雪は涙に溶ける

少女は二人の恋のためだけに走る

一人は二人の為に、二人は一人の為に。
薫子は一人の男を好きでいた。
その男は幼馴染の士郎という男である。
士郎は顔立ちが女性よりも女性のようで、髪も長く、振る舞いも女性のような気品が感じられる美少女のような男子であった。そのため、父親からは嫌われており、母親も早くに亡くした彼は一つ年下の薫子が姉や母のような存在であった。薫子は士郎を誰よりも心から愛していた。
ある日の事、薫子は士郎に呼び出された。薫子は胸に期待をしながら約束の場所まで行き、士郎を待った。
士郎を待っている間、一人の男に声をかけられたが、士郎の事もあり無視をした。
薫子にはあまりないことだった。いつもなら声をかけられるのは士郎であった。それも男に。
冬の事であったので、薫子の体は冷えてきた。
そしてこの時、士郎の姿が見えた。
士郎は薫子の前まで来ると、薫子を待たせたことを謝った。
薫子はそんな事は気にしていなかったのだが、士郎は薫子に申し訳なさそうにしていた。
「それで、どうしたの用って?」
薫子は一つ一つの言葉の意味を感じながら言った。
「そうだね。言わないと」
士郎はそう言うと、一つ間を置いた。そして自分よりも美しいと薫子は思った。
士郎は力を込めたように言った。
「薫子ちゃん。僕、結婚することになったんだ」
士郎の言葉は冬の寒さよりも薫子の体を冷たくした。そしてしばらく薫子は喋ろうと努力したが、口が思うように動かなかった。
「薫子ちゃん....?」
士郎は心配そうに薫子を見ていた。
「おめでとう....士郎....」
薫子はそれだけしか言えなかった。
「ごめんね。今日は寒いし私もう帰るね」
士郎の言葉も聞かずに薫子は逃げるように帰っていった。
薫子の目には涙が浮かんでいた。
「なんで私、泣いてるの?士郎が結婚して幸せになるなら嬉しいはずなのに....」
涙は止まらず地面に落ちていった。
あんなことを言われるのなら先程の男についていった方が良かったと薫子は思った。だが、薫子は士郎が好きなのだ。
薫子は士郎の事を思い浮かべるたびに、涙を流し、家に着いても悲しい気持ちは消えなかった。
両親は薫子を見て驚いたが、深くは聞かず、優しい言葉を掛けた。五歳の小さい弟は姉の泣いている姿に興味を持っていた。
次の日の朝も薫子の悲しい気持ちは消えていなかった。
「こんなに引きずるものなのね」
薫子はこの気持ちに痛みすら感じていた。
服を着替え、髪を一つ縛り、ご飯を食べてから薫子は自分の顔を見た。
「うん、大丈夫。泣いてる顔には見えないわ。いつもの私」
薫子は自分にそう言い聞かせた。
そして弟の頭を撫で、家の扉を開けた。
家を出て少し歩くと、士郎の家があり、士郎がちょうど外に出て、二人は目があった。
沈黙が流れた後、士郎が薫子に挨拶をした。
薫子は少しだけ挨拶をした。
「昨日はごめん」
「うん、大丈夫」
薫子は笑おうとした。
「結婚はお父様の言いつけなんだ」
「士郎はそれでいいの?」
薫子の言葉に士郎は少し間を置いた。
「僕にはわからない。自分の感情がわからないんだ」
「そう....」
そしめ再び沈黙が流れた。
薫子は士郎の顔を見た。
「ねえ士郎、結婚ってそんなものでいいのかしら?愛し合ってない人同士で結婚してもそれは結婚とは言わないんじゃないかしら。古い気がする。何もかもが....」
「ごめん....」
「士郎は悪くないよ。悪いのは時代よ」
薫子はそう言うと、心にあった悲しみが消えていくような気がした。
そして学校の中に入り、士郎と別れると、先程言葉を内省的に振り返った。
士郎に当たっても何もないのだと薫子は思った。
薫子は自分が情けなかった。
学校の中で一人で考え事をしていると友人の智子が話し掛けてきた。
「おはよう、薫子。顔色が良くないわ。どうかしたの?」
薫子は智子に士郎の事を話そうか悩んだが、結局話すことにした。
話を聞いた智子は複雑そうな顔をしたが、薫子の顔を見るや笑顔に変わった。
「薫子はその男の子が好きなの?」
「ええ」
智子は薫子を悲しませない答えを探していた。
結局智子は悩んでいたままであるが、薫子は自分の悩みを智子と共有できた事が嬉しかった。
学校帰り、薫子は士郎と一緒に家まで帰っていった。その際、薫子は士郎にある事を聞いた。
「ねえ、士郎。士郎が結婚する相手って誰なの?」
「........」
士郎は驚いた顔をした。薫子にこの話題は振らないと決めていたのだ。それなのに薫子自身がこの話をするとは思わなかった。
「三橋家の娘さんだよ」
「そっか....ねえ士郎」
薫子は士郎の顔を上目遣いで見た。
「どうか幸せになってね」
薫子はそう言うと士郎のいる先を走り出した。
士郎は薫子を見えなくなるまで見続けて彼女を愛おしいと思った。
その夜、薫子は横になりながら天井を見ていた。
「士郎はもうこの先私といることはないのよね」
士郎と一緒にいられるのは今だけで、その内、彼は自分に取って遠い存在になっていくのだろうと薫子は思った。
士郎の可愛らしい顔が薫子の目の浮かんだ。
昔から弟のように思っていた人がある日、別の女性と結婚するのはやはり悔しかった。
自分の存在が取って代わったようだった。
「私はもう士郎にしてあげられることはないのかな....」
寂しいという気持ち以上に自分がいなくてもいいという現実が薫子を落ち込ませた。
士郎にはどこか悪魔のような笑みをすることがあり、それは薫子が一番好きな士郎の表情であった。そしてその表情が自分以外の女に見られるのが嫌だった。
「私ってなんて嫌な女なのかしら」
幼馴染の幸せを喜べず、相手の女性に嫉妬までしてしまう自分が恥ずかしかった。
もし、立場が逆だったら士郎はどうしているだろうか。喜んでくれるだろうか。それでも....。
