Voices

本記事は、2016年8月17日にアップした『Reading』という記事を詩作品として大幅に書き直したものです。



 降水確率90パーセントの世界だと知っていたのに。案の定迎えてしまった結末なんて、誰が聴きたがるというんだろう。




「ここは、着陸予想地点ではないから。」
 テレビやラジオ、携帯端末などからリアルタイムで入ってくる種々様々な情報を頼りに、こっちに近づいているという存在に対する不安や期待で膨れ上がるものを持て余す人たちが集まり、それぞれの推測を混ぜ合わせることで生まれる喧騒を眺めて、どこからかポツリと呟かれたそれを思わず拾ってしまったから、書かざるを得なかったこの散文。
 何のために、とか考えず又はどう読まれるか、とか想像もせずに拾った呟きの形に似合う言葉を探して、書いて、推敲してから書き直してを繰り返し、自分の頭がすっからかんになるまで一歩も動かずにその完成を目指した。いや、その「完成」といってもあの時のボクはその青写真すら描けていなかっただろう。あくまで個人的な満足として感じ取った感触をそのまま字面に当て嵌めて、鼻息荒くふんふんと頷いていただけのように思う。
 それなのに、束になった原稿用紙の適当な場所から読むという暴挙に出てもボクはその散文にいつでも感動を覚え、最後の一行から最初の呟きに舞い戻り、その時の衝動をゼンマイの仕掛けのように巻き直すことができた。まるで、ボクの中に潜んでいた情熱に類するものが文字表現の何もかもを利用して、他人事みたく結晶化した、にもかかわらず(あるいは、だからこそ)その主観的価値の煌めきに誰よりもボク自身が中てられてしまい、それらを破ることも捨てることもできなくなった。そういう不健全な関係を、世界が一変したその日の明け方に作り上げてしまった、そう自覚しているのに、それに関する後ろめたさをボクが(今も)全く気にしていない。だから全てが苛烈に噛み合い、ぐるぐると回って出来事は進む。誰にも邪魔されない分、誰とも関わらない親密な時間として。


 それを、しかしボクだけが体験する訳でなかったという事実を後から知った時に全てのカラクリは解明されて、カタカタと笑う声は聴こえた。
 そう、確かにここは着陸地点にはならなかったし、大変なのはそこから始まる物事の数々だった。そのために必要な隔離が実にソフトに行われた。そう誰かに語れる真実を、けれどボクを含めた関係者全員がクローゼットや押入れといった適当な場所に仕舞い、終ぞ口外することがなかったという事実をここにこうして記すことの意味。それを齎す、夜空の底をさらう風を招き入れるまで。
 ボクはここを動けない。
 動けない。




 いつもは早朝のニュースで見かけるそのアナウンサーは緊急放送で伝えるべき情報をテンポよく、しかし観る側の混乱を招くことのない様に抑制を聞かせるペースで繰り返した。
「落ち着いて、今は行動するのを控えて下さい。身の回りの物を持ち出したり、車による移動等は行わないで下さい。直ちに生活に影響が及ぶことはないと考えられます。突発的な行動を取る方がかえって混乱を生み出す可能性が高いと思われます。無計画な行動は控えて下さい。周囲にそのような行動を取ろうとする方を見かけた場合,その行動を控えるよう、声をかけ合って下さい。お願い致します。繰り返します、落ち着いて、今は行動するのを控えて下さい・・・」
 姓も名も植物に関係がある、例えば木の下の『花』の子みたいな、その上、この『花』がそこら辺の辞書には載っていないぐらいにややこしくて、他の人に書いてもらう時には必ず訂正しなきゃいけない、そんな手間のかかる私の名前。
 その名前を残り九枚のレポート用紙の所定欄に書くだけで厄介な課題がようやく終わる。そう思うだけで保っていた緊張は和らいでしまい、大きな欠伸が目の前の視界を涙で滲ませて、明日でもいいかなぁという言葉を現実ものにしようとする。それに抗する理屈の半分以上は使い物にならない手札となって、机の上でひっくり返ったままの状態から少しも捲れてくれない。だからさっさと切り札を出し、そのリアルに目を覚ました私となって両方の目をごしごしと拭く。
「その明日がどうなるか、それが見当もつかない。」
 あらゆる携帯端末の画面に表示されるこの一文に踊らされる人たちを責める気なんて、今の地球上では、殆どの人たちが持たないだろうな。少なくともその本音の部分においては、と素直に思う私が「だから所定欄に名前を書くという単純な作業を今夜のうちに終わらせておくのがマシ」という判断に基づいて、なけなしのやる気に燃料を注ぎ込んで火を点す努力を続ける。そうしてすぐに元の状態に戻って大きな、大きな欠伸を何度でも繰り返す。その度に涙に溺れ、今度こそはと優しく船を漕ぎ出して、夢のとば口に向かって進み出す。


