた……名前は?
赤い天使が持つ剣の傍で。吸血姫の内に眠る銀色の髪の女性が見る、遠い日の夢が剣に伝わる。
――シルファだよ。おねえちゃんは、だれ?
育ての母がつけてくれた、ラピスと名乗る娘の本名がシルファだ。
にこにこと明るい顔のシルファに、銀色の髪の女性は子供が好きなのか、同じくにこにこと微笑みを返す。
――レイン、かしらね。こう見えてもおばあちゃんなの。おばあちゃんの悪魔よ。
レインと名乗る銀色の髪の吸血鬼には、目を覚ませるほど命が残っていない。他の吸血姫の羽が埋め込まれて身体が維持されていることで、夢を見るくらいの魂の存続はできていたようだった。
そして現在、己の躰を動かす吸血姫のことも、吸血鬼の女性は同じように夢に見る。
――え、えーっと……私、ミカランです……。
後に、正式名称はミカラ・スレイグルと名乗った吸血姫に、女性はああ、と納得したように、容姿に似合う物静かさで笑った。
――貴女、スレイグル博士の娘さん?
本来、血の毒の感染で眷属を増やす吸血鬼族には、真の親子は滅多にいない。けれどその生物学好きの奇特な博士には、子女の存在は有り得ること、と微笑む。
――ううん、娘のマキラのクローンですー……私は失敗作なんですぅ。
当初押しかけて来た時の元気さから一転し、暗い顔で口にするミカラに、おやおや。と女性は虚ろな同情心を浮かべた。
ミカラがそもそも、吸血鬼の女性の元に押しかけて来たのは、ひょんなことが発端だった。
南の島で現在医者として働く知人に、偶然怪我の診察を受けたミカラは、その医者に一目惚れしたらしい。
――貴女、先生の恋人なんですか!? 教えて下さい!
自身はもう長くないと知っていた女性は、押しかけてきたミカラを逆に応援する。
戸惑いながらミカラは、そうして吸血鬼の女性と仲良しになっていき、南の地で医者の周辺をうろつく生活を続けていた。
しかしその南の島には、ある教会にもう一人、医者に思いを寄せる女がいた。
――先生……どうしてここに来られたんですか?
医者からは顔見知りに過ぎない人間の女。病に臥せる神父の兄を持ち、代わりに魔性の神父が赴任した教会にいたのがその女だった。
――先生……私、ずっと、先生のことが好きだったんです。
女の兄を往診する傍ら、心細い女はやがて医者に縋りついていく。
――私以外に先生に近づくヒトは、みんな大嫌いです……。
神の代行を自負する聖職者の家の女は、特に悪さをしていなかったミカラを罠にかけ、神の敵として聖なる杙をその胸に打ち込んだ。そしてミカラの本来の身体を灰に還してしまった。
そこに駆けつけながら、吸血鬼の女性はミカラを助けられなかった。場にいた魔性の神父と交戦し、そちらには勝ったものの、その後に現れた黒の守護者と、黒髪の幼子が連れる人形には敵わず、永い眠りにつくことになった。
そしてその女性の躰に、黒の守護者の采配でミカラの羽を植えたこと。それはむしろ、女性が望んだ結果であるようだった。
吸血鬼の女性の身体には、大きな火傷の痕があった。
それは、ラピスの父を奪った炎によるものだ。「水」を司る北の四天王として、過去に魔王に従わされていた女性程の者でも、自らと娘の父を守り切ることはできなかったのだ。
――…………。
吸血鬼の女性の夢をかいま観る剣は、そんな女性によく似ていた者。両目を焼かれた火傷の痕を、常に目隠しで覆う銀色の髪の女性を知っていた。
どちらの女性にも共通していたのは、鋭過ぎる感覚を持ち、自分以外のことばかり気が付いてしまう性質だった。
そんな女性の連れ合いは、剣となる前の銀色の髪の少年に、少年をその女性……育ての母にそっくりであると言った。
――俺は……あいつを、殺せない――……。
ラピスの仇。少年は女性を殺さなければいけなかった。
女性はもう少年の育ての母ではなく、吸血鬼――また四天王として、多くの者を傷付けた呪われた者であるのに。
――だって……あのヒトは、俺のせいで死んだのに……。
それなら自身が滅ぶしかない。それが剣の答だった。
剣には本当は、滅んではいけない理由があったはずだった。
それはユーオンには、自身の記憶はなくともわかっていた。
――剣になってまで生きてるんだから、よっぽど生きたい理由があったんだろな。
いつか理由に出会えば、その時にはわかるだろう。
たとえ呪われた在り方であっても、あったはずの役目を探し、それが少年の何より大切な生きる力だった。
それは元々、誰か――本来、「妹」を助けたいはずの願いだった。
「あのコの敵を……君の妹の敵を、殺してね?」
妹という存在を軸に、すり替えられた心。それも剣の大切な願いとなってしまった。
――殺せないなら……剣なんて持ってちゃいけないんだ。
剣はヒトを殺すためのもの。だから剣を持つならヒトを殺すこと……自らの意思に関わらず、必要な時にはヒトの命を奪うことを少年は当たり前とした。たとえ弱小の身でも、それが剣を持つ者の覚悟であると。
その心にも関わらず、殺したくないと歎く青白い逆光。それは己であり命である剣を否定する、少年の終着点であり。
――それなら――……俺の役目は、終わったと思う。
剣がそうして終幕を希む限り、赤い天使は、剣を少年の元に戻す気はない。そう言いたげに、肌身離さず抱き続けるのだった。
_承:剣と死神
その吸血姫の望みは、ただ「生きたい」、と。
剣を決して手放さない赤い天使の近く、新たに剣を襲う夢は、それだけを訴えかけてきた。
「……うん。わかってるよ……ミカラン」
悪魔とも言える吸血姫。望みを叶えるために契約した幼子は、代わりにその魂を手中に収めている。夜の闇に包まれた建物の中、無表情に壁に持たれて座りながら呟く。
「もう一度、ミカランに戻りたいよね……わかってるから……」
ぎゅっと、幼子は大きな黒い両目の灰色猫のぬいぐるみを抱く。赤い天使には自身であり、剣の関係者であるはずの黒髪の幼子。
「『ピアス』はぼくなのに……ぼくが、言うことをきかない……」
明け方から見回りに出た者達について、赤い天使は勝手に外に出ていってしまった。それに小さく溜め息をつく。
「兄さんもルシウも……ずっとこのまま、届かないのかな……」
幼子が一番、力になりたかったはずの者達ほど――
幼子の純粋な願いが無意味となる、救い無き者達でしかなく。
赤い天使の誰かの望みは、ただ、「帰りたい」。
ぬいぐるみを離さない幼子の近く、赤い天使と幼子の内の誰かは、それだけを長く望みにしていた。
――……兄さん達のいるところに……帰りたい……。
有り得ぬ望みと知りつつ、時の止まった心に他に願いはなかった。
いつしか湖の底となった、東のある聖地にて。旧時代の宝物収集家が封じた不滅の園で、誰かは宝の鎧の内に宿り続けた。時が止まったことが幸いし、その鎧が発掘されるまで己の心を保ち続けたのだ。
「あーあー。かわいそーに、ピアスちゃんとソールっち」
「――?」
夜明けとともに見回りに出た彼らの後方で、赤い天使はずっと剣を抱えている。それを一瞥して言った青闇の髪の青年に、平らな屋根に立つ神父は微笑みながら首を傾げた。
「ソールっちのそばにいればいいのに。オレ以外優しくしてやらないから、ついてくるじゃん、ピアスちゃん」
「君は、翼槞君とは違うと言いますが、優しいんですか?」
にこりと笑って尋ねる神父に、青年もにやりと返す。
「クレスと同じ青銀の髪の色が変わったのは……俺も残念ですけどね」
その神父が殺したという、二代も前の黒の守護者。「魔」の神父になる前には従兄だった者が、天の守護者であるのに魔力しか持っていなかった異端の「クレス」。
「魔」の口からその名が出たことにも、青年は笑う。
「そもそも何故、あの青銀色だったんです? 君の体は、黒髪のシア君に似せて造られたものでしょう?」
「そりゃねぇ。この体を支える黒の宝珠には、十五年前まではずーっとクレスが残ってたしね。それで性格も姿も似たんじゃないの?」
「力」を持った人造の生き物とは、まず完成しないか、完成しても心を持たないことが多い。そのため結局稼働しないことがほとんどであり、この青年や水華の如く、宝珠や羽といった外部の補助媒介を持たせてすらも、成功例は稀なのだという。
「でも……そこまでしつこく宝珠の内に残るなんて、クレスにはよっぽど、大きな未練があったんだろーけど」
「…………」
微笑んだままの神父に、皮肉気に青年は振り返って笑う。
神父は青年の核心を探りにかかる。
「それでは君は、クレスの未練のために動いてきたんですか?」
「いーや? クレスはとっくにオレの魔力ごと消えたし、翼槞っちは単に、保身しながら水華を守護者にしたかっただけだしなー」
そこに過去の黒の守護者の未練は関係ない、と青年は笑う。
でも……と再び青年は皮肉気に笑う。
「今度はオレが直接、宝珠をもらう。この体はオレが好きにする」
長く閉ざしてきた己を解き放つ、自称怨念。そうして昏くあくどい笑みだけをたたえる。
「水華にソールっちの声が届くなら、また別なんだけど。なかなかあいつ、人形のくせに……人形だからこそしぶといや」
そこに在るのは確実に、水華のためにはならない思惑。その声が改めて、赤い天使が持ち続けている剣に、思考と感情の火を点していた。
――……アイツは……俺の敵だ……。
そんな剣を知る由もなく、神父は淡々と青年に尋ねる。
「君は俺を利用しようとはしないんですね。それは俺の甥、本物のシア君としての遠慮か、クレスの甘さの影響ですか?」
「さぁねぇ。オレにクレスの記憶はないし、そもそもアンタは、クレスやシアが知ってるJじゃないし」
だからそれは彼の契約者の意向だ、と青年は無機質に答えた。
「ソールっちは今のアンタに、そのまま力になりたいんだってさ。だからピアスちゃんとずれるのかな? ピアスちゃんは本物の兄さんに、ソールっちは偽物に感情移入しちゃってるから」
今も彼らの後ろに立った、赤い鎧の天使を振り返って言う。
「……ねぇ? 兄さんが心配だよね? 無敵のピアスちゃん」
その天使の赤い鎧には、旧い誰かの命が囚われている。それを青年も察していた。
「魂の無い人形を動かす程の、強い想いなんだから……何一つ答えてくれない兄さんは、本当に冷たいよねぇ」
そこにあるのは命という、心の本質だけだ。その自我を司る魂は人形使いの内にあることも、命を扱う死神を副業としてきたこの青年にはわかっていた。
「ま、ソールっちに関しては仕方ないけど。所詮アンタの同類、人間かぶれの元魔族だし」
「おやおや。仮にも一国の王子に、酷いことを言いますね?」
「王子じゃないし。王子を喰って人間になった魔族じゃん。可哀相に、パルシィ君てば。鬼娘に攫われた上に喰われちゃった」
「と言っても、彼女は結局王子に負けましたがね。王子に扮し、化け物の多い大国を乗っ取る野望が、残念なことです」
全く残念そうに見えない顔で、神父も無害そうに笑った。
「でもそれで『桔梗』も若返ったわけだし? 洗脳の能力を体ごととられたけど、幽鬼――黒い羽としてピアスちゃん達にも影響力があるし」
「所詮桔梗もただの残骸ですよ。ピアス少女の魂で、人間の真似事をしているだけでしょう」
一つの幼子の内に宿る様々な者達。それを全て突き放す神父の笑顔だった。
「真似事の延長で、人形使いができたら大したもんだけどなぁ。いったい今は、誰が『ソール』で、どれだけ王子の躰を動かしてるのやら」
最早それは未知数でしかない。青年は赤い天使の横に立つと、人形の頭を撫で撫でしながら手元の剣を楽しげに見つめた。
「……聴こえてんだろ? ユーオン君」
何故か確信のこもる声で、青年は剣に話しかける。
「オマエはオレより生粋の死神で、加えて……オレよりもっと、勘が良いみたいだしね」
五感で意識的に現状を探れる、剣に宿る者の直観程ではないが、この青年には無意識的な直感があった。
それを情報として知っていた神父は、剣に話しかけ始めたおかしな相手を特に気にせず、強くなり始めた日差しを疎むように建物内へと戻っていった。
赤い天使と剣だけが場に残った状態で、青闇の青年は屋根の端から足を下ろして座った。
「ピアスちゃんの所に来れて、オマエは満足?」
後ろに佇む赤い天使。その持つ剣を見もせずに話し続ける。
「全然そう見えないけど。でも帰りたくもないんだな、オマエ」
あくどさは残ったままでも、何処か気の緩まった表情。髪の色が青銀であった頃のような気安さを青年は見せていた。
青闇の髪の青年は、返答が不可能な剣にも構わず話しかけ続ける。
「オマエはこの先……何処に行きたいんだろうね」
剣が今彼らの元に在る理由。わけもわからず、気が付けば隣に剣があった青年は、ただ剣の迷いだけを感じたように口にする。
「オマエは何で――あの時、オレを殺さなかったのさ?」
そこでじっと、赤い天使が無表情のまま青年を見下ろしていた。
「ああ、翼槞っちはほぼ死んだけどね、ピアスちゃん。でも、あの時首を落とされてれば、今のオレすらここにはいないんだよ。ユーオン君はそれを、わかってたはずだけどね?」
吸血鬼である青年が、仮にも聖地という最も相性の悪い所で生命活動を絶たれる。それは普通、完全な消滅を意味する事態だった。
「オレでなければ即お陀仏だし。それもわかってユーオン君は、わざわざオレを生かしたわけなんだよね」
少し前の青年の目的は、剣には受け入れ難かったものだ。しかしそれは、青年の意図を感じた剣だけの都合と、青年も剣もわかっていた。
――水華にまで手を出すなら――……アンタは俺の敵だ。
「何処からどう見ても、オレはオマエには敵なのに。オマエはそれが、オマエだけの敵なら殺さないんだな」
剣は青年を敵とみなした。それでも、殺すべき相手とまではみなさなかった事実がそこにはあった。
「水華がオレの無力化を望んだから、オマエはそうしただけで。でも水華を、守護者にも犠牲者にも、オマエはしたくないんだね?」
対する青年は、本来死神という仕事からも、死すべき寿命の者だけを葬送するという信条の持ち主と観えた。
「オマエ自身は、誰かを殺したいどころか……できれば殺したくない部類の奴みたいだけど」
そんな自身の性質に気付かず、当たり前にその思いごと殺してきた剣。青年はただ鋭く剣を見つめる。
「味方が望むなら敵を殺し、望まないなら敵でも殺さない。そんなオマエは味方が味方の死を求めた時、破綻したのかな」
嘲る笑みとは裏腹に、蒼い目にだけは剣を憐れむような澱み。自称怨念の職業的死神は、それ以外にほとんど余分な感情をみせなかった。
職業的死神たる青年が、何を何処まで把握しているのか。
この死神の仕事が、悪魔と契約して死を回避しようとする者への介入――死すべき人間の葬送であることを剣は知らない。
「オマエは、それがオマエの役目で、必要なこととしてもさ。味方の望みでも……それでも味方は殺せなくて何が悪いのさ?」
何故か剣のことを、怨念を自称する青年は気に入ったらしい。
「オマエは剣だろ。剣なら敵だけ、必要な分だけ殺せばいい」
それなら殺せない者がいても、剣の役目は果たせるだろ、と嗤った。
「だから……死神をするのは、オレに任せておけば?」
その微笑みはまさに、悪魔と呼ぶのに相応しい昏さ。
かつての黒の守護者は、剣と共に在った二人の少女を、他の仲間と同じくらい大切に思っていた。それを剣は悟った。
――翼槞っちは単に、水華を守護者にしたかっただけだし。
黒の守護者と過去に刃を交わした、北方四天王の情報を基に造られた水華は、四天王の実子ではないが娘と言える存在。
和解できなかったとはいえ、その四天王は守護者には、血筋の近い姉のような存在だったらしい。
しかしそうした守護者の元の望みに関わらず、今の青闇の青年は完全な「悪魔」。人形使いの幼子と対等に近い契約者と言えた。
――あいつ、人形のくせに……人形だからこそしぶといや。
水華を利用することを、青闇の青年は厭わないだろう。他の守護者に対しても真に敵対する運命を既に受け入れ、むしろそうなったからこそ、「悪魔」として姿を現した状態とも言えた。
青年は全く、剣を恨んでいない様子であるものの、それは確実に、その悪魔を呼び起こした剣の咎だと言えた。剣と悪魔が奪い合う定めにあることだけ、互いに悟るしかなかった。
「…………」
赤い天使は今も、剣を大切に抱えながら悪魔のそばに在る。何故かこの悪魔は、今の剣に必要な相手と観定め、そうしているようだった。
――オマエは剣だろ。味方は殺せなくて何が悪いのさ?
赤まみれとなった剣には、そうした私情は許されないもの。当たり前に己を定めていた天性の死神とは違い、黒の守護者はほとんど私情で動く甘さだった。
――死神をするのは、オレに任せておけば?
剣から観れば利用し易く、危なっかしい甘さに付け込むことで、剣は以前までの青年を殺した。そして現れた青闇の悪魔。
それでも剣は今のまま、剣でいて良いのだと。
無責任な肯定をあっさりと渡す、危うげに甘い死神だった。
赤い天使に抱えられたままの剣は、そこで初めて――
――アイツはもう……今度は手加減、しないはずだ……。
剣がこれまで共に在った者達の、確実な危機に成り得る悪魔を感じ始めた。
――……俺は……まだ――……。
剣はまだ、戦わなければいけないはずだ。そうして剣でしかない身をもどかしく思う、生きた物に戻ることになった。
――アイツを……放っておいて、いいのか…………?