「わからないわよ。士郎は良い子だけど....」
薫子はその時、士郎について気がついたことがあった。
「私、士郎の気持ちを全く知らない。士郎がどう思っているか全くわからないわ」
薫子は起き上がり、周りを見た。
外はもう暗くなっていたが、遠くに見える町は明るかった。
薫子は外へ出る事に決めた。士郎に会いに行くのではないが、なんとなく外に出て頭を冷やしたかったのだ。
この時間はもう母は弟と一緒に寝ており、父も仕事をしていて自分がいなくても誰も気がつかないと薫子は思った。
外は寒かったが、薫子はそれでも外に出て士郎の家の前に来た。
士郎の大きくて様式のある家は薫子を怖気付かせたりした。
そして肌の寒さがこの家の醸し出す。冷血さと重なりいつも以上の迫力があった。
薫子は逃げるようにその場を去った。
その後、一時間程歩き、薫子は三橋家の屋敷の前まで来た。西洋風であるこの屋敷は屋敷の外からでも庭が見えた。
しばらく薫子は西洋の屋敷に見惚れていた。
一つのくしゃみをしていると、屋敷から人が出てきた。
二人の男性と二人の女性、その内の一人が薫子と年が近いような気がした。
「恐らくあの人が士郎の許嫁ね」
しばらく外で話した後、二人の女性は屋敷に戻り、そひて使用人と思われる男性が出てきた。
そして薫子の耳にも会話が聞こえてきた。
「うちの馬鹿息子も三橋さんのお嬢さんと婚約してくれればうちも安心します」
「いやいや、私こそ、三橋家は今は危険な状態なので、南沢さんと関係を築ければ、なんとかなります。本当にありがとうございます」
薫子は一人の男性の声に聞き馴染みがあった。その声は士郎の父の声だった。
そしてもう一人は士郎の義父になる男だろうと薫子は思った。
「結婚をするとお互いに良くなることがあるわけね」
薫子は独り言を言った。
そして人力車に乗った士郎の父が屋敷を出た。
そして人力車が出て行くと、薫子は三橋家の主人を見た。
すると男はいきなり大声を上げた。
「これで南沢の金は俺の物だ‼︎」
薫子はその声に驚き、その後も男を見ていたが、男は屋敷に戻ったので、薫子も家に戻ることにした。
家に戻った頃には日付が変わっていた。
薫子は考えた。恐らく三橋の主人は今は危険な状態であり、その為、士郎の家の援助を必要としていた。そして士郎と結婚をさせることで話がついたという所だろう。ところが三橋の主人は南沢家の援助というよりは南沢家の財産を奪うつもりなのだろう。
「このことは士郎は知らないと思うわ....」
薫子はそう言って横になると、そのまま眠りに入った。
薫子が目を覚ますと部屋には雨の音が響いていた。
「今日は、雨....」
雨のようなしっとりとした声で薫子は雨が降っていることを嘆いた。
薫子は雨が苦手であった。雨の冷たさは冬の季節には夏にコタツに入るような感じであり、薫子は憂鬱であった。
「あめあめふれふれかあさんが....」
薫子の弟は薫子の目の前で楽しそうに歌っていた。
「あなたはいいわね。そんなに呑気で」
「姉ちゃんは歌わないの?」
「生憎だけど、私はもうそんな年じゃないの。歌わないわよ」
薫子がそう言うと弟は薫子に抱きついた。
「歌おう?」
「嫌よ」
薫子はそうは言ったが、弟がかわいそうになったので一回だけ歌うことにした。
「わかった。一回だけだからね」
「うん!」
二人は雨の歌を歌った。薫子があの歌を歌うのは久し振りだった。
最後にこの歌を歌ったのはいつかしら。
ふとそう思った。
歌い終えると薫子は学校へと向かった。
夕の事。この日は士郎の受ける授業が薫子と違う時間に終わるので、薫子は雨の中、傘を差しながら道を歩いていた。
薫子はふと行き交う人々を見てみた。それは忙しそうにしている人達ばかりだった。
薫子は自分だけが場違いなように感じた。
「異質な女....」
小さく呟いた。次第に人々の歩く速さについていけなくなっていた。
その時、薫子は後ろにいた人に押された。押されたことにより薫子は雨に濡れた地面に倒れ、体が雨に濡れ、それが涙とともに体を流れていった。
人々は薫子を一瞥はするが気には止めなかった。
薫子は泣き、その涙が雨に濡れ、顔はぐしゃぐしゃになった。
冷たい雨が自分自身を孤独にしていくような気分だった。
その時、雨が体を沿うように流れていたはずが急に止まった。
薫子は驚き、顔を上げた。そしてそこには一人の女性が薫子に傘を差していた。
「どうかしましたか?こんな所で」
女性は薫子に近づいた。
「女性は陰で涙を流すものです。美しい顔が雨に濡れていては悲しさを増すばかりですわよ」
女性の言葉遣いには品の良さが伺えた。
「ここの近くにあるカフェに寄りませんか?珈琲でも飲みましょう」
女性はそう言うと薫子に手を差し出した。
薫子は少しその手を見つめていたが、自分でも気づかない内に女性の手を握っていた。
「あの、どこかで私と会いました?」
薫子は気づかない内にそんな事を言っていた。
だが、薫子は女性をどこかで知っていた。
「男性みたいな事を言いますわね」
女性はそう言って笑っていた。
「もしかすると会っていたのかもしれませんわね。私が気づかなかっただけで」
女性には不思議な魅力があった。薫子は自分は彼女のようにはなれないと思った。
そして二人はカフェに入った。
二人は向かい合った席に座り、珈琲を注文した。
珈琲が来るまでの間、二人は話をしていた。
「申し遅れました。私、三橋桜子と申します」
女性がそう言うと、薫子は彼女の苗字にふと思うところがあった。
三橋という苗字は士郎の許嫁の苗字であった。薫子はその事に気付き、とても驚き、声を上げそうになった。
「先程から黙ってらして、雨に濡れて風邪でも引いてしまいました?」
桜子が薫子を心配したので薫子は慌てた。
「大丈夫です。私、体は強い方なんです。あ、名前をまだ言ってませんでした。私、大金薫子と申します」
薫子がそう言うと、桜子は笑顔で笑っていた。
「よかったです。先程、あのように涙を流していらしたので、笑顔になって安心致しました」
話をしている二人の元に珈琲が運ばれてきた。
薫子は砂糖を一つ入れ、珈琲を飲んだ。
それから二人は外が暗くなるまで話をしていた。学校の事や小さい頃の話。そして桜子は許嫁の話をした。
薫子はその話では知らないふりをしていた。
「親が決めた結婚ですの」
桜子はそう言うと、珈琲を一つ飲んだ。
「でも、夫になる方はすごく優しくて、話などもすごく合う方でしたの」
「そうなんですね....」
薫子は桜子の言葉に少しだけ嫉妬心を抱いてしまった。
「許嫁の方は女の子みたいなんですの。見た目もかわいいですし、内面も女の子らしくてかわいらしいんですの。まるでお人形さんのようです」
薫子は桜子の話を聞きながら自分を恥じていた。
桜子は士郎を好きでいてくれた。それは薫子にとってはとても喜ばしい事であった。そして恐らく桜子は父親が結婚をさせる理由を知らないのだと薫子は思った。そのことにも安堵していた。だが、そんな桜子を憎く思っている自分がいるのも事実であった。せめて父親の事実も知っていて、士郎の事も愛していなければと思っていた。薫子はそんな自分が大嫌いであった。
そして目の前で士郎の事を語っている桜子が物凄く美しい方なのだと思った。
桜子のようになりたかった。
薫子は桜子を羨ましく思いつつも憎く思っていた。
その時、士郎の話をしていた桜子がふと窓の外を見た。
「雨も止みましたわ」
「....そうですね」
二人はカフェを出た。
珈琲代は桜子が出してくれた。薫子が自分が出すと言うと桜子は薫子に年を聞いてきた。
「十七ですが....」
薫子は答えた。
「では私は薫子さんよりも二つ上になりますわ。ここはお姉さんに払わせてください。薫子さんは妹みたいでかわいらしいので」
桜子の言葉に薫子は顔を赤くした。薫子はそのような言葉をあまり言われてこなかった。
「妹みたい....ですか?」
その言葉が薫子は何故だか嬉しかった。自分は姉としか思っていなかった。なんだかくすぐられているような感じであった。
薫子は外へ出るとすぐに礼を言った。
「ありがとうございます。三橋さん」
「桜子でいいですよ。かわいい妹さん」
「はい、桜子さん」
薫子は桜子を姉だと思いながら言った。
するとその時、聞き覚えのある声が聞こえた。
振り返るとそこには士郎がいた。
「桜子さんと薫子ちゃん?」
「士郎⁉︎」
薫子は驚いた声を上げた。
「どうして桜子さんと薫子ちゃんが一緒に....」
士郎も薫子と同じように驚いた声を上げた。
「私は薫子さんとカフェね珈琲を飲んでいるいましたの。士郎さんは薫子さんとお知り合いなのですか?」
「ええ、薫子ちゃんは小さい頃からの友人です」
「そうなのですか⁉︎」
桜子は驚き、薫子と士郎を見た。
薫子は驚いた表情をしていたが、二人とは違い、二人に自分のお互いの関係が知られてしまったことに驚いていた。
「薫子ちゃん」
士郎が薫子に言った。
「この方は三橋桜子さん。僕の許嫁の方はなんだ」
知っていたとは薫子は言えなかった。薫子はただ、目を大きく開いていただけだった。
そして一瞬よ無が訪れたがすぐに桜子が口を開いた。
「士郎はんがいるなら大丈夫ですわね。それでは私はここで、薫子さん、士郎さんはまた....」
桜子はそう言うと二人と別れた。そして士郎と薫子の二人っきりになった。
「綺麗な方だよね。桜子さん」
士郎が言った。
「背も士郎と同じくらいで綺麗よね。いいわね。桜子さんは長身で美しくて」
「薫子ちゃんも美しいよ」
「そう言う事桜子さんの前では言っちゃだめよ」
薫子は顔を赤くしながら言った。夜の暗さで士郎には見えなかった。
「薫子ちゃんと桜子さんは知り合いだったんだね。驚いたよ」
「今日ね、知り合ったの」
薫子がそう言うと士郎は何も聞き返してこなかった。
薫子は安心するとともに士郎に尊敬に似たものを抱いた。
そしてその秋、士郎は薫子を家まで送った。
「ありがとう。士郎」
「ううん、気にしないで」
士郎はそう言って暗い夜道を歩き出した。
薫子は汚れている服を着ている自分に何も聞いてこなかった士郎に感謝の気持ちを抱いていた。
次の日、智子と別れ、学校終わりに一人で歩いていると肩を優しく叩かれた。
「あ、桜子さん」
振り向くとそこには桜子がいた。
「学校帰りですか?」
「ええ、そんなところです」
薫子は首を少し上に上げながら言った。
「そうなんですね。私も学校帰りですの。薫子さん。突然ですけれど、よろしければ私の家に寄ってくださらない?」
「桜子さんの家ですか?」
「ええ、そうです」
「是非、行かせてください」
薫子は声を少し荒げてしまった。そして桜子を少し驚かせてしまった。
「わかりました。では行きましょう」
「はい」
薫子は桜子の横に付き歩いた。桜子と一緒に歩いていると薫子は不思議と桜子になったような気になった。
「昨日は大丈夫でしたか?」
「両親に怒られました」
薫子は笑いながら言った。
「ですが、弟は私を見て大笑いをしていました。弟も両親に怒られてしまいました」
「薫子さんには弟さんがいらっしゃるんですね」
「はい、まだ五歳なんですが」
薫子は少し顔を赤くした。
「わたしには兄弟がいないので羨ましいです」
桜子は静かな声で言った。
「ですが、士郎さんや薫子さんが今は弟や妹みたいな存在なので、私はとても満足しています」
「桜子さん....」
薫子は桜子の笑顔に隠れた悲しみをしっかりと感じた。
