万花物語 #91-97
#91-97
万花物語 ・中 ~短編フィクション拾遺集~
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#91-120(第一部)
●女森(めもり) ●アデュー ●コウシュウ○○
●マカレ ●冬の変心 ●ふるさと
●若き日のミッチェル ●
● ● ●
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91◆女森(めもり)
ユウサクは朝起きて、樹木になっていた。老女は、枝が人の指のようだわ、とにんまり笑った。背後に、若い女たちが今か今かと待ち構えていた。
ヨットで海を旅していたC国の男が孤島に流れ着いた。何も知らない男は、浜から岸へ上がった。奥深いジャングルを進んで島の中心部を目指し、村に辿り着いた。見る人、みな女ばかりだ。幼い女の子、少女、若い女性、中年女性、熟年女性、老女。女性しかいなかった。怪訝に思った男は、村のはずれを通りかかった老女をつかまえて、訊ねてみた。幸いなことに、言葉は世界共通になっていた。
「あの。ユウサクと申す旅人ですが」
「よその方ですか? 久しぶりだわ……。ここへは何をしに?」
「世界を放浪して、各国の文化を見て回るのが目的です。ここには女性しかいないのですか?」
「そうです。ここA国には、女しかいないんです」
ジェンと名乗る老女は数寄なA国の暗い歴史を語った。二十一世紀末に打ち上げたロケットで、国の男はすべて残らず、食糧を求めて地球から五光年離れた惑星Qへ移住した。当然、女や子どもを呼び寄せるつもりだった。が、到着後、ロケットの燃料が漏れ出て、帰れなくなった。それ以来、国には生身の男が途絶えた。地球の温暖化で二十二世紀の環境は激変。A国は、草木が生い茂り、獣の闊歩する未開の孤島になった。町は荒れ果て、たったひとつの村だけが残った。女たちは石塀を築いて引き籠もった。老女は、それから、と一息ついた。
「それから、大変な事態になりました」
「何が起きたんですか?」
「A国は孤島です。男衆がいなくなり、戦乱が続きました。力士のように太った女番長が戦に勝ち、実権を握って統治するようになったのです。その際、絶対服従の女性独裁憲法を作りました」
「女性独裁憲法?」
「はい。女の、女による、女のための憲法です。A国は民主主義とは程遠い軍事政権です」
「そうなんですか」
ユウサクは気後れがしてきた。ジェンはなおも話を続けた。
「この国を統治する女番長はデュラという名ですが、俗に『スケ貴妃』と呼ばれております。デュラは高度な科学を進歩させ、国を発展に導きました。因みに、この村のことを女に森と書いて、『女森(めもり)』とおなご衆は称します」
女森、軍事独裁政権、スケ貴妃デュラ。いったいどういう国だろうか。ユウサクは戸惑いと不安を隠しきれなかった。ジェンはそれを見て取り、安心させるような言葉を並べた。
「独裁といっても至って平和です。よそから攻撃を仕掛けるような事態はいちどもあった試しがないんですから。それに」
「それに?」
「よそからのお客様は、特別な活動をなさるのが習わしになっておりますので」
特別な活動。なんだろう? 話が見えてこない。とりあえず疑問は横に置き、ユウサクは訊ねたいことをぶつけた。
「女の人はみな満足しているのですか?」
「ええ、それは、それは。楽しみがありまして」
「楽しみとは?」
「毎年の十月、五番勝負の大会を行います。年齢制限はなく、A国民なら誰でも応募できます。『料理』、『着付け』、『舞踊』、『歌唱』、『おもてなし』で決します。よそからの方は、随時、リョッカツにも取り組まれております」
各種目は、昔の本で読んだ、遠い島国の風習のように思えた。ユウサクはその国の名が思い出せなかった。リョッカツ? 耳慣れない言葉が引っ掛かった。
「リョッカツとはなんですか?」
「それは、実際にユウサク様が体験なさったらよいかと」
彼は何かの活動だろうと思った。それはさておき、オレも「おもてなし」を受ける立場にあるのか。ユウサクは喜んだ。長旅で空腹のユウサクは、喜びの余り、リョッカツの大切さを甘く見ていた。化粧を整えたキレイな着物の女将が姿を現し、特別に接待してくれる。ジェンの口ぶりから、きっと素晴らしい饗宴が繰り広げられると想像した。ただ、太った女番長デュラの存在だけが気掛かりだった。
ジェンに案内され、正面にそびえる館へ入った。ジェンのあとをついていき、大広間に通された。新種の四次元空間パネルでは、来月にB国の首脳がA国を表敬訪問する文字ニュースが、途切れなく左から右に流れていた。ユウサクは周囲を見回した。建物は、高いドーム状の天井に大理石の床だ。
しばらくして、泥鉄砲の余興が始まった。群衆はざわめき出した。なにかが始まる予感がした。黄金色に光る金属装置が広間に登場した。タイヤのついた装置は自走を始め、猛スピードで動き、上面に着いた円筒から泥団子をビュンビュンと噴射した。泥鉄砲は動きの鈍い女性らを狙い、泥団子が当たった女性は後ろへ下がった。参加者は赤ヘルメットに青の盾でよけ、泥団子をよけて動き回った。
