3話未完【TL】堕ちていく狭間
ムーンライトノベルズのナイトランタン企画に投稿しようとして没になった。
没理由:話が若干ハード寄り。
無感動美少年姻戚義弟()/復讐系黒髪快男子/未亡人ヒロイン
※身体的損傷のある登場人物に対して差別的・侮蔑的な描写・表現があります。
1
彼女は映画を観ていた。昼間にテレビで放送されている、短く編集され広告の挟まれる映画である。
真剣に関心を持って観ていたのではない。ただ意識が傾いたのである。
天国には、すぐに行けるの?
映画の中の異邦人の女児があどけなく訊ねた。吹替であるなら、唇の動きとは合わない。一体その返答は、どのように気の利いたものであるか―
それが気になったのだ。
しかしリビングをぬう……と覗く人影に気付き、その台詞を聞き飛ばした。
緋墨(ひすみ)燈禰(ともね)は楡神(ゆがみ)グループの御曹司と結婚し、楡神燈禰と改まった。結婚しおよそ1年半。夫は死んだのだ。年上の愛人とその息子と、"家族"水入らずの最中に、事故に遭って死んだのだ。燈禰の夫楡神と、彼が父から継いだ年上の愛人は胸を強く打つなり、頭を強く打つなりして死亡した。ところが一人、生き残ったのがある。楡神の異母弟で、楡神2代に次ぐ愛人の息子だ。
汐恩(しおん)翼羅沙(さらさ)である。横転して炎上する車内から助け出された彼の身体の半分は顔を含めて大きなケロイドに覆われている。ところがこの不幸が、何かの間違いで天空から堕ちてきてしまったような美しすぎる少年に妖しい影を添えた。髪は生え、眉も目も無傷ではあるが、顔半分、耳までが、白いミミズののたくったような生々しく痛々しい痕になっている。
「どうしたの、翼羅(さら)ちゃん」
燈禰は虚空を望むようにリビングを覗く不気味な美少年を呼んだ。彼の目には生気がない。しかし燈禰は努めて明るく振る舞った。事故時に頭を強打し、一時は一生意識は目覚めない可能性があるとすら示唆された。
「なんでもありません」
首もケロイドになっていながら、彼は声帯も無事であった。凜とした声は寒気のするほど整った美貌とよく合っている。
「おいでよ」
燈禰は唯一の拠り所であった母親を亡くした翼羅沙を引き取った。正妻ではあるけれど、多少の引け目があったのかも知れない。
「一緒に、テレビ観よう」
「いいえ」
翼羅沙の視力に問題はないはずだった。しかし彼はどこにも焦点を合わさず、燈禰を見ようともしない。ガラス玉のような瞳を、機械的に目蓋が上下する。長く濃い睫毛が重いのか、彼の瞬きは極端である。目元に表情がない。
「翼羅ちゃん……」
汐恩翼羅沙は清らかな美しさを持ちながら妖怪めいていた。それは重い火傷痕を差してのことではない。足音も気配もない。寡黙で笑わず、怒りもない。学業成績は非常に優秀なようである。忘れ物もなく、記憶力もよく、物知りである。いくらか同年代の男性と比べると嫋やかで、背も低く、高いところの物を取るときに背伸びをしたり台座を用いるのが人間らしかった。
しかし燈禰には、彼が意識を取り戻し、母と異母兄の死を知ったときの無関心ぶりが強い印象としてこびりついている。それまでの彼のことを燈禰は知らないけれど、このような恐ろしい子供と、楡神の愛人はどう接していたのか。いいや、知る機会はあった。翼羅沙の通う学校である。復学したときに、彼の担任の教師から、人が変わったようであると説明を受けた。やはり事故で受けた大きな衝撃と、精神を蝕むほど外貌を変える不可逆的な大怪我が、彼の人格ごと変えてしまったに違いない。
◇
何気ない昼下がり、燈禰はうとうとして、気付けば眠りについていた。彼女が目を覚ますと、そこは寝室の天井である。いつの間にか寝ていたとはいえ、リビングにいたことははっきりとして、彼女は戸惑った。そこへきて、肩と肘の違和感である。燈禰は両手首を縛られ、ベッドに括り付けられていた。
一体誰が、何故……
燈禰は暴れたが、縄が解(ほど)ける気配も、緩まる様子も、千切れることもない。ただ皮膚が痛め付けられていくだけである。
「翼羅ちゃん!翼羅ちゃん!助けて!」
脚は自由だった。踵でシーツを蹴った。ベッドが軋る。
「翼羅ちゃ……」
「助けません」
気配も音もなく、翼羅沙は寝室の隅に立っていた。何をするでもなく、亡霊みたいに直立していた。今はベッドに縛られた燈禰を顔ごと見下ろしているが、やはり彼女を見ているというよりは、虹彩がそちらのほうを向いているというか感じだった。
「翼羅ちゃん、どうしたの?何があったの……?」
翼羅沙は平然としている。強盗から身を潜めているのではないか。燈禰はふと閃いた。
「何もありません。どうもしていません」
彼は冷淡に答えた。いいや、冷淡も何も、そこに感情はなかった。
「どうして、わたし、縛られて……」
翼羅沙は燈禰を見下ろしたまま動かない。大火傷の痕が退廃的な美を添えて、無表情な翼羅沙を妖しいものにした。彼の身の上を考えれば酷なことだけれど、大きく外貌を損なう怪我はあるが豊かな愛嬌や言葉数さえあれば、燈禰は彼を恐れはしなかった。彼女は同棲する美少年のその無機質ぶり、完璧ぶりを不気味に思い、恐怖し、だがそれを見せないように努めている。
人生を大きく左右するあの事故が、心身ともに彼を変えてしまったのだ。
「楡神さんは燈禰 義姉(ねえ)さんにとって、いい夫でしたか」
翼羅沙にはベッドに寝かされた女の拘束など見えてはしない。
「え……?」
何故そのような質問を投げかけたのか、この奇怪な少年の意図が分からない。問いの内容よりも問われた理由を考えているうちに、翼羅沙は寝室を出ていってしまった。
「翼羅ちゃん!」
それから数分経つとインターホンが鳴った。燈禰は焦った。翼羅沙が出たのだろう。しかし一体誰が来たのか。助けを求めるべきか、否、その訪問者というのとこの拘束は関係があるのではないのか……燈禰は無駄だと知りながら暴れた。手首の薄皮を固く結ばれた縄の繊維が削っていく。足音が近付いてくることにも気付かなかった。翼羅沙ではない。彼は跫音を立てない。いつでも幽霊みたいに、ぬっとそこに存在する。爆誕したように。そこから生えてきたように。
寝室の扉が乱暴に開かれる。燈禰はびっくりして陸に揚げられた魚みたいに跳ねた。入ってきたのは若い男である。この有様をみても驚く様子はない。この状況の関係者に違いない。
「どなた……?」
震える声で誰何(すいか)する。20代半ばもいっていないだろうか。燈禰より年下を思わせる。体格からして成人男性を思わせる。形の良い額を晒した艶やか黒髪の美丈夫である。
「楡神の売女(ばいた)め、赦さないからな」
ぎしりとベッドが軋み、陰に覆われる。男は燈禰に跨り、その手が首に回った。
「え……」
「殺してやる」
男の憎悪に満ちた目が煮え滾っている。
「あっ!」
喉に男の拇指(おやゆび)が二つ重なった。徐々に体重がかけられていく。
「本当に、殺していいんだな?」
彼は誰に問うたのだろう。
「はい」
翼羅沙が迷いもなく答えた。
「や……………め…………」
燈禰は恐怖で身体が動かない。
「楡神………!オレの姉貴はな!楡神に殺された!」
男は吠えた。しかし彼の失敗は、首に両手を回しながら、この告白をしたことだった。おそらく彼の期待した打撃を、朋夜は然程受けていない。何故ならば彼女は今、自身の危機に瀕しそれどころではないからだ。
「おまえのご主人様に殺されたんだ!オレの姉貴は!」
燈禰の耳には必要以上の声量、必要以上の語気で届いているはずだった。しかし真っ白になっている彼女の頭に引っ掛かったかどうかは定かでない。反応から推せば、おそらく聞いてはいない。
