USA financial institution bankruptcy. The end of t

USA financial institution bankruptcy. The end of t


 USA financial institution bankruptcy. The end of the human world is approaching after five and a half years. There are many liquefied and semi-liquefied materials. We will publish from literary works.
USA此の国金融機関破綻。人類世界の終焉が五年半後以降に迫りつつある。液化・準液化素材など幾らでも存在する。文豪作品から掲載をする。




 本日も時間が無いので文豪作品を掲載する。



 防空システムが無効化されるものの一例として、元素記号だが実際には、そのものでは無い化合物になる。
 尚、戦後USSRで窒素爆弾とされていたものは、実際には存在しない嘘だった事が広く知られている。
 HG・N・その他多数存在するが、何れも「禁止兵器」に指定はされておらず、人類間の戦闘に使用された事は無い。
 攻撃は極めて簡単であり、飛行物体若しくは直接投入されるが、飛行体様であれば防空システムに迎撃をさせても構わない。
 USAの破綻とほぼ同時に人類世界が破綻をして行く。



 では、文豪作品から掲載をする。


 




(其の一) グッド・バイ
      太宰治


変心 (一)

 文壇の、或ある老大家が亡なくなって、その告別式の終り頃から、雨が降りはじめた。早春の雨である。
 その帰り、二人の男が相合傘あいあいがさで歩いている。いずれも、その逝去せいきょした老大家には、お義理一ぺん、話題は、女に就ついての、極きわめて不きんしんな事。紋服の初老の大男は、文士。それよりずっと若いロイド眼鏡めがね、縞しまズボンの好男子は、編集者。
「あいつも、」と文士は言う。「女が好きだったらしいな。お前も、そろそろ年貢ねんぐのおさめ時じゃねえのか。やつれたぜ。」
「全部、やめるつもりでいるんです。」
 その編集者は、顔を赤くして答える。
 この文士、ひどく露骨で、下品な口をきくので、その好男子の編集者はかねがね敬遠していたのだが、きょうは自身に傘の用意が無かったので、仕方なく、文士の蛇じゃの目傘めがさにいれてもらい、かくは油をしぼられる結果となった。
 全部、やめるつもりでいるんです。しかし、それは、まんざら嘘うそで無かった。
 何かしら、変って来ていたのである。終戦以来、三年経たって、どこやら、変った。
 三十四歳、雑誌「オベリスク」編集長、田島周二、言葉に少し関西なまりがあるようだが、自身の出生に就いては、ほとんど語らぬ。もともと、抜け目の無い男で、「オベリスク」の編集は世間へのお体裁ていさい、実は闇商売やみしょうばいのお手伝いして、いつも、しこたま、もうけている。けれども、悪銭身につかぬ例えのとおり、酒はそれこそ、浴びるほど飲み、愛人を十人ちかく養っているという噂うわさ。
 かれは、しかし、独身では無い。独身どころか、いまの細君は後妻である。先妻は、白痴の女児ひとりを残して、肺炎で死に、それから彼は、東京の家を売り、埼玉県の友人の家に疎開そかいし、疎開中に、いまの細君をものにして結婚した。細君のほうは、もちろん初婚で、その実家は、かなり内福の農家である。
 終戦になり、細君と女児を、細君のその実家にあずけ、かれは単身、東京に乗り込み、郊外のアパートの一部屋を借り、そこはもうただ、寝るだけのところ、抜け目なく四方八方を飛び歩いて、しこたま、もうけた。
 けれども、それから三年経ち、何だか気持が変って来た。世の中が、何かしら微妙に変って来たせいか、または、彼のからだが、日頃の不節制のために最近めっきり痩やせ細って来たせいか、いや、いや、単に「とし」のせいか、色即是空しきそくぜくう、酒もつまらぬ、小さい家を一軒買い、田舎いなかから女房子供を呼び寄せて、……という里心に似たものが、ふいと胸をかすめて通る事が多くなった。
 もう、この辺で、闇商売からも足を洗い、雑誌の編集に専念しよう。それに就いて、……。
 それに就いて、さし当っての難関。まず、女たちと上手じょうずに別れなければならぬ。思いがそこに到ると、さすが、抜け目の無い彼も、途方にくれて、溜息ためいきが出るのだ。
「全部、やめるつもり、……」大男の文士は口をゆがめて苦笑し、「それは結構だが、いったい、お前には、女が幾人あるんだい?」

変心 (二)

 田島は、泣きべその顔になる。思えば、思うほど、自分ひとりの力では、到底、処理の仕様が無い。金ですむ事なら、わけないけれども、女たちが、それだけで引下るようにも思えない。
「いま考えると、まるで僕は狂っていたみたいなんですよ。とんでもなく、手をひろげすぎて、……」
 この初老の不良文士にすべて打ち明け、相談してみようかしらと、ふと思う。
「案外、殊勝しゅしょうな事を言いやがる。もっとも、多情な奴に限って奇妙にいやらしいくらい道徳におびえて、そこがまた、女に好かれる所以ゆえんでもあるのだがね。男振りがよくて、金があって、若くて、おまけに道徳的で優しいと来たら、そりゃ、もてるよ。当り前の話だ。お前のほうでやめるつもりでも、先方が承知しないぜ、これは。」
「そこなんです。」
 ハンケチで顔を拭ふく。
「泣いてるんじゃねえだろうな。」
「いいえ、雨で眼鏡の玉が曇くもって、……」
「いや、その声は泣いてる声だ。とんだ色男さ。」
 闇商売の手伝いをして、道徳的も無いものだが、その文士の指摘したように、田島という男は、多情のくせに、また女にへんに律儀りちぎな一面も持っていて、女たちは、それ故ゆえ、少しも心配せずに田島に深くたよっているらしい様子。
「何か、いい工夫くふうが無いものでしょうか。」
「無いね。お前が五、六年、外国にでも行って来たらいいだろうが、しかし、いまは簡単に洋行なんか出来ない。いっそ、その女たちを全部、一室に呼び集め、蛍ほたるの光でも歌わせて、いや、仰げば尊し、のほうがいいかな、お前が一人々々に卒業証書を授与してね、それからお前は、発狂の真似まねをして、まっぱだかで表に飛び出し、逃げる。これなら、たしかだ。女たちも、さすがに呆あきれて、あきらめるだろうさ。」
 まるで相談にも何もならぬ。
「失礼します。僕は、あの、ここから電車で、……」
「まあ、いいじゃないか。つぎの停留場まで歩こう。何せ、これは、お前にとって重大問題だろうからな。二人で、対策を研究してみようじゃないか。」
 文士は、その日、退屈していたものと見えて、なかなか田島を放さぬ。
「いいえ、もう、僕ひとりで、何とか、……」
「いや、いや、お前ひとりでは解決できない。まさか、お前、死ぬ気じゃないだろうな。実に、心配になって来た。女に惚ほれられて、死ぬというのは、これは悲劇じゃない、喜劇だ。いや、ファース(茶番)というものだ。滑稽こっけいの極きわみだね。誰も同情しやしない。死ぬのはやめたほうがよい。うむ、名案。すごい美人を、どこからか見つけて来てね、そのひとに事情を話し、お前の女房という形になってもらって、それを連れて、お前のその女たち一人々々を歴訪する。効果てきめん。女たちは、皆だまって引下る。どうだ、やってみないか。」
 おぼれる者のワラ。田島は少し気が動いた。

