更新停滞【TL】シュガーレスホリック

現代風異世界ファンタジー学園モノ/教師ヒロイン/一匹狼クール美男子/俺様生徒会長/無感動人形系美少年/その他未定

1


 職場が、生まれ故郷のカ=ステイラ地方から遠く離れた地方へと移り、サワ・崇司(たかつかさ)アマツカサは鬱々としていた。彼女は元々はフリアンフィナンシェ学園の教師である。本校ではなかった。地元で就職したために、彼女の職場は分校の錦玉館キャンパスであった。
 だがそれも数日前までの話である。
 分校にはないカリキュラムがある。魔術唱業鉱業科の錬金術詳論は、ジェノワーズ本校と、さらに遠方の分校でなければ開講していなかった。

 サワが引率者として、学業成績優秀である程度の条件を呑んだ生徒2人を連れてジェノワーズ本校に到着したのはつい先程であった。錦玉館から共に来た2人の生徒と構内の案内が終わったところだった。
「疲れましたね」
 引率してきたうちの1人が言った。垢抜けた人懐こい茶髪の少年で、錦玉館キャンパスでは学級委員を務めていた。端正な顔面には厳つい刺青が入り、これがいくらか彼―アズキ・叶哭(かなき)ガナッシュという人物を誤解させる。
「そうね。今日は早く寝て、ゆっくり休むこと」
 サワは引率してきたもう1人を振り返る。青い双眸と視線が搗(か)ち合うが、すぐに逸らされてしまった。亜麻色とも青金ともいえない髪色が不思議な印象を抱かせる。
「ノワゼットくんも……」
 人嫌いな猫みたいな生徒は不機嫌そうに、そして無防備に横面を晒す。カオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼットは長い睫毛の下で遠くを見詰めていた。通った鼻梁が緊張感のある美男子だった。この態度はいつものことである。話を聞いていないようで彼はいつも聞いている。だからサワも気にしなかった。
 彼等とは職員室の前で別れた。2人はこれから住む場所を決めねばならない。フリアンフィナンシェ学園には学生寮もあるが、学園のほうで一軒家を貸与したり売ったりしているらしい。 
 ジェノワーズ本校の西に位置する区域は錦玉館分校のあるカ=ステイラ地方と雰囲気がよく似ていたため、あまり変化を好まないサワは職員用物件も西側で借りた。借りたのだ。借りたはずだった。いいや、確かに借りたのだった。間違いはない。


 白い校舎は宛(さなが)ら宮殿のようで、よく手入れされた庭園が魅力的だった。日の光を浴びて、葉の一つひとつが艶やかに白く照っている。点綴(てんてい)と開いた花も瑞々しい。鳥籠を思わせる白塗りの四阿(あずまや)には机と椅子が置かれて生徒たちの学習の場にもなっている。小鳥の囀りと、流水装置による潺(せせらぎ)もまた憩いの場によく合っていた。
 サワは変化を好まない。しかし生徒2人に対して、錦玉館分校にはないカリキュラムを薦めてしまった手前、この転勤は仕方がなかった。早く馴染まなければならないが、錦玉館とは趣きの異なる校舎に彼女はまだ緊張感を解けずにいた。

