ランナーズ・ハイ

エッセイ集『アンダンテ』より。
おうちdeちょこ文 折本フェア場外
2021/8/19~8/26配信 一部改訂

 これまで話してきたように、私は極度の出不精です。散歩などとんでもありません。昔から運動神経が悪い私は、一切のスポーツに興味がありません。自分ですることにも、観戦することにも興味がないのです。

 特に私が苦手だったのが、長距離走。いわゆる持久走ですね。毎年冬になると生徒全員に課されるコイツは私の天敵でして、苦手な体育がさらに憂鬱なものになっていたものでした。確か、走る距離は3kmほどだったと記憶していますが、それでも私にはキツくてキツくて仕方がないものでした。まともに続けて1kmも走ることができなかった私は、友達同士でよくある、
「一緒に走ろうね!」
 で、裏切られた経験しかございません。外周を一周する間もなく、
「ごめん、先行くね!」
 と置いていかれ、どんどん、どんどん追い抜かされていかされます。こうして、いつもビリから二番目でゴールするのが通例となっていました。とはいえ、私だって努力をしていなかったわけではありません。全くスポーツをやっていなかったわけでも、太っていたわけでもありません。

 これまた運動神経が悪く全く泳ぐことができなかった私を心配した両親は私をスイミングスクールに通わせていました。ここでも大苦労しながら、持ち前の努力でクロールから始まり、平泳ぎ、背泳ぎ、バタフライ――と個人メドレーを制覇していきました。こんなことを毎週やっていたので、腹筋と背筋は無駄にありましたし、体力だってあるはず。なのに、持久走となると駄目。小柄で細かった私は瞬発力だけはありました。なので、何故か短距離走だけは得意でした。高学年に上がるにつれてリレーの選手に選ばれることも少なくありませんでした。でも、持久走となると駄目。

 時が過ぎ、すっかり大学生になった私は、
「もう持久走とは付き合わなくてよくなった!」
 と喜んでいました。ド田舎なので基本的に車がないと死ぬこの地域では、車通学が必須。もうすっかりチャリ通学の大変さも忘れて車通学を謳歌しておりました。

 しかし、悪魔は静かに忍び寄ってきました。そう、国試。国家試験。薬剤師国家試験です! 私が通っていた大学は薬学部でした。なので、六年制です。六年間みっちり勉強した後の国家試験。これが嫌らしいのなんのって。一応は選択式問題であるこの試験ですが、全部の選択肢をしっかりみっちり理解していないと解けないようになっているんです。

 一昔前は消去法で解けてしまうような方式だったらしいですが……私達の世代になると『薬剤師の存在とはうんぬん』的なことが叫ばれ始めたのか、方式が変わりました。問題数も増えました。学生の負担は増える一方です。

 では全部で何問あるのか? 答えは345問です。これを二日間かけて解くのです。もちろん座りっぱなしで。これは体力勝負です。体力がある者が勝つのです。普段の講義もそうですが、9時スタートの18時終わり。おうちに帰ってからも復習タイムがありますから、試験勉強中も体力がある者が有利です。

 というわけで、体力のない私にとって不利なこの状況。それでもなんとしてでも受からねばなりません。しかし、夏休みに一生懸命ネットの講義を見まくり勉強漬けした後に夏バテ気味になってしまいました。このままではいかん。どうしたらいいだろう。単純な私は『体力をつける』なんて言葉でググった記憶があります。どこのサイトでも結果は同じ。『歩け』『散歩しろ』『睡眠を取れ』『食事を』……

 えぇい! そんなことはわかっている! もっと医学的な、いい方法は……ないんだろうなぁ。私は諦めて勉強時間を削り、一日のルーティンに散歩を嫌々加えることにしました。最初は普通に歩いていた私ですが、いかんせんスポーツ嫌いですから、楽しくありません。

