あをはるによし
「今日は鑑真でも拝みたい気分やわ。こんな像、どうでもいいと思ってたのになあ。ありがたや、ありがたや……」
「アホか。鑑真とちゃうって。行基やし。何とぼけてんねん。おい、早よ行くぞ」
僕が奈良駅前の、噴水の上の、その坊さんの像に手を合わせると、圭が僕の頭を後ろから叩いた。
それでも、僕は相変わらず最高の気分だった。それもそのはずだ。昨日、人生で初めて恋人ができた。大学四回生の夏だ。もう今更恋人なんて、と諦めかけていた。それが、どうだ。告白してみたら、一夜にして世界が変わった。
それもこれも圭のおかげだ。圭に教えてもらった最高のロケーションで、思い切って気持ちを伝えてみたら、なんとオーケー。
今日は昨日の報告会。圭と二人で、既に二時間は呑んでいる。僕としては、そのまま二軒目に雪崩れ込むつもりだった。
ところが、圭は僕を散歩に誘い出した。
「お前の話さぁ、聞いて、俺もアタックしようって思ったんやわ。お前の恋、応援したんやから、次は俺の下見に付き合えよ」そう言われたら、断る理由はない。
「ってことは、圭は、圭のとっておきの場所、俺には教えんと、きちんと残してるってことやな」
「当たり前やろ。本命用、俺がお前に譲るわけないやん」
「そらそっか」
そんなわけで、僕は夜の散歩に連れ出されたわけだ。基本は一本道。興福寺を右手に見ながら、ゆるやかな坂を登っていく。この道を行く以上、どこへ向かっているかは、明白だった。遠距離通学に耐えられず、実家の京都から奈良の下宿に引っ越してきて、はや二年。奈良育ちの圭と比べたら、知識はまだまだであったが、さすがに、この道がどこに続いているかわかるくらいの土地勘はある。
「圭の言う、その場所って、奈良公園やんな?」
「正解」
「今、夜やん。奈良公園なんかに、何があんの」僕はそうぼやいたが、圭は聞いてか聞かずか、構わずに進み続けた。暫くして、公園の入り口に辿り着いても、圭は歩みを止めなかった。この先にあるのは、誰もが知る寺、東大寺だ。当然、既に閉門している。
こんな夜にわざわざ奈良公園を訪れる者は少ない。園内に人はまばらで、腰を下ろした鹿の方が、数は遥かに多かった。その鹿も、この時間にやって来る人間が、煎餅などくれることはないと承知しているのか、こちらに興味を示すことはなかった。
静かだ。昼間の、あのいかにも観光地らしい喧騒が、まるで嘘のようだ。木々の騒めきや虫の声がよく聞こえる。ほろ酔い加減の身体に夏の夜風が心地よい。何にせよ気分が良かった。暗がりゆえ、鹿の糞など、定期的に踏んでいることはわかっていたが、それすら気にする気にはならなかった。
正直なところ、頭の中はまだまだ昨日の余韻で満たされていた。酔いも相まって余計にそうなのだろう。何となく圭と会話を続けて歩いているが、実際、僕はほとんど圭の話を聞いていなかった。色々と話した気はするが、さっき何を話していたかさえ覚えていない。今日ばかりはどうしようもなかった。
圭はどんどん奥へと進み、東大寺さえも通り過ぎようとした。けれども、東大寺の外壁に沿って歩くうちに、はたと足を止め、「こっちから登るか」と呟き、そして、右手の階段を登り始めた。もちろん、この時間に脇道に逸れる階段を登る人など、誰もいなかった。
「なあ、どこへ行く気なん」僕は尋ねた。余りの人の少なさに、僅かに不安になっていた。階段の上は真っ暗で、どうなっているのかもわからない。仏の真横でなければ、肝試しだと言われてもおかしくない、そんな雰囲気だった。今日の幸福感を持ってしても、密かに恐怖を感じた。
そしてそれと同時に、こういう時、人は誰かと手を繋ぎたくなるものだなと思った。人肌に触れて安心したいのだ。横にいるのが圭ではなく、彼女であればどれほど良いだろう。本当なら、圭とじゃなく、彼女と来たかった。そうも思った。
彼女の名は静と言った。「静」という字面や、国立女子大附属の小中高一貫校出身という経歴から、僕らは彼女を「お嬢」と呼んでいた。但し、中身はお嬢というにはあまりに遠かった。
今でも覚えている。大学のボランティアサークルのみんなで、小学校に行った帰り道のことだ。僕たちは、通りかかった公園で、桜の木の上にいる子猫を見つけた。登ったはいいが、降りられなくなったらしい。それほど高い木ではなかったから、落ちても死にはしないだろうが、それでも猫をどうやって助けるか、僕らで話し合おうとした時だった。突然、お嬢は何の躊躇いもなく、自身のポニーテールを解いた。そして、その髪ゴムでスカートの裾を絞ったかと思うと、そのまま一気に木を登り始めた。
僕らは呆気に取られ、それをただ眺めていた。
お嬢は木登りが抜群に上手かった。最初の一登りは勢いをつけ、大きく手を伸ばし、太い枝を掴んだ。と思ううちに、後はバランスを取りながら、少しずつ上へ登り、猫の方に近づいていった。無駄のない鮮やかな動きで、スカートの中身が見えるなんてこともない。あっという間に枝先に猫がいる枝のその一番太いところに腰掛けた。
「おいで、子猫ちゃん」お嬢の涼やかな声が辺りに響く。
ー悪いジブリだー俺の側で誰かがそう呟くのを聞いた。
見ると、猫は文字通り、目を丸くして、恐怖に震えている。いきなり木を登って大きな人間が自分に向かってやって来たら、そりゃ、猫にしてみたら怖いだろう。そんな猫の様子には、頓着せず、お嬢はにじり寄って行く。
「おいで、子猫ちゃん。怖くないよ」
お嬢はそう言うが、少しずつ伸ばされるお嬢の手に、猫は後退りした。そしてある時、耐えられなくなった子猫は一気に踵を返し、枝の先まで走り切り、そして木からそのまま飛び降りた。
と、同時に「圭!」とお嬢が叫んだ。
猫が跳んだ先に圭がいた。圭は咄嗟に頭を手で覆ったが、子猫はそこに着地し、そしてそのまま跳ね上がり、一目散にこの場から逃げ出した。
みんなが圭に駆け寄る。残念なことに、圭の腕には子猫の爪痕がしっかりと残っていた。
そしてその様子を、お嬢は木の上でゲラゲラ笑いながら見ていた。白い八重歯を覗かせながら。
たぶん、その時だったと思う。僕が、お嬢を好きだと気がついたのは。
関われば関わるほど、真っ直ぐで、ちょっぴり意地悪な彼女のことが好きになった。
そう、彼女はちょっぴり意地悪だ。
昨日だって、そうだった。
僕たち二人は、生駒にデートに来ていた。サークル終わりにご飯くらいなら二人で出かけたことがあったけれども、デートらしいデートというのはこれが初めてだった。先々週の僕の「どこか二人で出かけたい」という申し出に、お嬢が応じてくれた形だ。まさかデートにこぎつけられるとは思っていなかったので、どこに行くか決めておらず、それで慌てて圭に泣きついた。そして、圭が教えてくれたのが、この生駒山上遊園地だった。
「ここは、誰と行っても恋に落ちる遊園地やから」疑いの眼差しを向ける僕に圭は、そう言った。
正直、期待していなかった。生駒山のボロ遊園地に何があるってんだ。誰もがそう思うだろう。
僕たちが遊園地を訪れたのは、十六時を回った頃だった。それぞれで昼食を食べた後に駅で落ち合い、ケーブルカーに乗って遥々ここまでやって来た。
着いてみれば、予想通り、よく言えば味わいのある、悪く言えば、古臭い、そんな地味な感じの遊園地がそこにあった。
スリル満点のジェットコースターがあるわけではないし、ド派手なショーがあるわけでもない。
ただ、実際そこで過ごしてみると、それはそれで悪くない時間だった。僕たちは、あれこれと乗り物に乗りつつも、それでいて、のんびりとした時間を過ごした。園内には近所の公園のような気楽さが漂っており、疲れる前に椅子に座っては、丁寧に飾られた花を眺めた。
かといって、レトロなアトラクションに退屈していたというわけではない。大型テーマパークのように長時間並ぶこともないので、気に入ったものには、何度も並んだ。二人でゴーカートに乗るのは、ドライブデートみたいで(ハンドル席はお嬢に取られたが)、正直緊張した。大阪平野を見下ろすサイクルモノレールなんかは、本当に素晴らしかった。晴れていて良かった、そう思わせる圧巻の景色だった。
そろそろ日が落ちるかなという頃、僕らは殆ど学食みたいな食堂で夕食をとった。勿論小洒落た料理が出るわけなんかない。けれども、ここで夕食を取るのにはそれなりの理由がある。陽が沈むのをここで待つためだ。
僕たちは、なんでもないカルビ丼とラーメンを買って、食堂のテラス席に腰をかけた。
このテラス席からは、大阪平野が一望できた。どこまでも澄み切った空が広がり、その下には大都会が広がっている。あの高いビルがあべのハルカスで、その奥に見える橋が明石海峡大橋だ。六甲の麓まで見渡せるこのテラス席は、ゆっくりと沈む夕日を眺めるのに、これ以上ない特等席だった。
僕たちは、いくつもの取り止めもない話をしながら、夕食をとった。僕は二人のたわいもない会話が、たわいもない会話として成立していることに安堵した。なるほど。遊園地デートというのは、こうして二人の時間を味わうためにあるのだな。そうしみじみと思ったりもした。
やがて、西の地平に太陽が近づき、空が赤らみ始めた頃、ぽつぽつと街に明かりが灯り始めた。一番星を見つけたのが、それとほぼ同時だった。目の前のお嬢が、嬉しそうに笑った。僕たちは、星を見つけ、ビルが光る度、それを意味もなく報告し合った。陽が落ちるに従って、次第に、地も空も光の数は増えていく。ただ、陽が落ちた途端、直ぐに地上の光が空を圧倒した。一面に、何億もの小さな輝きが敷き詰められている。
「こんなにも人がいるんやね」お嬢が呟いた。
光の数のは、人の数を表していた。僕はお嬢の呟きで、そのことに改めて気がついた。世の中にはこんなにも人がいるのに、全くの偶然にお嬢と出会った。そして、今その人と共に食事をしている。その不思議が、急に胸に迫ってきて、なんだかセンチメンタルな気分になった。
圭の言っていた、誰とでも恋に落ちる遊園地というのはこういうことなのだろうか。人と人との出会いの偶然性に、愛おしさが止まらなかった。
とっくの前にラーメンもカルビ丼も食べ切ってはいたが、暫くここを動く気にはなれない。
次第に二人の間に交わされる言葉は少なくなっていった。その圧倒的な光景に魅入ってしまったというのはあるだろう。
けれども、同時に僕は別の感情に侵されつつもあった。
ー漢を見せろー頭の中で、そう叫ぶ声が響いた。こんなにも完璧な夜はない。今日が駄目ならどの道駄目だ。後は覚悟を決めるだけ。そうわかっているのに、怖くてたまらない。テーブルの下で握った拳が、驚くほど汗をかいていた。何度も手を開いては、そっとズボンで拭った。それを何度繰り返しただろう。いい加減、間がもたなくなってきている。
僕は、お嬢が夜景に目をやったその時に、何度か声をかけようとした。けれども、その度に声にならない空気だけが吐き出された。口をぱくぱくさせている様子は、側から見ていれば、さぞ滑稽だっただろう。だが、そうしているのも限界だ。腹を括らねば。
そう思い、今度こそと口をしっかりと開いたその時、急にお嬢がこちらを振り返って言った。
「そろそろ、行こっか」
先を取られたと思った。だが、同時に今が機だと勇気を出した。
「そしたら、飛行塔、行ってから帰らん?」
飛行塔。生駒山上遊園地にある日本最古のアトラクション。九十年以上前からあるそれは、戦時中には、防空監視所として使用されたこともあるという。中央の塔の上部にある回転具には愛らしい四機の飛行機が取り付けられている。アトラクションが始まると飛行機はゆっくりと吊り上げられ、塔を中心に周遊する。観覧車のないこの遊園地において、夜景を一番高所から堪能することのできる乗り物だ。ロマンチックでないはずかない。
生駒山上遊園地でデートをすると決まって、インターネットで調べた時から、告白するならここだと決めていた。さっき、横を通った時も、ここで間違いないと思った。
「飛行塔、ええやん。そうしよ」八重歯を見せて笑うお嬢を見て、僕はいよいよだと唾を呑み込んだ。
僕たちは、そのまま飛行塔に向かい、係の指示に従い、四機ある飛行機の一機に二人きりで座った。赤くて愛らしい飛行機に、お嬢は子どものようにはしゃいだ。
「めっちゃテンション上がってるやん。あの前に座ってる小学生の子より、声大きいで」
「やって、こんなレトロで可愛い飛行機に乗るねんで。それに、絶対夜景綺麗やん。本当、今日、ここ、来れて良かったわぁ」本当に今日、ここに来て良かった。この遊園地を教えてくれた圭に感謝しなければならない。だからこそ、それに報いる良い報告をしよう。明日は祝勝会だ。
いかにも遊園地というあのブザー音が鳴り響き、徐々に飛行機が上昇と旋回を始めた。ゆっくりと空が近づいてゆく。飛行機の下にあの夜景が見え始めた。キラキラの世界。近鉄百貨店の宝石売り場を丸ごとひっくり返したって、こんな輝きにはお目にかかれないだろう。夜風を切りながら、飛行機は回り続ける。
そこに、二人だけの世界。キラキラの世界の中に、僕たち二人きり。愛を伝えるのに、これほど相応しい瞬間はない。ないだろう。
なのに、どうして、こんなにも難しいのか。
もし、こんな宝石のような瞬間に、振られるようなことがあったら? この先、美しい景色を見る度に今日のことを思い出すのだろうか。どうしてもそんなことを考えてしまう。告白しない限りは、この尊き時間を尊いままに、記憶に留めておくことができる。それはそれで良い人生なのかもしれない。そもそも、別に今日付き合い始めなくても良い。もっと普通の、何気ない日常を背に愛を伝えても良い。
この素晴らしい夜に、大した取り柄もない大学生の僕はあまりにも不釣り合いだった。
そうだ。今日じゃない。いつかはわからないけれど、今日でないことは確かだ。今日という日の思い出は、このまま美しく残しておこう。
そう決めかけた時だった。隣の彼女が言った。
「なぁ。こんなロマンチックな場所に来たら、言わなあかんこと、あるんとちゃう?」お見通し。そんな声が聞こえた気がした。吸血鬼みたいな八重歯を唇の間に覗かせて、意地悪に笑う彼女は、背後の景色と相まって、魔的な美を放っていた。
「や、夜景も綺麗やけど、お嬢の方が……」俺はおずおずと言った。
「ほんまに、言いたいこと、それでええの?」畳み掛けられる。どこまでも真っ直ぐに見つめてくる。心臓が高鳴る。ああ。もう、ええい、ままよ。
「好きや。付き合ってくれへん」
いざ、そう言うと、さっきまでの彼女の勢いはどこに行ったのか、急に顔を背けられた。そして、彼女は呟いた。
「もっと、はよ言ってよ」夜空の中にいてもわかるほど、横顔が赤らんでいた。
予想もせぬ反応だった。まさかと思いつつ、意を決して、今度は僕から攻める。
「それは、オッケーってことやんね」
やや間があって、彼女が答えた。
「今更何言ってんの。当たり前やん」小さい声だが、はっきりとそう言っていた。
奇跡が起こった。こんな可愛い人が僕の彼女? 信じられない。飛行機は徐々に下降を始めていたけれども、僕は天にも昇る心地だった。ああ、世界はこんなにも美しかったんだ、そんなキザなことさえ真面目に思った。
やがて、飛行機はゆっくりと地上に辿り着き、空の旅は終了した。
その時に僕はふと気がついた。たった今、彼女が僕の彼女になった。つまりは、これからもっと色んなことを二人で一緒にできるということだ。……手、繋げないかな。
告白が成功したことしたことで、気が大きくなっていた。
「あ、待って」先に飛行機から降りようとする彼女の手を、僕は大胆にも掴もうとした。
と、彼女の手が思わぬ方向に動き、僕の手は空を切った。
彼女はそんな僕を振り返って、意地悪に笑った。
「それは、また今度ね。楽しみは後にも取っておかな」
やっぱり彼女は意地悪だ。
ああ、あの時彼女が手を繋いでくれなかったのは、他人の目があったからだろうか。そんなことに気恥ずかしさを覚える性格ではない気がするのだが、もし、そうなのだとしたら、人気のない夜の奈良公園であれば、手を繋いでくれるのだろうか。
僕は想像した。二人寄り添って歩く。彼女は僕の左を歩く。たわいもない会話をしながら進んでいくと、偶然僕の左手が彼女の手首に触れる。本当はお互い少しずつ驚くのだけれども、僕は何気ない風を装い、彼女の手首に指先をそのまま這わして、手を握ってしまうのだ。さぞ柔らかいことだろう。そのまま二人、恋人繋ぎをしたまま夜の公園を闊歩する。
そんな妄想が、現実にも少しだけ出てきてしまったのだろう。指先がもぞもぞと動き、それが骨ばった手の甲にあたった。圭の手だ。
その瞬間に夢が解けた。野郎の手なんか握ったって仕方がない。
現実に戻り、東大寺脇の階段を僕たちは静かに登りきった。いよいよ誰もいない。
おまけに、さっきまで空にあった三日月すら木の影に隠れて、不気味な暗がりの中に迷い込んでしまった。
「なあ、圭。ほんまに誰もおらんけど、これで道合ってんねんなあ」
「合ってるよ。奈良公園なんて、俺にとって庭やしな。幼稚園の頃から何回来てると思ってんねん。人が少ないのは、先々週まで燈花絵やってたからかな、たぶん。そん時は、もうちょい、おったと思うで」
ゆっくりと辺りを見渡す。とにかく暗い。お化けなんか出てきてもおかしくない。と、大きな鐘とそれを吊るす楼が目に入った。
「これ……?」
「あ、鐘のことか。東大寺の鐘楼。でかいやろ。ほんまにいつ見ても立派やなあ」
圭はそう言ったが、僕の心はまたもや、全く別のところに飛躍していた。鐘そのものに興味はなかった。人がいなくて、おまけに、陰を作る楼があるという事実だけが重要だと気付いてしまった。
……キス、できるやんな。ここなら。
楼の陰でそっと抱きしめて、そのままお嬢の柔らかい唇に僕の唇を重ねる。するとお嬢の口の隙間から、小さく跳ねるような息が漏れる。きっと甘い時間。駅中に売ってる大仏プリンくらい甘い時間。
そんな邪な妄想がまた止まらなくなった時だった。
奥の暗闇に急に青白く光る四つの点を見つけた。
僕は思わず短い叫び声を上げた。
「急に叫ばんといてえな。びっくりするわ」圭が僕を詰る。
僕は夢中で光るそれを指差した。
「あ、あれか? あれは、鹿の目。鹿の目は暗闇やと光るんよ。ここは鹿の国やからな」圭はこともなげに言い放った。
光の正体を知り、安堵すると共に、鹿に自分の心中を見透かされたような、何とも言えないきまりの悪さを感じた。
けれども、こんな二人っきりの暗闇、邪なことを考えるな、という方が難しいのではないか。
圭は、どうなんだろう。その好きな子をここに連れて来るつもりなのだろう? ここをただの道と同じような気持ちで、通り抜けられるのだろうか。
やがて、道は石段となり、その石段を登った先にそれは現れた。
「二月堂……か」僕はつぶやいた。
「そう。二月堂。ここに来たかってん」
目の前に聳え立つ大きな楼。丘の麓から山頂に向かって、太い木の柱が何本も組み敷かれ、その上にお堂が乗っている。お堂には清水寺と同じように舞台があり、そこから周囲を見渡せるようになっていた。
大学に入学した頃に、一度サークルの仲間との親睦会でピクニックと称してここに来た。地元民の圭やお嬢にとっては、飽きるほど来た場所らしく、その時は二月堂の名の由来となった祭りの話など、あれこれと解説してくれた。正直解説はあまり覚えていないが、よく晴れた日で、力強く空に向かって立つお堂の姿は、記憶に残っていた。
だが、今日、丘の下から見上げた二月堂は、かつて見た元気の良い姿とは少し違っていた。静かな夜の中で、身に纏った数多の行燈に光を灯した二月堂は、荘厳で厳粛で、それでいてどこか大らかな佇まいをしていた。
「美しいやろ。しかも、登れんねんで。ここ」
「こんな時間でも?」
「うん。清水の舞台はお金払わなあかんし、そもそも夜は入られへんけど、ここは二十四時間無料。タダ。そしたら、行こか」
圭は僕を連れてそのままお堂に続く石段を上がっていった。さっき登った石段とはまったく違って、瓦屋根で覆われており、既に寺の中にいるようで、趣深かった。こんな立派なお堂に、夜に上がれるなんて。京都だったら有り得ない。しかもなんせ人が少ない。この時期、京都の夜間拝観に行こうものなら、日によっては列に並ぶ覚悟だって必要だ。それが、ここではこの状態だ。
真っ直ぐ続く石段をその頂まで登り、僕たちはお堂の舞台へ上がった。奥の方に二組いるだけで、それ以外には誰も見当たらない。
さっきまで下から見ていた行燈が目の前に現れ、その穏やかな黄色い光に、僕は思わず溜息をついた。
「堂に見惚れてるやん。けどな、それだけちゃうねんで」圭は僕を舞台の真ん中にある木の長椅子に腰掛けさせた。そして「ほら見てみ」と手を広げて舞台の先を示して見せた。そこで僕は、漸く圭が僕に見せたかったもの理解した。
それは夜景だった。暗い大仏殿の先に広がるどこまでも素朴な奈良盆地の夜景。昨日見た、あの満天の星の大阪平野の明るさには、当然及ぶはずもない。けれども、その素朴さの中に厚かましくない趣きがあるのだ。大阪平野の摩天楼は蟻のような人の数を想像させたが、この景色はこの地に暮らす人々のそれぞれの営みを思い起こさせた。
そして、ふと思った。たぶん、お嬢が本当に好きな景色は、こっちだ。直感的にそう思った。僕でいいと言う彼女だもの。こういう景色が好きに決まっている。またお嬢をここに連れてこなくては。次のデートはここに誘おう。そうして、この景色を見た帰り道に手を繋ごう。
想像はいくらでも膨らんだ。それはそれは、幸せな時間だった。
と、「なあ、聞いてるかあ」と圭。
正直聞いていなかった。それどころではない。
圭が大きく溜息をつく。
「あーあ。余計な妄想してたんやろうけど、ちょっとは、俺の話聞いてもええやん?」
「あぁ、わりぃ」流石に素直に謝る。余計な妄想までしていたことを当てられては、仕方がない。
「これやから、京都人は」
「京都は関係ないやろ。それに、京都って言っても、俺の家は、洛外やし」
「それでも、俺からみれば、京都人や。今、京都の人は何でも奪っていきはりますなあって話をしようと思っとってん」
「何の話や?」
「一つは、リニアの話よ」
「ああ。それは、しゃあない。経済効果がちゃうからな」奈良京都に暮らす人々にとって、リニアモーターカーが、京都を通るか、奈良を通るか、それは、いつも居酒屋で楽しい喧嘩が起きる大きな問題だった。
本音を言うと、どっちだっていい。経済効果を考えると京都だろうと思うし、いやいや、新幹線が通っているのに、リニアもというのは欲が過ぎるだろうとも思う。
ただ、今日のこの奈良の景色を観て、奈良には何となくこのままでいて欲しいと思った。こんな夜景が、こんなに穏やかに眺められる場所が、なくならないで欲しい。少なくともお嬢と二人でここに来るまでは、変わらないで欲しい。大らかな姿で、僕たちを受け入れて欲しい。
そんなこと考えているとは知らずか、圭は今度こそ自分の話を聞かせようとする。
「いつものおまえやと、いつデートに誘うん、とか、誰誘うつもりなん、とか聞いてきそうなもんやん。そんなことに興味なくなるほどに、惚けてるってわけやな」
「全く、圭のアドバイスのおかげだよ」
「そう思ってんなら、ちっとは、俺にも興味持ってもええやん?」
「ほんまやな」
「ほんまや、とかじゃなくて、聞いてみいって」
「ええ、それなら……。ええと、いつ誰とデート行くん?」酔った頭は既にお嬢のことでいっぱいで、実際これっぽっちも圭のことに関心を持てなかった。僕は圭の言葉を繰り返しただけだった。
ただ、そんな僕に、圭は冷たく言った。
「ええから、よう聞いてや。二年後の夏、ここで静に」
「え、今なんて」
「だから、静に。お嬢に」
圭はただ繰り返した。
まず、僕は急に言葉がわからなくなった。頭から足の先まで、急に固くなって、まるで一つの塊になってしまったようだった。圭が何を言っているのか一つとして理解できない。頭の奥にアナログテレビの砂嵐の轟音を聴いた気がした。何も聞こえない。何も映らない。ただ、不快なノイズだけが忙しく飛び回っている。僕は、その画面がチューニングされ圭の姿を映し出せるようゆっくりと時間をかけて謎の言葉を咀嚼していった。
そして、漸く認めざるを得ない事実に逢着し、逢着して、やがて僕は愕然とした。
圭もお嬢のことが好き?
「いつから?」僕は問うた。最初に無理やり捻り出したのが、それだった。
「ずっと昔から。気ぃついたら、好きやった」
僕はまた推し黙った。続く言葉を紡げなかった。僕は急に隣に座る男が恐ろしくなった。何故気が付かなかったのだろう。二人が幼馴染だということは、知っていた。今思えば、圭がお嬢のことを好きなことは、当たり前なことだったように思える。
そして、何より、お嬢との本質的相性は、圭に分があるように思われてならないのだ。それは、今目下に広がる大展望を比べてみても明らかだった。一時のロマンチズムより、懐いっぱいに広がる愛。本当に最後に彼女が求めるものは、きっと後者だろう。それをよくわかった上で、圭は僕に生駒の遊園地を紹介した。
圭は自分より遥かに強いのだという念は、拭いようがなかった。
「そんな大事なことは、もっとはよ言えよ」怒りなのか、恐怖なのか、失望なのか、自分でもよくわからない感情が胸の辺りで、のたうち回った。
「小学生で一回、中学校の時にも一回、フラれてるからなぁ。しかも、大学入ったら、お前とサークル一緒になって。お前とあいつ、顔見てたら、そりゃ相思相愛なんやなってわかるし。恋っていうのは、きちんと終わらな、次には行かれへんもんやからなあ」圭はあっけらかんと答える。
そして、そこで、圭がこれまで手を貸してくれていたその意図を漸く理解した。
「ってことは、何。俺とお嬢の恋が早く終わることを願って、俺にこれまでアドバイスをくれてたってわけか?」
「よ! 御名答。大学生カップルなんて、社会人になったら、大抵別れるからな。それまで待つのが、俺の勝ち方やなって、気付いたわけ」
僕は僕の恋が刹那的だと言われた気がした。僕は地元京都で採用試験を受けようと考えている。お嬢は奈良で就活すると言っていた。丹後勤務などにならない限り、決して遠距離とは言えない、そんな二人の距離だろう。それでも、その僅かな距離が些細なすれ違いを生み、やがて大きな亀裂を生み出すかもしれない。
だが、圭は、ここで告白をすると言った。それは、愛する奈良で、愛する人と生きていこうとする圭なりの一つの覚悟なのだとも思う。
ー大学生カップルなんて、社会人になったら、大抵別れるからなー圭の言葉が呪いのようにべっとりくっついて、リフレインされる。
「圭。なんで、俺をここに連れてきたん?」僕は圭を睨んだ。
「宣戦布告」圭は唇の端をゆっくりと捲り上げた。僕にはどこまでも不快な笑みだった。
その笑みと同時に、僕は僕の敗北を確信した。根本的に違うのだ。大学生の浮かれた気分で恋をした僕と、一途に生涯をかけて愛そうとする圭とでは、愛の重みも、覚悟の大きさも、人としての器も、お嬢に関することは、何もかも差があるように感じた。
今日一の大きな溜息が出る。「おまえな……。俺、お前に勝てる気がしねえよ」
ところが、そう言うと、圭が不意に怒鳴った。
「おい。向上心のないやつは、阿保やで」
「急に大きな声出すなって」あまりに急な大声に、僕は慌てた。
「ええから、聞けって」圭の目はあまりにも真剣だった。その剣幕に僕は思わず頷いてしまった。それを見て圭が続ける。
「おまえは、おまえで全力で付き合え。社会人になって、落ち着いて、それでも静がおまえのことずっと好きなら、俺やって諦めるよ。好きな人の幸せ、願えんほど俺も小物じゃない。けどな、俺やって、まだ、諦めきれへん。この二年が勝負やと思ってる。全力で自分を磨いて、磨いて、三度目の正直、狙ってやる。さっき、恋っていうのは、きちんと終わらんと次に行けへんって、俺、言ったけど、あれ、ほんまはお前のことじゃなくて、俺のことなんや。まだ、俺の恋は終わってへん。勝とうが負けようが、きちんと終わらしてくれ、俺の気持ちを。こんなん、おまえにしか頼まれへん」
悔しいかな、圭は僕が知る中で、誰よりも誠実だった。どこまでも真っ直ぐで、人間として好きだと思った。恋敵であろうとも、俺は圭のこと嫌いにはなれなかった。
僕は圭のお嬢を愛した長い年月を思った。一人の人をそれ程一途に思い続けるなんて、簡単ではない。一途と言えば聞こえは良いが、決して甘い想いだけを抱いてここまできたわけじゃないだろう。嫉妬に震えた日、諦観した日、最後まで足掻くという覚悟を決めた日、そういう幾つもの辛い日々を乗り越えて今日に至るはずなのだ。それは時に呪いように感じられたかもしれない。それでも、圭は大きな愛を持ち続けた。どう考えても、僕より優れた人間で、お嬢に相応しいと思った。こういう人にお嬢を幸せにして欲しいとすら思った。
だけれども、だからこそ、圭の願いに真摯に向き合わなければならないとも気付かされた。事実、今日という日にお嬢が好意を寄せる人物は僕なのだ。もしかすると、将来いつか、僕の愛が圭の愛を上回ったその時、その呪いは解けるかもしれない。圭が今日、僕をここに連れてきた意味を考えなければならない。
「しゃあないな。あちこちいっぱい出かけて、思い出作って、おまえの入る余地なんてないくらい、幸せな二人になってやる。やけど、な。二月堂だけは、ちゃんと残しといたるわ」
圭は何も答えなかったが、少し俯いて笑った。
それから暫く二人でただぼんやりと、大らかな街明かりを眺めていた。温い夏の夜風は、熱った身体を冷ますのに時間がかかった。すぐには、ここから動く気にならなかった。
どれくらい経っただろう。僕はふと思いついて呟いた。
「なあ、圭。未来なんて分からんからさ、結局二人ともあかんかったら、どうする」
圭は小さく吹き出した。
「そりゃ、しゃあないよな。そん時は、駅前のの居酒屋でまた一緒に呑むしかないやろ」
「せやな」
「じゃあ、俺が別れたり、お前が付き合ったり、俺らのどっちかが結婚した時は……?」
「それもやっぱり、飲み屋かなあ」
「……ったく、恋って罪やなあ」
「せやなあ」
僕は圭の口調にどこかのんびりとしたものを感じた。僕も同じ気持ちだった。悠久の人の世を受け入れてきた古の都が、そんな気持ちにさせるのだろうか。けれども、その内に秘める純粋な情熱を僕は知っている。僕はそんな奈良が好きなのだ。
だからこそ、再びお嬢に愛を伝える場所は、ここでは駄目だと思った。
僕は二度とここには帰って来ないつもりで、その穏やかな夜景を目に焼き付けた。
あをはるによし