 ぐぉり……ごり………ぼり、ぼり、ぐぉりりり……

 渡り廊下から庭園を眺めていたサワの耳に、低い音が届く。小骨を噛み砕くような、ごつごつとした鈍い音だった。

 ぐぉりり……ぼりぼり……ごりっ、ごりっ……ごご……

 音が近付いてきている。地面を伝い、骨に響くような振動と共に、鈍い音は大きくなっている。

 ごごり……ごりり……ぐぉり……ごっ、ごっ……

 不気味な音であった。目の前には快晴の光景がありながら、濃い青陰を落とすこの渡り廊下はいくらか肌寒い。いいや、先程まではそう寒くなかった。心地良かったはずだ。

 ごりり……っ

 硬直し、外を凝らしていた彼女の隣に何かがやってきた。気配がある。


 ごり………ごりりっ……ぐぉり、ぐぉり………

 苦い匂いが鼻腔をくすぐる。コーヒーの匂いだ。
「あの」
「ひっ」
 サワは後ろへ跳んだ。そして静寂。
 彼女の傍には制服姿の少年が立っていた。彼は顔色ひとつ変えない。アズキ・叶哭ガナッシュやカオル・嘴咬ノワゼットと比べると目線が低くなる。蝋人形を思わせる質感と、人の手が入ったような造形の妙による美貌がそこにある。巨大な硝子玉を眼窩に捩じ込んだのかと思わざるを得ない虚ろな双眸が彼女に据えられている。
「錦玉館校からお見えになった、アマツカサ先生でいらっしゃいますね」
 毛氈苔(もうせんごけ)然とした睫毛はまばたきのたびに音でもしそうなものだった。だが無音である。ぐぉり……ごりりっとコーヒーミルの中で豆たちの拉げて軋み、潰れて砕ける叫喚ばかりが底に響く。
「はい……」
 小柄で繊細げな美少年だが対峙すると圧がある。
「ジェノワーズ校の案内はすでにお済みですか」
「ある程度は……」
 愛想笑いもせず、まばたきと口唇以外、顔に動きがない。愛想や愛嬌が無いのではない。接待慣れしていないのではない。表情そのものがないのだ。
「生徒会への案内はいかがですか」
「校舎の説明だけだったから、詳しくは……まだ……」
「お時間さえよろしければ、これからご案内いたします。いかがですか」
「じゃ、じゃあお願いしようかな。時間は平気よ」
 言葉遣いは恭しい。しかしコーヒーミルを回す手は止めない。ごり、ごりり……と骨まで振動が伝わる。
「では私がご案内いたしますので、ついてきてくださいませ」
 彼はやっとコーヒーミルを止めた。
「君のお名前は?」
「アヤト・トゥールトと申します」
 振り返りもしない。水面を叩くような鋭さで応答がくる。
「トゥールトくんも生徒会なの?」
「いいえ」
 水飛沫みたいな口振りだった。
「そうなんだ」
「私は用務員です」
 しかし彼の着ているのはアズキ・叶哭(かなき)ガナッシュやカオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼット同様の制服を着ている。校章の地の色が本校の暗いブルーになっている。錦玉館はグリーンだ。
 一本一本に彫刻の入った真っ白な柱を眺めながら廊下を歩く。この校舎は片面に壁や窓を置かなかった。直接陽射しが入り、床にはアーチ型の日溜まりが浮き出ている。しかしそこから外れると淡い陰影によって微妙な青みを帯び、海の奥深くを見ているような、神秘的な感じがある。
 アヤト・トゥールトは金色の札の掛かった純白の扉の前で止まった。把手も金色に塗られている。中から諍(いさか)うような声が聞こえるのとほぼ同時に、彼はゆっくりと扉を開けた。先程サワの耳に届いた音吐(おんと)がぴたりと消える。
「生徒会のみなさん。転入生の引率の先生で、魔道薬学の教科担任と聖石技術アイドル部の副顧問を務めてくださいます。アマツカサ先生です」
 生徒会室は異様な雰囲気が漂っていた。しかしアヤト・トゥールトは気にも留めない。抽斗(ひきだし)に手を挟み、それを足で押さえつけられている小柄な男子生徒がいても、明らかに故意に抽斗を足で押さえている大柄な男子生徒がいても、アヤト・トゥールトの進行は淡々としている。サワはそれを教員として黙って見ているわけにはいかなかった。
「自己紹介の前に……そこの2人は何を……?」
 ここは男子校ではないが、生徒会室にいるのはみな男子生徒であった。睫毛伸ばし器を目蓋に当てている生徒もいれば、分厚い本を開いている生徒もいる。
「いじめじゃないすかね」
 ぬ、っとサワの死角から現れたのは背の高い、三つ編みの少年だった。細い金色のフレームの丸眼鏡を掛けている。
「いじめ?いじめているの?」
 サワは抽斗を足で押さえつけている男子生徒を鋭く捉えた。するとその男子生徒は煩わしそうに足を下ろした。手を挟まれていた小柄な生徒は痕のついて赤く染まった手を引き抜く。涙を浮かべた目が彼女を見つめる。うさぎだのりすだのを思わせる可憐な少年である。
「本人がどう思うかでしょうね」
 睫毛伸ばし器を目蓋に当てている男子生徒が答えた。輪郭を隠すように前下がりに切り揃えられた髪型で、前髪を上げているため丸みのある額が見えた。その形から嫋やかな印象を受ける。彼は睫毛を上反りにすると、固着剤を専用櫛で塗っていた。
 そして横から、ぱす……と音がして、そのほうを見遣れば、怜悧げな眼鏡の男子生徒が分厚い本を閉じていた。
「自己紹介をお願いします」
 顔色ひとつ変えず、アヤト・トゥールトはサワを振り返る。彼女はとりあえずのところ、目の前にある加害は治まったこととして促されるまま自己紹介する。
 反応という反応はない。生徒会室はやる気の無さそうな、うんざりした空気が流れている。
 錦玉館分校の生徒たちは、関わりがなくても愛想が良かった。愛嬌がよかった。険がなく、嫌味がない。しかしジェノワーズ本校の生徒はどうだ。アヤト・トゥールトといい、この生徒会室の面々といい、冷淡で小生意気である。やっていけるのであろうか。
 紹介を終えると、アヤト・トゥールトに連れられ部屋を出た。
「あの子はいじめられているの?」
「見たまま言えば、そのように見えます」
「じゃあ、いじめられてはいないの?」
 大体の質問に潔く答えていた彼の返しが急に曖昧になる。
「錦玉館の標語は"和気藹々"と"切磋琢磨"だそうですが、私たちの校風はそうではありません」
 この男子生徒から嘲笑や軽侮は感じられなかった。生徒会室に入る前とまったく変わりのない面構えである。彼の言葉にそれらを見出したのはまったくサワのほうの都合であった。
「じゃあ、ここでは?」
「聖神騎士候補生になるための枠は1つですから」
 ジェノワーズ本校の首席のことだ。錦玉館分校ではやっていない。聖神騎士に憧れフリアンフィナンシェ学園ジェノワーズ本校を受験する者たちは少なくない。
「馴れ合いは赦されないのです」
「校則で?校則であるにしろないにしろ、あれは馴れ合う馴れ合わないの話ではないと思うのだけれど……」
 ここで、初めてアヤト・トゥールトは表情らしき表情を見せた。蔚薈(うつわい)とした睫毛の伸びる薄い目蓋が大きな弧線に沿って下がり、途中で止まる。ただでさえ美しい男子であった。彼が目を伏せると、その猗靡(いび)な空気感にむしろある種の不気味さすら覚える。
「弱者は要りません」
「弱者って……」
「聖神騎士の器とかけ離れた者がこの学園にいることは、聖神騎士を目指す者たちにとって心地の良いものではありません。矜持が許さないでしょう」
 サワはしかしこの男子生徒の個人的な薄気味悪さに構っていられなかった。
「いじめられている子の聖神騎士の器云々の前に、あれを放っておけるのが聖神騎士の器とは思えない」
 彼の双眸はまた硝子玉に戻っていた。
「そうですね」
「トゥールトくん」
「では僕が止めてみます。それが教員方の手を煩わせない、無難な方法で、望まれた答えですね」
 やはりそこに責め立てるようなところはなかった。まったく雰囲気にも語気にも変わりはない。
「トゥールトくん……ごめんなさい。あなたに責任を押し付けすぎたわ」
「この学園から聖神騎士を出すことが誉れです。それは僕も変わりません。彼等の中に素養のある者がいるのなら、こんなことに拘(かかずら)って、自ら格を落とす必要はないのです」
「トゥールトくん。それでも、いじめは"こんなこと"だなんて軽んじられないの」
 硝子玉に射抜かれると、内心サワは怯んでしまう。
「本当に"学内疎外"、"学内排他"なら、そうでしょう。数的不利により弱者でいるのも已むを得ない事情もありましょう……ですが分かりました。この学園を貶められるのは本意ではありません。善処します」
 彼は礼儀正しく教員へ挨拶すると、生徒会室に戻っていった。サワはまた戻るべきか迷った。生徒に任せていいものか……
 彼女は生徒会室の純白と金の扉を見ていたが、そのうちに別の教員が呼びきて、職員室に向かわなければならなくなった。