行進 (一)

 田島は、やってみる気になった。しかし、ここにも難関がある。
 すごい美人。醜くてすごい女なら、電車の停留場の一区間を歩く度毎たびごとに、三十人くらいは発見できるが、すごいほど美しい、という女は、伝説以外に存在しているものかどうか、疑わしい。
 もともと田島は器量自慢、おしゃれで虚栄心が強いので、不美人と一緒に歩くと、にわかに腹痛を覚えると称してこれを避け、かれの現在のいわゆる愛人たちも、それぞれかなりの美人ばかりではあったが、しかし、すごいほどの美人、というほどのものは無いようであった。
 あの雨の日に、初老の不良文士の口から出まかせの「秘訣ひけつ」をさずけられ、何のばからしいと内心一応は反撥はんぱつしてみたものの、しかし、自分にも、ちっとも名案らしいものは浮ばない。
 まず、試みよ。ひょっとしたらどこかの人生の片すみに、そんなすごい美人がころがっているかも知れない。眼鏡の奥のかれの眼は、にわかにキョロキョロいやらしく動きはじめる。
 ダンス・ホール。喫茶店。待合。いない、いない。醜くてすごいものばかり。オフィス、デパート、工場、映画館、はだかレヴュウ。いるはずが無い。女子大の校庭のあさましい垣かきのぞきをしたり、ミス何とかの美人競争の会場にかけつけたり、映画のニューフェースとやらの試験場に見学と称してまぎれ込んだり、やたらと歩き廻ってみたが、いない。
 獲物は帰り道にあらわれる。
 かれはもう、絶望しかけて、夕暮の新宿駅裏の闇市をすこぶる憂鬱ゆううつな顔をして歩いていた。彼のいわゆる愛人たちのところを訪問してみる気も起らぬ。思い出すさえ、ぞっとする。別れなければならぬ。
「田島さん!」
 出し抜けに背後から呼ばれて、飛び上らんばかりに、ぎょっとした。
「ええっと、どなただったかな?」
「あら、いやだ。」
 声が悪い。鴉声からすごえというやつだ。
「へえ?」
 と見直した。まさに、お見それ申したわけであった。
 彼は、その女を知っていた。闇屋、いや、かつぎ屋である。彼はこの女と、ほんの二、三度、闇の物資の取引きをした事があるだけだが、しかし、この女の鴉声と、それから、おどろくべき怪力に依よって、この女を記憶している。やせた女ではあるが、十貫は楽に背負う。さかなくさくて、ドロドロのものを着て、モンペにゴム長、男だか女だか、わけがわからず、ほとんど乞食こじきの感じで、おしゃれの彼は、その女と取引きしたあとで、いそいで手を洗ったくらいであった。
 とんでもないシンデレラ姫。洋装の好みも高雅。からだが、ほっそりして、手足が可憐かれんに小さく、二十三、四、いや、五、六、顔は愁うれいを含んで、梨なしの花の如ごとく幽かすかに青く、まさしく高貴、すごい美人、これがあの十貫を楽に背負うかつぎ屋とは。
 声の悪いのは、傷だが、それは沈黙を固く守らせておればいい。
 使える。

行進 (二)

 馬子まごにも衣裳いしょうというが、ことに女は、その装い一つで、何が何やらわけのわからぬくらいに変る。元来、化け物なのかも知れない。しかし、この女(永井キヌ子という)のように、こんなに見事に変身できる女も珍らしい。
「さては、相当ため込んだね。いやに、りゅうとしてるじゃないか。」
「あら、いやだ。」
 どうも、声が悪い。高貴性も何も、一ぺんに吹き飛ぶ。
「君に、たのみたい事があるのだがね。」
「あなたは、ケチで値切ってばかりいるから、……」
「いや、商売の話じゃない。ぼくはもう、そろそろ足を洗うつもりでいるんだ。君は、まだ相変らず、かついでいるのか。」
「あたりまえよ。かつがなきゃおまんまが食べられませんからね。」
 言うことが、いちいちゲスである。
「でも、そんな身なりでも無いじゃないか。」
「そりゃ、女性ですもの。たまには、着飾って映画も見たいわ。」
「きょうは、映画か?」
「そう。もう見て来たの。あれ、何ていったかしら、アシクリゲ、……」
「膝栗毛ひざくりげだろう。ひとりでかい?」
「あら、いやだ。男なんて、おかしくって。」
「そこを見込んで、頼みがあるんだ。一時間、いや、三十分でいい、顔を貸してくれ。」
「いい話?」
「君に損はかけない。」
 二人ならんで歩いていると、すれ違うひとの十人のうち、八人は、振りかえって、見る。田島を見るのでは無く、キヌ子を見るのだ。さすが好男子の田島も、それこそすごいほどのキヌ子の気品に押されて、ゴミっぽく、貧弱に見える。
 田島はなじみの闇の料理屋へキヌ子を案内する。
「ここ、何か、自慢の料理でもあるの?」
「そうだな、トンカツが自慢らしいよ。」
「いただくわ。私、おなかが空すいてるの。それから、何が出来るの?」
「たいてい出来るだろうけど、いったい、どんなものを食べたいんだい。」
「ここの自慢のもの。トンカツの他に何か無いの?」
「ここのトンカツは、大きいよ。」
「ケチねえ。あなたは、だめ。私奥へ行って聞いて来るわ。」
 怪力、大食い、これが、しかし、全くのすごい美人なのだ。取り逃がしてはならぬ。
 田島はウイスキイを飲み、キヌ子のいくらでもいくらでも澄まして食べるのを、すこぶるいまいましい気持でながめながら、彼のいわゆる頼み事について語った。キヌ子は、ただ食べながら、聞いているのか、いないのか、ほとんど彼の物語りには興味を覚えぬ様子であった。
「引受けてくれるね?」
「バカだわ、あなたは。まるでなってやしないじゃないの。」

