3話打ち切り【TL】さざれなみのしじま
横柄幼馴染/浮気歴あり元カレ/その他未定。
タイトルが気に入らないので改題の可能性あり。
1
この海に面した豆生(とうお)町には時折、人魚が打ち上がる。だが口外を禁じられているのは、大昔、当時の人魚(とうお)村で処断された者多数という言い伝えのためだろう。これは暗黙の了解で、また、代を重ねるたびにその風潮は薄れていった。
人魚など存在しない。
この時世に、人魚がいるなどと吹聴するほうがどうかしている。
◇
「夢が、できちゃってさ」
三国(みくに)暁(あきら)は恋人と別れる間際にやっとそれを切り出した。彼女の恋人の千歳(ちとせ)鯉雨(りゅう)は、目を見開いた。このあとに続く展開を察したようである。
「だから―……」
しかし千歳鯉雨は、彼女に言わせまいとその腕を掴んだ。小学校高学年からの付き合いである。10年以上のカップルであるから
「夢……?」
「そろそろ弟の傍にいてあげたいからさ」
現在暁が住んでいるのは都会である。だが生まれは田舎だ。弟はそこにいる。
「アキ……それ、は……」
「もっと早く言うべきだったよね。ごめん。リっちゃんとこのまま結婚することになると思ってたんだけどな~」
鯉雨は首を振る。断続的に首を振り続ける。
「別れたくない。おれが、浮気したから?」
「いつの話をしているの。それは関係ない。まだ若いしさ。リっちゃんは、好い人、見つけなさいよ」
もっと早いうちからこうするべきだった。遅いくらいである。別れたくないあまり、現状に甘えてしまっていた。
「別れたくない……、別れたく……」
暁は冷淡にも元恋人へ背を向けた。だが繁華街の夜の人混みを掻き分けて、彼は紛れていく背中を追ってきてしまう。
「もうおれのこと、好きじゃないの……?」
千歳鯉雨という男は、背丈もあり、均斉のとれた肉付きに、目鼻立ちも現代風に整って、年相応に垢抜けてもいる。性格も悪くない。その気になればすぐに次の相手は見つかるだろう。
行き交う人々を避けながら、鯉雨は暁に縋りつく。
「だってリっちゃん、遠距離恋愛、できる?」
「アキとなら、できる。信じて……おれは、」
暁は彼がまた、中学時代にやった浮気について口にするのが分かってしまった。だが子供の頃の話である。そのあとの改心を傍でみていた。すでに赦している。信頼は、彼女の自覚もないうちに取り戻されていたのだ。しかし、別れなければならない理由がある。
「ありがとう……でも、わたし………弟の面倒看てくれてるお家(うち)の人と、もしかしたら結婚しなきゃならないからさ。多分、そういう条件なんだと思う。だから、ごめんね。嫌いになったり冷めたんじゃないよ。次の一歩を踏み出すときなんだ、きっと。お互い」
人混みに溶けていこうと思った。しかし彼は掻き分けて追ってきてしまう。きっちりと振り払うべきだった。曖昧な態度が苦しませている。
「ごめんね」
過ぎ去ったものは美化されてしまう。誰もが詩人の素養を持っている。磨かれず、数をこなさないだけである。ゆえにどれもポン菓子みたいに甘くなる。
暁は少し固い敷布団に背中を痛めた。目が覚めてから身体を伸ばす。
四畳半の部屋は南と西の二面が大きな窓になっていて、水平線と海が見えた。旅館を思わせるが、民家である。三国暁の祖父母、杣(そま)宅だ。
結局彼女は千歳鯉雨を置いて、生まれ故郷に戻ってきた。小学校高学年からこの歳まで過ごした都会を離れ、高校2年生頃からこの歳まで暮らしたアパートも引き払った。
この土地で人魚の遺骸を見たことがある。だがそれは珍しいことではなかった。そしてついこのあいだ帰郷したとき、暁は実際に生きた人魚を目にしたのだ。
己を愛した人魚を食らうと、望みが叶う―
胡乱な話であった。誰が言い出したのかも分からない。確証もない。だが眉唾物のの、むしろ疑うのみでよいこの一説が、彼女を支配してしまった。労働或いは繁殖に勤しむ虫の如く理性を失ったのであろうか?この信仰めいたものについて彼女は敬虔な信者になってしまったのだろうか?いいや、彼女は確固たる疑心を持っていた。鼻で嗤いすらした。同時に、弟のことが頭を過った。その途端に嗤えなくなった。その途端、彼女は狂信者になった。ある種の邪教徒になった。いやいや、順序が違っている。先にこの気の狂(ふ)れためでたい能天気な伝説を知ったのだ。では何が彼女を洗脳したのか。無辜(むこ)の現実主義者を染め上げたのか。
出会ってしまったからである。生きた人魚をその目で見てしまったからである。遺骸ではない人魚、それも男体の、少なくとも上半身に於いて男体と判断できる個体を。
暁は朝の支度を済ませて外へと出た。長く付き合った恋人、都心なりの窮屈な視界、ほのかに淀んでいたかもしれない空気、少なくとも土や天気の匂いはしなかった嗅覚。未練がないといえば嘘になる。だから断ち切ってしまうのは容易でなくても、断ち切ってしまうほうがよかった。
玄関先の鉢植えに瑞々しく咲いている花を眺め、季節としての春の訪れを感じはしたが、人生に於ける春、或いは比喩としての春について、自ら手放したことを思い起こす。実感が湧かない。だがやがて慣れていく。少しずつ、慣れによって削れられ、理解のできる大きさになったあと、途端に喪失感に苛まれるのだろう。
「おい~っす」
少し濁声とでもいうのか、嗄(しわが)れた質感の声がかかり、暁はそのほうを見遣った。
「緑郎(ろくろう)……?帰ってきてたんだ」
異様な黒髪は自然ではなかった。派手ではないが青みを帯びてみえた。毛も波打って、生来の癖というよりは加工の感じがある。刈り上げた側頭部が現代の若者風であるが、この田舎では浮いて見えた。
「花食うのか?」
「え?」
彼は巴須(はす)緑郎(ろくろう)という同い年の幼馴染だったが、そう瑞々しく爽やかとはいえない声質と相俟(あいま)って喋り方からしても高圧的な印象を受けた。三白眼の目元と細い眉も薄情な感じがある。外貌のみでいえば、背は高く、頭も小さく、中肉の好男子であったのかもしれないが、口を開いた途端に陰険なところがあるのは否めなかった。
「今にも毟って食いそうだった」
耳朶に刺さったピアスが朝日を浴びて輝いている。
