万花物語 #71-90
●1年後の桜の下で●うまくいかない世の中は・・・ ●女傑《じょけつ》●剽窃《ひょうせつ》横行A大学Y教授―ある事務官の談話●六軒狼留《ろっけんろうる》聖婦反徒《せいふはんと》 YES/NO?●極致のクレバス ●天才ホット・スポット ●賢女乱行●人には添うてみよ、馬には乗ってみよ●宗右衛門町《そうえもんちょう》でサヨウナラ
●ある家族のクリスマス ●師との邂逅《かいこう》●幸福を呼ぶ傘《かさ》 ●禁断!!尚学生《しょうがくせい》に誘惑の罠《わな》●夜更《よふ》けのプリマ ●醒《さ》めたら周回遅れ●異摩人~イマジン~ ●車いすのF1レーサー●暗路射光の女神《ビーナス》 ●東京摩天塔
#71-80
第三部(#71-80)
●一年後の桜の下で
美梨也は幸せだった。大好きな高志の横顔を高瀬川の土手に座ってちらちら見れるから。それが今の美梨也の幸せそのものだったから。
「一年後に、またこの土手で会おうね。桜の花が満開の頃に」
「うん。会おう。ミリヤの一年後、どんなかな? 」
「アタシは……。ワカンナイっ。タカシはきっと、もっともっとステキなオシメンになってるヨ」
「ハハハ。オシメンか。ところでさ。ミリヤは高校卒業したら、東京の専門学校行くんだろ? 」
「うん。アタシは美容カンケイのセンモン。将来、美容師になるの」
「オレは高校出たら地元で働く。ミリヤの為に一生懸命働く。そんで、すげェ家建てる」
「ムリしなくていいヨ。アタシはタカシと一緒ならそれでいいの」
雀が二匹チュンチュンさえずって春の空に木霊した。
土手の桜が風に戦ぐ。花びらが川面にヒラヒラと舞い落ちて、サラサラと小川を流れて行く。
「あの花びら。どこまで流れるかなぁ? 」
「え? どれ? 」探すタカシ。
「ほらぁ。あそこだよ」と指差すミリヤの楽しげな声に、彼氏は花びらを見つけると、「ああ。あれか」と呟き、
「流れに乗ってあの橋まで行くんじゃないかな」と肩を揺らして更に続けた。
花びらは橋の袂まで流れ着いた。しかし、橋の影に入ってからはその形は見えなくなった。
「ねぇ。花びらどうなったかな? 桜の木にあった時は、みんなと一緒で華やかだったのにさ。川に落ちたら逸れてバラバラ……。私たちもそうなるの? なんだかイヤだよ」センチメンタルな気分になる美梨也。
「大丈夫さ。水に流れても桜は桜だよ。ボクラも高校出てもいつでも集まれるさ。みんな地元に居るんだから。心配すんなって」
優しく高志は慰める。そして、ソッと美梨也を抱き寄せた。しばらく抱き合う二人。目を閉じると春の風の匂いが鼻と頬をくすぐってきた。
なし
桜――の花びら――舞~うたびに――
ノブナガの唄を口ずさむ若者の自転車が二人の横を通り過ぎた。
今年の春は二人にとって、誓いと約束の春になった。
●うまくいかない世の中は・・・
「今日のピッチャーは神経質だ。ランナー出たら心理状態を不安定にしてやれ。制球が乱れてくるからな」
コーチは試合前のミーティングでそう分析した。野球シーズン真っ最中の、関東エレファンツとの公式戦。
<ふむ。ランナーなしならどうすんだよ。そんときゃぁ、空振りしてわざとバットをピッチャーめがけて放り投げるかな>ベテランの藤巻選手はそう思った。
さて試合本番。~7番レフトFUJIMAKI~。
藤巻はバッターボックスに入った。
入念にバットをグルグルと回すと相手投手の方を見た。
一球目ファウル。二級目見逃しストライク。カウントは投手有利のツーストライク。ランナーはなしだ。
<あれをやるしかないな>
投手は渾身の直球を投げ込んだ!!
その瞬間――。
案の定、空振り三振する藤巻。だが、彼のバットは空を舞って、事もあろうに一塁コーチの頭めがけて一直線!
ドスっ……。
「ギャァ~~~!」
うずくまる一塁コーチ・北畠。
そしてコーチ陣と選手4、5人が飛び出て興奮する内に、怒号が飛び交い、同じチーム内での身内同士の『大乱闘』へと発展した。体のデカイ選手とコーチが殴り合い、蹴飛ばし合い、小突きあって退場者が出る始末。元々試合展開が0―8の惨めな状況で負けてたので、ここぞとばかりに日頃の鬱憤晴らしに使われたようだ。
試合後、顔中アザだらけ、体も傷だらけの藤巻は重い体を引きずって呻いた。
―――あぁ。こんなコトになるならバットを手から離すんじゃなかった。なんでピッチャーの方に飛ばず、北畠の方へ行っちゃったんだ?―――
しげしげと古びた木製バットを眺めるベテラン選手。すると、バットに滑りやすい粉が沢山残っているではないか。
―――誰だ!コンナことしやがったヤツは? これじゃあスイングの時、滑りすぎてコントロールがきかんはずだぜ。畜生め!ハメやがったな!!オレを嫌う連中の仕業かよ……。
腹の立ったフジマキはロッカー蹴飛ばすと、一目散でシャワー室に入り汗と汚れを落とした。再びロッカールームに戻ってポロシャツとスラックスに着替えると、後輩を呼んで車に乗り込み夜の街へと繰り出した。
後味の悪い試合後なので、いつもと違うステーキハウスを選択して一同は店に入った。それぞれに、サーロインステーキやら、Tボーンステーキやらを頼み、生ビールで乾杯した。オツカレ~~!!ビールを飲み、ステーキをむしゃぶり食い始める。しばらくワイワイ盛り上がっていると、奥のテーブルでも喧しく盛り上がりを見せていた。
ん、なんだ。アチコチ騒々しいな……。
そう思っていると、奥で騒いでいた客の一人がトイレに立ったのか、こっちへやって来る。そいつが通り過ぎるとき、聞き覚えのあるダミ声が藤巻の耳を劈いた。
「オッ!!オマエらも居たんか!!」
―――ゲッ!北畠!ヤバッ……!―――
頭に包帯をグルグル巻いた大男は病院に直行したハズだったが……。もう処置が終わったんか?
呆気にとられる藤巻選手に向かって、頭だけミイラ男はこう宣告した。
「ヨウ。今日の仕打ちはヒドかったぜ。あんなコトでは二軍に落とすゾ!」
●女傑
N図書館での赴任一日目。新米司書の朱美は先輩の好子から館内の説明を一通り聞いた。
一日目はカウンターに立つこともなく、ひたすら書庫の返本整理と事務室での新規図書のデータ登録をこなすだけで済んだ。
そして二日目。朝から小雨混じりの中、電車に揺られながら、昨日教えられたコトを書いたメモを見返し見返し復習してはいたが、何となく嫌なコトが起きそうな悪い予感を覚えた。
自分は温室育ちで、お嬢様女子大を卒業したばかり。性格も真面目で内気。おっとりタイプに入るのかもしれない。だが、N図書館のスタッフは男女共にキビキビして動きも素早く、頭のキレそうな人ばかりに見える。果たして自分はそういう人たちと共に働いていけるのか? 調和できるんだろうか?