「私でよろしければこれからも私を妹のように思っていてください」
薫子は桜子の目を力強く見ながら言った。
「ありがとうございます。薫子さん」
桜子は嬉しそうに薫子に言った。
「そうだ!薫子さん、私の家に士郎さんも一緒に行くのはどうですか?」
「士郎ですか?」
薫子はそう言い、一つ考えたが特に断る理由も無かった。
「いいですよ。士郎が了承すれば一緒に行きましょう」
薫子の言葉に桜子は 薫子の手を握った。
「恥ずかしいですよ....」
薫子は顔を赤くした。
二人は士郎と薫子が通う学校まで歩いて来た。
「ここが士郎さんと薫子さん通う学校なんですね。気品が感じられて良い所ですね」
桜子の言葉に薫子は少しだけ照れた。自分が褒められているようだった。
そしてしばらくすると士郎が歩いている姿が二人の目に入った。
士郎は二人の姿を見つけると驚いた表情をした。
「どうして二人ともここに⁉︎薫子ちゃんはもう授業は終わって帰るはずじゃ....」
「士郎さんを待っていたのですよ。薫子さんと二人で」
桜子の言葉は風の流れのように士郎の耳に入った。
「ねえ士郎。今から桜子さんのお屋敷にお邪魔するんだけど、士郎も行かない?」
薫子は強い風が吹く中髪を押さえながら言った。
士郎は間を置いて答えた。
「うん、いいよ」
「お父様は大事ですか?」
桜子は思い出したように言った。
「大丈夫。お父様は僕の事は何も気にしてないよ」
士郎は少し悲しい目をした。
薫子はそんな士郎を好きでいる自分に気づいた。
そして自分を最低だと思った。
「桜子さん。ここから家までは歩くんですか?」
士郎の言葉に桜子は一瞬、周りを見て。
「ええ、そうですね」
と言うと士郎に笑顔を向けた。
「ただ、ここから家までは少し、良くない道も通るのです」
「どういうことですか?」
「治安が悪いのです」
薫子の言葉に桜子は芯のある声色で答えた。
「大丈夫だと思いますよ。まだ明るいですし」
「....そうですね」
桜子の声は小さく風に乗りそうであった。
学校からの三橋邸までの道のりは桜子の言うように治安は良くなかった。
道にホームレスが驚くほどおり、酒に酔っ払っている男や売春婦。二人には信じられないような光景が広がっていた。
「これは⁉︎」
「見ての通りです。私達のような華やかな裏ではこのような方々達もいますの。悲しいことですが」
薫子も士郎も声を出せず、目に見える光景をただ見ていた。
「二人とも行きましょう。お気持ちはお察ししますが、あまり長く立っていると危険です。声を掛けられても決して耳を立てないでください」
桜子はそう言うと、薫子と士郎の手を握り、早足に歩いた。
桜子は聞く耳を立てるなとは言ったが薫子は歩きながら、自分達に声を掛ける人の声を聞いてしまった。
三人に掛ける声は下品で汚いものであった。
士郎を含めてデートを誘う男や、士郎や桜子にだけ声を掛ける男。薫子は怒りもなくただ悲しんでいた。そして哀れに思い、自分の差別的な感情をすぐに殺してしまいたくなった。
しばらく進むと、先ほどの人達は少なくなり、桜子は手を離した。
「ここならもう大丈夫でしょう。二人とも大丈夫でした?」
「私は大丈夫です。士郎は?」
「僕も大丈夫....」
士郎は薫子の顔を見て急に黙った。
「薫子ちゃん。涙が出てるよ」
士郎にそう言われて薫子は初めて自分が涙を流していることに気がついた。
「あれ....何で....」
涙は止まらなかった。桜子は優しく薫子の頭を撫でた。
「安心してください薫子さん。もう怖いものはないんですよ」
桜子の言葉に薫子は心の中で否定をした。
薫子が涙を流したのは彼らに対する悲しみ。それと失恋の悲しみの二つであった。先程の人達の悲しみで涙が出てきそうではあったが、それは好きな男とその許嫁といる自分に悲しみが湧いてきたのだった。
薫子は自分を弱く感じ情けないと思った。そして消えてしまいたいとさえ思った。二人に心配を掛けて申し訳がなかった。
しばらく桜子が薫子を優しく抱擁してくれていた。
涙が止まると薫子は二人とともに三橋邸まで歩いた。
三橋邸に着くと、使用人が門を開けてくれて、薫子は初めて、三橋邸の中へ入った。
三橋邸の建物はとても美しくとても没落をしかけているとは思えなかった。
これは落ちていく美しさを表しているのだと薫子は思った。そしてその美しさとは桜子自身だと思えた。
屋敷に入ると、桜子は二人をリヴィングに通した。
そこには桜子の父と母がいた。
二人の姿を薫子は前に見たことがあるので緊張していた。
特に父親には良い印象がないので、薫子はうまく笑うことができずにいた。
桜子の母は笑っていたが、父は笑わずに椅子に座っていた。
「あら、士郎さんではありませんか。そちらの方は誰ですか?」
桜子の母がそう言うと、桜子は薫子を紹介した。
薫子は桜子の母に会釈をした。
桜子の母は薫子に笑い掛けた。
「かわいらしい子ですわね」
「そんな....」
「いえ、かわいらしいですよ。薫子さんは」
桜子の母の言葉に顔を赤くしながら否定をしようとすると、桜子が薫子を抱きしめながらそう言った。
「待ってくださいね。今、お茶を出しますから」
桜子の母はそう言うと使用人にお茶を出させるように言った。
「薫子さん。こちらが私の父です」
桜子がそう言うと、薫子は桜子の父を見て軽く頭を下げたが、桜子の父は薫子の目を少し見ただけで何も言わなかった。
「ごめんなさい。あの人は話が好きじゃないんです」
桜子の母が薫子に言った。
薫子は桜子の父の印象な違うことに少し驚いていた。薫子が見た桜子の父は士郎の父の前ではよく笑っていて、話好きな印象を与えていたが、今の桜子の父はそれとは反対の印象を与えていた。
