探り愛、手繰り愛
You never lose by loving. You always lose by holding back.” – Barbara De Angelis
愛することで失うものはない。しかし、愛することを怖がっていたら何も得られない
Barbara De Angelis(born March 4, 1951)
粗方の閉店作業が済んでしまい、営業中の喧騒は何処へやらと言った言葉がつい頭の中を過ぎる程、ひっそり閑と静まり返った『スターレス』。
建物内に人が残っていないか、作業の確認がてらケイが見回りをしていると、キャストの前は勿論、『スターレス』に足繁く通うお客様の前でも見せた事の無い様な薄ぼんやりとした表情のヒナタが、自販機の取り出し口から一昨日入荷したばかりの炭酸飲料を取り出している姿があった。
御精勤だな。
あからさまに皮肉と判る言葉を添えてケイが聲を掛けると、そりゃこっちの台詞、とヒナタは言い乍ら、ブチブチと言う独特の音色を文字通り二人きりの休憩スペースに於いて奏でつゝペットボトルの蓋を開けた。
で、此のお店の絶対王者様がアンダー風情に何の用?。
そう言ってヒナタはペットボトルの飲み口へ日頃ぴーちくぱーちく言葉を紡いでいる唇を押し当て、炭酸飲料喉に流し込んだ。
なに、そろそろ店を閉めるから誰も残っていないか見回りをしていただけだ。
溜め息交じりにそうケイが述べると、ヒナタはペットボトルの蓋を態と強く閉め乍ら、今度からアンタの事を「溜め息の名人」って呼んでも良いかな、とやり返し、中身が半分程減ったペットボトルを鞄の中へと放り込む様にして片付けた。
あゝ、そうだ。
折角の「お近づき」の印に、食事でもしようよ。
出来たら二人きりで。
店の鍵を閉め、外へと出るなり、ヒナタがケイに向かって言った。
洒落臭い台詞が眠らない街の喧騒と秋の夜風にフッと掻き消される中、ケイは眉一つ動かさずに、何が食べたい、とヒナタに質問をすると、此処の所洋食が多かったからなぁ、和食が良いや、其れもアンタの手作りが、と手先の器用な携帯ショップの店員の手によって新しい強化フィルムが綺麗に貼り付けられたばかりのスマートフォン片手に呟いた。
素気ない部屋だが、其れでも良ければ。
素気なくて結構。
ウチも似たようなモンだしね。
スマートフォンを態と色褪せたデザインのジーンズの右ポケットの中へと押し込むと、ヒナタは、エスコートをよろしく、と言わんばかりにケイに向かって右手を差し出した。
生意気な真似を。
こゝろの中でそう毒付くと、ケイは黙ってヒナタの手を左手でそっと握った。
何処の馬の骨とも牛の骨とも判別がつかないまゝ、先ずはスタッフと言う立場から『スターレス』に在籍させる事をある種無し崩しに決めた頃から早三年、何とも頼りなさげなカタチをしていたヒナタの手は、此の三年の間にさんざっぱらレッスンだ業務だですっかり鍛え上げられた事が功を奏したのか、良くも惡くも二十代の若造の手になっていた。
其の様な事を頭の中に於いてぼんやり考え乍ら歩みを進めていると、駅の手前の長い横断歩道が赤になった為、両者はサッと歩みを止めた。
案外暖かいんだね、アンタの手も。
額に薄らと汗を浮かべ乍ら、ヒナタがそう述べると、ケイはステージ同様に煌々と光り輝く駅の入り口に視線を向けたまゝ、俺も流石に人の子だ、と返事をし、信号が青に変わるや否や、会話を断ち切らん勢いで再び歩き始めた。
ホームに辿り着くと、レイトショー帰りらしい男女のカップルが、パンフレットの入った真っ赤な袋片手に観終わったばかりの映画に就てあーでもない、こーでもないと語り合っている姿の他には、美術館又は公園の物言わぬ彫像の様に何処か所在無さげな表情でスマートフォンを操作したり、背凭れの無い黄褐色のベンチに腰掛けてブックカバーの付いた文庫本の頁を捲ったり、はたまたBluetoothイヤホン越しにお気に入りの音楽に耳を傾け乍ら電車が来る迄の時間を潰している者達の姿があるばかりで、如何にも深夜の駅のホームと言った感があった。