『後ろに一歩引いた分を、一歩だけ前に進めるというプラマイゼロの均衡。それもいつかは壊れるだろう、そう期待してボールペンを指で回して遊んでいれば。あるいは、一曲も流さなくなったラジオアプリの代わりにタップして、お気に入りのプレイリストを永遠にループさせる時間を飽きるまで過ごしていれば。』
 とか。


 または。
『未知との遭遇は人類全体を代表する少数の人たちとの間で行われて、私たち個々人との間でそれが行われることは暫くはないだろうから。私の言葉も通じるのか分からないし、私が感じるものと同じものを向こうが感じるのか。あるいは違うものを感じるのだとして、私がそれを少しでも理解することができるのか又は感じ取ることができるのか。その全部が分からない。
 だから途方に暮れるんだろうな、何光年にも及ぶ大きな違いを自分勝手に想像して。気まずくなるんだろうなって、何気ないことで傷付けたりしたら取り返しの付かない事態に発展したりしないか、心配になって、ずっと愛想笑いを浮かべたまま二度と得られない機会を台無しにしないようにするだけで、何もかもが意味もなく終わってしまうのを目の当たりにして。』
 と徐々に具体的になっていって。


 と、ふと瞼を開いた私。
『そんなありもしない妄想が現実のものになったとして、その貴重な対面を想像通りに台無しにするなんて私一人で決められやしないんじゃないか。期待や不安を私以上に抱いているかもしれないその存在が、けれど私とは違う積極性を発揮して、私が思い付きもしないアプローチで事態を大きく動かしたりするんじゃないか』と。
 そんな真面目な夢から覚めて反省し、閉じていた蓋が馬鹿になって外れた勢いのままにどんどんと溢れてくる妄想を確かな現実のものにしようともう一度瞼を閉じた先で、トクトクと胸を打つ原因となっているその感情を見つけて初めて自分から「名前を付けてみたい。育ててみたい」と声に出して、叶えてみたくなった。


『それがきっかけとなってボールペンを手に取った私はさっきまで使っていた消しゴムを床に落としてしまい、その歪な形が果たし得る跳ね方で無事にベッド下の奥のスペースに潜り込んだそれをしかし無視できず、ボールペンをコトっと置き、机を離れ、床に這いつくばった格好になって消しゴムの所在を確かめる。腕を伸ばしても届かないと一目で分かるその距離をものともせず、かつ狭いベッドの下の空間でその機能性を発揮する道具を頭に思い浮かべた所で実際に聴こえた機械音。それに驚いて、スマホか何かのアラームかと当たりを付けて確かめようと立ち上がった所で、と呆気に取られて、ろくな言葉も発せられなくなった。』
 一変した世界、なんて本当に口にする日が来るなんて。信じられない、それぐらいに。
「宇宙的出会い。まさに。」




 手の平で叩いて画面の調子を整える。それからつまみを回す。ザザザーっとなっていた砂嵐がふっと途切れて、おっ!成功したかと思ったらすぐに元の状態に戻ったために、真四角の本体の横側に今度はパンチを一発食らわせる。それなりに加えた力の分だけガタンと揺れて、その位置が少しずれて、置いてあった台の上に染みついた日焼けのあとが露わになって、埃は舞った。そうして聴こえてくる、機械みたいな声。
『十四時から開始、冒頭一分は挨拶、CMあけ五分に選曲一曲目。お便り紹介。十五分頃からゲスト。ゲスト曲を二曲。四十分までトーク。CM。CM明け、お便り紹介。CM。CM明け、フリートーク。』