さて、図書館に着いた。中の事務室に入ると数名の司書と男性職員が何やら談笑していた。しばらくすると朝礼が始まった。アレコレ注意が言われたが朱美は緊張して頭に入らない。
やがて開館時間となり、今日から朱美もカウンターに立つよう言われた。カウンターに立つと頬が紅潮した。慣れない緊張感からなのか……。
最初の客。二人目の客。三人目、……。次々にやって来る利用者に対して、ぎこちない笑顔で、沢山の本を受け取り、貸し出す本を手渡して、という作業がしばらく続いた。
しかし、ある主婦の質問に一瞬手が止まってタジロいだ。
「この利用券で●●●はどうなってるのよ? 」
「ハイ。少々お待ち下さい」と答えた瞬間、朱美の手をバシッとはたく者がいた。好子のグループの先輩司書・麻里亜だった。
いかにも気の強そうな、自信ありげな態度と風格の彼女は朱美を睨み付けると、
「ちがうワ。なにやってんのヨ!」と語気を強めて叱責した。荒々しい態度でアケミをカウンターから弾き飛ばすと、主婦の利用者の応対をソツなくこなした。
―――これが実社会の現実なんだワ……。―――
朱美はしばらく硬直して頭が真っ白になりつつも、そう思った。
休憩時間に第二事務室に呼び出されたヒロインは、麻里亜にきつく責められた。
「●●●は朝礼で言ったでしょ? 分からないなら何で確認しないのよ? アナタが間違えることで、その人にも後ろで並んでる人にも、館員にも、皆に迷惑かかるのよ!!もう二度とこんなミスしないで頂戴ね!私たち司書が低く見られるから!さあ、仕事に戻って!」
一方的に喋られて、ハイ、ハイ、と聞いていた朱美の頬を熱い滴がタラリと伝って流れ落ちた。
その後の仕事のミスは無かったが、悔しくて、何が一番良い方法か、そればかりが作業中も頭をよぎった。
定時を回り、図書の整理とパソコン・照明の電源を切ると事務室に戻った。麻里亜を始めとする主婦のパート司書は菓子を頬張り、昼間の朱美の失敗談に花を咲かせている。恥ずかしさの余り、お辞儀をすると鞄を抱えて駅までダッシュした。
そして二年が過ぎ、朱美は市内図書館へ異動が告げられた。独り立ちした司書アケミはN図書館の全員にお礼を述べると、彼女をイジメた先輩の机上の書類の山の上に付箋紙を貼った。
<覚えてなさい。タダで済むと思うなヨ!!>
やがてベテラン司書となった朱美は職場では「女傑」と呼ばれる存在に成長したと言う。
●剽窃横行A大学Y教授―ある事務官の談話
私、A大学工学部T研究室の事務員してました―――
ええ、いつも研究室に居ましたよ。それが仕事ですから。
何ですって? ああ、あれね。そうそう。そんなのしょっちゅうですよ。日常茶飯事。
Y教授がね、音頭取りで学生に指示するんですよ。アレとソレが合わないなら作っとけ、って具合にね。
それが有名な科学雑誌に投稿されるんだからねぇ。
ビックリっちゅうか、なんて言うか……。そんなもんですかね? 学者ってのは。
で、学会のお偉いさんでしょ? Y先生。誰も逆らえないんだよね。裸の王様だよね。笑っちゃうよね。
まあ、Y教授を頂点にしたピラミッドができてて、そのお陰で私も飯が食える身だからね。あまり悪く言いたくはないけど。
今、こうして新聞・マスコミに取り上げられたから白状できるけど、普通は喋れませんよ。こんなこと。
ああ。もっと詳しく? ちょっと待って下さい。
(しばらく経って)ほら、これ。業務日誌です。これが例のあれですよ。ホラ、2月1日から3月20日までのこの頁ですよ。不正なデータを作った時期ですわね。
丁度つごうがいいんですよ。不正を犯した学生は卒業していなくなるし、院生は研究テーマをY教授とディスカス(議論)しなきゃなんないんで口が重くなるし。
この院生と学部生のやった、<新素材合金超伝導実験>ですね。この実験中に、金属が分離しちゃって、過去の研究事例を否定する振る舞いをしたんだって彼ら騒いでたよ。同じ研究室の先輩方が築いた結果を否定する訳にはいかないでしょ? 最初は再実験も考えたみたいだけど、学会発表や論文の締め切りが迫ってて間に合わないから、「正しそうなデータに置き換えろ」って指示が出てさ。過去のB大の類似論文中の似たようなデータを加工したって言ってたよ。
もちろん、露骨には言わんですよ。Y先生曰く、
「B大のヤツとこれをガッチャンコだな」って。
ガッチャンコってのは、<合体>みたく、くっつけろっていうことですぜ。
新素材合金も、一昨年のノーベル物理学賞につながる重要な研究でしょ。世界の権威を相手に欺いちゃヤバイよね。
Y先生の研究成果の大部分は素晴らしいんですよ。それで国からの研究予算が付いて、何年も研究できる体制が敷かれてね。実験装置や研究者には大盤振る舞いできる環境が作れれたんですからね。
でも、画竜点睛ですかね。魔が差したのかな?
結局、バレるんでしょ?
見る人が見ればわかるもんだよね?
なんでY先生、あんなことしたのかなあ……。若い頃はやり手で真面目だったのにねぇ。
なし
もういいでしょ? Y先生? 学会に貢献した偉い人だから、天下りみたく、ナンボでも仕事はあるでしょうよ。あっしは知りませんがね。
あれ、なんてんですか? 他人の説や論文をパクッちゃうの。
ア、ひょうせつ、ね。難しい字だね。アンタもよく知ってるね。アンタも事情通だな。
するてえと、オレは、剽窃暴きか……。
●六軒狼留聖婦反徒 YES/NO?
ギターのジミーは練習を終えて、いつもの定食屋に寄った。
<定食 番戸屋>の赤い暖簾をくぐると、
「香ちゃん、いつものヤツ」と、これまたいつものセリフを吐く。
「ハーイ」愛想をふりまき、香子は厨房にオーダーを通した。
「サバ味噌定の大盛りワンですぅ」ジミーは、香子の背中から足までを、ミミズが這うようにゆっくりと眺め回してから、視線を手元の漫画本に落とした。
奥でサバを鍋で温める熱と、味噌の良い匂いがテーブルまで充満してきた。丸顔で長い髪を後ろで束ねた香子は、ジミーが料理が評判の番戸屋に足繁く通うもう一つの理由になっていた。
しかし、派手な出で立ちのロック青年にありがちな、見た目を意識してのことなのか、ジミーは香子への好意を口にする事は今まで一度もなかった。そして、今夜もその例外事は起きなかった。外見とは裏腹に、女性に対しては中々素直になれず、イメージ通りに突っ張って強がるだけのジミー。それがアーティストだ、とジミーはずっと信じているのだ。バンドを組んで7年。下積みも長かったが、ようやく音楽業界人から声が掛かり、ライブでの演奏も少しづつ回数が増えてきた。いわば、今が一番楽しく、充実した音楽漬けの日々だった。その為にはカノジョができなくとも、バイトがきつくとも、何でも我慢できたのだ。
「ジミーさん、どんな人が好きなの?」上目遣いで尋ねる香子に、ジミーは、
「オレはよう。六軒狼留やるヤツが好きさ」とのたまった。
「そうじゃなくて、女の人よ」アキれた声で彼女は言った。
「あ? 女? 六軒ファンよ」相変わらず<六軒狼留(=Rock'n Roll)>にこだわるジミーだった。
「不良っぽい娘がタイプ? アタシとはちがうわね」少し落胆の香子は続けて、「どうしてロックやってんの? アタジじゃだめなの?」と聞くと、
「香ちゃんはセイフだぜ。聖子の婦女で聖婦。オレは、セイフハントの為に六軒狼留するのよ」とよく分からぬ理屈を垂れつつ、ジミーは冷めた味噌汁をすすった。そして、箸を宙に向けると、こう言った。
「来週はライブがある。練習、練習の毎日だけど、やっとムクワレル。香ちゃんも来てくれるよな?」悪戯っ子のような純真な瞳で語りかけたバンドマンに対し、定食の後片付けをしていた女はその手を止めて、少し寂しげに顔を彼から背けると、
「今回はダメヨ……。行けないの」と笑って言った。
「どうしてだよ」のジミーの問いかけに、香子は
「アタシ遠い所へ行くの。アナタの知らない、遠い、遠い所へ。……。ゴメンナサイ」と言うと、ワッと叫んで顔を手で覆い、洗い場に駆け込んでうずくまってしまった。
後日、店に貼ってある閉店のチラシを見たジミーが近所の人に聞いた話では、香子一家は、親父さんがこさえた借金の取立てを避けて夜逃げしたらしい、との事だった。奇しくも香子の誕生日に……。
背中にギター、手にプレゼントを握り締めたジミーは、
「No 香子、No Rock !!」とシャウトしたのだった。
●極致のクレバス
キョクチをあてもなく彷徨って三日目になる。汗だくになってシャツを脱いだジョーは、周りを見回した。
なだらかな丘陵の窪み以外は何もない。
―――おかしいな。そろそろブッシュかジャングルが出現するはずだが……――――
緩い傾斜を下りて、窪みの脇を通るジョー。少し歩くと一服した。
水筒の水を飲んで、改めてキョクチの地図を広げてみる。確かにルートは正しい。ちゃんと太陽と星を目印にして計画した行程でここまで辿り着いたのだ。目標地点までは、あと数時間で行けるのは間違いない。周囲を三百六十度見渡しても繁みは無かったが、ジョーは自分を信じて、再び出発した。
再出発して五、六時間経っただろうか。太陽が傾きだした夕刻に、とうとう目的地に到着した。大地よりも少し黒みを帯びた土手の中にそれは存在した。
なだらかな丘陵の窪み以外は何もない。
―――おお、ここにあったか。クレバスが。(クレバスとは氷河の割れ目をいう)
さっそく、観測カイシだ。錘を降ろそう―――
ジョー白石は、極地観測隊<なみはや>の副隊長である。彼の任務の一つが、このクレバス調査だった。
ブルルン、ブルルン、ブルブルブンブン。
錘に付けられた糸が激しく脈打ってきた。
―――む? 地面が揺れる。よし、計器はどうだ? おお。こ、これは……。
P波、S波に混じって見たこともないパルスが発生しているぞ。まるでホワイトノイズのような不規則波だ。
何だか、人恋しい、懐かしい気分になってきた……。これは、地球が発する<リビドー>ではないのか……?
