富士のない空(前半)

 この小説は2011年3月11日の東日本震災を取り扱ったものです。よく描かれる最も悲惨な地域ではなく、原発避難区域の外側にある福島県いわき市で、そこにいる登場人物たちが抱える苦悩と、それぞれに異なる思いや選択を描きました。
 地震の描写については、自分の経験や周囲から聞いた話しを元に、実際と創作を織り交ぜて書きました。震災を経験していない作家さんの描写やSNS動画だけではどうしても伝わらないところがあるため、本当の揺れの激しさと破壊的な長さを少しでも伝えられたらと思い、多くの枚数を使いました。それが成功しているかどうかは分かりません。
 一方、豊間の津波については具体的な描写を避けました。地震とは違って、津波の凄まじい強さと恐ろしさが多くの動画で伝わっているので、自分が直接見ていない情景をわざわざ表現することはないと感じたからです。
 作品は『第10回エネルギーフォーラム小説賞』の最終選考に残りませんでしたが、地震の本当の激しさを伝え残したく、前半部分をここにアーカイブすることにいたしました。とくに本震の箇所だけでも読んでいただければ幸甚です。

2023.8.14


◆ 内容
1 居酒屋
2 「3・11」
3 海と空と
4 津波
5 魔物
6 不安
7 脱出
8 離散
9 疑心暗鬼

(以下未掲載)
10 東京
11 暗雲
12 相談
13 線量
14「4・11」
15 隠れ単身
16 白昼夢
17 翻心
18 岐路
19 集散
20 忘却
21 風と島と
(以上)

1 居酒屋

 常磐線いわき駅は、上野から特急スーパーひたちで約2時間半のところだ。途中の水戸駅などでほとんどの乗客が降り、いわきへ着くころには列車内がいつも閑散としていた。当時いわきから仙台方面には特急がなかったため、この駅が特急終着駅としての役も担っていた。駅舎とペデストリアンデッキが数年前に改築整備され、新しい商業施設や古い繁華街が南口を中心に広がっていた。飲み屋やカラオケスナックがひしめき合う横丁もあり、週末はそれなりに人通りが増えてにぎわった。
 瀬川哲也が浜村隆夫とよく行く小さな店は、そんな繁華街とは少し離れた静かな場所にあった。近隣の久之浜という漁港から直接仕入れた刺身が手ごろで美味しかったのもあるが、会社の知り合いが出入りしそうな場所を、なんとなく避けたためでもあった。店の前まで来ると、厨房の音や客の声が心地よい喧噪となり、静かないわきの夕闇に漏れていた。葉を失ったハナミズキの枝が風にふるえ、店の明かりがその影をアスファルトに落としていた。
 瀬川が引き戸を開けて中を見ると、「おう」と浜村が席から手を上げた。
「いま刺身盛りだけ頼んでおいたぞ。最初はビールでいいな」
 瀬川が小さいテーブルを挟んで前に座ると、浜村はすぐに生ビールを2杯注文し、追加の食べ物を何点か選んだ。味の好みが似ていることもあり、注文は浜村に任せた。一通り注文したところで、
「あと地鶏の炭火焼」
 と瀬川が一品だけ追加をした。注文が通ったのを見届けると、浜村は熱いおしぼりを広げて、手を拭きながらしゃべり始めた。
「やはり瀬川は食べながら飲むやつだな」
「食べながら?」
「酒飲みには2種類あるんだ。飲みながら食べるのと、食べながら飲む奴だ。お前は食べながら飲むタイプだ」
「みんな食べながら飲むに決まっているだろう」
 おかしなことを言うやつだと思ったが、浜村はニヤッと笑い
「まあ、食べるには食べるが、飲む方がメインのやつと、食べるのがメインのやつがいる。瀬川は食べる方がメインだ。まあ、いいじゃないか、俺だって食べながら飲むタイプだ」
 浜村は身体をテーブルに寄せ、大きな顔を少し瀬川に近づけながら横のカウンター席を見て声を落とした。
「ほらあのカウンターの人、あれも食べながら飲むやつだ」
 浜村の眼鏡が向いた先を瀬川が見ると、カウンターの男が身体をひねって、後ろを運ばれる他の席の料理を、興味深げに見ていた。男が前へ向き直ると、厨房のスタッフにあれは何かと訪ね、そして同じものを注文した。
「ほらな、あれが食べながら飲むやつだ。食うことに余念がない」
 瀬川は笑いだしてしまった。
「なるほどな。するとその横にいる2人組は飲みながら食べるタイプだな」
「そうそう、そういうことだ」
 店に入って来たときから気づいていたのだが、その2人は徳利を傾けながら、一皿のアジの「なめろう」だけを一緒にチビチビつついていた。その「なめろう」が旨そうなので、瀬川はずっと目に留めていたのだ。
「あのなめろう、あとでたのもうか」
 と瀬川が言うと、浜村は眼鏡の上で眉を少しあげ、口元をほころばせて瀬川を見た。瀬川は可笑しくなった。自分がまた食うことばかり考えていることに気づいたのだ。
そこへ生ビールとお通しが運ばれ、2人の間に置かれた。
「昇進おめでとう」
 瀬川が先にジョッキを上げると、浜村は少し照れくさそうに、ありがとうとジョッキを上げた。この3月から浜村は材料開発の課長に上がるのだ。
 2人が勤める東亜ベアリング株式会社は回転軸受を主力商品とした製造業だ。浜村は入社時からいわきに配属され、軸受用の新素材の開発で大きな成果を上げてきた。仕事もできるし、後輩の面倒もよく見たので、昇格になったのも瀬川にはよく頷けた。羨ましいとは思ったが、そこにねたみはなかった。友人として素直に祝ってあげたい気持ちだ。
 一方瀬川は、横浜本社で軸受設計を担当し、商品開発でそこそこの貢献はしたが、周りにもっと有能な人材が多いため目立つことはなかった。その後、本社がいわきへ移転した際には生産技術部へ異動となり、いわき工場の担当設備の加工条件を調整したり、新しい設備の導入などに奔走していた。
「5年前にアメリカの会社の傘下になってから、うちもだいぶ変わったな」
 浜村の言う通りだった。本社をいわき工場に移転し、効率化を図ったのもそういう変化の一つだ。経営や人事はもちろん、工場の運営や生産方法にもアメリカの会社が口を出した。見た目の変化だけでなく、考え方も合わせて変えていかないと付いて行けないのが現状だ。そのため、とくにいわき移転の際には辞める人も多く出た。
「幕末の黒船みたいなもんだな。立場を明確にして、自分たちに有利な条件を突きつける。やり方を心得ているよ、あいつらは」
 と浜村が言った。どこで誰が聞いているか分からないので会社名を言わず、「あいつら」とか「向こうのやつら」とかいう言葉を使っていた。
「まあ100%の資本参入なんだから、そういうもんだと思わないといけないさ。結局向こうの好きなように何でも決められるということだ。聞いていた以上に外資企業はドライだからな」
「瀬川の言うことは、いつも冷静すぎる」
「いや、おかげで俺も火の車だよ。今度搬入する新しい設備も、向こうの技術を取り入れて開発したのはいいけれど、進捗を逐次つつかれるし、立上げ準備に追われて今も大忙しだ」
「お前も大変だよな」
「そのうち落ち着いたら、今度はこっちの技術の利点も主張をしてみようと思う。本当はあいつらも、互いにそういう議論を望んでいるんじゃないのか」
「それはやめておけ。向こうは絶対そんなことを望んではいない。自分たちの方が優秀だと信じてるんだ」
「そればかりではないだろう」
「いやそうだ。お前は甘いぞ」
 注文してあった刺身と料理がいくつか、テーブルの上に置かれた。瀬川が二枚の小皿を自分と浜村の前に置き、両方に醤油を注いだ。
「だが、実力主義のおかげで、浜村も取り立てられたわけだ」
「それはそうだが一番割に合わない中間管理職だ。本当はお前みたいな主任の方がいいに決まっている。おれは部下のメンタルも見なくちゃならないし、上からも押さえつけられる」
 浜村は話しながら割り箸を割ると、ワサビを多めに取って醤油皿に入れ、それから厚く切った刺身を箸でつまみ上げた。そして、
「向こうの会社の圧力を俺がダイレクトに受けるのは必至だ。なのに、俺のメンタルはいったい誰が面倒見るんだ」
「それは上長だろう」
 瀬川もワサビと刺身を取った。黒い醤油の表面に勢いよく脂が広がった。
「それはない。あの部長も向こうの会社との対応で頭がいっぱいだ。俺のメンタルなんか気にしてないさ」
 浜村は刺身を口に入れた。
 浜村の上司になる部長を思い浮かべて、瀬川も苦笑した。確かに大変な中で課長に昇進したのは事実だ。これからを考えると単純に喜んでばかりはいられないだろう。それを思うと、少し不憫にも思えてきた。
「まあ、愚痴だけだったら、俺がいつでも聞いてやるよ」
「おう」
 粗野に応えたが、浜村は少し嬉しそうだった。
 そのときテーブルが揺れた。浜村が何かを言おうと口を開いたが、急にやめた。
「地震だな。震度2か3てとこか」
 瀬川が推測した。浜村は揺れを確認するかのようにテーブルに手を置き、身体をじっと止めた。テーブルで醤油が回り、浮いた脂が小皿のふちを舐めた。
「すぐに収まるだろう」
 浜村が言った通り、地震はすぐに収まった。天井から下がる電燈だけがわずかに揺れ残った。
「また福島沖かな。最近多くなってないか」
 と瀬川が言った。2年余り前、瀬川が来たころはほとんど地震などなかったように記憶していた。それが最近、頻繁とまではいかないが、身体に感じる地震が時折あったのだ。
「大丈夫だ。福島は大きな地震や災害の少ない穏やかな土地だ。それに知ってるか? 首都移転構想だってあるくらいなんだ」
 浜村はビールで口を湿らせて、さらに続けた。
「あと原発があるのも知ってるか?」
「楢葉町のところだろう」
 瀬川は地図で見たのを思い出した。のどかな海沿いを松川浦までドライブしたことがあり、そのとき国道からは見えなかったが、原子力発電所の施設のすぐそばを通ったはずだった。
「楢葉町か、あれは福島第二原発だ。そこからもう10キロほど北に行くと、福島第一原発というのがある」
「もう1つあるのか」
 瀬川は初めて知ったが、どちらかと言うと近い方が気になる。
「そう2つもある。つまり、この辺りは地震の断層もないし、安全だっていう証拠だ」
 浜村の自慢げな顔を見て、瀬川は彼の安直な考えに驚いた。安全なんて、何も保証はできないと瀬川は思っていた。大地震なんて起きる時には起きるし、原発設備だって普通に壊れるに決まっているではないか。
 ――「絶対に、故障しない」
 大企業の電力会社に就職した同級生が、同窓会の席でみんなから原発のことを追及されたとき、まるで洗脳されたように安全を強調していたのがとても滑稽に思い出された。
 発表はされていなくても、故障ぐらいは大なり小なり時々あるはずだ。この2年余り生産技術の仕事に就いて、その考えはさらに強くなっていた。もし故障をしない設備がこの世の中にあるのなら見せてほしいものだと瀬川は思った。
 だが浜村は、もはやこの土地とは切っても切れない関係にあった。出身は新潟で、大学を東京で過ごした以外、その後ずっといわき市に住んできた。地元の女性とも結婚し、子供ができて、中央台に立派な家も建てていた。ここが安全で穏やかな土地だという考えに傾倒するのは、彼にとって無理もなく、いや、むしろ自然なことなのかも知れなかった。
 しかし・・・と瀬川は思うのだ。
「いまある断層なんて、たまたま見つかったところに名前を付けただけのことだろう」と瀬川は話した。「本当は断層があるのに、まだ見つかっていなかったり、無かったとしても新たにできるかも知れない。日本列島にいる以上、地震の起きないところなんて無いさ。安全な場所があるなんて、俺は信じないな」
「ずいぶんネガティブだな」
「そうじゃなくて、客観的な考えを言ったまでだ」
 瀬川は言ったが、浜村は表情を変えず、メヒカリの唐揚を頭からかじっていた。瀬川はふと具体例を思いついた。
「湯本があるだろう」
「いわき湯本か」
「あそこで温泉が出るのに、地震が無いわけがない」
 いわき湯本は古くからの温泉地だ。県内有数の温泉街があり、近くにはスパリゾートハワイアンズという巨大な温水施設やホテル群もある」
 瀬川は続けた。
「たとえば韓国だ。あそこは地震が少ないから、温泉もあまりない。九州の別府温泉に韓国人の観光客が多いのもそれが一因だ」
「聞いたことはある」
「温泉と地震は切っても切れない関係にあるんだ。日本は地震列島だから、温泉地が極めて多い」
「なるほど」
「そしていわきにも、極めて豊富な湯量を誇る、いわき湯本温泉がある。大きな地震が無いなんて、そんな保証はどこにもないだろう」
「温泉と地震か」
 めずらしく饒舌になった瀬川を見ながら、浜村が黙った。反論する材料を考えているが、すぐに思いつかない様子だった。
 瀬川自身も何にこだわって反駁したのか、少し戸惑った。たぶん地震のことではない。ここに住んでから原発をより身近に考えるようになって、少なからぬ嫌悪をそれに感じていたのだ。
 おまちどう、と地鶏の炭火焼が2人の前に置かれた。
「なるほどこれは旨そうだな」
 浜村は言って、
「ジョッキがもう空だ。いつもの飲るか」
 戻りかけた店員を浜村が呼び止め、焼酎のボトルとお湯割り用のポットを頼んだ。
「今日はまだまだ飲むぞ」
 話し足りない様子で浜村は座りなおした。
「もちろんだ」
 瀬川はぶ厚いジョッキの底を持ち上げて、残った泡を飲み干した。

2 「3・11」

 東亜ベアリング株式会社は小高い丘陵にあって、緩やかな南斜面の南北に接する2つの広い区画を有していた。
 北側の区画は、アメリカの親会社が新たに資本投入し、本社と新工場の建屋が新設されていた。3年前に横浜から移転した人たちはこの新しい本社建屋に入った。まだ完成したばかりの新工場には、新しい設備が次々と搬入され、立ち上げに向かって着々と準備が進められていた。
 一段低い土地にある南側の区画には既存の工場があり、東西約4百メートルに渡って配されている大小9つの建屋には、数百人の従業員が働いていた。工員の大半はいわきや周辺地域に根差した人たちだったが、間接部門や営業、開発等の人員は、瀬川や浜村も含めて県外から来た人が多かった。
 瀬川も3年ほど前に新たに移転した組だったが、その時に部署異動をしたため北区画の本社棟には入らず、既存工場内の生産技術部に机を持っていた。その事務所は古い工場建屋の2階のフロアを区切って机や棚を並べてあるので、天井が高く、隣の部署まで広々と見渡すことができた。
 その日瀬川が昼休みを終えて事務所へ戻ると、秋山課長が立ち上がって机の横に来た。
「工場長が呼んでいる。いくぞ」
「今からですか」
 いい話ではない、とすぐに感じた。悪い事は、だいたい突然言って来るのだ。
 隣の机でその話を聞いた飯山は、
「瀬川さん、先に既存工場の現場に行って、設備試験の準備始めておきます」
 と気を利かせてくれた。飯山は瀬川の下で手伝う若手だ。私生活はずぼらだが、仕事は信頼できた。彼は準備を整えると、ほどなく立ち上がって事務所の出口に向かって行った。
 秋山課長と瀬川もその事務所を出て、工場長がいる隣の建屋の2階に上がった。そこには生産管理課や品質保証課などの机が並び、一番奥に工場長の机が置かれていた。その机の横で、工場長とマイケルが立って話をしているのが目に入った。工場長は上下とも従業員と同じ作業服姿だが、マイケルはジーパンとポロシャツを着て、上だけ作業服に腕を通し、前をはだけていた。
 アメリカの会社から来たマイケルは改善アドバイザーとしてアジアの関係会社を何社か回っており、東亜ベアリングには3ヶ月ごとに約1ヶ月間滞在していた。最初は煙たい存在と思われたが、実務上の知識や経験が極めて豊富で問題意識も高く、この既存工場の変革と新工場の立上げに直接的な影響を与え続けていた。ただやり方が強引なため、瀬川のような主任や担当者レベルからあまり人気はなかった。
「やあ来たな」
 と工場長が瀬川の方に向き直った。
「知っての通り、3月23日に出資者がこの工場に来られる。これは一大イベントだ」
 アメリカのホールディングカンパニーのトップが、出資した新工場を視察するため今月来ることになっていた。
「そのために我々も、新設備が稼働できるように準備を進めています」
 瀬川はやや苛立ちながら毅然と言った。瀬川だけでなく、新工場の設備に関わっている生産技術の担当者たちは連日残業でこれに当たっていた。こんな話をする時間があったら、早く仕事に戻りたいのが本音だ。
「それで、マイケルさんの上長でもあるアメリカ製造本部取締役のメイヤー氏が、事前準備のため1週間前乗りで来ることになった」
「えっ、イベントの2日前に来るはずじゃなかったんですか」
 思わず瀬川が大声で返した。メイヤーが来るまでに準備を整えるよう進めてきたのだが、それ自体も早まるかもしれない。
「2日前ではギリギリ過ぎるのだそうだ。万全の準備で進めるため、前倒しで3月16日に来ることになった。つまりそれだけ緊張感が高いイベントということだ。絶対に失敗があってはならない」
 と工場長が説明した。マイケルは聞こえてくる日本語の名前や単語などから、工場長と瀬川が何をどこまで話したのか察しているようだ。タイミングを見て、英語で会話に入ってきた。
『瀬川サン、メイヤーが来る時まだ稼働できていなくていいが、できる限り早い段階で動かして、見せられるように進めてください』
 さらに工場長が続けた。
「前にも言ったが、イベント当日は最終的な生産状態が整っていなくてもいい。新しい建屋の中で、新設備が動いている状態を見せることが、今回の絶対条件だ」
 それは分かっているが、それでもめちゃくちゃだと瀬川は思った。新しい設備は今週までにやっと新工場に搬入したばかりで、ほとんど手つかずなのだ。マイケルは、メイヤーが来るとき稼働できていなくてもいいと言うが、来たらすぐに進捗をまくし立てられるだろう。以前会ったときのメイヤー氏の冷たい笑みが、瀬川の脳裏に浮かんだ。それに、イベント当日に機械が動いていればいいと言っても、実際に製品が流れていなかったら体裁は整わない。少なくともダミー製品ぐらいはきちんと流せるようにしなければならないだろう。機械だけあれば、ちゃんと動くというものでもないのだ。
「今日はもう3月11日ですよ。正直言って、イベントの2日前までだって精一杯なんです」
 と瀬川は言ったが、言葉に出してから、はたと考え直して目を閉じた。メイヤーの言動にも理由があることだ。どうすればその意に沿えるのだろうか。
 工場長とマイケルは口を閉じて待った。瀬川が上体をわずかに反らして目を閉じるときは、静かに考えを整理していることを知っていた。瀬川がもう一度口を開くまでに、そう長くはかからなかった。
「飯山も全面的に新工場に当たらせてください。彼が今やっている、製品開発のための設備試験を、後回しにできますか」
「開発本部と営業には私から話しておこう」
 工場長は言いながら何度も頷いた。
「それと、明日の土曜も飯山と2人で出勤させてください」
「よし、届けを出しておいてくれ」
 こんどは秋山課長が言った。
 工場長が話を続けた。
「瀬川君がアメリカの工場を視察に行ったのは、1年半前だったな。そこで得た知見をもとに、君が国内の設備メーカと協力して開発を手掛けてきたのが、こんどの新加工設備だ。ここまでよくやってくれたと思っている。今回のイベントは日の目を見るチャンスだから、ここはぜひとも頑張ってほしい」
 ものは言いようだなと瀬川は思った。
 工場長がこんどは秋山課長に向き直ってきいた。
「それで、青木君は一緒に来なかったのか」
「今日は先に新工場に行ってしまい掴まりませんでした。あとで声を掛けておきます」
 新工場の稼働設備の中で、今回新たに立ち上げるものが2つあって、瀬川と青木がそれぞれを任されていた。同じ話を青木主任にもするものらしい。


