霞ゆく夢の続きを(4)

霞ゆく夢の続きを(4)

(28)

 箱村は自分の下らないギャグに笑いつかれ、その余韻で脱力しきった様子である。空っぽの電話ボックスのように静かだ。
 沈黙は語る。珍しく黙っているが、まさかこの重く澱んだ空気に風穴を開ける役割は僕にある、とでも言いたいんじゃあるまいな。
 多分さっき話題を変えると言っていたその話題が何だったのか、用足しの間に忘れてしまったに違いない。今それを思いだそうとしているのだろう。ちょっとはしゃぎ過ぎだよ。低劣なギャグに馬鹿笑いした報いだ。
 彼の馴れ馴れしい態度のせいだろうか、それとも何事も笑い飛ばす大らかさのせいだろうか、すでに箱村とは沈黙が気にならない打ち解けた関係になっている。
“箱村さんの話は面白いので聞きたい”というのはおべんちゃらだ。たいして聞きたくもないというのが本音なので、このままずっと黙っていてくれてもいい気がするが。
「どうしたんですか? 黙っちゃって。作家や出版社へのイチャモンはついにネタぎれですか」
「お前といっぱい話したから気持ちは綺麗になったよ。これ以上ゴミの(あら)がしにウロウロするのはやめた。そのうちお掃除ロボット・ルンバになっちまうからな」
 お得意のしょぼいギャグ炸裂。つまらなくてもギャグに無反応なのは失礼なので、フフフとお上品に御調子者(おちょうしもの)笑いをすれば、
「な? 最後の()ちが下らないから落語はおもしれぇんだ。落語が落語たる所以(ゆえん)だよ」
 と、御当人もギャグが下らないことを承知しているらしい。
 また押し黙る箱村。心が今、何処か知らない異国の、崖の上の小さな白い家に閉じ込められているとでもいった雰囲気だ。
 ようよう話そうとしていたことを思い出したのか、おもむろに口を開く。
「もうかなり前のことだが、日曜日することないので、テレビつけっぱなしでグータラしてたら、朝の情報バラエティーに武田鉄矢が出ててよぉ。同郷でもあるから見てやったわけよ」
「箱村さんって、ほんとに福岡の出身なんですか? 話す言葉にいろいろなお国訛(くになま)りが混じってますけど。ときどき幻の関西人まで出てくるし」
「俺はインターナショナル・ピーポーだかんな。七つの顔をもつ男、多羅尾伴内じゃよ。ある時は競馬師、ある時は私立探偵、ある時は画家、またある時は片目の運転手───しかしてその実体は‥‥‥‥」
 また箱村が横道にそれ始めた。自分のおふざけにカタカタと声を上げて笑っている。お前は下駄か。花菱と同じで下らないことによく笑う。能天気というか、ネアカというか、アホというか───。
「またまたぁ、フザけてると何を話そうとしてたか忘れちゃいますよ」
 そう笑い返せば、
「いけねッ! また忘れちまうとこだった」
「それにしても箱村さんはよく笑いますね。それも豪快に」
「笑う門には福(きた)るって言うだろ。笑えば福の神が来るんだよ。でもなんで小説の神様はちっとも来てくんなかったんだろうな」
「なんでなんでしょうね。きっと“そっちの方がいいから”‥‥‥だと思いますよ」
 結構深いことを言ったつもりなのだが、それには興味を示さず、箱村は自説を述べ始める。
「話というのはな、こういうことだ。武田鉄矢がよ、テレビでよ、ユングの言葉に救われたって言ってたんだ。ユングさんの話では、人生は山登りみたいなんだってよ。登ったら降りなきゃなんねえ。登りっぱなしじゃ遭難だ‥‥‥てな話だったかな。登って降りてで人生ワンセットだ。歳とりゃ、みんな下ってくんだよ。人によって下り坂がいつ来るかは違えども、来ることには変わりがねえな。歳とったらチンタラと気長に書くしかない。しかも薄味の下らないモンしか書けない。『下っていくのに下らない』とはこれ如何(いか)に、とでもボケをかましたくなったか。ここでそんなボケはいらねぇ。ボケるよりも俺の話をよくきけ。歳取ってから詰まらないモンでもいいから書きゃいい。そして嫌になったらやめりゃいい。どうせ人間なんて落葉樹だ。歳をとるほどに持っていたものが我が身から離れ、地面にヒラヒラと落ちていく。今まで出来たことが、どんどんできなくなっていく。そうだ、それでいいんだよ。それが人間というものだ。いまは我慢しろ。それが一番自然で、一番似合ってるぞ。それがお前を一番幸せにする」
「武田鉄矢ってお笑いだと思ってた。実は哲学者だったんだ」
「お笑いじゃねえよ。武田鉄矢を物真似する芸人がお笑いなんだ。役者だよ。ん? 歌手か? ウ~あのほれ、そうそうアレよ。アレアレアレ。ウ~ホラ、アレって何て言った? よく言うじゃないか、あん言葉」
 箱村が詰まらないことにこだわってエンジントラブルを起こし始めたので、長々と変な屁理屈をこねだす前に「それってマルチタレントでしょう」と決め打ちすれば、
「おうそれそれ、マルチタレントだ。ぴったんこの言葉がちゃんとあるじゃねぇか」
 と、わりと素直に受け入れる。
「ピタッと型にはまりましたか?」
「はまった、はまった。ああスッキリした」
 面倒くさい人だ。このA型オイチャンが。
「しかし爺さんになってから書くと、老い先短いから、『書きたくなくなる』のと『書けなくなる』との競争になっちゃいますね。歳をとるほど脳ミソの経年劣化がはやく進むといいますし。だぶん『こんな面白くないものを書くことに何の意味があるんだろう』と思って書かなくなる方が先かな」
「それもいいじゃないか、書くもやめるも自由だ。誰に迷惑かけるわけじゃなし。好きにすりゃいい。“せめてもう一作、せめてもう一作”ってな具合で、寿命も延びるんじゃねえか? 普通見向きもされないド素人爺さんは、小説を大勢に読ませてアッと言わせたいとか、本にしてそれ売って儲けたいとか、そういう欲がない分、能力は枯れていても、力がぬけて意外と今よりいい物が書けるかもな。いずれにせよ己の全人生をかけてする仕事じゃないよ。全人生をかけるのは、選んでもらった奴らに任せとけ」
 箱村は当てつけがましくそう言う。
「学校の授業が全部、タブレットやパソコンを通じてされるようになれば、もう先生の持つチョークが黒板に当たる音は聞けなくなっちゃいますよね。それと同じで、僕が爺さんになる頃にはプロ小説家が書く紙の本や電子書籍は、かつてのフロッピーディスクみたいにどっかの隅っこに押しやられて、その代わり素人が書く投稿サイトが花盛りになってるかもしれないなあ。僕だって、まかり間違えば(ひのき)舞台の端役ぐらいにはなれるかもしれない。なんかウキウキしてきたな」
「空の彼方に夢、踊るってか? 捕らぬ狸の何とやらか。お前はホントに狸づいてるな。そんなにうまいこと行くもんかねぇ。プロアマを問わず、小説というジャンルは地盤沈下してくだろうよ。時代の趨勢(すうせい)だからしょうがねえよ。日本はやたら長い不況続きだからな。バブルの頃じゃないんだ。今のご時世、みんな生活に一杯いっぱいで、たまの休日にちょっと美術館に絵を見にいってくるか、なんて心の余裕はないよ。小説も同じ。貧乏になってくれば、小説なんて贅沢品、わざわざ金を出して買うこたないってなる。古典とか、ちとレベルの落ちる作品ならネットでも読める。て言うか、玉石混淆とはいえ、最近じゃ秘湯を巡るように丁寧に探していけば、ネットでもプロ顔負けの、時にはプロをも凌駕しかねぬクオリティーの高い作品を投稿している手練(てだ)れもいる。米がなければ生活に困るが、小説がなくても痛くも痒くもない。犠牲にするなら小説じゃんか。金払って小説読むのは、欠伸(あくび)しながらプチプチを潰してる閑人(ひまじん)ぐらいになるんじゃねえか。多くの人にとって小説はどんどん無用の長物になっていくだろうよ」
「人はパンのみに生きるにあらず」
「おや? キリスト教に宗旨替えか。イエスからもあやかろうって魂胆だな」
「イエス!」
「どうせ恥知らずのお前のことだ、それ、言うと思ったよ。俺、パンって言ってないし。米って言ったもん」
「どっちも炭水化物でありまする」
「オヨヨ。言うじゃねぇか。パン屋や米屋だったら従業員に“売れなくて店が火の車だから、給料のかわりにパンや米もってかえってくれ”でも通るかも知んないが、“本が売れないので給料のかわりに本をもってかえれ”って言えるか? そんなのが通ると思うのか? いよいよ生活に困ったら、本はいらねぇ、パンをくれ、米をくれだ」
 なるほど一理ある。考えてみれば、世の中には()らないものが一杯ある。そして、要らないにもかかわらず、それをやたら羨んでいる場合も少なくない。
 かつてスプーン曲げやESPカードが流行(はや)ったことがあるという。トリックかどうかは知らない。だがユリゲラーが来日してスプーンを念力で曲げれば、この人は超能力をもつ人だとみんなが羨んだ。自分も超能力者になりたいと必死でスプーンを(こす)る。中には隠れて力技(ちからわざ)で捻じ曲げておいて、俺は超能力だと(かた)る者まで出てくる始末だ。
 スプーンを擦って曲げたからといってそれが何の役に立つ、生活にどんなメリットがあるというのか。曲がったスプーンもESPカードも一般人には無用の長物ではないか。何気ない日常のひとコマにそんなものが押し入ってきたら、それこそ日常が非日常になっちまう。そんなはた迷惑で、無くたってどうってことないものに熱狂してどうする。羨む必要のない事を羨んでいただけなのだ。
 小説も同じだ。今はそれほどでもないかもしれないが、かつては多くの若者が小説家に(あこが)れて必死で書きまくり、そして送りまくった。
 目眩(めまい)を覚えるほどの数だ。なぜ多くの人が小説を書いて送ったのか。当時は小説が売れた。人が宝くじに群がるのと同じで、みんな一様に“儲けの大きさ”に目がくらみ、“選ばれる確率”のことを忘れていたからだ。
 ほとんどの応募者にとって出版社は壊れた呼び鈴である。押せども押せどもなんの反応もない。その挙句、彼らはたまたま小説家として認められた人たちを羨み、時には嫉妬することになる。
 だが箱村の言う通り、考えてみれば小説がなくたって生活に何一つ困らないのだ。そして、無くたってどうってことない、そんな軽いものに、今こんなに熱狂しているこの僕は一体なんなのだろうか。
 とはいうものの、ここで箱村の言うことをあっさり認めるのは何となく癪に障る。
「またまたぁ、得意の屁理屈ですか。それって何の説明にもなってないでしょ。それこそオヨヨだ」
 と、思わず強気をよそおってしまう赤井君なのであった。素直ではない。
「そのオヨヨの使い方、文法的に間違ってるぞ。もっと伝統芸の基本を俺から習得しなきゃな。ぽてちん」
 また話があらぬ方向に飛んで、スカタンを言いはじめた。ふいにビーンボールを投げてくるのは、彼の専売特許である。思わず後ずさりしてしまいたくなるほどだが、これも毎度のことだ。慣れるしかない。
「ほいで、さっきからそのポテチンって何ですか?」
 あえてそう質問することで、赤井君は論点ずらしである。“オヨヨ”のほうは置いてきぼりにしてしまう腹だ。
「お前、ポコチンと言い間違えんなよ、大恥かくからな。それにしても“え、(おおとり)啓助でおま。ぽてちん”を知らないとはな。そりゃアジャパーだ。じゃ、京唄子の“吸い込んだろか”は?」
「何のことだか、サッパリ」
「だからだな。あの伝説の漫才コンビの笑いを勉強してないから、基本がなってないんだ。今度ユーチューブかなんかで見てみろ。あの超くだらないボケの真髄に接してみなきゃ何にも始まらないぞ」
「はあ、見てみます‥‥‥‥でも、それこそ超くだらないことのよな気がしますけど、ポコチン」
「だからぁ、ポコチンって言い間違えんなって、ポテチンだ、ポテチン。文句を言うのは動画を見てからにしろ、いいか、ポコチン‥‥‥ばかやろう、伝染して俺も間違えちゃったじゃないか ( ´∀` )(ワラ)
 箱村は軽いノリでおどける。“オヨヨ”の方はすっかり忘れているようだ。本気なのか本気でないのか。冗談なのか冗談でないのか。からかっているのか、からかっていないのか。ポコチンとポテチン───どう考えても大のおとなが真顔で取り組む話題ではない。
 再度箱村が口をつぐんだ。何か考えている。彼がたびたび殻に閉じこもるのは珍しい。時代にとり残され、昼日中(ひるひなか)も静かなシャッター街みたいだ。
 だが久々の会話の(とどこお)りにホッとするのも束の間、すぐにまたお喋り再会である。どんな商店街もパチンコ屋だけは、出店すればすぐ(にぎ)わいを見せるものだ。
「でな、ポテチンついでに今ちょっと思いついたんだけどもな、なんならお前の作品を今、ネットに投稿したっていいんじゃねえ?」
 あらまあ、急な方向転換。また珍妙なことを言い出した。いま歳くってから書けと言ってたばかりじゃないか。
 赤井君はドアの取っ手を口の中に押し込まれたような、唖然とした表情になる。
「お前がジジイになってからネットに書いて送っても、その頃は時代が大きく変わってるからな。とくに若者の反応はゼロだろうと思うぜ。壁を感じること請け合いだ。浦島太郎状態だよ。だから今おくるのもアリかなってチラッと思ったわけよ。その頃になったら、お前がいいと思うものと若者がいいと思うものがまるで違ってくるだろうな。正反対といってもいい。カルチャーショックだ。評価軸に天と地ほどの開きがある。当り前だよな。未来の若者は、普段から読んでるものも、見てるものも、聴いてるものもお前のそれとはまるっきり違うからだ。お前が若いとき読みあさったものと、いま若者が読んでいるものは完全に異質。どんなに面白い時代劇でも、時代劇を見ない人はどこまで行っても見ない。英語を勉強している学生にフランス語の教材は邪魔なだけだ。ところがジジイになったお前は、意外にもそういう状態の方がいいと言うんだな。当初は、自分がたまたまそこに通りかかっただけの野次馬のように感じられた。そこまで歳を取っていないのに、しょせん年寄りの冷や水だったのかと嘆息する始末だ。肩身の狭い思いをして、若者カルチャーを学んでみたり、著作権の(から)んでこない顔文字を取り入れてみたりといろいろ工夫してみる。なんとも生真面目(きまじめ)なこった。だが贋物はしょせん贋物だ。化けの皮はすぐ剥がれる。だがどっこい、こんなものを公開しちまったと恥じ入っていたジジイも、(じき)にそのことに気がついた」
「そのことって?」
「だからそれを今から話す」
「長いんですか?」
「長いと嫌なのか?」
「いえいえ、めっそうもない」
「長いのが嫌なら要約してやる。これから話すことの要点はだな‥‥‥ジジイは置き去りにされたと思うから苦しくてあせるんだ。置き去りにされたならその場所で咲け、ってことだ」
「はあ」
「こんなものを公開して恥ずかしいといったって、ペンネームで投稿しているジジイが誰か特定したがる奴がどこにいると言うんだ。それ以前に、どこのどいつがこんなジジイのことなんぞ考える。数字の解釈は人それぞれだろうが、試しに(おのれ)の小説にアクセスしてくれた人数をチェックしてみろ。予想よりいくらかは多いものの、ネット民の関心の程度はせいぜいそれぐらいだ。みんな自分のことを気にするのに手一杯なんだよ。誰もアンタを気にするゆとりはない。気にしているのは他人でなくジジイ───お前自身なのではないか。想像してみる。たとえばここに外国語学部を出て何千冊もの英語の本を読んできた大学教授がいた。彼があるときニューヨークのスラム街に行って、黒人の若者にスラングだらけのくだけた英語でこてんぱんにやり込められる。だいいち話してる内容すら満足に聞き取れないのだ。俺のこれまで積み上げてきたものは何だったのか。今までの努力は何だったのか。教授はここに来て、人生に裏切られた気がする。悩み苦しみ、年甲斐もなく傷心を慰め癒してもらいたいと思う。馬鹿な先生だよ、そもそも悩みも苦しみも、やって来るものと言うよりは、自分でつくり出しているものなのにな。自分の考え方さえ変えれば心はパッと晴れるのに、天気図ばっかり分析している。えてしてお勉強ばかりしてきたエリートとはこんなもんだ。こんな教授は存在する価値がないのか。そんなことはないだろう。たとえこの教授がその後ボケ老人になったとしたって価値は変わらない。どんな人にだって生きている限り平等に価値がある。誰しも唯一無二の存在だ。スペアキーはない。そのキーでなきゃ扉は開かないんだよ。替えはきかない。だからな、だからカルチャーショックに面食らうジジイにだって価値はある。別に認知や一攫千金をねらっているわけじゃないんだ。誰にも読まれないものを書いても意味がないなどと、変な遠慮はするな! 無価値な作品なんてこの世に一つも存在しない。どんなにつまらない作品だって眠れない夜、睡眠薬や子守歌代わりぐらいにはなるだろう。何、モチベーションだだ下がりでいるんだ! おい爺さん、アンタの作品が誰からも読まれず誰からも評価されなかったとして、アンタの人生に何か不都合でもあるのか? そんなもんありゃしないだろう。むしろ自分には希少価値があるんだとばかり、図々しくしてりゃいいんだよ。中古の、今にも壊れそうなボロ車に生まれて初めてカーナビを付けた。せっかくナビつけたのに、多くの人が好んで走る道を走ったって面白くないじゃないか。機械音痴のジジイが走るのは大通りじゃない、あまり目立たない地方の田舎道だ。誰も通らないような、入り組んだ狭い旧道のほうが楽しいじゃないか。現実は受け入れないといけない。けど受け入れたとしても何も自分のスタイルまで変えることはないんだ。円い鋳型に四角い自分をはめ込もうとするな。枯れ落ちた桜の花びら、されど沈まず川面(かわも)を流れる。まずは楽しめ。それだけだ、それが全てだ。難しく考えることがどこにある。最もシンプルな答えこそ正答なんだ。気持ちが萎えたらいつでもやめられるだろう。たとえば空騒(からさわ)ぎしたくなくても、生活のためにしなきゃいけないタレントがいる。世の中はそういう人たちだらけだ。ジジイだってこれまでそういう道を歩んできた。でも今は嫌になったらいつでもやめられるんだ。それってどんだけ有り難い事なんだ? なに贅沢を言っているって話だよ。何にだって終わりはくるんだ。とくに人生の終わりに近づけば誰だって転びやすくなる。手ごたえがあるよりない方が、多く読まれるより少なく読まれる方が、目立つより目立たない方が、トータルでいえば不利益はかえって少なくて済むんだよ。ジジイはそのことを知っている。長く生きてくればそれぐらいの分別はあるってことだな」
 長ったらしい話がようやく途切れた。結局ぜんぶ話すのなら、あの要約に何の意味があったのだろう。
 はてな? 本論と要約がまるでシンクロしてないように思えるのだが‥‥‥さてぜんぶ聞いてはみたものの、長々と彼は何を言わんとしてるんだ? いまひとつポイントがはっきりしない。この話を短くまとめたらどうなるのだろう。
 頭を整理するつもりで赤井君も短く要約を試みる。そして、
「なるほど。枯れゆく花にも水をやれ。足し算でなく引き算で考えるのかぁ」
 と、分かっているのかいないのか、苦しまぎれに随分とぶっ飛んだ要約を口にしている。二人ともぜんぜん要約になっていない。国語のテストなら零点だ。
 ところが、意外にもそれがピッタンコはまったようで、箱村はもろ手を挙げて賛成の(てい)だ。馬鹿どうしの論理は互いに飛躍し過ぎていて、かえってひょんなところで通じ合うものだ。
「そうそう、そうなんだ、俺が言いたかったことにズゴゴ~ンと命中だ。何かを得るためには何かを捨てなければならない。光には影がある。山たかければ谷ふかし。信じにくいだろうが、これに例外はない。この世はそういう法則で成り立っている。これは俺が言ってるんじゃないぞ、お釈迦様がそう言ってるんだ。得るものが少なければ失うものも少ない。逆もまた真なり。だから多くを得ない方が多くを失わなくてすむというわけだ」
 なるほどその通りである。実際には誰の人生もさほど差はない。誰も実質的に差がないのなら不満をいだくのは馬鹿げている。現状に不満を感じない利口な人は“しょせん、こんなもの”であること知っている。
 誰も見向きもしないけど私は幸せである。そう思えるのは内面が充実してるから。要はそのことに気づけるかどうかである。
「だからかぁ、もし渦中にいて、例えば“なんでこの作品に『いいね』がついて俺にはつかないんだ。きっと俺の作品よりたくさん読まれているに違いない、チクショー!”なんていう嫉妬とも憎しみともつかない感情の(みだ)れが少しでも生ずるとしたら、両取りしようとする強欲さが原因なんだ。そんな機械音声相手に口喧嘩(くちげんか)を仕掛けるようなことをしてどうするつもりなのか。ディスプレイの向こう側にいるのは本当に生身の人間なのかい? 実は感情もなければ呼吸もしていないただの機械だったりして。いっそチャットGPTに『いいね』が一杯もらえる方法を伝授してもらいますか。こんな取りとめのないことを空想していくと、なんだかアホらしくなってきますよね。だるまさんがころんだ。必死に振り返るのは自分だけ。他は誰一人動こうとはしていない。そんな感じかな」
 すると───
「いいメガネがないと君は不平不満をこぼした。その日、盲目の人に出会うまでは」
 箱村がそうささやき、さも“決めてやった”と言わんばかりに得意顔で自分のフレーズの余韻に(ひた)ることしばし。誰かからの無断借用かもしれないが、確かに心に響くフレーズではある。
 ほどなく彼はウン、ウンと数回うなずき、
「いいか、だるまさんは元々(もともと)転んでなんかなかったんだ。人それぞれ好みが違う。あまり読まれなかったとしても、たまたまその場所に波長の合う人が少なかっただけのことだ。そんなちっぽけなことに(こだわ)るなんざ、いささか病的だな。ちょっと背中が(かゆ)い。バリバリと()く。掻きすぎると肌を痛めてますます痒くなる。掻いちゃダメなんだ。俺が文学新人賞を次から次へと落とされ続けた時みたいに、ますます悪感情のド壺にはまっていく。それがただ自分を痛めつけているだけだということに気づいていない。もっと自分を癒してくれる場所を探しもとめていかなきゃな。もしここに自分の(こぶし)で自分の頭を狂ったように殴り続けている奴がいたら、気がふれてるんじゃないかと思うだろう。しかし拳で自分を傷つけずとも、激烈不快な感情で自分を傷つけている奴は一杯いる。自分で自分に苦痛を与えるようなアホなことはしなさんな、ってことだ」
 と、(さと)すような口調で語る。どことなく説教調なところが、いかにも昭和的である。ま、いいか。最近の映画やアニメもやたら哲学的なのがヒットしているようだし、ここは壁ドンされちゃいましょう。
 たしかに話している内容には理がある。人はそれぞれ違う。だからそれぞれ好みも違う。僕の作品も好みに合う人と合わない人がいる。ただそれが多いか少ないかだけのこと。それで注目されたいとか儲けたいとかいうのであれば、自分の作品に手を加えて、好みに合う人の割合の多い方にすり寄っていかないといけない。自分を殺してまでも、この時代の、大多数の好みに合う場所まで作品を運んで行かねばならない。
 だが注目されることにも儲けることにも興味がないというなら、自分を他に合わせていくことなど必要ない。自分が楽しめるかどうかが第一優先。他の人がどう思うかは二の次だ。当り前のことである。
「両取りはできない。この世はそういうふうにできている。両取りしようとすれば必ずどこかに(ひずみ)がくる。幸せを感じるのは作品を書きあげたという小さな達成感、充足感でこと足りる。それ以外はむしろ邪魔なぐらい。欲張っちゃダメ」
 と、箱村の話に手放しで同調してみせる赤井君である。これは見方によっては、赤井君自身が全く評価されないことへの合理化・正当化ともとれる。もっとも彼には、評価される人よりも評価する人の方が辛いという側面もあるという視点が抜け落ちている。
「そうだと思うぜ。年寄りは年寄りなりに煉瓦(れんが)を積み上げていきゃいいんだよ。書いてるときが一番たのしいはずだ。一番楽しいのは過程。結果じゃない。それが人生というものだ。やがて作品は完成する。それ自体がご褒美だ。他はない。“もっと、もっと”が通用するのは(いびつ)な世界の住人だけだ。お前、イソップ童話に『肉をくわえた犬』という有名な話があるの、知ってんな」
「いえ、知りません」
「お前って、そういう誰でも知ってること、知らねえんだな。杉下右京とかさぁ。こういう話だ。肉をくわえた犬が河面(かわも)に映った自分の姿を見る。その肉を奪いたくて吠えたら、自分のくわえてる肉を河に落しちまった。そういう話だ。マイナス感情で心の平安を害する原因は、自分の欲しいものが手に入らないばかりでなく、相手がそれをもっていることが面白くないからなんだよ。他人への嫉妬や憎しみで生きていると、この犬みたいにすべてを失うことになるぞ。犬は、今あたえられているものだけでこの瞬間を思い切り楽しんで生きることの大切さを忘れている。だからジジイは“まずは楽しめ。気持ちが萎えたらやめればいい。それだけだ、それが全てだ”と言ったんだよ」
「どうせ上には上が、そのまた上にも上がある。みんな“井の中の蛙大海を知らず”ですもんね。全員いずれ死ぬのに、そんな瑣末(さまつ)なことにかかずらっていていいんですか、ってなる。(なに)しょーもないことで張り合ってるんだってね。若者だって先が長いとは限らない。明日、『いってらっしゃい』は言えても『おかえり』は言えないかもしれない。仮初(かりそ)めのこの命、いつ死ぬ運命にあるかなんて誰一人分からないんですから」
「墜落すればもろとも、さすが俺の運命共同体だ。いいこと言うじゃないか。いずれ消えていくものに幸せを見ようとしちゃいけねぇ、それは偽物の幸せだからな」
 珍しく褒められた赤井君は、照れてポリポリ頭を掻く。普段褒められることがめったにないからだ。(^^ゞ。‥‥‥ポリポリ
「そんでもって“認められたい、よく思われたい”と考えている人ほど、実際には逆に嫌われちゃうでしょう。認められたいと考えてする行動と、好かれたいと考えてする行動とが互いに矛盾するからだと思う。さっきの犬の話じゃないですけど、今の自分の状態に満足し、与えられたもので充分だと感謝できる人が一番幸福になる。“もっともっと”と言ってばかりだとかえって不幸になっちゃう」
「要するにちっぽけな世界で背比(せいくら)べして腐るな、ってことだな。そんな物差し、時代や立場や環境や‥‥‥そういった諸々(もろもろ)によってガラガラと入れ替わっちまう。なのに何で自らわざわざそんなあやふやな物差しに自分を合せにいくんだ。そうジジイは言ってるわけよ」
 これまた、おっしゃる通り。競争するほど幸せから遠ざかる。競争は神経をむしばむ。追い越し追い越され、蹴落とし蹴落とされでは心の休まる時がない。
 尊敬されようと虚勢をはり「どうだ、すごいだろう」誇示する人ほど嫌われるのは当然。それでも尊敬するフリをする人がいるとすれば、だだ見返りを求めているからだけに過ぎない。
 優れたものは決して競わない。競争に巻き込まれそうだと感じたら、可能な限り距離を置き、目立たぬように徐々にそこから離れていく。競争で幸せにはなり得ないことを知っているからである。
「そのお爺ちゃん、賢い」と思わず赤井君がうなれば、
「将来のお前だぞ、その爺さん」
 しれっと箱村が受け流す。
「はあ?」
「馬鹿面してハアじゃねぇんだよ」
「あまり買いかぶらないで下さいよ。僕がそんなにデリケートで生真面目なお爺さんになっているとでも」