新説誕生。キョクチの胎内では地球が情欲を持って動いている――――
ジョーは興奮しつつも、背負っていた起振器を取り外し、冷静な判断を下した。
―――よし、クレバスに起振器を設置。電源作動―――
バ、バ、バ、バ。激しい音を立てて起振器は上下に振動する。すると、
ズ バ バ バ、ドーン、ドーン。
突然水しぶきが間欠泉のように上空に水柱の如くほとばしった。
―――うむ。ピークに達したようだな。では、生コンクリートを注入して締め固めるか。場所打ち杭は養生期間3週間でいいだろう―――
しかし、3週間後にジョーが現場に来てみると、まだ締まらずに、ボコボコと泡を立てて、杭はフワフワ浮いたままだった。
しかも、クレバスの付近には、塩水が飛び散っていた。
―――うむ。このクレバスは”メス”だったか。極致状態で、しかも、相当ゴブサタの……―――
●天才ホット・スポット
日本の街には不思議な現象が起きる所もあるらしい。<都市伝説>のように、ある事件や人物の所業が伝説化したことも少なくない。
そして、今回紹介する事例は、逆に、あるスポット付近で連続して起こったコトであり、○○のホットスポット、と呼んでもいいものである。
―――それは、今から四十五年前に遡る―――
1960年代後半の、関西圏のとある地方都市・A市。このA市のB町周辺で次々と天才少年が出現した。その少年達は近所でも評判の<神童>として、幼き頃より注目されていた。大きくなるにつれて、クラスで一番、学校で一番、近くの塾でトップレベル、という風にどんどん頭角を現した。
これだけなら、「ああ。あの辺は近くに私立の進学校があるからね」とか、「そうよ。○○中学の出身者が多いから、あそこらのご父兄は子どもの教育に熱心なのよ」とか言われるだけである。
それが何かに吸い寄せられるかのように、同じ有名中学に入学し、気付けば全員がナント東京大学に合格していた、というのだから驚きである。単なる進学熱やエリート志向にしては、小さなエリアに東大合格者がひしめいているという事実は説明できない。それに、A市の過去の東大卒の人間は、この五十年でヒトケタなのだ。
この驚くべき事実は何を物語っているのだろうか? この不思議な偶然性を知る者たちの間では、A市B町のことを、「天才・ホットスポット」と呼ぶようになったいたという。
このように、優れた人物や物質が世の中に偏って存在し、ある日を境に突如多数出てくることは、さほど珍しいことではない。あらかじめ何らかの作用でそこに固めて置かれていた、と思えばいいのだ。例えば、豊臣秀吉の埋蔵金にせよ、どこかの山に眠っていると言われているし、レア・アースにしても、限られた海底でしか出土されない。
だが、今回の「天才・ホットスポット」には、誰も知り得ぬ隠された秘密が深くかかわっていたとしたらどうだろう? その秘密が天才少年を量産する作用の根源である、とある学者は指摘する。
1960年代で子どもに影響を大きく与えたのは、言うまでもなくテレビ放送である。「その時期にA市で放送された、ある子供向け番組は、時の為政者の命令で、サブリミナル電波(あるメッセージを伴う特殊な電波。映画館の予告CMでコーラを飲みたくなるなどの例がある)を付けて放映していたらしい。その電波に反応したのがA市の天才少年たちだ」、との証言が在阪プロデューサーから得られた。
それを聞きつけた学者の指摘によると、当時の権力者が未来を担う人材発掘の為に、テレビを使って天才を東京に集めるように誘導していた、ということである。
なぜA市B町かって?それは私にも学者にもまだ分からない。ホットスポットは、突然その場所に姿を現すミステリーだから……。
●賢女乱行
九鬼あやめは医者の家系の三女に生まれた。東京・聖ソレイユ医大出身の女医である。毎年九月に行われる日本内科医学会の論文発表も終わり、婿養子の夫・篤正と都内のレストランで食事を摂っていた。三十を過ぎて肌にも翳りが目立ち、仕事柄ストレスもたまりがちな彼女は野菜中心のメニューをオーダーした。それを否定するかのように、篤正の方は昼間からビールに照り焼きチキンを頼んでいる。
「ねえ。アナタ。書斎に見慣れない名刺が落ちてたワ。ご存知? 」
「ん? なんの事だ? 」細君に痛い所を不意打ちされたアツマサは、とりあえずトボケた。
「あら。ワタシ、分かってるのよ。浮気してるでしょ」直球をズバズバと投げ込むアヤメ。アツマサは防戦一方のタジタジになりながらも何とか言い訳してその場を取り繕った。
その晩。ドレッサーに向かい化粧を落としていた女医は、隣のベッドで夫が眠ったのを確認すると昔の男にメールを打った。
―――久しぶりね。○○○で会えないかしら。―――
それから一週間後、あやめに呼び出された諸星哲司という男は、レストラン・チェーン店のグループ・オーナーをしていると女に語った。
昔のオトコが経営手腕のあるのを見抜いていたあやめは、さして驚かず、むしろ、あるコトを閃いた。このオトコの欠点、人を信用しやすい、というのを利用してチョッと困らせてやろうと悪女は思った。アクジョ・あやめは、悪巧みの仲間を募るべく、父親にパーティーを開くよう頼んだ。人を集める為、名称は<婚活 セレブ・パーティー>としたが、実態は金持ち子女のコネ作りの社交会合だった。
さて、パーティー当日。ひとりの美女があやめの目に留まった。
坂爪江梨果、29歳、モデル。
元彼の大野木から貰った高級ブランドバッグを知り合いの業者に高値で売り飛ばす。愛車のBMWを渋滞中の本線に割り込ませる。そんな数々の乱行ぶりを楽しそうに喋るエリカも、あやめに負けず劣らずの美貌だった。 細く滑らかな顎のライン。化粧映えする目鼻立ち。薄くて大きな口。そしてキリリとした目。端正なバランスのとれたボディ・ライン。
よし、コレに決めた。この金持ちモデル・エリカに声を掛けて友だちになると、あやめは言葉巧みに話を持ち掛けた。頭の良いあやめはエリカを安心させるため、大野木も加えて三人で哲司を騙し、彼の会社を乗っ取る計画を練った。
まず、テツジの経営するレストラン・チェーンの未公開株を大野木グループがTOBで買収する。その株を諸星が大野木から安く買い戻して利ざやを稼ぐ。その結果を見越して予め哲司がTOB前に大野木に前金を納める、という筋書きが出来た。その金策をカモに説明した。カモのテツジは利ざやの金額に驚き、二つ返事でOKした。後日、契約書に印鑑を押したのはカモになっているとは知らない諸星哲司だ。
さて後は、―――。TOBが失敗し、前金はパアになった。慌てた哲司は大野木に連絡したが、契約上はTOBの成否に関係なく支払う金だ、とか、弁護士を通してくれ、とのツレナイ返事ばかりで前金の返納は認めてもらえなかった。
今回、哲司自身は大野木に騙されたと思い込んでいる。しかし、実は、九鬼あやめの策略に引っ掛かったのだった。
これこそが賢女乱行の顛末であった。
●人には添うてみよ、馬には乗ってみよ
金曜深夜の繁華街の雑居ビル店内で、美砂と寛子と夏奈の三人OLはカラオケに興じていた。
トイレに立った夏菜、遅いね、と美砂が寛子に耳打ちしたとき、ドアがバタンと音を立てて、中年のオジサマ・サラリーマン二人に抱えられた夏菜が現れた。
「ゴメンねー。トイレで酔ってもどしちゃった……。出た所でこのオジサンたちに介抱されたの。イイ人だったからね。エスコートも頼んじゃった」
酔ってる割にはキチンと説明できてるな、と美砂は妙に感心しつつも半ば呆れ顔を作った。すると、横でミスチルを唄っていた寛子が変顔をして、
「え~~~。なに、この人たち。アタシ、やだぁ」とのたまった。
形勢不利と見た中年ペアは、仲間のお嬢様を宥めにかかろうとして、
「まあまあ。せっかくの<花金>だし。みんなで楽しく歌って盛り上がろうよ。ここの御代は僕らが持つからさ」と手を合わせて拝みだした。
この一言が効果覿面だった。寛子とミサの瞳は<¥マーク>になり、酔った夏菜だけは<?マーク> になった、ような感じだった。
現金なOL三人衆はお互い顔を見合わせると、コックリ頷いて、
「オ~~ケ~~!じゃ、皆さん、ドンドン予約入れましょ。オールで歌いまくるわよ~~」とすっかり調子付くありさまだった。寛子に至っては、オジサマペアにホステスよろしく、ウーロン茶やメロンソーダをせっせと運んできては二人に勧めている。
結局男女五人は丑三つ時まで熱唱し、飲み食いして、最後の方はオジサンの武勇伝を聞き、派手な三本締めで打ち上げを終えた。
帰り際、タクシー待ちの間に、当初乗り気でなかった寛子に対して、サラリーマンAは、こんなことを言った。
「君、最初、イヤダって言ってたよね? だけど色々楽しかっただろ? 『人には添うてみよ、馬には乗ってみよ』と昔の人は言ったもんだよ。あれこれ偏見つけて何もしないより、実際に付き合ってみたら意外と得るモノが多いでしょ? 人間って面白いよ。どんな人もソレゾレで」と、ありがたいご託宣まで頂いた。
若い方、お分かりかな?
●宗右衛門町でサヨウナラ
――十年振りに訪れたナ。ミナミか。久しぶりだ――
勝春は黒の鞄を提げて師走の難波に立ち寄った。二、三日分の下着と手拭い、ヒゲソリ、タオル、そして預金通帳に印鑑が詰まった鞄。左手に握り締めた、封の開いた手紙――
――その手紙こそが、頑なな勝春を大阪のこの地へと連れ戻したのだった。いや、彼の頭の中では時間すらそこに居た頃に連れ戻されたのか。
―――――――――――――――
| かつはる さん へ
|
| おひさしぶりです。
| そうえもん町の
| ノワール
| おぼえてますか?
|
| 十年ぶりに
| 会いたいです
|
| ミチヨ
―――――――――――――――
木枯らしに舞う落ち葉を踏みしめ、人混みを掻《か》き分けながら、勝春の足はその店の前で止まった。午後八時四十分。
――<クラブ ノワール>――
かつて仕事帰りによく来た店だった。
「ノワール」と書かれたドアを押すと、あの当時のままの空気が漂っていた。
―――黒い壁と天井。銀のカウンター越しにバーテンダーがグラスを磨いている。薄暗いテーブル席には三組の男女が腰掛けて、ウイスキーを
飲んでいる。あの時の情景は昔のまま―――
「いらっしゃい。……。ああ、カツさんやね」
「うん」
「どないしてたん? あれから だいぶたつんとちゃうか」
「うん」
「まあ、どうぞ。何にしますか」
「水割りを一杯」
「はい」バーテンは勝春を覚えていた。素早く水割りグラスに注ぐ。
浮かぬ顔でいる勝春の顔を横から覗き込んで、顔と荷物を交互に見たバーテンは、こう言った。
「ミチヨちゃんに会いに来たんでしょ? カノジョ十年前にここを辞めたけどね」
「ノワールを? じゃ、今どこにおるんよ」
「まあまあ。ダンナ。そうアセらずに」粘着質のバーテンは慣れた手つきでライターを勝春の前に差し出すと彼の手の煙草に火を点けた。
十時を回って、ほろ酔い気分で昔話やらに花を咲かせていると、ドアが開いて外の冷たい空気が流れ込んだ。赤いドレスの女が入って来た。
――十年後のミチヨだった。顎の肉は垂れて、身体のタルミも目に付いたが、紛れも無くあのミチヨ《・・・》がそこに立っていた。ノワールの看板ホステス、ミチヨ――
十年前、一九ⅩⅩ年。当時勝春は仕事の帰りや休みの日など週1で難波のノワールに来ていた。知り合いに誘われて行ったのが始まりだった。その時、テーブルでお酌をしたのがミチヨだった。ロングヘアーに上品な目元、愛らしい大きな唇。会話や客あしらいも上手だった。勝春は妻をなくして5年経ち、このホステスに入れ込んだ。働いた金の半分をつぎこんで、高価なバッグやアクセサリーやら化粧品を買い与えた。アフターでミチヨと深夜に軽く飲んだ後、ホテルで朝まで枕を共にした。しかし、その幸福な時間も長くは続かなかった。事件が起こったのだ。酔い客がミチヨにからんで無理からホテルへ連れ出そうとしたので、怒った勝春は一発殴ってやった。すると相手も鼻血をだいながら応戦してきて店中乱闘騒ぎになった。幸い、警察を呼ぶまでも無く、隣の用心棒が来て収まったが、彼はしばらく店に出入り禁止だとママに告げられた。ミチヨに会いたくてママに携帯に何度もかけたが、ミチヨは出なかった。それから三ヶ月後に店に来てみると、ミチヨにはお気に入りの中年男が出来ていて、勝春はそれ以来あまり店にこなくなり、ミチヨのことは忘れた。
そのうち別の男とできたミチヨも次第に店に顔を出さなくなり、二人の仲は終わった。勝春は名古屋へ転職して、瓦職人として汗を流した。一方のミチヨは得意客と懇ろになり、その男性の内縁の妻に納まったが、男性が6年前に病死して、孤立してしまった。しばらくは生活保護を受けて暮らしていたが、経済的、精神的な支えが欲しくて勝春を頼って手紙を書いたのだと言う。
しかし、独身の男女といえども歳が行くと、お互いに抱えているモノが多すぎて、簡単には男女の仲は修復されない場合も多い。今回の件もその口であった。
結局二人はノワールで朝まで飲み明かした後、宗右衛門町の街角で手を振って別れた。連絡先は知ってても、もう便りも電話も交わさないだろうな、と勝春は思った。
それでもミチヨが元気に暮らしていってほしい、と願うのは、中高年のロマンスなのかもしれなかった。
#81-90
●ある家族のクリスマス
妻は、CDプレーヤーを、近所のエコリングに売って、そのお金でネクタイを買った。
―――旦那の一帳羅のスーツに合うかしら?でも、丁度いいのが見つかって良かったワ。これが、あのヒトへのクリスマスプレゼントよね……。―――
一方、夫は、一帳羅のスーツを、ネットのオークションで密かに売り、その利益でCDを買っていた。
―――恵子の好きなMISIAの『エブリシング』の入ったアルバム。前から、欲しいってアイツ言ってたよな。これを贈って、日頃の家事のストレスを忘れてもらおう。―――
+++ +++
しかし、クリスマス・イヴの当日、お互いのプレゼントを見た二人は、案の定こう言ったのだ。
「どうして、アナタはCDなんか買ったの!!」
「お前こそ、ネクタイなんてもういらないのに!!」
そこから、いつものように、口喧嘩が始まった。なにも、こんな聖夜に、そんなことでもめなくても……。
と、そこへ、騒ぎを聞いた娘が部屋から出てきて、賢くも、助け舟を出した。
「ママ、パパ、やめてよ。せっかくのクリスマスでしょ?二人のプレゼントを何かに使って、仲直りしてよね」
8つの娘・彩音にこう言われて、停戦した夫婦は、知恵を出し合って、こうしました。
―――キラキラ輝く丸い反射板を見上げながら、
清しこの夜を家族で歌おう。―――
そうです。ダイニングの電球に、ネクタイの端を結び、もう片方をCDの穴に通して、下から、キャンドルで照らしました。輝く光を見ながら聖歌を歌う三人家族は仲良く、チキンとケーキを食べて穏やかに過ごしました。
●師との邂逅
丸山裕二は、数ヶ月前まで建築会社の設計技師だった。業界に転職して15年。それなりに腕も磨いて、会社での地位も中堅と呼ばれるような人材だった。が、経営不振に陥った会社が彼に出した答えは、丸山への退職勧奨だった。
―――建設業も、不況が長引けば仕事は回ってこない。また、違う業種に移って飯の種にするか。医薬系なら、ハケンでも仕事があるだろう。―――
三十四の丸山は、二歳下の妻と四歳の娘の為に、是が非でも働いて家に金を入れなければならなかった。
来る日も来る日も、ハローワークに通いつめ、自宅では型の古いパソコンを駆使して求人サイトをチェックする毎日が続いた。
―――ああ、今日も同じか。いい求人がゼロ……。気分転換に、町を歩いてみるか。―――
都内の自宅マンションを出て、見慣れた街角を曲がり、いつもの喫茶店の前まで来た。が、アレコレ考え事をしているうちに、喫茶店を過ぎ、そこでくつろぐプランをフイにした自分に腹が立った。
仕方なく、彼はいつもと違うエリアに足を踏み入れることにした。学生街だ。少し自宅と離れていたが、懸命に40分ほど歩いて、いつもとは違う沿線の駅前に着いた。
―――ん、こんな所にマンガ喫茶か。気晴らしに漫画もいいかな。入ってみよう。―――
薄暗い店内に入ると、ロビーのソファーに見覚えのある老紳士がいた。どこかで会った方だ、と思っていたら、紳士のほうから声を掛けてきた。
「おー。元気しとるか? 」
「あ、はい。先生。元気です。先生お久しぶりです。僕のこと覚えておられましたか」
「ああ。マルヤマやろ。出来の悪いマル君やんか」
「先生、相変わらず。その通りです。高校時代、先生の物理で赤点ばかりだった丸山裕二です。お懐かしゅうございます」
―――マサカ、こんな東京の繁華街の喫茶店で、学生時代の師と会うとは。―――
「いまは何をしとるん」老人は額の皺をさすりながら嬉しそうに声を弾ませた。
「ええ。前まではマンションの設計をやってました。現在は失業中です。先生は、退職なされてからは悠々自適ですか」裕二は若干はにかみながら訊いた。
「マルよ。君の言う通りや。今は趣味で俳句をひねっては仲間に見せたり、新聞に投稿したりしとるよ。近所の老人会に顔を出すと、食べ歩きや遠足に誘われることもある」
「へえ。なるほど。先生、こういうのを、邂逅というのでしょうか。まさか、こんな東京の繁華街で、大阪の恩師にお会いするんですから。すごい確率ですし」