 瀬川は事務所には戻らず、そのまま飯山のいる現場に向かった。加工機が並ぶ屋内に入ると、大きな音で人の声がかき消された。幅5メートル、高さ2メートル以上もある筐体が並び、その中で軸受部品の加工処理が次々と行われていた。その加工機の一台で作業をしているカオリが瀬川の目に入った。髪を後ろに束ね、工場の作業帽をかぶり、作業服に身を包んでいた。
 近づいていくと、カオリは作業からは手を離さずに顔だけを瀬川に向けて「あ」と言い、それから隣の加工設備の裏手へ目をやった。飯山ならそこにいるよ、ということだろう。騒音で聞こえにくいから身振りで伝えたのだ。瀬川がその後ろに回ると、試験条件を変えるために外したパネルを、飯山が再度取り付けているところだった。
「飯山」
 と呼ぶと、飯山は機械から手を離し、細い体をこちらにひねって、
「ここは私一人でも大丈夫そうです。瀬川さんはどうぞ新工場の方に行ってください」
 音がうるさいので自然と声が大きくなった。瀬川は顔を近づけて、工場長の話を簡潔に伝えた。飯山は「えっ」と声を出して、ゆっくり脱力しながら目を閉じたが、すぐに
「この試験どうしましょう」と目の前のパネルに目をやった「切りがつくところまでやってしまうか、それともすぐやめて一緒に新工場に行った方がいいですか」
「あと2、3回やったら、とりあえず昨日のデータとの比較はできるから、そこまでやったら切り上げて、新工場にきてくれ」
「わかりました。なるべく早く行きます」
 瀬川はそこを後にした。
 隣接する新工場の土地は数メートルの段差があるので、車道用のスロープを歩くか、斜面を真っ直ぐに突っ切る階段を登らなければならなかった。瀬川は重い足どりで階段を踏んで行った。
 外は曇り空だった。無機質な屋外通路には、今日も水石山から吹き降ろす冷たい風が通っていた。瀬川は作業服の上の防寒着を事務所に置いてきていた。工場の中に入ってしまえば暖かいし、そこで脱ぐとかえって邪魔になると思ったのだ。建屋間の移動だけ寒いのを少し我慢すればいい。
 階段を登り切ると、新工場の外周路を歩いて、建屋の外面にある重い扉を開けた。中に入ると、マシンオイルの匂いが混ざった暖かい空気を吸った。既存工場とは対照的に静かだったが、イベント当日までには騒がしく稼働するはずだ。
 瀬川が任されている新設備の部屋は、まだ閑散としていた。天井が既存工場よりもさらに高く、奥行40メートル以上もあるこの部屋に、新しい加工機が今は3台しかなかった。横幅6メートルもあるその機械が、この中ではやけに小さく見えた。近いうちに同じものをこの部屋いっぱいに並べるため、最初の3台は壁側に寄せて配置してあった。各機からは電気・水・圧縮エアなどのインフラ配管が上に伸び、天井の太い管に集まって、さらに壁穴から外のメイン配管へと繋がっていた。各系等は、今後増設をするための分岐やバルブがすでに天井いっぱいに巡らされていた。
 瀬川が壁際の加工機に近づいていくと、工務課の藁谷(わらがい)さんが3号機の横に座り込んで作業していた。年配の小柄なこの男性に、加工機を床に固定するためのアンカーボルトを打つよう頼んであったのを思い出した。
「やあ瀬川さん、全部終わったよ」
 藁谷さんは打ち終わったアンカーを確かめるように触りながら言った。
「まだ来週でも良かったのに」
「ちょうど時間があったからいいんだ。やれるときにやっとかないとね」
 忙しい人だということを瀬川は知っていたが、藁谷さんは人のいい笑顔を見せて、次の仕事へ行くために工具を片付け始めた。
 瀬川ものんびりしていられなかった。治具の取り付けや動作確認、プログラムの設定や条件出しなど、やることはたくさんある。あらかじめ運んでおいた道具類を取り出すため、加工機の後ろに回り、壁際に置いてあった箱を開けた。
 そこの壁には何箇所かはめ込み窓があり、ちょうど隣の部屋で別の設備の立上げをしている青木の姿が目に入った。一瞬さっきの工場長の話を伝えてやろうかと思ったが、ここは防音壁なので声が届かないし、わざわざ廊下を回って話しに行くことでもないのでやめた。どうせ秋山課長から連絡があるはずだろう。
 瀬川はまず治具類の取り付けから始めることにした。必要な道具を出して運び終えると、しばらく黙々と作業をした。
 どのくらい経っただろうか、疲れてきたので反対側の少し離れた壁にある窓に目をやり、外の景色を見た。窓の向こうは広い駐車場でさえぎる建物が無いため、遠く水石山まで望むことができた。山の上の空を、鳥の群が渡っていくのが見えた。曇り空にくっきりとした稜線が美しい。風はあるのに音が聞こえないので、まるで静かな絵のようだなと瀬川は思った。
 しかし一歩引いて見ると、窓の静かな絵と、室内の人工物が不釣り合いだ。2つの異なる現実が、窓枠を境に競合しているようで、なんだか不安定に思えてきた。ずっと考えていると、それらの均衡が崩れてしまいそうな、落ち着かない気持ちに陥った。妙な感じだ。きっと疲れているのだと思い、瀬川はいちど目を閉じ、そして落ち着いてから目の前の仕事に戻った。
 しばらく作業に没頭した。
 ――ふと、小さなゆっくりとした揺れを感じた。
 地震だろうか、と思ったが、瀬川はそのまま作業を続けた。すぐに収まるだろう。少しの間集中したが、また、小さな揺れを感じた。さっきのがまだ収まってないようだ。裏側の壁の窓から隣の部屋に目をやると、青木が向こう側で藁谷さんと立ったまま何か打合せをしているようだった。
「地震だよなあ」
 と声を掛けてみたが壁を隔てて聞こえるわけもなかった。向こうはまだ小さな揺れに気を留めていないようだ。瀬川は仕方なく作業に戻り、持っていた工具でボルトの締め付けを再開した。
 しかし揺れがまた少し大きくなったので手を止めた。遠くからなんとも言えず、ごおぉという低い響きが、だんだん近づき大きくなってきた。まるで大型の運搬車両が建屋の外をゆっくりと通過する際、その迫力あるエンジン音が壁全体を振動させながら徐々に近づき増大するような、そんな感じの音だった。隣を見ると、向こう側の人たちの動きに変化があった。青木が出口の方を指さして、藁谷さんともう一人の同僚を促していたのだ。みんな作業をやめて移動を始めた。しかし瀬川はまだそれほど危険を感じなかった。外へ出る間にはきっと収まってしまうだろうと決めつけてそこに留まった。ただ念のため加工機から2、3メートル離れて、揺れが小さくなるのを待った。
 しかし、瀬川の予想に反して揺れは続いた。さきほどの大型車両のような低い地鳴り音が部屋中に充満し、揺れがもっと大きくなった。瀬川は初めて考えを変え、急いで外に出ようと思った。さっきの水石山側の壁に、外周路へ出るドアがあるので、そこへ向かおうとしたが、自分がすでに動けないことに気が付いたのはそのときだった。
 あっという間の変化だ。激しく揺れ回る床の上で立っていることができなくなり、四つん這いになって周りを見た。低い地鳴りはすでに大きな轟音に変わり瀬川を包んでいた。何がこんな音を発しているのか、瀬川は理解できず恐怖した。あらゆる方向に、恐らく何メートルも素早く身体が振られては引き戻され、自分の重心を一定に保つことができなかった。這って進みたくても、体重を支える手足が繰り返し激しく変わるので、動かすタイミングが全くない。その場で転げ回らないよう、四肢に力を集中する以外になかった。強大な力に屈し、自分の意思では動けない怖さを瀬川は初めて知った。
 何か細かい部品がパラパラと床に落ちていた。小さなボルトや、何かの留め具のようだった。見上げると、高い天井に吊られた圧縮エアや水の配管、ダクトなどが大きく揺れている。中でも一番太いメインダクトがゆっさゆっさと揺す振られながら、外の集塵機へと繋ぐ壁の穴をさらに大きく崩し広げていた。新築の白壁が剥がれ落ちた。
 3台の新加工機を見ると、床から離れようともがき、踊っていた。それは2トンもの重量を考えると、驚異的なことだ。右側が浮いたかと思うと、今度は左側が跳ね上がった。跳ねるたびに左右のアンカーボルトが繰り返し引っ張り上げられた。瀬川に襲い掛かろうと巨体が乱舞した。藁谷さんの顔が頭に浮かんだ。さっきアンカーを打ってくれなかったら、どうなっていただろうか。アンカーは1センチ、2センチと徐々に引き抜かれるが、なんとかまだ持ちこたえていた。
 何分経っても、依然激しくのたうつ機械の前で、瀬川は動けずに振り回されていた。揺れは弱まる兆しがなく、まるで狂ったように続いた。もしかすると、このままずっと終わらないのでは、という常軌を逸した考えが浮かんでは消えた。そしてその思いはだんだん強くなり、ついにはそれが最も適切な考えのように思えてきた。いや、しかしいつか終わる、終わらないはずがないではないかと自分に言い聞かせた。そして、それはまた何度も裏切られた。どれだけ経っても、目の前で踊る重い加工機を、ただ恐怖の中で見守っているしかなかった。天井に固定した配管も、いつ落ちて来るかも知れなかった。永遠とも思える絶望的な激しい揺れの中に、瀬川はただ身を委ねているしかなかった。


 この日の午後、浜村は若手の佐久間と一緒に、本社ビルの一室で商品化会議に出席していた。新たに改良した合金を軸受部品の試作に展開するため、部下の佐久間がプレゼンを用意していたのだ。順調に行けばこの場で取締役陣の承認をもらい、製造工程への移管に進むだろう。今まで浜村はこの会議に開発担当者としてプレゼンしたことはあったが、開発責任の課長として臨むのは初めてだった。
間もなく佐久間の番になろうというとき、浜村は異様なアラーム音が近くで鳴るのを聞いた。出席者全員がお互いを見回したが、やがて視線が浜村と佐久間がいる方に集まった。すると横にいた佐久間が自分のポケットに手を入れ、慌てて平べったい携帯を取り出した。音の発生源は、その当時まだ目新しかったスマートフォンだった。佐久間は慌て止めようとしたが、そのスマホから発せられる不快な音は止まなかった。出席者が揃って怪訝な顔を向けているのを見て浜村は、
「いいから早く電源を消せ」
 と声を殺しながら早口で言った。ところが、
「それが、電源はもう、切ってあったんですが、・・・音が消えないんです」
 佐久間はますます焦って顔を真っ赤にし、額の汗をハンカチで拭いながら、スマホの画面や横のスイッチをあちこち触った。すると、同じようなアラーム音が部屋のあちこちでなり始めた。何か地鳴りのような低い音がごおぉと響き始め、少しずつ揺れ始めるのを感じた。「地震なのか?」というささやきが会場内に広がった。浜村は
「ちょっと貸してみろ」
 と佐久間のスマホを取り上げようとした。大きな揺れが始まったのはその時だった。浜村は思いがけずスマホを机の上に落としてしまった。浜村は机にしがみつきながら、机の上にあったスマホの画面を見た。そこには見慣れない文字列があった。
 ――緊急地震速報・・・?
 激しさは増し、轟音と強い揺れの中で、部屋にいた全員が何もできなくなった。会議室ごと、ぶん回されている、浜村はそう思った。膝をついて動く机に掴まる者、椅子から落ちて床に伏す者、みな収まるのをその場所で祈るしかない。どんなに大きな地震が来ても、自分は冷静に対処できるとばかり思っていたのだが、大きな間違いだった。それどころか、自分の手足の位置すら、もう自分の力で変えることができないのだ。壁の窓ガラスがばりばりと割れ落ちたが、それもただ見ている以外になかった。割れ落ちた向こう側の事務所では、書棚からファイルが落ち、机が踊り、引き出しが生きているようにもがいた。
「落ち着いてください、収まりますから」
 と誰かが大きな声で叫んだが、その言葉に反抗するように、揺れは激しさをさらに増し、延々と掻き乱し続けた。


 買い物から帰って社宅アパートの駐車場に軽自動車を停めた美和は、後部座席のチャイルドシートで毛布にくるまって気持ちよく寝てしまった2人の子供を見て、もう少しだけそのままにしてあげようと思った。2階に干してあった布団を先に取り込んで、それから2人を車から降ろせばいいだろう。たぶん数分ですむはずだ。美和は車の窓をわずかに開けておき、重い買い物袋を2つ持って車を降りた。部屋に入ると荷物を床に置き、急いで階段を駆け上がった。揺れ始めたのはそのときだったが、美和はちょうど気づいていなかった。2階の窓の外側に欄干があり、そこに布団が干してある。その窓から下の駐車場を見下ろすと、子供がいる車が見えた。
 ぐらっと大きな揺れを感じた。何が起きたのか分からず、持ち上げかけた布団を欄干に降ろしてそのまま掴まった。階段の下の方で何かがぶつかるような音と、ガラスが割れる音が聞こえた。食器棚が倒れたのかもしれない。美和は布団越しの欄干に掴まったまま動けなくなり、そこで地震が収まるのを待った。怖かった。しかしどんどん激しくなって、部屋と一緒にぐるんぐるんと振り回されていた。前後左右に何メートルも大きく振られているような気がする。しがみつくべき、頼れる物が何もなかった。いま掴まっている欄干でさえ、周囲のすべてと一緒になって振り回されているだけなのだ。外を見ると、そこから見える限りの何十本もの電柱が一様に左右に振られ、今にも全部折れるのではないかと思った。世界中が揺れているようだった。すぐ下を見ると、子供を残してきた軽自動車が、アスファルトの上で揺すぶられながら、繰り返し跳ね上がっていた。美和はゾッとした。子供たちは今どんなに怖い思いをしているのだろう。すぐに行ってあげたいが、動くどころか掴まっているだけで精一杯だ。地上の物すべてが一斉に揺れている。それがいつまでも、いつまでも止まらなかった。何か強い意志が世界をなぎ倒そうとしているように思えた。もしかすると、自分は今この世の終わりを見ているのかもしれない。最後に子供たちのそばに居なかったことを、強く後悔した・・・


 合金で出来た軸受部品は、ずっしりと重かった。カオリは部品が並んだパレットを加工機から取り出して、専用の台車に積み終えたところだ。周囲の設備音がうるさい。時計を見ると3時には少し早いが、切りがいいので次の加工メニューをセットして休憩に行こうと思った。
 この加工機が並ぶ部屋にはもう一人、山田さんという定年間近の男性作業員がいた。あとは飯山だ。加工機の1台を使って試験をしていたが、先ほど終わったらしく後片付けをしていた。カオリは2つ年下の飯山が嫌いだった。現場作業者を下に見る彼の態度が気に食わないのだ。最初は普通に接していたのだが、だんだん険悪になり、今は互いに挨拶もせずに無視していた。カオリは怒ると怖い。飯山はますますカオリを避けるようになり、疎遠になってしまった。
 カオリが台車を部屋の隅に移動してから加工機の操作パネルの前に戻ると、別の加工機の横から山田さんと飯山が続けてとび出してきた。早めの休憩を山田さんに伝えようと思っていたところなので「あ、山田さん――」と言いかけたが、山田さんは手に持っていたスマホを慌ててカオリに見せながら、
「地震だ。外へ逃げねえと」
 と早口で言って外へ掛けていった。一瞬だったのでスマホの画面は見えなかったが、なにか変なアラームが鳴っていたようだ。カオリはつられて山田さんと飯山の後を追い、外に出た。
 騒音の響く工場から外へ出ると急に静かだった。外周の通路まで来て、カオリは急に足がもつれてアスファルトの上に倒れ込んだ。起き上がろうと四つん這いになるが、そこから立ち上がれない。ごおぉと低い音に包まれているようだ。自分の平衡感覚がおかしくなったのかと思い周りを見ると、山田さんや飯山、同じように外へ出てきた他の何人かが、みんな地面の上で四つん這いになり動けなくなっていた。ぐらんぐらんと地面が大きく揺れ、カオリは仰向けに返った。身体が揺り動かされてどうにもならない。工場の建物がみしみしと鳴り、外壁の一部が落ちるのを見た。落ちた地面に目をやると、驚いたことに、建屋の付け根部分がゆっさゆっさと揺す振られながら、徐々に地面から上昇していった。尋常ではない事が起きていると思った。だんだん気持ちが悪くなってきた。仰向けだと地面の動きを直接受けるのかも知れない。カオリはしばらく揺れと格闘し、偶然の反動で下向きの四つん這いに戻った。そのとき肘と掌をアスファルトで強く擦ってしまった。落ち着いて周りを見ると、3メートルくらい離れたところにいる山田さんと目が合った。
「いつまで続くんけぇ・・・」
 揺り動かされる中でカオリは叫んだが、思いがけず涙声だった。
「ここで収まるのを待つしがねえ」
 山田さんも必死で叫んだ。山田さんの言う通り、今はお互い自分の居場所を守ること以外に何も、本当に何もできなかった。