恐らく、今の桜子の父はこんな人ではないのだろうと薫子は思った。桜子の母は父とは違い、良い印象であった。桜子に似て、品を感じさせ、とても美しくまだ三十半くらいの年齢を感じさせた。
薫子は桜子の父に憎悪の念を向けた。
この男さえいなければ、南沢家は三橋家に騙されることなく、薫子は桜子に複雑な思いを持たずに済んだのである。
薫子は女としての力いっぱいの憎しみを呪いを掛けるように父を一瞬見た。
そしてその瞬間、薫子は桜子の父と目があった。
薫子は咄嗟に目を背けたが、桜子の父の力強い目は薫子に強い印象を残した。
桜子の母は桜子や士郎や薫子と楽しそうに話をしていた。
その後、桜子は士郎と薫子を自室へと連れて行った。
そこでは他愛のない話をしていたが、薫子は桜子の自室を見ながら三橋家の主人の汚れた考えがここにあるのかと考えていた。そしてそれを二人に言った方が良いのかの薫子は悩んでいた。
士郎と桜子の話は全く耳に入っていなかった。そして一人になりたいとふと思った。
「ごめんなさい。私、お手洗いに行きます」
薫子は二人の表情も見ずに部屋を出た。
廊下に出たが、お手洗いの場所を知らないことに薫子は気づいた。
部屋に戻るのも薫子は恥と思い、少し歩いて探してみることにした。
三橋家の廊下は青を基調とした洋風な廊下で薫子は自分の心情と重ねていた。
しばらく歩くと大きな扉が廊下の奥にあった。
薫子はその扉に目を奪われしばらく見ていると、中から男の声が聞こえてきた。
桜子の父の声だと薫子は思った。前に聞いた声であった。
そして桜子の父はまた別の男と話をしているようであった。
「南沢の財産が手に入れば三橋家は安泰だ」
「ええ、桜子様を嫁がせるとはご主人様も良い事を考えられますね」
「ああ、そして金を手に入れた後は、すぐにでも南沢とは手を切ろう。俺の大事な娘をあんな男にはやれんからな」
「左様でございます」
二人はそう言って大声で笑っていた。
薫子は顔面蒼白となり、音を立てないようにその場から立ち去った。
彼女は部屋を出た理由のことを忘れてしまっていた。
桜子の部屋の前に着くと、薫子は一息つき、桜子の部屋へと入った。
薫子の顔色が悪いことに二人は驚き、薫子に聞いたりしたが、薫子は適当な理由を言った。
そして外も暗くなろうとした辺りで、薫子と士郎は三橋邸を後にしようとした。
だがその際、桜子が途中まで送らせて欲しいと言い、二人は了承をした。
薫子は二人には三橋邸で聞いたことは言えなかった。だが、二人が話されるのは悲しい気持ちのはずなのだが、そうでない気持ちも確かにあった。
その気持ちもあるせいなのか、薫子は先程聞いたこもを言おうか悩んでいた。
門を出ると桜子が言った。
「家の外はこの時間帯から少し危険です。車を出してもいいのですが、父は許してくれるか....」
風は冷たく吹き、三人の肌をいじめた。
「私は大丈夫です。士郎は大丈夫?」
「僕も大丈夫だよ」
「そうですか。では歩いていきましょう」
外はもう暗く、家のない人が道に眠り始めていた。
そしてそれは明るい時に見たよりも言葉にできない悲しさがあった。
薫子はこの人達を知らぬ内に見下していた。彼らをかわいそうだと思っていたのである。
何人かは暗闇の中から野良犬のように三人を見ていた。
独り言のような声が何処からともなく聞こえ、薫子は心の音を大きく鳴らさせた。
光もない道を歩き、後ろを向くと、三橋邸は暗闇に飲まれたように消えていた。
それが薫子には恐怖であった。
その時、男の声が聞こえた。
声のする方を見ると一人の浮浪者の男が立っていた。
「姉ちゃん達かわいいじゃねえか。どうだい俺に抱かれねえか?」
男はそう言うと、士郎の手を握った。
「あんたは綺麗な女だな。俺とやっていかねえか?」
士郎は何もできず、男の手にされるがままにされていた。
「やめてください。彼は男の子ですよ!」
薫子は男にそう言った。
「男?んな訳あるか。こんな女みてえなのに」
男はそう言って士郎の胸を触った。
「胸がねえ。ってことは本当に男か?なんたってこんな男がいんだよ。女々しいな」
男はそう言って士郎から手を離し、薫子の頬を触った。
「あんたみたいな女。嫌いじゃないな。気の強い女は堕とし甲斐があるからな」
男はそう言うと、薫子の唇に接吻をした。
薫子は何が起こったのかを知ると、自然と涙が溢れ出てきた。
「おい泣いたのか。愛する男でもいたのか?そうか、こいつか。笑えるぜ」
男は士郎にそう言った。
士郎はその瞬間、男を思いっきり殴った。
「薫子ちゃんの傷はこんな物じゃないんだぞ」
士郎はそう言って泣いている薫子のそばに寄った。
そして桜子の前に立ち、男を蹴り上げた。
「許されませんよ。貴方のしていることは!」
そう言い、士郎と薫子を連れ、その場を立ち去った。
しばらくして、薫子は涙が止まったことに気がついた。そして顔を上げた。
「大丈夫ですか?薫子さん」
「はい、もう大丈夫です」
薫子がそう言うと、桜子は優しい笑み薫子に向けた。
「薫子ちゃん。ごめん。助けられなくて....」
「そんなことないよ。士郎は私を助けてくれたよ」
士郎は申し訳無さそうな表情で薫子を見た。
「私が車を用意していれば....」
桜子が小さく呟いた。
「そんな....桜子さんは悪くないです。私は大丈夫です」
薫子はそう言い、ふと先程聞いた桜子の父の会話を思い出した。
「あの、少し良いですか?」
薫子がそう言うと、二人は浮浪者の男のことで何かあったのかと心配をしたが、薫子は違う話をすると言うと二人は少し安心した表情を見せた。
薫子は二人を神経質だと思った。
「話が変わるのですが、先程、桜子さんの屋敷でお手洗いにいこうとした際、桜子さんのお父様の会話が聞こえてしまったのです」
薫子はそこまで言うと一つ息をした。そしてまた話始めた。