「オレの姉貴と、その子供がどういうふうに死んだのか、思い知れよ!」
そしてとうとう、容赦のない力が燈禰の首に加わった。喉を潰すどころか、折ってしまいそうである。
「ぐ、…………ぐぅ………ァ、」
ただでさえ体格に差があるというのに、両腕を縛(いまし)められているのだ。男を払い除ける術(すべ)はない。
窒息と加圧に燈禰は口を大きく開き、やがて泡を噴く。嗽(うがい)のような音が喉を灼く。シーツの繊維を蹴り続けた踵もまた焼けていく。
赤らんでいく顔、涙ぐんでいく目、濡れた唇と溢水する口腔を、若く活力のある男がどう見たか……
彼は自嘲と侮蔑に口角を上げ、鼻を鳴らした。首への圧迫がやむ。燈禰は念願の息を吸い、灼けついた喉の痛みにがふがふと咳き込んだ。翼羅沙はあまりにも静かすぎて、不在も同然であった。悪意と害意と怨恨に満ち満ちた謎の若い男は危ない獣のような息遣いだが、これも殺伐とした寝室に染み渡っている。ひとつ肉体的な苦しみから解放された燈禰の咳嗽(がいそう)ばかりが耳障りに痛々しく谺(こだま)する。
「いいのか、好きにしちまって」
「はい」
翼羅沙の返事には躊躇いも容赦もなかった。見知らぬ憎悪の男は燈禰の服を引き千切る。キャミソールなども襤褸布同然の脆さで破かれて、素肌と紺のブラジャーが露わにそれだけではない。燈禰が世間に隠してきたものも暴露される。彼女の右腕は肩にまでかけて、翼羅沙ほどではないけれど火傷痕と思われる異質の変色に覆われていた。これのために彼女は夏場でも長袖で、プールにも公衆浴場にも行かなかった。外では普段から手袋を嵌めていた。複雑な生まれで孤独の身となっただけでなく、外貌に損傷を残した翼羅沙を哀れみ手元に引き取ったのは、自身のこの傷に対する感覚も手伝っていた。
若い男はその傷に眉を顰めた。昂った気分に水を差されたような気分らしい。だが彼はすぐにまた別方向の活気を取り戻す。
「なんだよ、その傷。汚い」
そこに悪意はあったのか。驚きのあまり飛び出して反射的な憎まれ口だったのか。この男の事情は知らないけれど、燈禰の後ろめたさを突き刺して捩り、抉り取るには十分だった。彼女は顔面を殴られでもしたかのごとく強張って、やがてその眼球をてらてらと濡らした。
「だから楡神に、放っておかれたんじゃないのか」
男の口元が残酷な弧を描いた。
楡神はこの傷を婚前から知っている。外を出ることを嫌がる燈禰に、この治った傷を今度は消すよう治療の手配をしたのは彼だった。だが、元のとおりというわけにはいかない。しかし今の状態でも、幾分前よりは素肌に近付いたのだ。不自由さはあまり改善されなかったけれど。
楡神を恨む男は、燈禰の眦から涙が落ちていくのを見ると狼狽えた。
「泣けば赦してもらえるとか、思うなよ」
彼は忌々しさと面倒臭さを隠さない。
「縄、外していいか」
「どうぞ」
「逃げない?」
「首を縛ったらいかがですか」
翼羅沙はやはり平然として、事務的であった。彼がそこにいたことすらも忘れるほど存在感がない。
「首か……縄、外してくれ」
翼羅沙は物音ひとつたてず、燈禰の傍にやってきた。
「翼羅ちゃん……」
「はい」
「どうして……?わたしのこと、恨みに思っていたの…………?」
「いいえ」
彼は固く結ばれた縄を容易く解いていく。腕が痺れ、すぐに動けるわけもなかった。また逃走を企てたところで、勝算がないことをすぐに理解してしまった。とすれば、無駄に足掻くだけ、この男の害意を煽るだけだ。
「首を縛りますか」
翼羅沙の提案に、男は鼻白む様子だったが、迷いながらも頷いた。燈禰の首に縄が巻かれる。
「翼羅ちゃん……嫌だよ、助けてよ」
「助けません」
彼の手は迷いなく燈禰の首に縄を巻き付ける。
「翼羅ちゃん……」
「自分の母親を卑しめる存在のあんたを助けるわけないだろ」
翼羅沙から縄を預かった男は、自身の手に余った部分を巻いて短く持つ。
「い、痛い……」
甘皮の擦り切れて赤くなった手が首を縛る縄を押さえた。長いこと同じ体勢をとっていた痺れもあるが、右手はそこに癒えない古傷によるものも加わっている。
「痛いか?それはよかった。苦しんで死ね。オレの姉とその子供みたいに……」
首の皮膚を縄の繊維が擦れていく。
「この女を裸にしろよ」
「はい」
馬乗りになる男の後ろで翼羅沙が動く。
「いや……!」
燈禰は目を見開いて身を捩った。しかし翼羅沙の手は彼女を下着に剥く。靴下も脱がせ、彼女は敗れた布を纏っただけのブラジャーとショーツだけになってしまう。
「見ないで……っ」
「いい気味だな。楡神のメス豚め」
男は鼻を鳴らして嗤う。そこには無理矢理な感じがあった。彼の顔色が青褪めている。
「おまえはオレの姉貴を殺したんだ!」
燈禰は涙を溜めながら首を振った。まったく覚えがない。人を殺したことなどないのだ。利き手は熱傷の拘縮で、不自由というほどではないにせよ、人を殺せるほど意のまま自由気ままというほどには治らなかった。
彼は怒鳴り、燈禰の肩を叩いたのか揺すったのか分からなかった。
「ああ!乱暴はやめて!」
彼女も恐怖と不安で半狂乱になりながら叫んだ。
「被害者ぶりやがって……オレの姉貴が受けた痛みは、こんなものじゃない……!」
男は泣き出した燈禰に舌打ちすると、身を引いた―かと思われたが、彼は燈禰のショーツを脚から抜いた。
「やめ……て……!」
「うるさい!姉貴の受けた屈辱を、おまえも思い知れよ!」
燈禰は上体を起こし、膝を閉じ、シーツに尻を擦って後退る。頸へ縄が食い込んだ。伸びてきた両手が腿を掴み、彼女はまたシーツに尻を擦って、後退った分より長く引き寄せられた。あられもない場所を見せつけてしまうのを、利き手よりも反応の速い左腕で隠した。
「楡神とヤりまくってたクセに、今更純情ぶるなよ、くそビッチ」
男の手が彼女の腕を掴んで投げ捨てる。
「やめ……っ!」
引き攣れた彼女の声は届かない。男の股に聳え勃つものが視界に入って、燈禰は固まってしまった。拒否の言葉は口から出てこなかった。抵抗もできない。本能が生命の危機と引き換えに、それを無防備に受け入れてしまった。
粘膜が火傷するみたいだった。利き手を焼いたときとは異質の感覚だけれど、それは灼けるような熱さと、身を裂かれるような衝撃だった。ぶつり、とした軋みもある。
「い、いたい……っ!」
「嘘吐くなよ、絶倫女」
久々に、それも慣らしもせず、恐怖に打ち震えている状態で無理矢理入り込まれているのである。しかし人の防衛本能は皮肉なものだった。肉体の損傷を免れるために、そこはすぐさま、男を愚かに錯覚させる反応を示した。しかし燈禰に自覚はなかった。
「濡れてきたぞ、淫乱め……」
言い聞かせるように彼は腰を引いてから、引いた分以上を突き入れた。
「ああ!」
内臓が迫り上がる。乱暴な摩擦に粘膜が熱く痛む。息苦しさに呼吸が追いつかない。頭が軽くなり、その分首に重みがかかる感じだった。眩暈もする。何が起きているのか理解できていない。否、理解することを拒んだ。ただ痛みばかりによって彼女は自身の存在を知る。
「楡神に復讐してやる。姉貴がどんな思いで死んでいったか。姉貴がどんな思いで自分の息子を殺していったか!」
怒りを訴えるだけ、燈禰の中に打ち込まれた悍(おぞ)ましい杭が膨れた。ばつ、ばつ、と肉がぶつかり破裂する。
「おまえを孕ませて、オレの子を産ませて、追い込んで、あんたも子供と心中しろ。こんな火傷じゃ済まさない。焼け死ね」
呪詛だけが耳に入り、そして思考の一枝に絡まった。赫灼(かくしゃく)とした火炎と、どの場所でも暗夜にしてしまう黒煙の対比、そして身体の焼ける苦しみがまざまざと甦る。