 もう永遠に終わらないのかもしれない・・・
 何度目かにそう思ったとき、激しくのたうつ加工機の前で、瀬川はまだ動けずに振り回されていた。アンカーボルトは10センチ近くも浮いていた。2トンの加工機が本当に床から離れて暴れ出したら、自分は一溜まりもないだろう。
 動けないほどの大きな揺れが始まってから、どの程度の時間が経ったのか見当がつかなかった。揺れと恐怖で時間感覚が麻痺するということを、瀬川は初めて知った。10分以上は経った気がするが、本当はもっと短いかも知れなかった。とにかくこの長さは異常だ。もういい加減にしてくれ、と誰かに向かって叫びたかった。
 それからしばらくして、少しだけ揺れが小さくなったように瀬川は感じた。いや気のせいかも知れないと思い、気持ちを落ち着けさせたが、やはりさっきよりも少し小さくなっていた。小さくなるのはいいことだが、変な感じもした。まるでしゃっくりが止まるときのようだ。揺れはまだ大きいが、明るい気持ちが急激に胸に沁み広がった。永遠に終わらない、という妄信がだんだん薄れていった。やはり終わるときは来るのだ。
 よかった。本当によかった。ただ、長かった。あんまりだ。
 まだ自由に動けるほどではない。揺れが小さくなってきたとはいえ、立ち上がることはできなかった。やがて加工機の揺れが小さくなり、地鳴りのような音も薄れていった。
 そうして待っているうちに、今なら起き上がれるだろう、と思える中程度の揺れ方になったので、瀬川は恐る恐る立ち上がった。加工機がまだカタカタと音を立てていた。やがてその音も小さくなっていき、ついには静かになった。
頭がまだ痺れているようだ。これは夢ではない。現実だ。3台の加工機を見た。さっきまで暴れていたのが嘘のように、ひっそりとそこにあった。ただ天井から落ちてきた建材や部品の破片が、設備や床一面に降りかかっていた。
 足元でまだ床が小さく揺れている。いつまたそれが大きくなるかも知れないと思い、瀬川は急いで水石山側のドアに向かった。真っすぐに行こうとしたが、足がふらふらした。なんとかたどり着いたドアノブに手を掛け、その重い扉を開けると、外の明るい空気の中に押し出た。


 アパートの美和も、揺れが少しずつ減少しているような気がしていた。いややはり、さっきより小さくなっている、と確信したとき、美和はやっと救われた気持ちになった。まだ世界は潰されずに残っているようだ。子供が乗っている車は飛び跳ねるのをやめたが、依然揺られていた。電柱も左右の揺れを小さくしていった。
 歩けるほどに収まってきたのを見計らって、美和は欄干から手を離し、急いで階段を駆け降りていた。足がふらついた。1階では冷蔵庫が変な位置にあり、食器棚が反対の壁に斜めにもたれ、扉のガラスや中の物が床に散乱していた。美和はそれらに構わず玄関から外へ駆け出し、駐車場の車へ向かった。電動スライドドアを開けると、イライラするほどゆっくりと開いた。窓から見える子供たちは・・・なんと広美と一毅は、チャイルドシートの上で眠っていた。
 ――よかった・・・
 あの激しい揺れを知らずに眠ったままだったのだ。車が飛び跳ねていたのも、知らないのだろう。美和は安堵の涙を流しながら、毛布の上から2つのチャイルドシートごと抱きついた。ごめんね、ごめんね・・・と繰り返し謝っていた。緊張の糸がほどけ、涙がとめどもなく毛布に落ちた。


 カオリは四つん這いのまま身体を揺すぶられ、今いる場所から動くことができなかった。気持ちが悪くなってきた。この揺れで酔ったのかも知れない。ふと見るとアスファルトに亀裂が入り、それが山田さんとカオリの間に向かって伸びていった。割れ目はまるで生きているかのようだった。今や2つに割れた路面は激しい揺れとともに、わずかに開いたり閉じたりした。どこかの遊園地のアトラクションでこんなのを見たことがある気がした。割れ目を挟んで山田さんとまた目が合ったが、お互いに何もできなかった。もうだめだ、吐きそうだとカオリが思ったとき、少し揺れが小さくなってきた。希望の光が見えたと思ってなんとかこらえた。やがてゆっくりと、長い時間をかけて揺れは収まっていった。
 カオリは固いアスファルトの上で伏したまま目を閉じて動けなかった。頭が真っ白だ。このまま気持ちよく、気を失ってしまうのだと思ったとき、「だいじょうぶけえ」と大きな暖かい声が聞こえた。目を少し上げると、白髪交じりの山田さんが心配そうに覗き込んでいるのが見えた。だいじょうぶ、と言いたかったが声にならなかった。かわりに立ち上がって見せようとしたが、くらくらして動けないことに気づいた。山田さんが手伝ってくれて何とか起き上がったが、今度は吐き気がして、急いで道の端に手をついて嘔吐した。背中をこすってくれる山田さんの手が熱かった。咳き込みながらも、カオリはだいぶ楽になったと思い、
「もうだいじょうぶだがら」
 とやっと声を出した。汗を拭くためのハンドタオルをポケットから出して口と鼻を拭った。
「具合悪いのか」
 いつの間にか飯山が横に立っていた。
「案外、ひ弱なところもあるんだな、お前」
「やめなさい、飯山君、こういうときに」
 山田さんが飯山を制するように言った。しかし飯山は、つっけんどんな言い方とは逆に、心配そうな顔で覗き込んで、起き上がろうとするカオリに手を貸そうとした。カオリは弱っているところを飯山に見られた恥ずかしさと怒りで顔が熱くなり、飯山の手をたたいて振りほどいた。タオルで口を押えたまま飯山を睨み上げ、助けを借りずになんとか立ち上がった。
「こんな時に、そんな怖い目で見なくったっていいだろう」
 そう言った飯山の顔は、いつもと違って真剣に見えた。カオリはまだ、鋭い視線を飯山に向けたままだ。
「お前がつらそうだったから、本当に心配しただけだ」飯山は少し不機嫌になって、「大丈夫なら、もういいよ」
 とその場を離れようとした。すると、カオリが
「・・・ありがとう」
 とハンドタオルで鼻から下を隠したまま、小さい声で言った。飯山が立ち止まって振り返ると、カオリはタオルの中でむせながら、充血した目で飯山を見詰めていた。
 しばらく沈黙した。
「避難集合場所まで一緒に行ぐけえ」
 山田さんのやさしい声を合図に、3人は並んで歩き始めた。

3 海と空と

 本社の移転に伴って、瀬川が福島県いわき市好間町(よしままち)に移り住んだのは3年前の2008年、36歳の秋だった。出歩くのが好きな方なので、土地勘をつかむのにそう長くはかからなかった。会社までは社宅から車で10分ほどだ。近くにスーパーやホームセンターなどあるが、住み慣れた横浜と違ってずいぶん寂しい場所だった。
 住宅地というのは、そこだけを見ると横浜とあまり変わらないようでもあるし、駅まで行けばそれなりに繁華街もある。しかし、この土地はどうしても周辺都市から隔離された感があった。一番近い都市の郡山は阿武隈山地を越えた遥か先にあり、そこを繋ぐ磐越線も一日に数えるほどしか出ていない。東京へ行くには新幹線がなく、常磐本線の特急電車に長時間揺られなければならなかった。そういう立地の問題は、排他的、閉鎖的な人心に多少なりとも影響していると瀬川は思った。
 妻の美和は新しい土地でも塞がずに明るく、友達もすぐにつくった。瀬川がのちに思い返すと、少し前に生まれた奔放な広美と、いつも前向きな美和が心の支えだった。もし一人だったらやりきれなかったかもしれない。
 毎日天気予報を見ていると、いわきの気温は横浜に比べていつも3度ぐらいは低かった。夏はそれなりに暑いが、10月から11月ごろになると、水石山から絶えず吹き降ろす乾いた風が身体を芯まで冷やし、想像以上に寒く感じられた。朝起きると車のエンジンを回して凍ったフロントガラスを温め、厚い氷を溶かしてから出勤した。会社の駐車場も吹きさらしなので、夜帰るときには凍ってしまい、もう一度同じ作業をしなければならなかった。美和は後年まで、寒いのはとても嫌だったと言っていた。
 ただ雪は少なかった。福島県に雪深いイメージを持つ人もいるが、それは会津など山の方で、〈浜通り〉と呼ばれる海沿いの平野部はあまり雪がない。むしろ東京や横浜の方が、雪の降る量も頻度も多かった。
 最初は方言に戸惑った。コンビニのレジでアルバイトの女の子が何かを訊ねたが、瀬川がそれを聞き取れずに適当な返事をしてしまったことがある。レジの子は変な顔をしたが、すぐに何事もなかったように慣れた手で商品を袋に入れて渡してくれた。結局何を言ったのかは解らないままだった。
 もうひとつ、瀬川が驚いたのはクモの多さだ。油断をするとどこにでも巣を張った。気が付くと家の天井のかどや、階段の全ての段のすみに白い糸を張っていた。一度など、いつも乗っている車の後部座席に大きな巣を作られて、あわてて取り払ったことがあった。おもしろいことに、いわきの人にそれを話してもあまり反応しない。きっとそれが普通なのだろう。自分の住んでいる地域が他と比べてクモが多いとは考えもしないし、容易には信じられないようだ。
逆に、東京や横浜の人は驚くほどたくさん歩くよね――と言われたことがあった。そんなことはない、都会の方が交通の便がいいから歩くことは少ないはずだと瀬川は説明したが、いやそんなこと絶対にないと言い返された。その人が横浜の友人と東京へ出掛けたときのこと、電車の駅から目的地まですぐ近いと言われたのに、行けども行けども着かず、結局20分近くも歩かされて本当に参った、一方いわきでは、近くへ買い物に行くにも車を使うのだから、そんなに歩くことは決してないと言うのだ。瀬川にとっては駅から歩くことが当たり前だったので、全く思い至らないことであった。地域性の違いというのは、出てみないと解らない事がたくさんあるようだった。
 いわきにはまた、美しい山と海がある。瀬川は特に海が好きだった。清らかな浜辺がいくつもあり、どの海岸でも何人かのサーファーが洋上に浮かぶ黒い点となって、青い波を待っていた。小名浜港から数キロ北に合磯(かっつお)という難しい読み方の岬があり、その高台に海を見下ろすホテルが一つ建っていた。古びた外観で見栄えは悪いのだが、最上階のレストランに壁一面ガラス張りの窓があり、そこから見える景色に瀬川は魅了された。窓のむこうは、青い海と空を真っ二つに割いて塩屋岬が横たわり、そこから眼下に向かって弧を描く豊間海岸には、白い波が絶えず打ち寄せていた。太陽の強い光が惜しみなく降りそそぐその光景は、寒い地方とはまるで無縁なものに思えた。
「ここは、東北の湘南て言われるだよ」
 美和の友人のアケミが静岡弁まじりで自慢げに語った。いわきは東北の太平洋岸で最も南に位置し、比較的温暖で波も良いことから、近隣のサーファーたちが集まる場所になっていた。
 アケミは伊豆半島のリゾートホテルで勤務していたときに、同じホテルのバーで働いていた篠崎ユージと知り合った。数年前に結婚してユージの地元いわきに帰ると、豊間の町に自宅を兼ねたゲストハウスを構え、サーファーを中心に旅行者を受け入れ始めた。アケミの開放的で人懐こい性格と、ユージの堅実な仕事ぶりから、ゲストハウスは軌道に乗っていた。
 篠崎アケミは美和がいわきで作った最初の友達だった。県外から来た女性同士ということもあるが、明るい前向きな性格が互いに呼応したのかもしれない。自然と家族ぐるみの付き合いになり、互いの子供も連れて一緒に出掛けることも多くなっていた。
 アケミは少し茶色がかった黒髪をなびかせ、原色の服を好み、健康的な小麦色の肌を輝かせていた。一方美和は比較的色が白く、落ち着いた服装が多いのだが、どこか雰囲気がアケミに似ていた。この2人が並ぶとなぜか姉妹のようだと瀬川は思った。
 篠崎家がゲストハウス5周年のパーティを開いたのは2011年2月の天気のいい週末だった。瀬川と美和も招待を受けて、2歳になった広美と、生まれてまだ2ヶ月の一毅(かずき)を車に乗せて豊間へ向かった。
 アケミが迎え入れてくれると、中はすでに賑やかだった。
 ゲストハウスの一階ラウンジは吹き抜けで、客室が並ぶ二階の廊下まで見上げることができた。薪ストーブの強く暖かい空気が、吹き抜け全体を大きく包み込んでいた。海側の大きな窓からたっぷりと光が差し込み、ラウンジに配されたいくつかの丸テーブルには持ち寄った料理や飲み物がはみ出さんばかりに置かれ、奥のカウンターは店の洋酒の瓶が整然と並べられていた。椅子は全部壁に寄せられていて、招待客はカウンターやテーブルの横などで、思い思いに輪を作って歓談していた。大人だけで20人以上、子供を入れるともっと多かった。
 瀬川と美和は、すでに知り合いになっている何人かと挨拶をし、話し始めた。
 アケミの友達には外国人がたくさんいた。こんな田舎町にも海外から多くの人が来て住んでいることに、最初のころ瀬川は驚いた。そして何よりアケミの交際範囲の広さにも感心した。外国人の多くは小・中学校のALT(外国語指導助手)や英会話教室の講師だが、国際結婚で移住して来ている人もずいぶんいた。日本語が話せる人もいれば、聞き取れるけど上手く話せない人、ほとんど分からない人までいろいろいた。彼ら彼女らの母国は様々だ。オーストラリア、アメリカ、ベトナム、シンガポール、インドネシア、中国、ロシア、モルドバなど、まだ他にも瀬川の知らない友人が何人かいるようだった。アケミがバーベキューやポットラックパーティを開くと、そういった多彩な顔ぶれが集まった。この日のパーティも約半分が外国人で、瀬川がもう知っている顔がほとんどだった。
 こういうとき『英語』を母国語としない者同士でも、『英語』で会話するのが当たり前になっているが、よくよく考えてみると面白いことだと瀬川は思った。瀬川の『英語』は流暢とは言えないが、仕事やメールで『英語』を使うことが頻繁にあったため、なんとか意思疎通はできた。美和は『英語』が得意ではないと言いながら、いざ友達を前にすると臆することなく会話した。そういうところは言葉以上に、人との繋がりに対して思いが強いように見えた。
 美和の腕の中にいる小さな一毅を、友人たちが頭を寄せて覗きこんだ。赤ん坊のどんな表情も、また些細な動きも、その一つひとつにみんなの笑顔が集まった。娘の広美は、美和から離されないように袖をぎゅっと掴んで、ぴったりと寄り添っていた。そしていろんな顔の大人たちがしゃべるのを硬い表情で見上げていた。
 すると大人たちの間をすり抜けて、二人の小さな女の子が広美の前までやってきた。同い年になるアケミの娘ジュリと、もう一人は二つ年上で、ベトナムと日本人のハーフの子だ。広美の怯えた目からは緊張が薄れ、やがて三人の小さなお友達はきゃっきゃっと遊び始めた。それから大人の輪を離れて、カウンターの下にもぐり込むと、そこに置いてあった木箱を引っ張り出した。幼児たちはしっとりした手で箱から積み木を取り出し、何かささやいては、三人でそれを積んだり並べたりした。しばらくすると、小さな「おうち」のようなものが出来あがってきた。
『やっぱり子供は可愛いよねえ』(『英語』)
 野放図な声でしみじみと言ったのは、モルドバ人のエレナという40過ぎの女性だった。日本人と結婚して10年ほどになるが、子供はいなかった。太った大きな身体をしているものの、目鼻立ちがいいので若い時はきっと美人だったに違いないと瀬川は思っていた。
『ダンナさんは今日来ないの?』
 瀬川がきいた。エレナのダンナは翻訳業をしているという、気さくで人がよさそうな紳士だ。エレナは不機嫌な顔をして、
『仕事が忙しいんだって』とぶっきらぼうに『ほっといていいわ、あんな人付き合いの悪いヤツは』
『会えなくて残念だな』瀬川は本当にそう思った。『よろしく言っておいてください』
『言っとくわ』
 すると、
『私からもよろしく言ってくださいね』
 と横から言ったのは森村カオリだった。
『もちろんよ』
 太い首を回してカオリを見ると、エレナは思わず笑顔に戻った。カオリの澄んだ瞳に真直ぐ見詰められると、まるで吸い込まれるような気持になるのだ。
『そうだカオリ、』と明るい表情にもどったエレナが話した『SNSで見たけど、先月タイへ行ったのよね』
『とても良かったです。街やマーケットもエキゾチックで、食べ物は美味しいし、そうそう、初めてダイビングをしたのだけど、海の中は想像以上に素晴らしかったわ』
『ついに海にまで進出ね』
『広い海のことを、今まで全然知らなかった。これから行きたいところが、またいっぱい増えたわ』カオリは僅かに遠くを見るようにしたが、すぐに顔を横に振った。『これからまたお金ためないと』
『また、いつもの友達と行ってきたの?』
 ホアが笑顔で口を開いた。物静かで、いつも落ち着いたベトナム女性だ。いま広美が遊んでいるハーフの子のお母さんだった。
『いえ、こんどはダニエルとです』
『いいわねえ、恋人同士で』
 エレナが明るく言った。カオリの彼氏のダニエルは誰からも好かれる純朴で誠実なアメリカ人だ。
『カオリさんて、どんな国の人とも分け隔てなく接するし素敵よね』
 美和が言うと、エレナが頷いた。
『本当に。いわきの人にしては、とってもオープンだわ』
 カオリは頬を少し赤くし、
『いえ私は普通ですよ・・・』と言ってから、『ていうかそれ、いわきの人って一体どんなイメージなんですか、』カオリは照れながら、話の矛先をどうやって変えるか思案した。それから、
『そういえば、テツさんもダイビングをしてたって、たしか前に言ってましたよね』
 テツは瀬川哲也のことだ。
『ああ、やってたけど、そんな話をいつしたっけか』
『たしか・・・会社で聞いたのかもしれません』
 エレナが目を大きくした。
『あら、同じ会社だったの?』
『前に話さなかったかしら?』と声を落として上体をエレナに近づけると『テツさんて、ここではのん気にしているけど、頭いいし、スゴい人なんですよ』
『まあ、そうなの』とエレナが瀬川をまじまじと見た。
『余計な話をするなよ』
 何がどうスゴいのか分からなかったが、今度は瀬川が顔を赤くした。エレナとカオリは悪気もなく晴れ晴れと笑っていた。
 会社の生産工場に数百人いる中で、女性の多くは検査ラインで働き、加工工程には数人しか女の子はいなかった。カオリはその数人の方の一人だった。少し気の強い性格だが、無駄のない所作と機転のよさは周囲の目を引いた。二年前、アケミの友人たちに囲まれた中でカオリに出会ったとき、瀬川はすぐに気づかなかったのだが、カオリが先に「瀬川さんでしたよね、生産技術の」と言ったので、やっと思い出したのだ。
『さっきダイビングの話をしてた?』
 アケミが輪の中に入って来た。力強く心地よい英語だ。
『私も前にやってたわ。伊豆や沖縄にはよく行ったのよ。海外にも行ったけど、モルディブが一番印象に残っているわね』
『どんなところですか、モルディブ』
 カオリが興味深そうだ。
『そうね』アケミは少し見上げるようにして美しい記憶を探った。『澄んだ水と白い砂が、どこまでも遠く広がっているの。水上コテージのバルコニーには常に心地よい風が吹いて、デッキチェアにいつまでも身を横たえていられたわ。すぐ下には綺麗な魚たちが涼しげに泳いで、そうそう、浅瀬に降りると、ときどきエイが来て足をつつくのよ』
『――素敵』と静かにカオリが言った。
『静かな時間の中、やがて輝く青空が、燃えるような夕日に変わっていくの・・・天国があるなら、本当にあんな場所だと思う』
 さっきまで他の輪で談笑していたダニエルが、いつの間にかカオリの隣でアケミの話を聞いていた。
『いつか行ってみたいな』
 ダニエルが心から言った。瀬川はこの痩身で精悍な顔立ちのアメリカ人が好きだった。
『そうだ』ダニエルが何かを思い出したようだ。『海外もいいけど、僕はこの豊間でアケミとユージにサーフィンを教えてもらいたいなあ』
『あら、それならいつでも教えるわよ、道具はあるしね』アケミは得意げな表情になった。『海の下も素敵だけど、波の上はとっても爽快よ』
 すると、
『私もいつか教わりたいと思っていたの』とカオリ。さらに、『私もやってみたい』と美和が名乗りを上げた。
『それならこんどサーフィン教室やりましょうか』
 アケミは乗り気だ。
『水は嫌。ビーチでのんびり見ているわ』とエレナが言った。『私もいいわ』とホア。二人はあまり気が向かなそうだ。
 カオリは嬉しそうに、
『ダニー以外は日本人だから、サーフィン教室は日本語でもいいわね』
 と言うと、ダニエルが少し大振りに手を広げた。
『それはまだ無理だ』
 英会話学校で教師をしているダニエルだが、カオリからは少しずつ日本語を教わっていたのだ。
『もう大丈夫よ日本語で』
『いや全然無理だよ』
 ダニエルが助けを求めるように瀬川の顔を見たが、カオリは楽しげだ。するとホアが可笑しそうに、
『カオリ先生ったら、厳しいのね』
 と言って、にこやかにカオリとダニエルを見た。
 それからホアが、『あら?』とこんどは美和の腕の中に顔を近づけた。眠っていた一毅が少しぐずり始めたからだ。エレナとカオリもその小さな顔に目を向けた。
『お腹がすいたのかしら?』
 アケミが言うと、美和は自分の胸の下の赤ん坊を見詰めたまま、
『オムツかしらね』
 と子供に問いかけたような、アケミに答えたような、どちらともつかない感じで言った。
『それならうちの寝室を使っていいわよ』
 アケミが部屋の方を示したが、ぐずりかけた一毅がまた穏やかになった。
『まだ大丈夫みたいね』
 と自分の腕の中に優しく目を当てたまま美和が言った。
 それを聞いてほっとすると、こんどはエレナが話題を変えた。
『ところでカオリ、例のお花見はいつ行くの?』
 この春、夜ノ森で花見をしようと、アケミとカオリが中心になってみんなを誘い始めていたのだ。
『もう少し先だし、開花予想が出てから決めるわね』
 カオリは言ってから、
『そうだ、テツさんとミワさんも、行きますよね』
 と振り向いた。
『いいね』
 瀬川が言い、
『もちろん行くわ』
 と美和も笑顔で返した。
 いわき市から少し北の方にある夜ノ森という町は、春になると公園や周辺の桜並木を目当てに多くの人が集まる名所だ。昨年の春に瀬川と美和もドライブしながら見に行ったのだが、延々と連なる花のトンネルは噂どおり見事なもので、公園の中にも多くの花見客が場所を取って賑わっていた。あそこへみんなで行ったら、きっと楽しいに違いないと瀬川は思った。
「テツさん、ちょっと悪いんだけど」
 カウンターの向こうで客の飲み物を作っていたユージが、日本語で話しかけてきた。
「外で薪を運ぶの手伝ってくれないかな、すぐすむから」
「ああ」
 と瀬川は快く頷いて、すぐに自分のダウンジャケットを手に取った。するとダニエルが日本語で、
「僕もいくよ」
 と持っていたグラスを置いた。はっとするほど、きれいな発音だ。カオリがダニエルと瀬川を楽しそうに見上げながら、
「それじゃあ私も」
 と上着を着始めた。
「そんなに大勢はいらないよ」
 ユージは笑いながらも、結局そのまま3人を引き連れて戸口へ向かった。
 玄関を出る時、後ろから「やっぱりオムツだわ」と言う美和の声が聞こえ、振り向くとアケミが自分の寝室へ美和を案内しているところだった。
 外へ出た4人は、冷たい風の中で海の匂いを吸った。ダニーや瀬川よりも少し小柄なユージは、筋肉質のがっしりした身体を厚手のジャケットで包み、しっかりした足運びで裏手に回って行った。建物の横にはサーフィン用具の洗い場と干し場がある。そこを通って裏に入ると薪割り用の台があり、そばに薪が積み上げられているのを瀬川は知っていた。
 瀬川はしかし、途中で立ち止まって、空を見上げた。雲の合間から、ふと高い山が見えたような気がしたのだ。
「何を見ているんですか」
 前を歩いていたカオリが敏捷に振り向いた。いったい、後ろに目が付いているのだろうか。
 瀬川が生まれ育った関東では、天気のいいときなど丹沢山地の向こうの空に、富士山がその高い頂を見せることがあった。雲に覆われているときでも、その合間に気高い雄姿を覗かせることもある。地理的に、裾野まで見える場所はあまりないのだが、それがかえって空に映える富士の存在感や偉大さを際立たせていた。瀬川は晴れた日に山や雲の上にある高い空を見上げて、その頂を探すことがあった。しかしそれは無意識のことで、そういう行動に自分では一切気がついていなかった。
 その自分のクセに気がついたのは、いわきに来てからだった。ふとしたときに雲を見上げると、あるはずのない富士山を探している自分自身に驚いた。ときどき見つけたかのように錯覚したが、多くの場合それは白い雲とそこに差す青い影を、雪をたたえた山のように見誤ったものだった。そういうとき瀬川は落胆するとともに、遠いところへ来たという事実を思い出させられた。そして自分にとって堅固な心の支えが失われたような、なにか不安な気持ちになったのだ。
 今も、そうだった。
「あ、いや雲を見ていただけだ」
 不思議そうに見上げるカオリをよそに、行こう、とだけ言って瀬川は前を行く二人を追い、歩き始めた。
 カオリは瀬川の横に、そっと並んで歩いた。