行進 (三)

 田島は敵の意外の鋭鋒えいほうにたじろぎながらも、
「そうさ、全くなってやしないから、君にこうして頼むんだ。往生しているんだよ。」
「何もそんな、めんどうな事をしなくても、いやになったら、ふっとそれっきりあわなけれあいいじゃないの。」
「そんな乱暴な事は出来ない。相手の人たちだって、これから、結婚するかも知れないし、また、新しい愛人をつくるかも知れない。相手のひとたちの気持をちゃんときめさせるようにするのが、男の責任さ。」
「ぷ! とんだ責任だ。別れ話だの何だのと言って、またイチャつきたいのでしょう? ほんとに助平すけべいそうなツラをしている。」
「おいおい、あまり失敬な事を言ったら怒るぜ。失敬にも程度があるよ。食ってばかりいるじゃないか。」
「キントンが出来ないかしら。」
「まだ、何か食う気かい? 胃拡張とちがうか。病気だぜ、君は。いちど医者に見てもらったらどうだい。さっきから、ずいぶん食ったぜ。もういい加減によせ。」
「ケチねえ、あなたは。女は、たいてい、これくらい食うの普通だわよ。もうたくさん、なんて断っているお嬢さんや何か、あれは、ただ、色気があるから体裁をとりつくろっているだけなのよ。私なら、いくらでも、食べられるわよ。」
「いや、もういいだろう。ここの店は、あまり安くないんだよ。君は、いつも、こんなにたくさん食べるのかね。」
「じょうだんじゃない。ひとのごちそうになる時だけよ。」
「それじゃね、これから、いくらでも君に食べさせるから、ぼくの頼み事も聞いてくれ。」
「でも、私の仕事を休まなければならないんだから、損よ。」
「それは別に支払う。君のれいの商売で、儲もうけるぶんくらいは、その都度つどきちんと支払う。」
「ただ、あなたについて歩いていたら、いいの?」
「まあ、そうだ。ただし、条件が二つある。よその女のひとの前では一言も、ものを言ってくれるな。たのむぜ。笑ったり、うなずいたり、首を振ったり、まあ、せいぜいそれくらいのところにしていただく。もう一つは、ひとの前で、ものを食べない事。ぼくと二人きりになったら、そりゃ、いくら食べてもかまわないけど、ひとの前では、まずお茶一ぱいくらいのところにしてもらいたい。」
「その他、お金もくれるんでしょう? あなたは、ケチで、ごまかすから。」
「心配するな。ぼくだって、いま一生懸命なんだ。これが失敗したら、身の破滅さ。」
「フクスイの陣って、とこね。」
「フクスイ? バカ野郎、ハイスイ(背水)の陣だよ。」
「あら、そう?」
 けろりとしている。田島は、いよいよ、にがにがしくなるばかり。しかし、美しい。りんとして、この世のものとも思えぬ気品がある。
 トンカツ。鶏のコロッケ。マグロの刺身さしみ。イカの刺身。支那しなそば。ウナギ。よせなべ。牛の串焼くしやき。にぎりずしの盛合せ。海老えびサラダ。イチゴミルク。
 その上、キントンを所望とは。まさか女は誰でも、こんなに食うまい。いや、それとも?

行進 (四)

 キヌ子のアパートは、世田谷方面にあって、朝はれいの、かつぎの商売に出るので、午後二時以後なら、たいていひまだという。田島は、そこへ、一週間にいちどくらい、みなの都合のいいような日に、電話をかけて連絡をして、そうしてどこかで落ち合せ、二人そろって別離の相手の女のところへ向って行進することをキヌ子と約す。
 そうして、数日後、二人の行進は、日本橋のあるデパート内の美容室に向って開始せられる事になる。
 おしゃれな田島は、一昨年の冬、ふらりとこの美容室に立ち寄って、パーマネントをしてもらった事がある。そこの「先生」は、青木さんといって三十歳前後の、いわゆる戦争未亡人である。ひっかけるなどというのではなく、むしろ女のほうから田島について来たような形であった。青木さんは、そのデパートの築地つきじの寮から日本橋のお店にかよっているのであるが、収入は、女ひとりの生活にやっとというところ。そこで、田島はその生活費の補助をするという事になり、いまでは、築地の寮でも、田島と青木さんとの仲は公認せられている。
 けれども、田島は、青木さんの働いている日本橋のお店に顔を出す事はめったに無い。田島の如きあか抜けた好男子の出没は、やはり彼女の営業を妨げるに違いないと、田島自身が考えているのである。
 それが、いきなり、すごい美人を連れて、彼女のお店にあらわれる。
「こんちは。」というあいさつさえも、よそよそしく、「きょうは女房を連れて来ました。疎開先から、こんど呼び寄せたのです。」
 それだけで十分。青木さんも、目もと涼しく、肌はだが白くやわらかで、愚かしいところの無いかなりの美人ではあったが、キヌ子と並べると、まるで銀の靴と兵隊靴くらいの差があるように思われた。
 二人の美人は、無言で挨拶あいさつを交かわした。青木さんは、既に卑屈な泣きべそみたいな顔になっている。もはや、勝敗の数は明かであった。
 前にも言ったように、田島は女に対して律儀りちぎな一面も持っていて、いまだ女に、自分が独身だなどとウソをついた事が無い。田舎に妻子を疎開させてあるという事は、はじめから皆に打明けてある。それが、いよいよ夫の許もとに帰って来た。しかも、その奥さんたるや、若くて、高貴で、教養のゆたからしい絶世の美人。
 さすがの青木さんも、泣きべそ以外、てが無かった。
「女房の髪をね、一つ、いじってやって下さい。」と田島は調子に乗り、完全にとどめを刺そうとする。「銀座にも、どこにも、あなたほどの腕前のひとは無いってうわさですからね。」
 それは、しかし、あながちお世辞でも無かった。事実、すばらしく腕のいい美容師であった。
 キヌ子は鏡に向って腰をおろす。
 青木さんは、キヌ子に白い肩掛けを当て、キヌ子の髪をときはじめ、その眼には、涙が、いまにもあふれ出るほど一ぱい。
 キヌ子は平然。
 かえって、田島は席をはずした。

行進 (五)

