Swinging City
Nothing is worth more than this day.
今日より大切なものは存在しない。
昨日に戻る事は出来ないし、明日にはまだ手が届かない。
Johann Wolfgang von Goethe
(28 August 1749 – 22 March 1832)
見るからに高価な大理石がきっちりと敷き詰められた床を、琥珀色のライトがしっとりと照らす中、べっ甲眼鏡を掛け、漆黒色のタキシードに身を包んだソテツが額に浮かんだ汗を内ポケットから取り出した紺青色のハンカチで拭ったのは、まだまだ残暑厳しい九月初旬の週末の夜の事だった。
其れからソテツは、瑞西〈スイス〉系のウエイターがさり気なく運んで来てくれた既に蓋の空いているミネラルウォーターのペットボトルとペットボトルの蓋を椅子に腰掛けたまゝの状態でもって両手でしっかりと受け取るや否や、チップ欲しさに三曲連続で演奏をこなしたが為に、まるで日照り続きの大地の様にすっかり渇き切った喉を潤そうと、ミネラルウォーターを勢いよく飲み干した。
ひんやりとした空調からの風が両頬をそっと撫でる中、ソテツが右袖の内ポケットの中から紫煙を一本取り出すと、何処からともなく現れた一人の青年が、燐寸でソテツが咥えたばかりの紫煙に火を点けた。
リクエストかい?。
さり気なく腕時計の文字盤へと視線を向け乍ら、ソテツが青年に向かって言った。
時刻は午后十時を回ったばかりだった。
アート・ブレイキー・アンド・ジャズ・メッセンジャーズの『スロー・サンバ』を。
そう言って青年はスーツの胸ポケットの中から真新しい希臘〈ギリシャ〉のドラクマコイン1枚をピアニストへとゆっくり差し出した。
まるで何かの合図とでも言わんばかりに。
畏まりました、どうぞごゆっくり。
ソテツは右手でドラクマコインをしっかりと受け取ると、其れをズボンの左ポケットの中へと乱雑気味に突っ込むや否や、紫色の煙を燻らせ乍ら演奏を始めた。
其れに合わせて特権階級出身の若い男女達が続々と踊り始める中、其れを無視するかの様な足取りで青年は歳の頃なら四十の坂を降り始めたばかりのマダムの腰掛けている隅の方の席へと向かい、迚も流暢な仏蘭西語で、こんばんは、マダム、と聲を掛けた。
こんばんは、坊や。
酒呑み達の間では『時の流れに身を任せて』と言うカクテル言葉のある事で有名なアクダクトが注がれたカクテルグラス片手にマダムは青年に挨拶をすると、こうして坊やと差し向かいで会話をするのも、今夜が最後ね、と呟く様な聲色で言った。
そう言えば、今夜船で此処を旅立つ御予定だとか。
因みに新天地に御選びになった場所は?。
ジャン・ギャバンの映画に肖って、北阿弗利加のアルジェに行く積もりよ。
そう言い乍らマダムは少し遠い眼をした。
彼女のこゝろの中はもう既に北阿弗利加にある事がしっかりと見て取れるのを青年は感じ乍ら、三回目に会った時でしたっけ、自分の先祖は代々船乗りで引っ越しをするのは物心ついた頃からすっかり慣れっこなのだ、と教えてくださったのは、と呟く様に言った。
物覚えが良いオトコは好きよ。
でも坊やは坊やでもう良いヒトが居るんじゃなくって?。
其れも婚約を決めたばかりの。
そんな風な指摘がマダムから青年へと為された瞬間、青年の耳がほんの少しだけだがピクリと動いたのだが、マダムは敢えて其れを指摘する事無く、オンナは案外オトコの手を見ているものよ、其れもさり気なくね、と言って青年の眼の前でグラスを握っていない左手の親指をクイと動かしてみせた。
流石はマダム、抜け目がありませんね。
青年は実に態とらしく、参ったなぁ、と言う雰囲気の表情を浮かべ乍ら、伊太利亜系のウエイターが運んで来た炭酸水の注がれたグラスを受け取るや否や、炭酸水を半分迄一気に流し込んだ。
たった一週間とはいえ、如何してこんな青い林檎に情が沸いたのやら。
腕が鈍ったとは此の事ね。
マダムは呆れ顔でそう述べると、カクテルグラスに残っていたアクダクトを一気に呑み干し、もう悔いは無いと言わんばかりの柔かな笑みを青年に向けて浮かべ乍ら、ラストダンスと洒落込みましょう、もうどうせ此れっきりなんだから、お互いに、とらしいと言えばらしい「懇願」をした。
じゃあ此方も一つ我が儘を。
ジャンヌと呼んでも構いませんか?。
腰掛けていた椅子から立ち上がるなり、右手を差し伸べ乍ら、青年が言った。
えぇ、ハリー。
ジャンヌは如何にも育ちの良さが際立つソフトな手付きでハリーの右手をそっと握り締めると、自らの手引きでダンスフロアへと向かった。
ダンスフロアは相変わらず若人達で賑わっており、彼等彼女が振り撒く気怠げな香水の香りとアルコールの香りとが鼻腔を擽った。
良い子で待っているのよ。
強かな笑みと共に右手の人差し指を若々しいハリーの唇に押し当てたジュリアは、ハリーの側へと離れ、先程ハリーがドラクマコインを手渡した阿弗利加系のピアニストの側へと姿を現した。
最初で最後のリクエストは何を御所望で。
ソテツは敢えて視線を鍵盤に向けたまゝ、ジュリアにそんな風な質問をすると、ジュリアは淡々とした口調で、そうね、今の気分としちゃ、ジュリー・ロンドンの『アイ・シュッド・ケア』を聴きたいって所かしら、と答えた。
粋な選曲ですな。
そんな褒め方をしてくれる人がもう少し周りに居たら、もうちょっと真面目に生きてこられたかもね。
ま、今となっては唯の負け惜しみにしか過ぎないのだけれど。
ジュリアはほんの少しだけ寂しげな表情をフッと浮かべると、じゃあ宜しく、とだけ言ってハリーの側へと戻って来た。
お待たせ。
つい話し込んでしまって。
構いませんよ、一向に。
ジュリアからのリクエストがあったのち、ピアノの側には緑青色のボディが特徴的なフルアコースティック・ギターを抱えた西班牙系のギタリスト、アルフレッド・ヒッチコックのサスペンス映画のヒロインたちの様なブロンドヘアーが艶かしい二十代前半の亜米利加娘然とした女性ボーカリストが姿を現し、もう後はソテツの手により物憂げな音色のイントロが奏でられるのを待つばかりであった。
そして演奏が始まると、其れ迄休憩していた若人達が又一斉に戀人達と寄り添い始め、静かにステップを踏み始めた。
ダンスの心得は?。
ジュリアが言った。
一応此れでも「前職」はダンサーをして居ましたから、基礎はしっかりとしていますよ。
そう答えたハリーの口調には、此の若者独特の生意気さが十二分に含まれていた。
では御手並拝見。
ジュリアは此の七日間の事を回想する様な心持ちで、ハリーはただただ今を良き想い出にしたいと言う様な心持ちでステップを踏み始めた。
もっと落ち込んでもいいんだけどね 泣きながら七転八倒しそうだけれど あれこれ気にしてもいいんだけどね 眠れない日が続いてもいいんだけど
歌唱と言うよりも独白に近い亜米利加娘の艶めいた歌聲と素振りは、虚脱感たっぷりの歌詞とサウンドとは裏腹に、此れから後はふかふかのベッドで「戯れる」事ばかり頭の中で考えている深夜の若人達の気持ちを掴むのにはぴったりだった様で、パフォーマンスが終了した瞬間、ダンスフロアから珍しく演奏を披露した面々へ向けて万雷と呼ぶに相応しい喝采と拍手が巻き起こり皆、満足そうな表情を浮かべていた。