「まあ、そうかな。そやけど、確率は低くても、人間の行動パターンは限られれておるがな。男で、歳いって、趣味がたまたまおうてて」
「故郷の大阪では、皆さんお元気ですか? 今日はご旅行か何かの途中ですか」
「うん、まあ、そんなとこやな。友人の招待でな。こっちに来とんねん。もう10日目やで。いい加減、東京も飽きてナ。こないして、少年ジャンプ、読みに来たんや。大阪商科の連中は、皆それぞれ忙しゅうてな。活躍しとるみたいやで。賀状をくれるヤツと、同窓会に顔出すヤツしか分からんけどナ。マルヤマは、わしのこと、どれ位覚えとるんや?」
「物理の中村先生といえば、大阪では泣く子もだまる、運動方程式の神様ですよ!」
「ハハハ。しっかり覚えとるがな。そや、そや。物理は、物体の観察と記述から始まり、……。」
「先生、講釈はもういいですから」
「ほんなら、お前に最後の問題を出そかいな。地球とその代替惑星との距離は地球太陽間の何倍ぐらいや? 」
「え~~~と、白鳥座のケプラー22bのことですよね。620光年だから、……。8.3光分で割ると、(携帯電話の電卓を叩いて、)65万4千倍ですね」
「正解!」
●幸福を呼ぶ傘
雨交じりの淀んだ蒸し上がる空気。
―――何かの前触れかしら。―――
平凡なOLですらそう感じるのは偶然ではない。
藤宮順子は、迷った末に折り畳み傘を会社受付の傘立てに差した。虹が高層ビルの上にかかり、憂鬱な一日の終わりを晴れ間で告げようとしている午後16時過ぎだった。そろそろアフター5の予定を考える時間帯に、OLの順子は会社のお遣いに出された。赤のボールペンを4ダース買って来い、と万年課長・大平に言われた。
―――ボールペンぐらいネットで注文して欲しいわよ。何考えてんの。あの古狸課長!まったくぅ~~~。―――
ぐちりながらも、社内勤務の欠伸が出そうなほどに単調なデータ入力に飽き飽きしていた娘には、外出は好都合だった。油を売る絶好の機会到来!
オフィス街のど真ん中にある文具店で赤ボールペン4ダースを買うと、順子の勤務する会社名が印刷された紙袋に入れた彼女は、大通りに面したブティックのプレタポルテを眺め出した。会社のお遣い中? そんなの、用事は5分10分で済むのは皆知っている。アレコレ言い訳して20分位時間を潰すのがベテラン社員の腕の見せ所なのだ。―――さすが、ヒロイン・順子の真骨頂!―――ひとりでほくそ笑む。
で、コンビニで来週の運勢をチェックし、芸能人の離婚話を斜め読みして、時計を見た。
「そろそろ会社に戻るかな」と店の自動ドアを出たら、途端に雨が急に降り出した。しまった、と足止めを食う羽目になって、コンビニに孤立したジュンコ。
―――ついてないな。油を売った天罰なの? こりゃないわよ。―――膨れっ面で雨が止まないかと見上げてると、
「お嬢さん。お困りのようで。アタシは別のがありますから、コレお使いになって下さいな」差し出されたピンク色のビニール傘に目を見開いて老女と傘を見比べるジュンコ。
「え? お婆さん、いいんですか? お借りして」そう言うのが早いか、老婆は黒い折り畳み傘を開くとスタスタと歩き始めて向こうへ行ってしまった。呆気にとられてると、老婆の嫁と思しき女が軽のワゴンからでてきて老女を迎え入れて走り去った。
―――ああ、どうしよう。おバアさん、行っちゃった。ワルイなあ。でも助かったし。ビニール傘だし。ま、イッカ。
とりあえず使わせてもらいます。ありがとう。オバアサン。―――
仕事を終えて、帰り道の地下鉄に乗り、ターミナルへと向かったジュンコ。生憎地下鉄は満員で、しかも、露濡れの状況だった。多くの傘から発せられる湿気で車内はムンムンで、蒸せるような不快車内と化した。イヤな時にはイヤな事が。案の定、不安的中。中年の痴漢がジュンコのお尻に手を伸ばしてきた。餌食になりそうだったヒロインは、まだ濡れていたピンクの傘の先端を男の急所に思いっきり突き刺した。これには痴漢男も顔をしかめ、行為を止めて退散するしかなかった。
―――オバアサン。ありがとう。ピンクの傘、また、役に立ったワ。―――
自宅に戻った順子は、自分専用の夕飯の支度に取りかかった。まず、昨日作った残り物の肉じゃがをレンジで温めた。次に、お湯を沸かして、赤と白のお気にのマグカップにポタージュスープの粉末を入れ、沸いたお湯を注いだ。最後に、冷蔵庫から太刀魚を一切れ出してグリルで塩焼きにした。
「さあ、ご飯できたっと。いただきまぁす!!」右手に飯碗を持ち、左利きで食卓に並んだおかずをつまんで口に運んだ。夕食後、風呂に入った。夜も更けて、寝室で寝る前のヨガ体操をしながら、今日の一日を振り返った。彼女には、平凡な一日ながら、あのピンクの傘と老婆との出会いがとても不思議な出来事に思えた。また、明日も明後日も、アンナことが続けば良いのに、と呟くヒロインは、ベッドにもぐりこんで灯りを消した。
翌日、少し晴れ間が差した。ベランダに昨日のピンク色の傘を干してから、いつもの定刻に家を出て出勤したヒロイン。会社では夕べ期待したようなハプニングは何も起きず、単調で退屈な仕事は順調に終わりを迎えた。帰路、辺りを見回しながら歩いたが、変わったことは何も起きなかった。家に着いたジュンコは化粧を落として部屋着に着替えると、傘を取り込もうとベランダに向かった。ベランダに出てみると、昨日の傘は綺麗に乾いていた。が、明らかな変化があった。白い紙片が一枚、手書きの文字と印刷された文字とを浮かび上がらせて傘に貼り付いているではないか。
―――ん? 何かしら。コレ。―――
目を凝らして白い紙を読んでみると、それは出生届だった。自分のではない。隣夫婦、三田村家のだ。「三田村 勝・奈美」と書いてある。
―――アア。そう言えば、この前、奥さんに会ったとき、赤ちゃんが産まれましたの、と言ってたわね。え? じゃあコレ。大事な紙よね。三田村さんに知らせなきゃ。―――慌ててバスルームの鏡で薄化粧を整えた順子は、出生届を傘から剥がして、お隣を訪ねた。その積もりはなかったが、御礼を言われた上に、映画の前売り券を二枚頂いた。
―――またまた、ピンクの傘で得したワ。ありがとう。オバアサン。―――
数日後、映画のチケット二枚を口実に、気になる男性をシネマに誘った順子。映画はも一つだったが、恋はクリーン・ヒットだった。その後も、上手くデートを重ね、順調に交際を続け、彼女は彼との愛を育んだ。その甲斐あって、二年の交際期間の末、とうとう目出度く結婚というゴールインを迎えたのだった。
結婚式の前日も、大事に保管していたピンクの傘を触りながら、
―――ピンクの傘をもらってから、次々といい事が起こったわ。ありがとう、オバアサン。ありがとう、ピンクの傘さん!――と感謝の気持ちを忘れないジュンコだった。
度々の福を呼び込んだピンク色のビニール傘。ジュンコは、雨が降ると、いつも丁寧に使っては水道水で綺麗に洗って乾かし、大切に傘たてに保管した。また、いつか、出番が来るかしら、と期待して。
時は移り、乙女のヒロインも新妻となり、出産を経験し、普通の主婦・ジュンコさんに変わっていった。主婦業全般も板につき、毎日、平和にのんびりと暮らす日々が続いた。そんな、ある日。季節は折りしも梅雨のさ中。初めてピンク色のビニール傘を受け取った時と同じ状況を迎えたのだった。
すなわち、雨の中ピンクのビニール傘を差してコンビニにお遣いに行ったジュンコは、帰ろうとして、小さな女の子が出口の扉の前でソワソワしている光景に出くわした。
「小学生なの? お困りのようね。この傘、どうぞ!使ってください。濡れるとカゼ引くから遠慮なく使ってちょうだいね。オバサン、このピンクの傘で何度も幸せになったの。大切に使ってネ。じゃあネ」いつもより弾んだ声で店を後にした順子の表情は明るかった。
―――きっと、当時のオバアサンも、今の私と同じ気持ちだったんだワ。―――そう思うと、もうピンク色の傘もヒロインには必要がなくなったように思えた。
かくして、ピンク色のビニール傘は、持ち主を様々に変えながら、手から手へ、街から街へ、渡りあるいては幸運を運び継いでいった。
どうですか? この「幸福を呼ぶ傘」を、アナタもどこかで手にする日が近いのかもしれませんヨ!!