 セットの終ったころ、田島は、そっとまた美容室にはいって来て、一すんくらいの厚さの紙幣のたばを、美容師の白い上衣うわぎのポケットに滑りこませ、ほとんど祈るような気持で、
「グッド・バイ。」
 とささやき、その声が自分でも意外に思ったくらい、いたわるような、あやまるような、優しい、哀調に似たものを帯びていた。
 キヌ子は無言で立上る。青木さんも無言で、キヌ子のスカートなど直してやる。田島は、一足さきに外に飛び出す。
 ああ、別離は、くるしい。
 キヌ子は無表情で、あとからやって来て、
「そんなに、うまくも無いじゃないの。」
「何が?」
「パーマ。」
 バカ野郎! とキヌ子を怒鳴ってやりたくなったが、しかし、デパートの中なので、こらえた。青木という女は、他人の悪口など決して言わなかった。お金もほしがらなかったし、よく洗濯もしてくれた。
「これで、もう、おしまい?」
「そう。」
 田島は、ただもう、やたらにわびしい。
「あんな事で、もう、わかれてしまうなんて、あの子も、意久地いくじが無いね。ちょっと、べっぴんさんじゃないか。あのくらいの器量なら、……」
「やめろ! あの子だなんて、失敬な呼び方は、よしてくれ。おとなしいひとなんだよ、あのひとは。君なんかとは、違うんだ。とにかく、黙っていてくれ。君のその鴉からすの声みたいなのを聞いていると、気が狂いそうになる。」
「おやおや、おそれいりまめ。」
 わあ! 何というゲスな駄じゃれ。全く、田島は気が狂いそう。
 田島は妙な虚栄心から、女と一緒に歩く時には、彼の財布さいふを前以もって女に手渡し、もっぱら女に支払わせて、彼自身はまるで勘定などに無関心のような、おうようの態度を装うのである。しかし、いままで、どの女も、彼に無断で勝手な買い物などはしなかった。
 けれども、おそれいりまめ女史は、平気でそれをやった。デパートには、いくらでも高価なものがある。堂々と、ためらわず、いわゆる高級品を選び出し、しかも、それは不思議なくらい優雅で、趣味のよい品物ばかりである。
「いい加減に、やめてくれねえかなあ。」
「ケチねえ。」
「これから、また何か、食うんだろう?」
「そうね、きょうは、我慢してあげるわ。」
「財布をかえしてくれ。これからは、五千円以上、使ってはならん。」
 いまは、虚栄もクソもあったものでない。
「そんなには、使わないわ。」
「いや、使った。あとでぼくが残金を調べてみれば、わかる。一万円以上は、たしかに使った。こないだの料理だって安くなかったんだぜ。」
「そんなら、よしたら、どう? 私だって何も、すき好んで、あなたについて歩いているんじゃないわよ。」
 脅迫にちかい。
 田島は、ため息をつくばかり。

怪力 (一)

 しかし、田島だって、もともとただものでは無いのである。闇商売やみしょうばいの手伝いをして、一挙に数十万は楽にもうけるという、いわば目から鼻に抜けるほどの才物であった。
 キヌ子にさんざんムダ使いされて、黙って海容かいようの美徳を示しているなんて、とてもそんな事の出来る性格ではなかった。何か、それ相当のお返しをいただかなければ、どうしたって、気がすまない。
 あんちきしょう! 生意気だ。ものにしてやれ。
 別離の行進は、それから後の事だ。まず、あいつを完全に征服し、あいつを遠慮深くて従順で質素で小食の女に変化させ、しかるのちにまた行進を続行する。いまのままだと、とにかく金がかかって、行進の続行が不可能だ。
 勝負の秘訣ひけつ。敵をして近づかしむべからず、敵に近づくべし。
 彼は、電話の番号帳により、キヌ子のアパートの所番地を調べ、ウイスキイ一本とピイナツを二袋だけ買い求め、腹がへったらキヌ子に何かおごらせてやろうという下心、そうしてウイスキイをがぶがぶ飲んで、酔いつぶれた振りをして寝てしまえば、あとは、こっちのものだ。だいいち、ひどく安上りである。部屋代も要いらない。
 女に対して常に自信満々の田島ともあろう者が、こんな乱暴な恥知らずの、エゲツない攻略の仕方を考えつくとは、よっぽど、かれ、どうかしている。あまりに、キヌ子にむだ使いされたので、狂うような気持になっているのかも知れない。色慾のつつしむべきも、さる事ながら、人間あんまり金銭に意地汚くこだわり、モトを取る事ばかりあせっていても、これもまた、結果がどうもよくないようだ。
 田島は、キヌ子を憎むあまりに、ほとんど人間ばなれのしたケチな卑いやしい計画を立て、果して、死ぬほどの大難に逢うに到った。
 夕方、田島は、世田谷のキヌ子のアパートを捜し当てた。古い木造の陰気くさい二階建のアパートである。キヌ子の部屋は、階段をのぼってすぐ突当りにあった。
 ノックする。
「だれ?」
 中から、れいの鴉声からすごえ。
 ドアをあけて、田島はおどろき、立ちすくむ。
 乱雑。悪臭。
 ああ、荒涼こうりょう。四畳半。その畳の表は真黒く光り、波の如く高低があり、縁へりなんてその痕跡こんせきをさえとどめていない。部屋一ぱいに、れいのかつぎの商売道具らしい石油かんやら、りんご箱やら、一升ビンやら、何だか風呂敷に包んだものやら、鳥かごのようなものやら、紙くずやら、ほとんど足の踏み場も無いくらいに、ぬらついて散らばっている。
「なんだ、あなたか。なぜ、来たの?」
 そのまた、キヌ子の服装たるや、数年前に見た時の、あの乞食姿、ドロドロによごれたモンペをはき、まったく、男か女か、わからないような感じ。
 部屋の壁には、無尽会社の宣伝ポスター、たった一枚、他にはどこを見ても装飾らしいものがない。カーテンさえ無い。これが、二十五、六の娘の部屋か。小さい電球が一つ暗くともって、ただ荒涼。

怪力 (二)