4 津波

 仕事も軌道に乗り、この地で友達もたくさんできて、アケミは順調に人生を歩んでいると思っていた。もう大抵のことは、自分で何とかなるという自負もあった。しかし2011年3月のあの日の地震はその全てを変えた。アケミはそのとき何も、全く何もできなかった。大きな揺れが収まってから、アケミはやっとの思いで怯えているジュリを抱き上げた。1階のラウンジでは棚の食器やグラスが落ちて散乱し、カウンターのボトルが倒れて床で砕けていた。客室がある2階の状態も気になっていたが、まだ地震があるかも知れないので見に行くのは危ないと思った。今日一人だけいた客は、今は表にいるはずだ。アケミはとにかくいったん外に出た。
 ゲストハウスの前では、さっきまで帰り支度をしていた常連客の千紗が、黄色い軽自動車に手をかけながら何とか立ち上がったところだった。地面がまだ振動していた。足元から伝わるその確かな震えが恐ろしかった。
「千紗さん」
 アケミは声を掛けたが、言葉が続かなかった。まだ胸の鼓動が激しかった。千紗は車に手を掛けながら身体を支えるようにして、真剣な顔で海の方を見ていた。ゲストハウスから堤防までは距離40~50メートルくらいの緩い坂があり、その両側に民家が何軒かあった。高さ2メートル足らずの堤防の向こうに冷たい水平線が見えていた。
「海がおかしい」
 千紗の言葉でアケミも海に目をやったが、なにがおかしいのか分からなかった。ただ、どんよりとした曇り空の下で、海はすっかり輝きを失っていた。
 それより、地面がまた揺れた。
「千紗さん、まだ地震が続くかもしれないから、家の中には入らないでね」
 千紗の横顔に向かって言ったが、聞いているのかどうか分からなかった。
「アケミさん、逃げた方がいいかも」
「――」
「いつもと違うんです」
 千紗はやっと海から目を離し、アケミの方に向き直った。
「うまく言えないですけど、いつも見てる海じゃないような」
 アケミには何が違うか分からなかったが、いつもサーフボードの上で波を見ている千紗のことだから、何か感じるものがあるのかも知れないと思った。
「荷物は?」
 アケミは千紗の軽自動車を見て言った。
「もう全部積みました。あとはドライスーツだけ」
 干し場を見ると、千紗が昼前の波で使ったドライスーツが一着だけ吊るしてあった。
「それならもう行った方がいい。私は念のため防災用のリュックを持って避難場所へ行くけど、千紗さんはドライスーツ畳んですぐここを発ちな」
 アケミはいったんジュリを千紗のところに残して、急いでゲストハウスの中に入った。非常時のために用意してあった防災リュックに、ジュリのおむつや必需品、ちょうど買ってあったパンや缶詰、ペットボトルの飲み物を2本追加した。念のため戸締りしガスの元栓を閉め、ブレーカーを落とした。急いだわりには時間がかかってしまったとアケミは思った。何度か新たな振動があり、そのたびに焦った。
 千紗は仕事の休みが不定期なので、平日を狙ってたまに遊びに来る若いサーファーだった。ユージやアケミ、そしてジュリもすでに千紗とは打ち解けていた。今日は金曜日なので他に客はいない。ユージは週末に集まる客の準備や仕入れのためバンで出掛けており、今はいなかった。
 外へもどると、千紗はドライスーツを片付け終わっていた。車の横で座り込んでジュリと話していたが、アケミの顔を見て立ち上がった。
 そのとき海側の民家から家族連れの車が一台出てきて、千紗の後ろを通りかかった。運転席の男性が大きな声で「避難した方がいい」とアケミの方に声を掛けてから走り去った。他の家からも何人かが歩いて出て来て、海と反対方向へ急いで行った。
「アケミさん」
 緊張した声を聞いて、千紗の強い視線の先に目をやると、堤防のすぐ上に波しぶきが上がるのが見えた。堤防の向こう側には砂浜があり、波はもっと遠くで打ち寄せているはずなので、明らかに異常な光景だ。
「波が来てるわ。すぐに行きましょう」
 千紗は言って、軽自動車の後部座席にジュリを乗せようとした。
「私たちはこのまま避難所に行くから」
 とアケミが止めようとしたが、
「高い場所がいいわ。いいから早く乗ってください」
 千紗はジュリと一緒にアケミを後部座席に押し込んだ。千紗はそのまま運転席に回ってエンジンをかけた。
「あの岬の高台はどうかしら」
 千紗が指を差したのは合磯岬だった。確かにこの場所からはそこが近そうだ。
「それじゃあ、そこを曲がって、真っすぐに行って」
 千紗がアクセルを踏み込んだ。もう千紗に任せるしかないとアケミは思った。
 アケミはまだ、津波が来てもそんなに大したことにはならないだろうと思っていた。合磯岬の上にあるホテルはテツさんが景色を気に入っていた場所だった。あそこから海と町を見下ろして、しばらく何事も無ければ戻って片付けをすることになるだろう。ゲストハウスは新しい建物なので地震によるダメージは無さそうだったが、中はひどい状態だ。何も手を付けずに出てきてしまったことが心残りだった。
 道へ出ると、他にも同じ方へ向かう車があった。道すがら、半壊した民家をいくつも目にし、地震の強さを改めて感じた。やはり自分のうちは良かった方だったと、アケミは思った。
 しばらく順調に走って行ったが、岬へ登る坂に差しかかったところで、車は渋滞して詰まった。そこから遅々として進まないが、完全に止まったわけではなかった。少し進んでは止まり、しばらくしてまた少し進んだ。この道を登った先にホテルの駐車場があるので、みんな同様にそこを目指しているようだった。いつの間にか後ろにも、車の長い行列が出来た。千紗の軽自動車はまだ坂の下の方だったが、他の車に挟まれていると、自分たちだけではないという不思議な安堵感があった。ジュリは緊張で疲れたのか、アケミの横で気持ちよく眠ってしまっていた。
 とにかく少しずつ進んでいた。道の両側を歩いて避難する人もまばらにいた。万が一のことがあれば車を出て歩こう、と車内で二人は申し合わせた。アケミはまだ楽観していたが、本当に緊急のときは荷物を背負い、ジュリを前に抱いて行くつもりだ。
 避難渋滞で止まってから気づいたのだが、車体が頻繁に揺れていた。ただ、車のサスペンションのせいか、ふんわりと変な揺れ方をするのだ。
「この揺れ、地震ですね」
 と千紗が言った。アケミも薄々地震かもしれないと思っていたが、言葉に出して千紗に言われると怖くなった。
「やっぱり地震かな。ただの風じゃないの?」
 またあの大きい地震が来るのではないかと、アケミは不安でならなかった。さっきのあの大きな長い揺れは二度とごめんだと本気で祈った。
 坂を少し登ったところで、アケミは後ろの海を振り返った。広い浜がなぜか静かに感じられた。でも何か違う。この違和感は何だろう―― そうだ浜が広いのだ。さっきは堤防の近くまで波が打ち寄せていたはずなのに、ここから見ても分かるくらいに、普通よりもずっと向こうまで波が引いていたのだ。それに気づいたとき、アケミは血の気が引くのを感じた。
「千紗さん、う、うしろ見てこ(見てごらん)」
 アケミは思わず叫んだ。
「みてこ?」
 アケミはとっさに語尾が静岡弁になることがあり、千紗にはそれが可笑しかった。千紗も運転席から身体を低くして後ろを覗き込んだ。
「引き波・・・」
 千紗は眼を細めて遠くを見ながら言った。意外なほど落ち着いた声だった。千紗もアケミも引き波のことを聞いたことはあったが、実際に目にするのは初めてだ。
「これってきっと、――ヤバイやつですよね」
「千紗さん、前・・・」
 前の車が少し進んでいた。
 前後の車も、中から海を覗き込んでいるようだ。歩いている人は、ちょっと立ち止まって海を振り返り、また足を速めた。
 車は左折してホテルに向かう直線の急坂へ進み、そこで止まった。駐車場の入り口までまだ数十メートルはあるだろうか。前方はホテル前まで真っすぐに見通せたが、そのかわり海の様子が確認できなくなった。
「駐車場がいっぱいになったのかも知れませんね」
 千紗が言うように、前の列が動く様子はもうなかった。これ以上は進まないかもしれない。
 そのときアケミは遠くから叫ぶような声を聞いた気がした。そして、下の方で歩いていた人たちが走り出し、アケミたちの横を通り過ぎていった。後ろの曲がり角にいた車からも、人が降りて走り出すのが見えた。アケミは千紗と目を合わせ、いこう、と同時にドアを開けた。アケミは考えていた通りに、リュックを背負いながら、ジュリを抱き上げた。千紗もエンジンを切って大きなバッグを持った。何が起こっているのか、はっきりと分からないが、走る人や歩いて登る人の流れに任せて二人とも坂を登っていた。とにかく行かなくてはならなかった。腕の中のジュリが目を覚ましてアケミの顔を見上げると、小さな手でママの肩を押して上体を反らし、進む方向に顔を向けた。周りの緊張が伝わったのか一言も発しなかった。
 登り切ると右が駐車場で、左手にホテルの古びた建物があった。ホテルの外面を覆うガラスの一部が、地震のために割れ落ちていた。出入口の付近に人が溜まっていたが、ホテルの中から出てきた人なのか、それとも他から避難してきた人たちなのか分からなかった。アケミと千紗が近づいていくと、集まる人々の間から、中のロビーが垣間見えた。アケミが入口の前まで行って中を覗くと、ロビーの向こう側に壁一面の大きなガラス窓があって、そこにも人が溜まっているのが見えた。その人たちは食い入るように外を見たり、「わあ」と大声を上げたりしていたが、入り口からはガラスの向こうの外の様子が見えなかった。たぶん町の様子が見下ろせるはずだ。アケミは中に入ってみようと思ったが、突然また揺れが襲った。ロビー内にいた人たちが慌てて外へ出てきたので、アケミもいったん建物から離れた。その揺れはすぐに収まったが、わずかな振動が続いていた。
 しばらくすると、またロビーの中へと入る人が出てきた。「危ないからもう入らないで」と連れを引き戻そうとする声が響いた。
 千紗はアケミに、
「ジュリちゃん見ててあげるから、順番に見に行きましょうか」
 と提案した。アケミは抱いていたジュリを降ろしながら、
「じゃあ千紗さんから先に行ってきて。次に私が行くから」
 と言った。千紗は頷くと、入り口から中へずんずん吸い込まれていった。そのままガラスの前に張り付くと、後ろ姿のまましばらく動かなくなった。
「――千紗さん」
 しばらくして声をかけたが、全く動かず、聞こえたのかどうかも分からなかった。
「――千紗さん」
 少ししてから、もう一度名前を呼んだが、やはり動かなかった。
 もうちょっと待ってみようと様子を見ていたが、アケミの横を通って中に入る人が増えていき、ガラスの前にどんどん人が溜まってきた。どういうものか、そうなるとなんだか、真面目に待っているのがばかばかしい気持ちになってきた。アケミは意を決して、ジュリの手を握ったままずけずけと中に入った。ロビーを横切って歩いていくと、ガラス窓と千紗の後ろ姿がどんどん近づいてきた。「千紗さん」と声をかけると、
「あ、アケミさん」
 と初めて振り向き、そして
「あ、あの、すいませんでした」
 千紗の顔は青ざめていた。
 だが、すでにアケミも外を見ていた。驚くべき景色を前にして、アケミも動けなくなってしまったのだ。目の前で起きている津波の様子は、想像をはるかに超えるものだった。別世界の惨状を、ガラス越しに見ているような錯覚に落ちた。しかし受け止めなければならなかった。海は町の奥まで押し寄せていた。自分の住んでいたのがどの辺りかすら、もう分からなかったが、甚大な被害を免れないことは明らかだった。
 気丈なアケミは、立ったまま分厚いガラスに片手をついた。それ以外に、自分の身体をどうやって支えたらいいのか、分からなかったのだ。

5 魔物

 既存工場の西門内に守衛室と広い駐車場がある。緊急時の避難集合場所としてそこの駐車場が指定されているので、既存工場の従業員はみな歩いてそこへ向かっていた。避難訓練は毎年あったが、本当の災害でそこへ集合するのは初めてのことだった。
 だが北区画の新工場にいた従業員は、避難集合場所へ向かわずいったん新工場外周路の南側に集まっていた。しばらくここで待機するよう口頭で指示が回ったのだ。まだ地震が収束したか分からない状況で、大勢が連なって降りていくと危険かもしれなかった。いざとなると統率がよく行き届く日本人の習性に、自分達ながら瀬川は感心した。さっきまで誰も歩いていなかった外周路には瀬川ら従業員や工場立ち上げのために入っている業者などが、散らばって立っていた。そこはガードレール越しに、高低差のある既存工場の通路を見下ろせる場所で、すぐ向こうの建屋の屋根は、目の高さより少し上にあった。
 瀬川がそこで青木の姿を探していたとき、新工場建屋から3人の外人が勢いよくとび出してきた。日本人よりも大ぶりなアクションのためか、ドアからポンと走り出て来る様子がマンガみたいだった。彼らは輸入設備の設置作業で滞在している欧州メーカの従業員だ。通路に出るなり、興奮して飛び跳ねながらはしゃいだ。
『すごかった』
 一番若いのが飛び上がって言った。たぶん20代くらいだろう。
『話に聞いてた、日本の地震てやつだな。こんなの初めて経験したよ』
 口髭を伸ばした年配の男性が息を荒げて笑みを浮かべながら言った。
『日本では地震が日常だって聞くけど、本当にエキサイティングだったね』
と言ったのは30代くらいだろうか。まるで遊園地の絶叫マシンに乗ったような話しぶりだ。
そこへ向こうから青木が近づいてきた。この3人は青木が担当する既存設備の業者だ。
『大丈夫でしたか』
 青木が英語で話しかけた。
『ああ、我々は問題ないです』
 年配の口髭が言った。
『すごいね、日本ではこういうのが、よくあるんですね?』
 30代が興奮気味に笑顔で言った。それに対して青木は、表情を変えずに
『いや、無い』
 とつれなく言い放った。そして
『今回のは一生に一度経験するかどうかの大地震です』
『本当に?』
 口髭が驚いて青木の顔を覗き込んだ。青木がどうやら冗談を言っていないと理解すると、3人は初めて周りを見回し、顔の表情を硬くした。そして自分たちの雰囲気が場違いだったことに急に気づいたのか、口を閉じて神妙になった。
 地震を知らないというのはこういう事かと、瀬川は面白く見ていた。その3人を馬鹿にしているのではない。逆に地震が少ない地域のことを自分は何も知らなかったと思うのだ。
 それに、青木の言葉で瀬川もようやく事の重大さを理解し始めていた。いまや尋常ではないことが起きているのだ。極限状態でまだ頭が麻痺しているが、冷静になれば当たり前だ。青木の言う通り、一生に一度あるかないかの大地震であろう。
 青木は瀬川がいるのに気づいて、寄ってきた。
「ついに来ましたね」
 大地震が、である。
「恐ろしかったよ。まだ興奮している」
 瀬川は正直に言った。
「大きかったですね。実はまだガードレールが揺れているんですよ」
 青木は既存工場側のガードレールに手と腰をもたれながら言った。そして
「地震のあとこうして寄り掛かっていたんですが、一度も途切れずに、ずーっと振動しています。瀬川さんも寄り掛かってみてくださいよ」
「ガードレールに?」
 半信半疑の瀬川は、青木の隣に並んで、ガードレールにもたれた。驚いたことに金属の板は、まるで脈動するように振動していた。足で地面の揺れを感じないときも、休みなく続いているのだ。青木は平然としていたが、瀬川は暗い地下にひそむ強大で恐ろしい魔物の鼓動が、この金属を通して伝わってくるような気がした。少し息が早くなった。
「振動しているでしょう?」
「ああ」
 瀬川はそれ以上の感想を言うのをためらわれた。
 そのとき、後ろから移動を指示する大きな声が聞こえてきた。
「駐車場側からいったん工場の外へ出て、西門から集合場所へ入ってくださーい」
 瀬川と青木が振り向くと、高低差のある既存工場から上に向かって、秋山課長が繰り返し叫びながら横に歩いていた。
 瀬川と青木はガードレールを離れて、周りの流れとともに移動を始めた。普段閉鎖されている柵の扉が開放され、そこから工場の外に出た。道の反対側にあった別の会社でも、ガラス張りの外壁がほとんど割れ落ちているのが見えた。公道を通ってぞろぞろ歩いていくと、途中の路面は波打ち、縁石の一部は崩れていた。それでも坂が緩やかで近くに建物や塀がないため、工場内を通って移動するよりも安全な経路と思われた。
 避難集合場所に着くと、部署ごとに安否確認を行っていた。すでに既存工場の人の点呼が終わっていたためか、避難訓練のような整列は解かれて部署ごとに雑然と集まっていた。瀬川と青木も生産技術部のいるところへ行って、名前をチェックしてもらった。
 飯山もそこで合流した。
「建屋がせり上がったみたいなんです。10数センチくらいかな」
 飯山が言うように、各建屋の入り口付近が浮き上がって、高くなっていた。飯山は10数センチと言ったが、瀬川には20センチ以上に見えた。青木が冷静に、
「建物が上がったのか、それとも地面が下がったのか分からないな」
 確かに、どちらとも判断しかねた。
「新工場はこんな風ではなかったと思う。地盤に違いがないとしたら、何か建築の構造上の違いかも知れないな」
 瀬川も考察を加えた。何を話し合ったところで今は推測の域を出ないのだが、そんなことでもしていないと気持ちも間も持たなかった。安全が確認され指示が出るまでは、全員この場所に待機しているしかないのだ。
 ――ごう、と地面が揺れた。
 建物に近い人たちが急いで離れた。瀬川たちも身構えた。地震はそこまで大きくなかった。そんなことが何度か繰り返し続いた。地震はある程度大きかったり、小さかったりした。
 しばらくして、周囲がざわつき始めた。気が付くと、いたる所で携帯やスマホの周りに人の輪ができ、画面に見入っていた。どうやらテレビニュースを見ているようだった。当時はワンセグのテレビを見られる携帯が多かったのだ。
「おれはピッチしか持ってきてない」
 瀬川は工場内だけで通信できる内線PHSしか持ち歩いてなかった。自分のスマホと2つ持つのが面倒だったのだ。
「おれが持ってる」
 と言ってスマホを取り出したのは青木だった。テレビを立ち上げると、どのチャンネルも津波到達のニュースだった。
「うそだろう」
 瀬川は目を疑ってしまった。画面に映し出される東北各地の映像は、今までに見たことのない有様だった。打ち上げられる船、流される車、水に沈む住宅、どこまでが陸だったのかさっぱり分からなかった。そうした漁港や海岸の映像が何箇所か順番に映されていった。あまりに変わり果てた光景に、もし知っている場所が出ても、テロップに書かれる地名を読まなかったら分からないだろう。
「小名浜だ」
 飯山が大きな声を上げた。見ると確かに小名浜と書いてあった。いわき市内で最も大きな港のある小名浜がテレビニュースに映し出されたのだ。どこかに定点カメラがあるものらしい。惨状は他と同様だったが、知っている場所だけに驚きが大きく、同時になぜか現実ではないような錯覚がした。
「変なところに船が乗っかってるぞ」
 青木が画面を見詰めたまま言った。しばらくすると、ライブ映像は他の海岸に切り替わった。
 瀬川が周囲に目をやると、ほとんどの人が誰かの携帯画面に見入っていた。守衛室の中では、社長や工場長ら対策本部の人たちが、大きなテレビ画面の前に詰め寄って、前かがみでニュース映像に食い入っていた。
 しかし、悲惨な光景はさらに続いた。こんどは引き波で流される家屋、車、何かの残骸、そしてぶつかり合い、破壊の限りを尽くして海へ押し出された。
 ――ユージさんとアケミさんは無事だろうか。瀬川の頭に豊間の海岸とゲストハウスの様子が思い浮かんだ。この映像を見て、あそこが大丈夫だったとは到底考えられなかった。
 社長や工場長たちが守衛所から出てくると、新しい動きがあった。「海の近くの人は今すぐ帰りなさい。ただし、津波に近づかないこと。家が被害地域にあるようなら、家族と連絡を取り合って安全な場所で落ち合うように。――海が近い人は、早く帰りなさい。・・・」
 動く者、残る者が分かれた。
 中には、
「うちは海から少し離れているが、津波が来ているかどうか分からない」
 とう言う者もいた。秋山課長が
「心配なら今すぐ帰りなさい。いいから行きなさい」
 と促した。誰もそういう人を止めようとは思わなかった。帰る者は、更衣室や荷物を置いた建物にいったん入らなければならなかった。ときどき地面や建物が揺れて、どよめいた。
 瀬川や青木は家族用の社宅アパート、飯山も同じ好間にある独身用の借り上げマンションなので、海からは遠い場所だった。3人はその場で動かずに、帰る人たちを見守っていた。
 青木がスマホで電話していた。家族と繋がったらしい。瀬川も連絡したかったが、自分のは事務所の荷物の中だ。
「テツさん」
 瀬川が振り向くと、着替え終わって荷物を持ったカオリが立っていた。顔が少し青かった。
「小名浜なので、帰ります。うちにメールしたら、海から少し離れてるので、家は今のところ大丈夫みたいですけど、家族とは念のため避難所で落ち合うことにしています」
 瀬川は頷いて、
「早く行った方がいい」
 と言った。カオリは続けて
「アケミさんもユージさんも連絡がとれないんです。あの津波で、もしかしたらジュリちゃんも・・・私、心配で・・・」
「おれも心配だ。後で連絡とってみる」
「もし連絡ついたら教えてくださいね」
 カオリは急いで歩き出した。
 そこへ飯山が駆け寄って、カオリが足を止めた。瀬川は(おや?)と思ったが、2人が険悪な雰囲気もなく普通に話をしているようなので、そのまま見ていた。短い言葉を交わすと、カオリがまた歩き出した。
 帰宅組がいなくなると、急に寒くなってきた。冷たい風は絶えず吹いていたのに、緊張のためか寒さを忘れていたようだ。それがここにきて急に身にこたえてきた。夕方に向かって気温が下り始めたのもある。瀬川は作業着の下に少し着込んではいたが、上に着る防寒着を持ってきていなかった。青木と飯山も同様だった。
 そこへ秋山課長が、対策本部の指示を伝えに来た。
「今から全員帰宅するように。次の月曜の朝8時に、もう一度ここに集合だ」
 それを聞いてみんな動き始めた。瀬川も事務所の荷物を取りに行こうとしたが、秋山課長に呼び止められた。
「瀬川と青木はちょっと待ってくれ。工場内の設備の電源を落として回るのを、一緒に手伝ってほしいんだ」
 そう言って、いったん2人を残し、対策本部の方へ行った。
「それじゃあ私は、お先に失礼します」
 飯山は2人の先輩に軽く一礼してその場を離れた。
 青木と2人だけ、そこに取り残された感じだった。他に誰もいなくなった。建屋に入った人たちがもう一度出て来て、2人の前をぞろぞろ帰っていくのを、腕をさすりながら見ていた。
「おお寒いな」
「うん寒い」
 どちらからともなく、そんな会話をしていると、曇り空から何か白い物が舞ってくるのを瀬川は見た。
「おいまさか」
「雪ですね」
 2人の周りを雪がはらはらと舞い始めた。
「積もる雪じゃなさそうだな」
「寒いから屋根の下に入りましょうか」
 守衛所の横にある、社有車用のガレージに2人は入った。そこでも寒いのだが、直接風が当たらないだけだいぶ良かった。
 ――ごう、と地面や建物が揺れた。
 2人は慌ててガレージから出て離れたが、大きな揺れにはならなかった。また屋根の下に入ろうとすると、そこへ秋山課長が戻ってきた。
「すまん、すまん、もう他のところが電源落としに行ってくれたから、今日はもう帰ってくれていい」
 秋山課長は言って
「月曜日からは、設備の被害状況を調べて、片付と機械の立上げ直しだ」
「メイヤーも出資者も延期ですね」
 瀬川が言うと、秋山課長も頷きながら
「工場長や社長もそれを言っていた。もちろんこの状況だ。当然すぐには無理だろう」
 瀬川は青木と一緒に事務所へ向かった。地震でできた入口の段差を上がって建屋に入ると、先に帰り支度をした人たちとすれ違った。中はひどい状態だった。天井は一部落ち、ファイルは棚から床に投げ出されていた。試作部品が散乱し、机の位置もガタガタに移動していた。ただ不思議なことに、ノートパソコンはみんな机の上にあった。
「パソコンの下に付いてる小さい滑り止めのゴムが効いたのかもしれませんね」
 青木がそんなことを言った。瀬川が自分のスマホを出して確かめると、横浜の母親からの着信が8回、美和からのメールが1件、その他友人からもメール受信があった。ユージさんとアケミさんからは無かった。
 そのとき、ごう、と床や建物が揺れた。2人は荷物を持って更衣室へ急いだ。
 更衣室で素早く作業服を脱いでいると、スマホが鳴る音がした。荷物から出すと、母親からの着信だ。瀬川は一瞬迷った。何度も着信があったので、今すぐ電話に出て安心させるか、先に着替えて建屋の外から掛けなおすか。結局、通話ボタンを押した。手短に安心させてすぐ切ればいい。
「やっと繋がった」
 と母の大きな声が聞こえてきた。
「仕事で出れなかったから」
「無事なのね? よかったー。怪我はないのね?」
「何ともないよ」
「美和さんや、子供たちは?」
 ゆっくりとした口調だ。切り上げなければ長くなるだろうと思い、
「まだ会社だよ。今更衣室で着替えているから、建物から早く出ないと危ないので切るよ」
「まあ、そうなの? とにかく無事で良かった。帰ったら連絡ちょうだい」
 電話を切った。そこへ着替え終わった青木が通りかかり、ちょっと立ち止まって「お先に」と言うと、また足早に出て行った。
 瀬川が着替え終わって外に出ると、雪はもう降っていなかった。建屋から離れると、もう一度スマホを出してこんどは美和のメールを開いた。「地震大丈夫だった? こっちはみんな無事です」とあり、とりあえずほっとして、「こっちも大丈夫。今から帰ります」と急いで返信した。駐車場に急ぐ途中、メール着信があった。「よかった。なかなか返事がなかったので、心配しました。待ってます」
 ほとんどの車が帰ったため、広い駐車場に取り残されたように自分のミニバンが置かれていた。瀬川はエンジンを掛けるとすぐに車を出した。
 会社のある丘陵から下りる道は、東西南北に1本ずつある。瀬川は普段使う南側の道を下ろうとしたが、上の口まで渋滞で詰まっていた。いまは周辺の全ての会社が一斉に帰宅を開始しているようだった。帰りを出遅れた瀬川はこの経路をあきらめて、工場の外周を回って南東側に下る農道へ曲がった。ここは主要な4本道とは別で、最近知ったばかりの細い道だったが、どうやらあまり知られていないらしく、前に車が1台いただけでガラガラだった。
 この農道を抜けて下の道に出ると、そこから渋滞に突入した。それでも全体の7割ぐらいの距離は稼いだだろう。あとは渋滞にまかせて少しずつ進むしかない。
 渋滞で止まってから気づいたのだが、車体がときどき地震で揺れていた。サスペンションのせいか、ふんわりと変な揺れ方をした。車に乗っているとこんな揺れ方をするものかと、少し変な感じだった。
 市内いたる所が渋滞をしているようだった。少し進んでは止まり、しばらくしてまた少し進んだ。ところどころアスファルトが波打ったり、亀裂が入ったりしていた。民家の一部は壁が崩れたり、屋根瓦が落ちたりし、中にはほぼ全壊している古い家もあった。
 途中、マンホールが路面から10センチ以上とび出しているところが幾つかあり、運転の邪魔になった。後で知ったのだが、とび出したというより地面の方が沈下したらしく、これはいたる所で見られた。
 車の混雑はずっと続き、結局瀬川の住宅のそばの道まで詰まっていた。やっと社宅に着くと、建物の外観はどうやら無事のようだった。ただ近くの電柱が10度以上も傾いたまま、静止していた。社宅の住人はほとんどが家に入らず外にいた。
 美和も、軽自動車の横に立っていた。
「おかえりなさい」
 瀬川を見るとほっとした様子で、笑顔がこぼれた。軽自動車の中では広美がベビーシートの一毅を覗いたり、ひとりで遊んだりしていた。
「そこらじゅう渋滞だったけど、なんとか明るいうちに帰れたよ」瀬川は言って、「無事でよかった。こんなことが、本当に起きるとはな」
「とても怖かったわ。家に入らずに、地震が収まるまで様子を見てたの。一度だけ飲み物をとりに中へ入ったけど」
 そのとき足元がまた揺れた。小さかった。
「まだ大きい余震があるかも知れないでしょう」美和が心配を口にした。「布団を持ってきて、車で寝た方がいいのかしら」
 しかし周りを見ると、徐々に屋内へ入り始める家族もいるようだった。
 車の中の広美が瀬川の顔を見つけて「パパー」とこれ以上もない笑顔で窓に寄ってきた。瀬川も思わす笑顔にならざるを得なかった。
「この寒さだから、もう少し様子を見て、中に入ろうか」
 瀬川は言ってから、
「ミニバンのガソリンがほとんど無いから心配だ。急いで入れて来るよ」
 美和は頷いて、
「水が出るうちに、お風呂に水を溜めてくるわ。他のうちも、やっているみたいだから」
「わかった、たのむ」
 瀬川はミニバンに乗ってまたエンジンを掛けた。