そんな中ケイとヒナタは、休憩スペースで待っていようと言うケイからの提案で、四方を硝子で仕切られた空調の効いている休憩スペースの椅子へと腰掛け乍ら、電車を待つ事に決めた。
空調のひんやりとした風が椅子に腰掛けても手を繋いだまゝの両者に向かって吹く中、一旦手を離したヒナタは、ジーンズの左ポケットの中から林檎味のガムを二枚分ニュイと取り出すと、ね、あーん、させてよ、折角だからさ、と言い乍ら包み紙から取り出したばかりのガムをケイの口元迄運んだ。
涼風に煽られるカタチで爽やかな林檎の香りが両者の鼻腔を擽る中、ケイは黙ってガムを口の中へと入れると、二、三度ガムを咀嚼したのち、ヒナタの身体を自身の方へグッと引き寄せるなり、閉店作業の最中、葡萄味のリップクリームで渇きが潤されたばかりのヒナタの唇を強引に奪い、其の味を堪能した。
手・・・早過ぎない?。
特急列車がレールの上を勢いよく駆け抜ける音が耳を劈〈つんざ〉く中、呼吸を整え乍らヒナタがそう呟くと、ケイは鞄の中から取り出したハンカチーフでヒナタの唇を丁寧に拭き取りつゝ、物欲しそうな顔〈ツラ〉をしていたから、其方の願望〈ねがい〉を叶えてやった迄の事だ、と良い意味で邪悪な笑みを浮かべてみせたものだから、こうやって皆んな術中に嵌っていくワケだ、はっはっは、とヒナタは笑い聲を響かせ乍ら自身の分のガムを口に含んだ。
軈て電車がやって来た。
腰掛けていた席から立ち上がる瞬間、離れていた両者の指は今一度絡み合い、何処と無く距離感のあった先程とは違って、互いの距離はグッと近くなった。
其処に至る迄の道程〈みちのり〉は兎も角として。
あゝ言う口説き方は亜米利加で?。
三つ目の駅に停車をし、固く閉じられていた扉が開いて人が乗り降りをする足音が周囲に響き渡る中、水に流せるポケットティッシュに味の薄れたガムを包んでいたケイに向かってヒナタがそんな質問を投げると、思った以上にケイは淡々とした表情且つ口調で、まぁそんな所だ、と答えたので、ヒナタはヒナタで、ふうん、としか返事をせず、眩しい照明の下、銀色に鈍く光り輝く包み紙の中へ味のすっかり薄れた自身のガムを握り潰す様にして包んだ。
暫くすると電車は目的の駅へと辿り着いた。
ケイとヒナタの他に降車する人物は殆ど居らず、手を繋いだまゝ長い様で短い階段を登る間、吹き抜ける風の音と共にゆったりとした互いの足音がやけに響いた。
そうだ、明日オレ休みの日なんだよね。
部屋でケイの帰り、待って居て良い?。
ピコン、と言う無機質な機械音を奏でる改札を通り抜け、ケイの住むマンションに向かって歩き出した時、ヒナタがそんな風な願い事をケイに向かって告げると、ケイはほんの数秒思案の表情を浮かべたのち、俺の為に夕飯を作る気があるのなら、と「条件」をぶら下げた上でヒナタの願い事を受け入れる素振りを見せた。
するとヒナタは普段の生活を送る上で、悩み事が極めて少ない部類の人間特有の何ら屈託の無い笑顔を浮かべ乍ら、何だったら明日明後日の朝食も作るよ、勿論、リクエストにお応えするカタチで、と言った。
ほう、割に人間の作りが健気なのだな。
微笑を浮かべ乍らケイが言った。
分かって「いらっしゃる」癖に。
一宿一飯の恩義って言葉〈もんく〉を知らない程、オレが世間に疎い訳じゃ無い事位。
人間、つい試したくなるモノだ。
アンタが『スターレス』でトップに君臨している理由〈ワケ〉が分かった気がするよ、たった今此の瞬間。
こんな風にして底意地の悪さしか感じられない会話を繰り広げているうちに、二人はケイのマンションへと辿り着いた。
オートロック且つ十五階建ての見るからに堅牢な雰囲気漂う其の建物は、ヒナタの眼にはお城か要塞の様に見えた。
Bienvenue chez nous.
