万花物語 #91-100
#91-97
万花物語 ・中 ~短編フィクション拾遺集~
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#91-97
●女森(めもり) ●アデュー ●コウシュウ○○
●マカレ ●冬の変心 ●ふるさと ●若き日のミッチェル
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91◆女森(めもり)
ユウサクは朝起きて、樹木になっていた。老女は、枝が人の指のようだわ、とにんまり笑った。背後に、若い女たちが今か今かと待ち構えていた。
ヨットで海を旅していたC国の男が孤島に流れ着いた。何も知らない男は、浜から岸へ上がった。奥深いジャングルを進んで島の中心部を目指し、村に辿り着いた。見る人、みな女ばかりだ。幼い女の子、少女、若い女性、中年女性、熟年女性、老女。女性しかいなかった。怪訝に思った男は、村のはずれを通りかかった老女をつかまえて、訊ねてみた。幸いなことに、言葉は世界共通になっていた。
「あの。ユウサクと申す旅人ですが」
「よその方ですか? 久しぶりだわ……。ここへは何をしに?」
「世界を放浪して、各国の文化を見て回るのが目的です。ここには女性しかいないのですか?」
「そうです。ここA国には、女しかいないんです」
ジェンと名乗る老女は数寄なA国の暗い歴史を語った。二十一世紀末に打ち上げたロケットで、国の男はすべて残らず、食糧を求めて地球から五光年離れた惑星Qへ移住した。当然、女や子どもを呼び寄せるつもりだった。が、到着後、ロケットの燃料が漏れ出て、帰れなくなった。それ以来、国には生身の男が途絶えた。地球の温暖化で二十二世紀の環境は激変。A国は、草木が生い茂り、獣の闊歩する未開の孤島になった。町は荒れ果て、たったひとつの村だけが残った。女たちは石塀を築いて引き籠もった。老女は、それから、と一息ついた。
「それから、大変な事態になりました」
「何が起きたんですか?」
「A国は孤島です。男衆がいなくなり、戦乱が続きました。力士のように太った女番長が戦に勝ち、実権を握って統治するようになったのです。その際、絶対服従の女性独裁憲法を作りました」
「女性独裁憲法?」
「はい。女の、女による、女のための憲法です。A国は民主主義とは程遠い軍事政権です」
「そうなんですか」
ユウサクは気後れがしてきた。ジェンはなおも話を続けた。
「この国を統治する女番長はデュラという名ですが、俗に『スケ貴妃』と呼ばれております。デュラは高度な科学を進歩させ、国を発展に導きました。因みに、この村のことを女に森と書いて、『女森(めもり)』とおなご衆は称します」
女森、軍事独裁政権、スケ貴妃デュラ。いったいどういう国だろうか。ユウサクは戸惑いと不安を隠しきれなかった。ジェンはそれを見て取り、安心させるような言葉を並べた。
「独裁といっても至って平和です。よそから攻撃を仕掛けるような事態はいちどもあった試しがないんですから。それに」
「それに?」
「よそからのお客様は、特別な活動をなさるのが習わしになっておりますので」
特別な活動。なんだろう? 話が見えてこない。とりあえず疑問は横に置き、ユウサクは訊ねたいことをぶつけた。
「女の人はみな満足しているのですか?」
「ええ、それは、それは。楽しみがありまして」
「楽しみとは?」
「毎年の十月、五番勝負の大会を行います。年齢制限はなく、A国民なら誰でも応募できます。『料理』、『着付け』、『舞踊』、『歌唱』、『おもてなし』で決します。よそからの方は、随時、リョッカツにも取り組まれております」
各種目は、昔の本で読んだ、遠い島国の風習のように思えた。ユウサクはその国の名が思い出せなかった。リョッカツ? 耳慣れない言葉が引っ掛かった。
「リョッカツとはなんですか?」
「それは、実際にユウサク様が体験なさったらよいかと」
彼は何かの活動だろうと思った。それはさておき、オレも「おもてなし」を受ける立場にあるのか。ユウサクは喜んだ。長旅で空腹のユウサクは、喜びの余り、リョッカツの大切さを甘く見ていた。化粧を整えたキレイな着物の女将が姿を現し、特別に接待してくれる。ジェンの口ぶりから、きっと素晴らしい饗宴が繰り広げられると想像した。ただ、太った女番長デュラの存在だけが気掛かりだった。
ジェンに案内され、正面にそびえる館へ入った。ジェンのあとをついていき、大広間に通された。新種の四次元空間パネルでは、来月にB国の首脳がA国を表敬訪問する文字ニュースが、途切れなく左から右に流れていた。ユウサクは周囲を見回した。建物は、高いドーム状の天井に大理石の床だ。
しばらくして、泥鉄砲の余興が始まった。群衆はざわめき出した。なにかが始まる予感がした。黄金色に光る金属装置が広間に登場した。タイヤのついた装置は自走を始め、猛スピードで動き、上面に着いた円筒から泥団子をビュンビュンと噴射した。泥鉄砲は動きの鈍い女性らを狙い、泥団子が当たった女性は後ろへ下がった。参加者は赤ヘルメットに青の盾でよけ、泥団子をよけて動き回った。
「さあ、一緒に余興をやりましょう」
ジェンに促され、ユウサクはいわれるがまま参加した。縦横無尽に高速で動き回る装置に素早く反応し、盾で凌いだ。女性らは次々と泥の餌食になり、退いた。参加選手は一人減り、二人減り、気づくと、二人のみが残っていた。
スケ貴妃デュラとの対決となった。これがデュラか。金色の、怒髪天を衝くように逆立った頭髪。顔は真っ赤。でっぷりと太ったいかつい体。こいつと対戦するのか? ユウサクは溜息を漏らした。館内は黄色い声に包まれ、熱気は絶頂に達した。
デュラに勝てば、オレはA国の支配者になれるのか。そう思うと俄然やる気が出た。必死に動いては泥団子をよけ、デュラの背後に回り込んだ。しめた。この女を盾にすれば。慢心した。デュラは体型に似つかない身のこなしで瞬時にバック転を決めた。あっと叫んだ。見上げた途端、彼に隙ができた。装置は左に回り込み、泥団子がユウサクに命中した。銅鑼が打ち鳴らされ、余興は終了した。
「フハハハハ。わたしに勝とうなど、十年早いよ。男なんかに負けるもんか」
優勝のデュマは、決め台詞を吐いた。デュラはジェンに意味深な合図を送った。汗をかき服が汚れたユウサクは、別室に連れていかれた。
おもてなしの宴が始まった。白い着衣に着替えると、八角形の間に移動した。赤い絨毯の上にテーブルがあり、それぞれに趣向を凝らした豪華な料理が載っていた。箸と皿を給仕に手渡され、立食で食事を楽しんだ。大きな開口部には庭が見えた。庭では、月明かりを浴びた踊り子たちが優雅な東洋風の調べにのせてゆったりと舞いを演じていた。これが本物のもてなしの時間か。ユウサクは堪能した。
その晩、客室に泊まった。寝る前、女中が水差しを持ってきた。喉の乾いていたユウサクは一口含み、床に入った。
樹木になる最悪の日、夢見心地で朝を迎えた。昨夜の余興と饗宴を思い返そうとした。が、なにをしたのか思い出せない。頭のメモリ(記憶)が空っぽになった。女森、めもり、メモリ……。めもりとは、はて、なんのことだったか……。そう思ったが最後、気づいたときには手遅れ。顔全体が小さく縮み、頭頂部は先細りし、尖り出す。頭髪や体毛は見る見るうちに伸びて繊毛に、手は葉っぱに、足は根っ子になった。ユウサクの体は小さな樹木へと変身してしまった。
起きましたか? ジェンが顔を出し、ニヤリと笑って舌を出した。ジェンは女中を呼び、短刀で樹木の幹を削り取らせた。露出した切り口に、「M―y8635」と赤ペンキで識別番号を書いた。ジェンは樹木を蹴り飛ばし、森の中へ運べ、と命じた。その日の文字ニュースは、A国の緑化政策推進により、地球温暖化の緩和に役立っているとB国外相が国際会議で称賛する発言を流していた。A国の取り組むリョッカツとは、訪問者の忌避不能な「緑化活動」のことだった。