其れ故、誰一人としてジュリアとハリー、そしてソテツが裏口へ通ずる通路へと消えて行った事に対し、関心を向けるものは居なかった。
三人が駐車場に出ると、常夜灯の下、鼻歌混じりにステップを踏んでいる人物の姿があった。
此の人物、名前をモクレンと言った。
芝居の幕も、此れで閉幕か。
自身の前へと姿を現した三人の姿を見据えるなり、モクレンはそんな事を呟くと同時に羽織っていたスーツの内ポケットから一枚のペーパーを取り出した。
ジュリアへの逮捕状だった。
此れで娑婆とも御別れね。
勿論、自由な空氣とも。
海で働く荒くれ男三人と結託し、五人の富裕層の男性から巧妙な手口を用いて莫大な資産を騙し取った人物らしい堂々たる口振りに対して玻璃は、ジュリアの両手へしっかりと銀色に鈍く光り輝く手錠を掛け乍ら、随分と先の話になりますけれど、刑務所を出たら、詐欺なんかしないで真面目に何かに取り組む事をお勧めしますよ、アナタ程の人物なら、やり直しが効く筈ですから、と言った。
手錠を掛けられたジュリアは、自身に対して殺気に近い視線を向けて来るモクレンの方を意識しつゝ、道徳的な「お説教」どうも、そして此れから先、御幸せに、と言って、現場に現れたばかりの警官二人と三人の同僚である吉野と夜光が乗った覆面パトカーに放り込まれる様に乗り込んで、其のまゝ夜の闇へと消えて行った。
さて、と。
チーム一丸となってあれだけの悪党を捕まえたんだ、お褒めの言葉の一つ位貰わなきゃ割に合わんぜ。
タキシードのネクタイを少し緩め、紫煙を咥え乍ら一部始終を傍らで見ていたソテツが玻璃とモクレンに言って、クルマのキーを開けるなり、運転席へと乗り込んだ。
行きましょう。
あゝ。
エンジン音と共に淡い色彩のヘッドライトが点灯をすると、クルマは其のまゝ署へと向かった。
事件の程度は別にして、犯人逮捕を済ませた後の車中は、必ずと言って良い程誰一人として口を利く者は無く、代わりにクルマに搭載されたスピーカーから音楽が流れっ放しの状態になるのだが、今夜はチェット・ベイカーの『ブルー・ルーム』だった。
諸々の手続き含め、凡ての事が済んだのは夜明け前の事で、チームの五人は署内の休憩室に於いて缶珈琲で其々の苦労を労った。
併しまぁ、じゃんけんで決まった事だとは言え、『氷の微笑』よろしく、何時牙を剥いて来るかも分からん相手と差し向かいで会話なんて、正直なところ生きた心地がしなかったんじゃないのか?。
皆んなとは少し離れた所に腰掛け、紫色の煙を空調の風に靡かせ乍らソテツが言った。
確かに生きた心地はしませんでしたが、何事も経験だと決め込むと、案外何でも出来るモノですよ。
経験と言えば、ソテツはどうだったの?。
ピアニスト「体験」。
微糖の缶珈琲片手に吉野がそう述べると、ソテツは休憩室の天井に視線を向け乍ら、コッチはコッチで正体がバレちまわねぇ様にするのが精一杯だったからな、兎に角大変だったとしか言いようがねぇよ、と答え、味の薄れた紫煙の火をブリキ製の灰皿の上でゆっくりと揉み消した。
僕も夜光と一緒に裏方スタッフ役として昨日迄事の成り行きを見守っていたけれど、てんやわんやも良い所だったなぁ。
捜査に協力して貰った手前、手を抜く訳にはいかなかったしな。
接客中、女性客に囲まれた時なんか、ホント肝が冷えたよ。
そう言って夜光はブラック珈琲の入った缶に口を付け、静かに喉を潤した。
でもまぁ、何にせよ、事件〈ヤマ〉が解決出来て良かった。
じゃなきゃ今こうして呑気にしてはいられないワケだし。
はっはっは、まるで中間管理職みたいな締めの言葉だな。