「さあ、一緒に余興をやりましょう」
ジェンに促され、ユウサクはいわれるがまま参加した。縦横無尽に高速で動き回る装置に素早く反応し、盾で凌いだ。女性らは次々と泥の餌食になり、退いた。参加選手は一人減り、二人減り、気づくと、二人のみが残っていた。
スケ貴妃デュラとの対決となった。これがデュラか。金色の、怒髪天を衝くように逆立った頭髪。顔は真っ赤。でっぷりと太ったいかつい体。こいつと対戦するのか? ユウサクは溜息を漏らした。館内は黄色い声に包まれ、熱気は絶頂に達した。
デュラに勝てば、オレはA国の支配者になれるのか。そう思うと俄然やる気が出た。必死に動いては泥団子をよけ、デュラの背後に回り込んだ。しめた。この女を盾にすれば。慢心した。デュラは体型に似つかない身のこなしで瞬時にバック転を決めた。あっと叫んだ。見上げた途端、彼に隙ができた。装置は左に回り込み、泥団子がユウサクに命中した。銅鑼が打ち鳴らされ、余興は終了した。
「フハハハハ。わたしに勝とうなど、十年早いよ。男なんかに負けるもんか」
優勝のデュマは、決め台詞を吐いた。デュラはジェンに意味深な合図を送った。汗をかき服が汚れたユウサクは、別室に連れていかれた。
おもてなしの宴が始まった。白い着衣に着替えると、八角形の間に移動した。赤い絨毯の上にテーブルがあり、それぞれに趣向を凝らした豪華な料理が載っていた。箸と皿を給仕に手渡され、立食で食事を楽しんだ。大きな開口部には庭が見えた。庭では、月明かりを浴びた踊り子たちが優雅な東洋風の調べにのせてゆったりと舞いを演じていた。これが本物のもてなしの時間か。ユウサクは堪能した。
その晩、客室に泊まった。寝る前、女中が水差しを持ってきた。喉の乾いていたユウサクは一口含み、床に入った。
樹木になる最悪の日、夢見心地で朝を迎えた。昨夜の余興と饗宴を思い返そうとした。が、なにをしたのか思い出せない。頭のメモリ(記憶)が空っぽになった。女森、めもり、メモリ……。めもりとは、はて、なんのことだったか……。そう思ったが最後、気づいたときには手遅れ。顔全体が小さく縮み、頭頂部は先細りし、尖り出す。頭髪や体毛は見る見るうちに伸びて繊毛に、手は葉っぱに、足は根っ子になった。ユウサクの体は小さな樹木へと変身してしまった。
起きましたか? ジェンが顔を出し、ニヤリと笑って舌を出した。ジェンは女中を呼び、短刀で樹木の幹を削り取らせた。露出した切り口に、「M―y8635」と赤ペンキで識別番号を書いた。ジェンは樹木を蹴り飛ばし、森の中へ運べ、と命じた。その日の文字ニュースは、A国の緑化政策推進により、地球温暖化の緩和に役立っているとB国外相が国際会議で称賛する発言を流していた。A国の取り組むリョッカツとは、訪問者の忌避不能な「緑化活動」のことだった。
樹木はいまも、人気ない森の一画にひっそりと植わっている。ジェンはデュラに耳打ちした。もうすぐ森で、「子孫の実」が成りますよ、と。
92◆アデュー
私は知らない館へ招かれた。いや本当は違う。気づくと森を抜け丘の上に来ていた。暗闇の丘は風もなく、静謐そのものだった。館の中から、どうぞお入り、と微かな声が聞こえてくる。重たい扉を開け、広間の板張りで立ち尽くした。黒猫がたくさんいる広いお屋敷だった。壁にはまばゆいランプがいくつも灯っていて、踊り場が二股にわかれた大階段は二階へと続いていた。
「ようこそ。当館へ」
猫のような顔の貴婦人がうやうやしく一礼して出迎えた。その婦人に先刻からじゃれついていた黒猫が黄色い瞳を光らせ、こちらの足元にすり寄ってきた。
なぜか頭がスースーし、見上げたら星空が広がっていた。天井も屋根もなく、満天の星が降ってきそうだった。猫が話しかけてきた。
「そうだよ。うちには屋根がないのさ。壁と床だけ」
猫は瞳で私の心を読み解いているのだと察した。
「雨は? 風や嵐は?」
「ジマ様が呪文を唱え、雨風を弾くんだ」
「誰?」
「ジマ様だよ。目の前の貴婦人さ。ジマ様は耳が遠い。おれが通訳する係さ」
「あなたは、なんていう猫?」
「ああ、おれか。おれはニトラン。よろしくな。いっとくが、他の猫は人間の言葉を理解できない」
「そうなの?」
「ああ。気持ちを感じ取るのはできる」
「どうやって私はここへ来たのかしら?」
「きっと匂いに惹かれて辿りついたのさ。ここは人間世界と違う匂いで包まれた丘だからな。猫の匂いに敏感でなきゃここには辿りつけない。ここに来る前、森で迷ってたろう。大きな欅の洞に手を突っ込んで匂いを嗅いだよな」
「どうして知ってるの?」
「猫は匂いに敏感だ。欅の洞を嗅ぐのがこちらへ入る唯一の手だて。匂いが鼻腔から脳の通り道へ旅するあいだに、意識が抜けてこちらへ漂着する。匂い成分が意識を猫の手座まで飛ばすのさ。知らなかったか」
「知らないわ、難しいもん。猫の手座っていう星座なの?」
「ああ。銀河の端の猫の手座。そのアルファ星の小さな丘に、いま君はいる。地球の森にある欅とこの丘は空間的に表裏の位置にある。君が来たことで空間がよじれ、メビウスの帯になった。表裏がつながったのさ」
「もっと難しいわ」
