人類世界各国の思想は多様であり、如何なるものも思想の違いを差別する事ができないのは宇宙空間の常識。次

人類世界各国の思想は多様であり、如何なるものも思想の違いを差別する事ができないのは宇宙空間の常識。次


 時間が無いので簡単に・・とは言ってもほんの一部を述べるに過ぎないが本日のテーマを掲載する。
 その前に、此の国の国会議員は元より国全体が勘違いをしている「此の国に且つて一時存在した共産主義思想は幾つにも分かれていて、他国の共産党との繋がりは無い。
 更に、人類の世界に思想が異なる国が存在するのは事実であり、自分達の国では無いのだから其の存在を否定する事は許されない」を少しだけ。
 分かりやすいところで60年安保闘争と70年安保闘争の間の十年間に、此の国での闘争の主役が交代していた。
 「全学連」から「全共闘」に代わりより過激で攻撃的なセクトが多数林立していたし、両者の間での対立が激しくなっていった。
 勿論、世界の「共産主義」「社会主義」とは異なり、後者~全共闘は学生運動という子供的なマルクス主義が中心だった。
 とは言っても各セクトの名称からして現在公安でマークをしている「暴力集団」の中に含まれている早稲田大学を中心とする「革マル」と法政大学を中心とする「中核」~前進社~等は正に「マルクス主義学生同盟・・」までは同じで元は一緒だったが分裂をして殺し合いをする様になっていた。
 因みにすでに服役を終え犯罪者では無くなった重信房子氏等は、多分元はブント~Germany語~共産同から赤軍に変わったと思われる。
 現在NKの日本人村に住んでいる70年春のよど号ハイジャック犯達も似たようなながれであった。NKは共産主義だが世界と此の国では異なって当然と言える。
 つまり、結果的に此の国の共産主義はoriginalに過ぎなく此の国では存続できないと言える。



 
 では、世界に移る。
 毛沢東は一農村に拠点を置いて活動していた。そうした農民を対象とした社会主義化の動きは、それまでのマルクス主義やレーニン主義のように労働者階級を中心とするものとは異なっていた。当時の中国の人口の圧倒的多数を占めるのは農民であり、農民の支持なくして革命の実現はありえないと毛沢東は考えた。中華民国南京政府の軍隊、警察の捜索の及ばない省境界の山地を根拠地とした毛沢東らは「有土必豪無紳不劣 (土地を有するは必ず横暴で、紳の劣らぬこと無し)」として、小作人を扇動したため、小作人は解雇され共匪となった。
1930年6月、中国共産党は直ちに武装蜂起し、1省又は数省の重要省区の首先的勝利を目指す李立三コースを取る。1931年に毛沢東らは江西省瑞金において「中華ソビエト共和国臨時政府」を樹立した。
なおコミンテルンからの資金の授受は、上海にあるドイツ商の禪臣洋行(中国語版)を介して行われていると目されていた。

 ここから飛ばす。
 1940年10月から始まるナチ党とアドルフ・ヒトラー総統率いるナチス・ドイツのモスクワ侵攻に対し、アメリカの民主党フランクリン・ルーズベルト政権はソ連の支援を始めた。更に、アメリカ政府は独ソ戦におけるソ連軍への支援の際に、ソ連政府に対して「極東の安全は英米が守るのでソ連極東軍を西部のドイツ戦線に移動すべし」と主張していたほか、1941年7月20日にアメリカ政府による支援が内戦に使用されることは許容できないとして、中国国民党に中国共産党との和平を促す声明を発表した。1942年より、毛沢東は整風運動を行い、ミフ派を中心とするコミンテルンの影響を排除した。戦時下の1943年、コミンテルンが解散となる。
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任した。  
 国共内戦
1945年、日本が第二次世界大戦で敗北し、セミョーノフが捕らえられて中国国内の日本軍隊が全面降伏すると、それまでの国民党との妥協的態度から、ソ連の後押しで国民政府打倒共産党政権設立に動いた。内戦を回避したいアメリカ等の意向もあり、毛沢東と蔣介石の会談による双十協定などでの妥協が図られたが、結局は国共内戦に突入した。
満洲を占領したソ連の後押しにより東北から南下して国民党軍を圧倒し、最終的に国民政府を打倒して1949年10月1日に中華人民共和国を建国した。国民政府は根拠地を台湾(中華民国政府)へ移転した。 

 内戦でのアメリカの傍観への疑義
1945年12月、アメリカの元陸軍参謀総長ジョージ・マーシャルは大統領のハリー・トルーマンから中国における全権特使に任命され、13ヶ月中国に滞在したが、ソ連とアメリカで世界分割を行う密約を行っていた外交問題評議会(CFR)、太平洋問題調査会(IPR)の勢力に組した彼は「内戦において本来劣勢であった共産党が優勢となるような行動を意図的に取った」と言う主張があり、下記の点が指摘されている。この疑惑は、後にアメリカ政界でジョセフ・マッカーシー議員によるマッカーシズム(赤狩り~此れはレッド・パージと言われたものと同じだと思われる。)にまで発展した。

マーシャルは、国民党が有利な状況となると蔣介石に圧力をかけて再三停戦命令を出させ、国民党の優勢がピークとなった1946年末に、無条件の即時停戦命令まで下した。
マーシャルは中国での武器や弾薬の通商禁止措置を実施したが、それにより国民党が弱体化する状況で、ソ連が旧日本軍が満洲地域に残した物資やアメリカからの援助物資を共産党に横流しするのは全く黙認した。
1948年3月、アメリカ議会が国民党に対して2億7500万ドルの経済支援と1億2500万ドルの緊急軍事支援を議決したが、マーシャルと国務省の親中国派(=世界分割派)は、同年11月まで実施を意図的に遅延させた。この間に国民党軍の敗北が決定的となった。
国務省官僚を含む太平洋問題調査会(IPR)は、アメリカ国内で積極的な中国共産党擁護プロパガンダを展開した(IPRはマッカーシズムで攻撃され解散した)。

 中華人民共和国の建国
1949年10月1日、中華人民共和国の建国が北京で宣言された。中華人民共和国の建国によって政権政党となった中国共産党は朝鮮戦争での軍事介入やアジア・アフリカ会議への参加など積極的な外交活動を行った。特に第三世界の左派においては、毛沢東主義に基づく思想が大きな存在感を発揮した。


 私達が人類に何を言いたかったのかと言えば、青い惑星では思想だけに限らずUSAにしても国益のために画策をするという事。
 二国の争いに於いても小国は謂わば大国包囲網の画策に利用されたに過ぎず、駒のようなものだと言える。
 小国は既に先が見えているので、今後、大国がPolandに侵攻すれば西側全体を相手にするという画期的な争いに発展をするが、其れは人類の問題である。
 
 その前に、東も西も差別の無い世界を築けば経済構造不況もおさまるのは間違いは無く、USAの画策が結果的に悪い方向に出た事に気が付き、制裁や支援などと今更言ったところで事はますます悪い方向に転がるだけ。
 仮に、NKが国際競技に選手を出場させたりすれば、そんな小さな事でもいろいろな面で効果が波及していく事は間違いはない。
 大きな国は現在三国である。
 USAの大統領選での考え方の切り替えも、自国の破綻のみだけでなく、この先の国際情勢を急展開させる事に繋がる。
 先ず、候補者が不在なのが最も問題と言え、既成の候補者よりは起業家の方が、紛争より経済を優先するという意味で大いに良いと思うが。 

 昨日の特攻は、USA艦船を恐怖のどん底に落とし入れ、精神異常者が続出をした。現代のような無人機では無く、神風の方が圧倒的に確率が高かった。
 今の世代は誰であろうと、本当の価値が分からないまま漠然と「平和」という言葉を逃げ口上にしながら、死を怖がるのが当たり前のようになっているが、其れでは任務は果たせなく寧ろ其れが現実であった且つての世代が消えて行く。
 付録としてこんなものを・・USA爆撃機B29が空襲時に撃墜され落下傘で降下していたのだが、此の国のゼロ戦のパイロットが攻撃をせず周囲を三回飛行した後に「敬礼」をしたという話が見つかったので、その後の二人の出来事を取りあげた。
  実は此れに似た話が幾つかある。「落下傘で降下中の米兵を絶対に攻撃してはいけないと教育されていた。現代の人類とは異なる・・死に体の此の国にそんな教育が存在した・・」或る意味武士道精神とも言えそうである。
 YouTube検索用アドレスは。
 捕虜となったB29搭乗員の体験と戦後の友情物語
 https://youtu.be/uSaVOfyWTaY


