迷羊も老鼠に(★万花物語・番外編)
中年プログラマーに明日はあるのか?★
「ゲーム、お好きですか」石盛はゲームセンターで、中年の女に訊ねた。
「ええ。スロットが好きで」
「会社員ですか」
「販売ですよ」
「私がここへ来るのは、決まって仕事がはかどらないときです。未年生まれでね。迷える子羊。子羊でも、ときどきゾンビを演じたくなるときがある」
中年女はフフッと笑い、連れの女の方を見た。
「じゃあ、また」
石盛は中年女に手を振り、別のゲームを探した。彼は会社勤めのプログラマーである。
あるとき、またゲームセンターに来た。そこに品の良さそうな紳士がいた。大学教授風である。その紳士は、実際に大学の教授だった。彼は石盛にこう言った。
「あなたは迷羊です。羊は大勢で群れている。だから、出口を探してもむだ。どのみち、迷うものなんです。心配なさらなくてもよい。ちゃんと羊飼いが現れて、出口へ導いてくれますよ」
と優しく諭した。この言葉は石盛の心を和ませた。
オレは迷羊か。群れときゃ、羊飼いが――。
とりあえず、その晩だけは救われた気がした。
しかし、現実は甘くない。仕事の道のりは険しかった。なかなかはかどらない作業にイライラしては、自分の立てた論理思考の未熟さを痛感する毎日が彼を苦しめ、辛さは日を追うにつれて強まった。
どうしても解決しないプログラムは、その経過と現状を上司に報告し、次のプログラム開発に取り組まねばならない。会社として、製品の納期がある。プログラム開発の期限も切られている。どうしても、完成度が五割、六割の仕事が増えた。致命的なミスに気づいて完成させたものも中にはあった。
ただ、いま取り組んでいる新製品のプログラムは難しかった。従来の考え方では設計基板が大きくなりすぎ、本体に収まりきらないのだ。上司は言った。
「誰も開拓してない問題は、得てして多岐亡羊になりやすいんだ」
上司は石盛の知らない四文字熟語を喋った。
「何ですか? タキボウヨウというのは」
「方針が多すぎて、人が迷うという意味さ。分岐点の岐が多いに、亡くなる羊と書いてね」
上司の説明に石盛は眉をひそめた。
「また羊ですか。もうウンザリですよ、羊は」
彼は羊が悪く言われるたびに、草原で行き先に迷う羊を頭に思い浮かべて肩を落とした。
結局、新製品のプログラム開発は別の人に委ねられ、彼はそのプロジェクトから退いた。けれども、誰一人として、その製品を試作段階まで進めた者はいなかった。
五十を過ぎ、転職を決断したプログラマーは退職願を出した。
主として、若手の設計したプログラムの照査、工程作成、人員計画などに従事していた石盛は、それらを部下に引き継がせた。退職までの残された時間で、若い頃に放り出した難解なプログラムを最後に完成させる決断を下した。
難題が終局を迎えたのは、それからふた月足らずの日のことだった。
「やっと完成した。若き日の挫折も、ベテランにかかれば解きほぐすのは無理ではないな。意外と簡単な解決法があったもんだ」
そのプログラムは、人型自動調理ロボットの中枢に組み込まれ、世間をあっと驚かせた。着眼点がよかったらしい。製品売上部門で一位を獲得し、大成功を収めた。
その功績を受け、社内でささやかな祝賀会が催された。祝賀会では、上司からお褒めの言葉を頂いた。
「あの、不細工なプログラムしか作れなかった石盛くんが、いまや時の人だ。評価は時とともに変わるものだな。我が社の評判も上々だよ」
「ありがとうございます」
「できれば、ずっと会社に残ってほしいんだが」
「それは無理というものです。プログラマーとして年齢的にもう限界だし、管理的な仕事は性に合いませんから」
彼はすげなく固辞した。
徒歩で最寄り駅まで歩き、ICカードで改札口をいつものように通った。
駅のホームで電車を待っているときだった。いつかの大学教授が隣に並んで立っていた。その横には、これもかなり以前になるが、ゲームセンターで見かけた中年の婦人が教授の腕を取っていた。
「あのときの方ですよね」
大学教授は、石盛に気づいた。ややあって、やっと記憶を手繰り寄せ、石盛との出会いを思い出したようだ。
「あなたでしたか」
「二人はご夫婦だったんですね。まいったな」
石盛は頭の後ろをかいた。
教授は一定の業績を残し、定年で大学を退官した、と石盛に打ち明けてくれた。
電車がくるまでの数分間、手短に自分の成功談を話す石盛の目の輝きにチラチラと視線を移した元教授は、かく宣った。
「あなたも、とうとう迷羊から老鼠になりましたな。漢文に記されている通りだ」
そういう漢文があるのか、と石盛は初めて知った。
迷う羊は老いてきたら動きは鈍るが、増えた経験値のお陰で判断に優れる。漢文の一節は、そのような意味を持つらしい。石盛は、羊の干支に生まれたのを誇りに思い、夕焼け空に浮かぶ羊雲を見て目を細めるのだった。 〈了〉
迷羊も老鼠に(★万花物語・番外編)