「あそびに来たのだけどね、」と田島は、むしろ恐怖におそわれ、キヌ子同様の鴉声になり、「でも、また出直して来てもいいんだよ。」
「何か、こんたんがあるんだわ。むだには歩かないひとなんだから。」
「いや、きょうは、本当に、……」
「もっと、さっぱりなさいよ。あなた、少しニヤケ過ぎてよ。」
 それにしても、ひどい部屋だ。
 ここで、あのウイスキイを飲まなければならぬのか。ああ、もっと安いウイスキイを買って来るべきであった。
「ニヤケているんじゃない。キレイというものなんだ。君は、きょうはまた、きたな過ぎるじゃないか。」
 にがり切って言った。
「きょうはね、ちょっと重いものを背負ったから、少し疲れて、いままで昼寝をしていたの。ああ、そう、いいものがある。お部屋へあがったらどう? 割に安いのよ。」
 どうやら商売の話らしい。もうけ口なら、部屋の汚なさなど問題でない。田島は、靴を脱ぎ、畳の比較的無難なところを選んで、外套がいとうのままあぐらをかいて坐る。
「あなた、カラスミなんか、好きでしょう? 酒飲みだから。」
「大好物だ。ここにあるのかい? ごちそうになろう。」
「冗談じゃない。お出しなさい。」
 キヌ子は、おくめんも無く、右の手のひらを田島の鼻先に突き出す。
 田島は、うんざりしたように口をゆがめて、
「君のする事なす事を見ていると、まったく、人生がはかなくなるよ。その手は、ひっこめてくれ。カラスミなんて、要らねえや。あれは、馬が食うもんだ。」
「安くしてあげるったら、ばかねえ。おいしいのよ、本場ものだから。じたばたしないで、お出し。」
 からだをゆすって、手のひらを引込めそうも無い。
 不幸にして、田島は、カラスミが実に全く大好物、ウイスキイのさかなに、あれがあると、もう何も要らん。
「少し、もらおうか。」
 田島はいまいましそうに、キヌ子の手のひらに、大きい紙幣を三枚、載せてやる。
「もう四枚。」
 キヌ子は平然という。
 田島はおどろき、
「バカ野郎、いい加減にしろ。」
「ケチねえ、一ハラ気前よく買いなさい。鰹節かつおぶしを半分に切って買うみたい。ケチねえ。」
「よし、一ハラ買う。」
 さすが、ニヤケ男の田島も、ここに到って、しんから怒り、
「そら、一枚、二枚、三枚、四枚。これでいいだろう。手をひっこめろ。君みたいな恥知らずを産んだ親の顔が見たいや。」
「私も見たいわ。そうして、ぶってやりたいわ。捨てりゃ、ネギでも、しおれて枯れる、ってさ。」
「なんだ、身の上話はつまらん。コップを借してくれ。これから、ウイスキイとカラスミだ。うん、ピイナツもある。これは、君にあげる。」

怪力 (三)

 田島は、ウイスキイを大きいコップで、ぐい、ぐい、と二挙動で飲みほす。きょうこそは、何とかしてキヌ子におごらせてやろうという下心で来たのに、逆にいわゆる「本場もの」のおそろしく高いカラスミを買わされ、しかも、キヌ子は惜しげも無くその一ハラのカラスミを全部、あっと思うまもなくざくざく切ってしまって汚いドンブリに山盛りにして、それに代用味あじの素もとをどっさり振りかけ、
「召し上れ。味の素は、サーヴィスよ。気にしなくたっていいわよ。」
 カラスミ、こんなにたくさん、とても食べられるものでない。それにまた、味の素を振りかけるとは滅茶苦茶だ。田島は悲痛な顔つきになる。七枚の紙幣をろうそくの火でもやしたって、これほど痛烈な損失感を覚えないだろう。実に、ムダだ。意味無い。
 山盛りの底のほうの、代用味の素の振りかかっていない一片のカラスミを、田島は、泣きたいような気持で、つまみ上げて食べながら、
「君は、自分でお料理した事ある?」
 と今は、おっかなびっくりで尋ねる。
「やれば出来るわよ。めんどうくさいからしないだけ。」
「お洗濯は?」
「バカにしないでよ。私は、どっちかと言えば、きれいずきなほうだわ。」
「きれいずき?」
 田島はぼう然と、荒涼、悪臭の部屋を見廻す。
「この部屋は、もとから汚くて、手がつけられないのよ。それに私の商売が商売だから、どうしたって、部屋の中がちらかってね。見せましょうか、押入れの中を。」
 立って押入れを、さっとあけて見せる。
 田島は眼をみはる。
 清潔、整然、金色の光を放ち、ふくいくたる香気が発するくらい。タンス、鏡台、トランク、下駄箱げたばこの上には、可憐かれんに小さい靴が三足、つまりその押入れこそ、鴉声のシンデレラ姫の、秘密の楽屋であったわけである。
 すぐにまた、ぴしゃりと押入れをしめて、キヌ子は、田島から少し離れて居汚く坐り、
「おしゃれなんか、一週間にいちどくらいでたくさん。べつに男に好かれようとも思わないし、ふだん着は、これくらいで、ちょうどいいのよ。」
「でも、そのモンペは、ひどすぎるんじゃないか? 非衛生的だ。」
「なぜ?」
「くさい。」
「上品ぶったって、ダメよ。あなただって、いつも酒くさいじゃないの。いやな、におい。」
「くさい仲、というものさね。」
 酔うにつれて、荒涼たる部屋の有様も、またキヌ子の乞食の如き姿も、あまり気にならなくなり、ひとつこれは、当初のあのプランを実行して見ようかという悪心がむらむら起る。
「ケンカするほど深い仲、ってね。」
 とはまた、下手へたな口説くどきよう。しかし、男は、こんな場合、たとい大人物、大学者と言われているほどのひとでも、かくの如きアホーらしい口説き方をして、しかも案外に成功しているものである。

怪力 (四)

