ソシュール言語学要諦
先だって徹夜明けの狂ったテンションで大失敗した駄作を、大幅に改稿したものです。お待たせしてしまい、申し訳ありませんでした。そのお詫びにちょっと趣向を凝らしておりますので、よろしければお楽しみください。ご意見ご感想や誤植などがありましたら、twitterで@newsorneまでお知らせください。
俺はその日、学校から帰る途中で柄にもなく図書館に寄って行った。そしてため息をつきながら、読みたくもない小難しい本を何冊も集めるのだった。
それは、忌まわしき倫理の宿題を終わらせるという目的のために俺が採った、やむを得ない手段である。昨日までの俺はまた、いつものように適当にやって出すか、あるいは白を切って提出しないかの二者択一で迷っていた。しかし今日このときに至って俺は、レポートはピンチであると同時に、またチャンスでもあるということを利用しようと思った。今まで倫理の授業という授業を睡眠時間に充ててきた俺にとって、レポートの評価は是非とも手に入れておきたいものであった。これは、倫理の成績を賭けた、俺の壮大な計画なのだ。ちなみにこれは俺の純粋な自由意志の発露であって、断じて今日の昼休みに倫理教師に呼び出されて説教を受けたこととは関係ない。
参考になりそうな本をいくらか持ってきては見たものの、貧弱な俺のアタマはすぐにオーバーヒートした。いざ勉強せんとして意気揚々と机に向かい、読書を始めてから完全に戦意喪失するまでの時間たるや、ものの五分とかからないほどである。結局、図書館で得た収穫は、俺の頭が勉強向きには出来ていないという不愉快な事実を再確認したことだけであった。
ふと、俺の脳裏に一つの言葉が浮かんだ。
――適材適所――。
俺は、家への帰路を急いだ。
「なるほど、それでわたしにレポートを代わりに書いてくれ、ってわけなの?」
憂姫は、あきれ顔でこっちを見ていた。その冷たい視線は、俺の良心をちくりちくりと痛めつけた。それでも、背に腹は代えられない。
「いかにも、その通りだよ」
煮え切らない憂姫の態度に痺れを切らした俺は、つい語気を荒くしてこう答えてしまった。しかし、俺の弱みをしっかりと握っていた憂姫は全く乱れの色を見せず、かえって強硬な態度に出始めた。
「ふうん。そうゆう言葉遣いをするってことは、お兄ちゃん、お願いをきかないでいいってことなのかな? ひとに頼みごとをするってときには、もっとこう、ちゃんとした頼み方ってものが――」
「はい、すいません憂姫さま! どうかお許しを――」
それでよろしい、とでも言うかのように憂姫は表情を和らげ、優しげに俺に問いかけた。
「お兄ちゃんのレポートをわたしが書いたら、筆跡が違うからすぐにわかっちゃうんだよ。だから、私は代筆はしてあげられないよ」
落胆していく俺を、憂姫はこう励ました。
「お兄ちゃん、レポートはちゃんと自分で考えて書いてね。でも、大丈夫だよ。必要なことは、全部わたしが教えてあげるから――」
マグカップに淹れたばかりのまだ温かいココアを一口すすってから、憂姫はこうつぶやいた。
「さてと――」
憂姫はいよいよ、説明を始めるようだった。
「レポートの課題は、構造主義、か――」
俺が渡した課題要綱を一瞥するなり、憂姫は俺の方へと顔を向けてこう言った。ついに憂姫による特別講義が始まった。
「まず初めに聞くけど、お兄ちゃんは構造主義についてどれくらいのことをしってるのかな?」
その問いかけに、俺は終始無言を貫き通した。不気味な沈黙が一分間ほど続いた。その静謐を破ったのは、憂姫の方だった。
「なんにも知りません、ってことね――」
憂姫が残念そうにこちらを見つめてくる。
「じゃあ、構造主義の始祖、フェルディナン・ド・ソシュールの話でいいね?」
またしても憂姫は俺に意見を求めてくる。そんな名前なんか知るもんか、と目線で訴える。分かってか分からずしてか、はあ、と憂姫は嘆息を漏らした。
「お兄ちゃん、それじゃあホントの始めの始めから教えてあげるから、ちゃんときいてるんだよ!」
はい、と俺は気のない返事をした。
「ソシュールっていう人は言語学者で、言葉と物の関係を研究した人なんだよ。ほかにもいろいろなことをやってるんだけど、お兄ちゃんはまずこれだけ覚えておけばいいよ」
憂姫はテーブルに転がっていた鉛筆を拾うと俺に見せ、こういった。
「お兄ちゃん、一つクイズだよ。私がいま、手に持っているものはなんでしょうか?」
さっぱり意図がわからなかったが、正直に答えておく。
「鉛筆、だろ」
「ピンポン、正解だよ。ところで今、お兄ちゃんはenpitsuって言ったんだよね。なんでその音声が、わたしの持ってる物を示すのかなあ?」
言葉が物を指し示すのはごく当然のことであるが、自明のことすぎてその理由を説明できなかった。俺は、そんなの当たり前だろ、という返答を喉元で押しとどめた。当たり前とか常識とか、そんな言葉でごまかしていては、憂姫の言わんとするところが台無しになってしまうような気がした。
「お兄ちゃんは、言葉とは物を呼ぶためにできた、そう思う?」
俺は黙って、こくりとうなづいた。憂姫は、この反応に満足したようだった。
「うん、それはごく普通の考え方なんだよね。でもね、このソシュールという人は、そんな当たり前のことを疑い、そして新しい考え方――構造主義――へとたどり着いたんだよ」