「まあ座れよ」
ニトランはうながした。私が樫の木の椅子に腰かけると、ジマ自らハーブティーをテーブルのティーカップについでくれた。
「どうぞ、おあがり」
その手が招き猫のような手つきだったので、私はフフフと笑った。ジマはさっきまで微笑んでいたが急に神妙な面持ちになった。
「もうすぐあの世へ旅立たねばなりません。この館のことをよろしく頼みます」
いきなり私に後継を託した。急に頼まれても困る、と思ったが、たくさんの黒猫がいつしか取り囲んで足を舐めてくるので断れなかった。猫は好きだし、友だちも少なかった。まあいいかと開き直った。
「分かりましたと伝えて」
ニトランに頼んだ。言葉を伝え聞くと、ジマは元の和やかな表情に戻った。
夜空の闇が消え、天井の空が白み始めた。夜明けとともに虹が出た。ジマはふわりと宙に浮き、七色の虹に吸い込まれるようにして色と影形をなくした。
「君がこの館の女主人になった」
ニトランがいった。地球の友へ伝言をしたいといったら、自然と頭に呪文が浮かんできた。呪文を唱え、最後にアデュー(さよなら)といった。
「ハーブティーの匂いを嗅いで、意識を地球へ飛ばせ」
ニトランはにわかに告げた。それで地球と友人に別れを告げたことになるという。つながっている表裏の空間も切れたらしいが、不思議となにかを失う感覚はなかった。新しい場所でニトランや猫たちに囲まれ、自適に暮らす毎日を想像したら、笑みがこぼれた。
ふと体の変化を感じた。肌と体毛は黒くなり、背中が丸まった。耳がとがり、尻尾のない猫人間になった。
93◆コウシュウ○○
わたしは喫茶店で働いていた。働きはじめて間もないのにクビになった。
大学の授業が終わり、ずっと考えごとをしていた。バイト中も考えにふけっていた。給仕係としてお盆にアイスコーヒーとケーキを載せて運んでいた。
もう少しでテーブルに、というとき、トイレに立った別の客とすれ違った。その人をよけようとして身をかわした。そのときバランスを崩した。目の前に座っていた客に、グラスのアイスコーヒーをぶちまけてしまった。
「ああ、もぉ!」
紫のブラウスに白のコサージュをした年配の婦人は、不快な声を発して立ち上がった。
「す、すみません。すぐにふきますので」
「もういい。帰ります。二度と来ないわ」
婦人は憤慨して、千円札をバンと机に叩きつけ、帰ってしまった。
一部始終をカウンターの中から見ていたマスターは、
「困るよ、ミチルちゃん。どうしてあんな失敗をするの。こぼすなら床だけにしてくれ」
と言った。腰に手を当てて片手をカウンターについたまま、しばらく沈黙が店を包んだ。
「明日からもう来なくていいから」
わたしは何も言えず、落ち込み、次の日からバイトを欠勤した。辞めますという電話一本すら入れられなかった。それで事実上クビになった。制服はクリーニングに出して、父に事情を説明し、店に届けてもらった。
元はといえば、今朝からついてなかった。
その日の朝、自宅近くの道を歩いていて、マンホールにつまずいた。そのときはつまずいた失敗を深く考えなかった。
大学の講義の始まる前、マンホールで朝つまずいたと千佳に話した。
「ミチル、どんくさいからなぁ。私、マンホールなんかでこけたりしないよ」
「だって急いでたんだもん」千佳にからかわれ、言い訳した。
「ミチルの靴はこけやすいんじゃないの? ヒールなんだから、歩くときデコボコをよけなきゃ」
「わかったよ。気を付けて歩くわ」
すぐに別の講義が始まり、教官が現れた。教壇に上がるとき、彼もつまずいた。
「あの教官もこけたね」
千佳は小声でにやけた。つられて笑いそうになり、こらえた。
昼休み、食堂まで歩いた。人はどうしてこけるのかで千佳と話が盛り上がった。
「こけるってことは、下をよく見てないんだよ」
「そうか。でもさ。思ったより高かったり、低かったりするとやっぱつまずくよ」
「そんなことない。ミチルもあの教官も鈍いんだって」
「そんな言い方ないんじゃないの」
ふて腐れた。二階にある食堂へ続く階段にさしかかった。わたしはまた階段でこけた。千佳はケラケラと笑った。人はなんでこけるのだろう。真剣に悩んだ。
午後、大学を出てバイト先の喫茶店へ向かった。そして、最低な失敗をしでかしてしまった。
わたしはほとほと自分に愛想をつかした。わたしがわたしでいることをやめたくなった。もっと注意できる人に生まれ変わりたい。本気でそう願った。
アルバイトを辞めてから数日のあいだ、大学の講義をサボって地下鉄に乗った。ちょうど五月の連休明けで、気分がけだるかった。二駅前で降り、公園のベンチに座り、毎日くつろいだ。嫌気がさし、失敗を早く忘れたかった。たまたまその日に限り、公園の清掃婦が落ち葉を掃いていた。ベンチの近くまで来て、ふと足を止め、屈んで囁いた。
「お嬢ちゃん。生まれ変わりたいんでしょ」
「どうしてそれを」
「フフフ」
彼女の口から漏れ出た笑いが不敵に聞こえた。
「コウシュウに参加しなさいな」
「コウシュウ?」
「そう。〝成功するコウシュウ〟」
そう言い残し、清掃婦はまた忙しそうに向こうを掃き始めた。
講習? 公衆でも、口臭でもなく?
