小さな君の帰る場所

エッセイ集『たから箱庭』より。
自主企画 ツキイチ! 9月号 2020年9月1日配信

 今日はとある曲についてのお話をしようと思います。坂本真綾さんの『everywhere』という曲なのですが、この曲は真綾さんが初めて作曲した楽曲です。彼女はよく作詞も手がけているのですが、この曲で初めての作詞・作曲両方を行ったそうです。ピアノイントロから始まるとても優しいこの曲は、真綾さんが旅をしたときに、高齢のわんちゃんとお留守番をしていたときに生まれた曲なのだそうです。私には詳しい事情はわかりませんが、この曲の歌詞を見たときにとても暖かく、安心した気持ちになったのです。

 私は大学生のときにゴールデンハムスターを一匹飼っていました。そのハムスターを私は『チャチャ』と名付け、『チャチャさん』とお呼びしてかわいがっていました。チャチャさんはとても臆病な子です。初めて会ったときに一番最初に手に近づいていきたくせにガブリと噛みついてきて、流血したのはいい思い出です。病院に連れていけば、他の動物の匂いに怯えて滑車の下にずっとこもり続け、友達がうちに遊びにくれば秒で逃げ出してしまうのです。なんとなく垂れ目で、情けないような顔をしていて、性格が顔ににじみ出ています。でも、優しい子で、慣れてからは甘噛みや歯ぎしりで主張をし、決して飼い主を本気噛みするようなことはしない子でした。飼い主が調子に乗ってふわふわな背中をほっぺすりすりしたり、大あくびの最中に指を口の中に近づけたりしても、びっくりはしても噛みはしないのです。なんて賢いんでしょう(親バカ)。
 飼い主も部屋が汚れれば掃除をしたり、エサをあげたり、部屋んぽをさせたり、瞬く間に楽しい時間は過ぎていきました。

 人間とハムスターの寿命はどうしてこんなに違うのでしょう。チャチャさんはあっという間に歳をとってよぼよぼになってしまいました。毛がボサボサになり、固いものを食べることができなくなりました。歩くのもよたよたしています。自分でうんちを出すこともできなくなってしまいました。
 飼い主は泣きながら、ペレットをすりこぎですりつぶし、シロップ(ハムスター用)や種子を入れて丸め、介護食を作りました。うんちを引っ張り出してやりました。それでも、チャチャさんは日ごとに弱っていきます。もう、こればかりはどうすることもできません。病院に行くことも考えました。でも、チャチャさんは本当に臆病なのです。病院にいくことでもっとストレスを与えてしまうのでは、と私が最後まで介護することを決めました。
 そのとき、私は大学卒業のための卒業論文を書いていて、暗室に一人で籠もって細胞を染めては写真を撮り続ける日々を送っていました。卒業がかかっている大事な時期なのに私はチャチャさんのことで頭がいっぱいでした。
『大丈夫かな、苦しんでないかな』
『もしかしたらもう……いやいや集中しないと』
 なんてことを考えていたら、視界が歪んで見えなくなってしまいました。
『チャチャさん……嫌だよ離れたくないよ……』

 そんなときに出逢った曲。それが『everywhere』だったのです。出逢ったというのは語弊があるかもしれません。前から知っている曲ではあったのです。というもの、私は真綾さんのファンで、『ループ』(2005年)のときからずっと彼女の音楽を聞き続けていました。当然『everywhere』も知っていました。ただ、心にじんときたのが、ちょうどこのタイミングだったのです。

『ぼくが今向かう場所は そう遠くじゃない
1マイルの少し先  1光年の手前
寂しそうに手を振らないで 笑顔で見送って
終わりじゃない ぼくの旅のために
そっと ぎゅっと 抱きしめてくれないか』

1マイルは約1.6キロ。歩いて行ける距離です。私はチャチャさんが、私の知らないものすごく遠くに行ってしまうのではないかと勝手に寂しい気持ちになっていたのですが、この曲を聞いたときに思ったのです。

「ぼくはとおくになんていかないよ。ちょっとあるいていけるところにいくだけ。だから、いつでもあえるよ」

 チャチャさんもそう思うかな。だったら泣かないで笑っていたい。私はそう思ったのです。

 それから数日。11月23日のことでした。
 チャチャさんはハムランドに旅立ちました。私はそのとき哀しい、という気持ちにはなりませんでした。ずっと前から覚悟はできていました。

『頑張ったね、偉かったね』

 なによりチャチャさんはいつものように気持ちよさそうに眠っているような表情だったので、私はとても安心したのです。心なしか、楽しそうに、笑っているようなチャチャさんの表情を見ていると愛おしくて愛おしくて、自然に笑顔になっていました。

あぁ、よかった。笑顔で見送ることができた。
飼い主の勝手な想像と妄想になるのですが、『everywhere』という曲がなければ、私はチャチャさんを見送るときも涙が止まらなかったと思うのです。それでは、ずっと私を癒やし続けてくれたチャチャさんに顔向けすることができません。

真綾さんも言っているじゃないですか。

『愛されるためにきっと 僕らは生まれてきたんだ』 って。
私ができるのはチャチャさんを愛すること。決してお別れを悲しむことではありません。

私はチャチャさんに出逢えて幸福でした。
彼を愛することができて幸せでした。

本当に、本当にありがとう。


またね、チャチャさん。

小さな君の帰る場所

小さな君の帰る場所

エッセイ集『たから箱庭』に収録。 これは私がハムスターのチャチャさんを愛した記憶。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted