檸檬

 彼女と私はとてもとても、相容れない生き物だと思い込んでいた。言葉遣いに物腰、互いを囲む人々の纏う色彩。何処を取ったって別の世界の住みびとだ。けれどもなぜだろう、日を追って交わりを深めるごとに奇妙なシンパシーを感じてしまうのだ。
 まるで、彼女はよく熟れた檸檬。健康的な刺激が、いつだって隠し持った不可思議な彼女への興味に栄養素を渡して、心はどんどん彼女の声の形にくるまれ、唯ならない想いをすくすくと育てる。私を惹きつけては離してくれないあの檸檬の果肉は、どんなに鮮やかな外観を、味を、持っているのだろう。そうしていったい、どれほどに脆いものを隠しているのだろうか。もっと間近で眺めたい。確りと手に取ってみたい。あわよくば握りつぶしてやったら、溢れる酸味を啜りきったら、私と彼女はどんな結末に繋がるのだろうか。
 いけない想像をひた隠しにしながら、私は毎朝、愛嬌ある笑顔と共に発せられる彼女の「おはよう」へと、貰った声色より少し掠れていてきっとあまり可愛げも無い「おはよう」を返す。不意に目が合った際にこそ愛らしくぽってりとした唇の端を緩めてくれるのだけれど、彼女は大抵、私のほうでは殆どまともに会話すら交わした事のない生徒の輪にいた。檸檬、林檎、葡萄。楽しげに笑う彼女ら全員にそれぞれとした魅力が詰まっているのだろうけれど、私を惹きつけてやまないのは他でもない唯一つ、檸檬だけ。今日は最小限ながら私と彼女の間柄では最大限だったかもしれない声くらいしか交わしていないのに、帰り道にもこの耳孔の中ほどでりんりんと可憐な声が、ダ・カーポのかたちで舞い続けていた。
 徒らに、私は親指の爪を檸檬に突き立てた。夕食用の添え物としてスーパーで手に取った時の私の目はきっと肉欲に満ちた獣だった。そして今の私の心は、嗜虐的な液体と化して脳を浸していっているのだろう。
 想定したよりずっと、黄色い果実は脆弱だった。白々しい抵抗を見せてはいながら、結果として爪と指肉の隙間を果汁で湿らせてきただけ。弱きものを慈しむ気を思い出すでも無く、正しく檸檬を食事に頂くべくして包丁を入れるより前に、つい、指を更に深くまで、そして乱暴に捻じ込んだ。迸った果汁が、悲鳴に感じられてならなかった。
「――大丈夫?」
 不意に咲いた可憐な声で、瞬時に意識が揺り戻る。寝具に身を任せた彼女が、頬にそろりと触れてきて、触覚から得た慈しみは視界の霞をいとも容易く霧散させた。どうやら私は、想いを拗らせ続けたあの人と体を重ねるかたちで、共に寝具に体重で皺を作っていた。
「……うん、平気。ゴメン」
 その指に掌を重ねてみると、生まれつき痩せた形で男みたいだと思っていた私の手とはまるで似つかないふっくらとした感覚に、いつからか強張っていたらしい私の肩が安堵で力を抜かれてゆく。檸檬。魅惑的な果実の独占を再確認できたなら、急激な分泌を起こした唾液腺がきゅうと痛んだ。
「わたしは、あなたに食べられてみたい。けど、ね」
 彼女は私に惜しげなく肉を晒したまま、恥じ入る様子もなく、けれどひそりとした息を細く吐いて口角に翳りを落とした。
「林檎のほうが、絶対に美味しいと思うの」
 言葉の綾なのだろうか。或いは。持ち出された表現で、一切の思い入れを込めるでもなくクラスメイトに与えた果実の配役を思う。蜜柑。林檎。葡萄。記憶の中で並べてみたけれど、どの役者もどうだっていいんだ。なのに、なのに。
「だから、あなたは、あなたの本当に大切な人を召し上がれ」
 嗚呼。その態度が、唇が、君の何もかもが、いけないんだ。その瞳が、深い眠りについて長らくであった、私が恋を、愛を、誰かに向けるという日々をくっきりと呼び覚ますのだ。林檎なんかより、他の人だなんてもっての外、あなたを、檸檬だけを、欲してやまないことなんて、つゆと知らないだろう君の、すべてを抱き潰してしまいたいんだ。
 立てた両膝が、些かばかり遠慮がちな開き方をした。今度こそ私は、その色味を密かに喩えに持ち出し、少々、いや、他の人には明かし難いようないやらしい想像を抱えてきた女の子の、果肉に触れることが許される。切っ掛けだなんて急拵えの食事に関するそれよりも、ずっと軽薄なものだった。
 徐ろに、私は人差し指を檸檬に突き立てた。果実ほどの抵抗も、彼女の肉体そのものや態度での拒みも、殆ど感じなかった。ときにはぐるうり、心を抉りかねない言葉も降らせてみたけれど、彼女は果汁みたいな悲鳴の一つを迸らせるでもなく。唯、母性的な微笑を浮かべて、私の動向を、じっと湿った上目で窺ってきていた。
 私の体内を熱い血液に乗って駈けずり回る庇護欲がやがて、鋭い針となり彼女を苛めてしまうのではなかろうか。慎ましやかな檸檬を、昨日手に取った果実のように殺してしまいそうだ。夢心地の熱に浮かされてしまっている現在が、恐ろしくてならない。歯止めの効かない日々で、彼女を食べ物のごとくにして消費、そして一方的に私の栄養にして亡骸のみ生ごみ用の屑入れに放り込んでしまいかねない、と、悪い未来予想が悩ましく私の正気を歪ませてゆく。なのに、私は、私の中の衝動までをも隠し通すことは、きっともう、出来はしない。

檸檬

檸檬

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-12

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