「いずれ分かることだ、あっという間だよ。とにかくな、人生、これから歳とってくほどに色々とむしゃくしゃとする出来事がやってくるぞ。能力が落ちていくのを知りながらもなお心の平安を保つためには、たとえば今いったような思考訓練が必要だってことだ。よく憶えとけ。今の田原総一朗の朝ナマの司会ぶりと昔とのを比べてみろ。わざと怒って、相手の生の姿や本音を引き出したり、退屈する視聴者の気をひいたりするキレ芸はさすがに健在だ。だけど今なんて、質問しといてその答えを聞きおわる前に、自分の話したい別のことを喋りだしてるだろ。質問したなら聞かなきゃな。なんで質問したのかってなる。質問したのを忘れちゃってるんじゃないかと思うことがあるよ。昔のシャープな田原総一朗はあんなんじゃなかった。どこへ行っちまったんだ」
「僕、昔の田原総一朗をよく知らないから‥‥‥でもあれってボケ芸なんじゃないですか? 新境地ですよ。“なんだ、あの田原総一朗だって老いさらばえりゃこんなふうになるんだ。いまの俺と大して変わんないじゃないか”と安心させる。とくに初老の人たちにですよ。裏では綿密な計算をしているくせにね。一種の視聴者サービスですよ。テレビが地盤沈下していく最中(さなか)、芸風がさらに大衆迎合化している。」
「そうなの? 深読みすぎねぇ? もしそうならいよいよ名人の域、人間国宝級じゃねぇか」
「そうだと思いますよ。老齢になってもやっぱり凡人とは一味(ひとあじ)違う」
「そうじゃないと思うけどなぁ。ま、そりゃいいわ。田原の話はもういいわ。とりあえず俺が言いたいのはこうだ。人は歳とともに落ちていくんだ、田原総一朗といえどもな。年ごとに常用しなければならない薬の数も増えていくだろう。通勤時、全力で歩いているのに何故か周囲の人たちに追い抜かれる。それは老いのせいだ。急ぐ意味なんてないのに、ジジイはそんなことに焦って必死になる。諦めろ、もう階段をひとつ飛ばしで上ることはできないんだ。前頭葉も衰えて、むき出しの感情も制御できなくなってくる。おまけに同じことを何度も繰り返し話す、忘れちゃうんだな。名前だけ飽きもせず連呼する選挙カーじゃないんだぜ。ジジイのお前も現実を突きつけられて(あせ)るだろうな。やっぱり明鏡止水でいるためには思考訓練は必要だよ。ほんだからさ───ほんだから、アレ? 俺なに話そうとしてたんだったっけな」
 箱村は最初に自分が何を話そうとしていたのか、肝心なことを忘れてしまったらしい。これでよく田原総一朗をこき下ろせたもんだ。
 箱村にしても花菱にしても毎度々々、前に自分が話していたことを忘れてしまう。二人とも自分の話に酔って、いつも長々と持って回った言い方をするからだろう。これが歳をとっていくということなのか。
「だからぁ、『なんなら僕の作品を今、ネットに投稿したっていいんじゃねえ?』というお話だったでしょう。忘れちゃったんですか?」
「おうおう、そうだった、そうだった。話がとっ散らかって、ちょっと迷子になっちまったみたいだぜ、ぽてちん。赤井、お前は若いだけあって、いいナビだ。随分と回り道になっちゃったけど、せっかく今という貴重な時が手許にあるんだからよ、ちょっと試してみてもいいんじゃないかとチラッと思ってさぁ。予行演習でな、今から投稿サイトに送信してみっか? お前の全作品、在庫一掃セールやで。時代に乗り遅れることが分かりきってる未来じゃなくてな、今」
「話、コロコロ変わりますね。さっき書くのはジジイになるまで待てと言ったばかりじゃないですか」
「人の世は諸行無常だ、変わらないものなんてない。“書くな”とは言ったが“送るな”と言った覚えはない」
「何ですか、それ」
 あまりの我田引水(がでんいんすい)に過ぎる屁理屈に、あんぐり口を開ける赤井君である。
「いい時代になったよ。俺が小説を書いてた頃はネット空間なんてもんはない。紙の本しかなかったんだ。だから、出版社の賞をとるか、一部の優先的地位にある連中ぐらいしか、書いた作品を活字にして公開することは許されなかった。それ以外は何作書こうが、みんな闇から闇太郎だ。出版社は応募者に対して圧倒的に強くて優位な立場にあったわけだ。それって天秤が一方に傾きすぎて、あまりにも非対照的だろう。昭和ど真ん中の医者と患者、教師と生徒みてぇな関係さ。ところが今はどうだ。今じゃコロナのせいで占い師までオンラインでお客さんの運命を占うようなネット社会になった。昔なら至難の業だった小説の公開が、マウスのワンクリックだ。ワンクリックでどんなボンクラでも一瞬にして自分が書いた作品をサイトに掲載してもらえる。(あいだ)に嫌らしいフィルターは無しだ。横の(つな)がりもなく、宣伝するわけでもないんで、サイトに公開したって今のご時世、よほどの作品でなきゃ読まれないだろうけどよ。SNSなんかで繋がっている人なら、潜在的取り巻き集団が相当数、読みに来てくれるのを見込めるかもしれない。けどIT音痴でSNSなんて怖くてできないような連中、あるいは群れを嫌い他人の価値観に染まりたがらない連中───そういった連中は一定数の読者を得るのは期待薄(きたいうす)だろう。とはいえ彼らといえども少なくとも闇から闇太郎じゃない。わずかながらも薄明かりがある。気球を電脳空間の大空に浮かべときゃ、そのうち誰かの目にとまるさ。いま送っちゃえ。駅でさ、赤井カサノっていうサエないペンネームで配ってたアレをさ。自分史のほうは待っとけ。やっちゃえ、日産」
「今どき、それ? (ふる)っ! それって矢沢永吉でしょう」
「なに言ってんだ。まだこのコマーシャル、キムタクと松たか子が仲よし小よしでテレビでやってるぞ。それにYouTubeの広告とかでもな。ああ、お前の年代物のパソコンはネットとつながってないんだったな、ああそれでそんなこと、言ったのか。それじゃ送信できないわ。俺のパソコン、貸してやってもいいぞ。おっとそこのパソコンでいいや。今日、奴は来そうもない。やっちゃえ、ここで。お前、迷ったときはどっちの道を選ぶ?」
「なんですか、急に。そんなこと急に言われても分かるわけないじゃないですか」
「人生、迷ったときは楽しそうな方を選べ。これ、鉄則だぞ。送っちゃえ、なんか面白そうじゃないか。やっちゃえ」
「やるって、どうやるんですか?」
「どうやるって、お前の小説の文書ファイルあんだろう。それ、すぐ家に取りに帰れ」
「文書ファイルって?」
「だから文書ファイルだよ。他にどういう言い方がある」
「あれって保存できるんですか? そのつど印刷し終わったら電源切ってますけど」
「あ(いて)っ! そこまでIT音痴なのか。」
「それシャレなんです?」
「まぁまぁまぁまぁ‥‥‥‥♪笑って許して、ちいさなことと(アッコ!)(^^♪‥‥‥ぽてちん。しかし、そんなんでよく小説をパソコンに打ち込めたな。しゃあない。お前が駅で配ってた本、この部屋のどっかにあるよ。それを今からスキャンしてパソコンに取り込み、投稿サイトに文章をコピペしてから送信ボタンをクリック、それで世間さまに公開完了。これでいくか。そんなことぐらい、今どき小学生でもする。お前ができないわけないよ。できなきゃ手伝ってやる」
「悪かったですね、アナクロ人間で。でもよしときます。僕の作品を駅で受け取ってくれた人に不義理になるから」
「そいつぁ、いい心がけだ」
「今から自分史でも書いて、それを送ります。いつになるか分かんないけど。題名はどうしよう。『女と』にでもするか」
「おいおい、また振り出しに戻るのか」
「じゃあ、『女と』PART2!」
「芸のない奴だ。自分史にこだわるなぁ。そんなのどうでもいいと思うけどな。たぶん天涯孤独(てんがいこどく)だからだろうよ。けど書くのはジジイになってからにしろ。まあ、ちょっとした家庭菜園だな」
「何が?」
「お前の自分史だよ。お前がどうしても生きた痕跡を残したいと言いはるのなら、自分史だけは書いてもいいや。他の作品は、この作品も含めてだが、付録だからどうでもいい。書くのに嫌気がさしたら、いつでもやめりゃいい。いい野菜が採れたら、お隣さんにおすそ分け。なにも世間様に大々的に売り出そうとしなくていい。限られた少人数のネットの小説マニアが、さらっと目を通してくれるだけで充分。どれだけの人が読むか知らねえが、どうせ会葬者に自費出版の自分史を配るのより少し多いくらいなんじゃねえのか? いつまで生きれるかも知れぬこの命、これで死ぬ準備はできた。自費出版でムダ金もつかわなくてすんだぜぇ。ムダ金は葬式費用の足しにしな。めでたしめでたし。ちょっと前に生まれたばっかしだから、いま自分史かいて送るたって書くネタないじゃないか。自分史はやっぱジジイになってからじゃないと書けない。いや、書けないこともないな、むこうの世界に戻っちまえば」
「投稿サイトという手もあったんですね。何も紙媒体にこだわることなかったんだ。テクノ音痴のせいで、そんなことにも気づかなかったなんて情けないなあ。駅で配るなんて、あんなアホなことして。でも僕がジジイになる頃はずっと先だから、投稿サイトも多くが経営難かなんかで閉鎖されちゃうんじゃないですか? そうなってないといいけど。この先どんどん落ちぶれていく日本なんだから」
「縮小していく日本ってか? 違いねぇ。だったらまだ生きている他のサイトにお引越し‥‥‥それもカッチョ悪いな。だいいちお前、大雑把だから自分が書いたものパソコンに残し忘れちゃうだろう、消しちまって。一期一会じゃないんだぞ。荷物がないのにどうやって引っ越しすんだ」
「これからはスイッチ切って削除してしまわないよう気をつけます。あとは自費出版業者に、ということになりますか。でもそれはちょっと‥‥‥」
「どうも嫌そうだな。ならこのたび駅で配ったようにお手製の自分史を作りゃぁいいんじゃないの。二回目だから少しは手際がよくなってるんじゃないのか? あんな不細工な装幀のじゃなくてさ。だいたい今日々(きょうび)じゃ、Kindle出版とかいって、誰でも無料でアマゾンから出版してもらえるだろう。電子書籍ばかりでなく紙の本までOKってのもあってさ」
「そうなんですか?」
「そうなんですかって、お前、そんなことも知らないのか。こんなこと、小学生でも知ってるぞ。完全に時代にとり残されてるな」
「でも僕、IT音痴だから」
「IT音痴って、そんなのIT以前の話だろう‥‥‥‥‥いや待てよ。文書ファイルが何か知らなくても平気でいられるよな豪傑には、やっぱ無理なのかもな」(´ω`)トホホ…ナサケナイ、ヤッチャ
「ほらほらほら」
「心配しなくたって、アマゾンで出版してもらっても一冊も売れないよ。よほど優れた本でない限り、宣伝費つぎ込まない本が売れるかよ。これは保証する」
「百田尚樹の『永遠の0』やリリー・フランキーの『東京タワー』みたいに(くち)コミに期待!」
「口コミに期待? 馬鹿かあ、誰と比べてるんだ。お前がああいう人達と同列の(うつわ)かよ。そんな奇跡を期待して、石油でも掘り当てるつもりなのか。安心しな、お前が買うから一冊は売れる。おっと俺と花菱も買うから三冊か。あとどこぞの物好き2,3人が買うか買わないか───せいぜいそんなとこだ。とりあえずお手製本を駅で配る方がまだマシだよ。お手製本を自分でくばるなんて、そういうお前の時代錯誤的泥臭さは嫌いじゃない」
「お手製本の方がいいと」
「手作り感と素人らしさ。味が出て愛着もわくだろう」
「誰に配ろっかな。親戚はそんなにいないから、そこそこの冊数でいいか。印刷機を使わせてくれたアイツにも配るか。配るのは僕が死ぬ前だからお医者さんや看護師さんにも配りたいなあ」
「俺にも配ってくれよ」
「箱村さん、そん時、死んでるでしょう」
「死んでまた生まれ変わってくるよ」
「またまたぁ」
「とつぜんだけどお前、ラブ・フリッジっていうの、聞いたことあるか」
「いえ、初耳です」
「知らねえだろうな、日本ではよそ事あつかいで、あんまり取り上げないもんな。外国にはラブ・フリッジっていうのがある。日本語に訳せば愛の冷蔵庫かな。2012年にドイツのあるコミュニティで始まったそうだ。今じゃアメリカをはじめ世界至る所の国にある。その冷蔵庫は家ん中じゃなくて戸外にあるんだ。飢えている人を救けてやりたいと思っている人が、食料品や料理をその冷蔵庫に勝手に入れる。一方飢えてる人はその冷蔵庫から食料や料理を勝手に取っていく。入れる人と取る人は一切顔を合せない。そこに一切金のやりとりもなければ、恩の売り買いもない。誰かに感謝することも誰かから感謝されることもない。ネットの小説投稿サイトも似たり寄ったりだろう。読みたい人のために、サイトに書いて送る人がいる。その多くは、赤井カサノのような架空のペンネームで送るから、匿名小説を書いて掲示するのと同じだ。読みたい人はそのサイトを開いて勝手に読む。書く人と読む人は一切顔を合せない。そこには一期一会すらもない。誰が書いて誰が読んだか互いにまったく分からない。そこに金のやりとりも一切なければ、恩の売り買いもない。冷蔵庫の食料や料理も時が経てば傷んでいくように、ネットに公開された作品も時とともに埋もれて、そのうち全く誰にも読まれなくなる。別にそれでいいじゃないか。お前の住んでる倉庫に冷蔵庫はないだろう。あっても段ボールに梱包されてて使えない。だけど毎日、お前はコンビニというデカい冷蔵庫の扉を開くよな。作品が誰にも読まれなくなったら、投稿サイトはお前専用の書庫だ。貸倉庫なら料金がいる。だけど投稿サイトならタダだろう。得してると思え」
「さっきの蒸し返しじゃないですけど、投稿サイトが閉鎖されちゃったら?」
「だったらもう面倒くさいから、書庫が火災に遭ったぐらいに考えちまえ。これぞ、かの有名な歎異抄いうところの“火宅無常の世界”だ。どうだ、うまいこと言うだろう。この世は諸行無常、因果応報。例外はただの一つもない。自分の過去のどこかの行いに責められるべき何かがあった。昔のことだからお前はもう忘れている。その報いだと思って諦めな」
「そうですね、悪い行いには必ず悪い報いがありますもんね」
「そう言い切れるってことは‥‥‥‥お前、歎異抄を読んだことあるのか」
「ないですけど。どうせ読んでも意味つかめないし」
「法華経は?」
「めっそうもない」
「それでよく作家になるなんて厚かましいこと言えるな。五木寛之や壇一雄が笑い転げるぞ」
「え? 団鬼六?」
「馬鹿! そっちはSMエロ小説の大家だ。壇一雄だよ、『火宅の人』の。壇ふみのお父さんだ。壇ふみ、と言ったって知らねぇか。お前、どっか変なとこに行ってSMエキスを注入されてきてないか?」
「‥‥‥‥‥」(◎‗◎;)ドッキーン!
 心中穏やかでない赤井君を尻目に、箱村は自分に酔ってさらに喋り続ける。
「寄る年波に、近いうち何も書けなくなる。それでいいんだよ。どんなに苦労して作り上げた雪ダルマだって、いずれお天道様に照らされて溶けて無くなっちまうんだ。同じことだよ。そもそも俺らの人生そのものが、常なるものは何一つとしてないんだからな。そりゃ人は誰だって自分が一番かわいい。だからって自分を握りしめ過ぎんな。その方が似合ってるよ。お前はこっち側の人間だ。絶対にあっち側には行けない。行けなくてよかったんだよ。そのほうが心の平安が保てる。なんてったって心の平安が幸福であるための大前提だ。いくら注目されても、胸の内がいつも暴風雨じゃな。それこそお前の小説の『砂笛の孤独』だよ。だけどこっち側にいさえすれば自分への執着も和らぐぞ。和らげば、それだけ死ぬことも怖くなくなるぜ。年取るごとに自分がどんどん薄く透明になって、毎夜眠りにつく時みたいに、死が迎えにきたときも抵抗なく天国へすべり込めるぞ。地球が生まれるずっと前、ビッグバンが起こった頃には、宇宙には水素とヘリウムしかなかった。今この世に存在するものは皆、その水素とヘリウムで出来ている。この世に原子とか、そういったもんが無かったとしたら、あらゆる生命は今ここに存在していない。俺もお前も元はといえば、水素とヘリウムだったんだ。ただのガス状態に過ぎなかった俺もお前も、悠久の昔から姿や形を少しずつ変えて今日まで存在し続けて来た。決して途中で消えてなくなることはなかった。生々流転(せいせいるてん)を繰り返し、これからも姿や形を変えて永遠に生まれ変わり続けるぞ。俺とお前の魂は同根だ。孤独で哀しいときは夜空の果てを思い浮かべろ。そこに俺たちの心のふるさとがある。お前っていう存在はこの世で独立した唯一の存在なのか。どっこい、そうはいかねえんだ。違ってるんだ。それはただの執着だ。俺らは自分と他者は違うと思ってる。だけどそんな仕分けをしてるのは意識というほんの小さな領域でだけだよ。心の大部分を占める無意識は、自分と自分以外を区別することなんてできない。いいか、この世全体を動かしてるのは意識じゃない、無意識なんだ。自分と自分以外を色分けすること自体が間違っているんだよ。漁師が魚を釣る。それを刺身にして夕飯のメインディシュだ。お前はがっつくだろうな。やがて魚は消化吸収されてお前の肉体の一部になる。その際、どこからがお前でどこからがお魚さんだ。盛りつけられてる時は魚だろう。それを食ってるときはお前か魚か。お前の筋肉や脂肪になったときはお前か魚か。どっちだ」
「そんな奇想天外なことを急に言われても‥‥‥‥」
「ホラホラ、分かんねえだろう。だったらこれはどうだ。無我ってよくいうだろ。我が無い、すなわち独立した自分というものは何処にもないということだ。何だっていいが、たとえばお前の故郷は田舎だよな。なら実家は木造だな。両親が死んで天涯孤独だからその家の所有者は今はお前になってるのか? 所有者だとしてもその家はお前のものじゃない。家は樹木からできてるだろう、樹木は地球のものじゃないか。でなければ大自然か神のものだ。同じようにお前の肉体だって自然から生まれて自然にかえるじゃないか。お前自身もお前のものじゃないんだよ。神様から命を貸してもらってるだけだよ。よく言われることだが、人を構成する全細胞は時間が経てばすべて入れかわる。生まれてから死ぬまでに一回も入れかわらない細胞は一つとしてない。それなのに独立した自分なんてものがあるんだろうか。人は死んだら火葬されて灰と煙になるだろう。灰は土地を肥やし植物という命を生む。煙も二酸化炭素として植物の糧となり彼らを育む。植物は二酸化炭素を取り入れて酸素を出すだろう。小学生でも知ってる光合成だ。その酸素を吸って生きてるは誰だ? 動物とか俺たち人間だろう。土葬だって同じことだ。遺体が埋められればバクテリアに分解され、これまた土を肥やし植物などの養分となる。そしてその植物を動物が食べて命を育むな。その動物の命を人が食べてさらに新たな命を育むだろう。自分の体はもともと他の体で、自分の体はいつしか他の体になる。実は俺達、いろいろな肉体のなかに出入りしている。肉体は回収され、再生されて、ふたたび利用されているに過ぎない。使い回されてる自覚がないだけだよ。よく万物流転とか諸行無常とか言うだろう。全てはとどまることなく変化し移ろいゆく。これってどういうことなんだ? 自分が自分以外に、自分以外が自分に果てしなく移り変わっていくことだよ。そういう循環のことだ。因果のサイクルをぐるぐる回ってはいるが本質は一つ、変わらない。自分の死は他の生になる。他の死は自分の生になる。他と異なる自分はないし、自分と異なる他もない。自分の命は他者の命とワンセットだ。自分と自分以外は繋がっている。地続きで仕切りなしだよ。お前っていう存在は、この世のいろいろな要素の寄せ集めだ。実は万物は溶け合っている。俺もお前もこの世の全ての人は、サムシング・グレイトのもとに溶け合っている」
 ‥‥‥サムシング・グレイト? どっかで聞いたことある言葉だな。それにしても箱村はどこからかダウンロードしてるかのように、よく滔々(とうとう)と弁じたてることができるもんだ。長くなるのは例えと比喩だらけの回りくどい言い方を羅列しているからだが、毎度のこととはいえ今回は長すぎる。
「サムシング・グレイト‥‥‥ですか?」
「そうだ、サムシング・グレイトだ。すべてはサムシング・グレイトのもとに繋がり溶け合っている。たとえばお前が小説家になりたいと思う。しかしそれは絶対に叶わない。どうしてか。“願望が実現しないほうがお前のためによい”ということをサムシング・グレイトは知っているからだ。サムシング・グレイトは過去を含めたこの世の全ての人間の叡智とつながっている。だから未来にお前に起こるであろう悲劇を事前に察知し、関係するあらゆる人々の潜在意識に働きかけ、絶対に賞がとれないよう偶然を山のように積み上げてブロックする。お前の未来のリスクを回避するためだ。同様にサムシング・グレイトはお前の潜在意識にも働きかける。あれだけ小説家になることを切望していたのに、ある時ぷつんと糸がきれるように熱が冷めるよ。どうして急に熱が冷めちゃったんだろうかと、お前は問う。けれど何故か理由がさっぱり分からない。それがサムシング・グレイトの筋書きだよ」
「全部が繋がってるなんて。そんな御伽話(おとぎばなし)、信じられませんよ」
「信じられないのは、目を開けていてもお前には目先の現象しか見えていないからだよ。意識を全宇宙に広げてみろ。そうやって心の目を開くんだ。そうすれば本質が見えてくるはずだ。何一つお前だけのものはない。だけど全てがお前のものなんだ。だから自分にしがみつくな。今ここにいるお前は一時の借り物でしかない。本当の意味でのお前は、全体の中で常に循環し移ろいゆくんだ。存在していると同時に存在していない。(くう)だよ。でも気をつけろよ、空を思い描いた時点でもう空じゃないからな。要するにこういうことだ。俺らは海の波間に浮かんでる泡の一つだ。現れたからって海は増えず、消えたからって海は減らねえ。ただ生まれて、生きて、死んでいくだけ。けれど、ずーっと永遠に大海に居続けるのに変わりはないんだぞ。実は、死んじまっても永久(とわ)の別れになんかなんない。死んだってホントは死んでねえ。たとえ殺されたって死なねえ。ドリフの高木ブーが言ってたあの言葉、『志村は死なないの、ずっと生きてる』だよ。似てるからって社長の言葉だと間違えんな。アイツにこんな奥の深い言葉は言えねえ。『死なないの』ってのは俺たちの心のなかでずっと生き続ける、なんて月並みな意味じゃないんだぞ。実際、言葉通り本当に生きているんだ。死んだら体が離れて重力の影響を受けなくなるだけのこった。自分の重さがなくなってプカプカ浮かんでる───違いはそれだけだよ。光は真空のなかをも通過する。魂も虚無を通過し向こう側に行くんだ。そんなこと言われたって困るか。いっぺん死んでみなけりゃ、死んだって実は生きてたんだなんて、確かめようがないからな。けど全員死ぬんだぜ。だからいつかは全員、これが分かるってことだ。大丈夫だよ。ホントは自分史なんて書くことないんだ。そんなの一体(なん)人読むんだ。どうして無理してこの世界に自分の足跡を残さなきゃなんない。コソ泥か。そんな足跡のこして、誰に雑巾掛けさせようってんだ。砂浜に残した足跡なんて、すぐに時間の波が消し去ってしまわぁ。足跡どころか爪痕一つ残すこたぁねえ。爪痕なんて有名人の訃報みたいにすぐ忘れ去られる。バイバイだよ。立つ鳥跡を濁さずとやらだ。旅立つ時はちゃんと家の中を掃除してから出かけようぜ、むろん足跡もだ。春の新芽を見るためには、野焼きしなきゃなんねぇだろう。でな、初めて駅で遇ったとき、『砂笛の孤独』のメインテーマを引き合いに出して、お前、『人生は苦しみの砂漠、必ず死んでしまうのに、なぜ生きるのか』って言ってたろう。もう憶えてないか。なぜ生きるのか分からないのは、目覚めてないからだよ。お前はまだ夢の中にいる。真に目覚めればその答えは自ずと見えてくる。俺たちは永遠に死なない───これがその問いに対する答えだ。お前は終わらない、霞ゆく夢の続きは誰にも託さなくていいんだ」
「永遠に死なないって、死んだ人はみんなその人の全人生の行動や思考を複製したアバターにされて仮想空間の中で生き続ける、みたいなことですか? でっかいハードディスクに、生前と生き写しの小人どもが何十億、何百億とひしめきあってるとでも。でもそいつ、僕に似てるけど僕じゃない、それってただのデータでしょ」
(ちげ)えって。せっかく熱弁ふるったのに、なんでコンピューターゲームの分身キャラクターみてぇなこと、言いだすんだよ。それからはずっとアバター野郎がお前に代わって輪廻転生を繰り返すのか。アホらし。それとは全く違う話だ」
「アバターは死にませんよ、なんで輪廻転生なんかすんですか」
「だからアバターじゃねぇって。そんなパソコンデータは、電源を引っこ抜いてさっさと成仏させちまえ。今まで何を聞いてたんだ。お前の問いに正面から答えたことにはなんねぇ俺も悪いんだけどよ。心では分かってるんだけど、言葉でうまく説明できねぇんだ。夜空に輝く無数の星々。あの星々はお前にとって意味はあるのか。あるよ。あれこそがお前自身の実在証明だ。あの永遠に拡大し続ける大宇宙が、お前たった一人だけを置き去りにすると思うのか。俺もお前も必ず旅立つ。年齢からいって、たぶん俺が先だろう。仕方ねえよ、あの世行きの列車は必ず定められた時刻にホームに到着するんだからな。だけどな、言葉では説明できないけど、お前がまたズッコケて危なっかしくなった、ここぞって時には、あの世を巡り巡って縁が整ったら、姿かたちを変えてまた戻ってきてやるよ。こっ()ずかしいけど、俺が灯台の灯りになってやる。険しい人生の山道を登る杖になってやるよ。肩車して苦海にアップアップしそうなお前を向こう岸に渡してやる。このたび俺が先に生まれてお前を待ち構えていたようにな。落語の枕に『(はまぐり)と帆立は鍋で巡り会い』というのがある。俺らはいま同じ大海の中にいるよな。俺は帆立みたいに立派じゃない。せいぜいアサリかシジミ程度の人間だ。お前なんか弱っちくてゆらゆらして、さしずめ昆布ってとこだ。やがて‥‥‥だぶん近いうちに二人は離れ離れになる。だけどな、魂は巡り巡って、いつか同じ味噌汁の中でもう一度邂逅(かいこう)する。これは約束だ。どこかで再会しような。よく憶えとけよ」
「昆布は箱村さんの方じゃないんですかねぇ。花菱社長が『アイツはゆらゆら揺れる昆布みてえなヘッピリ腰野郎だ』って(りき)んでましたけど」
「なんだ?」
「あ、しまった。このボール、投げちゃいけなかった。パスミスだ。僕ってなんて軽率なんだろう。なんでもベラベラ不用意に喋っちゃって」
「いいってことよ。まぁともかく、だ‥‥‥‥ともかく俺は風鈴を揺らす風みたいなもんだよ。ありがてぇと思え。包み込んでやるよ。これだけ言ってもしばらく経つと、お前、忘れちゃうだろう。だがよ、今からずっと先、年老いてもう死ぬ間際の、いよいよ人工呼吸器がいるって時に、もう一度これを思い出すだろうよ。それがちゃんと分かるんだ。予言しておくぜ。さあて、そろそろ仕事すっか。久方ぶりに一杯話せた、満足だぜぇ。チョコレートを食い過ぎた気分だ。大好物でもさすがに疲れたな」
 散々(さんざん)っぱら(もや)がかっかた話に付き合わされた後は、チョコレートか。チョコレート食い過ぎ? それって一体どういう気分なんだろう。いやはや、言ってる意味がてんで分からない。
「チョコレートと言えば、デザートをまだ食ってなかったな。デザートの定番はチョコレートパフェだ。でもコンビニにチョコレートパフェなんて売ってるかな? やめとくか、最近ますます腹がでてきたからな。おっと、もうこんな時刻か。楽しい時間はアッという間に過ぎるよ。地球の自転速度がアップしたみてぇだなぁ、おい」
 その問いかけに、赤井君はむしろ時計の針が過去にどんどん逆戻りしていくような気がしてくる。どうしてそんな気がしてくるのかは分からないが。
 箱村は喜色満面だ。よほど満ち足りた心境らしい。

(29)

 ドアの取っ手を握りながら箱村は言った。
「ついてきな」
 赤い屋根のうえで踊る影のように、箱村の動作は軽やかだ。遅れじと彼の後に続く。ドアを閉めて廊下に面したとき、箱村はすでに十数メートル先を歩いている。何しろコンパスが長い。
 フロアーを叩く軽快な足音のリズム。そのテンポについて行くだけでも骨が折れる。あたかも箱村と僕とが透明な糸で結び付けられているかのように、体が前方に引きずられていく。自然に僕の足のピッチも速まる。
 人気(ひとけ)のないがらんどうの廊下は行きつく先がT字に分れ、箱村の背中が右手に折れ曲がり、消えた。廊下は薄暗く、死刑台に続く通路か何かに思えてくる。
 二種類の足音だけが静寂に響いている。その音の響きは、一つの人格の内にやどる神と悪魔の鼓動に近い。胸骨の隙間にぶら下がった白と黒の鈴の音に近い。妙な浮遊感がある。夢遊病者にでもなってしまった心地だ。夢茶がきいてきたようだ。
 足音が止まる。回転する映写フィルムに急に鋏を入れたような唐突さだ。続いて金属質の重々しい摩擦音。底なし沼に投ぜられた少女の、耳をつんざかんばかりの悲鳴を聞かされている気がする。コップの中の断末魔の叫び。自分の内側から聞こえてくるような叫び。削げ落ちた(くちばし)そのままに、この悲鳴の色は赤い。
 箱村がどこかの扉を開けたらしい。それが悲鳴に聞こえたのだ。
 意識の胸倉をえぐりぬく不安が湧き上がってくる。不安が頭をもたげ、壁となって行く手をふさぐ。壁はどんどん大きくなる。やがてこちらに倒れてきて、不安の壁が心の芯まで圧し潰してしまいそうだ。
 踵を軸に右に方向を変え、新たな廊下に面する。数十メートル先、金庫の扉さながらの分厚い鉄製ドアが半開きだ。ぼんやりとした明かりが中から漏れて、リノリウム床材のフロアーを黄白色に濡らしている。
 開いたドアが壁からぬきでた爪のように見える。夢茶の効果は大したもんだ。フロアーに反射する明かりに重なって、様々な映像が浮かんでは消えていく‥‥‥‥。
 夜のプールに浮かんで揺れる照明灯の白い円。赤々と燃える鉄球が、地の底から浮かび上がり、廊下のすぐ真下まで迫っている。影の切り口からじわじわ滲み出る、白く光る液体。遠い昔からずっとこの円い光の広がりを見続けてきたのではないかという錯覚に、しばし心を奪われている。
 シーツに扇状に広がった長い髪に静かに垂らされる黄金の蜜。鏡に吐きかけられた唾が表面をつたって流れ落ちていく。鏡に映っているのは女の顔、その背景には闇に溶け込む街のネオン‥‥‥‥。
 半開きの頑丈そうなドアの隙間から体をすり込ませる。最初に目についたのは、部屋の中央の二つのボックスだった。こじんまりとした部屋の中にさらに小さな部屋がある。部屋のなかに浮かぶ部屋。
 ボックスのガラス窓から内側をのぞき込んでみる。グラスウールだろうか、壁は吸音効果の高そうな素材でできている。ボックスを密閉してしまえば外からは遮音され、内側もあまり反響しない造りだ。
 丸椅子と机。机の隅から延びた電源コードにはヘッドセットが繋がっている。ちょうどこの位置からは、ボックスのガラス窓とこの部屋のガラス窓が直線上に重なる。
 ビルの窓から望む風景がボックスのガラス面にも薄っすら届く。都会の景色が映り込むことで、ビル街にヘッドフォンが浮かんでいるかのように見える。ガラスと鏡と光の作為がそこにある。
 ふと思った。万華鏡は同じ図柄を二度と見ることができない。いま僕が見ているこの光景も、たった今この一瞬にしか存在しない。まさに今この時───その重みを感じる。他の誰かがこれと同じ光景を見ても、やはり僕とは少しだけ違った光景としてとらえることになる。認知のありかたは人によってそれぞれ微妙に違うからだ。現実はそこにあるだけでは現実にはなりえない。それを感じるのは脳。脳が認識してはじめて現実は現実となる。この光景は表象としても、未来永劫この瞬間にただ一つしかないのだ。

 ヘッドセットが今どきワイヤレスではないのが拍子抜けだ。これは何のため? テレワークかよ。二人とも同じ建物にいるのに、まさかWeb会議でもあるまいな。新型コロナウイルスのせい? 今までマスク無しで、いいかげんクッチャッベってるじゃないか、この期におよんで馬鹿々々しい。
 だいいち会議しようにも周辺機器はおろかモニターディスプレイもない。きっとヘッドフォンで何かを聴き、搭載マイクで何かを話すんだろうが、このミニLL教室もどきのボックス内で語学学習でもさせるつもりなんですかねえ。
 よくは知らないが、最近流行りのメタバースとやらか。だったらこれはバーチャルリアリティー・ヘッドセットか? 最高じゃないか。他にもスマートグラスとか、なんかシャレたもんないかなあ。まさかね、そんなことあってたまるか〜~~い。どう見ても何の変哲もないヘッドフォンだ。
 もう一つのボックスのなかも見てみる。カーボンコピーの空間があるだけ。瓜二つの双生児にでも、それぞれ中に入ってもらおうかな。まったく何が何だか訳が分かりませんわ。
 箱村はどこにもいない。あらまあ感動と興奮、これぞデビット・カッパーフィールドの人体消失イリュージョンでありましょうか‥‥‥そんな軽口を叩くうちに、なんだか心細くなってきた。
 静寂の重みを肌に感ずる。コールタールの表面に静止するフランス人形の静寂、脚下に落ち込む深淵をのぞき込むときの静寂‥‥‥‥。
 刹那、ガラスを叩く音が背後に聞こえ、静寂に亀裂が走る。何をどう見誤っていたのだろう、そこは壁ではなく一面のカラス張りだった。向こう側が暗かったせいだ。水槽のなかで泳ぐ熱帯魚にでもなった心境だ。
 ガラス板の向こうで箱村とおぼしき人物が、細長い体の輪郭と窪みに影の切り込みを入れたまま立っていた。耳の辺りを右手で覆いながら、しきりに何かを指示している。その動作とともに、切り絵の白黒シルエットのように影も動く。ボックスに入ってヘッドフォンをつけろと言うことだろうか。
 箱村の左手にはコップがにぎられている。ちょうどそこに照明が帯状に当たり中身がよく見える。さっきから視点が明確に定まらないのだが、なにやら暗紫色のドロリとした液体が入っている。夢茶の絶品リニューアル版か? それにしてはちょっと色が濃すぎるな。
 指示通りボックスに入って椅子に座り、ヘッドフォンを耳にあてがうと、箱村は首を上下に小刻みに揺らして頷く。会津玩具の張り子の牛、赤ベコみたいだ。おもむろに彼がカーテンを引きはじめた。直線が視野を横切る。同時に箱村の姿が空間の仕切りに塗り込まれて消えた。
‥‥‥‥最初に壁だと思っていたのは、あのカーテンだったのか。
「赤井、聞こえるか。右の端っこにコップが置いてあんだろう、それ飲みな。もう怖くねえな」と、ヘッドフォンから箱村の声。
 前面右側の小さなガラスケースに、箱村が握っていたのと同じ暗紫色の液体が入ったグラスが置いてあった。確かにもう怖くない。恐怖はとっくにグラスの底に沈んでいる。一気に飲み干した。どうってことはない。夢茶を濃くしただけといった印象だ。
 デスクは木製だった。その木目の流れは浜辺に打ち寄せる波の形に似ている。デスクが一面、海に変じる。気球かなんかに乗って上空から海原を見下ろしているかのような感じだ。
 ふと思い出す。海辺の旅館に数日滞在していたとき、灯りを消して波音だけに耳をそばだてれば、いつしか波の先端が夢のなかに()み入ってきたのを。波間をぬって奏でられる旋律に合わせて、頭蓋骨の舞台上に様ざまな思い出の情景が金粉をまぶすがごとく、夜ごと(きら)びやかに去来するのを。
 木目はところどころ渦を巻き、手に取ったウイスキーグラスに広がっていく不思議な波紋を想わせた。波打つ稲穂。その(ゆる)やかなうねりに思考も揺られる。渦を巻くような木目模様‥‥‥もしかしてケヤキか? まさかね。いくら花菱でもそこまで太っ腹ではないだろう。
 全身の力を抜き、空想に身も心も(ゆだ)ねてみた。とても不思議なことだが、空想がそのまま眼前にリアルな映像として広がっていく。

───僕は海辺にいる。押し寄せる幾重もの波。波が輝く。耳をすませば、そのリズムに合わせてあばら骨が共振しているのが分かる。目が黒く落ち窪んだ骸骨。小人があばら骨にブランコをかけて揺れている。僕はあばら骨を木琴に見立てて叩き始める。影絵の女どもがその音にあわせて踊る。祭と熱狂。祭のあと、誰かが快楽の淵に投げ捨てられた僕のあばら骨を、欲望を燃やす(たきぎ)として拾い集めている。

 理解不能だ。しかしこんな現実では到底ありえないことを、さも現実であるかのごとく僕は体験していた。疑似体験などというものではない。場面は飛躍につぐ飛躍。にもかかわらず、場面が切り替わるごとに、確かに僕はその場所にいたのである。
 せっかくヘッドセットのマイクがあるのだから何か話してみよう。シュールレアリスムの自動記述さながら、無意識がおもむくままに。

───氷漬けになった夢遊病者の指が、波間をまさぐり、海の弦をはじく。すると三角帽子をかぶった小人に手足が生え、軽快なステップを踏みながらダンスを踊った。砂浜には数えきれない赤い足跡ができている。

 これまた意味不明だ。まるで言葉の海にしこたま漂った末に、そのまま溺れていくかのようだ。かろうじて意味がたどれないことはないが、それにしても抽象度が高すぎる。言語の鉱脈が無駄に沸騰している。自分がマイクにむかって話していながら、その内容は別人格の何者かが語っているではないか。いったいどうなってる。自動記述ならぬ自動独白だ。
 そうこうしているうちに眠気がさしてきた。冷えたグラスの表面を水滴がテーブルにつたい落ちるように、体がデスクや床に次第に溶け落ちていく気がする。かようにグラスの角氷が消えゆくのと同じくして、僕の意識も眠りの中に消え去ってしまうのではなかろうか。
 ヘッドフォンには画用紙を静かに指の腹でさするのに似た音が流れていた。はじめ空耳かと思った。人は感触や気配まで音色としてとらえることがあるからだ。だが確かに微かな音が聴こえる。耳が淡くぼんやりとした音を拾う。衣擦(きぬず)れの音。レコード盤に針を落としたときの小さなノイズ。
 目を閉じると視界が白くなった。夏、激しい雨音が遠くから迫りくる。雨脚が白い糸を束ねるように地面を打ちつけながら近づいてくる。そんな音の遠景が見えた。聞こえるのでなく見えた。時間が漂白されていく。流れゆく時間に色があるなら、たぶんこんな色なのだろう。ホワイトノイズ。音の肌ざわりを感じる。
 この音はかつて聞いたことがある。滝だ。この音は滝の流れ落ちる音に似ている。意識が滝壺の底にゆっくりと沈んでいくのが分かる。
 瀑布(ばくふ)を遠くから眺めている僕の背中が視界の隅っこに見えている。揺れる吊り橋に立っている男の小さな背中。流れ落ちる水の銀幕が、白く男の影をとらえる。あたかも雨の打ちあたるフロントガラスの端っこに、男の小さな黒い背中があるかのように。
 水の銀幕のどこかに透明なドアがあり、開くとそこから黄泉(よみ)の国に行けそうな気がする。瀑布は煙雨となり、男の背中をしとどに濡らす。かき消そうと思うほどに、その後ろ姿は目の奥に刻まれる。彼は自分がこの光景のなかに溶け込んでいくのを感じている。彼はこの鳥籠の世界のなかで、頭上の天空が少しずつ上方へ引き上げられていくのを感じている。
 両手を伸ばすと、遠くにあるはずの滝がすぐ近くにある。気づけば、水ではなく砂が流れ落ちていた。伸ばした手の指の間に砂がすり落ちていく感触がある。
 いま聞こえているこの音も、画用紙を撫でるというよりは、砂の流れる音に近いかもしれない。どんなに耳を近づけてもほとんど聞こえない、風紋の形が変わっていくときの微細なあの砂の音に。足許で不思議な図柄を形づくりながら、永遠にむかって流れていくあの流砂の音に。
 流れゆく時間に音があるのなら、たぶんこんな音なのだろう。まるで砂漠だ。砂は絶えず動き、形づくられる図柄はどれ一つとして同じものはない。砂の息づかいを感じる。やはり聴く音というよりは見る音だ。
 一陣の風が吹き始めた。風が色づき(きら)めいている。風が僕の意識をさらっていく。いつか見たダイヤモンドダストの映像が、心象となってそこに覆い(かぶ)さり、互いに干渉し合う。揺れる手鏡に跳ねる光の粒子。光の雪片が幾つも舌の上に落ちては一瞬にして溶け去る。
 鳴りやまぬ風の音色。砂の(ほの)かな匂いが足先から漂ってくるのを感ずる。やがて砂塵が舞い上がり、砂の緞帳(どんちょう)が視界をふさぐ。
 砂粒が陽光に狂喜乱舞し、金銀糸の輝きを示す。鱗粉の砂。光の点描。砂漠の黄砂が風にのり、海を渡って、雲を染め、頭上から降ってきたかのようだ。
 次第にあたりが夜の暗さにつつまれていく。薄暗く奥深い幽玄の世界がそこにある。
 ほんの一瞬だが、(もや)たちこめる湖畔に(たたず)んでいる自分の姿が脳裏をかすめる。僕はこの場所にいながら、どこか別の場所にいる。雲の影が湖面をよぎる。揺らぐ影。影‥‥‥ん? 今のは? 今のは何?
 気のせいだろうか。なにかの影が(かし)いだ。不穏な気配が漂う。背筋に寒気が走った。束の間、砂と風が形を(かたど)る。砂塵のスクリーンの向こう側、うっすらと人影が動いたのでは? 遠目に見る砂のまばたきの刹那、影法師がおぼろげに風に(なび)く。砂の壁に描かれた踊る影絵。煙のように、陽炎(かげろう)のように、水のように、女の長い髪のように、朝霧に宿る心霊のように。

「この広い砂浜のどこかに二つの世界を結ぶ通路がある。現実と(まぼろし)、真実と虚構。私はその通路をとおってここにやって来た」

 何者かの声が耳の奥にこだました。これは耳鳴りなのだろうか。いや違う。たしかに人の声だ。にじみ出る肉声。海の(うな)りのように声が重々しく響いた。この声は聞き覚えがあるぞ。実際に発せられた言葉なのか、それとも単なる幻聴か。分からない。
 異形(いぎょう)のシルエットはじっと動かない。周囲に比べて確かにそこだけ影が濃い。黒々とうずくまっている。砂の厚い壁を挟んで、誰かが忍び寄ってきた気配がする。この男はいつも傍らについて離れない僕の影なのか。
 二つの人格が重なっている。独りでいるけど独りではない。自分と自分以外が混淆(こんこう)する。次第に無重力圏に入っていくような気分だ。僕の他にもう一人誰かいる。うずくまっているその姿。お前は誰だ、誰なんだ! 問いかけても答えはない。
 風がおさまると幕も上がり、人影も消えていた。現れるも消え去るも音たてずして。じっと感覚を研ぎ澄ます。やはりいない。影は風のようにその色を落とした。影は風とともにどこかに連れ去られてしまったのだろうか。
───なんだ、気のせいだったのか。
 そのまま砂の動きを見続けていると、砂が何かを描き出そうとしているのが分かる。砂粒の一つ一つにそれぞれ意思があるかのように。砂浜に立つ僕の足許で、時々刻々(じじこっこく)と形を変えて流れ動く砂の模様。砂が水面に落ちた雫のように放射状に広がっていく。
 女の裸体に握りしめた砂を少しずつ振りかけていく。滑り落ちる砂の指紋が意識の底へと渦を巻く。砂の描き出す迷路。僕の後ろ姿が砂の迷路に入り込んでいく。砂が銀河の無数の星屑になる。無限の宇宙。無限の時間。銀河の砂時計がにサラサラと永遠へむかって砂の粒子を落とす。
 遠く海と空とが溶け合って見える。海の彼方から打ち寄せる波の音も聞こえてきた。耳鳴りのように波が轟き、この身の内側を濡らす。波の花が音をたてて砕ける。波音はさながら竹林を通り抜ける風の葉擦れにも似て。船上の長旅、風に漂う波枕に見る夢ははかなく霞ゆく。この世に現れては消える人の命───それは遠く波間に見え隠れする浮き輪に過ぎない。
 波にひたした手の甲にはりつく砂を、海風が払い落す。波が届かず乾いた砂はサラサラと軽く、波が届いて濡れた砂はじっとり重い。海鳥たちの羽ばたきや鳴き声がほんのり白っぽく感じられる。飛翔するその姿が砂浜に黒い血の影を落としては、瞬時にその色を流し去る。
 潮の香りもしてきた。流れ動く砂の模様が、波の描く模様と重なる。波音が砂丘に届き砂粒一つ一つを濡らしていく。風紋は波の模様。その風紋が崩れ、色がぬけていく。まわる縄跳びのロープが描く軌跡、そのたわんだ曲線を、波の指がなぞっている。
 全ての人生はほんの数行で終わる。それらは押し寄せては返す白波の一つ一つ。魂は海水の滴の一粒(ひとつぶ)一粒。永遠に生と死を繰り返す。ある魂は空に蒸発し、ある魂は砂に浸み込み‥‥‥そうやってどこまでも循環していく。
 長くのびた波が墓石を洗い続ける。何万年もの歳月をかけ、波の穂先が脳壁を侵食していく。潮風に吹かれ続けた骨が(もろ)くも崩れ去り、いつか浜の砂と見分けがつかなくなるまで。
 それは誰の墓碑? そこには死後の果てしない時間が横たわる。流木のごとく海辺に打ち上げられた遺骸(むくろ)は誰のもの? 君の? 僕の? 
 揺れる砂の流れは次第に裸体をかたどっていく。見つめれば見つめるほどそんなふうに思えてくる。磁気嵐、磁場の変化にともなってうねる砂鉄。ナイロン製チューブに熱湯を注ぎかけるのにも似た、柔軟で卑猥なその動き。水面を舐めるように滑らかで、破壊的衝動だに誘いかねないその動き。
 砂の裸体を踏みしめて歩く。足裏にはりつく砂の感触。踏みしめる一歩一歩が砂に埋もれて重い。踏みしめるごとに裸体が崩れていく。遠き日の、さざ波に磯遊びしている幼い自分の姿が一瞬よぎる。潮風が(かお)る。クラゲがちぎれた耳朶のように砂浜に貼りついて死んでいる。そんな光景が今ここにある。
 母もいる。見守ってくれている。子供がせっせと砂浜で砂の城をつくるのは、後からそれを破壊するのがこたえられないからだという。僕も砂のお家を崩したんだろうか。母と一緒につくった砂の家。大切な思い出だ。ありがとう、お母さん。崩すことなんてできるはずがない。
 指の間からすべり落ちていく砂。跡形もなく消え去る形。その形にかぶさるように砂塵に埋もれていく僕の姿が見えてきた。思春期の僕。君は高揚しているのか? 何に? 分からない。そう言えば乾燥した女の肌を愛撫するときもこんな音がしたんじゃなかったろうか。妄想の中でただ無自覚にそれを聞いていた。感性の世界でつくりあげただけのその音を。

