Good Bye,Merry
カーテンも閉め切った六月の部屋で、リンゴの饐えた臭いがした。
この部屋に共に住んでいた兄は、もういない。どこかで引っかかった新興宗教にのめり込んで、今はどこかで生活している。馬鹿馬鹿しくて、よくわからなくて、私には関わりのない教義を、兄は今心の糧としている。
それは兄が私とは違う他人であったことの証明だ。
「もうすぐ世界は終わるよ」
兄は言った。何度も同じことを、同じ調子で。
私はうんざりしていた。それはどこかで聞いた聖書や神話に似て非なる、ただの空想だった。
ある日の夕食の後、私は兄の言うことを話半分に聞きながら、リンゴを切っていた。夕食の後にそうした果物を食べるのは、長い間私たちの習慣だった。私はリンゴの皮を剥かずに兄の前に差し出した。兄はそれを好まなかったが、私には時折リンゴの皮を噛み切る瞬間が酷く愛おしく思える性癖があったのだ。
兄は、皮を剥かずに八等分にされたリンゴをしばらく見つめていた。その顔は、驚いたような呆れたような、今まで見たことのない不自然な表情だった。
「由利」
兄は私の名前を呼んだ。とても静かな、落ち着いた声で呼ばれたものだから私は台所から
「なに」
と返事をした。私はそのとき、兄が刃を入れられた残酷なリンゴの姿に怒りを堪えているだなんて夢にも思わなかったのだ。
兄は私を居間に呼び寄せて手で皿の上に乗った果物を指した。
「なに、これ」
「リンゴじゃない」
私は言った。兄が何を言わんとしているのか、私に察することはできなかった。私は兄をきょとんとして見つめ、初めてその手の震えているのに気がついた。私はその震える指の意図を思い、兄の次の言葉を待った。奇妙な沈黙が私と兄とがいる部屋に満ちていた。そして私は、次に兄がとても暴力的な行為に出るだろうことに感づいて、嵐の夜に落ちたヤマボウシの実のように身を固くして待っていた。
「リンゴを切るなと言ったろう」
兄は私に大きな声で言った。兄が声を荒げるのは、幼少期の争いをのぞけば、初めてのことだった。もちろん私は、驚いてはいなかった。
兄が次に何をするか見極めるために、私はじっと兄の目を見つめていたのだ。私はそのとき、とても冷静だった。
兄が怒鳴るという非現実的な行為が身近に起こっているのに、私は身震い一つしなかった。
しかし、兄がそれからしたことは、私に優しく暖かい声で、兄の信ずる教義でいかにリンゴが大切な役割を担っている聖なる果物かということを語ることだった。
私はそれを辛抱強く聞いていた。それはいつもの馬鹿げた話と同じようなものだった。ただそれは、その日だけはやけに冗長で、いつもより退屈さを増したとても専門的な話のようだった。
ずいぶんつまらない話は、やがて終わりを迎えた。
兄の気力も底をつき、私は疲れを覚えていた。
それでも兄は、上機嫌に変わっていた。そして教義に推奨された時刻に祈念を済ませようと居間のドアの取っ手に手をかけた。
「出て行ってください」
私は言った。
兄が振り向いた。切り刻まれたリンゴを眺めたときのような、驚いて呆れた顔をしていた。
私は同じことを二度とは言わなかった。
ただ兄はその後一時間もたたずにこの部屋を出て行き、私と未だ連絡を取っていないだけだった。
Good Bye,Merry