「い、いやぁああああ!」
燈禰は頭を真っ白くして絶叫した。
頤に当たる違和感で目が覚める。それは決して固くはなかったが、布のような柔らかさもない。分厚いシリコンか、強度のあるゴム製品を思わせる。腕は自由だったが、左右の手首にはグレーのラバー製の手枷が嵌められ、両手間も鎖で繋がれている。本物の拘束具ではないようだが、本格的である。作りからして安くはないだろうことはうかがえた。首にもまた、同じ手触りの首輪が嵌まっている。それもまた華奢ではない鎖が伸び、ベッド柵に留めてある。新品らしい光沢がどこか安っぽいが、しかし重みからいうと実用性はあるのだろう。
目元の痛痒さと痞(つか)えるような喉の苦しさに燈禰は顔を顰めた。
夢ではなかったのだ。夢ではなかった。若い男が姉とその子供の復讐を誓い、そしてその対象は夫で、彼が亡くなっているために行き場のない怒りはその配偶者へと向く……
燈禰は自分の下着姿の、それも自ら身に付けた覚えのない下着姿を認めたが、そこに何か感慨を持つほどの気力もなかった。彼女は掛けられていたタオルケットに潜った。もう一度眠りに落ちれば、実は夢だったと、それで済むかも知れない。
「何故言わないんですか」
彼女は突然現れた翼羅沙に心臓を握られた思いがした。脈を飛ばす。彼女はタオルケットから身を起こした。地縛霊みたい部屋の隅、観葉植物の脇に翼羅沙が竪立(じゅりつ)している。
「翼羅ちゃん……」
彼女はタオルケットを抱いて肌を隠す。共に暮らすようになったこの少年から欲情めいたものを感じたことは一切ないが、彼は年頃の男性である。火傷痕がある種の美しさになってしまうの麗かな容姿をしているが、本人はやはり気にしているのか、浮ついたところも燈禰は把握していない。年頃の少年が持つ雑誌や物品のひとつもなかった。燈禰の認識が古いのか……
「何故言わないんですか」
「何を……?」
地縛霊と話している気分だった。翼羅沙は肉感がありながら、機械的な幽霊だ。今の燈禰は彼を詰問し、誹(そし)り、痛罵を浴びせてもよい立場に思える。だがその美貌と、美貌を毀すどころか妖しい色を添えてしまう惨事を悟らせる傷痕が、彼女の怒気を削ぐ。そうでなくとも彼女にはやはり気力がもう無かった。
「通じなければ結構です」
彼はばち、ばち、と長く濃い睫毛を瞬く。彼の目元には表情がない。瞬きひとつをとっても。
「翼羅ちゃんは、わたしを恨んでいたのね……行くところがあれば、行っていいのよ」
首輪にはゆとりがあるけれど、それとは別に、まだ首を絞められているような喉の苦しさで、燈禰の声は裏返る。無理矢理に声帯を震わせているような喉の重みと耳の裏への違和感がある。
「恨んでいません」
「それなら、どうして……。こんなこと…………恨んでなきゃ、できないもの………」
「教えません」
「……そう」
亡夫の愛人の息子と、妻である。上手くいくはずがない。手元に引き取ってことも、表情も愛嬌も皆無なこの少年の内心には嫌味に映ったのかも知れない。それを彼は、もしかすると自分でも分かっていないのだろうか。
「あの人は、今日からここに住むそうです」
「え……?」
彼女は俯きかけていたが、耳を疑って、もう一度地縛霊を見遣った。
「まだ気が済まないそうです。むしろ余計に腹が立ったと」
「う、嘘でしょ……嫌よ。無防備だわ……それに通帳も印鑑も……」
成績優秀とはいうけれど、地頭の良さは燈禰も認めたけれど、その反面で翼羅沙はある種の迂愚か。はたまた自暴自棄になっている。
「楡神の稼いだ金になんか興味ねぇよ」
寝室にあの男が入ってきた。上半身は裸で、髪は濡れているようである。
「ひ……」
燈禰はタオルケットをさらに強く抱き寄せる。男は彼女へ背を向け、ベッドの端に腰を下ろし、地縛霊みたいな翼羅沙と向かい合った。
どちらがこの家の人間なのか、初めてこの場を見た者には分からないだろう。もしかすると、翼羅沙は脅されているのかも知れない。
「か、帰ってください………勝手に住まれるのは、困ります……」
「困る?それなら尚更帰れないな」
「帰ってください……警察を呼びますよ……」
「どうやって?その状態で……遺産で食い繋いで、外に繋がりなんかないんだろ。悪どい商売して稼いだ金で……誰もあんたを心配しない。誰もあんたを心配しないから、あんたが家から出られないことも発覚しない……」
彼は燈禰を振り返らず、かといって翼羅沙に言うでもなく、独白しているみたいだった。
「あんたが結局は楡神の金目当てってことが分かって清々したぜ。ま、金以外に愛するところなんざ無いんだろけどな、あんな男……あんたも金に釣られた果てにあるのがこんなのじゃ、哀れな女だよ」
項垂れて、男はわざとらしく嗤っている。掻き傷ひとつない綺麗な背中をしていた。
「だからって、やめてやる気は無いけどな。自分でいじって感度上げておけよ。あんたも楽しいほうがいいだろ。それともやってもらうか?夫の愛人の息子に?」
「ふ……ざけ、」
「言えば何でもしてくれるんだろ。なぁ、あの女を犯せよ。楡神に人生狂わされたんだ。当然の報いだろ」
男は頭を上げ、翼羅沙を向いていた。
「はい」
翼羅沙は地縛霊をやめた。しかしやはり足音はなかった。彼は燈禰の傍までやってくる。
2
翼羅沙(さらさ)は燈禰(ともね)の胸に触れた。
「やめて……翼羅(さら)ちゃん………やめて……」
火傷痕がむしろ妖艶な美少年はやめない。己が立場を窮屈にさせた女の素肌に触れる。
「いや!」
燈禰は叫んだ。乳房が揺れる。冷たい指が先端を摘んだ。
「いい気味だな」
楡神を恨む男が鼻を鳴らす。
「やめて、翼羅ちゃん!どうして!」
火傷によって通常の指とは異なる質感が、すでに恐怖で凝っている胸の頂を撚る。
「う……」
美少年は造形の良い人形然として燈禰を触る。力加減も扱き方も手慣れていた。しかし官能が働かず、この場に於いてそこへの刺激はむしろ不快感である。
「触らないで……どうして。どうしてなの、翼羅ちゃん……」
年頃の少年との暮らしは気を遣ったけれど、燈禰は彼から邪な視線や言動や態度を浴びた覚えはなかった。むしろこの年の割にはそのようなことに一切興味を示さないところにある種の不気味ささえ否めずにいた。
「憎かったんだろうさ。日頃から。あんたが」
燈禰は天蓋みたいになって陰を作る人形を見上げた。硝子玉は何も語らない。ただ止まった。瞳孔が燈禰を捉えた。それがどこか人間臭い。桜色の唇が、桜の花が開くみたいに微かに震える。何か言う。
「楡神が女をどんな風に扱うと思う?憎くて憎くて、殺したいくらいさ!」
翼羅沙は結局黙っていた。焦点を合わせた先ももう分からない。硝子玉に戻ってしまった。
「翼羅ちゃん……」
それは憎んでいるのかという問いに対しての肯定だったように彼女には映った。
「引き取ってしまったのは、迷惑だった……?」
蝶が熱を冷ますみたいに、繁茂した睫毛が惑う。彼はやはり喋らない。損傷すらもそういう意匠の美しい関節人形である。
「そうに決まってる」
代わりに氏素性も定かでない男が応える。翼羅沙は止めた手を再び動かした。
「翼羅ちゃん……ごめんね」
「いいえ」
それは目の前の羽虫を握り潰すような呆気なさと素気無さであった。しかし彼なりに思うところはあったのか、異母兄であり母の愛人の本妻から身を剥がした。陵辱の暗雲は去ったかと思われた。だが須臾(しゅゆ)のことだ。翼羅沙は彼女の胸から腿の間に滑り落ちただけだった。
「翼羅ちゃん……!そんな……」
彼は燈禰のしなやかな脚から下着を奪い去ろうとする。必死に膝を折ったり、内側に入れて抵抗してみるけれど、楡神を恨む男から鋏(はさみ)を手渡され、ショーツは布切れと化した。恥部がそういう関係ではない男2人に晒される。
「いや……、!やめて、見ないで!」
膝が暴れ、やがて折り重ねて彼等の眼差しから隠そうとするけれど、軽侮と冷嘲の視線は依然として露わになった秘部に注がれる。
「見ないで!見ないでよ!見ないでったら!」
燈禰はなおも暴れた。やがて瘢痕に覆われた手が彼女の膝をこじ開ける。
「やめて!」
「恥ずかしいところが見えてきたな」
「ああ!」
叫び声があがる。喉が痛んだ。彼女の喉はすでに灼かれ、擦り切れている。
「楡神の垢がついた孔なんざ、今更恥ずかしくもないだろ」
冷罵を背後に翼羅沙は母の愛人の妻の股ぐらに顔を埋めた。何の躊躇いもない。先程まで彼の後ろに立つ男が抽送して悦び、粘液を注いだ場所で、風呂にも入っていないというのに、彼はそこに鼻と口を接近させたのだ。吐息が敏感な部分やな吹きつける。
「あ……」
「ビョーキになるんじゃないか」
そこに翼羅沙の身を案じる気配は微塵もない。
「翼羅ちゃん……!そんなの、汚いわ……!」
「そうだ。楡神のモノが出入りした魚臭い孔なんて」
しかしケロイドが転写されたような人形は構わず肉木通に顔を付けたままだった。やがて舌先が牝嘴を転がした。
「あんっ」
鋭くも甘い痺れが走った。自身の声を聞いて、彼女は男の罵倒を恐れた。唇を噛み、さらに手で押さえた。鎖が冷たく皮膚の上を滑る。
「淫乱」
やはり悪罵は忘れずに降ってくる。
「ぅ………う」
だが身構えていたほど堪えないのは、やはり想定内であったからか、或いは引き取った哀れな孤児の口技のせいか。ある程度、亀核を揺らすと翼羅沙は奥へと沈んでいく。
「だめ………汚い、から…………翼羅ちゃん………お願い……!」
翼羅沙の髪を押し撥ねる。両手の間で鎖がちゃらちゃら軋んだ。しかし彼は反応しない。淫唇と接吻し、舐め舐(ねぶ)るばかりである。まるで電動のアダルトグッズだ。
彼は口淫を続け、燈禰自身から蜜を溢れさせるまで追い込むと、内部に迫った。舌先が壺口を穿つ。
「や………っぅうっ」
彼女は翼羅沙の柔らかな髪から手を離し、またもや口を押さえた。人形の甘いシャンプーの残り香が指から薫る。
一度内部を舐められると、そこから淫液が氾濫し、室内には水音が響いた。楡神を憎み、その妻を嘲弄する男にも聞こえているはずだった。そのことについて言及するに違いない。燈禰は眉根を寄せ、心を閉ざすよう努めるけれど、そのような余裕はない。鋭敏な粘膜を舐められ、吸われている。そしてそれに伴う卑猥な音が意識を散漫させる。
「う………んっ」
燈禰が身動ぐ。翼羅沙も顔を離した。緩やかに突き出された舌には粘糸が伸びている。おそらくその正体は彼の液体ではなかった。付着したものであろう。彼女は顔を真っ赤にして目を逸らした。
「イかせてやれよ」
「はい」
操り人形はケロイドに覆われた指を舐め、それから異母兄が正妻の柔肉に突き挿れた。
「あッ!」
「清純ぶるなよ。楡神と毎日、ヤりまくってたんだろ。今更、指くらいで……」
人形は燈禰の膣を指で弄る。彼女は腹をひくつかせて呼吸をし、男は愉快げに嗤っている。
「それとも、その汚い火傷(はだ)ですぐに飽きられたか?」
燈禰よりも広範囲にケロイドに覆われた翼羅沙に反応はない。燈禰はぐっ、と息を詰まらせた。夫の愛人の息子は火傷を負おうと美しかった。否。その火傷と境遇は美しかった彼を尚のこと美しく、そして妖しくした。しかし燈禰は、特別醜怪というわけでも、醜いわけでもなかったけれど、派手な美人というほどではなかった。多少の可憐さはあったが、目立たない。縹緻はよかったかもしれないが、その雰囲気や控えめな性格によって持て囃されることもなければ、誰もが振り返るという魅力的なところもない。そういう女と美少年では、ケロイドの持つ意味が変わってくるのだろう。男もそれを理解して言っているに違いない。ゆえに翼羅沙に対して忖度する理由もないのであろう。
楡神に対する八つ当たり、乱反射した怒りではない、直接狙われた憎悪を感じ取ると、燈禰は鶴嘴(つるはし)か何かで心臓を刳(えぐ)られるような心地がした。
「そんな瘢痕(もの)を見たら、男は萎えるわな」
目玉の裏が炙られたように熱くなっていく。目蓋が萎むようだった。視界が滲む。悲しみの澎湃(ほうはい)。だが阻止された。翼羅沙の指が激しく動く。暴によるものではない。そこには技巧がある。
「あっ!あっ、あっ!」
口を押さえておくのも、唇を噛み締めておくのも忘れた。
「あんっ、だ、め………っ!」
ぐち、ぐち、と音が鳴る。牝亀頭を巨擘(きょはく)が擂り潰す。すると媚泉が湧く。粘こい潺(せせらぎ)が際立つ。
「そこ、ヤだ………っ!」
外部と内部が圧迫される。即物的な強い快楽に腰が揺れた。踵がシーツを蹴る。
「恥ずかしい孔で恥ずかしくイけよ」
燈禰は無理矢理に高められた肉欲の発散と共に啼き叫んだ。沸騰した頭はすぐに冷えず、余熱で思考はぼやけている。
「まだへばるには早いから」
男の言葉に察するところがあったらしい。翼羅沙は指を引き抜いた。瀞みのある津液がてらてらと照る。そして部屋から出ていった。代わりに楡神を憎む男がベッドへと乗り上げた。無関係な他者として見れば美しい肉付き、均整のとれた体格をしていたのだろうが、この状況では恐怖の対象でしかなかった。
男の重みがベッドに加わり、ぎししと軋む。
「イくと孕みやすくなるらしいな?孕めよ。オレの姉貴があんたの旦那にされたみたいに、腹膨らませろよ」
「嫌……!嫌!嫌っ!」
燈禰は両手で男の身体を押す。しかしびくともしない。
「気が変わった。毎日犯して、アテてやる。あんたの魚臭いまんこにオレの種を注いでやるよ。それで孕めよ。望まない男のガキ、産ませてやる」
彼は燈禰の腰を掴んだ。
「やだ……っ」
「おまえに拒否権は、ない」
眼前に迫り、男は嘲笑う。そして腰のものを濡れた窪みに突き立てた。強制的に濡れ、刺激が止み、半ば乾きつつあった。熱く裂けるような痛みが走る。
「痛い!いや……!抜いて!」
「諦めろよ、アバズレ。楡神に身を委ねたバカ女」
男は容赦しなかった。猪突の如く猛々しく腰を進め、力尽くで一度は受け入れたものを再度奥まで咥え込んだ。
「あああ!」
「早く終わらせたいなら締めろ」
ウサギでも呑んだ長蛇が入ってきているようだった。内臓を押し潰し口から吐き出させようとするような挿入がなかなか終わらない。はたからみればそれば秒数で測れるものだっただろう。ところが当人からしてみれば非常に長い侵入であった。すべて収まれば肉体的な苦しみはとりあえず鎮まるものと彼女は高を括っていた。だがその挿入があまりにも長い。
「い………や!抜いて………!」
「楡神のオナホ孔で、あんたがヌいてくれたらな」
男はずん、と一撃入れた。
「あ……ッ!」
自身の肉の軋みを感じ取る。押し出そうと蜿(うね)る。
「……っ、」
男はまだ青さの残る精悍な顔を歪めた。もう一撃、もう一撃と欲望が生まれるらしい。燈禰は突かれるたびに、結合部を締め上げてしまった。それが相手の男の要求でもあったはずだが、彼は眉間に皺を寄せて女肉を掻き分けて奥へと進む。
「い……たい!痛い!」
「さっきまで入ってただろ……!」
彼は燈禰の左右の手を繋ぐ鎖を潜った。まるで抱擁されにいっているようである。
「くる、しい……」
下腹部がクリーム状になったみたいだった。鈍痛がある。裂けた傷が揺れるのも痛む。
「苦しめ……もっともっと……苦しめ……!」