 ホワイトノイズが途切れる。静寂の中、感じるのは自分の鼓動だけだ。鼓動だけが時間を刻んでいる。鼓動は内側でなく、外側から聞こえてくるような気がする。
 頭の中にはどういう訳か、ゼンマイ仕掛けの青い手が鋏を持って白いフィルムに切り込みを入れている動画が何度も繰り返し再生されている。
 箱村の声がした。何をしゃべっているんだ、ぜんぜん分かんないぞ。声が霞みのように模糊としていて捉えどころがない。
 (つか)んでも掴んでも、するりと手から滑り落ちてしまう水溶液のなかの手袋。手袋は宙を舞い、そのまま女の胸元の暗闇に逃げ込んだと思うや、透明になって消失してしまう。
 輪郭のない卑猥なイメージが、声の曖昧さに重なって次々呼び起こされる。焦燥と欲望が意識の底に降り積もる。僕は暗闇のなかに顔を押し込み、なんとかその外形を見とどけてやろうと思うのだが、乳白色のネバつく液体が次から次へと視界を流し出してしまう。眼球が溶けていくかのようだ。
‥‥‥‥なんだ、なんだ、これは。心の淵源にリビドーがたぎっているのか? リビドーが液体になってダラダラと上から垂れ落ちてくるのか。
「なかなかの飲みっぷりじゃねえか。もう一、二杯飲みたくなったろう。いいか、机の下さぐってみろ。瓶が2,3本あったろう。出血大サービスだ。飲みたいだけ飲めよ。ぶっ飛んだのが出てくんぞ。さあて今日は楽しもうぜ。ビンビンになろうぜ、瓶だけにな。ビンビンバンバンだ。あ、いけね。それビリーバンバンだった。こんなの古すぎて知らねえか。俺も久方ぶりにやりたくなったぞ。お~い、カアちゃん、待ってろよ~」
 ビンだけにビンビンになった? それ、うまいこと言ったつもりなんだろうか。相も変わらず、浮かれて下らないことをたれ流している。ギャグも完全に崩壊だ。箱村も夢茶モドキですでに出来上がっているらしい。たいした千両役者ぶりだ。滑ろうが滑るまいが、言ったもの勝ちの暴走状態である。
「あのう‥‥‥ちょっと」
 マイクを通して話かける。顎の動きが重い。生まれて初めてモニター越しに人と話した時のような、妙な違和感がある。
「話はこれがすんでからだ」
 音声が切れた。箱村は、にべも無い。手首に巻きついた糸のように不安にじわじわと締めつけられていく。不安は少しずつ大きくなっていった。下降するエレベーターがその黒い底を広げながら、自分に向かって落ちてくる───そんな気分だ。
 不安な気持ちでいること、しばし。急に音声を切ったことに後ろ髪をひかれたのか、再び箱村の声。
「まずは楽しめよ。酒を飲んだら思い切り酔えよ、それが人生を目一杯たのしむコツだ。それ、酒とはちょいと違うけどな、まあ似たようなもんだ。そいからヘッドフォンはこのまま外しちゃダメだよ。幻覚が出てきたらマイクに入れるの忘れんな。なあに、いつもと同じだ。アフレコみたいに、映像が先にあって言葉がそれについていく。めちゃくちゃな日本語でいいぞ、ともかくしゃべれ、しゃべりぬけ」
 麻布(あさぬの)を破くような音がしたかと思うや、そこで声のフィルムはぷつりと切れてしまう。眉間が重く、そこに底無しの渦巻きが落ち込んでいる。舌先が熱い。目が痛くて指の腹で抑えると、涙がじっとり睫毛を濡らした。瞼がぶよついている。視界の裏側が赤く燃えている。眼球が熱せられたガラス棒のように引き伸ばされていく。
 ふいに目の裏に、風俗店の床に金属バットを叩きつけた、あのヤンキーやくざの映像が浮かんだ。短いカットが何の前触(まえぶ)れもなく、意識に割り込んでくる。振り下ろされる金属バットの先端がゆっくりと放物線を描いていく。ストップモーション。映像が静止した。
 巻き戻される映像。床に叩きつけられたはずのバッドが、今度は頭上から僕に向かって振り下ろされた。近づいてくる、近づいてくる。危ない、よけなきゃ! バットは今、水中で屈折して折れ曲がった鉄パイプに見える。薬品に長らく浸かって湾曲した褐色の骨に見える。そして僕をのぞき込むアイツの表情────なんだ、コイツ、まだガキじゃねえか。おい、震えてんのかよ、情けねえ。
 頭痛がする。言葉と映像が‥‥‥‥言葉と映像が滾々(こんこん)と湧き出てくる。何のつながりもなく言葉と映像が自在に動き出す。自動記述さながらに脈絡なく次々と流れては消え去る。僕はその映像と言葉の海を泳ぐ。

 突然どこからともなく斧が振り下ろされた。なぜだか分からない。金属バットが斧にかわっている。近づいてくる、近づいてくる。危ない、よけなきゃ!
 僕の首が切断された。無数のガラス扉が開き、その入り組んだ視界に、過去の様々な出来事を映しながら、頭が転がり落ちていく。青いガラスの切り口が思い出の靴を裂き、僕の記憶の足跡を消した。未来はガラス扉に付着する水滴のように透きとおっているはずだったのに。
 水滴の中には僕の倒れた死体が浮かんでいる。再び斧が現れて僕の首をはねる。再び過去の日々に向かって転がり映る僕の頭‥‥‥‥‥再び、再び、そして再び‥‥‥‥僕は永遠に死に続け、決して(よみがえ)ることはない。

‥‥‥‥なんとも()な感じがする。どうしてこんな猟奇的な映像と想念が湧いて出てくるのだ。はてさて、僕に自殺願望などないはずだが。これらは一体どこからやってくるのだろう。僕の頭のなか以外に考えようがない。どうも変だな、僕にないものが出てくるとは。けどいくら変でも出てくるものは出てくる。受け入れる他はない。
 はたと気づいた。さっきから手の平に不快な感触がある。汗か? 違う。ニワトリの首をひねる手ざわり‥‥‥待てよ、これは以前どこかで想起したことがある場面だ。そうだ、あの公園、お手製の本をベンチに積み上げて茫然自失だったあの時。あの蛇口のぬらつく質感とともにそれはやって来た。もとよりそんな体験はおろか、そういう現場に居合わせたことすらないのに。
 そうだった、胸が苦しくなって一瞬たしかこう思った。
───その時ニワトリの目にはニワトリのあの世が見えたのだろうか、と。
 僕は知っている。過去の日々に向かって転がり続ける僕の頭‥‥‥‥何度も、何度も、そして何度も。永遠に死に続けても、僕には決して黄泉(よみ)の国は見えてこない。

 溜息をつき、机の下から瓶を取り出した。
 グラスの帽子をかぶった瓶の中には、ワインと見紛(みまが)うばかりの赤紫の液体が入っている。瓶に血液がたっぷり満たされ、その量感を手の平につたえているかのようだ。瓢箪(ひょうたん)状に引き伸ばされた僕の顔が瓶に反射して映っている。瓶は冷えていた。ついさっきまで何処かに冷蔵されていたらしく、表面に雫がたれている。
 意識がどんどん濾過(ろか)されていくのを感じる。なぜかワインの波が足許を洗っているイメージが頭にはりついて離れない。無意識にその映像が湧き上がってくる。
‥‥‥‥無意識を意識しようとしたって無駄だな。意識がないから無意識なんだ。無意識は思考しない。
 そのまま瓶に映った顔をぼんやりと眺めていたら、次は何やらこれとよく似た想い出の一場面が浮かんできた。想い出といっても、一体いつの出来事なのか憶えていない。我が身に起こるはずのない出来事を、実際に過去、体験したように感じているのならデジャヴだろう。それなら脳内のどこかで情報処理の経路が、ただ混線しているだけの話だ。だがこれは違う。自分の想い出の外側から湧き上がってくるような情景だ。あえて言うなら、過去ではなく未来からそっと訪れてきた情景。
 
 雨の降る夜、街を見下ろそうと外を眺めると、窓ガラスをつたう雫に重なって映し出された僕の顔がある。その顔の憂いにみちた表情は、いま手元にある瓶に映しだされた表情とそっくりだ。ここはどこだろう。おそらくホテルの一室か。僕は今、ホテルの窓から夜の都会を見下ろしている。夜空には星屑が、眼下には街のパノラマがモザイク状にどこまでも広がっている。
 窓ガラスは暗い。黒曜石でできている鏡のようだ。傾いだ影が夜に流れ込む。映しだされた僕の背後には、無数の都会の灯火が散りばめられている。灯火が雨に(にじ)んで、コンサート大会場に揺れる無数のペンライトに見える。叩けば簡単に割れてしまいそうな、このガラス質の鏡。僕の顔が割れた破片とともに分解されて、スローモーションで周囲にはじけ飛ぶ。
 ガラスに映った僕のちょうど右肩の付け根あたり、ポッと炎の花弁が開く。デュポンのライターのキーンと脳に響く開閉音。音の余韻が尾を引くなか、炎がゆらゆら揺れておぼろげに笑っているように見える。青白い炎は立った兎の耳の形。(こご)えて震える炎の動き。炎に重なって女の姿が部屋の奥に‥‥‥‥。
 火のついたタバコの先が女の唇まで軌跡を描く。それでも顔全体は暗くて見えない。ライターが点いた一瞬、オレンジ色の仄かな明かりが女の顔を照らしたかに見えたが、それもたちまちにして闇に消え去り、今は跡形もない。タバコの先端が動いた残像だけが、網膜の奥にその赤いラインを引いているのみだ。
 まろやかな肩のカーブと骨の浮き出た首の周囲。そして首から下に流れるサラサラとした青いドレス。その光沢からしてサテン生地だろうか。胸から下は見えない。胸の膨らみから下半身にかけて、まるで何も存在していないかのように影の窪みが全てを闇の中にえぐり抜いている。
 窓枠が額縁になり、窓ガラスが一枚の絵画になる。下半分が黒い絵の具で塗りつぶされている絵画。絵画には、夢の中で一度見たことがあるような不思議な既視感がある。夢の中? もしかして今がその夢の中ではないのか?
 絵画から女が浮き出てきた。ゆっくりこちらに近づいてくる。時間が重い。髪が長いのか短いのか分からない。イヤリングが揺れている。ギラギラと銀色の光に震える耳飾り。光の拡散で、それが円いのやら四角いのやら、十字なのやら三角なのやら、全く持って見分けられない。確かに分かるのは女の影が近づいて来るということだけだ
「飲みましょう。あなたのために、あたしのために‥‥‥ワインの波と、海に沈みゆく夕陽と、あたしたちのために‥‥‥‥」
 その声はずっと遠くの場所から聞こえてくるような気がする。鈴を転がすような澄んだ声だ。女は言い終えると、ワインの入ったグラスを手渡した。ワインの底に薄っすらと光が届いている。
「カナちゃん? カナちゃんなの? 忘れられなっくてさあ。やっと逢えた。さがしたんだよ」
 グラスに満たされているワインの揺れる表面に僕の顔が映っている。夜のモナリザもその暗い微笑みをグラスの波に漂わせる。
 グラスの底に顔があってもいいじゃないか───岡本太郎の例のCMのフレーズが何度も何度も繰り返し頭のなかに反響している。幻覚の中のさらに一段深いところに、まったく異質な幻覚が現れては流れ去る。グラスの水紋に重なって、昔に見たあのCM映像が連続再生されている。電源を切っても、網膜に焼き付いて消えずに残る岡本太郎のその表情。
 しばらくして僕の耳や、目や、鼻や、口からゆるやかに血が流れ出し、揺れるワインの表面に落ちた。グラスから赤い液体があふれて、床にしたたる。
 次の瞬間、女が僕の肩をつかみ、力をいれた。突然の出来事に総毛立つ。マニキュアの爪が肌を破って、肉に食い込んできた。赤い噴水がふき上がる。静脈が浮き出たその細くて白い手首に、僕の血が降りかかる。
「これアタシの血よ。飲んで、飲んで、お願い。アタシのために飲んで」
 恐怖にすくみあがり、思わず叫んでいる。イヤダ! イヤダ! 絶対ニイヤダ! 消エテクレ、頼ムカラ消エテクレ!
 体を大きく左右にゆすり、女の手を振りほどこうとするが、それは万力さながら離れない。そのとき一瞬、顔が見えた。
‥‥‥‥この女はカナちゃんじゃない! 誰だ? 見覚えがある。あの女‥‥‥駅で見かけたあの女‥‥‥
 やがて女の腕がマネキンのようにポコリと関節から抜けた。同時に体が前にのめり、頭から窓ガラスを割ると、僕は肩に女の爪を食い込ませたまま体ごと都会の奈落に転落していく。
 メリーゴーランドが回る。意識が木馬にまたがっている。底へ‥‥‥暗黒のみなぎる深淵へ‥‥‥‥明滅する都会の灯りを反射する、粉々に割れたガラスの破片。そして目のくらむ久遠の宇宙とともに‥‥‥‥。

 ん? いま見ていたのは? 今、自分の意識はどこに飛んでいた? これはいったい何のオカルト騒ぎか。暑くもないのに体中が汗でぐっしょりだ。幻覚が気づかぬうちに入り込んでくる。ちゃんとマイクに録音しただろうか。それすら無自覚なままで覚えていない。
 とみに不安が襲ってくる。夢の中で自宅に帰ろうとしている。だが歩けども歩けども辿りつけない。辿りついたと思ったら違っている。どの灯りもどの灯りも自宅の灯りに思える。そんな底知れぬ不安が。
 瓶の液体をグラスに半分ほど注ぐ。天井の丸型照明がそこに落ちて、レモンのように浮かんで揺れる。自動的に手がそうした。行動の一つ一つを意識的にそうしているのか、無意識がそうさせているのか区別できない。感覚が異常に研ぎ澄まされている一方で、頭の中の秩序は崩壊している。
 注いだグラスを目におしあててみた。目の裏側の沸き立つ炎が冷却していく。瞼の裏の水晶体、その奥に網状に脳までつながる視神経や血管が、少しずつ凍結していく視覚イメージが現れる。やがてこうしているうちに、神経の赤い糸の一つがぷつりと切れて僕は失明してしまうのだろうか‥‥‥‥といってみたところで、いざ目を開けてみれば、まぼろしの世界は一瞬にしてリセットされ、視界は元のままだ。
 眉間は相変わらず重い。両足が地の果てに沈んでいく。頭のなかに覚めている部分と眠っている部分がある。冷凍庫のなかでストーブに当たっているとでもいった、あやふやな体感だ。疲労感を和らげようと目を閉じてみるが、閉じればまた恐ろしい情景が現れてきそうで、すぐ目を開いてしまう。
 普段アルコールに縁遠い僕は、ワインというものを生まれてから一度も飲んだことがない。これは色だけ見るかぎり赤ワインだ。これが本物のワインであろうと幻覚をさらに誘発する厄介な代物であろうと、もともとワインの味を知らないのだから同じことだ。もし正真正銘のワインなら、飲めばいくらか気が休まってくれるかもしれない。
 グラスにつがれた葡萄酒の揺れる表面に顔が映っていた。表面の波が静まるのを待つこと数秒。ようやく静まり顔をながめると、奇妙なことにそれは僕の顔ではなかった。どうやら女の顔らしい。今しがた幻覚に出てきた女だろうか。似ている。たしかにあの女‥‥‥あの女の顔だ。駅で見かけた女。僕をじっと凝視していた女。
 この部屋の外、廊下に足音がする。足音はたった今、通り過ぎた。女の体が引きずられている。女は動かない。死んでいるのか。引きずっているお前は誰だ。誰なんだ。
 あの女? 女が自分の死体を引きずって歩いている。
 そんな馬鹿な。幻覚に惑わされるな。どうして女がここにいる。いるのは箱村だけだろう。ボックスのガラス窓にビル街の景色が青く映り込んだように、ボックスの外にあの女がいて、(のぞ)いているとでも言うのか。
 思わず周囲を見回した。だが、ここは狭い部屋。女が入ってくれば気づくはずだ。しかもボックスの中、当然女の姿など見当たるはずもない。
 もう一度しっかりグラス面を見る。僕の顔だ。幻視だったらしい。確かに僕の瞳が表面の赤色に揺らいで映っている。まるで血の池に目玉が浮かんでいるかのようだ。一気に口腔に流し込む。妙な匂いだし、味も変だ。なんとも薄気味悪い後味である。実際に目玉を液体といっしょに飲みほしてしまったのではないかと思わせかねないほどだ。
 もともとこれがワインというものなのだろうか。そうならこんなマズいもの、よくみんな平気で飲んで歓んでるな。 だが今さら吐き出すわけにもいかず、ひと息で飲みこんでしまう。飲みこむ音がヘッドフォーンのイヤパッドに遮られて耳の奥に響いた。

 赤く燃える球が喉を通って胃のなかに落ちる。食道の粘膜を傷つけながら落ちる。蠢く糸ミミズを誤って飲みこんでしまったような異物感である。
 僕は本を駅で配っていたときに見た女のことを考えている。タコ女と心の中で罵ったあの美人女だ。おかしい。なぜだろう。考えていることが次から次へと映像に変わっていくぞ。もしかしたら今、眠っているのか? 眠って夢を見ているのか? 目覚めもせず眠りもせず、意識が宙ぶらりんのままボックス内を漂っている。
 岡本太郎のCM動画再生がようやく消えかかると、ダブって今度は駅の女の動画がうつし出される。‥‥‥‥雑踏の流れに一つの静止した人影がこちらを凝視している。はじめボヤッとしていた映像が次第に解像度を増してきた。
 生活感のない女。天使の美しさというよりは、悪魔の美しさ。微笑みかけたと思えば、次には棘とげしい眼差しを残して去っていく。やって来てはすぐ消える月下美人の女‥‥‥‥動画がその部分だけ切り取られ何度も繰り返し映し出される。音はしない。静謐(せいひつ)そのもの。サイレント映画を遠くから眺めているかのようだ。最近目にした最も美しい女。残念ながらカナちゃんは二番目だ。
 この女もカナちゃんのように頭を洗ってくれるのだろうか。いくら頼み込もうが無理だな。カナちゃんより美人だが、カナちゃんより冷たい。それなのにこの女が記憶の掲示板に虫ピンでとめられて、頭からはなれないのは何故なのだ。
 ヘッドフォーンに周期的に短音が流れ出した。夢の中に生命の雫が垂れ落ちる。水面に落ちる雫の音。軒先からしたたる雨だれ。うるんだ月の涙がしたたり落ちる。少年の脚に刺さるガラスの破片のように感覚が研ぎ澄まされていくのが分かる。むかし「雨音はショパンの調べ」という歌謡曲があったな。あれは誰が歌ってたんだっけ。
 音の雫が規則正しく垂れ落ち、闇の中に響きわたる。雫が聞こえると同時に見える。凍りついた三日月の先から雫がしたたり、目の中に落ちてくる。雪解けと氷柱(つらら)の雫。いま雫の一粒のなかに青空が広がっているのが見えた。
 雫は垂れてから水面の落ちるまで、幾層もの空気のグラデーションの中を通る。濃淡の段階的変化を映しながら、ゆっくりと水面に落ちる。雫が水の輪に変じ、放射状に広がっていく。同心円を描く透明な指、時の揺らぎを感じさせる。切株(きりかぶ)の色がぬけて、透きとおって見えた。透明な年輪が長い年月を経てそこにある。次第に時間の観念が希薄化していく。硬貨のように時間が酸化していくのが分かる。
 耳の奥深く、鼓膜を一律の間隔で叩く音。一音一音ごとに平衡感覚が崩れてきた。理性が頭蓋から溶け出していく。心電図モニターが波形を描くように、その規則正しい音の繰り返しが視覚化されていく。
 あの女のことが気にかかる。僕は垂れては(はじ)ける涙の一雫(ひとしずく)の中に、そっと女の姿を泳がせてみる。手首から滴り落ちる血涙(けつるい)をあの女の瞳の中にも流したい。
 意識の雨漏り。うるんだ月の涙。長い夜、病院の一室でベッド横たわり、点滴の雫が一滴一滴落ちるのを目で追っている僕がいる。心電図の音だけが響く一室に僕がいる。今ここにいる。意識の外側から自分をのぞき込んでいるかのようだ。握ったレモン、その果汁をしぼり出すように心臓から雫がしたたる。振り子時計が刻む時の雫。知覚のすべてがその音に凝集していく。発泡スチロールでできた脳髄。硫酸の雫が垂らされ、その脳髄に焦げ茶に変色した穴が空いていく。
 雫の音に重なって、カメラがぐいーっと被写体に寄っていく。駅で見た女の顔が次第に大きくなってきた。頭痛がする。毛穴から脳みそが流れ出てしまいそうだ。女の美しい顔が切り抜かれた写真そのままに、液化した脳みそに浮かんでいる。それにしても、やけに臨場感があるのはどうしてか。背景に駅前の揺らぐ人影と喧騒が絡む。モノクロームに沈んだ街。
 あれは何だ? 今度はカメラの引きだ。グーッと引くと僕がいた。僕が僕をカメラで撮っているのか? ロングショット。ダブダブのナッパ服を着込み、やや猫背ぎみの僕。時刻が気になるのか、さっきから腕時計に何度も目をやっている。
 おや? 女にむかって走り出したぞ。カメラの目線が滑かに追う。水面に映る自分の姿を追っているかのようだ。スローモーションで遠ざかる僕の背中。そこに急に大写しにされた女の顔がオーバーラップする。三日月の端に引っかかっているような遠慮がちな微笑。鮮烈な色を帯びたその唇。死の淵だに覗かせかねないその色。崩壊するためにだけ存在する原色。鮮烈な赤が熱く燃えて、僕を受け入れようと待っている。近づくほどに女の顔が大きくなってくる。連写するシャッター音。間断なく何枚も脳に刻み込まれ続けるその像。気づくと女を抱きしめていた。