●禁断!!尚学生に誘惑の罠
八月、夏休み。大正初期のとある田舎町の昼下がりに事件は起きた。
腹をすかした、部活帰りの旧制中学生の次郎は、いつもの経路で下校していた。帰り道の曲がり角にある団子屋。さびれた佇まいながら、味には定評がある。
今日も、そこを通ると、甘い砂糖と醤油の香ばしい匂いに、次郎の胃はグルグルギュ―と鳴った。これが、事件の発端、尚学生への誘惑である。
白の団子を買い求め、近くの野原で焼き立てをほおばった中学生。モチモチした白い団子を食べている内に、教室の向かいの席の乙女・百合絵の白い乳房を思い出した。授業中に、半袖の袴の腋の下から露になった、胸元の白いふくらみ。その色、その張り具合。団子と寸分違わない。
ゴクリ。生唾を飲んだ。
小さな乳房を吸うが如く、団子をしゃぶっては舐めて、奥歯でその弾力を確かめつつ噛みしめる。食欲と性欲に苛まれた尚学生は、照りつける日射しに一瞬気を失いかけた。それでも、若い力を持続して、素早く草むらに入ると半ズボンを下ろし、事に及ぼうとした矢先。
その光景を百合絵の妹に見られてしまった。いたいけな妹は赤面し、わっと言って走り去る。その場で次郎も立ち尽くし、赤面した。そして、次の瞬間から、素早くモノをしまうと妹を追いかけた。すぐに追いついた次郎は、姉にはこのことを言うな、と告げると、口止め料を請求された。団子代しかなかった次郎は、妹の袴をめくって、囃し立てた。妹は、手を払って、憮然とした顔で帰った。学生は、まだ興奮冷めやらず、妹の跡を尾行した。あちこち角を曲がり路地を抜け、とうとう、女子宅に辿り着いた。裏の木々の間から覗くと、これいかに。
縁側で、あの百合絵が下着姿で団扇を股に向けて仰いでいるではないか。
うはー、すげぇ、こんなの見れた……。
よく観察すると、下着の股間は、薄茶色のシミができていた。それを見て、さらに興奮、興奮。興奮すると頭が冴えてくる次郎は、鞄から取り出した夏休みの宿題の書き取りに鉛筆を走らせると、飛行機を折り、即席手紙飛行機を娘に向けて飛ばした。木の塀を超えたヒコウキは、スーッと滑空して百合絵の足元に落ちた。彼女は、それを拾い上げ、小首を傾げながら、中を広げる。
それが「ふみ」と気付き黙って読んだ。
―――君の白き物、とわに純白なれ。―――
ふみを読んだ彼女は、顔を赤らめると、一目散に奥へ引っ込んだ。したり顔の尚学生。塀の木をよじ登って越えると庭に降り立った。女子宅に侵入した次郎は、物干し竿に女子の下着を見つけて、ひとつ失敬した。これにも茶色いシミが。
匂いを嗅ぐと、女生徒の汁はこういうものか、と感慨深くなる。最近読んだ艶本に、そう書いてあった。
しかし、なぜか最近嗅いだ匂い??うん、香ばしい酸味。そうか、アア。昨日喫茶館で飲んだ、ミルクコーヒーだ。明治末期から流行っているヤツ。なんだ、アイツもコーヒー飲んだのか。じゃあ、これもそのシミか。どうりで濃い色だわ。すぐ洗濯しろよな。
シミの正体がわかり、一安心とガッカリのシーソー状態は、高ぶる性欲が勝り、次の獲物へと向かった。縁側に上がりこみ、勝手に汚い素足で畳に足跡を付けると、真昼の昼下がり、人んちの中をズケズケと獣は徘徊した。
―――誰か居ますか? 居ませんね。―――
どうやら家人はおらず、獲物と獣以外に人気は無かった。うさぎの逃げた音を探って、それらしき部屋に入ると、尚学生は、襖をガラリと開けた。赤穂浪士よろしく、大船に乗った勢い。目の前の小刻みに震える押入れの扉が、ここですよ、と教えている。力いっぱい手をかけて、「覚悟せい!ソレ!」と叫んで扉をめくると、白い足を白いズロースからバタバタさせた百合絵のあられもない姿がそこにあった。両手を振り回して、来ないで来ないで、と女は哀願したが、尚学生は、女の腕をむんずと掴むとそこから引きずり出して、扉の外へ放り投げた。
その勢いで目が覚めた。ギラギラした太陽の眩しい野原の草むらで、わずか十分間に夢精したのだった。
「白団子は罪な駄菓子なりけり」と言い捨てて、ズボンをあげた次郎は、小さくなった刀を鞘に収めた。
昔昔の青春の一コマ。<終わり>
●夜更けのプリマ
夜更けのバレエ・スタジオは、シューズの音だけが木霊していた。
カツカツ、トゥトゥ。カツ、トゥー、トゥー。
優美なクラシックは沈黙している。ビルの規制で、音楽をかけられるのは22時までなのだ。
山本雅、愛称ミヤ、は頭の中で『白鳥の湖』を何度も何度も演奏しては、ミスしたシーンを踊り続けた。
―――駄目、駄目。ミヤ!ターンが遅い。ステップも違うわ!―――昼間の武本裕香先生の叱り声が何度も脳裏に蘇っては反芻している。かつて、この名曲に合わせて、何十、何百の踊り子たちが挑んだ練習、克服した本番をミヤは思い描いた。
―――アタシにできないワケないっ!ゼッタイ、ゼッタイに、完成させる!ファイトよ、ミヤ。ファイト!―――
誰も居ない薄暗いスタジオで、ひたすら自分を励まし、自分を信じて、己の夢へと努力する少女。21時までは一緒に踊っていた恵子と杏は先に帰ってしまった。こういう事は雅には慣れっ子で、裏口の戸締りと消灯の仕方は心得ている。
世界的なバレエ・ダンサー、世界のプリマ・バレリーナと呼ばれる日まで、石にしがみついてでも頑張らねば。その思い一途にこれまでやってきた。そして、これからもそうしていく。
雅の家庭は中流階級だが、進学の道を捨てて芸術表現の道を選んだ十八歳の娘に親はお金を惜しまなかった。雅がバレエするのに必要な道具は全てカードで買ってくれたし、バレエでこれが欲しい、と彼女が言えば必ず買ってくれた。でも、新しいシューズをロッカーから盗まれたり、ゴミ箱に捨てられた事件も度々あった。そのような妬みや嫌がらせも、今となっては、そんなコトするヒトなんてどこの世界にも居るのよ、と開き直れるまでに彼女はなっていた。雅が先生に可愛がられているだの、少し金持ちのお嬢様だの、色々な陰口が時々囁かれるのは、競争の世界の宿命、とも思った。そして、そういうヒトタチを、世界の舞台で、アタシの最高の演技で見返してやりたい、との思いも、今の雅を練習の虫へと駆り立てた。
やがて、幾多の試練を乗り越えて、真の挑戦大会の当日となった。ロシアに単身渡り、自炊生活を送りながら、バレエの稽古に励む日々が続いた。そんな雅に、念願のローザンヌ国際バレエコンクールの本選出場切符がロシア人コーチから手渡された。あの切符を手にしてから、あっという間の二ヶ月間。その全てが、いや、これまでの全人生が、アタシの演技時間にかかってるんだワ。
―――演技番号二十二番、ミヤビ・ヤマモト。ジャパン。―――
夜更けのプリマ、と武本先生に呼ばれた彼女は、華麗に、繊細に、白鳥の湖を踊った。幸運にも、三名の審査員は何度も頷いた。観客も、雅の美しさと華麗さに息を呑んだ。舞台の袖にいた、ある国の老コーチは、
「また、東洋のプリマが現れたな」と、目を細めて呟いた。
●醒めたら周回遅れ
都立M高校に通う天文部員のマサムネは、成績優秀で素直な男子高生だった。天文好きからわかるように、理科系で物理と数学が得意だった。テストでは学年トップ5に入る常連で、天文部の副部長をしながら生徒会長もこなしていた。そんな優等生の彼が、その勢いのままに有名国立大学に進学し、天文や宇宙に関わる仕事に就きたい、と夢見ても誰も否定しなかった。
―――マサは、公務員か博士かな。―――そんな噂を幾度も彼は耳にした。
―――それが今じゃ、ただのオッサンかぁ。昔はさ。昼は勉強/夜は天体観測の毎日で、それはそれは楽しかったよな。あれが青春か。何でもやれたし、何でもできた時期だったな。夜空に新星を見つける度に胸がときめいたっけ。アレから二十年。変わり果てた……。情けない。―――
喫煙ルームの窓越しに、街のビルディングを眺めながら、出るのはため息と愚痴と白い煙ばかりだ。
宇宙や星に興味があった学生も、就職先が不況で見つからず、希望と異なる業種、医薬業界へ飛び込んだのは時代の流れだった。菊井正宗・36歳。メーカーの外回り営業、膨大なノルマ、新薬開発の宣伝と得意先回り、お客様相談室での苦情処理の日々、外国人上司とゆとり世代の部下との板挟み、といった数々の場面なり修羅場なりを経験してきた。中年男マサムネにしてみれば、気付けば○○○、というのは腑に落ちる状況だった。
煙草を三本吸い終わって、狭い喫煙室の走馬灯は煙のごとく消え去った。彼はデスクに戻り、午前中の会議の議事録をパソコンでまとめて回覧にまわす仕事に戻った。
今の仕事は正宗にしてみれば重要度の低い「雑務」に映った。そろそろ係長か室長になってもいい歳なのに、回ってくる仕事と言えば、管理業務どころか新人でも任せられるような業務ばかり。そういう仕事を多数兼務させられていた。それは、正宗が思うに、会社や世の中をある程度知り、適切に迅速に処理できる中堅社員、便利で「使える」社員として一番自分が適任である、という事情からではないか。まあ、しかし、このご時世。仕事で忙しいだけでも有難いよな、と思わないとやっていられない。
仕事を夜9時で終えて、赤提灯に立ち寄った菊井は、焼き鳥をアテにしながら日本酒に酔いしれた。酔いが回るにつれて、昼間の回想がまた頭をもたげた。―――成績トップで生徒会長。前途有望。あの高校時代。あの輝かしい青春時代は、まさに今のオレからすれば、憧れだった。あの頃他人をビュンビュン抜いた自分はもういない。現在の自分は、追い抜かされて周回遅れだ、と思った。ちょっと油断したスキに、人々に追い抜かれ、世間の怪しげな煙に巻かれて、「醒めたら周回遅れ」の自分が居て、それを認めざるを得ないじゃあないか。―――
―――一番出来のいいニワトリが、焼き鳥になると串の下の方で、ツマミにもなれずに残飯として捨てられる。―――段々、頭の思考状態も悪循環の赤ランプが点灯を始めた。
悪酔いしたサラリーマン・マサムネを見かねたか、飲み屋の女主人が助け舟を出した、
「チョット。キクイさん。悪酔いしてるわヨ!誰でも一度は遠回りするものよ、人生なんて。アタシなんか、遠回りや寄り道が多くて、今も迷い道よ!アハハハハ」
おかみの豪快な笑い声に悪酔いから覚めた菊井は、グラスの菊正宗を傾けると、
「アリガトウ。オカミさん。そうだよ。そうだ。同じところをグルグル回ってもしょうがないじゃん。そんな人工衛星よりも、別の軌道に移って宇宙旅行だよ。オレはハレー彗星じゃ!」と元天文少年らしい屁理屈を捲くし立てた。
「そうそう。またウチの店に戻ってくるのよ。気をつけて!ハレー彗星さん!」と女将に言われながら店を後にしたマサムネは、意気揚々と帰路に着いた。
考えはいろいろですが、長い人生。走ったり、止まったり、休んだり。近道ありの遠回りありの、落とし穴に迷路。色々経験して、人は強くなるんでしょうね。
●異摩人~イマジン~
Y大学経済学部のキャンパスに見慣れない留学生が姿を見せたのは、鯉のぼりの泳ぐ五月の初めだったかしらネ。白髪に碧眼の美男子イケメン。ポーランドからの留学生で、
「はじめますて。ぼくのなまへは、ミヒャエルと申します」と、たどたどしい日本語で自己紹介してくれた。
「わたし、アキヨです。経済の三年生。よろしく」って言ったら、
彼は優しくはにかんで、「アキヨさん。いろいろせわしてください」と。
え? <おせわになります>だろうが……。って、つっこみたくなったワ。
最初の頃は、私も、日本のコトとか、経済の専門課程のコトとか、スラスラ会話できたのヨ。でも、ポーランドって、何があるの? ミヒャエルの私生活とか、家族とかって、……???謎なの!……。そういう話を向けると、彼は笑ってオカシナ日本語で誤魔化したり、わざと違う話題に変えちゃったり。まぁ、そういう外国人なのかな、何かあるのかな、とは思っていたけど、それが、アアなるなんてネ。それが分かりだしてからというもの、私を含めた友人たちは、ミヒャエルのことを、「異摩人(イマジン)」と呼ぶようになったワ。何かさ、彼が、「異摩人」がその力を出すと、何かが起きるんだもん。そりゃ、イマジンて呼ばれるわよ。
何の力か知りたくなるでしょ? 何が起きたかも知りたい? じゃ、話すワ。
ある日、友達のナナヨが風邪引いたの。熱が37度5分でたらしくて。微熱が一番コタエルのよね。次の日が就職面接でさ。ナナヨ半泣きだったワ。それで、困っていたら、そばに居たミヒャエルがナナヨの頭をヨシヨシって撫でたの。そしたら、次の日、ナナヨは元気になった。別の日には、レストランでランチして会計してたら、前に並んでいた男性の順番でその人がカードを失くしたらしいの。ミヒャエルが今度は男性の手を撫でると失くしたクレジットカードが男性の鞄の内ポケットから見つかって。まあ、このヒトったら、何か持ってるのかなって思ったけど。でも、三つ目は全く偶然とは思えないコトなのよ!!先輩のお姉さんがお通じで悩んでてね。もう三年以上も続いていたんだって。それがね。彼の話を聞いた先輩が無理やりミヒャをお姉さんに会わせたんだって。ミヒャエル君がお腹をさすったら、次の日からお腹の張りが無くなって、普通に快適な朝を迎えられるようになったっていうのヨ!!すごいでしょ!?さすられた晩から、腸がグルグル鳴って動き出したみたいだった、ってサ。フシギよねぇ。でね。テストが悪かったとか、意地悪なことをしたとか、本人が悪い場合は、彼のナデナデ・パワー、効かないの。
分かったでしょ。彼が困っている人の体を撫でる(摩)と、ラッキーなことが一つ起きるのよ。
「摩」という漢字には、仏教用語みたいなので、すぐれる、多い、っていう意味もあるらしいの。摩訶不思議とかあるでしょ。体をなでる「摩」より、すぐれる「摩」の方が彼にはピッタリだったわ。昔、『E.T.』っていう映画があったらしいけど、ウチの准教授が映画みたいだって言うの。ホントかしら? ラッキー・ミヒャエル。アキヨたちの守護神ね。だから、「異摩人」なの。
それからも色々楽しかったわヨ。みんなイマジンと楽しく過ごしたわ。でもね。結局、他人に幸運を授け過ぎちゃったのか、彼、その年の秋に、体調崩して母国に帰っちゃった。
●車いすのF1レーサー
―――太陽新聞12月25日。―――
クリスマスの今日、自動車ドライバーの中条修造選手(28)は、来季からF1グランプリシリーズに出場することを自身の公式ホームページで発表した。これまで5年間、欧州のF3レースに出場し、度々入賞を経験した同選手は、F1出場を目指し、日本を含む海外のスポンサーを探していたが、ようやくある企業と契約。来季から夢舞台の出場が決まった。
昨日、報道陣の前に姿を現した中条選手は、