 何度でも確認しよう。俺の目的は、勝手な未来を想像してから夢見たいな過去を経て,そして何でもない現在(いま)に至ること。
 アナログ機器はいまや現存するだけで高額取引間違いなしの骨董品であり、メンテナンス上の技術的困難も相まってその機能が活きているかどうかを調べられることがまずない。このことは使用可能なチャンネルの有無及びその数についても同様で、密かに活きている電波塔を用いて奇妙なもの好きたちの海賊番組がオンエアー中であることをいちいち調べる奴は殆どいない。
 試みにそのラインナップを変わったものからつらつらと述べれば、例えば動物を模したキーホルダーの制作過程を原材料の調達又は精製に重点を置いて最低でも一年単位でリポートしてくれる趣味と娯楽の専門番組、『メイキング』。
 あるいは地下に潜んでいる(はずの)秘密結社が分かりやすく教えてくれる『世界の秘密を上手に取り扱う方法』。
 それから親子三代にわたって出生時から永眠後に至るまでの日々を綴った日記の詳細な朗読をCM無しで伝え続けるリアルドラマ、『人生の旅』。
 その他にも無音を押し通すサイレントな音楽番組や、漏れ聞こえる内容が文字通りにリスナーの命運を握るが故にスピーカーの前に人々を拘束する(と噂される)予知と予言のトーク番組。または嘘に本当を交えて聴取者を混乱させる常時臨時のニュース番組に、三分おきにその事実だけを伝えてくれる時計店がスポンサーの『子供居眠り相談室』。
 物好きの極みと言われるこれらの営みの中で、とりわけ頭のネジがぶっ飛んでいると評されるのが『手紙オンドクチャンネル』である。さきのアナログ機器以上に骨董品として尊ばれる手紙のうち、その内容が判読可能なものをここ一世紀にわたって読み続け、数多のオペレーターを使い潰すに飽き足らず、その宛先も知れるのなら何万光年先だろうとそれを必ず届けて受領証を受け取るという正気の沙汰とは思えない運送を本当に行い、数万単位の行方不明者を出している配達会社が開設、運営するドキュメンタリー番組。色んな意味での伝説的な人気を集め、数少ない成功例の記録で何人ものニンゲンの涙腺を崩壊させては干からびた亡骸を宇宙空間に漂わせることになったと噂される。それがどうしても観たくて(又は聴きたくて)、こうして処刑されるリスクを冒してでも施設に侵入し、あれやこれやの手段を試しているというのに。
 目の前にある真四角なアナログ機器は、公的に確認されている三代のうちの一台という御触れを見事に裏切る動作不良の真っ只中にあるし、んだよっ!と苛立ちを隠し切れずに後頭部を乱暴に掻く癖には、いつも真っ赤なオイルが混じるから気を付けているここ最近だったのに。
 んちくしょっ!!と蹴り上げた段ボールの中のガラクタがドンガラガッシャン!と床に広がるのを目にして、とうとう我慢できなくなってガシャガシャと掻いてしまった。
「あ。」
 と思わず声に出してしまった失敗と後悔を胸に、ありとあらゆる警報器がけたたましく鳴り響くのを覚悟して目を閉じた。