 仕方がないな。続けるためにスマホのアプリを活用して歩数とか測ってみようか……私はバリバリの理系ですから、数字を見ればもしかしたら心に響くかもしれない。そんな軽い気持ちで始めた歩数や距離測定ですが、これが大当たり。やはり自分がどれだけ頑張ったか数字で出されるとやる気が出ますね。季節もちょうど秋で涼しく歩きやすく、調子に乗った私は思いました。

『歩くだけでは生ぬるい。ランニングにしよう!』

 と、自分をいじめ抜くことに若干の快感を感じ始めていた私はさっそくランニングを始めたのですが……大人になっても長距離走は苦手だったようです。本当に数メートルしか続けて走れないんです。すぐに脇腹が痛くなってしまう。次の日に襲ってくる筋肉痛もわりとつらい。だがしかし、これも国家試験に受かるための体力をつけるため! 少しずつ、少しずつ走る距離を伸ばすために努力を惜しみませんでした。すると、あんなに走れなかった私が1㎞くらい続けて走ることができるようになったのです。あんなに、苦手だったのに。また、アプリで表示される走った距離が伸びていくのを見るのも快感でした。私はだんだんと走ることが楽しくなってきているのを実感していました。

 この頃になると、だんだんと勉強のしすぎで頭がおかしくなってきているのを感じていました。常に頭が暴走気味といいますか、つらいはずなのに『私は頑張っている!』という自己陶酔な感情を抱いていたり。あまりのつらさに脳内からつらい感情を緩和する変な物質でも出てたんでしょうね。完全にあれです。ランナーズ・ハイと同じです。あれも、長距離を走るという身体への負担を減らすために脳内から麻薬が出てきて、それが快感になるのだとか。あまり詳しくはないのですが、完全にそれですよ。しかし、運動している間だけは、頭の中を空っぽにすることができました。これはかなり精神的にもよかったのではないかな、と今では思うのです。

 さてさて、秋は飛ぶようにすぎ、冬がやってきました。さすがにクリスマス辺りになるともう毎日毎日学校に行って勉強漬けでした。なので、ランニングする時間も取れなくなってしまったのでしたが、運動をやめたストレスや反作用的なものはすぐに現れました。ものもらいができて、ずっと治らないのです。全く病院に行く時間もないので、親にドラッグストアで買ってきてもらった目薬をずっとつけていたのですが……これが全く治らない!

 身体は正直とはよく言ったものです。少しの体力の低下が命取り。この頃になると、周りの学生達もやれ『お腹が痛い』だの『眠れない』だの不調を訴えるようになりました。そりゃあ、毎日毎日座りっぱなしで勉強ばかりしていたらストレスも溜まりますわ。でも、やめるわけにはいかないのです。国家資格がかかっているわけですからね。

 私はというと、卒業試験を突破した勢いでランナーズ・ハイな思考が続いておりました。この勢いで国家試験も合格してやろう、とひたすらに過去問を解きまくる日々。私の頭はバリバリの理系なくせにやたらと脳筋でしたから、『一回やってできなければ、二回やればいい、それでも駄目なら以下略』のような感じでございました。もちろん戦略的に勉強することも多々ありましたが、基本は脳筋です。もう時間もありませんからね。

 で、結果はどうかというと無事一発で合格することができました。長かった、長かった。ようやく勉強しなくてもいい日々がやってきました。お布団に籠もってゲームをしても許される! あんなにランナーズ・ハイ的な思考に陥っていた脳内もようやくリセットされ、思いました。

『なんであんなに一生懸命ランニングしようと思ったんだっけ? やっぱりお布団は最高だわ』


 やはり、どう転がっても私は運動が嫌いなようです。もう絶対にランニングなんかしない。あんなキツいことってないわ。百歩譲って散歩ならまだしも、もうやりたくない!

ランナーズ・ハイ

ランナーズ・ハイ

エッセイ集『アンダンテ』収録。 『精神的にも肉体的にも追い詰められた薬学生が脳内麻薬ジョバジョバのまま走り抜けちゃう話』

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-21

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