何のために自身がここに在るか、思い出せないままでいても。
全てを手放すにはまだ早いこと。明らかな剣の過ちがあった。
未だに甘さを持っていながら、青闇の悪魔は、次に敵対者が現れれば容赦しない心積もりだった。
そんな矛盾を両立させる破綻が、剣には想定外の新たな敵で――本来死に体ながら、無理に起こされた悪魔の本質だった。
その憤りは全て、今後現れる敵に向けられるはずであると。
+++++
同じ頃に、元は天の民だったという占い師の老婆が、当時の記憶が戻ったとして、「火の島」に現れた時。
「……その羽は確かに、天のヒトのものだな」
改めて納得したような養父に、顔以外全身をケープで覆う赤い目の占い師は、穏やかな意地悪婆といった顔で笑った。
石室に迎えられた占い師は、無言で横たわるユーオンの姿に溜息をついた。
「……全く。私の占いは、悪い予感ばかり当たるのですから」
悩ましげに言う表情は、これまでと大きく変わりないものの、口調は占い師曰く完全に天の民版らしい。
ユーオンが横たわる石の台の横で、円陣を作るように一行は床に座った。占い師からまず最初に口を開く。
「長らくお待たせ致しました。どうやら皆様はあまり、戦況は捗々しくないようですね?」
「ああ。梅さんの言った通りユーオンと強い因縁のある人形と、その人形を操る子供と……後は何故か、宝珠の守護者になれる資格者が、三人も敵側にいる状態だ」
「三人と言うと?」
養父は、占い師も知った者である黒の守護者と、北の四天王の躰を使う吸血姫についてまず説明する。
「後の奴のことを梅さんに聞きたかった。後一人の資格者の白っぽい若神父と、その神父を守護者にしたがってる着物の女がいたが、どちらも元は天の民だと言うんだ」
難しい顔で黙った占い師に、左隣に座るラピスが憂い気に尋ねる。
「梅おばあちゃんはそのヒト達のこと、知ってるんですか?」
「……ええ。その者達こそ、私が妖となってまで寿命を繋いだ理由。我が君の死を招いた者達なのです」
へ。と、その「我が君」の生まれ変わりと、以前から指定されている水華が目を丸くする。
「約二百年前、『地』では不審な事件が相次いでおりました。その後、貴女様の命を奪った大規模な魔族の襲来があるのですが」
一連の事変が激化するキッカケとなった出来事。それが重要だという。
「その襲来より数年前に、当時の黒の守護者――クレス・クウィルが、齢十五にして殺されるという大事件があったのです。貴女様の腹違いの兄であり、クレス様には従弟であったJ殿――ジェレス・クエルの手によって」
その後しばらく、現在の黒の守護者に宝珠が渡るまで、黒の宝珠は行方不明であったという。
「ジェレス様は自らを魔と証言し、天の牢獄に幽閉されました。その後は束の間の平穏が戻っていたのですが……ある日突然、聖地である『地』の気が魔に侵され、多数の悪魔が乗り込んできたのです」
その襲来は結局「地」側の勝利で終わるが、多くの天の民が命を落とした。占い師の「我が君」もその一人だった。
「公式には、ジェレス様が裏切り、天に悪魔を呼び込んだとの見解がなされました。しかしそれだけでは説明できない、いくつかの事柄がありました」
「……そうだな。ソイツが幽閉されていたなら、『地』の気に干渉するような大規模な魔法は仕組めないはずだ」
占い師はそこで、痛恨のように顔を歪めた。
「ジェレス様は、ルシフージュという悪魔――『魔王』の力の管理者たる素質を持って、天に生まれてしまわれたようでした。妹である我が君をとても気にかけられ、穏やかでお優しかったあの方からは、信じられない変貌でした」
事変時に彼は、妹をも手にかけたと言われている。しかし――と。当時に真実を見抜けなかったことを、占い師は今も悔やむ顔を浮かべた。
「『地』への悪魔の襲来の際、ジェレス様もそこで、命を落とされたはずなのです。しかしジェレス様の遺体は奪われ、その後完全に悪魔に取り込まれたのでしょう。共にいたという女は、彼を探すと言って地上に降りた者……あの女に違いありません」
誰にも咎められず、二度と戻ることのなかったある乙女。無力故に見過ごされた災禍がそこにあった。
「あの女――スリージ・ソイルこそ、真の裏切者だったのです」
後一人の敵、陽炎について、占い師はそう断言した。
え? と一瞬、初出の名前に場の全員が首を傾げる。
「地上に降りた後は陽炎と名乗っているようですが。彼女が天にいた頃は、ジェレス様の母君と共に彼を黄の守護者にせんと、当のジェレス様より熱心でした」
それでも気の強さのわりに、周囲に溶け込む才能を持った陽炎は、力を持たないことも含め問題視されたことは無かったという。
「それは……そのヒトは、本当に裏切者になるんですか?」
ラピスには陽炎の、行動と目的の一貫性はわかるようだった。
「水華のお兄さんだった優しいヒトを、守護者にしたい……それがそのヒトの願いなら。悪魔だって水華のお兄さんを見捨てた天の方が、そのヒトには裏切りなんじゃ?」
そうした理解と裏腹に、ラピスは厳しい目色で、占い師の険しい赤の目に問いかけていた。
「梅おばあちゃんは……何か、隠してませんか?」
「……」
「そのヒトが裏切者だっていう、本当の理由……何か他にあるんじゃないですか?」
占い師はふう、と……軽く息をつくと、躊躇いがちに答を口にした。
「あの女の後ろ盾には、ずっと魔王擁立勢力があったのです。だからこそ、魔王の片割れたるジェレス様の傍にいたのでしょうね」
しかし当時はそれに気付けなかった。その同じ悔やみを浮かべる。
「ということは、その女が魔王一派の手先で、『地』の気を侵す魔法を仕組んだ者だったということか?」
「いいえ。彼女にそこまで力があれば、逆に誰か気付いていたでしょう。彼女は言わば――悪魔が『地』に潜り込み、襲来の準備を整えるための拠り所だったのです」
あくまで陽炎は何も、自ら手は下さなかった。占い師は断言する。
「彼女は己が、悪魔の隠れ先とは思ってもいなかったでしょう。しかし彼女は結局の所、望んで悪魔に協力したのです」
「――望んでか?」
「はい。それが私が、彼女を裏切者とみなした所以です。彼女は、それがジェレス様のためだと思えば、『地』が危機に陥ろうと疑問を持たなかった女なのです」
その意味でも悪魔に見込まれ、拠り所として相応しかった者。陽炎の信念の強靭さをそこで語った。
養父もそこで、痛ましい顔で頷かざるを得なかった。
「どんなことをしても、誰かの力になりたい――……ユーオンも望んだその心は、一つ間違えば、大きな禍になる」
「その通りです。この少年のように的確な現状把握ができれば、まだしも被害は最小で済むのでしょうが……」
それが一番問題だった、と占い師は忌々しげにする。
「あの女には、それが本当にジェレス様のためになることなのか、その視点が全く欠けていました。私は今でも……ジェレス様が自ら、『魔』となることを望まれたとは思えないのです」
「……おばあちゃん、それは……」
「たとえジェレス様が『魔』でも――『魔』である彼のために動いた彼女の信念は、きっと変わっていないのでしょう」
そしてそれは、自己満足であると知るが故に破綻を来たした少年とは、似ているようで真逆の在り方だった。
「全ては後に、彼女の育ての母であった姉君……クリスタ・ソイル殿から、あの女が地上に降りた後に聞いたことです」
その姉もそれを知ったのは、真実が意味を持たなくなった頃だという。
「スリージ・ソイルは、初めから悪魔の取替え子だったのです」
「取替え子――だと?」
「彼女の両親は、彼女が生まれた時に亡くなりました。そしてその時、本物のスリージ・ソイルは攫われて天の鳥たる羽を奪われ、陽炎という赤子がその羽を背に天に送られたのです。勿論誰にも怪しまれぬよう、何一つ脅威を持たない民として、ただ、悪魔の拠り所となることだけを役目とされた赤子が」
「それなら……ひょっとしてそのヒトは……」
「ええ。彼女は自分が取替え子であることを知らないのです」
姉を含めた天の民を欺くために、陽炎自身すら、自らが天の民と信じて育った。それが何より陽炎の強みだった。
その意思の強さにより、嘘はついていないとユーオンに言わしめた陽炎だった。
羽を奪われた本物は紅樹と名付けられ、本物も悪魔のために利用されたという。しかし「地」への悪魔襲来時に、実の姉を守るために悪魔を裏切り、大きな怪我を負った。
その死の直前、姉の介抱の元、一度だけ目を覚ました本物は……全ての真実を伝え、息を引き取ったということだった。
占い師が一通り、そこまで敵側の実情を語り終えた後で。
「……んーでさ」
それまで黙って話を聞いていた水華が、珍しく真面目な顔で占い師をまっすぐに見た。
「あんたは何で、そのことは話したくなかったわけ?」
「……」
「あんたまだ、肝心なことは話してなくない? いったい何で……死んだはずの奴のために、その女が動く理由。今あそこにいる、あたしの兄ってのたまうアイツは何なの?」
そこまで話せる程に相手を知っている占い師が、その大元を口にしない違和感。敏い水華は気が付いていた。
「そうだな……躰は魔だが、あの神父にも水華と同じ羽がある。ルシフージュという悪魔だけが力を継承して動く状態なら、少なくとも羽はとっくに全て魔に侵されているはずだ」
養父も「力」を見る眼でそれに気付いていた。共にそこに言及せざるを得なかった。
「アイツは水華と同じ……自身を遷された羽を移植されることで、記憶も力も取り戻した死者なんじゃないのか? ……梅さん」
「それって、おとーさん……」
水華はその背にある羽の主の、生まれ変わり。占い師からはそう聞いていたラピスが顔を強張らせる。
「水華はとっくに気が付いてる。これ以上隠し立てをするより、本当のことを話してやってくれ」
既に一度目の交戦の時、水華は敵から数々の情報を投げかけられている。
顔を苦くしながら言う養父に、占い師も目を伏せて溜め息をつき……まず最初に、詫びを口にしたのだった。
「……私は、貴女様を謀っておりました」
「……」
「貴女様は我が君の羽を受けられた――生まれ変わりではなく、我が君そのものなのです。敵となったジェレス様と、同じように」
その事実は端的に、ある呪いをも意味していた。
「貴女は……その躰は、ミラ様のためのものではありません」
誰かの羽を刻まれ、その「力」を扱うことができる者。ヒトに似せて造られた人形は、羽の主とは別人である真実がそこにあった。
「貴女様は……昔の記憶を失った、ミラティシア・ゲールです。いつか貴女様に適合する躰の持ち主が現れた時に、その羽を移植してもらうように、私が貴女様の養父母に託したのです」
「――って、あのオヤジとおフクロにぃ?」
うげ。という顔で水華は、謎の強大な力を持つ育ての両親を思い浮かべたようだった。
「ミラティシア・ゲールは『空』と『土』の因子を受け継いだ、『黄輝の宝珠』の正統な資格者でした。それらの力を持った我が君はその死の直前、自らの命を全て――死を迎えた自身の身体から、力そのものである羽へ遷されたのです」
五行の元素、木火土金水。その内、全てが生まれ、還る「土」という力であれば、命そのものを司ることはできると養父も頷く。
「ミラ様のご遺体……その羽に宿っておられたミラ様に気が付いた私は、黄の守護者となった兄君の力も借りて羽を切り落とし、この世に留まるように加工したのです。それは貴女にとって……貴女の躰の主には決して……たとえ己の心を持たない人形を彼らが移植先に選んだのだとしても、詫びて許されるようなことではありません」
かつて占い師は、死者が現世に干渉することは禁忌と自ら口にした。その体現がこの少女だと思い出す前に。
「それでも私は貴女様に帰ってきてほしかった。自らも禁忌を犯し妖となっても、貴女様が残された可能性を消さず、再起に賭けたかった」
だからこそ自らの記憶も封じた、とその後に続けた。
「長い時の中で、己が心変わりする可能性をも私は封じました。ただ貴女様を待つだけの妖を作り上げたのです。全ては私の望みであり……私の咎であるのです」
「……」
水華は一通り、占い師のその話を聞いた後に、呆れとも憂いともつかない複雑な表情で占い師を見つめた。
「それってさ。何が――悪いわけ?」
淡々と冷静な声色で、根本を覆す問いを口にする。
「あたしは自分が何者でもいい。生まれた通り生きるだけだし、誰かを踏み台にするように生まれたなら、そうして生きていく」
そんなことは、知ったことではない。それは呪われた生、と口を揃える者への反旗を翻す。
「それができる力があるなら――そうして何が悪いの?」
それはまるで、横たわるユーオンにも向けた問いかけ。
呪われた生の洗礼を受けた者同志への、力強い声色だった。
占い師は水華の紅い視線に、厳しい顔をして黙り込む。
「……水華は……それでいいの?」
ラピスは否定も肯定もしない目で、それだけ尋ね返した。
「水華の羽のヒトは……本当にそのつもりだったのかな?」
「――さぁ? あたし自身は覚えてないし。あのバカもいつか言ってたけど、覚えてないなら結局それはあたしじゃないし」
横たわるユーオンは以前、転生者という存在について、何の意味もないと口にしたことがあった。
――誰かには大切だったことも、次のそいつには関係ないし……そいつがそれを思い出すなら、今度はそいつが消えるだけだ。
たとえ相手の本質が同じでも、死という断絶は越えられない。勘の良い少年はそう捉えているようだった。
「そーいうやり方、確かにあたしも好きじゃないけどさ。でも、今あたしがそうだからって、隠さなきゃって庇われるくらい負い目なことって、勝手にみなさないでほしーわ」
「……水華……」
ラピスもそこでただ、困ったような顔で微笑んでいた。
「水華が本当に気にしないなら、それでいいって……私も思うよ」
もしもそれを、禁忌と定めるべきであるとすれば――
奪う側が背負う重さこそ、消えない理由と知っているように。
何であれ――と。
強気さを失わない水華に、占い師も困ったような顔で微笑みながら再び口を開いた。
「貴女がどう思われようと、貴女様の羽はその躰を侵食します。貴女がミラ様の力を、使えば使われる程に」
「――へ」
「先日折れたという白の魔法杖は、その侵食を杖が引き受け、貴女の躰を守るための防壁だったはずです。貴女様の養父母は……貴女もミラ様も、守ろうとして下さったのでしょう」
「羽の侵食が進めばどうなるんだ? 梅さん」
今はまだその羽は、本来紅い髪と目である水華を変色させた程度だ。水華には重要な戦力である羽を、使うなということは無理に等しい。
「魔の躯体に天上の鳥の羽は、性質は真逆でも起源が近いので、負担は大きくても解け合おうとするでしょう。魔の者である四天王や黒の守護者が、宝珠を扱えてしまうのと同じように」
「ってことは……」
「どれだけ躯体の機能を犠牲にしても、羽は自らを優先します。ともすれば、ミラ様である記憶が戻る可能性すらあります。代わりにその躰は、羽を使うこと以外はできない本当の人形となる」
数日前の戦いで、白の杖無しに力を使った後に、水華は一時身動きができなくなった。その理由が明らかになったわけだった。
うーむ。と水華は、一しきり腕を組んで悩む。
「レイアスも同じ見解?」
「……そうだな。杖が無いと水華に大きな負担がかかるのは、わかりきったことだ」
「力」を視る眼を持つ養父は、そこでおもむろに立ち上がると、石室の中央で横たわるユーオンの懐からある物を取り出していた。
「悪いな、ユーオン。少し貰うぞ」
「おとーさん、それ……鶫ちゃんが書いてくれたお札?」
養父が手にした三枚の護符に、ラピスは目を丸くする。
「五行の『金』の力が込められた札だ。これなら少しの間は、杖の補強になるだろう」
言いながら養父は、水華から折れた魔法杖を受け取ると、柄の折れ目を合せて札を巻き付けていった。
「うーん。有り難いけど、二、三回、本気で力使ったらすぐにまた壊れそうね、これ」
「そうだろうな。あくまでそれは切り札として、まだ戦うなら黒の方で今はしのぐしかない」
黒い三日月の杖は、水華の躯体本来の魔の力を受けるものだ。場所が聖地でなければ白の杖以上に、強力な力を制御できる杖でもあった。
「そもそも……まだ戦うかどうか、ここからが大事な話だ」
養父は改めて、最初の目的に話を戻す。
「水華に『黄輝の宝珠』の継承は本当に可能なのか? 梅さん」
「……」
「向こうには既に三人もの資格者がいるのに、何故彼らはまだ宝珠を手に入れてない? 時間は十分にあったはずだ」
宝珠の祭壇たる「地」。そこを根城とする者達の迂遠さという違和感。
「あの島の中央には、確かに大き過ぎる力があったが。あれは……まず、ヒトが触れられるようなものじゃない」
「貴男の仰る通り、祭壇にある黄の石は、何人にも触れられぬ封印のための強い力を常に放っております」
宝珠の力を使うには、その宝珠を身に着けるか、宝珠専用として誂えられた武器に取り付けるなど、間近で触れることが必須であるという。
「黄の守護者になるためには、本来ならば前代の守護者がその封印を、自らの身をもって解き放ちます。その後に新たに封印を施した資格者が、黄の守護者として石に認められるのです」
へ――と。そこで一気に、水華の表情が固まった。
「ちょっと待って。それってつまり、守護者になっても宝珠の力は使えないってこと?」
「つまり……資格者の誰かが犠牲になって、まず祭壇から石を解放しないと、守護者以外の者の悪用もできないってことか」
養父は逆に、納得がいったというように大きく溜め息をついた。
「敵がすぐに手を出さないわけだ。アイツらはその解放の役を、水華にさせたいんだな」
「詐欺だしそれ! 危うく引っかかる所だったじゃないの!」
あわよくば先日にも、宝珠を手にせんと企んでいた水華は唸る。
それなら――と、養父はそこで話をまとめる。
「俺はユーオンの剣と、ディアルスの王子を何とかしにまた『地』に行ってみるが。水華も……ついてくるのか?」
「とーぜん! 人形使いのあのガキが何とかなれば、あっちの戦力も多分相当ダウンするし!」
威勢の良い水華とは対照的に、養父は苦い顔をする。
「まず剣が取り戻せるかどうかの不利さだぞ。あのコも敵側に帰ってしまった以上、俺達の方が圧倒的に力不足だ」
「わかってるってー。剣取り戻してあの無敵人形味方につけて、ガキを攫えば全解決でしょ?」
……と、狙いの図星をつかれ黙り込む養父の横で、ラピスがあははと乾いた声で笑った。
「あのコはきっと……ユーオンの味方はしてくれると思うな」
苦しげながら笑う顔には、心配と信頼が共存している。
「不利なままならすぐ退却するからな。わかってるな? 水華」
はいはいー、と。本来は短気でも慎重な男に誠意の無い返事をする、冷静で我が侭ないつも通りの水華だった。
翌朝には再び、「地」に攻め入ることとした者達を、占い師は最後まで苦笑いながら見守っていた。
「梅おばあちゃんは……もう帰っちゃうのかな」
作戦会議がお開きになった後に聖堂に戻ってから、さっさと寝付いた水華を置いてラピスは石室に戻ってきた。まだいた養父と占い師は気付かずに話を続けていた。
「……え?」
そしてラピスは、一番聞きたくなかった現実を、そこで耳にしてしまう。
「梅さん……水華の羽の持ち主は、何歳の時に死んだんだ?」
「……やはりそこを尋ねられますか。レイアス殿」
占い師が本当に話したくなかったこと。それとわかる沈痛な声色で先を続ける。
「水華様はおそらく……十五歳まで。ミラ様の命の軌跡がある年齢までしか、その生は繋げないでしょう」
「……」
やっぱりか……と、養父も顔色を暗くする。
「ミラ様は既に死した己を、赤子からの記録を再現することで水華様を形成しています。躯体はあくまで別人のものですから、記憶までは再現できなかったご様子ですが」
そのため、羽からの助けがなくなれば今の少女は消える。その羽にも限界の刻限があるのだ。
「……へぇ……」
石室の外の壁際に隠れ、立ち尽くすラピスはただ俯いていた。
「……水華もやっぱり……何処かに行っちゃうんだ……」
誰にも聴こえることのない、絞り出すような小さい声。
くすり、と……――
硬く俯き、暗雲に覆われたはずの顔に、白き導きの夜が宿る。
「それなら私が……水華をもらっちゃって、いい……?」
娘自身にすら聴こえないほど、白く澄んだ声。最早、限界が目に見えた者達は不要とばかりに――
有り得ない幻を望んだ者の夢が、ついに目を覚まし始める。
_転:赤い天使
その潜伏地は、周囲を感じられる剣には鬼門。剣と似た赤い天使と黒髪の幼子にもそれは同じだった。
――何で――……私、人間に殺される……?