「やっと夢の晴れ舞台に立てます。あ。オレ、車椅子だから座ってますけど(笑)。ともかく、足の不自由な人でも最高の夢を与えられるというメッセージを送りたい。目標は、早く表彰台に上がることですね」と話した。
同選手は、20ⅩⅩ年の15歳のときに、交差点で乗用車と衝突し、左足を骨折。その後、治療を重ね、啓発活動で知り合ったF1選手に励まされ、東大スポーツ科学研究所の協力の下、運動障害を乗り越えて7年前からプロレーサーに転身した。神奈川県出身。
●暗路射光の女神
弘人は、午後十一時を回って、いつもの駅で下車した。駅前のコンビニで馴染みのタバコを買い求め、店の前で二本吸った。「そろそろ帰るか」と一人呟き、大通りを渡って狭い路地を進んだ。会社が借り上げた単身者用マンションまでの道のりが、この路地を弘人に通わせ続けていた。
弘人は、この暗い路地、明かりのない石畳の古い路地、ひとけの少ない寂しい家々の間の路地が自分好みだと思った。人にはうまく説明できない。だが、明るい大通りを好んで歩いた若い頃とは好みが変わってきたと悟っていた。二十一世紀になって、住みにくい世の中が加速しているような気がしてならなかった。
―――日本人なら、大人なら、誰でも分かることを。―――
いちいち明文化してパソコンで書き上げ、プリントアウトすることの煩わしさ、細々した法律や決まりごと、隣人やグループ内の軋轢やトラブル回避のために割かれる時間。数え上げればキリがないナ、と思った。今の日本には、宇宙人でも紛れ込んでいるのか? と思いたくなるような、大小の出来事に、失笑したり、悩まされたりの毎日。喧騒の世間と隔絶したこの路地に、古き良き「昭和の香り」を感じて、今まで歩いて来た道のりを逆戻りしているんだろうか。いや、オレのような、しがない中年会社員に残された憩いの細道か。
暗路を照らすのは、雲間から顔を出した月明かりのみ。薄暗い路地を徒然な空想と共に歩んでいると、突然目の前に白く淡い光が漂い始め、彼の体を包んだ。それは、ボンヤリとした発光体で、夜の海に光る海月のようだった。
―――何だろう、これは。……。不思議に、やすらぐ……。―――
やがて、白色発光体が声を発した。
「地図のない暗路を彷徨う旅人よ。
今宵、ひと時のあいだ、私が行く末を照らしましょう・
寂しかったでしょう。心細かったでしょう。
ほのかな灯を、さあ、どうぞ」
ウグイス嬢のような凛とした声が弘人の耳に届くと、発光体の一部が、フワッとふくれ、……、五、六個の球状に分裂して、お稲荷さんの灯篭のように、行く道をはさんで両側に浮遊しながら整列した。
「やぁ、明るいや。これはありがたい」足元を照らされて声が弾んだ弘人は、ボンボリ輝く石畳の<参道>を小股で踏みしめながら歩いた。自分のこれからに対して、ほんの少し勇気が湧いてきた気がした。そして、周囲の雰囲気に陶酔した中年男は、ボンボリの中に、年老いて孫と共に笑う未来の自分の姿を見つけた。いや、そんな気がしただけかもしれないが。
「女神かビーナスか。不思議な、夢のような時間と空間がオレを支配している」
神秘的な体験がやがて終わり、辺りは元の真っ暗闇に戻った。
マンションに辿り着いた弘人は、日記にこう記した。
<暗路射光の女神現る>
●東京摩天塔
半宇宙と地表を一本のケーブルとゴンドラが行き来する時代がやがて到来するかもしれない。今回はそういうテーマをモチーフにしたお話です。
コウジは、小さい頃、東京スカイツリーに上って地面を見下ろして感動したことがあった。―――原光司/インフラ整備庁・東京A地区開発官。―――現在のコウジの肩書きである。技術の進歩で、宇宙と地球を結ぶ幹線が間もなく開通する日が来る。宇宙エレベーターと俗に呼ばれてきた幹線の搭乗デッキを設計・施工する建築会社の現場責任者の業務をコウジは任されていた。
「原さん。ついに完成ですね。 宇宙エレベーター」現場の係員が原に話しかけてきた。
「そうだな。子どもの頃はスカイツリーを見下ろすだけで感動したっけ。これからの子どもたちにとっては、宇宙エレベーターから下界を見下ろすのが感動体験だろうな」
「この東京地区の搭乗デッキ。なんと名付けますか」
「公には一般に募集をかけるとして、内々的には、東京摩天楼か、……楼、……塔」少し小首を傾げた光司はデッキから宇宙エレベーターの幹線ケーブルを見上げると、
「摩天塔。東京摩天『塔』でいいんじゃないか? 宇宙空間へ伸びている『塔』だからな」と言った。宇宙エレベーターは、分類上は線状構造物と呼ばれるものである。エレベーターの搭乗口と搭乗デッキを含めて塔が形成されている部分はエレベーターを見上げる展望塔になっていた。だから原の言うように、その展望塔や搭乗デッキは「宇宙空間への塔」には違いない。東京摩天塔と今後呼ばれるであろうこの建造物は、ケーブルと、ケーブルを介して地上←→宇宙ステーションを往復するゴンドラとで構成されている。こうして、搭乗デッキと搭乗タワーも含めて全てを東京摩天塔と、さも東京の新名所の如く総称されることになった。従来のタワーと称する建物は、高層ビル同様、地面もしくは山や丘などの上に建てられ、上空へとその高さを伸ばし、展望室から地表を見下ろすものであった。しかし今回の「塔」は、展望デッキこそ従来のものと大差ないが、デッキから出発したゴンドラの到着地点が半宇宙空間上の宇宙ステーションであること、そこから眼下に広がる光景が地球の列島や大陸の形などの巨大パノラマでこれまでと全くスケール感が異なること、更に夜になると見上げた景色が満天の星空で天然のプラネタリウのような観覧が可能であることなど、さまざまな視点で科学の進歩と宇宙時代の現実化を垣間見る施設となる、と言われている。こうした塔は東京を始めとして、ニューヨーク・パリ・香港などでも一連のプロジェクトとして計画されている。いわば、東京摩天塔がエポックメーキングの処女地点なのである。
感慨深げに摩天塔を見上げる関係者の中に、ひときわ目立つ美人の女性、岡安江玲奈という人物が記者に囲まれていた。今日は、マスコミを集めての内覧会でもあった。東京摩天塔の広報係の彼女は、マスコミの記者を前に、次のように持ち前のスマイルで語りかけた。
「マスコミの皆さん。この建物は、宇宙ステーションへの玄関口となります。ご存知のように宇宙ステーションでは各国の方々がお見えになる為、パスポート同様の入館審査が必要となります。宇宙エレベーター搭乗のお客様は、アルコールとお煙草はお控えになってください。また、妊婦の方もご遠慮いただく場合が御座います。他に、テロ防止のため、審査ゲートをくぐる際は生体認証のタッチパネルに手を触れて下さいませ」
「なるほど。手をタッチして凶悪犯かどうかの検査をするんですか」A新聞の記者がコクリと頷いて言うと、
「はい。犯罪集団やテロリスト摘発にご協力下さい」と広報レディーは真顔で返答した。
「どうせタッチするなら美人の後でパネルに触りたいな」B新聞の記者がそう茶化すと、「お前、それって間接タッチか?」と記者の知り合いが突っ込みを入れたので、少しむくれた表情の江玲奈嬢は、目尻を下げてる男たちを睨みつけると、
「下心は神聖な宇宙へは持ち込み禁止ですっ!!」とキツイ声で記者団を咎めたのだった。
万花物語 #71-90