 静寂は破られて、俺はきっと瞬く間に拘束されて、直ちに処刑台に送られて、有無を言わさずに首の根本にある電源を切られる。
 そんな一連の流れを何度も何度もイメージしたのに。アナログ機器のザーッという砂漠だけが微かな光と確かな音を発し、それが急にぱっと止んで、何かの歌詞とメロディが聴こえ出し、そのまま暫く流れてから曲の解説が始まった。
「この歌詞が書かれたのは今から二十世紀前の夏の時期、当時売れっ子だった歌い手が郊外に購入した別荘地にて蜜月の日々を過ごしていたところ、とるに足らないことで浮気の相手と口論になった末に愛想を尽かされてその相手と別れたにもかかわらず、当時の配偶者に浮気(していた事実)がバレてしまい本宅に帰ることも出来ず、途方に暮れていた。そんな気鬱する状況にあっても生まれてしまう暇な時間を潰す為に即興で作ったメロディに、適当な歌詞を付けたもの。それが今流れている一曲なのだそうです。
 まずいえるのは、その制作過程が歌詞先行で作曲する彼にしては珍しいこと。まあ、それは特殊な状況がそうさせたってだけの話なのかもしれませんが、本題はここから。
 極めて素晴らしい状態で残されているライナーノートによれば、曲の完成後に歌い手は知人の一人に電話をかけたそうです。目的は、出来立てホヤホヤの新曲をスピーカー越しに演奏付きで歌って聴かせること。その知人は電話機を切ってすぐ、その日のうちに別荘地を訪れてからその年の夏が終わるまで、二人っきりの濃密な時間を仲睦まじく過ごしたそうです。嘘のような本当の話、電子情報としても語り継がれる彼の伝説的エピソードの数々を参照すれば信じてしまわざるをえない、言ってしまえばとんでもない自慢話ですよね。
 その辺のモヤモヤする気持ちを宥めて聴けば、うん。やっぱり私はこの曲が大好きです。
 軽薄なのに切実で、別れられずに戻って来たその人に、その不在の間に犯した失敗談を思い付くままに並べ立てては非論理的なストーリーの前後を正そうとして都合の悪いことを都合よく忘れていく。
 曲中の『彼』のそのダメっぷりが腹が立つぐらいに愛しくて、それだけでもぐらっとくるのに、取って付けたような最後の『アイしてる』もあんなに綺麗に、素敵に歌い上げられたらもうダメですね。
 この曲がヒットした当時から二十世紀も経った現在、こうして生きている私は先ほど話した歌い手の、新たな浮気相手では勿論ないですが、こうして同じ思いを抱いてしまっている以上は私とその人との間に大した違いはないのだと思ってしまいます。私はきっと未来の浮気相手、生まれる時代さえ間違えなければ、実際に歌い手と浮気したその人こそが私の過去だったのかもしれません。いかにもカッコつけて聞こえるかもしれませんがこの曲を聞くたびに抱いてしまう、これが私の素直な気持ちなんです。話が長くなってしまいましたね。では、次の懐メロの紹介といきましょう。まずは、こちらをお聴き下さい。」
 そこから少し間があって、砂嵐を消し去ったこと以外にどこにも異常が見当たらないアナログ機器から流れる曲は、聴こえ始めた。そして思った。ああ、いい曲だ。何もかも。


『手紙よ、手紙。
 君のウソなら。』




 いつも歌を歌っている。なのに、いまはとっても静かにしている。
 なんでだろう。お腹が空いたのか。元気がないのか。黒い紐は繋がっている。だから、元気はいっぱいのはず。そうしていれば、動けることを知っている。イヌなら鼻を押せばいい。ネコなら頭を撫でたらいい。おサルさんなら長い尻尾を引っ張る。
 でもその機械には鼻も頭も尻尾もない。何にもない。振ったら歌ってくれるのかな。でも、こうしても、機械は何も歌わない。じゃあ、やっぱり何かを押したり撫でたり引っ張ったりしなきゃいけない。でも、『そこ』には何もない。僕はどうしたらいいのか分からない。ねえ、ママ。
 この子の名前はなんていうの?




 さあ、追いかけよう。落ちて流れる数だけ、辿れる跡が多くなる。
「大丈夫?ボク?」
「大丈夫だよ。お姉さん。」
「持ってやろうか?荷物。」
「心配いらないです、お兄さん。」
 そう告げて、手についた砂を落として立ち上がった矢先にも飛び切り長い光の線が消えずに伸びていき、「わぉ!」という歓声が遠くから上がった。心から思う、その光景に間に合わなくなるのは勿体ない。
「なら、走るぞ。」
「先に行くわよ。」
「望むところです。もちろん。」
「じゃあ、行くぞ。」
「行くわね。」
 荷物がガシャガシャと音を立てる。踏まれて枝がパキパキ割れる。ほっほっと吐き出される呼吸。暗いうちに可能な移動距離は、限られた時間が決める。すでにたどり着いているワタシにやっと追いつける。
 小石を蹴飛ばす。
「そういえば、ボクの名前はー?」
 大きな声で訊いてくる。よく響いた。
「はい!ボクの名前は〇〇でーす!」
 という声は字面に比べて圧倒的に小さくて、二人には届かなかった。
「なーにー?」
 と聞き返されても同じ事の繰り返しになる。
 だからもっと近寄るために、さっきよりもっと急ぎながら「あっという間に隔てる時間や距離をなくす手段があれば、せめて自己紹介はすぐに済むのに」と悔やみ、続けて考える。どちらでもいいけれど、どっちかじゃダメな命題として。