「桜子さんのお父様は南沢家の財産が目当てで、財産を手にした後は桜子さんと士郎を別れさせると仰っていました」
薫子は緊張した声で言い、寒いこの季節に一つの汗をかいた。
二人は驚き、何も言えなかった。薫子は当然だと思い、二人を見つめていた。
「私は士郎と桜子さんが大人のせいで別れてしまうのはとても嫌です」
それは薫子の本心であった。士郎とは幼い頃からの友人である。そして桜子は薫子にとって恋敵であるが、それ以上に友人であった。
「私は二人がこれからも一緒でいたいと思います。そしてその為ならどんなことだってするつもりです」
薫子を見て、桜子は涙をした。
「薫子ちゃん」
士郎が言った。
「僕も桜子さんとは別れたくない。これからも薫子ちゃんも含めて三人でいたいと思う」
「士郎....」
士郎は薫子に笑みを向けていた。
「私も....二人と同じです」
桜子が涙声を混ぜて言った。
「私も士郎さんと薫子さんと別れたくありませんわ。なのでどんなことでもします。この三人がこの先も一緒にいる為に....」
三人は目を見合った。
「じゃあ、士郎、桜子さん。私達はこれからもずっと一緒!」
「ええ、勿論です」
桜子が薫子に言った。
「僕達は別れないよ。桜子さんのお父様の言う通りにはさせないようにしよう」
「ええ、抵抗をします。お父様は三橋家よ事でどうかしています。なので頭を冷やしてもらい目を覚ませましょう」
桜子の強気な言葉は薫子と士郎の気持ちを高まらせた。
三人の誓いは強い物であった。
その後、薫子と士郎は桜子と別れた。
薫子は桜子が一人でいることを心配したが、桜子は大丈夫だと答え、帰って行った。
そして士郎の家まで着くと薫子は士郎と別れて一人になった。
だが、薫子は寂しくはなかった。士郎と桜子の存在が薫子を強くさせた。
孤独は感じなかった。
薫子は家へと帰った。
次の日、学校が終わり、薫子は智子と別れら一人で帰ろうとすると門に士郎が立っていた。
「士郎!まだ授業じゃないの?」
「うん、抜け出してきたんだ」
士郎はそう言って笑った。
「なんで?」
「薫子ちゃんに話があるんだ」
士郎はそう言って薫子の手を握り、人のいない影の場所へ連れて行った。
「ごめん。でも人のいない所でしか話せない事なんだ」
「どんなこと?」
薫子がそう言うと士郎は緊張した様子で話をした。
「昨日、家へ帰った時、お父様は酒を飲んでいて酔っ払っていたんだ。恐らく記憶することもできないくらい」
薫子は士郎の言葉に恐ろしさを感じた。
「お父様に聞いてみたんだ。何故僕と桜子さんを許嫁にしたのかをね」
風が吹いた。二人はその風には気づかなかった。
「お父様は僕を使用人か何かだと思ったらしい。そしてそれは聞かなきゃさえよかったとも思ってしまうものだったよ。お父様は桜子さんのことを愛しているらしい。そして僕と結婚させた後に、桜子さんを自分の物にしようと考えているらしい」
「そんな....」
酷いという感情は最早感じることはできなかった。
薫子はただ、それが信じられなかった。
「それは桜子さんは....」
「勿論知らない。僕はそんなこと言える訳がないよ」
士郎の悲愴的な顔は薫子の心を締め付けるように痛めた。
薫子は考えた。士郎と桜子の両方の父はお互いに騙し合おうとしている。そしてその中心には金があり、それともう一つ桜子という十代の可憐さと二十代の美しさの二つを持つ美人な女性の存在があった。
つまり、桜子が存在していなければこんなことにはならなかったのである。
「士郎、桜子さんとの式はいつなの?」
「半年くらい先だけど....」
「士郎!今すぐにでも桜子さんとここから逃げ出した方がいいよ」
薫子の言葉に士郎は驚いている様子だった。
「逃げるって....。家はどうなるの?」
「恐らく士郎のお父様は怒って士郎のことを探すと思う。でもそうするしかないと思うの。このままじゃ私達の仲は無くなるのよ!」
「僕達は逃げるとして薫子ちゃんは?」
「........」
薫子は何も言えなかった。
「僕と桜子さんが逃げても薫子ちゃんはそこにはいるの?」
「....ううん」
薫子は呟くように言った。
「それじゃ、三人じゃないよ」
「でも私は家族を捨てられない。自分勝手だけど、私はあの家族が好きなの。ごめんね。士郎。士郎が家族のことを本当はどう思っているかはわからないわ。でも、このままだと士郎と桜子さんは悲しむことになる。私はこのままでも大丈夫だから....」
薫子の声は涙声になっていった。
「嘘だよ。このままだと僕と桜子さんには会えないよ」
「いつか会いに行くわ。それに私は友人がいるから....」
「本当にそう思うのなら涙なんか流さないはずだよ」
「なんで士郎は私のわかって欲しくない所がわかっちゃうの?」
薫子は怒りを混ぜた声で言った。
「ごめん。僕は不器用だから、薫子ちゃんには昔から迷惑をたくさん掛けたね」
士郎は薫子に言った。
「ううん、違うの。私はそこが好きなの。士郎は悪くないよ」
薫子はそう言って泣いた。
士郎は薫子の肩に手をやり、抱きしめた。
「薫子ちゃんは僕と桜子さんにもう会えなくてもいいの?」
「よくない。でも、こうするしかないの....」
薫子の言葉を士郎は強く考えた。
「確かに僕も薫子ちゃんの考えに同意できるけど、薫子ちゃんを置いていくのは寂しいし、心配だな」
士郎がそう言うと薫子は士郎の顔に自分の顔を近づけた。
「寂しいって思ってくれたり、心配してくれするの、嬉しい」
薫子はそう言って笑い、士郎は顔を赤くした。
「僕と桜子さんがこの町から逃げる事は本気で思っている事なんだね?」
「うん、こうするしかないと思ってる。本当はずっと一緒にいたいけど」
薫子の真剣な顔つきを見て士郎は覚悟を決めた様子を見せた。