 アズキ・叶哭(かなき)ガナッシュと、カオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼットは、サワの想定では学生寮を借りるものだと思っていた。しかし学園に借金をして、このビスキュイ地方に家を買うことにしたらしい。すなわち、ジェノワーズ本校に移籍することを意味する。ハ=ト・サブレイ市はカ=ステイラ地方の風景によく似ていた。移り住むのにそう抵抗はないのかも知れない。
 しかしサワには驚きであった。
「成績も単位も足りていますから」
 事も無げにアズキ・叶哭ガナッシュは、人当たり好さそうに答える。アヤト・トゥールトと対したあとだと、同じ世界の住人とは思えないものがある。
「カリキュラムも充実していますし、今から合流しても問題ないと思いますけど、もしダメでしたらアマツカサ先生。面倒看てくださいね」
 彼は物件の資料を捲るアズキ・叶哭ガナッシュから、職員室の隅の事務スペースの、さらに隅に座って壁のほうばかり眺めているカオル・嘴咬ノワゼットに目を遣った。
「ノワゼットくんは……?」
 気難しい生徒である。環境が変わり、緊張感を持っているのだろう。その点で、アズキ・叶哭ガナッシュは早々に適応できているようだった。
「ノワゼットくんも、故郷のことはいいの?」
「……」
「元々、錦玉館でもぼくたちは寮生活でしたから」
 あまりの無反応ぶりに人の好いガナッシュ少年は微苦笑して容喙(ようかい)する。
「先生」
 壁を向いたまま、頬杖をついているカオル・嘴咬ノワゼットがやっと口を開く。サワも驚いてしまった。
「う、うん。なぁに?」
「2階建てと平屋はどっちがいい?」
「わたし?わたしは平屋かな……」
「藺草(いぐさ)部屋はあったほうがいいか?」
 彼なりに迷っているのだろう。アズキ・叶哭ガナッシュの不思議そうな眼差しをよそに、サワはこの懐かない生徒に相談を持ちかけられたのが嬉しかった。
「あったら楽じゃない?そこにお布団敷けるもの」
「分かった」
 通い慣れた錦玉館校から離れ、このジェノワーズ本校で今のところ頼れるといえば、同校から来たアズキ・叶哭ガナッシュか、引率のサワである。カオル・嘴咬ノワゼットのような控えめで、根暗で、陰気で、寡黙で、人見知りな人物も素直にならざるを得ないのだろう。
 アズキ・叶哭ガナッシュのすっとぼけたような、見極めるような視線をサワは目にしなかったわけではないが、大して気にも留めなかった。
「じゃあ、おうち決めましょう。分からないことがあったら遠慮なく聞いて」
 だが物件選びは現地訪問も内部見学もせずにすぐに終わってしまった。アズキ・叶哭ガナッシュはすでに目星をつけていたらしく、カオル・嘴咬ノワゼットもサワの選んだ条件そのままの物件を希望した。
「ノワゼットくん……?自分でちゃんと選んだほうが……さっきのはあくまでわたしの希望で、責任持てないわ」
 家を買うという決断を容易に下したはいいが、長いこと、或いは一生住むかも知れないわけである。それを一時(いっとき)担当した教師の個人的な希望で決めてしまうのは責任が重い。
 嘴咬ノワゼットは眠そうな感じさえする、薄い二重瞼と繁茂した睫毛の沿った切れの長い目を女教師に向けた。ところが視線が搗(か)ち合うこともなく、壁に引き戻されてた。伏せてばかりいるためか、常に結氷しているように見える。
「自分だけじゃ決められなかった」 
「……そう」
 それからアズキ・叶哭ガナッシュの希望する物件の管理会社がやってきて、説明が始まった。サワはそれを避け、カオル・嘴咬ノワゼットの前に座る。
「ノワゼットくんは?」
「内見は要らない。ここに決めた」
 彼の手元に残った資料には、棕櫚の木が一本生えた庭を脇に置いた平屋で、庭に面してガラス窓が嵌まっている。玄関先には木造甲板が伸び、軒も広い。
「2人暮らし用なんだ」
 サワはいくらか安心した。人嫌いのようでいて、恋人や配偶者と共に住むことを考慮しているのかも知れない。
 しかしカオル・嘴咬ノワゼットは返事もしない。やがて管理会社の者がやって来たためにサワはその場を離れようとした。しかしカオル・嘴咬ノワゼットに呼び止められる。やはり人嫌いで、陰気で人見知りで内気で他者との協調性の欠けた独創的なこの生徒は心細いのであろう。
 物件の管理会社の者はカオル・嘴咬ノワゼットと、付き添いとして控えめに端に座ったサワを交互に見遣った。カオル・嘴咬ノワゼットが記名し終わると、管理会社の者はサワにも紙を回す。
「え?」
 引率の教師として記名する欄があるのだろうか。違う。契約者記入欄として印を付けられたのは、入居者欄のところである。