6 不安

(SNS投稿)
【アケミ】3月11日 18時
大地震と津波を初めて経験しました。一緒にいた友人のお陰で高台の「イワキパシフィックホテル」に避難でき、私も娘のジュリも無事です。
ダンナは仕入れのために出掛けていたので豊間には戻れず、市内の別の避難所にいます。今日は別々に一夜を明かし、明日合流することにしました。
大変なことが起きてしまいましたが、みなさんもどうかご無事でいてください。
――いいね101
【カオリ】3月11日 19時
よかった! みんな無事なのね。連絡つかなかったので、本当に本当に心配でした。
岬のホテルにいるの? 家はどんな状況ですか???
今のところウチのとこまで津波は来てないみたいだけども、警報が解除されるまでは家族全員避難所にいます。とても不安です。
【アケミ】3月11日 20時
連絡できなくてごめんなさい。スマホの充電が少なかったので、ユージとの連絡以外電源切ってたの。さっきホテルのコンセント借りたので、もう大丈夫です。
町に戻れないので家の様子は分からないけれど、間違いなく津波被害の中にあるはずです。これからどうなるのか全然わからない・・・
【ダニエル】3月11日 20時
(日本語) こんなことになって、本当に驚いています。僕にできることがあまり無いかも知れないけど、手伝えることあったら言ってください。
【アケミ】3月11日 20時
ダニエルありがとう。今は私もどうしていいか分からない・・・ まだ余震があるから、ダニーも気を付けてね。
【テツ】3月11日 20時
恐ろしい地震と津波でした。うちはみんな無事だったけど、職場や家の中はもう混沌状態です。そうは言っても、ユージさんとアケミさんの状況は比較にならないですね。これからの事を考えたら不安でいっぱいだと思いますが、今日のところはどうか、ゆっくり休んでください。私も助けが必要な時はきっと駆けつけます。
【アケミ】3月11日 21時
テツさん、ありがとう。ここは同じ境遇の人で溢れています。とても恐ろしいです。不安でいっぱいです。
そうですね、今日は何も考えず、眠ることにします。眠れるかどうか、分からないけど、目を閉じて、明日からに備えます。今できることは、本当に何もないから。


【カオリ】3月11日 19時
今日の地震は本当に怖かったけど、なんとか無事です。津波警報が出されているので、家族と避難所で過ごしています.
今のところウチの所まで津波は来ていないらしいですが、大きな被害を受けた友達もいるので、自分は良かったと思わなければいけないと思っています。
とても恐ろしいことが起きてしまいましたが、みなさんもどうか身を守ってください。
津波の被害を受けた方々の無事を、心から祈ってます。
――いいね64
【ダニエル】3月11日 20時
(日本語) 不安の中、お互い無事で良かった。神に感謝します。
【テツ】3月11日 20時
うちは家の中がめちゃくちゃだけれど、家族はみな無事でした。
津波はまだまだ心配ですね。避難所はきっと大変だと思いますが、どうか頑張ってください。今夜は余震にも注意が必要です。お互い身を守りましょう。
【飯山】3月11日 21時
その後具合は大丈夫ですか。僕もあの地震には本当に驚きました。
避難所がどんな感じなのか分かりませんが、少しの辛抱と思ってどうか頑張ってください。


電子メール
差出人:浜村 3月11日 20時
 今日会社で会えなかったが、そっちは大丈夫だったか? 私の方は商品化会議の最中にあの地震に見舞われて、大変だった。震度6から7以上あったらしいぞ。
 俺の家がある中央台は高台だし津波は来ないから安心だが、各地でものすごいことになっているな。瀬川が言った通り大地震が来たわけだが、ここまでの規模とは考えも及ばなかった。
 今夜は余震で眠れるか分からない。お互い家族とともに身の安全を守ろう。
――(返信) 3月11日 21時
 こっちは新工場で設備立ち上げ作業の最中だったが、あの長い揺れは本当に激しかった。設備にアンカー打ってなかったら、機械に押しつぶされていたかも知れない。今考えても恐ろしくて震えてくる。
 自宅は好間なので、幸いこっちにも津波は来ない。建物は無事だが、中はめちゃくちゃだ。何をどうしたらいいのか、気持ちの整理が全くつかない。いったい我々は、これを乗り越えられるんだろうか。
 今はとにかくみんなの無事を祈るばかりだ。実際に津波被害に合って避難した友人もいる。SNSで無事を知らせてくれる友人はいるが、それ以外の人は様子が分からない。
 あと、おれはこの大地震を予見したわけではない。どこで起きてもおかしくないと言っただけのことだ。まさか本当にこんな事が起きるなんて、夢にも思っていなかった。テレビ全局で番組を取りやめて津波のニュース速報をやってるが、被害の全貌が全然見えてこないよな。とにかく未曽有の大災害となったことだけは確かだろう。
 浜村の言う通り、今は家族とともに身を守るしかないようだ。


 浜村にメールを送信すると、こんどは瀬川自身の無事をSNSに書き込んだ。


【テツ】3月11日 21時
職場で地震に見舞われましたが、私と家族は無事です。今は身を守るため、自宅で一番安全と思われる部屋にいます。地震被害の全貌がまだ分かりませんが、みなさんもどうかご無事でいてください。


 書き終わってノートパソコンを閉じると、瀬川はため息をついた。
 SNSが日本で普及し始めたのは、この1年くらいであろう。瀬川はアケミや外国人たちの影響で早々に使い始めたが、スマホはまだ少なく、カオリも含めて多くはパソコンを使って書き込んでいた。アケミはパソコンもあるが、主にスマホから投稿をしているようだった。瀬川は最近スマホに変えたが、まだ使いこなしていなくて、パソコンからの投稿が主体だった。
 一方、浜村はSNSを横目で見て、まだやる気はなかった。飯山がカオリに返信して来たのは意外だったが、SNS上で瀬川が両方と友達だったので、飯山がカオリを見つけるのは容易だっただろう。
 瀬川が住む家族用の社宅はメゾネットタイプで、1階にリビングやキッチン、風呂場などがあり、寝起きは2階の部屋でしていた。瀬川と美和は、強い余震でまだ建物が潰れる可能性も考えて、2階の寝室に避難用品や必需品、パソコンなどを持ち込んで過ごすことにした。少し小さめの液晶テレビがそこの部屋にあるので、速報や警報などの情報もそこで得られた。
 子供たちはもう寝息をたてていた。
 テレビはどのチャンネルでも、各地の本震から現在の状況、津波の到達時刻、ヘリコプターからの中継など、悲惨な惨状を繰り返し伝え、現実とは思えないような映像に溢れていた。とくに酷いのは津波だった。住宅だった場所がなお海水で満ちているので、上空からの映像を見ても、どこまでが陸だったのかよく分からなかった。
 テレビ画面の隅で常にうっとうしいほど際立っていたのは、日本地図の周りを囲んで明滅する赤と黄色のラインだ。海岸の津波警報を示すこのチカチカする絵は、チャンネルを変えても画面の四隅のどこかにあった。
 瀬川は疲労を感じた。
「もう寝よう」
 瀬川は言うと、テレビを消した。夜になって新しい情報はあまり入って来なかった。明日の朝には、だんだん詳しい状況が分かってくるだろう。美和が消灯した。子供たちの寝顔が薄明りの中に見えた。
 布団の中で横になると、また背中に振動を感じた。
「揺れてるね」
 と美和に一度言ったが、怖くなってそれ以上はどちらも口に出さなくなった。口に出したところで、どうしようもないのだ。ユージさんやアケミさん、カオリさんらはどうしているだろうかと思った。避難所がどんな環境か、瀬川には想像できなかったが、きっと心細い思いで同じ振動を背中に感じているに違いなかった。そんなことを考えながら、眠った。
夜中に何度か目を覚ました。ごう――というあの低い地鳴りで目を開けると、余震で揺れていた。美和も目を覚ましていたようだが、何も言わなかった。また眠った。
 心の暗闇が忍び寄った。重い疲労がのしかかり、全身が布団に押し付けられ、のめり込み、深い地の底へ沈んだ。息苦しさに身悶えたが、金縛りで動くことができなかった。
 姿かたちは見えないが、低いうなり声を絞り出しながら、闇の中を魔物がゆっくりと近づいて来るのが分かった。確かに魔物だ。あの脈動するようなガードレールの震えを今も感じた。嫌悪と恐怖が入り混じったムカつきが胸の底で塊となって、重い鉄のように深くみぞおちを押さえつけた。不気味な唸り声がそばまでやって来ると、戦慄が走り、瀬川は激しくもがいた。
 そいつが耳元で何かをささやいた。瀬川は闇をかきむしったが、低いうめき声は耳元から離れなかった。大声をあげようと口を開けても、喉が思うように動かなかった。そいつのささやき声はさらに大きくなり、瀬川は全身がガタガタと震えた。頭の中にささやき声が入って来た。恐怖のあまり、力を込めてやっと大声をあげると、急に解放され、目を覚ました。息が激しく、頭がくらくらした。
 背中が地震で揺れていた。恐怖が胸に冷たく残った。何をささやかれていたのか、全く思い出せなかった。
 何度目かに目を覚ましたとき、明け方が近かった。揺れが収まるのを待って寝ようとしたが、背中に残る小さな振動が気になって眠れなくなった。それにまた魔物の夢を見そうだった。あのガードレールの脈動は、今もまるで、この地下で虎視眈々と、次の機会を狙っているような気がした。まだ終わっていない、何か恐ろしい事が起こるような、不安な思いが心に充満していった。瀬川はそのまま眠れずに朝を迎えた。


 7時半ごろ、子供たちはまだ寝息を立てていた。朝食の前にテレビをつけると、どのチャンネルも日本地図をチカチカさせながら、災害の報道を続けていた。昨日の出来事が夢でなかったことを、改めて突きつけられる思いだった。津波警報は解除されていなかった。
 少しずつ、新しい情報が出始めていた。死者と行方不明者が1000人を超えたことが、アナウンサーの声とテロップで報じられた。この数字は時間とともにもっと増えていくに違いなかった。上空から見下ろす津波地域のライブ映像は、朝になっても海水が満ちたままだった。学校などの高い建物の上で救助を待つ人たちが見えた。しかしその周りは建物が全て流されていて、平らかな海水が冷たく広がっていた。海岸線の地図を描き直さなければならないかも知れないと言うニュース・コメンテーターもいた。たしかに、これが地盤沈下で水が引かないのだとしたら、日本地図を大きく直さなければならないだろう。しかし今の時点ではよく分からなかった。
 そのあと、瀬川を凍えさせる短いニュースが流れた。福島第一原発において、1号機の中央制御室の放射線値が上昇しており、避難指示の範囲が半径3キロから10キロに拡大し、また福島第二原発も半径3キロ圏内に避難指示が出されているというのだった。事務的な原稿をアナウンサーが読み上げただけで詳しい説明は無く、すぐに津波被害のニュースに戻った。
 10キロへ拡大する前に、福島第一原発の半径3キロ圏内に避難指示が出ていたことを瀬川は知らなかった。しかし拡大したということは、何か事態が悪い方へ確実に進行しているように思えた。
 朝食を作りに1階に行っていた美和が階段を上がってくると、瀬川は今のニュースを伝えた。
「地図を見ると、ここは福島第一原発から40キロ余り、第二原発からは30キロくらいだな」
「大丈夫かしら」
 美和も不安な顔をした。簡単な朝食を2階でとりながら、テレビに映る津波の報道番組を見ていたが、福島原発のその後の情報は流れなかった。
 8時半を過ぎたころ、瀬川がチャンネルを変えていると、また福島第一原発のニュースが目に入ってきた。今度はさっきよりも少しだけ詳しかった。昨日の津波で福島第一原発の電源がダウンし設備にも被害があり、1号機格納容器内の圧力が上昇したため東京電力と政府が対応に当たっているが、念のため半径10キロ圏内の避難指示が出されている、というものだった。テレビ画面は福島県浜通りの地図を映し出し、2つの原子力発電所を中心に半径10キロと3キロの円を描いて、避難指示の範囲を示していた。
 ニュースの緊迫感はまだそれほど大きくなかったが、瀬川は膨らんでいく不安を抑えられなかった。地震と津波の被害を受けて危険な状態にある原発の設備が、電源も回復しない状況で、安全を維持できるものだろうか。
「念のため、」
 瀬川は口を開いた。さっきから考え始めていたことを、美和に提案した。
「横浜の実家に行こうか。常磐道が地震で閉鎖されているけど、下の道を使えば数時間で行けると思う。どんなに時間がかかっても、今から行けば夕方か夜には着くはずだ」
「今から行くの?」
「幸い今日は土曜日だから、明日の日曜に俺だけ帰ってくれば、月曜の会社に間に合う」
「私と子供だけ残るのね」
「念のためだ。子供が心配だしね」
「すぐ準備するわ。ご飯の残りでおにぎり握っておくわね」
 2人は忙しく動き始めた。

7 脱出

「横浜のばあちゃんとこ行く!」広美は大喜びではしゃいでいた。美和は自分や子供の衣類、当分の生活に必要なものを大きな旅行バッグに詰め込み、一毅のベビーカーと一緒にミニバンの後ろに積み込んだ。瀬川も念のため何日かの着替えや貴重品、ノートパソコンなどを持って車に積んだ。美和の軽自動車に取り付けてあったチャイルドシートは、ミニバンに付けかえた。
 後部座席のシートは、子供の世話をしやすいように美和がアレンジした。2列目のシートの真ん中から右を後ろに倒して、3列目と平らに繋がるようにした。2列目の左座席に広美のチャイルドシート、3列目の左には一毅のベビーシートを固定して、美和は3列目の右に座りながら平らになった2列目に足を伸ばし、2人の子供を見るようにした。
 それから瀬川は東北と関東の大きい地図帳を持ち出して、車の中に置いた。海沿いの国道6号線は津波で通行不能だし、内陸の一般道も地震でどうなっているのか判らないので、カーナビの案内だけでは対応ができないかも知れないと思ったのだ。
 そこへこんどは美和が綺麗なドレスの箱を持ってきて車の荷物に入れた。
「それは?」
「来週名古屋で私の友達の結婚式があるでしょう」
 確かにそういう予定だった。
「横浜にもし1週間以上避難することになったら、そこから名古屋に行くことになるかも知れないから」
 瀬川は閉口したが、言われてみれば、そういうことになるかも知れないと思った。


 準備を終えて出発したとき、時計は10時を回っていた。横浜の両親には夕方か夜には着くと連絡した。
 最初は国道6号の旧道を曲がって湯本方面へ向かった。驚いたことに信号機が消えており、どの交差点も機能していなかった。横から急に出て来る車がいたりして、さほど混雑はしていないのに、これではスピードがあまり出せない。交差点のたびに注意しながら通過するしかなかった。
 やがて常磐線内郷駅の前を通過した。古い民家がひどく傾いていたり、倒壊しているものもあった。ガソリンスタンドはひどい混雑ぶりで、外まで車の行列ができていた。目に入る風景や空気感が、普通ではなかった。晴れた空からは明るい陽が注いでいるが、冷たく乾いた風が車の外を流れていた。
 このまま6号線を走り続けると海の方へ向かってしまうので、湯本を過ぎたあたりで右に折れて、県道56号線に入った。この辺りはだいたい地図を見て予定していた通りだ。片側一車線の狭い道だが、ここもさほど混雑はしていなかった。ただ相変わらず信号機が止まっており、とこどころマンホールが突き出たり、路面が波打っていた。進んではスピードを緩め、また進んだ。あまり急げなかった。
 寂しい田舎道になったと思うと、民家が多い地域を通過したり、また山道になったりした。途中で一度、瀬川はブレーキを踏んで止まった。民家の多い地域にはいったところで、目の前の左車線が崩落して無くなっていたのだ。他に車はいないが、崩落個所は車道から見えづらく、直前に来るまで分からなかった。崩れ残ったアスファルトの端がギザギザと斜面に突き出し、宙に浮いていた。そこはパイロンの一つも置かれず、崩れたままの状態をむき出しで放置されていた。気を抜いていたら落ちていたかもしれない。
 こういう場所が他にもあるかも知れないと考えると、この先の道中が思いやられた。
 瀬川はハンドルを右に切り、反対車線を慎重に通ってそこを抜けた。