「ピアノが聞えるね。」
 彼は、いよいよキザになる。眼を細めて、遠くのラジオに耳を傾ける。
「あなたにも音楽がわかるの? 音痴みたいな顔をしているけど。」
「ばか、僕の音楽通を知らんな、君は。名曲ならば、一日一ぱいでも聞いていたい。」
「あの曲は、何?」
「ショパン。」
 でたらめ。
「へえ? 私は越後獅子えちごじしかと思った。」
 音痴同志のトンチンカンな会話。どうも、気持が浮き立たぬので、田島は、すばやく話頭を転ずる。
「君も、しかし、いままで誰かと恋愛した事は、あるだろうね。」
「ばからしい。あなたみたいな淫乱いんらんじゃありませんよ。」
「言葉をつつしんだら、どうだい。ゲスなやつだ。」
 急に不快になって、さらにウイスキイをがぶりと飲む。こりゃ、もう駄目だめかも知れない。しかし、ここで敗退しては、色男としての名誉にかかわる。どうしても、ねばって成功しなければならぬ。
「恋愛と淫乱とは、根本的にちがいますよ。君は、なんにも知らんらしいね。教えてあげましょうかね。」
 自分で言って、自分でそのいやらしい口調に寒気を覚えた。これは、いかん。少し時刻が早いけど、もう酔いつぶれた振りをして寝てしまおう。
「ああ、酔った。すきっぱらに飲んだので、ひどく酔った。ちょっとここへ寝かせてもらおうか。」
「だめよ!」
 鴉声が蛮声に変った。
「ばかにしないで! 見えすいていますよ。泊りたかったら、五十万、いや百万円お出し。」
 すべて、失敗である。
「何も、君、そんなに怒る事は無いじゃないか。酔ったから、ここへ、ちょっと、……」
「だめ、だめ、お帰り。」
 キヌ子は立って、ドアを開け放す。
 田島は窮して、最もぶざまで拙劣な手段、立っていきなりキヌ子に抱きつこうとした。
 グワンと、こぶしで頬ほおを殴なぐられ、田島は、ぎゃっという甚はなはだ奇怪な悲鳴を挙げた。その瞬間、田島は、十貫を楽々とかつぐキヌ子のあの怪力を思い出し、慄然りつぜんとして、
「ゆるしてくれえ。どろぼう!」
 とわけのわからぬ事を叫んで、はだしで廊下に飛び出した。
 キヌ子は落ちついて、ドアをしめる。
 しばらくして、ドアの外で、
「あのう、僕の靴を、すまないけど。……それから、ひものようなものがありましたら、お願いします。眼鏡のツルがこわれましたから。」
 色男としての歴史に於いて、かつて無かった大屈辱にはらわたの煮えくりかえるのを覚えつつ、彼はキヌ子から恵まれた赤いテープで、眼鏡をつくろい、その赤いテープを両耳にかけ、
「ありがとう!」
 ヤケみたいにわめいて、階段を降り、途中、階段を踏みはずして、また、ぎゃっと言った。

コールド・ウォー (一)

 田島は、しかし、永井キヌ子に投じた資本が、惜しくてならぬ。こんな、割の合わぬ商売をした事が無い。何とかして、彼女を利用し活用し、モトをとらなければ、ウソだ。しかし、あの怪力、あの大食い、あの強慾。
 あたたかになり、さまざまの花が咲きはじめたが、田島ひとりは、頗すこぶる憂鬱ゆううつ。あの大失敗の夜から、四、五日経ち、眼鏡も新調し、頬のはれも引いてから、彼は、とにかくキヌ子のアパートに電話をかけた。ひとつ、思想戦に訴えて見ようと考えたのである。
「もし、もし。田島ですがね、こないだは、酔っぱらいすぎて、あはははは。」
「女がひとりでいるとね、いろんな事があるわ。気にしてやしません。」
「いや、僕もあれからいろいろ深く考えましたがね、結局、ですね、僕が女たちと別れて、小さい家を買って、田舎いなかから妻子を呼び寄せ、幸福な家庭をつくる、という事ですね、これは、道徳上、悪い事でしょうか。」
「あなたの言う事、何だか、わけがわからないけど、男のひとは誰でも、お金が、うんとたまると、そんなケチくさい事を考えるようになるらしいわ。」
「それが、だから、悪い事でしょうか。」
「けっこうな事じゃないの。どうも、よっぽどあなたは、ためたな?」
「お金の事ばかり言ってないで、……道徳のね、つまり、思想上のね、その問題なんですがね、君はどう考えますか?」
「何も考えないわ。あなたの事なんか。」
「それは、まあ、無論そういうものでしょうが、僕はね、これはね、いい事だと思うんです。」
「そんなら、それで、いいじゃないの? 電話を切るわよ。そんな無駄話は、いや。」
「しかし、僕にとっては、本当に死活の大問題なんです。僕は、道徳は、やはり重んじなけりゃならん、と思っているんです。たすけて下さい、僕を、たすけて下さい。僕は、いい事をしたいんです。」
「へんねえ。また酔った振りなんかして、ばかな真似まねをしようとしているんじゃないでしょうね。あれは、ごめんですよ。」
「からかっちゃいけません。人間には皆、善事を行おうとする本能がある。」
「電話を切ってもいいんでしょう? 他にもう用なんか無いんでしょう? さっきから、おしっこが出たくて、足踏みしているのよ。」
「ちょっと待って下さい、ちょっと。一日、三千円でどうです。」
 思想戦にわかに変じて金の話になった。
「ごちそうが、つくの?」
「いや、そこを、たすけて下さい。僕もこの頃どうも収入が少くてね。」
「一本(一万円のこと)でなくちゃ、いや。」
「それじゃ、五千円。そうして下さい。これは、道徳の問題ですからね。」
「おしっこが出たいのよ。もう、かんにんして。」
「五千円で、たのみます。」
「ばかねえ、あなたは。」
 くつくつ笑う声が聞える。承知の気配だ。

コールド・ウォー (二)

 こうなったら、とにかく、キヌ子を最大限に利用し活用し、一日五千円を与える他は、パン一かけら、水一ぱいも饗応きょうおうせず、思い切り酷使しなければ、損だ。温情は大の禁物、わが身の破滅。
 キヌ子に殴られ、ぎゃっという奇妙な悲鳴を挙げても、田島は、しかし、そのキヌ子の怪力を逆に利用する術すべを発見した。
 彼のいわゆる愛人たちの中のひとりに、水原ケイ子という、まだ三十前の、あまり上手じょうずでない洋画家がいた。田園調布のアパートの二部屋を借りて、一つは居間、一つはアトリエに使っていて、田島は、その水原さんが或る画家の紹介状を持って、「オベリスク」に、さし画でもカットでも何でも描かせてほしいと顔を赤らめ、おどおどしながら申し出たのを可愛く思い、わずかずつ彼女の生計を助けてやる事にしたのである。物腰がやわらかで、無口で、そうして、ひどい泣き虫の女であった。けれども、吠ほえ狂うような、はしたない泣き方などは決してしない。童女のような可憐な泣き方なので、まんざらでない。
 しかし、たった一つ非常な難点があった。彼女には、兄があった。永く満洲で軍隊生活をして、小さい時からの乱暴者の由で、骨組もなかなか頑丈がんじょうの大男らしく、彼は、はじめてその話をケイ子から聞かされた時には、実に、いやあな気持がした。どうも、この、恋人の兄の軍曹ぐんそうとか伍長ごちょうとかいうものは、ファウストの昔から、色男にとって甚だ不吉な存在だという事になっている。
 その兄が、最近、シベリヤ方面から引揚げて来て、そうして、ケイ子の居間に、頑張っているらしいのである。
 田島は、その兄と顔を合せるのがイヤなので、ケイ子をどこかへ引っぱり出そうとして、そのアパートに電話をかけたら、いけない、
「自分は、ケイ子の兄でありますが。」
 という、いかにも力のありそうな男の強い声。はたして、いたのだ。
「雑誌社のものですけど、水原先生に、ちょっと、画の相談、……」
 語尾が震えている。
「ダメです。風邪かぜをひいて寝ています。仕事は、当分ダメでしょう。」
 運が悪い。ケイ子を引っぱり出す事は、まず不可能らしい。
 しかし、ただ兄をこわがって、いつまでもケイ子との別離をためらっているのは、ケイ子に対しても失礼みたいなものだ。それに、ケイ子が風邪で寝ていて、おまけに引揚者の兄が寄宿しているのでは、お金にも、きっと不自由しているだろう。かえって、いまは、チャンスというものかも知れない。病人に優しい見舞いの言葉をかけ、そうしてお金をそっと差し出す。兵隊の兄も、まさか殴りやしないだろう。或あるいは、ケイ子以上に、感激し握手など求めるかも知れない。もし万一、自分に乱暴を働くようだったら、……その時こそ、永井キヌ子の怪力のかげに隠れるといい。
 まさに百パーセントの利用、活用である。
「いいかい? たぶん大丈夫だと思うけどね、そこに乱暴な男がひとりいてね、もしそいつが腕を振り上げたら、君は軽くこう、取りおさえて下さい。なあに、弱いやつらしいんですがね。」
 彼は、めっきりキヌ子に、ていねいな言葉でものを言うようになっていた。
(未完)


(其のニ)
 蠅
横光利一


 真夏の宿場は空虚であった。ただ眼の大きな一疋いっぴきの蠅だけは、薄暗い厩うまやの隅すみの蜘蛛くもの巣にひっかかると、後肢あとあしで網を跳ねつつ暫しばらくぶらぶらと揺れていた。と、豆のようにぼたりと落ちた。そうして、馬糞ばふんの重みに斜めに突き立っている藁わらの端から、裸体にされた馬の背中まで這はい上あがった。

       二

 馬は一条ひとすじの枯草を奥歯にひっ掛けたまま、猫背ねこぜの老いた馭者ぎょしゃの姿を捜している。
 馭者は宿場しゅくばの横の饅頭屋まんじゅうやの店頭みせさきで、将棋しょうぎを三番さして負け通した。
「何なに? 文句をいうな。もう一番じゃ。」
 すると、廂ひさしを脱はずれた日の光は、彼の腰から、円まるい荷物のような猫背の上へ乗りかかって来た。

       三

 宿場の空虚な場庭ばにわへ一人の農婦が馳かけつけた。彼女はこの朝早く、街に務つとめている息子から危篤の電報を受けとった。それから露に湿しめった三里の山路やまみちを馳け続けた。
「馬車はまだかのう?」
 彼女は馭者部屋を覗のぞいて呼んだが返事がない。
「馬車はまだかのう?」
 歪ゆがんだ畳の上には湯飲みが一つ転っていて、中から酒色の番茶ばんちゃがひとり静しずかに流れていた。農婦はうろうろと場庭を廻ると、饅頭屋の横からまた呼んだ。
「馬車はまだかの?」
「先刻出ましたぞ。」
 答えたのはその家の主婦である。
「出たかのう。馬車はもう出ましたかのう。いつ出ましたな。もうちと早はよ来ると良かったのじゃが、もう出ぬじゃろか?」
 農婦は性急な泣き声でそういう中うちに、早や泣き出した。が、涙も拭ふかず、往還おうかんの中央に突き立っていてから、街の方へすたすたと歩き始めた。
「二番が出るぞ。」
 猫背の馭者は将棋盤を見詰めたまま農婦にいった。農婦は歩みを停めると、くるりと向き返ってその淡い眉毛まゆげを吊り上げた。
「出るかの。直ぐ出るかの。悴せがれが死にかけておるのじゃが、間に合わせておくれかの?」
「桂馬けいまと来たな。」
「まアまア嬉しや。街までどれほどかかるじゃろ。いつ出しておくれるのう。」
「二番が出るわい。」と馭者はぽんと歩ふを打った。
「出ますかな、街までは三時間もかかりますかな。三時間はたっぷりかかりますやろ。悴が死にかけていますのじゃ、間に合せておくれかのう?」

       四

 野末の陽炎かげろうの中から、種蓮華たねれんげを叩く音が聞えて来る。若者と娘は宿場の方へ急いで行った。娘は若者の肩の荷物へ手をかけた。
「持とう。」
「何アに。」
「重たかろうが。」
 若者は黙っていかにも軽そうな容子ようすを見せた。が、額ひたいから流れる汗は塩辛しおからかった。
「馬車はもう出たかしら。」と娘は呟つぶやいた。
 若者は荷物の下から、眼を細めて太陽を眺めると、
「ちょっと暑うなったな、まだじゃろう。」
 二人は黙ってしまった。牛の鳴き声がした。
「知れたらどうしよう。」と娘はいうとちょっと泣きそうな顔をした。
 種蓮華を叩く音だけが、幽かすかに足音のように追って来る。娘は後を向いて見て、それから若者の肩の荷物にまた手をかけた。
「私が持とう。もう肩が直なおったえ。」
 若者はやはり黙ってどしどしと歩き続けた。が、突然、「知れたらまた逃げるだけじゃ。」と呟いた。

       五

 宿場の場庭へ、母親に手を曳ひかれた男の子が指を銜くわえて這入はいって来た。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」男の子は母親から手を振り切ると、厩の方へ馳けて来た。そうして二間けんほど離れた場庭の中から馬を見ながら、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで片足で地を打った。
 馬は首を擡もたげて耳を立てた。男の子は馬の真似をして首を上げたが、耳が動かなかった。で、ただやたらに馬の前で顔を顰しかめると、再び、「こりゃッ、こりゃッ。」と叫んで地を打った。
 馬は槽おけの手蔓てづるに口をひっ掛けながら、またその中へ顔を隠して馬草まぐさを食った。
「お母ア、馬々。」
「ああ、馬々。」

       六

「おっと、待てよ。これは悴の下駄を買うのを忘れたぞ。あ奴いつは西瓜すいかが好きじゃ。西瓜を買うと、俺おれもあ奴も好きじゃで両得じゃ。」
 田舎紳士いなかしんしは宿場へ着いた。彼は四十三になる。四十三年貧困と戦い続けた効かいあって、昨夜漸ようやく春蚕はるごの仲買なかがいで八百円を手に入れた。今彼の胸は未来の画策のために詰っている。けれども、昨夜銭湯せんとうへ行ったとき、八百円の札束を鞄かばんに入れて、洗い場まで持って這入って笑われた記憶については忘れていた。
 農婦は場庭の床几しょうぎから立ち上ると、彼の傍そばへよって来た。
「馬車はいつ出るのでござんしょうな。悴が死にかかっていますので、早はよ街へ行かんと死に目に逢あえまい思いましてな。」
「そりゃいかん。」
「もう出るのでござんしょうな、もう出るって、さっきいわしゃったがの。」
「さアて、何しておるやらな。」
 若者と娘は場庭の中へ入ってきた。農婦はまた二人の傍へ近寄った。
「馬車に乗りなさるのかな。馬車は出ませんぞな。」
「出ませんか?」と若者は訊きき返かえした。
「出ませんの?」と娘はいった。
「もう二時間も待っていますのやが、出ませんぞな。街まで三時間かかりますやろ。もう何時になっていますかな。街へ着くと正午ひるになりますやろか。」
「そりゃ正午や。」と田舎紳士は横からいった。農婦はくるりと彼の方をまた向いて、
「正午になりますかいな。それまでにゃ死にますやろな。正午になりますかいな。」
 という中うちにまた泣き出した。が、直ぐ饅頭屋の店頭へ馳けて行った。
「まだかのう。馬車はまだなかなか出ぬじゃろか?」
 猫背の馭者は将棋盤を枕にして仰向あおむきになったまま、簀すの子こを洗っている饅頭屋の主婦の方へ頭を向けた。
「饅頭はまだ蒸むさらんかいのう?」

       七

 馬車は何時いつになったら出るのであろう。宿場に集った人々の汗は乾いた。しかし、馬車は何時になったら出るのであろう。これは誰も知らない。だが、もし知り得ることの出来るものがあったとすれば、それは饅頭屋の竈かまどの中で、漸く脹ふくれ始めた饅頭であった。何なぜかといえば、この宿場の猫背の馭者は、まだその日、誰も手をつけない蒸し立ての饅頭に初手しょてをつけるということが、それほどの潔癖けっぺきから長い年月の間、独身で暮さねばならなかったという彼のその日その日の、最高の慰めとなっていたのであったから。

       八

 宿場の柱時計が十時を打った。饅頭屋の竈は湯気を立てて鳴り出した。
 ザク、ザク、ザク。猫背の馭者は馬草を切った。馬は猫背の横で、水を充分飲み溜めた。ザク、ザク、ザク。

       九

 馬は馬車の車体に結ばれた。農婦は真先に車体の中へ乗り込むと街の方を見続けた。
「乗っとくれやア。」と猫背はいった。
 五人の乗客は、傾く踏み段に気をつけて農婦の傍へ乗り始めた。
 猫背の馭者は、饅頭屋の簀の子の上で、綿のように脹らんでいる饅頭を腹掛けの中へ押し込むと馭者台の上にその背を曲げた。喇叭らっぱが鳴った。鞭むちが鳴った。
 眼の大きなかの一疋の蠅は馬の腰の余肉あまじしの匂いの中から飛び立った。そうして、車体の屋根の上にとまり直ると、今さきに、漸く蜘蛛の網からその生命いのちをとり戻した身体を休めて、馬車と一緒に揺れていった。
 馬車は炎天の下を走り通した。そうして並木をぬけ、長く続いた小豆畑あずきばたけの横を通り、亜麻畑あまばたけと桑畑の間を揺れつつ森の中へ割り込むと、緑色の森は、漸く溜った馬の額の汗に映って逆さまに揺らめいた。

       十

 馬車の中では、田舎紳士の饒舌じょうぜつが、早くも人々を五年以来の知己ちきにした。しかし、男の子はひとり車体の柱を握って、その生々した眼で野の中を見続けた。
「お母ア、梨々。」
「ああ、梨々。」
 馭者台では鞭むちが動き停った。農婦は田舎紳士の帯の鎖に眼をつけた。
「もう幾時ですかいな。十二時は過ぎましたかいな。街へ着くと正午過ぎになりますやろな。」
 馭者台では喇叭が鳴らなくなった。そうして、腹掛けの饅頭を、今や尽ことごとく胃の腑ふの中へ落し込んでしまった馭者は、一層猫背を張らせて居眠り出した。その居眠りは、馬車の上から、かの眼の大きな蠅が押し黙った数段の梨畑を眺め、真夏の太陽の光りを受けて真赤まっかに栄はえた赤土の断崖を仰ぎ、突然に現れた激流を見下して、そうして、馬車が高い崖路がけみちの高低でかたかたときしみ出す音を聞いてもまだ続いた。しかし、乗客の中で、その馭者の居眠りを知っていた者は、僅わずかにただ蠅一疋であるらしかった。蠅は車体の屋根の上から、馭者の垂れ下った半白の頭に飛び移り、それから、濡れた馬の背中に留とまって汗を舐なめた。
 馬車は崖の頂上へさしかかった。馬は前方に現れた眼匿めかくしの中の路に従って柔順に曲り始めた。しかし、そのとき、彼は自分の胴と、車体の幅とを考えることは出来なかった。一つの車輪が路から外はずれた。突然、馬は車体に引かれて突き立った。瞬間、蠅は飛び上った。と、車体と一緒に崖の下へ墜落ついらくして行く放埒ほうらつな馬の腹が眼についた。そうして、人馬の悲鳴が高く一声発せられると、河原の上では、圧おし重かさなった人と馬と板片との塊かたまりが、沈黙したまま動かなかった。が、眼の大きな蠅は、今や完全に休まったその羽根に力を籠こめて、ただひとり、悠々ゆうゆうと青空の中を飛んでいった。



「真面目とはね、君、真剣勝負の意味だよ。夏目漱石」

「人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのはばかばかしい。重大に扱わねば危険である。芥川竜之介」

「取らねばならぬ経過は泣いても笑っても取るのが本統だ。志賀直哉」

「われ志を得ざるとき忍耐この二字を守れり。
われ志を得んとするとき大胆不敵この四字を守れり。
われ志を得てのち油断大敵この四字を守れり。滅びる原因は、自らの内にある。徳川家康」

「事を謀るは人に在あり。事を成すは天に在り。疎きは親しきを間てず(部外者は口を慎むべし)。軍師諸葛亮孔明 」

「路是脚踏出来的、历史是人写出来的。人的每一步行动都在书写自己的历史。中国の有名な軍人である吉鸿昌が残した言葉。中国の故事より」

USA financial institution bankruptcy. The end of t

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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