「きっと講習だよな。お金もかかりそう。そんなもの金欠のわたしには関係ないさ」
ブツブツ呟いて空を見上げた。空を横切る大きな飛行船が目に入った。目のいいわたしは、少し遠くの飛行船の、胴体に書かれた文字を読めた。
あなたも参加しよう! コウシュウ――。
清掃婦の言う〝成功するコウシュウ〟って、これのことか。勝手に妄想した。成功する講習。その講習に参加すればだれもが成功するとか。あるのかな、そんな講習。参加が無料なら見るだけ見て、こっそり逃げちゃおうか。とにかく好奇心に駆られた。
地上に目を移すと、飛行船を見上げた人なのか、列を作るようにして人々がどこかへ歩いていく。このまま現実逃避していてもなにも変わらない。そうだ、わたしは生まれ変わりたいんだった。行動しようと腰を上げ、わたしも人々の列に加わった。そのときは気づかなかった。コウシュウのあとに続く文字が飛行船の裏まで続いていたのを。
巨大なテントが向こうに出現した。テントの中へ人の行列は吸い込まれていく。長蛇の列だ。あれがおそらく会場なのだろう。人の列にまぎれ、わたしもテントに入っていった。
テントの中にパイプ椅子がたくさんあった。人々は次々に椅子に座り、空席を埋めていく。
やがて、開始のベルが鳴り、一同は静まり返った。中央の演壇にスーツを着た紳士が現れ、一礼して話し出した。
「みなさん。こんにちは」
話の本題は紳士の人生の失敗談だった。武勇伝や自慢話ならつまらないから途中で中座して帰ろうと思っていた。が、わたしも周囲の人も、紳士の巧みな話術と身振りと顔つきに、腹を抱えて何度も笑い声を上げた。講演のあいだ中、始めから終わりまで抱腹絶倒の連続だった。
結局、講習とは、失敗をたくさんする紳士のような人は人生の引き出しがたくさんできてかえって幸せだ、といった内容だった。
笑い過ぎて出た涙をハンカチで押さえながら、会場を出ようと出口へ向かった。
なぜか出口には、ピンク色の電話が置いてあった。机に数台並べられている。人が順番に電話を掛けていた。そばの係員がなにか喋りながら、帰る人をその電話に誘導している。いったいどうして電話などと思い、無視して通り過ぎようとしたら、
「すみませんが、ご感想をこの電話でお話しください」
と係に呼び止められた。
「なぜ感想を? だれに話せと」
「この電話は、あなたのいちばん話したい相手につながってます。ほら、早く」
急かされて焦った。隣の人は嬉しそうな顔をしてピンク色の電話で話し込んでいる。とにかく後ろが待ってるし話すとするか。
「もしもし、わたし」
「ああ、ミチルちゃんね。おばあちゃんよ」
「ああ、ばあちゃん。今日ね、面白い話をいっぱい聴いてきたの。あのね……」
さっき聴いた講習の中身を思いつくだけ振り返って母方の祖母に話した。
「ああ、そう。よかったね、ミチルちゃん。さぞ面白かったでしょう。心がスッキリしたでしょう」
「うん。とっても」
「じゃあ、気を付けて帰るのよ」
「うん。じゃあね。ばあちゃん、バイバイ」
ピンク色の受話器を置いた。お金はいらないらしかった。すぐに後ろの人が受話器を手に取った。
あとで家に帰って思い出した。あれ。母方の祖母は二年前に亡くなったはずだよな、と。ちょっとした怪談のようで、半分だまされたような、ちょっと恐いような気分になった。
コウシュとは、講習会か、はたまた公衆電話なのか。それもよく調べると、ピンク色の電話は喫茶店などにしかないものだった。その店の中にある代物らしい。その話は、千佳にも家族にも、だれにも言わなかった。
でも、その日以来不思議に大きな失敗をしなくなった。なんだか、あの紳士か、電話の向こうの死んだはずの祖母が、すべてのわたしの失敗のもとを吸い取ってしまったようだった。
大学卒業後、文系だったわたしは、なぜかコンピューターソフトの会社に入り、いまではプログラマーのチーフとして自分より、他人のミスをみつける毎日を送った。
94◆マカレ
マカレはとんでもない大ウソつきだった。しかも悪党だ。かわいそうなのは、彼のする話の中だけだった。パリラの寝ているあいだに、彼の持ち物を勝手に持ち出し、町の市へ持っていって売りさばいたらしい。朝起きると物が無くなっていた。とくに大切にしていた双眼鏡がなくなっていたのはショックだった。
「少年は、物を売って金が手に入ると、もうけた金の一部をどこかに埋めたのさ。それから姿をくらましてしまったよ」
噂好きの村のパン屋から聞かされた。
パリラは、友だちができたとだれかに話したくてしょうがなかった。が、友だちどころか、とんだ泥棒の行いに裏切られた。こぶしが震えていた。信用していたマカレのひどい行動と、物を盗まれたことに。どうしてマカレはあんな人間なのだろう。だまされたパリラは壁を靴でおもいきり蹴り上げた。