樹木はいまも、人気ない森の一画にひっそりと植わっている。ジェンはデュラに耳打ちした。もうすぐ森で、「子孫の実」が成りますよ、と。
92◆アデュー
私は知らない館へ招かれた。いや本当は違う。気づくと森を抜け丘の上に来ていた。暗闇の丘は風もなく、静謐そのものだった。館の中から、どうぞお入り、と微かな声が聞こえてくる。重たい扉を開け、広間の板張りで立ち尽くした。黒猫がたくさんいる広いお屋敷だった。壁にはまばゆいランプがいくつも灯っていて、踊り場が二股にわかれた大階段は二階へと続いていた。
「ようこそ。当館へ」
猫のような顔の貴婦人がうやうやしく一礼して出迎えた。その婦人に先刻からじゃれついていた黒猫が黄色い瞳を光らせ、こちらの足元にすり寄ってきた。
なぜか頭がスースーし、見上げたら星空が広がっていた。天井も屋根もなく、満天の星が降ってきそうだった。猫が話しかけてきた。
「そうだよ。うちには屋根がないのさ。壁と床だけ」
猫は瞳で私の心を読み解いているのだと察した。
「雨は? 風や嵐は?」
「ジマ様が呪文を唱え、雨風を弾くんだ」
「誰?」
「ジマ様だよ。目の前の貴婦人さ。ジマ様は耳が遠い。おれが通訳する係さ」
「あなたは、なんていう猫?」
「ああ、おれか。おれはニトラン。よろしくな。いっとくが、他の猫は人間の言葉を理解できない」
「そうなの?」
「ああ。気持ちを感じ取るのはできる」
「どうやって私はここへ来たのかしら?」
「きっと匂いに惹かれて辿りついたのさ。ここは人間世界と違う匂いで包まれた丘だからな。猫の匂いに敏感でなきゃここには辿りつけない。ここに来る前、森で迷ってたろう。大きな欅の洞に手を突っ込んで匂いを嗅いだよな」
「どうして知ってるの?」
「猫は匂いに敏感だ。欅の洞を嗅ぐのがこちらへ入る唯一の手だて。匂いが鼻腔から脳の通り道へ旅するあいだに、意識が抜けてこちらへ漂着する。匂い成分が意識を猫の手座まで飛ばすのさ。知らなかったか」
「知らないわ、難しいもん。猫の手座っていう星座なの?」
「ああ。銀河の端の猫の手座。そのアルファ星の小さな丘に、いま君はいる。地球の森にある欅とこの丘は空間的に表裏の位置にある。君が来たことで空間がよじれ、メビウスの帯になった。表裏がつながったのさ」
「もっと難しいわ」
「まあ座れよ」
ニトランはうながした。私が樫の木の椅子に腰かけると、ジマ自らハーブティーをテーブルのティーカップについでくれた。
「どうぞ、おあがり」
その手が招き猫のような手つきだったので、私はフフフと笑った。ジマはさっきまで微笑んでいたが急に神妙な面持ちになった。
「もうすぐあの世へ旅立たねばなりません。この館のことをよろしく頼みます」
いきなり私に後継を託した。急に頼まれても困る、と思ったが、たくさんの黒猫がいつしか取り囲んで足を舐めてくるので断れなかった。猫は好きだし、友だちも少なかった。まあいいかと開き直った。
「分かりましたと伝えて」
ニトランに頼んだ。言葉を伝え聞くと、ジマは元の和やかな表情に戻った。
夜空の闇が消え、天井の空が白み始めた。夜明けとともに虹が出た。ジマはふわりと宙に浮き、七色の虹に吸い込まれるようにして色と影形をなくした。
「君がこの館の女主人になった」
ニトランがいった。地球の友へ伝言をしたいといったら、自然と頭に呪文が浮かんできた。呪文を唱え、最後にアデュー(さよなら)といった。
「ハーブティーの匂いを嗅いで、意識を地球へ飛ばせ」
ニトランはにわかに告げた。それで地球と友人に別れを告げたことになるという。つながっている表裏の空間も切れたらしいが、不思議となにかを失う感覚はなかった。新しい場所でニトランや猫たちに囲まれ、自適に暮らす毎日を想像したら、笑みがこぼれた。
ふと体の変化を感じた。肌と体毛は黒くなり、背中が丸まった。耳がとがり、尻尾のない猫人間になった。
93◆コウシュウ○○
わたしは喫茶店で働いていた。働きはじめて間もないのにクビになった。
大学の授業が終わり、ずっと考えごとをしていた。バイト中も考えにふけっていた。給仕係としてお盆にアイスコーヒーとケーキを載せて運んでいた。
もう少しでテーブルに、というとき、トイレに立った別の客とすれ違った。その人をよけようとして身をかわした。そのときバランスを崩した。目の前に座っていた客に、グラスのアイスコーヒーをぶちまけてしまった。
「ああ、もぉ!」
紫のブラウスに白のコサージュをした年配の婦人は、不快な声を発して立ち上がった。
「す、すみません。すぐにふきますので」
「もういい。帰ります。二度と来ないわ」
婦人は憤慨して、千円札をバンと机に叩きつけ、帰ってしまった。
一部始終をカウンターの中から見ていたマスターは、
「困るよ、ミチルちゃん。どうしてあんな失敗をするの。こぼすなら床だけにしてくれ」
と言った。腰に手を当てて片手をカウンターについたまま、しばらく沈黙が店を包んだ。
「明日からもう来なくていいから」
わたしは何も言えず、落ち込み、次の日からバイトを欠勤した。辞めますという電話一本すら入れられなかった。それで事実上クビになった。制服はクリーニングに出して、父に事情を説明し、店に届けてもらった。
元はといえば、今朝からついてなかった。
その日の朝、自宅近くの道を歩いていて、マンホールにつまずいた。そのときはつまずいた失敗を深く考えなかった。
大学の講義の始まる前、マンホールで朝つまずいたと千佳に話した。
「ミチル、どんくさいからなぁ。私、マンホールなんかでこけたりしないよ」
「だって急いでたんだもん」千佳にからかわれ、言い訳した。
「ミチルの靴はこけやすいんじゃないの? ヒールなんだから、歩くときデコボコをよけなきゃ」
「わかったよ。気を付けて歩くわ」
すぐに別の講義が始まり、教官が現れた。教壇に上がるとき、彼もつまずいた。
「あの教官もこけたね」
千佳は小声でにやけた。つられて笑いそうになり、こらえた。
昼休み、食堂まで歩いた。人はどうしてこけるのかで千佳と話が盛り上がった。
「こけるってことは、下をよく見てないんだよ」
「そうか。でもさ。思ったより高かったり、低かったりするとやっぱつまずくよ」
「そんなことない。ミチルもあの教官も鈍いんだって」
「そんな言い方ないんじゃないの」
ふて腐れた。二階にある食堂へ続く階段にさしかかった。わたしはまた階段でこけた。千佳はケラケラと笑った。人はなんでこけるのだろう。真剣に悩んだ。
午後、大学を出てバイト先の喫茶店へ向かった。そして、最低な失敗をしでかしてしまった。
わたしはほとほと自分に愛想をつかした。わたしがわたしでいることをやめたくなった。もっと注意できる人に生まれ変わりたい。本気でそう願った。
アルバイトを辞めてから数日のあいだ、大学の講義をサボって地下鉄に乗った。ちょうど五月の連休明けで、気分がけだるかった。二駅前で降り、公園のベンチに座り、毎日くつろいだ。嫌気がさし、失敗を早く忘れたかった。たまたまその日に限り、公園の清掃婦が落ち葉を掃いていた。ベンチの近くまで来て、ふと足を止め、屈んで囁いた。
「お嬢ちゃん。生まれ変わりたいんでしょ」
「どうしてそれを」
「フフフ」
彼女の口から漏れ出た笑いが不敵に聞こえた。
「コウシュウに参加しなさいな」
「コウシュウ?」
「そう。〝成功するコウシュウ〟」
そう言い残し、清掃婦はまた忙しそうに向こうを掃き始めた。
講習? 公衆でも、口臭でもなく?