「先生」
「うん?」
「今日から俺と住むから」
「誰が?」
 何気なく、カオル・嘴咬ノワゼットの達筆を目にしたのは偶然だった。"カオル・嘴咬ノワゼット"と書かれるべきところが、"カオル・崇司=嘴咬アマツカサ"になっている。
「ノワゼットくん……これ、」
 突拍子もない誤記入だ。普段から表情の見せない生徒の驚いた顔を見れるものと思ったが、カオル・嘴咬ノワゼットは敢えてそうしたといわんばかりである。
「ノワゼットくん、間違ってるわよ、これ!」
 指摘に気付いていないのだろうか。彼女はもう一度指摘する。
「間違ってない。先生は俺と結婚したんだからな」
 二句目が聞こえなかったのは、衝撃のせいであろう。
「はい?」
 物件の管理会社の者が事務作業に入り、アズキ・叶哭ガナッシュがこちらに椅子を向けた。
「ノワゼットくんが書き換えていましたよ。筆跡模倣と魔押模写ができますからねー」
 彼は呑気だ。サワはカオル・嘴咬ノワゼットを睨む。
「書き換えたって……」
「断ったら、住むところないから」
 企みのあるらしい生徒は胸ポケットから小さく畳まれた紙を出す。サワが借りるはずの住宅の解約手続きであった。すでに完了している。目を通した覚えのない書類に、書いた覚えのない日付と名前である。だが見知った字なのである。
「どういう……こと……」
「俺と結婚した。俺が婿入りしたから、先生は俺と住む」
 彼はデスクの上に何か置いた。ごく短い丈の毳(けば)に覆われた箱は、多くは、多くはなどといわず、ほとんど指輪を保管するために使う。
「先生の指輪」
「え?」
「士道コンクールの賞金で買った」
 カオル・嘴咬ノワゼットは優秀な生徒だ。学力面に於いて、サワは彼に手を焼いた覚えがない。協調性の無さや冷淡ぶりについては幾度か相談されたことはあったけれど、為人(ひととなり)を除けば問題のない、しかし率先して誰かを排他するだとか、攻撃するだとか、よく言えば誰に対しても薄情であったりなどはするけれども、引っ掛かることのない、心配事もない生徒である。その麗しい見目によって話題に上がり、印象は濃いが、それだけである。
 そういう生徒と、言葉が通じない。どういう資金源で入手したかなどは訊いていない。おそらく彼は訊き返したことに応じたわけではなく、教師の言葉になど耳も貸さず、好き勝手に喋っているだけなのである。
「ごめんなさい、ノワゼットくん。どういうこと?書き換えたって……?」
「ノワゼットくんが婚姻届をなりすまして書いたんですよ。解約手続きも勝手に書き換えてました。どうやって手に入れたかは知りませんけど」
 アズキ・叶哭ガナッシュがまたもや苦りきった微笑を携えて容喙する。
「いつ?」
「ついさっきでしたよね」
 カオル・嘴咬ノワゼットに訊ねたつもりだが、アズキ・叶哭ガナッシュも彼は答えないと決めてかかって代わりに返答する。
「夫だと言ったら渡されたぞ」
 婚姻届が彼女の目の前に広げられる。そこにはやはり自分の字そっくりそのまま記され、同一の紋様は存在しない魔押が印されている。
「え……、ちょ………待っ……」
「だから、先生は俺の妻だから」
 サワは職員室を飛び出した。こういう場合はどこへ駆け込めばいいか分からない。
 彼女は契約書控えの紙を開き、管理会社へ問い合わせる。果たして、あの生徒が言っていることは本当なのであろうか。そのようなことが可能なのか。成績以外のところで優等生とは呼びがたかったが、彼は問題児なのであろうか。解約手続きは完了していた。サワはそれを聞いた途端に彫刻の如く固まっていた。
 教師と生徒の結婚。アズキ・叶哭ガナッシュは、代筆とはいえ、共に来た同級生と引率の教師の結婚を何も思わなかったのであろうか。この件に関して、フリアンフィナンシェ学園では条件はつくものの、違約ではなかった。違約ではなかったが、学園側で定めたそれなりの罰則的な不利益もある。
 職員室に戻る廊下を蹣跚(まんさん)と歩いた。
「先生。まだ契約が終わってない」
 いつ背後をとったのか、カオル・嘴咬ノワゼットが、もとい、カオル・崇司=嘴咬ノワゼットが立っている。
「どうして……こんなこと……」
 彼は答えない。
「わたし、何か、ノワゼットくんに誤解させちゃったかな……?」
 とはいえ、手のかからない生徒である。これという問題行動も起こさなければ、落第しそうな点をとっているわけでもない。自己主張の強い性格でもなかったはずだ。その姿さえ見なければ印象に残らない、取るに足らない、居ても居なくても出席簿程度にしか響かない生徒だった。
 彼は結局答えない。その冷たい横面と態度にに、サワはこれがただの悪戯や気紛れによるものだと読むのだった。

2

 帰る場所はない。あるにはある。しかし生徒と、それも異性の生徒の家に泊まるのは躊躇われる。さらには異性の生徒というだけではない。いつのまにか結婚相手になっていた。学園は生徒と教員の結婚について反対はしていなかったし、また規則違反でもなかった。ところが、サワの倫理観はこれを赦さない。
 彼女は学園から貸し出された車の中で蹲(うずくま)る。市街地に出てホテルを探すか、大浴場で身を清めたあと車中泊にするか。新しい物件を探すにも時間がかかる。何よりも、生徒と教員の結婚については生徒側の力が強いのである。それが教える者と教えられる者とが結婚したとき、ちょうど良い分配なのである。紙面上、夫ということになっているカオル・嘴咬(はしばみ)ノワゼットを洗脳してしまっていたらしい。
 自身の個人的なこれからの生活だけでなく、生徒に対する態度についても、彼女は二重に考え込む。
 静寂の中にいると、窓を叩く音がした。外に人影がある。錦玉館(きんぎょくかん)の校章がまず目に入った。窓ガラスを下げていく。そこにいるのは、アズキ・叶哭(かなき)ガナッシュである。
「どうしたの?」
 サワは努めて平静を装った。
「アマツカサ先生、ノワゼットくんのところ帰るんですか」
「ううん。さすがに急だし、ノワゼットくんもちょっと環境が変わって気が変になっちゃってるのだろうし」
「じゃあ、今夜はどちらへ?寮を?」
 彼女はまたもや首を振る。
「申請が遅れちゃったからね……今日はホテルにでも泊まろうかな」
 すると、アズキ・叶哭ガナッシュはチケットを1枚取り出した。
「あの、ホテルの宿泊券、今日の手続きが終わらなかったらって不動産屋さんからいただいたんですけど。別にぼくじゃなくてもいいらしいのでどうぞ」
 サワは刺青の入ったら朗らかな顔を見上げた。
「いいの?」
「もうお家(うち)決まったので使いませんし、ぼくも止めなかった責任がありますから」
「ありがとう、ガナッシュくん。助かった」
 彼ははにかむ。そして品の良い挨拶をして帰っていった。アズキ・叶哭ガナッシュという生徒は、誠実で優秀な生徒である。彼の進路を後押しし、サワはこの場にいるけれども、それは間違っていなかったのだ。彼女は感動した。
 
 生徒からもらったチケットはシュクレホテルのものだった。サワはそこへ車を走らせた。そして部屋をとることができた。
アズキ・叶哭ガナッシュの譲った券は大いに活躍した。ホテルは混んでいるのだったが、この券によって空いていた。
 カオル・嘴咬ノワゼットは問題児だったのだ。内気で陰気で引っ込み思案で目立たず、成績優秀であるために気付かなかった。それに引き換え、アズキ・叶哭ガナッシュは童顔にそぐわぬ刺青によって異様な感じはあるけれど、雰囲気と印象どおり穏和で、成績だけではなく素行も気前もいい。サワにとっては手のかからない生徒のほうが可愛かった。
 彼女はシャワーを浴びてから、ホテルの空気を味わった。市街地にあるため、山や海が見えるわけでもなく絶景というわけにはいかなかったが、金を基調とした古びた彩色の天井だのシャンデリアだのが非日常的な世界観を作り出す。シュクレホテルは主にビジネスホテルとして利用されているが、上階にいくにつれシティホテルめいた装いになっていた。
 サワは、真っ白な女神の彫刻を中心に作られた人工的泉の脇にあるソファーに座っていた。そこは室内公園めいたラウンジだ。金刺繍が固い。
「あ?」
 目の前に人影が迫る。知った制服だった。
「そこ、オレ様の場所」
 革靴からスラックス、ニットベストに片側に偏って留めてあるローブ。留具は生徒会、それも生徒会長を示す金バッヂであった。つまり、今、フリアンフィナンシェ ジェノワーズ校の生徒会長がそこにいる。長めの茶金髪を針金めいたカチューシャでかき揚げ、妙に威圧感があった。
「君は……」
 何故、学生がこの時間、このホテルにいるのか。
「どかねぇ気?ま、いいけどよ」
 ソファーの反対側に彼はどかりと座った。そして自宅のように片脚を上げた。彼がその制服を着ていなければ、サワは素知らぬふりをしていた。だが彼は制服によってフリアンフィナンシェ学園所属だと周りに知らしめている。
「公共の場よ。行儀が悪いんじゃない?」
 それは自分が教師であるという傲慢にも似ていた。サワは教師として言う資格があると意識が過剰だった。
「公共の場、ね」
 横柄な感じのする生徒は、片脚を座面に上げ、片脚を床に投げ出し、肘掛けと彫刻の側面を背凭れにして本を読んでいた。異国語である。図書室のシールが貼られていた。彼は態度を改めることもなかった。目も紙面に注がれたままだ。
「ちょっと……生徒会長なんでしょう?フリアンフィナンシェの生徒として恥ずかしいよ」
 すると生徒会長はやっとサワを見遣った。
「フリアンフィナンシェはそんなご大層な学校じゃないぜ~、お姉さん」
 呆れた調子だった。生徒会といえば、いじめをしていたろくでもない、荒んだ組織である。
「わたしはあそこの教師なのだけれど……」
「あ?マジ?あの芋校の?はっ、よっぽど職にあぶれてたんだな」
「あなた、名前は?」
「言って覚えんのか?」
 彼は異国の本を捲った。ペーパーバックだが表紙は安っぽくない。教師の相手をしている場合ではないらしい。
「教師をバカにしないの」
「教師ってのはそんなにお偉いんですか?先生。無条件でバカにしてはいけないと」
 本が閉じられた。ライオンを彷彿とさせる生徒会長は脚を下ろした。
「先生。それなら、先生も生徒を敬わなければならないと思いますね。先生?え?教える立場からというものが勘違いさせるのでは。忘れちゃいけませんね、生徒のほうが賢く聡明な場合があるということも。年の功でゴリ押すまでもなく」
「人をバカにしてはいけないの」
「それなら目的語は、"教師"ではありませんな。そうですね、先生?」
 慇懃な態度はもはや嫌味だ。
「そ、そうね。そのとおり」
「よろしい。向上の近道はまず認めることです。"僕は"ソウマ・シュトーレンです。ま、明日まで覚えているとは思ってねぇから期待はしてねぇぜ」
「シュトーレンくん?シュトーレンくんね。おうちに帰らないの?こんな時間に……不健全です」
 ソウマ・シュトーレンはソファーから腰を上げた。
「教師ってのは、教師ってだけで随分踏み込んでくるんだな。自宅(おうち)だって?ここだぜ。ここはシュトーレン家のホテル。分かるか?」
 彼は振り返りかけ、冷ややかにサワを見下ろした。それから精悍な眉を動かした。
「ああ、あんた、さっき生徒会室に来てた人……」
「そうよ。いじめも見ました。やめなさい。最低よ」
 乾いた笑いが漏れていた。ラウンジを去ろうとしていた巨躯が戻ってくる。
「じゃああんたで、楽しませてもらおうか?」
 揶揄だったであろうか。冷笑であっただろうか。脅迫であった。サワは冷えた汗が噴き出す感じがした。近付くと、威圧感を肌でも感じるのだった。