 植田の辺りで県道10号線に入り、さらに内陸を進んだ。道の様子は56号線とあまり変わらず、車のスピードはいっこうに上がらない。カーナビで見ると海沿いの国道6号線には、赤い○枠内に×印が入った通行止めマークがびっしりと並んでいた。
途中、渋滞に差しかかって止まった。
「また崩落個所かな」
 瀬川はぽつりと言った。片側一車線だと交互通行にならざるを得ないし、交通整理をする人もいない。車の量が少し増えれば渋滞するに違いなかった。
 うしろで泣き始めた一毅を美和が抱き上げ、授乳をしながら広美と静かに話をしていた。
 瀬川はカーナビの地上波テレビを付けた。カー用品店で購入した後付けカーオーディオなので、運転中でも見られるのだ。どのチャンネルもまだ、日本地図をチカチカさせながら災害報道を続けていた。新しい情報が入るかも知れないので、瀬川はそのままニュース番組を付けておくことにした。
 車が揺れた。渋滞で止まると、どうしても地震の小さな揺れが感じられた。
 道の反対側を、渋滞の前方から50過ぎの男が農具をかかえて歩いてきた。すると一台前の運転席の窓が開き、これも同年代の坊主頭の男が顔を出すと、歩いてきた男に「おい」と声を掛けた。農具の男は足を止めて、反対車線を挟んで坊主頭と親しげに話しを始めた。瀬川は窓を閉めていたので聞き取れないし、また気に留めてもいなかったのだが、坊主頭が
「え、そうなのか?」
 と大きな声で聞き返すのが耳に入った。目を向けると、農具をかかえた男が渋滞の先を指さして何かを説明していたようだ。瀬川は少し窓を開けたが、もうその話は終わったらしく、農具の男はまた歩き始めた。よほど窓を大きく開けて、その男に渋滞の原因を聞こうか考えたが、さすがに見知らぬ人だからと思いとどまった。それに、聞いたところで渋滞がどうにかなるわけでもなかった。ここは一本道だ。
 やがて車の列が進み、カーブの先が見えたところで渋滞の原因は判明した。ガソリンスタンドに入るための行列だったのだ。瀬川は拍子抜けするとともに、腹立たしくなった。自分とは何ら関係のない行列に巻き込まれていたのだ。スタンドの入り口の数台ほど手前から、直進したい車が反対車線に出て走って行った。さっきの坊主頭の車も反対車線に出たので、瀬川もそれに続いてハンドルを右に切り、スタンド渋滞をやり過ごした。
 やれやれと思い、ようやく県境を越えて茨城県に入ったとき、すでに正午を回っていた。相変わらず路面の状態に細心の注意を払い、交差点ではスピードを落とさねばならない。こんなにも気を張る運転はなかった。この調子では夜遅くなってしまう
 県道は山の中を走り、前後に車はいなくなった。場所によって中央の車線のない狭いところもある。しばらく走ると山を抜け、農地が広がる中を通り、また小さな町に入った。瀬川の車は、そこでまた渋滞に出会った。今度はすぐに分かった。またガソリンスタンドだ。ナビで近隣の地図を探したが、どうやらまた一本道で、抜け道はなさそうだ。また時間をかけて渋滞をやり過ごした。なんとかスタンドの前を通り過ぎようとしたとき、美和が後ろから声を掛けてきた。
「うちの車はガソリン大丈夫?」
 瀬川はすぐに頷いた。
「昨日の夕方、満タンにしてきたから、メーターは充分にある」
 言いながら、はっと気づいた。今はあらゆる物資が不足していき、ガソリンも例外ではない。昨夜はまだスタンドがガラガラだったが、今日になって、みんなわれ先にと並んでいるのだ。
「そうか、昨日給油していなかったら、横浜まで行けなかったかも知れないな」
 瀬川は遠ざかっていくガソリンスタンドの色鮮やかな看板をドアミラー越しに見ながら言った。


 県道10号線は常磐道より西の内陸側を走ってきたが、高萩インターを過ぎた辺りで常磐道の下をくぐって、また東側に出た。このまま進むと山と海の間が狭まって行き、日立の辺りで海と国道6号線のすぐ近くにまで迫ってしまう。ナビの通行止め情報は国道6号線にしか表示されていないが、その他の県道が日立付近で通行できる状況にあるのかどうか、全く想像つかなかった。
 瀬川が道の端に車を停めて地図を見ていると、「おにぎり食べる?」と言って美和がラップに包んだ2つのおにぎりを助手席のところに置いてくれた。そう言えばお昼の時間をとっくに過ぎていたのだ。美和は別の小さいおにぎりを広美の小さな手に持たせた。広美は笑顔でそれを頬張り、美和も自分のおにぎりを一緒に食べた。
 助手席のおにぎり1つ取って、瀬川も食べた。塩昆布が入っていた。
「急いでにぎったから、おいしくないでしょう」
「いや、うまい」
 沁みるように美味しく、そして張りつめた緊張を少しほぐしてくれた。それからペットボトルのお茶を、家族で一緒に飲んだ。
 ひとつ食べ終わって、もう1つのおにぎりを手に取りながら、瀬川はまた地図に目を落とした。
「やはりここからもっと内陸に向かおう。この先の国道461号を右折して西に向かえば、山を越えた先で南北に走る349号にぶつかるはずだ」
 梅の入ったおにぎりを食べ終わると、時間を惜しんですぐに出発した。
 道はほどなくして国道461号に突き当たった。そこを右折して常磐道の下を通ると、国道はそのまま山の中へと入って行った。途中、ダム湖を左に見ながら進み、花貫渓谷を抜けた。瀬川は初めて来たが、本当なら観光で訪れる風光明美な場所だ。しかし今の瀬川にそんな余裕はなく、山中を曲がりくねる、ただの走りにくい避難路にしか見えなかった。
 そんな道を長いこと走っていたが、やがて少し低いところに降りて左右に田畑が見えるようになると、民家を何軒か過ぎて国道349号にぶつかった。この交差点も信号機の明かりが消えていた。左の角にコンビニの広い駐車場があったので、瀬川は車をそこに入れて休憩を取ることにした。もう15時前だった。
 美和が一毅を抱き、瀬川が広美の手をつないで車の外に出た。コンビニに入ると停電のために薄暗く、他に客はいなかった。陳列棚にあるべき商品は、全て足もとの床に並べられていた。異様な光景だ。商品で狭くなった通路を歩きながら、何が残っているのかを見て回った。生活用品はだいたいあるようだが、冷蔵冷凍の商品は停電のためか、どこかに撤去してあるようだった。おにぎりや弁当類は床の箱やトレイに入れられていたが、残りわずかだ。ミネラルウォーターは売り切れていた。長旅に備えて、サンドイッチとおにぎりを幾つかと、最後に残っていたペットボトルのお茶を2本カゴに入れた。レジへ持って行くと、店のおばさんが電卓をたたいて、開け放したレジからおつりを摘まんで出し、暗い中で商品をビニール袋に入れてくれた。コンビニから外に出ると、眩しかった。
 まだ実家までの距離の4分の1くらいしか来ていないだろう。このペースだと着くのは深夜か明け方になってしまう。あまりゆっくりしていられなかった。車に乗ると、エンジンを回して国道349号を南に出発した。この国道も県道と変わらず片側1車線の細い道だった。
 カーテレビは広範囲にわたる地震と津波の被害を伝え続け、被害者の数も増えていった。福島第一原発について、1号機の周辺でセシウムが検出され、炉心にある核燃料の一部が溶け出た可能性が報じられていた。専門家をニューススタジオに招き、ベントするとかしないとかの話をしていて、運転しながら聞いていた瀬川には内容がよく分からなかったが、とにかく原発の影響はまだ周辺地域に広がっていない事のようだった。
 国道がやがて山間部に入ると、地上波テレビはどのチャンネルも受信圏外になり、ラジオも入らなくなった。車の中は少し静かになった。後ろでは広美と一毅が眠っていた。
 美和が運転席に身を近づけて、
「アケミさんが、ユージさんと合流したって」
 と携帯を見ながら言った。メールを見ているようだ。
「カオリさんとアケミさんに、私と子供が東京の実家に避難するってメールしといたわ。アケミさんも少し不安になったみたいだけど、しばらくいわき市内のユージさんの実家で様子を見るそうよ」
「家族が無事会えてよかった。いわきに戻ったら、様子を見に会いにいくよ」
「カオリさんからも来てる。ウチはお婆ちゃんがいるからすぐに動けないけど、ミワさんは子供が心配だし、気を付けて避難をしてねって」
 美和は少し申し訳なさそうな感じで言った。ちょっと沈黙があってから、美和がまた口を開いた。
「ねえ、」
 少し間があった。
「そろそろ引き返さない?」
「・・・」
「原発は何ともなさそうだし、このまま横浜まで行っても、あなた明日中にいわきに帰れないでしょう?」
 瀬川は黙った。このペースで横浜の実家にたどり着いたとしても、そのまま休まずに引き返して、さらに昼夜休まず走りでもしない限り、日曜日のうちに戻れないのは明らかだ。確かに、いくらなんでもそれは無理だろう。
「今から戻れば、今夜日付が変わるまでに帰れるわ」
 美和の言う通りだった。6時間ほど前に出発した時は、早ければ今ぐらいの時間に実家へ付いているだろうと楽観していたが、実際にはまだ3分の1ぐらいだ。ここであきらめて戻れば、今夜中にいわきの社宅に帰れるだろう。今がターニングポイントであることは明らかだが、心のどこかで何かが引っ掛かり、どうしてもすぐに引き返す気持ちにはならなかった。
「もう少しだけ行ってみよう。この山間部を抜けたらテレビ電波も戻ると思うし、そこでもう一度状況を確認してから引き返そう」
「もう一度見たって一緒でしょう」
 美和は言ったが、それ以上強く言わなかった。行き帰りの時間があと数十分延びるというだけのことだ。
 景色は流れた。美和は広美や一毅の穏やかな寝顔を見ながら、ときどき携帯のメールをチェックしたり、走り去る外の木々を眺めていた。山から平地に降りる途中、ようやくカーテレビの受信が再開した。しかし、最初は報道スタジオの映像が出ただけですぐに固まってしまった。チャンネルをいくつか変えたが状況は同じだった。
 少ししてから、やっと画面が動くようになったのだが、そのとき最初に映ったのは福島第一原発だった。どこか遠くから撮影しているようだ。すると、施設の一部から白い煙を四方に勢いよく飛ばしている様子が映し出された。一見するとそれは爆発しているように見えた。
「えっ」
 瀬川は驚いて声を上げ、美和も小さなテレビ画面に後ろから食い入った。
 静かな、そして衝撃的な映像だった。ニュースキャスターは、1号機の建物がある場所で、水蒸気のような白い煙が出たことを伝えた。スタジオにいた専門家か学者のような人が、爆破弁を使った意図的なベントの可能性もあると述べていた。だが瀬川は、素人目にもコントロールされた排出には見えにくいのではないのかと思った。

8 離散

 水戸の市街で日が暮れて、あたりは急に薄暗くなってきた。ビルが建ち並び、車線が複数あって道幅が広く、交通量も多かった。山を抜けてきたので急に都会に来た感じだ。
 しかし地震の被害をかなり受けていることは、すぐに分かった。美和が泊まるホテルを地図で探してくれたが、行ってみると臨時休業でどこも開いていなかった。そのうち1件に従業員がいたので聞いてみると、館内も部屋も散らかって片付いておらず、水も止まっているため、サービスを提供できる状態にないとのことだった。
 ホテルをあきらめて、水戸市内の道を先に進みながら車中泊できる場所を探した。すると、牛丼屋に人が並んでいるのを見て、美和がここの駐車場にしようと提案した。駐車場に入ると、店では入口の外にテーブルを出して牛丼弁当を販売し、そこに人が並んでいるのが分かった。どうやら調理はできるが、中が接客できる状態にないため、テイクアウトだけにしているようだ。
 瀬川が牛丼の列に並ぶと、目の前に並んでいた若い女性がもう一つ前の40過ぎの男性に道を聞いていた。聞き耳を立てると、なんとかしていわき市に帰りたいのだと言う。瀬川は驚いた。この状況でなぜいわきに向かいたいのだろう。優しそうな男性は、6号線は無理だと言うだけで、それ以外の情報は持ち合わせていなかった。
 テレビで聞いた政府の発表では「爆発的事象」の原子炉との関連は不明としていたが、限りなく危険に近い状況にあることは大多数の共通した認識になっていた。なぜあそこへ帰りたいのかを訊ねて、自分が来た道を教えてあげようかと一瞬迷ったが、しかし思いとどまってしまった。途中には危険な箇所も多数あるし、そもそも汚染されているのかも知れない場所へ行こうというのを、助けてあげられる心の余裕がこの時にはなかった。
 ビニール袋に暖かい牛丼弁当を2つ入れて車に戻ると、美和が座席を全部平らにして寝る準備をしていた。牛丼と、さっきコンビニで仕入れたものとで夕食をとると、美和と2人の子供は平らになった車の後部で毛布にくるまって横になった。瀬川もテレビを消して、運転席を倒して横になった。
 しばらくすると駐車場の明かりが消えた。見ると牛丼は完売したらしく、外に出していたテーブルを片付けて店を閉めようとしているところだった。やがて店の明かりも消えるだろう。ここに車を停めていることを、誰も咎めには来なかった。
 国道から乾いた路面を走る音が響いていた。横になりながら瀬川は、心身が極度に疲労しているのを初めて感じた。特別な状況による精神的な緊張もあるし、危険を伴う運転で体力もかなり消耗していたようだ。普通ならすぐに眠ってしまいそうだが、疲れ過ぎているせいか、全然落ち着かなかった。瞼を閉じると、うごめいている魔物が思い出された。10分たっても眠れる気配がなかった。20分が過ぎ、30分になろうとしたが、むしろ意識は高揚していた。瀬川は自分が極度の興奮状態にある事を認めざるを得なかった。座席をおこし、そっと後ろを見た。眠っていた美和の毛布が暗い車内で動いた。どうやら目を開けてこちらを見たようだ。
「全然眠れないから、先に進もうと思う。途中で眠くなったらそこで寝ることにするよ」
美和は頷くかわりに3列目の背もたれを静かに起こし、暗い中で座りなおした。子供たちは毛布の中で眠っていた。
「お義母さんにメールしとくわ」
「たのむ」
 車を駐車場から動かした。
 いわきから海沿いを南下してきた国道6号線は、水戸の手前から内陸に入り、そのまま海を離れて東京へ向かって伸びている。瀬川は水戸からは6号線で夜の東京を目指した。
 テレビをつけると、避難区域が福島第一原発の半径20キロにまで拡大され、福島第二原発の避難円を飲み込んでいた。20キロの円の南端はいわき市のすぐ北だ。いよいよ大変なことになってきたと瀬川は思った。
 ニュースでは国内初の炉心溶融事故が起きたこと、1号機の事象はベントではなく水素爆発であったこと、しかしながら原子炉を囲む格納容器は破損していないと思われることなどを報じていた。断片的に出て来るこれまでの情報の変化を考えると、格納容器が破損していない話もどこまで信じていいのか分からなかった。
「アケミさんも、明日の朝いわきを出て、家族みんなで静岡に避難するって」
 美和が携帯のメールを見ながら言った。
「たしかアケミさんの実家は静岡の焼津市だったかな」
 瀬川が前に聞いた話を思い出して言った。ユージの実家はいわき市内だが、やむを得ず両親を残し、ジュリを連れて焼津へ行くことにしたのだろう。
「カオリさんも、栃木の親戚に行くかどうか考え中だって」
 このとき不安は多くの人心に広がりつつあり、避難指示の圏外からも、自主避難が徐々に始まっていた。行く当てがない者や、様々な理由でその場を離れられない人たちもいたが、そうでない人は一時的に遠くへ離れることを考えた。
 眠くならないまま、瀬川は暗い道を走り続けた。いま起きている状況に対する興奮は冷めなかった。夜の国道はすいていたが、信号だけでなく街灯もないので、昼間よりさらに危険だった。スピードは落としていても、横道から出ようとする車に目の前で気づいてハンドルを切ったり、また何度かブレーキを踏んだ。
 水戸を出て何十キロ走っただろうか。「寝てていいよ」と言ったが、美和は「私も眠くないから」と言ってずっと起きたまま、子供の寝息に耳を傾けたり、携帯のメールをチェックしたり、車のライトに照らされる外の様子を見ていた。
 かなり走って、大きな川を渡った。利根川だった。いよいよ茨城県を後にし、千葉県に入ったのだ。長い橋の途中で、前方の町の様子が今までと違う気がして瀬川がつぶやいた。
「なんか、明るいな」
「本当ね」
 渡り切ると、やはり様子は一変した。街灯が道を照らし、信号機も稼働していた。建物から明かりが漏れ、道は整然としていた。瀬川は眩しく感じるとともに、夢を見ているような心地になった。利根川を境にこうも状態が変わるとは考えもしないことだった。ほっとしてルームミラーを見ると、窓の方を向く美和の瞳にも街明かりが映り、ときおり照らされる頬は力が緩んで見えた。
 最初は恐る恐るだったが、徐々にスピードを上げた。普通に走れるようになると、思った以上にリラックスができた。
 このとき深夜の1時を回っており、日付はすでに翌3月13日になっていたが、千葉に入ってしまえば東京は間近だ。瀬川は快調に走り続けた。
 やがて国道は荒川を越え、東京都に入った。街明かりが増えて、周りを走るトラックやタクシーが多くなってくると、前方に首都高速道路の高架が見えてきた。さらに近づくと、首都高の上を大型車両の屋根が走り過ぎているのが目に入った。
――しめた
 と瀬川は思った。どうやら通行止めになっていないようだ。高速道路に乗ってしまえばかなり時間を短縮できるのだ。深い安堵感に包まれて、まるで今まで息をするのを忘れていたように大きく深呼吸した。疲れがいっきに押し出てきたが、最後まで気を抜かずに走らねばならなかった。
 首都高の入り口を通過すると、あとは走り慣れた経路だった。首都高環状線から3号線に入り、六本木から青山、渋谷を抜けて東名高速道路に向かった。後ろで美和が携帯のメールをいじっていた。
「お義母さん心配して、起きて待ってくれているわ」
 時計は深夜3時を過ぎていた。
 横浜青葉出口で高速を降りると、見慣れた町の景色が広がっていた。そこから10分余りで、都筑区の実家に到着した。朝の4時前だった。住宅街の暗い路地に車を停めると、家の居間からは明かりが漏れていた。父も母も起きて待っていた。
「大変だったな」
 父が玄関を開けて言うと、母もつっかけを履いて出てきた。2人とも寝間着姿だが、疲れた目をこすりながら、眠れぬ夜を過ごしたようだ。
「疲れたでしょう。熱いお茶をいれましょうか。布団がしいてあるから、すぐに寝れるからね」
 母は言って、家に入るとやかんに湯を沸かし始めた。その間に瀬川と美和は眠ったままの子供を一人ずつ抱いて、2階にしいてくれてある布団に寝かせた。荷物を運んでいると、母がお茶ではなくインスタントのスープを用意してくれたので、それを飲んで温まった。少し話をしてから、2階の布団に入って寝た。
 それからお昼過ぎまでは、誰も起きなかった。


 瀬川が暖かい布団の中で目を覚ますと、美和も子供も眠っていた。ここでは背中が頻繁に揺れることはなかった。
 考えることがいろいろあった。家族をここに残して、自分はいわきに帰らなくてはならない。しかし、来るのにかかった時間を考えると、日曜の正午過ぎ現在からは、月曜の出勤に間に合うはずがなかった。とにかく現状を会社に伝えて有給休暇をとり、火曜から出勤する手筈をつけようと思った。布団から這い出ると、持ってきたパソコンの電源をコンセントにつないで、起動ボタンを押した。秋山課長にメールを書きながら説明を整理し、そのあとで実際に電話をしようと思ったのだ。
 少し時間がかかってOSが起動しデスクトップ画面が立ち上がった。メールソフトを立ち上げると、最初に受信ボックスが開き、いくつかの未読メールが太字で強調表示されていた。その中に、秋山課長からのメールがあるのが目に入った。先にそれを開いて内容を確認すると、そこには会社からの指示が告げられていた。原発事故の安全が確認され、指示があるまでは「自宅待機」とのことだった。
 やれやれと思い、もう一度布団に倒れた。とりあえず明日は出勤しなくて大丈夫だろう。問題はいつから出勤で、どのタイミングでいわきに帰るかだ。あくまで自宅待機であって、実家に避難していいとは書いていない。やはりあとで課長に電話して、正直に状況を話しておこうと思った。その上で、明日中にはいわきへ帰っておく必要があるかもしれない。
 布団の上でもう一度目を閉じたとき、携帯の着信音が鳴った。秋山課長からだった。
「日曜日にすまん。みんなにメールを送ったんだが・・・」
「いま見ました。自宅待機ですね」
「よかったもう読んだな。それはそうと、今いわきにいるのか?」
「え? ・・・」
 瀬川は思わず黙った。
「地震後の片付けとか、破損状態や設備の確認を手伝ってほしいんだが」
「実はいま、横浜の実家にいるんです。家族をここに置いて、いわきに戻る予定ですが、下道でここまで来るのにかなり時間がかかってしまい、今から帰っても明日にはどうしても間に合わないと思います」
「そうかそうか、それならいいんだ」
 意外と軽い返事だった。
「明日中にいわきに戻るので、明後日から出社します」
「いや、いいんだ、横浜にいてくれ」
「え?」
「実は、ほとんど誰もいないんだ」
「・・・」
「みんなもう、それぞれの避難先か、移動の最中だ。残っている人で片付をするので、無理に帰ってこなくていい。家族と一緒に、身の安全を守ってくれ」
「青木は」
「青木もいない」
 他に何人か名前をあげて聞いたが、かなりの人が本当にいないようだった。生産技術にいわき外の出身者が多いのも原因していた。
「そんなわけだから、無理に戻って来なくていい。一週間は待機になるだろう。それ以降はまた連絡がある」
「・・・わかりました」
 携帯を切ってやや呆然としていると、美和の布団が動いて起き出した。声を聞いて目を覚ましたようだ。電話の内容を説明すると、寝起きの美和はそれを黙って聞いた。
 遅い朝食、というよりも昼食をとった。母が厚めに切ったベーコンとブロッコリーを炒めてくれて、美和がご飯と味噌汁をよそった。納豆に生卵を混ぜた丼ぶりをテーブルに一つ置き、大きなスプーンでご飯に好きなだけ掛けた。食べながら瀬川は、職場の自宅待機のことを両親にも話し、もうしばらくここに居ることを伝えた。疲労と緊張から解放された瀬川は、ご飯をおかわりした。
 食べ終わった広美は、隣の居間で楽しそうに折り紙を折り始め、一毅はベビーバスケットの中で静かに動いていた。美和が洗い物を手伝い、それが終わると母が熱いお茶を淹れた。
 大人4人がテーブルでお茶を飲んでいると、朝から言葉数が少なかった美和が口を開き、考えていたことを話し始めた。
「これからのことなんですが」美和は少し間をおき、「今日すぐ子供を連れて、私だけ愛知の実家に避難しようとおもうの・・・」
「え」瀬川が驚いて言った。「ここで、いいんじゃないの?」
 福島の原発からは優に200キロ以上は離れているのだ。
「愛知まで行ってしまったら、おれも頻繁にいわきから会いに行けなくなる」
 美和はテーブルに置いた湯呑を両手で包みながら話を続けた。
「あなたが早く判断してくれたお陰で、水素爆発の時、原発から100キロ以上遠くまで避難できたでしょう。また何があるか分からないから、もっと遠くまで避難しておいた方がいいと思うの。子供のためにも」
 確かに「念のため」と言って避難して来たくせに、ここで安全と思うのは瀬川の単なる自己満足かも知れなかった。行けるところがあるなら、なるべく遠くまで行くのが念のためであろう。
 すると父がゆっくり口を開いた。
「政府の発表や報道もあてにならないし、東京もいつ危険になるか分からない。いや、もしかしたら本当は、今でも危険な状態かも知れないしな」
 急須に湯を足した母は、みんなの湯呑にお茶を慎重につぎ足しながら、
「そりゃ孫の顔はゆっくり見ていたいけれど、でも、なるべく遠くに行った方がいいわね」と優しく言い「私たちはいいから、愛知へ行っておいで」
「東海道新幹線は動いているのかな」
 瀬川が言うと、すでに父が知っていた。
「もう動いている」
 席についた母がゆっくり頷いた。
「向こうへ行ったら、ご両親によろしく言ってくださいね」
 はい、と美和は母に言って、暖かいお茶を口にした。このあと美和と子供たちは二度といわきに戻ることはなかったが、まだ美和自身も、他の誰もそんなことを考えていなかった。


 美和は乗ってきた車に、自分や子供の荷物をもう一度入れた。美和と子供2人と母を乗せると、瀬川は車を運転して新横浜駅に向かった。途中で配送会社に立ち寄り、すぐ使わない荷物を箱詰めして愛知の住所に送った。子供二人を連れて美和が一人で行くために、身軽になる必要があったのだ。
 新横浜の様子はいつも通りで、人も多かった。列車は順調に流れているようだ。切符を買うと美和は大きな荷物を肩に掛け、広美の手を握りながら一毅のベビーカーを押した。自動改札を通ると、母が改札の外で背をかがめて「いってらっしゃい」と笑顔で広美の方に手を振った。広美は嬉しそうに飛び跳ねて元気に振り向いたが、そのとき笑顔が一変した。
 ――パパは?
 改札の外で手を振っているパパを見て、暗い顔でママの顔とパパの方を交互に見た。
 美和は広美の顔の前にしゃがんむと、
 ――パパはお仕事があるから、一緒に行けないの。また会いに来てくれるからね。
 と話し、立ち上がって広美の手を握り直した。広美は階段の方へ腕をぴんと引っ張られながら歩き、上体だけ後ろのパパを向いて見つめていた。世界の終わりを見るように顔をゆがめ、いまにも泣き出しそうな広美の顔が、瀬川の心に深く残った。

9 疑心暗鬼

【アケミ】3月14日 19時
なんとか静岡に自主避難しました。津波に襲われた家をそのままにして、後ろ髪引かれる思いです。でもいまは、大切な子供を守り、家族で力強く生きていくしかありません。
――いいね92
【チサ】 3月14日 20時
あの日の地震と津波、そしてアケミさんと一緒に過ごした不安な夜は、生涯忘れられないと思います。大事な家を失い置いてきた悲しみは拭えませんが、アケミさんとユージさんはきっと力強く立ち直ってくれると信じています。
私はあんなに大好きだった海が、今は怖いです。サーフボードを持ってまた海に行く気持ちになれるかどうか、正直まだ分かりません。
どうか静岡でご無事に過ごしてください。私は病院の仕事があるので郡山を離れられませんが、アケミさんとユージさんがまた福島に戻って来られる日を願っています。


【カオリ】3月14日 20時
兄夫婦の車で栃木の親戚に避難しました。少しだけほっとしています。
家事を手伝いながら、ずっとテレビのニュースばかりを見ています。一昨日の1号機に続いて、今日3号機が爆発をしてしまったみたいで、もう怖くてたまりません。この先いつまで危険が続くのか、不安でいっぱいです。
お婆ちゃんは「いつ帰れるの?」と繰り返し言っています。もちろんずっと親戚のお世話にはなれないけれど、しばらくはここで様子を見ることにしています。
――いいね68


【飯山】3月14日 23時
埼玉の実家に自主避難しました。
会社の招集があるまで、ここでゆっくりしてます。
――いいね15


【ダニエル】3月15日 10時
(英語) 友人の車で東京に自主避難し、今はオーストラリア人の部屋に泊めてもらっています。ガールフレンドは別のところへ家族と避難したので、離ればなれになってしまいました。今はお互いの安全を心から祈ります。
東京の英会話スクールは今のところ空きがないようで、身の振り方を決めなくてはなりません。母が心配して電話をしてきました。アメリカに帰ることも選択肢にあるにはあるけれども、何だかいわきに心を残してきたみたいで、やっぱりこのまま帰りたくはないと思っています。
――いいね37


【ホア】3月15日 15時
(英語)いわき市役所勤務の主人は多忙を極め、震災があってから毎日遅くまで帰ってきません。放射能が怖いので、私と子供は必要なとき以外なるべく外に出ないようにしています。
水道は出ないし、水や支援物資も限られています。トイレはお風呂に溜めた水で時々流しています。
友達はほとんど遠くへ行ってしまいました。寂しくて、悲しくて、こんなにも不安な日々を、早く終わりにしたいと切に願っています。なんで、こんなことになってしまったのでしょうか。自主避難ができる人たちを、とても羨ましく思います。
――いいね31


電子メール
差出人:浜村 3月15日 20時
 メールを貰ってから時間があいてすまん。そっちはずいぶん早い自主避難だったんだな。横浜なら一安心だろう。
 私も家族と新潟の実家に来ているが、山間の雪深い町なので、妻は早くも帰りたがっている。雪に慣れないこともあるが、生まれ育った小名浜を離れたのがつらいようだ。2日前に自主避難をした時は、半ば無理やり連れてきた感じだった。とにかく子供の健康が心配だからな。
 でも妻の両親を小名浜に残しているので、いずれ一度は戻らなければならないだろう。
 地震と津波だけならウチは大丈夫だったのに、原発事故はとんだとばっちりだ。1号機だけでなく、昨日は3号機まで爆発し、さらに今日は2号機や4号機も怪しい状態ときている。出て来る情報は曖昧で遅いし、何も信用できやしない。3号機のあの黒い煙は不気味だったな。何をどれだけばら撒いたか分かったものじゃないぞ。
 絶対に安全とは思えないから、俺もお前も勝手に避難せざるを得ないわけだ。結局かなりの人が自主避難している現状を考えると、お前が言うように、いわき市が避難半径に入っていないのが幸なのか不幸なのか分からないな。
 まあ愚痴ばかり言っても始まらないが、会社が再開できる時期も分からないし、今は祈って待つしかない。お互い戻ることができたら、また飲みながら話そう。


【ダニエル】3月16日 18時
(英語) 東京では、何かが間違っているように思えてなりません。
災害のパニックでみんなが買い占めに走り、店の棚には商品が少ししかありません。今日は友人と一日中、食料と水、トイレットペーパーや乾電池、その他日用品を買い求めて奔走しました。
東北の被災地はもっと大変なのに、そのことを日本人が本当に真剣に考えているのか、分からなくなります。それどころか、危険を感じるあまりに、東京から避難しようと考える人すらいるようです。
いったい誰が使っていた電力のために、東北が苦難にあっていると思っているのでしょう。
――いいね34
【エレナ】 3月16日 22時
(英語) こちらもダンナと東京に自主避難中よ。買い占めがひどくて、私も頭にきています。東京は本当にクレイジーだわ!


【カオリ】3月17日 17時
日々不安が増してきます。水や食料、それにガソリンなども思うように回らない。
米国政府が原発から半径80キロメートル圏内に住む米国人に避難勧告を出したと聞きました。いわき市が心配です。いま私がいる烏山は80キロ以上あるけれど、ここも本当に安全かどうか怖くなってきました。
――いいね62
【ダニエル】3月17日 20時
(日本語) 僕や知り合いのアメリカ人はほとんど東京や近郊に避難したけれど、まだいわきに残っている人もいます。発表の受け取り方は、それぞれです。僕は念のため東京に避難しましたが、あまり不安になり過ぎるのも良くないのかも知れないと、思い始めています。
アメリカにいる僕の父や母は、日本全体が汚染されているように思っているので、僕が東京に避難していても、まだ不安に感じています。海外から見ればそうなのかもしれません。
人間は自分から遠い地域を実際よりも小さく認識するものです。だから東京の人は、福島県全部が汚染されていると感じています。関西の人は、東北全部が汚染されていると思うかもしれません。アメリカは、日本全部が汚染されていると考えているでしょう。もしかしたら、宇宙人は地球全体が汚染されたと思っているかもしれません。
何が言いたいかと言うと、アメリカは日本政府と違う感覚で、80キロという数字を言っているかも知れません。いや実際それは分かりませんが、これをどのように受け取るのかは、個々人が冷静に考えていかなければならない問題だと、僕は思っています。
【カオリ】 3月17日 20時
そうですね。ダニーありがとう。本当にそうかも知れません。それに長い日本語、頑張って書いてくれてすごく嬉しい。
いまは極限状態で、私も周りもかなり興奮気味だと思います。ダニーの言葉で少しだけ冷静になりました。何が正しいのか誰にもわからないし、どこにも答えがないことが、不安の一番の原因なのでしょうね。
【エレナ】 3月17日 22時
(英語) あたしは日本の20キロ避難は甘いと思うの。本当はもっと広げるべきよ!
でも30キロ以上に広げたら、南はいわき市から、北は南相馬市の大部分まで、人口が多くなる地域が入ってしまうでしょう? 避難人口がいっきに跳ね上がるから、政府も自治体も対応できないのよ。だから80キロなんて、絶対にできっこないわ!
そもそも、人口が少ない場所に作ったこと自体、何かあったときのために決まってるじゃない。だって、東京や関東で使うための電気を、なんで福島で発電しちゃってるのよ。本当に安全だったら東京湾とか外房に原発つくればいいのに! まったく頭にくるわ


【アケミ】3月19日 19時
親戚の紹介で、静岡市内のホテルで結婚式場の手伝いを始めることにしました。ユージもそこのレストランで働きます。
――いいね98
【カオリ】3月19日 21時
さすがです。どんな時も前を向いて進んでいくアケミさんたちに、わたしもがんばらなくちゃって思います。


【飯山】3月19日 20時
地震からもう一週間が過ぎ、会社の自宅待機令がさらに延長されました。この先いったい、どうなるのだろう。
――いいね15


【カオリ】3月20日 14時
身を寄せていた親類家族といろいろ揉めて、宇都宮のビジネスホテルに移りました。こんな生活がいつまで続くのでしょうか・・・ 一週間近くお世話になった親戚には、本当に感謝してます。
――いいね57
【飯山】3月20日 18時
不安との闘いですが、こんな時だからこそ、息抜きも必要ですよね。


【アケミ】3月22日 19時
片付けや諸手続きがあるので、いつか戻らなければと思っているうちに、もう一週間以上たってしまいました。近いうちにユージだけ、いわきに一時帰省すると思います。
原発があるので子供を連れて行くことはもうありません。原発のことを、心から恨んでいます。
――いいね91
【ダニエル】3月23日 8時
(日本語) 僕も原発に反対です。この事故で、技術が進んだ日本であっても原発が安全ではないことが証明されました。原子力は効率的な発電ですが、安全な方法で使うことができるテクノロジーが無いうちに、使ってはいけないのだと思います。今後は利用を見直すべきです。
【エレナ】3月23日 19時
(英語) ユージがいわきに行くの? 冗談でしょう! みんな東京すら危ないって言ってるのに、こんな時にいわきに戻るなんて無謀としか思えないわ。

DM(ダイレクトメッセージ)
送信者:ダニエル 3月23日 20時
(英語) テツさん、お元気ですか。いま僕は東京で、いつ終わるとも知れない自主避難生活をし、心が荒んできています。カオリとはよく電話していますが、やはり会えないのはとても寂しいです。
 ところで飯山って誰ですか? SNSでカオリに毎回コメント返しているようだし、どうも少し親しげな書き方に思えます。調べたら共通の友達にテツがいました。
 埼玉と栃木って地図で見たら隣だし、そんなに遠くないですよね。実は、会っているような気配もあって心配です。
――(返信) 3月23日 21時
 ダニーでも、心が荒むことあるんですね。
 こちらは元気にしています。物資の不足はだいぶ解消されてきたように思いますが、政府の呼びかけが効果なかったのはとても残念でした。
 飯山というのは、うちの会社の若い社員です。カオリさんより年下ですが、どのくらい仲がいいのか私も分かりません。気を揉んでいるよりも、思い切って宇都宮までカオリさんに会いに行ってみるのもいいかもしれませんね。その気になれば、今だったらなんとか行けるのではないでしょうか。


電子メール
差出人:浜村 3月24日 21時
 瀬川にも連絡が行っていると思うが、ついに会社から召集令状がきた。28日、こんどの月曜だ。お互いこの週末にはいわきに戻るわけだが、俺はかなり緊張している。職責上、会社では絶対に言えないと思うので、お前にこれだけは言っておく。
 俺は、帰るのが怖い。
 うちは家族も一緒に戻るけども、瀬川はどうするんだ? 奥さんが元々いわき市と縁がないんだから、無理に連れていくことはないと思うぞ。俺なら絶対子供を実家に残す。
 唯一の楽しみは、お前と飲めることかな。話したいことはイヤなほどある。この週末は家で地震の片付けがたくさんありそうだから、来週末か、どこかの平日でもいい。
 お前と、いわきで会おう。

-----------------------
(以下未公開)

富士のない空(前半)

富士のない空(前半)

この小説は東日本震災を取り扱ったものです。当時体験した本当の地震の激しさを伝え残したく、作品の前半部分をここにアーカイブすることにいたしました。とくに本震の箇所だけでも読んでいただければ幸甚です。 2023.8.14

  • 小説
  • 中編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 居酒屋
  2. 2 「3・11」
  3. 3 海と空と
  4. 4 津波
  5. 5 魔物
  6. 6 不安
  7. 7 脱出
  8. 8 離散
  9. 9 疑心暗鬼