「きっと講習だよな。お金もかかりそう。そんなもの金欠のわたしには関係ないさ」
ブツブツ呟いて空を見上げた。空を横切る大きな飛行船が目に入った。目のいいわたしは、少し遠くの飛行船の、胴体に書かれた文字を読めた。
あなたも参加しよう! コウシュウ――。
清掃婦の言う〝成功するコウシュウ〟って、これのことか。勝手に妄想した。成功する講習。その講習に参加すればだれもが成功するとか。あるのかな、そんな講習。参加が無料なら見るだけ見て、こっそり逃げちゃおうか。とにかく好奇心に駆られた。
地上に目を移すと、飛行船を見上げた人なのか、列を作るようにして人々がどこかへ歩いていく。このまま現実逃避していてもなにも変わらない。そうだ、わたしは生まれ変わりたいんだった。行動しようと腰を上げ、わたしも人々の列に加わった。そのときは気づかなかった。コウシュウのあとに続く文字が飛行船の裏まで続いていたのを。
巨大なテントが向こうに出現した。テントの中へ人の行列は吸い込まれていく。長蛇の列だ。あれがおそらく会場なのだろう。人の列にまぎれ、わたしもテントに入っていった。
テントの中にパイプ椅子がたくさんあった。人々は次々に椅子に座り、空席を埋めていく。
やがて、開始のベルが鳴り、一同は静まり返った。中央の演壇にスーツを着た紳士が現れ、一礼して話し出した。
「みなさん。こんにちは」
話の本題は紳士の人生の失敗談だった。武勇伝や自慢話ならつまらないから途中で中座して帰ろうと思っていた。が、わたしも周囲の人も、紳士の巧みな話術と身振りと顔つきに、腹を抱えて何度も笑い声を上げた。講演のあいだ中、始めから終わりまで抱腹絶倒の連続だった。
結局、講習とは、失敗をたくさんする紳士のような人は人生の引き出しがたくさんできてかえって幸せだ、といった内容だった。
笑い過ぎて出た涙をハンカチで押さえながら、会場を出ようと出口へ向かった。
なぜか出口には、ピンク色の電話が置いてあった。机に数台並べられている。人が順番に電話を掛けていた。そばの係員がなにか喋りながら、帰る人をその電話に誘導している。いったいどうして電話などと思い、無視して通り過ぎようとしたら、
「すみませんが、ご感想をこの電話でお話しください」
と係に呼び止められた。
「なぜ感想を? だれに話せと」
「この電話は、あなたのいちばん話したい相手につながってます。ほら、早く」
急かされて焦った。隣の人は嬉しそうな顔をしてピンク色の電話で話し込んでいる。とにかく後ろが待ってるし話すとするか。
「もしもし、わたし」
「ああ、ミチルちゃんね。おばあちゃんよ」
「ああ、ばあちゃん。今日ね、面白い話をいっぱい聴いてきたの。あのね……」
さっき聴いた講習の中身を思いつくだけ振り返って母方の祖母に話した。
「ああ、そう。よかったね、ミチルちゃん。さぞ面白かったでしょう。心がスッキリしたでしょう」
「うん。とっても」
「じゃあ、気を付けて帰るのよ」
「うん。じゃあね。ばあちゃん、バイバイ」
ピンク色の受話器を置いた。お金はいらないらしかった。すぐに後ろの人が受話器を手に取った。
あとで家に帰って思い出した。あれ。母方の祖母は二年前に亡くなったはずだよな、と。ちょっとした怪談のようで、半分だまされたような、ちょっと恐いような気分になった。
コウシュとは、講習会か、はたまた公衆電話なのか。それもよく調べると、ピンク色の電話は喫茶店などにしかないものだった。その店の中にある代物らしい。その話は、千佳にも家族にも、だれにも言わなかった。
でも、その日以来不思議に大きな失敗をしなくなった。なんだか、あの紳士か、電話の向こうの死んだはずの祖母が、すべてのわたしの失敗のもとを吸い取ってしまったようだった。
大学卒業後、文系だったわたしは、なぜかコンピューターソフトの会社に入り、いまではプログラマーのチーフとして自分より、他人のミスをみつける毎日を送った。
94◆マカレ
マカレはとんでもない大ウソつきだった。しかも悪党だ。かわいそうなのは、彼のする話の中だけだった。パリラの寝ているあいだに、彼の持ち物を勝手に持ち出し、町の市へ持っていって売りさばいたらしい。朝起きると物が無くなっていた。とくに大切にしていた双眼鏡がなくなっていたのはショックだった。
「少年は、物を売って金が手に入ると、もうけた金の一部をどこかに埋めたのさ。それから姿をくらましてしまったよ」
噂好きの村のパン屋から聞かされた。
パリラは、友だちができたとだれかに話したくてしょうがなかった。が、友だちどころか、とんだ泥棒の行いに裏切られた。こぶしが震えていた。信用していたマカレのひどい行動と、物を盗まれたことに。どうしてマカレはあんな人間なのだろう。だまされたパリラは壁を靴でおもいきり蹴り上げた。
ある国の村に一人の少年が住んでいた。親に先立たれ、一人ぼっちで暮らしていた。村の子どもらにいじめられていた。
嵐の晩の次の日、空は晴れた。白い雲がゆっくりと少年をさそうように動いていく。少年は雲を追いかけ、追いかけ、いつしか海岸の崖まで来た。
雲の切れ間から光が差した。光が海を照らしている。丸太でできたいかだのようなものに人が乗っていた。
「だれだろう」
知りたい気持ちになり、崖から砂浜へ降りていった。いかだは、波にうちよせられるようにして岸へと近づいてくる。
「おーい」いかだの上のひとが叫んだ。
「おーい。だれだい?」少年は叫びに答えた。
「岸に着くから手伝ってくれ」いかだの人は頼み事をした。
「いいとも」
大声で承知した。いかだの人は、どうやら少年と同じくらいの年の男の子だった。ひどく汚れたぼろぼろのシャツとズボンに、うす汚れた赤い帽子をかぶっていた。いかだは、すぐに浅いところに乗り上げた。少年とやってきた男の子のふたりは力をあわせ、浅瀬から動かないいかだをどうにか砂浜まで引き上げた。
「どこからきたの?」少年はたずねた。
「海のはるか向こうの国からさ」
「へえ。名前は?」
「ないよ。きみにはあるの?」
「うん。ぼくの名は、パリラ」
「じゃあ、いい名前をぼくにつけてよ」
「マカレにしよう。それでいい?」
「わかった。じゃあ、きょうからぼくはマカレになる」
マカレはお腹がたいそう減って死にそうだ、といった。パリラはマカレを家に連れ帰った。台所にあったひとかけらのパンとチーズ、残り物のスープを分けてやった。マカレはたいそう喜んで食べ始めた。
食べおわったマカレは、しばらくボーっとしていた。パリラはマカレのことをいろいろたずねてみた。マカレの両親は小さいころに戦いで死んでしまったこと、一人になったマカレは村を離れてさすらいの旅に出たこと、食うや食わずの生活をつづけ、森で木の実を取ったり、砂浜に打ち寄せる海藻を食べたりして飢えをしのいだことなど、マカレはポツリポツリと語ってくれた。
「じゃあ、いかだでどこへ行こうとしていたの?」パリラはたずねた。
「そんなの、どこだっていいじゃない。戦いのない、生まれた村よりも平和な村に行きたかっただけだよ」
マカレはあっさりと答えた。パリラは、すっかりマカレの話を信用した。マカレをしばらく家に泊めてやることにした。
翌朝、異変に気づいた。起きたらすでにもぬけの殻だった。鍋ややかん、おまけに大事な双眼鏡もなくなっていた。
教会に行き、神父に、友だちを信用してひどい目にあったことを打ち明けた。神父はいった。
「パリラ。それでいいんだよ。人を憎んではならない。いいね」
「神父様、どうしてですか」パリラはうつむいていた顔を上げ、たずねた。
「きみのしたことは間違っていない。その少年も大人になって自分の過ちに気づくはずだ。気づいたら、きっと反省する。イエス様に許しを請う。パリラがいいことをしてあげたのにも気づくだろう」
神父は、そっとパリラの髪の毛をなでてくれた。
「パリラ。きみにはきっといいことが起こる。イエス様はちゃんとご覧になっているよ」
神父は力強く言った。
教会を出て道端を歩いていると、教会の三角の塔が、太陽に照らされてくっきりと濃い影を作っていた。よく地面を観察すると、そこだけなぜか土の色が違っていた。パリラは手で影の尖った先を掘ってみた。すると、小さな袋が出てきた。中をあけて腰を抜かした。中には金貨がいくつも入っていた。恐らくマカレがもうけて道に埋めた金貨を掘り当てたのだと思った。パリラは自分の財産の一部を取り戻せた。パリラは、これが神父の言ったいいことだと思った。街の市に行き、その金貨でいい買い物をした。そして足取りも軽く家に戻った。
95◆冬の変心
どこまでも果てしなくつづく青空を白銀で切り取った雪原が広がっている。私はゲレンデを滑ろうとしていた。年末のことだった。畠山さんは同じ場所で先に滑り、片手を上げてこちらに体を向けている。私は恰好よくスノーボードで滑り、彼の元へ……。
「きゃー! 止まらない」
私の夢をぶち壊すかのように、黄色い声がかぶさる。ピンクの目立つジャケットを着た女が畠山さんにぶつかろうとしていた。
「わざとらしい。なによ、ノゾミ先輩ったら」
私はふてくされ、長い髪をなびかせて、畠山さん目指して真っ直ぐに滑り降りた。
ノゾミ先輩は大学の一年上のコーラス部の先輩で、栗色の毛先にパーマをかけていた。ここぞというときにだけ、アイシャドウを濃くして大人の雰囲気を出し、香水をふりかける派手女だった。三年の畠山さんを巡って恋の火花を散らしていた。年末年始の冬休みを利用して、苗場のスキー場で過ごしたいと言い出した畠山さんに、当時付き合っていた私が「一緒に行きたい」と言うと、地獄耳のノゾミ先輩も割り込んできたのだ。畠山さんの男友だちが、いいじゃん、四人で行こうよ、と同意した。波乱含みの展開は、スキー場に来る前から読めていた。充分な対策を取らなかった自分を嘆いた。
スキー場をあとにし、帰りのバスの中で畠山さんから突然別れを告げられた。
ノゾミ先輩は畠山さんに急接近し、大学卒業後、二人は結婚した。あのとき、いったい何があったというのだろう。別れた私は何も知らされず、男のひとが怖くなり信じられなくなった。
五年後、畠山さん主催のパーティーが開かれた。彼はIT系ベンチャー企業の会社を設立し、軌道に乗っていた。私の元にもなぜか招待状が届いた。
パーティーの合間に畠山さんから呼びだされた。
「平野。あのときはすまなかったな」
「もう終わったことでしょ」
「実はノゾミのパパがGoogleの役員でさ。あのときは将来を考えてどうしても後ろ盾が必要だったんだ」
「そうだったの。で、いまさらなに?」
「だから悪く考えないでくれ」
言いたいことはそれだけ? と言い放ち、足をヒールで思いきり踏んづけてやった。
ザマアミロ。
私は心で叫んだ。顔を醜く歪め、男を見下す快感に浸っていた。
将来の就職のために恋人を裏切るなんて、あざとい。ノゾミ先輩が金持ちなのは分かっていた。でも、本当に悔しかった。
さらに五年がたち、彼の会社は倒産し、ノゾミさんとも離婚したと噂で聞いた。自分一人の力で切り開いてみればいいわ、とあざけった。
それからすぐ、彼は居室で首を吊り、死んだ。
ザマアミロ。イイキミダ。
私は彼の葬儀に参列し悲しむ元恋人の役を演じた。心の中は怒気に満ちて般若のようになり、頭から角が生えてきそうなほどだった。
その年末、十年ぶりにゲレンデに立っていた。いまは髪をショートにし、メイクもナチュラルに変わっていた。積もった雪が太陽の光を反射してとても眩しい。スノーボードでターンをきめながら、ゆっくりとシュプールを描いた。会社の同僚が遅れて滑ってきた。週末を利用してまた苗場に来ていた。
「山をバックに写真撮ろうよ」
私はポケットからスマホを取り出した。写真を撮り終え、下に降りようとしたとき、急に視界が悪くなった。突然の猛吹雪に見舞われた。風が強まり、耳をつんざく音がした。
いや、音だろうか。声だ。声に聞こえた。
ザマアミロ――。
風切り音が怨念の声となり、私の耳に届いた。その瞬間、背筋が凍りついた。死んだはずの畠山さんが十年前の恰好で吹雪の中から姿を現し、オーロラのように緑に光って私を飲み込んだ。私はめまいを起こし、その場に倒れ込んだ。
気づくと、灯りをつけたままでベッドに仰向けに寝かされていた。上半身をベッドから起こし、窓を見るとゲレンデは夜の闇に包まれていた。ベッドの横にある鏡を見た。鏡の中のむっつりした顔に微笑んでみた。鏡の中の私は不気味にニヤリと口元を曲げ、虚ろな私と入れ替わった。彼の霊と私の怨念が混じった悪魔が乗り移った気がしたが、妙にやわらいだ気持ちになったのが不思議だった。
それからというもの、私の形相は怖さが倍増したと言われるようになった。入社したのはGoogleのライバル会社のYahooジャパンだった。どうしてもノゾミ先輩を見返してやりたくて選んだ会社だった。Googleの日本支社に親のコネで入って働いたノゾミ先輩を思うと、いまでもGoogleに対してライバル意識を剥き出しにし、同じ会社で働きつづけることに生き甲斐を感じる毎日を送っている。互いに関係のあった男は死んでも、女対女の嫉妬と執念はいつまでも途切れることはない。
〈了〉
96◆ふるさと
テレビに大写しになったのは、お笑い芸人ホラードンキーの溢れんばかりの変顔だった。
「ウハメホザッドン、ウハメホザッドン」
どう聞いたって、僕にはとうていはやりそうなギャグに思えず、ただ画面を前に固まってしまった。笑顔で意気揚々として目を見開き、奇妙な言葉を操り、観覧席の観客とテレビの視聴者を虜にしている。そんなふうに見えた。その言葉というべきかギャグの連続音は、およそどこの国の言葉でもない。アザラシあたりの、仲間に危険を知らせる遠吠えのようでもあった。どちらにせよ、「ウハメホ……」と芸人の口から出た音は、およそホモサピエンスにあるまじき言語感覚の発語だった。
隣で一緒にテレビを観ていたサトルはゲラゲラと下品な声を上げ、こちらを見た。
「俺もあんな有名人になりてぇな」
「むりだって。簡単に面白いことを人前でするなんて、難しいよ」
「でもこの前、面白かったじゃないか」
この前とは、先生への復讐だった。英語の村木に怒られた昼休み、妙案が浮かんだ。悪童ぶりに火が点いた僕は、サトルに耳打ちして復讐を決行した。敷地の端に小さい溜池がポツンとある。そこの主を獲物にした。
僕とサトルは昼休みに村木が女子便所に入るのを見届けると、すかさず隣に侵入し、二人がかりでバケツに入ったでかいガマガエルを、トイレの扉と天井の隙間から放り込んでやった。断末魔と、それにも増して「覚えときなさい!」という低いうなり声がトイレにこだました。
「やったぜ。大成功!」
気を良くした僕は、サトルとハイタッチを交わし、僕らは溜飲を下げた。帰り道、トイレの中でうろたえる村木の姿を想像しただけで、二人はどちらからともなく笑い合い、コンビニで時間をつぶした。
サトルはそれを思い出したのか、あれはまるで出川哲朗のテレビシーンを観ているみたいだな、と愉快そうに笑った。
「俺も出川のような面白い有名人になりてぇ」
さっき喋ったのと似たような台詞を吐いた。僕は答えようがなく、黙って画面を見つめながら、テレビから聞こえる大音量の笑い声につられて意味不明のギャグに笑顔を作った。本当は面白くない。けれど、今だけは面白く聞こえる気もした。
「ヒトシ、どう思う?」
サトルは腹を抱えて笑いながら、また訊いてくる。
「どうって、なにが?」
「だからさ。有名人になる道だよ。よくないか」
「いいと思うけど、思わないこともあるし」
「はっきりしねえな」
「だってさ。東京行って有名になる奴なんて一握りだろ?」
「そりゃ、まあそうだ。だけど、こんな田舎でくすぶっていてもしょうがないだろ?」
「そうかなぁ……」
僕はうまく言い返せなくて、友人の言葉に気押された。
テレビの演芸コーナーが終わると、サトルは、
「やっぱ、有名人になりてぇ。絶対東京行って芸を磨く。目指すはナンバーワンの芸人」
帰りぎわに力強く宣言して玄関のドアを開けた。じゃあなと言って上機嫌で帰っていった。
どこが面白いんだ。ったく馬鹿なヤツ。芸なんてそう簡単に身に付くかよ。僕は悪態をついて玄関の柱を足蹴にした。秋の日曜の夕方はこうして過ぎていった。