 時間が無くなったので此処でお終い。
 


 さて、文豪の作品から掲載をする。


 雪の夜の話

 太宰治



 あの日、朝から、雪が降っていたわね。もうせんから、とりかかっていたおツルちゃん(姪めい)のモンペが出来あがったので、あの日、学校の帰り、それをとどけに中野の叔母さんのうちに寄ったの。そうして、スルメを二枚お土産にもらって、吉祥寺きちじょうじ駅に着いた時には、もう暗くなっていて、雪は一尺以上も積り、なおその上やまずひそひそと降っていました。私は長靴をはいていたので、かえって気持がはずんで、わざと雪の深く積っているところを選んで歩きました。おうちの近くのポストのところまで来て、小脇にかかえていたスルメの新聞包が無いのに気がつきました。私はのんき者の抜けさんだけれども、それでも、ものを落したりなどした事はあまり無かったのに、その夜は、降り積る雪に興奮してはしゃいで歩いていたせいでしょうか、落しちゃったの。私は、しょんぼりしてしまいました。スルメを落してがっかりするなんて、下品な事で恥ずかしいのですが、でも、私はそれをお嫂ねえさんにあげようと思っていたの。うちのお嫂さんは、ことしの夏に赤ちゃんを生むのよ。おなかに赤ちゃんがいると、とてもおなかが空すくんだって。おなかの赤ちゃんと二人ぶん食べなければいけないのね。お嫂さんは私と違って身だしなみがよくてお上品なので、これまではそれこそ「カナリヤのお食事」みたいに軽く召上って、そうして間食なんて一度もなさった事は無いのに、このごろはおなかが空いて、恥ずかしいとおっしゃって、それからふっと妙なものを食べたくなるんですって。こないだもお嫂さんは私と一緒にお夕食の後片附あとかたづけをしながら、ああ口がにがいにがい、スルメか何かしゃぶりたいわ、と小さい声で言って溜息ためいきをついていらしたのを私は忘れていないので、その日偶然、中野の叔母さんからスルメを二枚もらって、これはお嫂さんにこっそり上げましょうとたのしみにして持って来たのに、落しちゃって、私はしょんぼりしてしまいました。
 ご存じのように、私の家は兄さんとお嫂さんと私と三人暮しで、そうして兄さんは少しお変人の小説家で、もう四十ちかくなるのにちっとも有名でないし、そうしていつも貧乏で、からだ工合が悪いと言って寝たり起きたり、そのくせ口だけは達者で、何だかんだとうるさく私たちに口こごとを言い、そうしてただ口で言うばかりでご自分はちっとも家の事に手助けしてくれないので、お嫂さんは男の力仕事までしなければならず、とても気の毒なんです。或る日、私は義憤を感じて、
「兄さん、たまにはリュックサックをしょって、野菜でも買って来て下さいな。よその旦那さまは、たいていそうしているらしいわよ。」
 と言ったら、ぶっとふくれて、
「馬鹿野郎! おれはそんな下品な男じゃない。いいかい、きみ子(お嫂さんの名前)もよく覚えて置け。おれたち一家が餓うえ死じにしかけても、おれはあんな、あさましい買い出しなんかに出掛けやしないのだから、そのつもりでいてくれ。それはおれの最後の誇りなんだ。」
 なるほど御覚悟は御立派ですが、でも兄さんの場合、お国のためを思って買い出し部隊を憎んで居られるのか、ご自分の不精から買い出しをいやがって居られるのか、ちょっとわからないところがございます。私の父も母も東京の人間ですが、父は東北の山形のお役所に長くつとめていて、兄さんも私も山形で生れ、お父さんは山形でなくなられ、兄さんが二十はたちくらい、私がまだほんの子供でお母さんにおんぶされて、親子三人、また東京へ帰って来て、先年お母さんもなくなって、いまでは兄さんとお嫂さんと私と三人の家庭で、故郷というものもないのですから、他の御家庭のように、たべものを田舎から送っていただくわけにも行かず、また兄さんはお変人で、よそとのお附合いもまるで無いので、思いがけなくめずらしいものが「手にはいる」などという事は全然ありませんし、たかだかスルメ二枚でもお嫂さんに差上げたら、どんなにかお喜びなさる事かと思えば、下品な事でしょうけれども、スルメ二枚が惜しくて、私はくるりと廻れ右して、いま来た雪道をゆっくり歩いて捜しました。けれども、見つかるわけはありません。白い雪道に白い新聞包を見つける事はひどくむずかしい上に、雪がやまず降り積り、吉祥寺の駅ちかくまで引返して行ったのですが、石ころ一つ見あたりませんでした。溜息をついて傘を持ち直し、暗い夜空を見上げたら、雪が百万の蛍ほたるのように乱れ狂って舞っていました。きれいだなあ、と思いました。道の両側の樹々は、雪をかぶって重そうに枝を垂れ時々ためいきをつくように幽かすかに身動きをして、まるで、なんだか、おとぎばなしの世界にいるような気持になって私は、スルメの事をわすれました。はっと妙案が胸に浮びました。この美しい雪景色を、お嫂さんに持って行ってあげよう。スルメなんかより、どんなによいお土産か知れやしない。たべものなんかにこだわるのは、いやしい事だ。本当に、はずかしい事だ。
 人間の眼玉は、風景をたくわえる事が出来ると、いつか兄さんが教えて下さった。電球をちょっとのあいだ見つめて、それから眼をつぶっても眼蓋まぶたの裏にありありと電球が見えるだろう、それが証拠だ、それに就いて、むかしデンマークに、こんな話があった、と兄さんが次のような短いロマンスを私に教えて下さったが、兄さんのお話は、いつもでたらめばっかりで、少しもあてにならないけれど、でもあの時のお話だけは、たとい兄さんの嘘のつくり話であっても、ちょっといいお話だと思いました。
 むかし、デンマークの或るお医者が、難破した若い水夫の死体を解剖して、その眼球を顕微鏡でもって調べその網膜に美しい一家団欒だんらんの光景が写されているのを見つけて、友人の小説家にそれを報告したところが、その小説家はたちどころにその不思議の現象に対して次のような解説を与えた。その若い水夫は難破して怒濤どとうに巻き込まれ、岸にたたきつけられ、無我夢中でしがみついたところは、燈台の窓縁であった、やれうれしや、たすけを求めて叫ぼうとして、ふと窓の中をのぞくと、いましも燈台守の一家がつつましくも楽しい夕食をはじめようとしている、ああ、いけない、おれがいま「たすけてえ!」と凄すごい声を出して叫ぶとこの一家の団欒が滅茶苦茶になると思ったら、窓縁にしがみついた指先の力が抜けたとたんに、ざあっとまた大浪が来て、水夫のからだを沖に連れて行ってしまったのだ、たしかにそうだ、この水夫は世の中で一ばん優しくてそうして気高い人なのだ、という解釈を下し、お医者もそれに賛成して、二人でその水夫の死体をねんごろに葬ったというお話。
 私はこのお話を信じたい。たとい科学の上では有り得ない話でも、それでも私は信じたい。私はあの雪の夜に、ふとこの物語を思い出し、私の眼の底にも美しい雪景色を写して置いてお家へ帰り、
「お嫂さん、あたしの眼の中を覗のぞいてごらん。おなかの赤ちゃんが綺麗きれいになってよ。」と言おうと思ったのです。せんだってお嫂さんが、兄さんに、
「綺麗なひとの絵姿を私の部屋の壁に張って置いて下さいまし。私は毎日それを眺めて、綺麗な子供を産みとうございますから。」と笑いながらお願いしたら、兄さんは、まじめにうなずき、
「うむ、胎教か。それは大事だ。」
 とおっしゃって、孫次郎というあでやかな能面の写真と、雪の小面という可憐かれんな能面の写真と二枚ならべて壁に張りつけて下さったところまでは上出来でございましたが、それから、さらにまた、兄さんのしかめつらの写真をその二枚の能面の写真の間に、ぴたりと張りつけましたので、なんにもならなくなりました。
「お願いですから、その、あなたのお写真だけはよして下さい。それを眺めると、私、胸がわるくなって。」と、おとなしいお嫂さんも、さすがに我慢できなかったのでしょう、拝むようにして兄さんにたのんで、とにかくそれだけは撤回させてもらいましたが、兄さんのお写真なんかを眺めていたら、猿面冠者みたいな赤ちゃんが生れるに違いない。兄さんは、あんな妙ちきりんな顔をしていて、それでもご自身では少しは美男子だと思っているのかしら。呆あきれたひとです。本当にお嫂さんはいま、おなかの赤ちゃんのために、この世で一ばん美しいものばかり眺めていたいと思っていらっしゃるのだ、きょうのこの雪景色を私の眼の底に写して、そうしてお嫂さんに見せてあげたら、お嫂さんはスルメなんかのお土産より、何倍も何十倍もよろこんで下さるに違いない。
 私はスルメをあきらめてお家に帰る途々みちみち、できるだけ、どっさり周囲の美しい雪景色を眺めて、眼玉の底だけでなく、胸の底にまで、純白の美しい景色を宿した気持でお家へ帰り着くなり、
「お嫂さん、あたしの眼を見てよ、あたしの眼の底には、とっても美しい景色が一ぱい写っているのよ。」
「なあに? どうなさったの?」お嫂さんは笑いながら立って私の肩に手を置き、「おめめを、いったい、どうなさったの?」
「ほら、いつか兄さんが教えて下さったじゃないの。人間の眼の底には、たったいま見た景色が消えずに残っているものだって。」
「とうさんのお話なんか、忘れたわ。たいてい嘘なんですもの。」
「でも、あのお話だけは本当よ。あたしは、あれだけは信じたいの、だから、ね、あたしの眼を見てよ。あたしはいま、とっても美しい雪景色をたくさんたくさん見て来たんだから。ね、あたしの眼を見て。きっと、雪のように肌の綺麗な赤ちゃんが生れてよ。」
 お嫂さんは、かなしそうな顔をして、黙って私の顔を見つめていました。
「おい。」
 とその時、隣りの六畳間から兄さんが出て来て、「しゅん子(私の名前)のそんなつまらない眼を見るよりは、おれの眼を見たほうが百倍も効果があらあ。」
「なぜ? なぜ?」
 ぶってやりたいくらい兄さんを憎く思いました。
「兄さんの眼なんか見ていると、お嫂さんは、胸がわるくなるって言っていらしたわ。」
「そうでもなかろう。おれの眼は、二十年間きれいな雪景色を見て来た眼なんだ。おれは、はたちの頃まで山形にいたんだ。しゅん子なんて、物心地のつかないうちに、もう東京へ来て山形の見事な雪景色を知らないから、こんな東京のちゃちな雪景色を見て騒いでいやがる。おれの眼なんかは、もっと見事な雪景色を、百倍も千倍もいやになるくらいどっさり見て来ているんだからね、何と言ったって、しゅん子の眼よりは上等さ。」
 私はくやしくて泣いてやろうかしらと思いました。その時、お嫂さんが私を助けて下さった。お嫂さんは微笑ほほえんで静かにおっしゃいました。
「でも、とうさんのお眼は、綺麗な景色を百倍も千倍も見て来たかわりに、きたないものも百倍も千倍も見て来られたお眼ですものね。」
「そうよ、そうよ。プラスよりも、マイナスがずっと多いのよ。だからそんなに黄色く濁っているんだ。わあい、だ。」
「生意気を言ってやがる。」
 兄さんは、ぶっとふくれて隣りの六畳間に引込みました。
(「少女の友」昭和十九年五月号)



「色を見るものは形を見ず、形を見るものは質を見ず。夏目漱石」

「正義は武器に似たものである。武器は金を出しさえすれば、敵にも味方にも買われるであろう。正義も理屈さえつけさえすれば、敵にも味方にも買われるものである。芥川竜之介」

「過去は過去として葬らしめよ。志賀直哉」

「人を知らんと欲せば、我が心の正直を基として、人の心底を能く察すべし。
言と形とに迷ふべからず。徳川家康」

「治世は大徳を以ってし、小恵を以ってせず。軍師諸葛亮孔明」

「人生就像爬坡、要一步一步来。人は目標や成功に向け急ぎたくなるが、人生を上り坂に例えてゆっくり進むことの大切さが説かれた、中国の著名な作家丁玲の言葉。中国の故事より」




「by europe123 」
https://youtu.be/dugG3yVnaSU

人類世界各国の思想は多様であり、如何なるものも思想の違いを差別する事ができないのは宇宙空間の常識。次

人類世界各国の思想は多様であり、如何なるものも思想の違いを差別する事ができないのは宇宙空間の常識。次

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2023-08-08

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted