やさしい関係
L'amour, le plus important dans la vie. Non, l'amitié est plus importante encore
愛、それは人生で最も大切です。いいえ、友情はもっと大切です。
Yves Saint-Laurent(1 August 1936 – 1 June 2008)
大晦日
さだめなき世の
さだめ哉
井原西鶴
ガチャリ、と言う音を響かせ乍らマンションの部屋の扉の鍵を着物姿のクミがゆっくりと開けると、夜の街はすっかり雪化粧に其の身を包み込んでいた。
流石は大晦日。
眠らない街も今宵限りはすっかり静まり返っているみたいだよ。
そう遠くない場所にある護国寺から鳴り響く除夜の鐘に耳を傾け、且つ白い息を吐き乍らクミが静かに呟くと、クミ同様着物姿で且つ右手に朱色の番傘を持った啓はクミの右手をそっと握りしめ乍ら、そんな特別な日やからか分かれへんが、ジブンの化粧も今日は一段と美しく見えんで、と呟いた。
ふふ、相変わらず口が御上手なコト。
クミはケイの左手を優しく握り締め乍ら、啓と一緒にエレベーターホールへと向かい、其の足で近所の稲荷神社へと歩を進めた。
無論、相合傘をし乍ら、である。
此のひと月の間、つい忙しさに感けて店に顔を出さんかったけど、行儀の悪いお客に言い寄られたりせなんだか?。
神社へと向かう道すがら、啓が尋ねた。
そうねぇ。
調子良く呑み過ぎてすっかり酔ったお客は居たけれど、言い寄られたり迄はなかったかしら。
そうか、何はともあれ気ぃつけるんやな。 近頃は堅気でも不粋な真似をする輩がうじゃうじゃおるから。
はい、かしこまりましたよ。
あんたこそ、何処ぞの美人に鼻の下を伸ばしちゃいないだろうね?。
まさか。 そんな事をする暇があったら、今日此の場におらへんよ。
クミからの「追及」に対し、啓は思わず苦笑いを浮かべた。
其れと同時に首に巻き付けた紺色のマフラーの端が風にふわりと揺れた。
此のマフラーはクミが今年の聖誕祭〈クリスマス〉に啓の事を想い乍ら、糸から何から拘り抜いた上で手掛けたマフラーであり、クミが首に巻き付けている銀色のマフラーは、其のお返しの品で、所謂オーダーメイドの一品〈ひとしな〉だった。
まぁ、白々しい言い草。
でも信じてあげるわ。
今日は大晦日、些細な理由で頬を膨らませても、何の得にもなりゃしないしね。
クミはそう言い乍ら、眼の前に見えて来た稲荷神社の鳥居と社に視線を向けた。
幸いにして参拝客の数は疎〈まばら〉で、長い時間並ばずに済みそうであった。
此の寒空や。
どうせ膨らませるのやったら、餅を膨らませた方がええ。
雪が止み始めたのを幸いに、ぴしゃりと番傘を畳み乍ら、啓が呟いた。
積もる雪では無い為、参道の石畳は何時も通りであったが、敷地内に植えられた樹齢何十年、何百年の木々達は街同様に、雪を纏っていた。
帰ったら、お餅焼こうか?。
昨晩、部屋迄の帰り道に立ち寄ったコンビニエンスストアで購入したお餅の事を思い出し乍らクミがそう言うと、ケイはクミに向かって微笑を浮かべ乍ら、折角やから、あーんしたるで、と返事をしたので、あーんをする前にキチンとふうふうして頂戴よ、とクミはケイに「指図」をした。
手水〈ちょうず〉舎の水はいつに無く冷えており、手と口を浄〈きよ〉めるにはぴったりであった。
列に並び始めると其の場の雰囲気に合わせる様にに会話を止めたのだが、そうこうしているうちに自分達の順番がやって来たので、ケイは懐から取り出した仏蘭西製の鰐〈わに〉皮の財布の中から、渋沢栄一の肖像画が印刷された真新しい一万円札を二枚取り出して其れを御賽銭箱の中へ放り込んだ。
折角だからと二人で鳴らした鈴の音色と互いの二拍手が澄んだ空気の中に響き渡る中、啓はクミの商売繁盛と健康長寿を、クミは啓の武運長久と無病息災、そして自身の経営するスナック『波風』にて働く可愛い可愛いかしまし娘たち…マイとサクとレン…が此れから先も楽しく『波風』で働ける事を何時になく厳粛な表情と気持ちの中、静かに願った。
ねぇ、御神籤を買っていかない?。
一通りの事を済ませ、又何時もの表情に戻ったクミが啓にそう述べると、啓は懐に仕舞った財布を取り出すなり、其の中から御神籤代の為の小銭と北里柴三郎の肖像画が印刷された千円札を三枚程取り出し乍ら、序でに御守りも買ぉてくるとええんとちゃう、例の三人娘たち、あの子達のお土産も兼ねて、と小銭を千円札をクミに手渡し、上等な御影石で造られたと思われる長椅子にゆっくりと腰掛けた。
良い子で待っていてるんだよ。
啓に対しそう述べた口調は、明らかに遊び盛りの子供に対して釘を刺す母親の口調であった。
はいはい、道中気を付けて。
そう言い乍らケイは、クミに向かって右手で軽く手を振った。
クミが御神籤だの御守りだのを売っている建物へと赴くと、受付に立っていたのは普段は學生でもしているらしい臨時の巫女だった。
其れが証拠にLEDの明かりの下照らし出された頭髪は、やけに黒々としており、此の忙しい師走の最中に髪を染めたばかりだと言うのが誰の眼にも丸わかりであった。
クミは手始めに御神籤を引いた。
クミ自身、御神籤を引くのは其れこそ十数年振りの事で、御神籤を引いたから何が如何と言う訳でも無いのだが、流石は啓の様な「侠客」を相手に親しい仲になるだけあって、そもそも籤だのビンゴだのと言った遊戯は好きか嫌いかで言えば躊躇無く前者の類いであった。
故に御神籤を引く際は、自然とこゝろが弾んだ。
其の後自身と啓、そしてかしまし娘達の分も含めた合計六人分の御守りを、其々のふだんの雰囲気を思い浮かべ乍ら選び始めた。
其の時のクーの眼差しには、服選びの際と同様、何とも言えぬ真剣さが宿っていた。
軈て支払いを済ませ、下駄の音を響かせ乍ら啓の許へと戻ると、啓は番傘を脇に置き、敷地内にある自販機で購入をしたらしい微糖の缶珈琲を手に持った状態で長椅子にゆったりと腰掛けていた。
そしてクミの存在に気が付くなり、お帰りなさい、と告げたので、クミは稲荷神社の名前と可愛らしい顔立ちの狐の立ち絵が印刷された玻璃色のビニール袋片手にゆっくりと腰掛け乍ら、ただいま、と返事をし、ほんの数秒だけ自身の口から吐き出た白い息をぼんやりと見つめた。
楽しかったみたいやな、お買い物は。
プシュッと言う音を響かせ、クミの分の缶珈琲の蓋を開け乍ら、啓が言った。
蓋を開けた瞬間、ひんやりとした空気を十二分に含んだ風に運ばれた微糖の珈琲の香りが互いの鼻腔をそっと擽る中、クミが右手で啓が左手で持っている缶珈琲をそっと受け取り乍ら、何年月日が経とうとも、誰かの事を想い乍ら買い物をするのは、迚も楽しいモンだよ、と言ったので、啓は道行く人々が奏でる足音に耳を傾け乍らひと言、此の雰囲気のお陰やろか、他愛ない言葉もえらい詩的な響きを帯びるモンやなぁ、と呟き、自身の分の缶珈琲の蓋をカチリ、と開けた。
ほな、乾杯。
乾杯。
缶と缶とが打〈ぶ〉つかる音は、増え出した人々の会話と足音に直ぐに掻き消された。
勢いよく流し込んだ珈琲の暖かさが身体全体に染み渡る中、もうそろそろやな、年越しの瞬間も、と啓が呟いた。
そして、丼洗ったばっかりで申し訳ないんやけど、餅焼く序でに蕎麦、もう一回茹でて貰えへんかな?、歩いとったらお腹が減って来たみたいやさかい、と言った。
ふふふ、食いしん坊さん。
仕方がないなぁ、と言わんばかりにクミは微笑むと、貰い物だけど、お肉も添えておこうかな、と付け加えた。
啓は冷蔵庫の中に高級品然としたハムがあった事を思い出し乍ら、ハム焼くの、俺も手伝うわ、と言って、缶の中に残った珈琲を勢いよく飲み干し、もう既に空になったクミの缶を空いている左手で受け取った。
其の瞬間、港の方角から、年を越した事を告げる船舶の汽笛が一斉に鳴り響き、行く人も帰る人も皆口々に、御目出度う御座いますだの、今年も宜しくお願いしますなどと言った挨拶を交わしていた。
ほな、今年もよろしく。
啓が言った。
此方こそ、今年もよろしく。
空の缶を直ぐ側の塵箱の中に棄てると、二人は其の儘、家路を歩いた。
止んでいた雪が又降り始め、行き同様に手を繋ぎ、番傘を差した。
年を越したと言う浮かれ気分に当てられたらしい人々の姿が、通りと言う通りを埋め尽くそうとする中、マンションの近くのコンビニエンスストアに入った。
独特な音色のチャイムの音と共に自動ドアが開いた瞬間、暖かいエアコンの風が二人の髪をバサリと靡かせ、同時に足元を軽く雪が舞った。
店内は外と違い、静かな雰囲気に包まれており、客の数も疎らだった為、二人が奏でる下駄の音は自然と店内に響いた。
酒やけど、なんがええ?。
ずらりと酒類が並べられたコーナーの硝子扉の前で、クミの好物であるポテトチップの大袋とクラッカー、そして『ナビスコ』の『リッツ』が其々三袋程入った緑色のカゴを持った啓がクミにそう問うと、クミは間髪入れずに、今晩は麦酒の気分、と言い乍ら、扉をパッと開けるなり、麦酒のロング缶を四本取り出した。
尚、一本は自身の分で、残りの三本は啓の分である。
啓は幕末の土佐藩藩主である山内容堂公の豪快な生き方を信奉している事もあり、無類の酒好きで、クミの部屋へとやって来る際は必ずと言って良い程、クミの作る手料理をお摘みに酒を鱈腹嗜む。
知り合ったばかりの頃、カウンターでお酌をし乍ら啓の堂々たる呑みっぷりを見せつけられたクミは、今私の眼の前に居る人物の前世は大酒呑みで有名な蟒蛇〈うわばみ〉だったに違いないと驚き乍らに思ったが、月日が流れた現在〈いま〉となっては、そんな啓が酒を嗜む傍ら、自身の手料理を実に美味しそうに食べてくれる事を楽しみにする様になっている節がある事も又事実であった。
稲荷神社とは打って変わり、スマートフォンの電子決済で啓は麦酒とお摘みの支払いを済ませると、雪の降る量が増えるのを肌で感じ乍ら、ぎょうさん荷物持ってくれてほんまおおきに、とクミに感謝の言葉を述べ、番傘を開いた。
赤の番傘にまるで魔法の粉でも撒いたが如く真っ白な雪が混ざり合う様に積もる中、クミは白い息を吐き乍ら、武士は相身互いでござる、と『仮名手本忠臣藏』で御馴染みの『東下り』に於ける橘左近に対する大星由良之助の科白を言ってのけ、さり気ない足取りで傘の中に入った。
年の瀬や
水の流れと
人の身は
マンションへと辿り着き、やって来たエレベーターの箱の中へと入る瞬間、クミがそっと呟いた。
あした待たるる
その宝船
表情一つ変えず啓がそう「返答」すると、芝居ごゝろがある様で何より、クミは笑みを浮かべつゝ、肘を使い十階のボタンを押した。
部屋に戻ると、外出用の着物から部屋着へと着替えてから料理を始めた。
お互いに揃いの黒のエプロンを身に付け、啓はハムを焼き、クミは蕎麦を茹でた。
料理に関しては玄人であるクミの眼から見ても啓の包丁捌きは見事な物で、分厚いハムをいとも容易く切り分けると、ハムに伊太利亜産のブラックペッパーを振りかけ、じゅうじゅうと言う音を奏で乍ら、且つ充分に火が通る様に切り分けたハムを焼いた。
此れで「侠客」で無ければ、御立派な亭主になれると言うのにねぇ。
一昨日の晩、スーパーで購入して来た竹輪を茹で上がった蕎麦の脇へと添え乍ら、こゝろの中でクミはそんな事を想ったが、ま、「侠客」だからこそ私みたいな夜の世界の女性〈オンナ〉にも、優しく寄り添ってくれるんだろうけどさ、とも想うのだった。
料理が出来上がるや否や、二人して其れを今年のクミの誕生日に啓が組事務所近くの百貨店で購入をして来たランチョンマットの敷かれた茅色の円卓の上へと運んだ。
七味、どないせぇへん?
大きな冷蔵庫の中の調味料が並んでいる所を覗き込み乍ら、啓が言った。
さっきも掛けた事だし、今度も掛けようよ。
クミは啓が初めて此の部屋へとやって来てクミと共に同衾をした晩、手土産にしてはちと大仰な気もするが、と言って持参した獨逸土産と称する麦酒ジョッキへ料理をする間冷やしていた麦酒をゴボゴボと注ぎ乍らそう答えた。
尚、何故に啓が欧羅巴は獨逸迄行っていたかと言えば、とある取引にて啓の直属の部下だった人物が組織を裏切り、直ぐ様行われた極秘の調査の結果其の人物が敵対する組織のツテを利用し、獨逸迄逃亡。
早い話が其のカタをつける為、啓が直接獨逸迄出向いたと言う訳である。
でもって麦酒ジョッキには啓が「絞殺」と言う方法で嘗ての部下を「始末」したのち、現地でのアリバイ工作の一環として立ち寄ったマーケットにて、購入をしたと言う逸話が付き纏っているのだが、無論、クミには其の様な逸話がある事を伝える筈もなく、唯単に空港の土産物屋で戯れに買って来たと啓本人は言い包めた積もりでいるのだが、其処は「蛇の道は蛇」、深く首を突っ込まないだけで啓が獨逸に赴いた理由〈ワケ〉も含め、クミは良く知っているのだけれど、其れは其れ、此れは此れなのだった、クミに言わせれば。
さぁ、暖かいうちに食べなきゃ。
蕎麦が伸びちゃうよ。
クミにそう聲を掛けられた啓は、遠い日の記憶を掻き消す様に、七味唐辛子の入ったチェスの駒程の大きさの瓶を片手に席へと着席するなり、さ、乾杯しような、と言って右手でジョッキを持ち、麦酒が並々注がれたジョッキ越しにクミを見つめ、ほい、乾杯、と言った。
クミも其れに呼応する様に、乾杯、と呟くや否や、昨年迄の憂いだの疲れだのを溶かしてしまわんばかりに、冷えに冷えた麦酒を勢いよく胃袋に流し込んだ。
啓もこゝろの中に於いて、今年一年生き延びる事が出来ます様に、と御念佛でも唱えるかの如く小さく呟くと、クミ同様麦酒を流し込んだのち、金粉が塗してあるのが特徴的な山口県の名産品の大内塗りの箸を使って蕎麦をズルズルと啜った。
蕎麦は長野県は信州蕎麦であり、師走の贈り物としてクミが貰った物で、流石は信州蕎麦だけあって食べ応えがあったらしく、お腹は自然と膨れた。
其れと同時に散歩がてらとはいえ、寒空の下で運動した事もあってか、麦酒は勿論の事クミが茹でた蕎麦も啓が焼いたハムもお互いに五臓六腑に良く沁みた。
粗方の片付けを済ませたのち、稲荷神社で交わした約束通り、焼いた餅を「ふうふう」して、且つあーんをするカタチで二人して食べた。
咀嚼をする其の度に口の中一杯に白餅のふわふわとした味が広がるのを啓が静かに感じていると、クミは淹れたての緑茶を備前焼の急須を使い同じく備前焼の湯呑み茶碗へと丁寧に注ぎ乍ら、今が一番幸せね、でも其れが長く続くとも限らない事も又人の一生よね、と啓に向かって言った。
啓はクミが注いでくれた緑茶の入った湯呑み茶碗片手に、そうやな、とだけ答え、さりげなくベランダの外へと視線を向けた。
外では相変わらず雪が降り、音一つ立てる事無く街全体を白く染め抜いていた。〈終〉
やさしい関係