 それは道具か、技術なのか。ボクやワタシが,ボクやワタシになるための大切な、本当に大切な答えを導くための、けれど迷子になってしまいそうな、その


 問い。




 見れば、二階の窓から見える家々の屋根に登っている人も多かった。まるでホームドラマのオープニングか又はエンディングに使われそうな光景。それと対照的なのが、あとで放送局に高く売る目的か、あるいはSNSに公開する目的で行われるカメラやスマートフォンでの静止画や動画の撮影に熱心な姿。二軒先のご主人はあまりに熱心になり過ぎて屋根から落っこちて、救急車で病院へ運ばれたそう。そういう書き込みが確かにあった。その内容の何もかもが間違っていたとしても、心底どうでもいい。
 すべてが元に戻ってからは、部屋の中で、机の上に置かれたままのラジオの時間表示を眺めた。『二十二分』の分が『三分』になってからもう一度だけ、と心に誓って窓の外の光景に関心を向ける。極めて個人的なその行いに、世界は素晴らしい、と外国語で歌うその人だけが付き合ってくれた。だから当たり前のように調子に乗って、そのメロディを真似したし、聞き取れる単語を口にした。そう。
 世界は素晴らしい。
 見えにくくて、醜くて、素晴らしい。


 その曲の終わりに合わせて、ハイテンションのメインパーソナリティは話し出した。
 続々と投稿されている画像群を眺めながらしきりに「まさにうってつけの一曲ですね!」と興奮して、その全てを称賛した。確認できるのはニュースでも散々報じられた流星群はとても綺麗だったみたい、ということ。見出しのように強調されていた何百年に一度のものに相応しいものだったかどうかは分からないけど、素敵な天体ショーであったことに間違いはない。多分。恐らく。
 夜明けを迎えて暫くしてもこの話題は尽きないと思う。けれど、夕方ぐらいには嘘みたいに忘れられているかもしれない。一筋の閃光が走り去る度に起きた真夜中のどよめきと、涙を誘ったセンチメンタルの数々が白々しく思えるぐらい、あっという間に消えていくのかもしれない。
 だから、という訳でもないけれどその電源をオンにしたままの私はジンジャエールの残りを全て飲み干した。それから、からっぽになったコップを机の上に残して、ベッドに飛び込んだ。すぐに訪れた、ふわっと全身を包み出す眠気が気持ち良かったから電気はあとで、きちんと消すと頭の片隅に浅く刻んで、そのままうつ伏せの格好でいることにした。コップを含めた後片付けを明日には完璧に終える(はずだから)、今は視界に入らない、開け放たれた静かな窓の景色を想った。


 暫くして、息をするために顔を横に逸らした時、明日まできっとこのままなんだろうなって一番安心した。それからタオルケットを少しだけ乱暴に扱った。その事実を今もしっかりと覚えている。
 誰にも知られない心の底の、秘事として。




 気付くと、こちらに向かって「どうした?」と尋ねる顔をその人が見せたから
「ううん。なんでもない。」
 と、可愛く答える歳でもないと思い直して
「のどが渇いただけ。何か飲む?」
 と嘘偽りなく尋ねた。あー、という感じで悩むその人から出てきた注文はひとつ。返事もひとつだった。
 それを聞き遂げて、その日の気分で長めをチョイスした髪をパチっと外し、二本の足を床に着けて私は「冷蔵庫にはひと通りの物が揃っている、だから、立ち上がって部屋を出る」と寝惚けた頭で身体の動きを追い、廊下に出てすぐのドアを開けてから必要最小限の灯りをリビングに点す。その色が緑だったから、「明日は黄色」とまたぼんやりと確認する。それから歩く、歩く。
 歩く。


 ぶーん、と唸り続けて開けっ放しの状態に苦情を言い募る冷蔵庫の室内灯も積極的に利用して,棚から取り出した二つのコップにそれぞれの飲み物を私が注ごうとした、と急に思い出して開けてみた製氷室には氷が一個も無く、見ればタイマーがあと15分後にセットされている。はぁ、と漏らした息はふんわりと漂って、リビングの薄暗い一角へとほわほわと移動し始める。待つのが苦手なあの人がそのまま眠ってしまうには十分な時間。満足はまだしていない。でも、仕方ない。氷なしでは何も飲めない。それでは容れる意味がない。私もそうだし、あの人もそうだ。そう確認した私は、だから暇を潰すためにそのスイッチを入れた。ヴォリュームを、少しずつ上げた。