 出勤してすぐに、カオル・嘴咬ノワゼットが駐車場に待ち構えていた。フロントガラスに、問題の生徒が佇んでいるのが見える。サワは平静を装って車から降りた。カオル・嘴咬ノワゼットに動きはない。ただ昏い双眸が、教師を捉えている。
「おはよう、ノワゼットくん」
 すべて忘れたふりをした。何も知らないふりをして、無関係のふりをする。
「どうして昨日、帰ってこなかった?」
 地は甘い声をしていたが、怒気を孕んでいた。
「帰ってこなかった……って?」
「昨日はどこに泊まった?」
「ホテルだけれど……」
 サワの態度は険しくなった。生徒に探られているのが、気に食わない。
「誰と」
「1人に決まっているでしょう」
 小さな溜息が聞こえた。
「今日は帰ってきてくれるんだろう?」
「ノワゼットくん。わたしは教師であなたは生徒。違法ではないけれど、わたしは同意してない」
「書類上はもう、先生と俺は結婚している。夫婦なら一緒に住むのは当然だ。帰ってきてくれ」
 懇願するような口振りで、音吐(おんと)は落ち着き払っていた。
「同意した婚姻ではないわ。あんなのは無効よ」
「どう証明する?俺の魔押(まおう)模写を覆せるのか。もう受理されたぞ」
 サワはカオル・嘴咬ノワゼットから顔を背けた。
「書類上がどうであれ、夫婦として生活することはできないから」
 彼女はそう言って、駐車場からキャンパスのほうへ向かっていこうとした。しかし手を握られる。人質のようにカオル・嘴咬ノワゼットに掴まれている。
「待て。どうしても……どうしても先生と暮らしたい。どうすればいい。どうすれば同棲してくれる?」
 サワは目を逸らした。諦めさせるしかあるまい。カ=ステイラ地域の古典文学にも、艶福家の美女が執拗な求婚者を遠ざけるために無理難題を突きつけたという話がある。
「わたし昔からドラゴン妖精を飼うのが夢だったの」
 それはやはり無理難題であった。ドラゴン妖精というのは学園から遠く離れたバーチ・ディ・ダーマキャニオン自然公園に棲まう紅みを帯びた龍で、妖精を思わせる翼が生えているのだった。
「……」
 カオル・嘴咬ノワゼットは諦めたのか、纏う陰気の色を濃くした。相変わらず不機嫌そうな表情で、むしろこれが素であるならば、無表情であるとさえいえた。
「だからノワゼットくんとは住めないわ。婚姻届のほうはわたしのほうで……」
「3日。3日だ。3日くれ。3日欲しい」
 食い気味に彼は言った。3日もあれば、彼も自身の過ちに気付くであろう。
「分かった。じゃあね」
 サワはその場を去った。一息吐きたい。時折、彼女はこの仕事に対する己の適性を疑った。背伸びをし、虚勢を張り、理想像を演じている。生徒に思い違いをさせてしまうなど教師失格だ。


