カクガクシカジカ

エッセイ集『カクガクシカジカ』より。
おうちdeちょこ文 折り本フェア
2020/8/23~8/30配信

ROUND 1

 皆様は『(がく)変形症』という病気をご存じでしょうか。あまり耳なじみのない病気ですが、簡単に言えば手術が必要なほど歯の噛み合わせが酷く、日常に支障がある状態です。この顎変形症という迷惑な隣人は小さい頃から私を無意識に苦しめていました。例えば、噛み合わせが悪いことで食べるのが遅い。固いものを食べると顎が痛い。大口を開けてハンバーガーが食べられない。『顎が出ている』とからかわれる。一番悲しかったのは、この病気のせいで憧れであるフルートを吹くことができなかったことです。

 もちろん、歯科矯正は小さい頃からやっていました。しかし、私の歯並びの悪さは顎の変形症から来ているものなので、普通の歯医者では治すことができないものだったのです。
いつしか、歯医者から足が遠のき、歯を見せて笑顔の写真を撮れないままの少女時代を過ごしたのでした。

 そんな私に転機が訪れたのは高校生の頃でした。きっと、年頃の娘のことを心配してくれたのでしょう。母が言いました。
「もう一回歯の矯正してみない? 近くに有名な歯医者があるみたいで」
 私はその言葉でもう一度、歯科医院の扉を叩いたのでした。先生は私の歯の形を詳しくとり、何枚もレントゲンを撮り、今の私の歯の状態を丁寧に説明してくれました。
音葉(おとは)さん、あなたの歯並びはですね、手術しないと治りません」

なんですって? 歯並びが悪いのは知ってたけど、手術!?
上の歯が下の歯にかぶさっているのが正常な状態なのですが、私の場合はその逆。ようするにものすごい受け口なんですね。おまけに歯の一つ一つがやたらと大きく、並びきれていない状態です。加えて、噛み合わせが全く合っていないし、口腔内のスペースもやたらと狭いという最悪の状態。先生は言いました。
「まずはこの並び切れていない歯を抜いて、矯正を行います。この歯とこの歯です。あと、手術するにはこの埋まっている親知らずを抜かなければいけないです」

 えーっと、話を整理すると、私はこの先健康な歯四本と親知らず四本を強制的に抜かないといけないってことですね? マジ?
 このまま完全に放っておくには私の歯並びは悪すぎます。とはいえ、このまま歯並びを矯正してもお金がかかるだけで、正常な噛み合わせができるようになるわけでもありません。当時、私はこの後降りかかる壮絶な治療を知りませんでした。なので、
「せっかくなので頑張ります」
 と安請け合いしてしまったのです。まぁなんとかなるだろう、と。歯を抜くにしても麻酔があるんでしょう?

 先生はまた言いました。
「大変だよ……?」
 それはもう、説明を聞いた時点でわかりきっています。このまま引き下がれない私は治療を承諾しました。
 まずは、酷い歯並びを矯正することから始まりました。これは、皆さんやったことがある方も多いと思います。よく見る鉄製の矯正装置のアレです。これ、見た目も悪くなるし、針金で力をかけて物理的に歯を少しずつ移動していく代物です。
 要するに、歯にずっと不自然な力がかかり続けるわけですから、日常生活中にずっと鈍痛がしているんです。固いものも痛くて食べられません。歯医者にも定期的に通わなければなりません。この時点でも大変ですが、これでもよくある歯科矯正治療です。ここ後から正常な歯と親知らずを抜いていく治療が始まります。

 まず、大きな大学病院の歯医者で正常な歯を抜きます。怖いけど、怖いけど……歯の麻酔は何度かかけたことがあります。過去に痛かったことはないので、そこは大丈夫でしょう。たぶん。

 そう軽く考えていた私が馬鹿でした。痛くはなかったのですが意識はあるのです。歯をでかいペンチでめりめりむしりとられる音が間近でするのに痛みがないのはかなりの恐怖でした。それに、ものすごく引っ張られます。私は身体を硬くして一生懸命に耐えました。これだけでもかなりの負担ですが、本当の戦いは今ではなかったのです。歯を抜いたあとはご飯が食べられません。ゆえに、買ってきたパウチのお粥が大活躍です。痛み止めを飲みつつ、一週間はこの生活が続くのです。めんどくさいったらありゃしない! この治療の確か五回目かそこらのこと。さすがに慣れて来た私は大馬鹿をやらかしました。

