見上げた空はさくら色

エッセイ集『アンダンテ』より。
2023年4月に出版した際に書き下ろした作品です。
『風が吹く日』の一年後のお話。

 桜のつぼみが少しずつ膨らんできた時期の頃。私は車を走らせていました。早くも風に吹き飛ばされた桜の花びらが車のフロントガラスにくっつき、春の訪れを感じさせます。最近はとても暖かくなってきて、服装も春仕様に変えたところです。もう少し、もう少しで桜が満開になる。そう思いながら私は少しだけ目を細めました。

 さて、私は車をある場所で止めました。その場所はかなりの田舎――いや、辺鄙とか、僻地と言った方がよいのかもしれません。ここは私が今住んでいる家です。実は、私は通院のために実家に帰省していたのです。そして、用事を終えたので実家を離れ、いつも住んでいる家に戻ってきた、というわけです。

 そうですね、最初からお話しましょう。最初のお話『ちょっとそこまで』や『風が吹く日』を書いてから一年半以上の月日が経過しました。その間私がどうしていたかというと、念願の復職を果たして仕事をしたり、慣れない一人暮らしに奔走していたり、別の創作活動をしたりと忙しい日々を送っていたのでした。

 私が以前に住んでいた地は地方とはいえ、わりと都会でした。それがどうしてまた、こんな辺鄙な地に引っ越しを? しかも何故一人暮らししているのでしょう。私もこれは運命に引き寄せられた、と少し思うほどです。どちらかと言えば、流れに乗っていたらこのような感じになった、という方が正しいのかもしれませんが。

 復職の最初のきっかけは『貯金が尽きた』ことです。これでは、大好きな創作活動もできませんし、少しの贅沢をすることもできません。旅行に行くことだってできない。親に全てを頼っている状態でした。これは私にとって、とてつもないストレスでした。親と喧嘩をしたり、涙が止まらない日々が続きました。

 ある日の明け方、私はふと思いました。
『何故、こんなにつらいのに生きているのだろう』と。あぁ、消えてなくなってしまいたい。でも、まだ生きていたい。もっとやりたいことはたくさんある。今まで書いた物語やキャラクターたちは私がいなくなったら消えてしまうのだろうか。

 そう思ったらいてもたってもいられなり、私は突発的に薬剤師の転職サイトの登録をしていました。それは本当に突発的な行動でした。親にも、後に『あの時でなくてもよかったんじゃないか』と苦笑いされます。でも、どうしてもあの時の私にはお金が必要だったのです。仕事をしている、という安心感が欲しかったのです。
 
 仕事は私の期待に反してなかなか見つかりませんでした。近場に私のように持病を抱えたまま働けるような職場がなかったのです。コンサルタントの方は言いました。
「これは音葉(おとは)さんが希望した地域ではありませんが、よい職場だと思います。遠いので、一人暮らしになりますが、家電も一式そろった寮がありますし、すぐに暮らせますよ」

 私は最初は渋っていましたが、なんとなく流されてその職場に応募してみることにしました。もし、面接の様子で合わないな、と思えば辞退すればいい。一度就職してみて合わないと思ったらやめればいい。そんな軽い気持ちでした。

 そうして、私は田舎での一人暮らしを開始したのでした。暮らしはじめて、思ったのは『完全に騙された!』ということ。確かに家電は一式あります。ありますけど、ただそれだけ。家はだだっ広いだけで収納スペースは全くありません。棚や、カラーボックスは一切ないので、自分で買ってこなければいけません。

 それと、とってもとっても田舎なので車がないと生活できません。いえ、それでは言葉が足りません。近場のスーパー、百円ショップ、コンビニまでが遠い遠い。基本20キロほど車を走らせなければなりません。職場の病院まで徒歩5分。郵便局まで徒歩3分。唯一の長所はここでしょうか。この距離を毎日往復することで、私の脚はだいぶ鍛えられ、健康体に近づきました。まぁ、これはよいことではあるのですが。

 それと毎日のお仕事。これは私一人でこなす必要がありました。なので、重い輸液のパックを持って階段を上り下りしたり、薬を持って駆け回ったりしています。あまり座っている時間はありません。基本、立って調剤業務をこなしています。仕事をしているうちに私の脚はさらに鍛えられ、ズボンの中で窮屈そうにしています。

 そんなこんなで忙しくしているのが今の私の日常です。

 この季節になると、あの風が強かった日に父と病院まで歩いていった日のことを思い出します。あの頃は未来なんか見えなくて、なんとかして前に進もうともがいていました。また薬局に就職するのかな、なんてうっすら思っていたり、またこの辺に就職するのだろうな、と思っていました。でも、実際の未来は全く異なったものになりました。あのとき、絶望を感じながらもどうにか腐らずに一歩を踏み出してよかったのだ、と思います。

 あぁ、仕事場の窓から見える景色が本当に綺麗。大きな桜の木が植えられているうちの職場は、患者さんたちが院内からお花見ができます。冬の間、ずっと灰色だった世界は一転。一面の桜色で埋め尽くされます。私はこの光景が本当に大好きです。幸せな気持ちがぶわっと心の底から湧き上がってくるのです。

 ここに来てまだまだ日が浅い私はお花見の名所を知りません。
 ちょうど、仕事中に
「音葉さんってお花見行かないんですか?」
と聞かれたばかりです。
「行きたくても、場所がわからないんです!」
「あら、ここの方ではないんですか?」
なんてやりとりをしました。

 そうですね、私がお花見もどきをするのは職場の大きな桜と、職場からの行き帰りで歩いているとき。それくらいです。でも、冬の間寒くて寒くて周りの景色を見る余裕も何もなかったときに比べると今はなんて天国なのだろう。今は暖かいし、桜は綺麗です。それだけで満たされます。

 今の私は本当に幸せ者です。

 満開の桜でいつもは灰色をしている病院の廊下がすごく明るい。今日は外から職員さんと患者さんがお花見をしている声も聞こえてきます。なんだかとても気持ちがいい。今日も今日とて仕事が多くてせわしないけれど、とても満たされた気持ちです。ちょくちょく体調は崩すけど、職場の皆さんは優しいし、なにより求められている、という安心感があります。小さな病院だけども、私も力になりたい。最近ではそんな気持ちになります。

 きっと私は全速力で走ることは向いていないのでしょう。ゆっくりゆっくり休みながら。これからも自分の人生を歩いていきたい。そう思います。


 ふわりふわりと舞い落ちる花びらと、今日の空は同じ色をしていました。

見上げた空はさくら色

見上げた空はさくら色

エッセイ集『アンダンテ』収録。 『さくら色の空と、今の私の日常』

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-21

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