ある国の村に一人の少年が住んでいた。親に先立たれ、一人ぼっちで暮らしていた。村の子どもらにいじめられていた。
嵐の晩の次の日、空は晴れた。白い雲がゆっくりと少年をさそうように動いていく。少年は雲を追いかけ、追いかけ、いつしか海岸の崖まで来た。
雲の切れ間から光が差した。光が海を照らしている。丸太でできたいかだのようなものに人が乗っていた。
「だれだろう」
知りたい気持ちになり、崖から砂浜へ降りていった。いかだは、波にうちよせられるようにして岸へと近づいてくる。
「おーい」いかだの上のひとが叫んだ。
「おーい。だれだい?」少年は叫びに答えた。
「岸に着くから手伝ってくれ」いかだの人は頼み事をした。
「いいとも」
大声で承知した。いかだの人は、どうやら少年と同じくらいの年の男の子だった。ひどく汚れたぼろぼろのシャツとズボンに、うす汚れた赤い帽子をかぶっていた。いかだは、すぐに浅いところに乗り上げた。少年とやってきた男の子のふたりは力をあわせ、浅瀬から動かないいかだをどうにか砂浜まで引き上げた。
「どこからきたの?」少年はたずねた。
「海のはるか向こうの国からさ」
「へえ。名前は?」
「ないよ。きみにはあるの?」
「うん。ぼくの名は、パリラ」
「じゃあ、いい名前をぼくにつけてよ」
「マカレにしよう。それでいい?」
「わかった。じゃあ、きょうからぼくはマカレになる」
マカレはお腹がたいそう減って死にそうだ、といった。パリラはマカレを家に連れ帰った。台所にあったひとかけらのパンとチーズ、残り物のスープを分けてやった。マカレはたいそう喜んで食べ始めた。
食べおわったマカレは、しばらくボーっとしていた。パリラはマカレのことをいろいろたずねてみた。マカレの両親は小さいころに戦いで死んでしまったこと、一人になったマカレは村を離れてさすらいの旅に出たこと、食うや食わずの生活をつづけ、森で木の実を取ったり、砂浜に打ち寄せる海藻を食べたりして飢えをしのいだことなど、マカレはポツリポツリと語ってくれた。
「じゃあ、いかだでどこへ行こうとしていたの?」パリラはたずねた。
「そんなの、どこだっていいじゃない。戦いのない、生まれた村よりも平和な村に行きたかっただけだよ」
マカレはあっさりと答えた。パリラは、すっかりマカレの話を信用した。マカレをしばらく家に泊めてやることにした。
翌朝、異変に気づいた。起きたらすでにもぬけの殻だった。鍋ややかん、おまけに大事な双眼鏡もなくなっていた。
教会に行き、神父に、友だちを信用してひどい目にあったことを打ち明けた。神父はいった。
「パリラ。それでいいんだよ。人を憎んではならない。いいね」
「神父様、どうしてですか」パリラはうつむいていた顔を上げ、たずねた。
「きみのしたことは間違っていない。その少年も大人になって自分の過ちに気づくはずだ。気づいたら、きっと反省する。イエス様に許しを請う。パリラがいいことをしてあげたのにも気づくだろう」
神父は、そっとパリラの髪の毛をなでてくれた。
「パリラ。きみにはきっといいことが起こる。イエス様はちゃんとご覧になっているよ」
神父は力強く言った。
教会を出て道端を歩いていると、教会の三角の塔が、太陽に照らされてくっきりと濃い影を作っていた。よく地面を観察すると、そこだけなぜか土の色が違っていた。パリラは手で影の尖った先を掘ってみた。すると、小さな袋が出てきた。中をあけて腰を抜かした。中には金貨がいくつも入っていた。恐らくマカレがもうけて道に埋めた金貨を掘り当てたのだと思った。パリラは自分の財産の一部を取り戻せた。パリラは、これが神父の言ったいいことだと思った。街の市に行き、その金貨でいい買い物をした。そして足取りも軽く家に戻った。
95◆冬の変心
どこまでも果てしなくつづく青空を白銀で切り取った雪原が広がっている。私はゲレンデを滑ろうとしていた。年末のことだった。畠山さんは同じ場所で先に滑り、片手を上げてこちらに体を向けている。私は恰好よくスノーボードで滑り、彼の元へ……。
「きゃー! 止まらない」
私の夢をぶち壊すかのように、黄色い声がかぶさる。ピンクの目立つジャケットを着た女が畠山さんにぶつかろうとしていた。
「わざとらしい。なによ、ノゾミ先輩ったら」
私はふてくされ、長い髪をなびかせて、畠山さん目指して真っ直ぐに滑り降りた。
ノゾミ先輩は大学の一年上のコーラス部の先輩で、栗色の毛先にパーマをかけていた。ここぞというときにだけ、アイシャドウを濃くして大人の雰囲気を出し、香水をふりかける派手女だった。三年の畠山さんを巡って恋の火花を散らしていた。年末年始の冬休みを利用して、苗場のスキー場で過ごしたいと言い出した畠山さんに、当時付き合っていた私が「一緒に行きたい」と言うと、地獄耳のノゾミ先輩も割り込んできたのだ。畠山さんの男友だちが、いいじゃん、四人で行こうよ、と同意した。波乱含みの展開は、スキー場に来る前から読めていた。充分な対策を取らなかった自分を嘆いた。