――……何処に行けば、会えるのかな……。
――もうあの子は、助けられないようね……。
そこでは入れ替わり立ち替わり、誰かの強い痛みや嘆きが現れてくる。そこにいる者のほとんどが、救われない状態であることを語って余りあった。
そんな望みを人形使いは共有し、吸血姫の復活を願い、赤い天使のことも動かしている。たとえそれが、最早叶わぬはずの望みであっても。
穴だらけのその居場所は、赤い天使と黒髪の幼子の心を奪うには十分過ぎた。
その赤い天使と黒髪の幼子が、いったい誰であるのか。
情報だけなら「妹」と伝えられたにも関わらず、未だに剣は、自身にそれを符号させられなかった。
たった一つの夢が繰り返し、何度も剣を侵すにも関わらずに。
――……兄さん達のいるところに……帰りたい……。
赤い鎧をつけたその少女は、元々、生粋の処刑人だった。
それが誰かわからなくても、情報だけは剣に今も届き続ける。
――わたしは処刑人だから。優しくないことをするヒトを殺す。
処刑人の少女は、死神の道を選んだ剣と似て異なる信条の元に、多くの命を奪った過去があった。
処刑人たる少女の基準はたった一つ、気ままな私情。現状把握に優れた少女は、常に「今」を観てそれを決めた。
――殺したい、ヒトを殺して――何が悪いの?
少女は少女にとって、優しくないものを咎人と見做し、それが殺すべき相手と何かで定めれば躊躇いなく命を奪った。
たとえそれが、少女の実の父親であっても。
どれだけ性根――過去は優しい者でも、「今」、他者のためにならない行動をとる者は、どんな理由があっても少女には咎人だった。
逆にたとえ自己満足でも、「今」、他者のための行動をとる者は、少女にとっては生かすべき「優しい」相手だった。
そうした私情で咎人を選び、少女は「殺したい」者だけを殺した。だから少女にとって、他者の敵だけを殺す剣は、「優しい」者だった。
――ごめんね……わたし、行くね。
そして剣を助けるために、命を落としてしまった少女。同じ直観を持つ赤い天使は、剣がどうして「今」ここに在るか、その望みを剣以上にわかっていた。
剣と同じように、己以外の物質に赤い天使は魂を囚われていた。しかしその心を決して失わず、剣に天使がわからなくても、何が起きているかさえ把握していた。
そんな天使を間近で観ていても、心を取り戻せない剣の窮状を。
剣はただ、多くの心に混沌としながら、他にも違う誰かの夢を観る。
おそらくは吸血鬼の女性の夢。幼いラピスに関わる直前に、何故その隠れ里へ行くか、依頼者の大切な忠告が映し出されていた。
――いい? 『神』は絶対、直接殺しては駄目。もう一度封じるだけにしてほしいの。
吸血鬼の女性は頷きながらも、最悪の結果になっても良いと思っていた。その捨て身ぶりが禍を招いたとも言えた。
――『神』は命のやり取りに便乗して、宿主を自らに創り変える寄生虫。殺しても殺されても、あなたは『神』に取り込まれる……それを『神隠し』というのよ。
そんな剣の夢を知るはずもなく、夜明けと共に、火の島の一行はユーオンの傍らに集まっていた。
既に占い師は地上に帰り、現在火の島に残るのは養父とラピス、水華だけだった。
これから養父と水華が「地」へと飛び立つ手筈で、その前にもう一度ユーオンの様子を見に来た所なのだ。
養父は重い声で、黙ってユーオンをじっと見つめるラピスの肩を抱く。
「ラピスはユーオンに付いててやってくれ。……できるか?」
「…………」
養父を黙って見上げるラピスに、苦しげに笑いかける。
これから戦地に赴く彼らに、自身は足手まといと知るラピスは、あえてそうした言い方をする養父を切なげに見つめた。
沈痛かつ神妙な顔で佇むラピスに、水華は不意に、不敵に笑いかけていた。
「いい? あの無敵人形がもしもコイツを攫いに帰って来たら、ちゃんとあんたの銃で撃退すんのよ、ラピ」
「――……え?」
「あのバカに効くのって、正味それだけだしさ。剣は向こうにあるんだから、コイツまで敵に回ったら洒落になんないし」
「……あのコ……ここまで来るかな?」
ポカンとするラピスに、養父も苦笑う。
「それは無理だろう。あのコにはユーオンを抱えて『地』まで飛ぶ程、飛行能力はないはずだ」
赤い天使以外の敵は、化け物としては最上級の魔女が施してくれた結界のため侵入は不可能。その防壁を信じてラピスを置いていくのだ。
「それでも万一、あのコがここに帰って来る時は……きっと、ユーオンを助けるためだと思いたいな」
「……」
「だといいけどさー。でも一応銃は持っときなさいよ、ラピ」
油断だけはするな、と。水華が珍しく、真面目な顔でラピスをまっすぐに見る。
「コイツが何かで目が覚めて、敵になる可能性もなくはないし?」
「……ユーオンが起きてくれるなら、別に敵でもいいけどなぁ」
あはは、とラピスが久々に明るげに笑った。
「だからユーオンもここに置いてくんでしょ? おとーさん」
「……」
「ユーオンがこの先どの道を選んでもいいけど、ひとまず今は邪魔するな、って。邪魔しようがない所に置いていくんだよね」
剣を取り返し、少年を助けることを目的としながら、育ての父は少年を剣の元へ連れていかない。その真意はわかっていた。
「……ラピスの言う通りだよ、全く」
羽の無いユーオンは、たとえ目覚めてもこの島から出ることができない。敵との間で板挟みであるはずの少年を、そうして置き去りにすることを決めた養父も、苦笑うしかないようだった。
「せめてユーオンが、俺を恨んでくれたらいいんだがな」
「何それ。相変わらずアンタら、コイツに甘いわよね」
そこで不服げな水華に対しては、養父が目を丸くする。
「剣取り返して帰ったら、叩き起こしてリンチでしょ。その後コイツがどーしても勝手だけど、それは譲らないわよ」
「……そーだね。もうこんなこと、してほしくないしね」
そのまま僅かに、ラピスは安堵したように微笑んでいた。
「おとーさんも水華も、ほんとに……優しいね」
? と首を傾げる者達に、ただ幸せそうに笑う。
そうして、行ってらっしゃい、とだけ、当たり前の朝のような声で……戦地へ発つ者達を見送った、置き去りの人間の娘だった。
いったい何に迷っているのか、それも自覚できない剣を、赤い天使は今も大切に抱えていた。
「おはよ、ピアスちゃん。残念だけど、朝一番からお客さんだ」
「……」
赤い天使を連れに来た青闇の髪の青年は、顔にも声にも出さないが、ひたすら不機嫌だった。動かない右手はツギハギで繋げただけで、胸も大きくは回復していない。そもそも吸血鬼として朝が強くないらしく、叩き起こされた不満で内心は一杯だと剣にもわかった。
「あー。ユーオン君はまだまだ、さまよってるのかぁ。それじゃピアスちゃんも身動きとれないよねぇ」
「…………」
赤い天使は未だに黒髪の幼子の指示を聞こうとしない。そのために青年は片膝をついて、赤い天使の猫耳付きの頭を撫でながら、にこやかに諭しにかかった。
「ヒドイ兄さんだよね、ホント。迷ってるのはこんなに可愛いピアスちゃんのためじゃなくて、別の奴のためなんだから」
「……」
「でもまぁ、そっちは表面的な自覚で、実際はピアスちゃんのためだと思うよ? ピアスちゃんもわかってるだろーけどさ」
それがわからなくされてしまった剣を、青年は知るわけもないのに言う。
「ピアスちゃんの好きに動いていーんだよ。心配しなくても、ソールっちとルシウの兄ちゃんはこっちで守ってやるから」
「…………」
青年は赤い天使の迷いも感じ取っていた。昔から猫と天使に弱いらしく、素直に優しく笑いかける。赤い天使はそれをじっと見つめた後に、ようやく立ち上がったのだった。
そうして、剣を抱える赤い天使を連れて、青年が「地」の建物の外に出ていった。
「――遅いわよ、シア」
「……おはよう、『ピアス』」
入り口には陽炎と黒髪の幼子が、吸血姫に守られながら、建物内に隠れる状態で待っていた。
「焦るなよな~。ここの中なら結界張ってやってんだからさ?」
先日もこの建物のすぐ外側が戦闘場所となった。白い広場の対角線上に、水華と剣の養父がいるのを青年が確認する。
入り口に立ち、先に来訪者を出迎えた神父の背後に青年は立った。
「おはよー。生きてるー? ルシウの兄ちゃん」
「やっと来ましたか。これで役者は揃いましたかね?」
先日に戦闘不能にしたはずが、再び現れた青年。隣に控える赤い天使も見つけて、来訪者達が顔を歪める。
「――ちょっと。アンタ、誰」
青闇の髪の吸血鬼の変質に、水華はすぐに気が付いたらしい。その敏さを元々知った青年は楽しげに返す。
「やだなー。ピンチになったキャラが、パワーアップして復活は王道だろ? 水華」
不真面目な青年に対し、偵察の際にその変質を知っていた養父は睨みをかけつつ、あらかじめ悟っていた見立てを口にした。
「……気を付けろ、水華。アレは多分、力を使うためだけの存在だ」
「何よそれ。つまりあれ、力の人格とか何とかって奴?」
「どんな性格に見えようが、その目的は一つ、力を制御して力の本体を守る……そのためなら手段を選ばない者だと覚悟しておけ」
だからそれは、これまでの青年とは似て非なる存在だと付け加えた。
「アイツは生粋の魔ではなさそうだ。聖地の加護で動けているし、魔の宝珠の力は弱っても、それでもアイツはこの中で最強だろう」
そこで青闇の髪の青年は、気を良くしたように笑った。
「さっすが、心眼持ちの兄ちゃんは言うことが違うね?」
養父は少し前に、青年が創った空間の綻びを探して壊した者だ。「力」を視ることに特化した者に、青年は楽しげに悪どく笑う。
そして、青年はふー、と大きく息をついた。
「ところで、オマエ達が何しに来たのか、何となくはわかってるけど」
「――!」
肘から先はだらんと垂れる右手を水平に上げた青年の周囲から、一瞬でいくつもの水の竜巻が出現していく。
「オレもゆっくり寝たいんだよね? ってーか、怨念は静かに眠らせてよね」
養父と隣の水華が驚く間もなく、竜巻が四方から彼らを一気に飲み込む。一つに合わさった巨大な竜巻が出現したのだった。
「おやおや。シア君は随分問答無用ですね?」
竜巻に飲み込まれて見えなくなった来訪者達の前で、神父が強風に眼鏡を押えながら笑った。
「八つ当たりは良くありませんよ? 奪われ続けてきた君の、長年の憎悪の対象は彼らではないでしょう」
「知らないし。オレ、単に眠いだけだし」
普段通りの笑顔の神父とは対照的に、無表情に青年は神父を睨む。
「アンタは、水華は自分の獲物だって言いたいだけだろ」
「それもありますけどね。君は消滅したシア君に取り残された力の人格であり、今生でも大切な者を失う苦しみを味わった生き物です。その上今度は、君達の顔として動いてくれた翼槞君をも失った」
その黒の守護者が、複数の自身を持っていたこと。それは経歴の複雑さもさることながら、自己を統一せずに共存する道を選んだのは、ただ互いが大切だったからだ。
その事情を知ってか、神父が皮肉気に笑う。
「直接手を下したのはユーオン君ですが。君をまず巻き込んだのは俺達でしょう。君の中には相当な憎悪が渦巻いている。違いますか?」
「……」
無言で神父を見返す青年は、無表情のままそこで黙り込んだ。
何を思ってかは剣にもわからない。神父は別人のような暗い笑みで、青年にわざわざこのタイミングで踏み込んでいた。
「通常、君達のような守護者には、『カギ』と呼ばれる相方が存在しますが……君はそれに縛られずに、自由に宝珠の力を使うことができる」
本来はそうした相方を定め、普段は宝珠の真の力を封印するのが、正統な「守護者」であるらしい。
「君の『カギ』となるべき相手は、十五年前に失われてしまった。『カギ』とは守護者が真に大切に思う相手でなければ、定めることはできない。君は大切なものを作ろうとせず、心を閉ざし続けている。気付いていないんですか?」
そのためこの青年は、孤高に宝珠を守るしかなかった。それをまるで神父は嗤うように、いつにない嘲りで口にしていた。
青年は面白くなさそうに、一度眉を顰めただけだった。
「『カギ』だったのは、本来オレだよ? そのせいでオレはピンチヒッターの守護者だし……他に大事なものなんてないし」
本来自身は、黒の守護者となるべき者ではなかった。少し苦々しげに口にし、神父から竜巻の方に視線を移した。
「オレは単に――大きな力が欲しくて、それを使うためにいるだけで」
その竜巻にこれから起こる異変。とっくに承知していたというように、歪んだ顔付きで再び微笑む。
「楽しめそうだな……久しぶりにさ」
突然内部から破裂するように、水の竜巻が激しく四散していった。
その内から現れた灰色の巨大な獣の姿に、心から楽しげに青年は昏く笑ったのだった。
竜巻を内から破った灰色の飛竜。その足下で養父と水華が、呆れ顔で青年を見ていた。
「信じらんない。精霊魔法って、何て力の無駄使いよ、アイツ」
札で補強した白の魔法杖を、水華は早くも防戦のために使わざるを得なかったと観えた。
「水華はもう一人を頼む。アレの相手は俺の役目だ」
一方で妙に冷静な養父は、何故かあっさりそう断言し、はい? と水華が明らかに訝しがる。
「守護者の相手、レイアス一人でする気? 固まって動く方が良いんじゃないの?」
意外に水華は、最初は協力して動き、剣を取り戻すのが先決という作戦を重視していたらしい。自らそれを覆す養父は、やはり水華より短気だった。
「どうやらそれは無理そうだ。あの大きな力を固まって受け続けたら、アイツの思うつぼだろう」
先日は「力」の全く通じない赤い天使を、今回は「力」を無遠慮に使う守護者を。毎回最も脅威の者の相手を引き受ける養父に、水華は大きく溜め息をついた。
「結局、各個撃破してからってことか……正直、やなんだけどな、あの神父の相手すんの」
要はそれが水華の本音らしい。思わず養父も苦笑する。
「気を付けろ――無理はしないでいいから」
そうして個別に戦うために離れる水華に、それだけ声をかけた。
「へー。オレ達二人だけを敵と絞るんだ、飛竜の兄ちゃんは」
「……」
養父と対峙する青年は、水華の方を見る神父の隣に出ると、ちらりと赤い天使を振り返った。
「ピアスちゃんが少しでもオレ達を援護してくれたら、アンタも水華も勝算は全く無くなるのにね?」
その可能性をあえて無視する養父を、青年の声色が嘲っていた。
「生憎、防御戦は得意分野だ。こちらも単身じゃないからな」
ばさりと灰色の獣を傍らに、この状態こそ本領発揮、と養父はまっすぐに青年を灰色の眼で視ていた。
「なるほど。確かにアンタは、力で戦う相手には頑丈そーだ」
それをもう一度試すように、青年は軽く手を振り鞭のような長い水を出現させた。獣ごと打ち付けるように、そのまま力をぶつけたものの、
「やっぱり効かないか。さっきもそれで竜巻を消したんだね」
直撃した水の鞭がことごとく、力の脅威を失った水へと変わってはじける。ただの水に戻された「力」に感心したように笑う。
「力を視て力に介入する、『心眼』……話にだけは、聞いたことがあったけどね」
元々青年は、養父の旧い仲間に鍛えられていた過去がある。伝え聞いていた能力を実際に目にして、その業の本質を把握する勘の良さだった。
「ずっとオレ達のことを探ってたチビ蜥蜴も、それで造ったの?」
そうしてあえて放置した相手の到来を、心から喜ぶように暗く微笑む。
青年の台詞に養父は表情を歪め、腹立たしげに剣に手をかけていた。
「貴様は何がしたいんだ――黒の守護者」
最早憎悪を隠さず青年を睨む養父に、青年は軽い声色で笑い返す。
「チビ蜥蜴は聞いてないのかな。オレは黄の宝珠がほしいだけだし」
「宝珠を二つも手にしてどうする。扱い切れるわけがない」
「そうかな? こう見えてもオレ、宝珠はあるわ精霊は二匹いるわ、その上海竜とかもいて、結構資源豊富なんだよねー」
「!?」とさすがに眼を見張る養父に、ケラケラと口を押えながら笑った。
「正気の沙汰じゃないな。それだけ数多の力を、保有だけでも制御可能とするのは……それが『空』の資格者故か?」
「さぁね? 万能の宝珠、黄の石の力の要は、他の五行元素や五大要素に可変の便利素材だとは聞いてるけどね」
その青年の制御力は、聖魔の混在だけでも負担である水華からは考えるべくもない。様々な「力」を一身に有する人造の吸血鬼の特殊性は、その無秩序にこそある。「力」を視ることに慣れ切った養父にすら、定義がし難いものであるようだった。
一方で、再び対峙する相手を露骨に嫌そうにする水華に、神父は明らかに楽しげにしていた。
「君はまた、性懲りも無く黄の石を取りに来たんですか?」
「……だったら何なのよ。一々目的とか、敵に教えないし」
今回水華は光の羽を広げずに、白と黒の魔法杖を両方手にしている。白の魔法杖が万全だった前回より明らかに不利なこと――それを目的に杖を無効化した相手は、当然有利さに気が付いているだろう。
それなら神父とまともに対峙するより、剣か幼子を狙うのが得策なのだ。腹立たしげにしながらも、水華はすぐには戦闘に入らず、素朴な疑問をその場で口にした。
「ところで何で、アンタはあたしの邪魔をするわけ?」
初めて会った東の大陸からこちら、確実に水華の障壁となってきた相手。神父は更に楽しげに笑った。
「敵に一々目的を教えるわけがない、とたった今、君が言いましたが?」
「のわりに、訊かれて嬉しそうじゃないの。何か言いたいことがあるなら、今の内に吐き出しておけば?」
水華にとっては、仲間の戦いの方がどうなるか、赤い天使がどう出るかなど、不確定な要素が現在は多い。下手に動かず、まずは戦況を窺う時間が必要だった。
そのために、本来どうでもいいようなことを時間稼ぎに尋ねている。神父もにこにこと、特に答を返す気配がみられなかった。
仕方なしに水華が、相手に揺さぶりをかけるためにも、ある者の本名を口にする。
「……フラウアは……アンタは決して『魔』じゃなかったって、言ってたんだけど」
元は天の民であり、水華に遠い昔の禍を語った占い師の名。同じ時を生きてそれを知っているはずの相手に、ただその真偽を、確かめるために。
神父はそこで一瞬、時間が止まったように全ての表情を消した。意外な名前が、しかも水華の方から出たことに、敏い少女の思惑通り衝撃を受けているようだった。
「……彼女に会ったんですか? 君は」
「アンタの後ろの女と一緒で、まだ生きてるわよ。と言ってもそこの女みたいな、若作りは一切してないけどね」
水華としては、ただ占い師から聞いたことがあるだけの名前で、何か己の羽の心や記憶が戻ったわけではない。
それでも神父の笑みが失われ、真面目な顔のまま黙り込んだ。代わりに、かなり後方にいる陽炎が、不服気に水華を見ながら声を挟んでいた。
「呆れたわね。ということは、ミラをここに呼び戻したのは、フラウア・プフラオメだったということかしら」
水華の羽の主の名を呼んだ陽炎に、心なしか、これまでになく水華が厳しい顔付きを見せた。
「……誰がミラよ」
陽炎を睨む水華の目には、これまでの不敵さすらも消えている。神父にその表情のまま視線を戻し、水華らしからぬ無機質な声色で続きを尋ねていた。
「アンタ……何であんな奴らと、タッグ組む羽目になったわけ?」
陽炎は青闇の青年の施した結界の内にいる。そちらへの攻撃は無駄であるため、神父に改めて視線を向ける。
「仮にも天の羽を遺してるくせに。魔王とかそっち系、組んでて何かいーことはあるわけ?」
神父はフウ、と。ようやく少し表情を緩め、困ったように肩を竦めた。
「そうですね。確かに趣味ではありませんが、それでも俺は、魔王の力を管理する悪魔に生まれてしまったんですよ」
「?」
「魔王の財たる力を管理する腹心、もしくは片割れルシフージュ……それが、悪魔である俺の真名です」
「ふーん。そう生まれたら絶対、そうしなきゃいけないわけ?」
「さぁ、どうなんでしょう? 運命に逆らう気概のある悪魔は、何処にでもいますけどね。なるべくヒトを傷付けずに生きてきた翼槞君や、人間の血を持ち、最後には魔王に背を向けた四天王達のように」
その四天王の内、水華は二人の情報を基に造られた人造の魔物だ。神父がにこりと改めて空虚に微笑む。
「でも今の君は奪う側です。それなら俺の立場も、少しは理解できそうなものですけどね?」