憂姫はこう言い終わると残ったココアを飲みきって、また続けた。
「お兄ちゃん、構造主義っていうのはおおざっぱに言えば、モノ中心主義からコト中心主義への転換のことなんだよ。いい、これは大事なことだから、よく覚えててね!」
こう強く念押しして、いよいよ本題に入った。
「昔――ソシュール以前――の学者たちは、言語を考えるにあたって、まずはモノに注目したんだ。目の前にあって、言葉なんかよりよっぽど確実だからね。でも、彼、ソシュールは自分の理論においてオトを第一のものとして置いた」
いよいよここからはわかりにくいから注視せねば、と気を引き締めた。
「犬に例えて話すと、以前は犬というモノが先にあって、それを呼ぶために後からイヌというオトができたと考えていたんだ。でも、ソシュールは違った。イヌというオトがまず先にあって、その言葉に分節された世界として初めてモノとしての犬が開示されるのである、と彼は説いたんだ。
そして、モノには一定したオトが付属する、という考えはこんな風にして論破され、だんだん影響力を失っていったんだよ」
そういうと憂姫はノートを取り出し、さらさらとペンを走らせた。流麗な筆記体のアルファベットを書いていた。
「フランス語では羊のことをmoutonというんだけど、お隣のイギリスに行くとどうだと思う? 実は、これに対応する英単語は存在しないんだよ」
「え? sheepじゃないの?」
「ううん、それが違うんだ。sheepは生きた羊を表す語で、羊の肉はmuttonという単語で表されるんだよ。二つの英語に対して、一つのフランス語が釣り合う。これでは、まずモノがある、という意見が成立しなくなるの。だってモノが全世界で共通なんだったら、それぞれ対応するオトも一組ずつないといけないからね」
キッチンの方で、ひつじさん~、と叫ぶのが聞こえた。だが、俺も憂姫もそれには構わなかった。
「このことに着想を得たソシュールは、言葉とは無限に分割可能なんじゃないか、と考えるの。たとえば、雪国ではいろいろな種類の雪を表す単語があるんだけど、雪のない南国では一つしかない。外国では同じ雪と呼ばれるものだって、日本では粉雪とか牡丹雪とかに区別されていろんな名前で呼ばれる。そういう風に、モノはオトによっていくらでも細かく分けられるんじゃないか、とソシュールは主張したの。そしてそれを敷衍して、モノとオトの間には一切の必然性が存在しない、とまで言い切ったんだ」
そういうと憂姫はココアのおかわりを作りに、キッチンへと向かった。俺は、しばしの休み時間をもらったわけだ。
その間に、俺の心中には一つの疑問が生じた。確かに憂姫の言うとおり、言葉が無限に細分できるということには納得した。しかしそれでは、その理論がありながらもなぜこの現実が混乱なく進んでいるのかがわからなかった。言語がそんなに不確かなものなんだったら、この世界だって、俺には見えないだけで不安定極まりない構造をしているのではないか――。そんな、恐ろしい想像が頭に浮かんだ。
「なあ、憂姫――」
憂姫が戻ってくると俺はそのことを問い尋ねた。憂姫は俺の自主的な態度ににわかに驚いたようだったが、すぐに微笑を浮かべてこう答えた。
「うれしいよ。お兄ちゃんが、こんなことに興味を持ってくれるなんて――」
そして、ゆっくりと首肯してこう続けた。
「確かに、理論上はそうなるんだよ。でも、現実にはあり得ない。言語というものは共同体の中で使われているものだから、その共同体のみんなが一斉に変えない限りは、そんな急には変化しないんだよ。もっとも中国では皇帝がそういうことをしていたんだけど――」
俺は、無意識のうちに相槌を打っていた。
「一体なにが、この不安定極まりない言語を底から支えているのか。それは、私たちの過去、つまるところ習慣だよ。例えば――」
と、憂姫はココアが半分ほど入ったマグカップを指して言った。
「確かにこれをmagukappuというオトで呼ぶ、絶対的な理由はない。でも、みんなこれをその名前で呼ぶ。それは、他の人、言葉を伝えたい人がそう呼んでいるからなんだよ。言いたい事を伝えるには、みんなと同じ言葉を使って会話をしなければいけない。ただそれだけの、習慣的な理由によって私たちの日常生活は守られているんだよ。もし突然みんながこれを別の名前で呼び始めたら、私もそうするしかない。それほど、この日常は脆弱なものなんだよ」
あ、と憂姫は一つ付け加える。
「この理論のうちで大事なのは、言葉の表すモノはそれ単独であるのではなく、他のオト、他のモノとの関係の中で初めて成立しうるものである、っていうことなんだよ。今はまだよく分からないだろうけど、これが、いわゆる構造主義を端的に示す特徴なんだからね。一番の要所はここだと思っていいくらいだよ」
ふうん、といつしか俺は無意識のうちに返事をしていた。
ここまで講じると、憂姫はココアを飲み干してこう言った。
「じゃあ、話はここまで、ね。またわからないことがあったら、お兄ちゃん、私の部屋まで質問に来てちょうだいね」
俺はすぐにレポート用紙を取り出し、一字一句よく考えて書き始めた。
ソシュール言語学要諦
ソシュールや構造主義に興味がある方には、内田樹「寝ながら学べる構造主義」を、さらに深く勉強したいという方には、丸山圭三郎「ソシュールを読む」をお勧めします。