スキー場をあとにし、帰りのバスの中で畠山さんから突然別れを告げられた。
ノゾミ先輩は畠山さんに急接近し、大学卒業後、二人は結婚した。あのとき、いったい何があったというのだろう。別れた私は何も知らされず、男のひとが怖くなり信じられなくなった。
五年後、畠山さん主催のパーティーが開かれた。彼はIT系ベンチャー企業の会社を設立し、軌道に乗っていた。私の元にもなぜか招待状が届いた。
パーティーの合間に畠山さんから呼びだされた。
「平野。あのときはすまなかったな」
「もう終わったことでしょ」
「実はノゾミのパパがGoogleの役員でさ。あのときは将来を考えてどうしても後ろ盾が必要だったんだ」
「そうだったの。で、いまさらなに?」
「だから悪く考えないでくれ」
言いたいことはそれだけ? と言い放ち、足をヒールで思いきり踏んづけてやった。
ザマアミロ。
私は心で叫んだ。顔を醜く歪め、男を見下す快感に浸っていた。
将来の就職のために恋人を裏切るなんて、あざとい。ノゾミ先輩が金持ちなのは分かっていた。でも、本当に悔しかった。
さらに五年がたち、彼の会社は倒産し、ノゾミさんとも離婚したと噂で聞いた。自分一人の力で切り開いてみればいいわ、とあざけった。
それからすぐ、彼は居室で首を吊り、死んだ。
ザマアミロ。イイキミダ。
私は彼の葬儀に参列し悲しむ元恋人の役を演じた。心の中は怒気に満ちて般若のようになり、頭から角が生えてきそうなほどだった。
その年末、十年ぶりにゲレンデに立っていた。いまは髪をショートにし、メイクもナチュラルに変わっていた。積もった雪が太陽の光を反射してとても眩しい。スノーボードでターンをきめながら、ゆっくりとシュプールを描いた。会社の同僚が遅れて滑ってきた。週末を利用してまた苗場に来ていた。
「山をバックに写真撮ろうよ」
私はポケットからスマホを取り出した。写真を撮り終え、下に降りようとしたとき、急に視界が悪くなった。突然の猛吹雪に見舞われた。風が強まり、耳をつんざく音がした。
いや、音だろうか。声だ。声に聞こえた。
ザマアミロ――。
風切り音が怨念の声となり、私の耳に届いた。その瞬間、背筋が凍りついた。死んだはずの畠山さんが十年前の恰好で吹雪の中から姿を現し、オーロラのように緑に光って私を飲み込んだ。私はめまいを起こし、その場に倒れ込んだ。
気づくと、灯りをつけたままでベッドに仰向けに寝かされていた。上半身をベッドから起こし、窓を見るとゲレンデは夜の闇に包まれていた。ベッドの横にある鏡を見た。鏡の中のむっつりした顔に微笑んでみた。鏡の中の私は不気味にニヤリと口元を曲げ、虚ろな私と入れ替わった。彼の霊と私の怨念が混じった悪魔が乗り移った気がしたが、妙にやわらいだ気持ちになったのが不思議だった。
それからというもの、私の形相は怖さが倍増したと言われるようになった。入社したのはGoogleのライバル会社のYahooジャパンだった。どうしてもノゾミ先輩を見返してやりたくて選んだ会社だった。Googleの日本支社に親のコネで入って働いたノゾミ先輩を思うと、いまでもGoogleに対してライバル意識を剥き出しにし、同じ会社で働きつづけることに生き甲斐を感じる毎日を送っている。互いに関係のあった男は死んでも、女対女の嫉妬と執念はいつまでも途切れることはない。
〈了〉
96◆ふるさと
テレビに大写しになったのは、お笑い芸人ホラードンキーの溢れんばかりの変顔だった。
「ウハメホザッドン、ウハメホザッドン」
どう聞いたって、僕にはとうていはやりそうなギャグに思えず、ただ画面を前に固まってしまった。笑顔で意気揚々として目を見開き、奇妙な言葉を操り、観覧席の観客とテレビの視聴者を虜にしている。そんなふうに見えた。その言葉というべきかギャグの連続音は、およそどこの国の言葉でもない。アザラシあたりの、仲間に危険を知らせる遠吠えのようでもあった。どちらにせよ、「ウハメホ……」と芸人の口から出た音は、およそホモサピエンスにあるまじき言語感覚の発語だった。
隣で一緒にテレビを観ていたサトルはゲラゲラと下品な声を上げ、こちらを見た。
「俺もあんな有名人になりてぇな」
「むりだって。簡単に面白いことを人前でするなんて、難しいよ」
「でもこの前、面白かったじゃないか」
この前とは、先生への復讐だった。英語の村木に怒られた昼休み、妙案が浮かんだ。悪童ぶりに火が点いた僕は、サトルに耳打ちして復讐を決行した。敷地の端に小さい溜池がポツンとある。そこの主を獲物にした。
