(無題のドキュメント)

栃木旅行の折り、佐野から那須に向かう車の中で作った話

大学時代の友人の紹介で出会った彼女とは、数年の同棲を経て結婚した。子宝には恵まれなかったが、妻と二人でも不足のない、優しく穏やかな暮らしだった。結婚してから数年経つと、孫の顔を急かす親とも、育児に励む友人とも徐々に疎遠となり、二人の世界が結束を強くしていた。そして四十歳を手前に感じ始めた頃、このまま高層ビルに囲まれた都内に住み続けるよりは、もっと隣人の顔が見える背の低い場所に住むべきだと考え、半年ほどは色々と見て周り、その夏、この町に引っ越した。小さな二階建ての一軒家は賃貸で三万五千円。建物は古いが水回りなどはリフォームや修理の手が入っており綺麗で、都内のアパートとは比べ物にならないほど広いし、賃料も安い。会社までは車で一時間ほどかかるが、今までのアパートから駅までの徒歩や、電車に乗っている時間を踏まえれば誤差程度に感じられた。

「新しく引っ越して参りました。松浦と申します。よろしくお願いいたします。」
「妻のケイと申します。よろしくお願いいたします。」
小さな菓子折りを持って、近隣に数軒挨拶へ伺った。老夫婦もいれば、若い夫婦もいる。お子さんのいる家庭もあるようだ。住宅地の裏の坂を少し登ったところには小学校があり、昼間は天真爛漫な子どもたちの、邪気のない笑い声が聞こえる。山間のその町は、自然が豊かで空気が美味しい。水道水も浄水器なしで飲めた。

「私たち、やっぱ大正解かも」
その夜バスルームで髪を洗いながら、妻は言う。アパート暮らしの小さなユニットバスでは二人で並んで湯船に入るなんてことは考えられなかった。ここに住むことは、子どもがいない夫婦に与えられた贅沢なのだと、私は頷いた。

ガラス窓に何かが当たる音がして目が覚めたのは深夜3時だった。引っ越しや慣れない挨拶で疲れてしまい、起き上がることができない。しかしカツン、カツンと小さな何かが当たる音が止まず、その音が止んだのは日が昇る頃だった。幸い有休を使って引っ越しをしたのが一昨日と昨日で、今日は土曜日だ。その午前を眠りに費やし、午後から残りの荷解きをした。夕方少し涼しくなったので夕飯の買い出しに出ようと家から出ると、隣人の澤部さんが家の前に立っていた。
「あなたたち、大地主様にご挨拶していないでしょう。」
それだけ言うと、澤部さんは去っていった。

ああ、そういうのが必要だったのか。顔を見合わせ、私たちは慌てて町役場へ向かった。土曜日の夕方だと言うのに役場の門は開いており、中には職員が揃っているようだった。
「すみません。大地主様のところへご挨拶に伺いたいのですが、場所を教えていただけないでしょうか。」
通りがかった若い職員に声をかけた。職員は快く町の地図を見せて、場所を教えてくれた。
「役場を出て真っ直ぐ東側に行くと立て看板があるので、すぐにわかると思います。松浦さんがご挨拶へ伺うことは、僕からご連絡差し上げておきますので、このまま向かわれてはどうです?」
教えられた通りに立て看板へ行き着き、そこからは一本道だったが、緩い坂道を三十分ほど歩いてようやく建物が見えてくる。舗装されていない道に、サンダル履きの足はへとへとになった。
「飲み物とか持ってきたら良かったね。」
夏の夕方はまだ空も昼間のように明るいが、木が鬱蒼として薄暗い道。それでもこの時間帯はまだ、歩いていれば汗ばむ。
「あとちょっとだから、中で少し休ませてもらおう。」

古い造りの洋館だった。重たいドアノッカーを叩き、人が出てくるのを待った。五分ほど立ち尽くしていると、重厚な扉が開き、中からいかにも陰気そうな女が出てきた。
「先日引っ越してまいりました、松浦と申します。大地主様へご挨拶に伺いました。」
女は少しこちらを見た後、何も言わずに私たちを中に通した。中に入ると、その陰気そうな女は厳重に鍵をかけた。重い金属の音が、ただ広いその屋敷に鳴り響く。

「こちらでございます、どうぞ。」
無機質な女の声は私たちを導いた。薄暗い廊下にはどこからか、ひんやりと冷たい空気が流れている。歩き疲れて少し汗をかいた背中が寒いくらいに冷えていく。妻は私の手首の辺りを掴んでいた。そのまま廊下の突き当たりにたどり着き、そこには木製の扉があった。女はその扉を開き、私たちを更に中へと誘導する。背後からまた、鍵が締まる音が響く。中は地下へ続く階段になっていた。女を先頭に、私が最後になって階段を降りて行く。灯の少ない階段を降りていると、疲れ切った脚の感覚があやふやになる。自分が階段を降っているのか昇っているのかも分からなくなった頃、コンクリートの壁のような扉に行き着いた。
「大地主様のお部屋でございます。」
冷たい声と共に扉が開かれる。鼻を突く獣臭。妙に広く感じられたその空間に照らし出されたのは、手足のない、かつては人間だったものと思われる何かが、天井から吊るされている。生臭く冷たい空気が肺の奥で凍りついて息ができないまま、悲鳴が呑み込まれた。