大きな手が首を絞める。今度は抵抗を許されているけれど、男の手を剥がすことはできなかった。彼の力加減は本当に苦しめるつもりらしい。すぐにでも扼殺(やくさつ)しようと思えば、その体格としても体勢からいっても容易であっただろう。しかし息苦しさを覚える程度の強さしか与えないのである。
「う……う、うぐ、」
「死ね!死ね!おまえなんか、死ねばいい!」
燈禰の身体は男に媚びていく。結合部は牡が望むように蠢き、膝は男の腰を挟む。苦痛がら逃れようと必死だった。その惨めな様を眼前に据えておきながら、男も苦しげに腰を打ち付ける。その肉体で女へ杭を打っている。
「や……だ、ああ………っ!」
ベッドの音が何よりも陵辱を生々しくする。
自宅であるはずの寝室が、知らない場所のようであった。
燈禰はベッドの上で蹲(うずくま)って啜り泣いた。楡神を恨む男も、楡神に母親を弄ばれた哀れな孤児も、今はこの部屋にいない。
頭の中は真っ白のまま、声を殺してしゃくりあげる。自分が何故このような目に遭っているのか、彼女は理解が追いついていなかった。否、追いつかないであろう。
身動きをとると、男の出したものが冷たく胴の底を滴り落ちていく。それがまた彼女の涙を誘う。眼球ばかりが熱かった。
寝室の扉が開くけれど、彼女はそれが誰かを確かめようともしなかった。足音はない。日頃の行いからしてドアの開閉音はわざとであろう。つまり正体は分かっている。
燈禰の向いている方向にベッドサイドチェストがある。主にティッシュだの、マスクだの、使い捨てのホットアイピローだの、医薬品だのが詰まっている。その上がテーブル代わりになっていた。翼羅沙が盆を片手に彼女の視界に入ってくる。
「水をどうぞ」
翼羅沙はグラスを置く。そして燈禰のほうへ身体を向けた。執事然としている。
「ありがとう……」
彼女の声は嗄れていた。起き上がる気力もない。胃には水でさえも入れたいと思えなかった。グラスを持つのも面倒になっている。
「何故、言わないのですか」
硝子玉が一瞬燃えた。インクが真水に溶けていく刹那に似ていた。
「何を……?」
彼は目蓋を降ろす。失明を免れた文字通り紙一重の薄い皮膚は円(まど)かな線を描き、長い睫毛が伏せる。するとその直後の双眸はできたての蜜煮みたいにしとどに光った。息を呑むほどの美しさである。
「いいえ」
「さ、らちゃん」
去ろうとする翼羅沙を呼び止めるけれど、喉が痛んで痞(つか)えてしまった。
「はい」
慣性の法則によってその華奢な体躯が揺れながらも彼は立ち止まった。水を飲むのは重労働に思えたが、彼女は気付くと身体を起こしていた。そしてどろりと落ちていく液体の感触に後悔する。
「おうちのことは……?」
「僕がやります」
「翼羅ちゃん……他に行くところがあるのなら、いいのよ。出て行きなさい。あのときは、良かれと思ったの。あなたの気持ち、考えてなかった」
目元がひりついた。炎症を起こしたみたいに鼻がむず痒い。喉は掠れ、声は隙間風めいている。
「いいえ」
彼の目瞬きはアゲハチョウの翅の開閉を彷彿とさせる。
「他に頼れるところは、あるの?」
「僕には燈禰 義姉(ねえ)さん以外に、頼るところなんてありません」
「……そう」
重力に逆らっているのも一苦労であった。彼女は身を横たえる。この愛人の息子にも、楡神の遺産は入っているはずである。しかし未成年だ。自由にはできないのだろう。
「出て行けというのなら、出て行きます」
「行く当てのない子供にそんなこと、言えるわけないでしょう」
それは善意でも良心でもない。今に至っては、ただ大人としての責任によるものだった。どうせ警察に補導されるなりして、ここに戻ってくる。余計な手間がかかり、不要な醜聞を曝すだけであろう。しかしその刺々しい本音を彼女は語調でも隠した。
「では、買い出しに行ってきます」
「お金は……?」
「あります」
「そう……足らなくなったら言いなさい」
彼は頷いて、行ってしまった。それから少しの間、燈禰は虚無の中にいた。目元は赤く腫れ、胃が引き攣った。水を飲んでみたけれど、気持ち悪くなるだけだった。
「おい」
寝室のドアが開くのと同時に威圧的な声が降った。燈禰の心臓は痛いほど鼓動する。激しい呼吸に、上手く酸素が取り込めなくなってしまった。トンネルに木枯らしが吹き荒ぶような音が寝室に轟く。
「なんだよ……」
男は燈禰の異変に面倒臭そうな様子だった。彼はベッドサイドにある水に気付くと、おかしな呼吸に肺を鳴らす女の首根っこを掴んで口元でグラスを傾ける。それは水責めの拷問だったのかも知れない。彼女は異様に深い息切れを起こしながら咽せた。すると今度は誤嚥した水を吐かせるつもりなのか、はたまた害意を持っているのか背中を乱暴に叩き始める。べち、べちと乾いた音は耳にうるさい。
「う……うう、」
肉体的な苦しみ、そして己を強姦した男に触れられる恐怖と嫌悪に、彼女の胃袋は爆ぜてしまった。汗を吸い、精の落ちたシーツに胃酸が撒き散らされる。そしてほとんどは床へと落ちた。
「勘弁してくれ」
男は額を押さえ、頭を抱えた。
「う……う、」
カエルに似た音を出して、二度、三度に渡って吐瀉する。灼けた喉がさらに灼けた。酸の味がさらに吐き気を催して嘔吐(えづ)く。口の中を濯ぐような唾液が止まらず、開き放しの唇から垂れていった。
「汚い」
「ご、め……っ、」
咳き込みながら、燈禰は反射的に謝ってしまった。ぼんやりとした頭で後処理のことを考える。シーツを剥がして、ティッシュペーパーと、除菌スプレーと。マットレスも洗わなければ……
彼女はのそりと立ち上がった。鎖が首輪を引っ張って、片付けなどできない身なのだと知る。
「あんたはここで飼われるんだ。逃げ出せるもんか」
男は口の端を吊り上げて嫌味ったらしく言った。燈禰は虚ろな疲れた眼差しを下方で泳がせる。
「それじゃあ片付け、やってくれるの?」
胃酸の匂いが立ち込めている。男はこのままにしておくつもりなのだろうか。
「楡神の義子(むすこ)がやるんじゃないか」
「あの子は雑用じゃないの」
疲労はその抑揚にさえ現れた。喉が痛いということもある。嗄声と相俟って悲惨さを強めた。
「飼うって何なの。飼うだなんて言葉使うなら、責任くらい持ちなさいよ……」
後片付けがそのときに叶わないとなると、やる気も削がれていく。吐瀉物の広がるベッドにまた乗って、横になってしまった。異臭に割く気力はないのである。
「おまえ!」
男はぎしりとベッドを喚かせた。燈禰を陰が覆う。声を荒げて凄み、腕を振りかぶっているが殴打はやってこない。
「殴るの?」
怯えがないといえば嘘だった。彼は燈禰を睨みつけ、拳を震わせている。
「ああ、そうだよ」
そして男は、燈禰の真横を殴った。風が頬を切る。
「飼うんじゃないわ。支配するんでしょう?それなら片付けなさいって、命令しなさいよ」
あくまでもここが自宅であること、そして相手が明らかに年下であることが、彼女をある程度強気で、優位にいるよう錯覚させた。そして心身の疲労が破滅的願望をちらつかせて半ば自暴自棄になっている。また翼羅沙のことを諦めきれない業めいた希望、期待も、彼女を空風のような勢いづかせた。
「調子に乗るなよ」
男は首輪に繋がる鎖を引き寄せた。
「おまえはオレの、性奴隷なんだからな」
大きく厚みのある手が彼女の脆げな頤(おとがい)を掴んだ。
「ティッシュはどこだよ」
彼は燈禰を突き飛ばすように放した。
「そこ……」
彼女はベッドサイドチェストを指した。男が抽斗(ひきだし)を開いた時、主に鼻を[D:25828](か)むためのティッシュペーパーの箱の横に避妊具が入っているのを見てしまった。揶揄でも飛ぶかと思われたが、彼は何の反応も示さなかった。箱だけを取って、吐物を片付けはじめる。ゴミ箱にはすでにビニール袋が掛かっていた。中には丸められたティッシュが汚いポップコーンみたいに詰まっている。