〈ようこそ、我が家へ〉
ケイの言葉に誘われる様にして靴を脱いだヒナタが部屋の中へ入ると、ケイの言葉の通り部屋の中身は確かにシンプルだった。
家電製品、はたまた服だの食器類だのは兎も角として、設置されている家具類はヒナタも日頃さんざっぱら御世話になっているIKEAの
製品ばかりで、唯一ヒナタが厭と言う程感じている「華麗さ」を感じたのは、美術館でも滅多に拝む事が叶わないマイナーな印象派の絵画のレプリカが飾られている部屋、そして其の部屋に「鎮座」しているケイ曰く、数十万円越えのエレクトーン・ピアノ位なであった。
ねぇ、食事〈ディナー〉の前に着替えたいんだけど、服、貸してくんないかなぁ。
どんだけブカブカでも我慢するし、返却の際の洗濯にしたって、ちゃんと自分でするからさぁ。
一眼で舶来品と判る化粧品類が整理整頓された状態で並べられている曇りはおろか、水垢一つ見受けられない洗面台の鏡の前にて、もう既に上半身裸の状態のヒナタが、一足先に上下黒で統一された部屋着に着替え、今正に紺色のエプロンを身に付けようとしていたケイに聲を掛けると、商売柄、こなれた手付きでエプロンの紐を結ぶなり、ちょっと待っていろ、と言ってスタスタと衣服類が収納されている部屋の中へと向かい、新品らしい茅色のTシャツと短パンを、ほれ、とヒナタに手渡した。
サンキュー。
あ、コレって若しかして彼シャツ?。
鏡の前で嬌声を響かせ乍ら、ヒナタが言った。
どうとでも言え。
そう言い放ったケイの顔は『スターレス』に於けるヒナタの言動及び行動に対し、良く浮かべるあからさまな呆れ顔だったが、すっかり浮き足立っているヒナタには、馬耳東風も良い所であった。
ねぇねぇ、どうかなぁ、似合ってる?。
馬子にも衣装。
其れに尽きる。
もー、素直に言ってよ、似合ってるって。
歌の文句でもあるまいに、そうポンポン褒め言葉が出て来てたまるか。
ちぇっ、お客さまには言ってる癖に。
って、今宵はオレもお客さまなんだけど・・・!。
ヒナタはまるで河豚の様にぷくりと両の頬を膨らませつゝ、まるで幕末期の志士よろしく颯爽とした足取りでリビングへと向かうケイの後ろ姿を追っかけたが、ケイは其れを意にも介さずキッチンに立つなり、今晩のメニューは生姜焼きだ、と言って淡々と調理を始めた。
ま、こうして適度に遊んで貰っているウチが華なんだろうな、此のオトコと対峙している時は。
自身の「管理者」である「耕さん」こと岩水耕一にすら垣間見せた事の無いこゝろの奥底にてそう呟いたヒナタは、自身の鞄の中から涅〈くり〉色のデザインが特徴的なティアドロップ型の眼鏡と、服を脱ぐ際、ジーンズのポケットから抜き取ったスマートフォンを取り出した。
其れから『青空文庫』のアプリを起動するや否や、片岡義男の『時差のない二つの島』をソファーに寝っ転がった状態且つ我が物顔で読み始めたのだが、ケイは態と其れを無視する様に、ヒナタにはひと言も聲を掛けないと言う意味で、背を向けて調理に専念をした。
出来たぞ。
無愛想な様に思えて優しさを含んだケイの聲が二人きりのリビングに響き渡る中、寝転んでいた猫がのっそりと動き出す様にソファーから立ち上がったヒナタは、黄褐色のテーブルクロスが敷かれた円卓の上へと紫煙の煙を思わせるような気怠げな視線を向けると、ケイ、アンタ、定食屋の主人になる才能があるんじゃない?、此の腕前なら、とランチョンマットの上へまるでボードゲームの駒よろしく綺麗に並べられている料理達を見て言った。
さしずめ貴様は俺の店で働く丁稚と言った所だな。
冷蔵庫に入れていた麦茶を、群青色の阿蘭陀製のグラスへぼとぼと注ぎ乍ら、ケイが微笑った。
其処は女将さんって言って欲しかったなぁ。
オレ、オトコだけどさ。
そうガツガツし過ぎると、長い人生、後が祟るぞ。
ヒナタの分の麦茶を手渡したケイが、まるで
神父の様な口振りでヒナタに向かって言い聞かせると、ヒナタはアンタにゃ降参と言う意味合いも込め、はあい、と随分と間の抜けた返事をし乍らグラスを受け取り、黒柿色の椅子へゆったりと腰掛けた。
其れと同時にお腹の虫が鳴ったものであるから、サッと顔を赤らめる素振りを見せた。