 あれは、埋まっている親知らずを抜いた日のことでした。歯茎に埋まっている親知らずを無理矢理メスを使って切り出していました。歯茎はそれなりに固いものですから、メスを通すときなんともいえない音がしました。なんというか、皮膚というか、粘膜が切られている音。ごりゅごりゅ、とかごりごり、とか。そんな音に身をすくめながら、治療は終了。はぁ、終わった、終わった。治療のために学校を途中で抜け出してきているので、学校に戻ろう。確か今日は全校集会があるんだった。痛み止めは――もらったけど、いつも全然痛くないし、麻酔効いてるし、飲まなくていいか。そう思いながらそのまま全校集会が行われている体育館に行ってしまったのです。体育館に入ったそのときでした。
 
 急に……歯が痛い!

 皆さん、ご存じでしょうか。音というものは空気の振動なのです。その振動がマイクを通して増幅され、私の傷口を攻撃! ぎゃあああああ! 痛いぃぃい! いてもたってもいられないような痛みに、私は悶絶します。終わるまで我慢、我慢、いやもう無理! 私は結局すぐに体育館から逃げ出したのでした。もちろん、すぐに痛み止めを服用しました、とさ。

八回の抜歯治療を終え、長い長い矯正治療が終わったら、ここでようやく手術の話に入ります。私はもう、このとき大学生になっていました。ぶっちゃけ今のままでも十分綺麗な歯並びだし、手術しなくても……いや、よくない!
 ものすごい受け口のせいで、空気が漏れてうまく発音ができないのです。趣味が一人カラオケの私は困りました。もう『し』とか特に最悪なんです。『私』でさえ、うまく言うことができません。

もうここまで来たら、本当に引き下がれません。


というわけで、カクガクシカジカ、後編に続きます。

ROUND 2

 カクカクシカジカで、私は顎変形症の手術を受けることになりました。

 私は、某口腔再建の手術で有名な大学病院に入院しました。そこで、まず手術の同意と説明を聞きました。全身麻酔とその危険性、もしかしたら神経を傷つける恐れもあること。私はここまで来たら、とまな板の上の鯉な気持ちでいたのですが、両親の方が心配していました。

 手術の前日の夜。私は両親と手術前最後の食事をしていました。これからしばらくまともなご飯を食べることはできないので。コンビニで買ってきたカツ丼。こういうことはあまりしたことがないのですが……今回ばかりは験担ぎです。
 それからお風呂に入って、手術前最後の一人カラオケ。歌った曲は坂本真綾さんの『光あれ』。これからの私に『光あれ』、なんていうことはなくただ単に好きな曲です。

 その夜は、特に緊張して眠れない、なんてことはなかった気がします。基本私はとても臆病な人間ですが、変なところで図太いですね。
 時間は過ぎて手術時間間近。緊張もしていましたが、それよりも……その、お腹がすきすぎてイライラする! これ、夜も食べられないんでしょう? 次に食べられるのは明日の朝か……その頃はもう手術、終わってるんだよな……なんて考えたりしているうちに、あれよあれよといううちに車椅子に乗せられ手術室へ。
 おぉぉ、手術台! これ、ドラマで見たやつ! と、ちょっと興奮気味の私。あまりこのときの記憶はありませんが、よく覚えているのは全身麻酔を投与するとき。

「音葉さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「……さん、音葉さん!」
「……はい! 大丈夫です!」

なんてやっているうちに意識がなくなって――

 うーん……私、今寝てるよな。なんか、すごい長い夢を見てたような。ここってどこだっけ? なんで寝たんだっけ?
「……さん、音葉さん」
 あぁ、そっか、手術したんだっけ? ゆっくりと記憶が蘇ってきます。私ははっと目を開けました。
「あ、起きましたね。器官挿入外します」
と言われ、喉に挿入されていた酸素を送る機械?が外されます。ゴホッエホッ! いってぇ! 喉イガイガする! しゃべれない!