僕らは日本海沿いのK町に住む中三生だ。来年の春で卒業になる。十五ともなれば、いろんなことが引っ掛かる。友だちの進路、親の職業、先輩の噂、彼女の有無、背の高さ、その他もろもろ。
サトルと僕は小学校からの友人で、今までずっと一緒だ。仲良くつるんで、自転車で遊びに出掛ける関係が続いた。中間テストを前にして、数学、英語、地理が苦手な僕は、お決まりのように、それぞれの補習を受ける覚悟だった。特に数学は苦手だった。計算ができたとして、大人になってから何に使うのか。そんな疑問が余計に、机の上から教科書と問題集を遠ざけた。
しばらくして、東京への憧れを頻繁に口にし出したサトルは、違うグループの連中と付き合うようになっていった。ある日、僕は嫌われるのを承知の上で、言ってやった。
「サトル。目立てば人気者になれるとか、モテるとか思ってないか」
「何だと?」
「だからさ。カッコばかりつけてないで、もっと男らしくなれよ」
「うっせぇ。ヒトシごときになにがわかる」
「心配してやってるんだろが」
「俺のなにが気に食わない」
「いろいろだよ」
「言いがかりつけるなら、石村を呼ぶぞ」
「あの柔道部のか」
「そうさ。柔道とケンカのめっぽう強い番長、石村だ」
「そんな、困るよ」
「石村がマジで怒れば、ヒトシなんて半殺しだからな」かつての友人はひどい言葉を浴びせた。
石村というのは柔道部員で、サトルを迎え入れた不良グループの一員だ。付き合う友人が違ってきたら、これほど無視できない態度にでるのか。落胆した。正直、どうしようもなかった。僕は素のサトルを知っていたつもりなので、いまの温度差に戸惑った。
僕の家はキャベツや小松菜を作る専業農家。一・五ヘクタールの土地いっぱいに植えている。
「さあ、明日からまた収穫だぞ」
日曜の晩、父ちゃんの威勢のいい声が家を明るくした。専用車一台で朝から日暮れまで一日がかりで、何日もかけて行う。収穫期には、学校から帰ってくると、野菜の選別、箱詰めといった作業を、家中みんなでやった。家には両親と僕、爺ちゃんの他に、天音という妹がいて、妹はスポーツ万能だった。兄としては、爺ちゃんの代から住み続ける、色褪せてくたびれた家から、将来のオリンピック選手が誕生するのを切望し、エールを送った。期待の星とは対照的に、農業を継ぐ以外になんの取り柄もない僕だった。
進路を決めるとき、担任の近田先生に進路を相談した。
「先生、K町や地域の役に立つ仕事は、どんなのがありますか」
「まず役場の職員か教員。あとは福祉関係。資格取らないとな」先生は答えた。
一方で、気象予報士を目指してみたいと伝えると、近田先生は、
「上野の成績では無理。家業を継ぐのも悪くないんじゃないか」
農業か、気象予報士か。どちらかで悩んだ。なかなか答えを出せない自分がいた。
ある日、運命を決める一日が訪れた。テレビで見たあの芸人が、K町を生中継の取材で訪ねてきたのだ。
「表舞台での仕事にあぶれたのだろうな」父ちゃんは哀れんだ。
僕は授業中だったので、後になって知った。母ちゃんがその番組を録画していた。映っていた芸人と父ちゃんの台詞を聞いて、農家を継ぐ決意を固めた。
ホラードンキーは、VTRの中で道の駅を訪れ、K町の名産品をいくつか紹介した。その後、車で移動し、辿り着いた先が取材を申し入れた上野家だった。
父ちゃんと母ちゃんは僕に知らせてなかった。後で録画した番組を見せられ、最初は驚いた。
あまりに鄙びた家の佇まいに恥ずかしさを覚えた。仕事の合間に取材用のカメラを回され、野良着姿のままの父ちゃんと母ちゃんが画面一杯に映し出される。彼は父ちゃんに、
「お父さん、仕事の良さはなんですか」
と訊ねた。照れ笑いを浮かべた父ちゃんは、すっかり上がっている様子だった。事前の打ち合わせを無視し、アドリブでこう言った。
「都会で頑張る人にふるさとの食べもんを届ける。それがオレらの仕事、誇りです」
父ちゃんは胸を張った。間近で耳にしたホラードンキーは戸惑い気味だったが、背筋を正した。
「K町には他に引けを取らないキャベツや小松菜があります。わたしの芸も及びません」
都会の有名人が思わず脱帽したので、僕はビックリした。感慨を深めた僕は、身をもって農業で生計を立てるのを決めた。
K町の野菜。農業。自然。
ふと、都会に出るというサトルを思った。「ふるさとの良さ」を忘れていやしまいか、と。畑を見下ろす御伽山が、今日はひときわ雄大に構えていて、立派で頼もしげだった。
(了)
97◆若き日のミッチェル
あなたはここに来た。そして、こう言った。
「もう、きみとは暮らせない」
母は怒った。
「なんですって!」
「だからここを出ていくよ」
「ちょっと待ってよ」
待てと言われて待つほどなよなよした性格のあなたではない。あなたは玄関で靴を履き、とっととドアを開ける。
しかし、ドアの外に出るのを躊躇った。母を愛していたからではない。外が大雨だったからだ。傘も持たずに、ここに来たのをあなたなら、きっと自身を呪っていただろう。間違っても、この家の住人に、
「悪いが、傘を貸してくれないか」
とは言うまい。強情なあなたのことだから。
若いとき、あなたは、きっとそういう光景を見てきただろう。
そう、そのとおり。あなたは僕に見抜かれていた。すべての所作と癖と性格を。
あなたは、やっと僕の前に本当の姿を見せた。
「やあ、初めてだな。きみと会うのは。いや、どこかで会ったっけ?」
あなたは、自分以外のすべての人に向かって、語りかけるときに、「きみ」という癖が抜けなかった。自分以外のすべての人を「きみ」と呼んだ。教師とはそういう生き物なのだろうか。家族にさえも、相手に話すときは、「きみは……」と言うのが僕には可笑しかった。
数分前にすれ違った子どもに対しても、「きみ」だし、きっと天皇にお目にかかっても、「きみ」だろう。そのときの「きみ」は、主君の「君」とあなたは心の中ですり替えているに違いない。とにかくそれは、まるで、相手のわずかな部分にも光を見いだし、尊敬の念を持ってしゃべっているのだと思わせるような口調だった。
あなたは、自分以外の人間を評価するのに人生の大半を費やしてきた。そう、あなたは教師だったから。
教師にとって、僕や母より、赤の他人の評価がいちばんの関心事であり、仕事だった。哀しいことに、あなたという人は、それを私的な場面でもそうした職業癖が抜けなかった。
あなたはもうこの世にいない。黒い縁取りの写真の中から、僕に語りかけてくるだけの存在だ。
あなたは仕事についても、自身の人生についても多くを語らなかった。愛すべき隣人や、友人の話ばかりを選り好みして聞かせた。僕はそれを聞き流すうちに、どうしてあなたはあなたの過去や恋愛や仕事について語ろうとしないのか、不思議だった。
「こういうときは、こうすればいいからね」とか、「きみはそんなことをしていたのか。ぼくはびっくりしたよ」とか注意を与えたり、感想を漏らしたりする受け答えが多かった。
けして自分の身の上話をして、教師の失敗談をあからさまに僕に話すなどということは好まなかった。
だからなのか、嫌いな野菜とか、好きな女優さんとか、つい最近まで知らなかった。
教師は生きる手本だ、とでもあなたは思っていたのだろうか。
話は戻るが、「きみとはどこかで会ったっけ?」は実に都合のいい誤魔化し方だ。相手の名前が頭に浮かばなくなってしまっても、一生「きみ」で始まり、「きみ」で終わるからだ。
あなたの本当の姿――。それは、たくさんのきみに囲まれて、にこやかに笑う、アルバムのあなたが、いかにも言いそうな台詞の影に隠された羞恥心そのものだった。 〈了〉
#98-#100
#98 ・・・・・・ ●迷羊も老鼠に
#99 ・・・・・・ ●窓の向こうに光る円盤
#100 ・・・・・・ ●謎めく遅延
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◆迷羊も老鼠に(#98)
「ゲーム、お好きですか」石盛はゲームセンターで、中年の女に訊ねた。
「ええ。スロットが好きで」
「会社員ですか」
「販売ですよ」