 ドウシテ、ソンナニ美シインダ。ドウシテソンナニ‥‥‥ドウシテ‥‥‥
 肩があらわなオフショルダーのワンピース。胸元から中がのぞく。女の肌は白く滑らかな陶磁器の質感を想わせる。憑かれたように膨らみに触れようとする僕。触れた途端、乳房がとぐろを巻く白蛇に変わった。思わず触れた手を放す。すると蛇の頭から、だしぬけに白い液体が噴出してきて、顔にひっかかった。かかるや否や、乳房がゴム風船のようにシュウっとしぼんでしまう。動転する僕。ひゃあと声をあげ、後ずさりしている。
 見ると、博多人形のように透きとおった女の肌が、ポロポロと剥げ落ちているではないか。雲母でできた石像、薄くはがれるその表面‥‥‥剥がれた内側に赤黒い腐肉がむきだしになる。急に女の口が耳まで裂けて喉元に噛みついてきた。どこからともなく悲鳴が聞こえ、それが長く尾をひきながら僕の頭蓋骨に朱色のヒビを入れていく。 
 闇。
 ボックス内の電気が消えた。呼吸が荒く、いくぶん苦しい。闇が真綿でじわりと絞めあげてくる。肺が少しずつ崩れ去っていく絵が浮かぶ。乾燥しきってミイラ化した蜂の巣が地面に落ちている。その蜂の巣をじわじわ踏み潰していくあの異様な感触。そんな感触を今、自分の胸の奥に感じる。
 闇は(ほの)かに白い。眼の裏側に打ち寄せる波の余韻がある。闇が寄せては返す。闇が揺らいでいる。闇が流れ動く。やがて意識が海底へと沈んでいくのに気づく。太陽の光が届かない(くら)みゆく深淵へ。トンネルをぬけても続く夜の空の漆黒。足音が宇宙の隅々にまで届きそうな静寂。闇が夜の底を冷やす。僕は海のそこに眠る深海魚になる。時間が凍り、腕時計の針も静止してしまったのか。
 だが意識を研ぎ澄ますと、真っ暗になっても、音の雫だけは規則的な周期で闇に垂れ落ちているのが分かった。脈打つ時の鼓動。時間は停止してなかった。まだ心臓は動いている。止まった時計の電池を入れ替えるまでもなさそうだ。
 血にまみれた裸足のまま、炎天下の砂漠を歩いている自分がいる。頭が重い。頭骨の裏側に白い膜がはっている。膜がどんどん厚くなっていく。脂肪の層を想わせるほどのその量感が、いよいよ重く圧しかかってくる。観念の芯のようなものが脳の中心部でぐらぐら揺れ出す。幻覚で見た女の声が鈴の音に変じ、脳壁にぶつかっては、言葉の金粉を散らす。言葉の波が次第におし寄せてくる気配がする。
 眼球も重い。眼球が隕石になってしまったかのようだ。隕石になって暗い下界に燃え尽きながら落下していく。宙に浮かんでその隕石を見下ろしているのは誰? もう一人の僕? それとも‥‥‥‥
 肋骨の間でメトロノームが鳴っている。それがヘッドフォンを通じて耳に響き渡る。心臓の音だろうか。いやいや、これは箱村がさっきから流し続けている電流の音だったじゃないか。ほら、こんなに規則的だろう。透きとおった雫の音さ。心臓にポタリポタリと落ちる透明の雫。幻聴が実際の音の中に紛れ込んでくる。夢と現実が研ぎ澄まされた感覚の一点で混淆する。
 箱村の声が聞こえてきた。普段の声と違う。無機質な声。生気をぬきとられた声。表情を忘れた能面のように平板な声だ。既に彼も自分が自分でない状態になっている。向こうは向こうで、かなりやっちゃってるな。動画の再生速度を目いっぱい遅くしたときの、あの鈍重な声のトーン。ヘッドフォンから声が信じられないほどゆっくり流れ込んでくる。耳から脳へと流れ込んでくる。観念の角がその流れに徐々に削りとられていく。谷底へ墜落していく自分の背中、どんどん小さくなっていくその背中を見ているかのような目眩。
 背中を見下ろしているのは誰? もう一人の僕? それとも‥‥‥‥神?
 思考の断片が崩れ去り、すべすべとした銀幕が現れる。牛乳瓶をあたためると口に白い薄膜が張ることがある。そんなイメージで、頭蓋骨の天井構造に銀幕が張られていくような実感がある。
 箱村の声がゆっくり、ゆっくり流れてくる。それは思考によって濾過(ろか)されることなく、直接感覚に訴えながら銀幕に幻視の像を映しだす。総天然色映画さながらの非現実的世界。もはやこの不自然さに抗う気力すらもない。理性はとっくに風化している。脳の深海を自由に泳ぎ回る白魚のように、見たものを見たままに受け取るだけだ。
 箱村はゆっくり間を取って話し続ける。僕は異界との境目をふらつきながら歩んでいる。本当の僕は何処へ行った。行方不明になった自分。探さないといけない。フェードイン。画像が明るく浮かび上がる。

───索莫(さくばく)たる大地の向こうに赤い屋根の家が見える。

 ソラ、見エテキタジャナイカ。箱村ガ話ス通リニ。今、向コウニ、ボンヤリト赤イ屋根モ見エテキタジャナイカ。

───索莫たる大地の向こうに赤い屋根の家が見える。俺はその家に帰らねばならない。

 ソウダ、ソウデスネ。僕ハ、ソノ赤イ屋根ノ家ニ帰ラナケレバイケナイ。箱村サン、見エマスヨ。ホントニ見エル。箱村サンノ言ウ通リ帰リマス。帰ラナケレバ、イケナインダ。

 箱村はなおも話し続けている。

───その家に帰らねばならない。俺は青い果実を頬ばると、感覚と動悸の渦の中に溺れるカタツムリとなって、眼窩の窪地から虚空に眼玉を飛ばす。

 出て来る言葉が不自然で、意味がつかめない。だが映像だけは、それとは無関係に銀幕に流れ続ける。映像は丸天井に映る巨人の顔のように(ゆが)んでいる。なんと僕は、今ここで箱村と全く同じ映像を見ているらしいのだ。確かにそれが分かる。手に取るように分かる。

───見ているのか。意識のはらわたが脈打つ心臓に糸のように絡みついてくるこの情景を。爪と肉のあいだに流れ込んでくる葡萄酒の夢の向こうに、赤い屋根の家が見える。その家に帰らねばならない。裸体の丘を下ると、その家の白く干からびた扉が見えた。家の庭には人がいないのに夕暮れに揺れ続けるブランコがある。俺は静かに骸骨のノブをまわした。

 箱村の声が途切れた。透明な音の雫だけが、闇にとり残され響いている。心に麻酔を打たれてしまったのか。曖昧な意識、頭の内側に白い膜をはられたかのように朦朧としている。
 不可解なことに、箱村の声が途切れた後も銀幕には映像が流れ続けている。脳を縦に分断するこの銀幕。箱村はもう話していない。それではこの映像はどこから来るのか。僕自身からか? 僕は意図的にこんな映像なんか浮かべようとしてないぞ。何より今までこんな情景に接した経験はないはずだ。ああ、自分が自分でなくなっていく‥‥‥‥僕の過去にないものを創りだしている、その正体は何なのだ?

 言葉が‥‥‥‥言葉が湧き出てくる。何のつながりもない言葉が自在に動き出す。ああ、頭痛がする。言葉が息つく間もなく(あふ)れ出す‥‥‥言葉があてどもなく想像の荒野をさまよう‥‥‥。

 僕は今、あらわれる映像の成り行きのどおり、言葉がひとりでに湧き出て来るのを感じている。脳漿(のうしょう)から湧き上がる言葉、箱村によって生み出された僕の言葉───いや、もう二人にはそんな境界はない。言葉が溶け合っている。言葉によって引き出された言葉。言葉の塔が頭蓋の天井を打ち破りそうだ。感覚が割れたガラスの先端のように研ぎ澄まされている。すでにゾーンに入っているのか。気づくと魂がぬかれたようにマイクに語り始めていた。

───扉の内側には顔があった。顔は口からも、目からも、鼻からも血を噴き出している。それはもう一人の僕の姿‥‥‥‥過去の姿か、未来の姿か。それとも、もしかして今この時の僕自身か。海辺の静寂(しじま)の果てに笑っているあの人がいる。彼はベッドの上に横たわっている。誰だ? 僕か? 僕は本当に僕なのか。僕は本当に僕でいいのか。ブランコはまだ揺れている。この家で僕は、赤い手毬をかかえた少女の帰りを待つ。猫の目をした少女、かつてこの家で暮らしていたはず‥‥‥‥。

 少女が胸に抱いていたのは手毬ではなかった。毛糸玉だった。毛糸玉が地面に落ちて、こちらに転がって来る。少女から僕の足許に一本の毛糸の赤い線が引かれた。僕は毛糸の端を小指に巻きつけた。庭のブランコの揺れはまだ止まらない。
 ふと気づくと、小部屋にいた。小部屋で安楽椅子が揺れている。ブランコの揺れが、安楽椅子の揺れと重なって見える。毛糸のもう一方の端が安楽椅子の足に結ばれていた。音はしていない。無音の世界にしばらく佇んだあと、安楽椅子に向かって歩いていく。
 すると三角頭巾の男がどこからともなく現れ、前をふさいだ。男は目をむき何やら口をパクパクさせている。必死で何かを伝えようとしてるようだ。だが何も聞こえない。制止してるのか、何か別のことなのか。分からない、さっぱりだ。
 いや待て、男は何かを指してるぞ。左方向‥‥‥何だ? 扉だ。部屋の左側にある扉、ちょっと開いてるぞ。闇がのぞいている。何だ? 扉の先になにがあるというのかな。そっと扉を開き、なかに入ると‥‥‥

 とつぜん意識が飛んだ。いま僕は足の指の間に血をにじませて、透明なフロアーの上に立っている。小指にはまだ赤い毛糸が巻きついていて、その先はフロアーのずっと奥までのびている。透明なフロアーを通して真下には、筋骨たくましい外国人らしき男が、上半身裸で僕を見上げていた。男は笑みを浮かべながらアイ・ラブ・ユーと言った。
 前を向く。壁だ。壁には鏡がかかっている。鏡に自分を映してみると、そこには女の顔があった。濃いメイクアップがほどこされた白い顔。僕はポケットから化粧品を取り出し、眼の周囲に真っ赤なアイラインをひき、唇に緑色のリップスティックを塗った。
 鏡の中、僕の背後に螺旋階段が見える。それは深く深く闇の底に続いていて、下方の果てから何やらランプの灯りのようなものが上ってくるのが微かに見える。急に自分から何か丸い物が落ちた。落ちたのはあの少女の手毬か? 転がり落ちていく、転がり落ちていく。ランプの灯りにむかって転がり落ちていく‥‥‥‥目を凝らすと手毬ではなかった。それは僕の首だった。僕はここで自分の首が転がり落ちていくのを見下ろしている。

 あの少女が再び現れた。少女はやはり手毬をかかえている。よく見ると手毬は切った髪の毛の束でできている。少女の長い髪が、あたかも水中にあるかのように、風になびいて宙にゆっくりと流れる。はるか彼方から遠く時間をさかのぼり、その情景がここにありありと見える。神の予定さるべき回転軸が、赤い手毬の糸を巻きとる。今、手毬が少女の指先から転がり落ち、フロアーに崩れた。それは青白く柔らかい僕の脳味噌。
                        
 また意識が飛んだ。あの場面に巻き戻されている。そう、あの場面。壁にかかったあの鏡。そのなかに眼の周囲に真っ赤なアイラインをひき、唇に緑色のリップスティックを塗った僕の顔がある。鏡の中、顔の背後に再び螺旋階段が見える。今度は上にそれが果てしなくのびている。竜巻状に空に吸い上げられていく金色の螺旋階段。その階段を純白のドレスを着て駆け上がっていく後ろ姿が見えた。妙に脚が白くて細い。駆け上がる脚の骨が次第に透きとおり、ガラスに変じて砕け散る様が二重映しに見える。
 突然階段が折れて、頭のうえに落ちてきた。急に視界が黒く霧散する。倒れた僕は純白ドレスを着ていた。あの後ろ姿は僕だったのか。もう一人の僕? これはどういうことだ。女になってしまったのか。ドレスが血に染まっている。なぜだ、どうして僕がこんな姿で今ここにいる。手を触れると後頭部が裂けていて、熟れすぎた梨のようにグチョグチョになっている。折れた階段の向こう側に男がいる。僕の姿を観察している。
 もう一人男がいる、僕と箱村以外に。お前は誰だ、誰なんだ!

(30)

 闇のなかに呼吸音がしている。目を閉じても開いても同じ闇であることに変わりない。鮫のパックリあいた口からのぞき込む深海の闇。鬱蒼としたジャングルの奥、(いま)だ眠っている闇。
 寝落ちして、どれぐらいの時間が経ったのだろう。まどろみの中、しばらく呼吸音と天井から雫が垂れ落ちてくるイメージとをダブらせていたが、まどろみが晴れていくにつれて雫の音はとうに消えていることが分かった。
 意識のワイパーが雨滴を拭き去った後も、呼吸の音は残っていて、近くから(のぞ)き込む誰かの息づかいを聞いているのではないかと一瞬ギクッとする。
 死者と生者が呼吸を合わせる。空耳か? だがすぐさま耳にヘッドフォンがあてがわれているのに気づくと、ようやくそれが自分の呼吸音であることを理解した。まだ夢現(ゆめうつつ)にいる。
 背中に毛布らしきものが掛けられていた。たぶん箱村が掛けてくれたのだろう。どうやらデスクに頭を伏せたまま眠り込んでしまったらしい。
 目の奥から疲労のどろりとした粘液があふれ出してきそうだ。目を開けてみたが、閉じた時と同じ闇がそこにあるだけだ。照明がないので視界ゼロ。ゲーテの臨終の言葉よろしく「もっと光を!」と格好をつけたいところだ。空気が角膜に触れ微かな痛みを感ずるや、すぐまた目を閉じてしまう。このまましばらく朦朧としていよう。
 しばらくして金属質の摩擦音。同時に、閉じた瞼の裏側にパンタグラフの火花がパチッと散ったかと想うや、闇の左隅が煌々と輝き出した。そこから影を貫くダイヤモンドの切り口が光芒の穂先となって、長ぼそく伸びてくる。ドアが開き、そこから外の光がひとすじ差し込んできたに違いない。暗い水底にでも届きそうなクリアな光の条。ハチの巣のように頭に穴が空き、そこに光が通っている絵が浮かぶ。
 薄目をあけてみた。寝覚めの直後であるためか、眼界をベールがおおい、あたかも海中にいるかのように思われた。光が世界を濡らしている。群青きわまる海の深奥。どれだけ手を伸ばしても届かない底。様々な色彩が青みを浴びて響きわたる。見上げると海面が(まだら)の光に揺らめいている。ねじ曲がった時間がそこにある。様々に光波が屈折し、粒子と化して砕け散るあの海のなかの世界。
 水中眼鏡をして白濁した海底をめざし、素潜りしている心持ちだ。水晶玉のなかに揺らぐ光と影をのぞきこんでいるかのような視界。どんよりと霞む海の底に鈍い輝きを放つ棒状の物体が見えてきた。そこにむかって僕の視線が(いかり)を下す。光が充分届かない海底のディープスポットに、煙のごとくその輪郭をくゆらせている影。金の延べ棒かな?‥‥‥‥だったらいいのに。まさかね。
 開かれたドアと、ドアの向こうにはじける光の束。そこに立っているのは箱村だ。アルミ箔でくるまれたような細長い体。それが次第に大きく、視界を縦に区切って近づいてくる。覚めやらぬ夢の底に靴音をくいこませながら。
「よお、お目覚めですかな」
 むっくりと立ち上がる。虚ろな目覚めだ。いまだ蝉の抜け殻状態である。目をこすると視界の靄はとれた。実際、低血圧症の朝はこたえる。
「ああ、おは、おははよう、ございましゅ」
 やれやれ舌の回りが、すこぶる悪い。脳の歯車に異物が入り込んだままだ。まともに動こうとしてくれない。
「馬鹿、もう昼過ぎだぞ。グッドモーニングじゃなくてグッドアフタヌーンだ。それにしてもよく寝るな。全人生の三分の一は眠るっていうのによ」
「どうしてこんなに寝れるのかな」
「そりゃ肉体的に疲れてるとか、“もう目覚めるのイヤ!”ってんならストレスを一杯かかえこんじゃってるとか。馬鹿(ばっか)ぁ、お前にストレスなんかあるわけないじゃないか。さしあたって飯でも食うか。おい、はよ顔洗って飯、食いにこうや」
「社長は‥‥‥」
「知らん」
「知らん?」
「朝は出て来たけど、気づいたらおらんだったよ。プイッと消えちまった。忍術だな、火遁水遁の術を使いやがった。忍者なら痩せろつうの! お前が寝てたんで、詰まんないと思ったんだろうな。あんな奴、ほっとけ。今は俺が就業規則だ。どうせどっかの婆さんの萎びたオッパイ、お触りに行ったんだろう、チンチンカモカモだな」
「こんな真っ昼間からですか? あの歳で‥‥‥‥若いなあ」
「社長にとっちゃあ、起きてる時はいつでもハッピーサンシャインさ。昼だろうが夜だろうが関係ないのよ。起きてれば夜でも昼。寝てれば昼でも夜。アイツにとっちゃあ、夜はネンネコ仔猫で、昼はカモカモ(かもめ)だ。たぶん昨日のズル休みも女がらみだろう。もし今ボケたら、周囲の女の子のお尻や胸を手当たり次第さわりまくる変態迷惑ジジイになってるだろうな。完全に動物になっちまってよぉ。死んだらきっと畜生道行きだぜ。それにな‥‥‥」
 全校朝礼、終わると思えばまだまだ続く校長先生の長話が始まった。このままエンドレスになってしまう前に、早ばやと赤井君が話の腰を折る。
「あんまり食べたくないんですが。まだ何も喉を通りそうもない」
「少食だな、いい若いモンが。そんなことだから背が伸びなかったんだぞ。さて、どうすっかなあ。じゃあ時間をずらして夕方、どっかシャレたとこで、ディナーなんてどうだ。もち金は俺がもつ」
「そんなに親切してもらっちゃうと‥‥‥‥」
「冷たいこと言うな。冬の便座みてえだぞ。暖房便座に取り換えろ。人生、楽しまなきゃな。ヒートアップしようぜ。気をつかうな。おもてなしは裏ありって訳じゃない。東京オリンピックじゃねえんだからよ。アッ、これちょっとギャグとしちゃ手垢がつき過ぎて時代遅れだな、許せ。いいからさ、下心は全くねえ。独りで食うのが嫌なだけだ。言ってみりゃ、お前は俺のお供だよ」
「お泊りさんだったから、昨日のオニギリもありますし」
「お前、アレ食う気なのか」
「はあ、まだ十分おいしそうです」
「確かに食品ロスはいけねぇけどな。だからって、しみったれたこと言うなよ。お前の心の状態、いま百分率はどうなってる? 円グラフにしてみろ。一番大きく占める感情はなんだ。遠慮だろう。気持ちはどういう按配(あんばい)になってるのかぁ? 脳ミソの栄養成分表示に注意しろ。なるほど遠慮も謙虚さも日本人の美徳だ。けど塩も砂糖も摂りすぎたら体に悪いぞ」
 箱村は話しながら次第にムキになってきたようだ。興奮するとやたら無駄な例えや比喩を絡ませたがるのがその証拠だ。だからこんなふうに話がしっちゃかめっちゃかになって、何を言ってるのか分からない。焦点がボケてくる。それにしてもこんな些細なことにムキになるとは。どこまで気のいいオッチャンなんだ。
「まぁまぁ熱くならないで。有り難く好意は頂戴します」
「コロナは収束しつつあるんだぞ。遠慮のアクリルパネルで間を仕切るなよ。心にまでマスクをかぶせる気か。な? 遮蔽幕(しゃへいまく)を挟むと周囲の人情の温かさまでさめてくぞ。くそ暑い日には冷房効果があるけどな。ともかく俺にまかしなさ〜〜い」
「箱村さんってそういうシャレた表現がドンドン出てきますね。ドンドンなに言ってるんだか分かんなくなってきますけど」
「天才だからな。集中豪雨のとき、マンホールを押し上げて水があふれだすように、言葉が湧いてくるのだわさ」
「普通、天才って自分のことを天才って言います?」
「誰も認めてそう言ってくれないから、自分で言うしかないじゃねえか」
「僕は認めますよ」
「お、そうなのかぁ? なんで?」
「だって努力のカケラもしてないから。頭ん中がゴミ屋敷になってて、掃き出さずにいられないっていうのかな。努力しなくても自然にはみ出てくる」
 箱村は短く咳払いをしてから、ボールを投げ返す。
「お、言うねえ。俺の言葉はゴミだっていうのか。ゴミやガラクタの一つ一つにもそれぞれ思い出が(ひも)づいてるんだぞ。俺だって努力ぐらいしてるさ」
「ほんと?」
「嘘ピョ~ン。だいたい何のための努力なんだ。自分を辛くする努力だったら意味ねぇじゃないか。人生を楽しくする努力だったら、もうそれは努力とは言わない」
「やっぱりな、努力嫌いは僕と一緒だ。箱村さんって、天才というのはちょっと言い過ぎだけど、生まれつきって部分は確かにありますね。二人ともいじけていないで、もっと自信をもって真骨頂(しんこっちょう)をバリバリ発揮しちゃいましょう」
「嬉しいこと、言ってくれるねぇ。ディナーおごってくれると知った途端にヨイショしだしたか。お前は俺を認めてくれた記念すべき第一号だよ」
 そう言いって箱村はほくそ笑む。
「じゃオニギリは冷凍して、明日と明後日にチンして食べることにします」
「そうか、お前らしいな。いいかげん食い飽きるんじゃねえのかぁ? コンビニ店長だったら、とっくに廃棄してるだろうによ」
 箱村はやおら上着の胸ポケットからスマホを取り出すと、どこかに電話をしている。
「おい、俺だ。今日の晩、空いてるか。どっかのレストランで飯、食わないか。久しぶりだろう」
 スマホから相手の声がほんの微かに洩れ聞こえてくる。女の声のようだ。
「なんだ? 嫌だ? 一人で食えだって? 馬鹿言うな。夫婦だろう」
 奥さんに掛けているらしい。どうも向こうは乗り気ではないな。感情的になっているようだ。聞こえるか聞こえないかぐらいの音だが、漏れ出る声が次第に大きくなっていくのが分かる。
「アナタお一人でどうぞ、じゃないんだよ。こっちは二人なんだ‥‥‥‥いや違う、でぶジジイの方じゃない。安心しろ。部下ができたんだ‥‥‥‥そう、男だ。野郎二人じゃ殺風景だから、お前も(はな)を添えに来い。仕事帰りにちょいとレストランに寄るだけのことだろう。嫌なら食べてすぐ帰ればいいじゃないか‥‥‥‥うん、うん、まだ若いし変な奴じゃない、子羊みてえな奴だ。糞ジジイみてえにド助平でもお喋りでもないしな。人畜無害だよ。うんうん‥‥‥そっちこそいじめんなよ‥‥‥‥そうだ、そうだ、駅で変な本を配ってたアイツだ。あのオボコだよ。知ってるよな、お前が跡をつけてくれた‥‥‥」
 潮目が変わってきたようだ。箱村の表情が明るくなった。通話しながらOKサインをこちらに出している。ニンマリと嬉しそうだ。
「金、用意して来いよ。一応オレが上司だからな、恥かかせんなよ。安いとこで食うから、そんなにいらねえ‥‥‥‥何? スカイハイレストラン? あんな高いとこで飯食うのか‥‥‥‥なに? 行きつけの店?‥‥‥‥ああ、会社のクライアントとな‥‥‥‥そうか、お前が行きなれてるんなら、それでいいよ。景気づけになるかもな。そうまで言うなら任せるよ。たまにゃあ贅沢しなきゃな。何時に来れる?‥‥‥‥七時か。分かった。じゃあな」