「何でよ。こう生まれたのはあたしの意志じゃないし、大体、あたしはあたしの欲しいものしか奪おうとは思わないし」
「なるほど。俺やユーオン君のように、役目のために動くことは、君には確かになさそうですね」
水華の目前で神父は小さな輪を取り出すと、輪の直径を大きな腕輪くらいに広げ、服の上から腕にはめて水華に掌底を向けた。
「けれど君が、その羽を遺したということは、奪う側に回ることを君は承知していたはずですよ、ミラ」
「……」
誰が、という反論は不服の表情でだけ表す。水華も二つの杖を構え、輪杖を装備した神父からの攻撃に備える。
神父の腕輪の周囲には、手を取り巻くように複数もの水の矢が現れていた。まさに回転銃を撃つように水弾が水華に襲いかかった。
「――っ!」
黒の魔法杖で張った氷の防御壁を、水弾は僅かな命中だけですぐに切り崩し、次々と水華に襲いかかる。
「何コレ――あの輪があるだけでこんなに増幅されるわけ?」
仕方なしに再び白の魔法杖を使い、強い風で水を散らす。神父は穏やかに笑いながら、一度追撃の手を緩めた。
「これは元々、この『地』で使うために造られた輪杖ですから。魔の防壁ごとき、敵うわけがないでしょう」
そして神父は、ああ――……と。とても愉快なことを思い出したかのように、歪んだ顔付きでそこで微笑んだ。
「君を『地』で殺した武器も、そう言えばこの輪杖でしたっけ……確かに君の血まみれになったこれを、俺も覚えていますよ――」
「……!」
その台詞というより、表情のあまりの歪みに水華はぞくりとしていた。
ある違和感をそこで覚えながらも、再び水弾を繰り出す神父に応戦するため、言及する余裕は持てなかっただろう。
近場の戦闘もそうしてやはり、「力」勝負になっている状態に、青闇の青年が残念そうに笑った。
「オレは正直、まだ翼槞っち程は動けないからなぁ。武器勝負もしたいとこだけど、右手が全然ちゃんとくっついてないし」
何一つ詠唱も無しに、青年は巨大な水の刃を叩きつける。養父は飛竜の羽を広げて盾にする。
同時に養父から長剣で青年に斬りかかるが、その吸血鬼は本来、戦闘向きに造られた人造守護者だった。吸血鬼としての身体能力に、直感の鋭さも併せて男の剣筋をたやすく見切り、優れた身のこなしで避けてまわる。負傷がなければ養父の方が、青年の武器で追い詰められただろう。
「飛竜の兄ちゃんは、何で戦うのさ?」
喋る余裕すらある青年に、養父は苦々しげにする。元々養父の右腕は義手であり、右手が使えないのに養父より戦闘能力の高い青年と、再び間合いを取り直していた。
「宝珠とか魔王とか、わざわざ関わらなくて良かっただろーに。ユーオン君もただの養子でしょ? それとも遠い前世でパパだったとか、兄ちゃんはその手の話、わりと重視する方?」
「関係無いな。ラピスもユーオンも、俺には同じ大切な子供だ」
即答した養父に、青年がへぇ、と笑う。
「それじゃピアスちゃんのことは、子供とは認めないってわけか。かわいそーに、ピアスちゃんもソールっちも」
「……――」
忌々しげに青年を睨みながら、養父は静かに口を開いていた。
「あのコがユーオンの妹なら……ユーオンがそれを守りたいと言うなら、俺に異論は無い」
灰色の眼には、青年越しに赤い天使が映っている。今まで身動きしなかった赤い天使が、ぴくりと体を震わせていた。
赤い天使が抱える剣も、養父の声をはっきりと聴いた。
「ふーん。それでユーオン君が敵対しても、兄ちゃんはいいわけ?」
「そもそも敵対にならない。ユーオンの大切な相手なら、俺達には傷付ける気はない」
それなら共に、連れて帰るだけだと。既に一度やり通したことを、養父は今も迷いなく断言する。
養父と戦った時に、魂の無い赤い天使は、己を制御する幽鬼の羽を斬り落とされた。その後にまた羽が復活しても、取り戻された心の手綱は最早幽鬼の支配から解かれている。
黒髪の幼子も、自らついていくことはなくても、潜入を見逃すほどに既に心を動かされている。
「あんな子供達まで利用するような貴様らに、何も言われる筋合はない」
あまりに強いまっすぐな思いは、剣の中の拙い何かを、そこでようやく呼び覚ましていた。
ただ、帰りたい、と――……誰かと同じ、それだけの願いを。
ヒドイなぁ、と青年が肩を竦めた。
「利用されてんのはこっちだけどさ? オレを使うソールっち含めて、まるっと利用してる奴らに言ってよね?」
「仮にも黒の守護者だろう。自分のことくらい何とかしろ」
「違いないけど。ユーオン君はいいよね、守ってくれる奴がいて」
と言っても、と、再び青闇の青年はあくどい顔で笑った。
「それをユーオン君が受け取れてたら、今の状況は無かったけどね。今後はどうかな。わざわざ好き好んで一人でやる必要なんて何処にもないのにね」
それはおそらく、たった一人で立ち続けるしかない孤高な守護者の本音でもあった。
過去に大切な者を失いながら、黒の守護者は甘さを失わずに来た。その結果剣の主に敗れて、目前に在る青闇の悪魔と堕ちた。
孤高な守護者はたった一人で、己が役目を果たそうとして、剣に殺されたのだ。
それが本当に、そうするしかなかったことなのか。それだけは剣も、おそらくは青年自身にもわからないままだった。
+++++
気が付けば剣は、赤い天使と共に空の中に在った。
――……?
つい先刻までは、白い天空の島で戦う者達の情報を必死に読み取っていたはずだ。その剣を赤い天使は大切に抱えて、拙い幽鬼の羽で飛んでいた。
赤い天使が何を望んでいるか、剣はわからないままにされている。だから成す術も無く、そのまま運ばれるしかなかった。
代わりに剣に届くようになったのは――
「……おとーさんと水華……大丈夫かなぁ、ユーオン」
何もできずに、ただ飛び立った者達の帰りを待つしかない者。ラピスが石の上に横たわるユーオンのそばに突っ伏している。
「どうしたら私も……もうユーオンに無茶させずに済むかな?」
ラピスは望む。養父や水華のように、自身も強くなりたいのだと。
同じ場所に横たわる少年の躰を通し、剣にも尚更、帰りたいという思いを強く抱かせる。
――帰りたい。
その思いは本来、赤い天使と、黒髪の幼子の内の誰かが強く想ったはずだった。
深い湖の底の聖地に、永く沈められた誰かに希望など無かった。それでも水底にただ在り続け、それしか想うことが無かったのだ。
――……俺は――……。
何のために、剣がここまで待ち続けたのか。
その願いを手放した剣が、破綻するのは当然の帰結だった。
――俺は……――を助けたいんだ――……。
すり替えられた心は結局、思い出せないままでいても。
――俺は……こいつを――……助けたい…………?
やっと剣には、それがわかった。
剣より辛かったはずなのに、帰りたいと望む剣の願いを叶えようとする天使。その赤い人形の命を、拙い心に迎え入れる……――
+++++
ある国の太陽だった天空の島に、一人の天使が降り立った時。
ただの人間であるラピスに、どうしてその訪れがわかったのか――
ラピスは赤い天使を一人で出迎えた。それはまるで、ある運命の時を、自ら望んで現れたかのようだった。
「……来て、くれたんだ……」
青銀の剣を大事そうに抱え、黒く大きな鎌を背負う赤い天使が、火の島に帰って来た。その姿を見て心から安堵したように、ラピスは神殿の前で立ち尽くした。
「ユーオンのこと……助けてくれるんだね」
「…………」
無言で剣を差し出す天使から、ラピスも無言で剣を受け取る。そのまま神殿の入り口に立てかける。
何故か黒い鎌を手にした赤い天使を見つめながら、無表情に――祈るように両手を組んで佇んでいた。
――……え……?
その光景は、剣を驚愕させるだけではなかった。
神殿の内に横たわるユーオンにも、聖地に強められた気を通して伝わる。
その天使はラピスが一人の時を狙い、島に降り立っていた。
何故ならラピスは、たった一人で天使に出会うことを望んだ。
「……あなた……」
天使を見つめる深い青の目。全ての望みがそこに映る。
赤い天使は処刑人の鎌を、咎人である娘に無情に突き付けていた。
――…………!!
剣は必死に、これまでより遠隔で精霊の躰を動かす。迷える間もなくその全身に還る。
石室で銀色の髪のキラとなり、有り得ない光景にがばっと飛び起きていた。
「……私のこと……連れていって、くれるの?」
「…………」
ダメだ――と。
起き上がっただけで激しく息が切れる。剣が遠いために巧く動かない躰を引きずる。
「……ラピス……ダメ、だ――……!」
赤い天使は決して動かない表情。
それでも青の目に確かな哀しみをのせ、無力な人間の娘を見つめ返した。
「何か……言い残すことはある?」
たった一言。それだけは、命に刻まれた言葉を口にした。
「やめてくれ――」
どうしても間に合わない現状を、悟れてしまうキラは叫ぶ。
「やめてくれ、エル――!!!」
失っていたはずの誰かの名前が、そこで還った理由もわからないまま。
赤い天使が訪れた時点で、ラピスは全てを手放すと決められていた。
だから少年に、そうして本当の「妹」を還せたことに無意識に安堵する。
「ありがと……ユーオンを、助けてくれて」
そのために赤い天使が現れたこと。
そして咎人の娘をも助けたいと願っている天使に、ラピスは心から微笑んでいた。
「……わかってたよ」
ラピスの望みは、ただ、在るべき状態に戻ることで。
「あなたなら……私を止めてくれるって」
たった一人で消えることを望んだラピスに、唯一、少年の介入を避けられないことだけが、天使にも娘にも痛恨だった。
「――……!!!」
キラがようやく、神殿の入り口に辿り着いた時には。
目の前には、赤く染まった鎌を翻す残酷な処刑人と――
一瞬で絶命するよう心臓を刈られ、倒れるラピスの姿があった。
「……――……」
茫然とキラは、転がるラピスの横に膝をついた。
昏く赤い夢の再現。いつかそれが訪れることは、知っていたはずだったのに。
「何でだ……――」
事を終えて、黒い羽で飛び立っていくもの。絶望の悪夢に少年を置き去りにする天使に、ただどうしようもなく、叫んだ。
「何でだ、エル……!!!」
その理由すら悟っていながら、遠ざかる天使を追う術もない。
妹だったものを抱える少年の袴が、紫から黒へと染まっていった。
ラピスがほとんど痛みも感じず、そこに至ったことはわかる。それが遥か昔から、赤い天使の優しさだとも少年は知っていた。
しかし次の瞬間に起きたことは、キラの理解も納得も超えた出来事だった。
「……ユー、オン……?」
「……――え?」
正座した形で娘を強く抱えたまま、キラは動けないでいた。
娘はとっくに、命の気配など欠片もなかった。
それなのに、これまでと全く変わらない、危うげに明るい顔で笑った。
「良かった……ユーオン、目、覚めたんだ……」
「……―――……」
誰一人、別れを告げるつもりはなかったラピス。
腕の中でキラを見つめながら、動くはずの無い手でそっと、少年の胸に拙く手を当てる。
「ユーオンは……ずっと、ここに、いてね」
ただそれだけを伝えるために。少しだけ、命など無かったその身体から、出て行くことを踏み止まっていた。
「やっぱり……『銀色』さんも、涙はあるんだね……」
「……ラピス……」
くしゃくしゃの顔でラピスを見つめる銀色の髪の少年に、ただ安堵したように笑う。
そのまま、フ……と。力が抜けていくまま、静かに目を閉じる。
拙く燈し続けた微笑みの灯も消して、娘は去っていった。
「――……」
その脆い生き物を、ただぐっと、力の限りに抱き締めていた。
「ごめん……ラピス……」
力になれなかったことを詫びる。そんなことしかできずに座り込む。
やがて、俯いたまま、ラピスを抱えて立ち上がった。
戻った剣をとることも忘れて、これまで少年が眠っていた石の台まで運び、その上に黙って横たえた。
安らかさも辛さもなく、ただ無機質に目を閉じたラピス。それがあまりに寂しげに見えたキラは、黙って聖堂の方に向かった。
「……あった」
聖堂のテントで、ラピスの数少ない荷物を探す。
テントの中から、この空では使えなくなっていた、小さな巾着のつくPHSをキラは探し出した。
「…………」
それをただ、寂しいラピスの隣に置こうと思っただけだ。しかし巾着の中にあった小さな心。口が綴じられたお守りに潜む誰かの心に、そこで気が付いてしまった。
――ラピちゃんにいいことありますように。
このお守りを渡した誰かの直向きな想い。
キラはその場で崩れ落ちた。
「もう――……イヤ、だ――……!」
手の中でぐしゃりと、小さな形見が音をたてて潰れた。
迸る感情のままたった一人で、永遠に消えない痛みを叫ぶ。
「いつも何もできなくて――何かを失くす……!」
その呪いから少年は決して逃げられない。奪い奪われる定めの元にあるのが天性の死神だった。
常に自ら以外のものを感じ、境を曖昧にする直観の元にその少年は生まれた。
「もう失くすのは嫌だ、でも……――」
だから誰かの願いや喜びがなければ、生きる力を何処にも見出せない心。
「独りも……もう嫌だ――…………」
この躰で目が覚めてから、少年を取り囲む世界はあまりに何処も温かった。失わないために一人だけで歩くことすら、最早できそうになかった。
今この島に一人、キラは取り残されている。誰の心もそこにないため、あやふやな己を直視させられてしまう。
何をすれば、どう動けばいいのかが全くわからないこと。ただ、無力に座り込むことしかできない己を。
ところが不意に、崩れ落ちたキラに、有り得ない誰かが声をかけた。
――……お帰りなさい……。
「……え?」
小さな神殿の狭い聖堂。その中央にある、祭壇らしき石の台から、それは確かに語りかけてきたのだった。
――待っていたわ……キラ……。
誰も知らないはずの名前。遠い日の銀色の髪の少年を呼ぶ声。
「……な……」
茫然としたまま立ち上がったキラは、拙い足取りで祭壇の前に辿り着いた。
それはこの、現状把握に優れた少年を知る者だからこそ。
少年だけが見つけられるように、永く隠されていたもの。少年以外には特に、意味も存在しない古い宝だった。
――ユーオン君は遠くない内に、会いたいヒトに会えると思うよ。
何故かキラは、そんな声を思い出した。声の主が書いてくれた、ずっと持ち続けている大切な札の、一枚しかないものをそこで手に取った。
天才と言われた術師が力を込めてくれた、大抵の物なら力ごと闇に還す力を秘めた札。それを使い、祭壇の封印を破壊していた。
その祭壇の崩壊が、起動力となるように仕組まれていたと観えた。
突然暗闇に包まれた聖堂たる石室は、立ち尽くしたキラの前に、ただ一筋の光だけを贈り込んでいた。
「……――え?」
「…………」
キラの青い目に映る、闇に浮かぶたった一人の女性の姿。
暗い澱みしか無い少年の目にも、確かな熱を与える黒い姿。死神となることを選んだキラの、一番の理由がそこに在った。
「……ウソ、だ――……」
呻く声は、切望としか言えなかった。
「――……何で……シ、ヴァ――……?」
キラはただ、闇の中の黒い鳥……黒に溶けながら自らの光を決して失わなかった、大切な相手の名前を口にした。
「……久しぶりね、キラ」
その黒衣の女性は、金色の長いまっすぐな髪に映える、凛とした赤い目をキラに向ける。
涼やかながら落ち着きも備えた声で、そのまま話し始めた。
「貴方はきっと、いつかここに来る。私に気が付いてくれると、信じていたわ」
ぴくりとも笑わず、真面目な顔付きが相変わらずの黒い鳥。
銀色の髪の少年が地の底に沈む時、南の聖地――かつての「火の島」に逃したはずの相手。しかしその遠い日々より、遥かに大人びた女性へと成長していた。
黒い鳥はそこで、困ったように苦く笑った。茫然とし続けるキラに構わず、自らの伝えたいことをそのまま口にする。
「ごめんなさい。この私はあくまで、貴方のために残した影だから……きっとキラは驚いてると思うけど、貴方からの質問には答えられないの」
「……――」
「私達のために戦ってくれた貴方を、私は地の底に置き去りにした……貴方はずっと、ただ私のために戦ってくれたのに」
赤い目を伏せて言う黒い鳥は、元は魔性に染まる紅い目を持っていた。誰より「魔」に近かった黒い鳥を、呪われし道から遠ざけるため、代わりに死神となる者をその周囲は必要とした。
そこに現れたのが銀色の髪で青い目の、天性の死神だったのだ。
「私のために貴方を血まみれにするくらいなら……私自身が『魔』となった方が、余程良いことだった」
しかし誰より気高く優しかった黒い鳥は、黒い鳥自ら、キラを利用しようとはしなかった。それはキラ自身が一番よくわかっていた。
「それでも……キラのおかげで私は今、こうしてここにいる」
「……――」
黒い鳥はまだ苦しげながら、心から穏やかな顔で、一度も見せたことのないような柔らかな微笑みを見せる。
「私……とても今、幸せなの」
それが一番、黒い鳥の伝えたかったこと。
犠牲になってしまったキラへの、最大の報いをそこでたたえた。
「ククルは言うの……私とキラは、よく似ていたって」
「シヴァ……」
「だからキラも、絶対幸せになれる。貴方は優しいヒトだもの」
その少年がどれだけ赤まみれであり、容赦なき殺戮者か、知っていたはずの黒い鳥。
しかし迷うことなく、その言葉をはっきりと言う。
「貴方は……幸せになっていいの、キラ」
それを決して自らに許せなかった、天性の死神。
それをも受け入れて、黒い鳥が最後に現実を呟く。
「きっと貴方はずっと、何かを守るために……自分も敵も殺し続けて、そのまま生きていくのね」
「……――……」
「それが貴方……キラを名乗るユオンの望みならば。私はせめて、貴方の力になれるように……貴方との約束の物と、ゾーアから最後に還してもらった、私の羽を残しておくわ」
苦く笑いながら言った黒い鳥。その姿はその後、段々と光が弱まり、周囲の闇へと還るように溶け込み始めた。
「貴方には沢山助けられたから……少しでも、貴方の力になれたらいいんだけど」
そして最後に、もう一度、ふわりと笑った。
「――シヴァ……!」
消えゆく黒い鳥を思わず掴もうとした、儚い衝動も空しかった。
長い時を待ち続け、ようやく役目を終えた影は、在るべき闇へ還っていたのだった。
そして、影が消えると共に去っていった闇の後には。
「……――あ……」
壊れた祭壇の下には、とても長い時を超えた何かが安置されていた。
「ま、さか――……」
――シヴァならちゃんと――預かっててくれるだろ。
銀色の髪の少年はそこで――
「キラの……」
かつて少年を赤く染めた、かけがえのない呪いを受け取る。
「キラのバンダナ――……残してて、くれたのか……」
それは不滅である聖地の力を利用し、小さな祭壇の中に封じられたもの。黒くシンプルなバンダナが、そこに横たえられていた。
かつてのキラを守り、共に在ってくれた親友。本当のキラの形見の、赤い呪いがそこにあった。
更にそのバンダナには、黒い鳥の翼が付加されていた。
「……――」
キラは黙って、そのバンダナを拾い上げる。迷うことなく銀色の髪の上から巻き付ける。
不器用に着けたバンダナはすぐにずれ落ち、キラの視界を半分隠し、赤く染め上げていく。
そして新たな力として、キラの背に黒く大きな翼を与えていた。
――これなら……と。
戦いに生きる少年は、取るべき行動をすぐに悟る。
「これで――……俺も、『地』に行ける」
火の島から飛び立ってしまった者達。その帰りをラピスの亡骸と待つより、それは当たり前の行動だった。
……一度だけ。ずっと眠っていた石室に戻ると、少年の代わりに横たわるラピスに声をかけた。
「……行ってくる。ラピス………」
少年の躰を維持する力が施された石の台の影響か、ラピスの体はまだ温かかった。しかしそこに命は無いと、誰よりわかっていたキラは――ラピスの望みのために、別れは口にしなかった。
――ユーオンも大事なこと、早く思い出せるといいね。
娘の昏く赤い夢に心を奪われ、大切な願いを失ったことが、何より少年を追い詰めたこと。そんなことを決して望まなかったラピスが、迷いの果てに出した答がこれだったのだ。
ラピスがそれを望むなら、誰にも止められなかった現実を改めて思う。
――私のこと……連れていって、くれるの?
赤い天使にとっては、それは天使の終末を招く行動だった。
それでも天使は、キラの代わりに娘の望みを叶えたのだ。
「全部……決着を、つけにいこう」
訪れてしまった昏く赤い夢を思いながら、無意識にキラは呟き……その運命の地へと、古の黒い翼で飛び立ったのだった。
_結:死者の一族
少年が「火の島」を飛び立つ少し前のことだった。
赤い天使が剣を持って「地」から離れる直前に、剣に届いていた情報は、紛れもない「火の島」側の者達の苦戦だった。
全く――……と。
「金」の札による白の魔法杖の補強を、水華も使い切った。その後は魔たる躯体への負荷も省みずに、聖なる羽を酷使して力を使う。
その姿に神父は心から歪んだ微笑みを見せた。
「俺も君のように、羽が使えればいいのに――……どうしてか俺は、自分の羽が上手く使えないんですよ、ミラ」
「――……は?」
誰がミラだ、と、苦しげながら水華は不服な顔を浮かべる。
「それならどうして俺はここにいるのか――……何故君達と戦っているのか。魔王の片割れ? でも魔王はもういないのに、俺は何をすればいいんですか?」
「ちょっと……アンタ?」
ク――……と。神父が自身の躰を折り曲げるように抱える。
「魔王の力は息子が運べる。俺はもう用済みなんです。なのに今度は黄の宝珠を取り返せ? そのために妹をもう一度殺せと?」
そこで神父が血反吐を吐くと同時に、背からも血飛沫が上がる。
そして神父は僅かに顔を上げて、清らかな笑顔で笑いかけた。
「ああそうだ……俺もそう言えば……宝珠がほしかったんです」
「――!?」
「宝珠があれば……君を本当に、甦らせることができる。君の羽はここにあるから……後は――相応しい躯体を造るだけです」
「って、アンタ……」
ここにいる水華は、あくまで偽物とばかりに虚ろに微笑む。その「魔」に、消耗した水華が意識は集中したまま見返していた。
「それがアンタを縛り付ける……あのガキとの契約?」
人形使い。悪魔の望みを把握し、叶わない望みを盾に取る者。人間と悪魔の逆転した契約の本質がそこにあった。
「あたしはミラじゃない……そんな奴はとっくに死んでる。この先も帰ってくることなんてないのに……アンタはいつまで、過去に縛られたままでいるの?」
「…………」
「宝珠も妹も、手に入らないってわかってるでしょ? なのにアンタは何でこんな――……あたし達を邪魔するだけなんて、無駄足を踏み続けるわけ?」
その「魔」には望みなどない。自称通りの人形であると。
それなのにここに在り続ける「魔」に、水華はただ問いかける。
神父はしばらく、無表情のまま黙り込んだ。
「……そうですね……」
そして再び、これまでのように虚ろな微笑みを浮かべる。
「俺は……俺を閉じ込めた天に、復讐したいのかもしれません」
そしてこれまで通りの、空っぽな答を口にするだけだった。
最早この「魔」を、呼び戻すことはできないのだと示すように。
「――!」
神父からまたも向けられた無数の水弾を、水華は風でひたすら散らす。
「もう……あたしもレイアスも正味、メインは『火』だし――ったく、『水』ばかり揃えてんじゃないわよ、本当!」
神父が力を使い尽くすのが先か、水華の躯体が無力化するのが先か。それは神父が完全な「魔」ならば、勝負は水華のものだったというのに。
「中途半端に『聖』に戻ってんじゃないっつーの! 戻るならしっかり戻る、戻れないなら『魔』に徹しなさいよ!」
ここに至り、神父は聖の気をも味方にし始めた。水華が完全に劣勢を感じ始めたところで、剣に届く光景は閉ざされていた。
それだけわかっていながらも水華は、撤退の気配を見せなかった。
人形使いのためでも剣のためでもなく、勝負を捨てられない衝動が、結局は羽の侵蝕を表していた。
「……水華はもう、限界だ……」
「地」が近付き、キラは水華達の予想以上の苦戦を悟る。
最早ほとんど動かない躯体で座り込み、力だけを使う水華と、蘇らせたい相手にとどめを刺さんとする神父の矛盾した力。
それに気付きながら飛竜を駆る養父は、自身の相手で精一杯だ。辿り着く前から現状を把握する。
「アイツなら……俺が殺してもいいな、水華――」
今まさに、水華の命を奪う規模の力を繰り出さんとした「魔」の元へ。
キラは白い光を纏わせた剣と共に、高い空から踊りかかっていった。
天性の死神はいつもなるべく、初撃で決着をつける。
驚く少女や周囲に構わず、重力を味方に、魔性の神父を容赦なく袈裟斬りにしていた。
飛び込んできた銀色の髪の少年に、斬られた自身などまるで気付いていないように。倒れた神父が穏やかに少年を見上げた。
「君は――……誰、でしたっけ?」
銀色の髪で赤い目の少年。傍目には今、黒いバンダナをつけるキラの姿はそう映っていた。
「どうしてでしょうか……俺は、君には、何処かで――……会った気がします」
「……」
神父の視界から、それが嘘でないことだとわかった。
同時に伝わる確かな痛み。人形であるはずの「魔」が、今この時初めて、キラに殺された躰を己のものだと気付いたかのようだった。
「へぇ……アイツ、復活したんだねぇ?」
飛竜と養父の二重攻撃に、楽しみつつ牽制されていた青闇の青年が、倒された仲間の方へ余裕の体で顔を向けた。
養父は全く状況がわからず、赤い目で謎の黒い翼を持つキラの姿に戸惑っている。
倒れた神父の間近では、座り込む水華が不服気にキラを見上げる。
「……ちょっと。ソイツ、あたしの獲物なんだけど」
命の危機を迎えた瞬間など無かったことのように言う。それでもまだ立ち上がれない様子だった。
「ところで何で……アンタはここに来たのよ?」
キラが黙ってバンダナを外し、黒い翼と赤い呪いを失う中、水華は真剣にそれを尋ねた。
「妹を守るためなら……アンタはあたし達の敵になるけど」
少し前に、場には赤い天使も戻っていた。それを視界の端に入れて睨みながら、決してごまかさずに問う。剣を捨て、自らをも捨てたはずの少年が、帰って来たその理由を。
「……ラピスが殺された、水華」
「――へ?」
キラはあまりにあっさり、彼らの知る娘の終わりを告げた。
「レイアスも聞こえてるだろ。ピアスがラピスを殺して、俺に剣を返していった……だから俺は――……ピアスを殺す」
キラはいつか、そうしなければいけない時が来ることを知っていた。だから迷いなき青い目で場に佇む。
「俺の妹は……エルフィの魂は、そこにはいない」
そうして冷徹に、赤い鎧の天使を殺す方法だけを考えて、その人形を観つめる。
それはそれは……と。
誰もが言葉を失い、時を止めてしまったような中で。キラの足下で横たわる神父が、何故か痛ましげにキラを見上げた。
「君はまた……君の妹を、失ったんですね」
「……ああ。アンタと同じだ……誰かに奪われた」
「……?」
自ら妹を手にかけた、と長く信じているその「魔」に、キラはただ真実を告げる。
「アンタは裏切者じゃない。アンタが死んだのは、アンタの妹をかばったからだ」
「――……?」
この天空の島にかつて、多くの悪魔が呼び込まれた時の記憶。
悪魔と戦い命を落とした天の少女は、その直前に、牢獄を出た「魔」の兄と再会を果たしていた。それを少年は、束の間を近い場で過ごした海竜の旧い夢で知っていた。その海竜は前代の黒の守護者の「力」だったために。
「アンタはそれを、自分が殺したと思い込まされてるだけだ」
「…………?」
ただ空虚な蒼い目の神父。そこには最早、生気は残されていない。
「アンタの魂はとっくに死んでる。その身体の主がアンタを真似して、自分をアンタと思い込んで動いてるだけだ」
悪魔の卑劣な罠によって、目印を身に着けた天の少女に集中砲火が向けられた瞬間、「魔」であるはずの兄は妹を庇おうと抱き締めた。その時に死んだ兄としての心は、死を迎えた以上「魔」ではなかった。
しかし「魔」は、妹の胸が己の武器で貫かれる瞬間だけを目にしてしまった。同時の己の死には気付かないまま。
「何を……い、って……」
それを苦しんだのも「魔」だった。妹の死に囚われた瞬間、自身の死を失ってしまった。そうして今も解放されないまま、ただ力だけを利用され続ける。
「……――……」
それをとっくに知っていた者。虚ろな「魔」を人形とするしかなく、兄として求めた人形使いが神父を見つめる。
「……ルシウの羽が……消えちゃうね」
それでも――と。黒髪の幼子はいつかのように、声色にだけ痛ましさを乗せ、ぬいぐるみをぎゅっと抱きしめて言った。
「……やっと……届いたんだ……」
幼子の安堵とは対照的に、幼子の背後にいた陽炎が、不快そうに顔を歪めた。
「思い込まされてるなんて……言いがかりだわ」
自らこそが裏切者であると、陽炎は夢にも思ったことがない。
「Jがずっと、それを気に病んでいるから……Jは悪くないと、私は信じ続けてきたのに……」
その愛執こそが呪い。それには塵ほども気付いていなかった。
「……悪くないとか以前に、やってないって、教えてやれよ」
囚人を自らの手中に置くため、その救いを与えなかった者。
無意識に囚人の支配を望む、意識上は曇りなき善意の者に、キラはそれだけ、侮蔑しながら口にした。
「あの裏切り者の女が、あんたの獲物だろ――水華」
「…………」
最後の瞬間に、羽の主は陽炎の罠に気が付いていた。そのために憎悪した、ただ強く呪いのような断末魔が、昏く赤い夢の一つだった。
――あいつだけは――絶対に殺す。
幽閉された彼に渡してほしい、と。天の少女は知り合いの陽炎から、兄の輪杖をペンダント仕様にした物を託されたのだ。
それこそが兄の目前で、ペンダントを着けた妹に魔法を集中させて狙い、たとえ防がれてもペンダント自体からの力で貫くための罠だった。優しい兄を苦しめ抜いて、「魔」と堕とす罠だったのだと、敏い妹は胸を貫かれた瞬間に気が付いていた。
一瞬でそれらを悟りながら、何もできずに消えていくことを、天の少女は許せなかった。ただ、無念の断末魔にまみれた羽がそこには在った。
そうした天の民の事情には、キラはこれ以上興味はなかった。
キラは改めて、ここに来た運命の決着へ、その目の向く方向を変えた。
「こっちへ来い――……エル」
「…………」
バンダナを外し、青い目へ戻ったキラの視線の先で。幼子と赤い天使は、ただ無表情に見つめ返していた。
キラは赤い天使の次に、黒髪の幼子をまっすぐに見つめた。
「その子の躰はあんたのものじゃない。そこから出て行け――ソイツはまだ、目を覚ませるはずだ」
「……何で? ユオン……兄さん」
幼子はようやく、不服を満面に浮かべて言葉を返した。
「兄さんだってぼくと同じで、ヒトの躰を使っているくせに……ぼくがここにいなければ、『ピアス』も動かないよ。兄さんはまた――……『ピアス』を死なせるの?」
人形使いの幼子は、赤い鎧に宿る死した者の命から、魂だけを奪っていた。幼子自身にも明確な自我がなく、奪った魂と同調することで意志を持てて、赤い天使と同じ現状把握の直観を使えた。そのことで赤い天使の止まった時間も動き出した。
しかしそれらの自我は、混沌だと言えた。
「あんたはエルでもピアスでもない……俺は、あんたのことは知らない。あんたはただ、俺の妹のことをよく知っている……そっくりだけど、違う誰かだ」
その在り方は最早、転生ですらない新生。幼子を観ながら少年はそう結論付ける。
「…………」
幼子の願いは確かに、「兄」を得ることだった。
自らの居場所を求めただけの幼子は、キラの言葉が本気だとそこで悟る。
「そっか。君は……ぼくの兄さんにはなってくれないんだ」
「……」
「ぼくから兄さん達も取り上げる気なんだ。それなら君は……ぼくと『ピアス』の敵だよね」
幼子がゆっくりと手を上げると、赤い鎧の天使も合わせてその顔を上げた。元々は黒かったはずの青い目で、キラをじっと見つめる。
「ぼくはこのまま、ルシウやシアの助けになりたい。邪魔をするなら……兄さんなんかいらない」
そうしてここの所、幼子の指示を聞かなかった不調が嘘のように、赤い天使は大鎌を手に空に飛び上がった。
処刑人の大鎌が、キラの細い首を落とさんと襲いかかる。
古宝の赤い鎧にはどんな打撃も術も通じない。それでもキラは己の剣を握り締めた。
「……そっか、エル……」
黒い羽で飛びかかる青い目の人形。その隙を確かにキラは観通す。
「こいつは――……エルを縛る敵だ――」
天性の死神は、彼らの間合いが詰まることをこそ待っていた。
「力」であれば何にも通じる切り札。命の白い光を纏う剣を、確実に外さないために。
目前に迫った赤い鎧。
振りかぶった鎌を大きく外し、キラの真横に叩き付けた相手を、そのまま渾身の力で斬り上げていた。
「――へ?」
「――!!」
未だに拮抗状態にあった養父と青闇の青年も、その結末をしっかりと目にした。
打撃も魔法も通じないはずの赤い鎧が、白い光を纏う剣を受けて、黒い光を放ちながら粉々に砕け散った。
「え……?」
一瞬で、その赤い天使は終わりの時を迎えた。
「何で……『ピアス』……?」
黒髪の幼子は我を忘れ、崩壊した赤い鎧と舞い上がった人形を見つめる。その直後に自身に起きた異変にも気付くこととなる。
「あ――……」
ずっと抱えていたぬいぐるみを、幼子は不意に取り落とした。一瞬だけ恐れの顔を浮かべる。
「兄……さん――……」
赤い天使は少年への攻撃をあえて外し、自ら白の剣光を受けた。その人形が地に叩き付けられると同時に、幼子もそこに倒れ込んでいた。
その人形と幼子が確かに、同調した存在だったことを示すように。
……へー、と。
一瞬の決着に誰もが黙り込んだ中で、至って気楽な声が場に響いた。
「人形使い、敗れるか……人形から自滅されちゃ、確かに世話は無いよね」
「――貴様」
嘲りの顔の青年を、養父の灰色の眼が睨む。
「おかげでオレも解放されたかな。と言っても翼槞――殺されたオレはもう戻らなさそうだけど」
「……」
「ま、こーいうのは、ケンカ両成敗で後腐れなし?」
ふっと後退した青年が、ちらりと倒れた幼子を見やる。
「アイツ、早いところ助けてやりなよ。あの躰、パルシィ君のものにしてあげる方がみんな喜ぶだろ?」
「――何?」
それだけ言い残すと、青年は地に横たわる神父を抱える。陽炎と吸血姫もそれに続く。
「オレはその内――……黄の宝珠は、必ず頂くよ」
人形使いから解放されても、青年の目的は変わらない。
そうして歪んだ顔付きだけを見せ、場を後にしていった。
「って――待ちなさい、あんた!」
「……――」
去っていく陽炎は、水華をつまらなさそうに一瞥しただけだった。
キラはまだ衝撃が抜けない養父に、優先事を催促する。
「……レイアスは早く、まずそいつを連れていけ」
「……」
仕事だろ、とそれだけ言う。養父も厳しい表情で、迅速な処置が必要なはずの黒髪の幼子を抱えた。
「後でゆっくり――話は聞かせてもらうぞ、キラ」
ばさりと、飛竜の羽音を残して、その島を飛び立っていった。
そうして場から、全ての脅威は姿を消したはずだった。
「くっそー……あの女、ヒトが少し大人しくしてたら調子に乗りくさって!」
「……――!」
しかし彼らの運命の真の決着が、そこで待ち受けているとは。
目を覚ました赤い夢に昏い現実を突き付けられると、誰も予想できなかった。
「ミズカ――気を付けろ!!」
「――へ?」
キラはほぼ力を使い切った。ユーオンへと戻るさなかに、直観が残した警告を発する。
その相手は確かに、長い暗闇から目を醒まし……昏く赤い夢を携えた死の人形が、水華の背後に立っていたのだった。
+++++
「――って!?」
宿敵を追わんと必死に立ち上がった水華に、突然背後から黒い鎌が突き付けられた。
鎌を持つ壊れた人形は、柔らかい微笑みをその顔に浮かべた。
「……何……あんた、誰?」
本来、その高度な天使人形は、表情も自由自在で声も出せる。宿る者の声色、そして「力」を反映できるほど精巧な依童として造られていた。
だからふわりと微笑みながら、よく知った声で、天使の人形が人間の言葉を口にしていた。
「そんなの……わかってる、くせに……」
そんな危うげな笑顔を浮かべるのは、これまで人形を動かしていた赤い天使ではない。
天使人形への新たな憑依者を悟った水華が顔を歪めた。
「……バカな奴。まっすぐ成仏すればいいのに」
ぎり、と水華が歯を食い縛った。追おうとしていた敵達に背を向けて、鎌を突き付ける天使人形に毅然と振り返った。
確実に水華の首を刈れる態勢で、天使人形は鎌の刃を向けている。
水華は身動きをとることも諦め、相手の正体を苦々しげに口にしていた。
「何のつもりよ? ……ばかラピ」
同時に事態を悟っていたユーオンは、衝撃に膝をついて崩れ落ちた。
「ラ……ピ、ス……」
その人形を動かす者の名。どうしてそれがそこにいて、人形を動かせるのかをただ悟る。
その娘は天使人形に、つい先刻に命を奪われた。そのため命が人形の内へと遷り、人形の体を動かすことができるようになった娘がそこにいる。
天使人形は、くすりと。
自身の正体を当てた二人に、心から嬉しそうに笑いかけた。
「……それも正解なんだけど」
既に人形は、躯体の大半を破損している。それでも確実な殺意と共に、水華を見つめていた。
「私は白夜。ラピスをずっと、守ってきた神様なんだ。水華のお母さんが、ラピスから全てを奪ったその時からね」
「……はい?」
「ねぇ、水華……水華なら、ラピスを助けてくれるよね?」
確かにラピスの声色と気配。しかしその天使人形は、ラピスが抑え続けた、最も深い闇を口にした。
「ラピスを助けるために……水華を全部、私にちょうだい?」
助けは来ないよ、と。天使人形は柔らかく告げた。
「二人がここに残ってること、今はみんな、私の『力』で忘れてるから」
両膝をついたまま、ユーオンは身動きが取れない。
ひたすら茫然としながら、脳裏によぎるのは、まだ剣として彷徨っていたこの朝に観た、吸血鬼の女性の夢だった。
幼いラピスに関わる直前に、吸血鬼の女性が隠れ里へ行く際、依頼者の大切な忠告が映し出されていた。
――いい? 『神』は絶対、直接殺しては駄目。もう一度封じるだけにしてほしいの。
それは何故なら、「神」には誰も勝てないからだった。
――『神』は命のやり取りに便乗して、宿主を自らに創り変える寄生虫。殺しても殺されても、あなたは『神』に取り込まれる……それを『神隠し』というのよ。
「神」を名乗る白夜がラピスの内にいる。それこそが、吸血鬼の女性の咎に他ならなかった。
私はね――と。天使人形はラピスと同じ明るい声で、殺伐としたことを遠慮なく口にする。
「私はね、水華の躰と命がほしいの。私の身体は欠陥品だから」
「……はい?」
「ホントは水華のお母さんでも良かったんだけど。それより水華とずっと一緒の方が、ラピスもきっと幸せだもの」
「――?」
立ち上がれないユーオンとは対照的に、水華はあくまで強気さを失わず、人形を見返していた。
自身の絶対的な有利を知っているその「神」は――
「ラピスはね……もうとっくの昔に、死んでるんだよね? 水華のお母さんと出会ったせいでね」
その人形に宿った娘の終末は、今に始まったことではない。
確かにそれを引き延ばしてきた「神」が、誇らしげに微笑みを見せる。
「ユーオンは……キラ君は知ってたでしょ?」
「……」
「ラピスは……シルファは、シルファのお母さんに殺されて。それでも水華のお母さん――悪魔と契約することで、生きてるふりをしてきたんだって」
……少年を長く侵し続けてきた、昏く赤い夢は。
――あなたのせいよ……。
それは悪魔である吸血鬼の女性と関わった人間、古い本名はシルファが、実の父を失った後に実の母に胸を刺され、未来を閉ざされた光景だった。
「水華のお母さんは元々、私を退治するように言われて、私が封じられていた場所……シルファの故郷に来たんだけど」
その「神」は当時、強い炎の獣の内に、遥かな昔に封じられた身だった。その封印がやがて限界を迎えることを知っていた封印者が、強い「水」の力を持つ吸血鬼の女性に再度の封印を依頼したのだ。
「でも水華のお母さんは私入りの獣を退治する時、シルファやそのお父さんを巻き込んでしまった。だから私を、封印でなく殺すことになって……水華のお母さんに命を奪われたから、お母さんの中に遷った私は、その躰をもらおうと思ったんだけどね」
「神」の獣を殺した女性の命に、「神」は易々と侵入した。
しかしたった一つの誤算が、「神」と吸血鬼の女性の両方を襲う。
「水華のお母さん、本当変なヒトだよね? ほとんど初対面の人間の女の子が、自分と関わったことで、その子のお母さんに殺されたからって……まさか自分の命をその子に分けてまで、助けるとは思わなかったよ?」
「……――」
長い時を生きた悪魔――吸血鬼であった銀色の髪の女性。
それは既にヒトの血を摂ることを止めて久しく、残り少ない寿命を元々自覚していた。
それでも悪魔としての特性を生かし、人間であるシルファと彼女は契約した。死んでしまったシルファを、己の命を分けて生かすことを選んだのだ。
「それで水華のお母さんと、シルファが繋がったから。私は、居心地の悪い場所は捨てて、ずっとシルファと一緒にいたの」
強い悪魔である女性の書き換えは、「神」が思ったより難航していた。そのために「神」は、分けられる女性の命と共にシルファへ遷った。
命の繋がりが直接でないため、シルファのことを「神」には書き換えられない。だからシルファに追い出されないよう、「神」としての力――「意味」を最大に駆使することとなった。
「炎の獣なんて、てんでナンセンスな所に封じられていたけど。私は白夜……『忘却』を司る白い川の神」
「……『忘却』?」
「夜にヒトの夢を視て、忘れたいことは真っ白に打ち上げてあげる。全て空に流してあげるのが私。だから水華と私は……キラ君と私も、とても相性がいい水の化生なんだよ」
水脈を司る化け物だったキラ。「水」を主な力の一つとして名に冠した水華。その二人にただ、白く微笑む。
「大変だったよ? 水華のお母さんが仇だって覚えてるまま、お母さんの命をもらってることだけ、シルファに忘れてもらうことは」
水華はそこで、心から不快な相手を見るような目で、人形を睨みつけた。
「誰も……自分がここにいちゃいけないなんて、ずっと思って生きていられないよね?」
「……――」
ラピスが誰より自身を、呪われた者と感じていたこと。
――ユーオンは私より、軽症だと思うよ。
悪魔の命を食らう記憶も無いまま、己を責めていたラピスを少年は知っていた。
――誰かに無理をさせるなら、私はいなくならないと。
その願いを持ちながら、悪魔が差し出す命を拒否できない。生の執着と死の現実の間で迷い続けた娘は、「忘却」に抗い切れなかった。
――それが辛いことでも……ずっと逃げることの方が、私はしんどいと思うよ。
だからこそ、赤い鎧の人形が全てを終わらせてくれた時、ラピスは心から微笑んだのだ。
既に死した体を、悪魔に縋って生を繋いでいたラピス。ここにいなかったはずの者の望みは、最初からそこにない、在るべき状態に戻ることだった。
そうしたラピスの心も夢も、水華は知るはずもないのに。
――大切なことを忘れてること……覚えてたはずなのに……。
「この――……外道」
いつも現実を省みてきた娘。そうしたかったラピスを、水華は誰より知っていた。だからこそ、その信条ごと長い時間をかけて喰らった「忘却」を、ただ強く睨みつける。
「どうして? 望んだのは私じゃなくて、ラピスだよ?」
くすくす、と「忘却」は、「忘却」から見た現実をそこで伝える。
「ラピスはもう、私を拒否できなかったんだよ? だって……ユーオンも水華も、ラピスが一緒にいられそうなヒトはみんな、もうすぐいなくなるんだから」
「……――」
「……」
何事も直視せんとした娘の弱点は、まさにそこだった。
都合の悪いことを無視できない娘を、「忘却」が憐れむように笑う。
「――知ってるよ? 二人がもう……長くないってこと」
長い時を超え、少ない力を命としてやり繰りする旧い剣。一度死を迎えた羽の残滓を、期限付きで支えとする少女に笑いかける。
「だから、ユーオンが水華のお母さんを殺して、その命を全部ラピスのものにしてくれるか。水華がラピスに躰をくれるか……そうしてくれたら、ラピスだけでも助かるんだけど?」
既に眠りについた吸血鬼の女性には、心臓を刈られたラピスの身体を、再び助けられる命は残っていない。
それでも今、娘の魂に火を燈し、天使人形を動かす命は女性からかつて分けられたもの。娘がその命を吸血鬼の女性に返す可能性を、「忘却」は長く危惧していた。
最近は特に、吸血鬼の女性の弱りが顕著だったため、宝珠の事変に関係なく少年に介入を始めた「忘却」だった。
――あいつを殺さないと――……ラピスがいなくなる。
銀色の髪の少年はここまで――
ラピスをこのまま生かすには、それが必要と知りながら手を下せなかった。
――ごめん、ラピス……俺には、無理だったみたいだ。
迷い続けた娘がもしも生を望むなら、命を返せないように吸血鬼の女性を消すことを、少年は自らの役目と見なしていた。
しかし娘の迷いが続く傍らで、少年の方が先に破綻を迎えることになった。
それでもこの躰に戻って来たユーオンは、それは譲ることができなかった。
「……オレにはできない。オレは……あのヒトのことは殺せない」
かつて、キラを守るために命を落とした者。吸血鬼の女性はそれとほぼ同じ存在。それをユーオンは知らなくとも、ラピスが心から望まない限り、ラピスを助けたいという私情で殺すことはできなかった。
苦顔そのもののユーオンとは対照的に、水華は淡々と話を続ける。
「……あたしの躰をあいつにあげるって、どーいうことよ?」
「うん。このまま私に殺されてくれるか、もしくはね……一番いいのは、水華が私を殺してくれること」
すぐに水華を斬らなかった天使人形は、その理由をあっさりと明かす。
「水華の躰をあまり傷付けると、私も復元に苦労するし。でも水華からは、この人形にとどめをさしてくれればいいの。それで私の命はラピスごと、水華に奪われるから」
「……」
水華は首を傾げつつ、ある疑問をそこで口にしていた。
「それってさ。ラピを成仏させてやることはできないわけ?」
「それはラピスの自由かな? ラピスには私が必要な理由があるから……この後もラピスは、行き場がなくなるまでは私と一緒にいるんじゃない?」
「…………」
そこで水華は黙り込んだ。
その少女が決して、そんな提案を受け入れるわけがない。少年はもう一つの赤く昏い夢を観てきたからわかる。
しかし何故か不意に、唐突な悪寒に襲われていた。
――あいつだけは――絶対に殺す。
それが根本。そのためだけに少女の羽の主はここまで来た。
自らの羽を後の世に残し、誰かを操り人形としてまでも、裏切り者に復讐することだけを目的としたはずなのだ。
全く動じた様子のない水華に、天使人形はふっと、表情を変えた。
紛れもないラピスの声と気配で、涙まで流す機能のついた人形の頬を、泣き笑いの雫が伝った。
「私と一緒に死んでって言ったら……二人は、うんって言ってくれる……?」
「……」
「ラピス……?」
それは紛れもなく、瑠璃色の髪の娘自身の本当の思い。ユーオンも水華も同時に悟る。
「何でかな……何でみんな、優しい人達ばかりなのかな………」
くすくすくすと、ふらふら下を向きながら。天使人形が自分自身を、空いた手で抱きかかえた。
「みんなが優しいから……死にたくなくなるじゃない、私……」
あなたのせいよ、と――自らの母にその胸を貫かれ、幼い命を失っていた幸薄い娘。
しかしその後に、悪魔に縋ってまで得た生の中では、優しい養父母、沢山の優しい友達に囲まれていた。
それが優しく温かい程に、娘は現実の冷たさに苛まれていく。
「私、水華のお母さんの命を食べて生きてるんだよ。そんなのいらないって、あの時は本当に、そう思ってたのに……」
それでも今、この意識を保ち、話せているのもその悪魔のおかげ。それを誰より娘はよくわかっていた。
娘の慟哭を、水華は怯まずに受け止める。
「何バカ言ってんの。言ったでしょ。あたしはアレ、親だとは思わないし。あんたの中の命は、アレが勝手に差し出したならあんたが自由に使えばいい」
「――ミズカ……」
冷静でも感情的な水華にユーオンも戸惑う。娘も現実の嘆きを続ける。
「……使ってるよ。もうとっくに、どんどん使ってきちゃった……どんな綺麗事言っても私、結局、いらないなんて大嘘なんだ」
「それで何が悪いの? 生き物なんだからそれが当然でしょ。否定してるのはあんただけよ」
「…………」
娘はゆらりとしたまま、一度だけ初めて、水華をまっすぐに見つめた。
「ずるいよ水華……何でそんなに今、優しくするの……?」
「……」
「否定しなきゃ駄目なんだって、本当は知ってるくせに……私が負けてしまっちゃ駄目だって、わかってるくせに……」
長く孤高に、自らの内の「忘却」と闘い続けた娘。その確かな強い怒りがそこにあった。
「水華は強いから……私が何言っても、傷ついたりしないから……」
気を使い、優しい言葉など返さない水華だからこそ、ラピスは言えた。それこそが甘えさせてもらったことだと、唯一寄りかかれた相手に、ここで誤魔化されることを拒否する。
「私は――今度は水華を殺さないと、ここにいられなくなった」
「……」
「それでも水華は……私が負けていいなんて言うの?」
真剣に、最も本来の娘らしい厳しい声色。全身全霊をかけて娘はそれを問うた。
しかしあくまであっさり答える水華は、最早、今の状態の娘と問答を続ける気はないようだった。
「あんたはあんたの好きにすれば? あたしはあたしの好きにするだけよ」
あはは――……と。
娘はその後に……負けたくないよ、と、俯いて呟く。
「やだ……でも、独りっきりで死んじゃうのはやだ……!」
再び肩を抱き、今度は笑わず、怯えだけの表情を見せる。
……それは本当に、娘が初めて見せた最も深い弱音だった。
「私、どうしたって誰の所にもいけないよ――……! お母さんは私が嫌いだった――お父さんは私のせいで死んじゃった……! ここにいても、私がホントは死んでるってわかったら、今までみたいにくーちゃん達も笑って一緒にいてくれない……!!」
そのためだけに娘は、求め続ける温かな周囲に、本当の意味で心を開くことができなかった。
「それならずっと、誰も気付かないでいてもらうしかない……もう誰にも会えないし、何処にもいく所がないよ、水華……!!」
「……ラピ」
静かな紅い瞳で見つめる水華を見ることもできずに、泣き叫ぶ天使人形が膝を折った。
「イヤだ、そんなのはやだ! 忘れていいから! 私なんか消していいから! 私は……こんなこと思う私は嫌なの……!」
ここにいなかったはずのラピスの望みは、ただ――
最初からそこにはいない、在るべき状態に戻ることで。
「誰にも知られずに、消えることができれば、それで……私は良かったの…………」
そのために「忘却」の神を必要とし、抗えなくなったラピスだった。
「…………」
ラピスには少なくとも一人、存在を脅かす者がいる。その迷いをもしも断ちたいのなら……ラピスがそれを望むのなら。
その時少年は、ラピスを殺さなければいけないと知っていた。
――ラピスの敵は……多分ラピスなんだ。
それは結局、どちらを選ぼうと辛い道。だから目を伏せることしかできなかった。
このまま吸血鬼の女性から受けた命を最後まで食わせ、最悪ボロボロの人形の躯体でも娘を生かすか。
もしくは少年が「神」に侵されたとしても、人形を破壊し、神との縁を断ち切れない娘を解放できるかどうか。
娘も少年も苦痛に生きるか、共に滅ぶかの選択。
未だに迷い続ける娘を感じ、少年は動けず俯き続ける。
――できることがあるなら……オレはラピスの力になりたい。
そのひたむきな想いこそが、娘を最も追い詰めた心だった。
――一緒に死んでって言ったら……うんって言ってくれる?
どうせ同じ、先の無い身であるなら。
少なくとも一人は、それを頷いてくれてしまう。独りで消え切れず、天使人形を止めることができない娘の迷いの因がそこにあった。
あのね――と。
不意に、誰の声かわからない程の穏やかな声色が響いた。
水華は両膝を折って座り込んでいる天使人形に、何故か突然平和に笑いかけていた。
「あのね、ラピ。あたし――あんたのこと、嫌いじゃなかったよ」
「……?」
天使人形はそんな顔をする相手の意図がわからず、ただ水華を見上げる。
「あんたは何か、いつも切羽詰ってて、でもそれでヒトに迷惑かけないようになんて、妙に必死で。バカだなぁーって、見てて楽しかったけど……それももう、年貢の納め時かしらね?」
「……水華?」
常に不敵で我が侭で、そして理性的だった水華は――
「あたしと違って……あんたは本当、真面目に悩んでたよね」
おそらくそこで初めて、呪われたその命への思いを口にする。
「あたしは自分自身の手で、それを自覚しないようにしたって言うのに。あんたは勝手に自分の記憶を消されて守られて、誰よりそれを……自分で嫌がってたバカだからさ」
その少女は、誰かの生を犠牲に、自らの死を忘れてまでもそこにいた誰かで。
「ま……こーして、思い出しちゃったからには仕方ないや」
その記憶を封じた自身よりラピスは強かった、と、ただ微笑みかける。
もういいや――と。
赤い光を放つ目を持った少女は、達観したように笑った。
「あんたよりあたしの方が弱いなんて、癪だし」
今や躯体に負担をかけるばかりの、光の羽を少女は広げる。
少女の周囲には、鋭い刃のような炎を纏う風が吹き荒れていく。
「……ミズカ……?」
ユーオンの目には、その姿は炎の髪を持つ天の少女にしか観えなかった。
たった一つの目的のためだけに、ここまでやって来たはずの天の少女は、座り込むままの人形に小さな白い手を向けた。
「まさか――スリージよりもぶち殺したい相手ができるなんてね」
「……水華!?」
咄嗟に銀色の髪で立ち上がったキラも間に合わない、あまりの思い切りの良さだった。
少女はその人形……「神」が宿り、決して手を出してはいけないはずの相手を、炎と風の刃で完膚なきまでに分断していた。
「あ――……」
ごろんと転がった天使人形の首が、不思議そうに……ただ、安らかな青い目を少女に向けた。
「……ありがと…………みず、か……」
その声が少女に届いたかもわからない内に、次の瞬間には首は、他のパーツと同じように激しく燃え上がった。
「夢は終わりよ。……お互いにね」
羽の「力」を使った反動に、少女も崩れ落ちる。人形が燃え尽きていくのを、見守ることすらできない程にすぐに。
更には天使人形から間違いなく遷り来た「神」を示すように、急速にその透明な羽を白く染められていった。
「あー……まじでコレ、いただけないわ……」
「水華……!」
苦しげに胸を掴む少女は、声の不敵さだけは凛と失わなかった。
「悪い、ユーオン……後は頼んだ。ちょっとあたしの代わりに、スリージぶち殺しといて」
キラが駆け寄ることすらも間に合わなかった。
少女は胸を掴む自身の手に、ある目算と共に最後の魔力を込めた。
「要するに――行き場がなくなれば、あんたの負けよ、白夜」
既に自らを侵しつつあった「忘却」の神。それにただ、抗うために。
命の遣り取りに乗じることで、存在を保ち続ける「神」の唯一の弱点を、あっさり少女は氷の刃で貫いていた。
「……え?」
キラにとって、それはあまりに、信じられない唐突さだった。
「水……華……?」
この場で迷いしかなかったキラの直観は、少女を止められなかった。そんな展開を、欠片も把握することができなかった。
一瞬の現界で、すぐにも消え失せていった儚い氷刃。
それで自らの胸を貫いた少女が、天使人形の燃える炎の中に倒れ込んだ。その姿にただ茫然と再び膝を折り、ユーオンに戻って座り込む。
――……えぇ? そんなぁ……!
広がる血が焦げ付いていく少女の髪を紅く染める。しかし僅かな間で傷口は凍りつき、出血も止まった。
横向きに倒れ込み、息を絶ってしまった少女の内から、「神」が急速に自らを失っていく。
――待って――……消える、私が消える、消えるよぉ……!
自らの命を自らが奪う。命の行き先を己として消し合うことが、「神」の行き場を奪い、その「意味」を初期化する方法。
それが唯一、命の遣り取りに縛られる神の目論見を潰す術だと、放心したままのユーオンも否応なく現状がわかった。
――イヤ……助けてラピス、いかないで……!
白い「神」と、あれだけの短い遣り取りの中で、敏い水華はそれに気が付いたのだ。
そうして、自らの躯体を引き換えとした水華は、「神」に勝ったのだった。
「……ウソだろ? 水華……」
どーせあたしも、十五歳までだしね、と。
呆れながら笑うような誰かの声が、聞こえた気がした。
「そん……な――…………」
完全に燃え尽き、灰だけが残った人形だったもの。
流れた血で長い髪を紅く染め、全く呼吸をしていない水華と、独り取り残された無力でしかないユーオン。
その衝撃と事実を、受け止める暇すら与えられなかった。
「……あらら。こんな形で脱落するの? 情けないミラ」
「忘却」の影響が消えたために、ユーオン達の存在を思い出した者が、場に再び姿を現していた。
真っ先に来たのは陽炎と、その護衛たる銀色の髪の吸血姫だった。
使えないヒト、と。
開口一番に陽炎は、悪意を隠さず水華を見下ろしていた。
「貴女には、黄の宝珠を解放してもらう役目があったのに」
燃え盛る炎は吸血姫が消し止めていた。
動けないユーオンの前で、陽炎が水華の横にしゃがみ込む。
「せめて躰くらいは、何かに使えるかしらね?」
そうして水華の状態を、さらりと確認しようとする。
しかしそれを――確かに一つの願いを持って、ここまで長い時を生きてきた、無力ながらも一途な乙女を。
「……――は?」
突然背後から、陽炎の胸を何かが貫いていた。
陽炎は戸惑ったような顔で、水華の横に倒れ込んだ。
「……え?」
そうして二人もの誰かが、胸から血を流して倒れ込む事態に、座り込むユーオンはただ絶句する。
何一つ躊躇いもなく、冷酷にその手を下した者。
ユーオンはもう驚愕する力すらなく、ただ黙って、その紫暗の髪で深い緑の眼の吸血鬼を見上げていた。
「……バカね。私がいつまでも、大人しく言うことを聞いてると思ったのかしら?」
つい先程までは、銀色の髪で赤い目だったはずの吸血姫。
それが今や、年恰好がまず大人の女性となり、耳も尖らず、髪の色まで変わってしまった。無表情でもはっきりと、これまで喋れなかったはずの言葉を口にしていた。
「シルファ・セイザーが消えた以上、その子に渡していた命が、私に戻ってくるのは道理でしょう。そんな程度のことも、平和なあなたは予測できなかった? スリージ・ソイル」
「……う、あ……?」
何とか最後の力で、陽炎は横を向いた。
以前に胸を斬られた時とは違い、今度こそ確実に命を奪う氷の刃。自らの命が終わる不思議に、ただ戸惑うように目を丸くしている。
そうして一途な乙女は、何が起きたかわからないまま、長い旅をそこで終わらせていたのだった。
そして能天気な声が、続いて場に響いていた。
「おー。さっすがレイ姉ちゃん、容赦ないねー」
わざと遅れて現れて来た者。こうなることをわかっていた青闇の青年が嗤っている。
「オレもラピちゃん、死んでほしくなかったけどさ。こうなったらもう、レイ姉ちゃんに起きてもらうのがベストだしね。残念だなー……せっかくずっと、オレも見逃してたのにね?」
本来その青年は、悪魔と契約する死人の葬送が仕事である死神。
これでお役御免とばかり、あっさり寝返る青年の登場に、紫暗の髪の吸血鬼がつまらなさげに息をついていた。
「御託を並べる暇があれば、さっさとその子達を保護しなさい。少なくとも水華の体はまだ、回復可能なはずよ」
「あれ。そこまでわかってたんだ、レイ姉ちゃんてば」
「ミラティシア・ゲールとして再起はできないでしょうけどね。身体を直せば、紅の天使ちゃんくらい目覚めるでしょ」
これまでずっと、吸血鬼の女性は吸血姫を通して状況を見守り、現状を的確に把握しているらしい。なかなか動かない青闇の青年に、それ以上構う気はない、と背を向ける。
ふっとそこで、吸血鬼の女性は、座り込んでいるユーオンを見つめた。
「……――」
少年が全く知らない、淡く暗い紫の髪。紅い光を放つ深い緑の眼を、しばらく不思議そうに軽く細める。
「……ありがとう」
「――え?」
ユーオンの前で吸血鬼の女性が膝をついた。目線を合わせて突然礼を口にする。
「ありがとう。シルファ・セイザー……貴方達にはラピス・シルファリーを、あの妙な『神』とやらから解放してくれて」
「……――」
「私にはできなかったことだから。私が巻き込んだあの子のことは……ずっと気になっていたのよ」
ユーオンはそこで――青闇の青年が抱きかかえていた水華を見上げ、首を強く横に振る。
「オレには何もできなかった。ラピスを助けたのは、ミズカと……あんただ」
「…………」
そうして目を合わせられず、俯いたままでいる。
そこで吸血鬼の女性は何を思ったのか、突然、強行に出た。
「――?!」
次の瞬間、よいしょ、とユーオンは、吸血鬼の女性に持ち上げられていた。
「火の島に送ってあげる。貴方達の保護者がそこにいるでしょ」
「え――!?」
「私達にはまだ少し、ここでやるべきことがある。多分もう、会うことはないでしょうけど……貴方の妹と水華ちゃんを、今後もよろしくね」
「……――」
鋭過ぎる気配の探知能力を持った、吸血鬼の女性の言葉。
それが何を意味するのかを少年は思い出して、光を失っていた剣を強く握り締める。
「これで貴方達の――長い宿題は終わりよ」
温かさは欠片もないのに、何故か懐かしい感触。見た目によらず力のある吸血鬼の女性の細い腕の中、ユーオンは抵抗する気が起きなかった。
そのまま「火の島」に送られるまで、ひたすらポカンとし、抱きかかえられていた少年だった。
「あんたが……四天王?」
最後にそれだけ尋ねたユーオンに、吸血鬼の女性が虚ろに笑う。
自分はただの、鬼となった女だと答え、すぐに去ったのだった。
✛幕引✛
青白い剣の夢が、ただ少年の過去を映す夢に戻っていた後に。
少年にある夢を送ってきたのがいったい誰なのか、夢の最後まで少年にわかることはなかった。
――……やっと俺も……心置きなく、悪魔になれそうだ。
以前に誰かが、少年に似ていると言った者。白銀の髪を持つ「魔」が、自らを封じられていた祭壇の前に立っていた。
――何をしても、これだけは……俺がやらなきゃな……。
困ったように微笑みながら、「魔」は硬くその意志を定めている。
「魔」がかつて消えてしまった日。己が妹をかばって命を落とした時よりも大人びた姿で、その祭壇まで帰ってきていた。
そして祭壇の真上に浮かぶ、まるで小さな太陽のように強い光を放つ球体に、「魔」は強く手を差し伸べる。
光に包まれた「魔」が、その本来の顔で満足そうに笑ったことに、銀色の髪の少年は安堵して夢を閉じる。
+++++
青闇の青年――黒の守護者が、行方不明になったという。
ユーオンの自宅を訪ねてきた吸血姫、銀色の髪で赤い目へ戻った相手が、両手を祈るように握り締めながら語った。
「せっかくソール君から解放されたと思ったら、シア君てば一人でどこかに行っちゃったんです~。水華ちゃんだけは何とか、ちゃんと火の島には送ってくれたみたいですけどぉ……」
「……」
心配ですぅ、と、軽い口調で憂いげな顔の吸血姫は、これまでの無表情は見る影もない。喋ることも表情を変えることもできなかった躰を、すっかり我が物顔に使っていた。
「あ、ちなみに私ミカランは、当面レイスゥさんの日常代理をすることが決まったのです! レイスゥさんは基本命を節約して引きこもって寝るということで、私は遠慮なくこのカラダで先生に突撃しろとのことです!」
「……正気の沙汰じゃないな、ホントに」
帰ったばかりの玄関先で吸血姫を出迎えながら呆れるユーオンに、吸血姫が照れ臭そうに笑う。
「ちょっと前まで、皆さんのことも苛めてホントにごめんなさぁい。私も生き残るために必死だったんですー」
「……それは多分、ミズカに言ってもらった方がいい」
吸血姫によって自らの存続に関わる杖を折られた少女。ユーオンは憮然と呟いていた。
それで……とユーオンは、気になっていたことを口にする。
「『黄輝の宝珠』は結局……封印から解放されたのか?」
ぎくり、と肩をすくめる吸血姫に、淡々と先を続ける。
「あの神父がそれをやり遂げたんだろ? 魔王の残党でなく……水華をいつか、黄の守護者にさせてやるために」
「……はうぅ。そこまでばれていたのですか、あな恐ろしや」
「でも水華が消えたから、黒の守護者が宝珠を持ち逃げした、と。ホント……完全に消え損だよな、水華も神父も」
十五年前に一度敗れ、そもそも魔王がいない魔王勢力にすれば、この件は嫌がらせだったのだろう。不要になった手駒の切断処理かもしれない。
大きく溜息をついたユーオンの背後から、ひょこっと――
茜色の髪を鎖骨までたらし、女の子らしい大人しげな上着を羽織る、紅い目の少女が突然現れていた。
「あれれぇ。それなら私に宝珠、くれれば良かったのにねー。ミラの物真似くらいなら私も、いつでもできるけどなぁ?」
にこにこと、まるで危うげに明るかった娘を真似たように笑う、紅い目の少女。ユーオンはひたすら苦い顔を向ける。
「やめてくれ。それでなくてもその口調、オレは嫌なのに」
「えぇー。仕方ないでしょ? 消えたとはいえ、白夜の抜殻は私に受け継がれちゃったんだしー……ユーオンがたまに語尾が変になるのと多分一緒だよ?」
くすくすと、すぐに何かの影響を受ける少女――「紅の天使」は、現在はそれがブームとばかりに、白い「神」の真似をするのだった。
「はわー。水華ちゃんもお元気そうで何よりですぅー」
「ありがと、お母さん。お母さんもお元気そうで何よりだよぉ」
何だこの空虚な会話。あまりの誠意のなさにユーオンは絶句する。
紅い目の少女は「地」で、自ら大きな傷を負った。
その後ディアルスから呼び出した妖精の魔女の力で、何とか体の傷だけは癒されていた。
「もう羽は無いんですねぇ? 惜しいですー、飛べないですねぇ」
「無いことは無いけど、もう光は戻らないかな。ミラも眠りたいだろうし……後は私が、自分で動くしかないのかなぁー」
あくまで虚ろな笑顔のままの紅の天使は、これまで自分で動くのがとにかく面倒で、羽の主に自我の手綱を渡していたという。
「白夜に負けて、ミラの羽が消えなかっただけでも僥倖かなぁ」
南の島にいた頃に、辛うじて芽生えた自我で動けている少女。目覚めた時から笑っていた紅の天使だった。
「まぁ当分は……私もしなきゃいけないことがあるしね?」
ちらりと屋内を見やる紅い目の先で、もう一人のその家の子供が、廊下を通り過ぎていった。
「ああー、もう動けるんですかぁ? 旧ピアスちゃあん!」
その姿に気付いた吸血姫が、驚いたようにぶんぶんと手を振る。子供は無表情に振り返り、玄関先へと顔を出した。
「…………」
「こんにちは、お久しぶりですぅー、旧ピアスちゃん」
瑠璃色の長い髪を一つに、黒いリボンで束ねる子供。無表情に灰色の猫のぬいぐるみを抱え、深い青の目を無機質に吸血姫に向ける。
その横でぽんぽんと紅い目の少女が、ぬいぐるみを抱える子供の頭を撫で叩いた。
「もう喋れるくらいになったよねぇ? エルフィ」
「……」
「その躰とはとっても相性良かったんだから。遠慮しないで、思う存分使っていいんだよー?」
にこにこと、空虚な微笑みを向ける少女。エルフィと呼ばれた子供は、反応に困るような視線を向ける。
「……まだあんまり無理するな、エル」
その子供に対し、ユーオンも困った気分で笑う。
人間の躰という、最大の依り代を得ていた旧い命。それが現在、こうして存在していられる理由――
黒い柄から透明な鈴玉を失った、腰元の剣を見やる。
銀色の髪のキラから託された願いを、そこで改めて思い出していた。
その剣は、水脈を司る化け物の力を受けるために造られたもの。化け物をヒトの形とする眼か、命の力を核とする宝剣だった。
剣の柄に填まる透明な鈴玉を間近で視て、灰色の眼の養父が静かに頷く。
「――確かに、間違いなく……あのコはここにいるな」
ある旧い命が宿った赤い鎧を、その剣は完膚なきまでに破壊していた。だから剣には、キラがそれを目論んでいた通りに、赤い鎧に宿った命が奪い取られて宿されていた。
「この剣は元々、ヒトの命を蓄える剣なんだ。だからこれなら……エルの命を受け止めて、この玉に還せたはずなんだ」
キラは、長い時を越えてここまで待ち続けた理由を初めて話す。
暗い海の底に眠りながら、守り切った一つの宝のことを、「力」を視る眼を持つ養父に伝える。
「この玉は確か……竜の眼だって、誰かは言ってた気がするけど」
黒い蛇のような柄の中心に填まる透明な鈴玉は、それもキラと同じ化け物の眼だった。本来はその場所には無く、キラが剣となる前に身に着けていたことで、剣の一部となった玉なのだ。
「俺はこれをエルからもらったんだけど。エルはずっとこれを身に着けてたから……これはもう、エルの眼でもあるんだ」
それは「竜の眼」という「力」。その眼を持つ自然の脅威の化け物に、ヒトの形――ヒトとしての命を与えることが本来の機能でもあった。
「確かに、この竜の眼を使えば……ラピスの体を回復させることができる」
ラピスは既に命を失っている。どんな回復魔法でも戻せない死者の身に、その眼なら再び命を与えられる、と養父は息を飲んだ。
遠い昔にその眼の力で蘇生した、キラと同じように。
何故人間であるラピスの体に、その「竜の眼」の「力」が使えると言えるのか。
それはそもそも竜の血を薄くひき、だから神獣と契約する家系だったラピスに、更に竜と縁の強い存在が混じったからだった。
「ラピスの中には、既に半分……ラピスを手にかけたあのコの命が、取り込まれつつある」
「神」混じりのラピスの命を奪った赤い天使。それが着ける赤い鎧に天使人形の命は宿っていた。
「神」と共存していたラピスの命を、赤い天使は奪った。ラピスの命が天使人形の元へ遷り、赤い天使の命は剣へ遷ったことで、天使人形に遷ってきた「神」に赤い天使は侵されなかった。ただ命の繋がりだけを得て、「神」が宿っていたラピスの体に命を引き寄せられることになった。
「鎧から剣に、剣からラピスに……あのコの命がラピスの中に遷れるのなら。魂さえ戻れば……これまでと同じ『竜珠』の力と、ラピスの体を使って、あのコは人間として生きていくことができる」
「……うん。エルの命も魂も、ある場所はわかってるから……」
それがたとえ、遥か遠い昔に死した運命に逆らう無秩序。通常では考えられない、呪われた生の在り方であったとしても。
「生まれ変わりじゃなくて……本当のエルが、還ってくる」
そのためだけに、キラは海の底で待ち続けてきた。
赤い天使の魂の在処としても、灰色の猫のぬいぐるみを見定めていた。その頭の内に隠され、黒の大きな両目を作っていたのが竜珠と言われる秘宝だ。竜の眼よりも稀少な竜種の「力」である珠玉で、赤い天使の魂はその宝に囚われ続けていた。
本来、少年などの特殊体質者でない限り、「自らの体」を使わない蘇生には人格の破壊を伴う。水華や神父が陽炎ほどに、以前の己を保てなかったように。
吸血姫がやっと人格を再現できていたのは、おそらく「黄輝の宝珠」の助力。それも黒の守護者が魂を留め、命の翼が残っていてこそだ。それは一般的には不可能な「蘇生」ではなく、宝の力を借りた「再現」なのだ。
命と魂。そして二つの竜の宝が揃うなら、赤い天使を再現――助けることができる。それがわかっていた己の記憶を、キラはほぼ全てを取り戻していた。
「……ラピスは多分……それを望むと思う」
その再現に、ラピスの遺体を利用すること。
キラは俯きながらも、はっきりと宣言する。
「多分……そうしてくれって、ラピスなら言うと思うから」
剣を失い、眠り続けた少年の傍らで、ラピスは本当の妹の人形に遠慮しながら、ずっと少年に付き添っていた。
――私がいたことに、一つでいいから……意味があればいいのに。
そんなラピスの嘆きを、魂無き赤い天使は確かに聴いた。
ラピスが拙い真の弱音を、赤い天使にだけは口にできたことを、少年は知っていた。
「……そうだな」
その幸薄い養女を失ったことを、強く痛んでいる養父も頷く。
「ラピスから俺達への……最大の贈り物なのかもしれないな」
本当なら消えていたはずのラピスが、辛うじてそこで、身体だけでも存在を繋いでいけること。
「忘却」という神が消えた後、本来掴んでいた相手の性質をやっと思い出した養父は、ラピスの願いを悟っていた。
「ラピスはいつだって……俺達の前から、本当は消えたがっていたんだから」
それを留めていたのは、他ならぬ彼らだった。彼らがラピスを守れば守ろうとするほど、その温かさにラピスは苦しんできていたのだと。
それでも彼らを慕い続けてくれたラピスが、ようやく安らぎを得たことを、養父はどんな思いで受け入れたのだろう。
そしてラピスの躰に、ラピス自身でなく、少年の妹を映し出す決意をそこで固めていたのだった。
+++++
そして何故か、瑠璃色の髪の子供は、元より髪が伸び、幼子となった状態で目を覚ましていた。
「……あのね、兄さん」
吸血姫が帰った後に、恐る恐る、その妹は口を開いた。
彼らが今座る縁側で、魂の在処たる灰色の猫のぬいぐるみを抱えながら、隣に座るユーオンを無表情に見つめる。
「あのね、兄さん……ソールは結局……どうなったの?」
「――ああ。とりあえずは、パルシィ……ディアルスの王子に戻れないか、これから調べられるらしい」
……そっか、と。それがとても心配だったらしく、妹は少し安堵していた。
抱えるぬいぐるみに宿る妹の魂を、その王子は自我として同調して使っていたはずだ。それでも命が違ったことで、最終的に分かたれることになった相手を思う妹に、ユーオンは穏やかに笑いかける。
「エルはどれだけ、あいつの時のことを覚えてるんだ?」
「…………」
他意はなく尋ねるユーオンに、妹もやはり他意無く真実を答える。
「全部覚えてるし、全部わたしの意思でもあるよ……だって、わたしも本当に、あのヒト達の力になりたかった」
「……」
「パルはずっと一人ぼっちで、淋しくて、わたしと一緒で……だからわたし達は、みんなソールになったから。ルシウもシアも、優しかったから……助けになりたかったな……」
その純粋な思いは、誰かに利用されるだけのもの。
それでもどれだけ長い時を経ても、自分らしい心を失わなかった妹に、少年はただ穏やかに微笑む。
妹もそんな少年を見上げて、首を傾げる。
本来なら望むべくもなかった再会。かつては妹に刃を向けた兄との、時を越えた有り得ない奇跡……その兄がただ、笑ってくれていることに安心していた。
「わたしは……ずっと、兄さんに会いたかったよ」
金色の髪の兄も銀色の髪の兄も、どちらも妹は違和感なく受け入れていた。
ほとんど姿を現さない銀色の髪の兄を少し惜しみながら、ただ素直に甘えるように、金色の髪の兄の胸にもたれかかっていた。
そうしてこの世へ戻ってきたかつての赤い天使に、心からユーオンも安堵している。
ここまで長い時を待った役目を終えたユーオンは、ただその引き際について、ふと思いを馳せる。
今はまた剣に取り付けた妖精の羽が、元の形を取り戻すなら、それがこの躰を返すタイミングだという変わらない思い。
――知ってるよ? もう長くない状態だってこと。
命であり力である竜珠と、ヒトの体を保てる竜の眼の両方を使った妹と、ユーオンは違う。
剣に宿る自身の力が残り少ないユーオンは、それがこの少年の終わりの時とわかっていた。
「……それはこれから、何とかしようよ、兄さん」
少年と同じ、もしくはそれ以上に現状把握に優れた妹は、その諦観をあっさり否定する。
「わたしがこうして、ここにいるんだよ。もう違うヒトだけど、父さんだっていてくれるんだから……きっと何とかなるよ」
「……とりあえず先に、アフィを助けなきゃだけどな」
苦笑うユーオンは、既にその覚悟を決めていた。
灰色の眼の養父と共に、「魔界」で消えてしまったという養母を連れ戻す。そのためにこれから「魔界」に行くのだ。
それは母だと、妹も既に、見知らぬ相手を受け入れていた。
「うん。わたしには、水火がいてくれるから……母さんのこと、お願いするね、兄さん」
少年達が留守にする間はこの妹を守ってくれ、と紅い目の少女にも頼んでいる。虚ろに微笑む紅の天使のことも、妹は心から慕っている。
まだ笑顔を作れる程には、体が馴染んでいない。それでも確かに妹は、暗い青の目に揺るぎなき希望の火を燈して、新たに得た生を心から喜ぶ顔でユーオンを見上げたのだった。
それがどれだけ、凄惨で呪われた在り方だったとしても。
最早彼らは――決して死者ではないと、その目で示すように。
+++++
何かの予感に誘われて、ユーオンはその夜、一人きりで瓦の屋根の上に上がった。
そして有り得ない誰かの姿を、そこに幻視していた。
「――なーにしょげてんのよ? ユーオン」
「……――」
明るい満月の下には、いつかと同じ、不敵な顔で佇む者の姿。
透明な翼を広げる、茜色の髪の水華が、ユーオンを待っていた。
「……水、華?」
その姿に何故か、銀色の髪で赤い目の少年――かつて幻の夢に出てきた死者、水燬の姿が重なる。
有り得なかった誰かの夢が、そこで再び少年を襲う。
――助けて……水華――……。
それは有り得なかった世界というより、有り得てほしかった世界の幻なのだと、少年は知っていた。
その世界は、ラピスと、ラピスの両親の命が失われていない世界。理不尽に命を失った誰もがきっと願ってしまう夢。
いつか消えると知っていた者がいなくなることすら、こんなに痛いのだと、今も少年を嘔吐かせる生への執着だった。
そんな幻を否定するように、水華は穏やかに笑う。
「言ったでしょ? ミラの物真似くらい、いつでもできるって」
「…………」
「物真似って気付いてない時の方が、楽しかったけどね。まだクアンにも会いに行きたいし、たまには水華に戻るつもり」
その少女の羽は、「神」を殺すことと引き換えに光を失った。
本当の意味ではもう戻らない、強気な誰かの残滓を纏い、紅一色となった目を少女はただ月明かりに晒す。
水華と水燬。同じ起源を持った彼らには、瑠璃色の髪の娘は家族のように心を許せた。
それでもその拙い幸せは、どちらの世界でも失われる同じ結末を迎えた。結局何処にも、平穏な幸せの世界などなかったと示すように。
「オレは……何も、できなかった」
「――ん?」
屋根に座り、笑顔で月を見上げる水華の横にユーオンは立ち尽くす。
いつかと同じ諦観だけが、その心を占めてやまなかった。
「……弱いって。ラク、なんだな……」
今ここでユーオンが辛うじて、呪われた生を繋いでいること。更には大切な者を取り戻す形で物事を運べた理由は――
「オレが何もしなかったから……水華が全部引き受けたんだ」
その昏く赤い夢が観えていても、ユーオンには手を出すことができなかった。そんな弱小さこそが今の状況を招いていた。
誰かの亀裂がずっと前からわかっていても、こんなにも何もできない。
一連の騒動はユーオンにとっては、様々な事が終結を迎えた、あっという間の出来事だった。
「アンタがそう思いたいなら、思ってれば? ユーオン」
ふふふん。と、その少女らしい余裕さを演出する微笑みで、水華がユーオンを見上げる。
「でもあたしはアンタのこと、嫌いじゃなかったよ」
「……」
「アンタだったら背中を預けられるかな。これからは一緒に、可愛いエルフィを守っていかなくちゃだしね」
そんな素直さ自体が、まず今までの「水華」には有り得ないだろう。
茜色の髪の少女はおそらく今後、その髪も紅と戻っていくのだろう、とユーオンは悟る。
「何であんたが……エルを守るんだ?」
わかりきった問いを、そこでユーオンはあえて尋ねた。
「だってラピの望みでしょ。ミラだって結局、自分の目的より最後にはラピを優先したわけだし」
復讐のためにだけ来た天の少女の、それは一つの救いかもしれない。
昏く赤い夢に心奪われた者、全ての終着駅が瑠璃色の髪の娘だった。
「……そうだな。ここまでして、生かしたんだから……」
今まさにユーオンを襲う、絶え間ない吐き気と引き換えに――
「何をしても、もう誰にも――……エルは、殺させない」
これ以後に何度となく少年を襲う、何よりも赤い剣の夢。避けられない運命の到来が、その片鱗を表し始める。
「そう来なきゃね? あたしももう――遠慮はしないから」
赤と紅を浴びた呪われし同胞。何処か濁った月明かりの下で、死者の一族だった者達の洗礼が終わる。
そうして生まれ直したヒト殺しの歩みが、この夜から再び始まる。
+++++
C2新約 : C2 Cry/R. -re_route-
千族宝界録 Atlas' -Cry- blue murder. 了
初稿:2020.5.1
†終幕:「空」
……おやおや――と。
己をかつて取り込んだ「神」の消長を、その空ろな「忘我」は感じ取った。
そしてようやく自身を離れた者の気配も感じ、ただ苦い顔で笑った。
「それでいいのかな……? シーちゃん」
その「忘却」の神と共に、「忘我」は瑠璃色の髪の娘の内に同居した時があった。しかし娘の命を奪った母の骸へ、奪われた娘の命と共に遷ることで、「忘却」から解放された抜殻と言える。
「シルフィは確かに……シーちゃんを待つために私といたけど」
「忘我」はそこで、自ら命を絶った母の躰を貰い受けた。そうして目覚めた後は、娘の母の霊魂を連れながら、生き物ではないが神でもない不死人としてそこに在った。
「それはほんとに……愛と認めちゃってもいいのかな?」
行き場がない、と泣いた娘。それでも最後には、娘を待つために「忘我」のそばにいた母に出迎えられたはずだ。
何処までが狂気で、何処からが親心なのかもわからない母。最後だけは、娘に行き場が用意されていたと言えるのだろうか。
遠い昔に時の止まった娘に、それ以外に救いはなかった。生無きものの哀しみを、「忘我」はただ憐れんでいる。
「……どうしようね? くーちゃん達には、忘れてもらうの?」
娘の姿をしているのに、娘でない者がいる現実も「忘我」は考える。「忘却」程のことはできないものの、娘の唯一の願いを思う。
「それならシーちゃんがもういないことだけ、記憶できないようにする?」
娘の安らぎ。それをこの先、彼らが知ることができないように。
「忘我」はただ、消えゆく娘の望み通り、既に奪っていたカギを回す――
+++++
-Retrieving Atlas’-
その国は天にあった。今は誰一人いない、全てに忘れ去られた暗い場所であっても。
「全く……私は仕事中だと言っているのに」
ある空に浮かぶ島に急遽連れ込まれるという、常識では考え難い事態。その白青の真直ぐ長い髪で、薄青い目を持つ一見女は、自身を連れて来た青年を不機嫌そうに見返していた。
「そもそも貴方が私に押しつけた仕事です。今更何の用ですか、魔に堕ちた悪しき主よ」
「仕方ないじゃん? 水の精霊はずっとお前に持たせてるんだから、回復魔法が必要な時はいないと困るし」
がちりと体を下衣のある和装で固める女に、主と呼ばれたその青年。青を限りなく濃くした黒の短く硬質な髪と、鋭い蒼の目を持つ洒落た身なりの青年は、あくどくも見える顔付きで楽しげに笑う。
「でも調子良さそうじゃん、リタン。もう、主が無くとも水の精霊さえいれば、お前達はその人形の躯体で十分やっていけそーだね」
女は高度に造られた人形。その中身――本来は召喚獣という、「力」だけが顕在させられた海竜を自律起動させるため、足りない力の一つを青年は精霊という「力」で補わせていた。人形は不服さを隠しもせずに青年を睨む。
「貴方にはまだ、水の精霊は必要でしょう。貴方に今残る精霊は、回復魔法が使える程に、貴方は使いこなせていないのですから」
この召喚獣も精霊も、以前は青年がその身に宿し、更には青年の母と言える存在にこそ長く宿っていた「力」だ。「水」の縁を持つその母を基に造られた青年の躯体は、「水」と最も相性が良いのは事実だった。
「別にー? ヒト助けなんて面倒事、これで最後にしようと思ってるし。そもそもコイツ回復するのも、必要に迫られてだし」
歪んだ顔で笑いながら、人形内の精霊を使い、目前に横たわる男……白銀の短い髪の神父のような者の、致命傷をあっさり癒した青年に、人形は大きく溜め息をついていた。
呆れしかないような顔付きをする人形には、至極真っ当な理由があった。
「貴方を今まで利用した魔王一派の重臣を、わざわざ蘇生するのは……今度は貴方が彼を利用するためですか」
「当たりー。せっかく、躰を治せば何度でも蘇れる『魔』なんだし、使える内は使わなきゃね?」
あまりにあくどい発言に、益々不機嫌になる。気高い「力」である人形に、青年は笑う。
「と言っても、今回ばかりは、今までみたく完全蘇生というわけにはいかないけどさ」
「……?」
元々、「魔」という存在には、本質的には死という観念が希薄だ。それというのも、肉体の破壊だけであれば、何かの方法で躯体の傷を治すか、相性の合う新たな躰に霊魂を遷せば、生を繋げるのが「魔」の特徴だった。あくまで魔性の魂魄があれば。
「殺された相手が悪かったな。オレもそうだけど、命を直接削ぐような奴に殺されたしねぇ」
「……それで貴方の中の吸血鬼が、今はもう目覚められないと言っていましたね」
「そ。『魔』だから全ては奪われてないけど、命を結構持ってかれたなぁ。ルシウの兄ちゃんも、『魔』じゃない羽とかごっそり持っていかれたみたいだね」
何人も本来、「魔」の命は奪えないと言われる。代わりに「魔」もヒトの寿命を奪うことはできず、そのために、「魔」に殺された者が黄泉路に迷うのはわりとよくあることだった。
逆に殺された「魔」が、たとえ一部でも、殺された相手に何かを奪われることは、滅多にある事態ではないとも言える。
「ねー、ルシウの兄ちゃん。起きれそうー?」
つんつん、としゃがみ込みんで横たわる男をつつく青年の下で。何故か不意に――
「……お?」
突然男の顔立ちが、これまでよりも穏やかなものへ変貌したことに、青年は目を丸くしていた。
「……」
そして男は、ゆっくり色の無い目を開ける。
「……聞こえてますよ、シア君」
ふっと穏やかに微笑みながら、上半身だけを起こし、辺りを見回していた。
「ここは――黄の祭壇の近くですか」
「当たりー。向こうには『黄輝の宝珠』が、燦然と控えて兄ちゃんを待ってるよ」
しゃがんだまま頬杖をつき、にこにこと男を見る青年に、男は困ったような顔で笑う。
「……レイスゥ・キエラとその中の吸血姫は、今はどうしたんですか?」
元々彼らと共に、この天空の島にいた者が、男は気になる様子だった。
「更に違う部屋で、ずっとオレを待ってるよ。黄の石が手に入り次第、レイ姉ちゃんの躰を、ミカランが十分使えるようにするためにね」
「…………」
青年の返答に男は、安堵が半分、落胆半分といった様子で、苦笑しながら溜息をついた。
「やはりレイスゥ・キエラ自身は――満足に生きられる寿命は残ってないということですか」
「そ。ラピちゃんがこの先、何とか大人まで化けられるようにってあげてた命くらいは、戻ってきたみたいだけど」
人間の体を見かけ上生かす程度の寿命は、強い「魔」を長く生かすことはできない。青年は現実を告げる。
「それなら日頃はミカランに躰を使わせれば、体は長持ちはするだろーし」
「そうですね。それが一番、彼女も吸血姫も、辛うじて残してあげられる道でしょう」
「その代わり今後、リアンを守ってもらうけど。ずっとザイ兄ちゃん所に預けっ放しだし」
青年が男達の仲間にされる際、遠ざけられた者の名に男は納得したように頷く。やれやれといった感じで立ち上がった。
「それにしても、陽炎サンのことも少しくらい気にしてあげれば?」
歪んだ顔で笑う青年に、男は肩を竦めた。
「それは俺達を使っていた者に任せます。もう十分ジェレス・クエルは、彼女に付き合いましたからね」
「違いないや。見捨て切れない身内って奴程、始末の悪いものもないよねー」
男を利用する者達に縛り付けられた因の一つを、知っていた青年の言葉。少しだけ悲しげに息をつく男だった。
そうして隣室の扉の前に立った青年と男を、不服そうながら黙って見守る人形の前で。
「にしても……」
大人の体のまま顔だけが変わった男に、青年は納得いかなげに首を傾げる。
「何でジェレス・クエルが消えた後に、逆にジェレス・クエルの顔を再現できてるわけ?」
青年の質問に、男は穏やかに青年を見返した。
「違います。これが俺、ルシフージュ本来の姿なんでしょう。それなら顔は元のままで、体だけ成長しているのも頷けますからね」
「ってことは、やっぱりジェレス・クエルは、ユーオン君に持ってかれちゃった?」
「ええ、完全に殺されました。もう俺は羽も使えませんし、気分も実に爽快ですよ」
へ? とまだ不思議そうな青年に、男は悪魔とは思えない優しげな顔で微笑む。
「俺はやっと悪魔になれたんです。おかげで今後は、俺の好きなように動けます」
「……何てーか。ごく悪魔らしい台詞なのに、物凄く矛盾してる気がするのは、オレだけ?」
祭壇に続く扉の前に立つ男の望みを、男が目覚める前から知っていた青年は、ただ首を傾げるしかできなかった。
「今までの俺はこの躰も乗っ取り切れない程、愚かなお人好しでしたからね」
「乗っ取れば乗っ取ったで、お人好しなことを今からすんのに?」
「当たり前です。俺はそう生まれたんです。悪魔はお人好しでいてはいけないんですか?」
実に楽しげな男に、要領を得ない青年だった。
「……何でまた、悪魔だけになった時の方が、素直にお人好しをしてんの?」
「『魔』は己を咎人などと見なしません。よって償いのため己の希みを殺しません」
「なら、優しくない方が優しくなれるとか、難しいこと兄ちゃんは言ってる?」
「俺に関してはその通りです。苦しむが故に悪魔に利用されていたジェレス・クエルは、優しいが故にヒトを殺すユーオン君と、多分虚ろな同類ですよ」
そして、と男は青年の方をも、憐れむように苦笑しながら見つめる。
「今の君がまさに、今の俺の同類でしょう。俺を見捨てることで、誰かを助ける悪魔の君に」
「……」
男の言う通り、これから男に身を滅ぼすことをさせるために目覚めさせた青年は、無表情に応じる。
「誰かを助けるのはついでだけど? オレはそもそも、オレのためにアンタを利用するし」
「上々ですよ。俺も俺自身のために、黄の宝珠の封印を解きたいんですから」
扉を開けた先、暗く細い回廊を確認してから、男はまた笑いかけた。
「本来の君は、そういう方法は嫌いでしょうが。今の君なら、俺の好きにさせてくれるでしょう」
まるで青年を心配するような目で、回廊に入る前に青年を振り返っていた。
「陽炎とスリージのように、互いが互いを悪魔と思えたら楽だったでしょうが。俺とジェレスは悪魔を奪い合っていたんです……それは本当に、長い徒労でした」
そうして最後に、男は幸せそうな顔で笑う。
灯りのない暗い場所に進む男を、青年は別れも告げずに無言で見送ったのだった。
無情に扉を閉め佇む青年に、全てを黙って見守った人形がようやく口を開いた。
「……彼は貴方と、北の四天王と、その娘を助けたいのですか」
「みたいだね。アイツも資格者だから、犠牲になって宝珠の封印を解いてくれるんだろ」
あっさり言う青年に、人形は眉を顰める。
「北の四天王とその娘が、そもそも資格者であった理由は……彼は知っているのですか?」
「いや。それは多分、オレ達しか知らないよ」
「……」
その人形はある旧い夢を知っている。人形の以前の主――青年の母と言える女性の記憶。
その母は堕天使化して前代の黒の守護者になったが、人間である頃には「忘却」が封印された里に住み、母の兄の子孫がシルファ――瑠璃色の髪という、人間にない色を持つラピスなのだ。その髪色は薄くも竜種の血をひくからであり、悪魔と契約したラピスについて、だから青年は見逃していたとも言える。
「別にいーじゃん? Jってにーちゃんが昔好きだった人間……リエレル・キエラの、娘と孫を助けたいだけでも」
母にはそんな名前の親友がいた。遠い昔に親友を捕らえ、実験台とした科学者は吸血鬼であり、無力だった頃の母に助太刀した天の男の血を奪っている。竜の血をひくとはいえ、人間だった母が黒の守護者となったのは、親友を助けるために天の者達と関わったからだ。
その科学者の娘とされるのが北の四天王で、この青年は科学者を逆に利用した母から、母の細胞で造られた人工の化け物だ。だからこそ気付けた真実があった。
母の親友が生んだ北の四天王に流れるのは、科学者自身の血ではなかった。科学者の血で吸血鬼と化した、天の男の血を人間に孕ませたからこそ、四天王となるほどの「力」を得た混血の吸血鬼。科学者の血で吸血鬼にされた青年からは、本当は彼女も「姉」と呼び切れない。
「ラピちゃんがいなければ、オレも本当に……血縁がいなくなった、それだけのことだし」
やがて青年も、暗い道を歩き始める。封印が再び解かれた後の祭壇を、誰の手にも触れさせないようにするために。
選んだ番人の道から「天国」への出口を、今は知らないままで。
千族宝界録 Cry/B. -了-
千族宝界録RA✛blue murder.
ここまで読んで下さりありがとうございました。
この話の後日談である同シリーズ④を11月にUP予定です。
やっと復活した殺戮の天使が主役になりますので、お気が向けば良ければ。
※エブリスタでは掲載済です→https://estar.jp/novels/23591759
初稿:2014.7-11 再編:2020.2.2
挿話『花火の夢』:主役が熱血少年だった当初の唯一の遺物・初出年不明(おそらく大学時代執筆)
※「blue murder.」そのものの後日談で、千族化け物譚Cry/Aの続編にもなる「Cry/R.-resurgence-」のカット版を10/13にUPします。
別作『青炎』の少し前の話になり、ノーカット版はエブリスタに既にあり、ノベラボでも10/13にUPします。
→https://www.novelabo.com/books/6718/chapters