「私がここへ来るのは、決まって仕事がはかどらないときです。未年生まれでね。迷える子羊。子羊でも、ときどきゾンビを演じたくなるときがある」
中年女はフフッと笑い、連れの女の方を見た。
「じゃあ、また」
石盛は中年女に手を振り、別のゲームを探した。彼は会社勤めのプログラマーである。
あるとき、またゲームセンターに来た。そこに品の良さそうな紳士がいた。大学教授風である。その紳士は、実際に大学の教授だった。彼は石盛にこう言った。
「あなたは迷羊です。羊は大勢で群れている。だから、出口を探してもむだ。どのみち、迷うものなんです。心配なさらなくてもよい。ちゃんと羊飼いが現れて、出口へ導いてくれますよ」
と優しく諭した。この言葉は石盛の心を和ませた。
オレは迷羊か。群れときゃ、羊飼いが――。
とりあえず、その晩だけは救われた気がした。
しかし、現実は甘くない。仕事の道のりは険しかった。なかなかはかどらない作業にイライラしては、自分の立てた論理思考の未熟さを痛感する毎日が彼を苦しめ、辛さは日を追うにつれて強まった。
どうしても解決しないプログラムは、その経過と現状を上司に報告し、次のプログラム開発に取り組まねばならない。会社として、製品の納期がある。プログラム開発の期限も切られている。どうしても、完成度が五割、六割の仕事が増えた。致命的なミスに気づいて完成させたものも中にはあった。
ただ、いま取り組んでいる新製品のプログラムは難しかった。従来の考え方では設計基板が大きくなりすぎ、本体に収まりきらないのだ。上司は言った。
「誰も開拓してない問題は、得てして多岐亡羊になりやすいんだ」
上司は石盛の知らない四文字熟語を喋った。
「何ですか? タキボウヨウというのは」
「方針が多すぎて、人が迷うという意味さ。分岐点の岐が多いに、亡くなる羊と書いてね」
上司の説明に石盛は眉をひそめた。
「また羊ですか。もうウンザリですよ、羊は」
彼は羊が悪く言われるたびに、草原で行き先に迷う羊を頭に思い浮かべて肩を落とした。
結局、新製品のプログラム開発は別の人に委ねられ、彼はそのプロジェクトから退いた。けれども、誰一人として、その製品を試作段階まで進めた者はいなかった。
五十を過ぎ、転職を決断したプログラマーは退職願を出した。
主として、若手の設計したプログラムの照査、工程作成、人員計画などに従事していた石盛は、それらを部下に引き継がせた。退職までの残された時間で、若い頃に放り出した難解なプログラムを最後に完成させる決断を下した。
難題が終局を迎えたのは、それからふた月足らずの日のことだった。
「やっと完成した。若き日の挫折も、ベテランにかかれば解きほぐすのは無理ではないな。意外と簡単な解決法があったもんだ」
そのプログラムは、人型自動調理ロボットの中枢に組み込まれ、世間をあっと驚かせた。着眼点がよかったらしい。製品売上部門で一位を獲得し、大成功を収めた。
その功績を受け、社内でささやかな祝賀会が催された。祝賀会では、上司からお褒めの言葉を頂いた。
「あの、不細工なプログラムしか作れなかった石盛くんが、いまや時の人だ。評価は時とともに変わるものだな。我が社の評判も上々だよ」
「ありがとうございます」
「できれば、ずっと会社に残ってほしいんだが」
「それは無理というものです。プログラマーとして年齢的にもう限界だし、管理的な仕事は性に合いませんから」
彼はすげなく固辞した。
徒歩で最寄り駅まで歩き、ICカードで改札口をいつものように通った。
駅のホームで電車を待っているときだった。いつかの大学教授が隣に並んで立っていた。その横には、これもかなり以前になるが、ゲームセンターで見かけた中年の婦人が教授の腕を取っていた。
「あのときの方ですよね」
大学教授は、石盛に気づいた。ややあって、やっと記憶を手繰り寄せ、石盛との出会いを思い出したようだ。
「あなたでしたか」
「二人はご夫婦だったんですね。まいったな」
石盛は頭の後ろをかいた。
教授は一定の業績を残し、定年で大学を退官した、と石盛に打ち明けてくれた。
電車がくるまでの数分間、手短に自分の成功談を話す石盛の目の輝きにチラチラと視線を移した元教授は、かく宣った。
「あなたも、とうとう迷羊から老鼠になりましたな。漢文に記されている通りだ」
そういう漢文があるのか、と石盛は初めて知った。
迷う羊は老いてきたら動きは鈍るが、増えた経験値のお陰で判断に優れる。漢文の一節は、そのような意味を持つらしい。石盛は、羊の干支に生まれたのを誇りに思い、夕焼け空に浮かぶ羊雲を見て目を細めるのだった。 〈了〉
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◆窓の向こうに光る円盤(#99)
窓の向こうに光る円盤なんて、そんなものがあるだろうか。僕は絶句した。
目の前に存在するのは確かに光る円盤である。オレンジ色に輝いていた。正しくいうなら、光を放つ物体が窓の向こうに浮かんでいて、宙に浮いたままで動かなかった。パパに知らせないと家が乗っ取られる。ママはお風呂に入っている。慌ててパパの書斎のドアを叩いた。ドアが開いた。
「大変だよ。そこに円盤がいるよ」
「どうした? アキラ。円盤なんてあるものか」パパは冷静だ。
「本当にいるよ。窓の外にいるんだってば」僕がパパの腕を引っ張る。
「どれどれ」
パパが重い腰を上げ、僕と一緒に居間に向かう。
パパはしばらく考え込むような仕草をして、窓の向こうを指差して笑った。
「馬鹿だな。あれは円盤なんかじゃないよ。居間の丸い電灯が窓ガラスの向こうに映っているだけさ」
パパが念のため、居間の窓を開けて外を確認する。窓を閉めて一部だけついていた灯りを全部点灯させ、続いて全部消してみる。窓の向こうにはなにも光らない。暗い闇に包まれた、周囲の灯りだけの世界だ。円盤に見える正体は居間の電灯が灯り、ガラスに反射していただけだった。種明かしが終わり、パパは僕の頭を撫でてまた書斎に戻る。
なんだ、そうだったのか。僕は少し上気した。僕も窓と網戸を開けて確かめる。そこには暗がりだけで、夜景しかない。いや、待てよ。本当にそうだろうか。円盤はパパが来たのを察知して透明に姿を変え、行方をくらましているのでは。こちらを見張り、パパの中に入り込んで僕を襲おうと待ち構えているのではないか。
僕はひとたび思い込んだら、反証に納得するまでは耳を貸さない。科学の知識がなかった頃、真剣に円盤や宇宙人が攻めてくると信じ込んでいた。僕は小四で、クラスではちょっと変わったヤツで通っていた。自分でもうたぐり深いと思うこともある。
あれから二十年。科学の知識を得ても、なお宇宙人が地球に侵攻すると信じていた。
僕は星の見える丘で暮らしている。星を観測するのが仕事だ。僕には他者に見えないものを見る力がある。それはもちろん、望遠鏡を根気よく覗(のぞ)いて、流れ星や新しい天体を見つけることを意味している。
パパやママはあれからいなくなった。宇宙人に連れ去られたのだ。本気でそう思う。二人は失踪(しっそう)した。宇宙旅行に行くといってロケットに乗り込み、ロケットとともに帰ってこなかった。地球に。僕の町に。
それ以来、僕は家を出た。大人に見つからぬよう、宇宙人にさらわれないよう。こっそりとマスクをつけて昼間に電車に乗った。遠くへ旅して、この丘にやってきた。知らない村に来て、人の住まない家を見つけた。空き家に隠れて生きてきた。パパの銀行口座から金をおろし、一人暮らしを始めた。少し大きくなると、学校なんて通わず、年令と住所を誤魔化(ごまか)し、高校生と偽って犯罪に触れる危険なアルバイトをした。
いつしか、僕の身近なところに宇宙人が現れた。掌に乗れるぐらいの大きさで、まん丸い。薄い緑の体に赤い臓器が透けて見える。手足の区別はない。三本だったり、五本だったりして、気まぐれに体から外へ細いひも状のものが突き出している。そもそも宙に浮いているので足は必要ない。他人が来ると完全に透明になり、姿を隠す。でも僕には、かなりの数の宇宙人が目に映る。前にいったように、他者に見えないものを見る能力が僕には備わっている。そんなことをいってみても、誰も相手にしてくれないのは分かっている。その事実は誰にも漏(も)らしていない。僕は世間との交流より、孤独と科学を選んだ。
