素論
本記事は①回顧展(2020年1月5日)及び②伝達(2020年4月10日にアップ)を一部抜粋し、大幅に加筆修正して随筆ないしはエッセイとしたものです。
伝達
東山魁夷(敬称略)の絵画作品については、後期のものに特に心惹かれる。
例えば、水辺に生える草の隙間の向こうに喉を潤すユニコーンの姿が見える一枚(『水辺の朝』)。伝説の存在であるユニコーンの神秘さを、神が創りたもうた世界が迎える朝の光景の中において美しく描き出す絵画表現であった、と記すことに意を唱える筆者の個人的な記憶はある。その内容に基けばかかる一枚において注目すべきは現実の馬に近しい印象を抱くユニコーンの存在感であり、一頭の馬としての逞しさがちっとも強調されないその柔さに甘んじて、絵の中の光景を経験的によく知る「朝」として捉える機会は生まれる。未だ去り切らない昨夜の暗さが白々しく明ける朝の眼差しにどんどんと冷えていき、肌を刺す寒さとなって寝ぼけ眼を開いていく散歩道。その途中、ふと気付いた異変に心臓が跳ね、逃げられては困るという理性的な判断で静かに消した足音。その視界に収まることがないように身を屈めてから、窮屈そうに詰める距離。
「どうだ、バレたか?」
「いや、まだ大丈夫。」
「だからもう一歩、もう一歩」
と進んでいくその先で察知した本能的な限界点に身を潜めてからは許される限り、その奇跡をじっと見つめた。そんな憧れ。前景に描かれる草丈の高さは現実的な檻の様に感じられ、けれどその隙間から覗き込む様にして窺うからこそその口元から広がる波紋の静けさと、青く見えて仕方ないこの世の境目にその身を収めることができる。その喜びに打ち震えるのは暫く経った後。憧れに任せて動かす筆先に迷いはない。勢いよく仕上がっていくその一枚を前にして、作者が抱く幻想こそが『水辺の朝』を非現実的なものとする。その仕上がりは、だからどこまでも人間的な話。描きたい欲に塗れた熱意の象徴。しかしながらこの身勝手に思える振舞いこそが東山魁夷という作家の、飛び抜けた創造的なレールを敷いた。イメージに富み、現実との淡いで観る者の心を直に打つような美しさや力強さを東山魁夷が晩年に至るまで遺憾なく発揮していること、それが何よりの証左となると筆者は思う。
回顧展
奥や縦に繋がるような写真に対して、前後を感じる一枚がある。撮られる前と撮られた後。何があって、何をしたのか。あるいは何が起こり、何が起きなかったのか。それらが映像で記録されたのなら分かり得たはずの出来事たち。それがシャッターでぶつ切りにされたためにその一枚の写真には痕の様な跡が残った、見ているとチクチクする様な、だからイメージに溺れる意識。
その写真家はかつて絵画を学んでいたところ、ファッション業界の重鎮の持ち込んだ写真がその目に止まり、新刊雑誌の撮影カメラマンに抜擢された。その写真表現の感覚が時代にマッチしたこともあって彼は一躍、最前線の写真家としての地位を得た。実際、本邦で開催された展示会では戦災を免れたフィルム群の中から現像されたものと一緒に現存する雑誌の記事が並んでいて、現代でも色褪せないセンスが展示空間の雰囲気を華やかに仕上げていた。パープルのドレスに大胆なハットの組み合わせを収めたショットが鮮明な記憶を残すそのセクションでは多くの来場者が足を止めており、珍しい写真家自身の記録として、自動車の上部で踏ん張る姿などの遊び心に優れた様々な試みも目にすれば画家として行なっていた写真表現に対する探究心が現実における成功を引き寄せたのだと得心するのに何の難しさを覚えなかった。
しかし、彼は一流ファッション誌の専属契約を更新しなかった。利益優先のファッション雑誌において、彼が自由に遊べる余地はもう殆ど残っていなかったのだ。だから彼は街に出た。カメラを持って近所の通りを歩き、思うがままにレンスを向けてはシャッターを切って日々を過ごした。そんな生活を終生続けて残したポジフィルムの数は数万点。その目録作成に向けて設立された財団が作業を続けている。
かの写真家の作品表現に欠かせない画家の眼差しと、写真家として身に付けるべき構図などに関する瞬間的判断能力の相性はきっと抜群だった。色味に対する鋭敏なセンスが画角内の色覚の妙味を探り当て、覗き見る様な構図でその「絵」を物語的に切り取ってみせる。
「1920年代の喧騒に降り立つ灰色のコートの男性が手に掛ける黒く細い傘と、その頭上で輝くバーのネオンの古びた赤。待ち合わせの時間には少し遅れたが、交通渋滞の言い訳は確かな説得力をもって相手の理解を必ず引き出してくれる。傘もまだ濡れているし、水溜まりも其処彼処にできている。私の味方は多いのだ。ふん、と胸を張って歩き出す道半ば、しかし逆さまに写る自分を見つけた。いや、見つけてしまった。それが全ての始まり。私は自分の魂をそこに残して、去っていった。」
筆者が趣味で詩を書いてみたりして実感するのは、イメージする対象をそのまま記述するだけでは面白いものは描けない。肝心なのは、その対象に対して関係していく自分自身の変わり様ないしはその絡まり様を可能な限り「ダイレクト」に書き記すること。そして、この「ダイレクト」の意味は理路を正しく辿ることでは決してないという消極的表現に対する確信である。だからとにかく手間が掛かるし、時間がかかる。そういう意味ではかの写真家の写真表現と真逆だと正直に感じる。けれど、表現として全く違う所を目指しているとは少しも思えない。この点が、かの写真家の表現に今なお心惹かれる大きな理由となっている。