……ぐぉり、ぐぉり……ごりりり……

……ごりッ、ごりごり、ぐぉり……

 骨に響く音が近付いてくる。硬いものを噛み砕いている。肉食動物がすぐ傍にいるのではあるまいか。

……ぐりり、ぐりっ、ぐり、ぐぉりり……

 サワは息を潜めた。
「アマツカサ先生」
 気配も足音もなかった。驚きのあまり肩が跳ねた。男声にしては高く、女声にしては低い。女性なのだとしたら、畏まっているのが尚更低く感じられる。
 彼女は振り返った。そして唖然とした。髪を乱雑に切られ、白皙の顔面には青花赤花が散っている。何よりも片目がなかった。眼球がないのだ。右目のあるべきところが窄(すぼ)んでいる。暴力の痕が生々しくそこに刻まれている。
「トゥールトくん、どうしたの、それ」
 咄嗟に生徒の肩を掴んでしまった。
「コーヒー、お飲みになりますか」
 アヤト・トゥールトはコーヒーミルを差し出した。
「そうではなくて……一体、誰が……」
「自己責任による怪我です」
「そんなはずないでしょう? 病院へは行ったの? 誰なの、こんなことしたのは……」
「アマツカサ先生の知るところではありません」
 別の教員に説明が済んでいるのだろう。負傷直後ではなかった。一夜は明けているようだ。わざわざ遠地から赴任した教員に言うことはないのだろう。
「そう。他の先生に相談してあるのね? それならいいけれど。お大事に」
「アマツカサ先生。コーヒーはいかがですか、飲みませんか。紅茶もあります。ケーキも」
……ぐぉり……ぐりり、ぐりっ、ぐりっ……
「じゃあ、紅茶をいただこうかしら」
 アヤト・トゥールトはついて来いとばかりに歩き出した。制服のローブは丈が長いようだ。引き摺っている。対応は年の割に落ち着いて大人びているが、時折、所作にあどけなさが混じる。
 案内された部屋は暗く狭かった。部屋自体も狭かったが、夥(おびただ)しい数の本の山によってさらに狭くなっていた。出窓の傍にある二人掛けの丸テーブルにも窓台にも本が積み上がっている。外には薔薇の生垣と芝生が青々とした小さな庭を作っている。
「ここは何のお部屋?」
「空き部屋だったところを譲り受けました」
 アヤト・トゥールトはテーブルや窓台の本を片付けにかかる。
「散らかっていてすみません」
「ううん。気にしないで。昨日はごたごたしちゃって、あんまり落ち着けなかったから、今日はこうしてトゥールトくんがお茶に誘ってくれて嬉しいよ」
「そうであるのなら幸いです」
 片付けや掃除は苦手らしかった。給茶器(サモワール)に点火して、湯が沸くまで彼は本を棚や箱に戻していた。
「コーヒーとか紅茶が好きなの?」
「淹れるのが、好きです。飲むほうは好きではありません。ですが他人事が飲む姿には関心があります。ところで、ケーキはシフォンケーキとチョコレート、チーズがあるのですが、どれにしますか」
「じゃあ、シフォンケーキで……それも、手作り?」
「はい。気分転換になりますから」
 彼は魔氷冷庫を開けてシフォンケーキを取り出すと、ナイフを入れた。しなやかな手付きにサワは見惚れた。
「すごいね。美味しそう」
「レシピどおりに作りました」
「レシピどおりに作るっていうのがまずすごいよ」
 ガラス玉みたいな目がぶっきらぼうにサワを捉える。何を言っているのか分からない、そう思ったかのような。
「暇でしたら本を読んでいてください。そちらにあるのが僕の選書したものです」
 サワは丸テーブルの上の本数冊に目を通す。背表紙で腹がいっぱいになる。

・ビスキュイ地方 酒100選 ピエスモンテ創研社
・ハ=ト・サブレイ地方 街歩き
・士道コンクールへの道 土辺(ドベ)から成り上がる300日
・ジェノワーズの奇跡 ルセット文庫
・魔為(マナ)消費の無駄を減らすメソッド
・健康はイイ崇高水から アンビベ社
・持つだけ! 清浄(しょうじょう)石

 胡散臭い表題部ばかりである。学術書ではなかった。
 彼女は食器の世話をしているアヤト・トゥールトを目で追った。見た目や態度に似合わない選書である。
「なんだか美容室みたい」
 アヤト・トゥールトはわずかに振り向く。感情の読み取れない澄んだ眼が、丈の長い制服と相俟って幼く見える。美少年だ。ただ一瞥しただけらしく、すぐに首を戻す。
「いつもこうしてお茶会するの?」
「いいえ」
「なのに先生のこと、誘ってくれたんだ?」
「僕は人の気持ちが分かりません。ですから人と関わることで学ぶしかない。そのために誘いました。そういう理由では嫌でしたか。他人(ひと)は僕の勉強道具ではないと、以前言われたことがあります」
 サモワールが沸騰を告げる。天辺に装着した急須を外し、紅茶茶碗に中身を注ぐ。透明性のある赤褐色が瀑布(ばくふ)を作った。物音が心地良い。
「どうぞ」
 小さな円い盆に紅茶茶碗とケーキの皿が乗って、サワのもとにやって来る。
「ありがとう。いただきます」
 アヤト・トゥールトはそのまま対面の椅子に腰を掛ける。
「ティーカップ、かわいいね。自分で買ったの?」
「はい。ですが、無地ですよ」
 形は丸みを帯びているが、分厚い作りの白い陶器である。皿も同様に無地だった。
「え?」
 指摘の意図が分からなかった。彼女は器を見回してしまった。窓から入る光によって微かな青みを帯びて見える。
「柄はありません」
「柄のことを言ったのじゃないわ」
「では、一体何を以ってかわいいとおっしゃられたのですか」
「形が少し珍しいから柄がないほうが曲線が綺麗に見えるし、紅茶の色も映えて見える」
 アヤト・トゥールトは返答に反応することもなく、ただ茫としていた。捉えどころがない。眼球を失った目蓋が、瞬きのたびに引き攣れる。
「錦玉(きんぎょく)館のあるカ=ステイラ地方では、文通の際にまず便箋や墨汁(インク)に言及すると聞いたことがあります。食器についてもそうなのですか」
「その文化はとても昔ね。最近じゃあまりやらない。形式張りすぎて却って失礼だって。この食器を素敵だと思ったのはわたしの本心。社交辞令に聞こえた? 言い方が悪かったのかも。ごめんなさい」
「いいえ。そういうわけではありません」
 サワはシフォンケーキを一口食らった。鬆のなかに蒟蒻めいた豆腐のような食感が混ざっている。しっとりとして、砂糖が卵の甘味を引き立てている。
「美味しい。ふわふわだけではなくて、ちょっともちっとしてる?」
「口腔の水分を吸収しないほうが、紅茶やコーヒーを愉しめるものかと思ったのでできるだけ水分が多くなるように作りました」
「お店屋さんみたいだね。喫茶部とかあったら、楽しそうじゃない?」
 紅茶を啜る。熱が喉を通っていく。シフォンケーキの後味と干渉せず、さらにあの卵の甘みを求めたくなる程良い渋みがあった。
「すでに喫茶店がありますから。少し前に新設されたのです。わざわざ素人のものを食べたがる人がいるとは思えません」
「素人とは思えない仕上がりなのだけれど……」
 フォークがシフォンケーキを轢断する。