其れを見てケイは思わず、若いな、と微笑い乍ら呟いたのは言う迄も無い。
でもって、旅館の仲居さんよろしく、白米はおかわり自由からたんと嗜むと良い、と付け加えた。
そう言えば金剛の作ってくれた賄いを食べた後、運営くんがほったらかしにしていた書類の整理整頓に没頭していたんだった・・・。
そりゃあ、お腹がぐうと鳴る訳だ。
苦笑を浮かべ乍らケイが席に座るのを見計らう様にグラスを手に持ったヒナタは、ま、何はともあれ、今夜もお疲れ様でした、と言ってグラスを高く突き上げた。
琥珀色の灯りの下、高く突き上げられた群青色のグラスが光り輝くのをケイはじっと見つめると、あゝ、貴様もな、と優しい聲色でヒナタの事を労ったのち、調理と食事の支度に没頭する余り、すっかり渇き切った喉を潤す意味も込め、グラス越しに伝わって来るひんやりとした感触を確かめる傍ら、麦茶を一気に半分程飲み干した。
ヒナタも同様に麦茶をある程度飲み干してのけ、中身の軽くなったグラスをテーブルへ音一つ立てる事無くそっと置いたのち、嘗て岩水耕一の口から、拝み箸は無作法、と教授された事を思い出し乍ら、眼を瞑りそっと手を合わせた状態で、いただきます、とケイに向かって呟いた。
そして先ずは空っぽの胃袋を温めようと、豆腐と南瓜〈かぼちゃ〉がたっぷり入った味噌汁を啜る事にした。
尚、ランチョンマットの上には白米と味噌汁そして今晩のメイン・ディッシュである豚の生姜焼きの他に、胡瓜〈きゅうり〉とツナのサラダ、豆腐とサーモンのカルパッチョ、烏賊の塩辛、馬鈴薯〈じゃがいも〉のカリカリチーズ、だし巻き卵、もやしのベーコン巻きと言うメニューが大小様々な有田焼の皿に盛り付けてあり、片付けが面倒だと言う理由から、普段多くても三品しか調理しないヒナタにとっては正に贅沢の極みで、自然と一品一品丁寧に味わって食べないと罰が当たると言う気持ちにさせられ、白米にしても四杯は平らげてしまったのだった。
はぁ〜、食べた、食べた。
さて、デザートを食べないと。
スマホを手鏡代わりに事前にケイから手渡された紙ナプキンで口元の汚れを拭き取ったヒナタは、そう言い乍らケイによって緑青色のヴェネツィア・グラスに盛り付けられたばかりの『ハーゲンダッツ』の華尼拉氷菓〈バニラアイス〉に視線を向け、スプーンを握り締めようとしたのだが、ケイがさり気ない手付きでスプーンを「奪う」と、折角だから、最初のひと口、あーん、してやろう、と王者の笑みを浮かべ乍らヒナタに告げた。
偉そうな態度だなぁ、何をするにしても。
後、キラキラオーラが半端なくて眩し過ぎるっての、もうちょっと控えめにしろよな。
ま、そんなオトコの愛に包まれようとしている時点で、何を今更ってトコなんだろうけどさ。
口ではボヤきつゝ、笑い乍ら鯨の子供の様に大きく口を開けたヒナタは、口を開けた際の勢い其のまゝに、華尼拉氷菓を食した。
そして口の中にひんやりとした食感が伝わって来る中、ひと言、うん、労働の後のデザートは最高だ、とケイの眼をじっと見据えて言った。
ケイは相変わらずヒナタの言う「キラキラオーラ」を放ち乍ら、満足をしているなら結構だ、と言って、今度は貴様の番だと言わんばかりにスプーンをヒナタに手渡した。
スプーン越しにケイの体温がほんのり感じられる中、まるでシャベルで土でも掘り起こす様にがっしりと氷菓を掬ったヒナタは、もっと顔をコッチに寄せてくれないかな、と言うなり、所謂口移しの状態で氷菓をケイに食べさせた。
どうだった?。
御味の方はさ。
多分青桐と一緒に受けたチームCのレッスンの際に「仕込まれた」らしい婀娜〈あだ〉な表情を浮かべ乍ら、軽く髪をかき上げたヒナタがケイに言った。
上々だな、最初に味わった時よりも。
此れからも艶〈いろ〉っぽい事、沢山教えてよね、ケイ様。
良かろう、貴様がそう望むのなら。
其の後の片付けは二人して行い、作業をする傍ら、キッチンの何処に何があるかをケイはヒナタに説明したのだが、其の際ヒナタはケイと同じ時間、そして同じ空間を共有出来ると言う嬉しさから、両の眼〈まなこ〉をキラキラ輝かせ乍ら、ケイの説明に対して耳を傾けた。