その屋敷の中にある一室と思われる場所のベッドで目が覚めた。生活感はないが、手入れの行き届いた質素な部屋だった。妻はどこにいるのか、この部屋にいないことをサッと見回して確認し、部屋を飛び出した。長い廊下の両脇にある部屋の扉を一つ一つ確認し、十数個目の扉を開くとそこに妻と、その女の姿があった。何か会話をしていたのをやめ、こちらを見る。冷ややかな、血の通っていない人形のような目で、こちらを見た。
「今夜はもう遅いので、お二人とも休んでいかれてはいかがでしょうか。」
「明日は日曜日だし、いいよね?」妻はいつもの調子で言う。
私はさっき見た風景を思い出し、そんなことより、と二人に詰め寄るが、するとまた二人の目はガラス玉のように温度をなくした。それ以上は怖くなり、何も言えなかった。その後夕食を用意されたが、食欲が湧くはずもなく一口食べるだけで精一杯だった。妻は嬉しそうに「これ美味しい」と言いながら、出された食べ物を全て食べ尽くしてしまった。こんな夜にこんな場所で眠らなくてはならないのかと憂鬱だったが、翌日屋敷の女が起こしに来るまですっかり眠ってしまった。身支度を済ませ、屋敷を出たのは十時を過ぎた頃だった。緩やかな坂道を降りながら、妻に「あれはなんだったんだ」と話しかけるが、一瞬あのガラス玉の目の色をした後、「そんなことよりあのお肉おいしかったね」と、まともに取り合おうともしなかった。そして何よりあの目が怖くて、それ以上踏み込んだことは何も聞けなかった。
行きは緩やかでも上り坂だったので、帰りは行きほど時間もかからず町の中に戻った。立て看板の付近に住民が数人集まって、井戸端会議でもしているようだった。私たちの足音に気付くと皆がこちらを振り返り、笑顔で私たちを迎え入れた。畑の野菜や山で獲れた動物の肉を次々に手渡され、抱えて家に帰った。

屋敷で軽く朝食を頂いたので昼も軽く済ませればいいと思ったが、妻は町の人からもらった食材を全て使い、正午を過ぎた頃には贅沢な食卓が広げられた。鹿肉も猪肉も、都内にいれば特別な時に大枚を奮って食べに行くようなものだ。なんだか気が引けた。食べ切れなければ冷蔵庫の中に入れておけばいいと思ったが、妻は美味しい美味しいと言いながら全て食べ尽くしていた。

こんな風にたくさん食べる妻の姿を見たのは、長く暮らしてきて今回が初めてだ。妻はあまり食べることに興味を示さず、たとえば知人の結婚式のような何か特別な用事のある日でなければ、特にこだわりもなく一汁一菜のような食事を好んだ。だから妻は出会った頃から体型も変わらず、デパートの化粧品売り場で働いていたお陰か、誰よりも若々しく美しかった。自慢の妻だった。会社の同僚や共通の友人から美男美女夫婦だと言われることが私にとっては一つの自慢だった。なので、獣のようにある限りの食事を止めようとしない妻を、私は直視できなかった。突然何かが変わった。昨日私があの部屋で眠っている間に何かが大きく変化したことに、私だけが適応できていないのだ。

その晩は窓に小さな石が当たる音もせず、翌日を迎え、私は会社へ行った。会社では慌ただしく仕事をこなすことに集中した。しかし仕事が終わると家に帰るのが憂鬱で、久しぶりの出勤でもあったので一時間ほど残業をして帰った。

家に帰ると昨日のようなご馳走が用意されていた。また近隣の方々に頂いたそうだ。
「婦人会へ入ったらどうかと言われたの。公民館とか町の中の清掃とかみんなでやるんだって。お金とか出ないけどお肉とか野菜くれるってさ。」
「ケイには仕事辞めさせちゃったし、日中暇になるだろうから行ってくるのもいいかもね」
食べている量は相変わらずだが、妻はいつもと変わらぬ様子で言うので、私もいつも通りの会話をした。そんな風に日常は過ぎて行った。なにかが変だとかあれは何だったんだと思ったことは、悪い夢でも見たような気分で心の中から薄れていった。しかし数日経ったある日、家に帰ると玄関のポーチに妻の結婚指輪が落ちていた。私は何か妻が嫌がることをしてしまっただろうかと考えたが、少なくとも今朝は普段通りだったはずだ。慌てて家の中に入り、妻に指輪を手渡す。
「いつ落としたんだろう、気付かなかった。」
指輪を薬指に嵌め直そうとすると、妻の指は一段と細く、骨張っていた。腕や肩もよくよく触れてみると、薄い皮膚を挟んで骨を感じるだけだった。婦人会からもらってくる食材でこしらえた夕食は毎晩豪勢だ。私が見ていない場所で食べたものを吐いているのかとも考えるが、食後は寝るまで二人で過ごしている。トイレから出てこないなんてこともなかった。あんなに食べているのに、あの一食分でさえ以前の何倍もの食事量のはずなのに、なぜ。
「掃除の仕事って痩せるのかもね。前みたいな立ちっぱなしじゃないし。」
妻は何も気にしないような顔で、いかにも気楽な口ぶりでそう言った。

引っ越し先での新生活については同僚から何度か聞かれたけれど、はぐらかし続けた。詳しいことなどは話す気も起きず、自然が豊かで空気が美味しいだとか、そんなことをぼんやりと話した。今になって思うことは、自分には真剣な相談事も話せる友達もいなかったのだろうという現実だった。最後に真剣な悩みを人に相談したのはいつだっただろうか。社会人になって十五年程度の中に、その思いはなかった。しかし今から誰か他人に打ち明けようと思ったところで、こんな話、誰が真剣に聞こうと思うだろうか?そもそも、どこから話せば伝わるのだろうか?最初から?最初とは、どこだ?

疑念とは裏腹、平日は相変わらず通勤し、土日は家族と過ごす。晴れた週末はシーツや布団を干し、雨が降ればコーヒーを淹れて二人で読書の時間を過ごした。それは以前と変わらない週末の風景だった。それでも毎晩ご馳走が食卓に並び、妻はそれを食べ尽くす。そして、それでも妻は痩せていく。

その風景に心が麻痺しつつあった。しかしある晩、仕事から帰ると、妻がいなかった。携帯電話に電話をかけてみるが、その電話機は玄関先でガタガタと震えていた。電話が繋がらないんじゃ、外へ探しに出掛けるしかなかった。隣人の家はもう電気が全て消えていたので眠っているものと思い、二軒先の家まで行き、妻を知らないかと聞いた。最初は旦那さんが出てきたが、知らないと言って奥さんを呼びに行き、再び質問をすると、「買い物みたいな用事じゃないなら、大地主様のところじゃないかしら?だって松浦さんのところって、まだお二人暮らしみたいだし。」

「まだ?」

私は一度家に戻り、玄関先の足元に置いてある懐中電灯を持って家を出た。町の東側、大地主様のあの洋館を目指す。明かりはない。生い茂る木々の切れ目から僅かな月明かりが差し込む瞬間と、その明かりが途切れる瞬間を繰り返す。夜の山道は徐々にひんやりと空気を変えた。洋館のドアノッカーを叩く。数分待っただろうか。あの時の人形のような女が現れる。「お待ちいたしておりました。奥様は奥でお休みでございます。」中に入ると、小さな寝室のような部屋で、毛布に包まって眠っている妻がいた。「どうして」「奥様はお疲れでございます。今夜はこちらでお休みになっていかれます。」
私は考えるのを止めた。妻は疲れて、ここで休んでいる。明日には帰ってくる。それだけのことだ。それだけのこと。

それから、そんなことは何週間かに一回は起こった。家に帰ると携帯電話も持たずに何処かへ行ったきり戻らない妻。大地主様の洋館を訪れると、あの女に「奥で休んでいる」と言われ、思考停止をして私は一人で家に帰る。そしていつしかそれは当たり前の風景になった。大地主様の洋館を訪ね、妻が休んでいることを確認して家に戻るまでが、日常の中で時々起こる風景の当たり前になった。

ある週末、いつものように妻とお風呂に入る。ここ数ヶ月はほぼ毎日と言っていいほど妻と湯船を共にした。町内で仲良くなった友人の話、美味しかった食べ物の話、私の仕事の話、相変わらずな話、思い出話。話は尽きなかった。もうすぐ、春が来る。まだ冷え込む夜に、私達は長湯を楽しんだ。そしてそんな妻の下腹部が少し丸みを抱いていることに気付いた。パズルのピースが嵌っていくように、私の目の前は真っ暗になっていった。

それ以上何も考える力もなかった。

(無題のドキュメント)

車の中で「こわい」「続き書けない」と言いながらも頭の中では「しめしめ、このあとこいつらをどうしてやろうかねえ」と考えながら作った。

(無題のドキュメント)

その夫婦は都会の暮らしにうんざりしていた。田舎暮らしに憧れて引っ越した先で巻き起こる、「何かが変だ」 心と時間が進むスピードは、いつも同じとは限らない。

  • 小説
  • 短編
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-18

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