「そんなわけないでしょ」
「杣の婆さんは?」
「田んぼ」
この幼馴染は昔から、玄関の面した門からではなく、脇の生垣の狭間からやって来る。
「朝飯は?」
「まだ」
「じゃあボクちんの家で一緒に食えばいいや。来なよ」
暁は彼へとついていくことにした。巴須家にはこれからも世話になるのだろう。
「待って。お土産があるから」
緑郎は首を傾げながら、八重歯を晒して陰湿に笑っている。
「カレシとは別れられたんか?」
玄関の脇に置いておいた箱を掴む様を、彼は開け放した引戸から覗いていた。
「うん」
「あっさり?」
「どうだか」
「ま、寂しければボクちんが居るし」
暁は返事をしなかった。巴須家には借りがある。ゆえに緑郎が求めるのなら、その身を委ねることになる。そのために遠距離恋愛を選ばなかった。元交際相手の意思を尊重することもできなかった。
「他の奴等に挨拶回りはもうしてんの?」
「ううん。昨日帰ってきたの、もう遅かったし」
「じゃ、それもボクちんと回ればいっか」
正門からではなく、生垣の狭間から抜けて巴須家へ向かう。道端にはブルーベルが咲き、民家の塀からは藤の花がぶら下がっていた。
「ごはん食べたら、未遠(みを)に会いに行きたいのだけれど、行ってもいい?」
「いいぜ。連れて行ってやるよ」
巴須家に対する負い目が、昔のようにさせなかった。並んで歩けず、また緑郎も彼女を気遣わない歩幅で進んでいく。
都会に住んでいる間、ほぼ寝たきり状態にある弟の世話を巴須家に任せてしまっていた。祖母は生計を立てるため農作業があったし、病院をこの地に移したときも巴須家の協力が必要だった。未遠は、彼女の弟である。
目的地へと着いた。巴須家といえば豆生(とうお)村の名士で、土地持ちでもあり、邸宅も広かった。道場を思わせた造りで、庭は平たく新設された境内(けいだい)を彷彿とさせる。緑郎はこの家の末子で、六男だった。巴須家の当主は6人兄弟の4番目で、緑郎と彼以外の兄弟はみな鬼籍に入っている。緑郎たちの父親はすでに70代半ばで早々息子に家督を譲っていた。この翁は6人の子すべて男児で1人も娘がいないためか、緑郎のつれてくる暁をたいそう可愛がり、未遠についてもよく世話をした。
暁は、巴須家の隠居と当主の四季郎(しきろう)、緑郎、それから住み込みの家政士3人と飯を食った。麦飯に豆腐の味噌汁、焼鮭に添えられた2切れの甘い玉子焼きは既製品の味がした。他にも漬物といちごが2つ。会話のひとつもない静かな食事の時間であった。6人兄弟に二親が揃い、家政士もいた頃の広さが、さらに静けさを強める。
「暁さんは今日はこれからどうするんですか」
沈黙の気拙さに耐えられなくなったのか、四季郎が口を開いた。緑郎とは3つしか離れていないはずだが、四男にしてお鉢の回ってきてしまい、実質の長男と化して家督を継いだ彼は、昔に見た時より随分と大人びていた。緑郎が同年代よりも、若いという表現にすべきか、幼いというのが適しているのか、俗っぽく、稚拙なのもあるだろう。厳格な感じの否めない巴須家からも浮き、どこかどんよりと陰った豆生村からも浮いている、この家の末男は鼻摘まみ者のようだった。
「弟の見舞いに行きます」
「そうですか。緑郎を使ってください。足にはなりましょう―緑郎、付いていってやりなさい」
「言われんくてもそのつもりだっつーの」
緑郎は兄のほうも見ずに答える。
「それなら安心した。小人(しょうじん)閑居して不善を為(な)すというからな。むしろ暁さんには緑郎の面倒を頼むかたちになってすみません」
四季郎は、緑郎にあまり似ず、三白眼ではなかったし、声質に濁りはなかった。癖のない直毛の髪で、涼やかな美青年である。兄弟と言われてはまず疑うが、しかし慣れてくると、確かにどこか頬の造りや口元に似通った部分がないわけでもなかった。
「言ってろ、言ってろ」
「帰ってきた挨拶回りもまだしておりませんから、緑郎くんをお借りします」
「できた幼馴染だの。緑郎、よく捕まえて口説いておきやっせ。今後、お前みたいな跳ねっ返りが、そんな良い娘と出会えるとは思えんわぃ」
巴須の隠居は玉子焼きをぱくついている。
「あ~、あ~、田舎の巻き網漁か。怖いねぇ」
緑郎は飯を食い終わると空いた食器を重ねて、その場で横になってしまった。
「客の前だ。自重なさい」
「客なんて畏まったもんじゃねぇサ」
「親しき仲にも礼儀あり、だ。父からも……」
「隠居した身じゃァのぉ。何も言えんわ」
そう頑健な70代ではないらしかった。口の利き方はしっかりしているが、肉体の衰えが目立つ。だが妻と息子4人を失っているのだから、その身に降りかかった気苦労は察するに余りある。
「弟が申し訳ない」
「いいえ……お邪魔しているのはこちらですから」
四季郎はシャツを着ていた。下もスラックスである。これから出社のようだ。彼がサラリーマンらしきことに暁はいくらか意外な感じがした。
小学校5年生辺りまで、暁はこの豆生村にいた。巴須家の広い敷地ではよく遊んだものだった。人が多くいたのもある。近所の交流所にもなっていた。緑郎のほか、巴須兄弟の四男五男とは歳も近かったために遊んでもらった記憶がある。特に四季郎は……暁にとっての初戀の相手なのである。中学生の時分から穏やかで聡明な人だったような覚えがあるけれど、文明も文化も技術も発達したこの時代に四男まで家督が回ってくる事態があっては、彼も変化せざるを得なかったのだろう。おまけに長弟にあたる五男も亡くなり、次弟は素行不良児のような為体(ていたらく)である。
確かに聡明さは消えずにいるが、伶俐冷徹といった雰囲気で、穏やかは失せた。暗雲を常に背負っているような峻厳さに取って代わった。銀の眼鏡が顔立ちに溶け込まず、飾り物の域を出ていない。
「ごちそうさまでした。ぼくはそろそろ出ます」
彼も空いた食器を積み上げ、家政士に小さく頭を下げ、広間から去っていった。
「緑郎はちと甲斐性なしだからのぉ。ほっほっほ。四季郎は縹緻(きりょう)も悪くなかろう。あれで女っ気もないから……世は不景気か」
「不景気は関係ねぇだろ。フツーに女もバカじゃないのサ」
「お前んようなバカ倅(せがれ)がモテるというからにゃ、分からんずらん」
口喧嘩が始まりそうなやりとりではあったが、この翁は末男とのコミュニケーションを楽しんでいるようであった。
「まぁ、いいのだ。お前んような珍奇なプレイボーイにはなから期待などしておらん。ただ、四季郎にはな。あれで嫁でももらえば、昔みたいに柔(やっこ)くなるんかね」
緑郎に視線を投げつけられ、暁も咄嗟にそのほうを向いた。けれど搗ち合った瞬間に逸らされる。
「ま、ボクちんも帰ってきたしさ?パピィも、隠居したって言ったって、まだお口は達者なんだ。なんもかんも1人で背負うもんじゃないって、四季郎には分からせてやんねぇと」
「なぁに、緑郎。四季郎の小倅が1人で背負ってあんな偏屈になったと思ってんのかぃや。次は自分かおまはんか、どっちが死ぬかで不安がってんじゃないのかぃ」
廊下をネクタイを結んでジャケットを着た四季郎が通っていく。暁は彼を追った。
玄関で革靴を履く巴須家の四男の背後をとる。彼も見送られていることに気付いたらしかった。
「今はもうあんな家庭ですが、よかったら寛いでいってください。家政婦さんに言えば、昼も夜も食事処代わりにしてもらって構わない。父も弟も喜ぶと思う」
「はい。ありがとうございます。お気を付けて」
幼少の頃は、馴れ馴れしく接していた。けれど互いに大人である。どこかよそよそしさすらあった。
「ありがとう。行ってきます」
彼はわずかばかりに暁へ顧みた。その口元が和らいでいる。
引戸がゆったりと閉まっていく。曇りガラスの奥の人影が小さく纏まって朧く消えていった。
「四季郎のこと好きなん?」
真後ろから話しかけられて暁は肩を跳ねさせた。
「びっくりした……」
「食休みは終わりでいいんか」
緑郎のさらに後ろから、ぬっと巴須翁が現れる。
「ほっほっほ。四季郎ならいつでも婿にくれてやるぞ」
「婿は拙くねぇか、パピィ」
「こんなどでかい家名(いえ)があるから貰い手がない。緑郎よ、おまはんには何にも期待してないから好きにやりやっせ」
そして翁はまた物陰に消えていく。
「まぁ、冗談はさておき、行くか。診療所行ってから、挨拶回りな」
「お土産あるから、取りに行ってくる」
「ふ~ん」
黒いマニキュアの塗られた手が車のキーを弄ぶ。
来た時のように庭脇の枝折戸を通るのが躊躇われ、暁は開け放たれた立派な棟門を潜り抜けた。目の前の道路を野良猫が慌ただしく駆けていったのが危なっかしい。
たびたび豆生村には帰ってきていたけれど、そのたびに村には変化がある。昔からあった家が消え、更地になり、ソーラーパネルか、景観に合わない住宅が築かれている。地元民の経験からして、建てては危険だと言われていた場所も区画が仕切られて、今にも新たな家が建とうとしている。運が良ければ10年、50年は保つかもしれない。しかし100年は保つか。いいや、まずあの簡素な作りでは家が保たないだろう。川や海や山が荒れずとも。
豆生村は村とはいうが、そう閉鎖的ではなかった。車を走らせればすぐに都市部にも着く。だが暁の住み慣れた、窮屈な空にコンクリートの密林もなければ、投網できるほどの通行人もいない。一軒家が多く横に広く、持て余すほどの庭があり、駐車場もついている。
ハナミズキだのフジだのを眺めながら彼女は杣宅から配り歩く土産を持ってきた。
巴須家に戻ると緑郎は車を出していた。モスグリーンの車体で、運転手の若かさを窺わせる。しかしバックミラーに芳香剤のマスコットがぶら下がり、ダッシュボードにはオコジョやイタチの死骸みたいな白い毛尨(けむく)が置かれている。
「来たな。乗れよ」
黒を基調とした社内に、シートベルトは赤い。
「うん」
暁は後部座席に乗った。溢れ返るバニラの匂いに気分が悪くなりそうだ。溜息が聞こえる。
「フツーはこういう場合、助手席に乗んねぇ?」
「安全運転してくれるの?」
「当たり前だろ。ボクちんのことなんだと思ってんの」
渋々、彼女は助手席へ移った。
「カレシと別れたんなら、義理もないだろ?」
「義理はないけれど……わざわざ助手席を選ぶ理由もなかったし。緑郎は?」
「ボクちんは1人の女って決めない主義なの。1人に決めないのは男らしくないらしいケド、逆だね。男らしさに囚われて、どいつもこいつも去勢されちまってんの」
耳朶を虐待しているとしか思えない左のロングピアスが、バックミラーに吊るされた芳香剤マスコットとともにぶらぶら揺れている。右耳との釣り合いが取れていない。首が凝りそうである。
「四季郎さんに言われたの?お父さん?」
「四季郎。男気かオスか。男気ってのは家畜化されたオスをいうんだよ。それを分かってない」
「何を言ってるのか分からないし、分からなくていいと思うけれど……」
緑郎は唇を噛んで唸った。それが彼の呆れと落胆である。
車が発進する。最近売り出した男性アイドルの曲が流れる。同じ歌声が次の曲からも聞こえたところからすると、ラジオで流れたのではなく、緑郎の趣味らしい。
「すんなり別れてくれたん?」
「まぁ……うん」
「愛されてねぇんじゃね」
「そんなことは、ないと思う」
元交際相手の様子を思い出してみる。一方的に切り捨てるような有様だった。
「好きな人のためなら身を引くってよくあるけど絶対ウソ。好きなら尚更、我って出るだろ」
信号で止まり、彼はハンドルを抱いて腕に顔を乗せる。コーラルオレンジのリップカラーを塗っている。将来の夢は孔雀だと、昔語っていた。オスの孔雀である。
「好きか嫌いかで言えば、好きなつもりだったんだけどな」
「惰性ってやつ?」
「独り者は可哀想だと思ったから、友達で一番可愛い子紹介したの。わたしなりに良かれと思ったんだけど……好きじゃなかったのかな」
「悲しいね。久々に会った幼馴染が、サイテーのクソ女になってて泣きそうだよ」
暁は俯いた。元交際相手との破局を決めたのは、恋愛感情によるものではなかった。いいや、踏ん切りがついたことに恋愛の冷めが関わっていたのではあるまいか……
「田舎の型に嵌ったハンコ型のシアワセってマインドは捨ててねぇわけね。うちもあそこもこの家も、ぽん、ぽん、ぽん、ぽん。異性見つけて結婚してガキ持って家建てて子と孫に寄生って?ま、そうじゃなきゃ村社会はきちぃわな」
「緑郎はどうして帰ってきたの」
「チミにあんな話しちゃったから」
暁は運転手を見た。彼も同乗者を見て、陰湿に笑う。
「本当?」
「ウソ。気に入らない上司殴って前の年度いっぱいで辞めたから」
「どうして……大変だったでしょう、就活……」
「都会の品も聞き分けもいい坊ちゃん嬢ちゃんたちの人の好さに付け入って、サル山の大将気取ってるのがムカついたから。サル山の大将のプライドも理解してねぇのに。夜郎自大。奴等には村八分にされる危機感がない」
しかし本当にそのようなばかげた真似をするだろうか。暁は緑郎を見ていた。一人の幼馴染の人生を狂わせてしまったかもしれない。いいや、この男にはばかけたところが多々ある。それが6人兄弟の中で生活するうえでの戦略だったのか。
「で、その上司は?」
「不倫バレてたけど、知らん。社外だし、不倫なんて各家庭のことだろうし。世の中はそう上手く、スカッと勧善懲悪!とはいかんだろ」
診療所へ続く長い道へと入っていく。防風林が両脇にあり、ほぼ直進の道で、木々の狭間から海が見えた。
「海岸デートでもしたいんか」
「水族館とか海水浴場があれば考えたけれど、ね」
彼女は車窓から海を眺めたまま、冗談に応えた。
「豆生村名物、人魚サマも死んじまうわ」
「意外と共生できたりして」
緑郎が「人魚」という単語を出した途端、車内の空気が一気に変わってしまった。小さな静電気がいくつも起きているような、ぴりついた空気感に……
「本当に信じてるんか」
「人魚を見た日から、気が狂ってるのかもね。わたしも、あんたも……」
_干涸びた死骸になら何とでもいえた。しかし生きた個体を見た日から知ってしまったのだ。でなければ、気が狂(ふ)れてしまった。
2
弟の未遠(みを)の病室からは海がよく見えた。完全に眠っているか、身を起こしているかは、気温や彼の中のリズムによるもので、昼夜によるものではなかった。歩けないことはなかったが、病室のトイレや洗面所がやっとで、そう長くは立っていられない。
暁(あきら)と緑郎(ろくろう)がその部屋を開けたとき、彼は靡いて膨らむレースカーテンに包まれ、水平線を眺めていたらしい。ノックによってドアのほうを向いた姿は蜘蛛の巣に搦め獲られていくような痛々しさがあった。絶世の美貌としかいえないその面構えを覆うケロイドと相俟って。
「何していたの?未遠」
「海を……観ていました」
彼の手にはスケッチブックがあった。風が和らぎ、颯々(さつさつ)として乱れた髪の上にレースカーテンが被さったことにまるで頓着のない様は滑稽にも見えたが、硝子玉のように澄んでおきながら虚ろな双眸を認めると病的ですらある。暁はレースカーテンを弟の頭から落とした。
未遠は嫋(たお)やかな美少年で、玉質の肌をしていた。しかし浜辺のように顔の半分には治りきらない瘢痕(はんこん)が遺り、片目の視力も奪ってしまった。毛髪と眉と睫毛は残っている。上半身は主に左側、下半身は左右ともに傷を負い、健常者としての生活は送れない。頭にも影響が出ている。これは彼のみを襲った不幸ではない。三国(みくに)家を襲った不幸だった。暁の背中にも火傷の痕がある。
「お姉ちゃん、帰ってきたからね。また絵、描くでしょ?いっぱい絵の具買ってきたから使って」
画材店でよく頼まれていた画材を中心に、彼女は絵具を見繕ってきた。紙袋をベットサイドチェストに置いた。
「ありがとうございます」
彼はビー玉みたいな瞳で姉を真っ直ぐに捉えた。それから緑郎を一瞥する。
「待合室で待ってっから」
その目交ぜで未遠の意図を理解したらしい幼馴染は身を翻した。ロングピアスをちゃらちゃら揺らしながら出ていく。
「何か大事な話?」
「……これを」
未遠はベッドサイドの抽斗(ひきだし)から薄いポーチを取り出した。中に何が入ってるのか知っている。それを差し出され、暁は狼狽えた。
「え、」
「帰ってくるとは、聞いていました。車が、必要でしょう」
喉も焼けた彼は痞(つか)えながら喋る。
「だからって……」
「姉さん、には迷惑を、かけてばかり、ですから」
「全然、そんなことはないよ。わたしだけ都会で遊んで暮らしちゃってたくらいなんだし……」
「僕のできることは、これくらいですから。片輪の弟があっては、姉さんも苦労します」
平然と告げる。爆炎は彼の頭の中までをも燃やし尽くし、表情も焼き払ってしまった。表情について、最初から彼の気質として乏しいわけではなかった。
「でも、」
「現実問題、です」
未遠は花が傾いていくように俯き、虚ろな目をさらに朦朧とさせていった。
現実的に考えれば、豆生(とうお)村で人並みに暮らすなら車が要る。軽トラックは祖母が使っているし、徒歩で出掛けては家事がままならなくなるだろう。幸い、就職活動を少しでも有利にするようにと運転免許は取ってある。
「少しだけ考えさせて」
暁は未遠から通帳と印鑑を受け取った。
家族も家もその先にあったあらゆる可能性をも奪い去っていった黒煙は未遠に取り憑き、彼は画才に目覚めた。そして若くして扶養を外れた。その稼ぎで姉と祖母を養えた。だが祖母も、暁もこの哀れな少年の不自由な未来を憂き、両親の二の舞を演ずることを恐れ、またその画才が有限であると決めてかかっていた。ゆえに、その巨額の貯蓄は無いものとした。
「姉さん」
「うん?」
「姉さんが、車を持っていてくれたら、僕も、お遣いを頼みやすく、なりますから」
だがそれが方便だと知っていた。彼は画材以外に何も欲しがらない。画材にしたって生計を立てるため仕事道具のようなものである。
「……そうね。でも欲しいものがあったら言ってね。今はネット注文だってあるんだから」
「はい」
帰りに緑郎に相談してみることにした。緑郎は車を買うことに賛成している。
「中古車ならすぐ来るぜ。あれば楽だろうさ。ま、ボクちんもまあまあ無職(プー)だし、用あれば連れて行けっケドねぇ?お代金はカラダで」
「中古車か……中古車なら、いけるかな」
「甘えちまえば?」
「わたしもお婆ちゃんも、それは元気に長生きできればいいけど、人なんて、分からないでしょ」
その言葉が出たとき、彼女はこの田舎に帰ってきた理由のひとつ、胡乱な迷信を芯から信じていないことに気付いてしまった。