「わかった。それが薫子ちゃんの今、望むことなら僕はやるよ!」
「....ありがとう。ごめんね」
薫子の手は士郎の膝の上にあり、この言葉を言った後、慌てて自分の手を隠すように自分の背に置いた。
「ねえ士郎。桜子さんは会えるかな?」
「今日はわからない。明日、学校の前で待ってみるよ」
「私も行く!」
薫子は言った。
「僕は大丈夫だけど、薫子ちゃんは学校をサボったらまずいでしょ?それに危ないし」
「ううん、行かせて。私の言ったことを桜子さんには伝えたいの」
薫子は強い意志を持ちながら言った。
士郎は薫子の言葉を聞き、薫子と共に明日、桜子の通う学校に行くことを決めた。
次の日、薫子は智子にこの日、用があって学校を抜け出すことを言った。
「薫子は体調が悪いから帰ったことにすればいいのね?」
「そう、お願い」
「わかったわ」
智子はそう言うと薫子をしろしろと見た。
「抜け出すのは今日で合ってるわよね?」
「ええ、合っているけど....」
「恋の為?」
智子はからかうように笑いながら言った。
「違うわ。好きな人の恋を助ける為よ」
薫子がそう言うと智子は薫子に向ける目を変え、こう言った。
「薫子。最近、綺麗になったわね」
智子の言葉に薫子は顔を赤くした。
「どうしたの急に⁉︎」
「思っただけよ。人は恋をすると変わるって本当なのね....」
「恋はしてないのだけど」
薫子はそう呟くと、綺麗になったと言われた自分をガラスを鏡にして見てみた。
汚れたガラスからはあまり良く見えなかったが、確かに大人の顔つきになったような自分が写っていた。
薫子は二人を見てきたことで今までの価値観が変わったように思った。そしてもし本当に逃げ出し、家族がいない日々があるとしたら、それはもう子供などではないのだろう。薫子はそんなことを不意に考えた。
「薫子、抜け出した後のことは心配しなくていいわ。安心して」
「智子....」
薫子がそう言うと、智子は笑ってみせた。
「ありがとう」
薫子はそう言って教室を走って抜け出した。
学校を抜け出し、薫子は校舎を一瞬見た。
校舎は無表情で黙っているように思えた。
そして門には既に士郎がいた。彼は薫子の姿を見つけると小さく手を振った。
「お待たせ士郎」
「うまく抜け出せたようだね」
士郎はそう言うと、薫子の手を握った。
「行くよ薫子ちゃん」
「....うん」
薫子は顔を赤らめたが、士郎に見えないように横を向いたので、士郎には見られなかった。
だが、彼女の赤くなった顔は道を歩く人には見られていた。
そして桜子が通う学校に着くと、少し息を切らした様子の士郎が言葉を言った。
「少し早かったみたいだね」
「うん、でも私はここで桜子を待つわ」
「僕もそのつもりさ」
士郎はそう言うと笑った。
「桜子さん、いつここに来るかなぁ」
「わからない」
「ところで少し話をしてもいい?」
士郎はそう言った。
「いいけど....」
薫子は少し声が震えていた。
「小さい頃の話」
「小さい頃?」
「昔、今日みたいな寒い冬の日。結婚の約束をしたなって....」
「結婚⁉︎」
薫子は驚いた様子だった。
「どうして今、その話を....」
「ふと思い出したんだ。結局約束は守ることはできなかったなって」
「そんな昔のこと....」
薫子の手は暖かかった。そして今は火のように熱かった。
「もう、昔の話は恥ずかしいからやめて」
「ごめん」
薫子の言葉に士郎は笑った。
鐘の音がなり、しばらくすると女生徒が多く出てきた。
この中から桜子の姿を見つけるのは至難の業であったのだが、桜子が門にいる二人の姿に気づいてくれた。
「二人とも、どうしてここに?」
「桜子さん少しいいですか?静かな所に行きたいんです」
「静かな所?」
桜子は言葉を繰り返した。
三人は喫茶店に入ることにした。喫茶店に向かい、そのまま喫茶店に入った。
「ここは私と桜子さんが仲良くなった場所なのよ」
「へえ、そうなんだ」
士郎は薫子の言葉を聞いていた。
三人は席に着くとそれぞれ飲み物を注文した。
そして桜子と薫子の元に珈琲。士郎の元に日本茶な届くと、薫子は小さな声で桜子に話し掛けた。
「桜子さん。私達はこれから大切な話をします。もしかしたら桜子さんには悲しいことかもしれません。でもだからこそ。言った方がいいと思いました」
薫子の真剣な口調に桜子は緊張して一つ汗をかいた。
そして薫子は士郎とともに士郎の父が考えていることを話した。
桜子は士郎の父の自分に対する思いを知ったショックで少しずつがっくりと涙を流した。
「これは本当の事ですか?」
「はい、これは本当です」
薫子は言った。
「ごめんなさい桜子さん。桜子さんを傷つけるようなことを....」
「ううん、いいんです。私のためですから。薫子さん、士郎さん。ありがとうございます」
桜子は涙を流しながら言った。
「それで考えたんです。私は桜子さんと士郎はこれからもずっと一緒にいて欲しいです。ですがお互いの父親という存在がそれを邪魔しようとしている。なので私は二人に駆け落ちをした方が良いのではないかと思いました」
「駆け落ち....」
桜子はしばらく言葉が出なかった。
「士郎さんはどう思っていらっしゃるのですか?」
「僕の覚悟はできています。薫子ちゃんの説得で彼女の気持ちを知り、それを尊重することにしました」士郎は薫子を横目に見ながら桜子を見つめた。
「でも薫子さんとはもう会えなくなるんですのよ?」
「私はいつでも会いに行きます」
桜子は顔で涙がいっぱいになっていった。そしていつしか薫子の目にも涙が流れていた。
「それでも....私は嫌です。私はこの町でお二人といたいのです。我儘なのはわかっています。ですが、私も一度は我儘を言いたいです。前に私の父と戦うと言ったじゃないですか?何故、逃げる真似をしなければならないのです?私達が何をしたのですか?そもそも私が存在していなければこんなことには....」