この極めて個人的であり、かつ余りにも緩い疑問に直観的に答えるのなら、かの写真家の作品表現も詩の様な言語表現と同じく「読み、開かせる」を肝としている。すなわちどういう作品で、どういう面白さがあるのかといった評価ポイントを、作品を構成するファジーな要素を引っ掛かりにして鑑賞者の手に委ねている。霧散しない程度の大枠の内側で、幾らでも遊ぶ余地が保持されている。それをもってかの写真家の作品も「詩的」と評し得る。ここが相似するのでないか。
その遊び心をこそ微塵も曇らせることなく、その生涯を終えるまで熱し続けた。こう記すだけでもう筆者はその歩みに心からの敬意を表現せざるを得ない。人として知り得る現実に身を晒して撮影を試みて、出来上がった写真群で遡行不能な過去の記録を読み解かせる。内外を自由に行き来する、なんて深い足跡。
映写
『5つ数えれば君の夢』はエーベックス所属のアイドルグループ、東京女子流(2014年当時のメンバーは5人)を主演に山戸結希監督がメガホンを取った映画作品である。
その大筋をざっくばらんに言ってしまえば、本作は新井ひとみさん演じる「りこ」が転入してきてから文字通りにいなくなるまでの話であるのだが、その面白さを紐解くには当東京女子流の当時のメンバーがそれぞれに演じた登場人物が作り上げる見事な相関関係に言及しなければならない。
まず本作で最も極端な対の関係をなす二人、前述した「りこ」と庄司芽生さん演じる「宇佐美」。前者はバレエに人生を賭けており、我関せずの浮世離れした雰囲気を纏っているのに対して、いわゆるスクールカーストの頂点にあろうと権謀術数を尽くす宇佐美は悪く言えば俗っぽく、しかし社会生活の実際を生きる存在としての範例の強さをスクリーンに映す。この二人が高校生活におけるあの世とこの世の極北を成して、本作の基本的な世界観を作る。
ここに厚みを加える山邊未夢さん演じる「さく」と、小西彩乃さん演じる「都」はそれぞれに「りこ」と「宇佐美」の物語と繋がる。すなわち園芸部の「さく」は「りこ」と仲良くなり、他方で「都」は「宇佐美」のグループに所属し、その右腕的な立場にある。それぞれに接点を持つ二人が「りこ」のバレエ披露に関して「宇佐美」が仕掛ける事柄を起点に絡まっていき、思わず見入ってしまうラストへの道筋を作っていく。「都」に関しては「宇佐美」との間にもう一つの物語を生んでいく。
中江友梨さん演じる「委員長」はいわばバランサーとして上記した本筋の舞台を学校運営の一環として整える一方で、対社会に向けて強いメッセージを発する重要な役回りを演じる。この「委員長」がスクリーンに登場する度に高校という部分的な社会に穴が穿たれ、彼女たちが歩み出す将来における大切な何かが胎動しては消えていく。「委員長」を通してみる「りこ」たちのやり取りが世間を背を向けるか又は上手く立ち回るかの二択を迫っている様で、不穏な響きを招き寄せる。その重みと深刻さが、本作をただの学園ものと片付けられない説得力を生む。
以上の関係は勿論、物語の進展に応じて大小様々な展開を見せるのであるが、本作が素晴らしいのは誰か一人を中心にして話を追えば必ず他の登場人物の物語を参照するせざるを得なくなり、結局は5人全員のストーリーを具に観なければ何も分からない。そういう意味で『5つ数えれば君の夢』はどこかに存在する誰かの夢を、一つの映画として凝縮させたファンタジーとも捉えることができる変転可能性にあると評価できる点にある。より客観的に言い換えれば、本作は東京女子流というアイドルグループをフューチャーする作品でありながら、ある時代のある出来事を取り上げて確かなエールと大事な問題提起を行う映像作品としても成立している。そんなアクロバティックな達成を全員が主人公という理想と共に成し遂げていると、改めて振り返って見て思うのだ。
一般論として述べれば表現する作品に対して愛情を注ぐ必要は必ずしもないし、愛情を全く抱かないままに表現される作品が類を見ない面白さを味合わせてくれる方がプロフェッショナルだと素直に感じる。けれども手に取る作品の中で生きる登場人物の、どうしても欠かせない存在感を目にするとそこに少しの愛情がないとは思えないのもまた事実で、好きか嫌いかの好みを超えた作者と作品の言葉にし難い関係性を認めてしまう。創作者として神の如き全能を手にしながらも悩み苦しみ、七転八倒のすったもんだの果てに「それ」を完成させるのは何故だろう。この問いに対して明確な答えをくれる時の作者は果たして作者のままなのか、それとも私たちの様な読む側と方を並べる、いわば準読者になってしまっているのか。それとも、あるいは。
こと商業作品に関して受け手の眼差しを無視する作品を礼賛する気が筆者にはないが、だからといってその求めるがままになるのがいいとは決して思わない。ただの素人であっても、映画などの作品表現を楽しむ一ファンとして作品の質と事業としての成功が両立する水準をより積極的に探ってみたい。そのために一回でも多く劇場などに足を運んでいきたい。
素論