 なーんてことをされているうちにベッドを転がされて病室に戻ります。あー、辺り暗い。私が手術室に入ったのが一時過ぎだったのにもうこんなに暗いの!?ガチで大手術だったんだな……と麻酔がまだ効いている私はぼんやりとそんなことを考えていました。病室に戻ってくると両親が待っていました。ちゃーんと生きている私に涙を流す二人。大丈夫だって、このくらいで死なないから!
 しかし、これは地獄の入り口に過ぎなかったのです。夜中じゅう私を苦しめたのは痛みではなく、血痰! これが始終喉を伝って降りてくるのでまともに息ができないのです。何度も何度も看護師さんをナースコールで呼びました。結局一晩中眠れないまま朝を迎えます。

「音葉さん、処置室に行きましょう」
 はい、行きましょうか。ちょっと待って……お、すごい立ちくらみ……ちょっと待ってちょっと待って! しゃべれないから意思の疎通ができない! 今起こさないで! あー、意識が……異常に気がついた母が必死に止める声が聞こえた気がします。私はそのまま無理矢理乗せられた車椅子の上で気絶してしまったのです。起きたらベッドの上でした。人生初気絶。ついでに初失禁(大)。
後から聞いた話によると、血圧がめっちゃ下がってて母が大混乱してたんだとか。血圧計られた記憶なんてないです。気絶なんて全然いいものじゃなかった。

 処置室での処置もまた地獄でしたね。ずれている顎を無理矢理正常な位置に戻すためにこう、顎をひっつかまれて動かされて……痛すぎて冷や汗が出る! やめて! と手を振り払いたくてもできない。拷問か、これは。上の歯と下の歯を針金でぐるぐる巻いて固定して処置は完了。みなさん、歯を閉じたまましゃべってみてください。一応しゃべれますが、とってもしゃべりづらいですよね。この状態で一ヶ月いろというのです。これ、もうおわかりの方がいると思いますが、この状態だとお粥すら食べられません。全部水分です。
なんかすごく薬臭い栄養剤と味噌汁(具無し)くらいしか飲めないのです。あぁ、でも処置が終わって帰ってきたときに飲んだ、味噌汁(具無し)は今までで一番美味しい味噌汁でした。

 まぁその後も痛み止めの副作用ですごく眠い、鈍痛がする、顔が麻痺してる、顔がめちゃくちゃ腫れておたふく風邪みたいになったのでずっと冷やしててめんどくさい……などなどいろいろありましたが、なにより一番私を苦しめたのは食事の問題! 液体だと、一度に飲める量に限りがあるんです。それでも、お腹は空く。なので、『いかにお腹が膨れないうちにたくさん飲めるか』が毎食時の課題でした。楽しいはずの食事が作業になってしまったこと。これが一番しんどかったです。あとはとにかく暇なんです。図書館に通い詰めて、ひたすら喰いタンとか美味しんぼを読む日々。ここにも食べ物への執着が。だってお腹がすいて仕方がないんだもの! あぁ、なんでこんなところにジャンクフードの自販機が……ゴクリ。食べたい! 噛みたい!
 そんな欲求で頭が狂いそうになっていた私はついに愚行をやらかします。

(プリンなら吸えるかしら)

 そこで普通のプリンを買えばいいものの、焼きプリンが好きだった私は欲望に負けて売店で焼きプリンを買ってしまいました。焼きプリンって意外と固い。
 そう気づいたときにはすでに遅く……それでも必死に歯の隙間から少しでも摂取しようとする私。結局泣く泣く面会に来た両親に譲りました。あぁ、焼きプリン焼きプリン! 食べたい食べたい! クッソ、根詰まりして食べれない! こんなに近くにあるのに、どうして! あのときの無力感、一生忘れません。げに恐ろしきは食べ物の恨み。

 カクカクシカジカで、私は歯の健康を取り戻しました。最初からなかったものを『取り戻した』というのは少し変ですかね。今では固いものもハンバーガーも食べ放題です。針金を外してお粥を食べたときのあの感動はもう、涙が出そうでした。ただ、先生が言ったように私の顎には少しの麻痺が残りました。それでも、私はこの手術を受けてよかったと思っています。
『だって、エッセイのネタにできるから!』

(というのは少しの冗談です)


(冗談にしないとやってられない)

カクガクシカジカ

カクガクシカジカ

エッセイ集『カクガクシカジカ』に収録。 『顎変形症の大手術をした話』

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-20

Copyrighted
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  1. ROUND 1
  2. ROUND 2