星降る夜に
エッセイ集『カクガクシカジカ』より。
改訂前の本を出版する際に書き下ろした作品です。
2021/8/20 執筆。
「今までありがとうございました」
もうすぐ桜が咲く頃。ある朝、私は人生の大半を過ごした自分の部屋に頭を下げました。沢山あった本も、思い出の品もなくなって空っぽになったこの部屋は、一ヶ月前よりも随分と広く見えます。さて、もう行かなくてはいけません。私はもう一度、自分の部屋を振り返りました。もう、この部屋に私が戻ってくることは二度とありません。なんだか信じられないけれど、この部屋も家にもさようならです。
一ヶ月前。私は自分が受けた薬剤師国家試験の自己採点をしていました。
「やった、受かった! これは確実に受かった!」
私は急いで買い物に出かけている両親に電話をしました。両親はとても喜んでくれました。一年間必死に勉強した成果が実って、私もとても嬉しかったです。でも、それと同時に私は物心つく頃からずっとずっと過ごしていたこの部屋にお別れしなくてはいけないことが決まったのです。
と、いうのも私の両親は高齢なのです。両親は仕事のために故郷を遠く離れてこの地に家を建てて生活していましたが、親戚は全員両親の故郷にいます。これから先、私たち家族だけが頼る人もなしにこの地で過ごしていくのは厳しいものがありました。それに私は一人っ子です。この先一人だけで両親の面倒をみるのは現実的ではない。それらを話し合い、私が大学を卒業して、国家試験に受かったタイミングでこの地を後にすることにしました。行き先はもちろん両親にとっては故郷の地。私にとってはたまに帰省で帰る遠くの地。私は、友達も学校も家もみんなみんな手放さなければならなくなったのです。それでも、私はこの地を両親と共に離れることを決意しました。それだけ私にとって家族は大事なものでした。それに、この資格があればどこであっても就職することができます。私はそれだけの努力をしてきた自信とプライドがありました。
だから、この地で積み重ねてきたものが私を守ってくれるはず。きっと離れていても大丈夫。私はそう思ったのです。
思った通り、就職先はうまい具合に見つかりました。私は新入社員ですから、社員研修があります。それも一週間泊まり込みの。どんな出逢いが待っているのだろう。そんなことを思いながら昨晩はこの家での最後の夜を過ごしていたのでした。
そんなこんなで迎えた朝。両親はまだ荷造りが終わっていないので、私だけ一足先に旅立つ形になります。両親にしばしの別れを告げ、私は寂しさとすがすがしさでいっぱいの気持ちでいました。
まぁ、その気持ちも研修内容のクソさで全て吹き飛んでしまったのですが。まぁ、現実というものはそう理想通りうまくいきませんよね。とにかく早く一週間よ終われ、終われ、と願い続けた研修でございました。やっとの思いで研修を終えたら、最終日は母校の研究室に挨拶に行きます。これも強制的に行かされたものですが、ここの研究室にもう戻ってくることはないのだなぁ、と思うとなんだか悲しい気持ちになります。私はこの研究室が大好きでした。とても居心地のいい場所でした。たいした貢献はできなかったけれど、私はこの研究室で研究ができたことを誇りに思います。
さて、全部の用事が済んだことですし、帰りましょうか。私の新しい家になる場所へ。それにしても変な感じです。私はまだ自分の家になる場所の風景すら知りません。私が生まれ育った、大好きだったあの街からはどんどんと離れていきます。それなのに『帰る』とはなんだろう。なんだか不思議な気持ちになりながら私は空港で出立のための待合室を探していました。なかなかたどり着かない待合室に不安を覚えながらたどり着いた先。なんとまぁ、かわいらしい。いかにも『この飛行機で行く先は田舎ですよ』と言わんばかりのこぢんまりとした待合室。あぁ、私が帰る先はもうあの家ではないんだ。もうあの家には戻れないんだ。そんな事実をいまさらながら突きつけられたような気がしました。
そんな少し沈んだ気持ちが浮上したのは飛行機の席が窓際だったからでした。もう空はすっかり暗くなっていました。私は窓際の席が大好きです。もちろん景色を眺めることができるからです。今日もまた、窓から見える東京の街のきらめく灯りと暮れゆく空、満点の星空で私の心を暖めてくれました。星空っていいものですね。もちろん夕焼けや青空もよいものですが、星空は心がなんだか落ち着くのです。なんにしろ、空を見ていると元気が出ます。故郷の空も、これから行く地も空は繋がっていますからね。
なんて、格好いいことを言ってみたりとかしているうちに飛行機が到着いたしました。荷物を受け取って、バスに乗ります。この地に降りるのは数年ぶりでしょうか。しばらく帰省していませんでしたから、久しぶりの景色です。
ええっと、バス、バス……この地でバスに乗るのは初めてですから、ちゃんと確認しないと。あった。もうすっかり辺りは真っ暗です。私は流れていく町の灯りを眺めながらウォークマンの電源をいれました。穏やかな音楽に心が落ち着きます。これから私はこの町で生きていくんだな……なんとなく怖いけれど、私は一人ではありません。きっとやっていけそうな、そんな気がします。
バスから降りると父が待っていました。ここからは車で家に帰ります。その前に……父が私の職場になる場所を案内してくれました。まぁ……ぶっちゃけ暗くてよく見えなかったのですが。本当に、これから先は新しい生活なんですね。場所も、生活も。
さて、遠回りをしましたが、ようやく新しい家であるアパートにたどり着きました。
「ただいまー!」
「おかえり!」
母が出迎えてくれました。それにしても、この家の玄関、狭っ苦しいですね! 今までの家の玄関が広すぎたせいか、とてつもなく狭く見えます。
私が玄関の狭さに驚いていると、父が言いました。
「お風呂も狭いよ。見る?」
私はお風呂を見に行きましたが、確かに狭いですねぇ。しかもなんだこの余計な段差は。いつか転びそうだし、洗面所も狭い。まぁ、これも一段落して新しい家を建てるまでの辛抱、辛抱……この土地には祖母が残してくれた土地があるので、そこに新しい家を建てようという計画があるのです。それができるだけマシと言えましょう。
さてさて、目まぐるしかった今日という日が終わろうとしています。私は新しく自分の部屋になった部屋でまた音楽を聞いていました。少し狭いけれど、自分の部屋というものはいいですよね。一人になれる空間ってなんて落ち着くんだろう。ふあぁ、なんだか眠くなってきました。
お布団にくるまってぬくぬくしているうちに、私は音楽と一緒に夢という夜間飛行に旅立ってきました。明日からはまた目まぐるしい日々が待っているはずです。
少しの間だけ、おやすみなさい。
星降る夜に