僕とサトルは昼休みに村木が女子便所に入るのを見届けると、すかさず隣に侵入し、二人がかりでバケツに入ったでかいガマガエルを、トイレの扉と天井の隙間から放り込んでやった。断末魔と、それにも増して「覚えときなさい!」という低いうなり声がトイレにこだました。
「やったぜ。大成功!」
気を良くした僕は、サトルとハイタッチを交わし、僕らは溜飲を下げた。帰り道、トイレの中でうろたえる村木の姿を想像しただけで、二人はどちらからともなく笑い合い、コンビニで時間をつぶした。
サトルはそれを思い出したのか、あれはまるで出川哲朗のテレビシーンを観ているみたいだな、と愉快そうに笑った。
「俺も出川のような面白い有名人になりてぇ」
さっき喋ったのと似たような台詞を吐いた。僕は答えようがなく、黙って画面を見つめながら、テレビから聞こえる大音量の笑い声につられて意味不明のギャグに笑顔を作った。本当は面白くない。けれど、今だけは面白く聞こえる気もした。
「ヒトシ、どう思う?」
サトルは腹を抱えて笑いながら、また訊いてくる。
「どうって、なにが?」
「だからさ。有名人になる道だよ。よくないか」
「いいと思うけど、思わないこともあるし」
「はっきりしねえな」
「だってさ。東京行って有名になる奴なんて一握りだろ?」
「そりゃ、まあそうだ。だけど、こんな田舎でくすぶっていてもしょうがないだろ?」
「そうかなぁ……」
僕はうまく言い返せなくて、友人の言葉に気押された。
テレビの演芸コーナーが終わると、サトルは、
「やっぱ、有名人になりてぇ。絶対東京行って芸を磨く。目指すはナンバーワンの芸人」
帰りぎわに力強く宣言して玄関のドアを開けた。じゃあなと言って上機嫌で帰っていった。
どこが面白いんだ。ったく馬鹿なヤツ。芸なんてそう簡単に身に付くかよ。僕は悪態をついて玄関の柱を足蹴にした。秋の日曜の夕方はこうして過ぎていった。
僕らは日本海沿いのK町に住む中三生だ。来年の春で卒業になる。十五ともなれば、いろんなことが引っ掛かる。友だちの進路、親の職業、先輩の噂、彼女の有無、背の高さ、その他もろもろ。
サトルと僕は小学校からの友人で、今までずっと一緒だ。仲良くつるんで、自転車で遊びに出掛ける関係が続いた。中間テストを前にして、数学、英語、地理が苦手な僕は、お決まりのように、それぞれの補習を受ける覚悟だった。特に数学は苦手だった。計算ができたとして、大人になってから何に使うのか。そんな疑問が余計に、机の上から教科書と問題集を遠ざけた。
しばらくして、東京への憧れを頻繁に口にし出したサトルは、違うグループの連中と付き合うようになっていった。ある日、僕は嫌われるのを承知の上で、言ってやった。
「サトル。目立てば人気者になれるとか、モテるとか思ってないか」
「何だと?」
「だからさ。カッコばかりつけてないで、もっと男らしくなれよ」
「うっせぇ。ヒトシごときになにがわかる」
「心配してやってるんだろが」
「俺のなにが気に食わない」
「いろいろだよ」
「言いがかりつけるなら、石村を呼ぶぞ」
「あの柔道部のか」
「そうさ。柔道とケンカのめっぽう強い番長、石村だ」
「そんな、困るよ」
「石村がマジで怒れば、ヒトシなんて半殺しだからな」かつての友人はひどい言葉を浴びせた。
石村というのは柔道部員で、サトルを迎え入れた不良グループの一員だ。付き合う友人が違ってきたら、これほど無視できない態度にでるのか。落胆した。正直、どうしようもなかった。僕は素のサトルを知っていたつもりなので、いまの温度差に戸惑った。
僕の家はキャベツや小松菜を作る専業農家。一・五ヘクタールの土地いっぱいに植えている。
「さあ、明日からまた収穫だぞ」
日曜の晩、父ちゃんの威勢のいい声が家を明るくした。専用車一台で朝から日暮れまで一日がかりで、何日もかけて行う。収穫期には、学校から帰ってくると、野菜の選別、箱詰めといった作業を、家中みんなでやった。家には両親と僕、爺ちゃんの他に、天音という妹がいて、妹はスポーツ万能だった。兄としては、爺ちゃんの代から住み続ける、色褪せてくたびれた家から、将来のオリンピック選手が誕生するのを切望し、エールを送った。期待の星とは対照的に、農業を継ぐ以外になんの取り柄もない僕だった。
進路を決めるとき、担任の近田先生に進路を相談した。
「先生、K町や地域の役に立つ仕事は、どんなのがありますか」
「まず役場の職員か教員。あとは福祉関係。資格取らないとな」先生は答えた。
一方で、気象予報士を目指してみたいと伝えると、近田先生は、
「上野の成績では無理。家業を継ぐのも悪くないんじゃないか」
農業か、気象予報士か。どちらかで悩んだ。なかなか答えを出せない自分がいた。
ある日、運命を決める一日が訪れた。テレビで見たあの芸人が、K町を生中継の取材で訪ねてきたのだ。