 アヤト・トゥールトと別れ、サワは職員室へと向かっていった。中に入った途端、机に向かっていた教員から呼び止められる。その傍にいた眼鏡の男子生徒も彼女を向いた。長身痩躯で、銀髪。鋭い目付きに知性が宿っている。峻厳な印象は他者が寄り付くのを拒んでいるかのようだった。サワには見覚えがある。
「アマツカサ先生、お手隙ですか」
 ケークサレ先生だ。"退廃魔術及び没義道魔術倫理学"の担任で、4期生を受け持っている。
「はい。空(あ)いておりますが……」
 生徒に睨まれていることに気を取られていた。どこかで見た覚えがあるのだが、昨日は忙しなく、様々な初対面があった。思い出せない。
「お初ですかな。こちらは生徒会副会長の、トライフルくんといいまして……」
 ケークサレ先生は、生徒へ挨拶を促す。銀髪の男子生徒は軽く礼を見せる。
 生徒会副会長と聞いて彼女は合点(がてん)がいった。あの悍(おぞ)ましい生徒会で見た顔だ。
「ご紹介に与(あずか)りました、2期生のミフミ・トライフルと申します」
 つまり、アズキ・叶哭ガナッシュや、カオル・嘴咬ノワゼットと同期生である。だが実年齢はもしかすると彼等より少し上かもしれない。雰囲気が大人びて見えた。
「生徒会なら昨日会っているわね。でもまた改めて……」
「アマツカサ先生でいらっしゃいますね」
「覚えていてくれたのね」
「一度聞けば覚えられます。ところで、」
 ミフミ・トライフルはケークサレ先生を一瞥した。
「トライフルくんが校外に出掛けるそうなので付き添ってくださいますかな。カ=ステイラ地方から来て早々、申し訳ないが……」
「承知しま――……」
「ケークサレ先生。1期生の校外実践学習の下見と整備です。何も事情を知らない教員が付き添いというのは憚られます」
 ミフミ・トライフルは視界の端にすらもサワを入れるつもりはないらしい。
「トライフルくんは優秀ですからな。その点に於いては、教員の帯同は形式的なものです。ついでといってはなんですが、アマツカサ先生にゼッポレ山岳を案内しておやりなさい」
 ミフミ・トライフルは眼鏡のブリッジを押し上げ、サワを冷やかに瞥見する。侮りが透けている。
「自分の任務で手一杯です」
「では、アマツカサ先生の引率も任務に入れましょうぞ」
「本末転倒では?」
 ケークサレ先生はミフミ・トライフルからサワへ椅子を回した。
「トライフルくんはとても優秀な生徒です。あまり手は掛からないでしょうが、どうぞよろしくお願いします」
「ケークサレ先生」
「はあ、はあ。そろそろトライフルくんには、人を導く立場になってもらいたいものです。シュトーレンくんとは違って、トライフルくんは少し自己評価を低く見ていますね」
「シュトーレンが傲慢なだけです」
 ミフミ・トライフルはわずかに俯く。
「それではアマツカサ先生、頼みましたよ。詳細はトライフルくんから聞いてください」
「承知しました」
「……失礼しました」
 承諾したのかと思いきや、彼はサワを置いてそそくさと立ち去ってしまった。追う。逃げ出し、隠れたわけではないようだった。後姿は歩いている。心做(こころな)しか焦っているようにも見えるけれど。
「トライフルくん、待って」
「付き添いは結構です。一人で行きます」
 立ち止まりも振り返りもせず、ミフミ・トライフルは歩いていってしまう。
「でも、誰か付き添うのが規則なんでしょう?」
「私がケークサレ先生に付き添いを願い出ただけです」
「一人で行かせられないわ。わたしもついていきます」
 小気味良い靴音が大きくなる。威嚇のようである。
「どこの分校からいらっしゃったのかは分かりませんが、足手まといにだけはならないでください」
「錦玉館です。錦玉館から来ました。一度聞けば覚えられるんですってね。よろしく」
 男子生徒は鼻を鳴らした。
「転校生が、ジェノワーズ校でも通用すればいいですね」
「そうなるよう手を尽くします。ご心配なく」
 ミフミ・トライフルの足は地下の空間転移室に向かっていた。扉のない個室が並び、そのひとつがゼッポレ山岳と繋がっている。
「1期生の校外実践学習とかおっしゃっていたけれど、何をするの?」
「錦玉館にはないようですね。班を組んで山を登るんです。知っている魔術を駆使するもよし、運動神経で乗り越えるもよしです。私たちは下見をしに行きます」
 彼は制服のローブを脱いだ。襯衣(シャツ)と詰襟のジレ、スラックスの姿で、華奢な体躯であるはずのアヤト・トゥールトのずんぐりむっくりとした制服姿とは随分とかけ離れて見える。
「アマツカサ先生は初めてのようなので、私が先に参ります。失礼」

更新停滞【TL】シュガーレスホリック

更新停滞【TL】シュガーレスホリック

成績優秀な生徒2人と転校する女教師の魔法学園モノ。

  • 小説
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  • 成人向け
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更新日
登録日
2023-08-17

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