其れから二人は洗面台の前に於いて、「仲良く」歯を磨く事にした。
時刻が時刻だけに、口の中を軽く濯〈ゆす〉ぐ為に捻った水は思った以上に冷たく、逆に眼が覚め、そして脳が冴えてしまいそうであった。
今度の週末、又レッスンに付き合ってくれないかな。
場所は第二レッスン場、勿論二人っきりで。
パッケージから取り出したばかりの真新しい歯ブラシにべっとりと盛り付けた柑橘系の歯磨き粉の匂いがふわふわと漂う中、ヒナタより先に歯を磨き始めたケイに向かってヒナタが言った。
変わったAdventureのお誘いだな。
映画の『キングコング』の様に歯茎〈ぐき〉を剥き出しにしたケイが微笑い乍ら言った。
お互い、win-winじゃない?。
アンタはオレを人生の退屈凌ぎの玩具〈おもちゃ〉として扱えて、オレはアンタを独占出来てさ。
何処で憶えたのだか、かような言い回し。
何処だって良いだろ、此の際さぁ。
で、承諾してくれんの?。
其れとも断んの?。
分かった、分かった。
余り長居は出来ぬが付き合ってやろう。
背の低いヒナタが背の高いケイに対し、歯のブラッシングをし乍ら睨み付けると言う構図は痴話喧嘩と言うよりも兄弟喧嘩に近いものがあったが、ケイは大人の対応で、此れは此れ、其れは其れ、と素直に割り切ると、こゝろの中で、全く、猪突猛進も此処迄来ると交通事故と一緒だな、とボヤき、じゃぶじゃぶと口の中を濯いでから、月白色のアルマーニのフェイスタオルで顔全体を綺麗に拭いた。
ふぅ〜っ。
いやあ、サッパリするって良いモンだね。
ケイの後に口を濯ぎ終え、まるで銭湯から上がったばかりの客の様な事を鏡を覗き込み乍ら呟いたヒナタは、ケイから紺色のアルマーニのフェイスタオルでサッと口の周りを拭き終えるや否や、ケイが使用していたフェイスタオルと共に其れをドラム式の洗濯機の中へとポンと放り込んだ。
ふぁあ〜あっ。
楽しい時間をもっと過ごしていたいけど、そろそろ寝なくちゃ。
そう言ってヒナタはケイの左手をぎゅっと握り締めた。
口を濯ぐ際、両手にたっぷりと付着した水滴を拭き取ったばかりと言う事もあってか、ヒナタの右手はまだひんやりとした感触が残っていた。
ケイは其の右手を黙って握り返すと、ゆっくりとした足取りで寝室迄ヒナタを連れて行った。
まるで花嫁行列だね。
ヒナタが言った。
花嫁の座に収まりたければもう少し其の口を慎むべきだな。
つくづく優しいね。
アンタって人間〈ヒト〉はさ。
言った側から。
感想を述べる位、自由じゃん。
時と場合がある事位、知らぬ童でもあるまいに。
はいはい、悪うございましたよ。
はいは一回。
はい。
当てつけと言わんばかりに「シャキッと」返事をした後で案内された寝室には、ベッド脇に所謂使い古しと思われるチャイニーズ・ランプの灯りが薄暗い部屋を照らし出し、且つ部屋全体に甘い麝香〈じゃこう〉の香りが漂っていて、肝心のベッドは高身長のケイの体格に合わせ、キングサイズ仕様のベッドであった。
此れが王様の寝室かぁ、良さげな趣味だね。
枕一つにしたって、オレが使っている枕より何百倍もフカフカしていそう。
握り締めていたケイの手をスッと離し、まるで猫が床をスタスタと歩く様な軽い足取りでベッド脇へとやって来るなり、ヒナタがベッドに関する「感想」を述べると、ケイはヒナタをベッド脇へと腰掛けさせ乍ら、明日眼を覚ました時、天井の雰囲気が違う事に驚かなぬ様気をつけるんだな、と言ってヒナタの頭をそっと撫でた。
ヒナタは眼を瞑った状態で、うん、と返事をすると、ケイの身体をギュッと抱きしめた。
此れが俗に言う「かりそめ」の関係になるかもしれないと言う暗雲の様な考えを勢いよく吹き飛ばすかの様にして。
ケイはそっとヒナタの身体を受け止めてみせると、張り詰めていた緊張の糸が一気に弛んだらしいヒナタの寝息が聴こえて来るのを確認した上で、ぬいと腕を伸ばし、チャイニーズランプの灯りをカチンと消した。
Good Night Baby.
祈る様にケイはそう呟くと、ヒナタの肩に掛け布団を掛けた。
眼を瞑ったケイのカラダが麝香の香りとヒナタの香りに包まれたのは、其れから数分後の出来事だった。〈終〉
探り愛、手繰り愛