 箱村はスマホをポケットにしまいながら、
「なかなか言うこと聞いてくれないんだよなあ、アイツ。神さんってふつう優しいけど、ウチのカミさんは口うるさいんだ。ときどきアイツが仔犬のポチだったらいいと思うよ。犬は言葉知らねえだろう。だからペットとは喧嘩にならない。赤ちゃんもおなじだな。ところがアイツなんて、気に食わないとマシンガントークで(つぶ)しにかかるからやんなっちゃうよ」
 そう言いながらも顔は笑みに溢れている。
「そうかぁ、僕はポチのくせに、言葉を話すどころか小説まで書いちゃうから、いまいましくて(はじ)かれるのかぁ」
「お前はポチなんかじゃねえよ。昨日の仕事ぶりで分かった。これからは職業欄に“無職”でなくて“クリエーター”とでも書きな」
「そうですか、嬉しいです。そのうち『お手!』とか『おすわり!』とか言われるんじゃないかと思ってた。ところで箱村さん、左利きだったんですね」
「どうして分かった。おまえの前でまだ箸を使ったことねえけどな」
「だってスマホを持つ手が右だもん」
「おおそうか。たいてい人は片手で電話して、もう片方の手でメモを取るからな。なるほど。そういう繊細な観察眼があるのに、お前はどうして小説となると、からっきし駄目なのかねぇ」
「左利きって少ないから希少価値ありますよね。天才肌かも」
「俺はアカンわ。左利きでも血液型がA型だからよ。日本人で一番多い血液型じゃねえか。これがAB型なんかだったら違ってくるかもしんないけど。AB型だったら皆をアッと言わせる天才的作品が書けて、賞ももらえたかもな。おかげさまで今はただの能無しノッポだ」
「花菱社長は何型なんでしょう」
「知らん。俺とあんなに反りが合わないんだから、多分B型だろう。お前、何型? 大雑把(おおざっぱ)なO型だろう。そのいいかげんでチャランポランなところだよ。ボケーッとしてて、打てば響くって感じじゃないもんな。立派な蛍光灯だ。観察していれば分かる」
「僕、ガタガタですw」
「いま咄嗟に考えたんだろうが、そんなギャグは受けないぞ。残念でした、カ~ン、鐘は一つ。ズッコケて打撲傷(だぼくしょう)だぜ」
「僕ってそんなに穴だらけで抜けてますか?」
「いいじゃんか。お前はザルだ。ザルは素通りしなきゃ役に立たないだろう。ボケーッと間がぬけてるから、周囲をホッと安堵させることができるんだ。小腹がすいた時は、ちょいとお茶漬けサラサラといきたいだろう。あれだよ、あれ。いなくてもいいが、いたらいたで(うれ)しいってやつ。モノは言いようだろう」
 これは褒めてるつもりなんだろうか、こっちはあまり嬉しくないんだが。
「僕、血液型なんて信じないんです。前もって先入観があるから、そんなふうに思えてくるんですよ。ちょうど僕らが小説の選考で差別されてると思うみたいに。ただの歪んだ先入観ですよ」
「そうかなぁ。当たってると思うけどな。テレビの星座占いよりずっと当たってるぜ」
「人間という複雑怪奇な生き物をたった四つのカテゴリーに分類できるとは思えませんね。最初に形の違った箱が四つあって、そこに無理やり整理整頓してるだけですよ。きちんとしてないと気が済まない箱村さんみたいな人たちがね。それって家庭ゴミの分別収集じゃないですか。管理する側の人にとって好都合なだけ。そのうち人間もリサイクルされるんとちゃいまっか?」
「そら、ド田舎もんのお前だって、たまに関西弁が出てくるじゃないか」
 え? そっちに行っちゃうの?
「お前も俺に感化されてインターナショナル・ピーポーになりつつあるな。七つの顔をもつ男、多羅尾伴内じゃよ。ある時は競馬師、ある時は私立探偵‥‥‥」
「あ、もう七変化(しちへんげ)しなくていいです。それ、もう聞きましたから」
 面倒臭げに赤井君が(さえぎ)ってしまったので、箱村は不満そうだ。
「箱村さんはスマホだったんですね、どう見てもガラケーという雰囲気ですが」
「失礼しちゃうな。でもガラケーが名残惜しいよ。いまどきガラケーなんて奴、あんまりいないだろ。日和(ひよ)っちまった。俺なりの信念って言うかな、こだわりって言うか、そういうのがあったんだけどな、使ってるうちに慣れてきて、気づくととっくに信念なんてゴミ箱アイコンに消去しちまってた。でもスマホにしたのはいいけどな、なかなか操作が憶わらないんだ。電話するだけだよ、他は頭に入んねえ。歳はとりたくねえな」
「僕、ガラケーも持ったことありません。固定電話しか使ったことないローテク人間です」
「え? 若いのに? それ凄くねえ? 一本筋が通ってるよ。やっぱお前はポチじゃない、たいしたもんだ」
「そういうもんですかねぇ。前世紀の遺物とか、頭の中が納涼花火大会だとか‥‥そういうんじゃないですかねぇ」
「馬鹿言え、ストイックでいいぞ。それに固定電話が一番正直そうじゃねえか、ズルそうじゃなくて」
 あらあら血液型ばかりでなく、電話にまで性格分析をしてる。
「それって便利だが冷たくなっていく社会へのアンチテーゼじゃないか。セルフレジより、順番待ちしてでも店員に打ってもらう生き方の方が人生に厚みがでる。前も言ったが、セルフの激安大型ガソリンスタンドより、愛想のいい従業員のいる昔ながらの馴染みのスタンドだ。少しぐらい高くたって従業員の生活を陰ながら支えてやれ。それが気骨ってもんだ。日本人だな、お前。前世紀の遺物じゃなくて、現代版黒電話だ」
「似たようなもんじゃないですか。その話、強引(ごういん)にじつけてるような気もするんですけど。ところで箱村さんの奥さんって美しい人なんだそうですね」
「まぁ、そう言ってくれる人もいるにはいるがな、いつも見てたら、そりゃ飽きるよ。美人ほどかえってすぐ見飽きるとしたもんだ。快晴の日に望む、くっきり映えた富士山は、いかにもって感じですぐ飽きるだろう。この無常の世、美しいものなんてぜんぶ蜃気楼だよ。美しい面影が時の流れに消えていくのはアッという間だ」
「会うのたのしみだなぁ」
「女ってのは風景と同じだよ。遠くから眺めるってのが、そこから利益を一番得る方法だ。近づいてその場所に立ち入ると、岩や砂利や雑草で荒れ放題。ぬかるみに足をとられたり虫に刺されたりと大変だ。美しいといわれる女だって、すり寄って一緒に暮らすようになれば、そこに幸福と恩恵を感じるのは一瞬。それどころか煩わしさと幻滅が待っている」
「それって照れとノロケでしょう」
「馬鹿か、お前。そんなんじゃねえよ。なんのつもりか知んないが、お前に興味がありそうなんだ。どういう風の吹き回しなのかねえ。いや、男と女のナンタラっていう興味じゃないぞ」
「そりゃ、そうでしょう。僕にそういう意味で近づいて来る女の人なんて、あんまりいないでしょうから」
「興味があるったって、どこぞの宗教法人みたいに近づいて高い壺を売りつけようとしてるわけじゃないから、安心しな。家内はお前の本、ぜんぶ読んだそうだ。天才だと言ってたぞ。いや、天才じゃなかったな、なんて言ってたかなあ‥‥‥ああ、怪物だ。お前は怪物だとよ。ホラー系の映画もドラマも大嫌いなんだが、今回に限ってゲテモノ好きなんだから、まったく訳がわからん。いや褒めてたんだよ、怪物は称賛の言葉だ。関西人の『なにアホ言うてまんねん』が褒め言葉なのといっしょだよ。まぁ怪物たってそう言ってもらえるのは今だけ、若いうちの今だけだろうけどな。歳をとりゃ、みんなニブくなっちまうんだからよ。だけど真に受けるなよ。あいつは中学生のとき読んだ『星の王子さま』以来、一冊も小説を読んだことがないような女なんだ。実用書か漫画か週刊誌のゴシップ記事か、それぐらいしか読まない。だから小説の評価なんてできっこない。小説読んだことない女が、お前の強烈なのを突然見せつけられたら、そりゃ魂消るわな。なにしろ生まれてこのかた『星の王子さま』しか読んだことがないような人間なんだから。二人でお前さんの作品の評価が割れて、お定まりの怒鳴りあいだよ。お前のおかげでまた夫婦喧嘩だ。夫婦喧嘩は割に合わねぇよ。勝った方も負けた方も損することになる」
「いいんじゃないですか? 少なくとも喧嘩してる間は破局はないですよ。のろけてるんじゃないですか? けっこう仲睦まじかったりして」
「お前のことで喧嘩してんのに、無責任な奴だ。しかし実際にお前に会って話してみたら、そりゃ、さぞや幻滅することだろうな。こりゃ楽しみだ。さあさあ、面白くなってきたな、見物(みもの)だぞ」
 口の悪さは相も変わらずである。よもや嫉妬からこんな若造にライバル心を燃やしてるんじゃあるまいな。

(31)

 それはそうと、赤井君には一つ気になることがある。昨日のことだ。
 あれは催眠術の一種なのではなかったのか。昨日みた幻覚は、あまりにも鮮明であって、それでいて非日常・非現実的に過ぎる。実際に自分が昨日ああいう体験をしたこと自体、(にわ)かには信じがたい。なにか得体の知れないものに(もてあそ)ばれていた気がする。尋常でない幻覚の樹海に迷い込み、悪くするともう帰ってこれなかったのではないかとさえ思う。
 強烈な催眠の暗示は、人の行動、感覚、感情、記憶を誘導しうるとどこかで聞いたことがある。僕はいま内心小説家になりたい夢で一杯だ。だけどあるとき箱村や花菱が指をパチンと鳴らした瞬間、たちどころに夢は雲散霧消し、小説のことなど考えたくもないという状態に立ち至ってしまうのではないか───そんな不安が心の隅にある。とりあえず、催眠にかかってずっと眠ったまま、時計の振り子が止まってしまうような最悪の事態には至らなかったが。
「ちょっと伺いたいことがあるんですけど」
「なんだ」
「昨日の、催眠を利用してるんですよね」
「なんで?」
「水滴が規則的に落ちる音だとか、振り子とか‥‥‥あれ? 振り子でてきたかな? とにかく何か催眠術に出てきそうな道具立てがいろいろと(そろ)ってた気がするんですけど」
「振り子が出てこなけりゃ自分で出しゃいいだけじゃないか。あんときお前は何だって自由に世界を創りあげることができたんだぞ。創り上げるだけでなく操ることもできた。時間だって支配できたんだぞ。過去も未来も思いのままに動かし、同じ場所に並べることさえできる。時空を超越し、宇宙を自在にさまよう旅人だ。カッコいいじゃないか。ほんで何いいたいの? だから?」
「だからって、僕、催眠誘導されてたんですか? だいたいどこまでが起きてる時の意識で、どこからが催眠にかかっている時の意識なのかも区別できずにいるんですよ。暗示かなんかで僕を操作してたんじゃないですか? 主導権を最初から最後まで握られてた気がする」
「だからどうしたって? 精神科のお医者さんの暗示療法じゃないんだ。俺、誘導なんかしてねぇよ。ちょっとお前の背中を押しただけだ。呼び水をまいてやったって言うかさぁ、それだけのことだよ。お前が自分で自分を催眠術にかけてたんだよ。お前が勝手に現実と夢の間をうろついてさぁ、さんざん与太(よた)った挙句、そのうち眠っちまっただけだ」
「それってどうなんでしょうか」
「どうもこうもあるもんか。お前の退屈な小説と同じだよ。読んでくうちに欠伸(あくび)が出てくる。途中で眠っちまった。起きたら、大した話じゃないので筋をぜんぶ忘れていた。また最初から読む、そして途中で眠くなる。そんで起きたらまた全部忘れている。その繰り返しだよ。いつまで経っても結末には辿りつけない。でもこんな同じことの繰り返しで、なんだか知らないが太っちょの花菱が金をくれる。ハッピーじゃんか。それに文句いえるの? なに(とぼ)けたことを言ってる。夜風にあたって酔いを()ましてきな」
 何を言っているのか、その意図がつかめない。また奇異な方向へ話を持っていって、煙に巻こうとしている。こんな中身のない話につられないようにしなきゃ。
「深い催眠状態に入ると深層意識の中に埋もれている記憶を拾い上げていくんですよね」
 赤井君は強引に話を引き戻す。
「そう、もったいつけて説明する専門家もいるよな。そんなの言い古されてて、当り前なのによ」
「僕、あんな気持ち悪い体験も記憶もまったくないんですが。記憶を組み合わせて違うものにするったって、そもそも組み合わせようがない。そうだとしても映像が鮮明すぎる。それにあの強烈なインパクト。死と背中合わせだったって感じ。これがこの世の見納(みおさ)めかぁ、って気持ちになりましたよ」
「大袈裟な奴だ。臨場感あり過ぎってわけか? 昨日の録音、ちょこっと聴いてみたけど、確かにビビッドに描写してたな。それは認める。けどお前が忘れてるだけなんじゃねぇ? もしかして生前の体験だったりしてな。それとも記憶を誰かに変えられちゃったとか」
「誰に?」
「昨日お前が昼寝の後に話してただろう、あのお邪魔虫野郎にだ。確かに催眠術の暗示で、相手の行動、感覚、感情、記憶を支配することは不可能じゃない。だからソイツがお前を催眠誘導してた‥‥‥‥」
「あっ、そういえば昨日、幻覚の中にソイツ、現れました。砂塵の中にまぎれる影となって」
 どっと箱村が笑い出した。
「‥‥‥‥てなことあるはずねぇじゃないか。本気にしたのか。そんなお邪魔虫野郎なんているのか? お前が毎日この事務所にやってくる時いつも通る、あの廊下。ある時その廊下のずっと奥の方にソイツがぼんやり(たたず)んでいたのを見たのか。言ってることが曖昧過ぎるぞ。ソイツはどんな奴なんだ。砂塵にまぎれて‥‥だって? 我が身の色をころころ周囲にあわせて変えるのか。カメレオンか。ソイツの本当の色は何色なんだ。ボケまくって勝手に創りあげんなよ、そんなもん。いっそのこと、(おとり)になってソイツをおびき出すか。お前の替え玉になってもらったらいいんじゃねぇ?」
「茶化さないでくださいよ。ホントなんですって」
「ソイツを目撃したのか」
「ええ」
「夢の中で目撃したってか? 馬鹿かぁ、そういうのは目撃したとは言わねぇ、寝ボケてたと言うんだ」
「そんなぁ、ひどいですよ」
「ソイツ、お前に似てたの?」
「なんでそんなこと訊くんですか?」
「だから替え玉になってもらうんなら、似てなきゃダメだろう」
「まだそんなスカタン言ってる。似てるような気もしましたよ、よく見えなかったですけど」
「お前の言っていることはだな、つまり‥‥‥」
「つまり?」
「鏡に映った自分と握手しました、と言ってるようなもんだ。意味をなしていない」
「またまたぁ、そんな訳の解らないことを言う。大変だったんですよ。アイツに自分と他人の境界を不明瞭にされたような‥‥‥って言うかアイツと僕との境界線を消されてしまったような‥‥‥」
「よかったじゃねぇか、消されたのがアイツと自分の境界線で。この世とあの世の境界線が消されちゃったら大事(おおごと)だからな。この世とあの世の境界がなくなったら、悪霊に憑依されちまうもんな。エクソシストか。きたねぇゲロを吐きかけんなよ。エクソシストと言ったって、若いお前には分かんねぇか」
「分かりますよ、中学生の頃、DVDかりて観ました。あの映画といっしょで何だか不気味で怖いんですよ」
「やけに臆病風に吹かれたもんだな」
「あの映画みたいに、悪霊だか何だか知らないけど、存在しているかいないのかも分からない何者かに自分が少しずつ乗っ取られていくような気がするんですよ」
「誰だって世渡りするのに色んな自分を使い分けてるだろう。その重症度にもよるが、一人の人間に複数の違った人格が混在してても別に不思議はない」
「でもどんどん征服されてくような感じなんですよ、自分が乗っ取られていくっていうか‥‥‥」
「あのさ、ソイツがお前をたぐり寄せてるって言ってんの? それともお前がソイツをたぐり寄せてんの? どっちかはっきりしねぇんだよな。よし、そこまで言うんだったら、これもありだな。尋ねるが、当のお前自身だって今ここに本当に存在しているかどうかなんて分かんないじゃないか。お前って実際にいるのいないの? 純論理的に考えてみろ。証明なんてできないだろう。ここにいるように感じていても、実際にはここにいないかもしれないぞ。そんなこといちいち言い出してたら収拾がつかなくなるじゃないか」
「それはそうなんですけど‥‥‥困ったな」
「そうだろう。今のお前だって、もしかすると誰かがお前を演じているだけかもしれないぞ。そうでないとどう証明する?」
「さて、どう証明したものか‥‥‥」
「いつもと変わらない日常が続いていくと思っていた。ところがある日、行きつけの店の自動ドアの前で凍りつく。扉がまったく反応しない。お前はそのとき全てを悟る。僕は死んでいてもう存在していなかったんだ、と」
 その言葉に赤井君は血の気がひくのを覚えた。
‥‥‥僕はいま本当に存在しているのか? 誰かの頭の中で繰り広げられる物語の、登場人物の一人にすぎないのではないのか? 僕はここにいるのか、本当はどこにもいないんじゃないのか。───ふん、馬鹿々々しい。箱村はいったい何を言っている。この頬を(つね)れば痛いじゃないか。
「でも僕がここに僕自身として実在してるのは確かですよ。だって昨日、昼間うたた寝して悪夢をみたとき、目覚めたらちゃんとこの肉体があったんですから。僕を起こした箱村さんの手の感触だって憶えてる」
「体を揺り動かして無理やり意識の扉を開いてやったからな。コンビニにオニギリ買いに行った時のことだろう。うん、確かに肉体はあった。でも憶えとけよ、もしお前が魂だけになったとしてもちゃんと痛みは感ずるんだぞ」
‥‥‥なんで? なんで箱村は痛みのことまで口にする。僕の心の中まで読んだのか?
「ともかくだ、ともかくさっきからお前がグチャグチャ言ってることはだな、丸ごとただの空想の産物だ。いいか、人間の思考はすべて脳のシナプスでやりとりされる電気信号に過ぎないんだ。それ以上でもそれ以下でもない。昨日ボックスのなかでお前は言葉を(つむ)いだ。言葉だけだったら何処にだっていけるだろう。世界中どこでも。宇宙にだって行ける。未来にも過去にも、他人の魂の中にでもだ。そういう架空の‥‥‥いや(たま)さか現実かもしんないけどよ、ともかくそういうストーリーの登場人物になってフラフラさまよってただけのことよ。その存在しているかいないの分からない奴ってのも、お前が紡いだ言葉が作り出したものに過ぎないんだ。お前が創出したパーソナリティーだよ。もともとお前の内にあったものだ。外からやって来たものじゃない。お邪魔虫野郎はお前がいたから存在しえた。お前がいなきゃ存在してないよ」
 完全に神学論争だ。取りつく島もない。箱村はいったい何を言わんとしているのか。
「どうせキャラクターつくりだすんだったらよぉ、ゆるキャラみてぇに可愛いのにしときゃよかったのによ。なにもそんな不気味な奴じゃなくてよ」
‥‥‥‥おいおい、ゆるキャラなんたらって次元の話かよ。
 赤井君の沈黙をよそに、なおも箱村は続ける。
「それでも、あくまでソイツの正体を確かめたいと言うのか? まるで猫の首に鈴を付けようとする鼠だな。そいつぁ至難の業だ。成功の見込みはほとんどない。それでもお前は鈴を持って決死の覚悟で猫を探す。そして月日が経ち、あるとき自分の首に鈴を付いていることに気づいて愕然とするんだ。忘れているんだよ、過去に誰かがお前の首に鈴をつけたことを。猫はお前だったんだ」
 え? どういうこと? 
 ───僕はモンスターの正体を見極めようとする。そのまま月日が経ち、ある時、いつしか自分自身がモンスターになっていたことに気づき、愕然とする‥‥‥‥そういうこと? ちょっと意味が違うかな。
 ミイラ取りがミイラになる。切り落とした自分の手首に首を絞められているような気分だ。
「モンスターになっていたって別にいいじゃねぇか。まだ生きてるんだからよ。いや、意外と死んでることに気づいてないだけなのかもな。お前は自分自身の影と化し、果てしなく夢を追い続ける。そうだ、霞ゆく夢の続きをだ」
 箱村は僕の心を読んでいるかのように、そう言った。
‥‥‥これってかなり(きわ)どい話なんじゃね? このオッサンはこんな大事なことを口にしながら、どうしてそんなに飄々(ひょうひょう)としてられるんだ。やば過ぎだろう。
 膝から崩れ落ちる赤井君である。
「お前の知ってる俺が本当の俺だと思うか?」
 箱村がポツリと言う。
「そんなの当り前でしょう、まったく裏表を感じません」
「うん、でもお前の場合はそれとちょっと違うんだよなぁ、気づいてねぇだろうけどよ。まあいずれ全部分かる」

(32)

 舗装された都市高速の道路。路面に凹凸がないので、車は浮かんでいるようにスイスイと滑っていく。表面張力で水面を滑走するアメンボになった気分だ。
「空いてますね、渋滞せずにスムーズに流れてる。優雅にスケートを楽しんでる感じがします」
「おう、流しそうめんだ。目的地は多少遠いが、このぶんだと早めに着けるかもな、それまで腹を減らしとけ」
 積み上がったビル群の巨石。いまにも天空に突きささりそうだ。車は建ち並ぶ高層ビルの間を縫って、ひた走る。視界が次々とめくれ、前方が広がっていく。ただ雲だけが空の奥へ奥へと遠のいていく。まるでキュービズム絵画の中に吸い込まれていくかのように。
「この車、なんて言うんですか」
「カルタスだよ、スズキのカルタス」
「ずいぶんと昔の車じゃないですか」
「よく知ってんな。やっぱ野郎だな。野郎はたいてい車に興味のある時期があるもんな、特にお前ぐらいの若い頃な。古くてもよく走るだろ?」
「ええ、よく動いてますね」
「メンテがいいからな。でも俺には小さ過ぎて、ちょいと窮屈なのが玉に(きず)だ。昔の車なんで燃費もよくない。俺の生き様といっしょだな。燃費が悪くたって構うもんか。俺には俺の生き方がある」
 箱村はうまいこと言ったとばかり、したり顔である。確かにこういう余計な一言が無駄にガソリンをくう原因だ。
「事故を起こす奴ほどシートベルトをしめ忘れる。運転が上手い奴ってのは運動神経がいい奴じゃない、慎重な奴だ。俺はメンテは慎重にやる。人生だって同じだよ。人生を大過なく生き抜ける奴ってのは有能な奴じゃない、慎重で手堅い方を選び続ける奴だ。お前も一番手堅い選択肢を選びつづけて生きていけ。小説家なんかになろうとすんな。人生、途中下車もいいもんだ。おまえ、SサイズなのにLサイズを着ようとしてないか? 出来合(できあ)いの規格に無理やり自分を押し込めようとしている。その小説、ほったらかしてずっと読みさしのままにしとけ」
 様々な形の建物がキャラメル箱となって後方に飛ばされていく。都市───それは寄木細工(よせぎざいく)の精緻な幾何学模様。大小さまざまのビルディングのブロックが、一片一片はり合され、配列され、加工され、都市という一つの見事な作品を完成させている。
 僅かに開けた車の窓から吹き込む風が、かすれた口笛を奏でている。あたりはかなり暗くなってきた。都会が吐き出す空気は生ぬるい。暗くなろうとも、風はアスファルトから放射される熱でなかなか冷えてくれない。夜のスカートを頭からかぶされたかのように、黒い大気が人肌の湿り気を帯びてゆっくり地上におりてくる。
「花菱社長ってナマケモノに似てません?」
「なんで? 似てんのは高木ブーだろう。豚ちゃんだ」
「社長、寝てばっかしでしょう。ナマケモノって20時間ぐらい寝るそうですよ。一日のほとんど寝てる。知ってます?」    (-_-)zzz…
「ああ知ってるよ、珍獣には目がなくてね。奴らは一生の大部分を夢の中で過ごせるってわけだ」
「なんか羨ましそうな言い方………」
「羨ましいんじゃなくて可哀想なんだ。でも奴らにとってはそれが一番幸せなんだろうな。人間だって生きてくのは辛い。まして奴らにとっちゃあな。現実から夢の世界にスーッと逃げていたいだろうよ。あいつらスローモーだろう。肉食獣の絶好のターゲットだ。人間だって奴らを捕まえて食ってたそうだぜ。ずっと樹の上にいるのも、森の奥に引っ込んでめったに人に近づかないのも、そのせいだろうね」
「そうかあ、だから絶滅危惧種になっちゃったんだ。ネアンデルタール人が動きがのろかったので、僕らの祖先のホモ・サピエンスに滅ぼされちゃったみたいに」
「ナマケモノが非社交的なところは、社長じゃなくてお前の方に似てるかもな。知ってるぞ、お前が学生用集団アパートや電気店の倉庫に引きこもってたこと」
「実は子供からもナマケモノに似てるって言われたことがあるんですよ。とくに笑った顔なんか似てるのかなぁ」
「少食なところも似てるな。ナマケモノもあんまり食わない。奴らは動かないから、あんまりカロリーを使わないんだろうな。この前ネットを見てたら、ナマケモノでも排泄するためには木から地上に下りなければならないらしい。その時にターゲットにされちゃうんだ。かわいそうな話だよ」
「そうなんだ、子供の言ったとおりかも。やっぱり僕、ナマケモノみたいな顔してますかぁ?」
「似てるのは顔じゃないよ、可哀想なところだ。ナマケモノは獲物にされたとき、痛くないように一生懸命体の力を抜くそうだぞ。そんなこと聞いたら可哀想で目がしらが熱くなってくるだろう。余計なお世話だが、俺はお前にそういう思いはさせたくない。だから何度でも口を酸っぱくして言うんだぞ。ナマケモノでもないお前が、何でわざわざ危険を冒して樹から地上に下りようとするんだって。そんなのメンヘラ女子の自傷行為と同じじゃないか。樹の上にいれば浮き沈みの少ない平凡でお気楽な人生が送れるというのに、どうして危ない橋を渡る。まったく先が読めず、いつも行く手に何が潜んでいるんだろうと(おび)えていなくちゃいけなくなるぞ。どうしてそっちを選ぼうとするのかねえ」
 サイドミラーに都会の光景一つ一つが映り流れ、小さくなって彼方に消えていく。都会の夕暮れはアルミニウムの無機質な手触りがする。
「選ぼうとするじゃなくて、選ぼうとしたですよ。もう過去形になってる」
「いや、お前またすぐ転ぶと思ってな」
 箱村の愛車は冷房の効きが極端に悪い。窓を少し開けてみた。薄ら日に包まれ暗くなりかけるこの時刻にあっても、都会はサウナのようにうだっている。色とりどりの照明に彩色しかけた街の空気。灯りかけたネオンのなかで、街全体が今にもグニャグニャと不定形に軟化してしまいそうだ。
「ナマケモノは死体になっても笑顔のままだ」
 と、箱村は暑さが気にならないのか、まったくもって自然体で話し続ける。
「ニコニコ笑ったままで自分を葬り去れるところなんざ、ナマケモノは見事だよ。お前、人間ってどうして苦しむと思う?」
「さあ、質問が抽象的すぎて」
「死んであの世に持って行けない人・物・金に(とら)われるからだよ。そんなもんに執着しなけりゃ楽に生きていけて、最後はナマケモノみたいに微笑んで死ねるのによ。俺には無理だな、イケメン過ぎるからな。赤井、お前、ナマケモノに似てるから笑って死ねるかもな。けどそのためには人・物・金に執着せず生きるこった」
 開けた窓からはねっとりと重たい夜気が入り込んできて、車内がもっと暑苦しくなってしまった。湯煎されるレトルトカレーか、茹で卵にでもなった気分だ。鍋の中で煮られているようにイライラと感情までが沸騰してくる。
 箱村はそんなことお構いなしで、口笛を吹きならしている。下手すぎて何の曲だか分からない。暑苦しさなどなんのその、文字通りどこ吹く風と受け流している。

(33)

 高層ビルの谷間を縫う都市高速から下りた。下りると高層ビルはさらに高くその威容を誇示し、進行方向にむかって墓石のように建ち並んでいる。乳白色の霧に煙る巨大都市を、幻覚のうちに眼前に浮かび上がらせているかのようだ。
 一般道を山手に向かってグイグイ上っていけば、しばらくして手前に塔のようにひと際そびえる建物が見えてきた。
「おう、あれだ、あれ。あのホテルの最上階がまるごとレストランになってんだよ。展望レストランだな。全席窓際で少しずつフロアーが回転する。北九州市の夜のパノラマが見渡せるぞ。大気が澄みきっている日は、遠く関門橋の灯りまで望むことができる。絶景だな。俗に言う宝石箱を開けたような夜景だよ。シャレてるだろう。お前も少しはグルメにならなきゃな。いかしたデートスポットだ。男は外見じゃないぞ、押しと金だ。次は彼女つくって、ここに来なきゃな。楽しめるのは若いうちだけだ。ジジイになったら女がそばにいても嬉しくも何ともないぞ。あのデブ社長は例外だがな」
「僕、もてないから」
「着ぐるみでも(かぶ)りゃいいんじゃない? 女子や子供が寄ってきて少しはモテるぞぉ」
「はぁ?」
「冗談だよ。ムンクの叫び、みたいな顔すんな。なに謙遜してんだ、この色男が。男と女は遺伝子の型がピッタリとマッチングしさえすれば必ず惹かれあうよに出来てんだ。二人の遺伝子が種族保存にとって都合がいいかどうか、それが全てだよ。んだから人によってモテるモテないなんてない。どんな男も女も恋のチャンスが訪れる割合は同じだ。乱数表から数字を拾うのと一緒だよ。それが確率論ってもんだ。あれ、これ前にも言ったかな? 最近、もの忘れがひどくていけねぇ。じゃダイスにしとくわ。ダイス転がして出てくる目の確率はいっしょだろう。だったらダイスを二個ころがして目が一致する確率もいっしょじゃねぇか。アレだよ、アレ」
「いま一つ。アレってどういうことなんです? もっと詳しく」
「だからぁ、そういうことなんだよ。アレアレ、ドレドレだ。分かんなくてもフィーリングで感じ取れ」
「ソレソレ‥‥‥(^o^)/」
「要するにあの子が好きこの子が好きなんてのは、脳内物質が種族保存にもっとも適する状態に化学変化した結果に過ぎないんだ。百個の錠前があれば百個の鍵が必要だろう。組み合わせも百通りだ。それと一緒だな。だから確率から言って、ほとんどの男女にとって恋愛は片思いが基本。それ以上に発展したカップルは偶々(たまたま)。文学賞と同じだな。ねらって当てられるもんじゃない。射止めることができたとしたら、それは偶々にすぎない」
「でも芸能人なんか、どう考えても一般人よりモテると思うけどなあ」
「そう来ると思ったよ。芸能人なんかがモテるのは、取り巻きの連中が寄ってたかって虚飾まみれにしてるからにすぎないよ。キラキラしてるとこだけ大衆に見せてるから、そりゃモテるよな。フェイクまがいのストーリーと宣伝力がなければ、あの人たちもあそこまでモテないだろうよ。どこにでも転がってる美男美女どまりだ。これは美男の俺がいうんだから間違いないぞ。売れっ子小説家も似てるかもしんないな。書評家の文章なんかで“おい、そこ褒めるのかよ、褒めすぎじゃねえか”って思うこと結構あるもんな。でも考えてみりゃ、褒めるよ。本が売れてお金になって、業界全体が潤うんだったらな。ウィンウィンじゃねえか。だからお前も自信を持てよ、自分を信じるから自信って言うんだぞ。あ、これも前に同じことどこかで言ったか? それはそれとして、女にモテたいと思うのも若いうちだけだ。ジジイになったら、モテないほうが鬱陶しくなくていいってなる。まぁジジイがモテるたって、金か力にすり寄って来てるだけなんだけどな。性欲がお盛んな頃は、歳とって性欲がなくなったらさぞや(みじ)めだろうなと思っていたが、いざなくなってみるとサッパリとしてむしろ爽快だ。考えてみりゃ、性欲が衰えると不幸になるなんておかしな話だよ。幼児のころを考えりゃ、性欲はないけど今よりずっと幸せだった。欲望なんて少ない方が幸せなんだろうな。金持ちが幸福で貧乏人が不幸とは限らない。有名人が幸福で無名な人が不幸とは限らない。逆なことのほうが多いんじゃねぇか? 若かったころ何で女になんかモテたいなんて思ったんだろう。俺にも愛だの恋だのと騒いだ時期があったんだよなぁ。夢みたいだぜ。そんな記憶はぜんぶリセットされちまった。たぶん遺伝子に操られてたんだよ。おいコラ、子孫を残すのにもっと励めってな。無自覚のまま種族保存に奉仕させられちゃってるんだ。自分の意思で女の尻を追いかけてるつもりで、実は追いかけるように尻を叩かれてたんだ。気が知れねえよ。実は欲望にコキ使われてたんだな。憐れっちゃ憐れだ。意味分かんねえもんな。いま冷静に振り返れば、若い頃の恋愛感情なんざ、一過性の精神疾患だな。病気なんだ。病気なんだから、普通の人が理性の力で恋愛感情を統御するなんてできるはずはない。だけど統御できなくたって、それでアレヤコレヤ悩み苦しめば、精神力を鍛えるのには役立つ」
「その遺伝子に操られるって言い方、いま一つピンとこないんですけど」
「なんだ、世間じゃこの言いまわし、誰でも使ってるぞ。たとえばだな‥‥‥たとえば男はたいてい若く見える女を好むだろう。何でかって言えば、若さは生殖能力の高さの表れだからだよ。これって、自分の意思で好んでいるようでありながら遺伝子が好んでいるってことじゃんか。遺伝子にとっちゃぁ、種族保存が第一命題だかんな。思考自体が遺伝子に操られてるんで(あらが)いようがない。だから若い女と見るやすぐに美化して、やたらめったら崇高なものとして認識されるんだ。これは、思考が自動的にそういうふうに積み上がっていくんで仕方ない。若い女が全部が全部、純粋無垢で心が汚れていないはずないのにな。そういうことだよ、そういうこと」
「ふ~ん」
「今のうちだけだぞ、楽しめるのは。せいぜい派手に遺伝子に操られちゃいな。お前みたいな助平(すけべえ)がいてくれるから、これまで人類が消滅せずにこれてんだ。若いからな、コキコキしてるだけなんて虚しいだろう。遺伝子に派手に操られて、その苦い体験を自分の精神の幅を広げるためにプラスに利用しろ。おいコラ、知ってるぞ。お前、風俗に行ってんな。でも、あまり行儀の悪い事すんなよ。ちょっとバイトで金が入ったからって調子にのるから、神様の怒りをかって、死地に赴いたよな経験をさせられることになったんだ。この度は薄氷を踏む思いだったな、何とか水中に落っこちずにすんだってか。今ここに生きてるってことは」
「え? なんで分かっちゃうの?」
「音叉だよ、響き合うんだ。俺たちゃ共鳴してんだな。だから分かる」
「え~~~~ェ!?」
 赤井君の慌てぶりに、箱村はいつもながらの豪快笑いである。
「ガハハハ‥‥‥お前は笑いをとろうと思わなくても、そのままいるだけで笑いがとれるな。行くか行かないかの二者択一じゃねえか。五分五分の確率だったら、そりゃ当たるよ。文学新人賞じゃねえんだからな。エロいやっちゃ」
「面目ないです‥‥‥‥」
 赤面する赤井君に、箱村が言う。
「お前の日常って、裸の女の上を小人になって頭のてっぺんから爪先まで這いまわってるようなもんじゃねぇ? 頭ん中は女のことで一杯、やることなすこと全て女に行きつく。ま、若い男ってのはだいたいそんな感じだけどな。俺も若いときゃ、そうだった。遺伝子は理屈で説き伏せて操るのは苦手だ。前頭葉の働きが理性や論理でバリアするからな。だから遺伝子は人のむき出しの欲望に直接働きかけて操る。ふつふつと沸きたつ情動を理性の力で鎮めることはできないよ。ミツバチは刺すと自分が死んでしまうのに、やっぱり刺すだろう。それが本能というか(さが)というか、そういうもんだからだ。なので(あらが)えないんだ。彼女のいないお前は、いくら拒んでも風俗にいくのをやめられないよ。普段から“幽霊なんて非科学的だ”と(のたま)っている奴だって、夜中に霊園に一人で放置されたら怖いだろう。それと一緒だ。オチンチンを操られてるんで、こればかりは如何(いかん)ともしがたい。男は女とは違う」
「女のほうにしてみれば、そんな言い訳は通用しないってなりますよね」
「そりゃな。けど男と女は違うんだ。♪男と女の間には~深くて暗い河がある~(^^♪)」
 急に歌い出した。ひどい音痴だ、耳をふさぎたくなる。
「“黒の舟唄”ですよね、野坂昭如がよく歌ってた。他にもいろんな人が歌ってましたけど」
「え? これ、だいぶ昔の歌だぞ。よく知ってるな、そんな生まれる前のこと」
「なぜかふっと湧いてくるんですよね」
「前もおんなじこと、言ってたぞ。まあそれはともかくだ、ともかく男と女は違う。男と女はどこまでいっても理解しあえない。仕方ねぇのよ。でも気をつけろよ、怖い店があるからな。怖い店でなけりゃいい。大いに遺伝子に操られちゃいな。お前、太宰治の書いた『カチカチ山』読んだことある?」
「あの昔話の?」
「うん」
「太宰も『カチカチ山』を書いてるんですか? おちょろけてパロディ版かなんか出しちゃってるんとちゃいますか? 知らなかったなあ」
「お前ってホント、誰でも読んでるもん読んでないな。やたら小難しい本は読みあさってるのによ。変わった奴だ。太宰のファンは多いだろう、そんなこと誰でも知ってるぞ。又吉直樹の爪の垢を煎じて飲まなきゃな」
「以前ある女の人から言われたことがあるんです、作家になりたいのならみんなが読んでるものをいくら読んだって駄目だって。もっとニッチなの探せって。ドストエフスキーじゃなくてダレルを読めって」
「ダレル? 聞いたことないな、ダレルってダレ?」
「あれ? そのセリフ、僕も喋った気がする」
「みんなシンクロしてんだよ。まあそれはさておき太宰の『カチカチ山』にも兎と狸が出てくる。お前はまったくもって狸づいてるなぁ。あそこに出てくる狸はお前そのものだよ。原作と違って太宰のは、兎は若い女、狸はその女に首ったけになる哀れな男ってとこだな。ただ遊ぶだけならいいが、お前は女にのめり込まない方がいい。のめり込んだら、きっとあの物語と同じ結末が待っている。あからさまには言いたくないんで、太宰の『カチカチ山』、一度実際に読んでみてくれ。『お伽草紙』っていう作品の一篇に出てくる。きっと学ぶところが多いはずだぞ」
「実は正直に告白すると、あるときSMの店に間違って入っちゃって。冷や汗かきましたよ」
「SMって人間を紐で荷造りするやつだろう。あんなんで興奮するなんざフザけてるよな。世の中には変な趣味の奴がいっぱいいるもんだ」
 SM店に入ったのは、赤井君にとっていわば経験の拡張とでもいうべきものだった。ひっぱたかれて泣いたり怒ったりするかと思ったら、逆に喜ぶタイプもいる。ひっぱたいて良心の呵責に苦しむのかと思ったら、逆に万能感に陶酔するタイプもいる。世の中は十人十色だ。
 ここ十数年そういうタイプが増えてきたのか、それとも元からそうで目立たなかっただけなのか。男女にかかわらず、形はそれぞれ違えども、社会性やら道徳性やら、あらゆる(ころも)を脱ぎ捨てれば、人間の生身の本性は案外かなり偏ったところに落ち着くのかもしれない。
 カナちゃんに捨てられて(実際には捨てられてもいないのだが)、そのかわりに人に対する一段深い洞察力を拾った気になっている赤井君である。
「そうでもなさそうですよ。最近ではSMもメジャーになって、少しずつ市民権を得つつあるという話ですよ。けど何だかんだ言っても所詮、秘め事に過ぎないんでしょうが」
「そりゃ、神様が突出しすぎた人類の力を()ごうとしてんだな。呑気にも人間様の方はそれにあんまり気づいてないようだがね。この地球で、あまりにも人間が支配的になり、自分勝手に動植物たちによからぬ事をしすぎるから、神様がセーブしだしたんだな。はい、SMエキス注入、おかまエキス注入って感じで、とくに知的階層の潜在意識に働きかける。将来人類は知的な方からドンドン人口が減っていくと思うぜ。それもこれまで利己的に大自然を食い散らかしてきた報いだよ。運転中だから危ないんで、詳しい中間的説明は省くけどよぉ。どうせお前に話したって、内容が高度過ぎて理解できねえからな」
「日本で人口が減ってくのは、非正規社員が多くて、経済的に結婚したり子供つくったりしにくいからでしょう」
「なに近視眼的に表面だけ見て分かった気になってんだ。みんな本質を見抜けないんだよなぁ。もう少し待ってろ、非正規が少なくなってもやっぱり出生率は上がってこないのを、そのうち知ることになるぜ。俺なんざ50年前にすでに今の社会の在り様を予想していた。当時は‥‥‥今もそうかもしんないけど、出版社によっては文学賞に評論部門なんてのがあったんで、それに書いて送ったけど、案の定一次で落とされゲーム・イズ・オーバーだったけどな。でも実際、俺の予想どおりになってるじゃないか」
「へぇ、そうなんだ。だけどそれ、僕だけじゃなく、ほとんどの人が理解できないし、納得もしないでしょうね」
「分かんねえぞ。50年前なら、きらびやかな語彙を駆使するのが得意なだけで先読みのできない評論家さんばっかだったからさ、確かにお前の言うとおりだったろう。選考する人たちも“コイツ馬鹿じゃないのか、送るなら文学に関するもの送ってこい。何はき違えてやがんだ、知能指数たりねえ”って笑ってたかもしんねえ。でも今はな‥‥‥」
「IQがタランチュラ!」
「なんだ、それ」
「完全に花菱病に感染しちゃった。下らなくても、言わなきゃ我慢できないんです。今風に言えば脊髄反射ってやつです」
「アイツの迷惑ダジャレのウイルス感染力はコロナ並だな。で、話の続きだ。昔なら選考者に“IQがタランチュラ”と一笑に付されてたかもしんねえが、でも今は少しは変わってきてるみたいだぞ。“そら見ろ、やっぱしそうだったじゃないか。そろそろ人類も濁った花瓶の水を入れ替えなきゃな”と感じる奴も何となく増えてきてる。お前だって知らないうちに神様からSMエキスやおかまエキスを注入されてるじゃんか。でなきゃオカマSMの悪霊に憑依されてんだよ。だから悪霊に導かれるまま分からないでスーッと店に入っちまったんだ。今度はオカマの店に間違って入るよ。偽男、いや偽女かな。お前どっちなんだ? なあ」
「そんなぁ、ひどいじゃないですかぁ。ややこしい物言いしないでください。そんなに笑っちゃあ、車、ぶつけますよ」
「赤井君、赤井君、にらめっこしましょ、笑うと負けよ。あっぷっぷ~」と、さらに輪を掛けて大笑いする箱村。
 花菱と同じセリフでチャラ騒ぎだ。彼らは互いに嫌ってはいるが、二人とも開けっぴろげの軽薄さがモロ見えで、やることなすことホントに似ている。まったく重厚さに欠ける。波に漂う、齧りかけの林檎のように軽い。
「ま、からかわれてる間が花さ。若い時なんてアッという間だぞ。たっぷり青春時代をエンジョイしな。可愛い商売女にハマって、その()を愛していると錯覚して浮かれちゃいな。そのこと自体が既に遺伝子の罠に引っかかっている証拠なんだけどな。実はその娘のことなんて全く愛してなくて、その娘の体と顔を愛してるだけなんよ。ひでえ勘違いだ。でもいいよ、お前の場合。女に入れあげるたって、つぎ込むだけの金もってないからな。大火傷はしないよ。まぁ青春のほろ苦い1ページだな。歳くったら懐かしく思い出すよ。若い頃、男にとって女は甘美な幻影とともに認識される。ひどい場合は、恋の病にとりつかれちまって錯乱することすらある。そんなの酒や麻薬の一過性の酩酊にすぎねえ。時間が経って恋の病が完治してしまえば、なんであんな女に心を奪われたかねぇと恥ずかしく思うばかりだよ。ある程度老いてくるまで、その繰り返しだ。こりゃ遺伝子に操られてる限り仕方ないな。俺もその道を通ってきたよ。ついでに言っとくが、最初に駅で会った時、俺が背が高いから羨ましいとか、僕はチビだからナンタラとかいろいろ御託を並べていたな。自分や他人の容姿を執拗に気にするのも遺伝子に操られている立派な証拠だぞ」
「そんなだいぶ前の話を随分と引っ張るじゃないですか」
「いやね、お前がモテないなんて自己卑下するからさ。モテないなんて言うけどな、この世知辛い世の中、生涯独身だって一向かまやしねえぞ。独身と言ったって独りでなれるわけじゃないだろう。いろんな人との係わりの中で、たまたま結果がそうだっただけのことだ。独身でも長い人生、そりゃ、あれこれ楽しい色恋沙汰もあらぁな。結婚してたって孤独はやってくるぞ。男女ってのはな、身近にいたってなかなか互いの心の痛みに手が届かないもんなんだ。なんて形容するかな、あれだよ、SFなんかであるだろう。核シェルターを出てみたら世界がぜんぶ破壊されていて、ただ自分だけが取り残されていたってのが。そんな感じの絶望的孤独感に襲われることもあるよ。室内干しの洗濯物みてぇに、心がジメジメといつまでも晴れないんだよな。子供の件があってから、俺たちもずっと歯車があわないんだ。アイツ昔は可愛かったけど、今じゃ完璧にオバタリアンだ。二人の間にはピューピューと隙間風が吹いちゃってる。いくら目貼りしても冷たい空気は入り込んでくる。もう修復できねぇな。話してると何かにつけて『それが?』とか『それで?』が返ってくる。トマホークミサイルなみの打撃力だぜぇ。途中で話の腰を折られて、惨め、惨め~ぇってなもんだ。たまには若い()みたいに『わぁスゴ〜い』とか『超おもしろ~い』ぐらい言ってみろってんだ。せっかく俺の高邁な理論を開陳してやってるのによ。猫に小判どころか、下手すりゃ引っ掻かれる。若い頃は『アナタ哲学者なのね』とか『勉強になりました』とか言ってくれたのによ。“この娘は違う、他の女とは出来が全然違う”って、いっぺんで好きになったのになぁ。昔は心と心で会話ができた。今は頭と頭で会話してるから、そのうち会話が議論になり、いつの間にか乱気流に巻き込まれている。しめは決まって大喧嘩だ。心がどんどん荒廃していくぜ。アイツもなあ、文句ひとつ言わず黙々と掃除するルンバを見習ってくれたらいいのになあ。昔は優しくて可憐な花だったんけどなぁ。今じゃちょっと見、美しいだけの造花になりやがった」
「その昔っていうのは、恋愛モードど真ん中の頃でしょう。そんな時は男も女も脳が麻痺してる。箱村さんも言ってくれたじゃないですか、女はもともと生活者だって。自分の日常からすくい取れるものしか響かない。僕らは日常の枠をとっぱらって非日常の中に冒険しようとする。だから僕らが書く小説は評価されなくて、特に女には読んでもらえないんだって。そう言ってましたよ、箱村さん。これと同じでしょ? ずっと前に恋愛モードから外れた奥さんは、すでに立派な生活者ですよ。日常の中にでんと座ってる。だから、いまだに非日常のなかでフラフラしてる箱村さんと話が合わないのは仕方ない。脳が恋愛モードで麻痺してた若い頃と違ってくるのは当然なのかも」
「俺ってそんなこと、言ったけな」
「え? 嫌だなあ、もう忘れたんですか?」
「まぁ、いいや。勢いで口から衝いて出ちまったんだろう。いやね、夫婦生活が修練の場だってのは分かってるつもりなんだ。家庭というのは自分の魂を向上させるある種の稽古場だってのはな。でも最近はシゴかれ過ぎだ。打ち身、捻挫がきつくてな」
「辛い痛みにバンテリン。バンテリンはジカに効きますwww」
「ここでボケかよ、笑えねぇな。アイツ、そのうち浮気すんと違うか? 職場の若い男の部下なんかとな。いくらなんでも他の家庭へ道場破りはねぇぞ、道場破りは。しかし最近つくづく考えるんだけどよ。他の動物と違って、人間だけが遺伝子の言いなりにならない道を選択して生きていけるんだなって。すこぶる理性を働かせ、大局的にもっとも人生の幸福の総量を最大化させる選択とは何か。それを見定めて実行にうつす。それができるのは人間だけだ。個人差もあるだろうが、遺伝子がもたらす衝動に抗い、生涯結婚しない選択もその一つだよ。犬や猫にそんな選択できるか? 奴らは遺伝子に操られっぱなしで、むき出しの欲望の赴くまま生きてるだろうが」
「犬や猫でないんで分かりませんが。いっそ自分の前世を総ざらいして犬や猫だった時にもどってみないと」
「そこでまたまた芥川龍之介の『河童』が出てくるワケさ。中に気になる箇所があってよ。ラップって河童がよ、“男女が惚れ合うのは皆無意識的に悪遺伝を撲滅するためだ”と言ってるわけだ。人間はみんな遺伝子に操られて、より質のよい遺伝子を未来に残すよう()かされてるんだよな。俺には、結婚して子供が三人もいる芥川が『お前ら、遺伝子がもたらす衝動に抗え』って言ってるように聞こえてなんねぇんだ。東大を次席で卒業するようなエリートでも自分の人生を反省することがあるのかねぇ。分かんねぇけどよ、少なくとも性欲がなけりゃ結婚しないであろう女とは結婚しちゃいけねぇな。それは遺伝子に思考が操られてるってことで、後々(のちのち)必ず不幸を招くからな」
「『河童』が好きなんですねぇ。龍之介の作品、それしか読んでないんじゃないですか? だんだん箱村さんの顔が河童に見えてきました」
「なんでイケメンの俺が河童なんだよ。なんだよ、いけ好かねぇぞ。それにしてもなぁ、過去に遡ってつらつら思い返せば、写真の中で微笑む女というのが、男にとって女の理想形に近い概念だな。その静止画が喋り出してガミガミいうようになったら終わりだよ。百年の恋も一時に冷める。こんなこと言ったら上沼恵美子が怒って出てきそうだな。なるほど嫁さんにドヤされた方が、だらしのない男どもも少しは常識的で人間らしい生活ができるのかもしれない。だけどよ、だけどやっぱ同じ屋根の下で何年も過ごす女というのは、肉であり、恨みであり、欲であり、騒音であり、そしてほんの少しの愛情なんだなぁ。向こうだってこっちのことを、加齢臭プンプンのうざったい同居人ぐらいにしか考えてないよ。たとえば映画でヒロインに理想の女の姿を見て感動するよな。だけど、そこまで美しい心根をもった女なんて映画の中だけにしかいないだろう。現実は厳しい。男だっていっしょだよ。『冬のソナタ』って知ってるよな。一世を風靡したもんな」
「ええ、知ってます。ドラマは見てませんけど」
「あのドラマの主人公と本物のヨン様はぜんぜん違うと思うぜ。アレに入れあげて、聖地巡礼とばかり、金使ってドラマの韓国ロケ地めぐりしたオバハン連中が大勢いただろう。あのオバハン達だってヨン様と一つ屋根の下で一年暮らしてみな。みんな幻滅して日本にもどってくるよ。最近つくづく思うんだな、結婚ってのは実は最も相性の悪い者どうしが一緒になるように神様が仕組んでるんじゃないかってよ。お互い逆上(のぼ)せあがってる間は、アバタもエクボで反対に見えるんじゃないのかねぇ。なんで神様がそういうふうにするかは知んないよ。幅広い種類の子孫を残すためなのか、夫婦生活を通じて修行させようとしてるのか。いずれにせよ結婚生活は一面喜びもあるけど、人間関係のなかで一番つらいものの一つであることは確かだ。実った恋愛が地獄の始まりだったってのはよくある話だよ」
「聞いてると、さっきから何か僕が一生結婚しないような言い方ですね」
「こういう言い方をするのはな、将来のお前がな、自分が独身だってことに、えらく劣等感をもってるからさ。誰もお前のことになんかに関心ないのによ。結婚は人生の墓場だとか、結婚は博打(ばくち)だとか言う奴がいるだろう。その程度のことだよ。アインシュタインじゃないけど、神はサイコロを振らない。お前も神にならって博打のサイコロは振るな」
「なんでいつも僕の将来が分かるようなこと言うのかなぁ。それって例の、僕が生前書いた人生の台本を読ませてもらったっていう話ですか? 勘弁してくださいよぉ」
「まあ、いいや、本人が分かんないんなら仕方ない。俺さえお前のことをグルっとマルっと全部お見通しであればいいんだ」
「いつもそんなふうに誤魔化すんですもん。『まぁいいや』なんて言わずにちゃんと説明してくださいよ」
「車の揺れにだいぶ頭のネジがゆるんできてんじゃね? なら説明してやるよ。お前はいま胡蝶の夢を見てんだよ」
「なんですか、それ」
「学のない奴だ。荘子だよ、荘子。つまりお前は夢と現実がごっちゃになってんだ、たった今も」
「それで?」
「“それで”って、これがすべてだ。それ以外にない」
「やれやれ、なんともかんとも。花菱社長にも劣らぬ卓越した説明力だ」
「おうおう、めずらしく褒めたじゃないか。()い奴じゃ」
「はぁ?」
「まぁともかくだ、若いうちに女にふられたり騙されたりして、せいぜい学ぶことだな。女の美貌や神秘は近づけば消える蜃気楼だよ。遠くから眺めるぶんにはいいが、いっしょに暮らすようになれば化けの皮が剥がれて、忍従と幻滅の日々が待っている。美しい満月だって裏から見れば闇だろう。みんな世間の偽善的粉飾と刷り込みと遺伝子の罠によって結婚という落とし穴におちる。落ちた後、自ら必死で求めたことの愚を嘆いてみても後の祭りってことよ。俺は性欲が衰えてきたら夫婦はいっしょに暮らさない方がいいと思ってる。ずっと独身でい続けるってことは離婚する超煩わしさが省けるってことだ、そんなに悪い事じゃねぇ」
「それって、ますます僕が生涯独身だって決めつけてる言い方じゃないですか。勘弁してくださいよ」
「お前に自分の全人生を肯定してもらいたいから言ってるんだ。さっきネアンデルタール人を、俺らの祖先のクロマニョン人が絶滅させたと言ってたな」
「ああ、ナマケモノの話のときですね」
「絶滅させたかどうか知らないが、同等の知能をもつネアンデルタールがクロマニョンとの生存競争に負けたという事実は否定できないよな。お前と俺が今ここに存在しているというのはどういうことだ? 俺たちの遺伝子は太古から他を駆逐してここまで生き抜いてきた、長きにわたって過酷な争いに勝ち残り続けてきたってことだろう。俺たちの周囲はこれまで屍累々だったってことだよ。結婚しないってことはな、そういう闘いに疲れきった遺伝子様にだよ、“もう争いつづけることはない。私は私の代で途絶え、大自然と同化するんだ。もうゆっくりしようじゃないか”と自らの行動と思いで優しく諭してあげることだよ。どのような遺伝子も遅かれ早かれネアンデルタール人のように必ず滅する。長い遺伝子の連鎖の中で、たまたまお前がその役目を仰せつかった。それだけのことだよ」
「ほらほら、ますます僕をこの先ずっとチョンガーでいさせようとしてる」
「まあ、そりゃいいわ、いずれ分かることだ。そりゃいいんだけどもな、昨日だってよ、お前の小説のことで二人で夫婦喧嘩だっだんだぞ」
「そりゃ、よろしくないですよね」
「マズいだろう」
「マズずぎて犬も食わない」
「おもろいやないか、こっちは夫婦の危機なのによ。いい気なもんだ」
「どうせただの痴話喧嘩でしょう。仲のいい夫婦ほど喧嘩するんですよ。しかし箱村さん、昨日自宅に帰ったんですか?」
「帰ったよ、お前、グースカ気持ちよさそうに寝てるからよ、置いて帰った。今日通勤してきたら、まだ寝てる。たいした奴だ、ナマケモノの面目躍如だよ、まったく」
「きちんとしてますね」
「ていうかな、帰らないとアイツがガミガミ機嫌が悪いんだ。ふつう逆だろ? 亭主元気で留守がいい、なんてさ」
「浮気を心配してるのかも」
「そんなわきゃないよ。だいいちこんな歳じゃモテねえよ。若いときだって、俺に金がないことがバレると女はみんな去っていった」
「で、奥さんだけは残ってくれた、と‥‥‥」
「そうだな、言われてみれば」
「───地に落ちて(まこと)(ひと)のみそこにいた」
「お、へぼい川柳が久々に登場か」
「理想的な、いい奥さんじゃないですか」
「まあ、いいって言うか悪いって言うか‥‥‥」
「それって夫婦漫才、ボヨヨ~ンじゃないですか。最高の奥さんですよ、そんな(ひと)、なかなか巡り会えるもんじゃない。あ、ちょっとこれ古いかな」
「そんなに古くないよ、俺らの歳からいやぁ」
「さっきから箱村さんの結婚の話きいてて思ったんですけど、なんかその話、極端すぎません? 幸せそうに暮らしている夫婦も多いですよ」
外面(そとづら)はな。お前、思ったほどいじけてないから続けてもいいかな。魚って多くの卵を一度に産むよな」
「ええ」
「もし人とかその他の動物が魚を食べなきゃ、海は魚だらけになっちゃうよな。これは俺たちにとっても、また魚にとっても不幸なことだ」
「そりゃ、そうでしょうね」
「だからお前が将来結婚せず、子供をつくらなかったとしたら、人類の将来のための自己犠牲ってことだ。誰だって自分の遺伝子は将来に残したい。それをお前や俺やあのデブ社長は、みんなのために我慢したってことだよ。させられたって言うべきかな? 言ってみりゃ、人に食われる魚みたいなもんだ。神様がそういう役割をはたすよう俺たちを選んだんだよ。いい意味で選んだのか悪い意味で選んだのかは知らねえが。聞くけど、お前、この世にもう一度生まれてきたいか?」
「う~ん、もういいかも。しんどい。生まれてくるのは一回で充分、死んだらあの世でずっと眠っていたいですね」
「だろ? そういうふうに感じてる奴は多いと思うよ。とくに社会の底に這いつくばって耐えている人達はな。お前のフレーズをかりれば『砂笛の孤独』───人生は苦しみの砂漠だからよ。でな、そんな灼熱地獄で渇きが決して潤わないこの世の苦しみを、お前、子供をつくってその子にも味わわせたいのか? お前によく似た弱っちい子供によ。味わわせたくないだろう。だから子供を持てなくたって悲観することなんかないんだ」
「なるほどそんな見方もあるのか」
「オランダだったかな。自分の精子を自国や海外の不妊治療クリニックや精子バンクに寄付しまくって、裁判所から精子提供の停止命令をくらったアホがいただろう。そんなニッチなニュースなんて知らねぇか。アイツは自分の遺伝子、つまり分身だ、その分身の行く末のことを考えてんのかねぇ。ただ意味なく本能にまかせてバラまきたいだけなのかよ。気が知れねぇな。そう思うだろう」
「だけどそれって、なんだか将来子供が持てないのを前提としたような言い方ですね。僕の未来をぜんぶ見通したような。変な気がします。僕、子供って可愛いから欲しいですよ」
「俺たちだって欲しかったさ。こればかりは授かりものだから仕方ないよ。子供がいたらいたで大変だそうだぜ。うるさいし、いっしょに遊んでやらなきゃなんないしな。子供中心で家庭がまわって、自分の時間が無くなっちまうんだとよ。子供がいてもいなくても人生の滋味は五分五分と考えるのが正しいな」
「で、いったい何を言いいたいんですか? 結論は?」
「つっこむなよ。この話に結論はねえよ。噺家(はなしか)じゃないんだ、ウケねらいの落ちはいらねぇ。あえて言えばだな、魚がいつ釣られて人に食べられるか分かんないように、赤ちゃん自身がこの世に生まれてこれるかどうか分かんないように、人をどこまで生かして、いつ殺すかってのは、結局神様の役割ってことかな。もともと俺という容れ物は神様からの借り物なんだ。いつ神様が取り返そうと構わねえ。俺はいつ死ななきゃならなくても一切文句は言わねえ」
「なんかちょっと飛躍してる気もしないではないんですけど。これ、もともと結婚の話だったんですよねえ、子供の話じゃなくて」
「そうだよ。ちょっと(あいだ)端折(はしょ)っただけだ。ふつう夫婦は子供をつくるじゃないか、頭わるいな。子孫を残したいという欲を放棄した人たちのことを論じてたんだ。既婚未婚にかかわらず、夫婦やチョンガーひっくるめてだ。ちょっと端折(はしょ)っただけで理解できなくなるのか、こりゃアジャパーだ。やっぱりお前に読んで聞かせる小説は懇切丁寧なものじゃなきゃダメだな。ついてこれないようじゃ、俺の小説がいちいち長ったらしくなるのも無理はないか」
 ビルとビルとの谷間に巨大な太陽が沈んでいく。ブランデーをしみこませた角砂糖に炎をかざした時の微妙な色合いが、僕らの顔を照らす。
 会話に(よど)みが生じたので、その間僕は沈みゆく太陽を切り刻んでソーダ水のなかに落して、飲み干してしまうことを想像していた。あるいはオレンジ色の太陽のドロップを舌の上でころがして、舐め溶かしていくことなども。
 そうこうするうちに、想像ばかりでなく現実にも、オレンジ色の黄昏時の空気が、次第に闇の中に溶けていく。
「まあいいよ、聞く耳もたないのなら。もっと気に入りそうな話をしてやるとするか。なあ、結婚指輪の起源を知ってるか?」
「あ、知ってます。一週間ぐらい前、テレビでやってました。あれって古代ローマに(さかのぼ)るそうなんですね。なんたらかんたらって言うローマ教皇が結婚したときに始めたというのがその由来。なんか左の薬指にはめるのは、薬指と心臓が繋がっていると当時信じられていたとかいう‥‥‥」
「なんだ、お前も見たのか、つまらねえ。ウチのカミさんも目を輝かせてアレを見てるわけよ。女ってのは何でアアも貴金属とか宝石が好きなんだろうな。アホじゃねえのか。ともあれ俺がアレ見て知りたかったのは、その教皇がどういうつもりで結婚した(あかし)を指輪で表そうとしたかってことだよ。番組には、それ、出てこなかったろ? 人の心の中までは見透かせないから放送もできないわけだ。なんかエジプトの象形文字で円は結婚を意味してたとかよ、嘘(くせ)えこと、いろいろ並べてんだけどな。もし日本にその起源があったなら、結婚は縁だから“縁”と“円”を掛けたんだなんて、あの豚社長でも言わないようなダジャレを言い出すんじゃないかと思ってよ。で、考えたんだけどよ。この教皇は女にのぼせ上がって、指輪を永遠の愛の象徴と考えたんじゃないかなあと。なあ、円の形ってのは何処にも始まりがなくて何処にも終わりがないだろう。つまり永遠なんだ。そんなもんありゃしねえよ。このローマ教皇も遺伝子に操られていたってこった。なにを(ほう)けてやがる。愛なんて続かないよ。愛が永遠だって? 人の心はかわるんだ。タイムマシンに乗ってローマ時代にまで行って、そう怒鳴りつけてやりたかったよ。夫婦なんて思うがままにならないんだ。どうしょうもないんだ。若い奴にこんなこと言ったら酷だよな。だけど俺はお前の人生ストーリーをぜんぶ知っている。生涯独身だって落胆すんなよ。カントだってお前の好きなキルケゴールだって生涯独身だ。サルトルだって正式な結婚は一度もしていない。結婚しなかったからって奴らがホモだってわけじゃないぞ。独りが怖いのか? 独身を貫き通したかの有名なショウペンハウアー大先生は言ってるぞ。“人はその高級さに比例して孤独を好む”ってな。分厚い本だけど、彼の『意志と表象としての世界』を読んでみろ」
「あれ読んだんですか。やるじゃないですか、今は大きな本屋さんにでも行かないとなかなか置いてない」
「いやな、実は俺が学生だった頃は猫も杓子も、馬鹿でもチョンでもショウペンハウアーを読んでたんだ。お前、あんな有名でためになる本、まだ読んでないんだろう。人生の大損失だぞ」
「人生の損失って、たとえば?」
「たとえばだな、ショウペンハウアー大先生は、“賢者は喜びも苦しみも多い人生より、喜びも苦しみも少ない人生を選ぶ”といったようなことを述べておられる。苦しみを減らすためなら、進んで喜びを投げ出せ、ってことだよ。お前いま、逆しようとしてんだろう。小説で賞をとってウハウハ言うためだったら、多少書くことで苦しんだって構わないと考えてるだろう。したがってお前は賢者じゃない、アホだ。喜びは幻想、苦しみは現実という真理に気づこうとしない。こういうのを人生の損失って言うんだよ」
「ショウペンハウアーは読んでないなぁ。でも、それってアリストテレスのニコマコス倫理学の“賢者は苦痛なき求め、快楽を求めず”のパクリなんじゃないですか」
「あれ、そうなの?」
「だって結局言ってることは同じでしょう。名言、英語のことわざオタクの僕が言うんだから間違いないですよ。それにショウペンハウアーの本、今はそんなに有名じゃないですし。時代は移ろいゆくんですよね」
「ほんでお前はショウペンハウアーを一冊も読んでねえと‥‥‥‥」
「まぁ、読んでないことは読んでないですが。厭世哲学っていう変なレッテルもあるし‥‥‥あくまでレッテルでしょうけど‥‥‥読んでたら偉いとでも‥‥‥」
「何かフニャフニャ負け惜しみ、言いだしたな。だいたい以前から、お前が有名な哲学者の名前をあげて見栄をはるから悪いんだ。そんなことしてると将来はずかしくて後悔することになるぞ」
「箱村さんだって同じじゃないですか」
「初老になったら見栄はっていいんだよ。辛うじて記憶に残ってる、なけなしの思想なんだからな。だけど若者は知っていても黙っとけ!」
「はい‥‥‥‥(-﹏-;)ナンノコッチャ」
「よし! お前はショウペンハウアーを読んでない。昨日、スピノザで恥かかされた(かたき)を取ってやったぜ。超気持ちいいぞ。ま、そりゃともかく、厭世哲学がお気に召さないってことは、お前、孤独なジジイになるのが怖いのか。そう言えばいつか“天涯孤独の身寄りのない自分の生きた証を残したくて小説を書いている”と言ってたな。このまま独りで最後までいくのが怖いのか。これまでだって、ずっと孤独だったじゃねえか。いいかげん待つ人のいない家に帰るのにも慣れたろう。この世で周りに人が誰もいなくなったって、あの世がある。死んだお前のお母さんお父さんだって、そこにいるんだぜ。親の恩に十分報いることができなかったといま悔やんでるのなら、自分があの世にいってから報いたいだけ報いればいいんだ。人ってのはこの世だけでなく、あの世とも淡いふれあいがあるだろう。それ、感じとれるよな。この世とあの世を貫けば、どんな人も決して完全には孤独ではないんだ」
「そうはいっても現実は‥‥‥‥」
「俺だって同じだぞ。俺は女房より長生きしたい。なぜかって言えば、自力で歩いてあの世に行きたいからだ。車椅子を誰かに押されて行きたくはない。押してくれる子供もいないしな。だから俺も孤独、お前となんら変わらない」
 赤井君は絶句する。言われてみればそうだ。孤独なのは僕だけじゃない。
「通勤電車にすし詰めで揺られてる時の方が、空っぽの部屋で一人で本を読んでいる時よりも孤独だと感じたことないか。俺がさっきから生涯結婚しなくたってOKと言ってるのはだな、周りにどんなにたくさんの親族や友人がいようと人は本質的に孤独だということだよ。独りで生まれて独りで死んでいくのに変わりない。全員平等だよ。どっちにしたって悲しくて苦しいんだ。人はあえて、そういう定めを受け入れさせられるよう仕組(しく)まれて、生まれてくるんだよ」

(34)

 目指すホテルの最上階、展望レストランは見えているのになかなか着かない。いったいどうなってるんだろう。ホテルが遠目に視界に入ってから箱村とかなり長く話したかのように思う。子供のころ、目的地は見えているのに行けども行けども到着しない夢を何度もみた。あれと同じだ。現実が夢になったのか、夢が現実になったのか。
 やっとホテル出入口の表示が見えた。箱村は手慣れたハンドルさばきで、レストランの駐車場にすべり込む。平日だからだろうか、テーブルが予約制だからだろうか、はたまたコロナ対策で来客数をしぼっているからだろうか、さほど混んではいない。
「意外とはやく着いたな」と箱村。
 そうだろうか───赤井君にはずいぶんと長く感じられた。どうやら時間というものは、人や置かれている立場によって伸び縮みするものらしい。
「そうでしょうかねぇ、僕、この車に乗ってから、かなり時間の流れがゆっくりになった気がするんですが」
「この小説みたいにか」と箱村はニヤリとする。(^~^)ニヤニヤ
 意味をつかみかねていると、
「現在を目一杯(めいっぱい)楽しみたいなら、ここに時計は持ち込むな。俺たち、いつあっちの世界に戻ることになるか分かんねぇぞ」
 はて? 奇異なことを言う。
「人生はラグビーボール、どっちに転がるか分かんないと」
「そこじゃねぇよ」
「そこじゃない?」
「分かんねぇだろうな。まぁ俺のこの言葉、付箋にでも書いて記憶の隅っこに貼り付けとけ。いずれ分かるから‥‥‥‥おう、アイツもう来てるな」
 赤いBMWを入り口近くで認めた箱村がそう言う。奥さんはこんな高級外車に乗っているんだ。家庭内の力関係が見えるようで可笑しくなる。
「あれ、奥さんの車ですか?」
「まあな」
「いい車ですね」
「それって、俺に比べてってことか」
「いくらぐらいするんでしょう」
「知らねえよ、無駄遣いしやがって」
「たしなめたりとかしなかったんですか」
「俺がそんなこと言える立場だと思ってんのか」
 箱村は少し気分を害した様子である。
 このホテルは山上にある。空気はことのほか綺麗で、夜の呼気を思い切り吸い込む。肺が爽やかな空気で膨らむのを感じる。
 肺からの連想ではないだろうが、山上から海側沿いに都市と反対方向を望めば、下界は大地に広げた巨大な黒い帆のように見えた。帆は海風を一杯ふくみ、打ち震え、潮の香りをここまで運んでくるかに思われる。風がネオンに色づき、色とりどりのセロハンを細かく切って宙に散りばめているイメージがよぎる。
 帆はまるで呼吸する生き物だ。今にもその帆がこちらの方へヒラヒラと飛んできて、外套となって箱村と僕の体を黒く包み込み、二人を無に帰してしまうのではないか───ふとそんな気がしてくる。
 過去から未来に至る通路が崩れ落ち、僕らはその狭間に閉じ込められる。運命の糸は切れ、時間が空間から締め出されてしまう‥‥‥いや、実際に僕の心のどこかに無になりたいという欲望があり、だからこそ、こんな妙な空想がふいに浮かんでくるのかもしれない。
 当たり前だが、最上階のレストランにはエレベーターで行く。いつも職場で乗降するぽんこつエレベーターとは大違いで、モダンなつくりだ。壁面がブヨブヨしてるとか、変な機械音がするとか、そういうのがまるでない。操作盤はタッチレス。天井は間接照明にダウンライトを組み合わせ、いかにもレストランらしいほのぼのと落ち着いた雰囲気を醸し出している。
「いっそのこと車、一家一台にしたらどうでしょう。家計をかなり節約できるんじゃないでしょうか」
「俺のカルタスをお払い箱にするってことか」
「ええ、ご自宅から職場に歩いて通えるんでしょう。初めてあった日、歩いて自宅に向かってたから」
「そんなことしたらアイツばっかし車を使うから、俺がむりやり専業主夫にされちゃうじゃないか。冗談じゃない、そんなの嫌だよ」
 箱村にも最低限の男のプライドは残っているらしい。
 エレベーターはガラス張りで、上昇にともない眺望が開けてくる。山上のホテルから俯瞰で見渡す都市、七色の灯りに豊かに(いろど)られている。
 とりわけ繁華街のあたりは光の密集する(まゆ)に見える。赤井君とってそこはロマンチックな世界というよりは、血と泥の臭いのする、欲望渦巻く掃き溜めの世界に思える。どうやら彼には風俗店で痛い目に遭った経験がまだ尾を引いているようだ。
「ここってドレスコードとかないんですか? どことなく高級レストランっぽいですが」
「初めて来るから知らねえよ。そんなの関係ねえの小島よしおだ。俺はどこ行くんでもコレだ。人生、出たとこ勝負だぜ」
 さらに上昇すると、都会を(かか)え込む海も見えてきた。海は街の明かりに照らされ羊羹(ようかん)のすべすべした光沢を示している。さらに高度が上がると、海は闇を映し出す巨大な鏡の表面と化した。遠く行きつくところまで黒々と静止している。
「このホテル、独特のそれらしい雰囲気がありますね。いいかげんな恰好だと値踏みされちゃうんじゃあ‥‥‥」
「心配性だな。ちょっとクドいぞ。だいじょうぶだよ。なんせアイツの馴染みの店で、常連サンだそうだからな。()めたりなんかしないよ」
 最上階に到着した。エレベーターが開き、異空間が現れる。高い。窓からはメガシティーの夜景がこれでもかと言うぐらいに広がっている。眼下の市街地には、星が見えにくくなくなるほど電飾の光が密集している。不夜城。夜空の星がそこだけ(こぼ)れ落ちて、都会の海にたゆたう無数の街灯りに変じたかのようだ。
 高所のため下界の音は聞こえない。そのかわりこの都市の迷宮のなかに自分の心臓の鼓動を聴いている気がする。かつて見た夢の記憶を辿り、その幻影と微かな響きを追い求めて、ますます奥深く迷い込んでいく僕の背中。
 レストランの受付で案内を担当するスタッフらしき女性に箱村が名前を告げる。
「七時に予約している箱村ですが」
「箱村さま、奥様がお待ちしておられます‥‥‥」
 女スタッフは洗練された言葉づかいでその後も何やら話していたが、女スタッフの器量のよさに見とれていた赤井君の耳には、それ以上はいってこなかった。土偶よろしくボーッと突っ立っていただけだ。
「ありゃ、アイツ何してんだ。あんな暗い隅っこで、呑気(のんき)にスマホで景色を撮ってやがらぁ。オ~~イ、坊やを連れてきてやったぞ」
 箱村はそう店内に響き渡る大声を上げると、暗がりにいる女性の背中を指さした。


(35)

 たった今、時間(とき)が停止し、一本の筒のように始めと終わりが閉じられた。一瞬、体が(こわ)ばる。巨大な蜘蛛が吐き出す糸にグルグル巻きにされてしまったこの感覚。
 いるべきでない場所に、いるべきでない人がいた。そのテーブルに座っている女は誰? ここにいるはずのない人がそこに‥‥‥‥である。面食らった。夢か(うつつ)か幻か。天と地が宙返りして入れ替わる。身震いするほどの驚きだ。心臓がビックリ箱のように、胸からポンととび出してしまいそうな気がする。いま見ているものは何なのだ。これは実像か虚像か? まるで現実感がないので区別がつかない。これは実際に起こっていることなのか。複雑な思いが蔓草のように心に絡みついて錯綜している。
 そのとき僕は、ただ立ちつくすだけの腑抜(ふぬ)けになっていた。僕と女の鼓動のみそこにあり、他はすべて燃え尽きた。廃棄処分した小説の束、箱村や花菱との出会い、風俗女とヤクザ、夢茶、昨日ボックスのなかで見た幻覚───それらはこの既視感を前にして立ちどころにそぎ落とされ、もはやここにはない。今ここにあるのは一本の筒。のぞき込めば、光り輝く女の姿と間の抜けた男の顔しか見えない。
 それにしても()も言われぬ美しさである。女の周囲数メートルにだけ、切り取られたようなお花畑がある。眩いばかりのお花畑が。天国へと続いていくお花畑が。花の雨がふる。あたり一面が次第に花弁を敷きつめた楽園に変じていく。あたり一面に色彩があふれる。三途の川にも花(いかだ)か。
 女の輪郭を虹色のオーラが縁取っている。これは一体なんの魔力だ。薫風(くんぷう)が運ぶオーラの揺らぎがまぶしい。青春の甘酸っぱい味が甦る。初恋の少女の赤リボンが蝶になり、宙を舞い、僕の腕に柔らかな波の影を落とす。風に乗る甘やかな香りとともに、胡蝶の夢を見ているのだろうか。
 棒立ちする赤井君。両足が床に根を張り、その根から繊毛がワサワサする気持ちとなって這い上がってくる。
 この瞬間を静止画にして切り取りたい。この空間をお気に入りのページに挟み込み、押し花にして持って帰りたい。このシーンを心のスケッチブックに素描して、いつまでも残しておきたい。白亜に揺れるコスモスの影が僕の心まで震わせている。胸が高鳴る。この高鳴る気持ちをどこへ持って行けばいいのか。
 これと同じ高鳴りはあのとき経験した。そう、あのときの女‥‥‥‥今でもしっかりと目に焼き付いている女の姿形(すがたかたち)‥‥‥‥‥タコ女だ! タコ女が足をからめてきた。それにしても、改めてタコ女がこうまで美しく、かぐわしい香りを放つとは。
(◎_◎;) タコオンナ ビックリ。

 最後までお読みくださり、有難うございました。
            赤井かさの(ペンネーム、挿絵も)

霞ゆく夢の続きを(4)

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