桜子はそう言うと鉛筆を手に取り、自分の喉に突き刺そうとした。
そして泣きながら自分を傷つけようとする桜子の頬を士郎が力強く叩いた。
店内には薫子達の三人しかいなかったが、店員は突然のことにこちらを見ていた。
薫子は士郎のしたことが一瞬わからず、放心状態となった。
士郎が桜子に言った。
「桜子さん。自分が存在しなければなんて思わないでください。桜子さんが存在しなければ良かったなんて僕と桜子ちゃんは一度も思ったことなんかありません」
桜子は泣き崩れた。
「ごめんなさい。二人にこんな思いをさせて....私は迷惑ばかり」
「そんなことありません!」
薫子は桜子に言った。
「私は桜子さんと初めて会ったあの日、雨の中泣いている私を気に掛けてくれた桜子さんをずっと感謝しています。迷惑なんて思ったことはありません」
薫子は桜子を抱きしめた。
「桜子さんが私に話し掛けてくださったから今があるんです。なので、私にあの時の恩返しをさせてください。二人に幸せになって頂きたいんです」
薫子は桜子を優しく抱きしめ、そして桜子は薫子を強く抱きしめた。
「わかりました。薫子さんの気持ちを強く感じました」
桜子はそう言うと士郎を見た。
「私達はこの町から逃げます!」
「いつに逃げれば?」
士郎が二人に聞いた。
「できるだけ早くの方が....」
薫子は少し考えた様子を見せた。
「今週の土曜の夜はいかがですか?」
桜子が二人の顔を伺いながら言った。
「土曜の夜なら多少の準備もできると思う」
士郎は薫子を見た。
「二人がよろしければその日にしましょう。それと....」
薫子は二人の日を見た。気がつけば店員はもうこちらには目もくれず店に入ってきた客へ珈琲を作っていた。
「どうしたの薫子ちゃん?」
士郎は薫子に優しく微笑んだ。
「二人とも私の案に乗ってくれてありがとう‼︎自分勝手だとは思ってる。でも二人ならわかってくれる気がした。二人としばらく会えないのは寂しいけど。桜子さんと士郎の元へ私もいつかは行くから!」
薫子の言葉に士郎と桜子は微笑みを浮かべた。
「うん、待ってるよ」
薫子は士郎の存在が遠く感じた。
そしてそれから三人は土曜の夜に集まる場所を決め、夜へと変わった外へ出た。
「じゃあ次に会うのは土曜の夜だね」
「そう、士郎、桜子さん。忘れないでください」
「きっと覚えています」
薫子の言葉に桜子は笑っていた。
そしてその日から三人は三人以外が知らないと言う緊張の中、少しずつ準備をしていた。薫子の顔にも少しの疲れがあったらしく、智子が心配してくることもあった。
土曜の夜、薫子は士郎の家の前にいた。時間は十二時を過ぎようとしていた。雪が降る夜、薫子は白い息を吐いた。
少しすると、音もなく士郎が家から出てきた。
「こんばんは薫子ちゃん」
「こんばんは士郎」
士郎は家の方を振り向かずにいた。
「家を最後に見たりしないの?」
「うん、今見たらここを離れる決心が無くなりそうで....」
士郎は寂しそうな表情をしていた。
そして二人は桜子の家に向かった。二人はしばらく何も言わずに歩いていた。
「ねえ士郎。昔、結婚するって話したよね?」
「うん」
「私、前までずっと士郎と結婚したいと思っていたの。士郎のことが好きだったの、私。子供の頃からずっと....」
薫子は身体中が熱くなるのを感じ、赤くなった顔を士郎に向けないようにした。
「僕も薫子ちゃんが好きだった....」
「でも今は....」
「うん、今は桜子さんを愛してる」
そしてその瞬間、士郎は雪が降る中、薫子に口づけをした。
二人以外そこには誰もいなかった。
「ありがとう薫子ちゃん。こんな僕を愛してくれていて」
士郎はそう言うと白い道を見た。
薫子は嬉しさと悲しさが混じり複雑な気持ちになっていた。
しばらく歩くと、桜子の家が見え、門の前には桜子が立っていた。
「桜子さん」
「こんばんは。外は寒いですね」
桜子は小さな声で言った。
「家は大丈夫そうですか?」
「お母様のことが心配ですけれど、私達の為なので。ここは心を鬼にしています。申し訳が無いですけれど」
桜子はそう言うと、薫子の近くに寄った。
「薫子さん」
「なんですか?」
桜子は薫子の耳元で小さく言葉を言った。
「ごめんなさい。愛している方を私などが....」
「昔のことですから....」
「嘘はだめ。わかっているんです。そして感謝もしているんです。貴方だから私は幸せになれる。いや、ならないと貴方に申し訳ないです。あの方は私に任せてください」
途切れ途切れに聞こえる桜子の声は桜のように美しかった。
薫子は桜子の手を握った。
「お願いします。そして友達になってくれてありがとうございます」
二人は笑い合った。
「それじゃ僕達はそろそろ行くね」
「うん、二人とも元気で」
士郎と桜子は手を握り、薫子に笑みを向けた。そして走り、見えなくなって行った。
薫子はそれから一度も二人に会うことはなかった。
そしてその後、桜子の手紙で二人の間に子供が生まれたこと、そして士郎が三十になる前に病死したことが薫子に伝えられた。
そして二人が走り一人になった薫子は今。誰もいない中、泣いていた。
走ればまだ二人に追い付けるかもしれない。だが、ここに残り一人泣くことを選んだ。
涙は地面に落ち、薫子の涙は雪を溶かした。

雪は涙に溶ける

雪は涙に溶ける

大正浪漫

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-29

Copyrighted
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