じゃあ最後にモクレンからひと言戴くとするかね。
ソテツが言った。
ワタシはただ単にチンピラ三人を蹴り飛ばした事と逮捕状を発行する為に動き回っただけだ。
だから別に何も言う事は無い。
あのオンナの理論と言うか理屈は実に恐ろしいと言う事以外には。
署内の自販機で販売しているメロンパンを食べ終えたばかりのモクレンは淡々とした口調でそう述べると、玻璃に眼で合図をして、自身の口の周りに付着をした砂糖を翠色に染め抜かれたハンカチーフで綺麗に拭かせた。
じゃあ、そろそろ解散だな。
椅子から立ち上がるなり、ソテツが言った。
窓の外では登り始めたばかりの朝陽が、寝惚け眼の大都会をしっとりと照らしていた。
では三日後に又。
あゝ、三日後に。
三々五々に別れたのち、玻璃とモクレンはひと気の薄れた街を一路、自分達の住んでいる部屋へと向かった。
朝の風が互いの髪を軽く靡かせる中、モクレンはひと言玻璃に向かって、さっきから腹が減って仕方ない、帰ったら何か作れ、と言って玻璃との距離を詰めたかと思うと、玻璃の右手をぎゅっと握った。
婚約をして以降、モクレンは以前にも増して手を握る様になった。
まるで此のオトコ即ち玻璃は誰にも渡さないと言わんばかりに。
モクレンのジュリアに対する態度は、其の想いが強く現れていた証拠なのだが、捜査をするに辺り、公〈おおやけ〉と私〈わたくし〉をごちゃ混ぜにする事は御法度も良い所であった為、パートナーである玻璃は勿論、其の他の面々も誰も其の事に就て触れる者は居なかった。
ただ単に触れる「勇気」が無かった、とも言えるが。
食事の後は?。
此の時間帯から出勤する或いは夜勤明けらしい色取り取りのクルマが道路を走り抜けて行く中、玻璃が言った。
風呂に入ろう。
今のお前、酒と香水臭いし。
分かりました。
冷蔵庫の野菜室に昨晩コンビニで買ったアップルパイがあるので、モーニングの後のデザートは其れとバニラアイスにしたいと思います。
悪くない組み合わせだな。
ひと月前、テレビの衛星放送で放映されていた仏蘭西映画をながら観していたら、つい感化されて。
そんな暇は無い筈なのに、何処で仏蘭西語を会得したのかと思えば、そうか映画か。
日常会話程度ですから、会得と言う程ではありませんがね。
寧ろ、言語に関してはモクレン、海外生活の長かったアナタの方が黒帯かと。
言語だろうがダンスだろうが、お前がワタシに勝てる要素は何一つ無いと思え。
モクレンはどうだと言わんばかりに鼻をフンと鳴らした。
そして二人の住むマンションが見えて来た。
えぇ、其の点は反論の余地が無いです。
今回の捜査にしたって、モクレンが陰に陽に動いてくれ無ければ正直如何なっていた事やら。
マンションを見据え乍ら、玻璃が言った。
改めて、御尽力有難う御座いました。
分かれば宜しい。
駐車場からエレベーターホールに着いてからも、玻璃とモクレンはほんの片時でも離れていたくないと言わんばかりに互いの手を握っていた。
ポン、と言う独特の機械音と共にエレベーターの扉がゆっくりと開いた。
事件を解決した後の余韻に浸るかの様に、照明の光が眩しいな、などと思い乍らモクレンが眼を細めていると、華奢だがダンスと運動でしっかりと鍛え上げられたしなやかな肉体を玻璃に抱きしめられた。
そして気が付けば御立派な「雄」の顔をした玻璃の顔が眼前にあり、まだメロンパンと珈琲の残り香漂う甘苦い唇を奪われていた。
面白い遊びを憶えたての子供と変わらないじゃないか。
こゝろの中でそう思い乍ら、エレベーターが二人の住む十一階に辿り着く迄、モクレンはされるがまゝにしていた。〈終〉
Swinging City