 静かな状態にあったリビングに流れるのは深夜に相応しい、静かな内容。喋り過ぎない、流し過ぎない、そして穏やかで優しい、そういう類のもの。
 そのパーソナリティーは、おそらくは用意された各エピソードをとても意識的に語っていた。明るい印象を与えがちな声音が深夜の時間帯に合うよう、自然に抑えられた声量が素晴らしいのだ、と覚醒し始めた理性が評価する。確かに、とこれに応じる私では「無理だな。私の声は深く、深く落ち着き過ぎている。だから日差しが強くて明るい昼の、雑踏の中でこそ活きる。そう思う。」そう自負する、と感性の雄弁な一面がベラベラと〆の言葉を垂れ流す様子を眺める。
 これには沈黙を貫く私。私。


 エピソードの部分部分を読み終わる度にセレクトされた曲が一定の時間流されて、次のエピソードへと繋がっていく。
 今のところ聴けたのは洋楽だけ。前に聴いた時は最後まで洋楽だったから、今夜もそうかもしれない。いま流れている曲名は『In The Time』。それも次第に音と一緒に段々と小さくなって、代わりに新しいエピソードが読まれ始めたタイミングで私はその場を離れて冷蔵庫へ向かい、然るべき場所を開けた途端に落下し、個々それぞれに使える状態になった氷を『スコップ』ですくって容れた。多いかな、と思った個数は適当な個数を手で摘んで戻したりと調整して無事、当初の目的を済ませた。あとはそこに飲み物を注げば一個、一個にヒビは入る。パーソナリティーの声はそうして綺麗に聴こえた。
「こんな真夜中に誰が起きて、誰が聴いているっていうの?と仕事を終えて帰宅した時にパートナーから訊かれるんです。勿論、そのパートナーは今から出勤する時で、鉢合わせになった早朝のすれ違いが些か穏当とは言えない会話を始めさせてしまうのですが、まぁ正直にいってこちらの気分がよくはならない、意地悪な質問ですよね。だから売り言葉に買い言葉でそっちこそ、組織の歯車になって何が楽しいの?なんて手垢のついた下らない悪口を返してしまい、何週間も引きずる大喧嘩を朝からしてしまうこともしばしばなんですが、その日はね。ちょっと違ったんです。
 まずパートナーの機嫌が相当に悪かった。忙しい時期でしたからね。パートナーは間違いなく八つ当たりを意図して私に向かって同じ質問しました。いや、あれはもう断定口調の悪口ですね。そんな人、どこにもいないんだから。ある意味気楽な商売ね。さっさと辞めたら?とこんな感じで言葉の切先をこちらに向けたんです。
 それを受けて、普段の私だったら間違いなく電波に乗せられないぐらいの口汚い言葉で言い返したと思うんですが、何故かその日の私は真剣に考えてしまったんです。だからその日の私もどうかしていた、と自虐めいた表現を口にしてしまいますが、さて、私が思ったのはこういうことです。パートナーが言うように放送を聴いてくれる人が一人もないとして、それでも私はこうしてマイクに向かって話したりするんだろうかって。
 勿論、聴取者が一人もいない番組であればとうの昔に打ち切られているでしょうし、先ほど紹介した数通のメールが証明するとおり、当番組のリスナーはいる訳です。有り難いことに。なので、私が考えたのはそういう経済的な合理性を横に置き、リスナーが一人もいない状態でも当番組が継続できるとして、それでも私は誰かに向かって話し続けるだろうか、とそういうことだったんです。
 この答えがね、驚くほど早く出せたからその日はやっぱり違っていました。はい、私は『それでも』こうしてブースの中に入り、マイクに向かって話し続けるだろう。はっきりとそう思えたんです。その時にね、本当に涙が出ました。それを見てパートナーが気まずそうにごにょごにょと謝罪の言葉を口にしたのですが、全く関係のないことで流した涙だったので、そっちの方が私にとって気まずい出来事ではあったのですが、まあそれはそれとして。とにかく私はね、嬉しかったんです。自分自身を見つけたみたいで。この広い世界の真ん中に、私が心から座りたいと思う椅子が一つでもあったんだって。だから、その日は特別な一日になりました。私の人生のターニングポイントです。
 つまりはですね、私は、ひょっとしたら真夜中に起きている『かもしれない』という可能性がある限り、きっとこうしてマイクに向かって語りかける。世界の抜け穴みたいなスポットができるのに一番耐えられないから、その前に居座って話しを続ける、語りかける。そのことを了解できて、とても幸せだったんです。だから、あの日のパートナーには感謝の意を表します。いつもより相当辛辣な内容だったけど、あの質問がなければ何も始まりはしなかった。だから本当に有り難う。きっとぐっすり寝ているだろうから、この放送を一秒たりとも聴いてはいないんだろうけど。はは、まぁいいです。その人の代わりにリスナーの皆さんが私の感謝を受け止めて下さい。それだって二度と起こりはしない、有り難いことでしょうから。
 さて、随分と長くなってしまった自分語りより、皆さんのメールを紹介しましょう。
 えー、まずは『ミス、テリあす』さん。いつも有り難う御座いますってなんか感謝の押し売りみたいになってますね。いやいや、感謝はしてもし足りないっていいますから。ね?えーでは気を取り直して、こんばんわ、皆さん。はい、こんばんわ。夜も少しずつ長くなってきましたが、体調にお変わりはありませんでしょうか。今夜はどうしても聞いて欲しいことがありましてメールします。実は先日、勤務先で…」
 私はその場で自分のグラスを手に取り、たった一口だけ口をつけた。それから悩んだ末に思い立って行動し、あの人の分の飲み物を流しに捨てて空っぽになったグラスを水で濯ぎ、あとは機械に任せてリビングに立ち続けた。見ると、もうとっくに十五分を過ぎている。だからあの人は間違いなく眠っている。あとはどうでもいい。
 もう、どうでもいい。