「人魚サマに頼れば?」
「頼れる話?本当に?」
「それで帰ってきたんだろ?」
「都会に留まる理由もないし」
緑郎はリップカラーを塗った口の端を意地悪げに吊り上げた。
「カレシと結婚する道もあったろ」
「弟はどうするの」
「巴須(うち)に任せておけばよかった」
「それじゃ悪いし、未遠も可哀想」
彼は首を傾げ、右耳朶を虐待している銀輪をいじった。
「暁は可哀想じゃないんか?」
「……誰しも柵(しがらみ)があるからね。それにわたしは障害ないから、さ」
「気に入んね」
すでにエンジンはかかっていた。黒いマニキュアの塗られた手がシフトレバーにかかった。
「四季郎(しきろう)さんだってそうでしょう」
「人は独りじゃ生きていけねぇが、逆も然りだな。独りじゃ生かしてもくれない」
車が発進する。
「帰ってきてほしくなかった?」
「別に。でもお前が嫁にくれば、義弟の面倒を看るのは当然になるんだけど、柵(しがらみ)ってやつを増やしてみる気は?」
左のロングピアスが肩の上でぷらぷら揺蕩う。
「四季郎さんにも選ぶ権利があるでしょう……」
「は?なんで四季郎?」
緑郎が急に大声を上げ、暁は首を捻る。
「え?」
「ん~、まぁいいや。行こうぜ。雪ちゃん家(ち)からでい?」
「行きやすいように」
最初に向かったのは、豆生村で一番の豪邸ともいえる卦濤院(けとういん)家である。しかし巴須家より歴史は浅いのだった。造りも洋風で、館のような雰囲気がある。診療所から北に向かった高台に建っていた。
「こっち帰ってきてから会った?」
「全然。昔可愛かったもんな~。どんな美女になってんのやら。楽しみだぜ」
「ああ、あんたの挨拶回りも兼ねてるのね」
「お前ン家(ち)は別に挨拶回りなんてたいそうなことしなくたっていいだろ、引っ越してきたわけでもないんだし。でもボクちん家は、ほら、な?」
ばつが悪そうに、緑郎は三白眼を泳がせた。
「なんだ。するのが当たり前なのかと思っちゃった」
「ま、ボクちんとのドライブなんだし、光栄に思えよな」
卦濤院家の車庫の外に若者向けの車が1台停まっていた。誰か客があるらしい。
「後に回すか?」
「誰か出てきたけど」
暁はその車に近付いていく人物を指した。明るい茶髪で、背はそう高くない。少し中性的な外貌だが、嫋やかというわけではなく、着太りがはたまた本当にぽっちゃりとしているのか、若作りな中年女性を思わせる。しかし太っているわけでも無さそうなのである。全体的に肉付きが女性的なのだろう。
「杏本(きょうもと)くんじゃない?」
この村には3人、暁と同学年の者がいた。近所付き合いもあるこの横柄な男もその1人で、今訪れたばかりの卦濤院家の娘の雪もそうだった。そして話題に挙がった杏本もだ。
「んあ?マジ?」
緑郎は前のめりになって、明るい茶髪の人物を見た。
「めっちゃ垢抜けたな」
彼は卦濤院家の庭に車を突っ込んだ。元同級生と思しき人物がこちらに気付く。
「もっちゃん?」
運転席の窓を開け、緑郎は首を出した。
「んがが、緑郎くん?と、暁ちゃん?」
一瞬にして、白くまろい顔に大きな笑みが浮かんだ。昔からよく笑う、明るい子だったが、今でも変わらないらしい。
「んが、帰ってきてたんだ」
笑いながら喋り、彼という男は常に幸福に満ちているようにさえ見える。
「そ。だから挨拶にでもな~って思ってよ。帰り?」
緑郎は卦濤院の洋館を見遣った。
「んが、そう。雪ちゃんと付き合ってんの」
「へ~、仲良かったもんな?」
促され、暁だけ車から降りた。緑郎は車を庭に揃えて停める。
「ちょうどよかった。これから京本くんのところに行こうと思っていたところだから。これ、お土産」
「帰ってきたの?」
「うん。都会暮らしに疲れちゃったって感じ。またこっちでよろしくね」
杏本あずさというのは背が低かった。少し背丈のある暁と目線が同じくらいである。
「んがが、よろしく。訳ありなんだ、暁ちゃん」
「うっふっふ。出戻りじゃあないわよ」
彼は不思議な人物だった。男性だとは分かるけれど、まるで同性といるような感覚になる。小柄で肉付きがよく、垢抜けた風采に、身の丈に合った服装をしているのもあるだろう。己をよく知る洒落者である。態度にも嫌味がない。
緑郎が車から降りてきてそこに加わる。
「じゃあさ、帰ってきたお祝いにバーベキューしようよ。雪ちゃんも誘って、今度!改めて」
「おう。じゃあ、親御さんにもよろ」
杏本あずさとはそこで別れた。
「中身はあんま変わってねぇな」
「それを言うならあんたも人のこと言えないんじゃない」
「いい意味で、だろ?」
車庫から玄関まで歩くのは、まるで植物園を散策しているようだった。車庫周りにはノースポールや水仙が咲き誇り、玉簾が敷石とともに道を示し、ネモフィラが青い顔で空を仰ぎそよいでいる。玄関アプローチのアスファルトには大きく欠けていたが、勿忘草が植っている。
「この花、お前ん家(ち)にあった」
「なかったけれど」
アスファルトの割れ目を上手く利用した勿忘草を見下ろす。
「違う、あれ」
緑郎は花畑みたいなネモフィラを指した。
「さっき食おうとしてた」
「してない」
幼少期から美しかった幼馴染に会うため、彼は舞い上がっているのだろう。
「鼻の下伸ばさないでよ」
暁はすでに玄関を前にしている緑郎を肘で小突いた。
「伸ばさねぇわ。なんだ、ヤキモチか?生憎、幼馴染(みうち)恋愛はしない主義なんでね」
インターホンを押すと、すぐに玄関扉が開いた。卦濤院雪本人か、その家族が出るものかと思われたが、出てきたのは執事然とした身形の男であった。まだ20代といったところだが、暁や緑郎よりかは上に見えた。都会的な雰囲気の、堅そうな美男子の登場に2人は固まってしまった。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
この時代に、この土地に執事というものが存在するのであろうか。いいや、巴須家にいる家政士の延長、派生、亜種とすればなくなはないだろう。
「巴須です」
固まっている緑郎に代わり、暁が答えた。家名のある彼の姓で名乗ってしまった。
「ああ、そう。雪ちゃんの幼馴染って言や分かる」
「承(うけたまわ)りました」
場違いな執事然とした青年は恭(うやうや)しく引っ込んでいった。そして色白の、濡れたような黒髪の、庇護欲を煽る、絵に描いたような清楚な女が代わりに出てきた。彼女こそ卦濤院雪である。出掛ける予定があったのかもう済ませたのか、部屋着とは思われないドレスじみたワンピースを着ている。
「まぁ、暁ちゃん。と、緑郎さん」
杏本あずさと彼女は付き合っている。幼少期から仲が良かった。暁にとって、長い月日が経ってもそこに変化がなかったという点を抜けば、その組み合わせに意外性はない。しかし十数年後に彼と会った後にこの令嬢を見てしまうと遜色の大きな差が否めない。先程出てきたスーツの男と付き合っていると言われたほうが似合いなのだった。
「雪ちゃん?綺麗になったなぁ」
「お二人は結婚なさいましたの?」
卦濤院雪はずいずいと距離を詰めた緑郎を一瞥するのみで、暁のほうに話を切り出した。
「えっ!なんで」
「だって名字が……」
「わたしはまだ三国(みくに)だけれど……」
「さっき巴須だと聞いたものですから……」
暁は鼻の下を伸ばしている緑郎を見遣った。
「こいつの家のほうが分かりやすいかなって……」
「そんなことありません。巴須様のお家のこともそうですが、もちろん三国様のお家のことも覚えておりますわ」
色の白い肌に、大きな真っ黒の瞳、長くふっさりとした睫毛とサルビアミクロフィラみたいな唇が可憐だ。
「こっちに帰ってくることになったから、よろしくねって挨拶しにきたの」
「2人で?」
蛾眉(がび)に微かな険しさがこもる。
「2人で一気に来たほうが、いいかなって、緑郎に待っていてもらったの」
すると、彼女の表情が和らいだ。
「積もり積もった話もあるでしょうから、上がっていきますか。それとも、まだ、挨拶回りが?」
「そうなの、挨拶回りがまだあって。また今度、お茶しよう」
「はい」
雪は暁の手を握った。彼女たちはまったく緑郎の存在を忘れていた。
「もっちゃんも4人でバーベキューやるって言ってたしな」
臍を曲げたような態度で彼は口を挟んだ。
「あっちゃんに会いましたの?」
「今、そこで」
雪の可愛らしい面(おもて)に、ばつの悪そうな翳りがあったことは否めない。
「……そう。付き合ってますの。もうご存知かもしれませんけれど。バーベキュー、場所がお決まりでなかったら、この家の中庭を使っても構いませんことよ」
「そりゃいい提案だ」
「巴須様のお宅も広いですものね」
緑郎が鼻を鳴らした。彼と雪の間に、何かしらの異様な感じがあったが、暁はその正体が分からなかった。
「でも、玉砂利だけの何にもない空地より、花に囲まれて肉食いたいだろ。で、さっきにいちゃんって執事?執事いんの?」
「パパの秘書です」
「な~んだ。びっくりした。てっきりカレシかと思った」
「ちょっと、緑郎!」
暁も思ったことだった。ゆえに杏本あずさに対する後ろめたさについて、緑郎へ八つ当たりじみた小突きを与える。
「あたしの恋人はあっちゃんですから」
雪に気分を害したところはなかった。幼少期から完成されていたが、相変わらず品の良い所作で笑っている。
「う~っし。じゃ、次行くぞ、暁。またよろしく、雪ちゃん」
「はい」
植物園みたいな庭を引き返し、2人はモスグリーンの車に乗った。
「相変わらず可愛かったな~。大体成長で崩れるもんだケド」
「幼馴染に久々に会って、言うことがそれなのね。わたしも何を言われてるんだか」
「そう卑屈になるなよ」
左耳の簾みたいなピアスをちゃらちゃら揺らして、彼は発車させる。あとは近隣住民のみに絞って、そう長くはかからなかった。
「暁ちゃん出戻りパーティーやろうと思ってんだけどさ」
最後の一軒から出てきて車に乗ったとき、彼はむい、とコーラルオレンジの唇を歪ませた。
「え?」
「杣(そま)の婆ちゃんも誘ってくれよ」
「パーティーって……そんな……」
「あんま期待すんなよ。あんな家だし宴会みたいなもんだろうし、パピィがやるってきかないし、たまにはこういうのもいいんじゃね?ってカンジだから、まぁ、暁ちゅわん出戻りに託(かこつ)けてってやつ?」
「そう……ありがとう。お婆ちゃんに聞いてみる。なんだか悪いわね」
彼はすでに運転手としての顔をしていた。
「別に~。ボクちんも美味いもの食えるしな」
帰り道の途中で、暁は海岸沿いに降ろすよう求めた。十分、自宅まで徒歩で帰れる距離であったが、緑郎も車を完全に停めて降りてきた。潮騒が聞こえ、海は日を浴びて点綴(てんてい)とした鱗模様に輝いている。
「人魚でも探そうってか?」
「いたらどうやって捕まえる?」
「随分な賭けに出ちまったな」
「ま、話半分の半分のそのまた半分ってことで……ね」
漣(さざなみ)が白くやってきては、砂を色濃く染める。
「カレシ、フってまで価値あることだったんか?」
「あの人とは付き合えない。都会の、もっと身軽な人と、付き合って、結婚すべきなんだよ。まだ若いんだし、まだやり直せるでしょ、今なら。あんたは凝り固まって枠に嵌まった幸せって言うだろうけれど、だって人の幸せのレパートリーなんて限られているじゃない……」
緑郎は浮かぬ顔をして、耳に小指を突っ込んでいた。
「そら、お国様は結婚さして子供持ってもらわにゃ困るからな。利口な子じゃなくて、働き蟻が。幸せのトレンドってやつを指し示すのも無理はないでしょうな。アンタの元カレもその渦潮に巻き込むワケだ。おっかねぇな」
暁は緑郎を視界から外し、深く息を吐いた。
「浮気されたの」
「ほぉ!」
「でも、中学時代の話」
「はぁ?」
面白い話がくるのだと期待に満ちた彼の態度は、落胆を隠しもしない。
「何年前の話を根に持ってんだ?」
「根に持ってない。わたしはね。子供の頃の、自意識過剰な時期のことだものね。でもカレは違った。そのことを負い目にしてる。圧倒的なパワーバランスができちゃったの。ここに来るときも、別れるのはそのせいかって、言われちゃってさ。全然違うんだけれど。いずれにしろ、上手くいかないんだろうなって思った。そういうことだから、緑郎、あんたが責任感じることはないの」
緑郎はわざとらしく左右に首を曲げた。
「あ?あ?ボクちんが責任感じてるって?一体何に……」
胡散臭い人魚の迷信は、彼から聞いたものだった。そしてその話に乗ったふりをして帰ってきた。理由はそれのみではない。弟のこともある。年老いた祖母のこともある。恋人との関係にも清算の必要性を感じていた。仕事についてはいくらか残念な点も否めなかったが。しかし緑郎は違うようだった。
「元カレのことやたらと気にするから」
「カレシと別れた話以外に面白れぇ話が何かあんのかよ?」
「まぁ、ないけど」
ふざけるでも嘲るでもなく、彼は渋い面構えである。
「ほらな」
「責任感じてないのなら、な~んだ。心配しちゃった。要らないお節介だったみたいね」
暁は浜辺を歩いた。灰色とも茶色ともいえない砂で、写真映えするようなところは何もない。ここで干涸びた人魚を見たことがあるし、生きた人魚の打ち上がったのを見たこともある。豆生村の者すべてが人魚について口を閉ざすということはなかろう。時代を経るにつれ人々の結束は薄れ、閉鎖的ではなくなったこともある。おそらくは人魚を求め、外部から人が来ることもあったが、彼等は目的のものを見て帰ったのだろうか。
「連れて行かれるぞ」
暁は腕を引っ張られた。不意に傾き、身を支えるには足元は柔らかく、均衡を保てなかった。濡れた砂浜に倒れゆくはずだった。しかし受け止められ、淡いバニラの香りが鼻腔をくすぐる。
「緑郎」
オーバーサイズの服ばかり着がちな幼馴染は痩せぎすに思われたが、布越しの肉感はそうではない。それなりの筋肉の質量がうかがえる。異性という認識を持たざるを得なかった。
「重すぎじゃね?太ってねぇのに、骨太なんか?」
だがしかし緑郎である。
「そうかもね!おかげで骨折知らずです!」
幼馴染の腕を振り払う。
「あんまり波打ち際にいると、すっ転んでびしょ濡れになるぜ」
「歩いて帰れますから」
「ンでも、びしょ濡れでブラ透っけすけで帰るのは変わらねぇじゃん。人目ないなら気にしない感じ?」
海岸から自宅まで、内陸に向かって土地が高くなっている。台風の時期に危険に晒される低地には、新築住宅が建ち並んでいるが、その脇道の狭く急な石階段を2つほど登ると、先人たちの犠牲を以って遺された石碑がある。その通りを抜ければ、確かに人目が皆無ではないが避けることはできる。
「連れて行かれるって、竜宮城でもあるの?」
緑郎が先程いくらか必死だったのを思い出す。暁は嫌味に笑って訊ねた。
「ご立派な御殿があることでしょうな。乙姫様?シャルウィーダンス?」
大仰に跪(ひざまず)くふりをする。
「何それ。乙姫様って踊るの?」
「知らね。ああ!ああ!浦島様、この哀れな亀はいぢめられていますぅ!」
「緑郎」
「こっちの亀はいつでもいぢめていいケドな?」
彼は下半身を指す。
「もう本当、やだ」
ふざけてばかりの幼馴染に彼女は呆れてしまった。しかしふと捉えた彼はしかつめらしく海を臨(のぞ)む。
「今度はサメでもいるって魂胆?」
「ん~?」
ぽちゃ、と川に石を投げ込むような音がしたのだ。振り返りかけたところで、目元に手を当てられた。
「だ~れだ」
緑郎はまだふざけている。
「もう!」
「帰ろうぜ。とっとと帰ってクソして寝たい」
腕をわっしと掴み、彼は暁を引き摺った。
「ああ、そう」
モスグリーンの車に戻ると、白い小さな車も停まっていた。見覚えがある。
「未遠のところの、先生だ」
暁は辺りを見回した。少し浮世離れしたところのある若作りな医者で、診療所は祖父から受け継いだものらしかった。彼女は白衣を海岸に認めた。仕事に疲れ、大自然を前に気を休めているのだろう。
3 打ち切り
祖母は、少量の酒を飲み満足して巴須(はす)家の一室に案内された。すでに寝ているのだろう。だが明日の朝も早い。
暁(あきら)は緑郎(ろくろう)に飲み比べを迫られ、酔い潰れている彼に絡まれていた。この幼馴染は酒に弱い。
「放っておけ。家系に抗いおって」
巴須家は酒に弱いらしかった。巴須翁は優雅にルイボスティーを啜って愚息を一瞥した。
「暁さん、そいつのことは気にしなくて大丈夫ですよ。お家に帰られますか?お婆さんも泊まっていられますし、泊まっていかれますか」
四季郎(しきろう)がやってきて、弟の不始末に手を焼いた。緑郎は触れたそばから兄の手を振り払う。
「ンだよ、暁。ボクちんの酒が飲めねぇってか!」
「だから、さっきから飲んでるでしょう?」
注がれていく酒を暁は易々と飲んでしまう。
「男を立てろよ」
酒気に呑まれた昏い双眸が横に滑り、彼は拗ねた。
「あ~あ~、出た出た」
「バカ息子が。うちはカカア天下だろ。何を見てきたんだ。え?おい、バカ息子。立たせてもらえなければ立たぬ男に時代は用はねぇのさ、バカ倅が」
翁はルイボスティーを啜る。
「緑郎……すみません。暁さん、とりあえず別室へ。緑郎、いい加減にしろ。父さん!」
「放っておけ」
四季郎はまったく酒を飲んでいなかったが、二日酔いのなかにでもあるかのような頭の痛さがうかがえる。彼は緑郎を諦め、暁をすでに祖母の寝る間の隣室へ案内した。
「実は少し、酔っていらっしゃいますか」
四季郎は彼女にペットボトルの水を渡し、彼女の顔を覗き込んだ。
「え……?」
「どうぞ泊まっていってください。緑郎の世話がありますから、ぼくも送っていけませんし、ハウスキーパーも、就業時間は終わっていますから」
「酔っていませんよ」
しかし受け取ったペットボトルをテーブルに置こうとしたとき、手は距離感を認識していなかった。ペットボトルが転がる。
「夜も遅いですから。すみません。父も末っ子が可愛いみたいで。遅くにできた子ですから。恥ずかしいところをお見せして」
偏屈な四季郎が苦笑を浮かべる。
「いいえ。四季郎さん、おうちのことであまり楽しめなかったんじゃないですか」
「いいえ、そんなことはありません。それに今日は暁さんとお婆さんに楽しんでもらえればそれでよかったのに……緑郎はそれが分からないみたいで。こんなことになってすみません」
「わたしは楽しかったです。だから四季郎さんが謝ることは何ひとつないです」
「そう言っていただけて嬉しいです。今、布団を敷きますから」
四季郎は暁から目を逸らした。
「自分で敷きます」
「ハウスキーパーも時間外ですし、暁さんはお客様ですから。やらせてください」
彼はせっせと押入れから布団を出しては敷いていく。
「お疲れのところをすみません。ありがとうございます」
「布団を敷いただけのことですから。おやすみなさい」
スマートな男であった。軽く頭を下げて部屋から出ていく。
風呂にはすでに入ってきてしまっていたため、あとは本当に眠るだけだった。アルコールが睡眠剤となって彼女はすぐに意識を手放した。
甘やかな夢だった。よく知った男と寄り添った。泥沼に嵌り、沈みゆくような纏わりつく眠気は安穏に似ていた。
彼は言葉を発しなかったが、それでもその人と認識してしまうと、眼差しですべて悟った気になる。目交ぜに安堵し、耳を使わず流れ込んでくる声にときめく……
そう直接的ではない人気(ひとけ)に彼女は起きてしまった。すでに朝だった。襖1枚隔てた廊下を誰かが通り、会話が曇って聞こえた。
暁はそこに横たわるのみの、小さく凹んだ枕を振り返る。夢は終わった。彼女は顔を覆う。まだ自身から酒臭さが抜けない。
「暁~、飯。朝飯」
そうしていると緑郎が廊下で大声を上げている。
「ん、おはよう、緑郎」
「おハロー、寝坊助さん。揃わねぇとボクちんも飯食えねンだわ。早く来いよな」
わっしと腕を掴まれて、暁は広大な居間へと連行された。
すでに大きな食卓には朝食が並んでいた。麦飯に太く巻かれた玉子焼き2切れ、ウィンナー3つ、とミニトマトが2つ。ほうれん草の胡麻和えは胡麻の混ざり具合といい青物の萎びた具合といい冷凍食品で見たことがある。
「おはようございます」
四季郎もすでに席についていた。彼は若くして巴須家の家督を継ぎ、大黒柱となっているはずだが、上座で座椅子に腰掛ける翁の対面の下座にいる。そのために案内された部屋から居間に入った時、真っ先に会うのが彼だった。家政士たちや弟よりも低いとされているところにいるが、しかし家庭内の話である。家政士たちも縁側伝いに台所に行けるため、そのほうが何かと都合がいい。
「おはようございます。祖母は……?」
「朝早くに出て行かれました。粗末なものですが、おにぎりを持たせましたので」
「何から何までどうもすみません……」
「いいえ。無理を言って参加していただいたのはこちらのほうですから」
四季郎と暁が頭を下げているのを、緑郎は鬱陶しげに見ていた。卓の前で尻餅をついたように座り、膝をぷらぷら揺らしている。
「お堅ぇや」
「行儀の悪いやっちゃ」
暁は親子の会話を脇に席へついた。食事の音頭を四季郎がとる。
「暁さんは、寝られましたかね?」
「はい。とても、よく」
「バカ倅(せがれ)は酒の飲み方を知らんでの。巴須は下戸ばかりだから、教える必要もありませんで。ただ四季郎は会社勤め」
翁の言葉に緑郎は眉を吊り上げる。
「ボクちんも会社勤めだったんだが?」
「飲みの席というものがありますからの。これがなかなか。そのバカ倅が暁さんの車(あし)になりましょうから、まずは少量のお酒からうちの小倅の飲み友になってくれんか」
「父さん……!」
四季郎が翁を睨む。
「それは構いませんけれど……でも、体質に無理をして飲むのは事故のもとですし……」
「飲まねぇやつは信用されねぇの!分かってねぇな。ンなことしなくてもボクちんが付き合ってやるのに、オニイチャン」
翁は笑っている。
「バカ倅。お前は自分を何だと思っとる。軽挙妄動の権化め。もう酒を飲むんじゃない」
四季郎は飯を食いながら狼狽え、目が泳いでいた。それが哀れである。
「暁さん、気にしないでください。父が勝手なことを言っているだけですから……」
「わたしは別に構いませんので、あとは四季郎さん次第で……」
「ほっほっほ……」
彼に選択を突き返すことはむしろ彼を苦しめたようだった。面影はわずかに残っているが緑郎とはあまり似ない温容は惻隠の情を催すほどたじろいでいる。
「小倅は優柔不断での」
緑郎はふざけるのを忘れていた。窺い見るような眼差しを老父に向けていた。その老父は四男坊の当惑ついて愉快げだ。
「結構です。お酒は毒です。そんなことに暁さんを付き合わせるなんて……」
「そうですか?でも気が変わったらいつでも付き合いますから」
四季郎の反応は曖昧だった。
食事を終え、暁は会社へ行く四男坊を見送る。
「父の言うことは、あまり気にしないでください」
玄関で靴べらを踵に挿す四季郎の背中を見下ろし、暁は首を捻った。
「暁さんも嫌でしょう。すみません。父にはデリカシーがないのです。どうぞ断ってください」
「いいえ……そんな」
「それでは行ってきます。父や弟のことで何かあったらいつでも相談してください」
彼は鞄を取ると、靴箱の上の皿から車のキーを掴んでいった。
「いってらっしゃいませ」
暁は玄関の磨りガラスから彼の靄が消えるまでそこに佇んでいた。
「あれも一応は、結婚した男での」
翁がいつの間にか後ろに立っていた。
「そうだったんですか?」
しかし翁は四男について女気がないようなことを言っていた。
「会社のお偉いさんの令嬢だわな。嫁とは呼べんような関係での。お互い気があったかも分からんね。別嬪に違いはなかったが……会社関係と親族だけの挙式だった。何も言わなかったが、気を悪くせんでくれ」
「はい、もちろん」
暁の返事は果たして社交辞令と正しかったのか。翁は朗らかに笑っていた。すると居間の襖から緑郎が首を突き出す。
「夫婦として成り立たなかったらしいぜ。ボクちんは会ったコトないケドね」
「おう、呼んどらん、呼んどらん」
四季郎の年齢からいえば、つい最近のことで、さらにごく短い期間のことだろう。
「義姉(ぎし)がいるって知った途端に、もういない、だからな」
「顔見た瞬間に分かってしもうたんよ。これは長続きせんとな」
「分かるもんか?」
「むはは……緑郎………むははは」
翁は緑郎を一瞥すると意味ありげな妙な笑い方をした。
「なんだよ」
「あーしには6人の息子がいるわけだが……」
暁は親子の会話を横切るわけにもいかず、傍に控えて聞いていた。
「ほっほっほ。四季郎はお父さん似なのさ。緑郎。きっとお前さんもそうだ」
「あ?」
だが息子には伝わっていなかった。
【打ち切り】
3話打ち切り【TL】さざれなみのしじま