「表舞台での仕事にあぶれたのだろうな」父ちゃんは哀れんだ。
僕は授業中だったので、後になって知った。母ちゃんがその番組を録画していた。映っていた芸人と父ちゃんの台詞を聞いて、農家を継ぐ決意を固めた。
ホラードンキーは、VTRの中で道の駅を訪れ、K町の名産品をいくつか紹介した。その後、車で移動し、辿り着いた先が取材を申し入れた上野家だった。
父ちゃんと母ちゃんは僕に知らせてなかった。後で録画した番組を見せられ、最初は驚いた。
あまりに鄙びた家の佇まいに恥ずかしさを覚えた。仕事の合間に取材用のカメラを回され、野良着姿のままの父ちゃんと母ちゃんが画面一杯に映し出される。彼は父ちゃんに、
「お父さん、仕事の良さはなんですか」
と訊ねた。照れ笑いを浮かべた父ちゃんは、すっかり上がっている様子だった。事前の打ち合わせを無視し、アドリブでこう言った。
「都会で頑張る人にふるさとの食べもんを届ける。それがオレらの仕事、誇りです」
父ちゃんは胸を張った。間近で耳にしたホラードンキーは戸惑い気味だったが、背筋を正した。
「K町には他に引けを取らないキャベツや小松菜があります。わたしの芸も及びません」
都会の有名人が思わず脱帽したので、僕はビックリした。感慨を深めた僕は、身をもって農業で生計を立てるのを決めた。
K町の野菜。農業。自然。
ふと、都会に出るというサトルを思った。「ふるさとの良さ」を忘れていやしまいか、と。畑を見下ろす御伽山が、今日はひときわ雄大に構えていて、立派で頼もしげだった。
(了)
97◆若き日のミッチェル
あなたはここに来た。そして、こう言った。
「もう、きみとは暮らせない」
母は怒った。
「なんですって!」
「だからここを出ていくよ」
「ちょっと待ってよ」
待てと言われて待つほどなよなよした性格のあなたではない。あなたは玄関で靴を履き、とっととドアを開ける。
しかし、ドアの外に出るのを躊躇った。母を愛していたからではない。外が大雨だったからだ。傘も持たずに、ここに来たのをあなたなら、きっと自身を呪っていただろう。間違っても、この家の住人に、
「悪いが、傘を貸してくれないか」
とは言うまい。強情なあなたのことだから。
若いとき、あなたは、きっとそういう光景を見てきただろう。
そう、そのとおり。あなたは僕に見抜かれていた。すべての所作と癖と性格を。
あなたは、やっと僕の前に本当の姿を見せた。
「やあ、初めてだな。きみと会うのは。いや、どこかで会ったっけ?」
あなたは、自分以外のすべての人に向かって、語りかけるときに、「きみ」という癖が抜けなかった。自分以外のすべての人を「きみ」と呼んだ。教師とはそういう生き物なのだろうか。家族にさえも、相手に話すときは、「きみは……」と言うのが僕には可笑しかった。
数分前にすれ違った子どもに対しても、「きみ」だし、きっと天皇にお目にかかっても、「きみ」だろう。そのときの「きみ」は、主君の「君」とあなたは心の中ですり替えているに違いない。とにかくそれは、まるで、相手のわずかな部分にも光を見いだし、尊敬の念を持ってしゃべっているのだと思わせるような口調だった。
あなたは、自分以外の人間を評価するのに人生の大半を費やしてきた。そう、あなたは教師だったから。
教師にとって、僕や母より、赤の他人の評価がいちばんの関心事であり、仕事だった。哀しいことに、あなたという人は、それを私的な場面でもそうした職業癖が抜けなかった。
あなたはもうこの世にいない。黒い縁取りの写真の中から、僕に語りかけてくるだけの存在だ。
あなたは仕事についても、自身の人生についても多くを語らなかった。愛すべき隣人や、友人の話ばかりを選り好みして聞かせた。僕はそれを聞き流すうちに、どうしてあなたはあなたの過去や恋愛や仕事について語ろうとしないのか、不思議だった。
「こういうときは、こうすればいいからね」とか、「きみはそんなことをしていたのか。ぼくはびっくりしたよ」とか注意を与えたり、感想を漏らしたりする受け答えが多かった。
けして自分の身の上話をして、教師の失敗談をあからさまに僕に話すなどということは好まなかった。
だからなのか、嫌いな野菜とか、好きな女優さんとか、つい最近まで知らなかった。
教師は生きる手本だ、とでもあなたは思っていたのだろうか。
話は戻るが、「きみとはどこかで会ったっけ?」は実に都合のいい誤魔化し方だ。相手の名前が頭に浮かばなくなってしまっても、一生「きみ」で始まり、「きみ」で終わるからだ。
あなたの本当の姿――。それは、たくさんのきみに囲まれて、にこやかに笑う、アルバムのあなたが、いかにも言いそうな台詞の影に隠された羞恥心そのものだった。 〈了〉
万花物語 #91-97