宇宙人はせっせと僕の世話をする。掃除や洗濯、料理を遠隔で行う。彼ら自身は裸であり、ものも食べない。宇宙人が小さなひもを指揮者のタクトのように振る。すると、不思議なことに、空き家の電気がつく。からの鍋にみるみる水が増えてゆき、それが瞬く間に沸騰する。汚れたシャツや下着が宙を舞い、洗濯機の中に入り、洗剤が注がれて勝手に洗濯機が動き出す。誰も触らない掃除機が音だけ立てて床のゴミを吸い出す。僕が宇宙人に命令しているのではない。頼んでもいない。きっと地球人の暮らしを理解し、試しつつ実験しているのだ、と僕は思うことにした。
宇宙人はすごく頭がいい。だから、攻めてきて地球を滅ぼすなんて真似は造作ないはずだ。そもそも、知能の高い彼らにとって、地球の滅亡や征服など頭の片隅にもないのだろう。そんな無駄な、非効率の戦争など仕掛けず、ただ人間の文明を観察し、実験しているに違いない。孤独な人に尽くしておいて、円盤に乗せて彼らの住む場所へ連れていくのかもしれない。科学の基本は万事が観察から始まるものだ。宇宙人も科学のやり方に則(のっと)っているはずである。
彼らは大勢で群れているけれど争わない。きっと、けんかもいじめも、戦争も起こらないに違いない。すべてを引き起こす人間という存在を不思議に思い、観察しに来た可能性もある。
宇宙人はここにいる。しかし、存在を証明できない。科学の世界では、証明不可能な説は真実でないと見なされる。僕は考えた末に、宇宙人に関する新しい発見を論述し、発表しようと準備していた。他の科学者が宇宙人の存在する世界を確認できた時、いったいどんな顔をするだろう。それが楽しみの一つで、僕は生きているようなもんだ。
僕は孤独だが、宇宙人のおかげで愉快だった。そう思っていたのが間違いだった。
あんなにたくさんいた宇宙人がある日を境に、プツプツと小さな破裂音を立てて姿を消した。シャボン玉の弾けてなくなるように。どうせまた透明になり、一時的に姿をくらましたか、気まぐれにどこかへ出掛けたのだろうと高をくくっていた。
だけど、どんどん数が減り、すべて消失した。とても心細くなり、あんまりだと悲しくなった。宇宙人は目的を終えて彼らの住み家へ瞬間移動したのだろうか。それとも別種の好戦的な宇宙人によって滅ぼされたのだろうか。
僕は彼らの存在も不在も証明せぬまま、孤独の生活に戻った。
ある時だった。外国の科学者が通訳を伴い、僕の住む村へやってきた。僕は彼を空き家へ招待した。彼は高名な宇宙物理学者で、モル博士と名乗った。
モル博士はとてもいい方で、僕のお粗末な話に微笑みながら、真面目に耳を傾けた。食堂の椅子に座って、僕は宇宙人について知っていることを詳細に話した。
「博士。この家には掌に載るぐらいの宇宙人がいたのです。少し前まで。今はいませんが」
「ほう。興味深い。どうして分かるのです? アキラ」
「僕が手を動かさないのに、電気の来ていない電化製品が動くのです。この動画を見てください」
スマホの動画には、コンセントの挿していないテレビが映り、灯りが明滅し、冷蔵庫のドアがスーッと開く場面が映し出されている。スマホで宇宙人の様子を録画しておいたのだ。さらに、宇宙人の活動を克明に記したノート類も見せた。
「これがすべて真実ならば素晴らしい」モル博士は素直に喜んだ。「私には宇宙人の姿は見えない。消えてしまって残念だ。もっと宇宙人について話してくれ。知っていること、どの時点から存在し、最後に見たのはいつかなどを」
博士が椅子から身を乗り出し、興味津々(きょうみしんしん)な顔つきになる。僕は博士に、不思議な数々の現象、いつそれに気づいたのか、両親が宇宙へ行ったまま戻らない事件まで、通訳を介して話し込んだ。モル博士は偏見を持たない学者らしく、「宇宙人と不可思議な現象についてより深く調べてみたい」と熱望した。馬鹿にされなくて嬉(うれ)しかった。博士の寛容さに胸のすく思いだった。話は夜更けまで続いた。モル博士は僕の家に泊まった。
夜空を見上げ、満天の星を眺めて博士がいう。
「星がとても綺麗だ。あの中のどれかから、宇宙人がやってきたのかな。アキラ」
子どものような無邪気な笑みを浮かべ、僕に語り掛ける。
「ええ。そうだと信じてます」
僕もにこやかに応じる。
朝を迎えた。僕は別の部屋で起き、朝飯を食べた。博士は一向に食堂に姿を見せない。不思議に思い、博士に提供した寝室に行ってみた。ベッドの上には脱いだパジャマ二枚だけがあった。通訳もいない。博士と通訳を捜し回ったが、荷物以外はなんの手掛かりも得られない。心配になり、外に出た。周囲を捜したが、足取りは掴(つか)めず徒労(とろう)に終わった。昼まで待って、警察を呼んだ。警察がやってきて事情を訊かれた。捜索願を出し、警官は帰った。
失意のまま夕方を迎えて、気づいた。博士と通訳は存在を消したわけでない、と。西日の差す部屋で、コップの水滴の中にいた。コップはベッドの脇に置かれていた。ああ良かった、と胸を撫で下ろした。安心して虫眼鏡で覗く。微小な二つの形がくっきりと見える。それは人の形で裸になっている。考えられないが、彼らは確かに水の粒に閉じ込められていた。入っている粒だけは、指でつついても割れない。その光景をスマホで撮った。本来なら、写真データをパソコンにコピーして保存し、記録をつけるべきだ。さんざん捜し回って疲れていた。食事もとらず、迂闊(うかつ)にも水滴のついたコップを洗面所に持ってゆき、そこに放置した。僕はベッドで朝を迎えた。
起床し、寝ぼけていた僕は、コップでうっかり歯磨きをした。気づいた時にはもう遅い。博士らの水滴を呑み込んで口をゆすぎ、水を吐き出した。しまったと思ったが、水滴は排水口を流れ、排水管を通って消えてしまった。僕は博士らの消えた真実を隠した。後日、警察からの問い合わせには、博士の消息は依然として不明だ、と答えた。
僕には、パパやママ、宇宙人、モル博士と通訳の全員が同じミクロの世界に移住して生きているような気がしてならなかった。宇宙に行かなくとも、なにかの拍子で粒に入り込めば、ミクロの世界へ行ける。身の回りで起きた事件に対して、根拠の薄い仮説を立てた。
証明は出来ていない。仮説を実証しようと、あれこれ試した。そのうちに僕も粒に閉じ込められた。やった、と喜んだ。気づくとシャボンの泡の中にいて、フワフワと空中を上昇する。虹色の膜に隔てられて宙をさまよい、飛ぶ鳥につつかれてパンと弾けた。僕は泡とともにこの世から消えた。いや、正確にいうなら、かつて居住した世界から見えないぐらいの極小の世界に移動した。そんなところへ行くなんて予期していなかった。怖くはなかった。未体験の世界に入れて、むしろワクワクしていた。
ミクロの世界は不思議だ。光も重さもない。神秘的な現象があちこちで普通に起こっている。もし、町中で芸術的な落書きをする路上画家がこちらに来たら、感動のあまり何十枚も絵を描きたくなるだろう。そんな世界に僕は住み始めた。まだパパやママ、宇宙人と博士らには遭遇していない。孤独だった僕は、ここでも愉快に過ごしている。掛け値なしでいえることは、摩訶不思議な世界に僕が生きているという事実である。
さあ、窓の向こうに光る円盤を見つけたら、風変わりな楽園に来てご覧なさい。 〈了〉
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
◆謎めく遅延(#100)
羽佐間賢治
「電車、まだ来ない」
携帯で時刻を確認した。腕時計も同じ時間をさしている。午後十時半。
今夜は水凪と居酒屋で盃を交わした。五年ぶりの東京で、正確に来るはずの電車は遅延していた。
「珍しいな。俺は関西の人間だが、東京でもときどき電車は遅れるのか」
まあ、いいやと暢気に構えた。
「ちょっと、そこ、のきなさい」
甲高い声が背中越しにする。
振り向くと、黒い和服の女が千鳥足でやって来る。地下鉄の線路に柵がなければ落ちそうな、おぼつかない足取りだ。
「迷惑な客だ。無視しておこう」
携帯を指で触り、画面に没頭した。
「おや。千代田線は三十分も遅延。ちぇっ。どうしよう」
他の地下鉄に乗り換えるには、この駅からだいぶ歩く。地上に出て冬の寒さに体をさらすのは厄介だった。せっかく酒を飲んで温まった体である。あまつさえ、酔って気分もいい。
「もう少しの辛抱だな」
そういえば、さきほどの居酒屋で、水凪が口にした台詞。
「なんといっても、人間、辛抱だぜ。行き場がなくなっても、じっと待って、考える。どこかに出口はあるぞ。それを待てばいいだけだ」
水凪か。いいヤツだ。ふと、何かが体に触れている。振り向くと、黒の和服の女だ。
「ねぇ。あなた、お金持ち?」
「あっちへ行け」
邪険に扱った。
「この、バカ」
女が罵る。
「どうも、すみません。その人、私の連れでして」
謝罪の言葉は、女の知り合いの男か。
「ごめんね。いつか、また」
女は急に愛想よく笑い、男に引っ張られて離れた。
変な女だ。気分を害し、よけいに携帯の画面を凝視した。ニュースサイトの最新記事にあったのは、有名女優の死亡。風呂場で亡くなったらしい。
有名女優に関するサイトをいろいろ見ていて、時を忘れた。
「まもなく、一番線に電車が来ます」
列車到着のアナウンスが耳に入り、我に返った。
ようやく、電車が来るのか。やっと、遅延から解放される。早く、ホテルに着いて熱いシャワーを浴びたい。
電車に乗り込み、ホテルの最寄り駅で降りた。
東京も変わっちまって。いいのやら、悪いのやら。
長く歩いて、ホテルに着いた。
エレベーターの七の数字を押し、七階で降りた。
数字を打ち込み、ドアロックを解除した。
「え?」
「旦那様。お帰りなさいませ」
一度、ドアに戻り、部屋番号を見返した。私は酔っているのか。和服の女。千鳥足の女。
ここは、たしかに私の部屋である。
「だれだ。あんたは」
「私は呼ばれて来ました」
「俺は頼んでないぞ。マッサージなんて」
「マッサージではありません。その手のいかがわしい者でもない」
「では、だれだ? 何しに入った?」
訊いて当然である。
「私は占い師。旦那様にお告げをしに参りました」
「は?」
「は、ではない。先ほど、未来が知りたいと仰せだったでしょ?」
「え……。もしかして」
「そう。居酒屋で、ご友人と飲んでいて。『俺の未来はどうなってるんだろう? 知りたいよ』と嘆いておられた」
「たしかに。それは今夜の俺の台詞。どこで、聞いた」
「同じ店にいたのです」
「そ、そうか。よく、分からん。で、どうしたい」
「ですから、占ってみます。旦那様の未来を」
「俺の職業は?」
試しに訊いてみた。
「プログラマーですね」
「ほう。分かるのか」
「造作なきこと」
「まあまあだな。他には?」
「私も多忙です。本題に入ります」
「俺の未来はどうなる?」
「あなたはメイヨウよ。迷う羊と書いて、迷羊。羊は大勢で群れている。だから、出口を探してもむだ。どのみち、迷うのです。心配なさらずとも、ちゃんと羊飼いが出口へ導いてくれます。何も憂うことはありません」
女は平然と断言した。占いの女にしては、ずいぶんと親身だ。
「そうか、迷羊といわれてもな。まあ、いいだろう。いくらだ?」
「お代はいりません」
「タダで占ったのか」
「そうですよ。不満ですか」
「そうではないけれど。まあ、いいだろう」
「では、失礼」
女は和服を押さえ、お辞儀をして外へ行こうとした。後れ毛が妙に色っぽかった。
女はドアの向こうに消えた。心なしか、足が霞んで見えた。
「俺は迷羊か。群れときゃ、羊飼いが――」
水凪に言った愚痴なのに、見知らぬ占いの女に慰められた。とりあえず、その晩はぐっすり眠れた。
「石盛室長。管理表、ミスしてますよ」
中堅の社員から文句が出た。データの誤りを指摘された。
「年上だから強く言いませんが、しっかりしてくださいよ」
「ああ、すまん。小さい数字、見づらくて、つい」
現実は甘くない。羊飼いなど、出てこない。少なくとも、その会社に在職しているかぎり、自分で道を切り開かないと、だれも代わりなどしてくれない。
時代は変わって、残業や飲み会は減った。
自宅に戻っても、する仕事などない。そもそも、会社のプログラムのデータは特殊なコードがかかり、業務外では持ち出せない。
本屋で買った、数独のパズルを解くくらいが、私の唯一の楽しみだった。
妻はパートもやめ、今は専業主婦だ。地域の公園の花の世話にいそしんでいる。
定年を前にして、最後の難題を解いた。若手社員の直せなかったプログラムのバグを、鵜の目鷹の目で探し出した。二年がかりで、膨大なプログラムソースを探し、ようやく入り組んだミスを正せた。
「石盛さん、ありがとうございます。助かりました」
「やれやれ。これは、本来、俺の仕事じゃないぞ。頑張ってくれたまえ」
そうだ。そうなのだ。今の石盛忠道の仕事は、プログラムを作ることでも、ミスを修正することでもない。それは私にとって、好きな部類の仕事だったが、すでに私の手から離れていた。中間管理職であり、若い人間の工程管理、会議の出席と会議での意見の取りまとめなどに追われた。たまたま空き時間があり、業務外で残業し、手伝ってやった。それだけのことである。
やりがいの少ない仕事の時は、無情に過ぎていった。
何度も似たような景色が流れ、気づくと八回分の春夏秋冬が過ぎていた。
サラリーマン人生で最後のボーナスがもらえる月に、給与は遅れた。まさかの遅配。
「ごめんなさい。私、ちゃんと給与アプリで振り込んだです。でも、なぜか、石盛さんの番号だけは、振り込みのボタンが押せず、エラー表示になって」
「しかたない。給料日に間に合わなくても、あなたの責任じゃないから」
私は経理課の女の事務員を許した。給与計算ソフトで全社員の給与額をチェックし、ギリギリ定時で上がりたかったらしい。エラーの原因は不明で謎だった。週明けに、きちんと振り込めた、と社内メールが来た。数日の遅延で、ボーナスを含めた給与は、無事に携帯の電子銀行口座に振り込まれた。
来年の春で六十五──定年退職を来春に控えた師走の日、彼は、八年前と同じホテルに泊まった。
「今夜は特別な晩だ。いいだろう。妻と二人して、定年祝いの宿泊くらいは」
実際、ホテルでデイナーを味わい、妻は機嫌良く隣のベッドで寝息を立ている。自分のしてきた苦労を思えば、横で眠る伴走者の首の一つや二つ、絞め殺しても許されるだろう。実際に、殺人するわけではない。それでも、苦楽を共にし、長い人生を歩んできたパートナーがあってこそ、会社員として無事に勤め上げられた。そういう感謝の気持ちもあった。
何とはなしに、缶ビールが飲みたくなった。
エレベーターに乗り、一階まで降りた。
「あっ。あのときの女」
女も気づき、会釈した。八年前と同じ、黒の和服。
「あのときの占い師か」
女を指さした。
彼女は気にもとめず、和服の乱れを気にする素振りで外へ出て行った。
「あの占い師、まだ同じことをしてるのか。それにしても、無料で占って、何が楽しい?」
翌朝、テレビでニュースを見た。
「八年前、東京の地下鉄で和服の女性が亡くなりました。銀座のホステスです。犯人はまだ男は見つかってません」
アナウンサーの声が硬い。
「え?」
間髪を入れず、遺族の男が答えた。
「妹は銀座で仕事中に、だれかに呼び出されて会いに行った。その帰り道、千代田線の某駅で見知らぬ男に柵の上から線路に放り出された。電車の犠牲になりました。男はカメラに映ったものの、覆面をしていた。まだ男は捕まってない。犯人を憎みます」
あのときの女が死んだのか。死亡が遅延の原因? では、駅で見た和服の女は幽霊で、八年前にホテルにいた占いの女も幻なのか。
私は、まさかと思った。遅延と迷羊。遅いという漢字には「羊」がある。謎だ。
「あ。『謎』にも『迷』の字が含まれている。謎めく遅延。迷の羊。どういう偶然だろうか」
神の見えざる手により、私は謎めく遅延とその晩のホテルの占いに形而上の一致を見出し、八年前の歳末の光景に首をひねるしかなかったのだった。 〈了〉
万花物語 #91-100