「除菌スプレーは、台所……」
男はせっせと働いて、シーツを剥がした。床を拭き取る後頭部を燈禰は見下ろした。スタンドライトが叩きつければ助かるかもしれない。しかし彼女にはまだ現実味がなかった。悪夢の中にいるつもりでいる。それでいてこれが現実であると理性では分かっていた。
やがて翼羅沙が帰ってくる。彼は一目で状況を把握したらしい。燈禰の鎖をベッド柵から外すと、ケロイドに覆われた手に腕を引かれる。
「何……?翼羅ちゃん……」
男が横目で2人を捉えた。しかし何も言わない。
「浴室へ」
風呂場へ移ると、翼羅沙は燈禰の首輪を外してしまった。手枷も取っていく。
「あの人に怒られない?」
「構いません」
「構うよ。殴られたり、しない?」
翼羅沙はシャワーヘッドを持つと、湯加減をみてから裸の彼女に当てはじめた。
「自分で、洗うから」
「いいえ」
自身の服が濡れるのも厭わず、脂肪の少ない骨張って筋張った身体で後ろから抱き留め、彼は燈禰を洗い始めた。
「翼羅ちゃん……」
制服ではないが制服に似たような平服が色を変え、細作りな体躯に張り付いた。瘢痕の質感が身体を這う。上半身は湯を浴びせる程度であったが、シャワーヘッドが臍より下に落ちていくと、燈禰は強張った。
「そこは、自分で……」
「いいえ」
彼女の手はすでに翼羅沙の手を握っていたが、彼は譲ろうとしない。
「汚いし、恥ずかしいから……」
返答が厄介になったのか、この美少年は複雑な立場にある女の腿の狭間へシャワーを当てた。指が陰阜を破り開く。水流が敏感な肉蕊を打つ。
「あ……っ」
肌木通を開いていた手が、さらに奥へと進んで腿を開かせる。燈禰は火傷痕のある腕を挟んでしまう。日に焼けることのない白い柔肌が撓(たわ)む。
「シャワーヘッドが入りません」
「い、いい!いい!自分で……」
「いいえ」
彼は怒っている様子も不機嫌な様子も見せず、硝子玉を2つ嵌めた人形みたいな顔をして力を込め、脚を開かせた。シャワーヘッドがそこを通る。湯が粘膜を突く。
「あ……ああ!」
擽ったさに近い官能が湯と粘膜の境界を溶かしながら湧き上がる。彼女は細く薄い肩を握った。翼羅沙は燈禰を抱き寄せ、シャワーヘッドを持ち替えると、湯滝の中へ指を潜ませ、彼女の花襞を捲る。
「う……、や………だ………」
「洗います」
しかし洗浄にしては、指は悪さをする。痛みを与えることもなく、内外から図ったような技巧で淫らに揉み込んでいる。
3
翼羅沙(さらさ)はその嫋やかで美しく、季節に喩えるならば冬であり、雪景色を思わせ、鳥でいうならば白鳥のような端麗ぶりとシマエナガを思わせる可憐さを併せ持ち、澄んだ浅瀬を彷彿とさせる、清らかで冷厳な美少年であったけれど、その衛生観念というのはあまりにも大きく、世間一般的な感覚とはずれているらしかった。
彼はしとどに服を肌へと張り付かせ、裸の燈禰(ともね)の陰阜(いんぷ)に顔を埋めていた。そして舌先で肉房を割り開いて、尖芽を小突く。先程までその奥の秘部を弄(まさぐ)られていたが、翼羅沙は飽いたのか突然口淫へと切り替えたのだった。
「あ……っ」
湿気によって翼羅沙の色素の色が濃くなって、柔らかな毛束が固まっている。水飛沫が小さく彼の髪に纏わり付き、その容貌のために神秘的な様相を呈した。
「翼羅ちゃん……もう、いいから……」
燈禰の手が朝露めいた水滴を潰した。この美少年の前では、つまらない雫もまるで大待雪草である。
彼は燈禰の言葉に従ったのか、秘部から顔を離した。硝子玉みたいな双眸には、女のグロテスクな花芯はどう映るのであろう。彼女は恥ずかしさにそこを隠してしまった。
「座ってください」
翼羅沙は女の触り方を知らない様子だった。強弱が極端なのである。燈禰はバスタブの縁(ふち)に座らされた。腿と尻にかけての柔らかな部分が冷たかった。
「翼羅ちゃ……っ」
翼羅沙は間髪入れずに燈禰の膝と膝に自ら挟まれた。そこに美味い蜜でも隠されているらしい。
「ん……ぃや………っ」
彼にとって、先程よりも舐めやすくなったらしい。舌の表面の質感が女蕊に伝わった。粘こい水音も、彼女の官能を助長する。
「そんな、舐めちゃ……ぁんっ」
黙れとばかりに彼は肉鐘を鳴らした。外へと出ていく快感だったものが、内側へ、脳髄へ駆け上がっていく。まるで会話の応答のような舌捌きであった。背筋が後ろに反れてバスタブの中に落ちそうになる。だが翼羅沙の手が彼女の腕を掴んで、濡れた髪へと捕まらせる。まるで燈禰がすすんで夫の愛人の息子をバター犬にしているみたいな有様だ。
「翼羅ちゃん……」
またもや黙れとばかりに彼は鐘を揺らす。
「ぁ、ふ……」
そしてしなやかな指が燈禰の色付いた乳房の頂へと伸びた。
「あ!」
舌遣いも指遣いも器用なものである。相手は人形のようでいて、人の体温を持ち、質感もまた人の柔らかさなのだ。
彼は胸へと刺激の範囲を広げると、頻りに確信的な核心を甚振りはじめた。
「あ……あっ、あ!」
じゅるる……ずるるる、ずぞ……っ、と翼羅沙の夢見草を思わせる唇には不釣り合いな音がたつ。その振動が煽られて感度の増した媚芽に響く。
「やめよう……?」
とろんとした眼で燈禰は言った。声も上擦っている。
「寒いですか」
「……少し」
翼羅沙は女の膝の間で立った。そして姫をダンスに誘うプリンスみたいに彼女の手を取って立ち上がらせる。
彼は燈禰にシャワーを当てた。燈禰は無感動な少年に戸惑う。この人形のような嫋やかな美男子にも性欲があるのだろうか。燈禰はそれなりに、年頃の赤の他人の異性がいることについて考慮はしてきたつもりだった。掃除するときは前日に声をかけ、風呂上がりや夏場も露出には気を遣った。歳が離れていようとも異性である。しかし平生(へいぜい)から、この哀れな孤児に煩悩を感じたことはなかった。
では何故、肌を触るのだろう。
「翼羅ちゃん……自分で洗うし、脱衣所(そっち)で待っていたら……?」
「いいえ」
霜が絡まったみたいに彼のよく茂った睫毛には水滴の飾りがついていた。それが伏せられて、溜め息の出るような美を醸す。
「寒くありませんか」
「う、うん……寒くは、ないけれど……」
返事をすると、翼羅沙の手は胸の先端を摘む。
「んん……っ」
「感度を上げます」
「え……?あ、やっん、!」
嫋々(じょうじょう)とした指が燈禰の胸の実粒を嬲る。甘い痺れは脳貧血に似ていた。胸で広がり、頭の中に波紋が触れ、それは下腹部に潜む玉核にも掠る。
「は………ぁ、うぅ……」
勃ち上がる媚実を捏ね回す翼羅沙の顔に、やはり欲情の色も火照りもない。このような接触で淫らな声を漏らすほうに問題があるとでも錯覚させるほどに美貌は冷え切っている。40℃の湯ではまったく温まりそうにない。むしろシャワーが冷水にされてしまいそうだ。
「ん……ぁ、放して、翼羅ちゃ……ぁあ……」
乳頭を扱かれるたびに、この状況は間違っているという認識が弱くなる。目の前で胸の先を撚(よ)ったり擂り潰したりしているのは、夫の愛人の息子で、哀れな孤児で、まだ子供である。だがそれを忘れていやらしい電動玩具の類いに思えてしまう。
燈禰は腰を揺らした。足の指がもどかしく動く。膝が落ち着かない。翼羅沙に舐められ、小突かれた秘所がシャワーとはまた別口に熱く潤う。
「変な、感じする……から……」
彼女の身体は軋んでいるかのように小刻みに震えた。腰も前後に動いてしまう。
硝子玉はしっかりと燈禰を見上げて、顔ごと近付いた。指で擦られて勃起した乳頭が片方、濡れ桜花に食われてしまった。
「あんんっ」
シャワーよりも密着した生温かい感触に包まれ、深い愉楽が肉の下を駆けていく。甘く噛まれるのもまた彼女を震わせる。吸われると、思考がぼんやりと霞む。
口と指が左右で異なる質感を調整し、燈禰は身体の芯伝いに絶頂を迎えた。だらしなく腰が前後に折れる様は、交尾中のオスの獣のようであったし、留まっているスズメバチのようでもあった。
「あ………はァん……あ……」
翼羅沙は滑稽な腰付きを相変わらず美しく冷淡に見てとると、シャワーを彼女の身体に浴びせ、またもや知らない男の汚液
を注入された秘所を洗いはじめた。
燈禰は翼羅沙に髪を拭かれ、バスタオルを巻いてリビングに放たれていたが、すでに首にはシリコン製ながらも硬さのある輪が嵌められていた。鎖はヘビの如く床を這っている。
「これ、入れておけよ」
リビングにあの男が顔を出す。手には単二乾電池と見紛うけれど光沢の感じからプラスチックらしい表面のピンク色の器具が握られていた。
「はい」
翼羅沙は或いはその辺の美容師よりも上手いタオルドライを中断し、男からピンク色の単二乾電池みたいなのを受け取った。すると楡神(ゆがみ)の寵妾の息子は荒々しく楡神の正妻をソファーに押し倒した。つい今までは繊細に扱っていたくせに、それは嘘なのだといっているかのようである。
「乱暴はよして……!」
翼羅沙は燈禰のバスタオルを捲る。
「やめて!」
「いいえ」
男はにかにか嗤ってソファーの上の攻防ともいうには一方的なやり取りを眺めている。
燈禰は呆気なく捩じ伏せられ、単二乾電池の模型みたいなのは彼女の秘肉へ埋まっていった。散々弄られ、オーガズムに達しもしたけれど、最後は洗われて、潤滑液は流れ落ちている。粘膜の軋みは否めなかった。
「い、痛い……!痛いわ!」
「そのうちヨくなるさ」
男は単二乾電池に似た器具と同じ色のものを握っていた。簡素なつくりで、ボタンとレバーがある。それを触った。瞬間、燈禰は胎動を感じる。
「んっ、あっ!あああ!」
「強すぎたか?産むなよ。まだ身籠っておけ」
冷嘲も聞こえない。おかしな振動に気を取られていた。突然現れた不快な揺れが弱まると、だがそれも落ち着かない。
「出させるな」
「はい」
妾の息子の行動ははやかった。すぐに彼女にパンツを履かせる。異物を押し出そうとしている力が働こうとも、薄い布がそれを阻む。内部でヴヴヴ……と太めの乾電池みたいなのが唸っている。
「出したい……取りたい!」
「今は気持ち悪いだろうが、そのうち気持ち良くなってヨガり狂うさ」
男は嬉々としていたが、しかし彼の言う気持ち良さなどはなかなかやってこなかった。燈禰は我を忘れ、まだ未成年の子供の腕に甘んじていた。
「いやよ……こんなの……」
「オレは飯作るから」
男はそう言ってリビングにそのまま通じているカウンターキッチンへと行ってしまった。
「んっ………ん、んっんっんん」
振動によって吐息に声が混ざる。翼羅沙は燈禰の全身にボディクリームを塗り込んで、露出の激しい服を着させた。服ではない。もはや下着の類いである。レースの編み目から乳頭を出す卑猥な衣装は、夕食の時まで続いた。
夕食の時になると、腹の中の異物は止められ、肌触りの良いカーディガンが羽織らされる。それを着物みたいに巻いて、不味い飯を食う。恨みのあまり、敢えて不味いものを作ったのであろうか。だとすれば、何故、調理者本人も同じような物を食っているのであろうか。翼羅沙は相変わらず人形のようなつらで食っているが、作った本人は蒼褪めながら遅く箸を進めているし、燈禰もまたただでさえ失せていた食欲が、むしろ拒否に変わっていた。
「明日から、ごはんはわたしが作るから……」
この状況を容認したわけではない。しかし現状がどう転ぼうとも、この惨憺たる飯を食うのは我慢ならない。
「……オレの作った飯が食えないのか。奴隷のクセに。楡神の嫁は舌が肥えて、金がかかる」
「焼いて炒めて煮るだけでも、才能って要るのね」
熱湯に味噌を溶くだけの味噌汁が何をどうして調理したのか、不味いのである。美味しくないだけならばまだ食えた。不味いのだ。
彼女は嫌味を言ったけれど、この男は家庭環境がよくなかったのかも知れない。食事を作るという概念のない家の生まれならば、調理器具、調理方法、調味料の組み合わせ、選択の広さに戸惑うのも無理はない。
ばつが悪そうに彼女は男から目を逸らす。男も鼻を鳴らした。翼羅沙は気拙い沈黙の中、普段と変わらず静かに平らげていく。あらゆる挙措に音がない。
「でもそいつはふつうに食べてるだろ」
「翼羅ちゃん。美味しい?」
「いいえ」
翼羅沙は気品のある所作で味噌汁を吸う。箸の先にまで意識が込められている感じだった。
「あんたに作らせたら、オレに毒でも盛るつもりだろ」
「じゃあ、わたしが教えるから。それでいい?お米も研げてないみたいだし……」
「……嫌な女」
それなら何も食わせないと、飢え死が己の末路なのであろうか。
「大体、ここン宅(ち)は金持ちなんだろう?どうせ家政婦任せだろうが。料理なんてできんのかよ」
「お生憎様。夫は他人の出入りを嫌がるの」
結局、料理は燈禰が付き添うことに決まった。
不味い夕食を終えると、彼女は寝室へと放り込まれた。マットレスはシーツを剥がされ、タオルが代わりに敷かれている。ベッドの傍に佇んでいると、首輪を後ろへ引っ張られる。顎の先に硬めのラバーの縁(へり)がぶつかる。
「っ、!」
「風呂入るぞ、性奴隷。背中流せよ」
男は床に垂らしていた鎖を手に巻きながら言った。
「い、嫌よ……」
「この期に及んで拒否権あると思ってるわけ?」
睨みつけると、彼はあっさりと引き下がったが、嘲笑は忘れない。
「そのほうが後が楽だと思ったんだけどな。でもあんたが断ったんだからな。朝までたっぷり犯してやる。痛くされたくなかったら自分で触って濡らしておけよ」
男は手に巻いた鎖をベッド柵に嵌め、寝室を出て行った。脇に挟んでいたバスタオルからして、今しがたの言葉どおり風呂に入るのだろう。この家はすでに乗っ取られている。
そのうちシャワーの音が微かに聞こえはじめた。燈禰はベッドに腰を下ろす。今日一日中顔を付き合わせていたあの男に対する慣れと、しかし受け入れられない行為についての感情が鬩(せめ)ぎ合う。惑乱して、苦しくなる。頭もおかしくなりそうだった。
嫌な時間は早くやってくるものだ。タオルを被り、パンツ一枚で戻ってきた男は何か会話をするつもりもないようで、薙ぎ払うように燈禰を押し倒す。陰を帯びた端整な顔が真上に据えられている。しかつめらしくも空虚な表情が彼女を強張らせる。顔の両脇に置かれた手が動いた。首を触られ、両手でそれを拒む。すると虚しげだった眼が剣呑なものに変わる。
「汚い手で触るな」
しかしその払い退けられたのは火傷痕のないほうであった。
「泣いて謝っても赦さないからな」
錐(きり)然とした眸子に射されると、燈禰は動けなくなってしまう。男にとって都合の良いことである。彼は女に覆い被さって、互いの粘膜を軋らせ抱接する。燈禰が見ているかぎり、彼は一度も己の凶部に触れはしなかった。だが藁人形を留める五寸釘よろしく、女体に突き刺されたものは強靭である。それが男の若さなのか、それとも男の憎悪なのか。
粘膜を千切られるような痛みと腹の中を押し広げられる苦しみに呻きながら、揺さぶられる。男もまた熱く頑健にしておきながら、苦しそうに腰を進ませる。汗が落ちてくるのである。睫毛に絡む。唇を噛み、シーツを握り、奥歯を食い締める。
男は確かに花孔に肉をぎちぎちに詰めていたが、粘液を噴き出したい欲がそこには無いようだった。白濁をメスの子壺に絞り出したい姿勢があるはずだ。それがない。一定の律動で燈禰の肉体を甚振るばかり。彼本人はどこか上の空で、その瑞々しさがゆえの荒れの否めない眉間には悩ましい陰を帯びている。燈禰は黙って、しかし挑むように考え事の真っ最中にいるらしき男を見上げていた。動きもおざなりである。やがて、燈禰の拒絶にそれは押し負けた。彼女はこの分野に於ける男の尊厳というものに敏くなかった。退く気のない、交尾中のオス猫みたいに添えられた腕を叩く。
彼は、はっと理性を灯す。そして失せた気焔(きえん)に戸惑い、燈禰の存在に気付くと眦を吊り上げた。
「あんたみたいな女じゃ、イくものもイけない」
脅しとばかりに首を絞めたが、一呼吸分ほどの間もなく、息苦しさではなく肉と皮膚としての痛みがあるだけだった。彼は煮え切らない様子で黒髪を後ろへ撫で付け、燈禰から身を剥がすと、ベッドを蹴って寝室を出て行ってしまった。
あの男は若い。20代前半か、もしかするとまだ10代かも知れなかった。背丈があり、筋肉も豊かに引き締まっているが、まだどこが肌の不安定さに未熟さを覚える。小規模ながら額と頬に仄かな面皰(にきび)が覗けるのである。
あの男は若く、強健なようだ。その体格や肉付き、瞳に煌めき、傲岸不遜に育てられた黒猫を思わせる髪などからもそれが分かる。しかし肉体の勢いに反し、精神的な部分が内側から外側へと膿んで出てきたに違いない。
彼はあのあと、時間を空けて寝室へ戻ってきた。寝ている燈禰を叩き起こし、玩具を使って無理矢理に絶頂へ至らせた。
◇
朝から男は燈禰のベッドに乗り上げて彼女を抱いた。そして体内に精を排泄していった。男の滑稽な業、憐れな習慣なのだろう。自身の手で扱くのは面倒だとばかりに、彼はそこに繋がれている牝穴を突いた。散々に元気な情根を抽送された箇所は堕液を溢してシーツを汚した。
翼羅沙は容赦なく汚物を触る頓着の無さがあれば、その裏返しなのか、すぐさま片付けなければ気が済まないらしい潔癖な面もある。彼は高校生だ。しかし家を出る前に種付けされた性奴隷の世話をしようとしていた。
燈禰は彼の通う高校の場所も通学経路も知っている。このままでは遅刻してしまうと、夫の半弟かつ夫の愛人の息子を追い出した。あの男もどこかへ出掛けた。学校か、職場か、遊びにいったか……
彼の素性が知れたのは、その数時間後であった。
楡神を怨み、復讐を誓う男は臙脂色の制服姿で現れた。ブレザーであるが社会人には思われない。胸ポケットの刺繍は校章ではなかろうか。そして彼は同じ服装の者を2人連れてきた。片方は楡神を憎む男と身長は同じくらいで高かったが、華奢な感じがあった。もう片方は翼羅沙より少し高いかどうかという背であるが、明らかに体格はよく、筋肉質であるのがうかがえた。かといって太り肉(じし)というわけでもない。深窓の令息と外を駆け回る男子児童といった対照的な2人だった。
外で見れば、或いは楡神を憎む男と無関係であったならば、燈禰は男子高校生らしき2人に己の青春の面影を馳せて懐古に耽っていたかも知れない。それか彼等の持つ美貌と愛嬌に微かな色めきを覚え浸ったかも知れない。しかし実際はそういかないのである。
3人は黙っていた。この場所に連れてきたに違いない張本人も沈黙している。深窓の令息みたいな美男子は鎖に繋がれている女を見て莞爾としているのがいくらか狂気を帯びていたし、あどけない顔立ちにスポーツマンのような体格の快男児は素行不良みたいな身形をしていながら女を初めて見るみたいにぽけっとしていた。
「誰……」
毛穴ひとつひとつまで観察する気らしい若い男たちの視線に、燈禰は強く出た。だが内心は怯えている。自分より若いとはいえ侮れない外敵だ。
「こんにちは」
深窓の令息みたいなのが品の良い所作で燈禰のベッドに近寄った。喋り方も声すらも上品である。
「悪友(うち)の鴉鶴希(あづき)がお世話になっています」
嫋やかな微笑みだが、そこに媚びた色はない。むしろ下手(したで)に出ているようで、内心から湧き出る威圧感は隠されておらず、またそのことにこの美男子も自覚的であるようだった。
「"鴉鶴希(あづき)"って、何……?」
楡神に怨嗟の念を吐く男が外方を向いた。
「あれ?鴉鶴希。偽名でも使っているの?」
やはり嫋やかな仕草で彼は「あづき」と呼ばれた男を振り返る。
「楡神に名乗る名前なんかないね」
「へぇ。じゃあ、最初にボクの名前を覚えてもらえるチャンスだね」
彼は燈禰へ鼻先を戻す。
「ボクは可惜井(あたらい)朝夜永(ともえ)っていいます。少し特殊な読み方なんですけど。朝に夜に永遠の"永"。くるくる廻って巡るって意味で、巴(ともえ)です」
日の光を浴びようものなら血を滲ませて爛れてしまいそうなほど白い指先が、宙で字を書く。
響きは燈禰とよく似ている。
「鴉鶴希から聞いていますよ。燈禰さん。名前似ているの、運命を感じちゃうな」
朝夜永(ともえ)といった美男子は気安くベッドへ腰掛けた。このくらいの年齢にありがちな怯えや遠慮、ぎこちなさがない。自信に満ち溢れ、慣れている。
「呂色(ろいろ)もおいでよ」
朝夜永は鴉鶴希とかいう楡神を憎悪する男の他にいるもう1人を向いて手招きをした。朝夜永と鴉鶴希は体格や雰囲気や態度から高校生なのか大学生なのか、若作りな社会人なのか分からない大人らしさがあったけれど、その者だけは明らかにまだ未成年、それも中高生くらいだというのがよく分かるあどけなさを残している。同年代の少しませた女生徒からならば本命ではないにしろ揶揄い相手として持て囃されそうな程度には愛嬌がある。風貌からして陰気な感じは一切無いというのに、人見知りをしているようで縮こまっているのが寒さに震える子猫みたいだった。
「呂色(ろいろ)?」
「お、お、おで……」
顔を真っ赤にしてもじもじ喋る様が、いわば絵に描いたような"ヤンキー"に近い外見とそぐわない。
「女の人の裸見るの、初めてで照れちゃったんだ」
優等生みたいなのが素行不良児みたいなのに優しく問いかける。どこか飼犬を愛でる飼主の感じもなくはなかった。接点が無さそうな2人だった。
スポーツマン体型に明るい茶髪、ピアスを嵌めてブレザーの下、シャツの上に薄手のフード付きのジップアップを羽織っている。とはいえまだ素行不良児にはなりきれていない様子が、顔立ちだけではないあどけなさを助長する。
「お、思ってたより、ずっと……き、き、綺麗な人、だカラ……」
「そうか?見ろよ、その女の腕」
鴉鶴希は顎で燈禰の火傷に覆われた腕を差す。燈禰は今更隠しても無駄であり、またこの場に於いて隠そうとすることに対して妙な羞恥心を抱いた。しかし注目されて凪いだ心地でいられるわけでもない。
素行不良児に憧れているみたいなほうは彼女の腕の傷痕に気付いていなかったようである。栗みたいな目を剥いて、ジリスめいた顔をしている。
「鴉鶴希がそんなふうに言うのは珍しいね」
朝夜永の横に、ひょいひょいとシマリスで中学生みたいなのが割り込んでくる。
「な、な、なんで……、すか?」
彼は興味深そうに、近くでケロイドを観察しはじめた。
「火傷しちゃって……」
「い、痛い?、んすか?」
「今は、痛くないけれど……」
暢気な調子に呑まれ、思わず燈禰は答えていた。
「お、お、お姉さん」
吃りながら彼が何か言いかけたとき、鴉鶴希が口を開いた。
「呂色。その女はお喋りよりセックスするほうが好きなんだ。お望みどおり早く犯してやれよ」
「で、でもおで……」
「鴉鶴希。呂色は鴉鶴希と"違って"童貞なんだよ。そんなのは難題だよ。しっかり教えてあげないと」
3話未完【TL】堕ちていく狭間