 視界は頼りにならない世界。どうせそこで朝を迎えようと思い立ったなら電気を点ければいいのに、と疑問を浮かべる理性に対して答える好奇心は既に私の味方。点けっぱなしにした電源がONになっていることを示す丸い赤い光を見つめて、それを最後まで楽しみたい。二人っきりの世界みたいに、その話を聴き続けたい。と思った矢先に『残りの残量を全て使い切ってでも』と勝手な一文を綴り出す頭の中。これには何と応じよう。
「いや応じてしまおう、かな。そっちの方が素敵ですよ」
 だって。嘘みたい。もう無理。我慢できない。真っ白な歯を浮かべて、大きな口で。
 トントン、トン。
 トン。
 そう笑う。


 笑ってしまう。
 



「ワタシの中の『ボク』のために。」
 冗談みたいにワタシに言われて、その内容がお姉さんにも、お兄さんにも聞こえている。だから特別な意味なんてない。
「ボクの中の『ワタシ』のために。」
 そのお返しとしてボクもこう言ったけど、意地悪な気持ちが全然足りなくて、自然な笑顔を浮かべたまま宙に向かって消えていくをのを見守るしかなかった。その姿を見逃さなかったお姉さんにお兄さん、そしてワタシも全ての事柄を誤解して、ボクの気持ちを受け止めた。その証拠に皆んなが皆んな、楽しそうな笑顔をこっちに向けていた。だからまた悔しくなったけど、まあ、もういっかと思って『笑顔』を作った。それを合図に大きな歓声は上がって、最後の流星群が過ぎ去って、ボクたちはそれを見逃した。次の機会は何十年後。しかも、同じものが見られるとは限らない。だから訊かれる。宇宙的な出会いを果たした者同士、決して分かり合えない一線を擦り合わせるように。
「ねえ、後悔してる?」
「そうだね。後悔してる。とっても、うん。とっても!」
 暖かい日差しを浴びながら、丘の上でボクはワタシにそう言った。ワタシはその答えに満足したみたいにこう付け加えて、ボクに向けて最善の言葉を贈ってくれた。
「ワタシは違う。違うよ!」


 二人で浮かべる『苦いもの』。それからボクとワタシは向かい合ってもう少しだけ、と同じ話を何度もした。
 許される限りの、その全てで。




『降水確率は90パーセント。ウソだと思うのなら、信じてみればいい。』

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  • 自由詩
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-18

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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