修羅を征く

第一章 貴族への道 Ⅰ

 頼朝(よりとも)から遡ること八代の祖に“源満仲(みなもとのみつなか)”と言う人が居る。私領・多々荘(ただのしょう)を経営していたことから多田満仲と呼ばれたが、音読みして『只の饅頭(まんじゅう)』などと渾名されもした。
 世の中勧善懲悪で済めば平和だが、現実は中々そうは行かない。功成り名を遂げるまでには修羅を潜らなければならないことも多い。満仲にもそんな過去が有った。

 夕暮れの縁に出て、満仲は珍しく感慨に耽っていた。
 良くぞここまで来たものだと思う。多くの者達の恨みを買った。満仲への恨みを晴らす為、(やかた)に押し入って財貨を強奪して行った者も居たし、二度に渡って館に火を掛けられもした。一度などは近隣一帯を焼き尽くす大火になり、それが為、貰い火で屋敷を焼かれた貴族達の恨みを買う事になった。命を狙われた事も、一度や二度ではない。正に綱渡りの人生だった。
 だが、他にどんな生き方があっただろうかと満仲は思う。父は六孫王(ろくそんおう)と呼ばれた元皇族で、臣籍降下(しんせきこうか)した後は源経基(みなもとのつねもと)と名乗っていた。
 臣籍降下とは多くなり過ぎた皇族を養い切れなくなって、桓武天皇の時代から行われるようになった謂わば皇族のリストラである。由緒正しき家柄ではあるが、清和天皇から数えて四代。満仲は三世源氏となる。親王が臣籍降下した一世源氏と違い、(みかど)の孫である王の更に子となるとその地位は低く、貴族でさえ無い地位から出発しなければならなかった。おまけに父・経基(つねもと)はその人生に於いて大失態をやらかしていた。
 
 源経基(みなもとのつねもと)は、平将門(たいらのまさかど)が謀叛を起こした承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱にほんの少しだけ関わりを持っていた。 
 武蔵権守(むさしのごんのかみ)興世王(おきよおう)と足立郡司・武蔵武芝(むさしのたけしば)との間に起きた争いを調停しようとして、平将門が武蔵に入った際、将門らに館を襲われたと勘違いして慌てて都に逃げ帰り、将門と興世王、武蔵武芝がグルになって謀叛を起こしたと朝廷に訴え出たのだ。
 しかしこれは、手打ちの宴が盛り上がり、酒に酔った兵達が、経基の配下の者達を誘おうと松明(たいまつ)を手に(すけ)の国司舘に押し掛けたのを、経基が襲撃と思い込んだものであって、全くの事実無根であった為、経基は虚偽の訴えをしたとして投獄されてしまった。そして、未熟者、臆病者と世間から嘲られる事となってしまった。この時の将門には謀叛の意思など全く無かったのだ。後に将門が実際に謀叛を起こした為、経基は許され名誉回復することが出来たのだが、満仲の修羅の人生は、父が投獄された正にこの時から始まった。

 父・経基が初めて得た職は武蔵介(むさしのすけ)。位階は従六位下(じゅろくいのげ)だった。既に子の満仲が二十歳を過ぎての事である。貴族と呼ばれるのは五位からなので、未だ六位の経基の子である満仲が貴族になれる可能性はほぼ無い。
 降下した者の多くが、次の代には庶民の身分にまで落ちて行くことになる。この時代、子等は妻の実家で育てられた。しかし、二十歳を過ぎていた満仲は、そういつまで母の実家の世話になっている訳には行かない。母の実家からは、他家の家臣となることを強く勧められた。
 出世を目指し官職に就く為には、無報酬で公卿(くぎょう)と呼ばれる上級貴族の従者(ずさ)となり、(あるじ)の推薦を受ける順番を待たなければならない。推薦を受ける為には、何年も貢物(みつぎもの)を贈り続けなければならない。家計にそんな余裕は無かった。朝廷が認めた家臣と成れば俸給が貰える。家計のことを考えれば当然そうすべきなのだが、満仲は、貴族への道を諦めたくはなかった。将来得るであろう子や孫への、己の責任を感じていた。一旦他家の家臣となってしまえば、未来永劫、子や孫もその身分から浮かび上がることは出来なくなってしまう。
『このまま終わってたまるか!  何としても貴族に上ってやる』
 満仲は強くそう思っていた。そんな訳で母の実家に居づらくなった満仲は、父の赴任に随行して武蔵に移っていた。父・経基は府中に有る国司舘に単身で住み、満仲と母は比企郡に建てた私邸に住んでいた。

 或夜、寝入っていた時刻、騒がしさで目覚めると、血相を変えた父が馬で駆け込んで来ていた。何事が起きたのか聞き糺す間もなく、母と共に支度をして付いて来るよう命じられた。
「父上! 何が有ったのかお聞かせ下さい。こんな夜中に母上まで同道して何処へ行こうと言うのですか?」
 そう聞いた。
「謀叛じゃ! 平将門が武蔵武芝と図って謀叛を起こした」
 父はそう喚いている。足立郡司・武蔵武芝と国府の間に争いが起きている事は知っていたし、将門が武蔵に入ったと言う噂も耳にしていた。
「父上。落ち着いて下さい。将門が武芝と結んで謀叛を起こしたとして、国府の兵はどうしたのですか? 国府の兵を以て将門らと戦う事は出来ないのですか? 権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)様は何処に居られるのです」
「興世王殿は将門に尻尾を振って、将門の調停を受け入れた。麿は、それに反対して引き上げ、国司館に戻っていた。それに腹を立てた興世王殿が、将門と謀って館に兵を差し向けて麿を討とうとしたのじゃ。ここへも間も無く攻めて来る。急げ! 一刻も早く都に戻ってこの事を報せねばならん?」
 (にわか)には信じられない事ではあったが、父を疑う訳には行かない。国府の兵までもが敵となって攻め寄せて来ると言うなら、もたもたしていたら命を失う事になる。満仲は母に事情を話し支度を急がせる一方、父の換え馬を含めて三頭の馬を用意させた。郎等(ろうとう)二人に松明(たいまつ)を持たせ、夜の武蔵から都に向けての辛い逃避行であった。しかし、逃避行と思っていたのは経基側の思い込みなのだから、実際には追手など掛かっていなかったのだ。

 父が投獄され都中の笑い者になってしまった為、母は恥ずかしくて街も歩けず、寝込んでしまった。
 父・経基は元皇族であり人付き合いも良い方だったので、臣籍降下した後もそれまでは、貴族達との付き合いは続いていた。その(つて)を辿って何とか解き放ちをしてもらえないかと、満仲は連日父との付き合いの有った公家達を訪ねて回った。苦しい家計の中から工面して手土産も用意した。しかし、大方の者は居留守を使い、(たま)に会ってくれる者が居ても、
「気の毒とは思うが、お上の決定を覆す事は、我等の力では出来ぬ。公卿方(くぎょうがた)に働き掛けてみるつもりではあるが、余り期待せぬが良い」
などと言う返事が殆どだった。『公卿方に働き掛けてみるつもりではあるが』とは謂わばお愛想で、実際には何もするつもりは無い事は見て取れた。何事も無い時には親しく付き合っていても、いざとなると世間は冷たいものだと満仲は思い知った。

 父の浅薄さには腹が立ったが、それでなくとも遠い貴族への道は、最早絶望的となってしまった。流石に強気な満仲も、出世を諦めかけていた。
 そんな時、図らずも満仲を救った人物が居た。他ならぬ平将門である。天慶(てんぎょう)二年十一月将門は、常陸(ひたち)の国府を占拠し、国司の権威の象徴である印鑰(いんやく)を奪い、国司を追放した。謀叛である。
 その為、朝廷は経基を拘束して置く事が出来なくなり、経基は放免された。そればかりではない。『将門に叛意が有ることを早くから見抜いていた』として、功を称されて五位に叙せられたのだ。思わぬ事から父は貴族となった。と言う事は、満仲が貴族に成れる可能性が出て来たと言うことなのだ。貴族は完全世襲制ではないので、父の位階をそのまま引き継げる訳では無い。しかし、貴族の最下位である従五位下の者の子でも、二十一歳になると従八位上となる事が出来るので、父が更に出世を重ね、満仲自身も努力すれば貴族となる道が開けた。

 満仲は、又別の意味で人の本性を見る事になる。掌返(てのひらがえ)しである。
 居留守を使った者も、気の毒と同情する振りはしたものの実際には何もしなかった者も、経基が解き放たれ、その上、功を称されて貴族に列せられたとなると、我もわれもと祝いの品を持って押し掛けて来た。
「いや、麿も随分と貴公の解き放しをお願いしていたのじゃ。何れにしても良かったのう」
などと、やってもいない事を恩着せがましく言う者ばかり。父は、その者達が満仲の願いを冷たくあしらった事など知らない。その者達の態度を苦々しく思うどころか、
「あの将門と言う男が叛意を抱いている事はひと目見て分かった」
などと能天気に法螺(ほら)を吹いている。将門がやって来る前に興世王と対立して、腹を立てて引き上げてしまっているので、実際には将門とは対面していないのだ。父も含めて『何なのだこの連中は』と満仲は思った。こうした経験は、その後の満仲の生き方に大きく影響を与えた。
『よくよく人の本性を見極めなければ道を誤ることになる』
 満仲は常にそう意識するようになった。

 解き放ち後の経基であるが・副将軍の一人となって将門追悼に向かった。しかし、将門が藤原秀郷(ふじわらのひでさと)平貞盛(たいらのさだもり)らに寄って討たれた事を知り、已む無く帰京する。続いて、まだ瀬戸内で暴れていた藤原純友(ふじわらのすみとも)追討の軍にやはり副将軍として参加し、手柄を立てる事を目指した。しかし、ここでも既に小野好古によって乱は鎮圧されてしまっており、経基の働きは、純友の家来・桑原生行を捕らえるにとどまり、大した手柄とはならなかった。

(あつもの)()りて(なます)を吹く』と言う諺では無いが、投獄されたことが余程応えたと見えて、その後の経基は無難に役目を果たすことばかり考えるようになった。
 と言うのも、投獄された遠因を辿れば、正任(しょうにん)の武蔵守が着任する前に一儲けしようと企んだ権守(ごんのかみ)興世王(おきよおう)に誘われてそれに乗った事なのだ。搾取に反発した武芝との間で争いとなり、力で押さえ付けようと兵を出して武芝の財産を略奪し、民人(たみびと)達を率いて山に立て籠った武芝を国府の兵を以て包囲した。武芝は、その頃身内との戦いに連戦連勝し名を挙げていた上総(かずさ)平将門(たいらのまさかど)に仲裁を依頼した。その将門の仲裁に応じるかどうかで、経基(つねもと)興世王(おきよおう)は対立し、腹を立てた経基が館に籠もった事が原因となって誤解が生じたことが間違いの全てだ。
『興世王の誘いに乗って欲を出さなければあんな事にはならなかった』と経基は悔いた。
 今の時代であれば真っ当な生き方に目覚めたと評価してしかるべきではあるが、この時代、立場を利用し搾取や横領を重ねて私財を蓄えて、それを貢物として上級貴族に贈り続けなければ、早い出世は望めなかった。

 私欲と保身に(まみ)れた貴族達の本音を満仲は見てしまっていた。父が貴族の端くれに成れたからと言って、手を(こまね)いていて自分も貴族に成れる訳では無い。父の出世を願っているだけでは、自分の一生はせいぜい下級官吏止まりだろう。出世する為には財が要る。満仲は、そう強く思った

修羅を征く

修羅を征く

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-29

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